いま欧州に来ているため、イギリス政治の混乱を間近で感じる。この混乱はブレグジットに関する国民投票から発生したのだが、改めて思うのはむしろ、首相解散権の持つ機能だ。イギリスは、首相から解散権を奪うという実験を行った。そのため失敗しているのだ。
  2011年議会任期固定法は、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散によってしか、議会が解散されないことを定めた。つまり首相から議会の解散権を事実上取り上げた。 2010年のイギリス下院選挙において、どの政党も過半数の議席を獲得することができず、「ハング・パーラメント」の事態が起こったとき、保守党が自由民主党に譲歩して連立政権をつくるために実施を約束した措置だ。
 首相に解散権がない場合、首相は議会に妥協し続けるしかない。素朴な単純理論では、首相は議会の多数派の信任を得て首相になっているはずではある。しかし実際には、議会の多数派が、個別の政策では首相に反対するかもしれない。最悪の場合、今回のブレグジット騒動が劇的に示したように、首相に反対する点で大同団結する議会の多数派が、実際には政策的な統一性を全く持っていない場合すら起こりうる。その場合、どこにも政策を調整する原理が働かないままの状態が続く。政策の実効性を確保するために「議会を解散して民意を問う」という手段がとれないために、何も決められない状態が延々と続いてしまうのである。
 ブレグジットに関する2016年国民投票は、2011年の議会任期固定法の一つの論理的帰結であった。2015年に行われた総選挙の際、デービッド・キャメロン首相は、EU離脱の是非を問う国民投票を行うことを公約してしまった。理由は単純で、保守党内部のEU離脱派の支持がなければ、保守党もバラバラで、政権維持ができなかったからである。
 伝統的なイギリス政治の考え方に沿って言えば、国民投票ではなく、EU残留の是非を問い直す解散総選挙を行うべきであった。しかし解散権を奪われたキャメロン首相には、それができなかった。そこで首相が首相としての議会の信任を確保するためには、重要事項の決定を国民投票に回して誤魔化すしかなかったのである。
 2011年議会任期固定法によって生じた国制(憲法)改革は、実際には残存する議会主権や議院内閣制の考え方と整合性のないものだった。そのため矛盾が顕在化したのが、2016年国民投票であり、それに引き続く収拾不能な混乱であった。
 日本においても改憲論議の中で、立憲民主党が首相解散権の制約を提案している。首相解散権は、議院内閣制の枠組みの中で三権分立を図るために、近代議会政治の中で培われて発展してきたものだ。「アベ政治を許さない」勢力の支持固めの発想だけでなく、各国の様々な実例をふまえた慎重な検討をしてほしい。(そもそも本来は、野党第一党には政権交代を目指してもらうのが王道であり、あたかも第三党のように首相解散権を制約して議会の現有勢力の確保を優先する関心を持っているだけでいいのかも、問い直してほしい。)
 日本国憲法は、その前文において、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するという文言から始まる。憲法学者系の方々は、やたらと「国民主権」「国民主権」「国民主権」と強調する。しかしそれは困った態度だ。
 拙著『憲法学の病』でも指摘したが、日本国憲法の「一大原理」は、「国政は、国民の厳粛な信託(trust)によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者 がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という、国民と政府との間の「信託」原理である。実体性のない「国民」の「主権」ばかりを強調して全ての議論を押し切ろうとする憲法学者によく見られる発想は、日本国憲法の原理ではない。実際の日本国憲法典は、議会を通じた政治の調整を求めており、今回のイギリスの国民投票以降の混乱を避けることを要請している。
 GHQは、英米法の考え方にそって憲法草案を起草した。しかしアメリカ流の大統領制にもとづいた三権分立の導入を避けた。そのため、日本国憲法は、イギリス政治を模した制度設計を取り入れている。 「国会が国権の最高機関」で、首相が「議会の議決」で決められる制度をとりながらも、「三権分立」も確保されるのは、首相に「解散権」があればこそだ。解散権がなければ、三権分立は溶解し、議会の独裁に陥るのでなければ、「何も決められない政治」が引き起こされる。
 イギリスは日本国憲法がモデルとしている国だ。そのイギリスが解散権を変更したことで、どれだけの混乱を経験する羽目になったかは、日本人はよく見ておくべきだ。

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