以前のブログ記事で、東京地検の久木元伸次席検事の発言を、「最低の対応」と書いた。http://agora-web.jp/archives/2035966.html 久木元次席検事は、海外からの批判に対して、日本には日本の文化がある、と居直った際、「裁判所の令状に基づいて行っており、何ら問題はない」とも発言していた。
ところが裁判所が拘留延長を認めない決定を下すと、同じ東京地検幹部の発言として、「延長が認められない可能性は低いと考えていたので非常に驚いている。・・・裁判所の判断は不当だ」、などといった言葉が報道されてしまっている。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754051000.html?utm_int=detail_contents_news-related_001 それどころか、「ありえない」「裁判所は一体何を考えているんだ」といった際立った「検察幹部」の声まで報道されている事態になっている。https://www.sankei.com/affairs/news/181220/afr1812200038-n1.html
醜態だ。
長期勾留が必要なのは、通訳が入っているうえに、資料の多くが英語だから、だという。https://www.sankei.com/affairs/news/181220/afr1812200038-n2.html
自分たちの能力と仕事のぺースにあわせて市民の拘留期間は決定されるべきだ、という考え方が大前提だが、つまりそれが尊重されなければならない日本文化というものなのか。
東京地検特捜部はガラパゴス組織なのか、という疑念が高まる。
このブログでは、独善的で国際法蔑視の日本の憲法学のガラパゴスな性格を問題視する文章を、何度か書いてきた。
日本の検察官は、日本の憲法学の最良の優等生たちか。
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私は、この問題が起こった最初から書いたと思うが、法律的責任と、道義的責任は、分けて考えなければならない、と思う。そして、いくら、法律的に無罪であったとしても、ゴーン氏に経営者としての日産という会社や社員に対して道義的な責任はないのか、考えていただきたいと思う。このところ、煽り運転裁判の報道でも顕著なのであるが、人が実際に亡くなっているのに、マスコミで扱われるとき、加害者の道義的責任は軽んじられ、法律は、このように判断するのが正しいから、と弁護士が説明し、意外な判決、という主張をする専門家がいるが、もともと、法律というものは、人々が、平和裏に幸せに暮らせるために作られる規則なのであって、法律の抜け道を知る、弁論に長けた弁護士が有能だから、という理由で、罪を犯していても、無罪になるために使う道具ではない、と思う。
私は、1985年に夫の留学についてアメリカを旅行して、あまりに貧富の差がありすぎると、治安が悪くなる、ということを実感した。その延長線上に、現在トランプ政権があるのだと思うが、一億総中流の日本社会の方が、「ライン型資本主義」の国の方が、はるかに穏やかで生きやすい、ということを日本のマスコミ知識人の方々にも、理解していただきたい、と痛切に思う。
むろん、久木次席検事の「裁判所の令状に基づいて行っており、何ら問題はない」という、敢えて言うなら、異文化の海外メディアの批判を外野の「雑音」として意に介しない一応まっとうな発言は了として、それが「日本の文化」だと短絡する官僚主義的発想には首を捻らざるを得ないが、刑事被告人カルロス・ゴーン(金融証券取引法違反[虚偽記載])の行為が違法か、嫌疑不十分かはそれこそ法に照らして裁かれればよい訳で、刑法は国内的に完結しているはずだから、特段の人権上の問題でもなければ、日産やルノーの経営に混乱を招こうが、日仏関係に思わぬ軋轢を生じようが、検察にとって関知しかねる領域なのではではないか。
この点で、安全保障政策のような、高度の政治判断を想定する領域での、情勢変化に伴う解釈変更や新たな立法措置の検討も含めた憲法解釈における日本的退嬰化現象=所謂「ガラパゴス化」問題と分けて考えた方が、法理論的には正道だと思える。
海外メディアの反応や、特にルノーの筆頭株主であるフランス政府の思惑、フランスメディアの反応は気になるところだとしても、今回導入された司法取引の問題も含め、東京地検特捜部の見通しは、目下のところ、複数あるプランの想定内に収まっているのではないかと思われる。
拘置所内が寒いとか、持病云々の漏れ伝わる話は、ゴーン被告らの接見した外交関係者や弁護士等から出た意図的な「雑音」の類だろう。
多くは、日本の司法制度に通暁しない海外メディア側の事情(「朝日」などの論調を無批判に伝えるか、充分検証する手立てをもたない怠慢と偏見、無知、倨傲)もあるから、次席検事に非を鳴らしても仕方がない。
少なくとも【自分たちの能力と仕事のぺースにあわせて市民の勾留期間は決定されるべきだ、という考え方】が大前提になったり、その尊重が「日本文化」と、東京地検幹部が本気で考えているとは考えにくい。
「容疑を小出しにして再逮捕、勾留、勾留延長、起訴、別件での再逮捕…を繰り返し時間稼ぎをする」と揶揄される「検察文化」は確かに海外からみて特異だが、制度化された法手続きに則って運用されている訳で、ゴーン被告を特別扱いしなくてはならない法的な利益(日仏友好ではなく、法的正義・秩序の維持)は想定しにくく、そのために特段のリスクを斟酌しているとも思えない。
ただ、今回の再逮捕容疑の会社法違反(特別背任)の中身をみると、起訴後の公判維持のために海外での追加捜査も必要になり、その際に当該国の司法当局や国側の協力も必要になろうから、その点も含めた国際的視点は必須になるだけ、ということだろう。
いずれにしろ、今回は刑事事件の捜査であり、自由主義陣営の共通の価値観、法規範である「人権」、「法の支配」、「法の下の平等」、‘due process’、「推定無罪」など普遍性をもつ原則について、日本が特段問題を抱えているとまでは言えないと思う。
それを、「日本文化」などと形容する感覚は確かに「最低」だが、千年に一度の大地震が起きても特段の略奪行為も人権侵害も起こさないことが日本的礼節、民度なのを含め、「文明国」たる所以と矜持を司法当局には明確に示してほしい。
次席検事に大いに「有能であること」を示してもらいたい所以だ。
☆余白に
私はゴーン被告の度を越した「強欲ぶり」には関心がない。それがグローバル化した資本主義経済が孕む宿痾だとも思わない。昔から、多かれ少なかれある問題で、観察的興味はあっても道徳問題には関知しないということだ。
彼のカリスマ的支配(charismatische Herrschft)が日産の経営再建にどれほど貢献しようと、所詮は「雇われ」経営トップだから、その浅ましい所業(‘τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων’)に、業の深さのようなものを感じ、品性を疑うだけだ。同じフランス人でも、『21世紀の資本』(‘‘Le capital au XXIe siècle’’)の著者ピケティなどは痛烈に批判している。だが、別に資本主義固有の問題とも思わない。所詮は人間性と企業統治の問題だろう。
人間行動を統制するのが法と徳(倫理)だとすれば、刑事事件である今回の問題は「行為が法に合致するかしないかを、行為の動機を問わず決定するのが合法性(Legalität)というものであり、法から出てくる義務の観念が、同時にまた行為の動機であるような合不合は、その行為の道徳性(Moralität)と呼ぶ」と書いたカントに倣えば、法の論理と徳の倫理に絡む問題として一般的考察は可能で、義務は法によって規定され、それが同時に行為の動機となれば倫理的行為になるとしても、他の動機で義務的行為を行ってもそれは法的に合法的であるだけで、倫理的意味合いはないのだろう。
先哲に薄笑いしている被告の顔が浮かぶようだ。[完]
勤めていた企業が、ドイツ系、だったから、米国側の主張が正しい、とドイツ系企業のトップにまで思われたくない、という気持ちが私の中に働いて、とにかく、その会社の商品が日本企業に売れれば、日本の市場は閉鎖的でない証明になる、と思って頑張って、なぜ、日本企業がそのようなシステムを取っているか、どうすれば、外資の商品が売れるのか、など色々わかったが、要するに、欧米各国の偏見と無知に基づく異文化攻撃に、日本のマスコミ知識人が加担し、日本のマスコミが同調するから、おかしな論調になるのであって、現実に対処してみなければ、さまざまな問題点、どちらのシステムが優れているか、がみえてこない。冷戦時代のヨーロッパの政治、経済のシステムのどちらがいいか、日本では、1980年代後半まで東のシステムが優れているという論調が、論壇を支配し、ヨーロッパの現実が報道されることは少なかった。
日本には、商人道徳、というものがあった。私の父方の親戚は、商人出身で、江戸時代の士農工商、では一番下に位置する。けれども、大阪商人、という誇りをもっていた。京大の哲学科卒の父が、いつも自慢していたことは、自分のおじいさんは、小学校しか出ていないけれど、インドから鉄鉱石を輸入することを思いつき、財をなした。その財の中から、当時100万円、今なら、1億円ぐらいになるのだろうか、のお金を大阪市に寄付をして、庶民の為に、市民病院を建設した、という事実である。松下幸之助さんにも同じようなものを感じるが、それが、大阪商人の道徳である。そういう道徳と、ゴーン氏の道徳、日産に資金供出をさせての自家用ジェット、世界の超高級リゾート地の別荘、家族の教育費の支出、にどれだけの違和感を感じるか。
ビル・ゲイツ氏のように、アメリカでは、高額所得者の税金が少ないから、自分の考えに従って、公共の福祉に寄与できる、という主張がある。けれども、そうする人もいれば、そうしない人もいるから、「資本主義体制こそ悪」とするマルクス主義理論が珍重されたのではないのだろうか?
22日・5の「余白に」で言及した【カントに倣えば、法の論理と徳の倫理に絡む問題として一般的考察は可能で、……】について、如何にも舌足らずの感は否めないから、少々補説する。
引用箇所はカントの実践哲学の体系『人倫の形而上学』(‘‘Metaphysik der Sitten’’, 1797)の「人倫の形而上学への序論」(‘Einleitung in die Metaphysik der Sitten’, hrsg. von B. Kellermann; Immanuel Kants Werke in Gemeinschaft, 1922, Berlin., Bd. V, S. 19=理想社版『カント全集』第11巻、40頁)にみえ、法(Gesetz)と徳(道徳=Moralität, Sittlichkeit)を峻別して、徳を義務(Pflicht)に収斂させる甚だ窮屈なカントの厳粛主義(Rigorismus)の道徳論(Sittenlehre)を説くものだ。
従って、如何にも強欲であると同時に、École nationale d’administration出身の抜け目ないエリート経営者であるゴーン被告が、そういった議論を耳にしたとして、日本社会の優れた経営者に寄せる「空気」のような淡い期待、儚い望みにすぎず、「道徳、義務?」――「先哲に薄笑いしている被告の顔が浮かぶようだ」とした所以だ。
道徳=徳(ἀρετή)は古代のギリシア人も、人間としての魂(ψυχή)の「よさ」、即ち卓越性として、正義と並んで最も重要視したその人物の器量(ἀρετή)を見極める指標とされた。
アリストテレスは『弁論術』(‘‘Ρητορική’’)の中で、「徳の部分(μέρη δὲ ἀρετῆς)をなしているもの」として列挙するのは、正義(δικαιοσύνη)を筆頭に、勇気(ἀνδρεία)、節制(克己=σωφροσύνη)、豪気さ(μεγαλοπρεπής)、高邁さ(寛大さ=μεγαλοψυχία)、恬淡(気前の良さ=ἐλευθεριότης)、思慮(σωφροσύνη)、思慮深さ(εὐβουλία)、智慧(σοφία)だ(‘μέρη δὲ ἀρετῆς δικαιοσύνη, ἀνδρεία, σωφροσύνη, μεγαλοπρέπεια, μεγαλοψυχία, ἐλευθεριότης, φρόνησις, σοφία.’; ‘‘Ρητορική’’1366a36)。
「仮に徳が善いものを与える能力ならば、最大の徳は他の人たちにとって役立つことが最も多いものでなければならない」として、「そしてこの故に、人は正しい人と勇敢な人とが最も多く尊重される」(‘ἀνάγκη δὲ μεγίστας εἶναι ἀρετὰς τὰς τοῖς ἄλλοις χρησιμωτάτας, εἴπερ ἐστὶν ἡ ἀρετὴ δύναμις εὐεργετική, <καὶ> διὰ τοῦτο τοὺς δικαίους καὶ ἀνδρείους μάλιστα τιμῶσιν’, 1366a36~37)ことになる。
プラトンの『饗宴』でも、醜いことに恥を感じる(αἰδήμων)ことなしに国家も個人も、美しいこと(ギリシア人にとって正義も意味)、大事を為すことはできない道理(ὀρθὸς λόγος)で、その原動力となるのが「エロース」(ἔρως)とされた。
人の運命(τύχη)とは分からぬもので、ゴーン被告が日産社内のご機嫌取り(ἄρεσκος)やごますり(κόλαξ)に囲まれて、すべてが意のままになる(ἐπ’ αὐτᾧ, ἐφ’ ἡμῖν)、文字通りの強者(κρείττων)として、この世に不可能なものはなきが如くに振る舞っていたことは言うまでもない。
クリスマスを迎える聖夜のきょう24日、異国の拘置所で、いかなる思案(βουλή)をめぐらしているかは想像するしかないが、恐らく悔恨の情に囚われて、今回の予期せぬ人生の暗転(περιπέτεια=ペリぺテイア)に打ちひしがれて、前非を後いる人物(μεταμέλεια)ではなかろう。むしろ、今回の「屈辱」を自らに対する赦しがたい忘恩、侮辱(λοιδόρημα)と受け止め、着々と反撃の機会を窺っているのかもしれない。
ゴーン被告のようなエリート=強者は、理想(παράδειγμα)に冷淡で幻惑されたりしないから、美しい希望(ἐλπίς)は周囲のどこにも存在せず、凡庸な理想主義者にはそれが頑迷(δυστράπελος)で度し難いものに映る。現実をそのまま社会に重ね合わせる強者の俗説(ψευδῆ δόξάζειν)も、観念操作に耽る弱者(ἥττονων)の理想主義も、現実に欺かれている点では違いはない。
流動転変してやまない現在への執着は少しも現実的ではなく、現実の変化によってたちまち欺かれてしまい。それまでの現実は仮象になってしまうからだ。所謂「現実主義」は現実をみない点で救い難い側面をもつ。リアルな現実認識を離れてはこの窮状を抜け出せないが、それはこの国の護憲派に代表される頑迷な「平和主義」にも当てはまる。理想の真価は希望や可能性と現実との峻別にあるからだ。
ゴーン被告のような強者が現実肯定という名の現実追随に堕し、弱者が現実に絶望して逃避に陥ることで、いずれも各々の立場からみた「現実」という仮象に欺かれ、真相(τὸ ἀληθές)を見誤る。
多くの人が現実という言葉に込めるのは、あらゆる希望的観測を退け、目の前にあるものを直視するところに現実はあるという素朴な「実感信仰」だろうが、その一方で、現実は可能性(未だ現われざるもの)に対立するものとしてあり、可能性は無限定性(未だ何ものでもないもの)、概念上の可能的存在(観念)に通じ、個々の事態や「もの」はその実現と理解される。
現実の捉え方が強者と弱者とでは正反対になっているだけで、強者はすべてに心を開き、弱者はわが身の不運不幸以外に心を閉ざす。現実という言葉自体、多様な意味を担わせるのに充分でないことが分かる。弱者の悲痛な受難者としての現実精神は、現実を見ないこと、考えないことに救いを見出そうとする。精神の視野を自己にとって最も確実な「現にあるもの」(παρὸν πάθος)としての現実(τὸ γιγνόμενον)に限り、現在(χρόνος ὁ παρών)に執着することで、かえって現実逃避に行き着く。
他方、強者はゴーン被告のように、すべてを自己に都合のいいようにしか理解せず、すべてを見ているようで見ていない錯覚を免れ難い。それは弱者のように意識的でないから救い難く、なかなか自覚されないから命取りになる。今回の事態がそれを証明する。
現にあるものだけを頼みとする現実主義の限界を乗り越える時、われわれはようやくリアルな現実の入り口に立つ。現実の捉え難さは、常に自らを越え出ていく現実の超越性にある。現実は現実のみによっては捉えられず、ロゴス(λόγος)が時間を超えた永遠なるものを要請する所以だ。
ゴーン被告にしたところで、思慮深さ(εὐβουλία)が足りなかったのか、と言えば、そうでもあるまい。レバノン出身で貧困に苦しんだ移民から這い上がったという経歴からも明白なように、才知・才覚(δεινότης)は申し分なく、頭脳明晰(ἀγχίνοια)でなかなか抜け目のない老獪な人物(πανοῦργος)という印象を受けるし、その点で大きな間違いもないだろう。
気性の激しい、峻烈な人物(ὀξεῖς)なのだろうし、高額報酬で享楽(ἀπολαυστικός)の生活(ζωή)を謳歌し、虚栄(χαυνότης)に満ちた、仮初の栄華(εὐετηρία)を誇ったことで、社内の怒り(ὀργή)や恨み、憎しみ(μῖσος)を買い、同僚の取締役や、のちに密告者に転じる(συκοφαντεῖν)、司法取引に応じた秘書室長らの義憤(νέμεσις)が渦巻いていたにしても、それだけで墓穴を掘った訳でもあるまい。
生い立ちなどから察するに、才覚と気概(θυμός)で、己の欲望(ἐπιθυμία)を着々と実現してきた人物で、特別背任とは言っても、単なる金銭(ἀργύριον)欲、個人的利得(κέρδος)や企業の利益(ὠφέλεια)を追求してきた顚末だけにもみえない。
自己愛の強さ(φίλαυτος)は相当のようで、目的のためなら平気で嘘をつく(ψεύτης)だろうし、偽証(ψευδομαρτυρία)など朝飯前の、狡知(πανουργία)に長けた怜悧な人物として、今ごろは底冷えする「聖夜」の拘置所の房内で、己を陥れた人物に敵愾心(ἔχθρα)を燃やし、報復ないし復讐する(τιμωρία)することを狙っているかもしれない。
閑話休題。本論に戻る。ゴーン被告の度を越した支配力と貪欲さが生み出した今回の起訴事実や再逮捕の容疑事実は、たとえゴーン被告がグローバル化した現代資本主義経済の生んだ邪悪(μοχθηρία)で悪徳(κακία)に満ちた悪行(κακουργία)の限りを尽くした「堕ちた偶像」だったとしても、私の関心はそこにはない。
それを如何に制御し抑制するかが「法と道徳」、人間性の自然と習性(‘ἡ φύσις ἀνθρώπων’)に照らせば、所謂「ノモスとピュシス」(νόμος της φύσεως)の問題なのだろうと思うだけである。
カントはかの定言命法(kategorischer Imperativ)にも顕著なように、法と道徳とを峻別する二元論的観点から法の根底にある道徳の重要性を説き、しかも、道徳を最終的に義務に収斂させる議論を展開した。
その中で、道徳行為の根本的原理、即ち、道徳性の形式的原理である定言命法について、三つの定式化を行っている(カントの著作には時折、四つの定式化、即ち命題があるような書き方をするが、そのうち二つは同じ主題の違った定式化で、三つの形式化=命題と考えて差し支えない)。つまり、
①汝がすべてに者のために立法しているかのように、行為せよ。
②常に人間を目的として扱い、けっして単なる手段として扱うことのなきよう、行為せよ。
③汝が目的の王国の成員であるかのように、行為せよ。
①は特定の道徳行為の正否を判断する際に、不公平を回避するために自分自身を例外として扱うことは、「道徳的ではない」と説くものだ。「汝が自然の普遍的法則を制定しているかのように、行為せよ」とはその違った表現だ。②は道徳的に正しい行為の基準を示し、③は先行する①と②を合体したものだ。
「汝の意志の格率が、常に同時にあたかも普遍的立法の原理とみなされ得るように行為せよ」=‘Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.’(I. Kant, “Kritik der praktischen Vernunf”, hrsg. von B. Kellermann; Kants Werke, Bd. V, S. 35, 1922=ケラーマン校訂Cassirer版『カント全集』、1922年、第5巻、35頁:『同』第一部第一篇第一章7節=理想社版『カント全集』第7巻、177頁.但し訳文は筆者)となる。
カントの倫理学は義務の体系であって、それが内面的自由の法則、つまり義務観念の形式的法則に基づく道徳論(Sittenlehre)としての性格が濃厚なことを特質とも限界ともし、偏狭性が否定できない側面があるから、その高邁な理想主義の当否はここでは問わないとしても、ゴーン被告のような人物の行動を判断する規範としては如何にも迂遠なものだと言えるかもしれない。
ただ、義務(καθῆκον, κατόρθωμα)というのは古典期のギリシア人の発想には、つまり、道徳的な高貴さという観念はあったものの、プラトンやアリストテレスの道徳観、倫理意識にはない考えで、ストア派由来の思想だということを指摘しておくことは必要かもしれない。
「優れた行為は人間の内面に起因する」として、行為は意志が正しいものでなくては正しいものとはなり得ないとして、意志が精神の性情(ἕξις)の正しさに由来すると説く。つまり、
いずれにしても、ゴーン被告のような告発(κατηγολία)に遭うまで、わが世の春を謳歌した恐れを知らぬかのような人物(ἄφοβος)にしてみれば、「ライン型資本主義」どころか、ストア派が説いた運命(τύχη)に基づき厳格に正義を守る人(ἀκριβοδίκαιος)の生活など端から関心がないのは事実(ἔργον)で、それが、有能な経営者としての彼でも囚われた現実(ἔργον γιγνόμενον)であろう。
真実を愛する人(φιλαληθής)などではないこの高慢な人物(ὑπερόπταί)にとって、幸福(εὐδαιμνία)とは何なのだろうかと、いろいろ考えさせられる事件である。
プロタゴラス(Πρωταγόρας)のテーゼ。「人間は万物の尺度である。あるものについてはあることの、あらぬものについてはあらぬことの」(“πάντων χρηηάτων μέτρον” ἄνθρωπον εἶναι, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστι, “τῶν δὲ μὴ ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν.”=Platon, Theaet. 152A[『テアイテトス』152A])
‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ. ’ (Προς Ρωμαιους, XI, 20)
「高ぶりたる思いを抱くな、却って懼れよ」(‘noli alutum sapere sed time’)の意(新約聖書『ローマ信徒への手紙』11章20節)。
私は信徒ではないが、もって自戒としている。聖夜には相応しい警句かもしれない。[完]
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