今日6月28日から大阪でG20が開催される。日本にとっても貴重な国際会議のホスト役の経験になる。成功を期待する。
ところで6月28日が何の日か熟知したうえで、この日程が組まれたのだろうか。今日は1919年6月28日、第1次世界大戦の終結を記したベルサイユ条約が調印されてから、ちょうど100年の日だ。ちなみに第一次世界大戦の端緒となったサラエボ事件が起こったのも、1914年の6月28日だった。
2014年6月28日には、サラエボ事件100周年を記録する式典がヨーロッパでは行われていたように思うが、今回は主要国の指導者がそろって大阪に集結してしまっているので、何もヨーロッパでは開催されないのだろうか。それとも大阪でベルサイユ条約100周年を記念する瞬間が計画されているのだろうか? 今のところそのような話をメディア報道で見ることはない。誰かのスピーチで触れられるくらいのことは考えられているのだろうか?
ベルサイユ条約の重要性については、日本では過小評価されている印象があるだけに、大阪が理由で100周年に誰も触れなくなるのだとしたら、残念だ。
ベルサイユ条約の一部として国際連盟規約が締結された。実質的に国際連盟の活動が始まったのは翌年の1920年だとしても、国際連盟規約の枠組みが成立したのは、今日からちょうど100年前の1919年6月28日だ。日本で開催されるG20が理由で、人々がそのことを思い出さなくなるのだとしたら、いささか残念である。
日本は戦前に「ベルサイユ体制の打破」を唱えるドイツのヒトラーと共鳴して、第二次世界大戦の過ちを引き起こした。そもそも国際社会の強い期待を集めて設立され、1920年代にはそれなりの成果を出しているとみなされていた国際連盟が、崩壊に向けて進み始めるようになったのは、日本が引き起こした満州事変によってだ。日本人が意識している以上に、ベルサイユ体制/国際連盟がたどった運命と、日本の歴史は、密接に連動している。
ベルサイユ条約は、特に国際連盟は、1918年に「14か条の平和原則」を打ち出していたアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンのリーダーシップによって、生み出された。1919年の韓国の3・1独立運動も、中国の5・4運動も、ウィルソンが表明した民族自決の思想への期待から生まれてきたものだ。ウィルソンは「Constitution(通常は「憲法」と訳すが原義としては「政治共同体の根本原理」)of the League of Nations(国際連盟)」の草案を携えてパリに乗り込んだが、最終的な文言は、ヨーロッパ人たちの意見をだいぶ取り入れたものになった。しかしそれでもアメリカの覇権的な力を背景にした国際社会の構造転換は、やはり1919年から始まったと考えるのが、正しい。
国際連盟規約は、次のような文言から始まる。
「締約国は戦争に訴えざるの義務を受諾し、各国間における公明正大なる関係を規律し、各国政府間の行為を律する現実の基準として国際法の原則を確立し、組織ある人民の相互の交渉において正義を保持し且つ厳に一切の条約上の義務を尊重し、以って国際協力を促進し、且つ各国間の平和安寧を完成せむがため、ここに国際聯盟規約を協定す。」
1928年不戦条約及び1945年国連憲章で発展していく戦争違法化の思想は、前文における宣言という形ではあったが、すでに国際連盟規約において高らかに謳われていた。
日本の1945年日本国憲法は、1919年国際連盟規約や1928年不戦条約、及びそれらの継承発展条約である1945年国際連合憲章の影響下で作られたものだ。
日本の憲法学者たちは70年余にわたって、その事実を隠蔽するか、最大限に過小評価するための社会運動を組織し続けてきた。戦争を否定しているのは、ただ日本国憲法だけであり、世界の諸国は戦争を肯定し、交戦権を行使している、といった乱暴なプロパガンダ運動を行い続けてきた。しかも公務員試験や司法試験や国立大学教員人事などの権威的なチャンネルを通じて、せっせと日本社会にプロパガンダを広げる努力を続けてきた。
しかし、憲法学者に盲目的に付き従う気持ちを整理して、客観的かつ素直に歴史を見てみれば、1919年国際連盟規約、1928年不戦条約、1945年国連憲章と連なる国際法の系譜の延長線上で、1946年日本国憲法が起草されたことは、否定しえない事実なのである。疑いの余地はない。
日本の国家体制も、実は1919年6月28日に規定されている。憲法学者になろうとしたり、司法試験や公務員試験を受験しようとしたりするのでなければ、そのことに気づくのに、特段の努力は不要である。
日本国憲法によって国際法を否定するというガラパゴスな社会運動のために、日本は、戦後の長きにわたって、ベルサイユ条約を誤解し、国際連盟規約を誤解し、そして日本国憲法を誤解する国になってしまった。
ベルサイユ条約/国際連盟規約から100周年の今日は、「ベルサイユ体制の打破」を唱えた戦前の日本のイデオロギーだけでなく、国際法を愚弄し続けてきた戦後の日本の憲法学のイデオロギーを、客観的に反省し直すために、最も適した日であるかもしれない。
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第一次世界大戦が終わり、1918年12月13日9日間の船旅を経て、フランスに到着した時、米国全権大使となったウィルソンはウィルソン万歳、アメリカ万歳、と大歓声で迎えられた。それは、4つの帝国、ドイツ帝国、ハプスブルグ帝国、ロシア帝国、オスマン帝国がなくなり、ポーランド、ユーゴスラビア、チェコという新しい国ができたヨーロッパに政治学者の彼が「平和の新秩序」をもたらしてくれる、と期待したからである。
そして、彼は1919年1月「14条の平和条約」を発表したのである。ウィルソンへの期待は、米国オバマ大統領がベルリンで演説された時に、200,000人の人が集まった時のように、大きく、「国際連盟」が樹立された。
お詫びして、訂正します。
もっとも、その評価(ποιέω)や実態(τὸ ἀληθές)、それを生み出すに至った歴史的経緯や講和会議、特に米国に加え、英仏伊の主要国首脳の思惑(δόξα)や駆け引き(συμβόλαιον)などについては、肯定的否定的(φασκω καὶ ἀρνεῖσθαι)とを問わず種々議論があることもまた「事実」(ὅτι)だろう。
国際連盟設立につながる前年の1918年に第28代米国大統領ウッドロー・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)が打ち出し、それによって彼がノーベル平和賞を受賞する理由になった「平和構想」、つまり「14箇条の平和原則」にしても、彼個人のリーダーシップ(ἡγεμονία)と言ったところで、その内実(τὸ τί ἦν εἶινι=ἀληθῆ)は誠に頼りないもので、実際にはヨーロッパの古狸、即ち英仏両首脳、つまり英首相ロイド=ジョージ(David Lloyd-George)と仏首相クレマンソー(Georges Eugène Benjamin Clemenseau)にいいようにあしらわれ、講和会議に乗り込んだ際の意気込みや理想とは程遠い講和内容となったこともまた、否定できない「事実」だろう。
歴史上初めて経験する「総力戦」(guerre totalale)になったことで欧州各国とも戦費調達に苦しむなか、英仏伊に莫大な戦費(英42億ドル、仏68億ドル、伊28億ドル)を貸し付けたことで米国が国際的な優位性を強めたことも、戦後の米国主導の国際秩序形成につながったと言える。
ドイツが「不当な」(ἄνισος)権利剥奪(ἄτνμία)と反撥するのはその限りでもっともだが、ナチスの政権獲得に至るその後の動きすべてを条約(σύμβολα)という国際的な契約(συμβόλαιον)、確立された(βέβαισος)法規範(νόμος)に責めに負わせる(αἰτιάομαι)のまた筋違いで、ドイツにナチズムが生まれ、それが国民の熱狂的な(μανικός)支持を受けるのはドイツ固有の政治状況が背景にある。国家ぐるみでのユダヤ人大量殺戮を含め、ドイツの罪状はいかなる「言い訳」(ἀπολογία)も許されない。
一方で米国は、自ら提唱した国際連盟には国内事情から加盟せず伝統的な孤立主義的政策を維持しては、世界恐慌後に各国が国家主義的な貿易再編、つまり自国と植民地間での貿易を優先させるのを牽制して、自国の国益維持に向け世界経済の再構築を促す目的で、互恵通商協定法(1934年)と中立法(1935年)を相次いで制定して世界的な経済覇権確立に本格的に動き出すその後の国際情勢の底流をつくったともいえる。
教養ある大学人ウィルソンの理想論とは別次元で国際政治は熾烈に動いていた、ということだろう。
その後の満州事変を経て敗戦に至る日本の蹉跌は、条約違反の面は否めないが、端的に言えば状況判断の過誤(σφάλμα)と政策選択の失敗(ἀτυχία)だ。リットン調査団は、列強の一員である日本側の立場に苦慮したそれなりに「非常によくできた」(加藤陽子『戦争の日本近現代史』、2002年を参照)報告書を提出して、日本に一定程度の譲歩を示したと言えなくはないが、経済的権益を脅かす中国への国際法的裁定が下るのを期待した日本側の予想は裏切られ、報告書に反撥する軍部や国内世論を抑制できなかった。
それでも、1933年5月に、関東軍と中国軍の間で締結された塘沽停戦協定によって、満州国が熱河省まで支配地域に収め、「長城線」が中満間の事実上の国境線となり日中間の小康状態が実現していた。
ただ、満州事変がその後の日独伊三国同盟への道を開き、結局、米国の戦略と衝突する最大の要因になったわけで、新たな局面で次第に対応を変えていった英米などの出方を読み切れなかった、詰めと読み(πρόνοια)の甘さは否定できない。
ヴェルサイユ体制は、不戦条約や軍縮を含め、所詮は欧米主導の戦勝国の戦後秩序であって、実際、ウィルソンの民族自決原則も、英仏などが第一次大戦前に獲得した植民地については適用外という、偽善的で妥協的な内容だった。
それに挑戦するなら、日本はもっと別種の論理立てで臨むべきで、京都学派の脱欧米中心史観の「世界史の多元化」や「近代の超克」についても、その理論的正当性の如何はともかく、現実感覚の欠如(στέρησις)という点で甘過ぎたのである。[完]
調印100周年を迎えるヴェルサイユ条約は、パリ講和会議という戦勝国の法廷(δικαστήριον)によって正当化(ὀρθόω)された新たな世界秩序(κόςμος)の始まり(ἀρχή)だった。
始原の意味をもつギリシア語アルケー(ἀρχή)は同時に、「支配」を意味する。その新秩序であるヴェルサイユ体制が成立したのは、所謂「帝国主義」(imperialism)の時代で、この言葉の基になるラテン語のインペリウム [imperium]もギリシア語のアルケーから来ている。
[ἀρχή]は、元、始め、発端を意味し、「支配」の意味をもつようになったのは、始めに存在する第一人者と「支配」する者とが重なるためとされる。
[imperium]は、首長(principatus)である第一人者の主要な役割、つまり「命令」を意味し、付言すれば、 [ἀρχή]は、今日われわれが頻繁に使うヘゲモニー(hegemony)の元の言葉である「覇権」=ヘーゲモニアー(ἡγεμόνεια)に近い。覇権は支配する(ἡγεμονέω)、指導者(τὸ ἡγεμονέω)、主導権(ἡγεμονία)と同根だ。
翻って、憲法9条解釈における、日本の憲法学主流派の退嬰的姿勢は、日本の敗戦(ἡ ἧττα)が生んだ平和(εἰρήνη)へ近視眼的(μύωψ)な願望(βούλησις)の投影であって、近代の宿命であるヴェルサイユ条約への無理解より、それへの対抗重量とはなり得ない思想的な貧困による。
アテーナイとスパルタがギリシア世界を二分して争ったのがペロポネソス戦争(BC432~404)で、それを今日の米中による「貿易戦争」に端を発する覇権争い(ἀγών)、即ち新たな軍事技術開発にも直結する次世代型の情報通信技術開発での主導権や、既存の国際秩序に挑戦するかのような膨張政策を進め、超大国化への野心を隠さない中国を封じ込めようとする米国との熾烈な覇権獲得をにらんだ対立(ἀντίθησις)に重ねて「新冷戦」と評する識者も少なくない。
米国の政治学者でHarvardケネディ行政大学院初代院長のGraham T. Allison(1940~)は、話題の著書で、新旧覇権国家の確執が戦争に発展するというシナリオ=「トゥキュディデスの罠」(‘The Thucydides Trap’=“Destined for War: Can America and China Escape Thucydides’s Trap?”, Houghton Mifflin Harcour, 2017=藤原朝子訳『米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』、ダイヤモンド社、2017年)を、過去の類似の歴史的事例と合わせて分析している。
それによれば、新旧覇権国家の対立が戦争に至る、開戦理由を含めた「表向きの理由」(πρόφασις)と、その根底にある、戦争をを引き起こす「本当の理由」(ἀληθής πρόφασις)とは別であることは、トゥーキュディデースが記録した古代ギリシアの世界大戦であるペロポネソス戦争でも明らかだが、それは必ずしも見えやすいものではないのもまた、歴史認識の難しさだ。
しばしば誤解されるように、アテーナイは卓越した指導者で14年にわたり将軍(στρατηγός)として国を率いたペリクレスの死後、求心力のある指導者を欠いて「衆愚政治」(δημοκρατία)に陥り、政治的意思決定に綻びが出たことでスパルタに敗れたとする俗論があるが事実誤認で、ソフィスト(σοφιστής)の影響で、国政を揺るがすほどデマゴーグ(δημαγωγὸς)が跳梁跋扈したわけでもない。
それでも、開戦後二年余で「第一人者」(‘Imperium’=ὁ μοναρχέω)と称されたペリクレスを失ったことに加え、停戦を含む長期戦を通してアテーナイは同盟国の相次ぐ離反やスパルタが仇敵ペルシアと結んで海軍力を増強するなか、内部対立もあって迷走し、シチリア遠征の失敗なども重なって27年に及んだ長期戦の末に力尽きる。
もっとも、戦争には勝ったものの、スパルタはギリシア世界全体を指導する理念も実力もないためテーバイに覇権を譲り、その後は結局、ギリシア連合軍が北辺の新興勢力マケドニアに敗れて、ギリシアの諸国家は独立を失う。歴史の現実とは過酷なものだ。
結局、戦争の勝者が必ずしも真の(ἀληθής)意味での歴史上の勝者ではないことを教えるのもまた歴史で、世界を主導する理念を生み出す力の有無がそこに介在しているようだ。なぜなら、歴史の審判(κρῖτής)によって選ばれた勝者はスパルタではなく、民主制の故国(πατρίς)、アテーナイだからだ。[完]
「ヴェルサイユ条約」は、欧米主導とは言っても、第二次世界大戦後の平和条約と違って、戦争の責任はすべて敗戦国側にあるという「一方的な怨念がこもった命令条約」なのである。1500万人の死者、甚大な被害を出した第一次世界大戦の非はすべて敗戦側にあるとし、その賠償をすべて敗戦側に負担させたのである.
.そして、1871年にフランスが普仏戦争の敗戦の調印をしたと同じ場所で、ヴェルサイユ条約の調印が行われている。
賠償金の額の問題よりも、ヴェルサイユ条約の231条、「第一次世界大戦勃発の責任は、すべてドイツ人にある。」という規定がドイツ人を怒らせたのであって、その条項の規定を元に、Schand- und Schmachfrieden 「恥ずべき屈辱的平和」と熱弁をふるうヒトラーの政治スローガンが、ドイツ人魂に火をつけたのである。また、トルコとの条約が遠因となって、現在中東で紛争が続き、甚大な被害がでている。それを考えた時、大きな記念行事がヨーロッパでは開催されないのは、当たり前なのではないのだろうか。日本では、第一次世界大戦のことがあまり知られていないので、知るべきだと思うが、正と負の両方の側面を同時に、メディアには報道してほしい。
クレマンソーは、外相ではなくて、首相でした。ポアンカレ大統領に請われ、首相に就任し、断固としたドイツとの戦争政策を強行し、厳しい対独論、多額の賠償の支払いを主張して、ヴェルサイユ条約に調印したのです。お詫びして訂正します。
ついでに付け加えると、彼はヴェルサイユ条約に調印した翌年、大統領選に挑戦しますが、敗北して、政治家を引退します。つまり、彼はこの政策は、フランス人に支持されていなかった、のではないでしょうか。
ドイツに過酷な賠償金支払いを科する内容のヴェルサイユ条約案を、将来に重大な禍根を残すとして、職を辞してまで強硬に反対した、英大蔵省代表の経済学者ケインズの観察である。
手元に一枚の写真がある。パリ講和会議に出席した四巨頭(ジョルジュ・クレマンソー、英首相ロイド=ジョージ、米大統領ウッドロー・ウィルソン、伊首相ヴィットリオ・オルランドオ=筆者註)を写した報道写真(The Illustrated London News)で、人間観察の達人の目で見ると、クレマンソーに比べ、右隣にいるウィルソンが如何にも凡庸(φαυλότης)で愚鈍な(νήπιος)人物に見えてくる。
ケインズの予想は不幸にも的中し、賠償金支払いに苦しんだドイツ経済は大混乱に陥り、再び欧州どころか、世界中に戦乱に巻き込む原因になるが、その素地は講和会議の遣り取りの中に既に胚胎していた。
四巨頭会議の例会が催された大統領官邸の部屋…での彼の座席は、暖炉に面した半円形の中央にある四角な綿織の椅子で、左手にはオルランドオ氏、その隣の暖炉のそばが大統領、そしてこれに向かい合って暖炉の反対側の彼の右手に首相(ロイド=ジョージ=筆者註)がいた。
クレマンソーは書類も紙挟みもいっさい携えず、一人の個人秘書も連れていなかった。…彼の歩きぶりや、彼の手や、彼の声には活気がなくはなかったが、それでも攻撃を受けた後などでは特に、重要な機会のために力を蓄えておこうとする非常に年寄りじみた顔つきをしていた(当時77歳=筆者註)。
彼は喋ることがごく稀で、冒頭におけるフランスの主張の陳述も閣僚や官吏たちに任せていた。また、しばしば目を閉じて、グレーの手袋をはめた手をきっちり正面に組んだまま、羊皮紙のような無感動な表情で椅子に深くよっていた。
決定的な、あるいは冷笑的な、簡潔な言葉で普通は十分なので、それはあるいは質問であり、閣僚の主張の全面的な撤回であり――その際彼らの面子は丸つぶれになるわけだが――、あるいはまた辛辣な英語を述べた数語によっていっそう強められた、頑固さの表明であった。
しかし、必要となると弁舌や情熱が欠けていたわけではなく、突然、堰を切ったような言葉の奔流が、しばしば胸の奥から発する深い咳の発作をともなって、説得力というよりはもむしろ迫力と不意打ちとによって、人に感銘を与えたのである。」
大阪で開催中のG20 も同様、国運を賭けた国際政治の舞台での各国首脳の応酬が政治家個人の資質や卓越性のみに左右されるはずもないが、クレマンソーのような、地味ながら非凡な才能はケインズとは違った意味で、時代の先を見越していたとも言える。
いずれにしても、四巨頭の中で英語と母語だから当然だがフランス語を同時に話したり聞いたりできたのはクレマンソーだけだった。大統領とロイド=ジョージは英語のみ、オルランドオ伊首相は英語はだめでフランス語だけで、伊「首相と大統領が直接に意思疎通する手段を持たなかったということは、歴史上重要な意味を持っている」とするのがケインズの観察だ。
引用を続ける。
「押し寄せる人波や、がやがやいう騒音の中心になるのが大統領と首相(ロイド=ジョージ=筆者註)であり、そこではとりのぼせた、即席の妥協案や反対の妥協案がうずを巻き、全く無意味な騒音と怒号とが入り混じって、いずれにしても非現実的な問題にすぎぬもののために、その朝の会合の重大な論点は忘れられ、疎かにされてしまう。
そうしてクレマンソーはというと、少し離れたところに無言のまま、超然として…グレーの手袋をはめたまま、綿織の椅子の上に鎮座しており、心の中は無感動でなんの希望もなく、いたく老い疲れて、だが冷笑的な、いたずらっぽい態度でその場の光景をうち眺めていた。そして、最後になってやっと静けさが立ち返り、一堂の者が自分の席に戻ってきたときには、その姿はもうどこにも見えなくなっていた。」
彼にとってフランスは一つの幻想であった。そうして人類は、フランス人や同僚たちも何ら例外ではなく、彼にとっては幻滅であった。彼の講和に対する原則は簡単に述べることができる。
まず第一に、彼はドイツ人の心理について、次のような見解を真っ先に信奉している人であった。即ち、ドイツ人というものは威嚇以外には何も理解しないし、また理解もできない。交渉にあたっては情け容赦も仮借もない、有利とみればすかさずつけ込んでくるし、利益のためにはどんな下劣なことでも敢えてする、彼らには名誉も誇りも慈悲もない。
だからドイツ人とはけっして交渉したり、これを懐柔しようとしたりしてはならぬ。ドイツ人にはただ命令しなければならぬ。それ以外の条件ではドイツ人は人を尊敬しないし、また彼らに人を欺かせないようにすることはできないであろう、と。…
だからして彼の哲学には、国際関係について「感傷性」の入り込む余地はなかった。国とは現実的なものなのであり、人はその中の一つを愛し、それ以外の国には無関心か、それとも憎悪を抱く。愛する国の栄光は願わしい目的ではあるが、それは普通は隣人の犠牲においてのみ得られるものなのだ。
権力政策は免れがたいところであり、このたびの戦争について、あるいはこの戦いの目的について、格別新しく学ぶことといっては何もない。イギリスは、過去のどの世紀にもそうしてきたように、商売敵を打ち破ったのであり、ドイツの栄光とフランスの栄光との間の、積年の争いにおける大きな一章が閉じられたのであった。」
「抜け目なく立ち回るには、愚鈍なアメリカ人と偽善的なイギリス人との『理想』に対して、いくらかでも口先だけは賛意を表することが必要であった。しかし、現実の世界において、国際連盟のような事柄に対して大きな余地があるとか、あるいは民族自決の原則のうちに、自国の利益のために勢力均衡の再取り決めをしようとする巧妙な方式として以外に、何らかの意味があるなどと考えたら、それは馬鹿げたことであったろう。」
身も蓋もない話だが、「人間自然の性情」(ἡ φύσις ἀνθρώπων)が容易には変わらない限り、人間のすること(τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων)の集合体である国際政治の紛れもない現実(τὸ γιγνόμενον)だろう。
なかなか食えない爺さんだが、一般論としては彼の洞察は正鵠を射ている。
米国大統領の掲げる14カ条の平和構想は一種のイデオロギーであって、「公正にして平等な処遇による講和は、ただ、ドイツの回復の期間を短縮し、ドイツがもう一度、より大きな人口や優れた資源と技術的熟練をもって、フランスに襲いかかる日を早めるような効果を持ちうるにすぎない」というカルタゴ式講和の世界観は、ケインズも指摘するように、所詮は「老人の政策」であって、未来の展望を切り開く理念には乏しいのは紛れもない事実だが、そう簡単に人間は進歩せず、別の形でドイツが何度でもフランスを凌駕する形勢を示している現在を見る限り、新たな危機や確執に姿を変えたにすぎないのもまた事実だろう。[完]
ところで、「クレマンソーはフランスについて、ペリクレスがアテーナイに対して感じていたこと――つまり、他のことはどうでもよく、ただ二つとないアテーナイの価値ということ――を感じていた」(ケインズ)とされる民主政治の祖国アテーナイは、ペリクレスが卓越した指導者として14年にわたり将軍(στρατηγός=最高指導者)として国を率いた時代、事実上の彼の「独裁」(μοναρχία)だった。
そして、古代ギリシア世界の帰趨を決する世界大戦だったペロポネソス戦争は、自由と同盟国支配が直結した民主主義の盟主アテーナイが、スパルタを中心とする専制国家群と雌雄を決するべく激突した「イデオロギー戦争」でもあった。それが開明的な海上帝国であったアテーナイの敗戦によってその後の地中海世界に深甚な影響を及ぼし、古代ギリシア世界の覇権終焉への序曲となっていく。
極端な直接民主制国家であるアテーナイにあって、常に反対勢力の激しい攻撃にさらされながら、文字通り鋼鉄の意志で民衆を叱咤激励して戦争指導にあたったのがペリクレスだった。
自ら立案した政策と戦略を説得力に富む論理で推し進めた、卓越性(ἀρετή)という点で当時望み得る「奇蹟的な人物」(田中美知太郎『ツキュディデスの場合』、『田中美知太郎全集』第12巻、429頁)だった。そして、開戦後二年余でこの強力な指導者を失ったことも手伝ってアテーナイは迷走し、その他の不幸な(ἄθλιος)出来事も重なって27年に及んだ長期戦の末に力尽きた。
そうしたペリクレスの開戦第一年の冬の葬送演説(ἐπιτάφιος λόγος)がある。その特徴は、戦死者個人を称讃する以上に、アテーナイ人(Ἀθηναῖοι)が達成した国家的価値観、民主制を讃美することで、それを守るために斃れた(ἀποθνῄσκω)自由と民主制の勇士(ἥρως)を悼む(ἐπιτᾶφέω)民衆政へのオマージュ(ἐπαινος)だった。
なぜなら、この国家について私が讃美したものは、この戦死者とかれらと同じように行動した人たちとの徳と武勇が、よってもって国家の飾りとしたものにほかならないからである。」(トゥーキュディデース『歴史』、第2巻42章1~2節)。
さらに続く。
「すなわち、われわれの採用している国制(πολιτεία=政体)は、近隣諸国の法制を有難がって、それの真似をしたものではない。他の真似をするよりも、自らを他の規範たらしめている。国政は少数者の意向によるものではなくて、かえって多数者のそれに従って行われるが故に、公民統治(δημοκρατία=民衆政)と呼ばれている。しかし、個人的利害の衝突に関しては、何人も法の前に平等であり、各人が何らかの栄誉を得る場合の評価に関しては、家柄その他が個人の実力よりも公に優先させられるようなことはない(「つまり各人の得る声望に基づき、それに従って階級によらず、能力本位に公職者を選出する」=筆者補注)。そして国家に何らかの寄与をなしうる者あらば、その貧しきがゆえに名もなく朽ちることはない。この公共生活における自由は、日常生活における個人相互の気遣いにも及ぼされ、隣人がなにか放逸に流れても怒らず、悪意をもって私事に干渉することもない。」(引用続く)
なお、通常、民主制と訳されるデモクラティア(δημοκρατία)を、敢えて聞き慣れない「公民統治」としたのは、ペリクレスの意図する「デモクラティア」は、すべての市民が法的に平等の権利をもつと同時に、有能な市民がすべての市民によってすべての市民から選出されて公職に就く側面を指しており、近代「民主主義」が想定する国民主権とはニュアンスが異なるからだ(筑摩書房『世界古典文学全集』[現在はちくま学芸文庫]版『歴史』の訳者小西晴雄氏による)。
さらにそこで注目すべきことは、戦没者を悼む追悼演説が、われわれが想像するような種類の故人(νεκρός)の徳を讃え、冥福を祈る儀礼的な弔辞にとどまらず、国家のために死んだ故人を直接誉めたたえるのではなく、祖先から始まってその当時に至るまでアテーナイ人の達成したものを讃美する(ἐπαινέω)形をとることを通して、結果的に国家のために死んだ故人を賞讃する頌詞(ἐπαινος)として演説が構成されている点を見落としてはならない。
カ氏が盛んに持ち上げるヴァイツゼッカー西独大統領の戦後40周年演説が、そうした普遍的価値観に拠らず、単にナチスに壟断された戦争中の不正や不幸を説き、敗戦をナチスからの「解放」と言い逃れ、国家のために死んだ同胞への退嬰的な姿勢が目立つのと対蹠的だ。
そこには、戦後40年という「安全地帯」からの、ドイツの見え透いた自己弁護(αὐτὸς ἀπολογία)しかない。
一方、排外的で軍事訓練に明け暮れたスパルタのような専制国家は、文明発展に何ら貢献していない。ペリクレスの雄渾な演説の向こうに、民主制を貫く背骨ともいえる、ギリシア人の強靭な思考力が垣間見える。
翻って、戦前のドイツ同様、急速に膨張を続ける中国もまた信頼ならない警戒すべき(φυλακτέον)存在で、時代も取り巻く国際状況も異なるが、少なくとも両国に今後の世界を理念的な面で指導する(ἡγεμονέω)開明性を期待することは到底できないだろう。
現在の共産主義独裁の中国は、有史以来3000年余の歴史を誇るシナ文明の正統な(ὀρθός)継承者とは認め難い点が少なくないからだ。現在のギリシアが西洋文明の母体である古代ギリシア文明の正統な担い手でないのと同様だ。
現在の中国に、将来展望の困難な世界を見通す「古典的な拠り所」(locus classicus)となるような指導理念などどこにもない。「一帯一路」も「社会主義強国」も覇権国家(τὸ ἡγεμονέω)の見え透いた方便にすぎない。
われわれが、あまたの欠点(κακία)を承知しながら、それでもなお米国を同盟国として選び、米国を孤立させてはならない所以だ。大義は中国ではなく、今なお米国にある。商売(καπηλεία)優先で中国にすり寄るドイツにもない。
会期中に期せずしてヴェルサイユ条約100周年を迎え、きょう29日に幕を閉じるG20 サミットは、のちに歴史を振り返った時、だぶんその象徴的な舞台なのだろう。[完]
米国のトランプ大統領の演説をきいたが、はっきり言って失望した。自国の経済のこと、しか考えていない。中国に米国の農産物を買ってもらう、Huaweiにアメリカ製の部品を買ってもらう、すべて、デイールと称して、圧力をかけて、米国の国民が豊かになる為に、米国製の商品を買ってもらう、ことにしか興味がないようだし、環境問題への関心もほとんどない。環境問題で成果をあげるために、日本の安倍首相は、独仏首脳に頼り、中国やロシアの首脳にも根回しをして、トランプ大統領を丸め込んだのではないのだろうか?たしかに、篠田教授や反氏の主張されるように、安全保障面で、アメリカに頼らざるを得ないが、国際社会をいい方向にもっていくためには、国際協調や根回しが必要だ、ということがよくわかった。安倍首相は「大阪トラック」創設にしろ、なんにしろ、G20でいい仕事をされた、と私は思う。
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