アフガニスタンで亡くなられた中村哲医師は、あらゆる方面の人々から尊敬されていた偉人と言ってもいい人物だ。政治的立場も超えて尊敬されていたことが中村医師のすごさだ。小川和久氏は、テロ特措法をめぐる国会審議の際に、国会で参考人として、中村医師が自分とは反対の立場から意見を述べたとき、「中村さんの穏やかさには感銘を受けた」、とSNSで思い出を披露している。これが本当だろう。
私自身、憲法9条の理解は中村医師と違っていると思う。だが、そのことと、中村医師が偉大な人物であったとことには、何も関係がない。
中村医師は、偉大な実践者だ。口だけのレベルの人たちとは、レベルが違う。
憲法9条を改正すべきだ、だからガンジーは偉大だと思わない、などという人は、よほど偏屈な人だ。政策論と、ある人間の人生の偉大さは、全く別の次元の話だ。
憲法9条は、平和主義を掲げる日本の大きな財産である。
ただし、政策論であれば、たとえば実際の平和を支えている日米安保体制下の米軍と自衛隊を無視するわけにはいかない。そんな偽善は、口だけの詭弁にすぎない。
アメリカを傭兵のようにして自国の安全保障を確保しながら、対外的には憲法9条を強調して無垢な平和主義者であることを強調するのは、控えめに言って、政策論としては、姑息である。もちろん姑息な政策が可能であり、最善である場合もある。しかし調子に乗っていれば、足を取られる。冷戦が終わって久しい今もまだ、日本にとって姑息な政策こそが最善であるかどうかは、政策論として検証すべき事項だ。
敵を圧倒する軍事力を持っている場合には、重装備の軍事力の展開が最善の安全確保策である。しかしそれが望めない場合には、なるべく目立たないようにしながら、広範に信頼を得る努力をしていくのが最善の安全確保策となる。それは政策論である。
援助関係者の安全確保策にも、政策判断の要素はある。武装警護を付けるか、低姿勢(low profile)で行くかは、その時々の状況によって、有効性が変わる。
想像してみてほしい。アフガニスタンのような状況、たとえば戦国時代の日本に突然舞い降りてしまった場合を。あなたがもし、他の仲間たちと戦国武将を圧倒できる重装備を保持した形で舞い降りてしまったのであれば、その威力を見せ付け、陣地を確保することが最善の安全保障政策だ。ただしその政策に効果がない場合には、いちかばちかで戦国武将に取り入ったり、現地住民になりすましたりするしかない。
中村医師の死去にあたって、タリバン勢力が中村医師に同情的な声明を出した。中村医師は、タリバンからも信頼されていた。すごいことである。政府関係者はやりたくてもできない。ただし信頼をベースにした安全確保策が完璧ではないのは、武力だけに訴える安全確保策が完璧ではないのと、同じだ。
結局、安全確保策に完璧ということはない。場面によって有効性は異なる。中村医師のようなNGO活動者が、信頼を勝ち取ることこそが最善の安全確保策であると考えることには、合理性がある。代替策は、撤退である。もう限界だ、と思った瞬間は、撤退だけが合理的な選択になる。
他方、国家政策をNGOの活動と同じものと捉えることはできない。国家存在それ自体に撤退のオプションはない。全ての政策が、国家存在には撤退がない、という認識から出発する。
ただし、国家の場合であっても、対外的な行動であれば、とりうる政策の有効性が、撤退のオプションとともに、検討される。国際法上の自衛権は、侵略を正当化しない。対外行動をしてでも自衛権を行使する場合があるのは、その行動が国家の生存に必要だから、である。国家の場合には、そうした事情に即して、政策の合法性や有効性が検討されることになる。
アフガニスタンで軍事力を行使しているアメリカだけの話ではない。日本も長期にわたり、一時期は大々的に、アフガニスタン政府を支援した。とにかくややこしいところからは撤退しよう、島国に引きこもっていればそれでいいじゃないか、という政策が、常に最善の安全保障政策ではないと考えたために、支援をしてきている。そのことの妥当性は、政策論のレベルで、検討しなければならない。
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「自滅」(αὑτὸ φθορά)寸前のトチ狂った悪あがきとしてしか、その「無知」=知の貧困(πενία)極まる立論は受け取りようがない。壊れた蓄音機から流れる、放恣に垂れ流しているというべきか、同工異曲の「懐かしのメロディー」ならぬ「ドイツ狂想曲(狂騒曲)」以外の何ものでもない。
85⇒【鑑真にしろ、反氏は、当時の日本に有資格者が不在だった正式な仏教戒律の授戒者として来日、と簡単に主張されるが…】――莫迦丸出しの幼稚な議論を並べ立てる前に、私は81で、⇒「鑑真の伝記『唐大和上東征伝』でも読めばよい」(手近なところでは『寧楽遺文』に収載)と指摘した通り、史料に基づいて標準的な見解を披露しているわけで、何が「真の仏教」か知れたものではないが、カ氏の愚劣な素人論議など論外だ。
84⇒「協調性」云々など、幼稚園児や小中学生の学習発表会でもあるまいし、本欄の擬似的で、しかもどこまでも初歩的なものとは言え、学問的議論(ἀκριβολογεῖσθαι)の本質も民主制(δημοκρατία)を教える場所ではなかろう。民主主義=民主制は真理(ἀλήθεια)の基準ではないからだ。
ニュートンの物理学の諸法則もアイインシュタインの相対性理論も、別に皆で話し合って、民主的に解明したわけではないのと同様だ。真理や真実(τὸ ἀληθές)は多く、多数者(οἱ πολλοί)の側には存在しない。教育(παιδεία)とは、当世風の価値観を後継世代に伝授するために再生産する単なる装置、道具(ὄργανον)であって、「真理それ自体」(ἀλήθεια αὐτό)とは何の関係もない。
あたかも ‘L’âne frotte l’âne.’(「驢馬が驢馬を擦る」)、つまり「莫迦が莫迦にお世辞を言う」というフランス語の辛辣な表現、換言すれば、取るに足らない(φλαῦρος)凡庸な(μέτριος)な人間同士が褒め合う(αἰκάλλειαν)=仲間褒めする(κολακεύω)という醜悪な様子、驢馬(âne=ὄνος)の習性(ἦθος)通りの愚行を披瀝していた。そうした「阿呆」特有の所作(=協調性もその一環)に、私は何の興味も関心も同情もない。
ラテン語にも、ほぼ同趣旨の「驢馬が驢馬を擦る」(‘asinus asinum fricat’)という成句があるように、莫迦な人間同士がもたれあって、互いにお追従(ἀρέσκεια)を言い合い、つまりお世辞でエール交換して、要するに仲間褒めし合って(κολακεύω)じゃれあうのを唾棄する。
私はただ血も涙もなく、殺伐非情に「論理的に」妥当なことを当たり前に指摘するだけだ。その観点からみれば、カ氏は単に頓馬な阿呆にすぎない。聞くべき言葉など、皆無だ。
それがオルテガ・イ=ガセなら「平均人」(el hombre medio)と呼んだ「大衆」(las masas)特有の気質だ、ということも以前に指摘した。
その際にも、単に「売り言葉に買い言葉」(‘quid pro quo’)的な直情径行的な(ἀνάκλασις)応酬で、自分も「驢馬の一人」だと居直って愚にもつかない議論のオクターヴを一段と上げていたのがカ氏=マダム「瑕疵」だったとよく記憶している。
つける薬はない(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’=直訳すれば「驢馬の顔を洗っても洗剤が無駄なだけ」)ということだろう。
遣隋使や遣唐使(630年に開始。894年に菅原道真による建議で廃止)は律令制に基づく国家建設のためシナと交流=朝貢する必要があったのが基本で、太政官制(国家を八省諸司と諸国に分けて統括し、政務審議部門として左右大臣、大納言、その配下に事務局を配した国家体制=明治維新で変形的に復活)による国家体制整備のための人材養成、先進国シナの事情調査、合わせて先進的文化の取得が主目的で、仏教云々は主目的ではなかろう。新羅とは戦争をして敗れただけだ。負ける方が悪い。百済を通じて伝えられ仏教が偽物のわけでもない。
85⇒【当初、日本側が中国人の…貢献しているのである。】なる379文字、どこかからのコピペで口真似しているようだが、実に85全体の7割超(71.2%)は、取り立てて指摘する必要もない無駄話の典型。何のための投稿か、下らない陳腐な講釈は小中学生相手にすればよい。
86⇒【フランスの政治は詳しくない】のではなく、端的に無知なのだろう。爾余の記述も「ドイツ通」らしからぬ、無知の証明。
ドイツの連邦制と多党派性は民主制の本質とは何の関係もなく、直接的には比例代表重視の選挙制度と、プロイセンによる国家統一まで長らく小国分立状態だった歴史の産物であって、別に望ましい民主制の方向性がそこに示唆されているわけではない。「ドイツ狂」の御託など、何の参考にもならない。
86②⇒【敵対関係にある英米型より、現在のドイツの政治の方が「よほど民主的」】は、カ氏の単なる「信仰」(πίστις)。長らく民主的な合意形成の後進国で、恥ずべきおぞましい歴史の立役者であったドイツに学ぶべきものなど何もないことを如実に示したのが、最近の英国総選挙の保守党圧勝だろう。
EUなど、離脱するにしくはない。[完]
空海が招来したのは、特段「本当の仏教」ではなく、真言宗という一宗派だ。それによって空海は日本真言宗の開祖となった。郷里の讃岐を中心に旱魃に向けた溜池の整備など治水事業にも業績を残したが、中村哲氏とは、基本的に何の関係もない。
もともとはキリスト教信者の中村氏が説いた「照一隅」は、空海ではなく、空海と同時に804年に唐に渡った日本天台宗の開祖最澄(767~822)の教えだ。カ氏の議論はことほど左様に牽強附会がすぎる。カ氏が「肝腎なこと」は何も知らず(ἀγνοεῖν)、最近は負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)で、20⇒【それほどソクラテスや哲学に関心があるわけではない】と逃げを打つ議論と同様だ。
もっとも、その舌の根も乾かぬうちちに、ほとぼりが冷めたころ、またぞろ、14⇒【ソクラテス…の主張する、「民主主義」とはなにか、をはっきりとさせる】のように、前言を翻して性懲りもなく蒸し返すのが、カ氏の憐むべき習性だろうが。
そのソクラテスが厳しく戒めた「弱論強弁」(‘τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)の典型が85でのカ氏の主張で、どうでもいいことを、「無知ゆえの」(δι’ ἄγνοιαν)蛮勇(θάρρος)、即ち無分別(ἀφροσύνη)に任せて、本欄で鬱憤晴らしに撒き散らしているのが紛れもない実態だろう。
「阿呆」は「阿呆」なりに、存在理由(raison d’ être)を示すことに躍起になっているのだろうが、無駄な努力だ。それこそ、凡庸な、ただのおしゃべr地で死かない自らの正確な自己認識(αὐτὸ αὑτὸ νοεῖν[自分で自分を知る])を心掛けたらよい。
84⇒【唐招提寺、薬師寺、東大寺などを訪れて、僧侶の説明を受け…祖父が国立京都博物館の賛助団体…の理事長…早稲田のカルチャーセンターで古寺美術を取った】――だから何だというのだろう。カ氏の議論が一知半解のでたらめであることを擁護しはしない。οἴμοι.
カ氏が救いようのない「無学」(ἀμαθής)であること、その自覚(εἰδέναι)が充分ではないこと、しかもそれを反省(λογίζομαι)したり気に病む(δυσφορεῖν)様子もなく(少なくとも表向きは)、児戯に等しい、つまり子供だましの具にもつかない反論の真似ごと(μίμημα)をして、91⇒【あたかも私が無学であるから、荒唐無稽な主張をしているかのような印象操作をして】というような、「莫迦の一つ覚え」(ὑπόληψις καὶ δόξασμα)にすぎない戯けた御託を並べている。印象(ἡ εἰκών)ではなく「事実」(ὅτι)だろう。
恥知らずの「コピペの女王」であるカ氏以外には他の何人も真似のできない笑止極まる愚行で、印象操作も何もない、その証拠に、一向に収まる気配のないカ氏の誤謬、誤記、誤読、論点破綻、論点ずらし=論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)と論点移動(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)は、本欄読者には周知の事実で、私一人が指摘しているわけでもない。
カ氏から有効な反論(περαντικόν ἔνστασις)など、為された試しはない。ひたすら、印象操作、誹謗中傷(λοιδορία καὶ συκοφαντία)と愚痴(μεμψιμοι)や泣き言(τὸ βοᾶν)を並べているだけだ。
哀れなものだ。頭も悪いのだろう。
私がコメントしたのは、89冒頭の⇒【鑑真(688~763)を招請したのは遣唐使の日本人留学生である二人の僧侶だ。空海(774~835。入唐は804年)とは時代も、時代背景も異なる】ということだ。年代を添えたように、鑑真死去(763)以前に生まれてもいない空海(774=宝亀5年生)が鑑真を招聘できるわけもない。
それを、どこをどう読み違えたら、「カ氏が空海が鑑真を招聘したと主張した」と私が指摘しているかのような91の奇妙奇天烈な主張につながるのか、理解に苦しむ。カ氏の驚異的な誤読能力の為せる業である。
同じ例は今回のトピックスでも既にお馴染で、67⇒【イタリアに行ったとき…ラテン語の知識で…困られた反氏】の箇所だ。端的にカ氏の誤読であることは、68で指摘した通りで繰り返す必要はあるまい。
91冒頭の、⇒【「無知の知」、「スフィンクス」、「Klassiker」、ゲーテ、ヴァイツゼッカー、に対する「学識と思わせるもの」を根拠にして…】なる箇所も、既に何度も説明してあるので必要な点だけ再説する。
カ氏ご執着のソクラテスの「無知の知」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)は、プラトン『ソクラテスの弁明』の該当箇所のギリシア語原文を示して、文法的解説も含めて一字一句解説しており、別に91②⇒【「学識と思わせるもの」を根拠にして】いるわけではない。学界の標準的解釈だ。
カ氏に相応しいのはデルポイの神託ではなく、神殿の銘「汝自らを知れ」(γνῶθι σαυτόν)だろう。
その論拠として、現在最も流通しているドイツ語の大辞典、通称「ドゥーデン」=Duden(全8巻=“Das große Wörterbuch der deutschen Sprache in 8 Bänden”, 2., vollig neu bearbeitete & stark erweiterte Aufl. Hrsg., & bearbeitet vom Wissenschaftlichen Rat & den Mitarbeitern der Dudenredaktion unter der Leitung G. Drosdowski. 1993)の第4巻1869頁以下を証示して説明してある。
[Klassiker]の最初の定義は‘Vertrter der Klessik’(1870頁)。ギリシア・ローマの古典の「信奉者」ということだ。次いで、ようやく‘Künstler od. Wissenschaftler, dessen Werke, Arbeiten als müstergutig u. bleibend angesehen werden; …’(同)とあるだけだ。カ氏の独りよがりな主張にはドイツ的偏向もあろうが、端的に「無学ゆえの」(δι’ ἀπαιδευσίαν)「独り相撲」(σκιαμχία=a fighting against a shadow)にすぎない。ギリシア語も読めないドイツ人の元教授はカ氏ほど「無学」でもなかろうが。
いずれにしてもゲーテなど(ダンテやシェイクスピア、ラシーヌ等も含め)、欧州の歴史においてギリシア・ローマ期の著作、文物を意味する本来の「古典」からみれば、類比的に(κατ’ ἀναλογίαν)に古典=Klassikとされるにすぎない。それを故意に[Klassiker]に論点を移行させて元教授を楯に(いい迷惑だろうが)特定の意味に籠城して偏頗な語釈をしているのがカ氏である。
「狂気の沙汰」(ἡ μανικός)だ。
付言すれば、ヘーゲルの代表作『法哲学綱要』(‘‘Grundlinien der Philosophie des Rechts”)に出てくる「ミネルヴァの梟」(‘die Eule der Minerva’) という著名な章句を含む一節(‘die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug’)についても、ドイツ語原文に依拠した解釈ができないどころか、正確な原文の引用さえ覚束ないカ氏の憐むべき無学ぶりについても、言葉を尽くして説明してあるから、もはや贅言を要しまい。
同様のことは、トーマス・マンの『非政治的人間の考察』(‘‘Betrachtungen eines Unpolitischen’’)でも繰り返された。
後者二つは、ドイツ版Wikipediaなど、カ氏独自の誤読も含め記述を素人解釈で鵜呑みにしたカ氏ならではの杜撰な論議の典型で、自称「学者の端くれ」の憐むべき実態を示している。
ヴァイツゼッカー云々は自称「巫女」(προφῆτις)の戯言、莫迦が移るから、以下は省略する。しかも、92~93は論評に値しない「クズ」だからだ。オイディプス王の嘆きでも聞けばよい。[完]
αἰαῖ αἰαῖ, δύστανος ἐγώ,
ποῖ γᾶς φέρομαι τλάμων; πᾷ μοι
φθογγὰ διαπωτᾶται φοράδην;
ἰὼ δαῖμον, ἵν᾽ ἐξήλλου.(“Οἰδίπους Τύραννος”, 1308~1311)
91⇒【歴史の真実…高価な本を買って読む、ということではない。歴史の事実を元に、筋道立てて考える、ということ】とある。
書くたびに間違いを常に繰り返す(ἐπαναπολεῖν)カ氏=瑕疵が殊更に歴史の「真実」(τὸ ἀληθές)でもあるまいし、「筋道立てて」(κατὰ μέθοδος)考えるでもあるまい。
そうした一人前の御託は、肝腎の日本語が正確に読解でき、論理的に破綻(ἀντικεῖσθαι)のない首尾一貫した立論と、真っ当な文章が綴れたらコメントすることだ。
歴史の客観的事実(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)など、単細胞のカ氏が考えるほど、単純なものではない。歴史の多くは勝者(ὁ νίκη)、言うなれば強者(κρείττων)の視点(τόπος)で、その行為(πρᾶξις)を正当化する(ὀρθόω)ための道具だ。
今日に伝わるた歴史書の多くに記述(συγγράφω)され、編纂されたものは、そうした性格が濃厚だ。
そして、それに納得がゆかず、不満に思う敗者(ὁ νικηθείς)、即ち弱者(ἥττονων)の思いは押しのけられ、歴史の闇(σκότος)に葬られ(ἆποτίθεσθαι)、忘却(λήθη)される。
カ氏程度の齢70近くにして精神の幼児(ἔκγονος)にも等しい半可通(ἡμιπόνηρος)が、歴史の真実など喋喋すること自体が滑稽で僭越(πλημμέλεια)の誹りを免れまい。
91②⇒【歴史の真実を知る…ことは、高価な本を買って読む…ことではない】は僻み(ζηλοτυπία)根性ゆえの「当てつけ」だろうが、まともに「読書」もしない阿呆が言うことでもあるまい。
ガリレオ以降の自然科学は未完成ゆえに現在も常に書き換えられており、高価なヴェラム(vellum=犢皮紙)または羊皮紙(parchment)の写本やキリスト教の影響による「嘘」云々の問題ではない。
カ氏が西独留学までした割には、如何に「無知蒙昧」な人物であるかは、その支離滅裂な立論と文章から自ずと明らかで、少しでも条理の通った文章がコメントとして提示された場合、相当の確率で他者の文章のコピペであると疑って間違いない。
その程度の、知性とも呼べない水準の凡庸かつ愚鈍な人物であることは、前回までに2,879件に達した私の本欄へのコメントに逐一記録されている(所謂『カ氏誤録』)。それに比して、私はほとんど間違えない。綴りの誤記も含め間違いがあれば、些細なものでも必ず訂正する。これも、過去の投稿を遡ってみれば納得がいくだろう。
ほとんど間違えず、調べものも行き届いている、しかもプロの書き手である私と(そのための個人のものとしては膨大な書籍、資料を所持している)、高々英独語が多少は達者で留学経験がある程度の、それも粗忽者で怠惰ゆえに誤記、誤謬、誤読、論理破綻、悪質な論点ずらしが一向に収まらないカ氏と比較することは無意味だが、有体に言えば、カ氏の誤謬は、立論の内容にまで及んでいることは明らか、というか自然の成り行きで、カ氏くらい頻繁に間違う人物がまともな議論を構成できるはずもない、と考えることの方が、そうでないと考えるより、蓋然性(ἔνδοξος)がある。
そして、そのことを自らに充分戒める(νουθεοτεῖν)でも、自分に何が足りない(ἐλλειπω)か、毎日の愚にもつかない投稿という「軽挙妄動」(ῥᾷθυμία καὶ ὁρμή)にかられて碌に反省もせず、今なお詰まらないミスを連発して恥の上塗りをしている。
誠に、これほどの愚鈍な人物もいない。その狂態は自暴自棄というか、自らを毀損する自殺行為(ἑαυτὸν κτείνειν)に等しく、他を語る資格を全く欠いている。
多くは婆さんの他愛もないおしゃべりの典型でしかない、女性らしく、愚にもつかない身の上話が盛り込まれており、饒舌だが、書けば書くほどボロを出す。あたかも、「蜘蛛の巣」(τὰ ἀράχνια)が張った脳みその中身が外形化するように。
それに比べ、私がそうした失態を免れているのは、プロの文章家として訓練ができているせいもあるし、カ氏より遥かに慎重だからだ。コピペは、自分の過去の文章やカ氏のコメントを引用する場合に必要最小限で使用する(カ氏の文章は、必要以上の読点の使用も含めて、極めて稚拙で無駄が多く、頭が良くないことを外形的にも示している)以外は濫用しない。
鑑真と空海を例に語った77の前提は、新羅との関係が悪化したから、仏教についてもシナと直接交流するようになった、という「物語思考」(εἰκὼς λόγοι)の産物で、朝鮮に対する底意地の悪い偏見に加え、個々の歴史的経緯を「総合的に考える」(συλλογίζεσθαι)、謂わば複眼的な視点を欠いた暴論にすぎない。
空海は密教をシナ・靑龍寺の灌頂阿闍梨恵果から伝授されたが、それは入唐以前からの密教の経典『大日経』への注目の結果で、『大日経』自体は奈良時代前半に唐から玄昉が舶来しており、空海が奈良仏教、即ち俱舎、唯識、三論、華厳に飽き足らないものを抱えていたとはいえ、「本当の仏教」云々の話ではない。鑑真の場合は受戒の正統性の問題だ。
無学は妄想(φαντασία)がすぎるようだ。
92③⇒【内戦の悲惨さについて、そして生命の尊重について、「安全地帯」からしか語ることをしないことは、いけないことなのだろうか】――3は「内戦の悲惨さ」「生命の尊重」だけを論じてはいないが、如何にも、日頃はジム通いや学習会、時に海外旅行とご気楽に遊び回って、「無学にして無知ゆえの」(δι’ ἀπαιδευσίαν καὶ ἄγνοιαν)浅知恵(ῥᾳθυμία)で、コメント欄に鬱憤晴らしの「クズ」投稿を撒き散らしている婆さんほどではなくとも、日本人は憲法9条と日米同盟に安易に寄りかかって、冷戦の終焉を転機に世界中で頻発している紛争やテロ、民族、宗教対立など、自分たちとはほとんど関係ないと「安全地帯」からご気楽な議論か無関心に終始している、と指摘したまでだ。
死んで始めて、命懸けだったことを知った中村哲氏に関心を示した程度だ。中村氏はそうした同胞に愛想を尽かしていたかもしれない。日本の平和主義は世界を動かす力を欠いているからだ。
その安易さとナイーヴさは、頻りに北朝鮮の核開発に焦慮を募らせたり、文在寅政権の対日姿勢を糾弾する一方で、香港や新彊ウイグル自治区での人権弾圧や中国が南シナ海島嶼で行っている軍事基地化、中国本土でも一層強権的支配を強めていることなどには冷淡で、中国への「おべっか使い」宜しく、日頃の「民主主義狂」ぶりをかなぐり捨てて、ご都合主義的にひたすら理解を示し、擁護している。
そうした見え透いた使い分けは醜悪かつ滑稽で、カ氏の説く国際協調が如何に懦弱で他愛なく、現在の国際秩序に挑戦的態度を示す中国の存在を軽視しているか、理非曲直もない二重基準に、ドイツへの度を越した肩入れを含めて、見境ない現状追随主義者に共通する偽善と欺瞞が透けてみえる。
カ氏の議論は畢竟、商売相手として貴重な中国への過度の迎合にすぎない。ロシアへの姿勢と対照的なのは、ロシアが商売相手ではないからだろう。
例えば、Klassiker という言葉、日本で、クラシック音楽というと、どちらの作曲家をも意味するが、ドイツ語ではそれは明白に分けられる。ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンはウィーン古典派、シューマン、メンデルスゾーン、ワーグナー、ブラームスはドイツロマン派、和声も違うし、弾き方も違う。それは、音楽の世界だけではなくて、文芸の世界では、ドイツ古典派は、ヘルダー、レッシング、シラー、ゲーテ、ドイツロマン派は、ノヴァーリス、テイーク、ヘルダーリンがくる。この二つは、世界観も違うし、大事だと思う点も違う。
また、ゲーテは平和主義者でもある。同じ民族だ、という理由で、ドイツという一つの国に統合する必要はない、と考えていたのである。それは、新旧の宗教的な確執もあったし、ハプスブルグ帝国がドイツ民族だけではなく、スラブ民族、ラテン民族を含んでいるからで、無理に、ドイツ民族だけで統一国家を作ろう、とすると戦争しかなくなってしまうからである。その為に、第一次世界大戦の敗北後、ドイツの政治指導者は、ベルリンは革命中という理由もあったが、戦闘的なプロイセンではなくて、平和的なワイマール共和国、という名前にしたのである。そんなゲーテに、女の尻ばかり追う不勉強な流行作家とレッテルをつけて、トーマス・マンや、アドルノの下に置く神経が、まるで理解できない。反氏は古代ギリシャ哲学を珍重されているが、ドイツ人にとってのギリシャやローマの古典は、我々日本人にとっての、中国の唐時代の漢文や平安時代、鎌倉時代の古典と同じ意味しかもたないのではないのだろうか。
彼は聖人でも哲学者でもない。アフガニスタンの名もなき民に寄り添い、人生と命を捧げた、慈愛に満ちた魂の隣人(ὁ γείτων)であり、家族(τὸ γένος)だった。
以下に掲げるソクラテス最後の場面を霊前に供える(訳文は字数の関係で最終節に限った=岩波書店版『プラトン全集』第1巻、松永雄二訳、348~349頁)
‘Ἤδη οὖν σχεδόν τι αὐτοῦ ἦν τὰ περὶ τὸ ἦτρον ψυχόμενα, καὶ ἐκκαλυψάμενος—ἐνεκεκάλυπτο γάρ—εἶπεν—ὃ δὴ τελευταῖον ἐφθέγξατο—ὦ Κρίτων, ἔφη, τῷ Ἀσκληπιῷ ὀφείλομεν ἀλεκτρυόνα• ἀλλὰ ἀπόδοτε καὶ μὴ ἀμελήσητε.
Ἀλλὰ ταῦτα, ἔφη, ἔσται, ὁ Κρίτων• ἀλλ᾽ ὅρα εἴ τι ἄλλο λέγεις.
Ταῦτα ἐρομένου αὐτοῦ οὐδὲν ἔτι ἀπεκρίνατο, ἀλλ᾽ ὀλίγον χρόνον διαλιπὼν ἐκινήθη τε καὶ ὁ ἄνθρωπος ἐξεκάλυψεν αὐτόν, καὶ ὃς τὰ ὄμματα ἔστησεν• ἰδὼν δὲ ὁ Κρίτων συνέλαβε τὸ στόμα καὶ τοὺς ὀφθαλμούς.
Ἥδε ἡ τελευτή, ὦ Ἐχέκρατες, τοῦ ἑταίρου ἡμῖν ἐγένετο, ἀνδρός, ὡς ἡμεῖς φαῖμεν ἄν, τῶν τότε ὧν ἐπειράθημεν ἀρίστου καὶ ἄλλως φρονιμωτάτου καὶ δικαιοτάτου.’(Phaedo, 118)
「これが、エケクラテス、われわれの友なるひとであり、われわれの知りえたかぎりにおいて、まさに当代随一のひとともいうべく、わけても、その知慧と。正義において、他に比類を絶したひとの、最期であったのです。」
だから「無知蒙昧」(ἄγνοια καὶ ἀπαιδευσία)という。カ氏の実態そのままではないか。
19世紀後半まで国家統一を実現できず、民主的な合意形成でも後進国であったドイツは、英仏伊と並んで、特に英国と双璧をなす形でギリシア・ローマの古典研究で大きな成果を残した。
もっとも、それを担ったのはカ氏が慣れ親しんだような無学なドイツの民衆ではなく、少数の極めて優秀な一部の支配階層(世界有数の教養市民層、所謂ドイツ版‘mandarinism’=「文化的保守主義」を特質とする知的教養層で(カ氏はこのことについても皆目知らない)、ギリシア語やラテン語は教養層の具えるべき基本的な素養だった。
カ氏のような劣等学生を基準に、そして現在のドイツの一般的国民の水準を基準にして議論することに何の意味もない。
シナ(中国)や日本の古代、中世、近世の優れた文学作品や歴史書、思想的作品が古典とされるのは、あくまでギリシア・ローマの古代文化を体現した知的遺産としての人文的諸学問、学芸を基準に、それになぞらえて「古典」と称するだけで、古代の中国にも「古典」という言葉は存在するが、意味は全く違う(後述するように「古き掟』の謂い)。
「古典」という言葉は、「literatureを文学といい、philosophyを哲学といい、societyを社会といい、traditionを伝統といい、thoughtを思想というのなどとともに、明治時代の日本で作られた新語」(吉川幸次郎「中国の古典」、『吉川幸次郎全集』第1巻235頁)、つまり翻訳語だ。
つまり、本場のシナには、西洋いうクラシック[classics]に相当する言葉が存在しない。日本の場合も明治以前は同様で、あくまで西洋の古典=ギリシア・ローマの作品=[classics]の翻訳語として生まれた。
もっとも、これは言葉、概念の話で、それは中国語で「古」と「典」とを「むすびあわせた複合語が、全く中国の文献に」見当たらない、という意味ではない(同235頁)。魏晋時代の文献に、稀に古典という言葉があるという。
しかし、吉川によれば「それはみな、『古きおきて』という意味で、書物を意味しない」。また、そうした意味で使われる「古典」の二文字も、まさにシナの古典とも言うべき書物が出た「それ以前の千数百年間、また以後千数百年間、中国の文献には、ほとんど表れない。つまりほとんど無視してよい少数の例」(同)だという。
要するに、[classics]を指して「古典」というのは、「明治以降の日本語として生まれたもの」で、本来の中国語ではない。あくまで、西洋の古典との類比(ἀναλογία)でそう呼ばれるにすぎない。
吉川は明白に西洋の正統的な古典観を継承している。カ氏との違いだ。
吉川によれば古典の第一となるのが「五経」で「中国古代文明の精華を、五つの形に記録…人生の原理を教えるものと、意識された」(『全集』第1巻236頁)。
いずれも孔子が人間の法則を明示または暗示するものを選び、人間形成の上で必読書としたもので、『書経』(『尚書』)、『礼記』(『礼経』)、『易経』、『春秋』と『詩経』だ。
頭はドイツ文学とドイツ音楽にしかないらしい。
哀れなものだ。だから「無知蒙昧」という。
ところで、102⇒【ドイツの例をあげるのは、日本が三国同盟…現在進行形で…ドイツ文化を学んでいるせい】というが、ドイツ以外のことは、肝腎なことは何も知らないし、そのドイツに限っても知見は極めて狭く、偏頗だという言い訳にすぎない。
ところが、莫迦の一つ覚えのようにコメント欄冒頭から、1⇒【「歴史に目を閉ざす者は、現在に盲目になる。」】と愚にもつかない「ヴァイツゼッカー宗」の巫女の「布教活動」しかできない。如何にも芸がない。
105⇒【最澄と空海は、同じ密教を学んだ、と言っても…】――最澄が空海と同時期に唐に渡って学んだのは天台教学が主で、天台(根本聖典は『法華経』)は密教ではなく顕教だ。もっとも、日本では密教は天台宗の一部として認められてきた歴史に留意しなくてはならない(川崎庸之「空海の生涯と思想」、日本思想大系『空海』425頁以下)。
最澄と空海の確執はカ氏の下司の勘ぐりはともかく、最澄の弟子の泰範が師の許を離れて空海に従い、顕密二教の優劣を争ったことで袂を分かった。訣別の返書を送ったのは空海の方だ。
カ氏の「学識」は冗談として、カ氏の主張⇒空海の渡航目的は「本物の仏教」を学ぶためではなかったか。「本物の密教」も何も、一宗派にすぎまい。[完]
カ氏など最初から問題外で、あまりに幼稚だから張り合いも何にもない。「論争」など最初から成立するはずもなく、退屈この上ない。防戦(φυλακή)一方のカ氏程度の「阿呆」を論破(ἀπελέγχειν)したところで、手柄にも何にもならない。
それくらい、カ氏のでたらめさ加減を指摘し、立論の綻びや矛盾を指摘して、主張が虚偽であることを証明することは容易い(εὐέλεγκτος)。コメントするなら、もう少し身を入れて、真面目にやったらよい。
密教と顕教の違いを理解しているのか否かも分からないほど低レベルだ。「私の弱点をついて」と言うくらいだから、それを自覚できていればまだ救いようはあるが、怪しいものだ。
結局、鑑真や空海を枕にした大風呂敷の議論のタネは尽きたようでまたしても腰砕け、正倉院展を暇な婆さん仲間で見に奈良に行った程度のことから話を膨らませて、「本当の仏教」云々などと法螺話をするしか能がないようだ。それが未だに分かっていないから、「阿呆」なのだ。
やれ「早稲田のエクステンションセンターで習った」云々の下らない話が専らで、言うに事欠いて、105②⇒【学識を踏まえた私の主張…】などと、トチ狂っている。
「学識」(μάθημα)ぐらいカ氏に不似合いな言葉もあるまい。冗談もほどほどにすることだ。
110は『洛中書簡』ではなく『洛中書問』だろう。恩師の書物ぐらい正確に表記するものだ。
形式、文章の巧みさ、写真のインパクトも大事だが、それは「プロパガンダ」につながることも多い。それ以上に大事なことは、中身、内容が「嘘」ではなく、「ほんもの」であるかどうか、なのではないのだろうか?
プラトンが伝える(中期後半の対話篇『テアイテトス』に出てくる)ソクラテスの言い分なら「老婆の他愛ないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’;Theaetetus 653A⇒田中美知太郎の訳語は「老生常譚」)そのものの無駄話だ。古代ギリシアでも現在でも、歳を重ねることが人を賢明にはしない典型例で、暇をもて余した愚鈍な年寄りが多いのは現代の日本も同じだ。カ氏の憐むべき惨状がそれを物語っている。
だから、私などよりもっと辛辣な古のモラリストなら、‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」)とか、‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’(「精神の疵[欠陥]は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。」)のように、にべもない。
前回111末尾で、吉川幸次郎(カ氏の母校、神戸高校歌の作詞者)と大山定一(京大を退官後、関西学院大教授)の共著は『洛中書簡』ではなく『洛中書問』の誤りであり、「恩師の書物ぐらい正確に表記」をとしたことを頬被りして、何の反応もない。
カ氏にとって、真実の探求(φιλαληθής)や「真理愛」(φιλαληθής)など、ご都合主義で振れ回る法螺話でしかない所以だ。
そういう心得違いの無学な(ἀμαθής)人間に限って、113⇒【常識なのに、反氏は屁理屈を多用して、否定される】と見当違いな御託を捏ねる。103⇒【中国の唐時代の漢文】のような杜撰な列挙に対する指摘への応答だが、「漢文」でもないだろう。カ氏のような教養の欠片もない人間、何せ、以前は『論語』について12月8日・86~88で私が具体的に批判したように、カ氏⇒【体験主義のゲーテ、同じくそれを元に論語を書いた孔子】と書く程度の「呆けた」人物だ。『論語』は元より「孔子の書いた」書物ではないし、孔子は体験主義者ではなく、その対極にある人物だ。
カ氏の妄想=妄説の根底にあるのは、京大退官後に関西学院大でドイツ文学を講じた(1968~73年)大山と中国文学の世界的泰斗吉川が京大文学部の同僚で親交があり(双方とも大酒のみ)、共著『洛中書問』に加え、大山の遺著『ゲーテ詩集』(1975年)に吉川が追悼を込めた「序」を寄せた関係もあろうが、ゲーテに親炙した大山と儒学に精通し、孔子や『論語』にも詳しい吉川とを並べて、カ氏の持論である性懲りもない「当たって砕けろ」「百聞は一見に如かず」式の「体験主義」とやらを、事もあろうに「「体験主義」とは真逆な教えを説いた孔子に重ねている。
『論語』をまともに読んだことのない人間ならではの妄説で、そうした無知蒙昧な「阿呆」に限って、113②⇒【そこ(東洋の古典=筆者註】に李白、杜甫、だけではなくて、論語も…漢文の時間、両方を習った…或る意味常識】のような冗語を並べるしか能がない。
112⇒【反氏は「古代ギリシャ文明」を崇拝されるあまり、歴史を歪曲】も「無学」ゆえの与太話の類で、ゲーテ程度はギリシア・ローマ文明の遺産と伝統(他にキリスト教文化)の上に築かれた西洋文明の歴史からみたら、類比的に「古典」と称したところで末流の末流だという欧米の共通認識を指摘したまでで、「歴史の歪曲」は無学なカ氏の固定観念だろう。
102~103は、一般にシャンソンやカンツォーネ、ジャズやロックなど他の音楽分野と区分して「クラッシック」と称される伝統的西洋音楽の一部であるドイツ音楽を、古典派とロマン派に分類することぐらい、カ氏が長広舌を弄さなくとも「常識」に類する陳腐な知識だろう。下らない。中高生相手に講釈すればよい。
112②⇒【学生時代に顕教と、密教の差を、こう習わなかったのか…】以下の部分も、要するに「学校や教科書でこう習った…」式の俗説で、カ氏のソフィスト観と同類だ。
密教と顕教は言葉自体が示すように対立する概念である。根本聖典も密教が『大日経』、本尊が大日如来で即身成仏を説くが、顕教は宗派によって異なる。
日本仏教は大別すると現在13宗派があり、奈良仏教系(①法相宗、②律宗、③華厳宗)、密教系(④真言宗)、密教・法華宗系(⑤天台宗)、法華宗系(⑥日蓮宗)、浄土宗系(⑦浄土宗、⑧浄土真宗[浄土真宗本願寺派=西本願寺と真宗大谷派=東本願寺に二分]、⑨融通念仏宗、⑩時宗)、禅宗系(⑪臨済宗、⑫曹洞宗、⑬黄檗宗)――だ。
つまり、天台宗自体は密教の要素を多分に含む(所謂「台密」)ものの、基本的には「顕密一致」とか「顕密一如」と称して両者の違いをことさら強調せず、同格に扱っている。
一方で、「南都北嶺」という言葉もあるように、最澄=天台宗は奈良仏教とも敵対関係にあり、その影響もあって現在も奈良には天台宗系の寺は少ない。「南都」とは奈良の諸寺、特に興福寺(法相宗)を指し、「北嶺」とは言うまでもなく日本天台宗の総本山、比叡山延暦寺だ。両者は長らく日本の寺社勢力を二分した。
空海が最初に伝えたものなどではない密教は、日本では天台宗の一部として奈良時代から遇されてきた歴史があることも、既に指摘した通りだ。
一方で、空海が伝え、空海が日本真言宗となった密教は「東密」と称され、自ら以外を顕教と称する極めて排他的な姿勢だ。
その空海に『秘密曼荼羅十住心論』(通称『十住心論』)という難解との評がある晩年に著した主著があって、江戸時代までは少数の研究者以外は宗門の人間でさえ読むことは稀だった。興味ある向きは、原文が岩波書店刊の「日本思想大系」第5巻に川崎庸之氏の行き届いた校註による刊本があるから、参照されるとよい。
その内容は道徳意識以前から説き起こして、道徳意識の萌芽、宗教的な憧憬を経て仏教思想のさまざまな階梯を上り、天台、華厳から最後には究極の真理を体現する密教の秘密曼荼羅の悟りに至るまでを「十住心」として位置づける。
つまり、東蜜=真言宗以外の教え、つまり個々の「住心」または宗派はそれぞれ不充分だと批判され、最終段階の「十住心」によって克服、というか統合される。
各発展段階を示す「住心」はより上位の「住心」に否定されると同時に摂取され、さらにより上位の「住心」に統合されて最高の「第十秘密荘厳住心」に至る。そこからみれば、最下位段階の「第一異生羝羊住心」(愚迷妄執の道徳以前の状態)の中にもあらゆる仏陀の教え=菩提心、高度な思想の萌芽が認められ、第一~第九もそれぞれ固有の意味があるとする。
ある研究者は『十住心論』を評してヘーゲルの『精神現象学』(‘‘Phänomenologie des Geistes’’, 1807)になぞらえている。ある「住心」から上位の「住心」への移行は、ヘーゲルの‘aufheben’に匹敵する弁証法的総合というわけだ。『十住心論』は、真言宗の立場から説いた「仏教概説」であり、空海によって他の多くの仏教思想が批判、検討されている。
空海は日本人には稀な大した思弁家で、匹敵するのは曹洞宗の開祖道元か江戸期の儒学者三浦梅園くらいかもしれない。ただ、空海と最澄の優劣論なるカ氏の俗論は、また別問題だ。思想家としてはともかく、宗教家としてはいずれが偉いのか、筆者には判定しかねる。ちなみに、筆者の家の宗旨は真言宗豊山派で、住職はサンスクリットが読めない「無学」だ。
いずれにしても、カ氏の顕密に関する「学校で習った」云々の愚にもつかない議論の救いようのない無学ぶりは以上で充分明らかだろう。
114⇒【私は偉人ではない】――ただの愚物だろうが、謙遜のつもりか、阿呆に限ってよくほざく。οἴμοι.[完]
中村哲さんの人生も、彼の思想に基づいたものなのではなかったのだろうか。私は、孔子の理想は、現在でも、理想としてなりたつのではないか、と考えるし、「自由と規律」は車の両輪であることを教わった私には、「規範」抜きの「愛」なしの「自由」で人間社会がうまくいく、などということはとうてい思えない。
常に変わらぬカ氏のメディア批判の根底にある妄想的発想である、114⇒【私の疑問は、職業として日本でマスコミ稼業をしている人々がなぜ、真実の姿を伝えないのか、ということ】――は、生まれつきの「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)で、時と場合をに応じて、特に窮地に追い込まれると、とっさに自己防衛(φυλακή)のため、見え透いた(εὐθεώπρητος)言い逃れ(ἀπολογία)の形で平気で嘘をつき、詐術を弄するカ氏が臆面もなく宣ることでもなかろう。
もっとも、カ氏の「虚偽体質」は無意識の部分、つまり愚鈍ゆえの認識不足の側面、「気づかれない嘘」という面も否定できないからなかなか厄介だが、「嘘」と「真実」を多用する背景には、自らが平気で嘘をつくから、相手もそうに違いない、という「思い込み」(δόξασμα)もあるのだろう。
経験的には冒頭のような議論はほとんど意味がない。むしろ「問い」(ἐρωτᾶν)を変えて、メディアは、特に「朝日」「毎日」「TBS」「テレビ朝日」など進歩系のメディアはなぜ「真実を伝え損なうのか」とか、その観点から「なぜ意図的に政権批判を繰り返すのか」に切り替えたらよい。
メディアもカ氏も表向きは民主主義=民主制(δημοκρατία)を信奉している。基本的に「根源的な自己矛盾」(αὐτό ἀντίφασις)を含む民主制を批判できないし、批判する場合は「ポピュリズム批判」のような形で、それが民主制の本来の姿ではない、というように問題の本質をすり替える。基本的に嘘、つまり欺瞞だ。人は立場に応じて見解を使い分け、平気で嘘をつく例だ。
その点でカ氏は単純で何ごとも真に受けやすいお目出度い質だから。心から民主制の価値を信じているのかもしれない。この点で一部の教条的メディア人とカ氏は同類だ(もっとも、カ氏には中国だけを例外扱いする独自の欺瞞的基準があるが)。
「赤旗」や「人民日報」、「朝鮮労働新聞」ではないのだから、間違えて報道すればニュースの商品価値は下がり、媒体への信頼性も低下する。誤報の責任者は組織からも同僚からも軽ろんじられる。良質な情報も集まってきにくくなる。
だから、価値のある情報を得るために必死だ。真実に迫る情報だ。暇をもて余して、愚にもつかない中高生レベルの幼稚な、しかも間違いだらけのコメントを書き散らして鬱憤を晴らし、間違えても碌に訂正せず、何ら咎めだてられる恐れもない、ご気楽な莫迦丸出しの婆さんとはわけが違う。
しかし、報道は学問でも科学でもない。そこで追求される真実性は、常に「もっともらしさ」(εἰκός)の域を出ない。要するに説得力の有無にかかっている。ジャーナリストは歴史家ではない。
意図的に誤報はしない。その意味で嘘も報じない。ただ、情報源が少なかったり、信頼性のある情報が少ないから「真実らしきもの」(メディアでも凡百の学問でも、接近可能なものは常に真実の近似値だ)を捉え損なう。
結果として意図的に嘘に等しい情報を伝えるとするなら、論評の部分だろう。トランプ政権に対する米国メディアにはその傾向がある。嘘と言えば嘘だが、一種の情報戦を仕掛け相手を揺さぶる側面もある。そうすることで、集まってくる、提供される情報もあるからだ。しかし、それは限定的なものだ。
そのなかで、社会主義国家の初期段階でよくある現象だが、計画経済と資源の傾斜配分により、恵まれた天然資源も手伝って、北朝鮮の工業面での優位性は、多くが農村地帯で朝鮮戦争の被害も大きかった韓国を凌ぐ勢いもあったのもまた否定できない側面で、そうした祖国に希望を託した人々が帰還していった。メディアもそれを総合的に判断する確たる基準と炯眼、洞察力がなかったから、結果として現象面に惑わされたのだろう。
最後に付言するなら、メディアの、というかインテリの自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)というものがある。自分たちメディア(インテリ)は誤りは認識しており、騙されたりはしないけれど、愚鈍な民衆はそうではないから真実を伝えることは民主制のためには逆に有害で、便宜的に違った仕方で報道したり、一部または全部を隠蔽することだ。
当局者もこの手法を使うが、メディアやひ弱なインテリと違い確信犯的だ。そして、それを国益の観点から行う。
昨今の首相主催「桜を見る会」をめぐる野党やメディアの莫迦騒ぎぶりはどうと思うが、「税金の使い方」云々の綺麗ごとに問題の本質はない。情報公開の問題でもない。ただ、情報管理上、日本政府は腋が甘いようだ。内部の官僚よるとみられるリークは、安全保障上も深刻な問題だ。[完]
「密教」云々、「本当の仏教」云々については特段の反論がないようだと思ったら、今度は見当違いな方面で議論を喰い散らかして鬱憤を晴らしているようだ。
120も意味不明な、要領を得ない駄文、愚にもつかない与太話(πονηρολογία)、口から出まかせの法螺話(ἀλαζονεία)の典型で、⇒【孔子は…本は書いていない…ソクラテスも…イエス…も…書いていない人に思想や哲学がない、とは言えない】――儒者と哲学者と教祖、確か横浜市だったか「四聖堂」なる施設があって、釈迦を含めた四人が「聖人」として祀られていたはずだが、カ氏の感覚はどこかずれている。
孔子は自らの名を記した著書はないが、シナ第一の「古典」である「五経」(『書経』[=『尚書』]、『礼記』[=『礼経』]、『易経』、『春秋』、『詩経』)を編纂している、典型的な読書人だ。漢が武帝(BC141~87)の治世に儒学が国教になったことで、「五経」を読んだ人間のみを官吏にすることが法制化された。漢から六朝を経て唐まで約千年余は最も重要な古典となる。
何も知らないということは、気楽なものだ。
126⇒【繁栄を…生み出すとしたら、現在の世界の経済先進国の中国の経済理論】――強制技術移転と為替操作、産業スパイとやりたい放題。中国に経済理論などない。「おべっか病」も重症のようだ。莫迦も休み休み言うことだ。
莫迦が移りそう。οἴμοι.
そのゲーテが、勉強不足で、女の尻ばかり追いかけている、という反氏の主張を、嘘である、としつこく反論しているのである。ドイツ通としてはその態度は当たり前のことなのではないのだろうか。
この前、プロパガンダ、というドキュメンタリーを見ていたら、アメリカ大統領選の前に、マケドニアでトランプ陣営から、嘘の情報がSNSを通じて大量に拡散されていた、と報道されていたが、ドイツの極右の選挙活動の応援をSNSを通じてロシア政府が行っている、というのは、公然の秘密である。
「プロパガンダ時代」の我々に求められていることは、なにが本当で、なにが嘘の情報かを見極め、他人の主張を権威だからと安易に信じず、真実はなにか、を探求しようとする姿勢なのではないのだろうか。
そうした意味でカ氏は「無学な婆さん」の名に愧じない、というか相応しい愚物だ。誠に、「何んとかにつける薬はない」(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’)所以だ。
私の127での主張に対して、カ氏は128⇒【元はと言えば、反氏の主張がおかしい…ソクラテスは本を書いていないから、プラトンの主張が正しく、私のソクラテス解釈が間違っている、と主張】というのは、日本語の文章がまともに理解できない紛れもない証拠で、私はカ氏の指摘するような主張はしていない。
私が主張しているのは、
①ソクラテスは生前一切の著作を残さなかった。
②現在、ソクラテスの事蹟や思想として伝えられているものは、弟子のプラトンをはじめ、ソクラテスの周囲にいた人物で歴史家のクセノポン、歴史上初めて哲学史的記述を行ったアリストテレス、ソクラテスの同時代人で『雲』の中でソクラテスを戯画的に描いたアテーナイの喜劇作家アリストパネスの主要4者と、断片の形で伝わるギリシア・ローマ時代の証言。
③ソクラテスの真実の(実際の)姿や思想を知るためには、②で挙げた資料を(その内容と資料的価値)厳密に批判的に検討しながら、特にプラトンの対話篇に現われたソクラテスに関する記述が、どこまでが実際のソクラテスに帰することができるか、言い換えればプラトンの創作やプラトン自身の思想なのかを見極める資料批判(Textkritik)が不可欠になる。ソフィストも同様だ。
‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.(La Rochefoucauld; Maximes 265.)
⑤二千年を超す歴史の中で蓄積した古代哲学や西洋古典学の膨大な解釈(ἐξηγέομαι)、それこそ甲論乙駁の中から、まさにそれが証言を残したプラトンやアリストテレスの真意だと見極めるために、数学とは異なった意味で、確立した専門知(ἐπιστήμη)の粋である古典言語学の訓練(ἄσκησις)と知識(ἐπιστήμη)が欠かせない。
⑥古典言語学は、数学とは別の意味で厳格な専門知(ἐπιστήμη)であり、知的技術。それが「専門家と素人」(τεχνίτης καὶ ιδιώτης)を分ける、容易には乗り越えられない壁であり、専門家にはテキストの補足(προσθήκη)の自由と責任(ἐλευθερία καὶ αἴτιον)があるけれど、素人には主観的な解釈の自由という幻想(φάντασμα)があるだけ。
主だったところを列挙すれば、以上のようなことになる。カ氏の無学(ἀπαιδευσίαν)たる所以は、そうした「ソクラテス問題」(das Sokratesproblem, Socratic Problem, Le problème de Socrate)の意味を全く理解せず、128のような妄言、それに基づく奇想天外なソクラテス観に淫していることだ。
それは実際のソクラテス、学問とは何の関係もない。
ちなみに、SNF上で「ソクラテス問題」を検索してみると、素人の書き込みはいろいろ散見されるが、勝義の「ソクラテス問題」をきちんと紹介したものは皆無に近い。日本版Wikipedia「ソクラテス」も同様だ。学問的には「クズ」「ガラクタ」以外の何ものでもない。
所詮は素人芸(τὸ ιδιωτικόν)かと怪しみつつ、巷の、つまりネット上の議論の水準を調査しようと閲覧した「古代ギリシア哲学 ソクラテス-BIGLOBE」(http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/socrates/socrates.html)は、少しはまともかと思われたが、肝腎の問題については隔靴掻痒どころか、核心は届かない体たらくで、ブログの装飾に左右両欄にアリストテレスの『形而上学』(ΑΡΙΣΤΟΤΕΛΟΥΣ; ‘‘τὰ Μετὰ τὰ φυσικά’’980a)冒頭の著名な一節「すべて人間は、生まれつき、知ることを欲する。」(‘πάντες ἄνθρωποι τοῦ εἰδέναι ὀρέγονται φύσει.’)が大文字(本来の古代ギリシア語には大文字しか存在しない)で掲げてあるが、期待外れだったようだ。
しかし、昨今の中高生にも劣るカ氏は救いようがないとして、研究者(θεωρικός)ではないからある程度は仕方がないと思うが、もう少し何とかならないものかと、非職業的ながら西洋古代哲学の学徒(ὁ μαθητής)としていろいろ考えないでもない。
しかし、古典学が専門研究にはギリシア語とラテン語の知識が不可欠であるため語学的ハンディがあり、しかも専門の西洋文学、語学の研究者でさえ、戦後の一時期まで西洋で言う「古典」(Klassik=ラテン語の‘classicus’、ギリシア語の[κλάσις]に由来)が西洋文明の土台となったギリシア・ローマの古代文化を体現した知的遺産としての人文的諸学問、学芸であることを理解しない、できないことから特殊な衒学的領域と勘違いされ、正統となることはなかった事情がある。これが、西洋の正統的学問的伝統、共通認識との決定的な違いだ。
「日本西洋古典学会」(The Classical Sciety of Japan)の「Classical」の意味を正しく認識できる日本のインテリは少ない。
カ氏の無学ぶりはその典型例なのは言うまでもない。
129⇒【強制技術移転、為替操作、産業スパイ…中国は、やりたい放題…どこまでが本当のことなのだろう】――外国との合弁事業における契約の実態、「海亀」と称される米国先端IT企業にもぐりこんだ中国人研究者、技術者への共産党の支配は明らかだし、為替操作国は各国金融当局者の共通認識。
131にはメディア人はカ氏ほど愚鈍ではない、と言えば充分だろう。
本件で投稿は通算2,902件。「阿呆」相手だと、無駄が多い。οἴμοι.[完]
135は圧縮した記述で不得要領の面があるので前半部を以下に差し替える。
(承前3)その背景には、特に哲学に限っては明治期の移入以来、ドイツ哲学偏重で、戦後はその偏向が関係者に認識されて専門研究者を組織した学会も設立され、京大や東大を中心に西洋古代哲学研究が本格化したが、哲学界の大勢とはならず、ドイツに加え戦後直後の実存哲学ブームを契機にサルトルやメルロー=ポンティーなどのフランス哲学、その後のフーコーやドゥルーズ、デリダらの構造主義やポストモダン思想が流行した。
一方で、ラッセルやヴィトゲンシュタイン、クワインやポパーらに代表される数学基礎論と論理学の関係をめぐる攷究の進展に加え、所謂「言語論的展開」にからむ分析哲学や科学哲学、哲学的意味論の動向も本格的に紹介され、欧米の先端的状況として注目を浴びては、関心の高まりと衰微を繰り返した。現在は、フッサールやハイデガーらドイツ哲学研究と鼎立状況になっている。
しかし、古代哲学や古典学が専門的研究にはギリシア語とラテン語の知識が不可欠なため語学的ハンディがあり、しかも西洋文学、語学の専門研究者でさえ、今なお西洋で言う「古典」(Klassik=ラテン語の‘classicus’、ギリシア語の[κλάσις]に由来)が西洋文明の土台となったギリシア・ローマの古代文化を体現した知的遺産としての人文的諸学問、学芸であることを理解しないことから特殊な衒学的領域と勘違いされ、わが国の哲学研究では今日まで、けっして主流や正統になることはなかった。
これが、西洋の正統的学問的伝統、共通認識との決定的な違い、日本的特殊事情だ。
「日本西洋古典学会」(The Classical Sciety of Japan=1950年、京都と東京の哲学、史学、文学、言語学など斯学のギリシア・ラテン文化研究者を中心に設立)の「Classical」の意味を正しく認識できる日本のインテリは少ない(2018年11月3日・52~53参照)。
天に唾する行為で、自分の莫迦さ加減を天下に曝す自暴自棄の愚行でしかあるまい。知性(νοῦς)も品性(ἦθος)も低劣な(πονηρός)、カ氏のような憐れむべき「阿呆」ほど、「饒舌に語る」(πολύλογέω)ことの典型だ。
しかも、言うに事欠いて、137②⇒【机上で古代ギリシャ語で哲学について考えていてもなにもわからない…ゲーテがファウストを通じて表現したかったこと】だという。
机上(ἄνωθεν τραπέζης)の議論(λόγος)と言うけれど、テレビのドキュメンタリー番組を観た程度の知見で、よく知りもないことを幼児並みの分別で喋喋しているだけだろう。「机上の空論」、つまり「空理空論」(ἀδολεσχεῖν)の域にも達しない与太話(πονηρολογία)を、日頃振れ回って恥を曝しているのが他でもない「無学な婆さん」のカ氏だろう。「空理空論」の[ἀδολεσχεῖν]とは、私がカ氏を表現する常套句=「法螺話」(ἀλαζονεία)のことだ。ゲーテなど騙っても無駄だ。
しかも、カ氏の憐むべき知性の程度、要するに低能では、「机上の空論」(ἀδολεσχεῖν)も覚束くまい。
だから、無学な(ἀμαθής)「阿呆」なのだ。
「ソクラテス問題」でも「顕密論議」でも、憐むべき「コピペ病」だから、他者の見解を無断盗用する以外に反論もできまい。οἴμοι.
こちらは、その時々に応じて気ままに、放恣にというべきか無責任に議論を喰い散らかしては有効な反論ができずに窮すると放置して逃げ回るというカ氏の憐むべき無学ぶりを論証できたとしても、無駄が多いようだ。
細部に亘るカ氏の誤謬の追及は「如何なる思ひつきにも執着せず、如何なる通念にも拘束されず、一切の先入見を放下して、たゞ自由な精神を以つて」(田中美知太郎)ものごとを探究した結果だ。ソクラテスやプラトンが説く哲学とはそいうもので、ゲーテなど問題外だ。
ソクラテスについて、肝腎なことを何も知らない割には異常な執着(πικρία)をみせる側面があるものの、時には逆に、20⇒【それほどソクラテスや哲学に関心があるわけではない】と投げやりな言辞さえ臆面もなく漏らすこともあり、要するに「無学な婆さん」にはその場しのぎの無責任な議論しかできないし、真面目な関心もないことは歴然としている。
虚飾に満ちた(ἀλαζονικός)独善的な資質はそう容易には改まるとも思えないから、よほど手ひどい目に遭うか自滅するのでなければ変わることはあるまいし、その分、今後も当面は今回同様の醜態(ἀσχημοσύνη)を曝し続けることになるわけだ。哀れだが、身から出たさびだから仕方あるまい。
という次第で、カ氏が如何にも役不足なので今回のトピックスについて議論が出尽くしたとはとても言えないが、このまま筆を置くのもあまりに芸がないから、医師(ἰατρός)としての側面に注目して補説してみたい。
中村氏が生命の大切さを何よりも尊ぶ医師でありながら、敢えて死の危険性を冒してまで、アフガニスタンの荒涼たる山村地帯で専門外の灌漑事業に取り組んだ原点がそこにあると考えるからだ。
中村氏は医師だから職分を果たす過程でアフガンの極限状況の片隅に居場所をみつけ、子供や恵まれない立場の患者を診察するうちに、35年かけて人間への鑑識眼を磨いていったのに違いない。ひと懐こいあの温容のなか、時折見せる眼光鋭い目で。
中村氏のエッセーにみられる的確な観察とユーモアを交えた叙述は、冷静で正確そのものだが、人柄を思わせる不思議なぬくもりがある。
そして、ものが見え過ぎるということは、人を必ずしも幸福な気分にはしない。研ぎ澄まされた神経は、孤独と憂愁を深める。だが、よく見える=明察は、本質的にある晴朗さを含み、快活さ、巧まざるユーモアを宿している。冷徹な観察の底に慈愛の微光を湛えている。
自ら好んで引き受けたのではないにせよ、内戦に明け暮れる愚かしくも愛するべき人間(その中には自分も含まれる)への共感を捨て去らない限り、どこにいても人生は充分生きるに値することを知っている人間の息遣いが、中村氏の文章にはある。
いずれにしても、中村さんは自由に、己の信ずるところを生きた、為すべき仕事を立派に為し終え、黄泉の国へ去った。その軌跡をどう受け止めるかは、残された人間の問題だ。
だから、私はあまり悲しむ気にならない。
143②⇒【私は、中村哲さんを全く存じ上げなかった】⇒⇒やれ国際協調(カ氏にとっては、新疆ウイグル自治区や香港、チベットで人権弾圧的強権支配を継続中または強化している中国に「おべっかを使う」ことと同義)とか、国際貢献、意味を取り違えて使用している紛争地における「戦後処理」の一環としての「平和構築」について、日頃は幼稚園児並みの他愛もない御託を並べている「無学な婆さん」らしい冗語。
言うに事欠いて、⇒【その死を知った時、交通事故で高齢ドライバーによってひき殺された人の時以上に、その死を悼んだ】(池袋で起きた高齢運転者による母娘の傷害致死事件を指すようだ)も、身の程知らずに何にでも口を出す、自意識過剰の証左で、つける薬はない。俄かに便乗して追悼でもあるまい。
143③⇒【C・シュミットの「覇権主義」や「階級闘争」、「宗教戦争」のような「敵味方理論」ではなくて、H.ケルゼンの…「民主政治」、ヴァイツゼッカーさん…「国際協調」で国際政治を先導】⇒⇒薄っぺらなそれぞれの本を1冊読んだだけで、莫迦の一つ覚え(ὑπόληψις καὶ δόξασμα)のように振れ回るお調子者の法螺話。
最近何かと話題のグレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg)なる16歳の「環境問題狂」並みの単細胞(ἁπλοῦς⇒もっとも、カ氏自身はグレタと同格扱いで、「私には褒め言葉」と開き直るかもしれない)。
「出来損ない」の「グレた」少女並みだ。
144⇒【アフリカで医療活動…シュヴァイツァー博士…アフリカの恵まれない人々の為の医療活動をされる…に…憧れて医学部志望だった…医師になり、アフガニスタンの民衆の為に尽くされた中村哲さんは日本のシュヴァイツァー】⇒⇒ミーハーの「老婆の他愛もないないおしゃべり」の典型。冗語を慎み黙っていることができない虚飾満ちた人格を象徴。京大医学部など到底無理だろうが、受験失敗の下らぬ身の上話を何度繰り返したら気が済むのやら。
なお、アルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer)はプロテスタント神学者で宗教哲学者であると同時に、音楽学者でオルガン奏者にして医師。1952年にノーベル平和賞受賞。1964年にノーベル文学賞を辞退(拒否)したサルトルの母方の祖父の甥(母がSchweitzerの従姉妹)。中村氏とは資質も性格も異なる。ミーハーの与太話たる所以。
144②⇒【私が虚偽体質と主張される…誤字脱字は多いが、主張は一貫…語彙の解釈は、反氏の解釈がよほど虚偽だと確信】⇒⇒「誤字脱字」だけなら、パソコンの変換ミス程度で別に意に介しないが、そうではなかろう。夥しい誤謬、誤記、論理破綻(何せ、矛盾対立と反対対立の違いも理解せず、論理法則無視の虚偽的議論を繰り返す)、論点ずらしとやりたい放題。間違いはほとんど訂正せず、如上のように臆面もなく「しらばっくれている」(εἰρωνεύομαι)。
生まれつきの「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)たる所以だ。
確かに「莫迦」と「ごまかし」は一貫している。
144③⇒【例えば密教について…学校で天台密教、真言密教と習った…反氏の説明でも、天台宗は真言宗と違って一義的に密教とは言えないのであって、ほんものの密教は、空海が習得した真言宗】⇒⇒例によって、「学校で」以外の何の具体的な論証も、反論もできない体たらく。怠慢さも指折り。
日本天台宗(天台法華宗、法華円宗とも)は空海の日本真言宗が「東密」(京都の教王護国寺=「東寺の密教」の謂い)と称されるのに対して「台密」、つまり「天台の密教」と称されるように密教をけっして軽視しておらず、むしろ積極的に摂取しようとしていたくらいだ。また「四宗兼学」と称して『法華経』を重視しながらも、禅や戒、念仏、密教の要素も同時に摂取している。最澄は、空海の主著『秘密曼荼羅十住心論』における悟りの十段階論にも批判的で、あくまで大日如来を本尊とする、一種の日本的純化路線を取る空海に対して「法華一乗」の立場から、『法華経』の本尊を釈迦如来としている。
「顕密一致」を説くように、「顕教」(歴史的には、ほぼ大乗仏教と同義⇒仏教学的には密教も中期までは大乗仏教に含ませる議論があることは承知しているが、ここでは狭義の、即ち勝義の(κύριος)というべきか顕教=大乗仏教として了解されたい)にも同格の地位を与えている。日本における密教の移入が天台宗の一部として行われ、その中で認められてきた事情にも基づいている。
本題に戻すと、空海以降、「東密」がそれ以外の宗派、天台宗を含めて一括りに「顕教」と称して排撃的になったのは、あくまで日本的事情、謂わば「教義論争」に名を借りた「縄張り争い」。
密教は元々は「ヴェーダ」(吠駄)など、インドの多様な原始宗教と仏教とが結合されたもので、インドの神々と特有の祭祀方法に仏教的被幕を施したものだ。チベット仏教にもその傾向が根強い。真の仏教でも何でもない。
経典にちなんで別名、「金剛乗」(サンスクリットでvajrayāna)、「真言乗」(同mantrayāna)称する。[vajrayāna]=ヴァジラヤーナはオウム真理教がよく唱えていたから、ご記憶の向きもあろう。[mantrayāna](マントラヤーナ)の「マントラ」とは、言うまでもなく真言宗が重視する「曼荼羅」のことだ。
このことは仏教美術にも大きな影響を与え、大乗仏教美術(別名「顕教美術」)、密教美術、浄土教美術、垂迹美術に四分類され、顕教美術は釈迦以外の多数の仏陀を肯定する立場から、仏陀に至る過程である菩薩、さらにその護衛、保護役でもある眷属を加え、如来、菩薩、天部の諸尊の三階層となる。これに対して密教美術は、通常の人間ではあり得ない多頭、多目、多手・足の造形によって人間的な思惟の枠組みを超えた仏陀の働きを誇示する傾向があり、その傾向は密教の呪術性の根源であるインドの原始宗教に由来する。
カ氏の「無学」の論証は以上で充分だろう。οἴμοι.[完]
法華経は、密教の経典なのだろうか?
私は、やはり、学問には正当性、というものがあると思う。日本では、天台宗は密教であるが、中国ではそうではない、などということは、本来ありえない。また、日本で、天台宗から、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗が生まれているが、これらが、密教と言う話もきかない。
やはり、早稲田カルチャーセンターで習ったように、密教は、一対一で師から学ぶもので、その手順を踏んで密教を習得した空海が、本物の密教の師なのではないのだろうか。ヴァジラヤーナを唱えていたからと言って、オウム真理教の教祖、麻原彰晃が密教の師でない、ことは言うまでもない。
顔を洗って出直ししてもらう以外にないが、‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’というように、驢馬(âne)並み頓馬な婆さんの顔を洗っても何の効能もないだろうから、期待しても無駄だが。
莫迦の一つ覚えのように、⇒【早稲田カルチャーセンターで習った…】と繰り返されても、それは密教の奥義の伝授に関する話であって、密教の教義内容や日本仏教における位置づけ、そもそも密教はどういう経緯で生まれたのか、他の大乗仏教諸派や天台宗との関係について、何も述べたことにはならない。
早稲田の冠を戴いた、カ氏が度々喋喋する所謂「イクステンションセンター」がそれほどひどい水準、内容とも思えないが、事カ氏に限っては何も理解していないに等しい「劣等聴講生」のようで、「クズ」が紛れ込んだということだろう。
150をみる限り聴講した内容を首尾一貫した議論として再現できないのだから話にならない。そもそも投稿するレベルに達していない「クズ」=戯言だ。
⇒【法華経は、密教の経典なのだろうか?】、「?」…一体何を主張したいのか訝しむ内容だ。⇒【学問には正当性…日本では、天台宗は密教であるが、中国ではそうではない…ということは、本来ありえない】――自分の述べたことを、どれだけ正確に認識しているのか怪しい内容だ。「無学」もここまでくると、「重症」という以上に喜劇的だ。
自問自答する前に、少しは頭を冷やして考えるといい。οἴμοι.
ところで、標準的な仏教学の学説によれば、『法華経』は、『般若波羅蜜多心経』や『維摩経』に加え、『阿弥陀経』や『大無量壽経』、『華厳経』など代表的な大乗仏教(Mahāyāna)の経典とともに、紀元2世紀までには成立していたとされる。
その後に現われたのが大乗仏教の偉大な学者の龍樹(Nāgārjuna, c. 150~250)で、インドの仏教界は伝統的に優勢な社会的地位を誇っていた保守的仏教に対して、民衆やその指導者であった説教師の中から一種の改革運動が起こる。これが大乗仏教で、所謂「小乗仏教」(Hīnayāna)とは大乗側から既存保守派への貶称だった。
密教はさらに遅れて4世紀ごろ、同じインドで一般の民間信仰やヒンドゥー教の要素も取り入れて、ヒンドゥーの神々と特有の祭祀方法に仏教的装いを施したものだ。密教の祭祀にみられる一種のいかがわしさもうかがわせる呪術的要素や加持祈祷など、特異な要素はインド起源だ。
一方、天台宗は三論宗と同根で、般若の経・論とともに『法華経』を漢訳した鳩摩羅什に濫觴するもので、中国の天台宗は北齊の慧文に胚胎し、慧思に継承され、隋の天台智者大師、智顗がそれを大成して実質的開祖となったもので、三諦円融(「空暇中の融合」の謂い)を究極的悟りとする。空も暇も森羅万象の一面にすぎず、真の実在は空暇を一体にした「中」という説だ。
別に密教に劣るものではないし、そもそも本当の密教なる観念自体が無意味だ。
少しは勉強したらいい。οἴμοι.
5ページ目の交戦権、及び6ページ目の、昭和21年6月からの制憲議会冒頭での吉田茂首相の憲法第9条に関する最初の政府有権解釈についての解説は、斬新でした(従来の研究者の説明からは聞いたことがありません)。
2項後段の”交戦権”は、9条全体の法解釈を混乱させています。これを、片付ければ、あとは1項→2項の順に法解釈すれば、自然と妥当な解釈が得られれると考えます。
6ページ目の吉田茂首相の制憲議会での答弁は、戦前のドイツ国法学的な憲法解釈に基づく「国家防衛権」を、否定したのであって、現代国際法に基づく「自衛権」は否定していない。その後の憲法学「通説」の学者が、それを誤った学説(記事表題でいうフェイク)で歪曲した< と理解いたしました。
いかにも、「K」印の「阿呆」らしい。154⇒【反氏には日本語の読解力がないのではないか】も私の措辞のパクり、所謂無断盗用であろう。従って、154の「反論の真似ごと」=似而非反論は、盗人猛々しい(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος=盗賊の論理の謂い)「クズ」の遠吠えということになろう。確かに一見「失礼極まる」無作法なのだが、カ氏相手では、そうとも言えないようだ。その分、事実の論証は尽くしてあるが、聞く耳をもたない以上に、皆目理解できていないようだ。
混乱したお頭(蜘蛛の巣が張って、ガラクタに等しい雑識=「ドイツ狂い」で50年近くを要したらしい)で夜明け前の暗闇の中で何やら不得要領なことを喚き散らしている。仏教や密教について、天台宗や真言宗について、肝腎なことは何も知らないこと、ドイツの法律と国法学の区別も覚束ない憐れむべき「無学」ぶりを説くまでもなく、放っておいても、頼まれなくとも必ず間違える無謀な自傷行為=154であり、壊れかかった蓄音機が奏でる何度聞かされたかしれないお馴染のメロディーだ。
自問自答する前に、少しは頭を冷やして考えるといい、少しは勉強したらいい。οἴμοι.――と前回忠告したが無駄だったようだ。カ氏にとって、内容がどうあれ、間違っていようがいまいが、投稿=投稿慷慨(θυμός)すること自体が目的だから、もはや自制しようがないのだろう。
臆面がないというのか、単なる頓馬なのか、哀れなものである。
☆訂正 148の3行目『摩訶小止観』は『摩訶止観』の誤り。
以上の事情から、もはやまともに相手にするまでもないが、本欄に闖入した愚物は取り除かねばなるまいから、必要最小限のことを指摘して責めを塞ぎたい。こうした分野は自制心に富む心優しい「政府解釈」氏と違って、血も涙もない殺伐非情の論理主義者である私の務めなのだろう。私が旅行中の「森ゆう子質問通告騒動を見て、日本の民主主義を考える」の回でもみられたカ氏と「政府解釈」氏の遣り取りからも明白だろう。
カ氏は何やら空海や密教に肩入れしているようだから、密教美術の代表的な造形、所謂地獄の閻魔様、即ち不動明王になり変わって成敗しなくてはなるまい。カ氏のような出来損ないも、御仏の慈悲で成仏するかもしれない。
154は天台、密教、戒律、禅の四宗兼学(四宗相承)に基づく日本天台宗の本質に無知ゆえの混乱で、日本真言宗が密教由来の師資相承=伝法灌頂を絶対視しているからといって、それが「真の密教」云々の話とは趣旨が異なることは、カ氏以外には見えやすい道理だろう。空海が招来した中国の密教はインド由来の中期密教の一宗派にすぎない。
154②⇒【仏教や仏教美術について…わかった上で主張】は、悪い冗談だろう。οἴμοι.
私がソクラテスの「無知の知」、ケルゼンを尊重するのは、日本国憲法の「解釈適用が専門家の手にゆだねられることには、十分な根拠がある。」という長谷部教授の論理はまちがっている、根拠になっているからであって、その主張が、本来の「民主主義」の原則の根幹なのではないのだろうか。
しかも、論理的な条理に適った(ἐαυτῷ σύμφωνεῖν)立論など全くできないし、意にも介していない憐れむべき知的に低劣な御仁だから、前段と後段の158⇒【私がソクラテスの「無知の知」、ケルゼンを尊重…本来の「民主主義」の原則の根幹なのではないのだろうか。】とが全く論理的に接合しない。三段論法失格である。
番組の趣旨は、自由を制限された中国の現在の経済的繁栄(真にその恩恵に浴している国民は実際は一部で、経済格差の拡大と同時進行)のなかで、戸惑い、将来に不安を抱えつつも、それなりに健気に、あるいは抜け目なく生きている民衆をNHKの女性アナウンサーが現地取材したものだろうが、あくまでも断片にすぎまい。
民主主義=民主制(δημοκρατία)の根幹である自由な(ἐλεύθερος)行動(ἔργον)であり選択(προαίρεσις)である「政治的意思」の表明を制限されたなかでの繁栄、経済的豊かさという「奴隷の幸福」なるものに、どれだけの価値があるのか疑問だが、言うに事欠いて「本来の『民主主義』の原則の根幹なのではないのだろうか」でもあるまい。
政治参加の平等(ἰσονομία)に加え、本来の「人間的な自由」(τἀνθρώπινον ἐλευθερία)を追求する手の民主制など、現在の中国当局が保障するはずもなく、莫迦も休み休みほざいたらいい。
「阿呆」につける薬はない所以だ。
そもそも、21⇒【それほどソクラテスや哲学に関心があるわけではない】のではなかったか。関心がない(ἀμελέω)なら無駄口を慎むべきだが、堪え性がないからどうにもできないらしく、9日前の10日に言った舌の根も乾かないうちに今回のありさまだ。
見当違いで稚拙極まる法螺話を並べるために、何も知りはしない「無知の知」でもあるまい。ケルゼンなど持ち出しても無駄だ。
そもそも、敬愛するカール・ポパーと同類のケルゼンのソクラテス観など、ソクラテス解釈としては杜撰で牽強附会な素人解釈でしかない。しかも、ポパーもケルゼンも、カ氏とは異なり相対主義的で開明的な真理観、価値観を追求したソフィストの典型的な信奉者で、カ氏の議論には都合が悪かろう。
ポパーやケルゼンによる、ソクラテスを明確な民主制の否定者であるプラトンから切り離す(χωριζειν)解釈は今日、古代哲学や古典学の専門家の誰も相手にしない謬説の典型だ。彼ら自身の勝手な思い込み=民主制観、歴史観をプラトンのテキストにもち込むもので、プラトン解釈としては破綻している。
なぜなら、ポパーが証拠として提示するのは、プラトンが『国家』第8巻で民主制を戯画的に言及している箇所と、『政治家』の中の神話解釈の部分だけという「物語思考」(εἰκὼς λόγοι)の産物だからだ(田中美知太郎『プラトン』第4巻「政治理論」、1984年、320~323頁参照)。
その尻馬に乗ったケルゼンも、「作り話」(μῦθος)に等しい虚構を弄んでいるにすぎない。
議論を気儘に喰い散らかすのは、大概にしたらよい。οἴμοι.
人々は沈痛な面持ちでその死を語り、悲しむ。そしてテロや内戦の悲惨さ、生命の大切さ、戦争という悪と平和の貴さを語る。充分、熟考(φροντίς)することなく。納得の水準が他愛もないからであろう。
日本が彼の国の40年にも及ぶ内戦にかかわっていなければ、それによって、この国の安全が脅かされなけれなければ、実際のところ、アフガンの民の悲惨は種類こそ違えども、われわれが度重なる地震や水害、今なお癒えぬ原発事故に伴う被害、病苦や介護、就職難や生活苦、経営不振、身内のトラブルや親子関係、職場や地域での対人関係、子育て、夫婦や恋人間の愛憎、漠然とした将来不安、社会的不適用――などで悩み患い、焦慮や苛立ちを重ねることと選ぶところはないと一般化される。何せ、アフガニスタンは余りに遠く、旅行で訪ねる場所でもない。
国民の圧倒的多数である、そうした、ある意味普通の市井の民の感想として、次のような呟きもあろう。
【ボランティア活動って色々あるが、命をかけたボランティア活動って何だろうね。それも、日本とは遠く離れた宗教も民族も違う異国の地で。人類愛か? これ以上書くと、非難殺到すると思うので止めておきます。ちょっとだけ、ほんの身近な、家族とか地域だとかのボランティア活動(無償の愛)が一番純粋で尊いと思うのだが。】
本ブログの兄弟分に相当する「BROGOS」のコメント欄に、太平洋戦争開戦から78年の12月8日10:36に寄せられたものだ。投稿名は「Trajiro Futen」という。
実際のところ、人間には須らく「分」がある。人間は平等にはつくられておらず、ありとあらゆる優劣があるのがこの世の実情だ。ある程度の年齢になって、真っ当な分別がつくようになれば、皆周知の事実だ。
女性は容姿を気にするものだが、それは見た目の美醜が圧倒的な事実であることを熟知しているからだろう。心映えの美しさを指摘され、慰められても気休めにしかならない現実を、成長とともに思い知る。
中村氏のような偉大な人物(ὁ μέγας)に限って本人の認識と周囲の認識や評価にズレが生じるのは避けられない。
英雄は死を恐れない人間ではないが、けっして死の恐怖を前に怯み(ἀποκνεῖν)、ためらう(διστάζειν)ような人間でもない。ある意味、常人の理解を拒み、平均的価値観を超越し、逆撫でするところがある。そうした類まれな人物が戦後の懦弱極まる日本人の中にもいたということだ。
自らの安寧や成功、生命より遥かに大切なものがあることを自覚していたのが中村氏なのだろう。
中村氏に必要なのは、安っぽい同情や追悼ではなく、戦後の日本人が忘れ去った真の名誉をもって、その死に報いることかもしれない。中村氏のような英雄の死を不要とするような理想的社会は、遺憾ながら未来永劫、訪れることはあるまい。
最澄の教え「照一隅」を銘とした、一見飄々とした類まれな人物が、大きな歴史の岐路を迎えた日本人を逆照射する存在であったことを如実に示している。
私は幸いカ氏ほど凡庸でも愚鈍でもないから、哲学研究に志す以上、他人並みの認識で良しとするわけがない。この世の真理にかかわる認識は「皆で話し合って民主的に」というわけにもいくまい。それは政治的合意形成の話であって、学問とは何の関係もない。
カ氏がコピペしてもその含意を全く理解できない、⇒【アフガンの民の悲惨は…と一般化される】の箇所は、アフガニスタンの過酷な現状に今回の中村哲氏の死を重ね、どんなに悲惨だと一時的に思いを寄せたところで、結局は個々の日常に引き戻され、わが身の幸不幸、関心や悩みなどの所謂「実存」に意識の地平を占有されてしまい、彼の国やそこで生きる民の思い、生命の危険を賭して仕事に打ち込んだ中村氏の心中など思いも及ぶまいとの意味で、カ氏の浅墓な読解に及ぶところではあるまい。
神戸の大震災で自宅が倒壊したことは気の毒だが、だから何だというのだ。この世は何でもありなのだ。ただ、北朝鮮の核ミサイルが日本を焦土と化す恐れなど、核戦争による人類の滅亡(ἄνθρώπων φθορά)同様、妄想の産物だ。
人間とはカ氏が考えるより、核兵器より遥かに厄介で度し難い存在なのだ。それでも皆健気に生きている。それで結構ではないか。
心得違い、というか笑止にも「国際通」を僭称し、悪い冗談にも自称「学者の端くれ」(μέρη δὲ φιλόσοφος)らしいカ氏のような如何にも凡庸で愚鈍な「ちっぽけな魂」(μικσός ψυχή)が思い描き、説く人間の幸福(εὐδαιμνία)や、紛れもない文明社会である現代の日本に生を享けたという僥倖(εὐτυχία)なるものは、所詮は自らの「人間としての器量」(ἡ ἠθικὴ ἀρετή)、つまり人となり(ἦθος)の立派さ(έπιεικής)が伴わなければ他愛ないものだ。
その点でいくと、カ氏は現代の日本に満ち溢れている文明の恩恵などとは無縁にみえるアフガニスタンの名もなき民たちのその日暮しの中にもけっして絶無ではないささやかな喜びを、自らの浅はか極まる感覚で「惨めな幸福」(ἄθλιος εὐτυχια)と侮るかもしれないが、とんでもない料簡違いであり、思い上がりだろう。自らの幸不幸など、日本人に教えてもらう必要はない、ただし、自分たちに人生を預け、尽くし、死んだ中村哲さんを除いては、と。
憲法9条と日米同盟という米国の庇護下で「奴隷の幸福」(δοῦλος εὐδαιμνία)を貪っている「腰抜け」(δειλία)の日本人などに、関心も示さないし、相手にもしまい。
その一方で、愚にもつかないこと、取るに足らないことで(ἡ φλαῦρος)で一喜一憂し、浮かない顔で幸福の実感がつかめず、謂わば「贅沢な不幸」(τρυφερός δυστυχία)に翻弄されているのがこの国の多くの無辜の民の実態ではないか。
それはそれでよい。いずれも皆、自分で自由に、ある意味自ら進んで(ἑκούσιον)選び、引き受けたものだからだ。それによって痛い目に遭おうが臍を噛もうが、自らの浅慮を思い知ろうが、それこそその人物の専有事項、即ち「尊厳」(σεμνόν)だからだ。
人々は多く「よく生きる」(τὸ εὖ ζῆν)ために格闘しているようで、実態はその日その日をただ、脇目も振らずに、自らの関心事項に没頭して(σπουδάζω)生きている。文明化がもたらす肥大化した欲望を自力でうまく制御する(κυβερνάω)ことができず、途方に暮れている。
「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということ」(‘ὅτι οὐ τὸ ζῆν περὶ πλείστου ποιητέον…τὸ εὖ ζῆν.’)などと言われても、意にも介しない。
幸不幸といったところで、普通の日本人がアフガンについて思いも及ばないように、彼の国の民も遥か極東の島国の住民の心中など、気にもかけまい。グローバル化した現代社会にあっても、実際問題として大多数の人々は自らが生を享けた国(故郷)で生きるしかない。日本人とアフガン国民の幸福を比較することに実質的意味はない。経済学の大原則である効用の個人間比較が無意味なように。
「なくてはあり得ない」(ἄνευ οὗ=conditio sine qua non)ものは、幸福の条件にすぎない。
畢竟、人はそれぞれの欲得(ἐπιθυμία, κέρδος, ὠφέλεια)と関心(ἐπιμέλεια)で生きている。そしてこの世は「万人の万人に対する闘争」(bellum omnium contra omnis)だ。法の支配や人権は、それを調整し、持続可能にする被膜(κρύψις)にすぎない。
中村さんはそれを熟知したうえで、せめて清らかな(καθαρός)水をと井戸掘りから始め、上空を米軍の攻撃ヘリがけたたましく飛び交うなかで、アフガンの片隅で誰も想定しなかった荒廃した大地の再生に取り組んだ。テロリストだって水を飲み、農産物を食べて生きているからだ。
「照一隅」とは、そういうことだ。
Die Willkür der Zuteilung unterschiedlicher Schicksale ertragen zu lernen, war die erste Aufgabe im Geistigen, die sich neben der Aufgabe des materiellen Wiederaufbaus stellte. An ihr mußte sich die menschliche Kraft erproben, die Lasten anderer zu erkennen, an ihnen dauerhaft mitzutragen, sie nicht zu vergessen. In ihr mußte die Fähigkeit zum Frieden und die Bereitschaft zur Versöhnung nach innen und außen wachsen, die nicht nur andere von uns forderten, sondern nach denen es uns selbst am allermeisten verlangte.
我々その後の西ドイツ人は、「自由」という貴重なチャンスを得ました。数百万のドイツ人には、現在までそれは与えられていません。違った運命の分け前を受け取った、という「不公正」に耐えることを学ぶこと、これが物質的再生と共に、知性に与えられた最初の課題でした。他者の重荷を認識する、持続的にその重荷を背負う、彼らのことを忘れない、という人間力が試されているのです。その中にこそ、相手から要求されたからという理由ではなくて、我々自身から求める平和と内面的そして外面的な和解への力がはぐくまれるのです。
現在の中東の状況も同じようなものを感じる。「アラブの春」の民主化にはじまる政治運動は、現在、リビア、アルジェリア、シリアをどのような状況下においているだろう。故郷は絨毯爆撃で攻撃され、戦火で住み慣れた街は破壊されている。学生は、宗教「アラーは偉大なり。」の「イスラム革命」のイデオロギーに洗脳されている。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮らせるよう全力を挙げる決意をしていることであります。というフレーズがヴァイツゼッカー演説にあるが、私も、阪神大震災で実家が全壊してから、その思いがより深くわかるようになった。「平和構築のカギ」は、「民主化運動」という「革命」、「イデオロギー」や「宗教」による覇権主義ではなくて、愛する故郷を、今の平穏無事な生活を大事にしたい、という素朴で単純な気持ちから生まれるのだと思う。そして、そういう「平和」な「自由」な生活が、我々日本人には与えられ、シリア、アフガニスタン、或いは、北朝鮮の民衆には許されていない、ということを我々日本人は、忘れてはいけない、と思う。
そして、「学識経験者」が、必ずしも「真理の体現者」ではなく、一見真実であるかのような「嘘」をまきちらし、結果的に社会を悲惨にする場合があることも、同時に認識しなければならない、と思う。
169⇒【清水幾太郎…のような哲学者、丸山真男…のような法学者】というが、未だにそう誤認しているのは、世間広しといえども「無学の女王」であるカ氏ぐらいだろう。
カ氏がこけおどしにゲーテなどをもち出す世間の「常識」(τὰ ἔνδοξα)では、清水は哲学者ではなく社会学であり、丸山は法学者ではなく政治学者だ。大学生でなくとも、気の利いた中高生でも知っている事実だ。カ氏にはその程度の初歩的知見もなく、一部には「政治学の神様」とさえ称された丸山について、昨年から「法学者」云々と称して、今日なおこの体たらくだ。
その見解、学説への賛否はともかく、両者の著書を実質的にはまともに読んだこともない怠慢極まる劣等学生のなれの果てで、少しは「平和構築」などと、用語を誤用して逆上せ上がる前に、深刻に考えたらよい。恥を知るならば、だ。
もはや治癒不能な「無知」という魂の「病気」(νόσος⇒‘ψυχῆς ἄνοιαν συγχωρητέον, δύο δ’ ἀνοίας γένη, τὸ μὲν μανίαν, τὸ δὲ ἀμαθίαν.’[「魂の病気とは『理性を欠いていること』であり、またそれには二種類あって、一つは狂気であり、一つは無知」]=Timaeus, 86B)の域で、いい加減に何とかならないものか。ただの愚劣な法螺話、171⇒【大乗仏教の精神】が聞いて呆れる。
同じ悪癖のコピペで元西独連邦大統領(当時)の欺瞞と偽善に満ちた戦後40周年演説を並べて陶酔の境地に浸られても、相手にしようもない。カ氏の「第二の祖国」らしいドイツへの熱狂は単なる信仰であって勝手にすればよいが、狂信的なイスラム教徒と、原理的には択ぶところはない。
よって、ガラクタを細切れに並べた167~171は「クズ」故に検討に値しない。門前払いにするにしくはない。
ただ、それ以外の主張の内容は変わりません。そして、それは、「公共の福祉」のために利用する責任を自覚した上の「思想、表現」の自由を根拠としたものである。それは、日本国憲法12条、19条、21条上、狂気や無知、などと揶揄したり、或いは、「魂の病気」と揶揄して、侵してはいけないのではないのだろうか。
相変わらず、カロリーネ氏は頓珍漢な反論をしているようです。本ブログのコメント欄での私人間の応酬について、一知半解で日本国憲法の条文を挙げて「反論偽装」をしていますが、そもそも、憲法は公法の一分野であり私人間の問題に直接適用されるものではないことは最高裁の確立した判例法理です(三菱樹脂事件、昭和女子大学事件等参照)。
(以下、昭和女子大学事件・最高裁判決から引用)
「憲法一九条、二一条、二三条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日判決・裁判所時報六三二号四頁)の示すところである。」
誠に懲りない、というか往生際の悪さは比類がない。それにしても、如何に「でたらめ」だらけとはいえ、誰もカ氏の「思想、表現の自由」(真っ当な「思想、表現」など皆無だろうが)を妨げてはいまい。
だから、今後も引き続き際限なく間違い続けるであろうし、死ぬまで治癒可能(ἰατος)とも思えない。
フランスのモラリストの言ではないが、‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。」=La Rochefoucauld; Maximes 386)道理だ。
カ氏の本コメント欄における異常な頻度のおびただしい、恥ずべき誤謬、誤記、論理破綻、論点ずらしの不名誉な歴史がそれを物語っている。‘El tonto es vitalicio y sin poros.’(「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はないのである。」=José Ortega Y Gasset; ‘‘La leberión de las masas.’’, Obras Completas, Vol. 4, p. 187)所以だ。
ところで、笑止にも「大乗仏教の精神」とか称して、下らない大風呂敷の議論を広げて恥の上塗り=墓穴を掘っている。時節柄とは言えベートヴェンの交響曲第9番「合唱付き」もゲーテも、今回のトピックに何の関連があろう。実に下らない。
「お為ごかし」の戦後ドイツの見え透いた自己防衛(φυλακή)の詐術的論理=ヴァイツゼッカー演説を含め、愚劣極まるうえに、「ドイツ狂」に立論上の何の知恵も芸もない証拠だろう。
大乗仏教(Mahāyāna)と小乗仏教(Hīnayāna)に関する坊主の説教めいた下らない話しか出てこない。「小乗仏教」というのは既存の伝統的保守派の仏教徒集団に対する改革派の貶辞であって、それをもって大乗仏教の優位性が成立するわけでも、「真の仏教」云々の根拠になるわけでも全くない。日本に伝わったのが中国仏教の系譜にある大乗仏教だっただけの話だろう。
それはともかく、恥を恥として認識し得ないカ氏の浅ましい性情は、謂わば煩悩(kleśa)であり業(karman)なのだろう。カ氏の煩悩や業の深さは、前世からの因縁(pratītyasamutpāda)である習気(vāsanā)となって、日々次々と誤謬を引き起こす種子(bīja)を撒き散らしているようだ(『大乗起信論』)。
仏教では根源的な三要素=三毒として、貪(貪欲)、瞋(瞋恚=怒り)、癡(愚癡[痴]=無知)を挙げている。いずれもカ氏の浅ましい人となりに当てはまる。そのうちでもっとも重要なのが「癡」即ち「無知」であって、別名「無明」(avidyā)と称するが、何も知らずに思い上がって「無知の知」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)など騙っているから、いつまでも迷妄が尽きないのだろう。それは単なる臆説(ψευδῆ δόξάζειν)、仏教でいう間違った見解=「見」(dṛṣṇi)にすぎない。
要するに、いい歳して人間としての修養も自制心もないから、虚飾に満ちた浅ましい欲望と執着の赴くまま「無明」に彷徨うほかないのだ。
貪、瞋に代表されるのも、愚鈍ゆえの心情的な迷妄、執着に基づく欲望=我執で、解決には愚にもつかない執着を断ち切ることだ。
煩悩を絶つには智(jñāna)であり慧(prajñā)だが、修行も含めカ氏には難しそうだ。
因果応報(vipāka)なのだろう。
(参考 あたらしい憲法のはなし 他2篇、岩波書店)
6種類ある衆生(sattva)の「業」のうち、三悪道の中位、「餓鬼」(preta)の所業で我執(πικρία)は比類ない。おまけに、無料ガラクタ知恵袋=Wikipediaを引き写しにするしか能がない。
ところで、今に変わらぬカ氏の浅ましい原点(ἀρχὴ)を示す記録として、以前に以下のような遣り取りがあった。カ氏の莫迦さ加減のドキュメントとして興味深い。
本欄へのコメント数が初めて100件を超えた「白井聡『国体論』の反米主義としてのレーニン主義」(2018年6月24日~)の回で、時あたかも、サッカーW杯ロシア大会があって、日本が善戦して決勝トーナメントに出場するまでに至り、日本中が沸き立っていた時期に重なる。
現職の料理人らしい「naka」氏なる人物が、義憤を感じたような口吻で、私のカ氏に対する、その立論に絶滅に等しい打撃を与える情け容赦のない批判に対して、
▼2018年6月30日(22:57)・92⇒【私はプロの料理人です…故に「私はそこら辺のプロの方より美味しいxxを作りますよ。」と言う素人の方の調理過程を事細かく木端微塵に「理論」で、打ち負かせる自信はあります…反時流的古典学徒さんは「元」プロの文章家で有れば、カロリーネさんを、木端微塵に理論で打ち負かしたくなるのは、文章家としての職人意識でしょうか。私は「元」料理人が偉そうに料理を語る事を嫌悪します。所詮その世界から逃げた物が、何を今更語るか、と言う気持ちになります…「素人」を相手にご満足されるのではなく…再びプロとして、実名で、広く世の中にその良識を発表されては如何でしょうか】。
‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes.’(La Rochefoucauld; Maximes 444)
その後「無知人」氏、「旧会社員」氏と、カ氏に肩入れして遁走する投稿者が続いた。羞恥心が残っていたのだろう。
有効な反論ができず、「窮地」に追い込まれて、にわかに援軍を得た思いのカ氏がすかさず(約4時間後)、「Nakaさん、ありがとうございます」とおべっかを使ったうえで、饒舌に語った(πολύλογέω)。
▼カロリーネ=7月1日・95(03:07)⇒【自尊心、というものは、誰でももっていますよ…人間として生きている、と証明であり、それがなくなると、サドマゾの支配関係に陥ってしまう…反時流的古典学徒さんのもっておられるのは、権威主義なのです。憲法学者の方々…と同じ…だから私の考えを、自尊心が異常に高い、という形容詞までつけて、木っ端みじんに打ち砕こうとされるのです…ユダヤ人フロムは…「愛するということ」の中…東洋思想では…「寛容」を生んだ…本来の日本は、多神教の仏教国で、一神教の天皇崇拝、ではありませんでした…実社会に出て…正義感がぶつかり合うと、論争になり、果ては、戦争にまで発展するということも、歴史が今の国際情勢が示してくれます】。
末尾は、⇒【論争より、おいしいお料理が食べたいです】と再びお追従(ἀρέσκεια)。
カ氏は見境のない人物で、その極端で偏狭的な(ακληρός)党派心(φιλονεικία)に基づく敵愾心(ἔχθρα)と自己愛の強さ(φίλαυτος)が際立っており、カ氏が毛嫌いする左翼的心性そのものだ。
本欄でも実証済みの甚だしい無学の言い訳として、相手側が指摘する標準的学説さえ受諾を拒否する。立論の趣旨を正確には理解できないような低劣でお寒い(ταπεινότης)脳髄(ἐγκέφαλος)、日本語能力の問題もあろう。議論全体を観察していると、途方もない頓馬であることが明白になる場面も珍しくない。
論理的思考は全くできない。西洋における論理的思考の基軸となった定言三段論法(συλλογισμός)を定式化したアリストテレスからみたら、白痴(ἠλίηθιος)に等しい水準であることも繰り返し論証したから、もはや贅言は要しまい。
アリストテレスと言えば、カ氏は大学で美学を専攻したと称する割には、西洋文化史上、美学の最大の古典であるアリストテレスの『詩学』(“περὶ Ποιητικῆς”=de Arte Poetica)さえ読んだこともない無教養な御仁だ。日本の近代政治学史上最も著名な政治学者である丸山眞男を「法学者」とする驚異的な無知蒙昧ぶりに匹敵する逸話にも事欠かない。その歴然たる証拠が、私が逐一記録した『カ氏誤録』だ。
しかし、戦後は女性とストッキングが強くなったの譬え通り、愚鈍ゆえに強靭な(στερεός)居直りを発揮する。「狂気の沙汰」なのは言うまでもない。それに比べれば、まだ一年半前は可愛げがあったのかもしれない。
何せ、「木っ端みじんに打ち砕こうとされる」だ。危機感があった分、救いの途も残っていたのかもしれない。木端微塵はnaka氏の措辞の口真似だが、微塵はサンスクリットで[aṇn]という。量の最小の謂いだ。
確かにカ氏の脳みそは、驢馬並みに最小量なのだろう。道理で頑固で分からず屋のはずだ。[完]
ところが、自分の政策を推し進めたい独裁志向の政治家が現れて、決まらない政治ではなくて、決められる政治にすべきだ、トップダウンにすべきだ、などと主張する学者が登場するから、強権的、独裁国家になってしまったのであったのであるが、それを国民が民主的に決めているのである。社会主義国家も、一党独裁だから、ものごとは早く決まるけれど、強権政治となり、社会主義理論以外の思想の自由は認められないし、原理主義的イスラム国家も同じである。そういう現実を見ると、良識ある人は、ケルゼンやヴァイツゼッカー支持になるのではないのだろうか。
そして、西ドイツに留学し、ドイツの文化や歴史や国民性を知り、OLで社会経験をした後、フロムの「愛するということ」を読んで、感動したのである。芦田均さんの「新憲法解釈」を始めて読んだ時のように、「これこそ真理だ。」と思ったのである。今は、関学の教授の言われた意味もわかる。要するに、反氏とは尊敬する人、真理だと思うこと、がことごとく違うことが、このような状況を引き起こしているのだし、思想、表現の自由がある以上、この状況はいたしかたない、と思っている。
来年度予算では一段と社会保障関連予算が膨らみ、本欄への投稿もカ氏のような高齢者の「惚け防止」には貢献しており、篠田さんは感謝状でももらって然るべきだろうが、こうクズばかりだと気が引けよう。
それにしても、相変わらず論理的に首尾一貫した概念的思考(διάνοια)ができないらしい。C. シュミットの「友と敵の区別」(die Unterscheidung von Freund und Feind)が如何にカ氏の奉じるケルゼンの学説と敵対的でも、カ氏の党派心剥き出しの心性と重なるではないか。その自覚もないから、愚鈍なのだ。
しかもにケルゼンは、その著書『社会と自然』(“Society and Nature”, 1943)の中で、明確に自らと同じ立場に立つ真理の相対主義者、さらに法規範や制度のもつ相対性や人為性を鋭く抉り出し、謂わば近代的とも言える合理的で明快な社会の解釈に先鞭をつけたソフィストの信奉者であることを明確に説いている。知らぬは低能で怠惰な婆さんだけだ。
おまけに、新たな「間抜け」の証拠は183にも歴然で、E. フロムに『自由からの逃走』なる著書があるのは承知しているが、『自由からの闘争』では洒落にもなるまい。阿呆も底なしの道化者だから、とにかく懲りずによく間違える(ἁμαρτάνω)。
脳みそ足らずで微塵なのだろうが、「みじ[ん]め」=「惨」は確かに悲惨(πονηρία)だ。日本版Wikipediaを孫引きしなくては、隙あらばコピペしなくては一人前の立論もできない無学が、フロムでもあるまい。見解の違いなどではなく、単に愚鈍なのだ。
莫迦が移りそう。οἴμοι.
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