石破茂氏による「国際法における『軍』など」と題された記事を見た。http://agora-web.jp/archives/2041771.html?fbclid=IwAR3eGDB0mdJKmcH3Fi2v84iNviJZA09H0qWKKyuxrauAX7CQH5SGwPP7px4 憲法改正をめぐる議論もかなり行き詰まってきたな、と感じる。自民党の中ですらこの状況なのだから、憲法改正の可能性は低いと見積もらざるを得ない。
石破氏は、「自民党総務会において正式に党議決定された自民党案」に固執する。正直、この野党時代の自民党の「自民党案」こそが、改憲反対派に勢いを与えてしまっている代物である。
石破氏は、次のように述べる。
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「『軍』は本来、三権以前の自然的権利である自衛権を体現する。よって、国内法執行組織である行政と同一ではない。ゆえに「文民統制」と言われる、国民主権に依拠した司法・立法・行政による厳格な統制に服さなければならない」
これが国際的な常識であり、国際社会においては至極当然のことなのです。我が国の憲法はこの国際的な原則をまったく無視して作られています。「自民党案」が提起しているのは、すでに我が国に定着している「自衛隊」のあり方を、このような国際的な原則に合致できるように改正しよう、ということなのです。
―――――――――――――――
石破氏は、「三権以前の自然権的権利である自衛権」という特異な概念が「国際的な常識」だと主張する。大変な主張である。これは少なくとも説明を施すべきである。しかし石破氏は何も根拠を示さない。
国連憲章51条は「個別的又は集団的自衛の固有の権利(inherent right)」を定めている。しかし国連憲章制定以前から存在した権利としての自衛権の存在については、「慣習法」を言えば足りる。そもそも「条約」と「慣習」だけが国際法の二大法源である。果たしてその二つの法源で成り立っている国際法のどこに「三権以前の自然権的権利である自衛権」が「国際的な常識」であると断言するための根拠があるのか。
石破氏によれば、「軍」は「三権以前の自然権的権利」を行使するがゆえに「文民統制」に服さなけばならないのだという。自民党憲法改正案は、内閣総理大臣を「国防軍」の「最高指揮官」とする。https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf 石破氏によれば、「軍」は「行政権」の一部ではないが、「文民統制」をかける必要から、やむをえず行政府の長である内閣総理大臣を借りてきて「最高指揮官」に据えておく、ということであるらしい。内閣総理大臣は、いわば借り物の「最高指揮官」だ。石破氏によれば、「行政権」と「軍」は別のものだが、「軍」を統制するためには、別組織の長を借りてきて、「最高指揮官」と名乗らせなければならない、ということであるらしい。「軍」にとって「最高指揮官」は借り物でよそ者なのである!
ということは、防衛大臣もよそ者の行政権からの借り物なのだろうか。となると防衛省という組織も行政権からの借り物なのだろうか。大変な事態だ。
これはどう考えても、石破氏は、戦前の大日本帝国憲法の「統帥権」時代の発想で「軍」を考えている。つまり大日本帝国憲法こそが、「国際的な常識」だ、と主張しているのである。大変な事態である。
自民党改正案は、様々な面から様々な批判を浴びている。石破氏の主張する「国際的な常識」の観点から、自民党改正案の特徴を一つ指摘するならば、「国」の概念の斬新な導入である。たとえば自民党憲法改正案の「9条の3」は、次のように定める。
―――――――――――
国 は 、 主 権 と 独 立 を 守 る た め 、 国 民 と 協 力 し て 、 領 土 、
領 海 及 び 領 空 を 保 全 し・・・
――――――――――――
「国」という存在が、「国民」と切り離され、全く別の存在として、「国民」と「協力」して、自衛権を行使するのだと言う。
主権者である「国民」と切り離され、別個の存在として並置される、この「国」というのは、いったい誰のことなのか?
自民党憲法改正案は、「国」が誰なのかについて、明確には説明していない。石破氏も、説明しない。ただ主権者である「国民」と併存関係にある「国」こそが、「三権以前の自然権的権利である自衛権」を行使する、それが「国際的な常識」だ、と石破氏は主張する。全く根拠を示さないまま、石破氏はそのように主張する。
なお現行の日本国憲法には、「国民」と並列関係にあり、「三権以前の自然権的権利である自衛権」なるものを保有する、謎の神秘的存在である「国」は、存在していない。
石破氏の主張は、現行の日本国憲法の概念枠組みを根底からひっくり返す革命的な主張である。ところが根拠が不明なのである。
石破氏は、一部の憲法学者のガラパゴスな議論に騙されて、日本の憲法学通説が依拠している時代遅れの19世紀ドイツ国法学の枠組みを「国際的な常識」と誤認してしまい、大日本帝国憲法時代の「統帥権」や「統治権」の概念を復活させることこそが「国際的な常識」だと考えてしまっているのではないか?
石破氏は、ガラパゴス憲法学通説の絶対無謬を信じる者だけが憲法改正を主張することができる、と思いつめてしまい、日本国憲法を大日本帝国憲法に戻すことが「国際的な常識」にそうことだ、などという誤解をしているのではないか?
自民党の有力議員が、こうした「ちゃぶ台返し」的な憲法論を主張しているのだとすれば、これはやはり憲法改正は困難を極める。これでは現行憲法の解釈論の混乱すら、収拾できない。
石破氏に、日本の憲法学の通説=絶対無謬、という世界観から離れるように働きける方法はないものだろうか。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1569690919&s=books&sr=1-1
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篠田教授過去記事「長谷部恭男教授は、いつから「War Potential」を語り始めたのか」http://agora-web.jp/archives/2038336.html< でも憲法学「通説」隊隊長といわれる長谷部教授も、遠回しながら篠田教授(など)の議論の正当性を認めつつあります。
戦い(といっても議論ですがw)は、長が~いですけど、始まったばかりです。野球でいえば1点ずつバントで取っていって、最終的に(9回までに)、勝つ作戦です。これから議論していくには、いきなりホームランや本丸を目指すのではない中長期的な作戦で行くべきです。繰り返しますが、最初から「不戦敗」のような考え方はないと思います。
自らと見解を異にする相手に、これまで見境なしに、散々「ヒトラーと同じ」 とか「ナチズムと同類」という趣旨の論評をしておいて、その舌の根も乾かぬうちに、50⇒【河村市長に大村知事は、「ヒトラーと同じだ」と言ったそうであり…「大村知事」に、その意思がなくても、ヒトラーのような偏った「政治的主張」ある人の味方】のようなわが耳を疑うご都合主義の発言繰り返して、気に病む様子もない。
50②⇒【現在のマスコミの糾弾調の人格攻撃、レッテル】と非難するが、カ氏のやっていることも、それと選ぶところはない。
クズ(φορυτός)にも等しい益体もない投稿が止み難い日課(ἡ δίαιτα)になっている齢70近い老媼だから「老生常譚」(老婆の他愛ないおしゃべり⇒‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)と評するしかないわけで、何の不思議があろう。真実(τὸ ἀληθές)は厳しいものなのだ。そうした弁えのないカ氏に真実など語る資格(ἀξίωμα)はない。
何も知らずに、莫迦の一つ覚え(ὑπόληψις καὶ δόξασμα)のような見解を披歴している。50③⇒【アメリカはデイベート、ドイツは、デイスカッション、日本は話し合い】のような紋切り型の俗説を並べる前に、それぞれの「厳密な定義」(ἀκριβῶς ὁρισμός)に基づく首尾一貫した立論をしたらいい。
できるものならば、だ。
‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(La Rochefoucauld; Maximes 386)
ただ同時に、シリア情勢などを見て、北朝鮮の核ミサイル攻撃の的になって、日本がシリアのようになったらどうなるのだろう、と思っている為でもある。実家が阪神大震災で全壊になったせいかもしれないが、スイスの核シェルターを見て、日本人は、どうしてこんなに呑気なんだろう、と心底思った。
革命直前ロシアにおられた芦田均さんは、ロシア革命の実像を知り、日本国憲法を作るうえで、英米流の「民主主義」、(現在の「英米の政権」はそうではないが)、国際協調と国家平等の原則を基調とされたのである。吉田茂さんも同じである。ところが、民主主義と共産主義を混同した、言い換えれば、「共産主義が進んだ政治体制である。」とソ連東欧、中共、北朝鮮の実像を知らない丸山真男さんや清水幾太郎さんたちが、左翼運動をおこし、マスコミもマルクス主義を「進んだ理論と勘違いして」それに同調したから、憲法学会を含めて学界がガラパゴス状態になったのではないのだろうか。ナチスの法的基盤を作ったC.シュミットのような法学者をご本尊にするなど、本当にあり得ない。
現在の日本社会に本当に必要なものは、芦田均さんが提唱されている「ほんとうの」日本国憲法の3大原則、お互いに人格を尊重すること、(妥協と協調を基盤とする)民主主義を実行すること、平和を愛する精神をもって世界の諸国と交わりをあつくすること、に尽きるのではないのだろうか。
左翼は、8月革命説やカントの定言命法の「絶対平和主義」的解釈をし、現実化することは無理でも、それによって平和や人権が守られる、と主張するし、右翼は、「アメリカの押しつけ憲法論」を取っているが、アメリカからの原案を、90回の帝国議会で日本の立法府が修正して、日本国憲法にしたのであって、高柳健三教授の「日米合作論」が正しいのである。
それは、内閣府が発行した新憲法の解説の中の、憲法担当の国務大臣金森徳次郎さんが書かれた文章でも明らかである、私は世にも珍しい幸運者であった。今回の改正憲法の議会審議に当たり、百余日に亘って、両院の有力議員とともに、論議を交換し・・、あるいは、この憲法の改正にあたり関連して前述のごとく多数の識者に依りかくも広くかくも強く心を開発されたことは、世にもまれな幸運に恵まれた者・・、或いは、改正憲法は何一つ難しい原理を有しているのではない。人間を尊重し、平和と正義を正視しうる者にとっては、其の人の直感がおそらく憲法に合致する、など。日本の立法府の人々が100余日真剣に討議をし、金森さんが広い知見を得られて幸運児であった、と形容される憲法は、アメリカの押しつけ憲法ではない。また、平和と正義を正視する日本の普通の人に、その内容が直感できるようにできているということは、カントの哲学、その他難しい法理の知識はいらないのである。
そこにはこうある、戦争放棄の規定は、我が国が好戦国であるという世界の疑惑を除去する為、戦争は国際平和団体に対する犯罪であるとの精神を、我が国が率先して実現していくことの効果をねらったものであり、大胆に捨て身になって自ら全面的に軍の撤廃を宣言することにした。日本の安全保障は、国際連合51条で明らかに自衛権を認めているのだから、安全保障理事会は兵力をもって被侵略国を防衛する義務を負うのであるから、今後我が国の防衛は、国際連合に参加することで全うせられることになるわけである、ともあった。日本国憲法実施後、朝鮮戦争が勃発して、侵略された韓国は国連軍という名前の米国を中心とする軍隊のおかげで防衛され、韓国の現在があるわけであるが、その後、国際連合の安全保障理事会はほとんど機能しなくなり、中東やアフリカでは紛争が続いている。
侵略される可能性がある以上、どのように日本を防衛するか、具体策を真剣に考えなければならないのではないのだろうか。
従って、情け容赦ない、血も涙もない、殺伐非情の論理主義者に徹している、「殺伐非情」は現在、「離群索居」の気ままな余生を送る私の半ば座右の銘だ。
それにしても43、55~56は特に酷い。端的に頭が悪いのだろう。主張していることが意味をなさない。思想的立場、信念・信条、経験や党派などで人々はさまざま異なった見解、それをイデオロギーと称しても差し支えないが、本欄に複数回投稿している諸氏で、カ氏ほど愚鈍な人物を私は知らない。多分、皆「既知の事実」として知らないふりを装っているのだろう。それも、日本的作法というか、水入らずの「お話合い」、もたれ合いを善しとする美徳であり、習性なのだろう。
それにしても、きちんとした文章作法や論理的訓練が全くできていない素人だから、その議論が支離滅裂で一貫性がなく、それを糊塗するごまかしが過ぎる最近は、特に酷い。論理的には、ほとんど「白痴」(ἠλίηθιος)の戯言(ἀλαζονεία)に等しい。党派的な「弱論強弁」(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)なら、その「虚偽体質」はともかく、少しは救いがあろうが、どうやら本気のようでもある。
43⇒【「国の交戦権」、というドイツ国法学の概念については、ドイツ人の元教授に教わり、自分なりに納得し、説明したつもりであるが、「統帥権」というよくわからないドイツ法学の概念は、なにものなのだろう。…】。
一読して、石破茂氏の憲法論についてではないが、思わず嘆息をらした。οἴμοι.
9月27日・77⇒【「ドイツ国法学」…プロイセン憲法、オーストリア憲法、ワイマール憲法、現在のドイツ基本法、とそれぞれに特色…ということもよくわかった】のような愚鈍の見本のような主張は今回も健在だ。
他方で、9月25日・34⇒【大事なことは、多くの語学ができる…より…語る内容】のような二重基準の放言も辞さない。カ氏くらい自身の過去の発言に責任をもたずに、ころころと主張を変える人物も珍しい。恥知らずの「論過の人(παραλογισμός)たる所以だ。
ドイツの無学な民衆が日本語が話せたと仮定して、気ままな床屋政談に等しい法螺話を日本語でしているのを、カ氏がドイツ語を使ってしているのに置き換えてみれば分かりやすい。もっとも、カ氏はヴァイツゼッカー演説をコピペするくらいしか能がない。
メディアにたぶらかされても、当然のことながら、日本の民衆の方がドイツのそれより平均的レベルでは賢い。53⇒【シリアの国土がいかに悲惨…ドイツのテレビは伝えているが、日本のテレビはまるで伝えない】は、テレビばかり見ている割には甚だしい不見識だ。
その日または前日の討論番組の様子をその時々のトピックスとは関係なくあれこれ素人批評するカ氏のおなじみのスタイルは、暇をもて余した苛ついた主婦のお調子者の暇つぶし以外に何に譬えよう。それで、54⇒【経験を語ることが、年長者の務めだ】のように逆上せ上がっているから滑稽だ。
「高柳健三」(55)などという憲法学者は存在しない。
芦田解釈を取れば、現行の「平和安全法制」は、立派な「立憲主義」に基づいた法律なのである。
昭和初期の「明治憲法」をめぐって「絶対君主主義」と「立憲君主主義」があった。立憲君主主義は、民主主義であるが、絶対君主主義は、そうではない。軍閥が、「絶対君主主義」に「統帥権の干犯」をからませて、天皇にしか「軍事」についての権限はない、として文民に、いわゆる「首相」に軍事についての権限を与えなかったから、日本の「民主主義」は崩壊してしまったのであって、日本人の「思考の脆弱性」のためではなくて、その主張を煽った「マスコミ報道」の責任なのである。
そういう意味で、芦田均さんは、日本国憲法の三大原則の中に、「民主主義を正しく実行すること」を入れておられるのだと考えている私は、日本国民は、「民主主義」、「立憲主義」とは、いったいなになのかをもう一度再確認し、権威の名をかりた「まやかしの主張」に騙されないようにしなければならない、と強く思う。
しかも、プライドだけは一人前の虚飾に満ちた人物ながら愚鈍極まりないから、有体に言えば頭がおかしいのではなく「低能」(ἀμαθία)だから、これほど投稿を重ねても、何より篠田さんの憲法や集団的安全保障に関する3冊の著書を読んだはずなのに、この期に及んで、60⇒【「芦田解釈」をすれば、日本国憲法9条上、「集団的自衛権」は、違憲ではない】のような、呆けた主張を繰り返している。
「集団的自衛権」は合憲であろう。しかしそれは、そもそも「芦田修正」など全く必要とせず、ただ確立された国際法規範、特に国連憲章と連動させ、整合的かつ総合的に解釈すれば、合憲である、というだけのことだろう。「芦田修正」など、あってもなくてもよい「盲腸」なのだ。
その程度のことが理解できないで、莫迦の一つ覚えのように、憲法公布直後の熱狂(μανία)の中で書かれた芦田による僅か99頁のパンフレット『新憲法解釋』(1946年)を、しかもその現代語訳らしいが、金科玉条にして布教活動とやらに専心して(σπουδάζω)いる。憲法論議に精神の幼児の出る幕はない。
もはや、正気にさせる(σωφροσνιζω)すべはないのかもしれない。
‘ψυχῆς ἄνοιαν συγχωρητέον, δύο δ’ ἀνοίας γένη, τὸ μὲν μανίαν, τὸ δὲ ἀμαθίαν.’ (Timaeus, 86B)
また、篠田英朗さんが主張されるように、ただ確立された国際法規範、特に国連憲章と連動させ、整合的かつ総合的に解釈すれば、合憲なのだろう。ただそれは、国際法、国際憲章を熟知された場合、そう認識できるのであって、私たち「普通の人」には、自信をもってそう認識できない。そして実は、外交官でもあり、国際法を熟知される芦田均さんも、哲学はわかるが、国際法はよく知らない、いわゆる「護憲派の憲法学者」と違って、そういう個性の政治家だったのではないのか、と思う。その為に、日本国憲法公布前に、「新憲法解釈」のような本を書かれたのであって、芦田さんが「日本国憲法」の健全な発育を願ってこの著書を書かれたことは、前文から明らかである。
また、昨日中国は建国70年の記念式典で、盛大な軍事パレードをしたが、日本国憲法が実施され70年以上たっても、中国も他の国も「日本国憲法9条」の軍事力放棄の精神を受け継ぐ意図がないことは明らかである。また、貿易摩擦の激化で「新冷戦時代」言われている「国連安全保障理事会」の拒否権をもつ大国、米国と中国が協力して、日本が被侵略国になった場合、防衛してくれる、などということが期待できるかどうか、ちょっと考えれば、わかることではないのだろうか。
それだから、63⇒【私が、ギリシャ語だけを削除してその他の部分を引用するのは、公正さを期すため…古代ギリシャ語が読める日本人はよほど特殊な人だし、読者の中にはいない、と思うので…入れない】と見当違いの見苦しい言い訳(ἀπολογία)を重ねている。
何が「公正」(τὸ ὀρθός)だか知れたものではないが、読者にとって訳文に添えたギリシア語は既知のもので、別にギリシア語を解さないがゆえに、読者が誤った方向に誘導される恐れなど、皆目ない。
逆に、削除しないと、相手側の立論の趣旨を要約もせず、カ氏が悪癖であるコピペで安着に済ませていることが明からさまになるのがバツが悪いだけだろう。負けず嫌い(δυσμεταχείριστος)の言い逃れも甚だしく、しかも63自体が悪質な論点ずらしの、しかもそれがすぐばれる間抜けな詐術的議論だ。
なぜなら、私が62で指摘した趣旨は、カ氏が投稿60で全701文字の36%相当をコピペで済ませるクジラの髭並みの強靭な神経(νεῦρον)は、どうかと思うということだ。そうしたことは、カ氏以外、誰もしていない。
63②⇒【(集団的自衛権の合憲性は=筆者註)国際法規範、特に国連憲章と連動させ…解釈すれば、合憲なのだろう…私たち「普通の人」には…認識できない】というが、多くの読者はカ氏ほど愚鈍ではあるまい。
63②⇒【(集団的自衛権の合憲性)について、多くの読者はカ氏ほど愚鈍ではあるまい、篠田教授の論旨を理解している、という意見だが、それならなぜ、篠田英朗さんの「本当の憲法」が発行されてから2年たっているのに、篠田教授の意見が国民の大勢を占めず、護憲の支持者が多いのだろう。これは、学校教育のせいもあるし、マスコミ報道のせいもあるが、やはり、東京大学の憲法学教授には最高学府の専門の教授としての権威があるから、人はその理論を信じてしまいやすいせいなのではないのだろうか?また、偉大な俳優、戦争を体験した仲代達也さんの主張だから、ということで、「集団的自衛権を合憲化」すると、アメリカの戦争に巻き込まれる、「9条を改正したら戦争になる。」と思う人が多いのではないのだろうか。人は、理性だけではなくて、感情で判断しがちなものなのである。内閣法制局長官の小松一郎さんにしろ、東京大学を卒業していない法制局庁長官、ということで、どれだけその憲法観を批判されただろう。9条を修正した芦田均さんと同じ憲法観をもっておられた方だった。日本政府の「安全保障政策」には、日本人の生命と財産がかかっている。映画や演劇、スポーツのような仮想現実ではない。今朝もまた北朝鮮はミサイルを発射した。「政策」そしてその基盤となる「憲法」に本気になるのは当たり前なのではないのだろうか。
また、小松一郎氏の任命に関しては「東京大学を卒業していない」という学歴による批判ではなかったかと思います。憲法学者やマスコミが批判していたのは、その是非はともかくとしても、従来の慣例を破って内閣法制局の勤務経験が全くない外交官出身者を任命した点だったかと思います。
さらに、あいちトリエンナーレの補助金不交付に関する三浦瑠麗氏の発言の引用(コメント5)も正確ではないように思います。三浦氏は、今後の地域芸術祭への悪影響を懸念していたもので、「検閲」にあたるとは発言していないのではないでしょうか。
小松一郎さんに関しては、東京大学を卒業していない、という批判もありました。実は、夫も小松一郎さんと同学年で、学生運動の為に、東大入試がなかったのです。だから、夫の学歴も東大ではありません。いくら優秀であっても、不可抗力で現役では入学できないのに、この批判は無茶苦茶だと、記憶に残っているのです。
また、三浦瑠璃さんの言葉に、「検閲」という言葉があった、と記憶しています。またたとえ、検閲という言葉がなかったとしても、「表現の自由は無制限に許される。首長は、公的資金を使う展示物を取捨選択することはできない。」という主張は、実際には「検閲」と同義語で、このような「公共の福祉」を害するものを展示するために、公的資金を使う、ということの方が、今後の地域芸術祭への悪影響を懸念します。
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65⇒【反氏には、他人の立場に立って考えることがない】も何もない。私にカ氏に都合のよい立論をする義理も借りもありはしない。ただ、事柄自身(πρᾶγμα)が要求する(αἰτεῖσθαι)のに従って、情け容赦なく、殺伐非情に、つまり論理的に指摘すべきことを指摘している。
その結果、有効な反論ができないカ氏は、絶滅するに等しい打撃を受けるだろうが、所詮は言説と言説の争いであり、手加減する必要などありはしない。相手が如何に愚鈍でも、その水準に合わせる必要はない。莫迦が移るからだ。相手を論破するまで追及の手を緩めないのは、争論相手へのせめてもの敬意だし、礼儀だろう。
カ氏はどこまで甘ったれた精神のもち主なのだろう。それで、54⇒【私が…投稿しているのは…経験を語ることが、年長者の務めだ…から】のような、戯けた御託を並べていること自体滑稽だ。
凡庸かつ陳腐なカ氏の在外経験が何事か「特別な意味がある」(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)かのように錯覚するのは自由だが、説得力を生む立論上の工夫を凝らすべきだ。
批判対象とする私の文章を引用するのに、原意として添えた括弧内のギリシア語を削除するのは、コピペする以外にギリシア語を表記することができないカ氏がコピペばかりしていることをカムフラージュするために行うごまかしにすぎない.
65②⇒【字数を多くしたい、という気持ちもない】は語るに落ちるの典型で、全体の36%もコピペで稼いでいることをカ氏自身が図らずも自覚していることを自ら暴露する(ἐκφαίνω)に等しい。
ご大層なことを言いたかったら、自らの言葉で批判の俎上に載せたい私の文章を要約し、好きなだけ難点を抉り出せばよい。できるものならば、だ。
彼は、冒頭、同芸術祭のコンセプトとして「情」という言葉が深く関わっているとし、「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」「人情・思いやり(→なさけ)」と主に3つの意味があると説明。これを踏まえ、「世界を『対立軸』で解釈するのではなく、直感に訴えるアートの持つ力、『情け』をフィーチャーしようとしていた、と語っている。
そういう津田氏の意図を読んで、芸術を悪用しようされようとしている津田氏の意図もよくわかった。そういう危ぐで、私は「この展示会を公費で開催」するのに反対なのである。
ナチスの目論見を助成するのと同じだからである。
「平和の少女像」の意味しているものが「歴史の真実」なら、ネットが炎上しても、脅迫があっても、警備を強化して展示会を再開すべきだ、と私は主張するだろう。「平和の少女像」の象徴しているものが、「歴史の虚偽」だから、反対するのである。
それは、その「平和の少女像」を入場者が見ることによって、あたかも、「従軍慰安婦」についての韓国の主張が、感情を通じて、真実のように入場者にインプットされ、ムン政権の主張が「歴史上の事実」のように錯覚され、入場者の中に「従軍慰安婦」だと主張している韓国女性に思いやりが生まれ、まっとうな歴史認識をしている人々へ彼らの非難の矛先がいくからである。それが、ムン政権をはじめとする「反日の政治活動をしている人々」の目論見なのではないのだろうか。それだけの力を、芸術作品はもっている、ということを忘れてはいけない、と思う。
一般的な憲法解釈によれば、表現の自由といえども絶大無制約ではなく名誉毀損罪、猥褻物陳列罪、脅迫罪等の刑事罰に抵触する言論を許すものではありません。属性一般に対するヘイトスピーチについては規制対象とすべきか議論があるところですが、日本ではアメリカと同様に表現の自由を重視する観点から法的規制は困難と理解されています。
法律、というものは、我々の代表者が決めるものなのであって、日本はアメリカと同様に表現の自由を重視する観点、と言っても、実際の日本人も、戦前の好戦的な詩人の詩に惑わされて侵略戦争をしたのだし、日本国憲法上も、12条に「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とあるのだから、日本国民が、日本国民のための政治をすればいいのではないのだろうか。それが、「民主主義政治の原点」である。
また、公的助成の論点も確かにありますが、一旦、決定した公的助成を表現内容に着目して取り消すことは上記の類型以外は出来ません。だからこそ、文化庁は、それが真の理由であるかは兎も角としても表現内容ではなく手続的不備・瑕疵を理由に挙げているのです。文化庁の論理に従えば、補助金申請通りに開催すべきであり脅迫に屈して文化庁に相談も無く勝手に中止してはいけなかったのです。
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1421672.html
現実に、日本国憲法も、法律も改正が可能なのであって、マルクス主義がかった反権力の「イデオロギー対立」やアメリカの法理論ではなく、世界の文化をうまく取り入れる日本人の特性を生かして「日本国民の福利」に資するように改正すればいいし、本来そうあるべきなのである。それが、私が体験から導き出した結論である。「書くものに、自分の体験が生きているか?」というゲーテの金言どおりの作文をしようと努力しているのである。
要するに、当時の「鬼畜米英」の主張、つまり当時のある一部の思想家の主張、日本の民族主義、「反英米」の主張が、マスコミによって増幅され、またバックアップを受けて、日本国民の総意となり、日本の戦争への後押しをしたように、ムン大統領が旗をふる朝鮮の民族主義の「反日運動」、がそうなる危険性があるのである。
昭和天皇陛下の写真をバーナーで燃やし、足で踏みつける、というのも、同じ「反日」の政治活動の一環である。それに、旧会社員の方がよく描写される日本の左翼の政治運動家が加担しているのではないのだろうか。
この「少女」像は、日本以外にドイツを含めて、世界中に旧日本軍の蛮行であるという文句と共に、設置され、その設置数は爆発的に増加しているのである。この事態は、私の投稿に多くの誤りや論理矛盾があり害悪を及ぼす、とは異次元な規模で、日本の国益を損ね、日本への敵対心を煽っている。
また、「少女像」が「公共の福祉」に反するから規制可能ということになれば、「公共の福祉」を名目にすれば表現内容に着目した規制が幅広く出来ることになります。これはカロリーネ氏が盛んに批判する戦前の日本への回帰です。国益に反すると思うのであれば、脅迫罪や業務妨害罪等の犯罪にならない範囲で、対抗する言論で批判すれば良いのです。これが国際常識です。カロリーネ氏は諸外国で建てられた少女像が法的規制されていないことについては、どう説明をするのでしょうか。
繰り返しになりますが、文化庁も、少女像等の表現内容に着目して補助金を不交付にしているわけではなく手続上の瑕疵を理由にしているのです(文化庁の理由が建前上のことなのか本当にそうなのかは、行政訴訟になれば争点になるかと思いますが)。
日本では、それを防ぐための「公共の福祉」なのであって、自分たちのことだけを考えるのではなくて、みんなのことを考えなさい、ということ、そして、法律で規制するのではなくて、一人一人が自分で考えなさい、と自主性を促す条文なのである。そのことは、内閣発行の「新憲法の解説」に書いてある。
ヴァイツゼッカー演説の自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
と同じことである。
怠惰なカロリーネ氏という呼びかけは、まさに、反氏の戦略が成功したことを示している。
カ氏はこの人類普遍の法則の埒外で立論を行っている言論のならず者(ὁ μοχθηρός)、謂わば論理法則無視の無頼漢で、論理を自らの力では正確に貫徹できないから知的に低劣、つまり愚鈍であり低能ということになる。
いくら酔狂な私でも、別にカ氏に、69⇒【マイナスイメージを植え付けて、批判ばかり】しているわけではない。投稿すれば間違いだらけのカ氏の瑕疵を個々に指摘しているにすぎない。謂わば、モグラ叩き。
その手法は、「憲法学者や野党とそっくり」ではなく、れっきとした論理的手法である帰謬法(ἡ εἰς τὸ ἀδύνατον ἀπόδειξις)で、カ氏の立論(θέσις)があり得ないこと、つまり不可能性(τὸ ἀδύνατον)=不成立の所以(τὸ διότι)を、カ氏の立論に沿って論理的に(λογικός)に証明している(συμβιβάζειν)だけだ。
平たく言えば、カ氏の設定した前提からはカ氏の主張する結論が論理的必然的にけっして導き出せないことを丹念に説明している。
頭が論理的にできていないカ氏がそれを認識し得ない程度にお寒い(ταπεινότης)脳みそ(ἐγκέφαλον)のもち主だということで、何のことはない、カ氏の言説そのものが、愚鈍の証明になっている。
69②⇒【民主政治は、妥協と協調の産物…相手の人格を尊重】というが、議論の真偽の基準は民主制ではないから、カ氏の指摘は心得違いも甚だしい。逆に日々、天下自ら「莫迦」さ加減を曝しているのはカ氏自身で、身から出たサビ(τὸ ἀντιπεπονθός)なのだ。
民主制でも独裁制でも阿呆は阿呆。
しかし、折り目正しく禁欲的な議論に終始する「政府解釈」氏は、節度(σωφροσύνη)を弁えた良識(εὐγνωμοσύνη)とある御仁だから、カ氏に引きづられて議論の焦点が拡散する懸念はまずない。
逆に、本能的に論点をずらして何とかごまかそう(συκοφαντεῖν)と必死のカ氏は、カ氏が頻りにおべっかを使う中国と異なり激しい口調で糾弾する韓国の論法、つまり何ごとも、論点を移動させて言い繕う(τεχνάζω)その場しのぎの議論しかできないことを如実に物語っている。
文在寅政権と同じだ。約束を一方的に破ってゴールポストを移動させる。そういうのをアリストテレスは、「論点移行の誤謬」(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο=Aristoteles; De Caelo, 268b 1)、ギリシア語が読めないカ氏のためにドイツ語で表現すれば、「全く別の問題領域への不当な移行」(‘einen unberechtigten Übergang in ein völlig anderes Problemgebiet’)だ。
「政府解釈」氏の議論は品がよい。やくざな私などとは大違いで、随分カ氏に気を使っている。少なくとも、82⇒【何のために法があるのかは、法哲学において議論されている問題…本当に知りたいのであれば、感覚的な議論ではなく法哲学の本を紐解く(繙く)必要…怠惰なカロリーネ氏に要求するのは無理】程度の皮肉を述べるにとどまっている。
いずれにしても、「學問の進歩のためには、誤謬は如何にして生じたかゞ理解されねばならず、明白にされ得る誤謬は曖昧な正しさよりも遥かに貴重」(田中美知太郎訳『テアイテトス』の「凡例」)の精神は「政府解釈」氏に健在だ。
私の主張は、朝鮮の「民族主義者」たちの「反日」を画策する「政治活動」に勢いを与えるべきではない、ということである。韓国国民がそのイデオロギーに感化されたら、紛争の元になるからである。中国も、トランプ政権の反中政策の結果、ロシアと戦略的パートナー条約を結んだ。北朝鮮の建国史上、白頭山は朝鮮民族の建国神話の発祥地とされる。北朝鮮では、山麓一帯の密林で故金日成主席が抗日パルチザン闘争を繰り広げた「聖地」に位置づけられているが、その聖地に2018年9月20日に韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長は一緒に、韓国の大統領としてはじめて登った。二人とも左翼で抗日、言葉を換えれば、反日の政治指導者なのである。
「何のために法律があるのか、と思った。」(カロリーネ氏のコメント77)と「法律で規制するのではなくて、一人一人が自分で考えなさい、と自主性を促す条文なのである。」(カロリーネ氏のコメント83)は論理矛盾です。前者が法的規制を志向し後者が自主規制を志向している内容だからです。この一例からもカロリーネ氏はその場限りの感覚的な投稿をしており論理の一貫性への配慮がなく体系的な思考をしていないことがわかります。
なお、コメント83の「反氏の戦略」の意味するところが明らかではありませんが、「怠惰な」と私が表現したのは、カロリーネ氏の過去の投稿内容からそのような論評をせざるを得なかったからです。普段であれば使わない表現ですが、カロリーネ氏に自覚がないようなのであえて解説をすると、カロリーネ氏の投稿内容は、そのような異例の論評を使わざるを得ない水準なのです。人格を異にする以上は思想・信条や立場の違いは当然に生じることですが、私が問題にしているのは思想・信条や立場の違いを以前の議論の前提となる事柄に関する「瑕疵」(投稿内容の相互の矛盾、論理飛躍、誤記、事実誤認、誤要約、誤引用等)です。もちろん、若干の誤りであれば誰にでもあることですが、カロリーネ氏の「瑕疵」は、集計するのが困難なほどの異常な多さなのです。
愚鈍(ἀμαθία)でごまかし(τερθρύεῖσθαι)だらけの「虚偽体質」だから、誠実で(ἀληθής)謙虚な(κόσμιότης)、しかも自制心(σωφροσύνη)に富む「憲法9条の政府解釈について」氏のもっともな問い掛けに対して何ら有効な反論(περαντικόν ἔνστασις)を為し得ず、逃げ回って、何やらわけの分からない、文章も措辞も倫理構成も支離滅裂で貧弱な抗弁(ἐπιχείρησμα)、というか反論(ἔνστασις)めいた言い訳しかできない、哀れで恥知らずな「無学な婆さん」、しかも怠惰(ἀργία)で性根が腐っている(μοχθηρία)からコピペ、時には剽窃(τὸ μιμεῖσθια=plagiarism)も厭わず立論の体裁を整え、「投稿のための投稿」に、畢竟楽をして相手に応酬する(ἐνίστασθαι)ことしか考えない、反省も後悔も一切無用と居直っている狂信的な(μανικός)「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)でしかない自らの惨状(πονηρία)、パスカルの言う悲惨(πονηρία=‘misère re de l’homme sans Dieu’)を、少しは逆上せ上がった頭を冷やして考えらたらよい。
莫迦の一つ覚えのようなメディア批判を繰り返すのみで、自らの莫迦さ加減を棚に上げて、大層な、しかも凡庸で陳腐極まるクズ投稿を量産することしかできない。
他をあげつらっている場合ではなかろう。すべての基本である肝腎要の正確な自己認識(ἀναγνώρισις=αὐτὸ αὑτὸ νοεῖν)を欠いた、つまり「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)人間のことを、まさに「無知」(ἀμαθία)、という。
滑稽な道化者(βωμολόχος)まがいの猿芝居に等しい独り相撲(σκιαμχία)は止め、正気を取り戻すことだ。
これ以上、愚鈍の自己証明をしてどうする。
「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、、繰り返し過ちを犯す。」(La Rochefoucauld; Maximes 386)
違っているのはイデオロギーで、人間性を含め、唾棄すべき醜悪さはいい勝負だ。
90⇒【ルターが新約聖書の正邪を、ローマの聖職者ではなくて、ドイツの普通の人に判断してもらうことができるように、ギリシャ語からドイツ語に訳した】も、実態を何も知らないから見当違いなことを、専門家なら噴飯ものの珍説を恥ずかしげもなく並べている。ここまで来ると、無学につける薬はない。
そもそも、「新約聖書(κανών)の正邪」とは一体何を指すのか不明だ。何も知らない人間だからこうした文章を書く。信仰の対象となった経典に「正邪」(δίκαιον καὶ ἄδικον)などあり得ない。多分、聖書解釈の当否を指しているのだろうが、実際のところ信仰は聖書だけで成り立っているわけではない。
ルターにはカトリックのような神学体系がない。聖書、即ちイエスの素朴な教えに返れば、そこに何か真実があると考えるのは一つの立場だが、幻想(φάντασμα)だ。
キリスト教は歴史的生成物なのだ。
さらにカルヴァンの従兄弟オリヴェタン(P. R. Olivétan)訳は1535年に出た。それを改訂した『ジュネーヴ聖書』が出るのは1588年で、近代聖書翻訳史上最高の作と言われ、ルター訳よりかなり高水準とされ(聖書学者の田川建三)。英語圏でも広まったほどだ。
このほか、ルター派ではない改革派による、所謂『チューリヒ聖書』(Züricher Bibel, 1524~25)があり、主にスイスのドイツ語圏で広まった。
いずれにしても、カ氏の議論を眺めていると、わずかな如何にも古い通説(ἔνδοξα)、というか俗説レベルの話を膨らまして気ままな法螺話を並べているにすぎない。ゲーテ信仰同様、取るに足らないもので、退屈(ἀναισθησία)この上ない。
キリスト教教理の歴史を綴った古典的大著で教理史研究の定本『教理史教本』(“Lehrbuch der Dogmengeschichte. ”, 3 Bde.,1909~1910)の著者ハルナック(A. von Harnack)は、ルターは「キリスト教神学の墓場」であり、叙述をルターで終えている。ハルナックによればプロテスタンティズムとともに、教理史は終わるからだ。
「漁夫と大工の宗教」「女と乞食の宗教」と揶揄されたイエスの素朴な教え、「福音」(τὸ εὐαλλέλιον)が爛熟した古代文化と出会った結果、キリスト教が「世界宗教」に脱皮する契機となる神学が生まれた。三位一体の教理はその代表だ。ギリシア哲学との出会いがなければ、聖書からは出てこない教えだ。世界宗教への脱皮もなかった。
無学な頓馬につける薬はない。[完]
また、今東アジア情勢が危険でないのなら、何のために憲法改正、集団的自衛権の必要があるのだろう。これが、現在の日本の安全保障の解答だからではないのか。要するに、ヴァイツゼッカー演説、過去に目を閉ざすものは、現在に盲目になる、つまり、過去の日本に目を閉ざす者は、現在の韓国や北朝鮮に盲目になる人の典型が反氏なのではないのだろうか?
カ氏は所詮音楽学の一部を齧っただけの、議論の端々から窺えるように、西洋の文明全般について、肝腎なことを碌に知らない元劣等学生にすぎない。どれだけ、カ氏が列挙する大学や文化啓蒙施設で「学んだ」ことだけを、それこそ無条件の権威(ἐξουσία)と強調しても、それだけでは権威を騙っているに過ぎないようだ。
私が自説を展開する際、「京都大学で習った」云々といった、立論の趣旨とは基本的に関係のない要因を挙げて説得材料にしたりはしないが、早稲田大のエクステンションセンターも含め、カ氏は無学な人物にありがちな、はったりというか、こけおどしに等しい空疎な、つまり他者の肩車に乗った議論が好きなようだ。「ミュンヒェン大学 VS 京都大学」など、下らない。
「漁夫と大工」((ὁ ἁλιεύς καὶ οἰκοδόμος)、「女と乞食」(γυνή καὶ πτωχός)の宗教と揶揄されたイエスの素朴な教え=「福音」(τὸ εὐαλλέλιον)の神学的位置づけで私が感心した議論に、カ氏と同じミュンヒェンで学び博士号(Ph. D. 論文は“Der Begriff der Weisheit in den Hauptwerken Bonaventuras”, München, 1969)をとった坂口ふみ氏という立派な研究者のものがある(東北大名誉教授)。
彼女はカ氏とは月とすっぽんのような、ギリシア語もラテン語も堪能な国際レベルの研究者だ。要するに、どこで学ぼうと、カ氏が中途半端な「出来そこない」を救済しない。
議論がそれを示している。その他はまともに相手にするまでもない。
石破茂さんが、「憲法学者の神学論」に惑わされておられるように、ドイツの民衆も、「ローマ法王庁の神学論」に惑わされていた。そこに、篠田教授のようなマルチン・ルターが現れて、新約聖書には、「免罪符で罪が許される。」、すなわち、「お金の力で、罪が許され、天国にゆける。」などということは書いてない、新約聖書には、「地上界で貧しい者こそが、天国にゆけ、金持ちが天国に行くのは難しい、と書いてある。」と主張して、ドイツ語に翻訳することで、聖書にほんとうはなにが書いてあるか、をドイツの民衆に知らせたのである。私は、篠田先生のこのブログを知って、いわゆる憲法学者の解釈、学校で習う日本国憲法の解釈だけではなく、別に、日本国憲法制定時の日本国憲法の解釈法があることがわかった。
そのウェストフェリア体制を否定的にみているのが、「伝統主義」を重視するトランプ政権の選挙参謀で欧州でも盛んに政治活動をされているバノン氏だそうであり、ウェストフェリア条約が、西洋の精神的な没落の始まりだ、と考えておられるそうである。そういった意味で、ウェストフェリア体制は、「分断されるヨーロッパ」の今日的な意味も、同時にもっているのである。
キリスト教は世界宗教である。現在に至るまで感心しないいろいろな面があったことは歴史上の事実で、キリスト教徒同士が血で血を洗う対立抗争を繰り広げた歴史をもつ。欧州の世界支配、つまり植民地支配の先兵を聖職者が布教の名目で果たしたこともある。
中南米のように大量殺戮に遭い、アステカやマヤ、インカといったそれなりに高度の文明を滅ぼされたうえに、大量の銀を奪われ、アニミズムとはいえ既存の信仰も言語も奪われ,、改宗を強要された悲劇の歴史がある。
こうした世界的布教の原動力となったのは宗教改革を受けて危機感を募らせたカトリック教会による巻き返しの一環だが、それと同等に教義自体が世界展開に堪えるだけの普遍性を有していたことを図らずも証明している。
その神学体系は、ローマ帝国末期、ビザンツ初期に、キリスト教を国教化したローマ帝国の全版図を揺るがした教義論争以来の解釈の積み重ねによるものだ。
イエスの素朴な教え、十字架上での贖いの死、「イエス・キリストとは何ものなのか」という容易には解きがたい「問い」をめぐり、正統と異端との間で、知力の限りを尽くして激越な論争=理論闘争が繰り広げられた。
国教化で既存勢力となった教会は、内部対立も含めて政変と流血を繰り返し、駆け引きと陰謀が渦巻き、政治的、社会的な動乱に発展することさえあった。
その中心となる画期的な出来事が451年のカルケドン公会議で、その前後二百数十年にわたるラテン語圏の西方教会(ローマ教会)とギリシア語圏の東方教会、アンティオキア派とアレクサンドリア派が、それぞれ三つ巴、時に四つ巴の対立抗争を繰り広げた結果誕生したのがキリスト教神学、教理で、キリスト教飛躍の原動力となる。
その過程で東方教会と西方教会の分裂につながるものの、キリスト教自体が固有の活力により歴史を動かす原動力、強固なイデオロギーに変貌するのである。
それは、「失楽園神話」とも言うべき現代からの思い込みに伴う幻想であって、キリスト教はそれ自体の固有の活力、生命力で生成変化、発展してきたものなのだ。
当り前の話だが、キリスト教はカトリックとプロテスタントだけではない。ギリシア語圏の東方教会、所謂ギリシア正教、その発展としてスラブ圏にも広がったロシア正教やセルビア正教などがある。それがキリスト教の全体で、宗教改革以来のプロテスタントなど、その末流にすぎないのだ。
カ氏がミュンヒェン大学で習ったと一知半解で大法螺を吹いている知見など、極めて知的な見通しを欠いた俗説なのだ。
カ氏のドイツに関する知識も怪しいが、欧州文明全体については、ほとんど無知蒙昧に等しい。ギリシア哲学に関してはソクラテス解釈を挙げるまでもなく中学生レベルだ。
同じミュンヒェン大学で学んでも雲泥の違いがある。95⇒【ドイツ文化の本場であるドイツの権威ある教育機関】の表現にみられる、ドイツ偏重の偏狭性、狂信性はカ氏ならではだ。それはミュンヒェン大学の問題ではなく、カ氏ならではの愚鈍の結果なのだ。
カ氏はキリスト教全体について何も知らないことを96~98の先細りしていく哀れな「クズ投稿」は示している。
だから早朝から喚いている(呵呵)。
「ソクラテスの弁明」
紀元前399年、アテナイの民衆裁判所、500人の市民陪審員を前に、メレトスらによる論告、求刑弁論の後、ソクラテスは自己に対する弁護、弁明を開始する。
自分は、自分より賢い者はいない、と主張しているのではなくて、数々の知者と呼ばれている人の対話により、自分は知者ではないが、賢いとされる人々も最も必要である真の知をもたず、したがって知者ではないことを知っている自分はその分だけ賢い、という結論に達した、とまず弁明する。そして、ソクラテスは、真の知を追究し、魂の世話を図ることを薦めることは、神から与えられた自分の使命であって、国家の命令がそれを禁じようとも自分にはやめられない、ということを語る。けれど、彼の弁明は空しく、彼は、市民陪審員によって、「死刑」を宣告される。
私は、「愚鈍で白痴」かもしれないが、自分なりのやり方で、納得して、真理に到達したいと考えてきたし、今も同じである。その歩みが「ソクラテスの産婆術」に類するものとなり、他の方の役に立てばうれしい。そんな私は一度、篠田教授に「お礼のコメントをいただき」、嬉しかった。私は、坂口ふみさんと競争する気もないし、神学を本格的に勉強する気もない。ただ、政治、安全保障は、私たちの生活に直接的影響を与えるし、「民主主義」政権下、主権者の一人である私にも責任があると思うので、投稿を続けている。
それ以外の邪心は私にはない。
Gは本サイト新参者ですが、そう感じるようになりました。反時流的古典学徒さんの各投稿も、最初は一方的に批判しているだけなのかな!< と思っていましたが、投稿の中身を読んでみますと反時流的古典学徒さんのご指摘の方が、正解のように思えます。
法解釈は、文学の解釈と違って、ある体系・枠組みというのがあって、その則を超えないよう法解釈しなければなりません。自ずとルールがあるのです。文学の解釈のように感性で、好き放題に解釈していいわけではありません。このサイト、国際法・憲法など安全保障に関する篠田教授のサイト趣旨にも合いません。それと、百歩譲って他人に自分の感じたままを伝えるにしても、暗くネガティブな感想はいけません。明るく前向きに投稿を読んだ人も明るくさせるような、コメントを希望いたします。
カ氏と「憲法9条の政府解釈」氏との、如何にも噛み合わない遣り取り(ἐνίστασθαι)について――その責任はすべて論点をごまかし、事実上逃げ回っているカ氏にある――、「政府解釈」氏のコメント88⇒【問題にしているのは思想・信条や立場の違いを以前の議論の前提となる事柄に関する「瑕疵」(投稿内容の相互の矛盾、論理飛躍、誤記、事実誤認、誤要約、誤引用等)】を正当に受け止めているようだ。
それを一言で言えば、知的な誠実さ(ἀλήθεια)への顧慮であり、独善(λῆμμα)に走らぬ謙虚さ(ἡ κόσμιότης)、慎み深さ(σωφροσύνη)だろう。
殺伐非情な私についても、103⇒【反時流的古典学徒さん…も…投稿の中身を読んで…指摘の方が、正解のように思えます】として、法解釈は、103②⇒【文学の解釈と違って、ある体系・枠組みというのがあって、その則を超えないよう法解釈しなければなりません。自ずとルール…感性で、好き放題に解釈していいわけではありません】と、一応至極もっともな分別を示している。
この思慮(φρόνησις)こそ、善意とカ氏が102で否定する邪心とを問わず、海外留学経験のある齢70近いカ氏に最も欠落(στέρησις)しているものだ。
有体に言えば、カ氏の最初は水島朝穂氏への義憤(νέμεσις)から出たとみられる、しかし最近は生来の軽率さが生む驕慢(ὕβρις)と夥しい誤謬(σφάλμα)、それをごまかして愧じる様子もない不逞ぶてしさ(ἀναίδεια)は、一般に倫理的な潔癖感に富む女性には珍しい心性で、恥と愚鈍の上塗りをして居直っている。
軽はずみ(ῥᾳθυμηος)で軽率な(ῥᾳδιος)動機、目的意識は、カ氏の所業(ἔργον)や言い訳(ἀπολογία)を正当化(τὸ ὀρθόω)しないのである。
104~105は、この期に及んで恥の上塗りをして愧じない傲岸(προπηλόακισμός)ぶりだ。カ氏の夥しい誤謬については、私が『カ氏誤録』と名づける膨大な証拠資料がある。昨年5月以来、海外旅行と妻の死去、葬儀などで一時中断した以外は今回で2547件に上る私の投稿に逐一記録されている。
カ氏の誤謬は常人の域を遥かに超す異様な水準で、88⇒【集計するのが困難なほどの異常な多さ】たる所以だ。皆知っているが、莫迦莫迦しいか、阿呆にかかわるのを忌避してか、惻隠の情か、「政府解釈」氏のように根負けして放置しているだけだ。
カ氏に論理などない。カ氏は反対(ἐναντίον)と矛盾(ἀντίφασις)の違いも分からない低能だ。矛盾律(aā=O)と排中律(a∪ā=I [or a∨ā])は、矛盾律が排中律を包摂する関係だが、皆目分かっていない。
かといって、現代論理学の別種の議論、つまり1930年代になってオランダの数学者、論理学者のハイティング(A. Heyting)が提唱した直観主義的命題論理学を主張しているわけでもない。ここに言う直観(intuition)とは、日常語の直観(直感)の意味では全くないが。
いずれにしても、カ氏の支離滅裂でぶざまな文章がすべてを物語っている。
カ氏は「話の通じない人」(βάρβαροι)なのである。ある種の「☆人」(ὁ μαίνομαι)だから、神経も強靭(σκληρός)だ。
「無学な婆さん」に、皆舐められているのだ。
負け惜しみだから相手にするまでもないし、過去に古代哲学の重要テーマである、歴史上のソクラテスとプラトンが伝えたソクラテス像とを分離することで、ソクラテスの原像に迫る所謂「ソクラテス問題」について複数回書いた。
一冊も著作を残さなかったソクラテスについて、プラトン以外に言及した著作、同時代のクセノポン、アリストパネス、そしてアリストテレスに加え、著作は散逸したが、別の著作の中で言及される形で数多く今日に伝えられている伝承のソクラテス像の信憑性を考えるうえでも、同じく前提となる文献学的な知識について一通り説明したが、無学で聞く耳をもたないカ氏には徒労だったようだ。
厳密な意味で、古典語を解さない素人は「ソクラテス問題」を語る資格はない。対象とするテキスト、註釈は翻訳されていないものも多くギリシア語かラテン語でしか読めないからだ。
読まずに法螺話を騙るカ氏ならともかく、そもそも原文批評の前提が成り立たない。特に日本の場合その傾向が強い。カ氏の議論は田中美知太郎『ソクラテス』の誤読を含め、錯覚であり、幻想だ。
カ氏の子供っぽい議論を聞いていると、パソコンを器用に操る子供がそれだけで満足してしまい、コンピュータについて皆目無知なのと同じだ。
最近、元最高裁長官、田中耕太郎の旧蔵書、『エルヴェシウス全集』(“Œuvres camplètes de M. Hervétius”, 1781)の一部、4冊を入手した。フランス革命前に出たもので、カトリック信者でもあった大家が大変な勉強家であったことを物語る。
カ氏のような「外道」に爪の垢でも煎じて飲ませたい。
カ氏の言い逃れのごまかしは、その場しのぎの見え透いたもので、すぐばれるから齢70近くになり人並みの分別がつきそうなものなのに、そうはならず逆に見当違いな、しかも幼稚極まりない経験知(φρόνησις)を語る婆さんの戯けた無駄話でしかない。
その格好の例が105で、またしても驢馬並みの頓馬(ἀφροσύνη)だから、自ら気づかずに墓穴を掘って、平気でいる。「愚鈍」の典型だ。
即ち、105⇒【論理飛躍や、相互矛盾がない、ということを示すために…88(=これは他人のもの)や89で反論…誤要約や誤引用がある、という憲法9条の政府解釈さんの主張…と反氏の私のコピペの女王、という主張には、明らかに矛盾…誤要約、誤引用を防ぐため…全文をコピペしているから】は、主に本欄での批判対象のコメントと、日本版Wikipediaからのものが主で、その他ネット上にアップされていないものの要約的記述は惨憺たるものだ。
田中美知太郎『ソクラテス』の杜撰な引用は以前に、原文と一字一句照合して炙り出した。ドイツ語も同じだ。例えば、「ミネルヴァの梟」(‘die Eule der Minerva’) という、一廉の読書人なら周知の章句(‘die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug’)を含むヘーゲル『法哲学要綱』(‘‘Grundlinien der Philosophie des Rechts”)の該当箇所や、トーマス・マン『政治的人間の考察』(‘‘Betrachtungen eines Unpolitischen’’)の引用でも、学問的訓練が全くできていない人間の哀れさで、間違いだらけだ。
コピペ、時に剽窃の多用は怠惰なのが主たる理由で、正確さなど眼中にないことは、98をみれば明白だ。
私の文章を全体の265文字のうち、実に156字、59%をコピペで済ませて偉そうなことを言っている。
カ氏によくある、コメントの名に値しない「クズ」(φορυτός)で、だから「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)という。
性根が腐っている。
実態は在野の「群離索居」する研究者の端くれであり、ギリシア語やラテン語には一応不自由せず、英独仏伊西の欧州主要言語はもとより、辞書を引けば意味が了解できる、つまり専門辞書を所持し、その引き方を知り、初歩的な文法は了解している、という意味で、サンスクリットもウルドゥー語も一応解する事実上の「研究者」でありながら「学徒」にこだわっているのは、自分が結局は「無学」(ἀπαιδευσία=sine litteris)であると自ら知悉している(ἐπίσταμαι)からである。
誰と、何と比較してと問われれば、該博な学識は「神の如き」と形容されても遜色のない田中美知太郎や、その高弟で、一部には「出藍の誉れ」さえ指摘された師の藤澤令夫(1925~2004)と比べれば、ということに尽きる。
論理的思考が全くできない、論理の無頼漢のカ氏をアリストテレスと比較し、「白痴」(ρωρία)とするほど極端ではないが、今さらながらにして思うことは、先生というのは偉いものである。
戦後、主要スタッフが公職追放や教職追放(この二つは当然ながら意味が異なる)に遭い危機的な状況にあった京大哲学科を再建するに際して最も力があり、戦後京大哲学科の「主柱」と称されたのが、西田幾多郎に最も批判的だった新参者の助教授(哲学哲学史第五講座=古代哲学)田中美知太郎だった。
田中は一般には、「東に田中美知太郎、西に吉川幸次郎」と、戦前の峻秀たちに密かに敬慕され並称された京都大学出身の並ぶものなき二人の碩学の一人で、研究者の間はもとより、師の波多野精一をして、次のように知人宛の書簡で激賞させている。
☆余白に 112⇒【イエリネック…ケルゼン…シュミット】⇒⇒読まずに何を「知った」のやら。ミーハーの法螺話。
従って、選科修了で学士でさえなかった田中が終戦初期まで東京文理科大講師にとどまり母校に容れられずにいたのを時代が救ったことに対して、「(京都=筆者註)大學がここにはじめて、學問の正しき道の代表者、その道においてわが國随一の指導者たる眞の資格を具えたたゞ一人の適任者をはじめて得る道を開いた」(1947年3月10日付、波多野精一の田中宛)と激賞した。
その田中が迷わず自らの後継者にしたのが藤澤で、世界的プラトン研究者となった。
藤澤には世界水準の論文を集めた7巻本の著作集があり、敢えて日本語にこだわり、一つを除き英独仏語のいずれかで発表しなかった理由を問われ、「言葉・言語には『セーマ』(σῆμα記号)の機能と『シュンボロン』(σύμβολον象徴)の機能があり…『記号』の機能は『ことば』―『こと』(事実)の二項関係からなり、『象徴』の機能は、それを含みつつ、『ことば』―『こころ』(想念)―『こと』の三項関係からなる」として、国際化の「御時世に、はじめから欧文で書かない」理由を問いている(『藤澤令夫』第3巻、「あとがき」、452~453頁)。
☆余白に2 112⇒【ドイツ国法学…】など皆目理解きない婆さんの戯けた無駄話は尽きない。「病気」なのだろう。
藤澤は、プリンストン高級研究所での一年間の研究成果をまとめた論文“Ἔχειν, Μετέχειν and Idioms of ‘Paradeigmatism’ in Plato’s Theory of Forms”(Phronesis XIX No. 1, 19741, p. 38~51=邦題は『プラトンのイデア論における「もつ」「分有する」および「原範型―似像」の用語について――その世界解釈における思惟の骨格』=『イデアと世界』所収、1980年)で世界的な注目を集めた。
その代表的な評価が、ギリシア哲学史の標準的大著W. K. C. Guthrie; “A History of Greek Philpsophy”(1978)第5巻の註記(p. 41, N. 4)にある‘I cannot here attempt a critique of Fujisawa’s thoughtful and challenging article on “Ἔχειν, Μετέχειν and…’だろう。
それだけに、その「反時代的姿勢」が際立っている。
カ氏の102冒頭のような、如何にも無学な人物による暴論は、上記の藤澤の覚悟を挙げるまでもなく、肝腎なことを何も知らないがゆえの、驕慢で無知な人物による戯けた無駄話以外の何物でもない。
コピペするしか可能がない自らの惨状を得と頭を冷やして考えたらよい。それこそ、正真正銘の「無知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)だろう。[完]
ケルゼンの本はなんども引用した「民主主義の本質と価値」を読んだ。そのケルゼンの思想は、憲法学通説の学者のように、「敵味方」理論でもなければ、「抵抗」の理論でもない。つまり、権力者である自民党の政治家対反権力者である市民と野党、の対決ではないのである。彼は「議会制民主主義」の信奉者である。それは、「合議的機関」が必要だ、と考えているからである。立場によって、いろいろ違う国民の意見を、代表者として選出された国会議員が、集約し、合議し、妥協点を見出すべきだ、と考えているのである。「絶対反対」ではないこの「民主主義的」姿勢が、通説の憲法学者といかに違うか、わかるのではないのだろうか。そして、「安全保障」論争にも、「憲法改正」にも、そういう態度が政治家には必要だ、ということがわかるはずなのではないのだろうか。
カ氏に一体何が分かるというのだ。偽善と欺瞞の政治的構築物であるヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領の益体もない演説を口真似して、狂信的な巫女(προφῆτις)として、血迷った(βακχεύω)末に戯けた「布教活動」とやらに躍起になっているだけの話だろう。
カ氏の口から、折り目正しい条理にかなった、しかもコピペに代用させない立論など聞いた試しがない。
聞かされるのは決まって、艶福家の人気文士で毒にも薬にもならないゲーテ、中学、高校、大学といずれも首席で通した銀時計組の秀才ながら、トルコ在任中は日夜対外折衝で「情報収集」するでもなく、「書斎の人」として法学博士論文に向けた研究、執筆に精力を傾け、やたらに著書を出し、首相在任中はGHQの言いなりで、カ氏がつまらぬパンフレットを振れ回るが、昭電事件で挫折を余儀なくされた「文人宰相」芦田均、レジェンドとか、何やら身贔屓でしきりにもち上げている元「毎日」紙の記者楠山義太郎と、最近は価値情緒主義者のケルゼンのつまらぬ啓蒙書『民主主義の本質と価値』のつまみ食いに等しい恣意的な素人解釈――そのいずれも愚鈍の刻印は鮮やかだ。
性懲りもなく「無知の知」の独自解釈を強調するが、そのギリシア語=‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’にカ氏の思い入れを裏付ける特段の意味などない。それが、田中美知太郎を含めた専門家の常識だ。
クラシックの語源はギリシア語[κλάσις] だ。音写したラテン語(‘classicus’)がドイツ語 ‘Klassik’の元だ。それ以外で、ドイツ語でどうのこうのなど二義的な問題で、カ氏の無学ぶりを端的に物語っている。
安全保障論議におけるカ氏のお子様論議に、聞くべきものなど何もない。
ケルゼンの『民主主義の本質と価値』(“Vom Wessen und Wert der Demokratie; Staatsform und Weltanschauung”)などどうでもよいが、ドイツ国法学を語るなら、大口を叩きたいのなら、同じケルゼンの『一般国家学』(“Allgemeine Staatslehre”, 1925)や、ケルゼンがその国家両面説を批判したイェリネクの『一般国家学』(“Allgemeine Staatslehre”, 1900)、C. シュミットの『憲法論』(‘‘Verfassungslehre ’’, 1928)を読んでからにしたら、というのが、113⇒「☆余白に 112⇒【イエリネック…ケルゼン…シュミット】⇒⇒読まずに何を『知った』のやら。ミーハーの法螺話」、114⇒「☆余白に2 112⇒【ドイツ国法学…】など皆目理解できない婆さんの戯けた無駄話は尽きない。『病気』」の意味だ。
どうせ、逆立ちしても読むはずもないが。
119⇒【普通の日本人に「民主主義とはなにか」を啓蒙するために、「ソクラテスの思想」を「専門の研究者」である「田中美知太郎」さんが岩波新書に】というのも、何やら妄想(φαντασία)まがいの、何の根拠(τὸ διότι)もない手前勝手な臆測(δόξασμα)をソクラテスや田中美知太郎ににもち込む(hineinlegen)、つまり願望(βούλησις)を投影しているだけで、具体的なテキストの裏付け(διὰ τι)に基づく説得力(πειθώ)など、そもそもありはしない。
田中もソクラテスも民主主義の原理に懐疑的だ。試しに、田中の政治評論『直言、そして考察』(1971年)でも読めば分かる。
そうすることなど全くなく、「泣き言」(τὸ βοᾶν)を並べても無駄だ。見当違いな法螺話を未明の闇の中で撒き散らすしか能がない、つまり投稿すること自体が目的の「投稿慷慨(θυμός)」だから、内容や記述の信憑性など意に介しないのだろう。
それにしても、カ氏の「コピペ病」は深刻で重篤、病膏肓のようだ。120は、全555字中、33.5%に当たる186 字が私のコメントの一字一句違わぬ引き写し、つまりコピペだ。
別に私の見解を拡散したいわけでもなかろう。要約するのが面倒なのと、字数を嵩増しして投稿の体裁を整えたいのだろう。コピペ引用に余分な字数を浪費しなければ、一件につき800字まで書き込めるから、119、120は一本で済む。
それでは、中身も根拠も、文章上の芸、つまり工夫もサービス精神も何もない「反論のための反論」の手前困るのだろうし、「応酬のための応酬」に躍起になっている反論の偽装、クズ投稿の工夫さえ億劫なのだろう。
窮余の策は、ヴァイツゼッカー演説のドイツ語原稿をコピペで張り付けるか、メルケル婆さんの「お題目」を復唱するしか能がないようだ。οἴμοι,
橋本龍太郎さんの首相時代のスローガン、「世界の中の日本」と同じことであるが、大国主義や軍国主義から平和は得られない。芦田均さんが指摘されていることでもあるが、「国際協調」と「国家平等の原則」を基調としてはじめて平和が生まれるのである。
ソクラテスは、判決後、逃亡することもできたのに、アテネの人々の裁定に従って、死刑を受け入れたのであって、その理由がプラトンが書いた「クリトン」に書かれているが、これ以上の「民主主義」の証はないのではないのだろうか。
124⇒【民主主義に懐疑的だったのは、ソクラテスではなくてプラトン】は、私の直前の121⇒「田中(美知太郎)もソクラテスも民主主義の原理に懐疑的」に対抗して、カ氏が過去の見解の鸚鵡返しに過ぎない俗論を、瞬間湯沸かし器的な激情家らしく、怱卒に仕立てて投稿したようだ。
私の投稿から124までわずか12分、大した早業だ。何も考えていない、特に無学で軽薄な人間がよくやる作法だ。
ソクラテスとプラトンとを分けることなど、果たして可能だろうか。なぜならソクラテス裁判を活写した『ソクラテスの弁明』も、死刑判決から死に至るまでを描いた『クリトン』も、民主制に代わる理想の国家像を論じ、民主制を徹底して原理的に批判した『国家』も、著者はプラトンであり、話し手はソクラテスだ。
一体となった両者から、固有のプラトンとソクラテスを別個に取り出すことは至難の業だ。古来、「ソクラテス問題」として、多くの専門家を悩ましてきた。
極論は、プラトンが対話篇で描いたソクラテスはすべて史実だとするバーネット=テーラー説で、いずれも英国のプラトン研究の大家、特にバーネット(J. Burnet)は、もっともすぐれたOxford Classicat Textsのプラトン全集(“Platonis opera omnia”, 1899~1906.)の校訂者だ。未だにそれに代わるものはない。96年ぶりに新版が出始めたが、完結していない。
その極論にも学界の大勢は否定的で、ドイツの学者(O. Gigon)のようにすべて虚構とする見解もある。そうしたなかで確かなことは、アリストテレスも含めて民主制に原理的に否定的なのは周知の事実だ。なぜなら、民主制はその名の通り「多数者の専制」だからだ。
無知なカ氏はともかく、相対主義者のソフィストを称揚する価値情緒主義者ケルゼンの解釈も、所詮は素人論議にすぎない。
刑死を受け容れたことと民主制の評価とは、何の関係もない。何度書いても無駄な努力だ。
今、旧会社員さんに教えてもらった朝日新聞社の元編集委員松井やよりさんについて考えているが、彼女は、従軍慰安婦の強制連行は事実であり、元凶は昭和天皇だと信じて疑わなかったそうである。彼女の遺志を継ぐNPO法人「女たちの戦争と平和人権委員会」が設立されているが、その趣旨からしても、あの内容で「あいちトリエンナーレ」を開催することを推進した中心メンバーなのではないのだろうか。後輩の女性記者も名前を連ねておられるが、その経緯で、朝日新聞社は「表現の自由」「検閲」ばかりを主張するのだろう。その権化のような「女性国際戦犯法廷」というまやかしの劇の上演も含めて、このような「日韓の歴史の歪曲」の元凶を作った朝日新聞社に、松井やよりさんがされた報道を含めて、朝日の「従軍慰安婦」の報道が事実であったかどうか、を検証してもらうべきなのではないか、それが報道機関として責任ではないか、と思う。
しかし、日本国憲法44条但書の規定は、同条本文において選挙権及び被選挙権について立法裁量があることを前提とした上で選挙権及び被選挙権に関する差別的取扱いを禁じる「平等選挙の原則」を定めたものであり、カロリーネ氏の批判は憲法解釈上の誤りです。
政治参加の平等(ἰσονομία)と同じだとはき違えて、専門家の私とソクラテス談議が可能と思っているほどの単細胞だ。
それぐらいカ氏は実に単純(εἰλικρινής)で何ごとも真に受けやすい(ἄκρατος)、つまりナイーヴ(ἁπλοῦς)でお目出度い(εὐήθης)粗忽者(οἱ προπέτεια)だ。異常というほど極端にミスが多く、「一知半解」の早とちりが過ぎるのも、生来の質なのだろう。
子供だったらそれも愛嬌になろうが、齢70近くでこの体たらくだから、目も当てられない。端的に幼稚なのだろうし、それは愚鈍に直結する。
中身が伴わないもののプライド(φρόνημα)だけは一人前だから、私に指摘されて傷ついたのだろう。以降意地になって(ἀπαυθαδίζομαι)、無鉄砲(τόλμα)に真理探究の手法だとしてソクラテスの「産婆術」(μαιευτική)などを宣っている。
何のことはない、どこかの哲学好きの素人のブログの記事を、それと明示せず大量にコピペして立論をお手軽に済ませて別に気に病むでもなく、澄ましていたこともあった。
しかも、それを指摘されて反省するでもなく、逆に居直って醜態を曝している。
常軌を逸した過激なメディア批判では共通する同志だとでも思っているのだろう。気を惹こうと躍起のようだ。徒党を組んで再び愚にもつかないメディア批判を繰り広げて議論を攪乱するつもりかもしれない。過去の例でも明らかなように、デマゴーグ並みの大風呂敷を広げた戯けた法螺話で鬱憤を晴らしたいのだろう。
それにしても、126⇒【民主性(ママ⇒制)は「多数の専制だから」と主張するドイツの法学者たちが主導権をもったから…民主性からナチスドイツが独裁制へと移行した】のような素っ頓狂なことを宣っている。
民主主義=民主制(δημοκρατία)はその名の通り「多数者の専制(δεσποτεία)」としての専制支配(μοναρχίη)、つまり民衆の優先(δημο[ς]-κρατία)というのは、別に「ドイツの法学者たち」に限った主張ではない。言葉本来の意味がそうなだけだ。ギリシアの古代の民主制に由来する。近代民主主義が国民主権、人民主権と言い直しただけだろう。
もっとも、それを主張する法学者が主導権のもったぐらいでナチズムが擡頭したわけでもあるまい。実定法偏重の法実証主義が根強いドイツだったからこそ、次々と立法措置を講じたナチスの暴走を止められなかっただけだ。民主制が多数者の支配だという構造はドイツに限らない。
127の「政府解釈」氏の指摘は、カ氏が持論と異なる乃至カ氏を否定する相手に如何に敵愾心を燃やす党派感情剥き出しの人物かを巧まずして示す。なかなかの皮肉屋だ。
カ氏の「法律音痴」は相当のものだ。
80を過ぎた老学者ファウストが、「自分は寸暇を惜しんで学問を究めようとしたが、なにもわからなかった。」と嘆き、悪魔と契約を結び、若さと美貌を再び手に入れて、もう一度人生をやり直す。この戯曲の完成の為に、ゲーテの艶福家の人気文士である経験も生きているのであるが、ドイツには、教養文学、というジャンルがあり、学問ではなくて、人生経験を積んで、人間は成長していく、という考え方がある。高校生の頃ヘッセの「知と愛」を読んで感動したが、そのジャンルを始めたのが「ヴィルヘルム・マイスターの就業時代」、「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」や「ファウスト」を書いたゲーテなのである。艶福家の人気文士で毒にも薬にもならないゲーテ、なのではなくて、「その人生観をドイツに作り上げた」のがゲーテなのである。
私は、憲法だけの専門的知識をもった人、あるいは哲学を勉強した人が、国民にとっての一番いい憲法が考案できるわけではない、と思っているし、そのことは、小学校しか卒業されていない、実業経験豊富な田中角栄さんが、議員として多くの法律を考案されたことが示している。実務経験で、いろんな紛争があって、実際に処理にかかわりあってはじめて、どんな憲法や法律が必要であるかわかるのであって、イデオロギーで考えるとおかしなものになる。その「普通の感覚では理解不可能な主張」をされているのが、現在のいわゆる「通説の憲法学者の日本国憲法9条解釈」の主張であり、篠田英朗教授たちとの解釈の齟齬は、それが原因だと私は思う。私はソクラテス流に「真実」はなにかを究めようとして、その過程で、丸山真男さんの代表的な論文や芦田修正に関心を持ち、日本人が正しいと思っている解釈は、マスコミや学校教育での洗脳の結果で、ほんとうは違う、という結論に至ったから投稿を繰り返しているのであって、日本の政治課題の中で「安全保障が一番大切だ。」と思っている国民として、それは当然の行為、なのではないのだろうか
そういう意味で、安倍首相が施政方針演説で述べられているように、「自由」と「民主主義」を選択し、戦後、平和で豊かな国づくりをしてきた日本が、これからどう「国際社会の中」で歩を進めるべきなのか、を民主主義体制の元、国民から選ばれた国民の代表者であり、同時に権力者でもある「立法府の人々」が、党派争いばかりに狂奔するのではなく、「真剣に考えるべき」だと、私は思う。
ラテン語にも、ほぼ同趣旨の「驢馬が驢馬を擦る」(‘asinus asinum fricat’)という成句があるように、莫迦な人間同士がもたれあって、互いにお追従(ἀρέσκεια)を言い合って、つまりお世辞でエール交換して、要するに仲間褒めし合って(κολακεύω)じゃれあっている様子を揶揄したものだ、ということも。
そして、それがオルテガ・イ=ガセなら「平均人」(el hombre medio)と呼んだ「大衆」(las masas)特有の気質だ、ということも添えた。
その際に、単に「売り言葉に買い言葉」(ラテン語的な表現で‘quid pro quo’という)的な直情径行的な(ἀνάκλασις)応酬なのだろうが、自分も驢馬の一人だと居直って愚にもつかない議論のオクターヴを一段と高めていたのがカ氏=マダム「瑕疵」だった。
つける薬はない(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’=直訳すれば「驢馬の顔を洗っても洗剤が無駄なだけ」)ということだろう。
ホメーロス流に表現すれば、薔薇の指さす(ῥοδοδάκτυλος)「曙」(φᾶνή)から逆上せ上がって(ἀγωνία)、怒りに我を忘れた(ἀσχολεῖσθαι)ように、老いぼれデマゴーグよろしく、早速愚劣な5本の大演説を展開していて、壮観というより滑稽かつ悲惨である。
「驢馬から落ちる」(‘ἀπ’ ὄνου πεσεῖν.’)という古代ギリシアの諺言(παροιμία)、頓馬(ἀφροσύνη)の譬えそのまま、誤謬、誤記も絶えない。
だからカ氏をつけ上がらせる(ὀγκύλλεσθαι)ことになるのだろうが、無恥であるのと同じくらい愚鈍だから、カ氏は一向に意に介する様子はなく、ドイツ仕込みの愚劣な中下層民衆気質が如何に厄介か実感できよう。
それも以前、政治意識の社会心理学的な分析で「慷慨型」(indignants)、つまり「近代の内面志向型が大衆世界に適応しえず、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプ…異常な公憤、病的な不安懊悩、そねみ、憎悪…彼らの放出する政治的エネルギーは極めて高い。その異常性が亢進すると、『血も凍るような悲憤型』(curdled indignants)が生まれる。ドイツの下層中産階級によく見られたように、彼らの政治に対する憎悪は底なしであり、ナチズムの破壊的エネルギーの主要な根源」と。カ氏もよく似ている。
130⇒【ドイツには、教養文学、というジャンル】というのは「教養小説」(Bildungsroman)の誤りだろうし、⇒【「ヴィルヘルム・マイスターの就業時代」】は“Wilhelm Meisters Lehrjahre”だから、正確には『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(“Wilhelm Meisters Lehrjahre”)または『徒弟時代』だろう。
ご本尊のゲーテにしてからがこの体たらくだ。厚顔無恥でクジラの髭並みの神経(νεῦρον)をしているから、神経が行き届かず、相も変わらぬ杜撰さだ。
それとない「嫌がらせだ」なのだろうが、引用符なしに私の投稿の長大なコピペで始まる130の冒頭246文字(全体の664文字の37%もある)も、異様だ。
断末魔(πανύστατος αυτίκα)が近いのかもしれない。
カ氏には知的誠実さの欠片もない。しかも文章は拙劣で措辞は陳腐この上なく、老婆の他愛ない無駄話(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)を垂れ流しているにすぎない。
投稿自体が、暇にあかせた徒然なるままに綴った愚劣な日記のようなものだからだ。
133⇒【ソクラテスとプラトンとを分けることなど、果たして可能だろうか…民主制を徹底して原理的に批判した『国家』も、著者はプラトンであり、話し手はソクラテスだ、という反氏の主張が、果たして真実かどうかは私にはわからない】のは、プラトンを読んでも何も理解していない証拠だ。カ氏でも読んだ『ソクラテスの弁明』も『クリトン』も叙述スタイルは同じだ。
プラトンの対話篇にプラトンは登場しない、ということだ。
第三帝国時代にプラトンを悪用したのはC. シュミットではなく、S. ゲオルゲやJ. バネス、古典学者ではH. フリーデマンやE. ザーリン、K. ジンガー、K. ヒルデブラントらだ。カ氏の低劣な理解力は底なしだ。
一体いつまで、「中学で習った…」式の愚劣な自己問答をしているのだろう。西洋古典学は、日本の憲法学とは違うのだ。教科書に書いてあることは、進歩が著しい自然科学とは別の意味で、厳密な意味では大半が誤りであることを知るべきだ。騙されたと思ったら、性根を据えて勉強すればよい。
学問はそこから漸く始まる。カ氏はその出発点(ἀρχὴ)にも立っていない。「民主主義の危機」以前の足許の危機だ。
老い先は短い。無学のまま死にたくなかったら、投稿に現を抜かしている場合ではなかろう(呵呵)。[完]
Der Generalsekretär der Kommunistischen Partei der Sowjetunion Michail Gorbatschow hat verlautbart, es ginge der sowjetischen Führung beim 40. Jahrestag des Kriegsendes nicht darum, antideutsche Gefühle zu schüren. Die Sowjetunion trete für Freundschaft zwischen den Völkern ein.
Gerade wenn wir Fragen auch an sowjetische Beiträge zur Verständigung zwischen Ost und West und zur Achtung von Menschenrechten in allen Teilen Europas haben, gerade dann sollten wir dieses Zeichen aus Moskau nicht überhören. Wir wollen Freundschaft mit den Völkern der Sowjetunion
ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
という考え方の元に、「東西ドイツの統合」、「国際協調の理念」が築かれたことを忘れてはいけない。そのロシアは、今、中国以上に「人権侵害」が行われている。
私たち日本人は、トランプ大統領の尻馬に乗ったり、暴力を使った香港でのデモ活動を応援して「反中国感情」を掻き立てるのではなくて、中国政府との友好関係を維持し、北朝鮮への経済制裁にも協力、協調してもらい、「本当の意味での」暴力のない「世界平和」に寄与すべきだと思う。
私は、このコメント欄で哲学の学問的論争をしたい、などとはまるで考えていない。それが好きな方と反氏が他のブログでなさればいいのである。私が問題にしているのは、日本の「安全保障」の在り方や、「憲法9条」の改正問題についての見解なのであって、それに対しての反氏のコメントはまるでない。
♪ 一つ、何時(一)でも間違える、二つ、不(二=ふ)逞ぶてしく居直れば、三つ、見(三)つかる逃げ道を、四つ、し(四)つこい反時流、五つ、いつでも嫌な奴、六つ、向(六)こうがその気なら、七つ、な(七)にが何でも諦めぬ、八つ、破(八)れかぶれになろうとも、九つ、苦(九=くる)しくも女にゃ意地がある、十で、到(十)頭、年貢の納め時、負けて悔しい桜散る散る花筏、滔(十)々と流れる川に沿い、旅に出るのも一興と、思い直してきょうもまた、性懲りなしに投(十)稿に、励む老媼の心意気、何故(ゆえ)にと、人(ひと=一)問わば、意気軒昂に嘯くや。
♪「一」にかかってこの勝負、再(二=ふたた)び負けじと闘志燃やし、女だてらに目にもの見(三)せんと、死(四)ぬ気で挑めば、何時(五)の日か、報(六=むく)わるる精進もあろうもの、な(七)べてこの世は臥薪嘗胆、自棄(八=やけ)になる気を堪えては、苦(九)衷のほどは人には見せじ、ド(十)イツ一筋半世紀、右も左も御覽(ごろう)じろ、むざむざ負けまいこの勝負。
♪意(一)地でなんとか踏(二=ふ)み留まれば、見(三)事に、佳(四)き智慧浮かぶらん、いっ(五)そ死ぬ気で取り組まん、女だてらに武(六)者ぶるい、流(七=なが)す涙は勝ってから、晴(八=は)れて流さん、されば苦(九)渋も晴れようか、遠(十=とお)い未来のことじゃなし、所詮この世は闘(十=とう)争と、血も涙もない反時流、討ち取るまでは。
まあ、戯れ歌だから少々砕けすぎているのはご寛恕願うとして、無学で頓馬な、一種の教条主義者に等しく、一見して生真面目そうに見えて偏狭(ακληρός)極まるカ氏は、お頭に蜘蛛の巣が張っていて柔軟な発想や言葉とは裏腹に寛容の精神が極端に欠落しているから、いきり立って、意地になって今後も醜悪なコピペ街道をまっしぐらかもしれない。ドン=キホーテ並みの無謀な突進(stampede)であり、暴走(ἡ ἔκπληξις)だ。
139のように愚にもつかないヴァイツゼッカー演説を意地になってコピペしている。半世紀近くかけたドイツ語力は130の惨状が物語る通りだから、話にならない。コピペしないと、必ず間違えるのだから哀れだ。
投稿には何やら悲壮感が漂っているが、見当違いの信念という名の「自己陶酔」(αὐτὸς τέρψῖς)、畢竟典型的な自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)でしかない。「夢見る人」なのだろう。
私の指摘が、140⇒【誤字、脱字の間違いを指摘するものばかり】でないことは火を見るより明らかで、言うだけ墓穴を掘る。カ氏をみると、墓穴というのは、「ボケ」茄子が掘る穴らしい。
反論に窮して頬被りするしか能がない見栄っ張りの「出来損ない」が、140②⇒【コメント欄で哲学の学問的論争をしたい、などとはまるで考えていない】のような、できもしないことを負け惜しみでごまかすしかない惨状を、得と頭を冷やして思い知ればよい。
憲法問題は「虚偽の命題」(ἡ ψευδής προτατικός)だ。9条など削除すればよい。
反氏の主張は、憲法9条は削除すればいい、ということ。つまり、戦争放棄、平和主義については、日本国憲法の条文では、規定しない、ということですね。
低空飛行「神風」論と「戦後日本外交の総決算」shinodahideaki.blog.jp/archives/30344911.html#comments
のコメントを読みました。
そして、113に今も昔も変わらない反氏の主張の理由をみつけました。
「革命を成功させるには、長い年月を費やしても古い価値(伝統・文化)を根絶させ、新しい価値を創造し中産階級に刷り込む『文化テロリズム』を実践することである」とした『フランクフルト学派』思想である。その文化闘争の武器に『批判理論』を編み出した。
【批判理論】とは、
定義…伝統・文化の主な要素を嘘でも捏造してでも、完全否定する批判を繰り返す。
反氏は、学識も教養もない人の書いたろくでもない説である、と主張されますが、その理由しか、私とこれだけ言葉の定義が違う、理由が思い当たらないのです。
(政治的なものの概念、カール・シュミット、未来社 p19-20)
なぜなら、端的に愚鈍だからだ。恥の上塗りをするかのように再び墓穴を掘っているようだ。
戯れに再提示した「誤魔化し数え唄」について、前日夕刻には140⇒【反氏のざれ歌、私への批判はよくわかりました】とか言っていたはずの御仁が、往生際(πανύστατος αυτίκα)が悪いというのか、執着(πικρία)が強すぎるというのか、舌の根も乾かぬうちに、しかも未明の闇の中で喚く。
悔しくて眠れなかったのだろうか。悪あがき(τὸ ἀντιτυπές)というか、後生が重いというのか、144⇒【私の個性、心境を本当に表しているのだろうか?…論争に勝とうと遮二無になっているわけではない】のような、単なる負け惜しみでしかない愚にもつかない繰り言(μεμψιμοι)で「自問自答」をしている。
しかも、言うことは自らの比類ない凡庸さを自ら証明するように、紋切り型の御託ばかりだ。
ゲーテ、ヴァイツゼッカーの評価(ποιέω)は、ゲーテが「艶福家」、今風に言えば無類の恋愛体質で次から次へと女性の尻を追いかけ回した、という客観的事実(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)は除いて、それぞれ自由だから一応尊重するとして、144②⇒【Klassikerや「無知の知」の言葉の定義がおかしい】と言われても、[Klassik]も、その派生語の[Klassik]もギリシア語の[κλάσις⇒ラテン語は‘classicus’]由来の言葉であることに毫も変わりはない。
派生的な、つまり二義的な意味をドイツ語の辞書に見つけたといくら言い張っても、自らの無知蒙昧ぶりを宣伝するようなものだ。
‘classicus’= [Klassik]はドイツ固有の事柄ではないし、むしろドイツが西洋古典文化の辺境であるがゆえの歪みが、カ氏のような無学も相まって見当違いな俗説に拍車をかけるのだろう。
西独留学した割には西洋文明について、肝腎なことを何も知らないがゆえの無知蒙昧はカ氏に限らないが、カ氏ほど極端な例を私は知らない。
「無知の知」の「定義」(ὁρισμός)は、プラトンが対話篇の中(Apologia Sokratis, 21D)でソクラテスをして言わしめているように、‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’、つまり「知らないことを知っている」、別の言い方なら「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία=ibid. 23A)以外にあり得ない。
ギリシア語が読めないから納得できないのだろう。「無知という知」(ἀμαθής γνῶμη)、N. クザーヌス流に言えば「学識ある無知」(docta ininorantia)は存在しない。
144③⇒【「三人寄れば文殊の知恵」が、「民主主義的」正解への近道】も下らない俗説の典型で、民主主義的な合意形成の難しさは、それを徹底すればするほど根本的矛盾に突き当たることだ。それを数学的に証明したK. J. アローを挙げるまでもなく、民主制は根本的パラドックスを内臓している(“Social Choice and Individual Values”、2nd. ed., 1963の中の「社会的厚生関数の一般可能性定理」 [General possibility thorem of Social welfare function])。
145⇒【「革命を成功させるには…完全否定する批判を繰り返す。】の166字ははまたしても「コピペ爆弾」。ネタ元は「アラー」氏で、カ氏同様の誇大妄想狂なのだろう。カ氏は朝から「いかれて」いる(μανήομαι)。
「無学」は哀れである。
‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes.’
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