拙著『憲法学の病』では、今まで誰も論じたことがない地点で、憲法9条2項「戦力」不保持と「交戦権」否認について論じた、という自負がある。ただし今のところ、真面目な法律論の観点からのコメントをいただく機会には恵まれていない。
「『東大法学部の石川健治教授は著作が少ない』とか、よく書けましたね」、といったことは、よく言われる。ただし、その記述は、特に批判でも何でもない。石川教授には憲法解釈論の著作がほとんどないので、学術的な立場の検証が難しい、と書いただけだ。
石川教授に優れた論文がある。ソウル(京城府)にあった「京城帝国大学」に集っていた法学者たちに関する研究である(石川健治「コスモス―京城学派公法学の光芒」、酒井哲哉(編)岩波講座「帝国」日本の学知第1巻『「帝国」編成の系譜』[岩波書店、2006年]所収)。今日でも続く国公立大学法学部教員の人事慣行と同じように、かつて京城帝国大学には、東大法学部卒の学者陣が赴任していた。帝国大学システムにおける京城帝国大学の地位は高かったため、優秀な教員が多数いた。代表格は、憲法学者の清宮四郎だ。東京帝大で美濃部達吉の下で学んだ。東京帝大の宮沢俊義らと同じで、ケルゼンに造詣が深く、ドイツ法学を基盤にした憲法学をソウルで講義していた。ちなみに清宮は、戦中に東北帝国大学に転任したが、清宮の弟子の一人が樋口陽一である。樋口は、東北大学教授から東京大学法学部教授に異例の転任をした。石川教授は樋口教授の弟子である。つまり石川教授は、清宮・元京城帝国大学教授の孫弟子である。
非常に興味深い憲法学者の系譜である。
今日の日韓関係の対立の根源的な要因の一つは、1910年の日韓併合を「植民地主義」だとする「歴史認識」である。韓国では「植民地支配」の法的効果も否定する立場から、日韓請求権協定に反する元徴用工に関する大法院判決が出た。日本でも、日韓対立の原因をネトウヨとアベ首相に見出す「知識人」たちなどが、https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190827-00000057-yonh-kr 1910年日韓併合の法的効果を否定する立場をとっている。http://www.wadaharuki.com/heigou.html
この見解は、日本の憲法学の伝統に反している。大日本帝国憲法において、民族の差を理由に、「日本臣民」を差別する条項はなかった。民族的差異と大日本帝国の構成員としての地位は、別の問題であった。大日本帝国は、他民族帝国であった。美談でも、隠蔽でも、何でもない。民族国家が世界標準の原則となる前の時代だった。多民族国家の帝国主義が、まだ国際社会の支配原理だった。つまり「植民地主義」の産物として日韓併合の法的効果をするのは、当時の憲法学の議論には存在していなかった。
それでは戦後の日本の憲法学において、日韓併合の歴史は、どう扱われているのか?
美濃部達吉も、清宮四郎も、宮沢俊義も、日韓併合の効果を疑ったり、「植民地主義」として糾弾したりすることはしなかった。現在の日本の憲法学者たちは、「知識人」たちに抗して、大日本帝国憲法の原理を説いているのだろうか?あるいは全く逆に、「知識人」たちとともに、戦前の日本の憲法学者たちの「植民地主義」を糾弾しているのだろうか。
不明である。
戦後に「護憲派」の旗手の一人となった清宮四郎は、実は戦前の「植民地主義」者だったとして、「知識人」たちから非難されているのか。それとも清宮は、戦後憲法学の「護憲派」の重要人物になったという功績から、「知識人」たちから免責されているのか。
不明である。
別の京城学派の学者の祖川武夫がいる。戦後は東京大学に戻り、国際法を講義していた。寡作だが、日米同盟批判で名高い著作がある。集団的自衛権は違憲=安保法制は違憲だ、という「知識人」たちの運動が巻き起こっていた数年前、日米同盟批判の文脈で頻繁に「(自衛権の)きわどい弛緩」という表現が使われた。祖川の著作において日米同盟批判=集団的自衛権批判のために使われた特殊用語だ。この表現を用いていた「知識人」たちは、祖川・元京城帝国大学教授への忠誠を表明して、「アベ政治を許さない」と叫んでいたわけだ。
独立後に集団的自衛権に基づいた安全保障上を結ぶと「違憲」だが、「植民地主義」にもとづいた「併合」をした防衛体制なら合憲だ、ということなのか。
不明である。
憲法学者の宮澤俊義は、「八月革命」説を唱え、ポツダム宣言受諾時に「日本国民」が革命を起こしていた、と主張した。
ふつうは、日本が、朝鮮半島を放棄したのは、「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られる」と規定したポツダム宣言を受諾した結果である、と歴史を理解する。
しかし「八月革命」説によれば、そうではない。「日本国民」が「革命」を起こして、朝鮮半島を放棄した。
宮澤は、大日本帝国憲法の原理を講義しており、GHQ憲法草案を目にするまで、大日本帝国憲法のままでも問題はないというような立場をとっていた。大日本帝国憲法第10条「日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」を受け入れていたということである。ちなみに日本国憲法は、国民(people)に主権が存すると宣言しつつ(前文)、「日本国民(national)たる要件は、法律でこれを定める」とした(日本国憲法第10条)。
宮澤の「八月革命」説にもとづけば、「大日本帝国憲法」における「日本臣民」の一部であった日本民族=「国民(people)」が革命を起こし、他の帝国部分の臣民を切り離した。そして自分たちだけが「日本国民(national)」となる法律を作った。
日本の憲法学によれば、サンフランシスコ講和条約などは関係がない。「八月革命」を起こした日本国民(people)=日本民族が、1945-46年の革命の結果として、「日本国民(national)」の要件を勝手に定めてしまい、朝鮮人たちの国民性を否定した、ということなのではないのか。
こんな学説では、「植民地主義」にもとづく「日韓併合」の法的効果を否定できない。
こう言うと「八月革命説は古い学説ですから」と言い出す人が現れる。それでは新しい憲法学を講じる「知識人」は、きちんと大日本帝国憲法を否定し、清宮四郎を否定し、美濃部達吉を否定し、宮沢俊義を否定しているのか。
不明だ。
日韓関係の緊張関係にともなって「歴史認識」問題が深刻な外交問題にまで発展している。日本の憲法学者のきちんとした見解の表明が待たれる。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=as_li_ss_tl?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4106108224&pd_rd_r=e52baea4-9be2-11e9-8924-833d5d723e91&pd_rd_w=me2vR&pd_rd_wg=ww7Ii&pf_rd_p=ad2ea29d-ea11-483c-9db2-6b5875bb9b73&pf_rd_r=9W7YKT9T9T0MXGXN29S7&psc=1&refRID=9W7YKT9T9T0MXGXN29S7&linkCode=sl1&tag=gendai_biz-22&linkId=d150abdf96ba32cef0709356c4c0824c&language=ja_JP
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しかも、昨今はともかく、多くは歴史上の勝者(ὁ νίκη)、言うなれば強者(κρείττων)=覇者(δύνάστης)の視点(τόπος)で、その行為を正当化する(ὀρθόω)ために記述し(συγγράφω)編纂されるのが常だから、どうしてもそれを不満に思う敗者(ὁ νικηθείς)、弱者(ἥττονων)の思いは押しのけられ、歴史の闇に忘却(λήθη)されることになる。
歴史は自然科学のように、実験によって再現する(μιμεῖσθαι)ことは不可能(τὸ ἀδύνατον)だから、歴史上の「真実」(τὸ ἀληθές)なるものを個々の事例(παράδειγμα)を挙げて具体的に論証する(αποδείκνυμι)ことは可能だとしても、客観的に証明する(συμβιβάζειν)のは困難(ἄπορος)で、事実上は(ἔργῳ)、不可能に近い。
従って、仮令客観的な歴史的事実や出来事は存在したとしても、客観的な歴史も歴史認識も存在しない(μὴ εἶναι)所以(τὸ διότι)だ。
今日の実証主義的な歴史学の嚆矢である、19世紀にドイツで盛行し、多くの成果を上げた、ニーブルやランケ以来の歴史学にしたところで、つまり学問(μάθημα)としての歴史学というのは精密な仮説(ὑποθεσις)の集合体(σύγκρασις)であって、歴史の多様な側面について多くのことを教え、示唆するけれど、必ずしも歴史の「真相」(ἀληθῆ)を反映しているわけではない。
相互承認(τὸ ἐνδεχόμενον)が可能な歴史上の「個々の事物」(τὰ καθ’ ἕκαστον)があったとしても、それで直ちに歴史となるわけではなく、歴史は常に修正可能な構成されたもの(τὸ σύνθετον)だからだ。帰納推理(ἐπαγωγή)と実験を含む仮説(ὑποθεσις)の合理的な(λογικός)論証を目指す自然科学的な実証科学ではないからだ。
大韓民国憲法に掲げられ、戦前の朝鮮半島出身戦時労働者(所謂「元徴用工」)の補償要求に対する同国大法院判決の前提になっている韓国の建国の歴史が、畢竟「物語」(μῦθος)=虚構(μῦθος)、つまり「真実らしき物語」(εἰκός μῦθος)、「まことしやかな物語」(εἰκός μῦθος)の集成であることを免れないのもそのためで、歴史自体に内属する(ἐνυπάρχειν)本性的(ψυσικός)なもの、つまり必然(ἀνάγκη)であり、どうしても避けられない(ἀναγκαῖοπρσς)宿命(εἱμαρμένη)であって、それを構想(συντίθεσθαι)する立場(σεμνόν)、即ち立脚点(τόπος)を超越しては論じられない問題を含んでいる。
憲法解釈は、必ずしも歴史認識とは同じではないが、歴史に絡めて憲法を判断するにあたっては、状況は同じだ。憲法学者に日韓併合の正当性如何について問うことは、無駄だし、無用だろう。
その任(ἐπιτήδευμα)ではないし、政治的行動は学者としての見識(φρόνησις)によるというより、一市民的な恣意的な、つまり自由な(ἐλεύθερος)政治行動だろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/90000398.pdf
その歴史認識をねじ曲げているのが、「良心派の進歩的知識人」と自称している人々なのであって、芦田均さんの「新憲法解釈」を読んで、通説の憲法学者の主張がいかに嘘で、党派的利益の為なら、真実をねじ曲げる人々なのか、よくわかった。そのような人格の法学者は、韓国の「反日」のチョー・グク氏だけではないのである。別に真理の追究は自然科学だけではなくて、人文科学の分野でも、めざさなければならないものであることは、吉川幸次郎さんの神戸高校の校歌、学問の厳しきめざし、わがものと、きわむる自然、人文の真理の翼はばたけば、若き瞳の輝くを、で明白なのではないのだろうか。私の場合は、老婆の瞳になってしまっているが。
期せずしてちょうど一年前の8月27日(137)、私は次のように書いた。即ち、
「最後にカ氏の母校らしい、神戸高等学校校歌の第二番(作詞は中国文学の泰斗吉川幸次郎)の一節を噛み締めてほしい。
吉川は卒論で、吉川から借りた書物中の気に入った瞿秋白の一節を気軽に引用した教え子に口頭試問で出典を糺し、弟子が平気で参照書の名を告げると、『孫引きというのは、してよいことか悪いことか。何のために、当文学部の書庫に瞿秋白の全集が入れてあると思うか』と一喝した。『して悪いことです。申しわけありません』と即座に詫びた女子学生はその後、神戸大教授(ロシア語専攻)になったという(『吉川幸次郎全集』第26巻「月報」にある、小野理子「ダメ弟子より愛をこめて」)」と。
その歌詞は
「きみみずや学問のきびしきめざし/わがものときわむる自然人文の/真理のつばさはばたけば/わかきひとみのかがやくを」
カ氏に改めて問いたいものだ。「省みて、自ら愧じ入るところがありませんか?」と。
なぜなら、その後も剽窃(τὸ μιμεῖσθια)を繰り返すカ氏は、次のように嘯いた(εἰρωνεύομαι)。
10月5日・253⇒【私は、学問の厳しきめざし…よりも、「真理の翼はばたけば、若き瞳の輝くを」、の部分が好き…芦田均…「新憲法解釈」…憲法9条の解釈を読んだとき、「真実はこうなんだ」と、「真理の翼の羽ばたき」に、もう若くはない老女の瞳は輝やき、興奮した】。
5末尾⇒【吉川…学問の厳しきめざし、わがものと、きわむる自然、人文の真理の翼はばたけば、若き瞳の輝くを、で明白なのではないのだろうか】を眺め、母校校歌の杜撰な引用もさることながら、ピアノ線並みの神経に改めて驚愕した。つける薬がない。
人には厳しく、自らには甘い人間に、「真理」など無縁(οὐ προσήκων)もいところだろう。
私の趣味に、ピアノ演奏がある。ピアノ線に自分の思いが伝わり、素敵な演奏ができたらいいな、と思うので、ピアノ線並みの神経である、ということは私にとっては誉め言葉であるが、いわゆるクラシックの曲を弾く場合、自分の勝手な解釈は、許されない。いくら、有名大学の教授の肩書があってでもである。逆に、ウィーン音楽大学の教授の方が、原典を知っている。作曲家がどう記譜したのか、当時の記譜はどうだったかを調べ、つまり、オリジナルを調べ、それから、自分の演奏をくみたてていくのである。
その努力が全くなく、東京大学法学部教授という地位、権威だけをかさに、「日本国憲法」の成立過程を全く知ろうともせず、芦田修正、と芦田均さんを揶揄される姿勢、「八月革命」があったと主張する姿勢は、学者として異常だと思うし、それは、「物語」であって、「人文科学の真理」を極めた、「学問」とは言えないのではないのだろうか。
平気でコピペと称して剽窃(τὸ μιμεῖσθια=plagiarism)紛いの行為を、つまり盗用(κλοπή)を繰り返してきた人間を誰もまともには相手にすまい。しかも、何のジョーク(εὐτραπελία)かしらないが、「印刷機」とか称して居直った時期もあった。
劣等学生がリポートでよく使う手だと度々揶揄したら、【100の全文567文字中、実に298字、52%、つまり過半数はコピペをして、どこが悪いのかと思う】(4月27日・107)という、一瞬わが耳を疑う居直り、ピアノ線並みの強靭な(στερεός)神経(νεῦρον)に畏れ入った。
例によってまともに(ὀρθότης)日本語の文章を理解する(συνιέναι)ことができないのか、しらばっくれている(εἰρωνεύομαι)のか、どうでもよいが、7⇒【ピアノ線並みの神経である、ということは私にとっては誉め言葉】とは、言うに事欠いて、大した度胸だ。常人の真似(μίμησις)のできない芸当だ。「クジラの髭並み」と言い換えてもよいが、強靭さ(στερεότης)の譬え(εἰκών)だ。
「強靭さ」は「狂人さ」(ἡ μανία)につながるのかもしれない。「狂刃」(φονεύς ξιφίδιον)というのもあって、テロリストの手口だが、カ氏は「言論のテロリスト」に等しい。οἴμοι.
‘Les fous et les sottes gens ne voient que par leur humeur.’(「狂人と愚か者は、気分でしかものを見ない」=La Rochefoucauld; Maximes 414, Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 458.)
さらに、「253(10月6日=筆者註)はもっと滑稽で『学者の論文として、このコメントを書いているわけではない』と、コピペと孫引きだらけの胡散臭い政治や歴史認識への批判に端から『逃げ』を打った形で、日頃の御大層な物言い〔「長い間ドイツ文化を勉強し、ドイツ文化の神髄を知る年長者」=9月14日・23〕とは随分違う。学生時代の卒論の話など論外で、今なお、劣等学生並みだ。末尾の芦田均の憲法九条解釈に、『「真理の翼の羽ばたき」に、もう若くはない老女の瞳は輝やき、興奮した』に至っては滑稽を取り越して陰鬱な感じさえ漂う」(10月6日・260)とも。
そのほか、
「それこそソクラテスが説いた無知(ἀμαθία)の知を語る前に、まず無恥(αίδεια)の知が必要な所以だ。恥(αἰσχύνη)を知れということだ。証拠は歴然。【75、76は、ウィキペデイアからとったものではない】というが、75は全文509文字中、コピペは228字、コピペ率は44.8%。【ウィキペデイアから…ではない】と論点をずらし、20日・61で(私の)【手元に基本文献がないのであろうか…コピペして、あたかも反インテリンチ氏に投げつけるが如き態度…異常」】への見苦しい弁明のつもりなのだろうが、コピペ病は止まない。文体と措辞からすぐに私の文章と分かるのに、自分の言葉で簡略化せず、ひたすらコピペで垂れ流す」とも。
相も変わらぬカ氏の厚顔無恥(ἀναισχυντία)は、ここまでくるともはや病気(νόσος)で、畢竟、魂の欠陥(κακία)だから、つける薬はないだろう。軽蔑(καταφρόνησις)に値する(ἄξιος)、ということだ。
いずれにしても、苦し紛れに(ἀπορέω)ごまかし(τερθρύεῖσθαι)たり取り繕ったり(τεχνάζω)することに汲々とする(σπουδάζω)姿は、常軌を逸している。
「本人の慢心(ὕβρις)に比して比類なき『無学な人』(ἀμαθής)であるカ氏の醜悪な人間性(τὸ ἀνθρώπειος)を示す格好の素材だ」として、常習(ἔθος)と化したコピペと剽窃については、4月27日・109で、カ氏の凄まじい居直り(4月27日 ・107⇒【100の全文567文字中、実に298字、52%、つまり過半数はコピペをして、どこが悪いのかと思う】)も、その醜悪な人間性の延長線上にあるのだろう。
もはやまともに言うこともないから、
「『へぇ~、そうなんだぁ~。copy & pasteって、早い話、怠慢というか、『盗み』みたいなものでしょ。どうしようもない劣等学生のよくやる手だと思ってたけれど、70年近くも生きていると、随分図々しく(ἀναιδής)なるんだぁ~、て感じ。よくやるわ…ホント。この間もゼミでコピペだらけのリポートを提出して、それがばれて担当教授に散々絞られていた、カロリーヌとか言う女子学生がいたけど、あれって、ドイツ語だと確か…』」(この項続く)
今回の日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄決定に至る一連の文在寅政権の迷走ぶりについて、当の本人たちはヤケクソなのか、一種意気軒昂だ。日本側の植民地統治などをめぐる歴史認識の不当性を槍玉に挙げて、「窮鼠」が懸命になって猫を噛む愚行の限りを尽くしているが、その際の言いぐさが、朝鮮語で「賊反荷杖」(チョクハンカジャ)だ。
しばしば、「盗人猛々しい」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)と煽情的なニュアンスで訳されるが、朝鮮語のネイティヴ(ἔμφυτος)の感覚だと悪いことをしたり、発覚したりして「居直る」程度の意味で、実質は軽い意味だそうだが、支持者を煽る(ἐφίημι)ため思わず口をついて出たような趣がある。
それに対して、日本語の「盗人猛々しい」はカ氏の呆れ果てた言辞にこそ相応しいかもしれない。ギリシア語の[ὁ τοῦ κλέπτου λόγος]が「盗賊の論理」を意味するように、過去に夥しい「剽窃」=盗みを繰り返してきたコピペの女王(κλοπή βασίλισσα)には。
そうすることで、被害者(ὁ πάσχω)意識の塊となった隣国の民同様、見当違いな自負心(φρόνημα)を育んでいるのだろう。
カ氏にとって、もはや止み難い日課となった投稿は、ある種の「凶器」(ὅπλον)でもあるのだろう。[完]
本来それが「民主主義」なのであって、「権威」でおしつけるもの、「無学な国民は、知識のある専門家である学者に従っていればいい。」という政治を、民主政治、と定義しないのではないのだろうか?
それを評して私は生まれつきの(ψυσικός)「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)と表現しているが、それについて、カ氏は充分に(ἱκανῶς)自覚していない(ἄγνοέω)、つまり、肝腎の「自分について無知で」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)盲目である(τυφλοώττω)ことを示しているから、憐れにも気づかない(λανθάνειν)で今後も間違いを再生産(παλιλλογία)するのだろうし、時にはしらばっくれて(εἰρωνεύομαι)て、益体もない(ἄχρηστον)言い訳(ἀπολογία)を重ねるか、懲りずに(ἀκολᾶτος)強弁(τὸν κρείττω ποιεῖν)を繰り返すのだろう。
前者ならば、自分で自分を欺く(παρακρούειν)、つまり自分で自分に騙される(ἐξαπατηθῆτε)ことになるわけで、カ氏のような、慢心(ὕβρις)と虚栄心(χαυνότης)、いうなれば体面にこだわる(φιλότιμος)ことで、自らの存在を過大に(τὸ μείζων)みせる(τὸ ψεῦδος μαρτυρεῖν=「偽装する」の謂い)のに執心する(ἐπιθυμέω)人物にありがちな、謂わば不可避(ἀνάγκη)で普遍的(καθόλου)とも言える人間の性向を免れがたい。
‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.(La Rochefoucauld; Maximes 265, Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 439.)
だから、一種「恐れを知らない人」(ἄφοβος)なのだろうが、知識(ἐπιστήμη)と理解力、平たく言えば学識(μάθημα)と知恵(σοφία)とを一体化したものとみるソクラテス・プラトン流の真理観によれば、真理の把握は、自ずと「善さとは何か」(κἀγαθός τι ἐστι)という理論的判断と実践的判断とが不可分になる。
人間にとっての善さ(τἀνθρώπινον ἀγαθόν)が直ちに魂の善さ(τἀγαθά)に直結する。
ソクラテスを活写した対話篇『クリトン』の中で、プラトンは「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということ(τὸ ζῆν)ではなくて、善く生きるということ(τὸ εὖ ζῆν)なのだというのだ」(‘ὅτι οὐ τὸ ζῆν περὶ πλείστου ποιητέον ἀλλὰ τὸ εὖ ζῆν.’=Crito, 48B)と、どこまでも、「善さ」にこだわるソクラテスを描いている。
‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。」=Maximes 386, ibid., p. 454.)
カ氏のような醜悪さ=「みっともなさ」(αἰσχος)は、ソクラテスもその一人である古代のギリシア人が最も忌み嫌った(μισεῖν)もので、カ氏には潔さ(μεγαλοπρεπής)はもとより、このところケルゼンを頼りに盛んに並べ立てる「民主主義」、即ち民衆政(δημοκρατία)について、何も肝腎なことを知らない(ἀγνοέω)無邪気さで語っている寛容さ(ἀνελευθερία)の欠如をものの見事に露呈(ἀποφαίνω)している。
その偏狭さ(ακληρότης)の極致は、7②⇒【憲法普及会…の委員長(芦田均=筆者註)の解釈を信頼しないで、だれの解釈を信頼するのだろう】にもあり、三権分立というからには、国会は仮令「国権の最高機関」、つまり立法(νόμος)を司る(ἄρχω)ものではあっても、「解釈」(ἐξηγέομαι)はその構成員である国会議員に委ねられるものではなく、裁判所にある。「芦田信仰」も度を越すと狂気の沙汰だ。
芦田にも国民にも権威(ἐξουσία)などない。莫迦も休み休み言うことだ。
ところで、樋口陽一氏が「ケルゼン主義者」如何の対象とは不明にして知らなかった。清宮四郎の弟子というだけだろう。οἴμοι.[完]
14⇒【民主主義政治は、反権力の市民運動ではなく…国民に…代表者として選ばれた議員たち…による、妥協による政治】というのは、「無学な」(ἀμαθής)主婦の素朴な見解で、間違だけとも言い切れないが、現実の「政治過程」に照らせば幼稚極まる俗論の典型だ。
政治(τὰ πολιτικός)について、民主制について、何も知らないに等しい、中学生レベルの素朴な信仰告白(ἡ ὁμολογία)を、カ氏が本欄で繰り広げている無邪気さを端なくも示している。
民主制、民主主義についてはさまざまな定義(ὁρισμός)があろうが、近代民主政治に限って言えば、「多数者の支配(優先)」(δημο[ς]-κρατία)という原点(ἀρχὴ)は、「多数決原理」が揺るがない以上基本的に変わっておらず、ただ「法の支配」(δεσποτεία νόμος)や少数者(οἱ ὀλίγον)保護、人権尊重の観点からに、所謂「立憲主義的」是正原理が働き、「能力に応じて」(κατὰ τὴν ἀξίωσιν)ではない、政治参加の「平等の権利」(ἰσονομία)に基づく政治体制(πολιτεία)だという原点が後景に退いた観がある。
厚生経済学から発展した集合的選択理論によれば、民主的合意形成には根本的パラドックスが内臓していることは、K. J. アローによって既に数学的に証明されており、民主的手続きを尽くせば尽くすほど、綻びが出ることは分かり切っている。
カ氏のようなお子様の議論は無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)虚妄(φάντασμα)であり、信仰(πίστις)の類だろう。
シュムペーターの指摘をまつまでもなく、「民主主義的方法とは、政治決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行うことにより決定を行う制度的装置」(『資本主義・社会主義・民主主義』)というだけのことだ。
民主制自体に特段の価値はなく、真理の基準(κριτήριον)ではない。
民主主義政治は、反権力の市民運動ではなくて、国民に自分たちの代表者として選ばれた議員たちの話し合いによる、妥協による政治、現実には「議会制民主主義政治」である。もちろん、我々「権威」ある国民は、その政策に対して批判もし、監視すべきである。
ただ、もし、民主政治が反権力というなら、なんのために国民は自分たちの代表者を選び、その代表者が政治指導者を選ぶのだろう。
「立憲デモクラシーの会」の理想が、フランス革命やロシア革命だから、主張がおかしくなるのであって、ケルゼンはフランス革命の後の「ジャコバン党」による独裁、ロシア革命の後の「プロレタリアート一党独裁」を批判している。
ゲーテもフランス革命について同じ印象をもち、賛美しなかった。
そういう意味で、本当に宮澤俊義や樋口陽一氏が、ケルゼン主義者なのか、という疑問をもつ。専門家ではないので、他の部分のことはわからないが、少なくとも、「民主主義の捉え方」がまるで違う。
ケルゼンの「民主主義の手法」というのは、私が中学生時代に学んだやり方だ、と確信した。「親や先生に教わったことを正解とするのではなく、自分の頭で考えなさい」と言われ、先生の提出された質問に対して4人グループで意見を出し合って、お互いの主張をきいて、正解を導き出していった。正解は、決して、成績のいい人の言う通りでもなかったし、論理的な説得力で決まったものでもない。
本来それが「民主主義」であって、「権威」でおしつけるもの、「無学な国民は知識のある専門家である学者に従っていればいい」という政治を、民主政治、と定義しないのではないのだろうか?
☆誠に無駄の多い稚拙な文章(読点が多すぎる)だが、慌てず投稿すれば、一本に収まる。(反時流的古典学徒)
田中美知太郎は戦時中の論文「現実」(岩波書店『思想』、昭和17年11月号)の中で、次のように指摘している。高度な学術論文なので検閲を免れ当局の忌避に触れることはなかったが…実際は摘発につながりかねない危険な、当局への批判だった。
「勝者は阿諛の言葉を信じて、現實を見のがしてゐるし、敗者は現實を見ないことに、かへつて救ひを見出そうとしてゐる。(中略)それは丁度一、二年の形勢によつてものを見る、所謂sub specie bienni の世界史的考察が、世界史そのものによつて反駁されてしまふのと同じことである」(『ロゴスとイデア』、34~35頁)。
田中は1941年12月8日、ハワイ真珠湾に奇襲攻撃をかけ、続く10日、マレー沖海戦に大勝して国中が沸きたつ中、冷然と言い放ったという。
「この戦争、日本は必ず負けます」と。同年暮れ、東京中野の田中の許を訪ねた竹之内静雄(のちの筑摩書房社長)と岩田義一(後年お茶の水女子大教授=物理学者)の証言だ。
翌42年のシンガポール陥落後に各地で提灯行列が相次いだころ、再び「この戦争は、日本は必ず負けます。連戦連勝は、必ずしも最後の勝利を約束するものではない」(竹之内静雄『先知先哲』)。
ほかにも、「戦争中、遠慮のない時局談を試みることができたのは、私には三木(清)氏ひとりしかいなかった」「多くのひとたちは実に他愛もなく、電撃作戦でヒットラー崇拝者になったり、嚇々たる戦果にだまされて、東亜共栄圏の哲学を論じたりする、わたしはそのだらしなさ、無理性に、いつも嫌悪と軽蔑を禁じ得ず、心のなかですべての友人と絶交…三木氏はさすがにそんな馬鹿ではなかった」(田中「三木清と私」、1948年『回想の三木清』)。
田中の日記(1940年5月20日)に「一国のうちだけでなく、世界に於いても孤独でなければならぬこと。何を頼むべきか」。
恐るべき炯眼である。
憲法9条2項「戦力」不保持と「交戦権」否認について論じた、という自負がある< いま『ほんとうの憲法』の方を読んでいます。Gのざっとした感想→「戦力」(war potential)不保持< 理解すればいいですよね。「交戦権」は、2項条文の読点○に関わらず現代国際法では意味をなさない< でしょうか。今週末『憲法学の病』買う予定です。
後段
(韓国大法院「徴用工」判決は、不法な植民支配だったとして)1910年日韓併合の法的効果を否定する立場をとっている< のですよね。戦中・終戦直後の日本の憲法学者(美濃部・清宮・宮沢・祖川)の見解はどうなのか!?との、(皮肉を交えての)篠田先生のご提言ですよね。
韓国側は、1910年の日韓併合(向こうの大法院判決の表現では「植民支配」←「植民地支配」の”地”の脱字ではありません・「植民地」になったことさえ認めないという深意がある)を、当初から不法無効だとしています。常識的には、帝国日本のポツダム宣言受諾時(1945年8月15日)です。それから、米・ソの軍政統治3年を経て、南・北の朝鮮は独立しました。
管見は、この日韓併合(1910~1945年)の法的性質は、決着が付いていると思います。サンフランシスコ講和条約第2条aでは、その書き出し→日本国は、朝鮮の独立を承認して・・・・< とありますから、当然朝鮮半島は、日本国が合法的に支配していたことを前提としています(ポ宣言を最終的に確定したのがサ条約です)。韓国側の考えらえる反論としては、韓国はサ条約の署名国でない・拘束されない< との主張も考えられますが、それだと、サ条約第21条による朝鮮の受ける利益も受けることができません。朝鮮の国際法的な独立もありません。また、しないでしょうけど日本側から済州島なども日本領だとの主張もできますw
http://www.seisaku-center.net/node/188
大法院判決は日韓併合が不法であることを前提にしており、国際法の通説を無視した韓国国内にしか通じない独自の論理に従って判断した結果、司法裁判所として最上級の裁判所で日韓請求権協定に反する判決が確定してしまいました。韓国政府は請求権協定3条の仲裁にも応じず、日本と異なり選択条項受託宣言をしていないため国際司法裁判所による解決も望めないところです。
また、現在の朝鮮半島の政治的不透明性、中国の台頭、ロシアの存在を含めて、東アジア情勢が混とんとしている以上、日本は真剣に日本の安全保障を考えなければならない時期に入った、と私は考える。
「法律上ノ意義ニ於テ殖民地トハ、國家ノ統治區域ノ一部ニシテ内地ト原則トシテ國法ヲ異ニシ、殊ニ憲法施行區域ノ外ニ在ルモノヲ謂フ。殖民地トイフ語ハ本來政治上及經濟上ニ用ヰラルル語ニシテ、法學上ノ觀念ニ在ズ。政治上又ハ經濟上ノ意義ニ於テ殖民地トハ國家ノ統治區域ノ一部ニシテ本來異民族ノ居住スル所タリ…此意義ニ於テノ殖民地ハ直ニ法學上ノ觀念ト爲スコトヲ得ズ」(第7節殖民地、192頁)。
美濃部は帝国臣民として、植民地について特段政治的に特異な見解を有するとは言えない人間だから、見解も素っ気ない。「植民地支配の法的有効性如何」の問題など、美濃部の関心の埒外にあったというより、「法學上ノ觀念ニ在ズ」という以上、学問上、法学者として余計なことを言う意義も必要を認めず、学問的関心を抱きにくかったのではないか。彼は徹頭徹尾学者であった、その一種「科学的」(wissenschaftlich)とも言える合理的な政治観に感傷的な(φῖλοικτίρμων)側面は皆無に近い。
「此ノ意義ニ於テ帝國ノ殖民地タルモノハ朝鮮、臺灣、樺太、關東州及南洋群島ナリ。此等ノ地域ニ於テ憲法ガ當然實施ノ効力ヲ有スルヤ否ヤハ屢爭ハレタル問題ナリ。政府ハ從來其議會ニ於ケル答辯ニ於テ、憲法ガ實施セラルルヤ否ヤノ標準ヲ完全ナル日本ノ領土ナルヤ否ヤニ求メ、朝鮮、臺灣、樺太ハ完全ナル領土ナルガ故ニ、其日本ノ領土トナリタル瞬間ヨリ憲法ガ統治區然其効力ヲ及ボシ、關東州及南洋群島ハ完全ナル領土ニ在ザルガ故ニ、憲法ハ其効力ヲ及ボサズト爲セリト雖モ、此ノ如キ説明ハ決シテ充分ノ根據アルモノト謂フヲ得ズ」と、謂わば政治的には中性的(neutralistisch)立場を維持している。
「此等ノ規律ノ中ニハ其ノ性質上必然ニ國家ニ随伴シ國家ノ統治權ノ行ルル所ハ領土ノ全部ハ勿論、領土ノ外ニ於テモ苟モ其統治權ノ行ルル限リ憲法ノ規定ガ當然其のノ効力をヲ及ボスベキモノアリ。國家ノ最高中樞機關ノ組織ニ關スル規定ハ即チ之ニ屬ス」(194頁)からだ。
従って、「朝鮮、臺灣、樺太、關東州及南洋群島ニ憲法ガ施工セラルルヤ否ヤノ問題ハ唯此ノ種ノ規定(「天皇、攝政、國務大臣樞密顧問及帝國議会ノ組織權限ニ關スル規定」を除くその他の統治の方法及び国民の権利義務に関する種々の規定=筆者註)付テノミ生ズ」にすぎない。
注目すべきは、「國民自治主義、自由平等主義ノ思想ハ社會ノ文化ノ相當ナル發達ト國民ノ國家ニ對スル忠誠心トヲ前提トスルモノニシテ、新領土ガ此ノ前提ヲ備へザル場合ニ於テハ、此ノ主義ニ基ズク憲法ノ規定ヲ新領土ニ施行シ得ベキニ在ズ」とする点で、西欧型の「立憲主義者」の美濃部に限らず当時の公法学者の標準的見解だろう。美濃部は帝国の合理的統治を追求する国家主義者なのだ。
合理的、合法的な規矩(ὅ ρος)を踏み外した「超国家主義者」でないだけだ。その点で、少しも感傷的でないと同時に、西欧列強が明確な帝国主義的支配欲の下でアジア支配に乗り出していた当時の世界情勢に照らせば、余りにも楽天的な西欧志向の開明主義者だったと言える。
ところで、美濃部によれば、謂わば「二等国民」として、「國民ノ國家ニ對スル忠誠心トヲ前提トスル」にもかかわらず「新領土ガ此ノ前提ヲ備へザル」場合は、植民地「ニ付國家が此ノ第二ノ主義ヲ取レルコトハ疑ヲ容レザル所」で、「其ノ人民は兵役義務ヲ負ハズ、國會ニ代表者ヲ出サズ、又法律ニ依ルニ在ザレバ自由ヲ拘束セラレザル權利ヲ認メラルルコトナク、行政權ト立法權トノ分立ハ備ワラズシテ行政權ニ依リテ一般ノ法規ヲ定ムルコトヲ得ベク司法權獨立ノ原則モ亦完全ナラズ」(196~197頁)というのが実情だった。
朝鮮の民が日本の統治下で近代化が進み、これといった近代的産業基盤を有せず農業以外にみるべき産業がなかった半島の民生の水準を飛躍的に向上させたとしても、朝鮮の民にとっては、独自に国運を開きたかった、「こうだったらと望む」(προαιρεῖσθαι)、つまり単なる願望(βούλησις)にすぎないとはいえ、他のあり得たかもしれぬ近代化を阻むものだった。
歴史的にみて東アジアの伝統的な儒教文化圏、シナ中心の華夷秩序のより中心に位置する誇り高き朝鮮民族にとって、日本による近代化は、「傷ついたモダン」として、その内実は享受しつつも、あくまでもその正当性(rightness=νόμῖμος)も正統性(legitimacy=ἡ ὀρθότης)も退けられるべきものでしかなかった。
朝鮮民族の日本に対する反撥や怨嗟は、身勝手な日本への怒りと同時に、宿痾とも言える絶えざる内部対立に災いされ、日本に抗して自分で運命を切り開けなかった自らの「不甲斐なさ」に対する愛憎半ばする自他両面的な情動(「恨(ハン)」)で、それは傷つき、深く悲しんだ(grievance)民族と国家の魂の叫び(δακρύειν)なのだろう。[完]
「ドイツは植民地の多くを第一次大戦で失った。日本には、戦前から植民地化した台湾や朝鮮半島、旧満州の問題がある。そこが大きな違いだ。…英仏など欧州の宗主国は、戦後10年から20年をかけて植民地が独立するまで、つらい葛藤の時期を体験した。どうしたらお互いの信頼を勝ち得るかで悩み抜いた。他方、敗戦直後に植民地を切り離された日本は、冷戦構造に組み込まれ、旧植民地の多くと対話が途切れた。そこに一種の「記憶の空白」が生じた。歴史認識の問題の根っこには、その「対話の不在」があった…」。
この部分がコピペであるが、私のコピペと同じで、水島教授がこの主張が正しいと考えておられるから、コピペされているのだと思うが、この主張は本当に正しいのか?と思う。
また、英仏の欧州の宗主国の欧米人のアジアにおける植民地人とのつきあいと、日本人と韓国人の付き合いの仕方も違うのであって、インドにイギリスのパブリックスクールやOxford大学に匹敵する大学があったかどうか、考えてみればいいのだ、と思う。 本来、日本と欧米の違いを知る日本人が、間違った日本についての知識をもっている欧米人の誤解を解いてあげるべきなのであって、欧米の学者だから、ということで、追従すべきではない。その為には、日本のことを知らないと始まらない。普通の日本人は、それを留学中に気づくし、それができる人を本当の意味での、国際派「知識人」と定義するのではないのだろうか?要素は語学力だけではない。
個人でも、夢はある。けれども、現実的には達成できない「白昼夢」をめざし、できなかった原因を他者に責任転嫁しても始まらない。「国家運営」でもそうなのではないのだろうか。朝鮮人の「夢」が実現できなかった責任をすべて極悪非道な「日本の明治政府」や、「現在の日本の安倍首相」にかぶせて、「反日批判」をしているのである。長谷川良さんの、被害者意識、自己憐憫、そして反日を読んで、ほんとうにそうだ、と思った。「blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52253471.html
それに対し大韓帝国、即ち朝鮮の側は全く違う。日清戦争に宗主国の清が負けそれ以前の東アジアの華夷秩序が根底から崩れ、しかも極東に食指を伸ばし朝鮮を勢力圏に組み込もうと狙っていたロシアと、その進出を何とか押しとどめようと海洋防禦ラインと利益線(利益彊域)を確保を期して、朝鮮に国際政治力学上の「空白」が生まれるのを極端に警戒し、硬軟取り混ぜて接近していた日本との間で国論が分裂状態にあったのが日韓併合前の朝鮮だ。
旧来の清に代わって日本を選ぶかロシアを選ぶか、弱者にはどちらに転ぶか分からない「中立」は許されない選択で、文字通り「外患内憂」に見舞われていたのが19世紀末~20世紀初頭ということだ。
朝鮮の近代化はそれぐらい困難な状況に置かれており、清に安全保障を依存したため、満足な近代的軍隊さえなかった。そのなか朝鮮政府内部で日本派とロシア派が対立を続けて主導権争いに躍起となっていた。
朝鮮特有のネガティヴなパトス(πάθος)である「恨」(ハン=한)は、元々は、そうした益体もない(ἄχρηστον)支配階級に対する民衆の身の置き所のない怨嗟、嘆きの感情だったろうが、歴史上常に他の民族の脅威の下で生きてこざるを得なかった弱小民族の悲哀で、ルサンチマンとは異なる。
とにかく、恨み=ressentimentは戦って晴らすこともできるが、自力で(καθ’ αὑτό)窮状を打開する(εὐπορέω)ことができない自らの不甲斐なさにも向けらてもいるのが「恨」だから、より厄介だ。長谷川良説は、余りに皮相(λεπτός)だ。
反目の背景は主に国内対立で、反日だけではない。朝鮮語のハン=한は日本語の「恨み」とは違う。
私は村山談話が出た時、義父母たちがとても喜んで、「いい談話だった。」と言っていたし、これで韓国と友好関係が樹立できるのなら、いいことだ、と私も思っていた。それを逆手にとって、韓国政府が、日韓併合後、「隷属的に扱われた」、と「人権」や「反日」をかかげる歪んだ印象操作を国際社会でするとは、思わなかったからである。
現実の朝鮮は、第二次世界大戦中、独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ国外にあり、その勢力は小さく亡命先での活動が主だった。大きく分けると大韓民国の憲法の前文に書かれている中華民国上海の大韓民国臨時政府、北朝鮮の元になる中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、李承晩が出身であるアメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも朝鮮半島の住民から大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。
また、日本統治時代の朝鮮をみると、朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていた。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた、とある。これが、「朝鮮の本当の姿」だと思う。
私たちが大事にしなければならないことは、繰り返しになるが、ドイツのメルケル首相がハーバード大学で大喝采を浴びられた「真実と嘘」をきちんと見分けることだと思う。
(参考: ウィキペデイア 日本統治時代の朝鮮、朝鮮戦争)
サンフランシスコ講和条約の枠組みは、終戦後(1950年代初頭)の時代背景をもって、条文が起草され確定していると思うんですよね。24のGの投稿での朝鮮が受ける利益のサ条約第21条→第2条aの日本国の朝鮮の独立を承認し・・で始まる条文。1965年請求権協定の基礎となったサ条約4条aは、重要だと思います。同条文では、当時独立後の南・北朝鮮は、「これらの地域で施政を行なっている当局」にしかすぎません。
また、韓国大法院「徴用工」判決の前提をくずす条文は、第14条aでもあります。敗戦国日本は、戦勝国「連合国」に対しては、特別の取極めとして、戦争賠償を支払う義務が、法定されています(韓国はもちろん「連合国」ではない)。韓国は、第4条aの「朝鮮半島(南部)で施政を行なっている当局」にしかすぎません(→65年協定に至る)。朝鮮半島南部当局(韓国)との請求権の処理は、サ条約4条aに基づく65年の請求権協定でその全部の請求権を賄うべき枠組みになっています。ゆえに、韓国大法院「徴用工」判決の請求権は、65年請求権協定の枠外とする主張には法的根拠はありませんw
どこから書けばよいか迷うが、まず山川出版社のような標準的な教科書のなかで1965年に締結された日韓基本条約の記述についてチェックしてほしい。社会党や共産党など野党やマスコミ、学者たちが日韓基本条約について猛反対したことやその理由などについてまったく書かれていない。詳しい用語集にも記載ゼロだ。
要は、あの時代に日本の左翼は韓国ではなく北朝鮮を正統な政府と認識していたので、日本が韓国だけと平和条約を結べば韓国を正統な政府だと認知してしまうことになるので猛反対したのだ。共産主義国家の北朝鮮をこぞって応援していたのだ。朝日新聞などもずっと北朝鮮を持ち上げる記事を書いており、北朝鮮を「地上の楽園」と多くの朝鮮人に幻想をもたせたことは有名だ。
・GHQは日本の満州事変以降を問題にしたが、その後に「日本は敗戦しても我々は勝ったのだ」と思い込んだ連中に2種類あった。朝鮮民族と共産主義者だ。(筋金入りの共産主義者が敗戦により天下がきたと思い込んだ)
・その両者が手を組んで歴史の偽造をはじめた。GHQが問題にしなかった日清日露から日韓併合まで史観をひっくりかえした。日本の共産主義系の歴史学者はウソ八百の歴史をでっちあげた。
・ところが高度経済成長後に、共産主義イデオロギーは完膚なきまでに敗北し、中国共産党までが資本主義の素晴らしさに目覚めた。
・共産主義イデオロギーが売り物にならないなかで、左翼に残ったのが、ひたすら日本の戦争を糾弾することと、台湾や朝鮮をいわゆる植民地として植民地政策を糾弾することだった。
・その路線を肯定しないものは、村八分にされ、そもそもほとんど学者になれなかった。(そうなるまでに共産主義者が長い期間をかけて学術機関を掌握した)
共産主義者の異様性を理解できなければ、戦後の日本の歴史はほとんどわからず、さっぱり理解は要領を得ないはずだ。高度経済成長期の学生運動もすさまじいほどのグロテスクな殺し合いが行われたが、現在のマスコミや教育で触れられることはほとんどない。浅間山荘事件のみに矮小化されている印象だ。
北朝鮮やソ連を絶賛していた和田春樹が、最近、韓国よりの声明を発表し、何人もの学者が同調していたが、そういうことだ。日本の過去を断罪することで、過去の恥知らずの研究から日本人の目をそらしたいという目的がある。
常識的な人間なら、わざわざ日韓併合時代を知らない現代の若者に当時の時代への憎しみを植え付け、とっくに併合関係は解消して現在は独立国どうしなのに、謝罪だ加害者・被害者だとかなんだと陰湿な従属関係を押し付けるわけがない。しかも彼らは公けの場で議論しようともしない。弟子や同類の出版社だけをあてにしているのだろう。
わざわざ1980年代以降に、「日本を恨んでもしょうがない」と考えていた韓国人に耳ざわりのよい謝罪の言葉をささやき、「日本を恨め」と刷り込んで、慰安婦騒動や朝鮮人工作員のホラ話を拡散して韓国の筋金入りの活動家や無能マスコミを焚きつけたのが左翼であり、それは北朝鮮を支援するため日韓関係を破壊すること、それと、日本社会で時代錯誤の左翼が「戦争の清算」の旗手として生き残るためだった。
もちろん戦争の清算といっても、日韓併合をナチスのホロコーストになぞらえるなどノイローゼ級であり、途轍もなく悪質なプロパガンダであったが朝日新聞などと提携して朝から晩まで拡散しつづけたので日本人はだまされてしまった。こういった歴史をひとりでも多くの日本人が振り返り、正気をとりもどすことである。
吉田茂の弟子は佐藤栄作や池田隼人などが有名で、宮沢喜一も弟子のひとりであるが、宮沢は吉田茂を内心バカにしていたために非常に重要なことを受け継がなかったのである。
それは日本の曲学阿世の徒である左翼学者を信じてはならないということ、決して妥協してはならないということだった(吉田は右翼にも左翼にも批判的でどちらにも妥協しなかった)。
洋書をよく読み、経済通でもあったが、宮沢は本当に政治家タイプではなく官僚タイプだった。朝日新聞の従軍慰安婦キャンペーンで、朝日新聞のロボットのようになってしまった宮沢ではなく、吉田茂の勘と度胸をもったような政治家が当時の日韓関係をハンドリングしていれば、その後の大騒ぎは絶対に発生しなかったと断言できる。吉田茂が軽蔑しきっていたのが、物知りだけでしかない曲学阿世の徒であり、空想的な理想や(現実を知らぬ)独善的な歴史認識を持ち出しては、なにも建設的なことができないのに政治や社会を無意味にひっかきまわす口舌の徒であった。しかも、それは一時代を画した共産主義理論でもっともらしく武装し、多くの大衆マスコミを支配していたので、多くの日本人がだまされた。
これほど、共産主義者の天下であった日本はひどい有様だった。中国では共産主義学者は御用学者しななれないので、でくの坊ばかりだが、日本の場合は綺麗な水槽のなかで金魚があたりかまわず糞をまきちらしたために、逆に中国なんかよりも日本のほうが共産主義者の生態が鮮明にわかる。これこそ、若い日本人が研究対象とすべきだ。
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