安倍首相が、今月下旬にニューヨークで行われる国連総会に合わせてイランのロウハニ大統領と会談するという。極めて勇気ある行動だ。事の重要性は認識しているだろう。それでもあえて挑戦しようとする意気込みは、率直に評価したい。
現在、日本は韓国との緊張関係を強めている。しかし中東情勢の緊迫度と比べたら、比較の対象にならない低次元の対立である。
重要なのは、日本が国際社会の重大問題を理解している国であるか、低次元の身の回りの出来事だけしか目に入らない国であるか、だ。世界の国々が、日本を前者の国だと思うか、後者の国だと思うか、が重要だ。それが結局、日韓対立の主戦場である国際世論対策にも、大きな意味を持ってくることになる。
もし日本が前者であることが明らかであれば、つまり世界平和への貢献を常に考えている国であることが明らかであれば、世界の国々は、必ず20世紀前半の歴史の問題などで日本を責めることなどしなくなる。もし日本が後者の国であるとすれば、世界の国々は、日本の主張に対して、関心を持たないだろう。
安倍・ロウハニ会談は、日本が前者の国であることを世界にアピールする絶好の機会になる。つまり近隣諸国との低次元の争いのみを他国に訴えるような国ではなく、世界の深刻な問題について苦悩し、改善に努力している国であることを示す、絶好の機会になる。
成果を出すのは、簡単ではない。
9月14日にサウジアラビア東部州の国営石油会社サウジ・アラムコの石油施設が攻撃を受けた事件は、日本では「原油価格の上昇がどれくらいか」、といったレベルでしか受け止められなかったようだ。あるいは、「テロ攻撃でドローンが使われるなんて新しい時代の到来だ!」などといった時代錯誤な観察まである。「イエメンのフーシー派」って何?のような、そもそも論も見受けられるようだ。
原油価格の上昇は、今後の中東情勢の進展次第だ。今どきはソマリアのアルシャバブでもドローンを保有している。「フーシー派」は、軍事用ドローンを大量保有しているし、繰り返しサウジアラビアを攻撃しているし、バブ・エル・マンデブ海峡を航行する船舶への攻撃も繰り返している。「フーシー派」の後ろ盾はイランであり、イラン製の武器でサウジアラビアをはじめとする連合軍と戦い続けている。実行犯が「フーシー派」であるかイランであるかという問いは、決して簡単に答えが出せるものではない。
米国は、今回の事件を通じて、イランへの圧力を強めようとしている。圧力の強化が、事態の打開に必要だと信じているからだ。しかしマティスもボルトンもいないトランプ政権は、ツィッターで脅かすだけで何も行動しない弱虫だと見なされ始めている。
欧州諸国は、今回の事件への対応の重要性を強調しながら、2015年核合意の状態に戻すことこそが事態の鎮静化のカギだという認識を持ち続けている。しかしアメリカを説得する方法は全く見出せていない。
イランは、事件への関与を否定しつつ、イエメン戦争における甚大な被害を容認し続けているアメリカの偽善を国際世論に訴えている。アメリカとの直接交渉に臨むことは、ありえない。だが制裁から抜け出す手立てを知っているわけではない。
ロシアのプーチン大統領が「サウジアラビア政府もロシア製のS-400地対空ミサイルシステムを購入すべきだ」という強烈な皮肉を述べたのは、米国製の兵器群が、今回の攻撃では無力であったことを揶揄してのことだが、近年のロシアの中東における影響力の高まりは目覚ましい。中国も同様に浸透を深めている。
さらに中東情勢は、イスラエルの総選挙の結果や、サウジアラビアのイエメン軍事介入の態度の如何によって、情勢は大きく変化していく。
それぞれが、自らの国際情勢分析を基盤にして、外交政策を構築しようとしている。
そこに日本はどう食い込むのか。
アメリカの同盟国であり、イランの友好国でもあることを自任する日本は、国際情勢の好転に、どう貢献するのか。
もし日本の首相が、イランのロウハニ大統領と会談した後、中東情勢については全く無知で関心を持っていないような態度を示したら、破滅的だ。
もし日本の首相が、頓珍漢なアメリカ寄りの態度や、的外れなイランへの懐柔姿勢を見せたら、破滅的だ。
もちろん起こりそうもない机上の空論を述べるわけにはいかない。そこまでは誰も日本に期待しない。しかし何も考えていない国であるかのように見せるわけにはいかない。
アメリカかイランのどちらかが譲歩したら、事態が打開できる、といった子どもじみた発想だけは、禁物である。アメリカもイランも、簡単に相手に譲歩できる状態にはない。
それでも日本は、双方の最低限の利益を計算して、最悪の事態を避けるための有効な一手を打つことができるのか。
誇張でもなんでもなく、会談の成果によって、日韓関係の緊張問題にも、大きな影響が及ぶだろう。注視したい。
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「奇跡の復興」を遂げた戦後を正当に評価すべきだとしても、日本はどこまでも敗戦国の桎梏(ἀμοιβή)に囚われた「平和国家」だった。世界経済発展に少なからず貢献し、国連に多額の分担金を払い続け、非欧米圏では随一のノーベル賞受賞者を輩出した先進国だが、映が薄いのは憲法9条のガラパゴス的解釈だけでもなかろう。
それぞれ胸に手を当てて熟考すればよいが、国際政治は、究極的には「正義」(δικαιοσύνη)の闘争場裡にある。そして正義とは畢竟、「配分における正義」(τὸ διανεμητικὸν δίκαιον)をめぐる抜け目のない(ἀγχίνοια)騙し合いであり、妥協(τὸ σύμθημα)と取引(συμβόλαιον)にすぎない。
「文明の野蛮」(Zivilisation zur Barbarei)の典型であるドローン兵器に驚いているようでも仕方がない。偽善(ἡ ὑπόκρισις)だろうと欺瞞(ἀπάτη)だろうと、覚悟(γνώμη)してかかる必要がある。
この意味で、戦後復興のもう一つの神話である賞味期限付きの「吉田ドクトリン」をそろそろ脱却する必要がある。
「平和国家」という美名を、懦弱(ἀσθένεια)の代名詞にしてはなるまい。
アラブの春の「民主化運動」がおこり、中東地域にも、民主政治が確立されると思ったが、そうはならなかった。それは、アメリカ式の民主主義、を受け入れない国が多いからであって、日本とは違う。「西側」といっても、どちらかというと、アラブ諸国は、軍閥がいたり、財閥のいる「韓国」に近い社会なのではないのだろうか?反氏は、日本は欧州と違って、階層移動に特段の障碍がなく比較的容易な社会、つまり出自に関係なく本人の実力次第で自らの運命を切り開ける社会である、と規定されているが、日本の江戸時代は、士農工商、と「身分制度」があり、大日本帝国も、貴族は存在した。現在その傾向のないドイツや日本は、敗戦国で、米国流の民主主義を自国の憲法に取り入れたから、本人の実力次第で、自らの運命を切り開ける社会になったのである。
NATOに属しているはずのトルコのエルドアン政権は、民主政権から独裁政権にシフトしているから、西側から制裁を受け、ロシア、イランに接近して、ロシアから武器を買った。そして、新しい、シリアの憲法は、トルコ、ロシア、イラン、の共同で作ることになるそうであるが、そうして出来上がった憲法は、われわれのもつ「日本国憲法」とは、まったく違うものになるだろう。
そういう政治情勢をいろいろ考えた時、唯一の被爆国日本は、双方の最低限の利益を計算して、最悪の事態を避けるための有効な一手として、「イラン合意」、2015年核合意の状態に戻すこと、だけは米国とイランを説得して、最低限達成すべき課題だと私は思う。それによって、はじめて、北朝鮮にも「核の破棄を約束」させることができるのではないのだろうか。
そして、旧会社員の方のお勧めどおり、スイスのスーパーのチョコレートはとてもおいしかった。アドバイス、ありがとうございます。
北朝鮮の核の脅威がなくなるのなら、日本は韓国とも、統一後の朝鮮とも、「普通の国の付き合い」と同じにすればいい。要するに、「リビア方式」では北朝鮮と合意できないのだから、イランと欧米との2015年の「核合意」と同じような核開発計画を放棄計画、を北朝鮮が、日米と締結することが、日本の安全保障上の一番の関心事なのだと私は思う。
第一次世界大戦後、「平和」への動きが高まり、パリ不戦条約、国際連盟が創設され、日本はそのメンバーであったにもかかわらず、武力による「覇権主義」を貫いた。これは、昭和天皇によれば、「昭和維新」という名の「下剋上」の結果だそうであるが、その結果、日本は国際社会で孤立し、ヒトラーやムッソリーニと手を組むしかなくなってしまった、というのが実態なのである。
楠山義太郎さんの述懐、ジュネーブの「連盟では毎回、袋だたきにあい、脱退なんて言っているが、全会一致で国際 社会から〝無頼漢″として追放されたんです。今のジャパンバッシングの比で はない。それを国内では〝桜の花の散るごとく″とかいって、バンザイで松岡 洋右を歓迎した。全く唯我独尊の無知まる出しの孤児だったんだよ」。で表現されているように、日本に帰った松岡洋右をちょうちん行列までして、日本国民が迎えたのは、日本のジャーナリズムがそう報道したからに他ならない。つまり、大阪毎日新聞ロンドン特派員だった楠山さんは、日本がこの孤立化から戦争へ 発展する過程を身をもって取材されたのであるが、その取材内容が、大阪毎日新聞社の首脳の方針により、その当時の日本国民には知らされなかったのである。
本当に大切なのは、「国際協調の精神」、多国間外交なのであって、そのための「国際連合」、IAEAである。朝鮮問題の解決も、ドイツの時そうであったように、米国のほかに、大国であるロシア、中国、日本を入れた、2 プラス 4で問題を解決すべきなのではないのだろうか。トランプ政権では、無理かもしれいが、プーチン大統領や習近平主席、とも折り合いのいい、「和をもって貴しとなす。」の日本の安倍首相にぴったりの役回りのように私には思える。
ジャーナリストから見た日米戦争、前坂俊之
http://maesaka.sakura.ne.jp/bk/files/030715_comu.pdf
2~7と6本も並べた割には、出国前と同工異曲の愚にもつかない、陳腐かつ凡庸極まりない立論とも呼べない議論を撒き散らす。
旧会社員氏が前回言及したような、スイスのスーパーで買ったチョコレート云々という程度の益体もない話はご愛嬌として、
▼2⇒高々人口七百数十万人の中欧の小国を、永世中立国で国防に熱心というだけで、大国の日本と不用意に同一次元で議論する軽率さ。
▼2②⇒アラブ人国家を含む中東地域の民主化の意味に関する基本的認識の欠如。
▼2③⇒【軍閥がいたり、財閥のいる「韓国」に】アラブ諸国が近いという、珍妙な議論(韓国にかつて軍部主導の独裁色の強い政権は存在したが、軍閥など存在しない。それを部族社会が多いアラブ、中東と比較すること自体がナンセンス。
▼2④⇒日本の近代が欧州に比しても階級・階層の流動性が高い社会だとの私の指摘に、江戸時代云々をもち出す珍妙な日本文読解力。
▼3⇒【唯一の被爆国日本】云々ということを、何か「特別な意味がある」(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)と錯覚する、ガラパゴス的感覚(日本が米国の核の傘に依存する実態をどう説明?)
▼4⇒【オセアニア大陸は、海で隔てられていないから、領土侵略もあり…】。それを言うならユーラシア大陸で、オセアニアは大洋州というくらいだから、「海で隔てられていない」どころの騒ぎではあるまい。杜撰な文章と議論は、病気(νόσος)。
▼6⇒田舎大学の凡庸な研究者の無邪気な楠山義太郎礼讃の、何度聞いたかしれない俗悪な(ἀπειροκακος)再放送とコピペ(7の「いづれの国家も、自国…の責務」の箇所は、驚くことに私の1の抜粋のコピペ)。
とにかく、他にすることはないのかと辟易する。
カ氏の議論には見るべき「テキスト」(中身)がない。
70年以上も前のそんなスイスのジュネーブで、楠山義太郎さんは、日本について、日本の政治について、どう思っておられたのか、ふと考えた。
現代に生きている私は、日本の政治本体については違和感がない。今はリアルタイムで世界中のニュースがfollowできるからかもしれない。違和感のあるのは、日本のマスコミ報道である。また、米ニューズウィーク誌の、日韓の対応はどっちもどっち、というのはいただけない。日本の発信力が弱すぎるのではないのだろうか?
唯一の被爆国には、特別な意味がある。現実の核兵器の惨状を知っている、という意味で、アウシュヴィッツの生き残りのユダヤ人と同じである。それを語り継ぎ、核廃絶へと導くのが日本人の使命だと思う。核兵器が怖いから、一番大きな米国の核の傘の下にいるのである。それがわからない、のはよほどガラパゴス的感覚の持ち主なのではないのだろうか?
それこそ、プライド(φρόνημα)だけは一人前の、実質の伴わない、分を弁えぬ(πλέον ἔχειν)身の程知らずの(πλεονεκτεῖν)狂態を本欄で曝すだけの御仁が、言い逃れの与太話でごまかそうとしても恥の上塗りにしかなるまい。
「スイスは、国民のために…装備していることを知り」というくらいだから、肝腎なことは事前に何も知らなかったのだろう。気の利いた中学生なら知っている初歩的な知識で、何もスイスくんだりまで出かけて「再確認」することでもあるまい。
しかも、それまで碌に知らなかったことを、「再確認」も何もないものだ。「まともな」(εὐσχήμων)日本語の理解力を欠いている証拠(τεκμήριον)で、端的に愚鈍(ἀμαθία)なのだろう。
そういう人種をオルテガ・イ=ガセは大衆人(el hombre-masa)といった。自らの愚かさに安んじて生きるカ氏のような凡俗な人間(el hombre vulgar)のことで、「自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、自分自身に陶酔している者」(‘que aquél es el que se exige mucho a sí mismo, y éste, el que no se exige nada, sino que contenta con lo que es y está encantado consigo.’) のことだ。
何んとも気楽な話で、メディア批判など百年早い。
そして、現実的に考えた時、戦前の日本に似た軍国主義の国が近くにある以上、その脅威に対して、単独、あるいは、世界で最高級の軍備をもつアメリカと協力して、自国を守らなければならないのではないのだろうか、ということなのである。日本のマスコミの政治部記者は、佐藤栄作首相をほとんど評価されないが、沖縄返還をはたし、日米条約を堅持し、当時敵対関係にあった韓国との間に国交を樹立し「日韓基本条約」を締結し、極東アジアに「平和を確立された」という意味で、「ノーベル平和賞」にふさわしい、世界に誇るべきすばらしい首相であった、と私は思う。その血を継ぐ安倍晋三さんが、ローハニ大統領とどのような会談をされるか、楽しみだ。
前項10で、⇒「気の利いた中学生なら知っている初歩的な知識で、何もスイスくんだりまで出かけて『再確認』することでもあるまい」と書いた意味を、カ氏は全く理解できていないようだ。
「何もスイスくんだりまで出かけ」というからには、冒頭の中学生が、カ氏が11でトンチンカンな議論をしている、⇒【スイスの中学生】でないことは明白だろう。従って、11②⇒【…が知っていることでも、日本人の大人が知らないことが多いから、国際理解が必要】のような立論は、論理的にも意味論的(文脈的)にも、成り立ちようがない。
カ氏は真っ当な日本文の理解さえ覚束ない阿呆(ἠλίηθιος)のようだ。アリストテレスの前では、「白痴」(ρωρία)にも等しい、ということだろう。
米国によるINF(中距離核戦力)全廃条約やイランとの核合意の破棄が、日本にとって欧州ほど安全保障上の懸念材料でないのは、欧州にとって北朝鮮の核やミサイル開発がそうでないのと同じで、何もカ氏が早朝から無い頭を悩ませ、訝ることでもない。
核廃絶は当面、現実的に実現可能な政治的課題ではないし、何より核保有国は国連総会で決議され、ノーベル平和賞の対象なった全廃条約を歯牙にもかけていない。大国間の武力衝突が起きないのは、致命的な報復を蒙る恐れのある核の存在があるからで、冷戦期の経験は今なお有効だ。
北朝鮮が日本を核で脅せば、日本からは一円も引き出せない。計算高い独裁政権が日本相手に使用する理由は乏しい。真の脅威は、地域の戦力バランスを崩す恐れのある中国の軍拡で、手駒の問題児=北朝鮮ではない。
核に人類の滅亡(ἄνθρώπων φθορά)につながる現代の悪魔(ὁ Ζατανᾶς)をみる素人の浅知恵は一種の妄想(φαντασία)で、核保有国を少しも動かさない。それに、一旦誕生した悪魔は、消え去りはしない。
全廃に合意したところで、機会を窺い早晩復活する。
如何に戦後生まれで無知蒙昧だとはいえ、12⇒【戦争をしなければならなかった理由…日本のマスコミに煽られたもの…いろいろもっともらしい理由が上がっているが、理解不能】というような誇大妄想(ὑπερβολή)としか言いようのな妄説(ἀλλοδοξία⇒‘Karoline Doctrine’)はいかにして可能になるのか、一種の観察的興味はあるが、逆上せ上がっている割には、端的に無学で怠惰だからだろう。
なまじ海外留学経験などがあるから、とんでもない勘違いをしているのだろう。授業についていくのがやっとで、一生懸命勉強したようだが、高が知れている。それで「国際通」を自負しているのだから滑稽だ。
そもそも、どこの国家がメディアに煽られて(πεπαλμένος)戦争を選択したりしようか。国家はむしろメディアを支配し(ἄρχω)、操作し(ἐργάζεσθαι)、国民を使嗾する(ἐπισπᾶσθαι)よう唆す(ἐφέλκεσθαι)側だ。だから「大本営発表」にもなる。
民主制国家では重要な役割を担っているものの、メディアのようなある意味他愛ないものを攻撃することで溜飲を下げているようだが、無学な大衆によくある心的傾向だ。カ氏にその自覚はないようだが、骨の髄から大衆気質で、奴隷根性(δοῦλοψυχία)の塊なのだろう。
ドイツや中国に尻尾を振る(κολακεύω)のも、そうした性向の現われだし、クズ情報の宝庫Wikipediaをコピペして、さもご大層な卓見のようにもって回るお目出度さ(εὐήθεια)は、噴飯ものだ。
それにしても、未だに頬被りしているが、コピペの女王(κλοπή βασίλισσα)というのも因果なもので、何を好き好んで、私が字数調整で一部割愛した憲法前文の一節をコピペして自らの投稿に再利用するのだろう。
性根が腐っている(μοχθηρία)、としか言いようがない。
ただ、私がスイスを訪れようと思ったのは、それを知るためではなくて、安倍首相が70年談話の中で使われた「repentance」という言葉、 戒律違反などに対する後悔、悔い改めという意味であるが、それを要求する騎士長と「ドン・ジョヴァンニ」のやり取りを生で見たかった、そして、ドイツ人がその音楽に幻惑されたワーグナーが「指輪を創作した館」を実際に見てみたかったのである。
日本は、パリ不戦条約、国際連盟規約を破って、「満州事変」という侵略戦争に突入した、そして、ジュネーブの「国際連盟の勧告」をきかず、脱退し、孤立の道を選び、米国との戦争に突入した。これが、日本が国際社会に与えた加害者としての罪なのではないのだろうか。そのジュネーブの現場を英国駐在の日本人ジャーナリストとして、取材されたのが楠山義太郎さんなのである。それは決して、田舎大学の凡庸な研究者の無邪気な楠山義太郎礼讃の、何度聞いたかしれない俗悪な再放送ではなくて、楠山義太郎さんの言葉こそが、日本の教訓とすべきことがらだと思うから、なんども書くのである。ヴァイスゼッカーさんが主張されていることも同じことで、過去を知らないと、似たようなことが起きた時に、気づけないから、過去を心に刻め、と促されているのである。
その理屈は簡単で、政治的行動の基本的原理を押さえておけば容易に理解できる。
ある軍縮案が、それを交渉相手国によって受け入れ可能だということは、それが相手国にとって自国の事実上の「軍拡」につながる場合だけだからだ。そうでなければ、そうなると誤算した場合に限られる。そして、結果的に平和運動もそこに動員され、利用される将棋の駒でしかない。
なぜなら、そうした取引が成立することで双方とも無駄な競争を回避でき、旧弊の兵器は償却、更新され、新型の開発、導入に注力できる。特に米ロ両国の核軍縮は、双方で世界的覇権を軍縮前より相対的低コストで実現できれば、一新された兵器体系に移行しやすいことで余力も生まれ、その利益を両国で独占し、両国以外に対して比較的優位性を実現できる。つまり、事実上の軍拡になる。
覇権的支配の維持が重要で、軍縮はだしに使われた手段ということだ。双方にとって軍縮前よりよい話でなければ、即ち得になる合意でなければ軍縮のインセンティヴは働かない。
国際政治とは常にそうしたもので、核兵器全廃条約のような理想は、未確定な将来目標=理想としては、それによって国際社会の世論形成に特段の影響力でももたない限り、ノーベル平和賞で顕彰されようと関係ない。
現実的にはあり得ないが、すべての核保有国が全廃に合意したところで、合意を破る国が一つでも現われ現在の「悪魔」をよみがえらせる(ἀνιστημι)のを防ぐことは困難で、機会を窺い早晩復活(ἡ ἀναστασις)することは必定だ。
イギリス、フランス、ドイツは27日(現地時間)、国連安全保障理事会緊急会議を要請し、北朝鮮のミサイル発射を糾弾したことがわかった。
米国の声(VOA)によると、国連安保理常任理事国であるイギリスとフランス、安保理対北制裁委員会の議長国であるドイツの3か国は共同声明を通じて、北朝鮮のミサイル発射を糾弾した。
この日開かれた安保理会議で、北朝鮮のミサイル発射問題を案件として取り扱うことを要請し非公開で会議をおこなった後、これを明かした、とある。
要するに、イランと違って、国際エネルギー機関、IAEAを追い返し、経済制裁がかかっているにもかかわらず、国際連合の言うことをきこうとしない北朝鮮は、戦前の日本に近い。日本が出口を戦争に求めざるを得なかったように、北朝鮮がそうする可能性は否定できないのである。米国のトランプ大統領はそんな北朝鮮に理解があるようであるが、欧州が日本と共にそうではないことは、明らかなのではないのだろうか。
メデイアの負の側面を知ることも、歴史が、私たちに教えてくれている大事な点である。
第一次世界大戦後、「平和を確立する」ために、国際社会では「軍縮」の動きが始まり、日本は、「国際協調と経済」で生きていくんだ、ということで、浜口内閣が「ロンドン軍縮交渉」で軍備削減に動いた。それに納得しなかったのが、日本の軍部で、その理屈が「統帥権干犯」だったのである。その動きにメデイアが乗るから、それ以来、日本の首相は、予算を含めて軍隊を制御できなくなってしまい、戦争に突き進んでしまったのである。
日本があの時、欧米とともに、軍縮路線にかじをきっていたら、悲惨な戦争は起きなかったのではないのだろうか。
カ氏は戦後論壇で実際にあった論争の経緯など皆目無知の「白痴」に等しい御仁だから、外に想像が及ばないのだろう。
カ氏にかかると、戦前は須らく暗黒時代で、左翼、進歩主義陣営や多くの近代主義者の説く「暗黒史観」と基本的に何ら変わらず、岩波新書のベストセラー『昭和史』(遠山茂樹、藤原彰ほか著、1955年初版)に代表される、戦前の歴史を天皇制を支持する反動勢力(左翼用語)とそれに抵抗する共産党の抵抗の歴史という構図で誇大妄想的に描き出すのと同工異曲の、それとは別に軍部の専横で政治的意思決定過程から不当に排除された爾余の既得権益を担う支配層や自由主義者の怨念(φθόνος καὶ μῖσος)を反映したような勧善懲悪式の「単線思考」で、何ともお目出度い限りだ。
無学は気楽でいい。国際政治など、覇権国家の都合でゲームのルールは始終変わるもので、近代日本が最終的に戦争を選択得ざるを得なかった事情は複線的なものだ。
無論、総力戦(guerre totalale)を強かに勝ち抜くだけの成算(λογίζεσθαι)もなく、つまり資源も軍備、人口、工業生産力、国民的合意形成も不充分だった当時の日本に抜け目のない戦略的思考は不在で、愚劣な戦争指導と相まって名分だけの理想論は有害無益だったことは言うまでもないが、ヴェルサイユ=ワシントン体制を主導する英米の正義も偽善と欺瞞だらけだったわけで、惨憺たる敗戦の恨みを当時の指導層にぶつけるだけでは、歴史の真相など何もみえてこない。
カ氏の議論には一本調子の愚にもつかない(φαῦλος)、一種の「物語思考」にも等しい「公式見解」と糾弾とがあるだけで退屈極まりないことは、8で⇒「カ氏の議論には見るべき「テキスト」(中身)がない」とした所以だ。
「一體、人類の滅亡などといふ事は、私達人類の思考の對象になり得るものかどうか考へてみるがよい。民衆が原水爆の恐ろしさに反應を示さないのは、科學的無智のためにそれを知らぬからではない。ひよつとすると明日にも全人類が死滅するかもしれない、彼らはおそらくその位の事は考へるであろう。が、全人類の滅亡といふ事は私達の經驗を超えるものであり、私達はそれを想像しえぬのみか、たとへそれについて一片の白日夢を描きえたにしても、それは私達をいかなる行動にも驅りやらぬ。これほど不毛の思想はない。
したがって、それは思想ではない。私達の考へうる事は、人類が生き延びてゆく過程の中で自分だけが死んでゆくという事實であり、また自分が人類と共に生きてゐる過程の中で、誰かが死んでゆくといふ事實である。つまり、生を背景にしてしか死を考へることも經驗することも出來ぬのである。背景に生のない全人類の死などといふ事は、大地に足を附けて生きてゐる人間にとつては、一顧にも値しない空想としか映らぬであらう。」(福田恆存『現代の悪魔』、1962年、40頁)
哲学的には「超越論的な」(transzendental)不条理とも言うべき事態で、「そういふ空想を種にして、平和運動にせよ、何にせよ、…『現代の悪魔』を退治する、あるいはそれと附合ひうる道德的な行為はそこからは決して生れない。」
「人類の滅亡」が「原理的」に妄想たる所以だ。
本文→マティスもボルトンもいないトランプ政権は、ツィッターで脅かすだけで何も行動しない弱虫だと見なされ始めている< この篠田先生の見立ては重要だと思います(これから注目か!?)。
『憲法学の病』ほぼ読了しました。やはり3の「交戦権」より2の「戦力」の定義の方が重要だということがわかりました。難解なのは、7「集団的自衛権」の72年10月政府見解のロジックです。沖縄返還は達成したいが、ベトナム戦争の当事者になりたくない(182頁~)< とあります。173頁コラムの「見捨てる」< は難解です。返還前に「集団的自衛権は違憲」と宣言してしまえば、アメリカの心証を悪くし、沖縄の施政権が返って来ない恐れがあるということでしょうか!?
人類が生き延びてゆく過程の中で自分だけが死んでゆくという事實であり、また自分が人類と共に生きてゐる過程の中で、誰かが死んでゆくといふ事實である。つまり、生を背景にしてしか死を考へることも經驗することも出來ぬのである、と悲観的に私は死を考えていないのである。3日の入院の予定が、3度の手術2か月の入院生活になった時、私は、いつかは、自分は死ぬのだな、と実感した。死にゆく母の闘病生活を見守りながら、母は一生懸命、私を育ててくれたのだから、母の思いを伝えなくては、と思った。両親は私の心の中に生きている。楠山義太郎さんも同じである。その思いを、考えを、つたない文章でも、伝えなければ、と思う。楠山さんは、日本が戦争に突入することを、ペンの力を使って、一生懸命とめようとされた方である。
私は、戦前は須らく暗黒時代で、左翼、進歩主義陣営や多くの近代主義者の説く「暗黒史観」論者ではない。おかしくなったのは、母が生まれたころ、1930年以降である。母から、女学生のころの芋ほりの話、もんぺの話もきいた。「欲しがりません。勝つまでは。」の話も。そのお金は、すべて、戦争をするための軍事費に使われたのではないのだろうか。そう洗脳したのは、上杉慎吉さん他の国粋主義者たち、「昭和維新」を画策する軍閥、陸軍の青年兵の影響である。国の民生部門への支出が極めて少なかった。
そして、日本の歴史を直視したとき、侵略戦争を始めた満州事変から国際連盟の脱退、中国での戦線の拡大、太平洋戦争への動きは、明らかに、「世界の中の日本」の歴史上の失敗、となるのではないのだろうか。これは、昭和天皇とは全く関係がない。上杉慎吉や石原莞爾や、近衛文麿や松岡洋右や北一輝や大川周明など、夢想家の知識人の妄想に日本国民がだまされた、といった方がいいのではないのだろうか。
歴史をおかしな方向に導くのは、論争の経緯など皆目無知の「白痴」のような人ではなくて、知性もあり、文才もあり、弁舌さわやかであるが、夢想家で、どこか、性格にひずみのある人、のように私には思える。
だから、23⇒【反氏は、奥様をなくされた心の痛みから回復されていないのだろう】のような同情(οἶκτος)は不要だし、根源的にものを考えることを何より重視する者にとって、妻の死(θάνατος)で立論上で何かが変わることなどあり得ないし、特段酷薄になっているわけでもない。カ氏はとんでもない勘違いをしている(ἑτεροδοξέω)ようだ。
従って、私は議論のうえでは殺伐非情の論理主義者であることに何ら変わりはない。道徳家(ὁ ἠθικός)でもなければ感傷的(μαλακός)でもない。甘い優男(ὁ φιλοικτίρμων)と思ってもらっては困る。
哲学を志す者、今日的価値観に囚われた「如何なる観念の共同体の市民でもない」からだ(‘Der Philosoph ist nicht Bürger einer Denkgemeinde. Das ist, was ihm zu Philosophen macht.’=L. Wittgenstein, “Zettel”, Frag. 455; L.W. Schriften, Bd. 5, S. 380)。
福田恆存が人類を滅亡させかねないと善良な人々を恐れさせ、その危機意識からB. ラッセルのような知性にも、「自由より平和」と思わせた「現代の悪魔」である核兵器による全人類の破滅(ἀπόλλυσθαι)に、哲学的な「超越論的な」(transzendental)不条理(ἡ ἄλογος)をみるのは、あくまで原理的な考察としてだ。
人々が核兵器を恐れ大騒ぎするのは、単に人類の平和を願うからではない。通常兵器なら逃れうる可能性があるのに、核だと自らも巻き込まれ、死を免れないと想像するからだ。他の人は死んでも、自分や家族は何とかして助かりたいと思うからだろう。
先に引用した「人類が生き延びてゆく過程の中で自分だけが死んでゆくという事實であり、また自分が人類と共に生きてゐる過程の中で、誰かが死んでゆくといふ事實」というのは、そうした認識に外ならない。
さらに「放射能や人類の滅亡を持出さねば、『惡魔』を『惡魔』と認め得ぬような薄弱な精神に『惡魔』退治は出來ぬであろう。原水爆は私達の前に始めて出現した『惡魔』ではない、全人類を殺せる核兵器が『惡魔』で、五人しか殺せぬダイナマイトが『惡魔』ではないと考へる人は、すべての價値を數量で割切るというふ最も現代的な『惡魔』の思想に囚われてゐる事を反省してみるがよい。全人類の死が五人の死より『惡魔的』に見えるのは、世界戰争には自分の死が含まれており、五人の死や局地戰争なら自分が助かる餘地が大であるといふ利己心の働きでしかないのではないか。
さういふ利己心に訴へながら、それと気附かぬところに現代の精神的頽廢がある。利己心とは『惡魔』のものにほかならず、『惡魔』の武器をもつて『惡魔』を退治する事ほど『惡魔的』なことはない」(『現代の悪魔』、1962年、41頁)と、自覚されざる自己欺瞞を抉り出す。
そして最後にこう突き放す。
「自然科學は價値を數量に還元し、再組織する試み…それに人類の幸福を委ね、自然科學の方でもそれを引受たつもりになつてゐる現狀は、放射能の害や人類の滅亡より恐ろしい。萬事を引受た自然科學が、人類を『惡魔』に賣渡したからといつて、人々は今さら文句の言へた筋合ひでもないし、また何より恐ろしいのは、下駄を預けた相手に文句を言ふ勇氣も智慧も失つてしまつてゐる事だ。
科學の前に道德が古色蒼然として見えるところで、世界平和など説いてゐる狀景は、もはやこれを戲畫と言うふほかはない。」(41~42頁)
国家が戦争に訴えるのは、別にメディアに煽られ(πεπαλμένος)唆され(ἐφέλκεσθαι)て戦争という最終手段を選択するわけではけっしてないからだ。カ氏のような単細胞は、満州事変⇒国際連盟リットン調査団報告書⇒連盟脱退⇒日独伊三国同盟⇒対英米開戦(太平洋戦争)――と単線で、謂わば初等教育レベルの紋切り型の論法で単純に、固定観念(ὑπόληψις)で検証(ἔλέγχω)なしに突っ走り、松岡洋右がどうのこうの、英米の戦略目標にされた凡庸な大手紙のジャーナリスト、楠山義太郎のような親英米派がどうのこうのと、愚にもつかない一本調子の糾弾を続けるが、昨今の気の利いた中学生にも劣る水準で話にもならない。
そして「気の利いた中学生にも」分かるということは、日本文をまともに(κοσμίως)理解する(συνιέναι)ことさえ覚束ないカ氏が、スイスの核シェルターに限らず、15⇒【…ということを知っている気の利いた日本人の中学生がいるかもしれないが、その人数よりはるかに多い日本人の大人はその事実を知らない】わけではなく、中学生にしては「気の利い」ているだけで、その程度のことは、それ相応の大人は誰でも弁えている(σύνετέω)ということだ。
カ氏ぐらい「無学」な人間はそうはいない、ということだ。少々英語独語が達者だから勘違いしているのだろう。
私を指して盛んに「無智」(ἀμαθία)をあげつらっているが、このソクラテス由来の所謂「無知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)、つまり「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)は、カ氏の議論の場合何の論拠にもならない。そもそも、ソクラテスがいう無知(ἀμαθία)も不知(ἄγνοια)も区別できないのが憐むべきカ氏だからだ。
ところで、リットン報告書が公表された1932年10月時点で、当時日本が国際社会が満州に対する日本の主張を承認しなければ国際連盟を脱退する、というような単純な二者選択に追い込まれていたわけではない。既成事実を積み重ねる軍部を恐れて、表向き強行論を吐く者も少なくなかった。
カ氏のご本尊の一つ、芦田均などは当時、強硬論の政友会所属の議員で、日本が傀儡国家の満州国を1932年9月15日に承認したことは「当然だ」としながら、連盟が日本の主張を無視して満州国不承認を報告書に盛った場合、日本が報告書の承認を拒んだとしても、日本が連盟規約に違反したことにはならないと、明確に述べている(『政友』32年11月号)。
外交官として連盟規約に通暁していた芦田にすれば、単に勧告に応じないというだけの態度で押し切ればよいとの認識があった。
身内の連盟脱退強硬論をやんわり宥めた形で、その後に出た報告書もよく読めば、日本を何とかして連盟にとどまらせたいという偽善的な英米主導の妥協案の側面もあったからだ。
歴史は日本が脱退を選択したことで戦争に向かって階段を一歩上がったが、歴史には常に輻輳する勢力による水面下での複線的駆け引きがある。
単細胞のカ氏には無縁な世界だが(呵呵)。きょうから彼岸だ。また忙しくなる。
「自然科學は價値を數量に還元し、再組織する試み…それに人類の幸福を委ね、自然科學の方でもそれを引受たつもりになつてゐる現狀は、放射能の害や人類の滅亡より恐ろしい。」、とあるが、その意見に私は組しない。自然科学は、我々に幸せを与えてくれている。核爆弾は人類を含めて地球を破滅させるが、原子力の平和利用、原子力発電、放射線治療、などの科学技術の進歩で、我々がどれだけの幸せを与えられているか、を同時に考えなければならない。
そう考えた時、日本の安倍首相は、イランのローハニ大統領にも、米国のトランプ大統領にも、今月末のニューヨークでの国連総会の際に、日本の歴史を顧みて、助言すべきこと、主張すべきことがあるのではないか、と私は思う。
そして、正確にどうであったか、NHKBSのドキュメンタリー 「昭和の選択」国際連盟の脱退―松岡洋右、を見てみたが、やはり、当初は日本政府も、陸軍も連盟を脱退する意志はなかったのである。ただ、第一次世界大戦後独立した東欧の小国は、ナチスドイツを恐れて、武力による国境線の変更、をきらい、日本を批判した。ただ、大国でもあり、アジアに権益をもつイギリスは、日本に助力しようとし、小国抜きで、米ソ英の元、中国と妥協する「和協委員会」の提案までしてくれたのである。そしてもし、それが行われていたら、芦田均さんの路線で落ち着いたかもしれない。反氏は、外交交渉を偽善だ、と主張されるが、当事者間の妥協がなければ、武力か裁判か経済制裁で解決するしかなくなるのである。
これも、日本のマスコミが日本の世論、歴史をおかしな方向に導いた「負の側面」の典型的な例だと私は思う。
それにしても、カ氏はまともに(εὐσχημόνως)日本語も綴れない割には、何やら血気盛んなで無防な議論に現を抜かしている様子で、29⇒【「スイスは、国民のために核シェルターを装備していることを知り」ということが、どうして大事でないのだろう】のような幼稚なことを喚いている。よほど、北朝鮮の核に恐れをなしているのだろう。
北は肥満体の将軍様(国務委員長)の独裁国家なりに、外交手法は典型的な官僚体質の国家で、核という交渉上のカードを最大限に利用して、どこまでも計算ずくで動いているから暴発するほど愚かでもあるまい。カ氏のように、切歯扼腕して相手が苛立つ(ὀργαίνειν)のを狙っている。だから、大事な切り札をふいにするほど愚かでもない。中東辺りの紛争当事国に売れるものも売れなくなるし、日本から金を引き出せなくなる。
そういうことが外交上の利害得失の計算(λογισμός)で、政治音痴のカ氏には少しも想像が及ばない領域だ。外交は昔から狐と狸の化かし合いなのだ。
パスカルは「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう。」(‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’=“Pensées”, Frag. 358.: Œuvres. par L. Brunschvicg et P. Boutroux., 1925, Tom. 13, p. 271.)と書き残したが、カ氏のように、無邪気に理想を語って、逆にその正反対を招き寄せる愚行は、歴史上枚挙に暇がない。
ドイツ語を喋喋する(24)前に、「くみする」は「組する」ではなく「与する」。その程度のことも知らず何度も繰り返すのは、何んとかならないものか。οἴμοι.
それだけの費用をかけて、作り上げたものを、使用しないのだろうか?その危惧があるからこそ、私がコメント17で書いたように、欧州諸国、イギリス、フランス、ドイツは27日(現地時間)、国連安全保障理事会緊急会議を要請し、北朝鮮のミサイル発射を糾弾したのである。
その秘密はどこにあるのかが個人的な関心だった。その強みのひとつは、多言語を使いこなせることによる、すぐれた国際性にあると考えている。多言語が使えるので、欧米のあちこちに留学するのも簡単である。
また、多言語ばかりに精通しているのではなく、ブルクハルトを見てもわかる通り、多文化に関する洞察力やセンスが卓越している。そのため、欧米の各先進国のすぐれた要素を自在に吸収できるのだ。とはいえ、女性参政権が本格的にはやっと1990年代になって普及するなど、頑なに自国の慣習をつらぬくなどの面もある。
乱暴な比喩だが、ソ連やかつての中国など共産主義国家がいかに悪魔的だったかという、その全く正反対がスイスなどの例と見られる。その真髄は、民間の活力をいかに引き出しながら、なおかつ国の羅針盤となるエリートに最良の人間をいかに据えるかというノウハウの結晶である。
この連中の一大特色は、日本や日本人に露骨に嫌悪感や軽蔑を示して、えらそうに説教しながらも、(共産主義イデオロギーに簡単に洗脳されるなど)くだらない外国流行に迎合したり、特権的な既得権益だけはむさぼりつくし平気でその上にあぐらをかきながらも、あたかも自分は独立独歩の精神をもっているように思い込んでいることである。
たとえれば、ロシア革命が起こる前のロシアの似非知識人とよく似ている。彼らは、ロシアを罵倒しながら、西欧の悪いところとロシアの悪いところをあわせもっていた。日本の戦後の知識人も、西欧の生み出したゴミである共産主義と、既成事実に従順で改革ができない日本人の悪い象徴であった「占領軍による棚からぼたもち式」の非武装平和9条を看板にするなど、西欧と日本の悪いところを合体させた存在である。
ロシア革命前のロシアの似非知識人もリベラルに見せかけた空想家であったが、実にそれもよく似ている。そして、自分たちをリベラルに見せかけるため、徒党をくんで誰か彼やを「リベラルの敵」として言論弾圧するのである。
これら自称知識人は常識ではありえないほど、日本特有にガラパゴス化されていた。たとえば、家永三郎の教科書を文部省(文部科学省)が検定したときには、総出で「検定をやる日本は民主主義国家ではない」と大合唱したが、右派系の教科書が検定を通ったときは、「こんな出版は許されない。中国も韓国も怒りくるうだろう」と叫んで、本当に中国や韓国が怒り狂うように、海外から圧力をかけるようにそそのかすのだから手に負えない。
頭がおかしいというのは語弊があるが、そうとしか言いようがない。こういう自称リベラルが、「平和主義者」に見せかけるために憲法9条が利用されたのだから、ややこしいことこの上ない。外国人にはさっぱりわからないだろうな。
公共放送を名乗るNHKなどはその象徴である。
本来の民主主義国家であるならば、憲法9条について、憲法学者や国際政治学者や安全保障の専門家を集めて、公共放送で公開討論を行ったはずである。ところが、ひたすら印象操作を駆使して、一方的な主張を貫徹できる自称知識人がメディア等で幅をきかせる。日本は異様である。なんとか出来ないのだろうか。すぐれた政治家に期待したいところである。
江戸が鎖国から解放され、明治時代になった時の政治の方針の五箇条の御誓文にはこうある。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
広く会議を開いて、すべての政治は人々の意見によって行われるようにしましょう。
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
上の者も下の者も心を1つに、国を治めていきましょう。
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
身分にかかわらずに、誰もが志を全うし、その意思を達成できるようにしましょう。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
今までの悪しき習慣はやめて、国際社会に合った行動をしましょう。
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
新しい知識を世界から学び、天皇が国を収める基礎を築いていきましょう。
私は、この政治方針は、「立憲君主制」の民主主義の日本にふさわしいものであった、と思う。
私は、イランの問題と韓国との問題は、別次元である、と思う。イランに対しては、欧米諸国との「2015年の核合意に戻る」ための仲介に徹すること、韓国に対しては、歴史的な事実を基に、客観的な真実を示し、明治維新から現代までにおける朝鮮半島に対する日本の歴史認識をきちんと示すこと、がぜひ必要だと思う。
傍から眺めていると、‘L’âne frotte l’âne.’(驢馬が驢馬を擦る)、つまり「莫迦が莫迦にお世辞を言う」という、フランス語の辛辣な表現を思い出す。âneは男性名詞で「驢馬」、愚か者という意味もあるのは、欧州諸言語に共通する。
取るに足らない(φλαῦρος)凡庸な(μέτριος)な人間同士が褒め合う(αἰκάλλειαν)、仲間褒めする(κολακεύω)様子を、驢馬の習性になぞらえたわけだ。
「擦る」(flotte)というのは、「お世辞を言う」(flatter)の比喩で、いずれも、何んとはなし気分がよくなるという点で共通する。少なくとも悪い気はしないのが、オルテガ・イ=ガセなら「平均人」(el hombre medio)と呼んだ「大衆」(las masas)特有の気質だ。
ラテン語にも、驢馬が驢馬を擦る(‘asinus asinum fricat’)、という成句がある。莫迦な人間同士がもたれあって、互いにお追従(ἀρέσκεια)を言いあって、つまりお世辞のエールを交換してじゃれあっている様子を揶揄したものだ。
古代ギリシアなら、「驢馬から落ちる」(‘ἀπ’ ὄνου πεσεῖν.’)という諺言(παροιμία)、頓馬の譬えがあるが、驢馬(ὄνος)という言葉は、ラテン語(asinus)でもフランス語(âne)がそうであるように、莫迦というニュアンスがあるのは同じだ。
旧会社員氏のいつもの八当たりぎみの粗雑な立論は感心しないが、カ氏に共感を示されても困るかもしれない。少なくとも旧会社員氏側から同調姿勢を示すことは稀で、迎合するのはほとんどが老媼の方だから。
‘À laver la tête d'un âne, on perd sa lessive.’(直訳すれば「驢馬の顔を洗っても洗剤が無駄なだけ」という意味。その含意は想像すればカ氏にも思い当たる節があろう)。日本語にも「何んとかにつける薬はない」という。
‘ile huic est M. Tullio superior, hic illi Platone doctior.’(「あなたはマルクス・トゥリウス[キケロ=筆者註]より優れておいでだ」「あなたこそプラトンより博学でおられる」)
冒頭はエラスムスの『痴愚神礼讃』(‘‘Encomium Moriae’’[‘‘Laus stultitiae’’], 1509)に出てくる言葉で、「驢馬が驢馬を擦る」と同じことが、愚鈍な民衆(その大半が精神的な気質としては「大衆」)だけでなく、旧会社員氏が糾弾(ἐπιτίμησις)する自称であるとなしとを問わない「似而非知識人」に限らず、職業的知識エリートの間で珍しくないことを物語る。それを揶揄する言葉、諺、格言、成句の類が古来から伝えられているくらいだから、日本の「左翼」に特有の現象ではなく、人間性の問題であることもまた明白だ。
旧会社員氏が篠田さんの議論の脈絡に関係なく、善良な民衆を「上から目線」で小馬鹿にする似而非知識人への嫌悪感を本欄で繰り返し剥き出しにするのは勝手だが、所謂左翼勢力、共産主義者がメディアやアカデミズム、教育界に巣食い蝟集し、支配しているか否かは、そう単純には言えない。
いずれも人間集団であるから、誠に立派で謙虚な人物もいれば、知能の程度は悪くはなく、わが国で人々が讃仰する有名大学を出た一廉の人物でも「愚鈍な」嫌悪すべきインテリもおろう。それ以上でも以下でもない。
人は別に「共産主義」というイデオロギーだけに騙される(ἐξαπατηθῆτε)わけでもない。カ氏のような本人にその自覚があるのかないのか判然としない(高々主婦と自認するからあるようでもあり、「私は無学ではない」と否定するからないようでもある)無学極まる人物にもそれぞれご立派なご本尊(ゲーテ、R. von ヴァイツゼカーから芦田均、楠山義太郎)がいて、手放しの布教活動に余念がないから、その自覚されざるイデオロギー(虚偽意識性=das falsche Bewußtsein)体質は他を嗤えない。
また、旧会社員さんの主張されるように、メデイアやアカデミズム、教育界は所謂左翼勢力、共産主義者が支配していたのではないのだろうか。国旗、国歌はナショナリズムを煽るという理由で「卒業式」には使わない。成績の悪い子がかわいそうだから、徒競争の禁止、学校格差をなくすための公立学校の学区制の創設。弟が小学生の時は、「義務教育で中学に進学できるのに、私立進学中学を受けるものは、裏切り者だ。」と担任の教師が洗脳した。公立の進学校出身の私は、親の収入に関係なく、知的能力の高い子供が、知的能力の高い子供通し、切磋琢磨していくことが学生時代は必要だと思ったので、その教師の家に行って、話したが、夫婦そろって団塊の世代で、左翼思想にかぶれていた。
バッハの音楽でも、メンデルスゾーンが再現しなければ、埋もれていたように、「忘れられた思想家」H.ケルゼンが「How Democracies Die」という本が米国でもドイツでもベストセラーになる今、関心をもたれているように、だれかが、本物を布教しなければ、嘘が蔓延していき、1930年代の再現がおこる。ドイツ首相のメルケルさんの主張、「真実と嘘」を峻別せよ、という考えに同感である私は、「本物」の布教活動に邁進していきたい。
‘Ἐκ ταυτησὶ δὴ τῆς ἐξετάσεως, ὦ ἄνδρες Ἀθηναῖοι, πολλαὶ μὲν ἀπέχθειαί μοι γεγόνασι καὶ οἷαι χαλεπώταται καὶ βαρύταται, ὥστε πολλὰς διαβολὰς ἀπ᾽ αὐτῶν γεγονέναι, ὄνομα δὲ τοῦτο λέγεσθαι, σοφὸς εἶναι• οἴονται γάρ με ἑκάστοτε οἱ παρόντες ταῦτα αὐτὸν εἶναι σοφὸν ἃ ἂν ἄλλον ἐξελέγξω. τὸ δὲ κινδυνεύει, ὦ ἄνδρες, τῷ ὄντι ὁ θεὸς σοφὸς εἶναι, καὶ ἐν τῷ χρησμῷ τούτῳ τοῦτο λέγειν, ὅτι ἡ ἀνθρωπίνη σοφία ὀλίγου τινὸς ἀξία ἐστὶν καὶ οὐδενός. καὶ φαίνεται τοῦτον λέγειν τὸν Σωκράτη, προσκεχρῆσθαι δὲ τῷ ἐμῷ ὀνόματι, ἐμὲ παράδειγμα ποιούμενος, ὥσπερ ἂν <εἰ> εἴποι ὅτι “οὗτος ὑμῶν, ὦ ἄνθρωποι, σοφώτατός ἐστιν, ὅστις ὥσπερ Σωκράτης ἔγνωκεν ὅτι οὐδενὸς ἄξιός ἐστι τῇ ἀληθείᾳ πρὸς σοφίαν”. ταῦτ᾽ οὖν ἐγὼ μὲν ἔτι καὶ νῦν περιιὼν ζητῶ καὶ ἐρευνῶ κατὰ τὸν θεὸν καὶ τῶν ἀστῶν καὶ ξένων ἄν τινα οἴωμαι σοφὸν εἶναι• καὶ ἐπειδάν μοι μὴ δοκῇ, τῷ θεῷ βοηθῶν ἐνδείκνυμαι ὅτι οὐκ ἔστι σοφός.(Apologia Socratis 22E~23B)
それを独力で判読できる知識も余裕もない人間を、「無学」(ἀπαιδευσία)という。
他を批判している場合ではなかろう。
‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ.’(Προς Ρωμαιους, XI, 20)
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