参議院選挙の公示にあたり、新聞社が政党支持率の調査の結果を公表した。政権支持率は60歳以上では半分以下だが、20代では7割になる、などと報道した。
この現象について様々な角度からの検証をするのは大切だろう。しかし新聞等の論調を見ると、冷戦時代の思い込みを振り回すものが多いのに驚かされる。そして「今の若者は現状維持的だ」といった漠然とした印象論を、堂々と論じていることに驚愕する。
確かに自民党は「保守党」ということになっているが、それは政党分類の便宜的な伝統でそういう言い方なされているだけだ。その場合の「保守党」は、「今の若者は現状維持的だ」というような話の意味での「保守的」とは、同じ「保守」という言葉でも、内容が違う。世界を見渡しても現状変革の度合いが高い急進的政策を掲げる「保守党」はたくさんある。むしろ1980年代のレーガン・サッチャーの「保守革命」以来、それが普通だ。
年金問題を例にとろう。野党は、自民党を攻撃する手段として年金問題を取り上げる。自分たちが政権をとれば年金を充実させると主張する。ところが、それではどうやって年金支給額を上げるのかと言うと、控えめに言って曖昧だ。それでは若者はついてこない。
立憲民主党は、参院選の公約発表時に、政策実現のための財源は、「税制の見直し」「累進性の強化」などで確保すると呟いたが、曖昧に済ませている。共産党は、財源として7.7兆円が必要だと試算したうえで、公共事業や軍事費の削減といった話に持っていくが、そうなると経済政策や外交政策の裏付けに不足感が出てくる。
若者は恐れているのだろう。「若者よ、安倍政権に怒れ、そして高齢者にもっと豊かな生活させろ、現役層は喜んでお金をもっと払う、と叫べ!」、と言われているのではないかと恐れているのだろう。
冷戦時代であれば、大企業から金をとって社会保障を充実させよう、という政策は、階級史観にそって解釈された。したがってそれは「労働者よりの政策」といったことになった。だが現代日本では、そのような発想方法では、冷戦ボケを露呈するだけだ。
「大企業からお金をとって社会保障を充実させよう」、という主張は、現代日本では、「現役世代からお金をとって高齢者の生活を豊かにしよう」、という主張にしか聞こえない。
「年金だけではないよ、元アイドルに子ども手当も増やせと言ってもらっています」、と主張しても、「勤労者からお金を取って、高齢者や主婦を優遇しよう」という政策にしか聞こえない。
現代日本の構造的現実から目をそらしたまま、若者が保守党を支持するのは若者が保守的だからだ、といったダジャレのようなお喋りだけを繰り返しても、何の意味もない。そんなことでは、大新聞もろとも若者層からの信頼を失うだけだろう。
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テレビや新聞の根城にする「老害たち」は、高齢者世代こそがテレビ新聞を熟読し批判精神をもっていると言うが、その逆で若い世代こそがSNSなどで相互批判をメッタメッタにやられて批判能力を持っている。(高齢者の井戸端会議では、政治問題をできるだけ避け、厄介事を嫌うので共産党員の爺さん婆さんの独り言を聞き流す)
池上彰が、「以前の日本は全国から集まった若者たちが古武士のように大学で政治を語り、社会を動かした。今の若者は無気力だ」みたいなことを語って、「その結果が東大安田講堂闘争(や地獄の過激派闘争)だよ、アホ」と速攻でやられるように、もうだまされる人間はそんなに多くない。民主党の政権獲得前後の馬鹿騒ぎをどう見るかはその復習問題だった
これは、いつもの野党とマスコミ政治部の選挙戦略なのである。典型的な例が、自民党の宮澤政権の不信感を煽り、政治改革、という名前の「選挙制度改革」を争点として、「細川政権」を作り、政権が交代できた、と大騒ぎした時である。あの頃から、日本の国力は低下し始めたと私は思うが、「不信感」を煽って、別の政党を選んでも、別の政党が、優れた政治をしてくれる、という保証はないのであって、本来、政治は、「信頼」であるはずなのである。「信頼」するからその政党や政治家に投票するのであって、「信頼できない」から、未知数のもう一方の政党や政治家に投票するわけではない。私たちが影響を受ける予算や法律は、その人選で決まるのだから、結婚と同じ、本来もっと、真剣な行為であるはずなのではないのだろうか?結婚でも、その人に不信感をもったから、といって、もう一人の人を選ぶだろうか?結婚自体をしない、つまり、棄権するのではないのだろうか。
反氏は、民主政治を擁護しようと、否定しようと、中国のような異形の社会主義体制を賞讃しようと、打倒して民主化すべきだと考えようと自由で、そうした政治的自由を保障するのが民主制だ、と考えておられるが、そうではない。ドイツは、政治的自由を保障するのが民主主義、だと考えて、ヒトラー政権のような独裁制を生み出してしまった過去を反省して、敗戦後、民主主義に沿った手続きで民主主義体制を覆そうというものから民主主義体制を守る「戦う民主主義」で憲法が作成され、統一後も同じ精神が貫かれている。これは、寛容を是とする伝統的なリベラリズムにおいて、「人はすべての場合に寛容であるべきというわけではなく、不寛容な者には不寛容であるべき」であり「不寛容なものに対しては寛容に変わることを要求する」とする考えに基づいている。
日本の大手マスコミは、戦前も、宮澤政権の時も、時の政権への不信感を煽って、日本の針路を誤らせたのだから、現政権の不信感ばかりを煽り続けるのをやめ、「争点」であるべきものを、「争点」にして、しっかり各政党の主張を報道すべきなのではないのか、ということが私の主張である。
日本も英米のまねをせずに、原点に回帰すればいいのではないのか、と思う。「ライン型」資本主義、これは、戦後の日独の驚異的な経済発展の原点である。株は、上がるときは上がるが、下がるときは下がって、予測がつかない。「年金」問題でも、原資が大きければ、その配当で年金の上澄みができる、という説はそのとおりだし、自民党案に反対する野党のように、原資を減らしても年金額を増やす、などという考え方は、論外であるが、金融機関が融資した資金で、企業の業績があがり、その収益を「裕福な株主」にではなくて、「その企業の労働者」により多く分配すれば、企業の従業員の老後の不安は減るのではないのだろうか。企業が倒産し、失業することが、老後の年金と共に勤労者の不安材料なのだから。母方の祖父が、戦後地方の「信用金庫」の理事長として、さまざまな中小企業に融資をして、地方の方にとても喜ばれていた。マケドニアで、資金と技術を提供して、高速道路を建設している中国、を見て、技術力も、資金力もある日本が、なぜ、中国の様な商売をしないのか、という素朴な印象が私にはある。
もっとも、この問題についての私のスタンスは、政治問題としてはともかく、問題設定に関して論理的に疾うに決着がついており、従ってそれに対する正しい対応は、答えることではなく、問題自体を葬る(ἆποτίθεσθαι)=解体する(διαλύω)に如かずと考えており、カ氏相手に「クズ投稿処理」の暇つぶしに終始していたが、稿を改めても、無学な(ἀμαθής)「婆さんの他愛もないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)が尽きないようだ。
2の冒頭の⇒【反氏のコメントを読むと、私を突き動かしているものが、並はずれた自己愛であるかのようである】とか、非自民非共産の連立政権、細川護熙内閣が、2②⇒【政治改革、という名前の「選挙制度改革」を争点として…】のような、如何にも陳腐な評論家のような愚劣な御託を並べて長広舌をふるって(πακρολογέω)いる。
3⇒【ナチス…民主的な憲法の元…マスコミの演出と政治家の演説に惑わされて、ヒトラーのような政治家を政治指導者に選び、国やヨーロッパ全体が悲惨な状況…】のような、蜘蛛の巣(ἀράχνιον)が張った低劣な(πονηρός)お頭に相応しい(πρέπον ἐστίν)、如何にも大風呂敷な(χαλαρός)愚劣な議論を臆面もなく(ἀναισχύντως)披瀝(φημί)していて、その厚かましさ(ἀναισχυντος)と凡庸さ(μέσος)に、うんざりする。
その、硬直性(ακληρός)と知的偏狭性(σμικρολογία⇒「狭量な心」(σμικρολογία ψυχῇ)が人を過たせる=「けちな根性を少しでももっているのを見逃してはいけない、ということだ。なぜなら、およそ狭量な心というものくらい、万有の全体を――神的なものも人間的なものも――常に憧れ求めようとするほどの魂と、正反対の性格のものはないからだ」〔岩波書店版『プラトン全集』第11巻、藤澤令夫訳、プラトン『国家』486A〕; ‘μή σε λάθῃ μετέχουσα ἀνελευθερίας: ἐναντιώτατον γάρ που σμικρολογία ψυχῇ μελλούσῃ τοῦ ὅλου καὶ παντὸς ἀεὶ ἐπορέξεσθαι θείου τε καὶ ἀνθρωπίνου. ἀληθέστατα, ἔφη.’)は、ヒトラーに騙された(ἐξαπατηθῆτε)と称するドイツの強欲な(ὀψοφαγος)民衆にも似て、狭量な心の救い難さを、まざまざと見せつける。
3②⇒【ゲーテの…文言(「信頼できる政治家」を選ぶべき=筆者註)をみつけた時に得心…留学して、感じた政治に対する日本との一番の違いが、この差】のような、見境なしのゲーテ信仰(πίστις)、海外信仰をもち出して自己満足に浸っているお目出度さに、開いた口が塞がらない。
カ氏の見当違いな、文学や音楽、つまり芸術(ποίησις)と政治とを同一次元で論じて疑わない単純(ἁπλότης)で歪んだ芸術趣味、事大主義(ἡ δεσποτκός)の表れだろう。
3③⇒【ドイツは、政治的自由を保障するのが民主主義、だと考えて、ヒトラー政権のような独裁制を生み出してしまった過去を反省】というが、それは民主的合意形成が歴史的に形成されず、政治的に未熟な(οὐ πέπων)国家(πόλις)、国民(πολίτης)、民族(ἔθνος)の場合であって、同じ歴史的、政治的状況であっても他の国家や民族がドイツと同じになるとは限らず、大した教訓(ἡ πᾶροιμία)にもならない。
その根底には、欧州を長らく支配した国際基準であるラテン語やカトリックの文化的伝統から逸脱したドイツ的偏狭性が潜んでおり、その代表格としてルターの狂信的な(μανικός)独善(δόγμα)に満ちた心性を論じたが、先の大戦中にナチスの反ユダヤ主義に同調して罪なきユダヤ人たちを死の淵に追い込んだのも、カトリックではなくまさに「ルターの末裔」であるドイツのプロテスタントだったことは歴史的事実であり、マックス・ウェーバーも「カッサンドラー(Κασσάνδρα)の叫び」として、祖国(‘πατρίς’)の前途を憂い、警告(πρόνοια)を発した所以だ。
4~5は、例によって愚気もつかない信仰告白(ἡ ὁμολογία)で、相手にするまでもあるまい。齢70近くにもなって、何の思慮深さ(εὐβουλία)、知慧(σοφία)もない「おままごと投稿」の典型だ。愚劣な経済論議は聞くに堪えない。[完]
(参考 愛するということ、E.フロム、鈴木晶訳、p151-154 紀伊国屋書店)
9⇒【難しくても、意味があれば人は読むが、読まれない…愛されていない、その本を読むことに意味に意味がある、と思う人が少ない】のだそうだ。
思想(διανόησις)や思考(διάνοια)に愛する(φιλεῖν)も愛さない(ἀγανακτεῖν)もない。「真理を究める」(φιλαληθής)ことはもとより、「真理を愛する」(φιλαληθής)こと、特に厳密(ἀκριβῶς)で総観的(σύνοψις)かつ根源的な(κύριος)、つまり、ものごとをできるだけ完璧に(παντάπασι)考える営為(πρᾶξις)である哲学(φιλοσοφία)にとって、【世界的なベストセラー】など何の意味(διάνοια)もない。
そうした未熟な(οὐ πέπων)、他人(ὁ ἄλλος)の思考に屈伏する(δουλεύω)隷属(δούλωσις)でしかない、自分の責任(αἰτία)で「総合的に考える」(συλλογίζεσθαι)習性(ἦθος)をもたない、その自覚もない(ἀγνοέω)カ氏のような齢70近くにして精神の幼児(ὁ γέπιος)が、当てが外れて何度でも間違え(ἁμαρτάνω)、結局は臍を噛むことになる。それだけナイーヴであり、畢竟お目出度い(εὐήθεια)のだ。
しかも半可通(ἡμιπόνηρος)で何の教訓(ἡ πᾶροιμία)もできておらず、‘intellectual yet idiot’(頭でっかちの知恵なし、高学歴の大莫迦)の域にも達していない「無学な婆さん」の愚劣なおしゃべり(λήρησις)だから、児戯(παιδῖκός)に等しい。
ジャーナリストのレジェンド、楠山義太郎さんも、そんな「ことわざ」を使った「わかりやすい表現法」が好きだった。母は、そんな楠山義太郎さんを尊敬し、父には、「難しいことは、頭のいい京大で哲学を学んだ、あなたが考えなさい。」と時折ちゃかしていたが、「真実」はやさしい、わかりやすい言葉を使っても「真実」だし、「虚偽」は、難しい言葉や様々な演出を駆使して「あたかも真実らしく」みせるから、「真実と混同」されやすいが、「虚偽」なのである。
大事なことは、真実と虚偽を正しく判断すること、ドイツの首相のメルケルさんが、米国のハーバード大学で講演されたとおりなのだ、と私は思う。
人生(βίος)も愛(φιλία)も、恋(ἔρως)だったらなおさら、所詮は争い(ἀγών)であり闘争(ἀμφισβητεῖν)、所謂「万人の万人に対する闘争」(bellum omnium contra omnis)であって、常に(αἰεί)優れた(χρηστός)側が支配する(κοσμέω)、結局勝ち負け(ἀγωνία)、一種の「主従関係」(δεσποτία)になる。
ヘーゲルも『精神現象学』でそうした議論(主人と奴隷[Herr und Knecht]論=独立性を有する自己意識としての主人性[Herrschaft]と独立を有しない自己意識としての奴隷性[Knechtschaft])の関係)を展開している。
平等(ἰσότης)というのは所詮、政治参加の資格(ἀξίωμα)と人格の尊厳(ἀξίωμα)、神ならぬ「死すべきもの」(θνητός=ギリシア語で「人間」を意味する)である以上は、だれも避けられない宿命(εἱμαρμένη)だということを、そろそろ気づいらいい。ヘーゲルなど読みもしないで‘aufheben’など、小池百合子都知事でもあるまいし、振れ回している場合ではなかろう。
それよりも、9の4行目⇒【読むことに意味に意味がある】のような、意味不明(ἁμφιβολία)な文章を連ねて、早朝から浅ましく犬のように吠える(ὀλολύζειν)のを何とかしたらよい。
これが、ワーグナーの「タンホイザー」のテーマなのであって、西ドイツで最初に見、これに魅せられて、オペラの虜になった。愛の女神ヴィーナスとの快楽的な、肉感的な愛を享受していたタンホイザーが、その愛のすばらしさを、ワルトブルグ城の歌合戦で賛美し、その「愛の形」をドイツの騎士たちすべてから、軽蔑され、領主にローマ法王の許しをもらえなければ、戻ってくることはできない、と宣告される。ローマ法王の許しを得られなかったタンホイザーであったが、彼を一途に愛する領主の娘のエリザベートの自己犠牲と、マリアの仲介によって、彼の罪が許される、と暗示されるところで、オペラは終わる。これは、ゲーテの「ファウスト」のグレートヒェンとマリアのとりなしで、ファウストが救われる、という「愛の姿」の相似形なのであって、それが、古代ギリシャ風の愛とドイツの愛、との違いだ、とワーグナーは考えて、表現している。
「キリスト教の愛」、というのは、自己中心的な、闘いとる愛ではない。キリストが人々すべての罪を背負って、贖罪されたことに端的に表れているように、勝ち取るものではなくて、与えるものなのではないのだろうか?
「真理」(ἀλήθεια)や「真実」(τὸ ἀληθές)などを簡単に言う人間に限って、「真理の探究」(φιλαληθής)や「真理愛」(φιλαληθής)に込めた寺田の言葉の真意(τὸ ἑκούσιον)を理解し得ず(ἀγνοωσία)、はき違えている(πλημμέλέω)。
12⇒【ゲーテも、「哲学は、ただ、常識を難しい言葉で表現しているだけ…」と主張…わかりやすい言葉を使って、真理を述べ】とか、12②⇒【やさしい、わかりやすい言葉を使っても「真実」】のような、如何にも益体もない(ἄχρηστον)駄弁(ἀδολεσχεῖν)を弄して、俗世間を支配する一見もっともらしい(εἰκός)、気の利いたこと(ἀστεῖος λόγος)を言ったつもりでいるのが、ゲーテに象徴される世の「賢人」(σοφός)とされる人物のお先棒を担ぐカ氏のような俗物(ὁ ἀγοραῖος)の習性だろう。
しかし、そうした賢そうな議論と鋭く対立する(ἀντικεῖσθαι)のが、ソクラテス・プラトンの哲学観、真理観だ。そして、それが哲学(φιλοσοφία)がなぜ、端的に真なる(ἀληθής)、真実の(ἀληθινός)「知」(σοφία, ἐπιστήμη)を名乗らず、知を愛する(φιλεῖν)活動(ἔργον)としての探究(ζήτησις)に自らを限局したのかの理由であり、ソクラテスがアテーナイの賢者(σοφός)と称する有力政治家や詩人(ποιητής=今日でいう作家)、優れた職人(δημιουργρός)を回って、彼らがいずれも真の知者(σοφός)=賢者ではないことを暴露した(ἐκφαίνω)真の理由だ。
真理は処世訓(ἐπίγρμμα)ではない。メルケル独首相もそうした俗物の典型で、真理など何も分かっていない。
ソクラテスは、「無学の者は、専門家の良識に従え。」と主張する日本の東大系憲法学者のように、デルフォイの神託のお告げ、「自分が一番智者である」と誇りはしなかった。彼は、そのお告げを信じなかったのである。自分より智慧がありそうな人は、世間にいくらもいるように見えたからである。そして田中美知太郎さんが書かれた「ソクラテス」によると、彼は、智者と定評のある人たちとの問答に回った。まず政治家は、民衆に呼びかけ、自分の言に従わせ、実行する者であるから、よほど優れた智慧がなければできない、と考えて政治家を回り、どこまで真剣に考えているか疑わしい、と結論づけた。続いて、当時、ジャーナリストの役割をしていた作家や詩人を回り、よく考えもしなければ、真面目に考えてみることもしない人たちだ、と結論づけた。そして、自分が一番智者である、のは、「真善美」について、「知らないということを知っている」からだ、と結論づけたのである。本来、「民主主義」は、「人生みな師」のような謙虚な態度でないと、「他人を見下す」権威的な態度であると、成り立たないのではないのだろうか。
自由と平等の両方要求する「民主主義」の平等とは、アメリカ人の作った「日本国憲法」の「修正」の実質的な責任者である国際法学者の芦田均さんによると、すべての人が法律上の平等であることを意味し、貴族の特権が奪われ、四民(士農工商)が等しく政治に参加し、各人が等しく自由契約によって取引を行い、団体契約を結ぶことをさすのである。このように平等は自由を前提とし、自由もまた平等を前提とするものである。そして民主主義は、個人の自由とともにその平等を要求する、とあるのである。要するに、従属ではなくて、独立であり、「権威のある人に従属する」のではなくて、「個人」が自立して「判断を下す」ことなのである。
芦田均さんは、政治が民主的であるとは、リンカーンの有名な言葉に言い尽くされている通り、政治が民衆によって行われ、また民衆のために行われることをさす、と続けておられるが、民衆を人民に訳したところにも、誤解の元がある、と私は思うが、その前提がある。「All men are created equal」「人はみな、平等に創られている。」、これがアメリカ合衆国の建国の精神、欧米の民主主義なのである。そういう民主主義の理念がわかって、日本のマスコミ知識人が「民主化」とか、「民主主義」という言葉をつかっておられるとは、私にはとても思えない。(新憲法解釈、芦田均、憲法前文)
そこに、12②⇒【真理を述べている】というように受け取る、つまり錯覚(σφάλμα)するのは、それだけカ氏が軽率(ῥᾳθυμία)で愚鈍(ἀμαθία)だからであろう。
何かもっともらしい(εἰκός)気の利いた理(ἀστεῖος λόγος)のようなものがそこに含まれているように早呑み込みするのが、カ氏のような単純な(ἁπλοῦς)「無学な素人」(ἀπαιδευτος ιδιώτης)の悲しさ、というか浅はかさ(ἡ ἀφροσύνη)だろう。
「無学な」カ氏が「一知半解」でしばしば悪用する田中美知太郎はかつて一般読者向けのエッセーで、哲学の対象とするような真理に関する「知」とは、「体系的なもの」(ἡ σύμφυτος κοσμος)であって、「哲学に王道や早道はない」として次のように述べている。
「わたしには日本人らしさが欠けているのかもしれない。短い文句に何かをまとめてしまうとか、ひとつの単語にすべてを託するとかいうことに、あまり興味はない。『あなたの哲学を簡単にまとめて言うと、どういうことになるか』などと質問されても、哲学に王道や早道はないと答えるほかはない。私の哲学や思想は、一つのシステムとしてあるわけで、文章と文章の全体的なつながりのなかでしか表現されない。哲学は体系的であると言ったヘーゲルの考えが、わたしには本当のような気がする。」(引用続く)
筆者の判断で戯れ(παιζειν)に伏せ字(▽☆□)にした人物が誰かは、勘の良い読者には容易に推察できよう。ダンテではなく、外でもないゲーテである。
ソクラテスがゲーテ並みの、というかゲーテ程度の人物かどうかは別にして、この破壊的な吟味の練達者が標的にしたのが、死んだホメーロスを代表とする詩人たち、当時のアテーナイで知者=賢者(σοφός)とされた劇作家や物語的要素の大きい抒情詩ディテュラムボスを創作する詩人たちで、謂わばゲーテのような人物である。
ソクラテス(そしてプラトン)の厳しい真理、知の基準(κριτήριον)に照らせば、世評(δόξα)の高いそうした作家たちも、皆失格であった。芸術、つまり創作(芸術的創造=ποίησις)は、詩人(ποιητής)の想像力の産物である実物の真似=模倣(μίμησις)=「似像」(εἱκών)にとどまり、謂わば二次的存在であって、それが作り出すものは「実在」(ἰδέα)から遠ざかること第三の序列にあり(ἐστι, τρίτος)」(『国家』597E)、詩人(作家)は自分が真似て描くものごとについて、真の知識(ἐπιστήμη)をもたないことを挙げているからだ。
「『私としては』と彼は言った、『こう呼ぶのがいちばん穏当ではないかと思います――先の二者が制作者(δημιουργοί=職人)として作るものを真似る(描写する)者であると』『よかろう』とぼくは言った、『すると君は、本性(実在)から遠ざかること第三番目の作品を生み出す者を、真似る者(描写家)と呼ぶわけだね?』『してみると、悲劇作家もまた、もし彼が真似る者(描写家)であるとするならば、そうだということになるだろう――つまり、いわば真実(実在)という王から遠ざかること第三番目に生まれついた素性の者だ、ということになるだろう。そして他のすべての真似る者(描写家)もまた同じことだ』」(岩波書店版『プラトン全集』、藤澤令夫訳)
‘τοῦτο, ἦ δ᾽ ὅς, ἔμοιγε δοκεῖ μετριώτατ᾽ ἂν προσαγορεύεσθαι, μιμητὴς οὗ ἐκεῖνοι δημιουργοί. εἶεν, ἦν δ᾽ ἐγώ: τὸν τοῦ τρίτου ἄρα γεννήματος ἀπὸ τῆς φύσεως μιμητὴν καλεῖς; πάνυ μὲν οὖν, ἔφη. τοῦτ᾽ ἄρα ἔσται καὶ ὁ τραγῳδοποιός, εἴπερ μιμητής ἐστι, τρίτος τις ἀπὸ βασιλέως καὶ τῆς ἀληθείας πεφυκώς, καὶ πάντες οἱ ἄλλοι μιμηταί. κινδυνεύει. τὸν μὲν δὴ μιμητὴν ὡμολογήκαμεν.’(Respublica 597E)
所詮は真似(描写)による詩作(ποίησις)は「魂の劣った部分に働きかけるもの」で真理の認識の妨げになり、有害だとするもので、プラトンの構想する理想の国家からは、詩人たちは追放されなくてはならない、というわけだ。
創作家=作家の言で真理を論じることは土台無理なことをソクラテスは指摘している。「真っ当な分別」だろう。
16⇒【ほとんどの読者が読めない、ギリシャ語の単語を挿入…どんな意図】については、カ氏など眼中にない、ということだ。[完]
2か月の入院生活の間、私の心の支えになったのは、歌の歌詞だった。英語のサウンド・オブ・ミュージックの詩、ビリー・ジョエルの詩、ドイツ語のラインハルト・メイの詩、日本語の中島みゆきの詩、「アウシュビッツの大虐殺」があったから、といって、ラインハルト・メイの詩がなかったとしたら、私は心がいやせなかった。阪神大震災の後は、ゲーテやリュッケルトの詩がその役割を担ったし、母が亡くなったあとは、ヴィルヘルム・ミュラーの詩がそうだった。
なんども書いたと思うが、大山定一さんが、ゲーテについての文章にこう書かれている。「ミューズは生活のみちづれであるけれども、生活の案内者ではない。」、つまり、詩人の作り上げる「仮想現実」ユートピアに惑わされるから、真理の認識の妨げになるのである。また、「きみたちは、一つ一つの詩において、体験が生きているか。きみたちの体験が、君たちの生活を高めているか。」、つまり、我々が、白昼夢のような詩を現実のように夢想するから、おかしなことになるのである。ゲーテは「ファウスト」を書くために、体験を生かした戯曲を書くために、80年の期間が必要であったと主張している。二部が完成して1年も経たずに亡くなっている。前のブログのコメント90に私の特色が要領よくマイナスイメージでまとめられているが、それも、ゲーテのアドバイスに従って、机上の空論ではなくて、体験に基づいた文章を書きたいと思う私のその表れなのである。
そこで「クズ処理」に勤しむとして、18⇒【自由と平等の両方要求する「民主主義」の平等】のような、如何にも稚拙な「おままごと投稿」を懲りもせずに重ねている。もはや、嘲笑する(σκῶμμα)にも値しないその憐れむべき論旨について、事々しくコメント(ἡ γνώμην)するまでもないだろう。
「現実的に考える」(διανοεῖσθαι κατὰ ἐνέργειαν)と称して、無学なカ氏が行うことと言えば、決まってヴァイツゼッカー、ゲーテ、楠山義太郎、そして今回のように芦田均をもち出して、代り映えのしない「日替わり定食」状態である。少しは無学なりに「芸」(τέχνη=ars)がないものか。
日本国憲法の素人解釈、しかも、如何にも「弱論強弁」(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)の粗雑で論理的思考を無視した疎漏な立論の域を出ない、愚劣な議論を展開する。
大体において、カ氏が振り回す「現実」((τὸ γιγνόμενον)なるものは、その言葉(ῥῆμα)とは裏腹に、カ氏にとって都合のいい特定の(καθ’ ἕκαστον)事実(ὅτι)や信念(πίστις)合成物(σύνθετον)の類であって、少しも現実を反映していない。それが「現実」を騙った「観念」(ἑπίνοια)にすぎない所以だ。
しかし、人生やこの世をありのままに観察(θεωρεῖν)すれば、この世が如何に不平等(ἀνισότης=inequality)かつ不公平(ἡ ἀνωμαλία=enevenness)で、一様ではなく(τὸ ἀνώμαλον)、命(ζωή)の値段(ὠνή)も平等ではない、その程度のことは、自由だ平等だと浅ましく喚いているカ氏のような甘ったれた元お嬢様育ちでも分かりそうなものだ。
しかも、この世は不条理(ἡ ἄλογος)に満ちている。テロ撲滅で米国本土から遠隔操作でアフガニスタンやパキスタンのタリバーンやアルカイダ、イラクのスンニ派の残存勢力などを空爆し、ボスニア紛争やイエメンでも悪名を馳せたSF映画さながらの無人偵察機にして爆撃機、RQ-1/MQ-1、通称プレデター(Predator=捕食者)が昨年まで運用されたが、Predator=「喰う者」というからには無慈悲に喰われる側もあるわけで、テレビゲームさながら、高射砲も届かない高度から、あるいは闇をついて攻撃されては、昔の騎士道精神が健在だった時代の戦闘の方がよほど、人間性に適っていると思うくらいだ。
軍事技術での不平等は圧倒的で、現代の最先端テクノロジーに対抗するのは、テロぐらいしかない側もある。それがこの世の現実だ。
憲法にどう書いてあろうと、芦田がどう言い繕おうと、憲法は所詮は規範的命題(normative proposition)に外ならず、それが無条件に現実に適合するはずもない。いい歳をして、その程度の弁え(σύνεσις)がないものか。カントの「定言命法」(kategorischer Imperativ)を嗤えない所以だ。
書いていて、つくづく莫迦らしくなる。
この問題も分かったような分からないような問題で、今回の参議院選挙で与野党間の最大の焦点になっているようだが、どこかピントがずれている。直近の金融庁諮問機関の報告書を、所管する財務大臣が「受け取りを拒否した」云々で一気に注目され、野党側が攻勢に転じたことで、選挙戦の焦点に浮上した。
「分かったような分からないような」というのは、年金制度の将来に向けた持続可能性をめぐるものなのか、それとも現在の給付水準との関係で、世代間や国民、厚生、共済とそれぞれ異なる加入者の適正負担をめぐる不公平感や給付額等にみられる歪みの緩和、つまり制度設計の見直しまで踏み込んだものなのか、はたまた将来的な給付水準と財源見通しとを突き合わせて、当面の是正措置や財政政策との関連、消費税の目的税化を含めた政策的選択を問うものなのか、一向に明確になっていないようだ。
第一次安倍政権にとって「年金問題」は退陣に追い込まれる端緒になった参院選敗北の直接の引き金だっただけに、この政権にとってのトラウマを利用して、野党陣営が失地回復するための見え透いたネガティヴ・キャンペーンにも映る。その割には、篠田さんが批判する野党第一党の政策(ἡ προαίρεσις)メニューは一向に成算(λογίζεσθαι)がないようだ。知恵も芸もない、というところだろう。
不可逆的な人口減少に加え、低成長、年金受給者数の増大、加速化する少子高齢化と現役世代の負担増など、年金制度をめぐる環境は厳しいが、制度が破綻するほどでもあるまい。
医療・介護費用など他の社会福祉関係経費と違って、年金は積立額が給付水準に直結する。今後の世代は思ったほどの額は受給できない。空騒ぎする割には、大した金額ではないからだ。
問題設定を変えないと、これまた「虚偽の問題」(ψευδής πρόβλημα)かもしれない。
日本の「年金制度」は100年もつ、と自民党は主張したが、現実は、老後、2000万円のたくわえがないと老後安心してできない、から嘘つきだ、というのが、マスコミの主張であるが、自民党政権は、かつてのイギリスのように「揺りかごから墓場まで」のような「年金制度」、「社会政策」を主張したのだろうか。もし、その政策を実現するのなら、消費税をもっとあげなければならない。実現している北欧三国の例えば、スウェーデン、デンマークの消費税率は25%である。その結果、物価がとても高い。この「イギリス」の「揺りかごから墓場まで」の社会政策をやめたのが、保守派のサッチャー首相で、その結果、イギリスの経済は持ち直したのではなかったのだろうか? 「消費税の値上げ」は反対だが、「揺りかごから墓場まで」の社会政策でなければならない、などという主張は、欺瞞なのであって、本来、それを専門家のマスコミの政治部記者が、批判しなければならないのに、それをしない、というのは日本国民に対して極めて不誠実なのではないのだろうか?オーストリアでは、老後の「年金」の為に払った税金が大量に移入してきた「難民」に使われる、老後が心配である、ということが、右派が支持を集めている主な原因であることもつけ加えておきたい。
そして「本来の争点」であるべき、「日本国憲法9条は改正すべきか。」という争点を覆い隠すために、高齢化社会の日本人が一番関心を持つ「年金問題」を争点にしようと画策しているのである。今日の毎日新聞の一面の見出し、個人的に議員アンケートをすると、9条改憲に「公明反対、87%」 という見出しでそれは明らかである。
今、ホルムズ海峡が危機で、石油の大半をこの地域に頼っている日本、民間船舶の護衛は自国で、という世界情勢になりそうなこの状況下、本当の争点「日本国憲法9条は改正すべきか」を争点にすべきなのではないのだろうか。
しかし、「無学な婆さん」(ἀπαιδευτος γραῦς)である「政治音痴」のカ氏が勘ぐる、というか妄想するように、憲法9条改正の必要性の争点化を、28⇒【覆い隠すために…「年金問題」を争点にしようと画策している】わけでもなかろう。「高齢化社会の日本人」といってもいろいろだ。若者は年金でも「醒めて」いて、期待などしていない。大方は無関心(ἀμέλεια)だ。
実際のところ、安倍政権の下での「憲法論議には応じない」という頑なな姿勢を変えていない立憲民主をはじめ、日本維新の会を除く野党各党は改憲論議には後ろ向き乃至反撥、特に共産、社民両党のように護憲色を前面に押し立てており、表向き「論憲」の公明も消極姿勢は変わらず、肝腎の改憲を党是とする自民党の各議員も、改憲を訴えて選挙戦の争点化しようなどとは、ほとんど考えていない。
端的に言って、票にならないからだ。戦後一貫して、その傾向は変わっていない。北朝鮮の核開発問題も、今回のホルムズ海峡での緊張も、追い風にはならない。
現状維持志向の強い国民にその気がないし、最大の関心は常に経済問題、それも経済政策など、素人にはにわかにはその是非が判断しにくい領域ではなく、常に景気対策や雇用、医療福祉など社会保障に関する社会政策、税制に限られるのが現状だろう。年金問題は取り上げ方次第では争点化も可能なのだろうが、与野党間にそれだけの対立が実際にはないからだ。
かつての社会保険庁の不手際のように、矢面に立つ政府与党に野党が攻勢をかけて得票を伸ばせる形勢にはなっていない。政権選択を問うわけでもない参院選で憲法改正を争点にするはずもない。
それに先立つ1988年に発覚したリクルートコスモスの株取引をめぐる贈収賄事件で、自民党の有力政治家が相次いで疑惑の焦点になり政治不信が一気に高まったのは、金権選挙につながりやすい「中選挙区」が当の政治家に加え有識者からも問題視され、英国型の政権交代可能な政治制度の一環として小選挙区導入が論議されたためだ。
1993年の総選挙で、野党側の思惑でにわかに争点化されたわけではない。
しかも、小選挙区を一貫して主張したのは自民党で、野党は概ね反対または消極的だった。しかし、自民党のキングメーカー的存在だった旧竹下派=経世会は、リクルート事件で退陣を余儀なくされた竹下登氏の首相復帰を窺う勢力と、それを阻止しようとする勢力が激しい権力闘争を繰り広げ、宮沢内閣の下でも橋本龍太郎蔵相が不正融資疑惑で辞任したり、東京佐川急便から5億円の献金を受け取っていた金丸信自民党副総裁が逮捕された。首相就任前の総裁選で、竹下氏が右翼団体の嫌がらせを宥めるため、暴力団に協力を依頼したという前代未聞の不祥事も発覚した。
政治不信が沸点に達するなかで政治改革が焦点になったのは、経世会内部の権力闘争が激化し、派閥内部の抗争に敗れた小沢一郎氏らが生き残りをかけて政治改革を最優先課題とし、連合を使って消極的な社会党を巻き込み、遂には党を割って宮沢内閣を退陣に追い込み、総選挙を経て次の細川政権による政権交代につながったからだ。
カ氏は何も知らないのだろう。つける薬がない。
権力争いの手段に「選挙制度」が使われ、その制度を変えれば、日本の政治はよくなるかのような幻想をいだかせた日本のマスコミの責任を問うているのである。反氏によれば、騙された人が悪い、ということかもしれないが、私は騙されなかったし、現在でも中選挙区制度がいい、と思っている。
マスコミに騙されて、細川政権になり、なにが起こったのか、ということを問うているのである。
「米国」は、東アジアに頼らなくても、南米もあれば、オセアニアもあれば、ヨーロッパもある。考えてみれば、丸山真男さんたちの薫陶を受けた水島朝穂教授をはじめとする憲法学者は、ドイツ系の学者なのに、左翼だから、ソ連や中国や北朝鮮の脅威や悪行ではなくて、米国やナチスドイツ、日本の岸信介さんの戦前の悪行ばかり強調するが、現実は、スターリン、毛沢東、金一族の「独裁政治体制」が民衆にしている悪行は、その比ではないのである。前者は、ジャーナリズムによって明らかにされ、後者は国家に神聖化され、一部隠されているから、その残虐性を我々がよく知らない、だけなのである。
例えば、反氏は、私の数字のあいまいさ、を理由に反駁されるが、国策である「文化大革命」で虐殺された人は、国策でナチスドイツ時代に虐殺されたユダヤ人よりもはるかに多い。飢餓で死ぬ、というのは、ガス室で、殺されるよりはるかに苦しい、という現実が反氏にはわかっているのか、と思う。
社会民主党、左翼の政治家、当時のベルリンの市長、ブラントさんは、1961年の東ドイツの「ベルリンの壁」建設の際、ソ連軍の増強を目の前にして唖然とし、西ベルリンの「自由と民主主義」を守る為に、米国のケネデイー大統領に「ベルリンは言葉以上のものを期待します。」という書簡を送り、米国ケネデイー大統領は、第八歩兵師団第一戦隊約1600人を西ベルリン駐留部隊の増強のため、西ベルリンに送ったのである。この精鋭部隊が東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体が、ソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディー大統領は西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。それが、「Ich bin ein Berliner」宣言なのである。これは、或る意味、血の絆であり、リンカーンのゲチスバーグ演説、米国民は「民主主義を守る」為に命をかける、それを「国際社会」でも行う、という意志を、第二次世界大戦の参戦の時と同じ、もう一度はっきりさせたものである。後に、ブラント首相は、「欧州の平和を維持した」、という功績で、東アジアの平和を構築し、「日米安保条約」を堅持された日本の佐藤首相と同じ、トランプ大統領がほしくてたまらない「ノーベル平和賞」を受賞されている。二人とも、「自由」と「民主主義」を守った上に、「平和」構築に貢献されたからである。
そのアメリカ人のトランプさんから見ると、「日本人はソニーのテレビで見ているだけなのは、許せない。」となるのである。
Wir leben seit vierzig Jahren in Frieden und Freiheit, und wir haben durch unsere Politik unter den freien Völkern des Atlantischen Bündnisses und der Europäischen Gemeinschaft dazu selbst einen großen Beitrag geleistet.
Nie gab es auf deutschem Boden einen besseren Schutz der Freiheitsrechte des Bürgers als heute. Ein dichtes soziales Netz, das den Vergleich mit keiner anderen Gesellschaft zu scheuen braucht, sichert die Lebensgrundlage der Menschen.
我々は、我々自体も大きな貢献をした、自由主義圏の国民とのNATOとEUの政治の元に40年間平和と自由を謳歌してきました。ドイツの国土において、今日ほど自由権が守られている時代はありません。他のどの共同体と比べても恥ずかしくない濃密な社会のネットワークが、民衆の生活の基本をささえているのです。
とあるが、日本の40年前も、西ドイツの40年前と比べてそん色がなかった。それは、自民党政権の元、日米安保条約と自由貿易が、平和と自由と民主主義が日本の繁栄を支えていたからなのではなかったのだろうか?大事なことは、日本が国際社会でも、貢献してきたか、ということで、経済面は、たしかにそうで、中国、イランを含めて、国際社会の人びとからとても感謝されているが、軍事面ではどうか、ということだと思う。「反日」の韓国の歴代政権が、特に、左翼政権である「ムンジェイン政権」が、「日本のこと」、戦後の「韓国」についてどう考えておられるのかまるでわからないが。
日本の政治の専門家は、「外交が大事だ」、と主張するが、「言葉」だけでは「信用されない」し、要は、「実行」なのではないのだろうか。少なくとも、「世論形成」に大きな影響力をもつ職業なのにもかかわらず、「演技」や「言葉」に騙され、「真実」と「嘘」が見分けられないジャーナリストは、最低だと私は思う。
「無知である」(ἀμαθαίνω)ことを自ら(αὐτς)「知らない」(ἀγνοεῖν)、認識し得ない(ἀγνοωσία)し、自覚する(εἰδέναι)こともない。「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)ことを図らずも証明する(στέργειν)からだ。
人口に膾炙した、所謂「無知の知」という言い方は、ある意味で不正確で、正確には「知らないことを知っている」(‘οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’)、つまりソクラテスの表現をそのまま引用すれば、「事実確かに(οὖν)、私は知らないのだから、その通りに、また知らないと思っている」(‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’=Apologia Socratis 21D)、ということであり、齢70近くでこの体たらくだから、何とも悲惨(πονηρία)だ。
プライド(φρόνημα)が高い割には、その「憐れむべき実力」(ἡ ἐλεεινός δυναμις)、即ち低劣な(πονηρός)、知性(νοῦς)とも呼べない知的能力から、負けず嫌い(δυσμεταχείριστος)で負け惜しみ(ἀπειθής)が強い自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)が著しい気質(τρόπος)が覆い難いカ氏の「反論らしきもの」(ψευδομαρτυρία)は、問題にもならない。
①政治腐敗の根底にある政治の金権体質を転換するには、「中選挙区」ではなく、政権交代がより可能な英国型の小選挙区制の導入が必要との認識が、一部を除き、特に自民党内で共有されていた。
②しかも、小選挙区を一貫して主張したのは自民党である。
③相次ぐ政治スキャンダルを受けて宮沢喜一内閣(1991.11~93.8)が重い腰を上げた政治改革では、労働組合の全国組織連合の山岸章会長と連携して揺さぶりをかけきた小沢一郎元幹事長に対抗して、梶山静六自民党幹事長とともに、山花貞夫委員長ら(書記長が現衆院副議長の赤松広隆氏=立憲民主)社会党右派の合意形成の動きを注視して、単純小選挙区ではない、小選挙区と比例代表制を組み合わせた「比例代表小選挙区並立制」での妥協を模索していた。
④宮沢首相自身が、1993年5月のテレビインタビューで、「政治改革はこの国会でやるんです。私は嘘をついたことはない」と断言したにもかかわらず、「単純小選挙区」という党議決定を楯とする党内反対派から一任を取り付けられずに断念に追い込まれ、そのため宮沢首相は「食言」批判に遭った。
⑤その決定に野党が猛反発して、衆院に内閣不信任案が提出され、翌日可決され自民党が分裂した。
以上を総合するなら、カ氏のような立論は成り立ち(ἔπαινος)ようがない。
事態は経世会(竹下派)内部の権力闘争に敗れ前年暮れに小沢・羽田グループを形成して経世会を離脱して別派閥を結成した小沢一郎氏の「野望」だけで動いたわけではない。
何かにつけて狂信的な(μανικός)巫女(προφῆτις)よろしく撒き散らしているドイツ的な欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)の塊(ὄγκος)であるヴァイツゼッカー演説にしろ、見え透いたドイツの自己弁護(αὐτὸς ἀπολογία)の「政治的構築物」(τὰ σύνθετον πόλτκόν)にすぎず、政治的動物(ζῷον πόλτκόν)である人間の、それが変わらぬ性情(ἡ φύσις)であることを忘れて、愚にもつかない(φαῦλος)子供だまし(παιδῖκός)の「おままご投稿」=「クズ」(φορυτός)を必死になって(σπουδάζω)量産している。
憐れむべき妄言(ἀλλοδοξία)、妄説(‘Karoline Doctrine’)、妄想(φαντασία)の記録、『カ氏誤録』の内容を充実させるだけだろう。文化大革命の時代、『毛沢東語録』というのがあったが、カ氏もそれに倣って、恥ずべき『妄語録』作成に勤しんでいるのだろう。文革は国策(ἡ προαίρεσις)ではなく、「権力闘争」(ἄγών δύναμις)だということも知らないらしい。
32⇒【米国やナチスドイツ…の悪行ばかり強調するが…スターリン、毛沢東、金一族の「独裁政治体制」が民衆にしている悪行は、その比ではない】ということは、ナチス=ドイツの蛮行の正当化(ὀρθόω)につながることさえ、気づいていないようだ。
何とかにつける薬はない。あす13日からの台湾旅行で、当面はクズ処理から解放されそうだ。[完]
以上によって、31⇒【わかっていて主張…】というのは、カ氏が苦し紛れに行う(ἀπορέω)言い逃れの「でたらめ」(τερθρύεῖσθαι)であって、個々に指摘の客観的な状況(ἡ καθόλου κατάστασις)からも明らかだろう。
政治の現実など何も知らない「無学な婆さん」が、31②⇒【小沢一郎さんの野望が実現した】もないだろう。
1993年の総選挙当時の具体的な記述を何も行わずに私の文章のコピペで済ませ、一人前の政治評論家のような口を利いている。政治腐敗を脱却する手法の一つとして選挙制度改革が取り上げられ、与野党の勢力図を大きく塗り替える可能性も秘めていたことから各党の思惑もあって熾烈な駆け引きが繰り広げられたわけで、31③⇒【権力争いの手段に「選挙制度」が使われ…制度を変えれば、日本の政治はよくなるかのような幻想】というが、政治とはそれ自体が「権力闘争」(ἄγών δύναμις)そのもので、「マスコミに騙されて」も何もない。
「中選挙区」を選ぶということは、衆院選は政策本位ではなく、特定の好みの人物を選ぶ人物本位に比重をかけることで、それでは自ずと別な問題を惹起する。現状では自民党中心の支配体制を長期化することになり、多元的で民主的合意形成には後ろ向きと言われても仕方がない、前時代的制度を固定化することにつながりかねない。
何んと言っても、選挙に金がかかり過ぎるため、「中選挙区」支持派も復活させることに二の足を踏むのが実情だ。カ氏の議論は「いいとこ取り」の陳腐な(πρόχειρος)俗論(ψευδῆ δόξάζειν)の典型だ。
日米安保条約がアメリカの「国益」ではなく、32⇒【東アジアの「自由と民主主義」を守る…為としか考えられない】というのは、妄想だ。米国はそんなお人好しではなかろう。カ氏はどこまでお目出度い(εὐήθεια)のか、真意を疑う。
33~34は論評に値しない(ἀνάξιος)「クズ」(φορυτός)。
私は、SNSは文明の利器として使う、ただ、あれか、これか、「敵」か「味方」かの二者択一、が本当に、政治に向いているのか、と疑問をもつのである。味方としてまとまるために、敵をつくらなければならないから、「反ユダヤ主義」、「米中の覇権争い」、「韓国の反日姿勢」が作り上げられるのであって、ドイツの雑誌 der Spiegelにも、その批判が書かれていたので、紹介したが、外交交渉に論争の勝ち負けは必要ないのである。負けた方に不満が残る。
「Win-Win」の関係という言葉がはやっているが、現実世界では、「一方がWinであれば、一方がLoose」である。それを「Win-Win」の関係にしようというのは、具体的には二国間や多国間で「妥協点」をみつけて、お互いに納得できるようなおとしどころにしよう、ということなのであって、論争で勝負をつけることと対極的な意味である。ドイツは英米の様な二大政党制ではなくて、連立制である、ということは、選挙をするときに、あれか、これか、ではなく、自分の考えに近い政党を選ぶ。
私が、中選挙区制度がいい、と思うのは、政治は左翼、右翼、中道に関係なく、ヒトラーや毛沢東のような人ではなくて、信頼のできる人にやっていただきたいからである。「嘘の天才」のような実行力のある人が政治を担うと、国民生活も隣国の民衆の生活も悲惨になる。政策は、同じ政党であっても、意見が違うこともあるし、違う政党であっても、同じこともある。その場合、良識があり、柔軟性のある人どうしだと、党派が違っても、話し合いで、妥協点を探り、いい解決策を見出してくださるだろう、のではないのだろうか。1976年以降の自民党がおかしくなったのは、良くも悪くも、天才的な政治家田中角栄さんの影響が大きいと思う。田中角栄さんが逮捕されたことによって、自分の政策を首相として実現できなかったので、キングメーカーとなって、道半ばの自分の思いを実現されようとされたために、政治の責任の所在がわからなくなり、国会議員は国民の代表者なのか、田中派が国政を牛耳る数の為の駒なのか、わからなくなってしまったのである。
大事なことは、国民が信頼できる政治家を選ぶことなのではないのだろうか?
「さあ、もう一つ、誓約の握手だ/おれがある瞬間に向かって、/『まあ、待て、おまえはじつにうつくしい』と呼んだら、/きみはおれを縛りあげてもいい。/それきりおれは滅びてもいい。/葬いの鐘が鳴るだろう。/きみも召使から放免される。/時計が止まって、針がおちる。/おれの一生が終りを告げるのだ。」(ゲーテ『ファウスト』第一部=大山定一訳、『筑摩世界文學大系24』、1972、42頁)
戯れ(παιζειν)に、人口に膾炙した『ファウスト』第一部から引用したが、34冒頭はカ氏の「聖典」(‘κανών’)とも言うべきヴァイツゼッカー元西独連邦大統領の1985年ボン演説からのコピペであろう。
私は、仮令ゲーテであってもそうした安直な真似はしない。権威(ἐξουσία)に寄り掛かって安易な立論も慎む(κόσμιοσθαι)。世間ではそれを節度(σωφροσύνη)と称する。演説に付された下手な訳も遠慮する。
ゲーテの詩は美しい。大した才能だ。もっとも、カ氏のような見境のない賞讃者に取り巻かれて祀り上げられ、迷惑だろうが。逆に、ヴァイツゼッカーは俗悪(ἀπειροκαλία)だ。
もって回る(περιφέρω)連中の愚鈍さも、それに劣らない。
明日から訪ねる「瘴癘」の地台湾は、気候不順の日本と違って猛烈な蒸し暑さのようだ。それを評して「蒸し風呂でヘーゲルを読むよう」と言った京大卒の台北帝大の哲学教師がかつていた。
当方も、しばらくは投稿どころの騒ぎではない。諸氏の奮闘を祈る。
『まあ、待て、おまえはじつにうつくしい』と呼んだら、/きみはおれを縛りあげてもいい。/それきりおれは滅びてもいい。
とファウストが叫んだその瞬間、それは、政治的に絶大な権力を握った時でも、絶世の美女と恋愛をしている時でもない。海辺の土地を発展させようと干拓事業に乗り出し、ファウストの墓を掘らせる音を、人々が開拓工事をしている音だと錯覚し、この美しい領地が多くの人を幸せにすると感じ、このうえない喜びを感じた時に、ファウストは、その台詞を言ってしまうのである――。それは、民衆が協力して土地を干拓し、自分の理想とする国が、皆が主導となって出来上がっていく、ファウストがそんな喜びを感じた時なのである。これこそが、「民衆の民衆による民衆の為の政治」つまり、「自由で、民主的な政治」をゲーテが理想としている、以外の一体何なのだろう?ヴァイツゼッカー氏も同じである。その理想と思想に共感をするから、賞賛者になったり、巫女になっているのだし、そういう認識をもつ教養ある人々は、日本社会ではわからないが、国際社会では多数派なのである。
反氏はゲーテの詩は美しい、とは認識されても、思想は、「たかが文士」であると軽蔑されるし、ヴァイツゼッカーにいたっては、俗悪(ἀπειροκαλία)だ、と主張される。認識はするが、是認はしない。このような「権威主義的傾向」は、長谷部教授にも言えるのかもしれないが、個人が、集団や民族や宗教のようにふるまい、自分の欠点にまったく気づかず平然としている人特有の、フロムの主張する「投射のメカニズム」の典型例である、と私が考えるからだ、ということも併せて指摘しておきたい。
「しかし、高い望楼の上にいると、/たのしいことばかりとは限らない。/暗黒の世界から、何という気味のわるい/恐怖が襲ってくるのだろう」(‘Nicht allein mich zu ergetzen/Bin ich hier so hoch gestellt;/ Welch ein greuliches Entsetzen/Droht mir aus der finstern Welt!’)というわけだ。
もとより、「死すべきもの」(θνητός)である人間(ἄνθρωπος)の不可避な定め(εἱμαρμένη μοῖρα)、予見能力(πρόνοια δύναμις)などありようもないが、世の人々が無意識のうちに(λανθάνειν)囚われている「集団的思考」から自由(ἐλευθερία)であらなければ、真に(ἀληθῶς)自分の頭で「現実的に考える」(διανοεῖσθαι κατὰ ἐνέργειαν)ということにはならない。憲法9条問題や安全保障政策では特にそのことを痛感する。
私が古代ギリシア人の思考、プラトンやアリストテレス、トゥーキュディデースを重視するのは、人間がものを考える原範型(παράδειγμα)や形式、用語(ῥῆμα)を彼らが、最初(ἀρχὴ)の形で示し、今なおわれわれを規定している(ὁρίζειν)からだ。
さらに、それがわれわれにとって有意味(σημαντικός=significant)なのは、それが単に現代人のものと思考も置かれた歴史的社会的状況も異なるにもかかわらず、数学や自然学など、ギリシア人の天才が生み出した他の諸学芸と同じように、それが今日の近代文明の根源(ἀρχὴ)をなすからだ。所謂「古典」(‘classicus’)としての重要性はそこにある。
(Lynkeus der Türmer auf der Schloßwarte, singend):/ ‘ Zum Sehen geboren,/ Zum Schauen bestellt,/ Dem Turme geschworen/Gefällt mir die Welt./ Ich blick’ in die Ferne,/Ich seh’ in der Näh’,/ Den Mond und die Sterne/ Den Wald und das Reh./ So seh’ ich in allen/Die ewige Zier,/ Und wie mir’s gefallen/Gefall’ ich auch mir./ Ihr glücklichen Augen/Was je ihr gesehn,/ Es sei wie es wolle/Es war doch so schön!/ (Pause)Nicht allein mich zu ergetzen/Bin ich hier so hoch gestellt;/ Welch ein greuliches Entsetzen/Droht mir aus der finstern Welt!(“Faust;Der Tragödie zeiter Teil”, Z. 11288~11307=Johann Wolfgang von Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden.; Band. 3, 16., Aufl., hrsg. von Erich Trunz, 1996, S. 340.)
該当箇所の行数を示したので、後は読者自身が翻訳書なり、参照にして、それぞれの感想を読み込んでいただければいい。
それでは、改めて諸氏の奮闘を祈る。
「ジュネーブの国際連盟は、それが国家を解消させないと同様に、戦争の可能性を解消しはしない。それは、戦争の新たな可能性を導入し、戦争を許容し、連合しての戦争を促進し、かつそれが一定の戦争を合法化し是認することによって、戦争に対する一連の歯止めを除去するのである。・・・ところで、この地球ぐるみの経済的・技術的集中と結びつく恐ろしい権力が、いかなる人びとの手に帰するのだろうか。」(p66-69)と書いている。つまり、G20開幕とヴェルサイユ条約100年のコメント12で書いたようにshinodahideaki.blog.jp/archives/32450048.html ヴェルサイユ条約の231条、「第一次世界大戦勃発の責任は、すべてドイツ人にある。」などというドイツ人から見て極めて不公正な条約を作り上げた世界の権力者を信頼することができなかったドイツ人が多かったから、彼の見解が支持されたのでは、ないのだろうか?
「北朝鮮」は、「核兵器を製造する意志がある。」という理由で「国際連合安全保障理事会」から経済制裁を受けているのであって、そのような国に、資金援助や、経済協力をし、核兵器になる可能性のある物質を輸出した「韓国」は、国際社会に脅威を与える国である。逆に、「中国」は、デモを抑え込むことはあっても、最近、熱戦や「ベルリン封鎖」にあたるようなことをしていない。「イラン」は欧米との「核合意」を誠実に守っている。
証拠も不十分なのに、米国からの要請だから、という理由である特定の国に対して、一緒に軍事行為をすると、戦争に対する歯止めがかからなくなる。ホルムズ海峡問題は、加害者の詳細、意図もわからないのだから、「国際連合」をなんらかの形で関連付けるやり方、例えば、「安全保障理事会」に訴えて、加害者を「海賊扱い」にして、日本の自衛隊も出動させ、国際協調でこの問題を解決するという方策は取れないものなのだろうか。
元々、自由と民主主義、という政治体制は英米仏で確立されていた。その後、gegenを柱とする「闘争」の理論、「階級闘争」のマルクス主義と、「我が闘争」のナチズムが表れてきたのであって、二つとも、或る意味,
世直しの「政治闘争」なのである。
前者は資本家や裕福な人々を「敵」とみなし、後者は「ユダヤ民族」をはじめとする「ドイツ民族」以外の民族を敵とみなして、闘争をしているのであるが、「友」は弱者である、「弱者」の為に、「正義」と「愛」で「世の不正」と闘うのだ、という「スローガン」がもっともらしいから、未熟な若者は、騙されてしまうのである。
私は、戦後日本社会党にみられたような「絶対反対」の姿勢は、よくない、とずっと思ってきたし、事実、日本社会党は政権を取れなかった。社民党の村山政権の頃はいい、と思ったが、また、先祖返りをしてしまった。立憲民主党、も国民民主党も同じであるが、どうして、自民党を敵にしなければならないのだろう?対立の構図をつくらなければならない、と考えているところに、大きな間違いがある、とつくづく思う。
まず、前文
Präambel
Im Bewußtsein seiner Verantwortung vor Gott und den Menschen,
Von dem Willen beseelt, als gleichberechtigtes Glied in einem vereinten Europa dem Frieden der Welt zu dienen,
Hat sich das Deutsche Volk kraft seiner verfassungsgebenden Gewalt dieses Grundgesetz gegeben.
Die Deutschen in den Ländern Baden-Württemberg, Bayern, Berlin, Brandenburg, Bremen, Hamburg, Hessen, Mecklenburg-Vorpommern, Niedersachsen, Nordrhein-Westfalen, Rheinland-Pfalz, Saarland, Sachsen, Sachsen-Anhalt, Schleswig-Holstein und Thüringen haben in freier Selbstbestimmung die Einheit und Freiheit Deutschlands vollendet.
Damit gilt dieses Grundgesetz für das gesamte Deutsche Volk.
前文
神と人間に対するみずからの弁明責任を自覚し、
統合されたヨーロッパの中で平等の権利を有する一員として、世界平和に貢献しようとする決意に満ちて、
ドイツ国民は、その憲法制定権力により、この基本法を制定した。
バーデン=ヴュルテンベルク、バイエルン、ベルリン、ブランデンブルク、プレーメン、ハンブルク、ヘッセン、メクレンブルク=フォアポンメルン、ニーダーザクセン、ノルトライン=ヴエストファーレン、ラインラント=プファルツ、ザールラント、ザクセン、ザクセン=アンハルト、シュレスヴィヒ=ホルシュタインおよびテューリンゲンの諸ラントのドイツ人は、自由な自己決定によりドイツの統一と自由を達成した。
これにより、この基本法は全ドイツ国民に適用される。
(1) Männer können vom vollendeten achtzehnten Lebensjahr an zum Dienst in den Streitkräften, im Bundesgrenzschutz oder in einem Zivilschutzverband verpflichtet werden.
第12a条 [兵役義務と役務義務]
(1) 男子に対しては、満18歳から軍隊、連邦国境警備隊または民間防衛団における役務を義務として課すことができる。
つまり、前文と憲法12条a)を読むと、ドイツ国民もまた、日本国民と同じように、世界平和に貢献する決意をもって、その上で、統合されたヨーロッパの中で平等の権利を有する一員としてドイツ連邦軍(軍隊)をもち、その軍隊、の役務は18歳以上のドイツの男子の国民の、権利ではなく、義務、と規定されている。
また、連邦政府は、16のラントの自由な自己決定により統一された、とあり、東西ドイツ統一、ではなくて、16のラント、の統一なのである。宗教上の理由で、小国分立の時代が長く続き、国権の発動たる戦争をしていたドイツ国法学上の「国」はもともと、このラントを意味するのであるが、彼らは、戦争するかわりに、自由な自己決定権で、「統一と自由」を選択したのである。そして、「侵略の為」ではなく、その統一した「国を守る為」に、国民の男子に対して、兵役の義務が規定され、満18歳から軍隊、連邦国境警備隊、または民間防衛団における役務を「国」は、義務として課すことができる、のである。
Artikel 18 [Verwirkung von Grundrechten]
Wer die Freiheit der Meinungsäußerung, insbesondere die Pressefreiheit ( Artikel 5 Abs. 1), die Lehrfreiheit ( Artikel 5 Abs. 3), die Versammlungsfreiheit ( Artikel 8), die Vereinigungsfreiheit ( Artikel 9), das Brief-, Post- und Fernmeldegeheimnis ( Artikel 10), das Eigentum ( Artikel 14) oder das Asylrecht ( Artikel 16a) zum Kampfe gegen die freiheitliche demokratische Grundordnung mißbraucht, verwirkt diese Grundrechte. Die Verwirkung und ihr Ausmaß werden durch das Bundesverfassungsgericht ausgesprochen.
第18条 [基本権の喪失]
意見表明の自由、とくに出版の自由(第5条1項)、教授の自由(第5条3項)、集会の自由(第8条)、結社の自由(第9条)、信書、郵便および電気通信の秘密(第10条)、所有権(第14条)または庇護権(第16a条)を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する。喪失とその程度は、連邦憲法裁判所によって宣告される。
基本権を自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、意見表明の自由、とくに出版の自由、教授の自由、集会の自由、信書、郵便及び電信の秘密、などの権利を「憲法裁判所」の判断に基づいて、喪失するのである。ドイツの場合、シュミットをはじめとするナチズムを煽った学者や言論人は、処罰されたが、日本の場合、「治安維持法」で処罰された人々については、語られるが、「軍国主義を煽った学者や言論人」は、処罰されたのだろうか?
もし、「立憲主義」は権力者をしばるもの、であって、学者や言論人は、無制限な表現の自由を許されているのだ、という主張を、「ドイツ国法学」をベースとして東大系憲法学者が主張されている、としたら、その学者は、「ドイツ憲法」を知らない人だと思う。
衆議院憲法調査会事務局が作成した衆憲資第1号
日本国憲法の制定過程 における各種草案の要点www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi001.pdf/$File/shukenshi001.pdf
それによると、
1946年2月1日付の「毎日新聞」のスクープした甲案の主な内容は
1 明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊ニシテ 侵スヘカラス」と改める。 2 軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の 対象とする。 3 衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行うことはできないこととする。 4 緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。 5 宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。 6 日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとする。 7 貴族院を参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する。 8 法律案について衆議院の優越性を認め、衆議院で引き続き三回その総員三 分の二以上の多数で可決して参議院に移した法律案は、参議院の議決の有無 を問わず、帝国議会の協賛を経たものとする。 9 参議院は予算の増額修正ができないこととする。 10 衆議院で国務各大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合 を除くのほかその職にとどまることができないものとする。 11 憲法改正について議員の発議権を認める。(小委員会報告書 215~216頁)
4 マッカーサー三原則 1946(昭和21)年2月3日
マッカーサーが総司令部民政局に対して総司令部案の作成を命じた際、案 の中に入れるよう示した三点である。
1 天皇は、国家の元首の地位にある。 皇位の継承は、世襲である。 天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところに より、人民の基本的意思に対し責任を負う。
2 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手 段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも 放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
3 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むもの ではない。予算の型は、英国制度にならうこと。
(小委員会報告書 296~298頁)
つまり、マッカーサーが求め、宮澤試案にない点は、
1「国民主権」の観点、天皇について、神聖を志尊に、に変えただけで「民衆の民衆による民衆の為」の政治になっていないこと。
2.日本の国の防衛、軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の 対象とする、あるいは、宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする文言も、「自衛戦争」という名目で、戦線を拡大していった「日本国の政治指導者」を、米国は信頼できなかった為に、紛争解決のための手段としての戦争を 放棄させ、日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想、「国際連合」にゆだねさせるべきだという考え、に合致していなかったのである。
芦田均さんは、この「民主主義政治の尊さ」を「自由の価値」と共に、前文の解説で熱心に主張されているが、我々日本人は、「民主主義」とはどのようなものかをよく理解し、「自由」と「民主主義」の価値をよく認識して、「国政選挙」を行わなければならないのではないか、と思う。
武力を使って朝鮮半島で「侵略戦争」をした祖父の金日成をまだ神聖視し、父の「先軍政治」の方針を変更していない金正恩の主張を、日本のマスコミ知識人は、よく信頼できるな、と思うが、北朝鮮では餓死者が続出しているということをアメリカのメデイアは伝えている。 https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20170710-00073122/
日本の吉田首相の政策の反対を行った政治の帰結である。私は東欧の例や、ドキュメンタリー「北朝鮮への帰還事業」で描かれていたことから考えて、北朝鮮の現状をある程度予想していたが、日本のマスコミは、そういう現状をなぜ、報道しようとしないのだろう。オーストラリア人で北朝鮮滞在中スパイ容疑で捕まり、解放された人も、今日本に滞在されておられるのではないのだろうか?「国民」がそういう状況下にあっても、まだ、政治指導者金正恩は、核兵器開発の方針を変えず、美食の限りを尽くし、反日攻勢をかけている。そんな国の政治指導者を見るにつけ、「年金問題」よりも、日本は真剣に「日本の防衛問題」を考えなければならない、と私は思う。
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