参議院選挙の投票率は低調で、特に若年層の投票率が低かった。そこで「主権者教育」の効果が問われたりしている。
だが、そこで話題になる、「主権者教育」とは何なのか?
2016年の参議院選挙から選挙権年齢が18歳に引き下げられたことを受けて始まった新しい学校教育を指す概念だ。最近はよく聞く言葉になっているかもしれない。だが投票率の低調さを見るまでもなく、深く浸透しているようには見えない。
文部科学省は、「青少年の健全育成」の一部に「主権者教育の推進」を入れ、「単に政治の仕組みについて必要な知識の習得のみならず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一員として主体的に担う力を育む主権者教育を推進」している。http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/1369165.htm
投票率向上を狙っているはずなのだが、それだけではない、という話が、最初から「主権者教育」の目的として強調されている。そのせいだろうか。「主権者教育」の内容は何なのかと思って文科省提供の情報を見てみても、ひどく説教じみたものにしか感じられない。「主権者かくあるべし」といった精神論が多く、若者が投票に行きたくなるような魅力を感じさせるものには見えない。
それにしても「主権者教育」というのは、誰が考え出した言葉なのだろうか。「主権者」を教育する、というのは、奇妙な発想だ。「主権者」は、ヨーロッパ絶対王政の時代に専制君主を指す言葉として使われ始めた。確かに、長い歴史の中で、様々な意味を持たされた(篠田英朗『「国家主権」という思想』参照)。だがそうだとしても、最高権力者である主権者を教育する、というのは、奇抜な発想だ。「主権=最高権威」を持つ主権者を教育する権威を持つ人物とは、いったい何者なのか?主権者とは、文部科学省の教育によって作られるものなのか?
日本国憲法の「三大原理」の一つが「国民主権」であると主張する勢力が、やたらと「主権者である国民」の概念を振り回したがる。意味もよく考えず、言葉の整合性も考えず、お題目として「主権者は国民だ」スローガンを振り回す傾向は、日本特有のガラパゴス文化だ。どうやら「主権者教育」の概念も、そうした日本のガラパゴス文化と深く関わっているように感じる。
私は、憲法学者が広めてきた「日本国憲法には三大原理がある」説には、根拠がない、と主張している(篠田英朗『憲法学の病』参照)。憲法前文には、ただ一つの原理しか「原理(principle)」として書かれていないので、憲法「一大原理」が正しい、と主張している。日本国憲法が「この憲法はかかる原理に基づく」と宣言している「人類普遍の原理」とは、「国政は、国民の厳粛な信託による」という理念である。これは「人民の人民による人民のための政治(その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受す)」と言い換えられているが、その根本には、「信託(trust)」という概念がある。社会契約論を示す「信託」概念を不当に貶めて、「要するにすべては国民主権論の話さ」と言いくるめようとするのは、ほとんど陰謀である。「信託」は、ジョン・ロックの社会契約論を基本とし、アメリカ独立宣言で謳われた社会契約思想を指していると考えるのが、本来は最も自然だ。
ジャン・ジャック・ルソーが「イギリス人は選挙の時だけ自由だが、議員が選ばれるや否や奴隷となる」と述べたのは、あまりにも有名だ。ルソーの影響が強いフランス革命は、イギリス流の古典的な自由主義を克服しようとする運動でもあった。国民を真の主権者にするために、ルソーは「一般意思」説などを唱え、イギリス流の古典的な社会契約論を作り替えようとした。主権者・国民は、選挙の時以外でも、主権者として振る舞わなければならない。それに従わない主権者は罰せられることもある。主権者は自由であるように強いられる、というのが、ルソー=フランス革命の思想である。
これに対して、エドムンド・バークのような同時代のイギリス人は、フランス革命の思想を危険な空理空論として警戒した。国民全体が主権者として振る舞うことは不可能であり、最悪の場合には、それは国民を操作して動員する権力者たちが牛耳る全体主義に陥る。極度に抽象的な国民主権論などよりも重要なのは、選挙を通じて与えられた「信託」に忠実に政府が行動することを確証する仕組みを作ることだ。政府は人々の自由を守り、安全を保障する。そのために必要な政策は、政府が考え、実行する。いちいち主権者・国民が「われわれが主権者であるから、われわれ自身が行動していることにしなければならない」などと出しゃばる必要はない。重要なのは、「契約」である。
日本国憲法は、その文章や、起草の経緯を考えれば、疑いなく英米流の社会契約論を基盤としたものだ。「信託」が「一大原理」として書かれているのは、そのことを示している。ところが、本当の日本国憲法を、日本の憲法学者たちは、長きにわたり隠蔽し続けてきた。アメリカの独立宣言ではなく、フランス革命こそが日本国憲法の基盤であるかのように説明してきた。ロックではなく、ルソーが日本国憲法に影響を与えたかのような解釈を「通説」とする態度を日本社会に広め続け、学校教育もその影響下に置こうとし続けてきた。日本の憲法学は、いわば「主権者教育」の総本山かもしれない。
・・・主権者は、放っておけば選挙の時以外は奴隷だ。常に主権者として振る舞うように「教育」されなければならない・・・。まさに教育論『エミール』を執筆したルソーにもつながるような思想が、「主権者教育」の考え方の背景にはある。
残念ながら、この憲法学通説を基盤にした「主権者教育」は、若者を魅了しきれていない。しかし、だからといってさらに大声で若者を説教しようとするのは、やめたほうがいい。
むしろ必要なのは、憲法学通説の妥当性とともに、「主権者教育」の妥当性も、あらためて見直すことなのではないか。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1564010108&s=books&sr=1-1
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けれども、「立憲主義」は「国民が権力を縛る」ものだ、などときくと、「本当なのか?」となるのである。「憲法」によって、「国民」は権力を縛る、と同時に、「権力者」から国民は、「自由」を縛られるのではないのだろうか?
日本国憲法の前文では、たしかに、「権威は国民に由来して」となっている。けれども、権力はその代表者がこれを行使して、福利は国民がこれを享受する、となっている。要するに、最高権力者は、国民ではなくて、国民によって代表者として選出された「国会議員」なのである。だからこそ、日本国憲法では、内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する(憲法67条)ということになっているし、内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。ただし、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない(憲法68条)、し、内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任をおう(憲法66条)のである。つまり、行政権の長も、最高権力者の一人である国会議員だし、その行政の行使についても、国民によって選ばれた国会議員が、チェックするのであって、行政を監視するのは、憲法学者でも、マスコミでもないのである。それが、本来の三権分立、「議会制民主主義」のあり方なのである。「明治憲法」下で権威が「天皇」だったものが、「日本国憲法」では、権威が「日本国民」に変化したのではないのだろうか?「法律」を作ったり、「予算」を決めたり、行政の長を選択する「権威」を行使する意味でも、国民にとって「国政選挙」への参加は、大事なのではないのだろうか?
宍戸教授は、「先ほどの憲法前文を読み返せば,そこに見出されるのは,むしろ「代表」重視の主権イメージの方である。このことは,代表制(代議制)は,決して直接民主制が採用できないがための次善の策なのではなく,むしろ民主的な社会を成り立たせる基本的な原理なのだ,という政治学の標準的な見方にも,相応しているのである。」と述べているので、篠田教授の考え方とそんなに隔たりはないのではないかとも思います。
http://www.daiichi-g.co.jp/komin/info/siryo/29t/160420/s/s1.html
http://www.akaruisenkyo.or.jp/wp/wp-content/uploads/2017/12/vo40.pdf
日本の憲法学者については、2つくらいの疑問がある。一点目は、「憲法9条護持」を目的とした「不純」な動機をもって憲法を専攻した人間が多いのではないかということ、二点目は憲法学者たちも「コモンセンス」をそれなりに重視しているのであろうが、それは日本の偏向ジャーナリズムが一方的に国民に「コモンセンス」であるかのように押し付けているが、実は全く「コモンセンス」とは程遠いものではないのだろうかという疑問である。
具体的には、護送船団方式のマスコミなどは、自社の意見の同調者しか読書欄に掲載せず、一方的なイデオロギーを国民におしつけてきた(最近も原英史氏が毎日新聞の訳わからないイデオロギーで一方的に弾圧されている)。これがテレビの中枢も支配してきたのである。地方紙もほぼ一色でこれは戦時体制の名残である。
また、海外で国民が紛争にまきこまれて救出できなくても「自衛隊廃止や海外派遣するな」と半世紀言い続けてきたマスコミ、現在のマイナンバーなども過去に実に長い期間に渡って「国民背番号」などと(平和安全法制を戦争法と言い換えたように)呼び、本当に狂ったように攻撃していた。
これらの異様な行動に、いつも憲法学者は紙面に登場して「お墨付き」を与えていた。もちろん、本当に公正な国民的議論ができていればいいのであるが、一方的にメディアを支配して洗脳しつづけるジャーナリズムに奉仕した。
また、国民資産の電波のオークションも取り入れてない国は北朝鮮とモンゴルくらいしかないというが、この点もまずメディアで報道されることもない。新聞の軽減税率も国民的議論なしに一方的に決められた。なにが「国民主権」か、マスコミに同調する国民だけの主権なのか。そもそも、そんなジャーナリズムや学者は地上まで降りてきて議論しない。一方的に新聞紙面や著書で宣言する。根本的におかしいのである。
共通点として、説明は明快でわかりやすいが、同時に奥が深い。どんな専門知識でも臆せず近づき、思い込みを警戒し、現実を重視し、長期的展望があるなど。
ひたすら大衆をプロレタリアートとして扇動し、煙に巻く言葉で人を混乱させ、えげつない思考トリックで砂上の専門科学を建築した共産主義者などとは対極にある。ファシストなどとも対極にある。
「ほんとう」のドイツ人で、カントやヘーゲルを読んでいる人は少ないし、だからといって、「無学」と軽蔑されることもない。ナチスドイツ以来、ドイツ人は「権威主義」と戦ってきたからである。どうして、日本の「憲法学」の世界だけ、「マスコミの世界」だけにそれが受け継がれているのかはかりしれないが、きっと、東大や京大の文学部出身者が、マスコミ界に多いから、そういう傾向になったかもしれない、と思う。
「主権」教育は大事である。ただ、それはまともなもの、不偏不党の客観的なもの、「世界の中の日本」なのだから、例えば、芦田均さんの解釈のような「ほんものの」国際法の「学識」に根付いた、偏りのないものにしてほしい。我々が学生の頃の「日教組」の左翼思想に基づいた「歴史認識」、「政治」教育は最悪だと思う。
(参考:新憲法解釈、芦田均)
英国などなら、チェスタトンがニーチェを揶揄したときの言葉だったか、「狂人とは、理性を失った人ではない。狂人とは、理性以外のあらゆる物を失った人である」というようにアイロニーで対処する。それは、そのアイロニーを理解できるようなウィットと教養のある国民の層があるからだろう。
しかし、「狂人とは、理性以外のあらゆる物を失った人である」というのはけだし名言である。こんな狂人が、たとえば法理論の構築に熱中したら、猥雑な人間社会そのものより、自分の構築した隙間のない法理論のほうに愛着とリアリティを感じるようになるに違いない。そして、そういう連中が群れをつくって法律共同体でもつくろうものなら、選挙で選ばれた政治家や職業的官僚に対しても、屈折した優越感を誇示し、「法律共同体に従ってもらうのが筋である」と国民を差し置いて君臨したがるようになるだろう。
それらは現代でもドイツ人以外にも十分通用する精神的思想的価値があると考えられる。
「主権者教育」を受けてほしい。
そういう意味で、中国とロシアは違うのである。中国の、領土を侵略されたことに対しての抵抗と違って、ソ連のは、領土獲得の為の、民衆の意志を無視しての侵略なのである。それは、東欧諸国でも同じである。
私が恐れているのは、カール・シュミットのような理論家が今、英米にも、世界中に存在するのではないのか、ということなのであって、トランプ氏にしても、ジョンソン氏にしても、冷静に国益を考えれば、「なるはずのない人」が国の政治指導者になっている。日本では、「ロシア疑惑」は米国のトランプ大統領だけに矮小化されているが、ヨーロッパの選挙戦で、特に、右派の選挙活動を、ロシアが資金も、SNSを通じても、支援している、と報道されている。「ウクライナ」侵攻で、経済制裁を受け、先進国との孤立を余儀なくされた「プーチンロシア」にとって、「亀裂を深めさせる」ことに国益であるからであるが、「自国中心主義」、「敵味方」をはっきりさせ、「個性的な独裁者待望論」のような風潮、それはシュミットの「敵味方理論」で「ナチスドイツ」政権を現出させたのと同じような現象なのではないのだろうか。
「自由」という言葉を強調する理由は、「自由思想」が「民主主義」と相並んで発達し、そして、民主主義と不可分の関係にあるからである。・・この思想は、ルソーとロックの影響の下で育成されたものであり、・・人間は自己の行動を自律し、人格の自由を自覚するものであって、これを支配するのは自然法のみ、であると考えたのである。つまり、人間は、感情のまま行動するのではなくて、自分の行動を自ら律する、という制限が「自由」にはついているのであるが、表現を変えれば、コメント9で旧会社員さんが表現されているヴァイツゼッカー流「内なる良心に耳を傾ける自己教育」ということになるのである。そして、民主主義は、米国のリンカーンの有名な言葉「政治が民衆によって行われ、また民衆のために行われる」を指す、とも書かれている。つまり「無学の者が有学の者」に従うイデオロギー支配の「封建政治」や「専制政治」は、民主政治とは言えないのである。その為の、日本国憲法44条なのである。「学問の自由」は結構である。ただ、「本物」と「偽物」の差を、我々「権威ある」国民は、認識しなければならないのではないのだろうか。
冒頭の文章は、篠田さんの近著の第一部4章にある一節で、篠田さんが激しく批判する憲法学通説が説く日本国憲法の基本的な思想として人口に膾炙した国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の「三大原理」に対抗するように強調する「人類普遍の原理」(a universal principle of mankind)である「本当の憲法前文一大原理」=「国政は、国民の厳粛な信託(trust)による」という思想を説明した条だ。
今回のトピックスのテーマである「主権者教育」との直接的関連性は薄いが、一読して気になったので、私の違和感について書いてみたい。
私は投稿名が示すように西洋古代哲学の学徒であり、哲学はその本性上、最も根源的な(κύριος)ものごとの探究(ζήτησις)としての思考=思索(διανόησις)であり、一切の前提(πᾶν πρότασις)を疑う(ὑποπτεύω)ことから初めて、真理を究める(φιλαληθής)営為(πρᾶξις)であるわけだが、言うは易く、その実現は容易ではない。
なぜなら、哲学は気ままな思惟(νόησις)ではないからだ。従ってそれは、ヴィトゲンシュタインがいみじくも語った意味で、「如何なる観念の共同体の市民であること」をも拒否する(ἀνανεύειν)覚悟(γνώμη)を求めるものであり(‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’=L. Wittgenstein, ‘‘Zettel[1945~1948]’’)、フッサールが言った意味で厳密な学問(ἀκριβῶς μάθημα=strenge Wissenschaft)であることを志向する。
だから哲学は教育(παιδεία)には馴染まない性質を、その本性上もっている。
何でもものごとは教えられるという軽率な思考が「教育狂」を生むとするなら、そうした教育の可能性への無邪気な信仰の上に立った世の習慣(ἔθος)と鋭く対立するものがあると言える。
哲学(φιλοσοφία)はその名の通り「知」(σοφία)を愛する(φιλεῖν])思考の営みであると同時に、それを厳密な知識として定式化する試みであって、単なる専門知(ἐπιστήμη)にとどまるものではないのはもとより、世俗的な知恵や処世訓(ἐπίγρμμα)に終始するものでもない。人間としての徳、即ち卓越性(ἀρετή)に直結しもしない。
端的に、世界(κόςμος⇒die Welt=「現実に成立していることの総体」)と論理空間(logischen Raum=「可能性として成立し得ることの総体」)との関係で、その中に置かれた人間(ἄνθρωπος)と社会(ἡ τῶν ἄνθρώπων=κινωνία)をめぐる善美なるもの(τὸ ἀγαθός)と正義(δικαιοσύνη)との成立条件(ἡ ἔπαινος ἡνούμενον)を論理的に明らかにすることに外ならない。
それは同時に、世界と人間について総合的に考える(συλλογίζεσθαι)、つまり「体系的なもの」(ἡ σύμφυτος κοσμος)であり、単なる経験知(φρόνησις)を越えた、そう成る(γίγνεσθαι)べくして成立した必然的な(ἀναγκαῖος)現実(ἔργον γιγνόμενον)、つまり「他でもあり得るもの」(τὸ ἐνδεχόμενον ἄλλως ἔχειν)ではなくして、まさにそうであって「他ではあり得ないもの」(τὸ οὐκ ἐνδεχόμενον ἄλλως ἔχειν)としての必然的な(ἀναγκαῖος)現実の構造(συστασις)を明らかにするものだとも言える。
新聞も読まないしテレビも見ない。時折、バッハやモーツァルトを聴いたりする。バッハはヴァイオリンの独奏曲も素晴らしいが、特に『フランス組曲』(BWV. 812~817)のチェンバロの音色はすこぶる心地良い。
今回も篠田さんの『憲法学の病』に触発されてのもので、テーマとの関連性は薄いのは承知の上だということは前述した通りだ。そもそも、「主権者教育」に何の興味(τὸ συμφέρον)も関心(προσήκειν)もない。学校教育段階の若年層を対象とする点でその有用性(ἡ χρῆσιμος)についてはともかく、有効性(τὸ κῦρος)については疑問(ἡ ἐρώτησις)に思う。従って、必要性(ἡ χρεία)を感じない。
それより、日本国憲法前文の一大原理に関する先の一節への違和感である。その前に断っておくべきことは、私にとって本を読むこととは、何かを教えてもらうことではなく、当の著者の見解に触れることで、私自身が自由のものを考える参考にし、思考の幅を広げることだ。
主張された内容より、その根拠(τὸ διότι)や論法(μέθοδος)、そうした論述に至る経過や背景の方に興味を抱く場合もある。原理的な(τέλειος)考察については、既にプラトンやアリストテレス、トーマス・アクィナスら近代以前の哲学者たちによって解明された領域もあり、現代の著者から彼ら以上の洞察(γνώμη)を学ぶことは、あまりない。
古来からある継続的かつ原理的な問題との関連性がある現代の問題について、現代の著者が最もよく教えてくれるとも思わない。
日本国憲法の前文についても、同じことを感じる。これほど勿体ぶって(ἁβρύνω)いる割には、軽薄(ῥᾳδιος)で陳腐な(πρόχειρος)とるに足らない(φαῦλος)文章も少ない。一見高らかに理想(παράδειγμα)を謳っているようだが、人間と社会についての洞察の欠片もないもので、私にとっては「クズ」(φορυτός)に等しい。
そこに盛り込まれた日本国憲法の「原理と原則」は先の大戦での日本の惨憺たる敗戦(ἡ ἄθλιος ἧττα)の教訓(ἡ διδασκαλία)から、戦勝国(ὁ νικῶν)、即ち占領国(ὁ νικήσας)による戦後処理=平和構築の一環として甘受したもので、戦争で傷ついた多数派の国民の恨みを背景とした有形無形の支持を背景に、謂わば勝者による戦後秩序(κόςμος)とした否応なしに(βιάζομαι)受け入れたものであって、戦争(πόλεμος)に負ける(νικάομαι)ということは、常にそうしたものだ。
米国との戦争はもう懲り懲りだ、あんな国とは間違っても二度と戦争はすまい、という誓い(ὅρκος)に外ならず、国際協調というのは、その方便(πρόφασις)としての美名(κάλλος)にすぎない。もっとも、単独ではないが米国と戦って、少なくとも負けはしなかったヴェトナム人などにしたら、戦後の日本人の懦弱さ(βλακικός)を嘲笑う(σκῶμμα)かもしれない。
そこで冒頭の文章である。主流派の憲法学者に対して、前文に三大原理ではなく一大原理を読む込む篠田説の主張自体に違和感があるわけではない。それは別の観点からのもので、例えば「原理」と「目的」に関してや、それとの関連で「人類普遍の原理」という議論が内包する概念的区分(διαιρεῖσθαι)に対してだ。
民主主義も一つのイデオロギーにすぎない。他にこれといった選択肢が見当たらない以上、「次善の策」(ὁ δεύτερος πλοῦς)として選ばれているにすぎない。政治的な(τὰ πολιτικά)合意形成の原理乃至手段として以上に、民主制自体に固有の(οἰκεῖος)価値などない。「政治道徳」など、強者(κρείττων)による支配正当化のお題目にすぎない。
帝国陸海軍の解体や帝国憲法改正という名の事実上の全面改定に追い込まれる屈辱を忍ばざるを得なかった戦後の日本は少しも米国の属国などではないが、戦争に敗れた(ἡττάομαι)被征服者(ὁ νικηθείς)の宿命は歴然だ。
支配層には必ずしも本意ではなく、天皇制存続で曲がりなりにも「國體」(πολιτεία)を護持し得て、新憲法を選択せざるを得なかったのは紛れもない事実だろう。
国内の事情だが、軍部がさまざまな事情と日本的合意形成の多層性をついて政治を壟断した戦前への反省も反動もあったわけだ。
しかし、戦勝国の世界支配の秩序(κόςμος)に原理的な正統性(ἡ ὀρθότης)があるわけではない。
最後に駆け足的に論旨をまとめると、篠田さん自身の固有の見解かどうかはさておき、【法体系の仕組みを言い表す一般性の高い原則的な規則】という際の「原理」(ἀρχή)、【より具体的で、特定の法律が目指す政策的な方向性を指し示す】という意味での「目的」(τέλος)は、憲法学者を含む法学者や政治学者はいざ知らず哲学由来の歴史的な概念で、篠田さんの議論には違和感がある。
「原理」は「一般性の高い原則的な規則」というよりも、端的にものごとの「元」(アルケー=ἀρχή)=始め、起点、成立要因のことで、学問的議論、知識の出発点だ。数学なら公理(ἀξίωμα)に匹敵する究極的な基準(κριτήριον)だろう。一般的なものから個別的なものへ推論や分析を進めていく上での起点をなす。
一方、「目的」は「より具体的…な方向性」などではなく、「それのためにそれである」(τὸ οὗ ἕνεκα)目的で、終極の(ἔσχατος)終わり(τέλος)としての終結点、極限に外ならない。その過程で、当初の意図が現実化したとしても、それは単なる「方向性」にとどまらない。
『憲法学の病』には通説が説く三大原理に対して、宮澤俊義の教え子で師に疎まれたとされる小嶋和司(元東北大学憲法学教授)が「基本目的」として掲げた三点を紹介しているが、原理と目的との詮議立ては原理的には無用だ。
この問題を歴史上最初に包括的に議論したアリストテレスは、「原理」が既に目的を包含している構造を論じており、始めから終局、原理から目的への移行は、可能性(δύναμις)の現実化として、原理と目的は結局一致する。
【「原理」は静的なものだが、「目的】はより動的なもの】(124頁)というのは、無意味なお喋りだろう。[完]
しかも言うに事欠いて、6②⇒【難しく書かれた「ドイツ哲学」を使ったり…カントやヘーゲル、サルトルやフーコーをむやみにありがたがる、傾向がある】と映るらしい。
如何にも世間知らずのドイツ狂らしい無知蒙昧ぶりで、それでメディア批判に躍起になっているのだから、滑稽を通り越して戯画(ἡ κωμῳδεῖν)でさえある。
「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)典型で、カ氏ぐらい他を批判して多用する「仮想現実」(εἰκός=virtual reality)に生きている御仁も珍しい。
出版界はともかく、所謂新聞、テレビの大手メディアでそうした事例は例外に属する。新聞記者は職業柄、自分より知的に秀でた人種に会う機会が一般市民より多い。従って、学者、知識人だからといって無闇に有難がったり、畏れ入ることもない。内心では、世間知らずの莫迦な奴らと軽蔑することも珍しくなく。世間ずれしていてこそ、ジャーナリストで、「神聖」(θεῖος)とか「敬虔」(ὅσιος)とかいう心情から、メディア人ほど遠い人種はない。
6③⇒【自分の説を正当にみせるために】ドイツ哲学やフランス現代思想の言辞など使おうものなら、原稿は即ボツ⇒ゴミ箱行きだろう。
従って、6④⇒【自分たちが庶民と違って優れている、とみせかける手段に使っているのが、ドイツやフランスの哲学者の名前】というのも実態を反映していない。それほど知的水準が低くもない。
私が、カ氏を6⑤⇒【ヘーゲルを一冊も読まないで語る】と蔑視する以前に、せっかくドイツ語が読めながら、正確な引用さえ覚束ない体たらくを指摘したまでだ。
言うだけ恥曝しなのに気づかないらしい。
憲法学の分野でいえば、たとえば憲法試案を発表した鈴木安蔵などを思い出す。この憲法学者は、戦中においては、
「即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)・・という大東亜共栄圏のイデオローグであった」(Wikipediaより)
戦中の時局便乗の右翼勢力が、その反動で戦後に左翼に転向した。この手の転向者の話は、稲垣武の「悪魔祓いの戦後史」などに詳しい。
戦争を鼓舞しながら無残な敗北となり、もぬけの殻となった知識人の空虚さをマルクス主義思想がよく埋めた。確信的なマルクス主義者から、何となく迎合する共産主義者まで、ほぼ一致して、憲法改正を「憲法改悪」と徒党をつくって糾弾するようになり、安全保障を考える理性を日本人から奪い、安全保障では「日本の常識は世界の非常識」と呼ばれるようになる。
極左はその非常識を正当化するために「戦争で迷惑をかけた日本は軍事すべてを捨て去る義務がある」などと日本人の戦争トラウマに訴えるが一大商売となっていく。(この過程でまた醜く中国人や韓国人の対日憎悪を煽りつづけたのである)
現在は、復古主義者も衰退したし、極左勢力も守旧マスコミと一心同体で地盤沈下しつつある。篠田氏は良いタイミングで日本の言論界に登場されたと思う。
安倍総理の「70周年談話」にも、この「侵略戦争」という言葉を使わないでほしい、という専門家が2人おられたことをその「有識者会議」の座長代理をされた国際連合大学の北岡伸一さんが、指摘されているが、一部の憲法学者が「右翼の親玉のように」形容する安倍首相は、その仲間ではないのである。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。
北岡教授の説明によれば、このrepentanceという言葉が大事だそうで、安倍首相は、二度と「軍国主義国家」にならないという意味で、英訳するときに、歌劇モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」で騎士長が「悔い改めよ。」とドン・ジョヴァンニに要求する時に使う言葉、repéntanceという言葉を使われたそうである。私は、この単語に対してのセンスはまるでないのであるが、英和大辞典をひくと、確かに、「非行」に対する後悔、悔恨、悔い改め、と載っているし、「ドン・ジョヴァンニ」は悔い改めなかった為に、地獄に落とされ、そのような人物が、死に、地獄に落とされたことに対して、民衆は狂喜乱舞したのである。モーツアルトは、すべての人が仲間になるべきだ、と考えてはいない、そして、「フィガロの結婚」にしろ、「ドン・ジョヴァンニ」にしろ、「魔笛」にしろ、民衆の立場に立った「民主主義精神あふれた」人物、音楽家と言えるのではないのだろうか?岸信介さんは、巣鴨で「自分の非」を、悔い改められたが、カール・シュミットは、戦後も拘留されても、「大虐殺の悲惨さ」が報道されても、「反ユダヤ主義」を悔い改めなかった。その差は大きいのである。ルーズベルト大統領は、人種差別主義者ではなくて、中国を支持し、日本を不信視した、アメリカ合衆国の大統領なのである。現在のトランプ大統領の反対であるが、大事なことはやはり、歴史にしろ、現実にしろ、「真実と嘘」を取り違えないことなのではないのだろうか。(参考: 北岡伸一、国際大学学長、2015.8.15, https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%83%84%e3%82%bc%e3%83%83%e3%82%ab%e3%83%bc%e6%bc%94%e8%aa%ac&&view=detail&mid=6793442CA955C44E7AA06793442CA955C44E7AA0&&FORM=VRDGAR
その一番の問題は、ジャーナリストの良心、で報道するのではなくて、報酬の額、そのような報道記事は売れるから、という理由で報道をするから、「内容」がおかしくなるのである。
私が、トランプ大統領に不信をもったのは、やはり、大学時代にアメリカの大学でアメリカ人からアメリカの国の成り立ちを教わったからであって、アメリカは、移民の国であり、人種のるつぼであり、「違った文化が融合してアメリカ文化」ができあがっていく、と教わったのである。日本のように「以心伝心」ができない、上手に自己主張をしながら、相手の立場も尊重するアメリカ社会で生きていくのは大変だな、と思ったが、文化がまるで違う人々と融合するためには、お互いによほど相手のいうことを理解して、妥協しなければ、うまくいかないのである。
参考 https://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/usa-unter-donald-trump-die-dystopie-ist-schon-hier-kolumne-a-1278152.html
例えば、①⇒【ドイツやフランスの哲学者の名前で…普通の日本人にとって「すぐれた哲学者」という定評はあっても、その内容、真偽はよくわからない存在で…英語以外…で書かれているために、コモンセンスにはなっていない】とある。
これは、普通の日本人というより、カ氏自身にこそ相応しい観察(θεωρεῖν)かもしれない。「その内容、真偽はよくわからない」も何も、読みもしないのだから理解できるはずもない。精々、押し並べて出来の悪い日本版Wikipediaで得たにわか知識を振り回すしか能がない。ましてや真偽(ἀληθής καὶ ψεῦδος)など、確かめようもない。
第一、それを独力で見極める知識も技量もない。しかも、哲学的な命題は真偽が直ちに判定可能なものばかりとは限らないからだ。英米流の分析哲学の世界では、真偽如何の問い(ἐρωτᾶν)に答える前に、設問自体が論理的な回答が可能な正当なものかどうかが問題になり、それが偽であれば答えるまでもなく、その虚偽性(τὸ ψεῦδος)を示すことで設問自体を技術的に解消すれば事足りる。
哲学的問題には論理的に虚偽的な問いが少なくないことを明確にしたことが、19世紀後半以来の論理学の新たな発展とともに登場した20世紀の英米が主流の論理実証主義、所謂「言語論的転回」以降の狭義の分析哲学や科学哲学、言語論的意味論などだ。真偽の成立条件を満たさない虚偽の問題設定が多い、ということだ。
そもそもドイツ哲学が難解とされるのは、ドイツ哲学の正統的系譜であるカント由来の認識論偏重、即ち知識や認識の客観妥当性といった真理の成立条件を、人間の認識の構造や概念分析を通じて探るような、普通の人々にとって元々馴染みの薄い、しかも実質的な関心を維持しづらいようなテーマ、分析手法、論述法、用語が多いためだ。
従って、フッサールのように克明で厳密だけれど無味乾燥か、ハイデガーのように奇妙な造語を多用した、通常の文章感覚を逸脱した特異な現象学的分析となるためだ。表現の生硬さはドイツならではで、ドイツの哲学者は一部例外を除き、平明で簡潔な文章を書く資質が欠落している。
哲学者であっても、デカルト的明晰さやベルクソンのような巧みな比喩で問題の全体像を浮かび上がらせるような文章家を欠くのはドイツ哲学の性格であり、ケインズが説く英国精神に特有の散文的健全さ(‘prosaic soundness’)という意味での平衡感覚を伴った大人の感覚を欠くのはドイツ特有の欠陥だ。
だからといって、常識的了解の地平を脱却した厳密で徹底した思考の働きである哲学に一面的な分かり易さを安易に求める非専門家(ἀνεπιστήμων)の側にも問題がある。哲学に文学のような実用的な有用性や興趣を求めることは見当違いに等しい。
ものごとの全体像(τὸ ὄλος)を徹底的に厳密に考えようとすれば、言葉の難しさではない、事柄自身(πρᾶγμα)のもつ難解さは避けられない。不可欠なのは首尾一貫した(ταὐτὰ λέγειν)論理的明快さと、対象領域を過不足なくカバーする体系性だけだ。
④⇒【「ほんとう」のドイツ人で、カントやヘーゲルを読んでいる人は少ない】。如何にもまともな日本文が綴れないカ氏らしい意味不明な文章で、「ほんとう」のドイツ人の「ほんとう」が何を指すのか不明だが、大方ドイツの民衆を指すのだろう。ドイツぐらい一般の中下層の民衆と知的エリート層、かつての教養市民層(ドイツ版‘mandarinism’=所謂マンダリン的「文化的保守主義」を特質とする知的教養層)との文化的分断が進んでいる国は珍しく、彼らにはカントやヘーゲルを読むような知的な虚栄心も積極的な知的な関心も欠けているだけの話で、それを痛痒とは感じない程度に無欲で、「無学」と軽蔑するまでもないほどに無教養(ἀπαιδευσία)ということだろう。
「権威主義」云々は、何の関係もない。カ氏同様、単に無知で愚鈍なだけだろう。
なお、コモンセンス(common sense)というのは特段の見識などではないが、デカルトが説く、単なる常識(τὰ ἔνδοξα)を超えた「良識」(bon sens=εὐγνωμοσύνη)に通じる英国的な知恵で、そうした英国的思慮を英国のジャーナリストで評論家のW. バジョットは敢えてstupidity(愚鈍さ)と表現し、自らの愚鈍さに軽い羞恥心を覚えつつ、そこに悠容迫らぬ精神の成熟を見ようとする。ドイツ的な、生真面目(σπουδή)だけれど前のめりな(προπετής)、偏狭な精神(σμικρολογία)との違いだ。
実際に、ドイツ語は読めてもヘーゲルなど読みもしないで、普通のドイツ人も大半はヘーゲルを読まないことをもって自己の無知蒙昧ぶりを糊塗する(τεχνάζω)うえに、‘aufheben’などもって回るカ氏の救いようのない虚栄(χαυνότης)と虚飾(ἀλαζονεία)は歴然だ。大半の日本人も日本語で書かれた西田幾多郎を読まないのと同じで、だからどうだというのだ。
一年前の議論の繰り返しを避けつつ要点のみ述べれば、例えば、ソクラテスに言及したプラトンやアリストテレスらの著作は端的に写本の形でしか残っておらず、学問的な議論では、それらは古代末期以来の註釈書の記述によって補足しないと、原文の正確な意味を確定できない。
この註釈書の厄介にならないと本当のことは分からないという点が、理解や解釈に専門家(τεχνίτης)を必要とする所以で、註釈書は大半がギリシア語かラテン語(時にはアラビア語)で書かれており、出発点において素人(ιδώτης)と専門家との壁が厳存する。
要するに、専門家には補足(προσθήκη)の自由と責任(ἐλευθερία καὶ αἴτιον)があるけれど、素人には主観的な解釈の自由という幻想(φάντασμα)があるだけということだ。[完]
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