マティス米国国防長官が辞任を表明した。これでトランプ政権発足時の最後の重要閣僚がいなくなる。マティス長官は、数少ない良識派の役割を担っていた。トランプ大統領は、公職歴を持たず就任した大統領として、輝かしい経歴を持つ元職業軍人であるマティス長官だけは切りたくなかったのが本音だろう。トランプ大統領は辞任に不満で、「私は彼が手にしたことのないようなあらゆる権限を与えたのに」、とツィートした。
何がそこまでマティス長官を追い詰めたのか。単なる制度論の話ではない。もっと根源的な倫理的部分でのアメリカの外交姿勢の話のようだ。
公開された退任願いでは、同盟国との関係の重要性が説かれている。マティス長官にとって、NATO同盟諸国に対するトランプ大統領の慇懃無礼な振る舞いが不愉快なものだったことは想像に難くない。だが直近の要因は、シリアとアフガニスタンのようだ。
アメリカは限定的ながらもシリアに軍事プレゼンスを置いていたが、トランプ大統領は、その撤収を、エルドアン・トルコ大統領との電話会談の最中に命じたと伝えられている。見放されるのは、ISIS駆逐の先頭に立ったクルド人勢力である。
アフガニスタンからの米軍の大規模撤収も行われる見込みだという。トランプ政権になってから、駐アフガニスタンの米軍も増強されていた。もし完全な撤収が実施されるのであれば、国内外に激震が走る。多くの者が、マティス長官と同じように、自分も「それは間違いだ」と大統領に進言する、と思っているだろう。
日本では、憲法学者の教えに従って、平和主義とは反米主義のことだ、とされているので、アメリカのアフガニスタン撤収の巨大な意味は、理解されないのだろう。だが、巨大な影響が出る。アフガニスタンの米軍から間接的に恩恵を受けていた日本にも、影響は及ぶだろう。
9・11から約20年、ついに世界はアフガニスタンを、再び見放す。多くの関係者が、マティス長官と同じように、自分がその苦痛に満ちた役割を主導することを、拒絶するだろう。そしてマティス長官のように言うだろう。それだけは勘弁してほしい、自分にはできない、と。
トランプ大統領の経営者の視点から見れば、「長官の言う通りにアフガニスタンで増派した、しかし治安は悪化する一方だ、結果が出ていない、撤退だ」、と命じることに、合理性がある。それはよくわかる。
だが国家は企業ではない。軍事活動は商取引ではない。アフガニスタンからの米軍の撤退は、儲けが出なかった投資先から撤退することとは違う。
いよいよ本格的にアメリカの介入主義の時代が終わるのかもしれない。
いずれにしても、マティス長官の辞任は、アメリカの外交政策が、あらためて新しい段階に入ったことを意味することになるだろう。
コメント
コメント一覧 (81)
大学時代に、米国と西ドイツに留学し、ニューヨークの国連本部も見学したが、国際情勢は、米国にいてもよくわからない、冷戦構造が実際にあるヨーロッパでわかる、と思った。日本も米国も、平和だから、そのような判断をしてしまう人が出るのである。
なんども書いたと思うが、私の留学当時、西ドイツには、米軍が駐留し、西ベルリンの壁付近には、英米仏の軍隊が駐留していた。米軍の存在で、西ベルリンでは自由が守られている、ということが、西ドイツ人にはわかっていた。西ベルリン市長であった、のちに西ドイツ首相になられたブラント氏は、西ベルリンへの米国軍のプレゼンスを米国に求めたのである。仮想敵国は、言わずと知れた、ソ連、現在のロシアである。朝鮮戦争以降、米国の基地が、韓国や日本にあったから、極東アジアの平和が守られた。その事実が、日本人にまるで認識されていない。日本の左翼の政治団体の主張をきいていると、あたかも、米国が、世界中で戦争を巻き起こしているみたいであるが、現実は、それがソ連・中共だった、ということが、特に日本のマスコミ関係者には、わかっているのか、と思う。
フンボルト大学の政治学者ミュンクラー教授の主張されるように、戦争が終わっても、戦争中殺人ばかりしていた人々は、その欲求を押さえられない。彼らは、宗教やイデオロギーをその隠れ蓑にしている、のである。そういう心理学的な側面から見て、米国のシリアでの軍事プレゼンスは、内戦、虐殺の抑止力になるのではないか、と思っていただけに残念である。
しかし、アフガン撤退は、後をタリバンに任せカオス化の危険大。
だから、マチスさんが、「NATOに負担増を求めるな」スタンスを取られるのであって ⇒「ロシアを第一の仮想敵国とし続けよ」⇒「中国は第一の仮想敵国ではない」との冷戦期の世界観に基づく暗喩も含まれており、それを、トランプは受け入れられない、というのが、現実の姿だと思う。
日本は、第二次世界大戦の際、政治家の見極めに失敗したが、客観的に、その国の指導者の資質をよく見極める力、は大事だ、と私は思う。
多くの日本人がこの事実を共有するだけで、日本は変わってくると思うのだが。(実際、偏向マスコミが衰退し、ネットで調べる若い世代には周知の事実となりつつある)
なぜ、この考え方が一般化しないか。それは、日本の共産主義者がメディア、学界や教育の中枢に入り込んで日本人を洗脳したためである。(最近こればっかり書いているいるが、これこそが深刻な現代日本の現実である)。
共産主義者はほとんど世界中で悪事を働いたが、(戦前日本はひとまず置いといて)戦後日本でも悪事ばかり働いた。
ところが、「戦後日本では、共産主義者は(日本の国粋主義者や軍国主義者をおしとどめたので)平和主義者であり貧困者や弱者の味方であった」という倒錯的な史観が一部に根強い。そのために共産主義思想そのものには何の親近感も持たない人間が無自覚的な左翼になるのである。
⇒(訂正)メディアや出版社も完全にグルなので日本人は完全に洗脳されてしまった。
アフガンが自立できない理由は、深刻な民族対立や宗教対立が大きい。これは他国が介入してもややこしくなる。いまだにイスラム教が国教なのだから、キリスト教国が出ていっても心の底から信用しない。かといって日本人の私ですら、「民主主義をとりいれれば日本のような先進国になる」と自慢は100%できない。こんなに自殺者が多いし、結婚もせず寂しく老後をむかえる人が急激に増えて地方も衰退しつつある。頭のおかしいマスコミがいつも出しゃばり、軽薄なテレビ番組が毎日騒々しく空っぽの頭と精神を誇示する。
だから世界に模範国家はひとつもないかもしれないが、人民が枕を高くして眠れるような平和な社会をつくるのはその国の為政者の義務であるということくらいはアフガンの為政者も理解はしているようだ。その手法が独裁的にならざるをえないか、民主化の方向に進むかが最終的にはその国の民度を示す。それは外国の介入では難しく、その国民自身が目覚めないといけない。
ただ、私は、大学卒業後に西ドイツに行った。そして、日本以外の同じ世代の学生と話したり、現存しているベルリンの壁や東欧諸国を見たりした。すると、日本の知識人が理想としている社会主義の国の在り方は間違いだ、と思うようになる。ベトナム戦争についても、南ベトナムから西ドイツに移民としてやってきたカップルと話すと、日本のマスコミ報道とは違った視点をもつようになる。特に、私の留学した時期、西ドイツは、社会民主党政権であった。それにもかかわらず、西ドイツは、東西ドイツの統合を目標にするのではなくて、米国との同盟関係を外交の柱としていた。要するに、「自由と民主主義」を守ろうとしたのである。
数年前、「祖先のルーツを知ろう。」と弟に誘われて韓国に初めて行った。そして、奈良や京都の様な街並みを期待していた私は、木造の建物が少ないことに驚いた。釜山近郊であったが、それは朝鮮戦争で焼失した、と知って、二重に驚いた。それほど、南北の戦争は激しく、もし、アメリカが介入しなかったら、韓国は、北朝鮮と同じ政治体制になっていたことが、明白だからである。
そういう意味で、私はマチス氏の主張が、よく納得できる。日本の進歩的知識人と形容される巨大マスコミを通じて活躍されている高名な方々は、このようなこともすべてわかった上で、発言されておられるのだろうか?
シナの古典、『詩経』(『毛詩』)や『書経』(『尚書』)など「五経」でも『論語』や『孟子』など四書でも、宋学、即ち朱子学の誕生以前の儒学が「訓詁註釈の学」または「註疏の学」と呼ばれる際に、「経伝」の本文に対する第一次的な言及、解釈である「註」と、さらにその「註」の解釈として、結果として必然的に本文に及ぶ「疏」がある。
コメント(commentary)もスコリア(古註=scholia)を含め本来の意味は、単なる感想や信条表明に止まるものではなく、主観的心情表明や心境、体験告白は「冗語」であって、議論自体の深化に役立たない。
加えて、註疏には自ずと優劣があるから、その間に一種の生存競争が起こり、自然に淘汰が進むことで後代の学者による整理が行われ「集解」が現われる習いで、概略二千年以上の歴史をもつ西洋古典(文献)学の世界にも似た事情がある。何か新奇なもっともらしいことを言いたくとも、既に先例が必ず存在する訳で、その批判的消化を経ない解釈、立論はすべて学問的裏付けや検証(ἔλεγχος)を欠いた無駄話として退けられる。
しかも、議論は論証(ἀπόδειξις)の巧みさという立論上の巧拙や、論述や措辞(Ρητορική)の優越性(ὑπεροχή)によって最終的な優劣の判定(裁定=Κρίσιν)が下される訳でもない。
わが国の西洋古代哲学や西洋古典学の研究を一代で「世界標準」に引き上げた田中美知太郎が、戦前の労作(ἐπιτήδευμα)であるプラトン『テアイテトス』訳註(1938年)で身をもって示した、本格正統の学問の精神とはそうした意味で、従って「その議論は註釋家によつてそれぞれその説を異にし、時には全く矛盾することもあるから……どの解釋を取るべきかについて、丁度ソクラテスの問答法に於けるが如く、たゞ途方にくれてしまふ……然しこの困惑こそ眞の學問を生む……學問の進歩のためには、誤謬は如何にして生じたかゞ理解されねばならず、明白にされ得る誤謬は曖昧な正しさよりも遥かに貴重」(田中訳『テアイテトス』の「凡例」3~7頁)であることになる。
田中がプラトンにみたのは、「如何なる思ひつきにも執着せず、如何なる通念にも拘束されず、一切の先入見を放下して、たゞ自由な精神を以つて學問探究するがための絶對必要絛件をなす」という認識と、「現實の惡逆を極めた國家社會…にあつて、なお學問探究の志をすてない、眞の哲學者の精神」だった。
従って、その精神を充分理解し、肝に銘じた私の議論がその要件を満たしているか否かは、それこそ読者に判断を委ねるしかないとして、議論は勢い煩瑣にも体系的にも、時に冗長にもなる訳で、井戸が「深い」は了解可能だが、単なる「深い」、もっともらしい(εἰκός)議論など、具体的的根拠の提示や論証を経なくては無駄なエネルギーの消費で、は無駄話ということになる。
中世末期のスコラ哲学者オッカム(William Ockam, c. 1285~1347)も「オッカムの剃刀」という「思考経済」の原則を説いた。
それにしても、トピックスが変わった今回も相変わらず、頑迷な(δυστράπελος)「無学の老媼」カ氏による愚にもつかない与太話が続いているようだ。「投稿のための投稿」である「クズ投稿」だから止むを得ないが、プロパガンダや思い出話以外の質実な議論は眼中にないようだ。
老人は暇(σχολή)でいい。その程度にご気楽な検証されざる俗説のオンパレードだ。戦後の進歩派知識人には「護憲ナショナリズム」という偏向があり、長らくわが国の安全保障論議に深甚な影響を与え、憲法論議を、篠田さんが指摘して止まない「ガラパゴス的進化」という退嬰化に導き、メディアや論壇の一部もそれに呼応したことは概ね「事実」だとしても、いずれもカ氏ほど無知でも凡庸でも☆鈍でもなかったから、カ氏が西独や東独で垣間見たようなことは当然周知の事実で、賢明な国民も似たり寄ったりだ。
留学に先立つスターリン批判(1956年)やハンガリー動乱(同)、「プラハの春」をソ連を盟主とするワルシャワ条約機構軍の戦車が踏み潰したチェコ事件(1968年)もある。国内で一体何を見ていたのか。
留学先で何を認識したと「勘違い」したか知らないが、投稿が示す程度の凡庸な見識のどこにも、深刻ぶって焦慮を重ね、いきり立つような特別な洞察などない。至極陳腐で、退屈そのもの。
1⇒米大統領には、【歴史の現実がみえていない…】と言うが、中国の脅威抑制を「正当に」政治的課題としてアジェンダ化したではないか。
2⇒【私が、アウシュビッツ事件を、相対化しなければならない、と主張…ドイツ人の罪を矮小化したいわけではなくて、文化大革命、ポルポトの虐殺、イスラム国の残虐な事件など、を同種の事件を防止したいから】にしても、歴史上未曽有のドイツ人によるユダヤ「人種殺戮」である、国家政策として首尾一貫した合理的で徹底した民族浄化策であるホロコーストを【アウシュビッツ事件】などと表記する並み外れた感覚を疑わない老媼の「常識」を疑う。
ナチス・ドイツと異なり、ポル=ポトのカンボジアや毛沢東主義による権力闘争に伴う混乱と殺戮はあくまで国内限定で、欧州全土に及んだドイツと異なる。産業化が進み高度に組織化された第三帝国の完全にシステム化された官僚制的な冷酷さは、後進国の内戦に伴う殺戮や大量の粛清といった蛮行が示す「アジア的性格」とは次元が違う。
有り余る時間の余裕を、先入見や特定の価値観や思想信条、信仰に囚われない本来の自由な思考に向けないで、閑暇(σχολή)が単なる、何の芸(τέχνη)も工夫(Ρητορική)もない同工異曲のデマゴーグめいた「悲憤慷慨」を本欄にぶつける狂態に至る。経験知(φρόνησις)を語る(騙る)成熟した典雅な人(ἀστεῖοι)とはとても思えず、ドイツ語と英語しか解しないらしい知的水準のお粗末さも含め、無駄な饒舌ばかりが騒々しく響く。
少しは、質実な議論ができないものか、「学識」どころの騒ぎではないことを痛感する。
真実を愛する人(φιλαληθής)ではなく、「無学な人」(ἀμαθής)の怠惰と慢心は行き場を失い、年の暮れになっても、果てがなさそうだ。[完]
京大の哲学科を卒業されている反氏とは解釈がまるで違うが、ソクラテスも、「無知の知」や「産婆術」を説き、キリストと同じような人生を歩まれたからこそ、キリストと並んで、西欧で、尊敬されている人なのではないのだろうか?
「お前もか、マティスよ!」(‘et tu mattis!’)ということなのだろう。政権の最終権限者の大統領の意向には逆らえるはずもなく、如何に諫言を尽くしたにしても、特にシリアやアフガニスタンからの派遣部隊撤退がどう影響を及ぼそうと、多額の貿易赤字を放置してこれ以上、割に合わない「取引」を徒に続ける謂われはない、ということなのだろう。
綺麗ごとや手前勝手な理屈を並べ、安全保障面では必ずしも従順ではない、特に欧州大陸の訳知り顔の懦弱なりに手練れの政治家どもに愛想を尽かしたのかもしれない。硬軟にわたる度重なる介入で、冷戦後の世界秩序を維持してきたアメリカの最高意思決定権者として、ロシア以上に容易ならざる中国との新たな覇権争いの方向により重要性と喫緊性を認め、果断に舵を切ったのかもしれない。トランプ大統領には可能でも、マティス国防長官には禁じられた政治的領域を意識したかどうかは定かではないが、中間選挙を乗り切って、次なる戦略目標である再選に向け、政治的本性に目覚めたのだろう。北朝鮮問題を含め、シリアもアフガニスタンも交渉材料なのだ。
いずれにしても、現在の国際社会で厄介事を「受忍限度」の範囲内で現実的に処理する「汚れ役」を名実ともに引き受けられる実力と覚悟と実績をもつのは、目下のところ中国ではなく、米国しかない。血に飢えた民衆を宥め、「ほどほど」の国際正義を実現するために綺麗ごとなど語らず、国際の正義(δικαιοσύνη)という美名(κάλλος)など求めまい、ということなのだろう。
当否は措いて、それはそれで、政治家としてはあり得る選択だろう。
米国と中国との「新冷戦」とも称される今後の「覇権」をめぐる確執は、しばしばペルシャ戦争後の古代ギリシア世界の主導権争いをめぐる闘争であるアテーナイとスパルタの角逐に比せられ、両者が古代ギリシア世界を二分して争った当時の世界大戦であるペロポネソス戦争が話題にされる。
旧弊な寡頭制の軍事大国スパルタと、民衆政を掲げる新興勢力の海軍帝国であるアテーナイが、それぞれ旧秩序を体現する米国と膨張する中華帝国である中国に比されるのは、奉じる価値観が逆のようで奇妙に感じるが、新旧の覇権争いである点では変わらない。
最近邦訳も出て、米中関係が緊迫感を増す中で話題になっている『トゥキディデスの罠』(‘The Thucydides Trap’, 2017.=米国の政治学者、グレアムT. アリソン[Graham T. Allison=Harvardケネディ行政大学院初代院長、1940~]の造語=“Destined for War: Can America and China Escape Thucydides’s Trap?”, Houghton Mifflin Harcour, 2017=藤原朝子訳『米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』、ダイヤモンド社、2017年)をめぐる議論については周知の通りだ
トゥーキュディデース(Θουκυδίδης=c BC460[455]~400)が説いた冷徹な認識である「人間性の真実」(τὸ ἀληθές)は、第一次世界大戦当時も文明史家のトインビーが説いて論争になったが、この方面でも「歴史は繰り返される」ようだ。それだけ、古代の歴史家の認識がアクチュアリティに富んでいる証左だが、その他の歴史上の覇権国家の交代劇を形式的になぞったモデル思考はも、トゥーキュディデースの精神とは全く別で、今回もその弊を痛感する。
Ἀθῆναι: Ἐλπίς δὲ κινδύνῳ παραμύθιον οὖσα τοὺς μὲν ἀπὸ περιουσίας χρωμένους αὐτῇ, κἂν βλάψῃ, οὐ καθεῖλεν· τοῖς δ᾽ ἐς ἅπαν τὸ ὑπάρχον ἀναρριπτοῦσι (δάπανος γὰρ φύσει) ἅμα τε γιγνώσκεται σφαλέντων καὶ ἐν ὅτῳ ἔτι φυλάξεταί τις αὐτὴν γνωρισθεῖσαν οὐκ ἐλλείπει. ὃ ὑμεῖς ἀσθενεῖς τε καὶ ἐπὶ ῥοπῆς μιᾶς ὄντες μὴ βούλεσθε παθεῖν μηδὲ ὁμοιωθῆναι τοῖς πολλοῖς, οἷς παρὸν ἀνθρωπείως ἔτι σῴζεσθαι, ἐπειδὰν πιεζομένους αὐτοὺς ἐπιλίπωσιν αἱ φανεραὶ ἐλπίδες, ἐπὶ τὰς ἀφανεῖς καθίστανται μαντικήν τε καὶ χρησμοὺς καὶ ὅσα τοιαῦτα μετ᾽ ἐλπίδων λυμαίνεται.〔Θουκυδίδης; Ἱστορίαι, Ε.103.〕
アテーナイ使節団「希望は危機の気休めである。力に余裕のあるものが希望をもつのならば、害を受けこそすれ、滅びることはあるまい。しかしすべてを望みに賭けた者は(希望とはその性質上、高くつくものであるゆえ)、夢の破れた時にその何たるかを知り、気づいて用心しようとした時には、もう既に望みもなくなっているものである。諸君の都市は弱力で、しかもその運命はまさに諸君の一存にかかっているのだから、災いを避ける方途をよく考える必要がある。尽くせる人事も尽くさず、事態の圧力の前に、もはや手段はないと諦めてしまって、望みを占いや預言にだけ見出して身の破滅を招いた多くの者たちと同じ轍を諸君は踏んではなるまい」(『歴史』5巻103節)
強者(κρείττων)=アテーナイの現実(τὸ γιγνόμενον)と、弱者(ἥττονων)=メーロスの現実との懸隔だ。
身も蓋もないというか、強者の立場、認識と、弱者のそれとの懸隔、もっと踏み込んで「亀裂」をこれほど思い知らせる発言もない。それくらい、冷徹そのものだ。「人間の所業」(‘τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων’)、業の深さを感じる。
アテーナイ使節団が中立放棄を求めメロース島代表団に言い放ったこの言葉を記録したトゥーキュディデースの『歴史』は、国益という問題を考える際の、「公共の」(κοινός or δημόσιος)言論(λόγοι)の言葉ということを考える際の留意点を示唆し、軽率(ῥᾷθυμία)さを避け、「まことしやかなもの」=「真実らしきもの」(εἰκός)ではない、まさに現実=真実(τὸ ἀληθές)に向き合う意味を突きつける点で、これくらい相応しいものもない。
もっとも、メーロス島側も負けてはいない。自らの正義(δικαιοσύνη)を仮構して、応答するだけなら、なかなか負けてはいない。もっともそれは弱者の強弁(τὸν ἥττω λόγον)であって、私がしばしば、強弱を問わない現実認識の「構造」を説く中で指摘した、現実の捉え方が強者と弱者とでは正反対の構図だ。
あたかも全知全能であるかのような強者はすべてに心を開き、鷹揚(ἐλευθεριότης)だ。そこに自制(ἐγκράτειν)はあっても悪意(κακοήθεια)はない。多少の軽侮(ὀλιγωρία)があるだけだ。
弱者はわが身の不運不幸以外に心を閉ざす。怠惰(ἀργία)で驕慢な(ὕβρις)「無学な人」(ἀμαθής)カ氏にも似て。
メーロスが命運を希望に託して結局は滅んだように、代償(ἀμοιβή)は大きいだろう。
それにしても、アテナイ的公私両域の活動性、類を見ない活動性(πολυπραγμοσύνη=πολλά πράσσειν)、よりを多く成し遂げる、実行する、休む暇もなく精力的に次々と新しい目標を設定して、「休息」一般を拒絶するほどの活動的な存在――平静さ(ἡσυχία)を尊ぶスパルタ的節制(σωφροσύνη)、秩序意識と対蹠的な態度、気質を感じさせるダイナミズムだ。
そうした、古代ギリシアの精神を最もよく体現するのが民衆政(δημοκρατία)の故国「都市国家」アテーナイ(Ἀθῆναι)だった。以前に、【古代ギリシアの戦争と政治をめぐる歴史は、ソクラテスやプラトンのような卓越した知性とペリクレスのような優れた政治的指導者の存在もあって、現代を逆照射する「鑑」】(7月20日・23)書いた所以だ。
この三人は、毒にも薬にもならないゲーテやヴァイツゼッカー程度の「典型的」な人物ではない。
彼らにとって、多数者(οἱ πολλοί=民衆[δῆμος])の支配を原理とする民衆政治=民主制(δημοκρατία)など、原理的な価値(ἀξία)などそもそも、もちようがない、暫定的な仮そめの政治制度(πολιτεία=政体)であった。しかし、単純に民衆政を否定している訳でもない。
極端な直接民主制であるアテーナイの民衆政は、一般にイメージされるような人民支配という名の「衆愚制」などではなく、それなりに政治的バランスがとれた国制(πολιτεία)だった。
他の古代国家にみられるような極端な内乱、内紛(στάσις)から自由で、その点は民主制に極度に批判的なプラトンでさえ認めていた。
歴史家には周知の事実だが、近代に至るまで、内乱は慢性的なギリシア病だった。
その意味で、アテーナイの民主制はそれなりに政治的バランスがとれた国制(πολιτεία)だったとしても内部の恒常的な対立の構図を免れることができた訳ではなく、相争う各党派間の政治目的はいずれも政敵の打倒、具体的には相手側の指導者を潰すことに注力された。闘いは各党派の内部でも主導権をめぐって展開され、主要な手法は政治的な裁判であり、密告だった。それが、民主制の制度的構造の一部だった。
極端な直接民主制下では、それが唯一利用できる手段だったからだが、同時に、戦時中のような例外的な状況下で、何らかの政治的意図をもったデマゴーグの跳梁跋扈を許す背景にもなったことは否定できない。何事にも両面性があり、プラトンやアリストテレスが民衆政に疑念を抱き続けた理由だ。
文字通り「鋼鉄の意志」で民衆を叱咤激励して戦争指導にあたり、自ら立案した政策と戦略を説得力に富む論理で推し進めたペリクレスは望み得る奇蹟的な政治家だったが、彼でさえ、常に反対勢力の矢面に立たされていたことを忘れてはならない。絶えず攻撃にさらされていた。アテーナイの政治指導者である条件を最もよく表す言葉として、「緊張」(τόνος)を挙げる歴史家がいる所以だ(M. I. Finley;‘‘Democracy Ancient and Modern’’, 1985.)。
アテーナイで民主制が確立するのはクレイステネスの改革以降だが、5世紀後半の完全な民主制は帝国の根源である海軍の存在がかかわっている(Finley)。つまり、その民主制は意思決定に際して、財政的、軍事的負担を負う富裕層により大きな比重をかける一方で、貧民層にも一定の政治参加、即ち役人を選ぶ権利を与えるという妥協の産物だった(9月29日・186~187参照)。
ところで、政治が権力(δύναμις)の所在だけでなく運用を問われる人間社会の避けては通れない合意形成、つまり言論(λόγος)による説得(πειθώ)の技術(τέχνη)である以上、それを担う人物(ἄνθρωπος)の正統性と人材の確保を含め、慎重な検討と配慮(ἐπιμέλεια)を要する領域だ。
民主制に彼らが固有の価値を認めたとすれば、人材供給の面における合理性だろう。シナ大陸のような巨大国家はヘーゲルの指摘をまつまでもなく官僚制的な統制=支配(ἀρχή)に親和性があるようで、絶対的君主のような単独の支配者(τύραννος=現代ならば中国共産党)の下での厳格な制度化された試験制度による選抜(科挙)と結びつく。血統や出自などもっての外、論外ということだろう。
教育的啓蒙や訓練の効果は大きく、民主制は理にかなっているということだ。特定の階層に支配の「正統性」が独占される制度は彼らとて許容も肯定もしていない。女性だけが例外だったが、それは時間が解決した。今後もそうだろう。
スタゲイラ出身の外国人居留民だったアリストテレスを含め、彼らは我々よりずっと先を歩いている。[完]
五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること——これこそ武力不行使の今日の意味であります。・・・。要するに、このことが、理解しあって、妥協点をみつけ、武力行使やテロをさせないこと、平和を確立しなければならない意味なのである。
それに比べて、ゲーテは、自分の天職は、ドイツ語で文章を書くこと、と決めたが、現実に、小さいといえど、ワイマール王国の宰相を務めた人であり、ワイツゼッカーは西ベルリンの市長を務めたことのある政治家なのである。毒にも薬にもならない人物ではない。他人を無学と侮蔑する前に、そういう基本的なことだけは、きちんと押さえるべきではないのだろうか。
▼19⇒【24日の聖夜……ゴーン被告が何を思うのやらと思いを致しという文言から……クリスマスにご自分のコメントをアップ……相も変わらない私への批判……私の頑迷で、愚にもつかない与太話が続けていると主張】⇒⇒私が標記のコメントを投稿したのは24日の聖夜=実際は日付が変わって、前回トピックス「東京地検のプレゼン力の顛末」の項の「補説」⇒★8=25日 00:18~★15=同00:26】。
私は別にカ氏の投稿の稚拙な中身など眼中にないから、カ氏が今回のトピックスに最初に投稿した24日の聖夜当日の午前中(12月24日 08:09)とは別に、クリスマスパーティー後の時間を使って深夜に原稿を書き、如上の時間帯に投稿した。
⇒⇒合計8本、6,000字を超すコメント中に、カ氏への言及が申し訳程度なのは、そのためだ。主題はゴーン被告である。興味のある向きは参照されたい。19で粗忽者のカ氏が指摘したことは、1~2、7、13~14という「クズ投稿」に呆れ果て、聖夜ではない翌25日夕刻に新たに投稿したもので、カ氏の「自意識過剰」を嗤うしかない。
▼20⇒【キリスト教の知識はもっている…聖歌を…クリスマスの時期に、西独でも米国でもきき……市民と一緒にも歌った】⇒⇒本人の自己認識はともかく、キリスト教の基礎知識は相当低水準で、穴が多い。
▼20の②⇒【けれども、本当に心に……本当にキリストを賛美したい気持ちになれた】⇒⇒428文字を費やした自己陶酔の「一人語り」で、格別言うこともないが、「公共の」(κοινός)言語空間であることを考えると、カ氏のご都合主義に辟易する。
老残とはそういうものなのだろう。気楽でいい。
▼21⇒【カ氏が西独や東独で垣間見たようなことは当然周知の事実で、賢明な国民も似たり寄ったりだ、という状況に日本は本当に、あったのだろうか?】⇒⇒私のコメントのコピペと【…だろうか?】論法による、如何にもお手軽な怠慢と堕落の典型のような議論。
⇒⇒【田原総一朗氏も、テレビのインタビューで……と述べ……竹内洋さんの「丸山真男の時代」を読んで……進歩的知識人……「日米安保改定反対運動」……印象操作で…岸信介のしていることは、日本をもう一度戦争に突き進ませようとしている……ような妄想が日本国民に広がった】⇒⇒壊れた蓄音機さながらの「懐かしのメロディー」。それにしても、立論に芸がない。テレビの討論番組でしばしば入れ歯を鳴らしながら、いきり立っている田原氏と選ぶところはない。
▼22⇒(私の18、19についての批判)【米国がソ連を脅威と感じたのは、実際に朝鮮半島でソ連の傀儡政権である金日成が、南進したから……中国の毛沢東も同じ……現在の米中の状況を、マスコミは、貿易戦争、戦争という言葉を使うが、そのような言葉を容易に使うから認識がおかしくなってしまう……1980年代の日米貿易摩擦と似たようなもの】⇒⇒カ氏の国際政治の分析は決定的にずれている。(「…という説もある」と留保つきながら)【レーガン政権は、仮想敵国を日本だと考えていた】といった、検証されざる与太話を平気で撒き散らす。ピアノ線並みの神経で大胆に「物語思考」を展開する。【この担当者は…国防長官ではない】は、論理的に‘non sequitur’な冗語。
▼22の②⇒【米国が新しい段階に入ることが、いいことなのかどうか】⇒⇒中国の仕掛ける知的財産権の侵害やサイバー攻撃など今後の国家戦略の根幹を握る情報通信技術分野(技術開発や情報セキュリティー等)での中国の明確な敵対行為が、このところ一段と明確になってきたのを見落としている。
▼22の③⇒【ワイツゼッカー演説にある「米国が世界政治に関与しなくなった1930年代の再来…だろうか?」……現実には中国と米国は代理戦争をしていない。しているのは、シリア…アフガニスタンにしろ、ロシアと米国】⇒⇒毒にも薬にもならない偽善と欺瞞に満ちた単なる「政治的構築物」にすぎないヴァイツゼッカー演説を持ち出す立論のお粗末さは棚に上げて、【反氏は、その国際認識があるのだろうか?】も何もないものだ。
▼23⇒【ポルポトが出てきたので……】⇒⇒そもそも、今回のトピックスで「ポルポト」を最初に持ち出したのはカ氏(24日・2=「アウシュビッツ事件を、相対化しなければならない…ドイツ人の罪を矮小化したいわけではなくて…ポルポトの虐殺」)。
▼23の②⇒【虐殺者ランキング……ヒトラーは1100万人、すごいな、と思うが、世界では第三位、二位はスターリン、毛沢東に至っては、6000万人。堂々の一位】⇒⇒こういう時に、「堂々の一位」なる冗語を並べるカ氏の言語感覚が了解しかねるが、【6000万人】は無学な反共産主義、反マルクス主義のデマゴーグ(δημαγωγὸς)であるカ氏が以前(6月24日・15=「白井聡『国体論』の反米主義としてのレーニン主義」の項)、「ホロコーストによる犠牲者は、だんだん減って310万人ぐらい……中国の文化大革命の犠牲者は、なんと4000万人…」とした誤謬を相変わらず奉じている証拠だ。
▼23の③⇒⇒【文化大革命についての評価、毛沢東の悪行…反氏には理解してもらえず、今回も頑迷な反氏…期待などしていない】⇒⇒とんだ御挨拶で、私は毛沢東のような「アジア的野蛮」を体現する比類ない「人でなし」を「人間の公害」と批判した法哲学者碧海純一の所見などを引証しながら充分批判している。ただ、その中国で依然、毛が「建国の父」とされ、その著作がヒトラーの『わが闘争』と異なって禁書にもならず読める。中国の方が、ユダヤ人大量殺戮をすべてヒトラーの犯罪として居直っている戦後のドイツより、「欺瞞の度合」が少ない」としただけ。ドイツはこの点で中国やロシアにも劣る「欺瞞の巣窟」だ。
▼23の④⇒【なにが、賢明な日本人は、私が留学で知っていたことぐらい、すでに知っているのだろう……このような極悪非道の人物のことは、人権意識の高いヨーロッパでは、常識……いつまでも、ホロコーストのドイツ人の罪をあげつらって…ドイツ人が…野蛮民族であるかのような主張】⇒⇒確かに、19世紀以降のドイツは、ゲーテやシラーの時代の欧州大陸中原の「後進国」状態と違って、ポル=ポトのカンボジアや毛沢東の中国、スターリンのソ連、ついでにイディー・アミンのウガンダより「文明国」だろう。
それならなぜ、如何に経済的苦境を強いられたとしても、ポル=ポトも毛沢東も、スターリンもやらなかった、「国家政策」としての一民族の計画的大量殺戮をドイツ人だけがやってのけたのか。
▼31⇒【綺麗ごとや手前勝手な理屈を並べ、安全保障面では必ずしも従順ではない、特に欧州大陸の訳知り顔の懦弱なりに手練れの政治家どもに愛想を尽かした】⇒⇒もしかしたら、トランプ大統領はゲーテ並みの艶福家で、知性的にも疑問符がつく「インチキ野郎」かもしれないが、欧州大陸の訳知り顔の政治家たちと違って単なる口先だけの「偽善家」ではない。ペリクレスではないだけの話だ。政治家は道徳家とは違うし、無能では困る。「欧州大陸の訳知り顔の政治家」といっても、単なるお飾りの連邦共和国大統領ヴァイツゼッカーは数には入っていない】
▼31の②⇒【欧州の政治家への不信感を煽り、ロシア以上に容易ならざる中国との新たな覇権争いの方向により重要性と喫緊性に目覚めたと、中国脅威論をあおっている、それは本当なのだろうか?】⇒⇒「無学」で現実政治に疎いカ氏でもあるまいし、別に中国脅威論を煽ってなどいない。ペンス米国副大統領が10月、冷戦期の対ソ連相手にも例をみなかった辛辣な措辞を交えて、激越なる中国批判演説を行ったではないか。
その結果、現在何が起きているか。貿易問題は90日間の猶予を設けて交渉が進んでいるが、日米摩擦の場合と同様、本質的にどこかで落とし所が見つかり妥協可能な、トランプ氏が得意な‘deal making’が可能な領域だが、安全保障や覇権が絡めば、そうもいくまい。
国際政治は、皆で仲良くお手々つないでの世界とは異なる。
▼31の③⇒【ワイツゼッカー演説を評して、きれいごとや手前勝手な理屈、とくるのだから、いい加減なもの】⇒⇒性懲りもない「ヴァイツゼッカー教」の巫女の信仰告白。
▼31の④⇒【私は、今太極拳を中国の先生……表れだと私は思う】⇒⇒340字も費やして態々書くほどのことでもあるまい。国の政策の是非について口を拭って頭を低くしている民衆など、その程度のものだ。「自由が担保されている」かのような錯覚をカ氏が抱くのは、累が及ぶのを恐れて唯々諾々と従っているだけか、中国共産党の支持者か政策の受益者だからだろう。シリアにもちょっかいを出している中国のことだから、国家に批判的な言辞を自由に発言したら、どうなるか、分かったものではない。民間レベルの交流を一々取り合っても仕方ないが、カ氏はあまりに単純(‘einfach’)すぎる。私でも、シナ文明の遺産は偉大だと思うが現代中国人の専有物ではないし、脱税容疑で吊るし上げに遭った女優范冰冰を嫌いではないが、それとこれとは別の話で、現在の中国は正当に批判すべきだ。
▼32⇒【米国の大統領だという理由で、国際社会で、特に北朝鮮、シリア、アフガニスタンの民衆の運命を交渉の材料にするなどということが政治家として許されるのか……反氏はジャーナリスト失格】⇒⇒ジャーナリストなど、そうご大層な仕事ではない。結局は、【ゲーテやワイツゼッカーの考えが好きなので、反氏の考えに同意、共感できるところが少ない】という、個人的な好き嫌いの問題に帰着する。ドイツ狂い(教)」の姑息で浅ましい意図が透けて見える。
▼34⇒【時代的に、まず、ペリクレスの治世…】⇒⇒ソクラテスやプラトン、ペリクレスについて、西洋古代哲学、古典学が専門の私にギリシア語やラテン語も理解できない「無学な人」が「中等教育で学んだ」程度の冗語を並べてどうするつもりか、正気の沙汰とも思えない。【時代的に、まず、ペリクレス……衆愚政治となってしまったアテネの政治】の部分(283字)は、粗探しをすれば杜撰な認識の一端をいくらでも例証できるが、投稿目的は別にあるようだから、無駄なことはしない。要するに、中段11行目の【この三人は、毒にも薬にもならないゲーテやヴァイツゼッカー程度の「典型的」な人物ではない】の箇所が引っ掛かったのだろう。
⇒⇒直接民主制国家アテーナイはカ氏が考えるほど「衆愚政治」ではない。そもそもこの時代、「衆愚政治」というギリシア語の単語は存在しない。民衆政を意味する「デーモクラティアー」‘δημοκρατία’を、文脈に応じて「衆愚政治」と訳す場合があるだけだ。同時代の世界のどの国家と比べても古代ギリシアの政体の先進性は遜色ないレベルだ。
⇒⇒世界中に民主制が伝播し、拡大した20世紀以降の感覚で、古代ギリシア国家の実態を知らずに妄想的推論を繰り広げるから笑止の沙汰な訳で、カ氏の思い込みにすぎない。試しにトゥーキュディデースでも読んだらいい。現代の平均的日本人などより、よほど優れた、感傷的な心性などない議論好きな連中だと分かる。「衆愚政治」という名の熾烈な「政治闘争」を繰り広げていただけにすぎない。
民衆政を原理的に批判したプラトンやアリストテレス、そしてトゥーキュディデースは、その時代の、それなりに有能な市民たちを遥かに抜く水準の人物だったという意味で、「非典型的」な人物と書いた訳で、言うも愚かだが、「後進国」の文士ゲーテや、「お飾り」の連邦大統領ヴァイツゼッカー程度の知性とは格が違う。[完]
Spiegel誌についてであるが、最近、捏造記事を書き続けてきたジャーナリスト、クラース・レロティウス記者(33)のことが問題になっている、ということを長谷川良さんの記事で知り、Spiegel誌51を買って読んだ。「正しい報道」や「客観性の報道」といった命題より、視聴者の期待、「ドラマのある報道」にこたえるために、戦場に行って取材をせずに、持ち前の豊かな創造力、表現力を発揮して書き、メデイア関連の受賞もしていたそうであるが、これは、小説や映画の世界では貴重な才能であるが、ジャーナリズムの世界では絶対に許されないことである。Spiegel誌は、なぜ、このようなことが起こったか、の特集を51号で組んでいるが、日本の朝日新聞社も、「従軍慰安婦」がねつ造記事だとわかった時点で、なぜ、あのようなことが起こったのか、どうすれば、その再発が防げるのか、という特集を組んでいれば、現在の様な「元徴用工」をはじめとする、日韓問題のこじれもなかったのではないのだろうか?私は、韓国人が気がすむまで日本人は謝るべきだ、という村上春樹さんの主張は、「文学の世界の人」の主張だな、とつくづく思った。
それならなぜ、如何に経済的苦境を強いられたとしても、ポル=ポトも毛沢東も、スターリンもやらなかった、「国家政策」としての一民族の計画的大量殺戮をドイツ人だけがやってのけたのか
について、私の見解を書いてみたい。
まず、ドイツ人の国民性として、感情的なラテン系のフランス人やイタリア人と違って、大変合理的で、システマテイックな人々である、ということがあげられる、と思う。感情に任せてのテロ的な衝動殺戮は少ない。
日本人は、キリスト教徒が少ないから、ユダヤ人に対して、偏見がほとんどないが、ヨーロッパ人は違う。中世以来、キリストを十字架にはりつけにした宗教、ユダヤ教を信じる民族、という理由で、ヨーロッパ大陸では殺戮されてきた。彼らは、選民思想をもっていて、住んでいる国の文化に同化しない、という理由も大きい。
ただ、ドイツではレッシングの「賢者ナータン」をはじめとするゲーテ的考え方の普及以来、ユダヤ人のドイツ文化への同化、も始まり、メンデルスゾーンやマーラーなど、キリスト教に改宗した人も多い。ただ、改宗の動機が、純粋なものだったとしても、ユダヤ人、ヨーロッパ人の双方から、「自分が出世したいためだ。」と揶揄された。
この資本主義に対する共産主義、資本論を書いた、カール・マルクスはユダヤ人で、「このようなドイツの国を滅亡に突き進めるような、理論を作り上げた邪悪なユダヤ人」、世界を滅亡させる国際的ユダヤ人組織、というヒトラーの主張が支持されたのである。要するに、金融資本を牛耳るユダヤ人、共産主義暴力革命を提唱するユダヤ人、自分たちの選民思想のためにキリストを張り付けにしたユダヤ人、この3つの主張が、経済的苦境も相まって多くのドイツ人に納得され、支持されたのだと私は思う。本来、ワイツゼッカー氏が主張されているように、「民族の罪」、などというものはないのに。要するに、「共通の敵」を作って、ヒトラーはドイツ国民の団結心を求めたのではないのだろうか?
この歴史的経緯から考えると、日本国憲法9条に修正を入れられた、芦田均さんの主張されるように、現在また力を持ち始めている「国家社会主義」ナチズムの思想もおかしいし、共産主義の思想もおかしい。二つとも、世界を滅亡させるものである。
現在の日本やドイツが今採用している、自由民主主義、国際協調主義、が色々問題はあっても、一番いいのではないのだろうか?
私は、今まで、ギリシャ人の名誉の為に、このようなことを書きたくなかったが、やはり、読者は現実を知った方がいい、と思うから、あえて書くことにしたが、それなら、どうして、ギリシャ、すばらしい学識をもち、同時代の世界のどの国家と比べても先進性は遜色ないレベルの古代ギリシアの政体をもったギリシャ・アテネは、ペリクレスの死以降、国力が下がってしまったのだろう。アテネ人は、「デーモクラティアー」と呼んでいたのかもしれないが、客観的に見て、衆愚政治だから、国力が落ちたのではないのだろうか?
現実は、ギリシャが、EUの厄介者なのではないのだろうか?ヨーロッパのマスコミ情報を読めば、それがわかる。また、例えば、今月26日に発表されたOECD加盟国の2017年の一人当たりのGDP.(名目国内総生産)、日本は20位である。反氏は、ドイツは、ユダヤ人を追い出したから、国力が下がった、と主張されるが、ドイツは、イギリスやフランスより上の14位、である。全体の国内総生産は、アメリカが1位、中国が2位、日本が3位、ドイツが4位であるが、ギリシャはどこにいるのだろう?
とにかく、反氏に望みたいことは、現実からかけ離れた、おかしな先入観を主観的な憶測の元、強固に執拗に主張せず、現実を直視していただきたい、ということである。
ちょうど、夫の米国留学が、レーガン政権の時で、夫にねだってホワイトハウスのクリスマスの点灯式を見に行ったり、彼女のワシントン近郊の自宅で一緒に大晦日を過ごし、帰国後、自動車関係の会社のOLとして、一生懸命働いたので、その文言を印象深く覚えているのである。
そのくらいだから、怠惰で学識も頼りなく、無駄に歳をとった(γῆρας)ものだと、つくづく思い知らされる。ゲーテかぶれの理論ぎらい(μισόλογος)も度を越しており、「百聞は一見にしかず」のような愚劣な経験則を魔法の杖のように振り回して開き直っている様は、「無学のなれの果て」と、寒々とした気持ちにさせられる。
外に言うことがないものかと思うが、質実な議論ができないものだから、「反論のつもり」の投稿も反射的、発作的で、知性の程度を示すかのように陳腐で、八つ当たりの「悲憤慷慨」にすぎない。卑屈(μικροψυχία)で激昂しやすく(ὀργιλότης)、知性(νοῦς)の欠片もない。
43以下50までの細切れの、「無学」(ἀπαιδευσία)と下劣な(ταπεινότης)心性の証明のようなクズ投稿を解体処理する。
まず49は、これほどある意味でカ氏の、無知蒙昧ぶりを印象づけるものはない。要するにカ氏はギリシア・ローマについて何も分かっていない、学問的議論などどだい笑止な門外漢だということだ。
具体的に論証する。
▼49⇒【ドイツ人がギリシャ語を学ぶのは、今は、昔】⇒⇒勘違いも甚だしいが、学問的にギリシアの諸学芸を研究する人間にとって、古典期のギリシア語やヘレニズム期の共通語であるコイネー(Κοινή=新約聖書のギリシア語)、その註釈書の言語であるラテン語の修得は必須だ。
現代のギリシアがEUの「お荷物」だったとしても、古代ギリシア文明の価値は毫も揺るがない。だから、ギリシア語が必要になる。
現在でもドイツに限らず、専門家はこの古代のギリシア語を必ず学ぶ。そして、欧米の一流の研究者や教養人は、職業の如何を問わず、基本的教養としてギリシア語かラテン語の知識が嗜みとなる。東ローマ帝国時代のビザンツ文化の研究には中世ギリシア語も必要になる。
カ氏が古典語を解さないことは、「無学」の言い訳にはならない、ということだ。
しかし、無学なカ氏は日本の、例えば『源氏物語』を読むために要する上代の日本語と現代の日本語の違いより、古代ギリシア語と現代ギリシア語の違い遥かに大きいことを皆目知らないだろうし、古典学の研究に現代のギリシア人やギリシア語を全く必要としない事情など、カ氏は全く無視して愚にもつかない議論を展開している(「無学」だから致命的だが)。古典学の歴史とギリシア語もつ性格(歴史)について、簡単に記述しておくことは無駄ではあるまい。
西洋文明の基盤となったギリシア・ローマの諸学芸、歴史や法律の研究、特にギリシア学の研究の中心は西欧諸国、特に英仏独伊と米国であって、故国のギリシアの貢献はほとんどない。それが、西洋古典(文献)学二千年の歴史であって、ギリシア学の研究者でギリシアに行くのは考古学分野(美術も実質同じ)に限られる。
東ローマ帝国が1453年に滅んでから必然的にトルコ語が中世ギリシア語に多数の借入語として入ったため、ギリシア語は大きく変質したからだ。特に文章語と口語の開きが甚だしいのが顕著な特徴となっている。
語彙だけではなく、形態法でも異なる。アテーナイの一般人が日常的に使用し、現代の作家たちが主に使用しているのは民衆語だ。
もっとも、同じ現代ギリシア語だから類似共通した部分もあり、純正語と民衆語とが截然と分けられない面もあるが、主に四つに分類される。新聞や雑誌は混合語(μικτή)で、小説などにも用いられる。本来の純正語は古典語の未来形を使用せず、統辞法も違うし、官庁文書、特に法律や教会、科学関係の超純正語と異なり、教科書や看板などに使われる。
超純正語も統辞法では古典語やコイネーとほぼ同一だが、双数と古い求希法は消失している、といった具合で、民衆語に至っては語彙において純正語と著しく異なるのは指摘した通り。形態法も異なり、外来語の使用が目立つ。この他、超民衆語として俗語や方言を取り入れた形態がある。
▼49の②⇒【パルテノン神殿がいい例……あの文化財をギリシャ国内におくこともできない】⇒⇒訳の分からない愚劣な無駄話(ἀδολεσχία)は論外として、神殿の破風や破風下の上部外壁面(メトープ=列柱の梁平滑面の上)、内陣(神室)上部(フリーズ)を飾った大理石の浮き彫りや立体彫刻は大英博物館にあるし(所謂‘Elgin marble’)、他の一部もルーブル美術館に収蔵されているから、貴重な彫刻を消滅から救った西欧貴族の貢献は無視できない。
ギリシアがトルコ支配下にあった時代の国外移転なので、ギリシア側から再三、返還請求が起こる原因になっている。
▼43⇒【綺麗ごとや手前勝手な理屈を並べ……必ずしも従順ではない…という反氏の批判はあたらない】⇒⇒政治というものは、国家間でも集団や個人間でも、対立する利害と主張(信念や価値)を調整し、言論または権力で説得または調節して、合意形成や対立の緩和または解消を目指す人間的な技術。理屈による説得の方は、綺麗ごと=建前を合理的、つまり如何に首尾一貫した形で提示できるかという有能性を競う技術に尽きる。欧州の政治家は軟弱で腰抜けでも、長年の角逐を背景に、この点で熟達している。しかし、所詮は弱劣だから束になっても米国に敵わないし、その気概もない。内部で主導権争いをめぐって常に足のひっぱり合いをしているだけ。
人間のもつ善と悪の能力について深い洞察をもつことが、有能な政治家であるための第一の条件。道徳でも学識でも正義感でも、弱者に対する感覚でもなく、ましてや説明責任やその能力ではない。そうした能力で皆のし上がってくる。
しかし、一応手練れの偽善者たちも、トランプ大統領のような価値観を共有しないアウトサイダーにかかると、手もなく捻り潰されてしまうこと請け合いだ。足元が揺らいでいるメルケルやマクロンの体たらくをみていると、彼の国の国力の程度が知れる。
▼43の②⇒【大政奉還をした、徳川政権は偉かった】⇒⇒幕府は権力を掌握できず、倒幕勢力に対抗できなくなって権力を放り出しただけの話。十五代将軍・一橋慶喜は追い込まれると最後はいつも尻尾を巻いて逃げ出すのが、過激な攘夷主義者・水戸藩九代藩主徳川斉昭の息子、七郎麿のころからの悪癖。
▼44⇒【そのようなことは、いくらトゥーキュディデースなどの古代ギリシャの歴史書を読んでも、わからない】⇒⇒単なる「無学・以上に、☆鈍(ἀφροσύνη)で凡庸な人物は読んでも分からないだけの話。カ氏は怠惰だから、読みもしないで与太話をするのが精いっぱい。
▼44の②⇒【朝日新聞社も、「従軍慰安婦」がねつ造記事だとわかった時点で、なぜ…起こったのか、どうすれば…防げるのか、という特集を組んでいれば…】⇒⇒見苦しい言い訳なりに特集・検証記事を大々的に報じている。ただ、「吉田証言」の全面撤回はしても、問題の論点を「戦時の性暴力」に切り替える欺瞞は押し通した。「ゴールポスト」を動かす悪癖と欺瞞はマダム瑕疵=カ氏と同じ。「マダム瑕疵」⇒「まだ昔」の話ではないからご存知では?
▼45⇒【ポル=ポトも毛沢東も、スターリンもやらなかった、「国家政策」としての一民族の計画的大量殺戮をドイツ人だけがやってのけたのか…私の見解を書いてみたい】⇒⇒次の46で、はしなくも自白しているように、今月の【一連のNHKのナチス関連のドキュメンタリーを見て】、都合のよい部分のみ利用して、検証(ἔλεγχος)されざる多量の俗説を含む仮設(ὑποθεσις)、虚偽(ψεῦδος)=虚構(μῦθος)に基づく単なる「物語思考」=‘Karoline Doctrine’を展開しているにすぎない。有り余る誤謬、杜撰な論理構成、粗末で陳腐な措辞とが三位一体となって、愚にもつかない妄説の炸裂の観を呈している。救いようのない「無学」だからだ。
▼45の②⇒⇒【ドイツ人の国民性として、感情的なラテン系のフランス人やイタリア人と違って、大変合理的で、システマテイック】⇒⇒フランス人の方が理屈っぽく鋭い。ドイツ人の論理は勿体ぶっている割には中身がなく、空疎。文章はしばしば明晰さを欠き野暮ったい。「体系的」と言うが鈍重で、ヘーゲルのような一流以外はただの大風呂敷。
▼45の③⇒【レッシングの「賢者ナータン」……ゲーテ的考え方の普及以来、ユダヤ人のドイツ文化への同化、も始まり、メンデルスゾーン……など、キリスト教に改宗した人も多い】⇒⇒ゲーテが出てくるとすべてこの調子で、こじつけが過ぎる。
ゲーテは同年、ヴァイマール公国の枢密顧問官に昇任した時期で、文教政策の責任者として翌1780年に新築のヴァイマール劇場を開場させているから、劇作家で、出版の3年前の76年、ハンブルクにできたドイツ最初の常設劇場の顧問を務めていたレッシングとは交流があったろう。
しかし、メンデルスゾーンは、ユダヤ人は固有の生活様式を捨ててドイツ文化に同化すべきだと説いた啓蒙運動「ハスカラ主義」の主唱者で、ゲーテとは直接関係ない。『賢人ナータン』のテーマである、ヒューマニズムによって宗教的対立を越えて狂信的思想の超克を説くレッシングの啓蒙主義的な「寛容の精神」と、親友だったメンデルスゾーンの開明的な姿勢に共通性があっただけの話だろう。なお、ハスカラ主義は迫害の歴史を啓蒙主義によって超克しようとした普遍的教養主義者の運動。
▼46⇒【ナチスヒトラーが力をつけたのは、「共産党」と対決したから……第一次世界大戦後、ドイツでは、「共産党」も力をもち、ソ連と同じような「暴力革命」を画策……その暴力に対して、暴力で立ち向かったのが、「ナチス親衛隊」……それが一般のドイツ国民に支持された】⇒⇒「紙芝居」のような粗雑な論理で基本的な誤謬が満載。当時、西欧最大の勢力だった社会民主主義政党で、ヴァイマール体制を最初に主導したドイツ社会民主党(SPD)は共産党にとって最大の敵だった。共産党とナチスは「敵の敵は味方」の論理で共闘関係にあった。同床異夢にすぎないが、ナチスと共産党双方とも、選挙協力で議席を伸ばした事実を無視している。
▼46の②⇒【マルクスはユダヤ人…「…ドイツの国を滅亡に突き進めるような、理論を作り上げた邪悪なユダヤ人」、世界を滅亡させる国際的ユダヤ人組織、というヒトラーの主張が支持された……金融資本を牛耳るユダヤ人、共産主義暴力革命を提唱するユダヤ人】⇒⇒マルクスは6歳でキリスト教の洗礼を受けた改宗ユダヤ人だ。
ユダヤ人をめぐる「陰謀論」は数知れないが、カ氏も相当重症で、ドイツの愚鈍な中下層階級と同等の、歪んだ誇大妄想的な剥き出しのユダヤ人や共産主義、マルクス主義に対する敵意と憎悪がよく表れている牽強附会の典型のような偏狭な歴史観だ。
マルクスの経済理論は、「労働価値説」など基本的誤りを含むが、資本主義的経済発展のモデルを構築したもので、終末論的革命思想と切り離して理解可能であり、カ氏の粗雑な蜘蛛(φαλάγγιον)の巣が張った脳みそ(ἐγκέφαλος)では理解できないだけ、ということではないのか。
▼46の③⇒【自分たちの選民思想のためにキリストを張り付けにしたユダヤ人】⇒⇒イエスを十字架上ので処刑したのはユダヤ人ではなく、ローマ人であろう。ここまでくると、偏見というものが人を愚鈍に導く重大な要素なのが分かる。
▼46の④⇒【ワイツゼッカー氏が主張…「民族の罪」、などというものはない】⇒⇒集団の罪を否定し、罪を特定の個人に限定する論理はヴァイツゼッカーではなく、ヤスパースが敗戦直後の『贖罪論』(“Die Schuldfrage”, 1946年)で説いた見解で、ヴァイツゼッカーのはその浅薄ないいとこ取りのご都合主義的解釈。パリサイ的偽善で問題外。
▼47⇒【ポルポトも、毛沢東もスターリンも、共産主義者……暴力革命を指向している……ユダヤ人カール・マルクスは同胞……敵は、富裕層】⇒⇒ポル=ポトは大量の役人や学者、教師、宗教指導者ら知識層、富裕層を根こそぎ殺戮した。そこにあるのは、「アジア的(東洋的)野蛮」、あるいはソ連兵(赤軍)に関する言及にしばしばみられるような「コサック的野蛮」の刻印であって、19世紀以降はドイツもその一員である西欧的文明国の表徴ではない。
ドイツ人(民族)が、「ポル=ポト以上の」政策的、計画的、組織的、官僚制的(目的合理的)で工業的な、血も涙もない徹底したユダヤ人大量殺戮をやってのけたとしても、それは彼らがポル=ポトを担いだカンボジアの民衆並みに、それこそ「比較可能な」野蛮な民族などではないだろう。ナチズムに加担したドイツ人を庇うため、そこまで卑下する必要もあるまい。
そうではなく、世界有数の教養市民層(知識層)を形成するに至った有能で高潔、かつ名誉ある、誇り高き人々が、なに故に、ヒトラーや共産主義に対してかほどに政治的に無力であったか(非政治性)、そして彼ら社会の中枢を形成する知識層を、同じ政治的に未成熟(非政治性)なドイツの血に飢えた「中下層階級」の民衆が如何に憎悪し、攻撃していたかが、問題なのである。
ヒトラーやナチスの口車に乗ってとんだ過ちを犯してしまったと、罪業をすべてヒトラーとナチスに押しつけて自得し、質の悪いことに居直る前に、ドイツが文明化し、産業も遅まきながら発展し、国家行政組織も高度に整備されていたからこそ、ポル=ポトや毛沢東らの前近代的な産業的「後進国の野蛮人」にはできなかった歴史上未曾有の「最終解決」という名の冷酷極まる、人の皮を被った獣の如き所業(τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων)をやってのけたという難題(ἀπορία)に向き合わなくてはならない。
その意味するところは、いくら「無学」で凡庸極まるカ氏にも、朧げながら気づくはずだが、文明化、即ち近代の啓蒙(Aufklärung)によって20世紀前半のドイツ人は、「呪術から解放された世界」(die entzauberte Welt)に「生きていたからこそ」、ホロコーストのような到底許されざる所業をやってのけることができた、という逆説=「パラドックス」こそ、真実(τὸ ἀληθές)の所在を指し示している。
「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでいくのか」――という、文明の進展自体が野蛮(Barbarei)への退行に繋がる、重い問い掛けだ。
▼50⇒【レーガン時代日本が米国の仮想敵国だった】⇒⇒中曽根康弘首相と「ロンヤス」関係と言われる、極めて親密な個人的信頼感を結んだ両首脳であっても、国家指導者というのは国益の保守のため種々の想定や戦略的対応を講ずるのは当然のことであって、「仮想敵国」という表現の意味をナイーヴなカ氏がはき違えているだけではないか。貿易上の競合相手を比喩的にそう呼ぶことがあったにしても、本来の安全保障上の観点を著しく逸脱している。
ということは、国際協調で絆を確認しても、本音や国益は違うことだってあり得る訳で、「無学な人」は、幼稚園児並みのナイーヴな政治意識しかもたないから、その程度のことで、まるで特別のことのように喋喋しているのだ。[完]
「国民大衆が当てにしている本来の利得は、自分の憤怒を集団によって聖化してもらうことである。それ以外に得るものが少なければ少ないほど、一層頑なに、人はより正しい認識に逆らって、大衆運動に加担するようになる。……民衆にとって反ユダヤ主義は、ひとつの贅沢なのである。」(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』、徳永恂訳、268頁)
けれども、吉川幸次郎の母校、神戸高校であっても、漢文は週に1時間、それに比べて英語は週に6時間あった。ドイツ語にせよ、私は縁あって、深く勉強をしただけで、関学の文学部全体から見れば、ドイツ語を選択する人は、フランス語を選択する人々の5分の1ぐらいだった。古代ギリシャ語に対する、教養あるドイツ人も同じなのである。専門にしたい人、興味がある人が勉強する。ヘーゲルについても同じで、反氏は、コメント45で、ドイツ人の論理は勿体ぶっている割には中身がなく、空疎。文章はしばしば明晰さを欠き野暮ったい。「体系的」と言うが鈍重で、と自分の主観をあたかも正論のように述べ、ゲーテやワイツゼッカーの文章を馬鹿にし、おまけに、ヘーゲルのような一流以外はただの大風呂敷、と述べられているが、私は、ヘーゲルの文章に代表されるドイツ哲学の文章こそ、回りくどい、と感じる。それをゲーテが批判していて、現実のドイツでは、ゲーテの文章が珍重されている。その為に、ドイツ文化センターはGoethe Insttitutなのである。母国語が日本語なのに、ドイツ語を主観的に判断する、その独善的な異常な自信はどこからくるのだろう?
昨日、移民問題によって、EU全体が危機に陥っている、ということがよくわかった。国家社会主義の動き、ナショナリズム、愛国主義、が顕著である。妥協なき論争ではなくて、妥協点を探す、国際協調の精神が、今ほど、大切な時はない、と感じた。
という反氏のコメント、58の疑問に対して、答えたい。やはり、その理由に、人間というものは、経済的に困窮すると、安手の、わかりやすい理論にのりやすく、スケープゴートを求める特性をもっているということ、そして、愛国心をもっていることがあげられると思う。これは、ドイツ人だけのものではない。「鬼畜米英」を叫んだ日本人も同じことである。
ワイマール共和国では、社会の中枢を形成する知識層が議論ばかりして解決できなかった問題を、政権についた当初のヒトラーは、表面上は見事に解決したのである。つまり、ベルリンの金融資本家、特に、ユダヤ人の資産を取り上げ、仕事を取り上げ、それをドイツの中下層階級に分配したことによって、中下層階級の人々は、仕事を得、収入も得ることができたのである。ドイツの大手企業の経営者も、共産主義者よりも、国家社会主義者を支援したから、ナチス党は、選挙に莫大な宣伝費用をかけることができた。
要するに、ユダヤ人問題抜きの「国家社会主義」なのであって、そのイタリアのポピュリスト政治家、同盟のサルビーニ党首は、マスコミ出身の政治家である。ナチスドイツのヒトラーとゲッペルスも、同じ、天才的なメデイア戦略家であった。そのメデイア戦略にだまされて、ドイツ国民はとんでもない政治指導者を選んでしまった。だから、後で振り返って、教養あるドイツ人は、ヒトラーやナチスの口車に乗ってとんだ過ちを犯してしまった、と結論づけるのであって、別に居直っているわけではない。また、その過去があるから、ワイツゼッカー氏はその演説で、「共産主義」や「国家社会主義」などの「救済思想」に安易に飛びついてはいけない、と若者をいましめておられるのである。
ワイツゼッカー演説のあらゆる面を含めて、私には、反氏の、ワイツゼッカー演説がその浅薄ないいとこ取りのご都合主義的解釈、パリサイ的(モーゼの立法の厳格な順守を主張する派)の偽善などという主張は、まるで理解できないし、反氏はよく多用されるが、そういう「反氏の主張」こそが、国際的に見た場合、「唾棄すべき主張」だと私は、考える。
表面上そうふるまった、演技をしただけなのではないのだろうか?私だって、日本のマスコミ報道を通じて「ロンヤス」関係、二人はあたかも仲がよかったような印象をもつが、実際の通商法301条は、そういう内容ではない。特にスーパー301条アメリカ通商法(1974年)301~309条の総称。利害関係者の提訴またはUSTRの職権調査開始に基づき,アメリカの通商に負担・制限を与えている外国の慣行等について,当該国と協議を行うことを義務付け,解決しない場合には,関税引上げなどの一方的措置を発動する権限を行政府に与えている規定。何が不公正であるかの判断をアメリカが一方的に認定し,対抗処置を講じられるという意味でGATT上疑義があるとされる。その後の通商法規の改正において,この条項は強化された、とあるが、その対象国は明らかに日本、日本の自動車産業だったのである。安全保障は、武力だけではない。ヨーロッパのEU離脱問題で明らかなように、経済問題も大きなウェイトを占めるのである。
私は、自動車関係の外資の日本人OLとして、この問題に関心をもっていたから、レーガン政権の仮想敵国は日本だった、という説に納得するのである。。
そうではなくて、マルクスは、「地上に楽園」を作ろうとした人なのであって、それはキリスト教の教義とは違う。
キリスト教の教義には、「最期の審判」があって、地上でしたことの行状によって、キリストに裁かれるのだ。イタリアで、毛沢東の死を教えてくれた伯母が、ローマに行くなら、是非、バチカン美術館に行きなさい、と勧めてくれて、親友とバチカン美術館のシステイーナ礼拝堂で、ミケランジェロの「最期の審判」の絵を見た。私は、それを見て、キリストの高貴さと共に、天国に行く人と地獄に落とされる人、その差に、「地獄に落とされる人々は、かわいそうなのではないか。」という印象をもったが、年と共にその意味がわかるようになった。聖書には、「貧しき者は幸いである。天国はあなたのものである。」と書かれてあるのであって、自分のイデオロギーのために、大勢の人を殺害する暴力革命を起こしなさい、などと書いてない。
とにかく、反氏には、まともな国際的に通用する学識をもっていただきたい、と心から祈る。
ものごとをよく考えず、「当たって砕けろ式」の敢闘精神は何とも勇ましいが、それこそ蛮勇(〔θάρρος)というもので、痛い目に遭わないと性懲りもなく何度でも失敗や不覚を繰り返すしか能がない無能者。「莫迦の考え休むに似たり」と言うが、カ氏の場合は「考え」(διάνοια)さえ欠落しているようだ。市井の無教養(ἀπαιδευσία)な民衆(δῆμος)さえ具えた知恵(σοφία)もない。
しかも圧倒的な「無学」である理論嫌い(μισόλογος)だから、立論(λόγος)が実に杜撰で、何の芸も措辞(ρητορική)もない。具体的な論拠、論点(τόπος)を示さず、ただ、「本当に、どちらが仮想現実に生きているのか」「反氏の主観的な推論、憶測」というような、紋切り型の反射的な「負け惜しみ」(‘quid pro quo’)の老媼の繰り言を繰り返すばかりだ。
カ氏は、「現実」ということ、突き詰めてえば言えば、現実という「事態を成立させる構造」ということをまともに考えたことがないのだろう。「無学」だから無理もないが、カ氏の主張していることは、「現実というのは現実のことだ」式のトートロジーの自家撞着の論理にすぎない。
アエリアヌスの伝えるところでは、ソクラテスの弟子で極端な実感志向派の感覚(αἴσθησις)至上主義者であるキュニコス学派(所謂「犬儒派」)の哲学者アリスティッポス(Ἀρίστιππος=c. 435~350BC)の言葉が伝えられていて、カ氏のことが頭に浮かんだ。
畢竟、理屈(λόγος)を離れて、人は現に何かを為したり、考えたりしたその時、その場のこと=体験がすべてというに等しい、原始人の感性である。
実感信仰は結局は刹那主義に行き着く。それに耐えられるのは解脱した達人または宗教の類で、彼らの心の清朗さ(εὐθυμία)は俗塵にまみれている身には頼もしくも思えるが、心の平静(ἀταραξία)を保つにも達人芸を要する。幸福は心の自足(αὐταρκή)にあると説いて、実態は生の必然(ἀνάγκη)に拘束されること必定で、結局は文明を否定した動物(ζῷον)の生と選ぶところない。その覚悟を欠いた世俗の衆生が盲信するのは、禅坊主の生悟りに似て、滑稽だし思想的自殺に等しい。ストア派並みの無感動(ἀπαθής)は俗世の格率とは為し難い。
アリスティッポスの所謂「現実主義」というのは、個々の行為や経験的事実にのみ即してものごとの真実や人生の目的を考える立場で、体験主義を徹底するなら、むしろ余計な先入見としてのゲーテ・ヴァイルゼッカー」信仰のような余計な原則は捨てた方が首尾一貫していることになる道理だが、カ氏の頭脳は理論的にはできていないようで、それらは例外となり、硬直した(ακληρότης)世界観、人生観の基本になっていることに自覚的でないようだ。つまり、盲目なのである。
「文学至上主義」の「甘ちゃん」だから致し方ないが、これほど思考の柔軟性(μαλακός)を欠いた、硬直的な心性も珍しい。
頑迷(δυστράπελος)で度し難いのは、齢70近くにしては早すぎるが、「老害」(γῆρας)なのだろう。
だから、頭に蜘蛛の巣が張ったような悲惨な思考しか適わず、ゲーテやヴァイツゼッカー程度の盛名(κλέος)を理由に無批判に寄りかかっているから、カ氏程度の凡庸な知性(νοῦς)の人物にも容易に読めて、理解にもさほど苦労を要しない安直な境地に自足できるのだろう。
面倒なことが起きれば、数では多数派(οἱ πολλοί)なのを頼みに、「事大主義」丸出しの、無邪気で凡庸な「庶民感覚」に根差す無批判な信仰に、つまり自前の(αὐτός)思考=自分が自らの主人(δεσπότης)であることを放棄した、奴隷(δοῦλος)の思考、即ち思想的な奴隷根性に甘んじていられる。自由で(ἐλευθερία)徹底した思考である哲学など関心がないはずで、カ氏には無縁である所以だ。
にもかかわらず、一知半解で誤謬だらけのソクラテスの精神(ψυχή)を語る。大した糞度胸だが、その反面、ゲーテやヴァイツゼッカーの内実を徹底的に考え抜く精神は微塵もなく、愚にもつかない民衆の支持、多数派の支持と曰くありげな権威、実体は単なる「常識」という名の通念(ἐπιλογισμός)に縛られ、それを抜本的に検討する知性も矜持(μεγαλοψυχία)も欠けているから、ただひれ伏している阿諛、追従(κολακεία)に終始する滑稽さは既説の通りだ。
能天気にご大層なことを宣っている割には、年齢相応の「大度」(μεγαλοπρεπής)を欠き、激昂しやすく(ὀργιλότης)、卑屈(μικροψυχία)な印象さえ受けるのは、そのためかもしれない。
畢竟、矜持といい、高邁さ(μεγαλοπρεπής)、デカルトの説いた高邁な心(généiosité)といい、鷹揚(恬淡=ἐλευθεριότης)にしても、すべては寛闊な心もちがもてるか否かの問題だ。
そこにある悪意(κακοήθεια)と憤怒(ὀργή)は、知性と教養ある文明人の作法とは言い難く、歴史上の厄介者である蛮族(βάρβαροι)ゲルマン民族の末裔ドイツ人(民族)の故国を「第二の祖国」とする御仁だから、留学生時代に世話になった恩義と思い出を、後生大事に抱えて生きてきたのだろう。
「吝ん坊根性」(φειδωλία)とでもいうのだろうか、ケチ臭い親切ごかしの(φιλανθρωπία προσποίητος)、本来の自発的な親切心とは違った老人の妄説など実に他愛がなく、陳腐(βαναυσία)で退屈以外の何物ものでもないが、投稿を偽装した「一人芝居」だから、冷ややかに観察(θεώρημα)すればいいだけかもしれない。
盛んにその知名度(‘berühmt’)を頼りに‘Goethe Insttitut’を揚言するが、無邪気で単純な凡庸な素人相手には相応な命名なのだろう。間違っても‘Adorno Insttitut’になることはあるまい。一般民衆のヤワな、ある意味懦弱な(μαλακία)精神には、アドルノの仮借なき弁証は耐え難いからだ。要は幼稚園児並みの粗雑な「陳腐な人」(βαναυσος=カ氏第三の形飾詞)には、ゲーテの冠が似合いで、「私の留学当時、ギリシャはトルコと並んで、Gastarbeiter(所謂「出稼ぎ(外国人)労働者」=筆者註)…輸出国」のような、自覚されざるカ氏の田舎者根性丸出しの歪んだ‘ethnocentrism’(文化的自民族中心主義)が図らずも透けて見えるのはみえ易い道理だろう。
60末尾の「母国語が日本語なのに、ドイツ語を主観的に判断…独善的な異常な自信」も御挨拶で、言語学の初歩的知識。民衆レベルのカ氏には無理でも、だから「無学」なのだが――「常識」程度の学識だろう。
その程度の認識もないのに居丈高に「無学」に居直っているカ氏の方が、よほど「異形」だろう。[完]
やはり、外国で生活をすると、普通の人は、自国に興味もわくし、自国の文化のよさがわかるが、同時に、国際協調の大切さもわかる。その結果、この二人は、知性と教養のあるドイツの民衆の支持を永続的に得られているのであって、メデイア戦略で一時的に民衆の支持を得たヒトラーやゲッペルスとは違う。ワイツゼッカー氏は、ヒトラー・ゲッペルスの政治手法を、「大衆の狂乱」を利用して、と述べられているが、例えば、日本における岸政権の時の「反日米安保」闘争にしろ、また登場させて恐縮であるが、田原総一朗氏は、日米安保条約を読んで、中身を読んで反対した訳ではない、と述べられていた。ただ、戦犯「岸」が、また日本人を戦争させようとして画策した条約である、と信じて運動に参加した、と。大学紛争の時にしろ、中学生であった私は、シュプレヒコールはよくわかり、大学をよくするためにしている、ということまでは予想がついたが、具体的になにを要求しているのか、まるでわからなかった。要するに、これを画策している人、というのは、「大衆の狂乱」を利用して、自分たちの政治的な主張が「あたかも真実のよう」にみせ、マスコミがそれに協力するから、人々は、それに騙されてしまうのである。「鬼畜米英」がいい例である。普通の日本人は、英米を知らないから、その戦略に騙されてしまったのである。反氏の主張も同じ、ゲーテやヴァイツゼッカーを知らない人が多いと、反氏の主張に騙されてしまう。
この法律で顕著なように。アメリカは、歴史的に無制限に移民を受け入れている国ではないのである。その結果どうなったか、を加味して、「トランプーマチス」に代表されるこの問題を考えなければならないのではないのだろうか?
何を今さらという冗語⇒無意味なおしゃべり(ἀδολεσχεῖν)で、「長い間ドイツ文化を勉強し、ドイツ文化の神髄を知る年長者のつとめ」(9月14日・23)とか、「50年間近くドイツ文化に慣れ親しんだ。…「継続は力なり」」(9月1日・18)のように臆面もなく宣っていた威勢のよさはどこにいったのか、笑止である。
個々の指摘には具体的な根拠(τὸ διότι)はほとんど示さず、「反論」(ἔνστασις)にも何にもならない「論争」(ἀντιλογοία)の偽装めいた見当違いな冗語を、しかも相手の立論をコピペで並べて、【「…は本当だろうか」】式に鸚鵡返しするばかり。
「無学」(ἀπαιδευσία)の侮りを受けて怒り心頭、いつまでも恥辱(λοιδόρημα)の記憶(μνήμη)を忘却(λήθη)しがたく、知的な虚栄(χαυνότης)、つまり救いようのない俗物根性(‘Philistertum’)から意趣返し(ἀντιπεπονθός)を試みて果たさず、報復(τιμωρία)の意思は止み難いものの、悲観(δυσελπιστία)してそろそろ厭戦気分でも出てきたのか、強情っぱり(ἰοχυρογνώμων)の割には、だらしない(τρυφή)話だ。
如何にも我儘で身勝手な「元お嬢様」らしく、意のままに(ἐπ’ αὐτῷ, ἐφ’ ἡμῖν)にならないと、焦慮を募らせる鬱屈した人物(ὁ μελαγχορικός)にありがちな怒りっぽさ(ὀργιλότης)と気難しさ(χαλεπότης)からくる激情(θυμός)が透けて見えて見苦しい。
自ら好むこと(τὸ ἑκούσιον)=「ドイツ文化」、とりわけゲーテ、ヴァイツゼッカー、自ら好まざること(τὸ ἀκούσιον)=同じドイツでもトーマス・マン、ニーチェ、アドルノ等とを「峻別」して、恣意的で、なりふり構わぬ(ἀκολασία)「パトス」の論理で、激情(θυμός)をぶつける、デマゴーグさながらの左翼批判、メディア批判の浅ましい「悲憤慷慨」を繰り広げる。年寄りじみた(πρεσβυτικοί)繰り言さながらで、醜悪(αἰσχρός)このうえない。
しかし、それもいい。遠慮することもない。主張は自由だからだ。ただし、反証可能な事実と具体的論拠を提示した立論の結果であれば、ということだ。つまり、ありとあらゆる批判も、理の当然として甘受しなくてはならない、ということだ。カ氏にその覚悟(πίστις)と自覚はないようだ。
児戯に等しいその内実を窺えば、単なる見栄っぱり(ἀλαζών)の、ある種、「虚栄の人」(χαῦνος)で、極端な自己愛(φιλαυτος)の強さと、『論語』を云々する割には、齢70歳近くに相応しい戒めと規矩(ὅ ρος=「七十而從心所欲、不踰矩」=『論語』為政第二)の欠片もない体たらくで、とても節度ある人(σώφρων)ではないどころか、高慢な人物(ὑπερόπτης)ということだ。
「常識」という名の、批判や検証(πεῖρα)されない「通念」(ἐπιλογισμός)への妄執(πικρία)と、それに基づく盲信=信仰があっても、本当の意味での良識(εὐγνωμοσύνη)も廉恥(αίδώς)もないから、不作法(ἐπαριστερότης)で、軽率(ῥᾷθυμία)この上ない。
学問的議論においてより深刻なのは、論理的な不正(ἀδικία)である論点先取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)の詐術的議論だ。正当な推論(συλλογισμός)などお構いなしの持ち前の(ἕξις)甘えと暴慢さ(ὕβρις)で、精神(ψυχή)の柔軟さ(ὑγρότης)、しなやかさ(μαλακός)を欠いた教条的思考で、気儘にものごとを裁断(κρίσιν=裁定)する。あたかも、神々の争いと裁き(‘ἔριν τε καὶ κρίσιν διὰ’)のように。
カ氏は、真実を愛する人(φιλαληθής)などではなく、自己愛の強い「無学な人」だから、一連の投稿行動やスタイルを観察していると、ケチ臭い(κιμβικία)、下劣(ταπεινότης)な根性で議論を組み立てており、狂態は目に余る。見かけ倒しの(προσποίησις)、さもしい人物(ἀνελεύθερος)でもあるようだ。
自己抑制(ἐγκράτεια)も慎み(κόσμιότης)も知らないかのようで、衝動(ὁρμή)の凄まじさは、抑制のない人(ἀκαρτής)であると同時に、学を好み(φιλεῖν)楽しむ心の余裕(σχολή)がないからだろう。稚拙で一種「狂信的」な議論は、芸術と政治とを同一次元で論じて疑わない単純な心性と相まって、精神の幼児性を物語っている。
西独留学に限らず、素朴な直接経験(περιπτωσις)を愚直に信奉する経験論者(ἐμπειρικός)のようである。執着(πικρία)は人間の本性で驚くことはないが、カ氏は堪え性(κατερία)がない、ある種の自覚されざる「虚飾の人」(χαῦνος)だ。
それが72のような愚痴につながっているのだとすれば、憐れみ(ἔλεος)を覚えないでもないが、須らく身から出たサビだろう。
どっちつかず(ἀνανδρία)の中途半端な背伸びはやめて、もっと質実な議論を心掛けたらいい。他を非難(φόγοης)、批判するより、まずは自分に厳しくあることが、第一歩だ。癇癪(χαλεπότης)を募らせても仕方がない。
経験(ἐμπειρία)や感覚器官(αἰθητήριον)を通じて得た素朴な実感=感覚(αἴσθησις)に基づく表象(φαντασία)の知覚(ἀντίληψις)は、不断に生成変化(μεταβάλλειν)して止まることを知らない「現実」(τὸ γιγνόμενον)、つまりそこで主観=我々が「出会うもの」(τυγχάνον⇒実在物、もの)や「事態」としての「これなるあるもの」(τὸ τόδε τι⇒「…であること」)=「個々のもの」(τὰ καθ’ ἕκαστον)⇒「現にあるもの」(παρὸν πάθος)という意味での存在(τὸ ὄν=τὸ εἶναι⇒「ある」、「あるもの」)の「現れ」(φαινόμενον=現象)を通して生成し、「感覚されるもの(τὸ αἰσθητόν)として我々に「認識可能な」(ἐπιστητόν)「現実」(τὸ γιγνόμενον)となる。
従って、刹那的な現在(παρουσία)=仮象(ὑποθεσις)を実体(οὐσία⇒「それが何であるか」[τὸ τι ἐστι])または真実(τὸ ἀληθές)と勘違いすることは、世の実感主義者、即ち素朴な「実在論者」が陥りやすい愚昧(ἀπροσύνη)で、そこにはあるのは「現実」などではない。
我々は、経験(ἐμπειρία)を通じて現象の背後に潜む本質(τὸ τί ἦν εἶινι)を把握(καταλαμβάνω)しなくてはならず、その検証を怠ることは迷蒙(δόξα)に行き着く。
そして、こうした、「現実の構造」(ἔργον γιγνόμενον)を徹底的に思考する(διανοια)ことこそ、哲学の本来の役割となる。
自ら好むこと(τὸ ἑκούσιον)を真実と盲信し、好まざること(τὸ ἀκούσιον)に目を塞ぐ愚もまた同じだ。人は好謙を越えて現実に向き合わなくてはならない。
肯定(κατάφασις)、否定(ἀπόφασις)のいずれも、経験を精細に分析(ἀνάλυσις)して総合(συναγωγή)するしかない。命題(πρότασις)の論理的含意(ἔμφασις)を明晰に理解し、本質(τὸ τί ἦν εἶινι)を把握(καταλαμβάνω)=認識する作業となる。
前提(λῆμμα)から帰結(ἑπόμενον)、即ち結論(συμπέρασμα)に至る過程で、「真実」を見極めることは、「偽なるもの」(ψεῦδος)と「真なるもの」(ἀληθες)との峻別しかない。矛盾(ἀντίφασις)と逆説(ἄδοξον)、つまり難問(ἀπορία)を通じてものごとを厳密に(ἀκριβῶς)思考することが要求されるから、一定の訓練を要することは言うまでもない。
そしてこの困難こそが、純粋に学問的な仕事、就中その精髄をなす哲学的思考をして、他の実用的な学問、技術や行為と比べて特に人間的な「自由」(ἐλευθερία)と密接にかかわる知的営為(πρᾶξις)とする理由であって、観念の遊戯(παιδειίά)と揶揄される無駄話にもみえる議論が、逆にあらゆる先入見や通念を突破して、ものごとの本質に迫る根源的な活動(ἐνέργεία)として究極的に要請される所以(τὸ διότι)だ。
自由といい、戦争(πόλεμος)と平和(εἰρήνη)といい、すべて人間の所業の顕現であって、自由と平和は時に衝突すること、正義(δικαιοσύνη)と善(ἀγαθόν)が異なる位相で人間の行為を規定しているのと同じだ。
哲学は、凡庸なカ氏が軽率にも勘違いするような、「常識を難しい言葉で表現しただけ」の閑人の遊戯などではなく、厳密な思考を通じて、あらゆる課題の根底に潜む、自覚されざる「問題の構造」を読み解く精神(ψυχή)の活動として、人間的な自由の基礎条件(ᾧν οὐκ ἄνευ)となり、人間存在の桎梏を見定める不可欠の営為となる。
以上の点に照らせば、【ドイツ文化対古代ギリシャ文化】のような仮象の問題、即ち虚偽の問題はそもそも成立せず、ゲーテとヴァイツゼッカーをめぐる私とカ氏の対立も、西洋文明に対する根本的で広範な規制力の点で、ドイツの二人は所詮は特殊ドイツ的な存在に止まるから、副次的でしかない。
仮象の問題を揚言することは、極端なドイツ贔屓、「ドイツ教(狂)」信者の自意識過剰の幻想であって、畢竟、その根底にあるのは西洋文明全体に対する、カ氏の極めて皮相かつ貧弱な知識と歪んだ学問観、つまり「無学」にあることは言うまでもない。
古代ギリシアの代表的なソフィスト、プロタゴラス(Πρωταγόρας)は次のような著名な命題を残した。即ち、精神の自由(‘liberté d’esprit’)以外に何ものも存在しないの謂いである。
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあることの、あらぬものについてはあらぬことの」(“πάντων χρηηάτων μέτρον” ἄνθρωπον εἶναι, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστι, “τῶν δὲ μὴ ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν.”=Theaet. 152A)[完]
☆余白に
本年の投稿は本日をもって、終了する。篠田さんのこの一年のご努力を多としたい。自由で闊達な精神こそ肝要と、微力を尽くした。来年が各位にとり佳き年となるよう祈りたい。
反氏登場以来は、私が長年ドイツ文化を勉強してきて、常識だと思っていること、を否定され、不毛な論戦になった。例えば、中世は神聖ローマ帝国の一員で、ラテン語で著述することがドイツの教養人の嗜みであったものが、ルターが、聖書をドイツ語に訳したことによって、ドイツ語を使って自分たちの文化を作り出すという流れとなり、その代表者ゲーテである、ということは、真実なのに、私が無学故、そう信じ込んでしまっている、或いはその邪説をこのコメント欄を使って広めている、かのように吹聴され、反論せずにはいられなかった。
今年も、海被の夢に誘われながら、神戸で新年を迎えるます。
皆様の新年のご多幸をお祈りします、
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。