参議院選挙が終わり、改憲論議の行方が話題になっている。多くの人々が、「改憲問題は国民の関心事項ではない」といった主張をしている。改憲論の進展への強い警戒心は、改憲問題への強い関心の表れのようにも思えるが、議論はしないのだという。
わかりにくい。
議論しないという立場の人々は、「自衛隊は広く国民に認められているのだから、改憲の必要性はない」と主張している。しかし自衛隊が広く認められていることを肯定しているのなら、改憲に賛成してもいいではないか。
非常にわかりにくい。
アンケート調査では、具体的な改憲案の是非についての質問ではなく、「安倍政権下での改憲に賛成ですか」とか「改憲問題の優先順位はどれくらいですか」といった、ひねった質問がなされる。
とてもわかりにくい。
わかりにくい原因は、冷戦時代を生きていた世代の人々が、すべてを左右のイデオロギー集団間の闘争の歴史の中で捉えていることなのではないか。論理的一貫性は度外視して、勝つか負けるか、といった図式で全てを捉えている。そのため人間関係に着目するとわかりやすいのだが、論理を見てみると、とてもわかりにくくなってしまうのではないか。
改憲の必要性のポイントは、解釈の確定である。
憲法9条の解釈が曖昧になっていることは疑いのない事実だ。解釈を確定させることに大きな利益がある。改憲が解釈確定に役立つなら有益だし、そうでないなら無益だ。
現在でも憲法学の基本書を見ると、自衛隊違憲説が学界「通説」として紹介されている。それなのに憲法学者たちが率先して「自衛隊は広く国民に認められている」と声高に主張しているのは、いったいどういうことなのか。
「自衛隊が違憲だと言う憲法学者ばかりではない」などとのんびりと語ってみせる憲法学者もいるが、それでは、結局、どちらなのか。学者の良心から、議論せずにはいられない、という衝動を、憲法学者の方々は感じたりしないのか。
学者同士の議論を避けて、「アベ政治を許さない」で大同団結することを優先していることの憲法学上の意味は何なのか。
まず自分の学界内部で、自衛隊が合憲なのか、違憲なのか、徹底的に議論するべきではないのか。その様子を公にすることこそが、学者が社会に対して持っている社会的使命を果たすことなのではないか。
伝統的な憲法学界「通説」は、次のようなものである。
9条1項では自衛権が否定されていないように見えるが、2項が「戦力」と「交戦権」を否定しているため、1項で留保されている自衛権の行使もできなくなる。1項の意味を、2項を読んでから、修正するという奇妙な「ちゃぶ台返し」の解釈論である。http://agora-web.jp/archives/2040347.html
これに対して、1項にしたがって2項を解釈する立場は、伝統的に京都大学系の憲法学者や国際政治学者らによって採用されてきた。これは伝統的に「芦田修正説」と呼ばれてきた。「芦田修正」とは、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という挿入句を入れた憲法改正特別委員会の措置のことを指すが、今日に至るまで主流派の憲法学者たちから蔑みの対象であり続けている。http://agora-web.jp/archives/1667846.html
なぜ「芦田修正」が邪道なのかというと、2項の真ん中に「句点」があるからだという(!)。「前項の目的を達するため」は、2項の最初の一文である「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」にかかるが、句点「。」によって、「前項の目的を達する」の縛りは終了するという。そこで2項の2文目の「国の交戦権は、これを認めない。」には「前項の目的を達するため」はかからない。そのため「前項の目的を達するため」ではない「交戦権」の否認によって、1項の自衛権の留保も無効化される、というのである。
たとえば 高橋和之・元東大教授によれば、「不戦条約等の文言と関連づけて解釈することを否定し、日本国憲法独自の意味を探るという立場」が有力なのは、「こう解すれば2項の前段も後段も、何の技巧も施すことなく文言通りの意味に解することができる」からだと説明する。高橋教授によれば、9条2項が「前段と句点で区切られているため、『前項の目的を達するため』を後段にまで及ぼすことができず、自衛のための『交戦権』は否定されないと読むことが困難である」と主張する。高橋教授は、「交戦権の意味に技巧をこらし、国際法上交戦国に認められる(敵の船舶を拿捕したり、敵の領土を占領統治したりする)権利の意味であるとし、かかる意味での交戦権は否定されたが、戦う権利が否定されたわけではない」といった考え方を仮想敵としながら、「もし自衛のための戦争・戦力が認められるなら、なぜかかる意味での交戦権が否定されねばならないのか説明が困難であろう」と述べる。(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(第4版)(2017年、有斐閣)、53-54頁。)
「句点」! 日本の憲法学通説の正しさを裏付ける根拠は、「句点」!
国家の安全保障政策を、70年以上にわたって「句点」を根拠にして、大きく制約し続けようとしてきたと言うのだから、冗談にもならない。しかし日本では、こんな憲法解釈がはびこる学界「通説」を学ぶことが、司法試験や公務員試験を通じて、法律家や官僚になるための必須要件とされている。よくぞ「句点が根拠」下で、国家を運営してこれたものである。驚くべき作業だと称賛してもいいが、そのために膨大な量の残業費の無駄遣いや政策の停滞が引き起こされてきた。憲法学界「通説」によってもたらされた壮大な無駄の規模は、計り知れないのである。
私は、繰り返し、以下の憲法解釈の妥当性を主張している。
憲法上の「戦力」概念は、感覚的に解釈されるべきものではない。たとえば、読売巨人「軍」の選手などもしばしば一般人によって「戦力」と表現されている。一般人の言語感覚にそって憲法解釈するならば、プロ野球選手も違憲の存在なのである。だがもちろんそのような感性的な解釈は、法律論ではない。一般人の言語感覚を、憲法学者の言語感覚、と置き換えてみても、事情は変わらない。感性論は、法律論ではない。重要なのは、明確な基準があるかないか、である。
「戦力」の憲法上の意味は、「戦争潜在力(war potential)」であり、この「戦争」概念は、1項で放棄された「国権の発動としての戦争(war as a sovereign right of the nation)」であることは、自明である。「芦田修正」の挿入句なども気にすることなく、ただ素直に1項から自然に2項を読み進めていけばいいのである。1項で否定されたのは、国際法で違法の「戦争(war)」のことである。そこには自衛権は含まれていない。2項で不保持が宣言されている「戦争潜在力(war potential)」も、1項と綺麗につながっているために、自衛権行使の手段は含まれていない。
憲法学者は「自衛戦争」なる国際法では使われていない造語などを乱発し、「自衛戦争」も戦争だから放棄される、といったお話を広めようとする。しかし「自衛戦争」は日本のガラパゴス憲法学にのみ存在している概念である。そんなものを理由にして国際法上の自衛権を否定するというのは、完全に破綻した議論である。
また句点の後で否認されている「交戦権」は、国際法では存在していない概念である。存在しないものを「認めない」と宣言しても、国際法上の権利で失うものは何もない。「交戦権」否認は、不戦条約体制から逸脱した太平洋戦争中の大日本帝国憲法の「統帥権」概念などを根拠にした大日本帝国特有のイデオロギーの否定である。自衛権の放棄とは何も関係がない。
なぜ1項と2項を論理的に結びつける解釈が、「句点が根拠」論よりも、劣っているとみなされるのか?納得がいかない。
議論が必要ではないだろうか? 国会議員も議論すべきだが、まずは学者が議論すべきなのではないか?
私は各方面で、主流派の憲法学者との議論の場を設定してくれないか、と頼んでいる。ここ数年頼み続けている。理解ある憲法学者の方だけでなく、マスコミ関係者や政治家の方にも頼んでいる。しかし実現していない。主流派の憲法学者を、私との議論の場に連れて来れる腕力のある方が、今の日本にはいないのだ。
それどころか憲法学者は、憲法学者ではない者は憲法を語ってはならない、と主張し続けている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html
一部の良心的な憲法学者の方々の中には、次のように私に助言してくれる方もいる。「主流派の憲法学者を批判しても勝ち目がないですよ、彼らはマスコミに重宝されていますから」。
しかし、このまま憲法学「通説」の「句点が根拠」を許し続けていて、日本はやっていけるのか。時代遅れのイデオロギー闘争をやっている場合ではない。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=as_li_ss_tl?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%97%85+&fbclid=IwAR0gWB5OBKS6ZzZKENPGr26ETyoFLoTPfDql4y_-kAJCvVQFDnl-78y4xWw
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こんなのをまともに相手にしなかった過去の日本政府は、つくづく利口だったと思う。安全保障において自由主義陣営の先進国と協調し、国際社会の平和を脅かす国家と日本が対峙している時代に、この連中はずっと、ずっと(極左勢力に同調して)「日本こそが一番危ない国だ」と(朝日・毎日の新聞やテレビを総動員して)主張しつづけてきた。
さすがに、(北朝鮮や中国の問題が公けになり)それだけでだましきれなくなって、いろんな変化球を使うようになったが、「平和憲法は世界の最先端だ」などと平然と言える能天気の神経がわからない。防衛の概念がない穴だらけの日本領土に平気で北朝鮮のテロリストが侵入し日本人が拉致されても、海外の紛争地域で日本人が救出できなくても貿易が破壊されそうなとき他国の軍隊に依存しても、「憲法9条あれば戦争にまきこまれない」だ。学問というより信仰だ。
芦田均さんのその著書によると、もともとの米国の草案は、陸海空軍の戦力の保持を許さず、国の交戦権を認めない、というものであった、そうである。つまり、1928年の「パリ不戦条約」に署名しながら、「自衛戦争」という名前をつけて、戦争を正当化した日本に対して、国際法にない概念、「交戦権を認めない」と規定させることで、米国は、日本による戦争の再発を抑止しようとしたのだと思う。ただ日本の立法府では、9条を規定するにあたって、自衛権まで放棄することになるかどうか、軍備をもたない日本国は、自己防衛の方法をもっていない、ということが問題になった時、委員の一人が、国際連合憲章第51条には、明らかに自衛権を認めており、かつ日本が国際連合に加入した場合を想像すれば、国際連合憲章には世界の平和の脅威となる侵略が行なわれるとき、安全保障理事会は兵力をもって非侵略国を防衛する義務を負うのだから、今後の我が国の防衛は国際連合に参加することによって全うされるのではないか、ということで落ち着いたそうである。
それだけではなく、著書によると、単に日本が戦争を否認するという一方的な行為だけではなく、積極的に世界に永久平和の樹立に努力すべきことを呼びかける、という意図のもとに、GHQの草案の前半部分に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を付け加えておられる。それは、近代科学が原子爆弾を生んだ結果、将来万一にも大国との間に戦争が開かれる場合には、人類が受ける惨禍ははかりしれないので、この条文は、世界を文明の滅亡から救おうとする「理想から」始められるべきだと考えられた為に、付け加えられたものである。
よく聞くのは、日本の天皇制を維持することとの交換条件として憲法9条を認めさせたという説であるが、噴飯物である。戦争は軍隊によって起こるのだから、連合国は、何よりも日本の軍隊が怖かったに決まっている。
つまり、日本軍からの「復讐」をおそれて軍隊を廃止させたに違いない。軍隊を無くさせれば復讐されないのだから当たり前である。(逆に皇室が廃止されても、軍隊が残れば復讐されると拒否反応が出たろう)。
ところが、それだとあまりに単純すぎるので、学者や評論家は面白くない。
そこで、日本に非武装を認めさせるため「天皇制廃止するぞ」と脅したのを、あたかも連合国との交換条件であるかのように見せかけると、歴史が意外と複雑怪奇になり、おまけに現代でもなお、憲法9条と天皇護持は交換条件だったと日本国民に圧力をかけることができるため、守旧メディアによって積極的にその説が採用されているのだろう。
簡単なことを、思わせぶりにさせて、わざとややこしく考える学者のサガがこんなところにも表れていると思われる。
1945~
・明日食うことにさえ困るような当時の日本では軍隊は不要だった。
・占領軍や米軍がいるので、さらに別の国家の軍隊に侵略されることもなかった。
・初期のGHQのメンバーは「可哀そうな日本」の国家改造に燃えていたが、空想的な人間も多かった。軍隊の力でなく平和思想で国を興すという夢を訴えた。(クエーカー教徒がやってきたような感じ)
・国民も、まず経済復興が先決と考え、吉田茂を選んだ。
(朝鮮戦争への派遣も拒否したが、秘密裡に魚雷探査に行かせ「戦死者」もでた)
・吉田茂は、日本が復興したら、自由主義陣営の一員として自衛隊を正式な軍隊として認知させ国際協調すべきと考えていたが、リアリストだから後世の日本人に判断をまかせた。
・それで日本が普通の歴史をたどっていたら、90年湾岸戦争あたりには海外派兵を行い、憲法論争には決着がついていたはず。(同じ敗戦国のドイツは湾岸戦争を契機に、憲法裁判所や議会でドイツ軍の海外派兵を承認)
・ところが、日本では左翼が東大闘争や成田闘争でバリケードに立てこもったごとく、憲法9条というバリケードに立てこもった。
・普通の庶民でも論破できるような左翼たちであったが、あいにく左翼マスコミが記者クラブを大部分おさえ、テレビの電波も手中にあり世論を支配し、さらに学界も支配してしまったので、とてつもなく強大な憲法9条バリケードになってしまった。
※憲法9条バリケードに挑戦する人間は、ある意味ドン・キホーテのような役割を背負わされるようになってしまった
(参考 父 吉田茂 麻生和子著、光文社)
その報道の中で、安倍首相は、米国のトランプ大統領、イギリスのジョンソン首相と一緒にされ、トランプの主席イデオローグ、バノン氏が東京を訪れた時、バノン氏は、安倍晋三さんを、トランプの前のトランプ、つまり、グローバルなナショナリズム運動のパイオニアであると共に、英雄だ、と称賛したと報じ、安倍首相は、メデイアを軽視し、民主主義を空洞化させ、7月の初めから、トランプ大統領と同様に、政治的な目的の為に、韓国との間で貿易戦争を始めている、とドイツ語で報道しているが、その認識は正しいのだろうか?バノン氏の評判は、ドイツでは悪い。白人至上主義者だし、EUの結束を乱そうとしている張本人だからである。けれども、安倍首相は、Neidhartさんの報道しているような人なのか。
この記事に、私は、一部の憲法学者をはじめとする日本国憲法を改正しようとしている「安倍倒し」の策謀を感じるが、それは、決して国際社会での「日本の国益」に寄与しない。
それなのに、「NHKから国民を守る党」の立花孝志代表は、丸山穂高議員の入党を勧誘し、「ドラフト会議のフリーエージェントで、希望選手を獲得した監督の気持ち」などという感想を批判もせずに、そのまま流している。「NHKから国民を守る党」も北方領土問題を武力で解決するつもりなのだろうか?
Gewaltverzicht heute heißt, den Menschen dort, wo sie das Schicksal nach dem 8. Mai hingetrieben hat und wo sie nun seit Jahrzehnten leben, eine dauerhafte, politisch unangefochtene Sicherheit für ihre Zukunft zu geben. Es heißt, den widerstreitenden Rechtsansprüchen das Verständigungsgebot überzuordnen.
Darin liegt der eigentliche, der menschliche Beitrag zu einer europäischen Friedensordnung, der von uns ausgehen kann.
五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること——これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
北朝鮮の宣伝ウェブサイト「わが民族同士」は28日、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を韓国に要求する論評を掲載した。韓国で起こっている大規模な「反日運動」、これは、北朝鮮の国益の為に、北朝鮮の諜報員も参加して「反日ムード」が作り上げられているように思うが、そういう北朝鮮の思惑もよく考えて、権威ある憲法学者やマスコミに惑わされず、「我々日本国民」は賢明な判断をしなければならない、と思う。
北朝鮮は、(国際社会への)威嚇の手段として、核ミサイルを発射しているのではなくて、威嚇の手段として、核兵器を開発したり、ミサイルを発射したりしている、の間違えです。お詫びして、訂正します。
本来、各被爆国の日本がイニシャテイブを取って、他の国々と共同して、「国際機関」を動かすことが必要なのだと思う。
外交官出身の岡本行夫さんは、日本は憲法上の理由で、他国と共同歩調が取れない、と主張されていた。私の目から見れば、「日本国憲法上の理由」ではなくて、「日本国憲法の解釈上の理由」、「主流の憲法学者の9条解釈が正しい」という思い込みの結果である。1972年の内閣法制局長官、吉国一郎さんの見解を絶対的なものとして、「日本国憲法」を起草した当時の「立法府」の人びとの思い、「後世の日本人への愛」を無視した結果、また、外交官試験でも、主流派の憲法学者の解釈が正しい、となった帰結である。
日本のマスコミの方々も、「正義と秩序を基調とする」国際平和を誠実に希求している日本人の一員なのだから、篠田英朗さんの願い通り、主流の憲法学者との論戦の場を設け、自分たちもその議論に刺激を受けて、「9条の解釈」を再考すべき時期に来たのではないか、と私は考える。
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