先日、「高齢者暴走は政治家の問題なのではないか」、という記事を書いた。その後、立憲民主党が、高齢者運転対策に乗り出したというニュースを見た。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190425-00000162-jij-pol 応援したい。
立憲民主党は、どちらかというと高齢者からの得票率が高かった政党だ。私自身も、何度か憲法問題などで批判的な文章を書いたことがある。
しかし、その立憲民主党が、こうした問題で、次世代の側に立つのは、大変に素晴らしいことだ。長期的な党の立ち位置を固めるためにも、得策だ、とあえて強調しておきたい。
少子高齢化社会に立ち向かうということが、どういうことなのか、まだわかっていない人が多い。多数決で物事を決めていったら、すべて高齢者に有利なことしか決まっていかない、それが暗澹たる少子高齢化社会の本質の一つだ。
80歳以上の高齢者による死亡事故は、75歳未満の約3倍だという。http://agora-web.jp/archives/2038592.html 人口の絶対数は減り始めているが、高齢者人口の比率は高まり続けている。厚生労働省によれば、2000年には、70歳以上の人口は901万人、85歳以上はわずかに224万人だった。2020年に70歳以上の人口は1,879万人、85歳以上が637万人になり、2055年までに70歳以上の人口が2,401万人で、85歳以上だけで1,035万人になるという。
3倍の危険性を持つ85歳以上の人口が、過去20年弱の間にすでに2倍以上になってしまっており、その数は将来的にさらに倍増する勢いで増えていく。その一方、若者の人口は減少し続けている。マイノリティに転落した若者層は、2000年時と比べても、何倍にも増大した危険高齢者のリスクにさらされながら、生きていかなければならない。
アンフェアだ。
無策であれば、これから高齢者による危険運転事故は増え続けるのだ。統計を見れば、そういう結論しか導き出せない。現実を直視した政策をとるべきだ。
危険が増大しているという現実を見据えたうえで、公正さを取り戻すための政治的措置をとる必要があるのだ。
政治の本質は、価値の配分である。高齢者に配慮して高齢者の票を維持しようとするのか、高齢者の票を失っても、日本の未来のために、子どもを守る政策を推進するのか、日本が今置かれている状況を考えて、政治家は態度を決していくべきだ。
池袋の高齢者暴走事件には、多くの示唆があった。都会で、社会的地位の高かった人物が、87歳になって、暴走して起こした事件だ。田舎の貧しい高齢者の苦難などを持ち出して、池袋で暴走した元高級官僚を守ろうとするのは、的外れである。社会的地位が高かった者に限って自分に甘く、周囲も遠慮して苦言を呈することに躊躇しがちだ。池袋で暴走した87歳の人物のような老人に、二度と暴走させないための政策が必要だ。
生活に運転が必要なら、それに見合う自分を維持する努力をするべきだ。必要性があって、努力している高齢者は、認めてあげるべきだろう。したがって基準の厳格化が必要だ。
車の運転以外の手段の利便性を高めて、免許返納のインセンティブにしていくというのは、いかにも不足感がある。車の運転に伴う負荷を高めなければ、釣り合わない。
70歳以上は運転免許の毎年更新、80歳以上で半年更新、85歳以上は3カ月更新でもいい。費用は、講習料の値上げでまかなうべきだ。「認知症のテストに通った、あと何年も自分は大丈夫だ」、と勘違いしている高齢者が多数いる。頻繁にテストしていくべきだ。
ただ免許返納ですら、決め手ではない。池袋暴走事件の直後であってもなお、「郵便局に歩いていくのが面倒」という理由で、84歳の無免許の人物が、逮捕されたという事件が起こっている。https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「郵便局に歩いていくのが面倒」無免許運転の疑いで84歳男逮捕-%EF%BC%8F松戸/ar-BBWen7r
これが少子高齢化社会の日常風景というものなのだろう。
免許返納するか、免許失効した高齢者が、車を所有したままだったり、運転者のままになっていたりしないか、罰則も設けて、厳しくチェックしていくべきだ。当然、高齢者に限らず、無免許者に車を貸した者にも厳しい罰則を設けなければならない。
ところで高齢者暴走の場合、加害者が被害者家族よりも先に他界することになる。民事上の負担が、無責任な高齢者ドライバーに危険回避をするインセンティブとして働かないかもしれないという意味で、一つの深刻な問題だ。法的解決も図られていないまま加害者がいなくなってしまうケースも多いだろう。相続人に対して損害賠償請求することになる場合、被害者側の負担が増す。手続きを簡素化する措置を導入するべきだ。
将来的には、一刻も早く、自動運転車専用免許を導入すべきだ。そして高齢者による免許の切り替えを促進する措置を導入しなければならない。自動ブレーキ車に限定する措置がとれないかも、自動車メーカーの大々的な協力を得て、検討していくべきだろう。
コメント
コメント一覧 (26)
その際の選択肢はAI技術の進展によって今後とも状況変化は不可避だから、若者と高齢者、生産年齢世代と65歳以上の高齢者(75歳以上の後期高齢者層に限定してもよい)との世代間対立と、選挙における特定政党の得票増のための闘争とを、何らの媒介要因もなしに直結させる議論は、論理的に問題が多いと思う。
社会政策の比較優遇制(妙な命名だが、特定の政策によって受ける世代間の恩恵度合いの優位性の違い)は現実問題として存在するし、少子高齢化が深刻なのも確かで、国民的な議論を促すために政治の関与は必要だろう。国政選挙の公約として掲げることもあり得る。
しかし、問題の本質、換言すれば今回の事故における作用因子として、「世代間」の政策需要の綱引き、それを世論上の支持率上昇や選挙における得票増と結びつけ、そこに有意味な対立があたかも存在するかのような立論が、果たして有効であろうか、甚だ疑問だ。
「80歳以上の高齢者による死亡事故は、75歳未満の約3倍」という命題は、対策として、どの年齢層を対象に考えるかという点で意味があるが、そもそも交通事故による死亡者自体は毎年減り続けており、死亡事故発生の蓋然性を比較することにも特段の意味はない。
今回のように87歳で運転し、自己を起こすケースは比較的特異な事例であって、しかも高齢者の死亡事故は、加害者になる場合より、被害者になるケースの方が圧倒的多数だ。
今回のような高齢運転者事故は、将来的に自動運転技術によって技術的に早晩解消されるから、政治の出番はない。
教育無償化を含め、少子化対策に及び腰な立憲民主などお呼びではないし、憲法論議など他にすることがあるはずだ。
この間、出稿者の多少の去就、というか出入りはあったようだが、昨今はカ氏こと「カロリーネ」氏と私との遣り取りが専らで、論調は低調のようである。篠田さんはどう感じているのか、知る由もないが、私の見当では、篠田さんは一種のスフィンクス(Σφίγξ)のような存在だから、現在の日本人に容易には(ῥᾳδίως)解けない謎(αἴνιγμα)を投げかけているわけで、それぞれ自分の胸に手を当てて考えればよいのである。
コメント欄読者は須らく、篠田さんが以前のブログ(2017年8月17日)で「他人が作った問題に解答する能力を競いたがる癖がついていたりするタイプは、学者には向いていない」と書いていることを、いま一度、肝に銘じるべきだろう。
その時々の論点(τόπος)は違っても、共通するものは、それこそ、この「ブログは気ままに書いている」(6月21日/67)と篠田さん本人が述べている通り、自由で(ἐλεύθερος)闊達な(ἐλευθέριος)気風だ。カ氏のような「狭量な精神」(σμικρολογία)に伴う愚鈍さから最も遠い。
所詮は言説(λόγοι=discours)、生命の遣り取りではないから、朗らかにする(εὐθυμέω)方がよい。
ついでに指摘すれば、篠田さんの至極もっともな問題意識(προβάλλω)、【「内向き」日本に閉塞感が蔓延…ムラ社会のいざこざのようなケンカが続いている】(昨年7月の「学期末の雑感」)との認識の根底にある原理的な(τέλειος)考察(σκέψις)は、私なりに列挙して敷衍すると、次のようなものだろう。
そこには、「良識」(εὐγνωμοσύνη)を欠くことなく真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)を具えた、この国には珍しい清朗な(εὐθυμητέον)「反逆者」(ὁ προδότης)の面影がある。国際政治学はともかく、憲法解釈を旗幟鮮明にしたことで学界では目下、孤立無援の少数派(οἱ ὀλίγον)だろうが、些事(τὸ μικλόν)であって気にする必要はない。
学問(μάθημα)は、政治(τὰ πολιτικός)のような経験的な反証(ἀπόδειξις)が本性上不可能な(ἀδύνατον)将来(τὸ μέλλον)に向けた不確定で雑多な合意形成とは異なり、「真偽」(ἀληθής καὶ ψεῦδος)の規準(ἀξίωμα)は、多数者(οἱ πολλοί)の賛同(ὁμολογία)や賞讃(ἐπαινος)などではない。
民主制は、能力本位(κατὰ τὴν ἀξίωσιν)ではなく、各人の政治参加の「平等の権利」(ἰσονομία)に基づく統治形態(πολιτεία)で、それぞれが思うところを表明する(φθέγγεισθαι)ことは自由で、その機会は平等(ἰσότης)であり、最大限尊重される(τιμὴν ἔχω)べきだとしても、ただそれだけであって、立論の価値(ἀξία)や優劣(εὐσχημοσύνη καὶ ἀσχημοσύνη)自体は全く別問題だ。
人間は平等で「あるかのように」扱われるべきだとしても、言説の真偽(ἀληθής καὶ ψεῦδος)は自ずと(αὐτόματος)異なる。それは、民主政治の否定(ἀπόφασις)ではなく、その本質(ἡ αὑτῆς φύσις)だ。
ソクラテスをして語らしめたプラトンのように、専制体制よりはましだとしても、「法律遵奉的な国制(πολιτεία=政体)の中では最も劣悪な国制、法律軽視的な国制の中では最も優秀な国制」(『ポリティコス』303A~B)とまでは断言しないし、アリストテレスほど冷めた民主制観にも徹してはいないが、次の認識は正鵠を射ている。
つまり、「多数者が統治する支配形態」(『ポリティコス』291D)である民主制は、「ただ、大衆に好意をもっていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄(πολιτεία=国制)」(『国家』558B~C)とか、「民衆政というものは、快く、無政府的で多彩な国制であり、等しい者にも等しくない者にも同じように一種の平等を与える国制」(『同』558C)、「似而非国制の一つとしての民衆政」(『法律』832C)という側面が、民主政治には常につきまとう。
経験に徹すればするほど、現実は苦いもので、この世に真の平等など存在しない。
人間の不平等について、近代になってそれを最も痛切に表明しているのは、ほかでもない近代的な統治原理に先鞭をつけたロックなど英国の経験論者やフランスの啓蒙思想家ルソーらで、彼らは、まさに経験を重視する観点から、経験的に確認できる事実としての人間の個々の不平等性について、つまり各々の身体的、精神的な資質や能力など、本人の属性とも言える諸特性について着目した結果、「平等」であることが事実によって「否定」されることを首肯せざるを得なかった。
ルソーの『人間不平等起源論』(“Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes”, 1755.)も、まさに同じ人間でありながら、アフリカのある種の先住民が人間よりゴリラに近い動物との議論を隠さない。その博愛精神(fraternité)にも偽善(τὸ εἰρωνικός)が少なくない。
「平等の権利」に基づく民主制についても、既にプラトンが主著『国家』(562B~565E)の中で、のちに「多数決のパラドックス(παράδοξος)」、さらにその前提となる「自由のパラドックス」とされるものと同様の原理的な洞察(γνώμη)を提示している。
民主主義の自己矛盾(αὐτό ἀντίφασις)と言うべきもので、要するに、多数者が単一もしくは少数の人間に政治上の支配を委ねるということを、民主的な手続きで決定すれば、多数決そのものによって独裁(μοναρχία)が正当化(ὀρθόω)される、という趣旨で、1933年のドイツであったヒトラーへの全権委任法の国会決議はその典型例だろう。
投稿主の「無知人」氏には諫言(ἀποτροπή)の意図があったか否か、私の知るところではないが、「多種多様な意見を交える場」との心得(εὐνομία)と覚悟があるなら、速やかに内容のあるコメントを寄せればよいだけの話で、提案というか、見当違いの「好意」はお断りした。
人様の投稿名に特段の関心もないが、「無知人」とは、ギリシア語で言えば無知な(ἀμαθής)人、つまり[ὁ ἀμαθής]で、ニュアンスは文字通り「愚か者」ということになる。大した自己認識だが、謙遜(κόσμιότης)か自嘲なのか、ソクラテス流に韜晦する(εἰρωνεύομαι)つもりか判然としない。
「半可通」のカ氏に倣って「無知の知」でもあるまい。「無学」を決め込むのも自由だが、「様々な人が…」程度の凡庸な認識で、外に言うべきことがないものか。肝腎のことは「だんまり」のようだ。
77②⇒【長々と駄文…私は名前通り学のない人間…それを恥じ】との言が、単なる空疎な(κενός)逃げ口上でないことを期待する。右顧左眄(ἐπιορκέω καὶ κολακεύω)も無用だ。
翻って、一般的な傾向として、「和をもって貴し」と為すこの国の風習(τὸ νόμιμος)、謂わば醇風美俗、昨今の「令和」が公表された際もそうだが、「和」について熟慮(φροντίς)せず、「付和雷同」のことだと勘違いする「善良な(ἀγαθόν)市井の民」(ニーチェ的には»guten Menschen«というのだろう)が少なくない。
そうでないと、「同而不和」(「同じて和ぜず」)の典型であるカ氏のように、たとえ不承不承(ἄκων)、妥協的に(ἥμιγενής)に同意する(συνεπινεύειν)としても、結局不平不満(λοιδόρημα καὶ ἀκούσιον)が内訌するだけだ。それは互いに(ἀλλήλοις)回避したい。
カ氏の愚にもつかないコメントにみられる論点ずらしの「似而非反論」を仔細にみる限り、そこに真摯に(απουδαῖος)、真っ当(ὀρθότης)に議論するつもりなど、何もない。
あるのは、非妥協的で硬直的な(ακληρός)党派的見解(それを、悪しき意味でのイデオロギーという)で、異論(ἀμφισβήτησις)への手段(ὄργανα)を選ばぬ攻撃性(ἐπιχείρημα)で、粗雑(συμφός)極まりない。だから盗み(κλέπτης)=剽窃(κλοπή)も正当化して愧じる気配もない。
戦後、東西冷戦の最前線に位置し、反共産主義の傾向が根強いドイツの、しかも知的に低劣な民衆に際立ったタイプで、ドイツの悪い面が如実に現われている。マルクスやヘーゲルの信奉者だった父親から、実質的に何も学ばなかったようだ。[完]
‘μήτε φεύγων μήτε διώκων’=「来者不拒、去者不追」(Aurelius, M.‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’III, 7.)
8で【「半可通」のカ氏に倣って「無知の知」でもあるまい。「無学」を決め込むのも自由だが……程度の凡庸な(μέτριος)認識で、外に言うべきことがないものか。肝腎のことは「だんまり」のようだ】と書いた。相手は「無知人」氏だ。
(「憲法学者の憲法解釈の指針は何か」の)77②⇒【お二人とも自分が上に立たなければ気が済まないマウンティング合戦】などと、私とカロリーネ氏に対して局外中立の「高見の見物」(θεωρία)を決め込んでおいて、自らを危険な(κίνδυνος)対話の「場」(ἀγορά)に晒すどころか、近づく(πελάζω)ことさえ逡巡している。
あるいは反論する側の応酬の洗礼を受け(βαπτίζω)、耐え忍ぶ(ὑποφέρω)覚悟(πίστις)と勇気(ἀνδρεία)を欠いて、戦う前から負け犬(τὸν ἡττώμενον)の遠吠えのような及び腰だ。「無知」(ἀμαθία)は、謙遜(κόσμιότης)などではなく、かといって、自らを守る(φυλάττω)楯(ἀσπίς)にもならず、単なるみすぼらしい「飾り」(κόςμος)にしかなるまい。
何ごとにも「負けず嫌い」(διαφιλονεικοῦτες)で、投稿を確認したそばから反射的に反論するだけの無思慮なカ氏のドン・キホーテ並みの蛮勇(θάρρος)、即ち無分別(ἀφροσύνη)も軽蔑(καταφρόνησις)の対象、というか嘲笑されるに値する(χλευαστικός)だろうが、あれはあれで、恥も外聞もなく、前のめり(προπετής)で余裕がない(ἀσχολία)なりに必死さや熱意(σπουδή)は伝わってくる。しかし、「無学人」にはそれがない。欠けているのは、知性(νοῦς)だけなのか、得と自問したらよい。
言い訳(ἀπολογία)でしかない「無知」、「そんなもの」(τοιοῦτος)の陰に隠れて(λανθάνω)、誠に女々しい戯けた綺麗ごと(μωρολογία)しか並べ立てることができないようでも困るだろう。
戦後、ヒトラーに騙された(ἐξαπατηθῆτε)と称して自己防衛(φυλακή)に余念がなかった、ドイツの戯けた連中の自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)への嫌悪感だ。
ドイツの戦後が、どれくらい欺瞞と偽善(ἡ ὑπόκρισις)に満ちたものだったかは、例えば、ユダヤ人大量虐殺の責任者の親衛隊中佐で、国家秘密警察のユダヤ人担当課長を経て強制移住、収容政策の立案者、1942年初めの政府部内の会議でユダヤ人絶滅の方針を決定し、責任者になったアイヒマン(Eichmann, K.A.)の裁判を論じたハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン―悪の凡庸さについての報告』(“Eichmann in Jerusalem, A Report on the the Banality of Evil”, 1963.)のそこかしこにも、元ナチス関係者、協力者が西ドイツの行政や司法、アカデミズムを支えていたかが如実に示されていて、ナチスからの解放と決別、切断という「まことしやかな」物語(μῦθος)が、ドイツ人の戦後を支えた共同防衛の神話だったことを浮き彫りにする。
そこには、自分自身を(σαυτόν)故意(ἑκουσίως)なり無意識裡に欺き、自らの(σαυτοῦ)頭を低くして(ταπεινόω)生きた、ともかく、戦後の生存(σεαυτοῦ)に余念がなかった人々がおり、それに対するマンの違和感がある。
ドイツの戦後は、自らの歴史上類をみない戦争犯罪を逸脱した悪業を、正面から(ὀρθότης=真っ当に、ダイレクト[ὀρθός γωνία]に)受け止め、向き合ってきた歴史などではないことがよく分かる。
良くも悪くも、冷戦の存在が、ドイツ人自らを盲目にする(τυφλόω)覆いの役割を果たしていたことを物語っている。
‘Ein Kapellemeister, der, von Hitler entsandt, in Zürich, Paris oder Bubapest Beethoven dirigierte, machte sich einer obszönen Lüge schuldig―unter dem Vorwande, er sei ein Musiker und mache Musik, das sei alles. Lüge aber vor allem schon war diese Musik auch zu Hause.’(⇒‘‘Warum ich nicht nach Deutschland zurückgebe’’=Thomas Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, s. 958)。訳(新潮社版『トーマス・マン』、猿田悳)は⇒「ヒトラーに派遣されて、チューリヒ、パリ、ブタペストでベートーヴェンを指揮した指揮者は、自分が音楽家であって、だから音楽をやるのだ、それがすべてだ、といった口実で臆面もない嘘をついた責任があります。ドイツで音楽をやるということ自体が、すでに嘘でした=「私はなぜドイツへ帰らないか」)
ありふれた御託として、「無知人」氏は、どこかお人好しの(ἠλιθίους)、「何か気の利いた議論」(ἀστεῖος λόγος)でもしているつもりかもしれないが、議論の中身を理解しているとも思えない。このまま立ち去る(ἀπέρχομαι)のも随意だが、真の知を愛する(φιλοσοφέω)者同士の対話は、軽率に考えられているほどご気楽なものでもあるまい。
厄介な論争を避け、甘美な(ἡδύς)無知のまどろみ(καθεύδειν)に浸るのも自由だが、論争自体をざっくばらんに(παρρησιαζόμενος)悠々と楽しみながら、夜が徹するまで倦むことがなかったのが哲学を生んだ、古代のギリシア人だ。そのための技術開発も熱心(σπουδάζω)かつ入念(ἱκανώς)で、それによって論理学は発達し、アリストテレスの驚異的な知性によってほとんど単独で「名辞論理学」の体系が誕生した。
有り余るほどの(περισσεύω)知性をもって、精神の荒野(ἡ ἔρημος)を沃野に変えた。それはどこか「殺伐とした」(τραχύς)もののように思われがちだが、確固とした、精神と思考を支える基礎条件としての精神の「容器」(ἀγγεῖον)のようなもので、ともすれば懦弱(ἀσθένεια)に流れがちな精神を鍛え(γυμνάζω)直す。
日本国憲法を崇拝する(προσκυνέω)、憲法の自称「番人」(φύλαξ)を買って出ている東大法学部系の主流派憲法学者を盲目にしている(τυφλόω)のは、そうした強靭な論理的思考を欠いた、精神の隷属状態(δουλεία)を自覚し得ない思想的脆弱さで、人は何かに騙されるより、期せずして何らかの先入見に囚われ、自らに無意識のうちに嘘をつく、つまり自らを騙す(ψεύδω)存在だということだ。
それこそが、ソクラテスが警戒せねばならぬ(φυλακτέον)とした、最大の(μεγίστου)、つまり最悪の(χείριστος)「無知」である。[完]
☆謙虚とは、神が生贄を捧げるよう人にのぞみたまう祭壇である(ラ・ロシュフコー『箴言』537)
同意ですね。下記のような人は甘ったれです。
東京大学人文社会系研究科死生学応用倫理センター教授小松美彦
【終末期医療】物議醸す古市憲寿氏・
落合陽一氏対談への反論…重大な4つの事実誤認
https://biz-journal.jp/2019/02/post_26860.html
【安楽死】批判続出の古市憲寿氏・落合陽一氏対談への違和感の正体
https://biz-journal.jp/2019/03/post_26862.html
植松聖君の貢献によりどれだけコストが浮いたことか。
それを世間は直視するべき。
必要以上に詰め込みすぎたら取捨選択するだろう。
エベレストだって捨て放題。
不要なものを捨てれば捨てるだけ身軽になる。
障害者、老人、もそれに当て嵌まる。
コスト食い虫。ウンコ製造機。
そういう意味では植松クンは時代を
先取していたのですな。着実に日本人に
植松君の考えが根付き始めているようで何より。
無いけども日本は生憎HENTAI国家なのでね。
日本の常識は世界の非常識。
別に無理して世界基準を当て嵌める必要はない。
背負う荷物が多いほど歩みは遅くなるし
疲弊する。当たり前の話。
不要なものはポイッと道端に捨てて進めば良い。
>出来なくなっているのだと思う
確かに由々しきことですな。本来なら
人権?何それ美味しいの?レベルなのだが
日本は他国の顔色ばかり伺い過ぎている。
生産性皆無の人間の道理に反するLGBTなら
石当て刑でも良いし窃盗犯なら
手首切り落としでも全然良い。
老人・障害者捨て施設があっても良いはず。
>それを世間は直視するべき。
植松君が刑務所に拘留されているのが
信じられないな。日本に多大なる貢献をした
人間に対する行いではない。確かに
合意形成なく突っ走った植松君に全く
非がないわけではないが植松君が世間に
問い掛けた意味は良い意味で物凄く大きい。
施設職員に怪我をさせたが飽く迄も目的は
何の生産性もない重度障害者だったし。
老人でもなく障害者でもなく
健常者(子供)ファーストにすべき。
老人なんて一定年齢に達したら
強制的お陀仏でおk。障害者なんて
生まれた時に強制的お陀仏でおk。
>若者と高齢者、生産年齢世代と65歳以上の高齢者(75歳以上の
>後期高齢者層に限定してもよい)との世代間対立と、
>選挙における特定政党の得票増のための闘争とを、
>何らの媒介要因もなしに直結させる議論は、
>論理的に問題が多いと思う。
生産性のない奴等の選挙権なんか取り上げれば良いんですよ。
何で死に行く者共が国家云々を語るんで?
そこのところから先ず可笑しいんですよ。
死ぬ行くだけの人間に選挙権なんか要らないでしょ。
国の未来を語る資格もないっしょ。正論でしょ?
だから選挙権なんか取り上げれば良いんすよ。
>若者と高齢者、生産年齢世代と65歳以上の高齢者(75歳以上の
>後期高齢者層に限定してもよい)との世代間対立と、
>選挙における特定政党の得票増のための闘争とを、
>何らの媒介要因もなしに直結させる議論は、
>論理的に問題が多いと思う。
生産性のない奴等の選挙権なんか取り上げれば良いんですよ。
何で死に行く者共が国家云々を語るんで?
そこのところから先ず可笑しいんですよ。
死ぬ行くだけの人間に選挙権なんか要らないでしょ。
国の未来を語る資格もないっしょ。正論でしょ?
だから選挙権なんか取り上げれば良いんすよ。
日本は甘やかしすぎですね。
与えようとするから可笑しなことになる。
日本は財政が火の車なのでもっと
シビアになるべきですよ。
そういう風に考えていくと長谷川豊氏の主張
(透析患者は殺せ)も至極真っ当な意見です。
延命させたとろこで1円にもなりはしない。
自己責任・自業自得として諦めてもらおうよ。
>維持する努力をするべきだ。必要性があって、
>努力している高齢者は、認めてあげるべきだろう。
努力は方向性。実の話ではない。
結果が付いて来なければ何の意味もない。
大事なのは結果。過程ではない。
結果が付いて来ないなら認める必要はない。
結果が付いて来ないなら問答無用で
取り上げれば良いしそれでもそこに住みたいと
我儘を言うのならば放っておけば良い。
勝手に死ぬだろう。
相続人放棄が相次ぐような予感があるっすね。
相続人放棄は出来ないようにするべき。
親も子も一蓮托生して共同体の意識を高めるべき。
それでこそ責任ある国家が出来上がる。
>都会で、社会的地位の高かった人物が、87歳になって、
>暴走して起こした事件だ。田舎の貧しい高齢者の苦難などを
>持ち出して、池袋で暴走した元高級官僚を守ろうとするのは、
>的外れである。社会的地位が高かった者に限って自分に甘く、
>周囲も遠慮して苦言を呈することに躊躇しがちだ。
>池袋で暴走した87歳の人物のような老人に、
>二度と暴走させないための政策が必要だ。
これには反対っすね。元官僚は日本に尽くしてきたはず。
そんじょそこらの小市民とは訳が異なる。
池袋で亡くなった被害者はどういう人だったのか。
学歴は?生産性は?そこから導き出される答えで
全てが変わる。例えば大した学歴でもないなら
そこで育つ子供も大したことないだろうし
であるならば功労者(加害者)に忖度するのが道理。
老人は一般的には不要だが秀でた功労者は別っすよ。
ちゃんと価値ある人間(価値があった人間)を
守らない限り優秀な人は国家に尽くそうとは
思いませんよ。
>都会で、社会的地位の高かった人物が、87歳になって、
>暴走して起こした事件だ。田舎の貧しい高齢者の苦難などを
>持ち出して、池袋で暴走した元高級官僚を守ろうとするのは、
>的外れである。社会的地位が高かった者に限って自分に甘く、
>周囲も遠慮して苦言を呈することに躊躇しがちだ。
>池袋で暴走した87歳の人物のような老人に、
>二度と暴走させないための政策が必要だ。
これには反対っすね。元官僚は日本に尽くしてきたはず。
そんじょそこらの小市民とは訳が異なる。
池袋で亡くなった被害者はどういう人だったのか。
学歴は?生産性は?そこから導き出される答えで
全てが変わる。例えば大した学歴でもないなら
そこで育つ子供も大したことないだろうし
であるならば功労者(加害者)に忖度するのが道理。
老人は一般的には不要だが秀でた功労者は別っすよ。
ちゃんと価値ある人間(価値があった人間)を
守らない限り優秀な人は国家に尽くそうとは
思いませんよ。
当然日本の生産性にも多大な寄与をしたのだろうし
そういうのは鑑みるべきですよ。
一つの過ちで全て判断するのは愚の骨頂。
何よりこの資本主義社会。
金で解決出来ないことはないので
金があるなら金払ってチャラで良いんですよ。
それが新自由社会。
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