現在、極左右の大同団結が強くみられるのは、改憲反対論であるかもしれない。安保法制の時以来、マスコミに頻繁に登場し、2016年には参議院選挙に立候補までした、いわゆる「憲法学者」を代表する小林節氏が、右派系雑誌の『月間日本』に寄稿しているのを、最近は極左とまで言われている『Harbor Business Online』(https://www.j-cast.com/2016/05/10266398.html?p=all )が取り上げて記事にしているのを見た。 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191124-00207060-hbolz-soci&p=1
日本の政治闘争図において小林氏が果たしうる役割については、まあどうでもいい。しかし小林氏がいつも「法学者」などの肩書を持って現れるので、その点は気になるので、コメントしておきたい。
小林氏は、現在進行中の自民党の改憲案に反対する。必要最小限の自衛権を持つ、と言う考え方がおかしいからだという。なぜなら、それでは「必要な自衛の措置ならば、何でもできるということです。極端に言えば、自衛隊は地球の裏側にも行けるということです」、ということだからだという。
ところが結論部分で小林氏は、次のように主張する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「国際情勢が厳しくなる中で、左派の平和主義が説得力を持ちにくくなってきているのも確かです。安倍政権による改憲を阻止するためには、専守防衛によってわが国の安全保障を維持できることを明確に示すことが重要です。わが国には、世界有数の経済力と技術力があります。その力によって、9条の範囲内で「専守防衛」の能力を高めることができます。」
-------------ー
現代世界の日本の現状で、「わが国には、世界有数の経済力と技術力があります。」なる主観的な断定を、法律論の根拠にしている「法学者」については、まずは年齢をチェックせする。それはともかくとしても、必要な自衛権を持つのはダメだが、「専守防衛」ならいいのだ、という主張は、全くわかりにくい。
ちなみに「必要性」に、「均衡性」の原則を重ねて自衛権を制約するのが「国際法」の原理である。「憲法学者」小林氏は、こうした現存する法規範を無視する。
そして「憲法学者」小林氏は、「専守防衛」などといった、実定法上の根拠がなく、内容も曖昧模糊とした概念を振り回す。
日本では「憲法学者」とは、存在している法規範を無視し、実定法上の根拠のない概念を信奉することを主張する者のことになってしまっている。ちなみに小林氏の集団的自衛権違憲論は、実定法上の裏付けのないドイツ国法学の怪しい国家の自然権論に依拠した「憲法学者」特有の主張の典型例だが、学術書における説明がないので、私は自分の著書では小林氏を取り上げたことはない。
小林氏のような「憲法学者」によって、憲法論は政争の一部となり、真面目な学術的議論が全く考慮されない状態に陥ってしまっている。
野党勢力と一緒で、自らへの信頼性を犠牲にしてでも、あらゆる手段を使って改憲を阻止する、という捨て身の戦法である。
実際に現在の混乱状況では、改憲は果たされないだろう。それで彼らは満足をするのだろう。だが長期的に損をするのは、真剣な憲法論を求めているはずの普通の国民ではないだろうか。非常に嘆かわしい。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_2?qid=1574571046&s=books&sr=1-2
コメント
コメント一覧 (98)
それは、専門とする国際政治学、特に平和構築の現場で経験し、実感した困惑や違和感と、「世界で唯一の戦争放棄条項をもつ憲法」なる一般国民の通念が、如何に国際社会の実態と懸け離れた幻影、独善でしかないこと、それが如何に紛争地での平和構築に対する日本人の積極的関心、関与、貢献の妨げとなり、日本人の独りよがりな平和観につながっているか、その根源にあるのが多数派の憲法学者による、確立された国際法規範とは別の文脈で積み重ねられ、制度化し、固有の正当性を主張するに至った所謂「ガラパゴス化」した学説の集積である憲法学通説であることを肌身をもって感じたからだろう。
察するに、激務の合間を縫って精力的に過去に遡って学説形成の経緯や政府解釈、答弁の流れ、国会や言論界での9条をめぐる攻防を調査し、日本の憲法学界の現状が、如何に国際標準と乖離しているか、鋭く剔抉している。
そこに、篠田さんが明言を避け、というか踏み込むのを敢えて自制している戦後の日本人の思想的脆弱性と退嬰化をみる私の認識とも無縁ではなかろう。
そうした観点から今回の議論をみると、⇒【小林氏の集団的自衛権違憲論は、実定法上の裏付けのないドイツ国法学の怪しい国家の自然権論に依拠した「憲法学者」特有の主張の典型例…学術書における説明がないので…自分の著書では…取り上げたことはない】は、どちらが憲法学者か分からない滑稽さだ。
それこそ、憲法学者の窮状(9条?)を示している。
https://core.ac.uk/download/pdf/145786640.pdf
憲法9条問題については、政治家の勉強会やマスコミでの啓蒙活動には熱心ですが党派性のある「政治的活動」に留まっており(一時期までは自民党保守派の応援団のようでしたが、近年は日本共産党の選挙応援までしているようです)、憲法解釈論として学問的評価を受けるような業績ではない印象をもっていましたが、篠田教授の記事や反時流的古典学徒氏のコメント3を拝見して、改めて、そのように感じました。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20140228-0561
よく、毎回篠田さんが提示するテーマと「何の関連がある」なし云々と、他者の投稿には難癖をつける一方、自分はお構いなしの放恣さだ。
1⇒【日本の言論界を牛耳っている憲法学者、法学者の主張が、世界の潮流、特に、欧米の潮流と違ってしまっているのでは…マスコミによって拡散されることで、日本の言論をおかしな方向に進ませているのでは】も、日本の普通の良識ある人々を見くびったもの言いで、皆カ氏が思うほど無知でも愚鈍でもなかろう。
自分が単純でお目出度いからといって、他者までそう思うのは勘違いも甚だしい。欧米に留学した云々で見当違いに増長している「世間知らずの何とか」によくあるタイプだ。何が「欧米の潮流と違って」いるのか知れたものではないし、無学な劣等学生の割には自らがその「卸元」であるかのような驕慢さだ。
Der Spiegel電子版程度のドイツの高が週刊誌を読んだと喋喋し、「ドイツ人の元教授から」云々の愚にもつかない退屈な話が専らだ。「だから、何なの?」ということでしかない。
残りはその時々、新聞やテレビ、要するにカ氏が毛嫌いするメディアで話題になっている出来事を取り上げて、「床屋政談」よろしく、日記を綴るが如く「老婆の他愛もないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)でお茶を濁している。ご気楽なものだ。
それが、「お子様談議」の域を脱していないカ氏の「国家公共の事柄」(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)に関する無邪気な(ῥᾳθυμηος)発言の実態だろう。
2⇒【…心配するのか計り知れない】という措辞が頻出するが、普通は「気がしれない」と書く。まともに日本文も綴れない体たらくだ。
「学者の端くれ」が泣く。
改めて問うまでもなく、全くのクズ投稿だ。驕慢な(ὕβριστος)「婆さんの他愛もないおしゃべり」(「老生常譚」=田中美知太郎の訳語)以外の何ものでもない。
そもそも、6⇒【反氏は、またおかしな色付け…もし、北朝鮮が核ミサイルを飛ばす意思がないのなら、米国は、Gsomia(GSOMIAと表記する=筆者註)について、韓国に圧力をかけない】に言う、「色付け」とは、如何なる意味内容を有し、私のコメントの如何なる部分が対象なのか、全くの意味不明(ἁμφιβολία)だ。
しかも前段と後段の「もし、北朝鮮が核…」以下が、論理的に接合しない。私は今回のトピックスで北朝鮮の核について何ら言及しておらず、今回のテーマである小林節氏の憲法論に対する篠田さんの批判について、カ氏のクズ投稿は、かすりもしない。投稿の目的自体が皆目、見当がつかない。
大方、小莫迦にされて怒り心頭、何らかの形で応酬せずにはいられなかっただけだろう。返り討ちに遭うだけだろうが。
6②⇒【朝鮮戦争は北朝鮮が南朝鮮(大韓民国の誤り=「南(朝)鮮」は北の用語)を侵略するという形で始まり…】ようなことをわざわざ並べる必然性が本件の議論には皆無であり、北が一方的に侵略したという事実は今日、動かない共通認識だろう。無学な婆さん教えてもらうまでもない。
北朝鮮をめぐる核危機の本質は、北が瀬戸際に追い込まれて自暴自棄になって核を使用する、という可能性にはない。カ氏のような無学な素人に限って大騒ぎする。それを煽るのが北側の意図だと気づかないものか。
現状では核兵器全廃条約など有害無益だ。ローマ教皇が何と言おうが、それが現実だ。核軍縮を含め、すべては取引なのだ。
蚊帳の外で「願望」(βούλησις)を語る場ではない。
反氏は、 北朝鮮をめぐる核危機の本質は、北が瀬戸際に追い込まれて自暴自棄になって核を使用する、という可能性にはない。現状では核兵器全廃条約など有害無益だ、と考えておられるが、では、なんのためにGSOMIAが必要で、米国があれだけの圧力を韓国にかけて失効をとめたのだろう。GSOMIAは、北朝鮮からのミサイル対策、北朝鮮がミサイルをどこから撃って、どこに着弾するかを日韓で情報を共有することによって、専守防衛、駐屯する米軍の協力を得て一刻も早く両国の防衛網をひくためなのではないのだろうか?私から見れば、ムンジェイン大統領とりまきの歴史認識、現状認識は完全にずれている。彼が主張されるように、本当に今の南北が統一すれば、朝鮮半島は繁栄するのだろうか。彼の政治主張には、どのような政治体制下であれば、朝鮮半島が繁栄するのか、という前提がまるでない。北朝鮮は、自由と民主主義と、韓国の法制度で統治されることを望んでいるのだろうか?東独民は、それを望んだし、ソ連のゴルバチョフ書記長がそれを認めたから、東独政府が折れたのであるが、北朝鮮国民がそれを望んでいる、ということは伝わってこないし、それを全く望んでいない将軍様であるキムジョンウンによる粛清が行われている国に、どのようにして自由と民主主義と法治国家を根付かせるのだろう。このような観点から私が考えるようになるのも、ドイツのSpiegelの記事、ドイツ人の元教授の退屈な話、からなのである。
Die Göttinger Achtzehn[Bearbeiten | Quelltext bearbeiten]
Als 1956/57 die Aufrüstung der Bundeswehr mit taktischen Atomwaffen geplant war, initiierte und formulierte er 1957 mit Otto Hahn und anderen Kernforschern das aufsehenerregende Manifest der Göttinger Achtzehn. Der damalige Atom- und dann Verteidigungsminister Franz Josef Strauß hatte diese Frage bewusst offengelassen und der damalige Bundeskanzler Konrad Adenauer die Ausrüstung mit taktischen Atomwaffen öffentlich befürwortet.[18] 1961 initiierte Weizsäcker mit dem Tübinger Memorandum ein weiteres Manifest, in dem er sich mit anderen evangelischen Wissenschaftlern und Prominenten gegen atomare Aufrüstung und für eine Anerkennung der Oder-Neiße-Grenze aussprach. In dessen Erläuterung tauchte auch erstmals das später von Willy Brandt aufgenommene und im Ursprung diesem zugeschriebene Motto „Mehr Demokratie wagen“ auf.
ゲッチンゲンの18人
1956/57ドイツ連邦軍が核兵器の装備を計画していた時、彼は、オットー・ハーンや他の各科学者と共に、ゲッチンゲンの18人という注目されるべきマニフェストを起草した。その当時の核、防衛大臣であったF.J.シュトラウスは、この問題を知りながら放置し、当時のアデナウアー首相も、戦略的な核兵器装備に賛成であった。1961年ヴァイツゼッカーは、チュービンゲンのメモランダムと共に別のマニフェストを起草し、その中で他のプロテスタント系核科学者や著名人と共に、核兵器の装備反対とオーデルナイセの国境線を認める主張を発表した。この解説の中で初めて後にW.ブラントによって採択され、原則的にはここに書き添えられたモットー「より多く民主主義に挑戦しよう」というモットーが生まれるのである。
現実の世の中は、イデオロギー、観念主義、夢では回らない。地に足をつけて、現状認識をし、きちんと筋道立ててものごとを考えることが、「民主政治」を成功させる前提だと私は思う。
8冒頭の、⇒【反氏が私に対しておかしな色付けをされる、と形容する反氏の主張は…でお茶を濁している。ご気楽なものだ、という私についての主張である。】の155文字にしてからが、大半(107文字=69%)は私のコメントのコピペである。
横着者(ὁ ἀργία)というか、どこまでも性根が腐っている(μοχθηρία)。見方を変えれば、大した神経(νεῦρον)、ピアノ線=剛鉄製でなければ、クジラの髭ででもできているのだろう、かくも厚かましい(ἀναισχυντος)恥知らず(αναίδεια)=無恥(ἀναισχυντία)だから、老後の暇つぶしでしかない投稿慷慨(公害)に専心する(σπουδάζω)ことができるのだろう。
しかも、8冒頭は私がカ氏の6の抗弁が要領を得ないことを指摘したことに対して答えを避け、私の7の大半をコピペして「~の主張である」とはぐらかすもので、論理学的には論点窃取の誤謬、つまり不当立論(invalid argumentation)に相当し、取り上げた内容が論点の趣旨を説明するものとはならず、無関係だから、立論の不当資料(invalid documentation)という論理的誤謬を二重に犯していることになる。論理的思考が皆目「不得手な」(ἀνέλεγκτος)カ氏には、何のことか、さっぱり分かるまいが。
下手な訳を添えた9もドイツ語の引用部分はコピペによる嵩増しで、ドイツ語で引用するまでもない駄文だ。「ドイツ狂」のこけおどしもいいところで、取り柄は誤字脱字がないことぐらいだろう。
わざわざ、夜明け前の暗闇の中で、しゃかりきになって投稿するほどの内容でもあるまい。
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’
北朝鮮などものの数ではなく、日韓、延いては日米韓の足並みの乱れが覇権的志向を強める中国に一段とつけ入るすきを与え、貿易交渉という形で中国と角逐を繰り広げている米国にとって、足手まといになる不安材料の芽は事前に摘んでおく必要があっただけの話だろう。
どうせ使えもしない(北の独裁者にとって、使えば破滅しかない)、ぜいぜい紛争地への武器輸出、技術提供の恐れがある北朝鮮の核開発リスクを米国は想定済みだ。何も知らないカ氏のような素人が大騒ぎして踊らされているだけだ。政治家はカ氏のような「無知ゆえの」(δι’ ἄγνοιαν)混乱した思惑が先行するのを憂慮して、危機を口にしているが皆、カ氏ほど単純ではない。
戦前はハイゼンベルクを中心とするドイツの核開発に待ったをかけたのは、他でもないヒトラーだし(「核爆弾はユダヤ人の兵器」)、事実上可能でもなかった。戦後の核武装などドイツがどう考えようが英仏が許すはずもない。ドイツは貿易立国で、強行すれば破滅が待っている。
10⇒【日本の自然科学者はなにをしているのだろう?】と問う前に、日本学術会議が出した、軍事技術研究に関する極めて抑制的な姿勢を示した声明でも読むといい。
カ氏の立論に検討や傾聴に値する(πιστός)内容など、何一つない。大半が各方面からのコピペででっち上げた反論の偽装で、「クズ」と命名する以外にない。
粗捜しというが、それだけ間違が多いということで、それを論難するのは筋違いも甚だしい。論点窃取の詐術的議論を繰り返すのみで、カ氏には論理的思考能力が恐ろしいほど(φοβερός)欠けているから、自らの過誤に半ば(ἥμισυς)気づかない(λανθάνειν)ようだし、半ば頬被りして(ἐάω)、しらばっくれている(εἰρωνεύομαι)のだろう。
今さら、ゲッチンゲン宣言を特筆大書して喋喋する前に、原水爆戦争の危険性を各国首相に警告し、科学者による核廃絶運動に先鞭をつけた1955年のラッセル=アインシュタイン宣言(湯川秀樹も署名。同年「世界平和アピール七人委員会」も結成)や、同じ目的で米ソ日など科学者20人が参加してカナダで開かれたパグウォッシュ会議(「科学と国際問題に関する会議」)での、核兵器の脅威と科学者の社会的責任」に関する声明の方が、より重要だ。
後者には湯川や朝永振一郎らも出席して積極的に発言している。57年4月のゲッチンゲン宣言は、こうした世界的潮流の一駒でしかない。日本には62年に結成された科学者京都会議以来の蓄積もある。
もっともこうした科学者の核廃絶運動には根本的批判もあり、その代表格が福田恆存のラッセル批判、「自由と平和」(1962年)であり「現代の悪魔」(61年)だ。
ドイツに学ぶことなど、何もない。カ氏には「ヴァイツゼッカー教」への妄信が過ぎるようだ。
凡庸を絵で書いたような、陳腐で退屈極まる立論で、わざわざ投稿するほどの内容があるとも思えないが、根っからの俗悪なる大衆(las masas)、即ち「平均人」(el hombre medio)気質の暇をもて余した婆さんには、投稿すること自体が己の存在理由(raison d’ être)の確認らしいからどうにも止み難いのだろうし、論破され、有効な反論が独力では為し得ないことを外形上認めるわけにはいかないために、意地になって(ἀπαυθαδίζομαι)愚にもつかないことを書き飛ばしているのだろう。
「巫女」を自認するくらいだから、わけのわからない呪文(ἐπῳδή)を唱えることも「布教活動」の一環かもしれない。「お調子者」だから、来日したローマ教皇に刺激されたのだろう。
もっとも、浅ましい魂胆(προαίρεσις)のほどは見え透いている。それを自覚していないとすれば、よほど愚鈍なのだろう。何も知らないで喋喋しているソクラテスの「無知の知」とは、そうした「思い違い」(ἑτεροδοξία)が甚だしい人間への頂門の一針だろう。カ氏に今最も必要なのは、無恥(ἀναισχυντία)の自覚だろうが。
碌に日本語の文章も理解できないらしく、論旨をころころ変える、つまり首尾一貫しない(ἐναντίος)、その場しのぎの支離滅裂で退屈な主張で「論点移行の誤謬」(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)を繰り返すカ氏の早朝の遠吠えを相手にするまでもないが、必要最小限のことだけ指摘する。
それにしても、15⇒【ヴァイツゼッカー兄を…ハイデッガーの親友としてしか知らなかった】というのも、弟や父を過大にもち上げる割には、ずっと高名な兄の実態は最近まで無知だったらしい。カ氏の知見とは、常にその程度なのだ。
哀れなものだ。
恒星内のエネルギーが核融合反応に由来することを突き止め、原子核の結合エネルギーに関する質量公式「ベーテ・ヴァイツゼッカーの式」の考案者だったべーテは理論面で開発の中心的存在で、ナチスの恐怖に駆られドイツによる原爆開発の先行を恐れて開発を提唱、参画した。
今年になっても(6月25日・170⇒「ここに言うヴァイツゼッカーは、のちのドイツ連邦大統領の兄で著名な物理学者…ハイゼンベルク…の弟子」と紹介してあるし、ついでに、ゲッチンゲン宣言にも名を連ねるウランの核分裂の発見者でノーベル化学賞受賞者のハーン(O. Hahn)についても同・171で言及したはずだ。
兄のC. F. Weizsäckerは確かに有能な人物で、人間性においても立派かもしれない。カ氏が毛嫌いする朝日新聞発行の『現代人物事典』(1977年)も掲載されている(1578頁)。弟はない。
そこには「ハーン、ハイゼンベルクらと原爆を作りうる立場にいたが、科学技術は人類の幸福のために使用すべきであるという立場から、原爆製造に手を染めなかった」とある。ドイツに米国のように原爆を生み出す開発力がなかっただけの話だが、指摘自体は虚偽でもない。ノーベル賞を受賞できなかったのは、偉大な同僚たちの前では影が薄かったからだろう。
中日新聞の招きで1995年8月に来日し、講演もした弟の連邦大統領の臆面もないドイツの醜悪な自己弁護=「歴史の不連続説」については、既に何度も書いたので割愛する。
弟を「平和主義の使徒」ように持ち上げた当時のメディアの莫迦騒ぎは、現在のカ氏と共通する。「ドイツ狂(教)」たる所以だ。
篠田さんによる日本の支配的憲法学説に対する批判の根幹は、東大法学部憲法学講座を中心とする歴代の支配的影響力を有する主宰者により展開されてきた、日本国憲法を戦前の帝国憲法と同様、ドイツ国法学的な概念や用語、つまり思考方式で解釈することの非妥当性ということだ。
それは極端に簡約化すれば、制定過程からも明白なように、英米法の文脈で形成された現行憲法、極言すれば「英文テキスト」を基に改正された憲法をドイツ文法で読み解く(高柳賢三)不作法(ἐπαριστερότης)を意味する。
憲法学通説に拠る多くの憲法学者は、制定過程で議論の前提となる草案を実質的に米国に押しつけられた事実を糊塗し、それが日本人独自の選択であるかのように、少なくとも憲法学界として装うことで傷ついた自負心を取り繕い、敗戦国なりの意地を示す形で、敢えて戦前から親炙してきたドイツ国法学の法治主義、法治国家(Rechtsstaat)の概念、例えば現行憲法には明示規定がない「統治権」(Herrschaftstrechte)を使って新憲法を解釈しようとした。
その残滓は小林節氏の集団的自衛権論についての篠田さんの指摘⇒【実定法上の裏付けのないドイツ国法学の怪しい国家の自然権論に依拠した「憲法学者」特有の主張】にも明白だ。
ドイツ国法学(Staatsrechtslehre)を、ドイツの法律ぐらいの認識しかない無学な婆さんの法螺話とは別次元の議論だということが、この期に及んでも皆目理解できないらしい。
それに気づかず、篠田さんの肩車に乗って、逆上せ上がって「非常に嘆かわしい」などと専門家批判に熱を上げているのだから、滑稽だ。傷口を広げるしかない程度に愚鈍なのだろう。
つける薬はない。οἴμοι.
篠田さんの啓蒙的著作(『ほんとうの憲法』や近著の『憲法学の病』)を読んでも、21⇒【憲法学者の日本国憲法についてのドイツ国法学的解釈については、よくわからない】のなら、口を噤むことだ。一知半解のことについて、軽率に(ῥᾳθυμηος)ものを言うから、否が応でも持ち前の「愚鈍さ」を露呈することになる。
しかも、ドイツ語どころか母語である肝腎の日本語の読解も覚束ない(ἄπορος)ようだ。
22冒頭で、⇒【反氏は、制定過程で議論の…とした、と考えておられるが、この文章には主語がない。】と200文字中、実に87%を費やしているが、「反氏は、」と「と考えておられるが、この文章には主語がない。」の部分=26文字を除き怠惰にもコピペで反論の真似ごとをしている。
当該部分の部分の「主語」(κατηγορούμενα)は、どうみても、直前の「憲法学通説に拠る多くの憲法学者」だろう。カ氏は、日本文が真っ当には理解できないらしい。カ氏は主語をして、何か個体名、固有名と勘違いしているようだが、見当違いも甚だしく、驕慢な「阿呆」とはかくも知的に低劣なのかと、改めて実感する。
「主語」の[κατηγορούμενα]とは、アリストテレス以来の用語であり、「述語づけられるもの」の謂いで、実質的には「述定される」(predicate)主体(ὑποκείμενον=ラテン語でsubjectum⇒subjectの語源)の論理的表現であって、宮澤俊義はその一員でしかない。
22②⇒【戦後…まとめられた松本B案をGHQに拒絶され、門外漢の外交官出身の芦田均さんがその職責を担った】の後段の部分はカ氏の心得違いだ。宮澤の職責と政治家として憲法改正審議に臨んだ芦田の立場とは基本的に異なる。
22②⇒【その結果、芦田修正を揶揄する傾向が憲法学会に蔓延…】以下は、カ氏の妄想だ。通説に拠る憲法学者に根強い反米主義的志向を指摘する篠田さんの主張の肝腎の部分に結びつかないうえ、宮澤のみならず、師の美濃部達吉、美濃部の教え子の吉田茂内閣の憲法問題担当国務相、金森德次郎にも共通する、憲法をドイツ国法学の概念や用語で解釈しようとする東大法学部憲法学講座の牢固とした「伝統」が理解できない。
宮澤や芦部信喜らは、そうした学統を戦後も墨守し、占領下とはいえ、帝国憲法の改正審議でGHQ、実質は米国に草案を押し付けられ、首根っこを押さえつけられたことで煮え湯を飲んだ屈辱を、憲法解釈で主導権を握ることで晴らそうとする傾向があった、ということだ。日本人の反米主義が、愛国的護憲ナショナリズムと結合する所以だ。
反米主義の根底には、左派勢力に限らず、原爆投下や日米安保以外にも複雑な要素が絡んでいる。単細胞のカ氏には何も分からないようだ。
ドイツ語を解する割には、戦前戦後を通じて日本の憲法学者に甚大な影響を与えたドイツ国法学の中心人物、イェリネク(G. Jellinek)を、カ氏は事あるごとに滑稽にも「イエネリック」とか「イエルネック」としていたくらいの体たらくで、ケルゼン、C. シュミットを含め国法学の主要著作を一行も読まずに(ケルゼンの詰まらぬ小冊子=“Vom Wessen und Wert der Demokratie; Staatsform und Weltanschauung”ではない)法螺話をするしか能がない無学ぶりだから、誤読は山ほどある。負け惜しみで「読まなくても違いが分かる」と豪語していた時期もある。
勘違い婆さんの「狂気の沙汰」(ἡ μανικός)に等しい勘違いには、深層心理学的な原因があるのかもしれない。
早朝の闇の中でよく吠えている。逆上せ上がるには随分寒かろうに。οἴμοι.
国会は、立法府なのであって、閣僚を糾弾する場所ではない。なにが国民の代表者である自分たちの本分なのか顧みて、日本国民がかかわる「日本の安全保障」という観点から、「日本国憲法」改正論議に正面から立ち向かってほしい、と日本国民の一人として思う。
(参考: あたらしい憲法のはなし 他2篇、 岩波書店)
それにしても滑稽なのは、自らに対する私や「政府解釈」氏の批判や夥しい事実誤認、誤記、誤謬、文章の不備、論点ずらしの虚偽的な議論の指摘について、こともあろうに自らを多数派の憲法学者の芦田修正に対する批判になぞらえていることだ。カ氏以外にはあり得ない発想だ。
臆面もなく(ἀναισχύντως)というか、厚かましい(ἀναισχυντος)というべきか、大した強心臓である。天下の秀才の誉れを遺憾なく発揮した泉下の芦田も、いくらなんでも戦後生まれの元劣等学生と比べられては立つ瀬がなく、言うべき言葉も見当たらずに絶句するほかあるまい。自意識過剰というか、誇大妄想というか、常人には思いも及ばぬ神経だ。「巫女」(προφῆτις)とはかくまで特異な心性らしい。熱にでもうなされているのだろうか。
宮澤俊義の芦田に対する嫉妬説や自尊心毀損説なる低俗な心理分析は、まさに語るに落ちるというべきか、カ氏自身の心理的性向=下司の勘ぐりを宮澤に投影したものだろう。
25⇒【反氏の主張に対して理解に苦しむ】のような一人前の御託は、具体的資料や証言を示して論証するのならともかく、「ヴァイツゼッカー宗」と並び、狂信的な(μανικός)「芦田均教(狂)」の信者らしいカ氏の信念の吐露(ἡ ἀπόδειξις)または信仰告白(ἡ ὁμολογία)の域を脱せず、まともに相手にするまでもないので、無視するしかない。カ氏特有の妄想(φαντασία)でしかあるまい。
25⇒【東京帝国大学…教授、宮澤俊義…は、「日本国憲法を起草した」、という名声がほしかった】というが、芦田が起草したわけでもなく、嫉妬の対象にはなるまい。
GHQ案を基本として同年3月1日に脱稿し、翌4日にGHQに提出されたのが所謂「3月2日案」。その後「3月2日案」の英訳も加わってGHQ民政局側との「不眠不休の」折衝を経て、日本側の改正案に盛られた修正箇所の多くは容れられずGHQ草案に戻った箇所も多かった。
結局、3月6日午後、勅語及び「帝国憲法改正草案要綱」が発表される。有無を言わせぬGHQに押し切られた形だ。起草どころか、芦田はどこにも関与していない。
宮澤作成にかかる微修正にとどまった日本側の当初改正案はGHQ側の受け入れることろとはならなかったから、改正案起草の中心人物として一貫して実務上の「責任者格」だった入江はGHQ側と折衝を重ね、46年4月2日に佐藤次長、加藤匡夫終連中央事務局連絡官を同道で、GHQ民政部でケーディス次長らと「改正草案」公表の2日前の同月15日まで四度の会談を重ねた。こうした経緯を経て、46年4月17日に公表されたのが「帝国憲法改正草案」というのが今日確認できる歴史的事実だ。
カ氏の妄想=物語思考(εἰκὼς λόγοι)=‘Karoline Doctrine’のつけ入る余地はない。なお、宮澤による「8月革命説」は、こうしたGHQ主導説を糊塗し、日本側の主体性を偽装するための窮余の策としての虚構(μῦθος)だろう。26の「出世志向」説を含め、カ氏相手のこれ以上の議論は無駄な所以だ。
莫迦が移る。οἴμοι.
反氏の見解によれば、松本委員会の宮澤俊義さんを含む3人のメンバーの帝国憲法の改正草案はGHQに受け入れられず、GHQによって押し切られる形で46年4月17日に「帝国憲法草案要綱」が発表され、それがそのまま「日本国憲法」になった、ということになっているが、現実には、このGHQが発表した「帝国憲法草案」そのものが、「日本国憲法」になったわけではなくて、その「帝国憲法草案」について、11月3日の「日本国憲法」交付前に、日本の立法府、帝国議会で審議されたのである。その帝国議会で審議された過程について、「日本国憲法」担当の国務大臣であった金森徳次郎さんが、「今回の改正憲法の議会審議に当たり、百余日に亘って、両院の有力なる議員諸君と共に、論議を交換し、或る時は氷より冷ややかなる態度を以って法理の徹底を計り、或る時は溶鉄よりも熱き心意気に乗って運営の将来を痛論した。」と形容されているのである。その憲法改正草案を審議した衆議院帝国憲法改正小委員会の委員長が芦田均さんであり、日本国憲法9条を修正されたのも、芦田均さんなのである。それは、委員長として芦田均さんがその権限をもっておられたからに他ならない、と私が考えているのに対比して、反氏は、「日本国憲法」起草に関して、芦田はどこにも関与していない、と主張されているのである。もともと、宮澤俊義さんを含む3人のメンバーの帝国憲法改正草案には、「戦争放棄は明記」されていないのであって、どこが国民主導の「8月革命」なのか、カントの「定言命法」なのか、宮澤俊義さんの考え、主張の変遷ぶり、無軌道ぶりには、ただただ驚かされる。
、
児義に等しい29を検討する限り、それは明白な「事実」で、もはや余分な論証に贅言を尽くすまでもないようだ。恐るべき無知、無学、カ氏以外では何人も為し得ない無謀極まりない立言=法法螺話だ。
私の28のどこをどう読めば、29⇒【反氏の見解によれば…46年4月17日に「帝国憲法草案要綱」が発表…それがそのまま「日本国憲法」になった、ということになっている】のような主張に結びつくのか、日本語の文章もまともに解読できないカ氏の真骨頂を示している。カ氏は改正案の「起草」という意味が未だに理解できないようだ。
改正審議における「衆議院帝国憲法改正小委員会委員長・芦田均」の位置付けは、カ氏の支離滅裂で牽強附会な主張をたしなめた以前の「政府解釈」氏(投稿名は別=反「インテリンチ」)とカ氏との遣り取り(昨年11月の「吉次公介『日米安保体制史』の誤りと岩波新書」の項)を参照されたい。
末尾の威勢のいい主張も愚鈍の表徴で、⇒【無軌道ぶりには、ただただ驚かされる】対象がいずれかは、自ずと明らかだ。
‘μήτε γράμματα μήτε νεῖν ἐπίστωνται’
(参考:蘇る上杉慎吉、原田武夫)
昨日29日の31を含め、32~33は半ば泣き言(τὸ βοᾶν)、言い訳(ἀπολογία)にすぎず、何ら「有効な反論」(περαντικόν ἔνστασις)にはなっていないことは自ずと明らかだろう。応酬するため、書けば書くほどぼろを出す。無学で愚鈍(ἀμαθία)だからだ。文章を読めばどの程度の「脳みそ」か分かるというもので、その内容も既にネタは尽きてきたようだ。
それにしても、32⇒【日本で優等生であっても、語学のハンデイキャップ…10年間その母語で勉強してきた優等生と、たちうちできるわけがない。その典型的な例が、戦前ドイツに留学した上杉慎吉教授】は、如何にも自意識過剰な元劣等学生らしい口ぶりだ。何より、上杉愼吉を引き合いに出すことで自らの低劣さを頬かぶりして論旨をずらしている。
上杉のような秀才であっても語学上のハンディキャップはあったろうが、ただ母語がドイツ語だから当然達者という程度のドイツの並みの秀才たちとは次元が違う頭脳の持ち主だった上杉は内心、ドイツ人の凡庸な「優等生」たちを歯牙にもかけてはいなかったろう。軽蔑してさえいたかもしれない。国を背負った自負心というものはそういうものだ。カ氏の劣等意識と比較すること自体が莫迦げている。
カ氏の愚劣な議論にはこの手のものが大半だ。「概念的思考」がとんと覚束ない証拠で、何でも自らの感覚で愚劣で陳腐極まる身の上話にすり替える。「老生常譚」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)たる所以だ。
わが国におけるケルゼン研究の泰斗である法哲学者長尾の上杉観を知りたければ、カ氏程度にも理解可能な『日本憲法思想史』(1996年、講談社学術文庫)でも読めばよい。そこには1981年刊の『日本法思想史研究』以降の長尾氏の「旧憲法下の憲法文献蒐集」(278頁)によって深化した上杉への興味、関心の実相が示されている。ドイツ国法学の「エピゴーネン」、美濃部達吉への辛辣な指摘もある。もっとも本人の弁では「日本思想研究は…副専門、否下手の横好きのようなもの」(277頁)らしいが。
結論から言えば、長尾氏の議論は通俗的な「国粋主義」的憲法学者という一般的な上杉観とは異なる。原田『蘇る上杉慎吉』なる雑書で得た知見を振り回すしか能がない、怠惰で無学な婆さんには手が負えないだろうが。だから「無学」なのだ。措辞、文章といい、論理構成といい、カ氏の愚鈍さはわざわざ指摘するまでもない「事実」だ。無謀な投稿など、一日も早く「止めちゃえばぁ~、お婆ちゃん‼」(もっとも、カ氏にはたぶん孫はいまいが)。そうすれば、少なくとも未明の闇の中での苛立ちや焦慮は解消しよう。
33⇒【私のコメントが…狂信的な「芦田均教(狂)」の信者…という…が、私の結論は…事実や歴史を直視し、筋道立てて考えた結果】のような法螺話は慎むことだ。
愚鈍と恥の上塗りだし、そもそも巫女として「布教活動」に精励するといきがっていたいたのは、外でもないカ氏=瑕疵=仮死である。
常にその場しのぎだから、お忘れのようだ。「尊厳」など語る資格はない。
33⇒【反氏には、おかしな先入観で読者を洗脳しようとすることをやめることをお願いしたい】――日頃は見解が相容れない相手に対してナチスやヒトラーの同類(συγγένεια)のような極度に攻撃的な言辞をためらわない矯激な人物が、「お願い」(βούλησις)とは随分しおらしいもの言いだ。
読者は世間知らずでお目出度いカ氏とは異なり、世間並みの知恵を具えているから、カ氏が懸念するまでもなかろう。「政府解釈」氏とて、別に私に洗脳されたわけでもあるまい。
19⇒【憲法学者も野党も、改憲を阻止しようとし、マスコミは、その太鼓持ち】というが、戦後ドイツの偽善と欺瞞に満ちた自己弁明の象徴であるヴァイツゼッカー連邦大統領演説や、あってもなくても困らない「盲腸」のような存在である憲法9条の芦田修正の太鼓持ちをしているのが外ならぬカ氏なのだから、滑稽を通り越して戯画(ἡ κωμῳδεῖν)そのものだし、カ氏の反論を装った投稿が茶番(κωμῳδία)でしかない所以だ。
32⇒【芦田…の日本国憲法の三大原則、「相手の人格を尊重する」の対極にある反氏の「私への人格攻撃…】にしたところで、事実の指摘の正当性を覆い隠す(καλύπτω)ことにはなるまい。
カ氏にもみすぼらしく、悲惨なものながら人格(ἦθος)はあるのだろう。そして、仮令正鵠を射ていたとしても濫りに他者から批判を受けたくはないだろうし、立場(σεμνόν)もメンツ(τιμή)もあろう。そしてカ氏のような愚鈍で凡庸極まる人生や存在にも何がしかの意味(ἔμφασις)、存在理由もあろう。
尊厳(σεμνόν)とはそうした「個」(τὰ καθ’ ἕκαστον)が個である、つまりAがAであることの情緒的な表現=「外装」にすぎない。論理的には単なる同語反復でしかない。
人格のラテン語=ペルソナ(persona, 希;ὑπόστασις=ヒュポスタシス)は同時に三位一体の神の第二の位格だが、それは本来は個体性というだけのことで、平たく言えば誰でもその名の通りの‘only one’のことだ。そこに何の価値もない所以だ。
凡庸なカ氏にとって、11月25日・28⇒【すばらしい歌…私の心の癒しの歌でもあった】とかいう人気アイドルグループSMAPのヒット曲『世界に一つだけの花』(槙原敬之詞・曲)という、如何にもナイーヴな退屈極まるヒット曲の歌詞も、そうした同語反復(tautology)の表現でしかない。
‘Das Satz zeigt, was er sagt, die Tautologie und die Konstradiktion, daß sie nichts saogen.’(「命題は、それが語っていることを示しているが、同語反命題と矛盾命題は、何ごとも語らないということを示している」=『論理哲学論考』:‘‘Tractatus Logico-Philosophicus’’, 4-461)ということになる。
‘only one’が‘only one’であったとして、だからどうだというのだろう。下らない。
この世は法の許容する範囲で、「万人の万人に対する闘争」(bellum omnium contra omnis)であって、論争でも安全保障でも、「価値観の多様」のような御託を並べて優劣を糊塗することができないのが紛れもない現実だ。「価値観の多様」など論理的には存在しない。それを言うのなら、意味空間の多様性だけだ。
昨年5月19日以来の私の本欄への投稿も前々回で2800件となった。狭量な心(σμικρολογέομαι)の「阿呆」相手だと、無駄も多いようだ。οἴμοι.
一度まともになって、考えてほしい。もし、上杉慎吉が、「国際社会に国際法など存在せず、物事は力の優劣で決まる。」と主張せず、第一次世界大戦後、国際法を守り、欧州列強に譲歩し、国際連盟から脱退しなかったら、米国と戦争をしなかったら、日本は広島や長崎での被爆も受けず、悲惨な経験はなかったはずなのである。上杉慎吉のコンプレックスと独善性が、日本の針路をおかしな方向に曲げてしまった、と主張しても、それは過言ではない、と私は思う。
英国・ロンドンで文明社会の圧倒的な優位性と彼我の関係を実体験した夏目漱石の例もあるように、上杉愼吉も同様、彼らは国家有為の人材として西欧社会の最先端と対峙していたから神経症と誤解乃至は錯覚されるような劣等感や懊悩に苛まれたわけで、カ氏のような単なる知的に低劣な人物の他愛もない落ちこぼれ体験と重ね合わせること自体が、無意味だし滑稽だ。
上杉の息子云々の指摘は、身近に接した親族の感想として多少は参考にはなっても、背負っているものが父親とは根本的異なるうえに、息子の認識には父親の自負心の背景について思いも及ばない側面があり、一面的な理解でしかない証左だろう。
しかも、どんな卓越した人物、英雄の類であっても、近親者の受け取り方というものは、その親しさ故に逆に「取るに足らない」(ῥᾳθυμηος)側面があるものだ。肉親に英雄は認識できない所以だ。
もっとも、以上の議論はカ氏が参照した著書や証言を正確に記述していれば、ということを前提にした一般的な議論で、カ氏に限ってはそれも危ういから「留保」を要するが。
38⇒【一度まともになって、考えてほしい】とは、如何なる料簡か了解に苦しむが、カ氏にとっての「まとも」(ὀρθότης)とは、通常の良識(εὐγνωμοσύνη)や分別(σύνεσις)を具えた人物のそれとは異なるようだから、相手にするまでもあるまい。上杉に戦前の蹉跌の全責任を帰す「物語思考」は妄想の域に達している。
カ氏の単細胞思考では有効な反論は到底期待し難く、愚鈍が治癒可能(ἰατος)とも思えない。οἴμοι.
身の上話は単なる枚挙(ἀπολογίζεσθαι)の手法であって、カ氏の立論に都合のよい(とカ氏が妄信する)個々の事例をいくら挙げても、一般的な主張=命題の妥当性を論証したことにはならない。論理学の開祖アリストテレスに学ばなくても、賢明な人間は気づかないうちに自ずとそうしている。カ氏にはそれができない。「無学」というより、愚鈍だからだろう。
外国語の能力には個人差がある。極めて知的に有能な人物でも不得手な人物もいれば、中身は空っぽで西欧文明について肝腎なことは何も知らなくとも達者な者もいる。特に近年、日本人の海外渡航が極めて容易にかつ安価になり、謂わば大衆化したことで、その傾向が際立ってきた。
嘗ての留学生、特に夏目漱石や森鷗外ら明治期の選ばれた例外的なエリートはもとより、戦後しばらくまでは洋行する以前に、彼らは所謂泰西の社会や歴史、思想文化に通暁した一廉の知識層だった。カ氏のように西独に赴いて初めて東欧の社会主義体制の現状を実感して宗旨が一変するような単細胞は皆無だったろう。
公費留学が示すように、いずれも国家優位の人材だったからだ。カ氏や40で言及の友人程度とは土台、資質が異なるのだ。さらに漱石と鷗外との比較など無意味だろう。鷗外は最新医学を修めるため、漱石は英文学の本場で英国人の研究者に伍して文学研究を極めるためで、鷗外より困難な道でもあった。
41~42は一本にまとめたらようさそうなものだが、暇にあかせて徒然なるままに書き散らしているから無駄が多く、要領を得ないし、反論するまでもない。
「クズ」たる所以だ。
いずれにしても、私は別に挑発しているわけでもないが、論理的思考能力が極めて低劣で、概念的思考に元々不向きな血の気の多く驕慢な、しかも生来の虚偽体質の塊である無学な「実感信仰派」の「コピペの女王」カ氏の手にかかると、何ごとも身の上話に変わってしまうようだ。未明の性懲りもないクズ投稿40~42は、その紛れもない証明であろう。
ここまでくると、その憐れむべき人間性も「クズ同然」(φορυτός συγγενής)なのかもしれない。まぁ、言わぬが花だろう。
余談のついでに、37の議論の補説。
既述の通り、「人格」のラテン語=ペルソナ(persona, 希;ὑπόστασις=ヒュポスタシス)は同時に三位一体の神の第二の位格だが、それは本来は個体性というだけのことだ。誰でもその名の通りの‘only one’のことだ。そこに何の価値(ἀξία)があるわけでもなく、あるとしたら「意味」(τὸ σημαίνειν)だけだ、と。
「個性」(ὑπόστασις[唯一絶対性]=τὰ καθ’ ἕκαστον[個々特殊の])とは、そして「個」とは、あらゆるカテゴリーや本質規定に先立つヘブライ的な「<個>としての個の概念」である、「カテゴリーを超える個存在」であるが故に「尊厳」に近しいものともなる、という論理だ。
殺人者でも狂人でも私でもカ氏でも障害者でもノーベル賞受賞者でも、‘only one’には違いない。‘only one’を‘only one’ と言い募っても同語反復でしかないし、‘only one’に居直るのが如何にも、何事にも安易に流れやすい凡庸な「大衆気質」なのだろう。カ氏はその典型だ。
『世界に一つだけの花』に何が「癒される」のか、それこそ気がしれない。ご気楽でいい。
☆訂正 37・9行目の引用に誤植。正しくは【‘Das Satz zeigt, was er sagt, die Tautologie und die Kontradiktion, daß sie nichts sagen.’】。
あのフレーズも、その親友がESSのスピーチ大会で最後の部分を引用し、先輩に褒められたと言っていた、印象に残るフレーズなのであるが、「バラの花」について述べている。普通の人にとっては、彼女はどこにでもある一本のバラの花かもしれない、でも、僕にとって、そのバラは「特別な存在」なんだ。それは、僕が、時間をそのバラの花のために費やしたからである。子供も同じではないのだろうか?他人から見れば、ただの普通の日本人の子供でも、親にとっては、友人にとっては、かけがえがない、それは数えきれない共通の思い出があるからである。あの物語をかいたサンテグジュペリは、ナチスと戦った人物である、ということを後で知ったが、あの童話も私にとってはかけがえのない本である。
とにかく、逸る心を、もどかしい気持ちを抱いたままにパソコンのキーボードに向かうタイプだろう。書きながら考える、article型ではなく、謂わばessay型で、論旨が書くたびにころころ変わる。取りとめがないものそのためだ。文章は稚拙そのもので、書き出しは決まってコピペ。
そっそかしくて誤謬や誤記が頻出するのは愚鈍な質もあるが、横着者できちんとものを調べたり、精査したりしないからだ。とにかく、投稿すること自体が目的化している。
「百聞は一見に如かず」とか、益体もない凡庸で陳腐かつ、ありふれた退屈な内容が専らだ。小中学生並みの、児戯に等しい中途半端な綺麗ごとを並べた「おままごと」投稿でしかない所以だ。
取り立てて「誹謗中傷」するまでもなく、内容自体が「クズ」に等しい老婆の他愛もないおしゃべりの類の典型例だとしても、本欄もまた、暇をもて余したカ氏程度の愚鈍な人物にも一種の「生き甲斐」なるものを提供していることになるのだろう。
「百聞は一見に如かず」とは、どんな愚鈍な人物にも分かる程度の領域の話には通用するのだろう。言葉(λόγος)でいくら条理を明らかに示しても一向に要領を得た理解に達しないタイプがよく口にする。
‘νηπίοισιν οὐ λογός, ἀλλὰ ξυμφορὴ γίνεται διδάσκαλος.’(「愚か者どもには、言葉ではなく不運が教師になる」)とは、プラトンと同時代人のデモクリトスの断片(DK=76)だが、いつの世にも血の巡りの悪い御仁は絶えないようだ。
なまじ英独語が読めるらしいからその自覚もなく増長し、莫迦さ加減が倍加するのだろう。οἴμοι.
私の主張は、篠田教授の主張に歩調を合わせるもので、現在のドイツ憲法下のドイツでは、必要最低限の軍備や「専守防衛」ではなくて、NATOの一員としての「集団的自衛権」という「軍事力」の行使によって、国際社会の平和を構築しようとし、ドイツの軍隊に核兵器を装備しない、ということが日本と共通である、と主張しているのである。そして、日本も専守防衛一辺倒ではなくて、集団的自衛権を認める方針に移行した方が、日韓の防衛協力GSOMIAにも合致し、日米韓の防衛協力もスムーズに進み、そのことが、朝鮮半島から核兵器をなくすことにもつながり、国際社会の平和構築活動に寄与するのではないか、というのが、私の主張なのである。
‘intellectual yet idiot’の域にも達しない低劣な人物であるカ氏を嘲笑しつつ、たしなめたものだ。
カ氏の当時は今日と違ってそれほどありふれたものではなかった西独留学経験それ自体を、何か「特別の価値がある」(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)ように滑稽なほどに過大視して逆上せ上がっているカ氏の特異な心性、「中途半端に劣悪な人物」(ἡμιπόνηρος)の真骨頂を発揮して「学者の仲間」を自称していたからだ。
売り言葉に買い言葉(quid pro quo)的なニュアンスで、カ氏らしい, 如何にも負けず嫌いから出た表現なのだろうが、最初は悪い冗談(παίζειν)かと思ったが、本気だった。本気の「気」は「☆印」の☆かとわが眼を疑ったが、自意識過剰な「阿呆」らしい発言だった。
48も要領を得ない文章で、性懲りもなく愚にもつかない幼稚な議論を並べている。如何に愚鈍な人物かということが、文章自体から透けて見える。
それはともかく、問題なのは、⇒【憲法学者と自称されている小林教授…】の箇所だ。「政府解釈」氏の4の指摘の通り、日本語の普通の意味で、小林節氏は「自称」ではなく、博士号をもつ自他共に認める、押しも押されぬ「憲法学者」に相違なかろう。カ氏が「音楽学者」を自称=僭称するのとはわけが違う。カ氏は自称の意味、用法も知らないらしい。
篠田さんの尻馬に乗って笑止な御託を並べているが、カ氏こそ、まともに日本語の文章を解することも綴ることも覚束ない阿呆というのが真相だ。言うに事欠いて、⇒【どちらの(ママ=が)日本語の読解力がないのか、といぶかる】なのだそうだ。
カ氏にとって自称とは、頼まれもしないのに自ら墓穴を掘る=「自傷」行為なのだろう。
ご苦労なことだ。οἴμοι.
反氏は、私が無学である、とレッテルを貼られる。たしかに、ドイツ哲学についての知識も興味もあまりないが、「哲学」だけが学問ではないし、ドイツ文化というおおきな側面から見た時、反氏と私のどちらが無学か、は言えない。最近来日されたウィーン音大教授には、「あなたには知性がある、とか、賢明だ。」とか言われた。音楽学を勉強したから、そう写ったのかもしれないが、反氏の私への独善的な感想をSNSでまき散らすのは、やめていただきたい。
(参考: 民主主義の本質と価値、ハンスケルゼン、長尾龍一、植田俊太郎訳、岩波書店)
プライドだけは一人前で矯激でしかも驕慢極まる御仁だが、怠惰なうえに、何やら「とんでもない」(ὑπερβολή)「思い違い」をしているようだ。
50⇒【これだけ私が説明しても、「民主主義」とはなにか、という認識がなぜ、もてないのか】のような見当違いな御託を並べるが、カ氏の48に対する私の49での指摘は別に「民主主義」云々ではなかろう。反論の体を為さず、クズ(φορυτός)を撒き散らしているだけだろう。
48⇒【憲法学者と自称されている小林教授】というが、小林節氏は、その9条解釈の妥当性の如何はともかく、自称ではなく公私ともに認めるれっきとした憲法学者だ。カ氏は「自称」の意味を取り違えている、というのが49での私の指摘に外ならない。その点に関して、50~52にカ氏から有効な反論はない。日本語が読めないのだろう。
51⇒【最近来日されたウィーン音大教授には、「あなたには知性がある、とか、賢明だ。」とか言われた】は大方お世辞だろうが、カ氏の「お目出度さ」を物語るものでしかあるまい。同②⇒【我々門外漢の知識人】も滑稽で、カ氏が知識人(ἐπιστήμων)なら、市井の大概の謙虚な人々は知者=賢者(σοφός)だろう。
カ氏のは僭称という。一人前の御託を並べたかったら日本語から勉強したらいい。莫迦が移りそうだ。
‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’(=112, La Rochefoucauld, Maximes 112=「精神の疵(欠陥)は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。」)
「米国の基地が日本にあるから」平和が保てない、という主張は、左翼系の人々特有の考え方であって、現実は、「米国の基地」が「日本に、沖縄に」あるから、それが自衛隊と共に、抑止力になって、平和が保たれている。第一次世界大戦後、米国大統領ウィルソンが「平和の使者」として熱烈に歓迎され、「国際連盟」という「平和を構築する」組織が国際社会に出来上がったが、米国はその国内事情から、「国際連盟」に参加できなかった。そして中国大陸で侵略戦争をし、「満州国建国」を認められなかった常任理事国「日本」が脱退し、続いてエチオピアを侵略した「イタリア」、「ナチスドイツ」も脱退し、フィンランドを侵略した「ソ連」は除名され、国際連盟は、「平和構築」機関として意味をもたなくなった。その反省に基づき、戦後、「国際連合」は「国連軍」という軍隊をもち、米ソ中英仏が五大国として、拒否権をもった。ただ、「朝鮮戦争」に代表される熱戦、「ベルリンの壁」に代表される冷戦が米ソ間で勃発した影響で、ヨーロッパの平和を守るためにNATO,東アジアの平和を守るために、日韓が個別に米国との安全保障条約を結んでいる。そして、東西の冷戦が終わった後も、ヨーロッパ各国は、ロシアの脅威から自国を守るために、米国を含んだNATOという軍事同盟に加盟している国が多い。
まず、54⇒【自称「憲法学者」と小林教授に名付けたのは、長谷部教授への篠田教授の批判が念頭に】は意味不明だ。篠田さんは本人も自覚している通り、憲法学者ではない。カ氏が自称「音楽学者」であるようには、自称「憲法学者」でもない。憲法論議は「憲法学者の専有物ではなかろう」と主張しているだけだ。
54②⇒【ナチス台頭時に、この専門家的知性の優越性に異を唱えたのが、ドイツ国法学者の一人、H. ケルゼン】というが、戦前の実定法偏重のドイツ的法実証主義(Rechtspositivismus)を代表するのがケルゼンで、極端な話、すべて合法的な措置として行われたナチスの蛮行に法的な正当性(νόμῖμος)、根拠(τὸ διότι)を与えたものこそ、ケルゼンら自然法論(Naturrechtslehre)を排斥した極端な形式主義的法実証主義であり、価値情緒主義の法哲学だったということだ。
つまり、「悪法も法」に根拠を与えたのは、議会制民主主義の危機を洞察してナチズムの出現に道を開く法理論を展開したC. シュミット(「法を現実化するために法を無視する」⇒“Die Diktatur”, 1928, S. XVII.)ではなく、法理論的にはかえってケルゼンらの極端な実定法偏重の法理学(=法哲学)ということだ。そもそも、ヒトラーの政権掌握はヴァイマール憲法の手続きに沿った合法の委任独裁(die kommissarische Diktatur)だったのも同様だ。
その程度のことも知らないのは、「国法学」と「国法」を混同する程度に無知極まりないカ氏だけだろう。ケルゼンは法哲学者でもある。51⇒【ドイツ哲学についての知識も興味もあまりない】がないなら、愚鈍さを自ら証明することでしかない無駄口を慎むことだ。
カ氏御贔屓のソクラテスも「老婆の他愛ないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)をたしなめている。阿呆ほど益体もないことをよく語る。語れば語るほどぼろを出す。ごまかしにごまかしを重ね、自らは愚鈍ゆえに気づかないのかもしれない嘘に嘘を重ねる。それこそ「自称」ならぬ「自傷」行為=自ら墓穴を掘る自殺行為であることに、そろそろ気づいたらよい。
西独留学までした割にはいくら凡庸な「平均人」(‘el hombre medio’)だとしても、自らを毀損する(κολοβῦν)こともあるまい。「名誉棄損」より、その方がよほど深刻だろう。つまり、トチ狂った「独り相撲」(σκιαμχία)に狂奔する自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)だからだ。
いずれにしても、毀損される(κολοβός)のはカ氏の体面であって、ソクラテスに倣ってカ氏に最も欠落している正確な自己認識(αὐτὸ αὑτὸ νοεῖν[自分で自分を知る])を心がけることだ。肝腎のそれにも事欠く(ἀπορέω)精神の幼児(ἔκγονος)では、どうにもなるまい。
55はクズ。56⇒【現実の国際社会のしくみがわからず】と法螺話をする前に、56②⇒【香港の問題も…そこに住む人々の分離独立をめざす政治運動】のような戯けた御託は控えることだ。一国二制度を順守しない中国に抵抗することは、「分離独立運動」ではあるまい。
カ氏に真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)など期待できないようだ。
ポール・ヴァレリーの名篇『海辺の墓地』(‘Le cimetière marin’, “Charmes”, 1922, “Œuvres de Paul Valéry”, 1933)の一節に次の詩句がある。
Et vous, grande âme, espérez-vous un songe
Qui n’aura plus ces couleurs de mensonge
Qu’aux yeux de chair l’onde et l’or font ici ?
Chanterez-vous quand serez vaporeuse ?
Allez ! Tout fuit ! Ma présence est poreuse,
La sainte impatience meurt aussi !
而して、尊い魂よ、お前は夢を期待するのか、
肉體の眼に いま波と金とが此處に作り出す
虛妄(いつわり)のこの色彩もないやうな 儚い夢を。
一抹の煙とお前がなるやうな時にも 歌ふか。
さあ。一切は遁走する。わが現實の存在は
粗鬆。神聖な不滅の焦慮も また死ぬ。
(97〜102行、鈴木信太郎訳、『ポール・ヴァレリー全集』第1巻235頁)
別に訳せば
して汝、貴手にたふとき魂よ、汝はねがふや、
眼のあたり肉のまなこに水と金、和してつくりて
とりどりの、この虛妄の色綾をもたざる夢を?
霧のごとなりなんときに、汝はなおよく歌はんや?
あはれあはれ! すべては逃げる! 現身のわが身は粗鬆、
聖らかのこの焦慮もたまゆらの命死ぬなれ!
「国際通」らしいから、香港どころか、共産党一党支配の中国が新疆ウイグル自治区で行っている思想教育の名を借りた100万人を超すとされるウイグル族への深刻な人権弾圧でも得と考えてみることだ。それが国連も憂慮している現実だ。
いずれにしても、ちっぽけな魂を占拠する危機意識とやらの基となっている妄想=滑稽な懊悩の根源を見つめ、頭を冷やすことだ。
コメント56についても全く意味不明な論理です。常日頃は人権や民主主義の重要性を説きながら人権や民主主義を弾圧する中国政府を批判しない「人権派」のダブル・スタンダードが指摘されているところです。カロリーネ氏も常日頃は狂信的な「民主主義教(狂)」で傍から見ていて滑稽な程ですが、「民主主義」を求める香港における抗議活動には極端な程に冷淡で中国政府を擁護する形になっており、「人権派」と同様の問題が指摘できそうです。
NATOの会合で、中国の躍進について論じられているが、それに対する明白な態度は避け、ファーウェイの5Gの取り扱いについてもその対応は、加盟国の自主性に任せる、ということになっている。
一種の論争(ἐρις)とはいえ、兵法上は二正面作戦を避けるのが常道だが、自滅、自壊が近いカ氏にそうした分別や自制心などないから、つまり破れかぶれだから、とにかく鬱憤をぶちまける形で喚き、クズ立論を撒き散らしたかったのだろう。02:29~03:33はカ氏がどんな「見え透いた」言い訳をしようと、そうした時間帯だ。「良識」(εὐγνωμοσύνη)とはそうしたものだが、屈辱を受けて日の出(06:34)まで待てないのだろう。哀れなものだ。
それにしても、カ氏の性懲りもない、深刻ぶった必死の形相の益体もない、何より稚拙極まりない「おままごと」程度の「クズ」投稿を眺めていると、その焦慮(μανία)、苛立ち(ὀργή)は奈辺から来るのか、しばし考えさせられる。ヴァレリーの『海辺の墓地』(‘‘Le cimetière marin’’)などもち出さなくとも(‘La sainte impatience meurt aussi ! ’=「神聖な不滅の焦慮も また死ぬ。」)、前項59で指摘したように、「大方は身の程知らずに思い上がった虚飾に満ちた驕慢な心性の発露」なのだろう。
それにしても酷いものだ。身から出たサビとは言え、目を覆いたくなるような惨状(πονηρία)だ。独り相撲(σκιαμχία=a fighting against a shadow)の典型だ。
‘article’ではなく‘essay’のように日記の如く徒然なるままに書いているから、62のように長々と私の57のコピペで始まるし、63の週刊誌Der Spiegelからの引用もコピペでヘマして文字化けしても知らん顔で、意に介さない。真似のできない大した神経だ。困ったものだ。
「狂気の沙汰」(ἡ μανικός)である。οἴμοι.
いずれにしても、再三にわたって指摘しているように、ゲーテなどもち出して「常識」(τὰ ἔνδοξα)を説く割には、カ氏に限っては「真っ当な分別」(ὁ ὀρθὸς λόγος)など期待できないから、自殺行為(ἑαυτὸν κτείνειν)のままに放置しておくのがよいのかもしれない。しかし、それでは本欄は一種の「愚者の楽園」(τὸ ἄφοβον μακάρων νῆσος)と化すことにもなりかねないが。
63は「政府解釈」氏に任せるとして、62はドイツ国法学はもとより、ケルゼンの提唱した純粋法学(Reine Rechtslehre)由来の実定法偏重の価値情緒説的(価値相対主義的)な法実証主義の弱点、落とし穴を知らぬがゆえの見当違いな議論で、相手にするまでもない。以前に詳述した。
61⇒【ソクラテスが「無知の知」で主張したように、…「相対的真理、相対的価値」のみが人間的認識にとって到達可能なもの】は、「無知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)=「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)の解釈としては不当で、ケルゼンが信奉するソフィストの見解そのものだ。
カ氏は「無学」だから、墓穴を掘っていることにも気づかない。気楽でいい。
そうこうするうちに、漸く「薔薇の指さす」(ῥοδοδάκτυλος)曙(φᾶνή)だ。これ以上、頓馬を相手にしても仕方がない。
文字数を嵩増しするため、怠慢極まるカ氏がこれ見よがしにドイツの週刊誌Der Spiegelからコピペして63に張り付けた文字化け混じりの珍妙な文章(中身は駄文)、しかも尻切れトンボのまま途中で放り出して、未だに知らん顔を決め込んでいる。
カ氏はある種の「☆人」(ὁ μαίνομαι)だから、神経(νεῦρον)もワイヤーやクジラの髭並みに強靭(σκληρός)だ。逆上せ上がっている(ὕβρίζω)割には驢馬(ὄνος)並みの頓馬(ἀφροσύνη)だし、オルテガ・イ=ガセではないが、‘El tonto es vitalicio y sin poros.’(「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はないのである。」; ‘‘La leberión de las masas.’’)ということなのだろう。
精神の幼児(ἔκγονος)よろしく、この間、「酷い目に遭って幼児のように学んだ」(ὥσπερ νήπιον παθόντα γνῶναι)形跡はなく、懲りもせずに「愚か者どもには、言葉ではなく不運が教師になる」(‘νηπίοισιν οὐ λογός, ἀλλὰ ξυμφορὴ γίνεται διδάσκαλος.’)を地で行く無軌道ぶりだ。作法と節度を弁えぬ、謂わば「無学な」(ἀμαθής)言論のならず者(ὁ μοχθηρός)に外ならない。
自称「国際通」らしいが、この有様では誰も認めてはくれまい。悪あがきをすればするほどぼろを出す。それが自覚できないほどに愚鈍な人間が、言うに事欠いて61⇒【ソクラテスが「無知の知」で主張】でもあるまい。「無知の知」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)に最も背いているのが外でもないカ氏で、冗談が過ぎるというか、言うこと為すこと、「戯画」(ἡ κωμῳδεῖν)でしかあるまい。
とんだ茶番(κωμῳδία)に溜息が出る。οἴμοι.
‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。」=La Rochefoucauld; Maximes 386)。
自称「音楽学者」は悪い「冗談」(παίζειν)として、「国際通」でもあるらしい度し難い無学な婆さんが、100万人を超すとされる罪なき人々をある日突然連行して矯正施設に放り込み、共産党の方針や習近平主席の演説内容などを叩きこんでいるという。国連の人権監視員会が重大な懸念を表明し、もはや中国の国内問題として座視できない域にまで達しつつあるのは、それこそ米国だけでなく、カ氏にだけは欠落(στέρησις)した国際的な共通認識(κοιναὶ δόξαι)=常識(τὰ ἔνδοξα)だろう。
その点、種々批判はあっても現在の国際社会を束ねる共通の価値観である法の支配や自由で民主的な統治を掲げる米国の指導理念上の優位性は、共産党一党独裁の中国などの比ではない。カ氏は盛んに共産主義を糾弾するが、中国共産党だけは例外らしい。
ドイツの中国への及び腰とも言える煮え切らない態度など、貿易立国ならではの中国との軋轢を回避するため尻尾を振る(κολακεύω)「商売」(καπηλεία)の論理で、国内法も含め対抗しようとする米国の足許にも及ばない。
EUなど束になったところで、次世代の政治を理念的に主導できない所以だ。英国が離脱すれば、一層影が薄くなろう。
「非ナチ化」(Entnazifizierung)という戦後ドイツの偽善(ἡ ὑπόκρισις)を糾弾する戦後世代による異議申し立て=学生叛乱が1967~68年に西独でもあった。
香港情勢については、前々回のブログ記事【人権問題くらいでは、左右の大同団結はできないのか】のコメント26で紹介したとおり、外交的配慮もありアメリカほどの強い態度ではありませんがEU上級代表も声明で懸念を表明しています。また、前記ブログ記事のコメント27で紹介したとおり、日本の安倍首相も日中首脳会談で中国側に懸念を表明しています。
先日成立したアメリカの「香港人権・民主主義法」の成立の背景事情として、「中国脅威論」の影響が全くないとはいえませんが、圧倒的多数(上院では全会一致、下院でもほぼ全会一致)で採択されたことの意味を自称「国際通」のカロリーネ氏はよく考えるべきです。
つまり、カール・シュミットの「敵味方理論」を批判し、彼の主張する専門家的知性の優遇を、専制支配に導くもの、として排除しているケルゼンの主張を私は、支持しているのである、
と訂正します。
さらに72は、都合の悪いことはすべて頬被りして益体もないことを「訂正」と称して冗語を費やす体たらくを如実に示している。訂正や、自らの不手際を本欄読者に申し開きする(ἀπολογεῖσθαι)ことは、外にいくらでもあるのではないか。
とにかく、見当違いなことを真顔でよく書き散らす。それが、齢70近い、少しは分別を弁えてもよさそうな老媼なのだから、まさに「驢馬(=頓馬)につける薬はない」(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’)所以だ。
以下は「クズ」の解体処理。
69⇒【反氏のソフィスト、「無知の知」についてのコメントこそ、ギリシャ哲学の専門家、と自負される割には、常識からかなりずれている】は、カ氏のような凡庸な御仁に「固定観念」として牢固としてある「ソフィスト」(σοφιστής)に関する一般的理解、即ち「常識」(τὰ ἔνδοξα=元々の意味は「みんなが何らの根拠もなくそう思うこと」)なるものが、ソフィストの実態を反映していないからだ。
いやしくもギリシア哲学、西洋古典学の研究者(つまり、ギリシア語やラテン語を解する)=専門的知見を有する研究者(θεωρικός)、専門家(τεχνίτης)の共通認識(κοιναὶ δόξαι)とはそういうものだ。私のような、非職業的な学徒(ὁ μαθητής)であっても。無学で怠惰なカ氏が、何も知らない(ἀγνοέω)というだけのことだろう。
その自覚(εἰδέναι)もない人間が、「無知の知」などを喋喋するこ自体が笑止千万で、それこそ天に唾する愚行だ。
69②⇒【田中美知太郎…が、「岩波新書のソクラテス」で書かれたように、ソクラテスは、神のみが智者…結論なのである】は、【ソクラテスは、神のみが智者であるという一般命題から…だけでは出てこない結論なのである】の155文字は田中の岩波新書263『ソクラテス』(「岩波新書のソクラテス」という著書は存在しない)からの引用で誤記はないようだが、それに続く、69③⇒【ソクラテスの考えこそが、自分たちが智者であると自負しているソフィスト、日本で現在の政治環境からいえばマスコミで活躍されている自称知識人、憲法学者たちや反氏たちを怒らせた】とあるのは、田中の議論の趣旨をカ氏が正確には何も理解していない歴然たる証拠だ。
つまり、ソクラテスの難癖とも言える執拗な知の吟味(ἔλεγχος)と称する論難に遭い、怒りや恨みを募らせ、やがて刑死に至る結果をソクラテスにもたらしたのはソフィストではなく、知者を自負、またはそう周囲にも思われていたアテーナイ市民権を有する有力政治家や技術者、詩人たちであって、ソクラテスはソフィストを批判しても、別にソフィストたちの怨みを買ってはいない。
ソフィストのほとんどは「外国人居留民」(μήτοικος)であって、政治的には無力な存在だったし、何よりソクラテス自身がソフィストの一人と目されていたくらいだ。ソクラテスが告発され、裁判にかけられるのは別の政治的事情による。
カ氏は肝腎なことは何も知らないから、戯けた素人論議に淫している。「無学」だからだ。
田中の『ソクラテス』は啓蒙書ながら、すべての記述に典拠を明示した、素人にも専門家にも、そのソクラテス理解の深浅を測る「リトマス試験紙」のような名著で、カ氏の読解力は中高生並みだ。
69⑤⇒【なぜ、反氏は、ケルゼンを、ソフィストと形容し、ナチズムを生み出した人、と断定されるのか、理解できない】は、カ氏がその知的能力の不足(ἔλλειψις)と先入見(ὑπόληψις)から、日本文で書かれた私の議論の趣旨が真っ当に理解できないからだろう。
私は別にケルゼンを「ソフィストと形容」してはいないが、ケルゼンは紛れもないソフィストの「信奉者」(ὁ εὔνους)だ。同じユダヤ人だったK. ポパーとともにプラトンに極度に批判的だったことも事実で、ケルゼンが米国亡命後に著した英文の著書『社会と自然』(“Society and Nature”, 1943=邦訳はない)の中で、ソフィスト登場以前のギリシアが、他の古代社会と同じく、「自然の社会的、規範的解釈」によって彩られていたことを論じ、道徳的、社会的な「応報の原理」(Vergeltungsprinzip)が社会に限らず自然の解釈にまで投影されていたことを指摘したうえで、原子論の創始者レウキッポスやデモクリトスに加え、ソフィストが、自然と社会を原理的に同質なものだと解釈する、素朴な一元論の打破するのに果たした役割を高く評価する。
つまり、「社会の自然からの解放」、即ち法規範や制度のもつ相対性や人為性を抉り出し、謂わば近代的とも言える合理的で明快な社会の解釈に先鞭をつけたのが、ソクラテスやプラトンではなく、「詭弁家」の汚名(διαβολή)を歴史上長らく着せられていたソフィストだったからだ(5月5日・18参照)。
中高生並みの旧弊なソフィスト観しかないカ氏には手に負えまい。
プラトン批判の一方で、ソフィストの自由で開かれた思考を高く評価した。ポパーからみれば、ソフィストのプロタゴラスやゴルギアスは、反貴族主義的で平等主義的な人間観を説いた近代的思考の先駆者になる。ポパーに倣い、民主制を擁護し、相対主義や多元的価値観の基盤を準備したプロタゴラスを、ギリシア文明の英雄(ἥρως)と讃える研究者もいる。
いずれにしても、プラトンがソクラテスの口を藉りて語らせたソフィスト批判は意図的、戦略的なものだったことも指摘してある。
カ氏のような単細胞は、それならソクラテスをプラトンから分離すればよいと考えそうだが、そうは問屋が卸さないのが哲学や古典学の専門家を長らく悩ませた「ソクラテス問題」だ。何んと言ってもソクラテスは一冊の著書も残していないからだ。
ケルゼンを69⑥⇒【ナチズムを生み出した人、と断定】してもいない。そうではなく、ケルゼンの主張した極端な実定法偏重のドイツ的法実証主義が、すべて合法的手続きを経て成立したナチズムの蛮行を正当化する根拠として悪用される弱点を内包している、と指摘しいる。
「理解できない」のは、端的に頭が悪いからだろう。70⇒【私に対しての失礼な態度】は、立論の上で血も涙もないだけの話で、議論をする以上、甘えない方がいい。
以上からも明白なように、カ氏の議論は真面目な論評に値しない「クズ」だから、この程度にしておきたい、莫迦が移るからだ。οἴμοι.[完]
新疆ウイグル自治区の人権問題に関しては、アメリカ下院がほぼ全会一致(賛成407、反対1)で「ウイグル人権法案」を可決しました。EU、英仏独や日本を含む国連人権委員会加盟国22か国は、これよりも前に中国政府を非難する声明を出しており、カロリーネ氏が好意的に引用することが多いドイツのメルケル首相も中国による人権侵害をEUが非難したことを支持すると議会で明言しているようです。
https://www.sankei.com/world/news/181027/wor1810270007-n1.html
https://www.bbc.com/japanese/48946124
https://www.sankei.com/world/news/190712/wor1907120015-n1.html
https://www.afpbb.com/articles/-/3257224
中国政府の「テロ対策」であるという主張は「名目(口実)」にすぎないというのが国際的にも共有されている「常識」です。また、仮に「テロ対策」であるという中国政府の主張を前提にしても、国際人権法等に準拠した国際標準の取扱いをすべきなのであり、テロ対策だからといって非人道的扱いが許容されるものではありません。国際的な懸念を払拭するべきなのです。
カロリーネ氏は自称「国際通」のようですが、カロリーネ氏が投稿すれば投稿するほど「国際音痴」であることを示すだけであり、「国際通」を自称しているのは傍から見ていて滑稽です。
75で私は、「無学の女王」(βασίλισσα ἀμαθής)カ氏の旧態依然としたソフィスト観を指して、カ氏が民主制擁護のチャンピオンの如く「崇め奉る」(προσκυνέω)ケルゼンがソフィストの信奉者であることを、その著書を基に論じたうえで、⇒【中高生並みの旧弊なソフィスト観しかないカ氏には手に負えまい】と書いた。
書いてみた後で改めて再考したことは、そうは言っても昨今の中高生はさすがにカ氏が初等中等教育を受けた60年代末から70年代初頭のようなこともあるまいと気づいて、高校の「世界史」と「倫理」の教科書を参照してみた。
豈図らんや、さすがにソフィスト=詭弁家(σοφιστής)と、古来からある「悪名」(δισβολή)をそのまま受け売りするものはなかった。カ氏の独りよがりの「常識」なるものの時計が半世紀近く、止まっていることを端的に示している。
何ごともに思い込みが激しい怠惰で単細胞のカ氏と、昨今の中高生は大いに違うようだ。カ氏に孫でもいたら、「お婆ちゃん、それ違うョ‼」とたしなめたであろう。
歴史書の老舗「山川出版社」の参考書『改訂版 詳細世界史研究』(2008年)は、「民主政の進展に合わせるように職業弁論家のソフィスト Sophistが活躍し、民会や法廷での修辞弁論の技術を教えた。…プロタゴラス…の「人間は万物の尺度である」という言葉は、絶対的な真理の存在を否定するものだが、このためにソフィストを単なる詭弁家・煽動家とみなすことは適当でない。彼らはポリス市民として生きることを教え、非常な人気をはくしていた。ソクラテス…もソフィストの仲間とみなされたが、人間の存在について、また真理について根源的に問いつづけ、絶対的な真理の存在と、知徳の一致を教えようとした」(44頁)とある。
陳腐な記述だが、専門研究者の議論をそれなりに反映している。昨今の中高校生も侮れない所以だ。カ氏など、相手にもされまい。
プラトンの偉大さは、一見意地悪で陰湿な粗捜しともみられ、無駄な観念遊戯(ἑπίνοιαν παιδιά)、無駄話(ἀδολεσχία)とも疎まれたソクラテスの談話という形をとった問答(διάλογος)にかえって真の哲学の精神を認めた炯眼であって、田中美知太郎も「世人が効果のない無駄話として嘲ったソクラテスの談話のうちに却って眞の學問的精神をみたプラトンは…哲學者はかゝる遊戲を解しなければならぬことを敎へてゐる」(田中訳・註『テアイテトス』序説、24頁)としている。
ともかく、ソフィストによって修辞術=弁論術(ῥητορική)を精錬した争論術(ἐριστική=問答競技)となり、さらにプラトンが概念問答法(διαλεκτική)を生み、やがてアリストテレスの精密な推論法則の集成、極めて完成度の高い定言三段論法(συλλογισμός)に至る、というのが西洋哲学の大きな流れだ。
カ氏は肝腎なことは、何も知らないで妄説を並べる。ちなみに、「倫理」の参考書『シグマベスト 理解しやすい倫理』(文英堂)には「ソフィスト…それまでの哲学が認識の限界をこえた自然(フィシスphysis)を対象としていたのに対し…人間の問題、特に法律・制度(ノモスnomos)を人間的な立場でとらえなおし、社会生活に自由な批判精神を導き入れようとした人々」(41頁)とある。
カ氏の「無学」ぶりの傍証は尽きない。知らぬは「K」印の「阿呆」ばかりなり、ということだろう。οἴμοι.
‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.(La Rochefoucauld; Maximes 265)
(誤)国連人権委員会
(正)国連人権理事会
どういうわけか昔の組織名を記載していました。どうやら反時流的古典学徒氏が度々使う「(カロリーネ氏の)莫迦が移る」というのは本当に起こる現象のようなのです。莫迦が移らないように気を付ける必要がありそうです。
政治解釈氏の、どうやら反時流的古典学徒氏が度々使う「(カロリーネ氏の)莫迦が移る」というのは本当に起こる現象のようなのです、というおまけまでついている。このような表現は、いじめ、人権侵害にはならないのだろうか?少なくとも、日本国憲法成立時、憲法普及会会長芦田均さんが求められた、お互いの人格を尊重する姿勢ではない。もともと私が、H.ケルゼンや芦田均さんを尊敬し、C.シュミットや宮澤俊義さんをはじめとする日本の憲法学者の見解に疑問をもったのは、「民主主義」とはなにか、についての関心をもったからである。世界で一番民主的な憲法といわれた「ワイマール憲法」からナチスドイツがうまれ、「民族主義的社会主義者」としか思えない韓国のムンジェイン政権の政治運動が「民主化運動」の体現者、と表現されているのは、なぜなのだろう、という疑問をもったせいである。そして、コメント54で書いたように、専門家的知性が専制支配の最も有効なイデオロギーである、形而上学的、絶対主義的世界観と専制主義的態度が、批判的・相対主義的世界観と民主主義的態度と結びついている(p128)というケルゼンの主張に納得したのである。
(参考: あたらしい憲法のはなし、岩波書店、
民主主義の本質と価値 他一篇 H.ケルゼン、岩波文庫、
政治的なものの概念、 C.シュミット、未来社)
テロ活動で難民生活を余儀なくされている中東やアフリカ出身のトルコ領内やギリシャの島での生活が、人権に配慮した生活だと本当に言えるのだろうか? 中村哲さんが暗殺されたアフガニスタン、あるいは、ISに支配された地域民衆の生活が、本当に人権に配慮されたものだろうか?アラーを絶対視する世界観、もやはり、ナチズムや日本の軍国主義と同じ意味で、危険な思想だと私は思う。
「ヨーロッパの見方」(コメント63参照)ということであれば、欧州議会の下記の決議文をご参照ください。
https://www.europarl.europa.eu/doceo/document/TA-8-2018-0377_EN.html
テロ対策を口実にテロには無関係の人までも大量に収容施設に入れることと、カロリーネ氏が挙げた地域における生活水準の劣悪さの問題は別次元の問題です。後者の問題があるからといって、前者の問題が正当化されるものではありません。論理的に異なる問題を挙げても全く反論になっていない「反論偽装」です。
「精神の狭量は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えるものをなかなか信じようとしない。」(‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.’=La Rochefoucauld; Maximes 265)というが、何せ愚鈍なうえに料簡が狭いから、何より甘ったれているから何ら有効な反論が為し得ず、親や教師に泣きつく小中学生でもあるまいし「いじめ」だとか、日頃の批判的な言辞を頬被りして、にわか「人権派」よろしく、「人権侵害」だとか喚いている。
匿名(ἡ ἀνωνῦμία)をいいことに、真っ当な議論の作法も弁えず、支離滅裂で不得要領なでたらめの限りを尽くしておいて、結局は「泣き言」(τὸ βοᾶν)を並べることしかできない。身の程知らずに背伸びして投稿などするからだ。
性根を据えて、徹底的に議論を戦わせる準備も覚悟もないから、そういうことになる。「国家公共の事柄」(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)に関する争論(ἐρίζειν)は、幼稚園のお遊戯(παιδειίά)のように、皆で「お手々つないで仲良く」というわけにはいくまい。
カ氏にも参加資格はあろうが、立論の当否、優劣は「民主的」に決まるわけではない。論理と論拠、つまり説得力がすべてなのだ。それが嫌なら退場するか、屈辱に甘んじて耐えることだ。悔しかったら一人前の議論ができるように、論理の刃を研ぎ澄ませ、正確な表現で相手に有無を言わせないレベルにまで高めることだ。
尊重されるべき「人格」(ἦθος)は、狂人にも殺人者にも詐欺師にも独裁者にもあるという意味でカ氏にもあろうが、政治(πολιτικός)の論理である民主主義とは関係ない。
「形而上学的、絶対主義的世界観」という措辞は哲学の門外漢には漠然とした表現だが、それに批判的なのはケルゼンが依拠した新カント派流の批判主義の立場だ。それが如何にして、ケルゼンの「批判的・相対主義的世界観と民主主義的態度と結びついている」という主張に行き着くのか、論理的に理解できるように得と説明してもらいたいものだ。
要するに、【専制支配のイデオロギーに転嫁しかねない「形而上学的、絶対主義的世界観」を排して、「批判的・相対主義的世界観」に立脚するケルゼンの立場に民主主義本来の意義や価値を見いだす】ということだろう。
そう表現できない程度に、蜘蛛の巣(τὰ ἀράχνια)が張ったカ氏の脳みそは混濁している、ということだ。
82については、プラトンやアリストテレスに限らず、ソクラテス自身が民主制の根源的な批判者だという、それこそほとんどの哲学や古典学の研究者を納得させるに足りる論拠をカ氏が具体的なテキストの箇所を証示すことで論証できなければ、単なる素人の無駄口にすぎない。学問とはそういうものだ。お手並みを拝見したい。
プラトンの著書に、82⇒【プラトンにとって、ギリシャ人と蛮族の戦争のみが真の戦争である】のような記述はない。「ギリシア人と夷狄(βάρβαροι=両者は自然本来の敵)との敵対関係は戦争(πόλεμος)と呼び、ギリシア人同士の戦いは内乱(στάσις)」という『国家』巻5巻470Cのことを言っているのなら、趣旨が異なる。
Ἕλληνας μὲν ἄρα βαρβάροις καὶ βαρβάρους Ἕλλησι πολεμεῖν μαχομένους τε φήσομεν καὶ πολεμίους φύσει εἶναι, καὶ πόλεμον τὴν ἔχθραν ταύτην κλητέον: Ἕλληνας δὲ Ἕλλησιν, ὅταν τι τοιοῦτον δρῶσιν, φύσει μὲν φίλους εἶναι, νοσεῖν δ᾽ ἐν τῷ τοιούτῳ τὴν Ἑλλάδα καὶ στασιάζειν, καὶ στάσιν τὴν τοιαύτην ἔχθραν κλητέον.
「したがって、ギリシア人が夷狄と、また夷狄がギリシア人と戦う場合には戦争するとわれわれは言い、両者は自然本来の敵であると言うだろうし、そしてこの敵対関係は「戦争」と呼ばれなければならない。けれども、ギリシア人がギリシア人に対して何かそのようなことをする場合は、両者は自然本来には友であるが、ただそのような状態においては、ギリシア人は病んで内部が割れているのだと言うだろうし、そしてこのような敵対関係は「内乱」と呼ばれなければならない」(藤澤令夫訳)
ただそれだけで、カ氏のような途方もない議論ではない。
なお、82⇒【「国家」第5巻p 470】という形の引証を研究者はしない。
端的にカ氏が「無学」で、わけが分からずに誤記しているか、C. シュミットの当該書の訳者の不手際だろうが、「470」(正確には「470C」)は、1578年刊行のステファヌス版『プラトン全集』(H. Stephanus [Henri Estienne];Platonis opera quae extant omnia, Genf[Geneva], 3 voll.)の該当巻の頁に基づき引証する学界の慣行で、10行毎に欄外にABCDEとあり、それをもって大凡の出所箇所を示す。
『国家』(‘‘Πολιτεία’’、羅‘‘Respvblica’’)はステファヌス版第2巻の327A~621D。『国家』は便宜上10巻(Α/Β/Γ/Δ/Ε/Στ/Ζ/Η/Θ/Ι)に分けているので、470Cはその第5巻(Εの巻)に含まれる。
無学な婆さんには余計な講釈かもしれない。[完]
アメリカではなく「ヨーロッパの見方」を重視したいのであれば、欧州議会の下記の決議(特にf)をご覧ください。
「F. whereas an extrajudicial detention programme has been established, holding ‘from tens of thousands to upwards of a million Uyghurs’ who are being forced to undergo political ‘re-education’ according to estimates cited by the UN Committee on the Elimination of Racial Discrimination, without being charged or tried, for undetermined periods of time, and are therefore being arbitrarily detained under the pretext of countering terrorism and religious extremism; whereas a policy of strict restrictions on religious practices and the Uyghur language and customs has been developed in the Xinjiang province;」
https://www.europarl.europa.eu/doceo/document/TA-8-2019-0422_EN.html
また、BBCの下記の記事もご覧ください。
「イスラム教徒のウイグル人を主体に、100万人近くが裁判を経ずに施設内で拘束されているとみられている。」
「ある文書は、2017年のわずか1週間の間に、新疆ウイグル自治区の南部から1万5000人が収容施設に入れられたとしている。」
https://www.bbc.com/japanese/50542004
拘束されている人数から判断してもテロ対策を口実にテロと無関係の者が拘束されているのは国際的常識であり、それすら理解出来ないカロリーネ氏が「国際通」を自称するのは滑稽です。最初は誰でもテロとは無関係というコメントに至っては論評に値しません。
つまり、カ氏にとって1970年代に西独留学して一部垣間見たとして特筆大書している旧東独における国家秘密警察、所謂シュタージ(Stasi=Staatssicherheitsdienst=国家保安局)による徹底した国民監視の抑圧的な支配を非難するなら、同じ手法、と言っても「密告」などという旧弊な手法ではなくもっと手荒な、より現代的な手法、装置で少数民族を支配している中国共産党指導下の中国当局を当然非難しなくてはなるまい。
どういう料簡か、弱みでも握られているわけでもなかろうに、確たる理由を明示せず中国におべっかを使うカ氏は、ご都合主義の二重基準で、ひたすら東独、ソ連支配下の旧東欧諸国のみを批判する。
その論理的破綻にさらに拍車をかけるのが、議論を大風呂敷に広げて、イスラム国支配下地域の事情や内戦のシリアの状況に直ちに議論を不当に移動させることだ。
意図的に(ἑκουσίως)狡猾に「論点ずらし」=論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν=petitio principii)の詐術的議論(παραλογίζεσθαι)、論点移行の誤謬(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)、平たく言えばごまかし(τερθρύεῖσθαι)をしているなら相当悪質だが、どうやらカ氏にその明白な自覚はなさそうで、まともな概念的思考が覚束ない低能ぶりから、議論の趣旨が何も理解できないまま、盲目的に反論の真似ごとをしているようだ。
端的に「頭が悪い」のだろう。οἴμοι.
カ氏は、ロシアのクリミア侵攻には非難を口にしても、中国が同じことをすると、しかも国際機関の勧告や判決に従わない身勝手な「ならず者」ぶりを示しても、何ら意に介しないようだ。とんだご都合主義の二重基準だ。
カ氏にとって批判の対象は旧ソ連型の共産主義と、ISや旧オウム真理教のようなテロ組織、カルト教団のみらしい。謂わば、冷戦終焉後の今日、「化石」同然の旧弊な反共主義者で、カ氏の時計は1970年代で止まっているようだ。
それで、高がドイツの週刊誌Der Spiegel程度の論調を根拠に「欧州の立場」、視点を喋喋している。自称とは言え、とんだ「国際通」だ。「ドイツの犬」、「ドイツ狂(教)」たる所以だ。いつぞやの宣言通り、「布教活動」のつもりなのだろう。
その延長線上で香港の民主化運動という名の中国の一国二制度軽視の極端ない抑圧的姿勢への抵抗や、例えばフランスのジレ・ジョーヌ=黄色いベスト運動(Mouvement des Gilets jaunes)にもご不興のようだ。不興=布教はカ氏の蜘蛛の巣が張った混乱したお頭の中で一体化しているのだろう。
通常の常識的感覚では、現代版「東洋の野蛮」である中国よりも、少なくともかつては民主主義的合意形成の歴史があった東独の方がまだましかもしれないが、中国の経済的成長に目が眩んで誤認=見解を使い分ける程度に対中国観が歪み、その虚偽に無自覚だから、よほど愚鈍なのだろう。οἴμοι.
昨今は例外的にただ二つ、しかも翻訳で読んだらしいケルゼンの『民主主義の本質と価値』(“Vom Wessen und Wert der Demokratie; Staatsform und Weltanschauung”)とC. シュミットの『政治的なるものの概念』(“VomDer Begriff des Politischen”)を一人前のつもりで論じ、大騒ぎだ。滑稽極まる。
日頃は真っ当な読書(ἀναγιγνώσκειν)などせず、テレビの討論番組とネッツ上の情報、とりわけWikipedia頼みで軽薄極まる議論に終始していると、読んで何やら勘違いすることが、カ氏には一大事らしい。よほどお目出度いのだろうが、頓馬につける薬はない。それをカ氏ほど無学でも怠惰でもない篠田さんを引き合いに騙るのだから、救いようがない。
精神の幼児に等しいから、友と敵の区別(die Unterscheidung von Freund und Feind=「政治的行動や動機が帰着することになる特殊政治的な区別とは、友と敵との区別[‘‘Der Begriff des Politischen’’, 2 Aufl., 1932, S. 26.])程度に驚いて、読みもしないプラトンに重ねている。
日本の憲法学程度と異なり、2000年を超す膨大な研究や解釈の蓄積の上に議論を構成している専門研究者の共通なソクラテス観=民主制の敵対視について、何ら証拠の具体的証示なしに、89⇒【私はソクラテスを「民主主義」の擁護者…と考えている】のような誇大妄想的法螺話を並べても、何の意味もない。虚構=物語に基づく「ソクラテス文学」は、カ氏の心境小説でしかない。
89②⇒【プラトンが民主主義に懐疑的である理由は、敬愛する師であるソクラテスが…「死刑」に処された為】なる心情吐露は学問的真理ではない。‘Avez-vous un texte?’というしかない。
豚ならぬ驢馬に真珠だが、『国家』でも読めばよい。それが、欧州の知的伝統だ。
学問は甘くない。οἴμοι.
私は、冷戦時代の東独にも行ったし、2000年初頭の中国、現在の世界中に旅行をしている中国人、はたまた、日本にやってきている中国人とのつきあいもあるが、民主主義的合意形成、という面から見て、現在の中国人の方が、かつての東独人よりもはるかに、自由度があるのである。自由に、大きな声で、自分の主張をし、好きな西側の製品を買う。東独人がそれをすると、秘密警察ににらまれたのである。反氏は、現実の旧東欧をご存じなのだろうか?
現在の中国の抑圧的支配は旧東独とは次元が異なる。もはや「密告」に拠らずとも、SNS上の書き込みも含め、国民は常時監視下にある。少しでも当局に敵対的、批判的な言辞を公私の言語空間で発しようものなら、当該人物の社会的地位や立場にもよろうが、当局によって摘発される恐れがあり、今後ますます強まろう。
それを後押しするのが中国が次世代の覇権的優位性を狙う5G技術であり、デジタル人民元構想だろう。テロ事件が頻発する欧州でも監視カメラは多いが、近い将来の配備計画も含めて中国の監視体制計画は欧州の比ではない。
しかも欧米や日本など、一応「法の支配」が国是として確立した国家と違い、所詮は既得権益層集団である国家の上にある中国共産党に都合のいいいように解釈され、人権上の配慮など重要視されるとも思えない中国での監視システムの運用など、悪夢としかいいようがない。
中国経済はさまざまな不安要因が指摘されるものの依然高水準の成長を維持しており、その恩恵に与っている比較的恵まれた層(日本への旅行者の相当部分)は、それをいいことに我慢して口を拭うか、関心がないだけだろう。
「譬え」(εἰκών)とはいえ、民主的合意形成の伝統がない中国は、現代の野蛮国なのだ。
旧東独に事情など、カ氏に指摘されるまでもなく承知している。阿呆は自らが「無知」だと他者もそうだと勘違いするらしい。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。