日本政府が日韓請求権協定時の議事録を公開して、請求権協定の範囲内に元徴用工問題があるという認識があったことを主張した。これに対して韓国政府は即座に反応し、大法院判決はそれを考慮した上で否定したのだ、とコメントした。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190730-00000091-jij-kr
水掛け論というやつである。
今回のように、政治的立場をかけて水掛け論が発生しているような場合には、水掛け論を非難しても、事態は改善しない。なぜなら立場の奥底にある「利益」があって、お互いに立場を譲り合わない水掛け論をしているからだ。
現在の日韓関係では、「共通の利益」の土台が不透明になっている。ただし存在していないわけではない。米国という共通の同盟国を持ち、一定の共通の安全保障政策を持っているため、この安全保障政策の枠組みの維持が「共通の利益」として働き、ぎりぎりのところでの両国関係の破綻を防いでいる。
換言すれば、安全保障政策の破綻が予測されない範囲内では、両国関係は悪化し続けていくだろう。また、万が一の暴発で、安全保障政策の枠組みが壊れていく事態が発生するならば、それは新次元の深刻な状態ということになり、新しい対応が必要だ。
現状で必要なのは、この「共通の利益」の土台を維持しながら、事態を改善していく道筋があるかどうか、だ。その道筋は、お互いが「何故お前は自分が間違っていることに気づかないのだ」という言葉を発することを封印しつつ、「私は間違っていました」という言葉も発しない地点でのみ、可能となる。
日本政府は、元徴用工問題を国際法の観点から理解する立場である。韓国政府(含む大法院判決)は、歴史問題の観点から理解する立場である。どこまで言っても両者が調和することはないのは、火を見るより明らかだ。
まずは自分の立場と、相手の立場を知り、よく分析していくことが必要だ。そのうえで対応策を考えるべきだ。
私は韓国大法院の判決は、国際法を無視しているという点で、問題をはらんでいると考えている。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58305
ただしそれを是正する手段はない。したがって「共通の利益」を求めている姿勢をみせるためには、日本政府は、韓国国会を通じた法的措置を訴えるなどの具体的な改善案を率先して提示してもいいのではないかと示唆したこともある。ただしそれも、法的な論点を双方の当事者が共有してからの話にはなるだろうhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/65462
どちらかがより激しく相手を糾弾したり、どちらかがより深く自分を反省したりしても、事態は改善しない。
まして事態を改善できないのは、誰かが日本で韓国を「敵」扱いする「ネトウヨやヘイトスピーチ派」のせいなので、自分はネトウヨではないと思う人は冷静な知識人とともに「署名」をしてほしい、といった人気投票の運動で、何か事態が改善するようになるとは、思えない。問題が発生しているのは世の中にネトウヨがいるからだ、といった安易な診断に対する「署名」活動を呼びかけることが、大学教員に与えられている社会的使命なのだろうか。
至る所に同じような構図の問題があり、日本社会全体に閉塞感があふれている。憲法問題は代表例だ。憲法解釈の問題は、認識のレベルの問題だ。徹底的に議論しなければならない。ところが「多数派だ」「通説だ」「憲法学者以外の者が憲法を語るのはフェィクだ」、といった人気投票に持ち込むことを、大学教員が率先して呼びかけている。納得がいかない。http://agora-web.jp/archives/2040594.html
私は、むしろ池袋老人暴走事件の遺族の方が訴えている「署名」に参加し、署名用紙を送付した。https://ameblo.jp/ma-nariko/entry-12499751619.html
暴走老人に対する歯止めを怠っているのは、政策論だ。高齢老人に対する適正な処罰の在り方を求めることも、暴走老人に対する抑止効果をどうやって維持するか、という深刻な社会問題に対応した政策論だ。世論の高まりが意味を持つ。「署名」をするなら、こういう問題だ。
社会意識が高まり、対策が講じられることで、他の人々にも恩恵がある。言い知れない苦しみを抱えながら、前を向いた活動を行っている遺族の方の勇気には、どれだけの敬意を払っても足りない。
遺族の方へのマスメディアの取材のあり方が問題になった。遺族の方が社会的意義あることを訴えているとき、今度はしっかりと伝えていくのが、マスメディアの社会的意義であり、存在価値だろう。責任をもって、社会的意義のあることを、しっかりと伝えていってほしい。
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日本ほどこういったマッチポンプが学界やジャーナリズムに蔓延った先進国は他の国には滅多にない。実に悲惨というレベルである。代表的な立場である和田春樹にいたっては、過去に次の主張を残していることは有名。
・岩波の雑誌「世界」において
「韓国政府内部の人間がやったことも考えられる。北朝鮮の側が爆弾テロをやるということはありえない」(1983年11月)
「(南侵:北朝鮮による韓国侵略か、北侵:韓国による北朝鮮侵略か)あまり本質的な問題ではない。南北の双方に武力統一プランはあった」(1984年3月)
「中国が東北アジアにおいて平和と安定のためによき働きをしているのは万人が認めている」(1985年8月)
「マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアは、スターリンのソ連においてともかくも実現された」(1990年1月)
また、慰安婦については「女子挺身隊の名のもと慰安婦として南方に送られ死亡」とデマを拡散(1982年8月)
こんな発言をしてきた学者であるからこそ、「横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しない」(2001年2月)などと主張したが、その翌年の日朝会談で、めぐみさんが北朝鮮工作員に拉致されたことが証明された。
こういった共産主義を美化してきた極左が80年代以降に著しく権威が失墜したときに、悪知恵を働かしたのが、中国や韓国にくすぶる反日感情に火をつけることでした。そして、火を燃え広がらせた後に、調停をして平和の使者のように登場してやろうという算段です。もちろん真正のヒューマニズムなどではありません。北朝鮮に帰国して地獄に放り込まれた多くの朝鮮人やその日本人家族の情報も黙殺しました。横田めぐみさんの拉致情報や北朝鮮のテロ情報を黙殺したように。
驚くべきペテン師たちが、日韓対立の混乱に便乗して、「またあの夢をもう一度と」と平和の使徒のごとく見せかけようとしています。
反日に目がくらんだ韓国人はだませても、日本人は絶対にだまされません。
「外国にいる韓国人・朝鮮人のなかから爆弾テロをやる人が出るということは考えられる。この人々の考え方は多様な影響に晒されているし、技術的な面でもずっと用意であろう。さらに金載圭事件のように政府内部の人間がやったことも考えられる。政権内部、随員の中の人物なら、なによりも情報の入手や実行面でいろいろ便利であるという利点があるだろう」
「ラングーン事件の真相がどうであれ、責任者がだれであれ、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の孤立をいくらかでも緩和する方向に動くことが、大韓民国の同盟国となっている日本が大局的見地から急ぎなすべきことであるように思われる」
北朝鮮の工作員に殺された外交官や北朝鮮で圧政に苦しむ大勢の庶民よりも、まず北朝鮮の孤立を心配する神経である。北朝鮮が世界で孤立すれば、日本で自分も孤立しかねないとでも考えているような不思議な追い詰められ感が匂う。こうした連中の「養護」により、北朝鮮は核兵器や化学兵器を誇示し、誰にも抑止できない独裁国家になり、その間も膨大な市民が圧政による苦しみにもがいている。
それから20年経った現在も状況は変わってないと思われる。
学界はあまりに保守的だ。徒弟制度で首ねっこを抑えられたら反抗できないシステムになっている。
「和田春樹が日本の学界に君臨し、朝鮮研究の主流を牛耳っている構図は、今も20年前も全く変わらない。和田は慰安婦処理問題などで日本の政界官界にも足場を築くなど、むしろますますその政治力を強めているとさえ言える。
藤村新一とその協力者を育てたのが、プロアマ含めた日本の考古学全体の責任(学問を批判的に行うことを怠ってきたツケ)であるとするならば、和田春樹(や小田実)を育て、日本の朝鮮研究の主流派として君臨させ続けている責任は、日本のプロ(学者)アマ(作家、ジャーナリスト)含めた朝鮮研究家たちの責任である、とも言える」
残念ながら、憲法学界にもあてはまるのかもしれない。
日本国憲法9条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と明記してあるのであって、国際社会が平和でさえあれば、正義も秩序もどうでもいい、などとは書かれていないし、また、その国際紛争の解決の手段に、武力を使わない、と宣言はしているが、経済制裁を使わない、という宣言はしていないのである。現実に、日本は、北朝鮮に対して、各国と協調をして、厳しい経済制裁をしている。韓国に対しては、安全保障上の理由で、Brexitと同じ、今までの「経済的な優遇措置を解除する」、と言っているにすぎないのである。日本のマスコミが、イデオロギーから解放され、「正義や秩序」を基調とする「国際平和の重要性」に気づいてくれるのは、いつなのだろう?
日本にしろ、東条英機をはじめとする「陸軍が日本の政治」の主導権をもつ「軍事体制」が崩れたことによって、東アジア社会の平和が回復されたのであって、本来、政治指導者、政治体制は地域平和にとって、とても大事な要素なのである。そういう当たり前のことを認識できる「マスコミ」、「ジャーナリスト」であってほしい。
「北朝鮮の政治体制」は危険であると、ヨーロッパが「朝鮮戦争」当時からわかって政治体制をいつまでも賛美し続ける日本の学界、マスコミ界、がどうかしているのである。
現実は、北朝鮮から核ミサイルが日本に飛んで来たら、阪神大震災の被災とは桁の違った惨状になるのだから、まず、日本人は「安全保障」について、本気で、真剣に考えるべきなのではないのだろうか?
国際輸出管理に基づく許可制等の規制措置がGATT21条の安全保障例外に該当するかどうかについて先例はないものの、一般的には、GATT21条はGATT20条に比べると加盟国の裁量が広い認められるが全くの自由裁量ではないことはロシア対ウクライナ事件で示されており、どのような判断が示されるか注目である。安全保障例外を安易に認めると安全保障を名目にした規制により自由貿易が揺らぐことになるし、逆に、安全保障例外を厳格化しすぎると国際輸出管理レジーム(法的拘束力のない国際的な紳士協定に基づく許可制等に基づく国内規制措置)が揺らぐことになるので、バランスのある判断がなされることが望まれる。
日本政府は、元徴用工問題を「国際法」の観点から理解する立場であるのと対照的に、韓国政府は、歴史問題ではなくて、「国内法」の観点で対抗しているのである。韓国政府は、「三権分立」の観点から、大法院判決「司法」の判断を、「行政」は覆せない、と主張する。理論上は、そのとおりであるが、大法院のその判決に携わった裁判官の多くを、ムンジェイン大統領が任命しているのだから、現実は、韓国の「司法」の判断は、「中立」なのではなくて、ムンジェイン大統領政権と同じ、つまり、「反日」なのである。「日本国憲法の9条解釈」も同じで、専門家である憲法学者が中立だ、という思い込みが、理解をややこしくしているのであって、学者にはそれぞれ思想があるから、「学問の自由」と呼ばれるのであるが、彼らは「左翼系、反米」の政治思想をもっているのである。そして、左翼系、反米思想をもっている人物が「まとも」で、そうでない人物は「良識がない」と考えるから、内閣法制局長官、小松一郎さんの解釈を揶揄するのである。「芦田修正」を揶揄したのも、同じ理由である。二人とも、左翼系でもないし、反米でもない。
ヴァイツゼッカー氏の主張されるように、どの時代でも、世界のどこでも、「moralische Vollkommenheit 」、「100%、道徳的であった国」などというものはないのである。彼はこう続けておられる。
Es gibt keine endgültig errungene moralische Vollkommenheit - für niemanden und kein Land! Wir haben als Menschen gelernt, wir bleiben als Menschen gefährdet. Aber wir haben die Kraft, Gefährdungen immer von neuem zu überwinden.
道徳に究極の完成はありえません——いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました
Hitler hat stets damit gearbeitet, Vorurteile, Feindschaften und Haß zu schüren・とあるが、韓国のムンジェイン大統領のされていることは、韓国国内での「反日」感情を煽ること、日本人や日本の総理大臣、安倍首相への偏見と敵意と憎悪を煽ることによる自分の政権浮揚をめざす、つまり、ヒトラーと同じなのではないのだろうか?
日本の安倍首相にそういう要素は見受けられないが、現在の国際社会には、ムンジェイン的手法で人気を取ろうとする政治指導者、ポピュリスト的政治指導者、ヒトラーと同根の政治指導者がたくさんおられるので、国際社会に緊張が高まっている。それで、日本が侵略されないか、と私は心配になるのである。
ヨーロッパでは、米国とロシアの中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効したことを受け、オーストリアのシャレンベルク外相は「失効はEUの安全保障にとって脅威だ」との声明を発表し、欧州連合(EU)の欧州委員会の報道官は記者会見で、中距離核戦力条約が、「欧州の平和と安全に貢献してきた」と語ったが、日本のマスコミは、「唯一の被爆国」のマスコミなのに、先日急逝された天野之弥さんが、IAEAの事務局長として、最期までその努力をされたのに、どうしてどうでもいいことを重視して、「中距離戦力条約破棄反対」という認識にたてないのだろう。
朝鮮戦争で、戦争に勝利する為に「核兵器の使用」を主張して、マッカーサーは、トルーマン大統領に解任されたが、ソ連のフルシチョフ書記長が思いとどまったこともあって、結果的に、広島―長崎以来、「核兵器は抑止力」としてしか使われていないのであるが、トランプ氏のような人が、民主的に選ばれた「軍事超大国の」アメリカの大統領であると、「核兵器をつかってもいいのだ。」という風潮が現れ、「正義」と「秩序」が乱され、世界の「文明が」崩壊する危険がある。本来、それを防止するの、国際機関重視、「国際連合」や「国際原子力機関」重視なのではないのだろうか。
一方、李承晩TV Shame On You - 韓国最高裁, 亡国の判決 < という動画(15:27)では、サンフランシスコ講和条約の枠組みから、この大法院判決の違法性を指摘しています。→Gのサイトhttps://88857158.at.webry.info/201908/article_1.html
カロリーネさんの日独比較の視点も非常にいろいろな問題提起につながるので、再度考察すると、
ドイツは、「ナチスの反省」がキーワードだった。
日本は、「歴史の反省」がキーワードだった。
ただし、日本における「歴史の反省」は、「戦前・戦中の歴史」が深刻な反省の対象になるけれど、「戦後の歴史」はまともに考察の対象とならなかった。
重要なところははぐらされた。
それは「歴史の反省」を主導したのが、戦後にオピニオンリーダーとなった共産主義者たちだからであった。共産主義者への批判も「反共右翼」などと喧伝されて、激しく罵倒された。
「歴史の反省」というパラダイムのなかに憲法学者たちもいる。
もちろん、まともな歴史の反省もあるが、共産主義者たちのいう「歴史の反省」はただ日本という国家を解体したいだけの本能と自分たちの生き残りのためであるから、それは中国や韓国の反日を狂ったように煽って本当にすさまじいものだった。
パラダイムを変えるのは、よほど大きな出来事があるか、それなりに時間をかけて変えるしかないだろう。共産主義国家の崩壊も、さほど影響を与えなかった。むしろ、追い詰められた共産主義者たちは、共産主義の美化を後退させて、反日一色となり、ゲッペルスのようにメディアで大声でがなりたてて反論を許さなかった。
これに平和愛好的な日本人がだまされていった。共産主義者たちは、お涙ちょうだいのメロドラマで日本人を洗脳するのが効果的だと知り尽くしていたからである。
あたかも「有事法制」の検討で「戦争への道を歩んでいる」と暴れまくったのである。しかし、その内容は国民の安全を守るための、あまりにも当たり前であることを知ったのは、随分後であった。
(wikipedeiaの記載では「1978年に防衛庁官房長として有事法制研究に参画した竹岡勝美によれば、有事法制とは「いずれかの国が日本と周辺の制空権、制海権を確保した上で、地上軍を日本本土に上陸侵攻させ、国土が戦場と化す事態を想定した法制」であるとされる」)
岩波書店や朝日新聞を真面目に読んだ大勢の日本人が洗脳された。学校の先生たちも、岩波と朝日の宣伝を信じた。延々と1980年代以降にいたるまで、何十年にも渡ってヒステリックに有事法制を攻撃し、忌まわしい言葉として社会に定着させた。
(以下は引用)
https://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2003/1/20030103.pdf
緊急事態法制という言葉は、緊急事態に関する法体系の総称である。
国及び国民の安全確保が国の基本的任務である以上、緊急事態への対処について何の法制も存在しないということはありえない。
しかし、その規定の仕方は一様ではない。ドイツがきわめて精緻な体系を誇る一方、イギリスでは具体的な法令が整備されていない。
たとえば、国家緊急権-「平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限(13)」と定義される-の規定の仕方ひとつ見ても、国により異なる。
英米法系のイギリスには憲法上国家緊急権に関する規定は存在せず(元々成文憲法を持たない)、アメリカ憲法にも明示的な規定はない。(中略)
他方わが国では、大日本帝国憲法(明治憲法)には規定があったが、日本国憲法には規定を置いていない。
(以上、抜粋)
英米は不測の事態が起こり得るので明文化していないように見えるだけで、具体的な対策案は検討されてきたように見える。
日本だけ特殊で、こういう対策を検討するだけで、「それすなわち戦争の原因になる」と左翼の攻撃はすさまじいものだった。
あんまり愚痴をこぼしてもしょうがないが、こんな新興宗教のようなものでも、学者や記者が大真面目に主張したので多くの日本国民が信じた。
「社会の問題」と「個人の責任」を追及すれば、当然戦前「軍隊の力」を借りて「大東亜共栄圏」を作り上げることをその政策とされた「近衛文麿」さんが首相になる後押しをする世論を作り上げたマスコミ人は、糾弾されるはずなのである。ところが、日本が戦争に負けたから、責任を追及されるのだ、例えばと、ベトナム戦争を例に挙げ、あたかも米国は日本以上の悪事を犯しているかの様な論調を作り上げ、反米思想を貫いたのである。
ヴァイツゼッカー氏は、ドイツが戦争を始めた理由を他者や物に責任転嫁せず、ドイツ国民がナチズムに染まった原因を明確に述べておられる。ベルサイユ条約に端を発する経済的な困窮の中、ヒトラーは、「敵」を作り、偏見と敵意と憎悪をかきたてて、音楽と演説の力で、ナショナリズムを高揚させ、「不正な奴らとは、戦争をすることが正しいこと。」であるかのように洗脳したのである。隣国の誰かさんとそっくりではないのだろうか?
親衛隊の名誉隊員であった父をニュルンベルク裁判で守るためヴァイツゼッカーは弁護した。ヴァイツゼッカーはナチスを断罪したが、たしか父を愛し断罪しなかったと思われる(詳しい話は、むかし読んだが忘れた)。
それをドイツ人の「偽善の象徴」だと言いたいのではない。「人を裁く」とは、いかに微妙で深い問題か。人を裁くことがイデオロギーすると、それこそが共産主義者による「人民裁判」のように、いかに副作用として、深刻な人権侵害やおそろしい偽善者(「まだまだ日本人は戦争の反省が足りない」などと日本を攻撃するように中韓を醜くそそのかした極左のように)が跳梁跋扈する社会をつくりだすかという問題がある。
だから、(自由主義諸国の)世界の良識は、歴史裁判や断罪を政治化することに相当に慎重なのであると思う。
そういった日本の共産主義者をうならせたのが、丸山真男の「無責任体制」など日本ファシズム論だった。これも粗雑きわまりないが、良識的な知識人の批判も無視され、左翼が拡散していった。
たしかに明治の元勲がいたころは頭脳があったが、元勲がいなくなって日本は頭脳がなくなりダッチロールしていったという面はあるが、丸山はナチス指導者は個人の責任感覚あったが日本の指導者は集団意識しかないというような、ふざけた文学的表現で両国で起こった歴史的事象の本質的違いを無視した。
これが、いわば人工知能などで言う「過学習」というもので、リスクを発生させる。「過学習」とは人工知能に過去のデータの学習を過剰にやらせ過ぎてしまったときに、逆に「正解」から遠ざかってしまう事象である。
それで、何を言いたいかというと日本が戦争にむかったのは「大陸の利権は先人が血を流して獲得したものだから死守すべき」という「過去の歴史」に過剰にとらわれすぎて墓穴をほってしまったからである。
戦後も「何百万人が血を流して獲得した憲法だから、憲法を死守すべき」と、これまた過去の歴史教訓が何にも増して「第一の掟」となるという意味で戦前と同じである。
過去を「過学習」して平衡感覚がくずれて、まともな判断ができなくなっているのに、「現在の問題」を誰より正しく判断できる貴重な材料をもっているという思い込みは学者特有で、ビジネスマンなどはあまりない性癖である。特に共産主義者はひどかった。愚劣な粗探しがせいぜいなのに、世の中を天国にできる力があると愚かに妄想していた。
ナチス時代の外交官であった父の罪を弁護する為に、「法学部生」であったヴァイツゼッカー氏は自ら進んで、「ニュールンベルグ裁判」の弁護の手伝いをされた訳であるが、その経験は人生に役に立った、と回想されている。その結果として、日本の知識人によくある糾弾型ではない、深い洞察力がある。
Die meisten Deutschen hatten geglaubt, für die gute Sache des eigenen Landes zu kämpfen und zu leiden. Und nun sollte sich herausstellen: Das alles war nicht nur vergeblich und sinnlos, sondern es hatte den unmenschlichen Zielen einer verbrecherischen Führung gedient. Erschöpfung, Ratlosigkeit und neue Sorgen kennzeichneten die Gefühle der meisten
.大部分のドイツ人は自国がよりよくなるために戦い、苦難を耐えたと考えていた。ところが、これらすべてが無益で、意味がないだけではなくて、犯罪的な非人間的な目的に奉仕していたことが明らかになるのです。疲労し、途方に暮れ、更に、新しい心配が多くのドイツ人のその頃の気持ちを特徴づけているでしょう。
どちらにせよ、私は日本人も、韓国人も、国際社会の人々が、「歴史の実像」を、できるだけイデオロギーに左右されず、それ自体として認識することがなによりも大事だと思うのである。
そのなかで、ナチスによるホロコーストの責任者だけはイスラエルのモサドの執念もあり、継続的かつ徹底的に追及されつづけた。
これは、そんなに間違った歴史とは思われない。もし、この責任追及を、講和条約や平和条約を締結した後も、究極まで進めれば、「勝者はすべて善で、敗者は悪だ」とか、「弱者はすべて被害者で、強者は加害者だ」とか、別の歪曲性がでてくる。国家間や国家内の政治的対立も過激化しただろう。
日韓関係の崩壊なども、まさにその壮大な実験であり、捏造や歪曲してまで過去の歴史を断罪するのが日常になってしまった朝日新聞や偏執狂の極左をフリーハンドにして、やりたい放題をやらせたからであった。
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