1月に米朝会談が2月末に開催されることが決まった際、「3・1独立運動100周年に備えよ」という題名のブログを書いた。http://agora-web.jp/archives/2036796.html 大人の対応を心がけながら、韓国発の「物語」の拡散に警戒せよ、という内容だったが、事なきを得て、3・1が終わったのは、良かった。
直前の米朝会談が物別れに終わったことが大きい。米朝会談前の文大統領による「親日清算」発言はあったが、3・1当日の文大統領の発言は、穏便なものにとどまった。反日を基調にして、朝鮮半島の未来を語るという目論見は、米朝会談が不調に終わったところで、軌道修正を強いられていると見てよいだろう。安倍首相陰謀論まで出ているそうだが、https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190303-00000005-cnippou-kr 日本としては、淡々と朝鮮半島の非核化を願う姿勢を強調すればよい。
昨年6月の米朝会談で、「CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)」と「体制保証」を「取引(Deal)」するという方向性が示された際、中身がないという酷評が多かったように思う。私の論調程度でもhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/56108 、トランプに好意的なものに見えるくらいだった。米韓合同軍事演習の中止という措置を見て、米国が譲歩し過ぎではないか、とする論者もいた。そもそもアメリカの大統領が北朝鮮の最高指導者と直接会談すること自体の妥当性を問う手続き論的な意見もあった。
トランプ流で「取引」交渉が進んでいることは、間違いない。非伝統的なやり方だろう。しかし、制裁解除せずに、北朝鮮の核実験やミサイル実験を止めているのだから、交渉がアメリカ不利に進んでいる、などと言うことはできない。危機の高まりを抑えながら、交渉には臨むという姿勢は、日本にとっても、利益がある。
これまでの安倍外交には安定感がある。国際政治学者の間でも、おおむね好意的な見方が多いと思う。ただし、最近の北方領土交渉は、空回りしている。大局的な視野からの計算の甘さがあった、と指摘せざるをえない事態になっている。3期目の安倍外交に新しい案件での得点を狙う焦りがそこにあるとしたら、心配だ。
「戦後日本外交の総決算」http://agora-web.jp/archives/2036498.html は焦って個別事案に精力を注ぐだけでは、達成されない。北朝鮮問題も同じだ。もちろん拉致問題の解決は至上命題だが、北朝鮮への譲歩は禁物だ。「体制保証」それ自体がまだ「取引」中である。大局的な視点から流れを踏まえて見通しを立てることを、忘れないでいただきたい。
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「日韓関係」のとげになっている「歴史認識」問題も、あれだけ、「歪な韓国の歴史認識」が正しい、と主張するコメンテーターが日本のテレビで大活躍している以上、まず先に「日韓の歴史認識論議」を日本国内のテレビでしていただいたらどうか、と思う。例えば、昨日のTBSのサンデーモーニングで、青木理さんが、安倍首相の歴史観は、「歴史修正主義」だと主張したそうであるが、どこが歴史修正主義なのか、はっきりさせる番組をしてほしい。「安倍首相が歴史修正主義者だ」、と主張されておられる野党の政治家も多いし、参議院選挙も近いから、一石二鳥ではないだろうか?
というのも、私は、安倍首相の「70年談話」で示された歴史認識を、終戦後40年後に行われたワイツゼッカー演説の「ドイツについての歴史認識」と同じように、すばらしいものと考えているからである。特に、明治以来の「極東アジアの国」日本という国の歴史が事実を元に、誠実に描かれているし、未来への指針になっているからである。
世界恐慌以来、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。・・満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
という部分は、日本国憲法を作った先人が、志向したように、天然資源をもたない我々日本人が、なぜ「国際協調主義」をめざさなければならないか、という理由でもあるし、現在の北朝鮮に対する教訓にもなっているからである。
「ドイツの歴史認識」を含めて、これだけやりあっても、「すべてが」反氏とはまるで折り合わないことから考えて、日本国内でも、「双方が納得すること」はないとは思うが、少なくとも、そのテレビを見た視聴者は、風評に流された洗脳ではなく、議論をふまえて、いろいろ自分で調べたり、考えたりするのではないか、と思う。
韓国の「文在寅政権の悲願」とは違って、北朝鮮への経済制裁が解除されないのは、物資が軍事利用される危険、核開発に使われる危険があり、貴重な外貨も、民政ではなくて、核を含む軍事に転用されるせいである。戦前日本が「国際連盟」を脱退したのち、ABCDに課された、「経済封鎖」と同じである。
私は、核技術「すべて反対」ではないので、原子力の平和利用に興味があって、IAEAの翻訳のアルバイトをしたことがあるが、日本が1935年国際連盟を脱退したように、1994年北朝鮮がこの国際原子力機関を脱退したことが、国際社会に北朝鮮の不信感を醸造している一番の原因なのだから、その履行を国際社会が北朝鮮に求めていくのが、一番いい、と考える。
例えば、李教授は、アメリカを信頼できなかったから、北朝鮮はトランプ大統領の提案に乗れなかった、などと主張されるが、国際社会は、北朝鮮の政治体制を信頼していないから、国連で決議して、経済制裁をかけている、という現実がまるで無視されている。また、それに反論する参加者もいない。また、あたかも米国大統領が、米国の選挙対策の為、あるいは、コーエン証言にぶち切れて、北朝鮮のまともな提案をぶち壊したような主張がまかりとおるが、北朝鮮の提案を米国大統領がのんだら、困るのは、「核兵器の攻撃の脅威」にさらされる日本国民であって、米国民ではない、という理解が日本のマスコミの人にはまるでない。
米国民には、その脅威がないから、この会談にあまり興味を示さなかったのではなかったのだろうか?
ドイツの歴史家が、ヒトラーは政権を取ったのち、明らかに戦争の準備をしながら、ヒトラーは平和を口にしていた、そうでなければ、あれほどの多額の費用を軍備にかけない、と解説したが、北朝鮮の金日恩のしていることも、それと同じだと思う。また、もし、核兵器を抑止力として考えているとしても、米国の戦力との格段の開きがある以上、その兵器は、人類、韓国や日本の国民にはこの上もない惨事を与えるが、北朝鮮の体制を保証することにはならない。
シンガポール会談の「CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)」と「体制保証」の延長線上に、「独裁国家」北朝鮮の金日恩に対して、アメリカ大統領のトランプ提案があったのであって、どうして、その米国大統領の真意が、日本のマスコミの高名なコメンテーターに理解されないのか、同調されないのか、はかり知れない。本来は、そのような世論を、平和構築の為に、戦争を回避するために、日本のマスコミが発信しなければならないのではないのだろうか?
本来「民主主義のよさ」は、そう国民が感じたら、「暴力革命」ではなくて、「選挙」によって、政府を変えることができる、ということで、それが、「社会主義国家」である北朝鮮と決定的な差、だと私は思う。
「民主主義に内在する危険」、というのは、「嘘」を組み込みながら、巧みに作りあげられた、感情に訴える「世論誘導」に有権者が騙されるということなのではないのだろうか?Brexitにも、東京の「築地移転問題」にも、それを感じた。
核をもたないドイツは、ロシアの脅威に備えて、トランプ氏の要求に従って、NATOへの防衛予算を上乗せした。そういうニュースを日本国民が知っていて、野党とマスコミの煽る「日本国憲法9条改正」、「辺野古移設」を「反対」しているのならいい。そうではないのではないか。私は、「死ぬのは嫌だ、人命は何より重い、自分や家族だけは助かりたい」直接死ぬことや、死に巻き込まれる可能性が最も大きい「戦争は悪」という感覚は、極めてまともなものだと思う。だからこそ、安倍首相は、「自衛隊員」を日本国憲法上で評価してあげたいのだし、「平和」を構築する努力が生まれるのである。
「国会中継」でも、県民投票の結果をふまえないのは、民主主義ではない、と立憲民主党の議員が力説されているが、外交と防衛は、国が決めるのではないのだろうか?米朝会談が北朝鮮の非核化で終結して、めでたしめでたし、になったのではない以上、その対策も「物別れの後始末」、に入るのであって、糾弾と批判だけに終始している日本の野党の政治家は、いったいなにを考えているのか、国民の代表者としての「責任を果たしているのか」、と思う。
朝鮮戦争は、確かに中国軍が主に戦ったが、金日成という人は、ソ連で教育を受けた人だし、ソ連、スターリンの了承を得て、南進をした、つまり、1950年に朝鮮戦争を始めたのは、北なのだし、米軍は、まさか北が攻めてくると思わないから、釜山までが戦場に化したのである。文在寅さんや韓国国民は、すべての悪行を「日本」のせいにするが、その史実がわかっておられるのだろうか?その戦争でどれだけの朝鮮人犠牲者が出たのだろう。
ソ連によるベルリン封鎖も1948年8月に起こっている。
つまり、この二つの出来事を機に、西ヨーロッパではソ連の危険性が現実感をもち、ナチスドイツの過去をもつドイツへの脅威よりも、ソ連に対する警戒感が増したから、西ドイツに集団的自衛権を与えるNATOによる集団安全保障の重要性が認識され、鉄のカーテンができたのである。
「中国」は、北朝鮮のように先軍政治の国ではない。民生部門にも力を入れたバランスの取れた国である。レーガン大統領の時、経済の覇権争いで、米国が日本に対する脅威をもったように、軍事大国でもある中国は米国にとってそれ以上の脅威があり、対抗心をもつのはわかるが、地理的に近い「日本」は大国中国を敵国にする必要はないのではないのだろうか?日本と中国は、歴史的にも文化的にも、近い。また、中国は、3000年の歴史をもつ国である。
私は、北朝鮮が追い詰められて戦前の日本のように戦争に訴える、と考えないように、やはりここは、中国を巻き込んだ、(できればロシアも)「国際協調」をして、物別れに終わった米朝会談の後始末をすることが、「平和への道」だと考える。
まずは、無学(ἀπαιδευσία)で、「横着者」(ὁ ἀργία)かつ横柄な人物(ὁ αὐθάδης)による、初歩的で致命的な(θανάσμος)誤謬。
7⇒【松岡るいさんが、アゴラの】⇒⇒「松川るい」という外務官僚出身の自民党参院議員なら知っているが…。
6⇒【北朝鮮が国連制裁をもろともせず】⇒⇒「もの」ともせず、の誤りだろう。神経が行き届いていないうえに、言語感覚が粗雑(συμφός)だから、よく間違う(ἁμαρτάνω)。措辞が幼稚なのもよく分かる。
9⇒【ソ連によるベルリン封鎖も1948年8月に起こっている】⇒⇒1948年6月24日、ソ連がベルリン西側管理地区の間の陸上交通を全面遮断、それを受け2日後の26日に西側諸国による大空輸作戦が開始される。翌49年5月5日まで続くのが、所謂「ベルリン封鎖」。それにしても、性懲りもなく(μαλακός)何度でも何度でも、間違える。
本日6日の初公判で虚言の限りを弄した「森友問題」の主役さながら、論過=虚偽推理(παραλογισμός)の常習者、言論の詐欺師(φέναξ)の醜悪な戯言だ。
1⇒【「歪な韓国の歴史認識」…青木理…が、安倍首相の歴史観は、「歴史修正主義」…安倍首相の「70年談話」…終戦後40年…ワイツゼッカー演説…と同じように、すばらしい】⇒⇒ドイツの保守派の「歴史修正主義」を容認している、同じ人物の発言とも思えない、ご都合主義。「ドイツ狂」の身贔屓(καταχαρίζομαι)につける薬はない。「ヴァイツゼッカー演説と同じ」と褒められても、安倍首相自身が迷惑だろう。
安倍氏の真意は大方、祖父岸信介の辞世の句、「名にかえてこのみいくさ(御戦)の正しさを来世までも語り残さむ」とそれほど異なるまい。
岸の見解は先の大戦を正当化するものとして、危険視されるだろう。
伊藤は朝鮮を信用するほど、愚鈍ではないだけの話。伊藤による「朝鮮王朝解体」は、後戻りができないよう時間をかけて周到かつ執拗で、植民地支配以上の朝鮮の「日本化」の先鞭をつけている。「協約」が具体的にどのような状況で締結されたかを知らないから、戯けた妄言が尽きない。
3⇒【「ドイツの歴史認識」を含めて、これだけやりあっても、「すべてが」反氏とはまるで折り合わない】⇒⇒嫌悪すべき(μισητός)「似而非反論」(ψευδομαρτυρία)も問題だが、カ氏が基礎的知識があまりに欠落しており、それに寄りかかった愚にもつかない低俗で冗長(παρολκή)な素人論議(τὸ ιδιωτικόν)が過ぎるから、それを具体的に論証するために他の「もの分かりのよい」(εὐσύνετος)賢明な(ἔμφρων)御仁なら無用な(ἄχρηστον)贅言を要しているだけで、「これだけやりあっても…」のような虚勢(ἀλαζονεία)は笑止な(καταγέλαστος)話。
厚顔無恥(ἀναισχυντία=‘Unverschämtheit’)もここまでくると、病気(νόσος)で畢竟、魂の欠陥(κακία)。
3②⇒「現在の韓国の歪な歴史観」を嗤えない。それにつけても、李氏朝鮮の仏教弾圧について知らなかったくらいだから、無知は底なしだ。
4⇒【北の「IAEAへの復帰」と「経済制裁の一部解除」、がセットになれば、一番いい】⇒⇒北朝鮮と、国際原子力機関(IAEA)に最初から加盟せず、その枠外での事実上の核保有国であるインド、パキスタンとは、根本的に異なるし、核保有の動機が全く異なる。インド、パキスタン両国は相互牽制のためだし、両国ともイスラエルに敵対していない(インドは中国牽制の意図はあろうが)。
北朝鮮はIAEAから脱退して、核開発を行い、事実上の核保有国になった最初の国で、核不拡散体制への公然たる挑戦者。国連制裁の対象になるのは当然で、それを許せば、北朝鮮を国際的政治交渉の「カード」に使える中国には一面、都合がよいかもしれないが、NPT体制を揺るがす。
北朝鮮の「巨僚」(政治的実権をもつ官僚を朝鮮王朝ではそう表現する)は、あくまで国益と体制存続しか眼中にないから、国際社会での「信頼感を醸造」のために復帰を選ばない。この点でもカ氏の「政治音痴」は「比類がない」。
何の脅威もない欧州各国は、フランスなど一部を除き、北朝鮮との外交関係は揺らいでいない。欧州の危機意識は、特に民衆のそれは当然ながら驚くほど低い。報道は高見の見物。
5⇒【李柄輝…は、北朝鮮のスポークスマン】⇒⇒李氏は在日朝鮮人三世であり、朝鮮総連の意向も強く反映した朝鮮大学校准教授なのだから、「スポークスマン、としか考えられない」ではなくて、北朝鮮の代弁者であっても、何ら不思議はない。カ氏の評言は「言わずもがな」の無駄口の典型。
国益を損ねない範囲で、時に「提案をぶち壊した」もする。カ氏の観察は単純で軽率だから現実の政治がまるで認識できない。その不満をコメントや識者のコメンテーターにぶつけても仕方がない。
5③⇒【「核兵器の攻撃の脅威」にさらされる日本国民】⇒⇒素人の妄想。北朝鮮はカ氏と同じ精神構造で、過激な言辞で「与太話」をぶち上げるのが習性。
9⇒【バノンさんが、トランプ大統領の選挙参謀であったのなら、ロシア疑惑とも無縁でないのではないか】⇒⇒単なる感覚(αἴσθησις)、漠然とした知覚(ἀντίληψις)に寄りかかった主観的な臆測(ψευδὴς δόξα)の典型。現実的に(κατὰ ἐνέργειαν)考える(διανοεῖσθαι)と意気込んでも、浅慮な「政治音痴」だから見当違いだということが、よく分かる。
9②⇒【朝鮮戦争は、確かに中国軍が主に戦ったが、金日成という人は、ソ連で教育を受けた人だし、ソ連、スターリンの了承を得て、南進】⇒⇒ソ連崩壊後にロシアで相次いだ新資料によっても明確にならない部分が多いが、少なくともスターリンは、武力統一にはやる金日成を諫め、武力侵攻に慎重姿勢を示していたことが、フルシチョフの証言などでも明らかになっている。
スターリンの賛同が得られぬまま(結局は黙認し、追認する)、金日成が独断で強行したことはほぼ間違いなく、毛沢東も当初はかなり冷淡だった。
9③⇒【文在寅…韓国国民は、すべての悪行を「日本」のせいにする…その史実がわかって】⇒⇒カ氏よりは知っているだろう。日本に対する反感は、植民地統治をして朝鮮の日本化を推し進めたうえに、無謀な戦争によって負け、朝鮮を放り出して「空白地帯」になった朝鮮半島が米英仏とソ連の分断統治になり、挙げ句の果てに「開放」五年後で再び戦火に巻き込まれた遠因をつくった日本に対する恨みだろう。
戦争の罪過(ἁμάρτημα)を償うべき日本が、ドイツのように分断もされず、それどころか「朝鮮戦争特需」でいち早く復興を遂げた一連の「遠因をつくった」ことは事実だからだ。
日本は「面倒見の悪い、身勝手な帝国」だった、ということだ。日本が北海道をソ連、他を米英仏に分割統治されていたら、という程度の想像力もない知性(νοῦς)の貧困(πενία)にうんざりする。
10⇒【「中国」は、北朝鮮のように先軍政治の国ではない。民生部門にも力を入れたバランスの取れた国】⇒⇒インターネットで「天安門事件」が検索できないような、中国共産党という世界最大の政党=政治結社が国家の上位にあってあらゆる権力を独占する体制が、豊富な人材資源と合弁企業のからくりによる強制的技術移転で経済発展をしても、「バランスの取れた国」といった強弁(τὸν κρείττω ποιεῖν)を隠そうともしない。
真実など全く無関心(ἀμέλεια)な、嫌悪すべき老「デマゴーグ」の面目躍如で、厚かましい(ἀναισχύντως)こと、このうえない。
「歴史的にも文化的にも、近い」ようで、無視できない異質な要素が多すぎる。カ氏のような「無学ゆえの」(δι’ ἀπαιδευσίαν)の妄説(ἀλλοδοξία)⇒‘Karoline Doctrine’は、「ままごと投稿」だけに止めておいたらよい。
最後に、1⇒【このブログを読んで、意見が近いのでほっと…安倍外交には安定感…国際政治学者の間でも、おおむね好意的な見方…ということを知って、嬉しく】⇒⇒自分の無知を棚に上げたとんだ思い違い(ἑτεροδοξία)で、何と単純(ἁπλοῦς)なのだろう。
言説(λόγοι=discours)における真偽(ἀληθής καὶ ψεῦδος)や、説得力(τὸ πιστικός)における優劣(εὐσχημοσύνη κὰι ἀσχημοσύνη)は、「だれが言ったか」ではなく、「何が言われたか」、つまり意味する(σημαίνειν)ものの客観的妥当性(Objektivegültigkeit)がすべて。篠田さんという個人は関係ない。
私は殺伐非情の論理主義者だが、少しでも自分の頭で考える気概(θυμός)と矜持(μεγαλοψυχία)があるなら、篠田さんにむやみに追従したり(κολακεύω)、さながらヴァイツゼカー演説の操り人形(θαῦμα)ような醜態は改めたらよい。
カ氏の狂信的な(μανικός)独善(λῆμμα)こそ、自由な(ἐλευθέριος)議論の対極(διάμετρος)にある低俗(φαῦλος)かつ不寛容さ(ἀνελευθερία)、偏狭さ(ακληρότης)の極致で、それこそ篠田さんも嫌悪する(μισεῖν)だろう。[完]
篠田英朗さんが、ブログで敬意をもって取り上げられた国際大学の学長でもありワイツゼッカー演説の検索をかけて見つけた映像だったので、「国際政治学者」である彼のような方が、「ワイツゼッカー演説をどのように評価されているか」、に興味があったからである。反氏にまた、「無学」と評されるのかもしれないが、そのヴィデオで、北岡教授は、「70年安倍談話」をまとめられた「21世紀懇談会」の座長であることを知った。そして、北岡教授の問題意識は、私と近かった。「村山談話」のように、ただ植民地支配を隣国に謝るだけではなくて、「歴史」を学んで、どこに日本の外交の問題点があったのか、を知ることが大切である、と話された。そして、それは、やはり、「満州事変からの力の政治」であるが、世界経済恐慌がなければ、日本をおそらく、戦争をしなかっただろう、と結論づけておられた。ドイツのドキュメンタリー番組でも、経済恐慌がなければ、ドイツ国民は、ナチスを政権につけず、戦争をしていなかったろう、と結論付けていたが。
北岡教授の記者会見の中に、反氏の主張される「民族の罪」という言葉もでてきたが、教授によると、「民族の罪」ではなくて、「個人の罪」に問題を帰着させることが大切で、その考えは、ワイツゼッカー氏以前に、ヤスパース、さかのぼれば、19世紀のマックスウェーバーにいきつく、そうである。その面から見れば、満州事変の首謀者、石川莞爾には、戦争責任があるが、東条英機と対立した為に、東京裁判で裁かれなかった、とも述べられている。そして、戦前のマスコミは部数が売れるから、という理由で、この日本の「侵略戦争」である満州事変を煽った責任がある。政府のマスコミ弾圧は、日中戦争以降であった、ということも指摘されていた。そして、「朝鮮の3.1.運動」については、それ以降、日本は、武断統治を改め、憲兵警察制度を廃止し、海軍の斎藤実による文治政治に変更した、とも述べられていた。私も先日書いたが、史実は、はじめ、そのデモ行進は、「非暴力」に行われていたが、過激化し略奪、暴行が始まったために、陸軍が鎮圧に乗り出し、逮捕者が大勢出た。けれど、それが収まってからは、文治政治に変更された。この史実は、文在寅大統領の先日の主張とまるで違うが、日本のマスコミが、例えば、ドイツのSpiegel誌の解説欄の様な形で、日本国民や日本語が読める韓国の国民に史実を啓蒙しない、解説しないのはどうしてなのだろう?
インターネットで「天安門事件」が検索できないような中国、と反氏は主張されるが、中国には、天安門事件の後、2001年に行ったことがあるが、「新しい国づくりをするんだ」という活気に満ち溢れ、貧しかったが、そのバイタリテイーに圧倒されたし、「天安門事件」で学生運動をし、日本にやってきた中国人の男性も、いい仕事をみつけて、中国に帰った。国情は北朝鮮とはまるで違うのではないかと思う。私は、ギリシャ人ともつきあったことがあるが、中国人との方が、ずっと共通点が多く、理解がしやすい。漢字を含めて文化自体が似ているからではないのだろうか?
また、今問題になっているが、東京新聞の望月記者が菅官房長官の記者会見で、自分の主張をとうとうと述べる、こと自体が、いかに日本が言論の自由を無制限に許しているか、の証明になっているのである。
私が繰り返し主張したいことは、1994年に北朝鮮がこの「国際原子力機関」を脱退したということは、1935年に日本が「戦争や武力による国際問題の解決ではなくて、話し合いによる国際平和」をめざした国際連盟を脱退して「新しい国際秩序」への「挑戦者」になったと同じ、「核兵器による悲惨な戦争」を防ぐための「新しい国際秩序 核不拡散体制」への「公然たる挑戦者」に現在の北朝鮮がなっている、ということなのであって、これを、「唯一の被爆国」の日本がリーダーシップを取って、国際社会と協調して、この「文明の破壊」をやめささなければならない、ということである。
「それでは最大の悪から解放されるということになるのかね。しかしまあ、その点は、こう考えてみたまえ。財産の状態で、君が人間の悪(ἀνθρώπου κακίαν)と認めるものは、貧乏以外に何かあるかね」(プラトン『ゴルギアス』)
「最大の悪」(μεγίστου…κακοῦ)はソクラテスに従えば無知=知の貧困(πενία)だが、カ氏なら恥辱(λοιδόρημα)なのだろう。
それにしても、言い訳(ἀπολογία)は見苦しい。裁判(δίκη)で罪(ἁδίκημα)に問われ、つまり提訴(κατηγορία)され、法廷(δικαστήριον)で否応なく(ἁπλῶς)釈明せざるを得ない立場ならともかく、「無学な人」(ἀμαθής)以上に嫌悪すべき「論過の人」(παραλογισμός)であるカ氏は、無用な(ἄχρηστον)「まやかし」(ἀπάτη)で「自己正当化」に我を忘れ(ἀσχολεῖσθαι)、自らの無知や過誤を、悪癖(νόσος)である詐術的な論法(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)による見え透いた(εὐθεώπρητος)ごまかし(τερθρύεῖσθαι)、粗雑な言辞で言い募る、即ち取り繕う(τεχνάζω)ことに余念がない(σπουδάζω)ようだ。
昨日6日にあった森友学園の補助金不正受給事件で国の補助金を騙し取ったとして詐欺罪に問われた(κατηγορεῖν)、元学園理事長の籠池泰典被告さながら、「盗人猛々しい」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)居直り(τὸν κρείττω ποιεῖν)を隠そうともしない。さすがは、狂信的な(μανικός)老デマゴーグ、「厚顔無恥な人」(ὁ ἀναισχυντία)の面目躍如だ。
関東軍参謀石原莞爾が三たび、「石川莞爾」に戻ってしまう失態(ἁμάρτημα)を含め、つける薬はない。
17⇒【そのヴィデオで、北岡(伸一)教授は、「70年安倍談話」をまとめられた「21世紀懇談会」の座長であることを知った…教授の問題意識は、私と近かった。…ただ植民地支配を隣国に謝るだけではなくて、「歴史」を学んで、どこに日本の外交の問題点…を知ることが大切…「満州事変からの力の政治」…が、世界経済恐慌がなければ、日本を…戦争をしなかった…と結論】⇒⇒件のヴィデオ映像を観る興味(ἐπιμέλεια)も義務(καθῆκον)も余裕(σχολή)もないので、冷めた(ἀνεικαιότητος)リアリストの北岡伸一氏の見解のどの部分を指して、「無学な人」(ἀμαθής)カ氏が、「問題意識が近かった」とするのか確かめようもないし、あまりに「無知」(ἄγνοια)で恥知らずな(ἀναισχυντος)御仁の「歴史認識」の実相(τὸ ἀληθές)に興味をもつほど酔狂でもないが、北岡氏の所説は著書を通じて承知しているので、カ氏の理解が極めて杜撰なのは「よく分かる」という程度に、相当の確度(βεβαιότης)をもって推定(ὑπόληψις)できる。
北岡氏には、岸信介に関する優れたエッセーもある(「岸信介―野心と挫折」、渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』、1995年、121~147頁)。むしろ、北岡氏のメディアを通じた活動について、反メディアのプロパガンダを日課とする老デマゴーグの感想を聞きたいくらいだ。自らの大風呂敷の杜撰極まる法螺話(ἀλαζονεία)が、如何に空疎(κενότης)か思い知ればよい。
北岡氏は2014年に、安倍晋三首相の私的諮問機関「安保法制懇談会」(安全保障の法的基盤再構築に関する懇談会=2007年5月設置、2008年に一次報告書)の座長代理として、集団的自衛権の行使容認につながる法整備を促した、所謂「安保法制懇報告書」をまとめた、実質的な責任者である。
「安保法制懇」報告書は、それが出た翌日に新聞各紙に、註釈は除き全文が掲載されたから早速読んだ記憶がある。要は、帝国議会での憲法改正論議、1954年の自衛隊創設後の防衛庁長官国会答弁、59年の砂川事件最高裁判決、60年の日米安保条約改定論議の際の岸信介首相の答弁を通じて、日本が「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするため」、安全保障上、必要な自衛措置を「とりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」との砂川判決の法律判断と、政府の「消極的かつ限定的」安全保障政策に基づいて、「海外派兵の禁止」という文脈で集団的自衛権が論じられる傾向を許容する結果になる。
延いては、それが「集団的自衛権一般を禁止する」との護憲勢力の見解を助長し、1972年の政府解釈(参議院決算員会に提出された政府資料)、即ち自衛措置の権能は留保しつつ、それが「必要最小限度の範囲」にとどまるべきもので、その限りで「集団的自衛権の行使は憲法上容認されない」との、今日からみれば偏頗で硬直的な(ακληρότης)流れをつくり、それが長らく政府見解として維持、継承され、湾岸戦争を経て国連のPKO活動への自衛隊参加が実現しても、解釈の基本線は安倍政権に至るまで固定化された。
読売新聞が独自に示した憲法改正試案への参画も含め、北岡氏の政治的立脚点、特に解釈への「現実主義的」スタンスは夙に知られており、17~18でのカ氏の「無知ゆえの」(δι’ ἄγνοιαν)無駄話(μωρολογία)は、「何を今さら」という「ままごと論議」でしかない。
「満州事変からの力の政治」、世界経済恐慌の影響を過大視するが、ヴェルサイユ・ワシントン体制は根本的な矛盾を孕んでおり、それぞれの「国益」という名の国家エゴイズムの衝突、「正義の論理」(δίκαιος λόγος)に基づく「法の支配(専制)」(δεσποτεία νόμος)ならぬ「力の支配」(δεσποτεία δύναμις)、つまり覇権(ἡγεμόνεια)をめぐる争い(ἀγών)、即ち戦争(πόλεμος)は必至(ἀνάγκη)だった。
日本はそれ以外の状況でも、どのみち戦争を選んだ。第一次大戦後に五大国に列し、海軍軍縮条約を通じて英米にとって新たな「脅威」であることが明白になった日本は、日清、日露と戦争が続いたことで膨張した軍事予算を抑制する緊縮財政への転換を迫られ、国内でも一層の軍縮を進めたことで軍部の不満を招き、充分な成長を遂げずにいた政党政治を不安定にさせた。「統帥権干犯」は、「聖域」への政治の介入に対する軍の反撥であって、単なる法律問題ではない。肥大化した軍が、戦後の足枷になった。
濱口雄幸内閣による金解禁の断行による緊縮財政は不況の悪化に拍車をかけたし、近代的産業化の基盤が脆弱だった事情もある。世界恐慌は、そうした状況に拍車を駆けたにすぎない。満州に活路を求めたのも、新たな資源・市場確保と重化学工業化の必要性に迫られたからだ。
日本は現在の中国と同じで、民族的膨張は歴史の必然(ἀνάγκη)だった。
政治でも経済でも、対立する(ἀντικεῖσθαι)選択(προαίρεσις)の中から、特定の政策(到達)目標に応じて「次善の手立て」(ὁ δεύτερος πλοῦς)を、しかも不確定な(ἄπειρος)将来(τὸ μέλλον)の望ましい(ἀγαπητός)状態(ἕξις)を選ぶ行為(πρᾶξις)だ。
そこにおける正義(δικαιοσύνη)とは、常に「配分における正義」(τὸ διανεμητικὸν δίκαιον)としての確立された(βέβαισος)法規範(νόμος)の宰る(δεσπόζω)「法の支配」であっても、実態は強者の支配であることは、既に縷説した通り。
人間の本質的性向(ἡ φύσις ἀνθρώπων)が変わらない限り、常に各国の国益(ἡ συμφερτός ἀγθόν)という利害得失(συμφέρον, χρήσμον, ἀγθόν)が対立して角逐(ἀγών)を繰り広げる構造が国際政治で、それが歴史(ἰστορίαι)の現実(τὸ γιγνόμενον)ということだろう。
閑話休題。21⇒【「最大の悪」をソクラテスは、無知=知の貧困だと考えている、と、反氏は考えて…私の理解…「無学である」…ではなくて、「自分が無知である、ということを知らないこと」】⇒⇒自意識過剰というのか、いくら度を越した(ὑπερβολή)「無学」だからといって、「無知」に居直り、読めもしないプラトンの原文に、手前勝手な臆測(δόξασμα)、つまり願望(βούλησις)をもち込む(hineinlegen)こともあるまい。
たまたまプラトンの初期対話篇『ゴルギアス』を読んでいてその一節(Gorgias, 477A~B)を21の冒頭に引用したが、所詮は「無学」な素人(ιδιώτης)の反応というものは、筋違い(ἄπορος)で、愚にもつかない(φαῦλος)他愛無さ(ἠ ῥᾳθυμία)だ。
カ氏は専ら『ソクラテスの弁明』に基き、人口に膾炙した彼の事蹟(ἔργον)を並べるだけで、具体的な論証を欠く。問題はカ氏が考えているほど単純ではない。
ソクラテスが追い求め(βούλεσθαι)、希求した(φιλεῖν)のは、単なる学識(μάθημα)、専門知(ἐπισθήμη)ではなく、将に「それ自体の故に」(δι’ αὐτα)、「それ自体のために」(ἄλλου χάρνι)選ばれ、「他のもの故に」(δι’ αὐτα)選択の対象となるものとは決定的に異なる「善美なるもの」(καλὸς κἀγαθός)=「美にして善なるもの」(τὸ καλὸκἀν κἀγαθόν)、「最善のもの」(τὸ ἄριστος)、「善それ自体」(αὐτὸ τὸ ἀγαθόν)、「最高善」(τὸ ἄριστον)という至極厄介なものに関する知識=認識(ἐπισθήμη)であって、その限りではカ氏の見解は間違いではない。
問題はその先だ。
‘νόσον μὲν δὴ ψυχῆς ἄνοιαν συγχωρητέον, δύο δ’ ἀνοίας γένη, τὸ μὲν μανίαν, τὸ δὲ ἀμαθίαν.’(Timaeus, 86B=「まず魂の病気とは「理性を欠いていること」であり、またそれには二種類あって、一つは狂気、一つは無知である」)
この世の常識(κοιναὶ δόξαι)に逆らって、敢えて究極的、完結的(τέλεον)で、それだけで充分な(ἱκανόν)、それ自体が最終的な(ἕσχατον)目的(τέλος)、即ち終極目的(τὸ οὗ ἕνεκα)である最高善に関する知識(ἐπισθήμη)は、単なる無知の自覚という知の次元を超える、それこそ人間として容易に到達可能な知識ではなく、厳密な「学識」を要請せざるを得ないからだ。
哲学は学問で「処世訓」ではない。
つまり、対話相手は騙されている(ἐξαπατηθῆτε)ようなもので、そこにソクラテスの説く無知の知、不知の自覚の逆説(παράδοξος)があるのだが、知らない(ἀγνοέω)ということを知っても(γνωρίζω)、そこに求める知慧(σοφία)などない。つまり、無知の知は単なる出発点(ἀρχὴ)にすぎない。日本語の語感で、「無知」と「無学」を詮議立てしても、空疎なだけだ。
それにしても、ただの怖いもの知らずの「無鉄砲」(τόλμα)なのか、「愚鈍」(ἀμαθία)なのか、歳相応の分別のない(ἄφρων)「無思慮」(ἀφροσύνη)なのか、単なる見栄っ張り(χαῦνος)による憐れむべき(ἐλεεινός)「虚栄」(χαυνότης)なのか、はたまた身の程知らずの(πλεονεκτεῖν)分を弁えぬ(πλέον ἔχειν)「田舎者」(ἄγροικος)なのか、ただの「道化者」(βωμολόχος)なのか、いずれとも判然としないが、カ氏は、たぶんその全部なのだろう。
逆上せ上がって(ἀγωνία)、気難しい(δύκολος)年寄りの気まぐれな苛立ち(ὀργή)の類だから相手にするまでもないのだろう。プラトン解釈の優劣にこだわる(διαφιλονεικοῦτες)ほど向こう見ず(θάρρος)で、負けん気の(φιλότιμος)度が過ぎるような大莫迦でもあるまい。
滑稽(γελοῖος)な「独り相撲を取る」(σκιααμχέω)ことに興じて(παίζειν)いるのだろう。要するに、年寄りの暇つぶし(διατριβή)なのだろう。
κακίας ἄρα ψυχῆς ἀπαλλάττεται ὁ δίκην διδούς(Gorgias, 477A)
「すると、裁きを受ける人は、魂の劣悪さから解放されるのだね?」
魂の劣悪さ(κακίας)こそ、無知である。[完]
後者は、たぶん敗戦後すぐ、阪神大震災で全壊した私の実家の洋館で、楠山義太郎さん、NHKの会長であった前田義徳さんらと当時貴族院議員であった祖父がまとめた結論に近い、と思う。それは、直接よくお話しした楠山義太郎さんも、同じような考え方の持ち主であったし、前田義徳さんも、佐藤栄作さんら自民党保守と近いからである。
楠山義太郎さんは、「日本は、天然資源のない国だからね。」とよく言われたが、そんな日本は、「国際協調」の道を探り、「集団的自衛権」の道を探るしかないのではないのだろうか?そして、近くに日本の脅威となるような国がある以上、その国の侵略に備え、どのように国を防衛するか、を考えなければならないのではないのだろうか?
そのことを重視しない、その危険性に備えない、安倍政治の糾弾に現を抜かしている野党政治家、マスコミの人びと、東大系憲法学者がどうかしているのだ、と私は考える。
ナチスをドイツの政権党に押し上げたドイツの民衆の不満(ἀκούσιον)と怒り(ὀργή)、憤激(θυμός)や「悲憤慷慨」(ὀργή καί θυμός)は、第一次世界大戦後の戦後秩序(κόςμος)に、つまり、ヴェルサイユ・ワシントン体制に「不当な」(ἄνισος)もの、特に膨大な報復的(τιμωρητέος)な賠償金や、軍隊(στρατιά)、軍備(δύναμις πρὸς πόλεμον)の解体(διάλυσις)に向けられた。
つまり戦争の勝者(ὁ νίκη)、占領国(ὁ νικήσας)による強者(κρείττων)の裁定(κρίσιν)――この場合は条約(σύμβολα)という国際的な契約(συμβόλαιον)であり取引(συμβόλαιον)=いずれも合意(ὁμολογία)に際して取り交わす[象]徴(σύμβολον)に由来――不当な「権利剥奪」(ἄτνμία)=「不正」と映るのを抑制(ἐγκράτεια)できない。
19世紀後半まで領邦国家が乱立し、政治的統一が遅れたドイツの跛行的な近代化によって、政治的な合意形成の知慧や経験を欠く政治的に未熟な、「非政治的」(‘Unpolitischen’)な、特段の「教養もない」(ἀπαιδευσία)ドイツの民衆が、ヒトラーのような独裁者(τυράννους)による力の支配(μοναρχίη)を自ら進んで(ἑκών)選んだわけであって、破局(ἀπόλλυσθαι)は自ら招いた(αὐτόματος)、文字通り身から出たサビ(ἀντιπεπονθός)で、誰を恨んでも(φθονεῖν)仕方がない。
ドイツは欧州大陸の中原にあって海外取引、即ち貿易(ἐμνορική)で生業を立てる国家だ。つまり、商売(καπηλεία)優先で生きていくしかないわけで、当然ながらロシアとも、その経済力で、あたかも「高利貸し」(ὀβολοστατική)のような中国とも取引をする。
中国はギリシアにも多額の財政支援を行い、同時に膨大な資本投下を行ってギリシアを借金漬けにして、アテーナイの外港ペイライエウス=ピレウスを事実上、手中に収めようと画策している。まるで、港湾見張り役(φύλαξ λιμένων)だ。
かつて、第一次大戦後、ヴァイマール共和国体制下、西欧諸国で最初にソ連承認して1922年に「ラッパロ条約」を結んだのはドイツで、明白なヴェルサイユ条約違反。ドイツの政治的敗北の証左で、終戦後三年、破綻の予兆とされた。それは同時に、西側民主主義陣営に対する重大な裏切りだった(「ラッパロの悪夢」)。
31⇒【反氏の主張に、魂の病気とは「理性を欠いていること」】⇒⇒私ではなく、プラトンの主張。粗笨な(προπέτεια)読みの典型。こう頻繁だと魂の「病気」だと思うが、つける薬はない。
いずれにしても、私はドイツの多数者(οἱ πολλοί)である民衆を敵視(ἔχθραινω)も憎悪(μῖσος)もしない。そもそも関心がない(ἀμέλεια)が、軽蔑(καταφρόνησις)している。
けれども、1929年10月に世界大恐慌が起こると、すべてが変化せざるを得ない。コメント2で書いたように、世界恐慌以来、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けたが、ドイツの打撃はその比ではなかった。ドイツはまだ、賠償金を支払わなければならなかったし、敗戦国ドイツは、すべての植民地を英米仏に、あるいは民族自決、という形で取り上げられたから、経済のブロック化によって乗り切ることもできなかった。シュトレーゼマンは、心労の為か、世界大恐慌が起こったすぐ後に亡くなっているが、その為に、宣伝戦略の優れた「国家社会主義」のナチスドイツが1930年代に急速に台頭し、1933年1月に政権につき、国際協調外交が崩れたのである。これは、「ドイツの近代史ならこれ」、と、ドイツ人の元教授の勧めで読んだ、トーマス・マンの息子、父親と犬猿の仲であるゴーロ・マン、みすず書房、上原和夫訳の「近代ドイツ史」からヒントを得て、書いたものである。
莫迦の一つ覚えのように、素人(ιδιώτης)の憐れむべき「火遊び」のような形で、ソクラテスの「無知の知」を喋喋しているが、実際のところ(ἔργῳ)、何も語っていないに等しい。
無知(ἀμαθία)の知(εἰδέναι=知る[ἐπίσταμαι] [γνωρίζω])、不知(ἄγνοια)の自覚(εἰδέναι)とは、別に無知という知慧(σοφία)を、推奨するものではない。知らない(ἀγνοέω)ということを「知っても」(ἐπίσταμαι)、それだけで格別な知慧(σοφία)でも思慮(φρόνησις)でも、いわんや知識(ἐπίστασθαι)や認識(ἐπισθήμη)ではないということだ。「無知の知」だけでは哲学(φιλοσοφία)も何もあったものではない。
ソクラテス自身の口を藉りて、プラトンが後期対話篇『ティマイオス』の中で、
‘νόσον μὲν δὴ ψυχῆς ἄνοιαν συγχωρητέον, δύο δ’ ἀνοίας γένη, τὸ μὲν μανίαν, τὸ δὲ ἀμαθίαν.’(Timaeus, 86B=「まず魂の病気とは「理性を欠いていること」であり、またそれには二種類あって、一つは狂気、一つは無知」)といった所以だ。
『ソクラテスの弁明』から具体的な記述を引用すれば、
‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’(Apologia, 21D=「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」)、
‘ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.’(ibid., 21D=「つまり私は、知らないことを、知らないと思う、ただそれだけのことで優っているらしい」)
‘ἤρετο γὰρ δὴ εἴ τις ἐμοῦ εἴη σοφώτερος. ἀνεῖλεν οὖν ἡ Πυθία μηδένα σοφώτερον εἶναι.…τί οὖν ποτε λέγει φάσκων ἐμὲ σοφώτατον εἶναι’(ibid., 21A~B=「私(ソクラテス)より知慧のある者はいない…私(ソクラテス)を一番知慧があると宣言する」)ということについて、
田中美知太郎は、同じデルポイの神殿の銘「汝自らを知れ」(γνῶθι σαυτόν)との関係にふれ、「ソクラテスの名にむすびつけて語ることが、ひろく行われている。…恐らくこのような関係づけは、アリストテレスの初期著作『哲学について』から始まる…(「汝自らを知れ」の)銘に感じて、これをかれの哲学の出発点にしたというようなことが語られている。これは無論、アリストテレスの創作である」と、文献学的な論拠(τὸ διότι)によらない無駄話を嫌う人物らしく、実にそっけない(『ソクラテス』154頁)
いずれにしても、カ氏の議論には、実質的な論証(ἀπόδειξις)に相当するものが、呆れるくらい欠落している。それでは、何を論じる(διαλέγεσθαι)ことにもならないことを肝に銘じるべきだ。面倒臭く(ἄπορος)、手に負えない(ἀνέλεγκτος)のだろうが、言わずもがなのことを、自らの無知を自覚せず、分も弁えず(ἀσύνετέω)書き散らすのは、ほどほどにしたらよい。
それとは逆に「似而非反論」(ψευδομαρτυρία)によって、老後の暇つぶし(διατριβή)の、もはや宿痾と化した、自らのメンツにこだわる(φιλότιμος)意趣返し(ἀντιπεπονθός)、つまり「投稿のための投稿」=投稿公害(慷慨)に憂き身をやつしている。それは愚にもつかない俗説(ψευδῆ δόξάζειν)を再生産することでしかないのは言うまでもない。
18⇒【反氏の主張される「民族の罪」という言葉もでてきたが、(北岡伸一=筆者註)教授によると、「民族の罪」ではなくて、「個人の罪」に問題を帰着させることが大切で、その考えは、ワイツゼッカー氏以前に、ヤスパース、さかのぼれば、19世紀のマックス ウェーバーにいきつく、そうである】⇒⇒私は「民族の罪」というようなことを主張していない。それは事実上、無意味で、不可能だからだ。
用語もヤスパースの『贖罪論』(『罪責論』=“Die Schuldfrage”, 1946年)やヴァイツゼッカー演説にならって、「集団的な罪」(‘Kollectivschuld’)と書いたはずだ。
その論理的な(λογικός)含意は、「ドイツ人という(名の)国民」は存在せず、常に特定の個人が存在するだけで、個々の立証可能な法律違反の残虐行為の実行者など、一握りの国民の法的責任を問うほかは、道徳的な罪(Sünde, Schuld)に基づく責任(‘Verantwortung’)は認めても、けっして法的責任(法的罪責=‘Haftung’)は認めない、というドイツの弁明の論理の規準(ἀξίωμα)となった見解であり、既に縷説したので繰り返さない。ヴァイツゼッカー演説にも基本的に継承されている戦後ドイツの弁明の論理だ。
問題は、ヤスパースがそうした見解を公表したのは、戦後40周年の「安全地帯」から語ってい連邦大統領とは違って、敗戦直後の1945~46年だということだ。当然、反撥や風当たりは、ヤスパースのような人物でも強かったはずだ。
ヤスパースは夫人がユダヤ系だったため当局に離婚を勧告され、それを拒んだ上に一切の協力を拒んだため、ハイデルベルク大学教授の職を追われたが怯まず、「祖国喪失者」として「国内亡命状態」のままナチスに最後まで抵抗した、ドイツでは稀有な人物だ。
『贖罪論』には、ドイツ人の「罪責」を、他人事ではなく自らの問題として引き受け、徹底的に考え抜く誠実な人柄が息づいている。ヤスパースは「今はじめて、私がドイツ人であり、私の祖国を愛するのだと、ためらいなくいいうる」というような人物だ。
結論自体は身も蓋もないものだが、ナチスに積極的に協力して、戦後は口を拭ったままだったハイデガーや、消極的な「迎合者」(κόλαξ)ガダマーと比べるのも愚かだろう。
しかし、そうした内容でさえ、『贖罪論』出版当時はドイツ国内ではあまり注目されず、どちらかというと冷ややかに受け止められ増刷もされなかった。版を重ねたのはヤスパースが戦後、教授を務めたバーゼル大学があるスイスで、ドイツは盲目的な生き残りのための民族的自己防衛に忙しく、それどころではなかったということだろう。
「集団的な罪」拒否の論理は、後年になって政治的に「利用された」。同種の内容でも、そこにヤスパースのような高潔さは皆無だ。
「集団的な罪」の否定の核心にあるのは「敗戦」=「解放」論であり、法的な「罪責」を否定した「反省」なら、いくらでも喋喋できる。軽蔑(καταφρόνησις)に値する所以だ。
「臆面もない人」=憚るところがない者(ὁ θαρρέω)はカ氏にも共通する。[完]
反氏が、篠田英朗さんを支持されているのも、孤立無援で、権威ある東大系憲法学者との戦いに頑張っておられるから、という理由が大きいのではないのだろうか?私は、ニコニコ動画を見て、篠田先生が孤立無援とはまるで思わない。たくさん支持者がおられるのだな、と感じる。そして、日本の「憲法学」に篠田先生のような「国際感覚のある」考え方が必要だと思うから、応援している。もともと「日本国憲法」は、「国際法学者」、外交官出身の芦田均さんが委員長となって修正されて出来あがったものではなかったのだろうか?
「戦後40周年」とは言っても、あの頃はヨーロッパでは冷戦も続いていたし、フランクフルト学派のように、ワイツゼッカー氏とは違う歴史観をもつ人もいたのであって「70年談話を発表された安倍首相」と同じである。「歴史観」が安倍首相と違う人がマスコミ界にたくさんおられるから、「歴史修正主義者」と評されるのではないのだろうか?
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