井上達夫・東大教授の憲法に関するインタビュー記事を読んだ。https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019083000002.html 複雑な心境を抱いた。
私がまだ修士課程の大学院生だった頃、井上教授に、早稲田で開かれた研究会に来ていただいたことがある。私が23歳頃の1992年頃だ。非常に力強くも落ちづいた報告と受け答えに、感銘を受けた。井上教授は、30歳代前半でサントリー学芸賞を受賞され、名声を確立されていた。自信に裏付けられた静かな凄みに、新進気鋭の若手学者とは、こういう方のことか、と胸に残った。
その時から比べると、井上教授は、変わってしまった。60歳代半ばで、もう怖くて誰も何も言えない存在だ。すっかり、いつも怒って説教をしている人、になってしまった。
井上教授は、「修正的護憲派」・「原理的護憲派」と呼ぶ人々を批判し続ける。だがその批判の根拠は、何やら特殊な倫理的な姿勢を問うものだ。「欺瞞的」、といった言葉を、繰り返し繰り返し、他者の糾弾のために使う。
木村草太・首都大学東京教授への糾弾の例をとろう。「私の授業を聴いていた元学生」の「木村君」が、「お話にならない暴説」を述べている、と井上教授は激怒する(『脱属国論』62-63頁)。木村教授が、集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、と主張する際の根拠に、憲法13条「幸福追求権」を使った、という理由で、井上教授は激怒するのである。憲法9条で戦争は否定されるが、国民の幸福は守らなければならないので、個別的な自衛権の行使だけは13条で認められる、という議論をするのは、人権を理由に9条を骨抜きにする、許してはいけない態度だ、と井上教授は主張する。
しかし井上教授の木村批判は、いささか的外れである。13条の参照を思いついたのは、木村教授ではない。そもそも集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、という政府見解を初めて文書で出した1972年に内閣法制局が、正式な論拠として採用したのが、13条根拠説だった。木村教授は、72年の政府見解のままでいい、という話をしているに過ぎない。
仮に井上教授が、72年政府見解に依拠すること自体が、憲法学者として欺瞞的な態度だ、と言いたいのだとしたら、72年以前に著作活動で13条を参照した者たちにふれるべきだ。佐藤達夫は1953年・1960年の著作で、13条を参照して自衛隊の創設を正当化していた。もっとも佐藤は、個別的自衛権は良いが集団的自衛権はダメだ、などとは言わなかった。自衛権一般を13条で正当化した(拙著『集団的自衛権の思想史』25、178頁参照)。
井上教授は、13条を援用したら「安倍政権の集団的自衛権行使だって容認されてしまう」という理由で、木村教授を否定する。安保法制懇のメンバーや、私を含めて多くの国際政治学者なら、「だから最初から集団的自衛権の合憲だと言っているのに・・・」と思う。しかし井上教授は、われわれのような者については、存在すら認めない。井上教授の頭の中では集団的自衛権は絶対に違憲だということは論証の必要もない宇宙の運動法則のようなものとして決まってしまっているので、集団的自衛権合憲論者は、ふれるに値しない地球外生物の扱いである。したがって井上教授は堂々と、「それでは集団的自衛権まで合憲になってしまうではないか!」という理由で、木村教授を否定する。
ここまで徹底した他者「欺瞞性」糾弾の根拠は何か。井上教授の憲法9条解釈である。井上教授によれば、9条は全ての自衛権の行使を否定している絶対平和主義であり、それ以外の解釈の余地は全く一切ないと主張する。なぜそこまで強く言えるのか?
驚くべきことに、井上教授は、憲法9条解釈論を示したことがない。憲法を論じている者については相当に論じているが、実は井上教授はまだ、自らの憲法解釈の正しさを説明したことがない。
せいぜい、「文理の制約上、原理主義的護憲派の見解が正しいことは、日本語を解する者なら否定できない」と手短に断定し、宣言するだけなのである(井上達夫『立憲主義という企て』226頁)。
井上教授とは違うふうに憲法9条を解釈する者は、「日本語を解しない者」である。そのような烙印を押された者は、議論から排除される。この仕組みがある限り、当然、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しい。
つまり、井上教授の議論の絶対的な正しさは、「日本語を解する者であるかどうか」という基準にかかっているのだが、この「日本語を解する」能力の認定権限の全ては井上教授のみに委ねられている。しかも井上教授は「日本語を解する者であるかどうか」という審査基準の内容を説明することはしない。説明不要の審査基準が、井上教授の専管的裁量事項として、運用される。だから、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しいのである。
井上教授によれば、憲法9条が絶対平和主義の条項であることは、一切の論証の必要のない「日本語を解するかどうか」の問題である。およそ「日本語を解する者」であれば、憲法9条を絶対平和主義として読むしかない。もしそのような解釈をしない者がいたら、それはその者が「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかである。
しかし、「日本語を解する者」であるかどうかという審査基準を、一切説明を施すこともなく振り回すだけで、本当に学者の議論を終わりにしてしまっていいのか。それで、憲法学者や法哲学者が社会に存在していいのか、不安になったりしないのだろうか。
たとえば普通の人は、読売巨人軍の「戦力」は充実している、などといった会話をする。テレビの解説者なども頻繁に「戦力が充実していますねえ」などと言う。とすると、普通の人の感覚にしたがうなら、プロ野球選手は違憲だ、と言わなければ、「欺瞞的」である。
井上教授は、「日本語を解する者」は当然、プロ野球選手は違憲ではない、と主張するかもしれない。つまり「日本語を解する者」なら当然、「戦力」という言葉を使っていても、それは憲法の「戦力」ではない、と井上教授は言うのかもしれない。
しかしそれでは日本国民のほとんどが自衛隊を合憲だと感じているというアンケート調査はどうか。現代日本において、大多数の国民は、自衛隊を合憲だと考えている。大多数の国民の言語感覚では、自衛隊は憲法が禁じている「戦力」ではないのである。
ところが井上教授は、自衛隊を「戦力ではないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない」と一方的に断定する。
結局のところ、井上教授によれば、大多数の国民は、「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかでしかないわけである。(ちなみに井上教授は、「日本人のマジョリティが『不感症』になっている」[井上達夫『立憲主義という企て』299頁]と述べるが、要するに日本人の大多数は「不感症」で「自己欺瞞的」であるようである。)
井上教授は、自衛隊の合憲性を認める「修正主義的護憲派」も「欺瞞的」だが、自衛隊の存在を認めない「原理主義的護憲派」の「欺瞞は修正主義的護憲派よりもなおひどい」と述べる。「原理主義的護憲派」が「欺瞞的」なのは、自衛隊を違憲だと思っているのに、違憲だという立場を貫かず、自衛隊が存在している現実を受け入れているからだという。「自衛隊廃止や安保破棄を主張しなければならない」のにやっていない、というわけである。
井上教授は、自衛隊違憲論者である。そこで井上教授は、9条削除論を主張する。9条の文言と現実との乖離があまりに激しいので削除したうえで、国民が自ら安全保障政策を選択していくべきなのだとする。(もっとも井上教授が、「日本語を解しない者」と「不感症/欺瞞的である者」から成り立っている国民の大多数に安全保障政策を考えさせたいのか、ただ「日本語を解する者」だけを真正な国民として扱うのかは、判然としない。)
さらに判然としないのは、井上教授が、「9条の2」の追加を提案する山尾志桜里(立憲民主党)衆議院議員を激賞し、繰り返し褒めちぎることである。
井上教授によれば、山尾議員は、9条の2を挿入して、「専守枠内で戦力の保有・行使を認める」と定める改憲を行うことを提唱しているから良いのだという。しかしなぜ山尾議員だけは「欺瞞的」ではないのか?山尾議員は、まず、自衛隊の違憲性を明言し、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」しているのか?山尾議員は、立憲民主党の指導部の「欺瞞」を糾弾し、共産党ですら「欺瞞的」だと糾弾しているのか?もし糾弾してもいないのに、違憲状態があるかのように語って、それを解消する自分の案が素晴らしいと説明しているのだとしたら、それこそ最も「欺瞞的」なのではないのか?なぜ井上教授は、山尾議員にだけは、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」していないという理由で「欺瞞的」だ、と糾弾しないのか?なぜせめて「改憲案が達成されなければ、違憲状態が続いてしまうので、自衛隊廃止や安保破棄を主張」せよ、と山尾議員に言わないのか?
判然としない。
判然としないのは、私が「日本語を解しない者」であるか、「欺瞞的な者」であるかだからだという。しかし、そんなことを言われても、やはり判然としない。
まあ井上教授のような大教授が、私などを、「日本語を解しない者」以下で、ほとんど存在していない等しい塵だとみなし、視界の片隅にも入れないのは、まあ、仕方がないとしよう。だが政府見解なども、完全に存在していないかのように振るまっていて、本当にそれでいいのだろうか。
井上教授は、繰り返し繰り返し、自衛隊は戦力で軍隊だから、違憲だ、と主張している。しかし政府見解は、「自衛隊は憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊だ」、というものである。http://agora-web.jp/archives/2030702.html
そういう政府見解は、「日本語を解しない者」の戯言でしかないか、単なる「欺瞞」だとして、井上教授は、議論の視野には入れないのだろう。確かに、井上教授ほどの権威ある崇高な学者であれば、そのような立場もとれるのだろう。しかしほとんどの平凡な学者の場合には、政府見解を存在していないものとして取り扱ったら、不勉強を指摘される。せめて政府見解の間違いを指摘し、その論拠を示さなければならない。
学界の重鎮が、60歳代半ばになって、「日本語を解する者であるかどうか」を論証不要な絶対基準として振り回し、お前は欺瞞的だ、あいつも欺瞞的だ、こいつも欺瞞的だ、と怒鳴り続けるとしたら、日本の学界も、言論界全体も、萎縮する。いや、おそらく日本それ自体が、萎縮する。
しかも、井上教授の「日本語を解する者であるかどうか」なる絶対基準にしたがうと、特定の女性野党議員だけは激賞しなければならず、その特定の女性野党議員だけは「欺瞞的」ではない、という認定をしなければならない。判然としない気持ちを抱いても、「それはお前が日本語を解さない者であるか、欺瞞的な者であるからだ」、とだけ言われる。
大学院生だった23歳頃の私が見た井上教授は、そういうことは言っていなかった。井上教授は変わってしまった。もっとも時代も変わってしまったのかもしれない。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1567924535&s=books&sr=1-1
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私は、井上氏の専門が法哲学で、しかも碧海純一の弟子ということもあって比較的親しみを感じており、篠田さんのような違和感を抱くことはない。立場や政治的見解は180度違うし、井上氏ほど米国に悪感情を抱いてもいないが、その議論は馴染み深いもので、ロールズ流のリベラリズムの日本的形態なのだろう。
共産党の安全保障政策(そういうものが、仮にあるとして)、その防衛論議、憲法論議の欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)を終始一貫して最も激しく表明しているのは、他でもない井上氏だ。立憲民主党や、所謂原理主義的護憲派にも極めて批判的だ。
ただ、早稲田大時代の篠田さんの師である政治学者の藤原保信氏などと比べると、高圧的なところがあるのだろう。しかし、最近メディアで散見した限りでは、アルコールを聞し召して怒っりっぽくなった新橋界隈のサラリーマン男性のように、⇒「60歳代半ばで、もう怖くて誰も何も言えない存在だ。すっかり、いつも怒って説教をしている人、になってしまった」と揶揄するほどでもあるまい。
実態は気のいいおっちゃんなのではないか。
碧海は戦後、急死した尾高朝雄の後継者として東大の講座を継ぎ、時代を画する新たな問題意識と手法、即ち思弁的な哲学的論議を排する経験主義的なアプローチで、伝統的な法哲学の命題の中に「仮象問題」、所謂「虚偽的命題」(ἡ ψευδής προτατικός)が存在することを、明確に指摘した学者だ。
カール・ポパーの論理実証主義批判を受け入れ、初期の主張の一部を修正し、イデオロギー批判を強めつつ、理性の限界を自覚しながらも、あくまで理性の立場を強調する批判的合理主義の見地から、新左翼運動などにも批判的だった。論理実証主義的な価値情緒説と批判的合理主義の「折衷」というか、危ういバランスの上に生きた誠実な研究者で、井上氏はその衣鉢を継いでいる。
ところで、篠田さんも指摘通り、井上氏に独自の9条解釈は存在しない。憲法学通説と同じ古色蒼然とした立場で、その点で厳しく批判する原理主義的護憲主義者と何ら変わらない。
戦力(δύναμις πρὸς πόλεμον=war potential)と軍隊(στρατιά)の混同など、条文の必ずしも「明晰判明」(σαφής καὶ γνώριμος)とは言いかねる文言解釈を通じて、自衛隊は軍隊であるがゆえに当然「戦力」であり、9条二項が保持を禁じているから違憲であり、交戦権も否定されるべきとする。
通説から一歩も出ていない。本音は「絶対平和主義」などにはなく、むしろ自衛隊の現実的な存在の必要性を否定しておらず、それならば一見して明瞭な論理的矛盾を解消するには、9条を削除して戦力統制規範を明文で規定して、公明正大な軍隊として認知したらよい、という技術的な解決策を提案をしているにすぎない。実現可能性は二義的な問題という立場だ。
この点では徴兵制こそ、平和を担保すると説く三浦瑠璃氏と類似性がある。もともとは、カントの『永遠なる平和のために』(1795年)に遡る。
問題の淵源は「日本語の読解能力」云々(「文理の制約上、原理主義的護憲派の見解が正しいことは、日本語を解する者なら否定できない」=という『立憲主義という企て』の中の記述の含意)にあるのではなく、議論の前提(πρότασις)、出発点(ἀρχὴ)となる、定義(ὁρισμός)ではなく、定義の前提となる軍隊や戦力、武力に関する感覚(αἴσθησις)、井上氏の立場からする「共通認識」(κοιναὶ δόξαι)との違いにある。「日本語の理解力」の問題としてけっして譲れない、とする核心的部分はそこにある。
厳密な思考の練達者である哲学者とは言え、定義の前提に関する議論については特別な優越性などないことを井上氏は熟知しているから、相手を威嚇してでも、自らの感覚にかけているのだろう。
推論の真理とは論理的首尾一貫性、つまり形式的無矛盾性にあり、前提の真偽は知ったことではない。「日本語の読解力」という名の計量化されざる「感覚」に頼らざるを得ない所以で、共通認識をめぐる、どちらがより真理に近いかは、その共有者の多寡で決まるということが議論の根底にあるのだろう。その点で、井上氏は居丈高で高圧的どころか、抑制的だ。どっちの感覚が正しいかなんて、哲学者だって決められないからだ。
換言すれば「みんながそう思うなら、それでいい」というわけで、憲法学通説の圧倒的支配力もあろうが、それくらい、世間的な常識では戦力=軍隊だからだ。
井上氏が集団的自衛権を否定するのは、武力行使の「必要最小限」(ἀναγκαιοτάτη)にこだわるためだろうが、「必要最小限」云々については、自衛権同様、憲法上何らの規定もないから、この点では井上氏の論理主義は首尾一貫しない(ἐναντίος)憾みがある。
それは、国連憲章や各種条約など、国際法の視点が井上氏の議論には欠けているからで、篠田さんとの決定的な違いはそこにある。
いずれにしても、井上氏の関心は新著の帯の謳い文句「立憲主義とは、『法の支配を憲法に具現して、統治権力を統制する企て』である」などにはなく、通説による古風な9条解釈を前提とした首尾一貫性の貫徹であり、技術的なものだ。
繰り返すようだが、実現可能性に主たる関心はなく、条文の不具合を明確にすることで、あり得べき最良、次善(山尾案)、三善(石破茂案)と井上氏が信じる、自衛隊の存在も正当化する当座の「解」の提示なのだろう。
そこに国際法的視点はない。その点で、篠田さんとの接点がない以上、新著に言及がなく、完全に無視するのは論理的には一つの態度なのだろう。
「井上教授のような大教授が、私などを、『日本語を解しない者』以下で、ほとんど存在していない等しい塵だとみなし、視界の片隅にも入れない」(篠田さん)のは、以上の事情から、充分了解可能なことだとみられる。
「いつからこういう方になったのか」ではなく、最初からそうなのだろう。[完]
このように篠田教授は述べておられるが、私は、篠田教授の憲法九条の解釈論を読ませてもらったが、正直にいって、ややこしすぎるのではないか、というのが、私の率直な感想です。
この議論、私は井上教授の解釈論のほうに軍配を上げたい。
というのも、次のような考え方をしている人がいますが、私は全面的な賛同しますので。
ナザレンコ・アンドリー @nippon_ukuraina
https://twitter.com/nippon_ukuraina/status/1169354758689157120
憲法は専門家のみ語るべきという主張は、憲法の本来の意味に反する。法は全国民が従うべきものだから、ダブル解釈ができないような、誰からしても明解なものでなければならない。現憲法を読んでも主権は国民にあり、憲法学者にあるわけではない。憲法学者の解釈だけが正しいってのは国民主権に反する
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やはり、ナザレンコ・アンドリーさんが書いておられるように、憲法九条はだれが読んでも、自衛権、集団的自衛権、両方とも認められると解釈できるように憲法改正すべきだと思います。
GHQの草案では、日本国憲法9条はこうだった。
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
もともとの9条は、井上達夫教授を含めた普通の「日本語」の読解力のある人の解釈どおり、「連合国側」からの全面的な日本の軍備の禁止で、それは、「パリの不戦条約」、「国際連盟規約」を無視して、「侵略戦争」をした日本は、ドイツと同じように、信頼できない国だから、という理由で、米国GHQによって規定されたものである。それに対して、第90回国会でいろいろ審議され、「日本の立法府」として、戦争放棄は、日本が国際社会から「信頼されないという理由」で他から押しつけられたものではなくて、「平和を愛する」日本国民自らが、「人類の和協、並びに世界平和の念願から」求めたことを明らかにするために、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を1項に挿入したのである。
当時の立法府の人々の解釈を取ると、自衛隊という軍隊が、自衛のため、あるいは「侵略に対して制裁」を加える為であれば、「集団的自衛権」を使って、具体的には、日本がGsomiaを結んでいる米国軍やNato軍と協力して、武力を使って自衛しても、憲法違反にはならないし、自民党の憲法案のように、自衛隊を3項に加え、明記しても、論理的には、まったく矛盾しないのである。
昨日のNHKスペシャルの「拝謁記」を見ても、昭和天皇自ら、朝鮮戦争の勃発に鑑み、日本の国防を心配し、日本は憲法を改正し、再軍備をした方がいいのではないか、と考えられたようであるが、昭和天皇も戦前の軍閥の復活を望まれていない。前のコメント欄に書いたように、吉田茂首相が、西独のアデナウアー首相と違って、再軍備を拒否されたのは、戦前の「軍閥の復活」を危惧されたためである。この「日本新聞」に先導された「下剋上」の政治運動を昭和天皇も、吉田首相も、楠山義太郎さんもとめられなかったのである。私が、香港の「民主化運動」を危惧するのは、そのためである。
ただ、このような誤解が日本社会を覆っている以上、前項の目的を達するため、という文言の挿入だけで、芦田均さんの求められている解釈を普通の日本人がすることは、難しいので、vedantaさんの、憲法九条はだれが読んでも、個別的自衛権、集団的自衛権、両方とも認められると解釈できるように憲法改正すべきだと思います、という意見も一理あるような気もする。
井上氏自身が異端者(hérétique)扱いだから、帝国憲法の改正過程を含め、気の利いた中学生なら理解できるという意味では「明晰判明」ならぬ9条という敗戦の置き土産を、戦後70年以上改正もせずに放置し、再軍備でも日米同盟でも、国際情勢の変化に流されるままに、何事によらずご都合主義的に解釈して遣り過ごしてきた、左右を問わない戦後の日本の、というか日本人の脆弱性、思想的無脊椎のだらしなさについて、むかっ腹を立てているだけのことだろう。
憲法9条と日米同盟は国際法との関連、連動性という「補助線」を引かなければ理解不能な、日本的欺瞞の象徴であり、一見して平和を愛好しているようで、他人の不幸を飯の種にして戦後復興の跳躍台としたのが日本の戦後であり、われわれの手も充分汚れている。
貿易立国だから生存(ζωή)のために商売上は何でもありで、天安門事件後に国際的孤立を深めた中国に最初に塩を送ったのも日本で、自分たちの経済的繁栄の維持のため、飯の種である巨大市場=中国の魅力に抗しきれなかっただけの話だろう。日中友好はその美名(κάλλος)で、皆で寄ってたかって虚妄(φάντασμα)に生きてきた。
「絶対平和主義」という信条はその空念仏「空念仏」(ἐπῳδή)の最たるもので、論理的には何の意味もない、空っぽな(κενότης)命題だ。
羹に懲りてなますを吹くの譬えで、敗戦に懲りて一気に何かも放り出して、目下首都圏で猛威を奮っている台風15号同様、過ぎ去るのを頭を低くして(ταπεινόω)遣り過ごし、逆に世界に冠たる平和国家と胸を張る多数派の国民。
必然にして偽善的な日米同盟によって、「失敗と解っていなければならぬ戦争を起し…それを罪悪とし、臭い物には蓋をせよという考え方…皮肉な事に、この綺麗事も居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、その微温的性格を破られずに今日まで保たれて来た」(福田恆存『現代国家論』、1965年、新潮社版『福田恆存評論集』第6巻、279頁)のがこの国の戦後だ。
半世紀以上前のこの福田の言は、今なお生きている。
篠田さんが専心する(σπουδάζω)平和構築における日本人の貢献を妨げているのは9条ではなく、それを楯とした、平和愛好の名を借りた日本人の退嬰的性格に外ならない。福田や私、何より田中美知太郎が危ぶんだ戦後の日本の「真空状態」、思考における気圧変化は、深刻だ。
オルテガ・イ=ガセは、自己懐疑の有無が大衆([las] masas=πλῆθος)とエリートを隔てると考え、双方の違いは財産でも知的能力でも階級でもないことを見抜いていたが、大衆=愚鈍ということが成り立つとすれば、それは「愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしその盲目の世界の外を歩かせ、日頃の愚鈍なものの見方をより鋭敏な方と比べるよう力づくで促す手立てはない。莫迦は死なねば治らないのであって、救いの道はない」(『大衆の叛逆』)からだ。
井上氏の苛立ち(ὀργή)にも理由はある。
隣国が戦争をしたから、物資の供給基地として日本が潤った面はあるが、もし、北側の勢力が強ければ、日本も朝鮮戦争に巻き込まれたかもしれないのである。現在核兵器をもっている北朝鮮を考えた時、心配なのはその点なのであって、それさえなければ、韓国のスキャンダルはどうでもいい。また、朝鮮戦争の結果に、最貧国となった大韓民国の再興のために、資金援助をしたのは、日本である、ということははっきりさせたいのである。
けれども、この人の立論はその立場としては理解できるが、やはり本質をはぐらかしているように感じる。憲法改正の議論は議論として、その達成にはそれなりの年月がかかる。ところが、現実は、今後10年くらいのスパンで、「日本の集団的自衛権は必要なのか、それとも個別的自衛権だけでやるのか」という緊急性が問われているのだ。
次善の策は次善の策であり、最善策ではないということは理解が必要だと思うのは、そうしないと普通の国民にとって、やはりわかりづらいということだ。というのは、今時ネットの時代に、ドイツ憲法のドイツ軍指揮権は国防大臣や首相にあるという規定や、イタリア憲法に空海陸の軍隊の規定があるのに、なぜ日本にはそういった規定が無いのかと誰でも気づく。どうして日本では、こんな「欺瞞」が続いているかということを理解しながら、次善の策を洗練させていく必要があるのではないかと思われる。そうしないと(杞憂かもしれないが)国民の多くを説得できないかもしれないと思う。
ギリシア語、ラテン語という欧州知識人の嗜みである古典語ではない。フランス語やイタリア語、スペイン語でもない。「第二の祖国」(‘ἡ δεύτερος πατρίς’)とやらのドイツ語も高が知れているが、それらを論じる以前の、母語である日本語さえ、他者の、しかも批判の対象とする文章の粗笨な(προπέτεια)読みしかできない。
怠惰(ἀργία)ゆえに、肝腎なことはコピペでごまかして、不得要領な(σομφός)立論に終始する。13⇒【「自虐史観もいい加減」に】が聞いて呆れる。もっとも私は、頭の中身が古代のギリシア人だから、「自虐史観」の定義如何にかかわらず、知ったことではないが、普通の「自虐史観」の用例に私のような立論は入るまい。
それにしても、13⇒【韓国の政治は、日本のように、日本の文化「能楽」由来の「和をもって、貴しとする」ではない】とか、13②⇒【(韓国の)そういう国民性だから、朝鮮戦争をしたのであって】のでたらめさ加減は目眩(ἴλιγγος)がするようだ。
前者は夢幻の仮面劇である「能楽」ではなく、聖徳太子の十七条憲法ゆかりの日本的心性だろうし、後者は衆目の一致するところ、北朝鮮の金日成が武装統一を焦って仕掛けた武力侵攻がきっかけで始まったものだ。国際法違反の侵略行為だから国連軍が組織され、投入されたのだろう。韓国側に一義的な責任はない。「そういう国民性だから…」という批判は当たらない。
そもそも朝鮮王朝時代に仏教弾圧があったことすら知らない(つまり、朝鮮王朝建国のイデオロギーも知らないことを含意)「無知蒙昧」(ἄγνοια καὶ ἀπαιδευσία)が、何を戯けた御託を並べているのか。反論など百年早い、身の程知らずもいいところだ。
「Gくん」と「おままごと」(παιδιά)論議でもしていればよい。
要するに大衆というのは、現実の政治過程ではその他大勢の多数派にすぎない。エリートには分類できない、所詮は多数者(οἱ πολλοί=民衆[δῆμος])にすぎない。古代ギリシア語にも、世間一般の充分にものを知らない多数の人々という意味での群衆(πλῆθος)俗衆(ὄχλοι)という言葉が、「デモスの住人」という原義に基づく民衆(δῆμος)とともにあった。
大衆や群衆は元々は蔑称ではない。出自や財産、知的能力その他、階級区分で決まるものもはない。そして一般市民のほとんどは大衆であり、多数者の中では名もなき群衆であるしかない。
それが、大衆の大衆たる所以を露わにするのはその心的な性向にある。つまり、自分の無知蒙昧を棚に上げて何か一廉の人物と錯覚し、結局は痛い目に遭って思い知る、そうしたどこにでもいるような人物に安住して疑うことなく、諦めてしまって特段の努力もしない人物が、愚かな大衆に成りゆくのだろう。
民主主義や憲法9条などを無邪気に信仰している御仁に限って、大衆の刻印は否定し難いようだ。
清水幾太郎は、オルテガ・イ=ガセにならってそれを、「自分に何一つ要求を課することなく、現にある自己のままで生きる多数者」とし、「自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者」とする(『倫理学ノート』、1972年、327頁)
国の命運を左右する能力も資格もなく、ただ存在することだけで安住し、埋没しているから、大衆なのだろう。
軽蔑などせずとも、事実だから仕方がない。οἴμοι.
「曲学阿世」とは、何らかの学識(μάθημα)をもっていることを前提としているが、とてもそんなことは覚束ない憐れむべき「無学な婆さん」(ἀπαιδευτος γραῦς)であるカ氏が、言うに事欠いて、19⇒【憲法観は、私も、学生時代井上教授と同じように習ったのだから、日本の学校教育の結果、井上教授の憲法観がそうなっているのではないか】なのだそうだ。
知的な低劣さ(πονηρία)は、まさにわが身のことという認識がないらしい。それで、肝腎なことは何も知らずに、不勉強の楯(ἀσπίς)としてソクラテスの「無知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι[Apologia Sokratis, 21D])をもって回っている(περιφέρω)のだから滑稽である。放っておくしかない。何んとかは、死ぬまで治らないからだ。
井上達夫氏は、一人前の論理的思考に必要な「思考の働きとしての器量」(ἡ διανοητικὴ ἀρετή)を欠くカ氏ほど低能(ἀμαθία)ではなかろう。何の根拠も示さずに、愚にもつかない類比によって(τῷ ἀνάλογον)他を語るのはいい加減にしたらよいと思うが、昔から老婆は減らず口(μωρολογία)が止まないから、冒頭で書いた通り、放っておくしかない。
「自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者」(清水幾太郎『倫理学ノート』)とはよく言ったもので、カ氏が如何にも凡庸な(μέτριος)「平均人」(‘el hombre medio’)としての「大衆気質」かがよく分かる。
‘En rigor, la masa puedo definirse. como hecho psicológico, sin necesidad de esperar a que aparezcan los individuos en aglomaración. Delante de una sola persona podemos saber si es masa o no. Masa es todo aquel que no se valora a sí mismo ―en bien o en mal―por rasones espesiales, sino que se siente 《como todo el mundo》 y, sin embargo, no se angustia, se siente a sabor al sentirse idéntico a los demás.’(‘‘La leberión de las masas.’’, Obras Completas, 1983, Vol. 4, p. 146)
オルテガ・イ=ガセはさらに、「『選ばれた少数者』(‘minorías selectas’)について語られる場合、よくある悪意のために、普通この言葉の意味が歪曲されている」として、「つまり、選ばれた人間(‘el hombre selecto’)とは、他人よりも自分がすぐれていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながらも知らないふりをしている」とする。
いずれにしても、剽窃(τὸ μιμεῖσθια)さえ恐れぬ安直な「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)であるカ氏には無縁な話だ。
19②⇒【プライド重視で、「真実」の解明に重きをおかなかった政治の力、学校教育のなせる業】などと、隣国批判の法螺話をしている場合ではなかろう。
それはそれとして、どのような安全保障政策を採るにしても、先ほど説明したような戦力統制規範は、絶対に憲法に明確に書き込まなければならない。文民統制や国会事前承認、軍事司法制度といった最小限のものだけでなく、外国基地を設置する際の住民投票や、良心的兵役拒否権を含んだ完全に公平な徴兵制も、民主的な戦力統制原理として盛り込むべきだと私は提唱しています。
文民統制は、篠田先生も指摘されているように、芦田均さんのGHQとの交渉の結果、憲法66条で規定されているが、戦力統制規範は、戦前は「統帥権の干犯」という理屈で、戦前は事実上なかった為、1930年以降歴代首相が、軍部を抑えられなかったことから考えて、ぜひ必要だと思う。徴兵制は、日本の場合は、抑止力に全くならないから、いらない、と個人的には思う。
本来は、そういうことを、「国民から代表者として選ばれた人々が」、権威ある国民の注視の元、立法府で真剣に話し合うべきなのであって、憲法学者や哲学者が、民衆を「大衆」と見下して、自分たちの見解を押し付けるべきではない。それが、ほんとうの「立憲的民主主義」なのではないのだろうか。
私が『大衆の叛逆』(‘‘La leberión de las masas’’)の原文テキストを引用して説明している「大衆」なるものについて、一向に気が回らないようだ。
ソクラテス風に言えば、それは肝腎なこと(τὸ μείζον)について、「何も知らない(ἀγνοέω)、全くの無(μδηέν)の知(ἐπιστήμη, φρόνησις, εἰδέναι)というものではなく、かえって何でもないものを、何かであると思い(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)、大切なことを、何でもないと考える(οὐκ εἰδώς)、一種の思い違い(πλημμέλεια)であり、間違った(ψεῦδος)信念(πίστις, δόξα)の如き」(田中美知太郎『ソクラテス』170頁を参照=括弧内のギリシア語註記は筆者)ものということになる。
それにしても、22は冒頭の一文を除き大半が井上達夫氏のインタビュー記事のコピペのようだし、何のための投稿か気がしれないが、如何にも滑稽な独り相撲(σκιαμχία)である。
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(La Rochefoucauld, Maximes 93; Œuvres completes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 415)
芦田は帝国憲法改正審議中にGHQ民政局次長ケーディスと会談して、9条一項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を挿入し、二項に「前項の目的を達するために」を加えることで、自衛権確保の道を残そうと動いたが、ケーディスは芦田の意図を見透かし、自らの責任で了解したとされるだけの話だ(しかし、当初案削除後の条文に自衛権を明記したわけではない)。
ケーディスとの「交渉の結果、憲法66条で規定されている」のではなく、芦田の修正申し入れを、ケーディスとの面談に同席した同僚が局長のホイットニー准将に注進し、それが連合国極東委員会による憲法66条2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定の挿入要求につながっただけの話だろう。莫迦も休み休みいうものだ。
いずれにしても、芦田修正の過大視は禁物で、所詮は「盲腸」程度の、解釈の付属物(τὸ συμβεβηκός)にすぎない。
話を戻せば、オルテガの議論では、憲法学者に限らず、カ氏が掲げる「外交官やJICA、商社の人、など実際に外国と多く接触をもつ人」はそれぞれの分野の専門家(τεχνίτης)ではあっても、それだけで「大衆」であることを免れるわけではない。「大衆」云々の指標は職業ではない。
大衆とは、オルテガが散々注意を促しているように、社会階級(や知性の有無)を指すものではなく、人間の種類もしくは人間のあり方を指しているからだ。むしろ専門家、その代表としての科学者こそ「結果的には大衆人の典型」としているほどだ。
それにとんと気が回らないが故に、カ氏も大衆気質なのだ。οἴμοι.
「厳密に言えば(en rigor)、社会の各階級の中に真の大衆と真の少数者とがいる」(‘en rigor, dentro de cada clase social hay masa y minoría auténtica.’)ということになる。
だから、「もしも大衆を構成している個人個人が、自分には特別な才能があるのだと信じているとしても、それは個人的な錯覚の一例にすぎず、社会的な秩序紊乱とはならないだろう。現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。」(‘Si los individuos que integran la masa se creyesen especialmente dotados, tendríamos no más que en caso de error personal, pero no una subversión sociológica. Lo característico del moment es que el alma vulgar, sabiéndose vulgar, tiene el denuedo de afirmar el derecho ge la vulgaridad y lo impone, dondequiera.’=ibid., p. 146,桑名訳62頁)
「本当の立憲民主主義」とは何かという如何にも無邪気な(ἀφυής)議論は措いて、カ氏のような「甘ちゃん」も含め、「もとより、或る方面からすれば、彼らは正しく平等であろうし、また、他の方面からすれば、彼らを平等であるかのように取扱うのが礼儀というものであろう」(清水幾太郎『倫理学ノート』327頁)ということなのだろう。[完]
私は、ドイツ語学校時代に、京大に留学していた、という英、独、日本語ペラペラの男性のクラスメートと知り合った。そのころの「イランの」国家運営の理想は、日本をモデルとする欧米型であった。それが革命でひっくり返ったのである。韓国の左翼の民族派の「ムンジェイン政権」だって、わからないのではないのだろうか?そういう事実をよく踏まえて、日本の「安全保障」を考えるべきだ、と主張しているのである。
明日から、今度はスイスに行くので、しばらくお休みします。ヨーロッパの、ドイツ語の通じる「永世中立国のスイス」で、リフレッシュ出来たら、と思います。
憲法や安全保障に関して、凡庸(μεσότης)で陳腐(πρόχειρος)極まる見解しかもたず、しかも極端に怠惰な質に比して、何ごとか有意味なことを語れると錯覚しているから、他者には厳しく(ἀκριβής)、自らには極端に甘い(ἡδὺς)、歪んだイデオロギーまみれのデマゴーグの真似ができるのであろう。
それにしても、27⇒【どうして…トランプ大統領は、IAEAの査察を受け入れているイラン、との核合意を破棄し、核開発をし、IAEAの査察官を追い出した北朝鮮…を好意的に見るのか、とても訝しく…「ミサイルが届く」日本…から見ると、原則的に、逆であるべきだし、ヨーロッパの国々の考えも、同様】という愚問(λήρησις)に、今さらながら驚嘆する。
米国大使館人質事件以来の悪感情はあろうが、「革命政権」云々より、端的に国益(ἡ συμφερτός ἐγχώριος)なのだろうし、北朝鮮が開発しているミサイルなど武器の取引相手としてイランの存在は無視できないのだろう。
もはや実在する北朝鮮の核は日本の安全保障上、イランとの核合意破棄より遥かに重要だが、欧州は地政学的にも、中東の政治的均衡への影響でも、エネルギーの安定供給確保でも、北朝鮮問題よりもはるかに優先順位が高く、国益に絡むから、当然核合意を相談なしに破棄されては困るのだろう。
欧州各国とも、国際協調というお題目を語りながら、抜け目なく国益本位の外交を展開している。しかも、集団安全保障といったところで、NATOは所詮は米国頼みの寄せ集めだから、特にドイツのように商売本位で勝手なことを言っているだけだろう。
70年近く生きて、そうした事態のどこに、「訝しく」思うところがあろう。阿呆臭くて話にならない。
どうぞ無事のご帰国を。οἴμοι.
「厳密に言えば、社会の各階級の中に真の大衆と真の少数者とがいる」ということになる。
だから、「もしも大衆を構成している個人個人が、自分には特別な才能があるのだと信じているとしても、それは個人的な錯覚の一例にすぎず、社会的な秩序紊乱とはならないだろう。現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。」。ということであるが、その「凡俗であるか、優れた少数者か」を決める基準は、だれが決めるのだろう。
韓国のムン政権は、そのどちらなのか、ということである。チョ・グク氏の法相起用から見ても、独裁体制に近いのではないのだろうか?北朝鮮のシステムは、独裁政治であるということがはっきりしているが、この二つが結びついたら、どうなるのだろう?
オルテガ・イ=ガセを引用することと信奉する(πιστύω)こととが同じではないことさえ理解できないようだ。
その政治的資質や性向、極端な党派的体質、規範的命題を事実命題と取り違える自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)への無頓着(ἐλευθεριότης)極まる態度――どれ一つとっても、退屈(ἀναισθησία)この上ない人物であることを如実に示すと同時に、精神のある「型」をまざまざと見せつける。つまり、俗悪な(ἀπειροκαλος)「大衆」気質を。
そこには、退屈で陳腐かつ凡庸(μεσότης)で俗悪という以上に、無邪気な実感信仰の典型をみる思いだ。経験(ἐμπειρία)という事実(ὅτι)からは、ただちに有意味な規範的判断(ἐπιτάττουσαι ὑπόληψις)は生まれないことなど、考えたこともないのだろう。
オルテガの『大衆の叛逆』など読むはずもないし、読んだらその真っ当な「毒気」に卒倒しかねないお目出度さの塊(ὄγκος)のようなところがある。
ヒトラーの『わが闘争』のような、俗悪で狂躁に満ちた憤怒(ὀργή=「噛みつかんばかりの嘘八百と憤怒」[die bissige Verlogenheit und Wu]、「中身の空疎な陋劣極まる道徳的法螺太鼓の、度を越した耳障りな喚き」[das heisere Entrüstungs-Gebell der krankhaften Hunde]というニーチェの言葉を髣髴とさせる)の書ではないからだ。
幼児語でケルゼンを語りながら、その価値情緒説(the emotive theory of value)、つまり事実判断(Tatsacheurteil)と価値判断(Werturteil=Beurteilung)の区別さえ覚束ないのであろう。
スイスは美しいが、欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)の塊のような国だ。どちらも、言うだけ野暮(ἄγροικος)かもしれない。
・むかしは、農夫や漁師や大工にしろ、自分の手ごたえのある生活や仕事の範囲内の物事しか確信をもって喋らなかった。道徳を諭す宗教家なども例外ではなかった。それが賢者というものだった。
・ところが、メディアや出版が見かけだけは盛んになり、それらを読むことにより、誰でも天下国家や雑多なテーマを論じることが容易になった。
・そして、誰かのの借り物でしかない意見を、さも自分の意見のように述べることが流行になった。
・この連中は本物のインテリではなく、肥大した自我と獲得した知識に振り回されるだけの似非インテリである。
これらこそがオルテガの指摘の本質ではないか。大衆がどうのこうのということや大衆の定義などよりも本質的なことではないか。そういえば、小林秀雄なども似たような警句を書いている。
まだ、芸能人の話題や衣食住など生活雑事のことなら、それほど害が多くはないが、政治経済が対象となると、また別問題である。
そういえば、読売新聞や産経新聞は、朝日新聞などにくらべればずっと中道的または穏健と考えていたが、ゴーン氏逮捕のときに、まあ取材した範囲内だけの思い込みで愚劣なレッテル貼りとか知ったかぶりのコメントをしゃべるわ、しゃべるわ。
なんと日本のマスコミの記者というのはどうしようもない自己顕示欲のかたまりでしかないことか、と感じたものだった。それに対して、市井の本物の専門家は確信をもったことしか喋らない。ところが、大衆マスコミが騒音で賢者のささやきをかき消してしまうのだ。
だから、オルテガが考えたように、マスコミというのは全般的に信用ならない存在と基本的に思っている。
だが、篠田氏が高齢者の自動車運転をなんとかすべきと盛んにおっしゃっていたことなどは、また違う話であろう。あれなどは専門家としてではなく、国民のおひとりとして止むに止まれぬ感情の発露というものだろう。
オルテガの危惧はファシズムとマルキシズムの二大全体主義として実現してしまったが、これらもとんでもない似非インテリによる大衆扇動がすべてである。そして、日本の場合はマルキシズムの信奉者がいかに似非インテリであったかという認識が薄いと思われる。
議論はテキストの正確な読解が基本(‘Avez-vous un texte?’)で、それを離れた一般的な気楽な議論なら、オルテガ云々も余計な御託になる。私は一応ラテン語もフランス語も解するから、スペイン語の12巻本全集に基づいて引用しているが、それも余計なことになりかねない。
旧会社員氏が考えるほど、問題の構造は単純ではなかろう。
オルテガは、8巻本の邦訳著作集(白水社刊)はあるものの、この国では真剣な議論の対象としてまともに検討された節はない。民主主義的価値観を能天気に奉じる向きやリベラル派の知識人にとって、一々癇に障る思想家だからだろう。唾棄すべき反動的な保守知識人の典型として、ある意味無視され続けてきた。
戦後の日本社会も、オルテガが1930年代のヨーロッパや祖国スペインにみた精神性の危機を象徴する、典型的な大衆化社会だからだ。
そして、この現代の病(νόσος)を最も象徴するのが大衆の典型としての「似而非知識人」、各分野の「専門家」たちだからだ。
ラッシュも外形的な観点、分類からは大衆とエリートに分かれるとしても、双方に共通する、出自や経済力、知的能力の違いには関係ない精神性の顕著な「型」としての大衆性を論じ、エリートがかつての大衆に退行する精神的頽廃を浮き彫りにした。そしてそれを、いち早く抉剔してみせたのが、オルテガということだ。
大衆論は同時にエリート論であり、現代文明論に行き着く。
さらに、オルテガはメディアの負の側面を指摘したが、彼自身は元々裕福な小説家・ジャーナリスト兼新聞社主の息子として、「私は輪転機の上で生まれ」と述懐しており、左右の政治的急進主義に飽き足らず、スペイン市民戦争に参加したことで亡命を余儀なくされた側だ。
その文筆活動はジャーナリストの側面があり、33⇒【マスコミというのは全般的に信用ならない存在と基本的に思って】いたわけではない。むしろ、「新聞や雑誌の記事を精神の欠くべからざる形式」(桑名一博)としていたほどだ。
ドイツ哲学の研究者として27歳でマドリッド大学の哲学正教授になるほどの学識のもち主だが、才筆はメディア人のものだ。
彼の全集の出版元(Revista de Occidente=西欧評論)もそれを示す。
「今まで見てきたのは、極めて逆説的ではあるが、実際には当然極まりない何かが起きたこと、つまり世界と生が凡庸な人間に自らをすっかり解放したために、凡庸人はかえって魂を閉ざしてしまったということである。そこで私は、こうした平均人の魂の閉鎖性の上に大衆の叛逆が成立しており、それと同時に、この大衆の叛逆の上に、今日人類に提起されている重要問題が成立しているのだと主張したい。」(‘Queamos en que ha acontecido algo sombremanera paradójico, pero que en verdad era naturalísimo: de puro mostrarse abiertos mundo y vida al hombre mediocre, se le ha cerrado a éste el alma. Pues bien: yo sostengo que en esa obliteración de las almas medias consiste la ribeldía de las masas en que, a su vez, consiste el gigantesco problema planteado hoy a la humanidad.’=José Ortega Y Gasset; Obras Completas, Vol. 4, p. 186,桑名訳117頁)
さらに続けて、
「私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようには考えないのを充分に承知している」としたうえで、「それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実が常に残るからである。そのような人たちが、どうして私たち同じように考えるだろうか」とも。
そのように、ものごとを「考える」(διανοεῖσθαι)ということの意味を読者に突きつける。
それは、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』(‘‘Tractatus Logico-Philosophicus’’, 1921)の「序文」で、「本書はおそらく、ここに表明されている思考を――ないしそれに相似した思考――をすでに自ら一度は考えたことのある人だけに理解されるだろう。それゆえに本書は教科書ではない。理解してくれた一人の読者を喜ばし得たならば、目的は果たされたことになろう」(‘Dieses Buch wird vielleicht nur der verstehen, der die Gedanken, die darin ausgedrückt sind―oder doch ähnliche Gedanken―schon selbst einmal gedacht hat.―Es ist also kein Lehrbuch.―Sein Zweck wäre erreicht, wenn es Einem, der es mit Verständnis liest, Vergnügen bereitete.’=edition of Routledge & Kegan Paul., 1971, p. 2)としているのを思い起こさせる。
だから、オルテガは「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見をもつ権利があると信じていることからして、私が『叛逆的大衆』と呼んだところの、人間としての莫迦げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく、閉鎖的、密室的な魂をもつということである。この場合は知的閉鎖性と言えるだろう」(‘Pero al creerse con derecho a tener una opinión sobre el asunto sin previo esfuerzo para forjársela, manifiestan su ejemplar permanencia al modo absurdo de ser hombre, que he llamado 《masa rebelde》. Eso es precisamente tener obliterada, hermética, el alma. En este caso se trataría de hermetismo intelectual.’=ibid., Vol. 4, p. 186, 桑名訳117頁)とにべもない。
もはや、余計な註釈は不必要だろう。
この法制局の理論武装が、そもそも間違いだと思います。自衛権は国際法上の概念であって、保持及び行使には別に国内法上の根拠は要らない。国際法上の自衛権をいかに行使するかの限界や制約について憲法で規律することはあり得ても、国内法上の根拠がなければ自衛権を行使できないというものでもないはずです。
国家は、憲法や人権に基づいて構成されるものではなく、もっと根源的な「あんな奴ら(外国人や異民族)とは一緒に暮らせない」という人間の素朴な感情が造るものです。かくのごとく、国家が自然発生的なものであるように、国家にとっての自衛権は、条約によって創造されたものではなく、自然権的に発生したものです。であるから、どのような国も認められる。およそ人民の幸福に全く資していない北朝鮮のような国ですら、自衛権は否定されない。国内法で定められていないから自衛権は持てない、持つなら憲法上の根拠が必要だとする内閣法制局及びこれを援用する憲法学者の主張は、自衛権に対する無知の産物だと言えるでしょう。
ところで、他者(ὁ ἄλλος)と同じ「平均人」(‘el hombre medio’)であることに安住する「大衆」(las masas)の表徴(σημεῖον)とは、他者に闇雲に迎合する(κολακεύω)人物を含め、自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)に囚われ、徹底した自己懐疑(αὐτὸς ὕποπτος)を欠いている(ἀπορέω)点でまさに「大衆」であるということがオルテガ・イ=ガセの基本的な考えだ。
つまり、いったんは一般的な見解(τὰ ἔνδοξα)、社会的な通念(ἐπιλογισμός)や共通認識(κοιναὶ δόξαι)を離れて、「一切の前提」(πᾶν πρότασις)を疑う(ὑποπτεύω)、即ちあらゆる先入見(ὑπόληψις)や世間的価値観、特定の信仰・信念(πίστις, δόξα)や「集団的思考」=自前の思考(αὐτός διανοιά=独立した思考)、自分が自らの主人(δεσπότης)であることを放棄した奴隷(δοῦλος)の思考から自由になって、真にもの考えることなき精神的な怠惰(ἀργία)こそが、まさに大衆が大衆たる所以となる。
所謂「似而非知識人」はもとより、世間的な判断では大衆とは分類されない知的な少数者、社会のあらゆる階層のエリートたちも、国際派であろうがなかろうと、「自己懐疑」を欠き、無頓着であるというその点で、大衆たることを免れない。無学な名もなき(ἀνώνυμος)市井の民よりかえって「大衆的」であることなる。
そこに真の人間的自由(τἀνθρώπινον ἐλευθερία)も尊厳(σεμνόν)もありはしない。「自己懐疑」とは盲目的な(τυφλός)「定見なき懐疑」(ἡ ἀστάθμητος ὕπόνοια)などではなく、むしろ事柄自体(πρᾶγμα αὐτό)が示すあらゆる難題(ἀπορία)をたじろがずに受け止める覚悟(γνώμη)のことであり、そうしたこと全般について、自覚的であることだ。
‘Nos encontramos, pues, con la misma diferencia que eternamente existe entre el tonto y el perspicaz. Este se sorprende a sí mismo siempre a dos dedos ser tonto; por ello hace un esfuerzo para escapar a la inminente tontería, y en ese esfuerzo consiste la inteligencia. El tonto, en cambio, no se sospecha a sí mismo: se parece discretísimo, y de ahí la envidiable tranquilidad con que el necio se asienta e instala en su propia torpeza. Como esos insectos que no hay manera de extraer fuera del orficio en que habitan, no hay modo de desalojar al tonto de su tontería, llevarle de paseo un rato más allá de su ceguera y obligarle a que contraste su torpe visión habitual con ortos modos de ver más sutiles. El tonto es vitalicio y sin poros.’=ibid., Vol. 4, p. 187, 桑名訳118~119頁)
市井の善良な民も、結局はそれぞれの欲得(ἐπιθυμία)と関心(ἐπιμέλεια)で生きている。その意味で、傲慢(χαυνότης)なようだが、「何も疑わずにものを見て」(ὕποπτος)、「食うためだけ」に働くのは奴隷なのだ。
カ氏のような知的田舎者(ἄγροικος)より、はるかにましだとしても。
オルテガ・イ=ガセ『大衆の叛逆』からの引用のうち、41の7行目⇒「力づくで日頃の愚鈍なものの見方と比較するように強制する方法はないのだ」に脱落箇所があった。【をより鋭敏なものの見方】を補って、「力づくで日頃の愚鈍なものの見方をより鋭敏なものの見方と比較するように強制する方法はないのだ」とする。併載したスペイン語原文に脱落はない。
ついでに、末尾の文章は、補筆し【市井の善良な民も、結局はそれぞれの欲得(ἐπιθυμία, κέρδος, ὠφέλεια)と関心(ἐπιμέλεια)で生きている。その意味で、傲慢(χαυνότης)なようだが、「何も疑わずにものを見て」(ἀνύποπτος)、「食うためだけ」に働くのは奴隷なのだ。カ氏のような驕慢な知的田舎者(ἄγροικος)より、はるかにましだとしても。】とする。
自己懐疑(αὐτὸς ὕποπτος)こそ真理探究(φιλαληθής)の前提条件(ἡνούμνον)である覚醒を生む。そうした煉獄(purgatorium)の痛苦(λύπη)を自ら進んで(ἑκούσιον)引き受けるか否かが、オルテガのいう意味での「大衆」(las masas)と「優れた少数者」(minorías excelentes)を分かつ分水嶺になる。
言うまでもないが、それは民衆の蔑視などではない。少なくとも国家公共の事柄(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)を論じる気概(θυμός)と矜持(μεγαλοψυχία)があるなら、ということである。
大衆は自らの分を知る(σύνετέω)べきで、「分を弁えぬ」(πλέον ἔχειν)身の程知らず(πλεονεκτεῖν)が過誤を生む。
そうした言い方が抵抗があるなら、正確な自己認識(ἀναγνώρισις=αὐτὸ αὑτὸ νοεῖν)をもつべきなのだろう。
これは、人権規定の内在的制約として憲法13条が援用されるのと似ており、仮に憲法13条が無い場合に、内在的制約に基づく人権制約が違憲になることを意味しないのと同様です。
また、「国家にとっての自衛権は、条約によって創造されたものではなく、自然権的に発生したものです。」(コメント39)とありますが、これは伝統的な(個別的)自衛権については妥当しますが集団的自衛権については妥当しないのではないかと思います。個別的自衛権は伝統的に国家の固有の権利とされてきましたが(国際慣習法上の固有の権利を国連憲章51条で確認的に規定したもの)、集団的自衛権については、「国連憲章51条は「集団的自衛の固有の権利」と規定するが、実は憲章が創り出した権利である。」(大沼保昭・国際法352頁)という認識が国際法的に一般的であり、挿入された経緯・沿革からも国連憲章で新たに創設された権利です。
(以下、引用)
「わが憲法の基本原理として国民主権・人権尊重および国際協調の三原則が挙げられる。このうち、侵略に対して抵抗しないことが国際協調の原理に適するとはいえない。国民主権の国家ならば、国民は憲法を尊重擁護する義務とともに、憲法の前提とする国家の存立・防衛について責任がないとはいえない。殊に国家が国民の生命・身体および財産の安全を保障するために必要な制度であるとすれば、それは急迫不正の侵略に対し自己を防衛する権利がなければならない。憲法13条は、立法その他の国政のうえで国民の基本権を最大限度に尊重すべきものと定めるが、それは原則として国民の自由を侵してはならないとする消極的な不作為請求権の宣言のほか、国民の生命・自由・財産に加えられる国内的および国際的な侵害を排除するため積極的に国権の発動を要請する、公共の福祉の原理を含むものである。ここに、国内の公共の安全と秩序を維持する警察権とともに、国外からの侵略に対する国の自衛権の憲法上の根拠がある。憲法第9条の戦争の放棄はこのような前提の下で理解すべきである」
違います。この点は、大沼保昭の完全な無知か勘違いです。集団的自衛権は、国連憲章にその文言が記述されるはるか以前に誕生しています。実例を挙げましょう。まず、日露戦争前夜(1902年)に我が国と英国が締結した第一回日英同盟協約です。
第3条
上記の場合において若し他の一国又は数国が該同盟国に対して交戦に加わるときは、締約国は来たりて援助を与え協同戦闘に当るべし。講和も又該同盟国と相互合意の上に於いて之を為すべし。
この条文に記された内容は、集団的自衛権そのものです。
次に、第二次世界大戦前夜の1939年に、英国とポーランド間で結ばれた相互援助条約があります。
第1条
Should one of the Contracting Parties become engaged in hostilities with a European Power in consequence of aggression by the latter against that Contracting Party, the other Contracting Party will at once give the Contracting Party engaged in hostilities all the support and assistance in its power.
このように、締約国の片方が敵対行為に突入した場合は、即座の参戦義務を定めています。これも、集団的自衛権そのものです。
これらの実例に鑑みると、集団的自衛権は国連憲章において創造的に誕生したのではなく、それまで自然発生的に行使されて来たものであって、国連憲章はその史実を確認し、命名したものに過ぎません。
「他国防衛を自衛権に含めるという発想は国際法においてはまったく新奇な試みに属することである。」(波多野里望・小川芳彦編・有斐閣大学双書・国際法講義(新版増補)筒井若水・執筆部分431頁以下)
なお、主権国家間の同盟にしても、伝統的な(個別的)自衛権よりも後発的なんだろうとは思います。
>「他国防衛を自衛権に含めるという発想は国際法においてはまったく新奇な試みに属することである。」
上記の記述は、史実に対する無知の露呈に他なりません。多分、波多野や小川は日英同盟協約を一度も読んだことがないのでしょう。
「両締約国は相互に清帝国及び韓帝国の独立を承認したるを以って該二国孰(いず)れに於いても全然侵略的趨向に制せらるることなきを声明す。然れども両締約国の特別なる利益に鑑み即ち其の利益たる大不列顛に取りては主として清国に関し、 また日本国に於いては其の清国に於いて有する利益に加うるに、韓国に於いて政治上並びに商業上及び工業上格段の利益を有するを以って、両締約国は若し右等利益にして別国の侵略的行動に因り、若しくは清国又は韓国に於いて両締約国孰れか其の臣民の生命及び財産を保護する為干渉を要すべき発生に因りて侵迫せられたる場合には、両締約国孰れも該利益を擁護する為必要欠くべからざる措置を執り得べきことを承認す。」
と定められており、実力行使の発動条件を「別国の侵略的行動」に求めておりますので、同盟に基づく実力行動が、侵略に対する自衛権行使であることをうたっております。つまり、日英同盟協約においては「他国防衛を自衛権に含め」ているのです。つまり、これは集団的自衛権そのものなのです。
「ただし、集団的自衛権という言葉は使われておらずとも、その先駆というべきものは、戦間期にすでに見出すことができる。森肇志「集団的自衛権の誕生―秩序と無秩序の間に」『国際法外交雑誌』102巻1号,2003.5,pp.85-97.」とあるのが参考になります。
https://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200901_696/069604.pdf
上記の記述等からすると、先駆となるべきものとして、戦間期の様々な条約等の国際約束に基づく軍事同盟を挙げることができます。これらの条約上の協同戦闘や参戦義務の定めは、宇宙戦士バルディオスさんがコメントで言及された「条約によって創造されたものではなく、自然権的に発生したもの」ではありません。条約等の国際約束によって国家間の権利義務が形成されたものといえるのではないかと思います。
自衛権の濫觴が、条約ではなく外交公簡だったことは有名な話です。集団的自衛権は、確認できる最初の例が戦間期ではなく、日露戦争前夜です。
「条約等の国際約束によって国家間の権利義務が形成されたもの」が集団的自衛権であるならば、それが当事者が新概念の創造だと認識したというのでなければ、私はそれを、自然権的誕生であると考えます。
素人目には、目下の段階では、ほぼ引き分け(ἀμφιδριτος)のようだ。戦後初期にあった、佐々木惣一と哲学者の和辻哲郎との「國體」論争は折り目正しい稀なケースで、無学な主婦相手に、その甚だしい無知蒙昧に加え、意固地なまでの「分からず屋ぶり」(μανικός)に往生している(ἀπορέω)私には羨ましい限りだ。
日本人は、論争はもとより対話(διάλογος)が不得手だ。だからソクラテス的な問答も成立せず、今日の法廷弁論の、それこそ濫觴(ἀρχὴ)である修辞術=弁論術(ῥητορική)はもとより、ソフィストがより発展させた争論術(ἐριστική=問答競技)も、それを進化させたプラトンの分割法(διαίρεσις)も、アリストテレスの完成された推論技術の集成である論理学(三段論法=συλλογισμός)も発達しなかった。
日本人の思想的脆弱性(μαλακία)の淵源、即ち濫觴はそこにあり、似たり寄ったりの見解のもち主が当たり障りのない、同工異曲の感想を述べ合うのを対話とか建設的な議論と称して論争を忌避するのは、「もたれあい」である集団的思考の蔓延につながる。
日本人は、何ごとにもざっくばらんな古代のギリシャ人の精神年齢にも達していない。
「和をもって貴し」とは、「和而不同」、つまり「君子和而不同、小人同而不和」(『論語』子路第十三)の前半部分を誤解している。自説を不本意に(ἀκούσιον)枉げて他者に追従または迎合する(κολακεύω)ことは対話とは呼ばない。
「五箇条の御誓文」ではないが、徹底的に論旨をぶつけあい闘わせることが、「万機公論に決すべし」の精神だろう。
戦争が違法化される以前の「同盟の自由」の時代に特定の締結国間のみに適用された軍事同盟をもって集団的自衛権の「自然権的誕生」と評価するのは論理飛躍があるように思います。戦争が違法化される以前の時代における国家の「自衛権」なるものは単に戦争を開始するための政治的方便にすぎませんでした。集団的自衛権は、国連憲章51条によって広く一般国際法上の権利として創設されたものではないかと思います。
集団的自衛権が「自然権的」な権利だとすると、「永世中立国」のスイスは「自然権的」な権利を放棄していることになってしまいますが、スイスが「自然権的」な権利を放棄している国といった議論は寡聞にして知りません。「自然権的」な権利である個別的自衛権を放棄する国が実在しないのとは異なり(非武装中立国といわれているコスタリカも常備軍の設置していないだけで非常事態には軍隊を組織することが想定されており、個別的自衛権を放棄しているわけではありません。)、集団的自衛権は、安全保障政策の判断如何によっては放棄することもあり得る権利です。国際司法裁判所の「ニカラグア事件」判決(1986年6月27日)では、集団的自衛権の発動要件として、被攻撃国の攻撃を受けた旨の宣言及び同国からの援助要請が必要とされ、国際法学上は他国防衛説にたったものと評価されておりますが、集団的自衛権が「自然権的」な権利ではないからこそ、被攻撃国の同意を要件としていると考えられます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/185/0274/18511010274005a.html
また、議論の参考のため、篠田教授を批判していた水島朝穂早稲田大学教授のブログ記事からではありますが下記に引用します。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2015/0713.html
「著名な国際法学者であるハンス・ケルゼンは、「武力攻撃を受けている国を助けるための武力攻撃を受けていない国の権利あるいは義務を「固有の」権利、すなわち自然法によって確立された権利であると考えることは、ほとんど無理」と言っています。
「さらにケルゼンは次のようにいいます。「「固有の」権利(フランス語では「自然権」)という文言をみれば、国連憲章51条は単に宣言的な規定であり、創設的な規定ではないように思われる。同条の文言によれば、同条は、自衛権を自然法によって国連憲章とは独立して創設されたものとしてのみ認めている。同条は自然法理論を前提としているということである。しかし、同条は、国連加盟国がこの自然法理論を認めなければならない義務を規定していないし、規定することはできない。自然法理論を認めない加盟国にとって、同条は、その文言にもかかわらず、創設的な性質を有することになる。自衛権を創設しているのは同条なのである。・・・国家は、51条の「固有」あるいは「自然権」という文言を参照することで、51条の規定とは反対に、安保理が51条で決められた手段を講じた後でも自衛権を行使し続けることができることになってしまう。51条の文言に従って同条を解釈することは、51条の自己破壊になる。」としています(H.Kelsen,The law of the United Nations,London Stevens,1951,p.913-914)。」
これは学説の展開について現況を説明したものであり、史実を説明しているのではない。
ケルゼンの主張にも、大きな疑問を覚える。もし、国連憲章第51条が集団的自衛権の創設規定であるならば、国連憲章に署名していない国、すなわち国連憲章非当事国たる国連非加盟国は集団的自衛権を享受できないことになる。そうなると、非加盟国は個別的自衛権のみ行使し得るという事になるが、その場合非加盟国は侵略を受けた場合に集団的自衛権を行使する事ができなくなり、仮に第三国の来援が得られるとしても共同作戦等に大きな支障が発生する。そうなると、当該国の生存権を国連憲章が否定する結果を招くであろう。もちろん、国連憲章が慣習国際法たる地位を得ているのであれば、話は別であるが。
しかし、日英同盟等の軍事同盟が国連憲章発効前に存在していたことは単に特定の軍事同盟が歴史的に存在していたことを述べたものにすぎず、国連憲章51条に規定されている集団的自衛権の「自衛権」としての法的性質が「自然権的」な権利であることの説明にはなりません。この問題は国連憲章51条に規定されている集団的自衛権という国際法上の権利の沿革や法的性質に関する議論なので、単なる史実ではなく国際法に基づいた評価・分析をした上で議論をする必要があります。国際法学者が国連憲章発効前に存在していた軍事同盟を知らないはずはないので、国際法学者の一般的見解は国連憲章発効前に存在していた軍事同盟を当然の前提にした上で、集団的自衛権が国連憲章によって創設された権利としているのです。
そもそも自然人が有する自然権を法人たる国家が持つことはありえませんが、自然人が有する自然権概念から類推して国家の「自然権的」な権利という概念を想定したとしても、それは政策判断によっても放棄できない性質の権利(例えば、個別的自衛権)である必要があり、政策判断によっては放棄することも想定される性質の権利(例えば、永世中立国が放棄をする集団的自衛権)は含まないのではないかと思います。
宇宙戦士バルディオスさんは「非加盟国は侵略を受けた場合に集団的自衛権を行使する事ができなくなり、仮に第三国の来援が得られるとしても共同作戦等に大きな支障が発生する。」と心配されています。
しかし、集団的自衛権は、国連憲章に現れるまでは国際慣習法上の権利としては論じられたことがありませんでしたが、一般国際法としての性質を有する国連憲章で集団的自衛権が規定されている今日においては、集団的自衛権は国連憲章51条とは別に国際慣習法上の権利としても独自に存在すると理解されているので(国際司法裁判所のニカラグア事件判決参照)、国連非加盟国にも不都合はありません。
>日英同盟等の軍事同盟が国連憲章発効前に存在していたことは単に特定の軍事同盟が歴史的に存在していたことを述べたものにすぎず、国連憲章51条に規定されている集団的自衛権の「自衛権」としての法的性質が「自然権的」な権利であることの説明にはなりません。
日英同盟協約は、既に条文を挙げたように、他国の侵略行為という要件の発生時において、日英が共同で自衛権を行使する旨を定めたのであり、その精神は後の集団的自衛権と異なるものではなく、単に従来の軍事同盟と同じだとは言えないでしょう。
そうすると、国際慣習法上の権利だからといってその全てが「自然権的」な権利になるものではありません。集団的自衛権は今日では国際慣習法上の権利として確立していますが、政策判断によっては放棄が想定される権利(実例はスイス等の永世中立国)なので「自然権的」な権利ではありません。これとは逆に、個別的自衛権のような「自然権的」な権利については、国際慣習法の要件からすると通常は要件を満たし国際慣習法上の権利でもあるように思います。
また、日英同盟協約は特定の締結国だけに適用される「特別国際法」たる性質を有する「国際約束」ですが、その中に「集団的自衛権」に類似する規定が存在するからといって直ちに「一般的慣行」が成立するわけではありません。多数の国が加入する「一般国際法」としての性質を有する国連憲章で集団的自衛権が規定され、しかも、それに基づく一般的な国家実行によって「一般的慣行」となります。また、「集団的自衛権」が国連憲章51条に規定されたことによって、国連憲章2条4項によって戦争を含む武力行使が一般的に禁止されたことに対する違法性阻却事由としての法的性質を有する「集団的自衛権」についての「法的信念」が生じたのです。武力行使が一般的に禁止される以前の日英同盟協約においては上記のような「法的信念」は生じていません。
以上のとおり、戦争を含む武力行使が一般的に禁止される以前の時期には、ニカラグア事件の際には遅くとも存在しているとされる国際慣習法上の集団的自衛権はありませんでした。
国連憲章51条によって、被攻撃国以外の国の「権利」としての性質を有する「集団的自衛権」という法的概念が誕生したのです。なお、権利であっても、「安全保障条約」等の国際約束によって、予め、集団的自衛権の行使を義務づけることは可能です。
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