先日、「日韓対立は国際法vs.歴史認識、そして日本国内も」という題名の文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2040741.html
国際法の構造転換が起こり、帝国が解体され始めたのは、第一次世界大戦後のことである。国連憲章に民族自決権が明記され、脱植民地化の運動が世界を席巻したのは、第二次世界大戦後のことである。法規範の転換は図られた。植民地主義は否定された。しかし、遡及的に過去の行為が無効化されることはない。法の不遡及は一般原則だ。1910年の日韓併合を、国際法の観点から無効化するのは、無理だろう。
不正な法的現実は、正す運動を起こすべきだ。だが遡及的に過去の法的事実の無効を訴えることはできない。ガンジーであれ誰であれ、民族自決運動に立ち上がった偉人たちは皆、未来に向かって、運動をした。
現代世界では国際刑事裁判所で戦争犯罪人が訴追されたりする。だが、それはあくまでも犯罪の時点で成立していた国際人道法にのっとってのことである。
大韓民国憲法は、その前文の冒頭で、「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統」についてふれている。1919年、ウッドロー・ウィルソン大統領が「民族自決」の思想を携えてパリ講和会議に乗り込んだとき、アジアでも民族独立運動が高まった。「3・1運動」は、その際の独立運動のことである。「3・1運動」で立ち上がった韓国人たちは、無残に弾圧された。非常に悲しい歴史だ。
だが第一次世界大戦の敗戦国となったオーストリア帝国やオスマン帝国の解体を、民族自決の考え方で処理しようとしたウィルソンですら、同じ考え方をアジアに適用する意図は全く持っていなかった。
「3・1運動」が起こった1919年から、韓国が独立国としての法的基盤を得たと考えるのは、無理だ。ポツダム宣言受諾時に国民が「革命」を起こしたとする日本の憲法学の「八月革命」説と同じくらいに、荒唐無稽である。本来、法的議論ではない。
だが自国内の法体系においてだけなら、荒唐無稽な議論を確立してしまうことは、不可能ではない。2018年韓国大法院判決の元徴用工をめぐる判決がそれであるだろうし、「八月革命」説にもとづいて憲法学者が自由自在に国際法概念を無視してみせるのも、似たようなものだ。「憲法優位説」なるアイディアを持ち出して、国際法体系に真っ向から挑戦をする確信犯が集団で力を持ってしまうと、もう混乱を収拾することができない。
1910年の日韓併合直後に、韓国併合の法的位置づけをめぐり、憲法学の東大法学部教授の美濃部達吉と、国際法学の東大法学部教授の立作太郎が、『法学協会雑誌』を舞台にして、数多くの論文で反論しあった有名な論争があった。双方が漢文調の長文の論文を繰り返し掲載して行われた論争なので、詳細は学術論文での紹介に譲りたいがhttps://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/vol90/magazine90_002.html#m90_08 、結論を言えば、不毛な論争であった。
美濃部は、韓国が持っていた「統治権」が、日韓併合によって日本に承継された、と主張した。そこで韓国の「統治権」に付随していた制約が、そのまま日本に承継された、と主張した。韓国という国家の存在を実体的に捉えたうえで、その実体性を持った国家が日本と合併したという捉え方である。
これに対して立は、日韓併合によって、韓国の統治権が消滅し、いわば無主地になった地域を、日本が領土権のいわば「原始取得」を行って、その固有の統治権を拡大することになった、と考えた。立は、当時の欧州列強の植民地支配の現実をふまえた国際法規範を自明視していたため、併合されてしまった韓国の国家存在を実体的に捉える視点が希薄だった。
美濃部と立の論争のほとんどは、「主権」とは何か、「統治権」とは何か、という原理論にあてられている。両者が遂に分かり合うことができなかったのは、憲法学者の美濃部が「統治権」の実在性を信じて譲らなかったのに対して、国際法学者の立が「統治権」なるものに関心を示さず、「統治権」は存在するとしてもせいぜい「主権」と同じものに過ぎない、という突き放した態度をとったためであった。
驚くべきことに、21世紀の今日においても、日本の憲法学者の基本書に「統治権」の概念が登場する。しかしその法的根拠が説明されることは、決してない。
「統治権」は、大日本帝国憲法の概念である。ロエスレルが起草した憲法案における「主権」の概念は、ヨーロッパ的過ぎて日本の風土になじまない、と伊藤博文と井上毅は考えた。そこで『古事記』における「シ(統)ラス」という概念に着想を得て、「発明」したのが、「統治権」概念であった。極めてロマン主義的な政治的配慮で大日本帝国憲法第四条に挿入された概念で、法的精緻さは欠いていた。
ところが美濃部達吉は、「統治権」の実在を、ほとんど憲法学者としての生命をかけて、信じ続けた。その普遍的な適用性を信じるあまり、併合される前に存在していた韓国の「統治権」は、併合後も残存し続けている、といった空理空論を主張し続けた。国際法学者の立にしてみれば、美濃部の主張は、ほとんど小説家のものであり、全く理解できない主張であった。
恐るべきことに、21世紀の今になっても、日本の憲法学では、「統治権」なる謎の概念の実在が、絶対的なこととなっている。
国際的には、全く通用しないガラパゴスな「信念」である。
似たような事情は、憲法9条2項に登場する「交戦権」にもあてはまる。憲法学者は、「交戦権」が否認されているので、日本は自衛権を行使することができない、などと主張する。しかし国際法に「交戦権」なる概念は存在していない。自衛権の行使に「交戦権」の保持が必要だ、などという謎の議論を提示しているのは、世界中で、日本の憲法学者だけだ。憲法学者の議論は、国際法上の概念である自衛権を否定する議論としては、全く的外れなのである。
ところが憲法学は、日本国内の大学人事、司法試験、公務員試験、マスコミを掌握することによって、ガラパゴスな議論を、日本国内においてだけは通用する常識に仕立て上げてしまった。
「交戦権」は、戦前の日本においても、語られていなかった。ただし戦中においては、登場していた。太平洋戦争中の著作において、信夫淳平という国際法学者は、次のように書いた。宣戦布告を行うような「開戦」の方式は、「当該国家の交戦権の適法の発動に由るを要すること論を俟たない。その権能の本源如何は国内憲法上の問題に係り、国際法の管轄以外に属する」。(信夫淳平『戦時国際法提要上巻』[1943年]
真珠湾攻撃後の日本において、「交戦権」なるものを肯定する気運が高まった。だが国際法には根拠がない。そこで大日本帝国憲法における「統治権」や「統帥権」のような謎の概念に訴えて、国際的な「交戦権」の根拠とする、という倒錯を、信夫は犯してしまった。
マッカーサーが、「交戦権」否認を通じて、否定したかったのは、これであった。つまり、自国の憲法を理由にして、国際法では認められていない行動を正当化しようとするガラパゴスな発想であった。ところが、ガラパゴス主義を撲滅するためのマッカーサーの「交戦権」否認条項が、今度は国際法における自衛権を否定する日本の憲法学者に利用されてしまった。歴史の悲劇である。
この悲劇から得ることができる教訓は、次のようなものである。
国内法で新奇な概念を作り出して、国際法を否定したつもりになるのは、危険な火遊びである。今後の日本はいっそう、こうしたガラパゴス憲法論の弊害に気を付けて、国際法とともに生きていくことを心がけていくべきだ。
国民民主党の玉木雄一郎代表が、「自衛権に制約」をかける「護憲的改憲」を目指すと述べているニュースを見た。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190814-00000015-mai-pol
とても心配である。
自衛権は、国際法上の概念である。勝手な概念を国内憲法に並べ立てて、「制約した」などと威張ってみせても、必ず、国際社会で、矛盾や乖離が露呈する。現場の人間に多大な負担がかかる。政策も停滞する。やめたほうがいい。
何でもかんでも憲法で制限するのが善いことだというのなら、国際貿易のルールや、国際人道法の原則なども、すべて日本国憲法で制約するべきなのだろうか。国際法規範を片っ端から憲法で制約していくと、日本の「立憲主義」の進展になるので素晴らしい、と、本気で考えているのだろうか。
以前にも指摘したが、玉木氏を含めて、日本の司法試験・公務員試験受験組に、こうした発想が顕著に見られる。残念なガラパゴス主義である。
繰り返すが、自衛権は、国際法上の概念である。勝手な概念を憲法に並べてたてて制約したつもりになったりするべきではない。少なくとも国際法の概念構成に沿った形で議論をすすめていくべきだ。そうでなければ、日本は必ず国際的に行き詰る。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1564849131&s=books&sr=1-1
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きょうは、敗戦記念日、日本人が、日本の軍国主義者たちの、イデオロギーから、昭和天皇によって解放された日である。それをよく認識して、日本国憲法前文にあるように、国際社会と協調して、日本人として、平和の確立に努めなければならない、と考える。
ドイツが、プロイセン主導で。ドイツ帝国として成立したのは、1871年なのであって、それまでは、王国や、ハンザ同盟の自由都市のように、ドイツ語を話しても小国分立の地域なのであって、それが一つの国になるばあい、当然統帥権の問題が起こるのではないのだろうか?ハプスブルグ帝国も多言語多民族国家であった。その公式を、日韓関係にあてはめると、美濃部さんの主張になるのであって、本当に、当時の日本人が、朝鮮半島の人々を隷属させていた、と私には思えない理由もそこにある。
日本統治下の朝鮮で「3・1独立運動」が起きた1919年をもって、1948年7月17日の大韓民国憲法公布による建国(宣布式は8月13日)の法的基盤を得たとする韓国憲法の規定は荒唐無稽な(ἄτοπος)「物語思考」(εἰκός λόγοι)に基づく歴史の再定義であって、自らの願望を投影させた、「空想物語」(μυθολογία)であり、【1919年から、韓国が独立国としての法的基盤を得たと考えるのは、無理…ポツダム宣言受諾時に国民が「革命」を起こしたとする…憲法学の「八月革命」説と同じ…本来、法的議論ではない】という、篠田さんの指摘の通りだろう。
昨年の韓国大法院であった、元朝鮮半島出身戦時労働者、所謂「元徴用工」の補償金請求訴訟への確定判決も、そうした「物語の領域に属する」(μυθώδης)歴史観が基盤になっているとの指摘も、その通りだろう。「憲法優位説」自体は日本に限らない現象だが、日本の場合、憲法(Verfassung)とか最高法規(τέλεον νόμος)といっても、常にその頭(κεφαλή)に、「平和」(εἰρήνη)の二文字が被せられて「平和憲法」(Friedensverfassung)と称しており、「絶対平和主義」などという空疎な命題、即ち戯言(μωρολογία)を臆面もなく(ἀναισχύντως)披瀝する(φημί)形で空証文を奉じているくらいだから、余り他を嗤えないのもまた実情だろう。
何ごとにも「絶対」(εἰλικρινής)とか「純粋」(ἁπλότης)をありがたがる、というか奉じるのが好きな謂わば「ロマン主義的」な心性で、「絶対平和主義」など、この世に存在しないことは論理的には明白だが、その含意(ἔμφασις)を問えば、この世(κόςμος)の現実に「絶対」や「純粋」が存在しないという当たり前の論理的事実に逢着するだけではないか。
現実世界ではメンバー、即ち外延(extension)のない「空集合」の謂いにすぎない。思考の過程で使用する概念程度に考えておけばよく、その含意は「無条件に」(ἁπλῶς)ということを意味するにすぎない。
日韓併合の法的位置づけについて、併合直後の1910年に、東大法学部憲法学講座の主任教授・美濃部達吉が、統治権(Regierungsrechte)の概念を駆使して整合的に理解しようとした際に、同僚の国際法の専門家、立作太郎と学術誌で論争となったという内容を興味深く読んだが、美濃部の官僚的憲法解釈は、昭和前期に国粋主義勢力から指弾されることになるドイツ国法学(Staatsrechtslehre)の通説の焼き直しである「天皇機関説」同様、種々批判は試みてもドイツ的法解釈の延長線上にある。そしてそれは有用ではあるがどこか楽天的な西欧型立憲主義的モデルで国内法体制を認識し、解釈することに専心する」(長尾龍一)枠内にとどまった美濃部の限界を示してもいる。
換言すれば初期はイェリネクの忠実な祖述者をもって任じ、後年は法の効力(Geltung)の根拠は、「國家ノ制定シタルトコロニ在スシテ國民ノ之ニ服従セサル可カラストスル自覺」と説いた「制定法万能主義の戦闘的な批判者」美濃部が、必ずしも帝国憲法解釈における真理を体現している存在ではない、ということだ。
従って、私は美濃部が【「統治権」の実在を、ほとんど憲法学者としての生命をかけて、信じ続けた】とする篠田さんの見解にはあまり同意できない。美濃部自身の統治権の用語法にも、初期と後年では変遷がある。
また、リベラルとは、意見がちがっても、相手の意見の良さも認めるということであって、その中に思想表現の自由の余地ができる。糾弾や批判ばかりしている姿勢は、リベラルではないし、立憲主義でもないし、民主的でもない。
文在寅韓国大統領の「光復節」式典での演説は、抑制的な内容にとどまったようだ。支持層に阿り(ἀρεσκεύομαι)、世論に煽る(ἐφίημι)目的で空疎な強硬姿勢を打ち出したものの、確たる展望を切り開く見通しが立たない以上、支持率を横にらみした様子見か、柔軟姿勢への軌道修正に含みをもたせたのだろう。
ところで、前のめりな(προπετής)立論で、およそ考えられない(γέλοιος)莫迦げた(καταγελάσιμος)間違いを繰り返して懲りない(ἀκολᾶτος)カ氏の7は、意味不明(ἁμφιβολία)だ。
国粋主義者の上杉愼吉と天皇機関説の美濃部達吉とで、どちらが帝国憲法を恣意的に解釈したか、「学問的」(φιλοσοφώτερον)には議論のあるところだろう。生前のアカデミズム内部での論争では美濃部に敗れ、失意のうちに死去した上杉への評価は否定的なものばかりだ。戦後の憲法学主流派のみならず、それ以外でも上杉の解釈は頗る評判が悪く、「美濃部憲法学が真理と正義の側にあり、上杉憲法学が虚偽と邪悪の側にあるという価値判断」(長尾龍一『日本憲法思想史』、126頁)は、憲法学界以外でも共有されている。
もっともそう指摘するケルゼン研究の第一人者で法哲学者の長尾氏は、自らの判定を留保している。美濃部の学説が合法的支配に即応した憲法理論であるのに、上杉のそれは合法的支配と対応しない國體論に基づくという点で、破綻しているのは認めているが。
だからといって、上杉の盟友が床次竹二郎や吉田茂の岳父牧野伸顯だったことを看過してはなるまい。上杉はテロリストではない。美濃部の天皇機関説、即ち国家法人説は、ドイツ国法学の通説そのもので、それだけとれば面白くもおかしくもない陳腐なもの、ということなのだろう。
第一次大戦の戦後処理と新たな世界秩序の構築を話し合ったパリ講和会議に、日本は国際連盟規約案第21条の宗教に関する規定に続く部分に、人種差別撤廃条項を入れるよう連盟委員会に提案したが、英米の抵抗で退けられた。
そこで当初案を断念、事実的な差別の撤廃を意図した人種差別撤廃条項の実現を、連盟規約前文に「一般的理念」として盛り込む提案に後退させて実現を目指し多数国の賛同を得たが、趣旨には賛同したウィルソン米国大統領の、重要事項の採決には多数決ではなく全会一致が望ましいとの判断で、修正案の前文への挿入も封じられた。
アジア系移民の流入に反撥が広がった欧米や豪州などの国内事情が背景にある。国際社会の正義(δικαιοσύνη)の現実とはそうしたものだ。
主席全権の西園寺公望の右腕(全権委員兼副主席)として出席したのが明治の元勲、大久保利通の次男で外交界の大立て者で、2.26事件で襲撃され危うく難を逃れた牧野で、こうした天皇側近の穏健派グループにも通じていた上杉を、テロ事件を頻発させた軍内部の若手将校や国粋主義者と同列に論じても意味はない。戦前の権力構造はカ氏が考えるより、複雑だ。
最後に、「絶対平和主義」は誰が主張しようと空念仏だし、日本国憲法前文や憲法9条は、下らない(φλαῦρος)というのが私の持論だ。もっとも、篠田説による確立された国際法規範と接続させた9条解釈は有用で、9条削除が非現実的な以上、「次善の策」(ὁ δεύτερος πλοῦς)として支持している。
郷里の神戸に戻っており、パソコンではなくスマホか何かで投稿しているのだろうが、杜撰極まる文章に目眩(ἴλιγγος)がする。
論理的思考に必要な初歩的な技量(τέχνημα)さえ覚束ないのは深刻だし致命的(θανάσμος)だ。骨の折れる(πραγματειώδης)ことは面倒臭く(ἄπορος)、拒否する(ἀνανεύειν)質なのは、その怠惰(ἀργία)でお座なりの(αὐτίκα)性向からして明らかだろう。
9⇒【要するに、言葉のまやかしがあるから、イライラする】と苛立ち(ὀργή)を募らせているが、何が「要するに」(ὅλως)だか知れたものではない。
「言葉(ῥῆμα)のまやかし(γοητδεύειν)」のような、天に唾する物言いで他を非難する空疎な文章しか綴れない割に、概念の内容とその適用対象について、充分留意し(εὐλαβέομαι)、区別して(διαιρεῖσθαι)適切に使い分けるよう心掛けているとは、到底思えない。
少し前は国法(Staatsrecht)と国法学(Staatsrechtslehre)を混同(ἁμαρτάνω)して、平気で【ドイツ国法学といっても、いろいろある】(6月30日・10)のような無謀この上ない議論を披歴した。
今回は統治権(Regierungsrechte)と統帥権(Kommandogewalt)だ。統治権だろうと統帥権だろうと、3は何の意味もなさない「クズ」だ。いつまでかかる莫迦莫迦しい(γελοῖος)醜態(ἀσχημοσύνη)というか、茶番(κωμῳδία)を繰り返せば気が済むのか。猛省を促したいが、聞く耳をもたないだろう。
心得違いの人種には、ネットは誠に「愚者の楽園」(τὸ ἄφοβον μακάρων νῆσος)だ。
http://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/10/A79233322-00-0410013.pdf
「交戦権」というのは、国際法上の概念ではなく、戦中の内国法(帝国憲法)により創作された概念ということです。国際法上の”自衛権”とは、無関係との説明です。政府の有権解釈は、自衛権を行使する場合には交戦権類似の「自衛行動権」を有するとします。しかし、そういうわかりにくい解釈をする必要はなく、戦中に創作された交戦権概念を否認する現行第2項後段は、そのままでも構わないという結論になりますね。
美濃部の天皇機関説、は、当時の学会では定説であり、上杉の説の信奉者の方が少数派であった。また、その説が定説であったからこそ、議会制民主主義、大正デモクラシーが、日本でも花咲いたのである。
その排撃は、元はといえば、二大政党制の政争に端を発する政友会の主張から始まっているのであって、その急先鋒だったのが、篠田先生が、レッテル張りされている蓑田胸喜なのである。上杉慎吉教授は、天皇を神格化し、議会制民主主義否定論者で、ある意味カールシュミットと考えが近く、その結果、体制翼賛政治となり。軍部の横暴を許し、戦争に流れこむのである。わたしが、二大政党制論者になれないのは、その為である。、
また、例えば、日米の亀裂が決定的になったのは、1924年、米国で施行された排日条項を含む外国人移民制限法で、当時も優秀なアジア人の処遇に困った白人社会のアメリカは、この法律によって優秀なアジア系移民、とくに日本人の移民を締め出そうとしたが、それまで優遇されていた、他のアジア人とは違う。と考えていた日本人は、他のアジア人と一緒にされたことで、米国に不信感を募らせるのである。韓国の日本に対する現在の状況と同じで非常に興味深い。
この団体が「其ノ分子タル多数人類トハ離レテ獨立ナル單一體トシテ存在ヲ有シ」て、「活動力ノ主体體」としてそれぞれの機関を通じて活動するとされる。こうした「国家団体説」の理解は、師のイェリネクが排撃した国家有機体説に極めて親近感のある発想で(「誤れる比喩の危険は正しき比喩の利益より大きい」〔G. Jellinek;Allgemeine Staatslehre, S. 157〕)、美濃部は事実上「国家有機体説」を承認しているのは明らかだから、「餘が國家を以て團體なりとするものは、比喩を以て言はば國家は恰も一個人の如く、君主は恰も其の頭脳の如き地位に在まし、有司百官は恰も其の手足の如く、而して人民は恰も人體を組織する細胞の如きもの」として天皇機関説を正当化する(『最近憲法論』の「上杉博士の『國體に關する異説説』を讀む」、50頁=以上は長尾龍一『日本憲法思想史』の「美濃部達吉の法哲学 3. 国家法人説」155頁以下、特に註18⇒184頁参照)。
大正デモクラシーや政党政治による議員内閣制が幕を開けた時代状況を背景に、謂わば「公認された支配的学説」として受容され、美濃部が1934年に貴族院議員に勅任されるまでになるのと同時に、天皇機関説が軍や国粋主義者らが擡頭するなか攻撃目標となり、翌35年2月に菊池武夫が貴族院で天皇機関説を批判する演説を行い、美濃部自身がそれに反駁する演説で応じたことで、機関説への排撃運動が一気に高まる。
同時にこの年1月、吉田内閣の内閣法制局長官の金森德次郎(のちの吉田内閣憲法問題専任国務大臣)が「天皇機関説論者」として攻撃にさらされ辞任に追い込まれたほか、38年に美濃部の長男亮吉(のちの東京都知事)が治安維持法違反で逮捕される。
こうして美濃部は憲法学者としては学界からも社会からも葬り去られたが、行政法学の第一人者としての影響力は揺るがず、もう一つの主著『行政法撮要』は版を重ねている。行政法学の研究に専念し、美濃部が心血を注いだ大著『日本行政法』(1936~40)を完成させる。上下2巻で2300頁を越す体系書で、それ以前は揺籃期にあった日本の行政学を近代化し、官僚法学的伝統を刷新するものとして評価され、長くわが国の行政法学の古典的成果として金字塔とされた。
美濃部の真骨頂は、憲法学より行政学の組織化を成し遂げた点にあるとみるのが、私の考えだ。
いずれにしても、ゲルバー(K. F. W. von Gerber)やラーバント(P. Laband)らによって、ドイツ国法学の通説の位置を占めた国家法人説は、美濃部が「純然たる学理の問題」と考え、「唯学問上の研究に依つてのみ闡明し得べきもの」とした天皇機関説同様、必ずしも純粋な学問研究には収まらなかったのは、それが「純粋の法の認識論」にとどまらなかったことによる。
「立憲君主国の法理」である天皇機関説は、立憲主義や國體の尊厳、時代状況のなかでの国威発揚など、イデオロギー的要素と不可分だからだ。
陸軍青年将校の叛乱である2.26事件の計画や首謀者を、海軍が一週間前に察知していたことを示す最高機密文書の存在が、昨15日夜のNHK特集番組で明らかにされた。日本に限らず、激動の時代だった。
本来、みんな違って、それでいい、と国際協調を尊ぶ姿勢が、平和を構築する場合、欠かせない要素なのではないのだろうか?
弱者救済という愛と正義の側面はあったとしても、秩序、法律を無視しているのであって、民主主義国家のテロ行為なのである。昭和天皇が断固とした態度を取られたのはあたりまえであるが、それに対してマスコミがどのような論調をしたのか、が興味深い。
議論自体に首尾一貫した(ταὐτὰ λέγειν)ところがまるでなく、コメント7のように支離滅裂(ἐναντίος)か、3のように統帥権だろうと統治権だろうと意味不明(ἁμφιβολία)、またはその両方で、よく考えないで反射的に投稿している姿が髣髴とする。
いつもイライラしているのは、生まれつきの性格だろう。ギリシア語の [ἀκατάσταος]は、「移り気な」「変わりやすい」というほどの意味だが、カ氏はおまけに、節操がなく(ἀστάθμητος)、無定見な(ἀσύμφωνος)ときており、救いようがない。その上、反省(λογίζομαι)などまずはしない質だ。
何度、致命的な間違いを繰り返しても平然と(θαρραλέος)していられるのは、老人特有の図々しいご都合主義に加え、臆面もなく(ἀναισχύντως)鈍感(ἀναισθησία)で厚かましい(ἀναισχυντος)せいだろうし、自らの根本的な「莫迦さ加減」について、無自覚(ἀγνοέω)だからだ。
もっとも、ものごとには二面性があって、「直情径行」とした[ἡ ἁπλότης]は、英語で [a straightfowardness disposision]のことで、「真っ直ぐな」とか「率直な」気質という意味があり、先月死んだ妻なども、「曲ったことが嫌いな」単細胞だった。
スマホで投稿するものではない。7~9、15~17、21~23の如き、金魚の糞(κόπρος)のような排出物(σκῶρ)をみると、憐れを催す。平和そのもので、一度亭主殿の顔を見てみたい。
‘La modération des personnes heureuses vient du calme que la bonne fortune donne à leur humeur.’(La Rochefoucauld; Maximes 17)
反氏の批判、議論自体に首尾一貫したところがまるでなく、コメント7のように支離滅裂か、3のように統帥権だろうと統治権だろうと意味不明、またはその両方で、よく考えないで反射的に投稿している姿が髣髴とするとあるが、私は私なりに、考えて書いている。
統帥権と統治権は違う。統治権は、Herrschaftsrechtで、ドイツ語でHerrというと、主、とか支配者の意味になり、Herrschaftというと支配のニュアンスがあり、「ドイツ帝国になる前のそれぞれの小国を」実体的にとらえ、「統治権」に付随していた制約が、その特色を遺してドイツ帝国に承継された、と同じような意味で、韓国という国家の存在を実体的にとらえた上で、その実体性をもった国家が、日本と合併した、という風に解釈することが可能だ、と感じたのである。李朝朝鮮も、ドイツの小国も未開の国ではなくて、それぞれ独自の文化のある国である。ドイツは、日本のような中央集権的な国ではなくて、連邦共和国で、それぞれの州が自立性をもっている。例えば、教育行政は、日本と違って、それぞれの州が独自に決める。それは、宗教戦争の後、カソリックにするか、プロテスタントにするか、を小国の領主が決めたという歴史に根差しているのであるが、そういう意味で、美濃部達吉さんが憲法学者として生命をかけて「統治権」について信じ続けられた意味は、大日本帝国憲法が、立憲君主主義の憲法で、民主主義の憲法である、と信じ続けられたこと、と同じ意味で解るのである。
「統治權が其の一切の力を以て國家の存在を害ふ者を打ち倒し、進んで積極的に力の拡張を力(つと)むるは其の當然の行動である。されば國家の維持の目的は力の目的(Machtzweck)である」(『帝國憲法』、1922年、477~478頁)としていた上杉も、晩年はその思想を穏健化させていたと言われる。
総合雑誌『中央公論』1928年2月号に掲載された「道理と正義の敵ムッソリーニ論」は、「ムッソリーニは一個市井の無頼、ファシスト政治なるものは道理と法律とを無視せる凶暴政治のみ」であって、「我が仁義を本とするの蕩々たる王道ではない」(『日の本』320頁)と突き放している。
その趣旨は、「ファシストは一定の主義も政綱も無くして政權を取つたのである。革命主義なるが如く、社会主義なるが如く、サンヂカリズムなるが如く、國民主義なるが如く、ファシスト自ら之を知らぬのである。…ファシズムは決して理論ではない、これに向つて主義を尋ぬるは愚である、若しその特色を求むれば、一に暴力である」(同333頁)と批判している。
そうしたなか、ファシズムに国家や社会改造の方途を模索し、希望を託していた国粋主義者たちとも袂を分かち、関係を絶っていった。「我が所謂國粹主義者が動(やや)もすれば之を賞讚嘔歌せんとする」のは軽率だとして、「彼を知らざるのみならず、我を知らず、我が國體に對する信念の甚だ薄弱」と手厳しい。
「僕は鬚髯漸く白を加え、日暮れて途遠きの感に勝(た)へず、從來關係の諸團體とも絶縁し、書斎に閉籠りて著作を事」(同341頁)としたと決意を述べている。
10で指摘したように、美濃部のイデオロギー的な信念ともなった国家法人説が、西欧型の合法的支配に即応した憲法理論であるのに対して、上杉のそれは合法的支配と対応しない國體論に基づく点で破綻を免れなかったのは既述した通りだが、当時の日本の根本的矛盾を説く政治的、思想的カギは、ドイツ国法学の忠実な祖述者として、旧弊な立憲主義者であることに徹した合法的法解釈の追求者美濃部ではなく、無残な敗北者上杉を誤謬と自家撞着に導いた淵源を突き止めることでしか浮かび上がってこない。
美濃部は何の参考にもならない、良質のエピゴーネン止まりで、それは戦後の憲法学をも規定しているからだ。
最後に上杉の晩年の心境を窺わせる一文を引く。
「餘は嘗て國體擁護などを標榜して人々と團體を造つたこともあつたが、直ぐその誤れるに心附き、爾來力めてかかる種類の會合に加入せず、殊に自ら國體云々を以て戰はんとするが如き團體を組織するは特にこれを戒愼して避けて居る。…悉く天皇の赤子たる我が同胞國民を恰も仇敵の如く見なし、これと戰ひ、これを倒滅せざれば已まざるが如き態度を以て國體を論ずるが如きはこれを斷じて避けねばならぬ、餘は特に近來國體を揚言して有形無形に自から爲にせんとするが如き團體の簇生するを見て、これを苦が苦がしきことと思爲して居る。」(同361~363頁=引用は用字を旧に復して、長尾龍一『日本憲法思想史』に拠った)
「世事悉く皆我ニ非ナルノ感ノミニテ朝ニ一城ヲ喪ヒ夕ニ一塁ヲ屠ラルル」(1921年3月29日附、中田宛書簡)
同じ左翼の政治家でありながら、ベルリンの壁建設の時、米国を頼った西ドイツのブラント首相は、ナチスが政権を取った後、左翼の政治活動を続けるために、ノルウェイに亡命をし、スペインの内戦を実際に見て、「ソ連型コミンテルンの欺瞞性」に気づかれたから、「親米反ソ路線」を取られた。ムンジェイン大統領の姿勢と対照的である。ブラント首相は、日本の佐藤栄作首相と同じ、ノーベル平和賞を受賞されたが、彼の墓石には、それを誇ることもなく、ただ、ウィリー・ブラントとあるだけだそうである。
私の目から見れば、満州事変は、明らかに侵略戦争だし、現実に、自衛でない、あるいは、自衛だ、の線引きは、日本の国の誰がするのか、と思う。各国の動きをジーソミアなどで知る行政の長、首相なのだろうか?また、どの国も、平和構築の為の国際機関、戦前なら国際連盟、戦後の現在なら国際連合の裁定に従うのが私は当然だと思うが、そう考えられない法学の権威がおられるから、「日本国憲法優位」になるのである。その為に、「国際連盟」を脱退する行為が正当化されたり、日本の国が「自衛権に制約」をかける「護憲的改憲」を目指すなどという主張が、良識的な雰囲気を与えるのだと思うが、それは、現実には、「国際協調」を忘れた「唯我独尊」で、日本の国をおかしな方向に導く、と私は考える。
ものごとの厳密で原理的な考察を仕事とする哲学者ならずとも、事情は同じだろう。「哲学者は如何なる観念の共同体の市民でもない。そのことが彼を哲学者にする。」(‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’=L. Wittgenstein, ‘‘Zettel’’, 1967.)と書き残したのはヴィトゲンシュタインだが、あらゆる観念のうちには、もとより民主制の価値への原理的懐疑も含まれる。哲学者でも法学者でも、民主主義を擁護する目的で仕事などはしないものだ。
もっとも、彼は一個の社会的存在(ζῷον πόλτκόν)として、市民社会のなかで生存(ζωή)を確保しており、民主制の価値を信じないからといって革命家になるわけでもない。研究領域において全世界を相手にする確信(πίστις)と覚悟(πίστις)と心得(παρασκενή)はあっても、集団の中では一個の無力な個(τὰ καθ’ ἕκαστον)にとどまる。法を順守し、穏やかに市民生活を全うしている。
妻となる女性の願いを容れ、ハリーウィンストンの高価なダイヤモンド婚約指輪を買わされることもある。妙な譬え(εἰκών)だが、有能なポルノ小説家が、放埓(ἀκολασία)な性生活の経験を必ずしも必要としないのと同じだ。愛欲(ἀφροδίσια)に溺れ、社会生活に破綻を来すようでは、作家としての成功は覚束ない(ἄπορος)。作品を生むのは知的な作業で、性体験ではないからだ。そこでいう「~愛」(φιλία)は知的な欲求だ。
それより、立論(λόγος)としてどれだけ首尾一貫しており(ἐαυτῷ σύμφωνεῖν)、事柄の全体像(τὸ ὄλος)を過不足(πᾶλλον καὶ ἦττον)なく説明するのに有用(ὠφέλιμος)または有効(περαντικόν)かの方が問題だ。
理論や学説は机上(思考実験)で精密に組み立てられてこそ、その真価を発揮する。カ氏の見解はそうした事情を何も知らないがゆえの、愚にもつかない俗論(ψευδῆ δόξάζειν)の典型だ。
カ氏が日本統治下の朝鮮で起きたさまざまな事柄に関する韓国政府の認識や日本への批判、歴代韓国政府の対応や歴史教育、それに理解を示し側面支援するかにみえる知識人や研究者、メディアの対応について、30⇒【私は、そこに机上の空論、「イデオロギー偏重の姿勢の危険」を感じる】というのも、あまりにナイーヴな認識で、「机上の空論」は「事実に基づかない認識や立論の類」を指すのだとすれば、カ氏の主張そのものも似たりよったりだろう。
嘘(ψεῦδος)か誠(τὸ ἀληθές)、ことの真相(ἀληθῆ)を見極めるのは、カ氏が考えるほど容易ではない。何が歴史上の事実(τὸ τί ἦν εἶινι)か、相互に相容れない(ἐναντιότης)見解のなかで、決め手となるのは説得力(τὸ πιστικός)のある議論でしかない。所詮は言説(discours)と言説との闘いに帰着する。
そして、察しのいい読者は気づいたはずだが、それは言うまでもなく、古来ソフィストが編み出した「問答競技の術」(ἐριστική)としての「ソフィストの術」(σοφιστής)で、相対的真理をわが物にしたかったら、精々習熟する(συνήθης)しかない。「切歯扼腕」している暇は、ない。
上杉愼吉の帝国憲法解釈は、前述した通り、それが日本固有の「國體論」に依拠した、国家の合法的支配とは対応しない憲法論に基づいていた点で破綻を免れなかったが、取り立てて狂信的で独善的な内容を含むものではない。
上杉は元々、国法学を政治哲学的、国家哲学的考察から解放して、専ら法的概念構成を通じて憲法も法実証主義的に考究したラーバント(P. Laband)に飽き足らずイェリネクの下に赴いたように、国際政治はどこまでもホッブス的な「万人の万人に対する闘争」(bellum omnium contra omnis)の世界であり、「國家の存立を維持せんが爲には之に對する一切の抵抗を排除」する法的根拠を探ったにすぎない。
帝国主義列強が角逐を繰り広げる国際政治を冷徹に眺め、国家の存在を無条件に前提とした美濃部達吉の平板な憲法観に対して、国家なるものを人間の人間に対する支配を覆い隠す「仮面」(πρόσωπον)とみる「イデオロギー批判的観点から突き詰めた」(長尾龍一)上杉の見解は、陳腐な美濃部より、充分検討に値する。もっとも、上杉はそうした国家観を充分展開することなく、学界の表舞台から追われたし、その立論に自家撞着を含んでいる点は否めないが。
戦争の勝者である英米仏ソに正義(δικαιοσύνη)があるわけではない。勝者が敗者を裁く「正義の論理」(δίκαιος λόγος)を独占したにすぎない。[完]
手元の有斐閣『法律学小辞典』の”交戦権”→・・・・国際法上も交戦権の用例は少なく、その意味は必ずしも明確でないが、国家の戦争を行う権利、あるいは交戦法規の意味とみられる。否認ということを重視すれば、国際人道法を含む後者とみるべきではなく、前者の意味でとらえるべきであろう<
としています。国際法上の用例は少ない< とあります。ということは篠田先生の上記本文の説明、戦中の日本国内の学説から創作されたとする説明には納得しています。辞典は前者の→国家の戦争を行なう権利< を交戦権と説明しています。交戦権「戦(いくさ)を交える権利」に、直ちに結びつないような・・・もう少し補足説明が欲しいところです。
ヴェストファーレン体制とは、三十年戦争(1618年〜1648年)の講和条約であるヴェストファーレン条約(1648年)によりもたらされたヨーロッパの勢力均衡(バランス・オブ・パワー)体制である。これは、世界最初の近代的な国際条約で、この条約によって政治的にはローマ・カトリック教会によって権威付けられた神聖ローマ帝国の各領邦に主権が認められたことで、中世以来の超領域的な存在としての神聖ローマ帝国の影響力は薄れるのである。つまり、神聖ローマ帝国の内部においてさえ、皇帝に代わって世俗的な国家がそれぞれの領域に主権を及ぼし、統治権と外交権を行使することとなった。そのことにより、ヴェストファーレン体制は、しばしば「主権国家体制」とも称される。すなわち、国家における領土権、領土内の法的主権およびと主権国家による相互内政不可侵の原理が確立され、近代外交および現代国際法の根本原則が確立される、のである。
(参考:ウィキペデイア:ヴェストファーレン体制)
「ハイデガーの哲学は一つの哲学史的な転回を招来するにふさわしくはあるが、同時に他方では、従来の一切のものが凌駕されてしまったと見なさせ、その結果として必然的に思考の内的な放縦をもたらさざるを得ない、という危険を蔵しているような仕事のひとつである。
この哲学の根本的に新しい態度の取り方は二重の反動の可能性を蔵している。即ち、ハイデガーにおける転換の試みを一緒にやってみることをしないで、堅固なものと仮定された何らかの立場からこれを評価するならば、この哲学の全体は理解し難い言葉の「あや」と見えるか、精々のところ合理化された非合理主義の無益な試みとして見えざるを得ない。
これに反して、転換を実行することに成功すれば、根本的に新しい一つの見方を知ることになるが、この見方はひとを余りにも驚愕させ圧倒するので、哲学が果たした従来の一切の業績は凌駕されたものと見えるのである。この両方とも等しく一面的な立場であるが、それにもかかわらず普通のものである。
その際にハイデガーの「体系」の積極的な形而上学的出発点が敵味方から注目されなかったということは、彼の哲学の内的な悲劇である。敵から注目されなかったのは何ら驚くべきことではない。というのは、ひとがそこに見た思っている誤謬以外には新しい認識を故意に認めようとしないのが、いつでも全体的な拒絶の特徴であるから。
しかしハイデガーが承認された場合でも、このことがかえってしばしば彼の哲学にむしろ損害をもたらした。というのは、彼が近代人の、意識に体験されたか、それとも無意識な底流として一緒に振動している根本気分に対して、ひとつの形而上学的な解釈を与えたというまさにその事実が、さまざまの放恣な空想を喚起せざるを得なかったからである。」(引用続く)
‘Die Philosophie Heideggers gehört zu jenen Werken, die geeignet sind, eine philosophiegeschichteliche Wende herbeizuführen, die aber andererseits zugleich die Gefahr in sich bergen, den Anlaß dazu zu geben, alles Bischerige als überholt zu betrachten, was dann mit Notwendigkeit eine innere Zügellosigkeit des Denkens zur Folge haben maß.
Die grundsätzlich neue Einstellungswiese dieser Philosophie birgt eine doppelte Reaktionsmöglichkeit in sich: Macht man die man die Wendung bei Heidegger nicht einmal versuchend mit, sondern beurteilt sie von irgendeinem als fest angenommenen Standpunkt aus, dann muß das Ganze als eine unverständliche Wortmalerei, bestenfalls als der vergebliche Versuch eines rationalisierten Irrationalismus erscheinen. Gelingt es einem hingegen, die Wendung zu vollziehen, so lernt man eine grundsätzlich neue Sehweise kennen, die einem so überfallen und beherrschen kann, daß alle bisherigen Leistungen der Philosophie überholt aussehen. Beides sind gleichermaßen einseitige Standpunkte; trotzdem sind sie die üblichen. Dabei ist es die innere Tragik der Philosophie Hideggers, daß die positiven mataphysischen Ansätze seines Systems von Freund und Feind nicht beachtet wurden. Im letzteren Falle ist dies nicht weiter verwunderlich; denn es ist immer das Auszeichnende globaler Ablehnungen, neben Irrtümern, die man zu sehen meint, neue Erkenntnisse geflissentlich nicht wahrzunehmen. Aber auch doch, wo Heidegger Anerkennung fand, hat dies seiner Philosophie oft mehr zum Schaden gereicht. Denn garade die Tatsache, daß er der bewutßt erlebten oder doch als unbewußter Unterton mitschwingenden Grundstimmung des modernen Menschen eine metaphysische Deutung gegeben hat, mußte allerlei unbeherrschtes Herumphantasieren hervorrufen. Dies steht dann in einem merkwürdigen Gegensatz zu jener Philosophie, welche sich der kritische Strenge Husserls zum obersten methodischen Prinzip gemacht hat.’(W. Stegmüller ‘‘Hauptsrrömungen der Gegenwartsphilosophie.’’ 7 Aufl., 1978, S. 177.)
それは、ドイツ観念論や実存主義に代表される、つまりカントやヘーゲル、ハイデガーの名とともに意識されるドイツの近現代哲学が、現象学の創始者フッサールを除き、プロテスタンティズム的な伝統(ハイデガー自身は、元々はカトリック文化圏の出身)、つまり時代遅れの論理学的研究の基盤の上に形成されたことを物語る。
同じドイツ語圏でも、ライプニッツ以来の厳密な形式論理学的思考に沿った豊かな展開を示したのはチェコやオーストリアなど、中世のスコラ学の正統につながるカトリック文化圏で、その代表者として、前者はフッサールが「あらゆる時代を通じて最大の論理学者の一人」としたB. ボルツァーノ、後者はヴィトゲンシュタインやR. カルナップを挙げれば充分だろう。
そこで冒頭の、「20世紀最大の哲学者」ハイデガーに関する評価(Würdigung)は、その非科学的考究に関する極めて正確な分析的叙述を提供している。その態度は、ナチズムへの関与も含めて評価するしないにかかわらず、20世紀以降の欧州哲学へのハイデガーの深甚な影響力と問題意識については一種の共通理解が成り立っているドイツでは例外的な事例に属する。
これは「ハイデガー信者」が多い日本にも共通する。非専門家の間でのハイデガー熱については、膨大なだけが取り柄の日本版Wikipediaを見れば一目瞭然だろう。
そしてそれは、ガラパゴス化した憲法学通説にも類比的に(κατ’ ἀναλογίαν)当てはまるのは、言うまでもない。「ドイツ的偏向」である。[完]
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