井上達夫・東大教授の憲法に関するインタビュー記事を読んだ。https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019083000002.html 複雑な心境を抱いた。

私がまだ修士課程の大学院生だった頃、井上教授に、早稲田で開かれた研究会に来ていただいたことがある。私が23歳頃の1992年頃だ。非常に力強くも落ちづいた報告と受け答えに、感銘を受けた。井上教授は、30歳代前半でサントリー学芸賞を受賞され、名声を確立されていた。自信に裏付けられた静かな凄みに、新進気鋭の若手学者とは、こういう方のことか、と胸に残った。

 その時から比べると、井上教授は、変わってしまった。60歳代半ばで、もう怖くて誰も何も言えない存在だ。すっかり、いつも怒って説教をしている人、になってしまった。

 井上教授は、「修正的護憲派」・「原理的護憲派」と呼ぶ人々を批判し続ける。だがその批判の根拠は、何やら特殊な倫理的な姿勢を問うものだ。「欺瞞的」、といった言葉を、繰り返し繰り返し、他者の糾弾のために使う。

 木村草太・首都大学東京教授への糾弾の例をとろう。「私の授業を聴いていた元学生」の「木村君」が、「お話にならない暴説」を述べている、と井上教授は激怒する(『脱属国論』62-63頁)。木村教授が、集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、と主張する際の根拠に、憲法13条「幸福追求権」を使った、という理由で、井上教授は激怒するのである。憲法9条で戦争は否定されるが、国民の幸福は守らなければならないので、個別的な自衛権の行使だけは13条で認められる、という議論をするのは、人権を理由に9条を骨抜きにする、許してはいけない態度だ、と井上教授は主張する。

 しかし井上教授の木村批判は、いささか的外れである。13条の参照を思いついたのは、木村教授ではない。そもそも集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、という政府見解を初めて文書で出した1972年に内閣法制局が、正式な論拠として採用したのが、13条根拠説だった。木村教授は、72年の政府見解のままでいい、という話をしているに過ぎない。

 仮に井上教授が、72年政府見解に依拠すること自体が、憲法学者として欺瞞的な態度だ、と言いたいのだとしたら、72年以前に著作活動で13条を参照した者たちにふれるべきだ。佐藤達夫は1953年・1960年の著作で、13条を参照して自衛隊の創設を正当化していた。もっとも佐藤は、個別的自衛権は良いが集団的自衛権はダメだ、などとは言わなかった。自衛権一般を13条で正当化した(拙著『集団的自衛権の思想史』25178頁参照)。

 井上教授は、13条を援用したら「安倍政権の集団的自衛権行使だって容認されてしまう」という理由で、木村教授を否定する。安保法制懇のメンバーや、私を含めて多くの国際政治学者なら、「だから最初から集団的自衛権の合憲だと言っているのに・・・」と思う。しかし井上教授は、われわれのような者については、存在すら認めない。井上教授の頭の中では集団的自衛権は絶対に違憲だということは論証の必要もない宇宙の運動法則のようなものとして決まってしまっているので、集団的自衛権合憲論者は、ふれるに値しない地球外生物の扱いである。したがって井上教授は堂々と、「それでは集団的自衛権まで合憲になってしまうではないか!」という理由で、木村教授を否定する。

 ここまで徹底した他者「欺瞞性」糾弾の根拠は何か。井上教授の憲法9条解釈である。井上教授によれば、9条は全ての自衛権の行使を否定している絶対平和主義であり、それ以外の解釈の余地は全く一切ないと主張する。なぜそこまで強く言えるのか?

 驚くべきことに、井上教授は、憲法9条解釈論を示したことがない。憲法を論じている者については相当に論じているが、実は井上教授はまだ、自らの憲法解釈の正しさを説明したことがない。

せいぜい、「文理の制約上、原理主義的護憲派の見解が正しいことは、日本語を解する者なら否定できない」と手短に断定し、宣言するだけなのである(井上達夫『立憲主義という企て』226頁)。

 井上教授とは違うふうに憲法9条を解釈する者は、「日本語を解しない者」である。そのような烙印を押された者は、議論から排除される。この仕組みがある限り、当然、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しい。

つまり、井上教授の議論の絶対的な正しさは、「日本語を解する者であるかどうか」という基準にかかっているのだが、この「日本語を解する」能力の認定権限の全ては井上教授のみに委ねられている。しかも井上教授は「日本語を解する者であるかどうか」という審査基準の内容を説明することはしない。説明不要の審査基準が、井上教授の専管的裁量事項として、運用される。だから、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しいのである。

 井上教授によれば、憲法9条が絶対平和主義の条項であることは、一切の論証の必要のない「日本語を解するかどうか」の問題である。およそ「日本語を解する者」であれば、憲法9条を絶対平和主義として読むしかない。もしそのような解釈をしない者がいたら、それはその者が「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかである。

 しかし、「日本語を解する者」であるかどうかという審査基準を、一切説明を施すこともなく振り回すだけで、本当に学者の議論を終わりにしてしまっていいのか。それで、憲法学者や法哲学者が社会に存在していいのか、不安になったりしないのだろうか。

 たとえば普通の人は、読売巨人軍の「戦力」は充実している、などといった会話をする。テレビの解説者なども頻繁に「戦力が充実していますねえ」などと言う。とすると、普通の人の感覚にしたがうなら、プロ野球選手は違憲だ、と言わなければ、「欺瞞的」である。

 井上教授は、「日本語を解する者」は当然、プロ野球選手は違憲ではない、と主張するかもしれない。つまり「日本語を解する者」なら当然、「戦力」という言葉を使っていても、それは憲法の「戦力」ではない、と井上教授は言うのかもしれない。

 しかしそれでは日本国民のほとんどが自衛隊を合憲だと感じているというアンケート調査はどうか。現代日本において、大多数の国民は、自衛隊を合憲だと考えている。大多数の国民の言語感覚では、自衛隊は憲法が禁じている「戦力」ではないのである。

 ところが井上教授は、自衛隊を「戦力ではないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない」と一方的に断定する。
 結局のところ、井上教授によれば、大多数の国民は、「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかでしかないわけである。(ちなみに井上教授は、「日本人のマジョリティが『不感症』になっている」[井上達夫『立憲主義という企て』299頁]と述べるが、要するに日本人の大多数は「不感症」で「自己欺瞞的」であるようである。)

 井上教授は、自衛隊の合憲性を認める「修正主義的護憲派」も「欺瞞的」だが、自衛隊の存在を認めない「原理主義的護憲派」の「欺瞞は修正主義的護憲派よりもなおひどい」と述べる。「原理主義的護憲派」が「欺瞞的」なのは、自衛隊を違憲だと思っているのに、違憲だという立場を貫かず、自衛隊が存在している現実を受け入れているからだという。「自衛隊廃止や安保破棄を主張しなければならない」のにやっていない、というわけである。

 井上教授は、自衛隊違憲論者である。そこで井上教授は、9条削除論を主張する。9条の文言と現実との乖離があまりに激しいので削除したうえで、国民が自ら安全保障政策を選択していくべきなのだとする。(もっとも井上教授が、「日本語を解しない者」と「不感症/欺瞞的である者」から成り立っている国民の大多数に安全保障政策を考えさせたいのか、ただ「日本語を解する者」だけを真正な国民として扱うのかは、判然としない。)

 さらに判然としないのは、井上教授が、「9条の2」の追加を提案する山尾志桜里(立憲民主党)衆議院議員を激賞し、繰り返し褒めちぎることである。

 井上教授によれば、山尾議員は、9条の2を挿入して、「専守枠内で戦力の保有・行使を認める」と定める改憲を行うことを提唱しているから良いのだという。しかしなぜ山尾議員だけは「欺瞞的」ではないのか?山尾議員は、まず、自衛隊の違憲性を明言し、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」しているのか?山尾議員は、立憲民主党の指導部の「欺瞞」を糾弾し、共産党ですら「欺瞞的」だと糾弾しているのか?もし糾弾してもいないのに、違憲状態があるかのように語って、それを解消する自分の案が素晴らしいと説明しているのだとしたら、それこそ最も「欺瞞的」なのではないのか?なぜ井上教授は、山尾議員にだけは、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」していないという理由で「欺瞞的」だ、と糾弾しないのか?なぜせめて「改憲案が達成されなければ、違憲状態が続いてしまうので、自衛隊廃止や安保破棄を主張」せよ、と山尾議員に言わないのか?

 判然としない。

判然としないのは、私が「日本語を解しない者」であるか、「欺瞞的な者」であるかだからだという。しかし、そんなことを言われても、やはり判然としない。

 まあ井上教授のような大教授が、私などを、「日本語を解しない者」以下で、ほとんど存在していない等しい塵だとみなし、視界の片隅にも入れないのは、まあ、仕方がないとしよう。だが政府見解なども、完全に存在していないかのように振るまっていて、本当にそれでいいのだろうか。

 井上教授は、繰り返し繰り返し、自衛隊は戦力で軍隊だから、違憲だ、と主張している。しかし政府見解は、「自衛隊は憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊だ」、というものである。http://agora-web.jp/archives/2030702.html 

そういう政府見解は、「日本語を解しない者」の戯言でしかないか、単なる「欺瞞」だとして、井上教授は、議論の視野には入れないのだろう。確かに、井上教授ほどの権威ある崇高な学者であれば、そのような立場もとれるのだろう。しかしほとんどの平凡な学者の場合には、政府見解を存在していないものとして取り扱ったら、不勉強を指摘される。せめて政府見解の間違いを指摘し、その論拠を示さなければならない。

学界の重鎮が、60歳代半ばになって、「日本語を解する者であるかどうか」を論証不要な絶対基準として振り回し、お前は欺瞞的だ、あいつも欺瞞的だ、こいつも欺瞞的だ、と怒鳴り続けるとしたら、日本の学界も、言論界全体も、萎縮する。いや、おそらく日本それ自体が、萎縮する。

しかも、井上教授の「日本語を解する者であるかどうか」なる絶対基準にしたがうと、特定の女性野党議員だけは激賞しなければならず、その特定の女性野党議員だけは「欺瞞的」ではない、という認定をしなければならない。判然としない気持ちを抱いても、「それはお前が日本語を解さない者であるか、欺瞞的な者であるからだ」、とだけ言われる。

大学院生だった23歳頃の私が見た井上教授は、そういうことは言っていなかった。井上教授は変わってしまった。もっとも時代も変わってしまったのかもしれない。


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