伊藤詩織さんの民事訴訟での判決が出た後、SNS上で左派と右派の場外乱闘が至るところで起こっている。この種の事件がここまで政治イデオロギー対立と連動するというのは、目を見張る状況だ。
私はここ数年で憲法学の陥穽を批判する文章を多々書いている。憲法学「通説」派は、左派の牙城のようなものである。とすれば、それを批判している私は右派かと言うと、もちろんそんなことはない。しかも当たり前のことだが、憲法学「通説」批判をすることは、伊藤詩織さんを批判することや、山口敬之氏を擁護することとは、全然関係がない。
正直、今回の民事訴訟判決の後の山口氏の発言は、かなりヤバい。山口氏は言った。 ―――――――――――――
「本当に性被害にあった方は『伊藤さんが本当のことを言っていない。それから例えばこういう記者会見の場で笑ったり、上を見たりテレビに出演して、あのような表情をすることは絶対ない』と証言してくださったんですね」。
―――――――――――――
性被害を受けた人物は陰鬱になるべきであり、沈黙しているのが当然である、という世界観を披露した山口氏の発言は、かなりヤバい。多くの人々が、そう感じていると思うが、私もそう感じる。
ただし、それでも執拗に山口氏を擁護する人々がいる。その人たちは伊藤詩織氏が左派系の人物たちと付き合っていることを問題視している。これは意味不明である。
政治イデオロギー闘争を持ち込む必要がない場面で、政治イデオロギー闘争を持ち込むのは、ナンセンスだ。冷静になりたい。
私はここ数年で憲法学の陥穽を批判する文章を多々書いている。憲法学「通説」派は、左派の牙城のようなものである。とすれば、それを批判している私は右派かと言うと、もちろんそんなことはない。しかも当たり前のことだが、憲法学「通説」批判をすることは、伊藤詩織さんを批判することや、山口敬之氏を擁護することとは、全然関係がない。
正直、今回の民事訴訟判決の後の山口氏の発言は、かなりヤバい。山口氏は言った。 ―――――――――――――
「本当に性被害にあった方は『伊藤さんが本当のことを言っていない。それから例えばこういう記者会見の場で笑ったり、上を見たりテレビに出演して、あのような表情をすることは絶対ない』と証言してくださったんですね」。
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性被害を受けた人物は陰鬱になるべきであり、沈黙しているのが当然である、という世界観を披露した山口氏の発言は、かなりヤバい。多くの人々が、そう感じていると思うが、私もそう感じる。
ただし、それでも執拗に山口氏を擁護する人々がいる。その人たちは伊藤詩織氏が左派系の人物たちと付き合っていることを問題視している。これは意味不明である。
政治イデオロギー闘争を持ち込む必要がない場面で、政治イデオロギー闘争を持ち込むのは、ナンセンスだ。冷静になりたい。
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法律事務所に勤めていたころ、痴漢事件があった。加害者と名指しされた男性が顧問先の従業員だったので、その弁護依頼がきた訳であるが、裁判の結果、その男性は無実であったことが証明された。「どうして、その男性が無実だったと思ったのか。」と、弁護士さんにきいたところ、「普通加害者なら、会社に連絡しない。隠そうとする。」という答えだった。もちろん、それは一般論で、ほんとうに罪を犯していても、会社に連絡する人もいるかもしれない。けれども、女性の主張を鵜呑みにしていたら、男性の社会的評価はどうだったろう。
大事なことは、「どちらが嘘をついているか。」なのであって、山口さん、伊藤さん共に、嘘をついた方が、社会的制裁を受けるべきである。それが、従軍慰安婦問題、徴用工問題、などの日韓問題の解決法でもあるのではないのだろうか。
当事者の山口氏または原告女性の伊藤詩織氏の双方は、酩酊(μέθη)状態だったとしても「真実」(τὸ ἀληθές)を「知っているだろう」と推定できるが、そうではないかもしれない。山口氏または伊藤氏のいずれかが「故意に」(ἑκουσίως)嘘(ψεῦσμα)をついている可能性もむろんある。全部ではなくとも一部。
あるいは、双方とも嘘はついていないが、嘘をついていながら、自覚していない(気づいていない)可能性だってある。事実らしきものを誤認している可能性も。いずれにしても、勝義の(κύριος)真実なるものは、藪の中である。
だから、昔からその白黒(λευκόν καὶ μελανιόν)をつけるために裁判がある。真偽の判定者(κριστής)は、事件の真相を知りようもない、知る必要もない第三者である裁判官だ。基準は法と証拠(νόμος καὶ τεκμήριον)だ。
刑事事件としては伊藤氏の告発(κατηγορία)を受け準強姦容疑で警視庁が捜査したが、なぜか東京地検は嫌疑不十分で不起訴(起訴猶予)になっている。その判断を、検察審査会も「不起訴相当」として追認しており、刑事事件としては決着している。
山口氏は裁判にもかけられていないから謂わば「無罪」以前で、殊更に「無実」という必要もない。刑法的には以上に尽きる。
法というものは元来がそういうものだし、裁判所(δικαρστήριον)の判断に真実などない。
要するに、原告の主張の合理性や首尾一貫性(ἡ κατάστασις)、具体性、性行為の現場のホテルや、そこに向かうまでの状況に関する証言(μαρτυρία)、性行為後に伊藤さんが直ちに、即ち当日、医療機関に受診し、その後も周囲に相談し、警察に被害届を出していることに比べ、「無実」を訴える「事件」前後の山口氏の言動や、伊藤氏とのメールの遣り取りも含めた対応や法廷(δικαρστήριον)での供述に齟齬があり、「信憑性に重大な疑念がある」という裁判官の心証を覆せなかったようだ。
そこには、起訴や判決に際しては「合理的な疑いを差し挟む余地がない」ほど高度な立証や認定が求められる刑事事件(裁判)と、双方を比較したらどうみても原告の主張に合理性、つまり「合意なき性行為」が行われた蓋然性(ἔνδοξος)があるとして、原告側の訴えを認めた民事裁判ならではの性格の違いがある。
今回は捨て身で臨んだ伊藤氏が勝訴したが、山口氏は控訴した。記者会見では法律論のつもりだったろうが、篠田さんの指摘ではないが、負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)で余計な事を言って、男を下げた。刑事裁判とは舞台が違うのに、侮ったからだ。
謂わば、江戸の敵を長崎で討った伊藤氏が女を上げたかどうか、筆者は冗語を避ける。ただ、「#MeeToo運動」を含め、政治やメディアを利用したことで女史に茨の道が待っているかもしれない。
就職相談のため山口氏の誘いに乗ったこと自体に責められるべき落ち度はないが、相手を間違えたようだ。軽蔑(καταφρόνησις)に値する(ἄξιος)相手に女性は冷厳だ。
山口氏も相手を見誤った。記者失格だ。
そうと言えなくもないが、出典にあたると『春秋左氏伝』宣公・三に「問鼎輕重」とあって、「他人の権威、実力を疑い、相手を軽視して、あわよくばとって代わろうとする」ことの譬えのようだ。
本欄でも無学極まる婆さんがいつもの調子で、やれ「従軍慰安婦」「徴用工問題」と、本件判決をめぐる左右両派の無軌道な応酬について疑念を呈した篠田さんの議論に、一体何の関係があるのかと疑わせる杜撰で幼稚な議論、最終的はカ氏の愚にもつかない身の上話を枕に、1⇒【大事なことは、「どちらが嘘をついているか。」…それが、従軍慰安婦問題、徴用工問題、などの日韓問題の解決法でもあるのでは】と、それこそ特定イデオロギーまみれの、大風呂敷なだけで肝腎なことは何も言ってはいない、それこそ鼎ではないが、あまりに軽い(καῦφς)、軽薄(κοῦφος)極まる空疎な言辞で結ぶ。
それで齢70近いのだから、愕然とする。つける薬はない。
確かに、脳中には蜘蛛の巣だらけでも何も詰まっておらず、微塵(aṇn)なのだろう。「第二の祖国」とやらのドイツに入れ上げて50年近く、後生大事に貯め込んできたガラクタの類の雑識と、狂信的な信条、信念の如きものがとぐろを巻いているようだ。
前出の故事は、楚の荘王が周の国境に兵威を示し、周の定王の使者に天使の位を象徴する鼎の大きさや重量を尋ねたものだが、荘王は周王朝を侮って天下を奪い取ろうという野心に燃えていた。
今回のことでは、別の意味で山口敬之氏も伊藤詩織氏も「問鼎輕重」なのだろう。
ちょうど1年前の昨年12月22日・67で、私は、如何にも余裕がない(ἀσχολία)カ氏の凡庸かつ陳腐で愚鈍にして退屈極まる議論を論じたコメントの末尾に如上のエピグラフを添えた。そして1年を経過した現在も、当時と何も変わらないことに驚く。
カ氏の幼稚園児並みの議論、特にその思い上がった「悲憤慷慨(ὀργή κὰι θυμός)たるや、愚にもつかないナイーヴな(εὐήθης)人生観や世界認識、歴史認識、政治意識を基に相手に非を鳴らすこと(ὀνειδίζειν)しか知らず、一方的で論理的に必然となる何の脈絡もなく、勢いに任せて見当違いな論難(ἔλεγχος)や中傷(διαβάλλειν)に流れる議論を撒き散らす。
際立ったプライドの高さと自意識過剰とも思わせる尊大な性向に反して、憐むべき知性の程度をうかがわせるその粗末な措辞と隙だらけの論理で構成した程度のお子様の「作文」に終始する。コメント1はその痛ましい症例(παράδειγμα)だろう。
前回4でも指摘したように、「嘘と真実なる」特有の誇大妄想的な「物語思考」(εἰκὼς λόγοι)で膨らませた奇妙な論法で、「従軍慰安婦問題」「徴用工問題」と今回のトピックスをアクロバティックに結びつけ、国際協調とやらで味付けをした愚劣極まる「法螺話」にすぎない。
一体、日韓問題の解決と何の関係があろう。牽強附会の暴論=「クズ」投稿たる所以だ。
▼反時流的古典学徒=12月22日・68⇒【(カ氏は冒頭「私が、反氏を批判するのは、国際通であるかのように見えて、国際感覚があるように、まるで思えないからである。「国際法」の精神、というのは、結局は、国際感覚をもつ」と、愚劣な同語反復[Tautologie]的御託宣を宣明したうえで)11(カ氏の12月17日・11=筆者註)⇒【ゲーテやワイツゼッカーをまるで認めない】私の「不逞な」姿勢への剥き出しの反撥と憎悪(μῖσος)なのは明らかで、【アドルノやハーバーマス…は…素晴らしいと認識されること一つをとっても…国際協調の精神…「国際感覚がある」とは…思えない】として、【前者は、国際社会で、国際感覚があると認められている教養人】なるカ氏独自の信仰告白めいた御託宣(μαντεία)となる。
カ氏が反撥して半ば狂乱的な反論めいた応酬をした前提となるのは、私が原文を引用して紹介した、20世紀前半のドイツ(人)による史上未曽有の虐殺行為=ユダヤ人大量虐殺を引き起こしたドイツ(人)心的傾向について辛辣な批判と解剖を施した(執筆は戦時中に亡命先の米国)ホルクハイマーとアドルノの共著『啓蒙の弁証法――哲学的断想』(Max Horkheimer und Theodor W. Adorno; “Dialektik der Aufklärung:Philosophische Fragmente.”, 1947年)の議論だ(「韓国大法院判決と日本の憲法学の「憲法優位説」の項⇒2018年11月16日・53~54と「吉次公介『日米安保体制史』の誤りと岩波新書」の項の後半部分=同11月30日・203以降を参照)。
カ氏に相応しいと考え何度か引用した英国の女性哲学者M. ウォーノックによれば、「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」ということだろう。
12月19日・30⇒【異常ともいえるほど知識はもたれているが、いかに反氏が一知半解の学識をもっておられるか、よくわかる】のような要領を得ない御託を並べるだけで、まともな反論は何もない。
私の議論の前提となった知見が「異常ともいえるほど知識」とカ氏が勘違いするのは、それだけカ氏が、肝腎のドイツ語の歴史についてさえ、何も知らないからだ。カ氏は「俗説」しか知らない。現在と全く同じだ。それでいて、厚顔無恥(ἀναισχυντία)というのか、「狂気の沙汰」(ἡ μανικός)というべきなのか、自らを「学者の端くれ」(μέρη δὲ φιλόσοφος)と称するまでに増長(φρονεῖν μέγα)した。
私など、一応は古代哲学や古典学に関する学界の専門的な議論に通じており、そのための訓練も受けているが、「専門家」(τεχνίτης)はともかく、とても「学者の端くれ」を自称するほどお調子者でも道化者でもない。だから、学徒(ὁ μαθητής)であり、非職業的研究者(θεωρικός)なのだ。
カ氏の「反撥」には合理的な論証は存在せず、私は、
68②⇒【カ氏はさながら、「神がかりの」(ἐνθυσιασμός)巫女のようで、デルポイの巫女(Πυσία)ならぬ、「ゲーテ・ヴァイツゼッカー教」の女祭司(χρησμῳδός)なのかもしれない。祟り(δίκη)もなさそうだが、私も「仏敵」ならぬ「撥あたり」(τιμωρία)な存在なのだろう】と諫めるというか、揶揄した。
☆余白に 訂正⇒言わずもがなだが、4の15行目は「天子の位」の誤り。
68③⇒【そこにあるのは、ゲーテやヴァイツゼッカーの盛名(κλέος=‘berühmt’)に無批判に寄りかかった「事大主義」丸出しの、無邪気で凡庸な「庶民感覚」に根差す無批判な追従(κολακεία)でしかない…カ氏の剥き出しの、敵意(ἔχθρα)は凄まじい…一方で、「無学」で頑迷ゆえのお目出度さ(εὐήθεια)が透けて見える。西独留学経験があり、外資系企業に勤務し、英独二カ国語に通じ、ドイツの週刊誌を愛読し、国際問題に関心が高いと、あたかも「国際通で国際感覚がある」かのような幻想(φάντασμα)があるようで、愚直さ(εὐηθικός)というのか、凡庸というべきか、単なるナイーヴなのか、自ら信じて疑わないようだ。それに輪をかけて「☆鈍」(ἀφροσύνη)なのは、その粗雑な思考と杜撰な論理からも明らかだ】と斬って捨てた。
こちらも参考までに やや長いが、カ氏が実質的には何も理解できない『啓蒙の弁証法』の第5章「反ユダヤ主義の諸要素――啓蒙の限界」を引く。ドイツ語原文も訳文も圧縮した表現で難解には違いない。即ち、
‘Die Arisierung des jüdischen Eigentums, die ohnehim meist den Oberen zugute kam, hat den Massen im Dritten Reich kaum größeren Segen gebracht als den Kosaken die almselige Beute, die sie ausden gebrandschatzten Judenvierteln mitschleppten. Der reale Vorteil war halbdurchschaute Ideologie. Daß die Demonstration seiner ökonomi- schen Vergeblichkeit die Auziehungskraft des völkishen Heilmittels eher steigert als mildert, weist auf seine wahre Natur: es hilft nicht den Menschen, sondern ihrem Drang nach Vernichtung. Der eigent- liche Gewinn, auf den der Volksgenosse rechnet, ist die Sanktion- ierung seiner Wut durchs Kollektiv.(To be continued)
「〔ユダヤ人財産のアーリア化〕政策は、どのみちたいていは上層階級のふところを肥やすだけで、第三帝国の大衆にとっては、コサック兵たちが、掠奪したユダヤ人居住区から引きずってくる見すぼらしい獲物以上の利得を、ほとんどもたらしはしなかった。現実に得られたものは模糊としたイデオロギーだった。現実に得たものが経済的には空虚だということが証明されても、民族主義的な救済政策の魅力は減ずるよりむしろ高まるということが、その真の性格を示している。すなわちその経済政策は、人間を助けるのではなく、人間のうちに潜む絶滅への衝動を助長するものなのだ。国民大衆が当てにしている本来の利得は、自分の憤怒を集団によって聖化してもらうことである。それ以外に得るものが少なければ少ないほど、一層頑なに、人はより正しい認識に逆らって、大衆運動に加担するようになる。そんなことをしても何の得もないではないかという反論に対して、反ユダヤ主義はどこ吹く風だった。民衆にとって反ユダヤ主義は、ひとつの贅沢なのである。」(岩波版、徳永恂訳、268頁)
一個の「反人間的な知性」(‘einem Geist, der widermenschlich’)であるヒトラーの認識(「人間に潜む絶滅への衝動」)の方が、民族の共同防衛という「共同幻想」(κοιναὶ φάντασμα)の物語(μῦθος)思考を振り撒く、偽善家の割には「凡庸」なヴァイツゼッカー大統領より、ある意味「一枚上手」ということだ。[完]
狂信的で「無学な婆さん」であるカ氏のような、今さらシェイクスピア『ヴェニスの商人』並みの時代ががったユダヤ人観、11⇒【金持ちのユダヤ人金融業者のために、ドイツ人が虐げられている…強欲なユダヤ人】こそ、史実に反している。
それぞれ反ユダヤ主義的要素を抱え経済的にも苦境を強いられたとしても、ドイツ以外にはどの国も到底為し得ず、計画すらしなかったユダヤ人大量虐殺を引き起こしたドイツの戦後が、どれくらい欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)に満ちたものだったかは、次の事例でもよく分かる。
つまり、ホロコースト責任者の親衛隊中佐で、国家秘密警察のユダヤ人担当課長を経て強制移住、収容政策の立案を担当、1942年初めの政府部内の会議でユダヤ人絶滅の方針=ユダヤ人問題の「最終解決」(Endlösung)を決定し、責任者になったアイヒマン(Eichmann, K. A.)の裁判を論じたハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン―悪の凡庸さについての報告』(“Eichmann in Jerusalem, A Report on the the Banality of Evil”, 1963.)のそこかしこにも、元ナチス関係者、協力者が西ドイツの行政や司法、アカデミズムを支えていたかが如実に示されていて、ナチスからの解放と決別、切断という「まことしやかな」物語(μῦθος)が、ドイツ人の戦後を支えた共同防衛の神話(μῦθος=虚構)だったことを浮き彫りにしてる。
‘Les fous et les sottes gens ne voient que par leur humeur.’
ドイツの戦後は、自らの歴史上類をみない戦争犯罪の域を逸脱した悪業をダイレクト(ὀρθός γωνία)に受け止め、向き合ってきた歴史などではない。民族の共同責任、つまり「集団的な罪」(‘Kollectivschuld’)はないとして拒否するヴァイツゼッカー演説にしろ、その根源にある敗戦直後に哲学者のヤスパースが『罪責論』(“Die Schuldfrage”)の中で説いた弁明(ἀπολογία)の論理の焼き直しでしかない。
つまり、「ドイツ人という(名の)国民」は存在せず、常に特定の個人が存在するだけで、個々の立証可能な法律違反の残虐行為の実行者など、一握りの国民の法的責任を問うほかは、道徳的な罪(Sünde, Schuld)に基づく責任(‘Verantwortung’)があるだけで、それ以外にはけっして法的責任(法的罪責=‘Haftung’)はない、と。呆れたものだ。
しかも、ヒトラーは政権を掌握するまでの国会議員選挙では社会民主党と仇敵関係の共産党と共同歩調をとっている。共産党を排撃し、非合法化したのは政権獲得後だ。
ドイツの経済的苦境にしたところで、それは一義的にドイツ政府の経済的失政に原因があるわけで、第一次大戦後の過酷な戦後賠償や大恐慌にあるわけではない。それは副次的要因として混乱を倍加させたとしても、主要因ではない。高校の『世界史』程度だって現在、カ氏のような古ぼけた認識を説いてはいない。
しかし大恐慌勃発の前年、1928年ごろからドイツ経済は再び下降線を辿り始め、それに追い打ちをかけた世界恐慌のあおりで、米国から投資されていた資本が一斉に引き上げられ、脆弱なドイツ経済に壊滅的な打撃を与えたということだ。
企業倒産が相次いで街に失業者があふれ、敗戦後の悪夢が再びドイツ国民の脳裏にもたげ始める。それ以上に不安定な国内政治は、憲法草案作成の中心的役割を果たしたのがユダヤ系公法学者のH. プロイスだったことに象徴されるように、親ユダヤ的なリベラリズム政権だったヴァイマール政府は結局、最も困難を極めた時期の経済の舵取りに失敗して為す術がなかったわけで、失政の責めを問われてもやむを得ない。
そうしたなか、中間政党が退潮を余儀なくされ、代わって左派の共産党、右派のナチスが擡頭し、政権中枢にあった社会民主党も戦闘的な姿勢に転じる。都市部では各政党の支持者同士が激しく衝突して流血騒ぎとなる事件も相次ぎ、騒然とした雰囲気に包まれる。
選挙の度に攻守所を変え、めまぐるしく勢力図が変化するなかで短命な内閣交代が相次いだ結果、前年1932年11月の連邦議会選挙で議席を減らしたナチスが、漸く翌12月に発足したシュライヒャー内閣が2箇月もたずに政権を投げ出し、1月30日にヒトラーが首相に就任、ナチスが政権を獲得する。
民衆だってその程度のことは知っていた。しかし、他に言い逃れる格好の口実がみつからなければ、「金持ちのユダヤ人金融業者のために、ドイツ人が虐げられている」程度の法螺話を信じたふりをしたのだろう。
そして、やけくそになて、‘Gegen das Argument mangelnder Rentabilität hat sich der Antisemitisums immun gezeigt. Für das Volk ist er ein Luxus.’(「そんなことをしても何の得もないではないかという反論に対して、反ユダヤ主義はどこ吹く風だった。民衆にとって反ユダヤ主義は、ひとつの贅沢なのである」)となる。憂さ晴らしが必要だったのだ。
なお、今年6月18日・90~91で詳述したから、そちらを参照されたいが、人類が経験した初めての総力戦で、主にヨーロッパを戦場に夥しい惨禍をもたらして従来の戦争観を一変させた第一次世界大戦後の戦後処理は、対独講和のヴェルサイユ条約に象徴されるように、さまざまな美名にもかかわらず、「なお基本的には国家利益対立の決済という性格を本質としていた」(長尾龍一『日本憲法思想史』、1996年、講談社学術文庫、200頁)。
ドイツに過酷な賠償金支払いを命じた「対独非干渉主義と報復主義はその両面で…確かに英仏の自由主義・民主主義対ドイツの官憲主義・権威主義という宣伝も行われたが、第三共和政憲法とビスマルク憲法のイデオロギーの差などは程度問題にすぎず、フランスもドイツに自国の価値観や憲法体制を押しつけようとは考えなかった。その代わりに領土を奪い、賠償を取り立て、ルール進駐によってドイツ経済を破壊することを意に介しなかった」(同)。
戦勝国とはいえ、各国とも多額の戦費が負債となってのしかかっていたからだ。それぞれ「国益」(ἡ συμφερτός ἐγχώριος)があり、いい顔ばかりはできないからだ。
正義の戦いとは、ギリシア・ローマ時代からその思想的萌芽はあったが、主に中世のキリスト教神学に基づいて理論化され、近世の国際法学者や自然法学者、例えばグロティウス(H. Grotius, 1583~1645)らによって議論された戦争観で、簡単に言えば「正当な原因」(justa causa=ἡ ὀρθὸς αἴτιον)に基づく戦争は「合法」であるとするものだ。
そこに言う「正当な原因」とは、グロティウスによれば、正当防衛、財産の回復、制裁の三点とされた。それは不正を排除するために無制限に「戦争に訴える権利」を承認したもので、ローマ教会の権威の下に、正義(δικαιοσύνη=Justice)の邪悪(ἀδικία=injustice)に対する、神の悪魔に対する闘争を意味した。
一般的な「戦争禁止」を規定した1928年の「戦争抛棄ニ關スル絛約」(所謂パリ不戦条約=ブリアン=ケロッグ条約)にみられる、一種の「平和の哲学」とは異なり、相手国に有無を言わさぬ(ἀνέλεγκτος)「無条件降伏」を迫るもので、ルーズヴェルト大統領の創案にかかるこの戦後処理方式は、ナチスドイツが全面的壊滅に至るまで抵抗を続けた理由になった。
不戦条約自体、国際紛争解決のために戦争に訴えることの不当性を、また国策の手段として戦争を放棄し(第1条)、一切の国際紛争は平和的手段に拠らずに解決を求めないこと(第2条)ことを規定するが、戦争を平和的に解決する手段は全く用意されておらず、その歴史的意義を認めつつ、「欠陥」を指摘する国際法学者も少なくない(栗林忠男『現代国際法』、168頁)。
「無学な婆さん」のご都合主義の「物語思考」の論証は以上で充分だろう。つける薬がない(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’)。
それにしても、本欄の兄弟分、BLOGOSでのコメントの応酬はなかなか壮観で2日間で223件も寄せられた(本日9:40現在)。無作法で舌足らずなりに穿ったものもあり、カ氏のような「従軍慰安婦」「徴用工問題」のような戯けた御託を並べ、比較する者など皆無だ。それが、カ氏には決定的に欠けている分別だ。
「現実的に考える」(διανοεῖσθαι καὶ ἐνέργειαν)などと称して「妄想」に取り憑かれている「誇大妄想狂」のカ氏がいかれているのだろう。
『啓蒙の弁証法』など、日本語さえまともに読解できないカ氏には「驢馬の耳に念仏」だが、皆カ氏ほど「低能」ではないのだ。「蜘蛛の巣」が張ったお頭を抱えて、どんなに焦慮を募らせても、人生の真実はおろか、歴史の真実など見えてはきまい。
11⇒【なにが本当で、なにが嘘なのか、その事件は誰が加害者で、罪があるのか、をはっきりさせ、歴史の真実をはっきり見ようとすることが必要】などと見当違いな、莫迦の一つ覚えのような法螺話を並べる前に、齢70近くにして真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)もなく、本欄に中高生並みのおままごと論議を撒き散らし、しかも間違いなしではそれもままならず、都合の悪いことはすべて頬被りしてごまかしている、自らの醜悪極まる「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)に、得と向き合ったらよい。οἴμοι.[完]
そこに言う「正当な原因」とは、グロティウスによれば、正当防衛、財産の回復、制裁の三点とされた。それは不正を排除するために無制限に「戦争に訴える権利」を承認したもので、ローマ教会の権威の下に、正義(δικαιοσύνη=Justice)の邪悪(ἀδικία=injustice)に対する、神の悪魔に対する闘争を意味した。とあるが、ヨーロッパの近世は、政教分離、ゴロテイウスの亡くなった後に結ばれたウェストフェリアー条約から始まるのではないのだろか。つまり、ローマ教会の権威の下に、正義、悪魔が置かれるのではなくて、人間の道徳観や理性の下に、正義、悪魔がおかれるのである。東洋、西洋の文化の違いによる妥協も含む。その為の、「国際司法裁判所」、「国際法」、「民主主義」なのではないのだろうか。その認識が反氏と違うから、いつまでたたっても妥協点が見いだせないのである。
24⇒【反氏が大変重要視される左翼と右翼を分けること】は、カ氏の虚言癖。
英国のEU離脱決定は、国民投票と今回の総選挙で明確に示された国民の意思であって、民主制とは常にそうしたものだ。しかも英国の民主制はドイツより成熟している。愚鈍なドイツの民衆とは違う。
政治意思決定は学問とは異なり、そこに真理も真実もない。そもそも、将来の帰趨に関する意思決定は、それをもたらす諸条件が確定していない以上、必ず正しい選択ができるというわけではない根源的制約を抱えている。
卑近な例で言えば、1年後の経済指標、例えば株価を間違いなく、つまり客観的合理性に基づいて予測し、的中させることは何人もできない。的中したとしても偶然、つまり「まぐれ」にすぎない。証券取引の専門家、研究者でも同じだ。
実際に的確に予測⇒大儲けできたら、その人物はサッサと証券会社を辞めて独立するうだろうし、安給料の学問的研究などとっとと廃業するだろう。
反証可能な客観的学問としての、つまり科学として経済学は、一定の条件=予件が確定していれば極めて正確に将来の株価を予測することはできるが、そうしたことなど望むべくもないから、卓越した学者であっても一般の投資家と択ぶところはない。ただ、彼は現在から振り返って、確定した条件を基に、株価がどうしてそうなったか、というメカニズムを理論的に説明できるにすぎない。
政治の主たる領域、将来に関する政策的合意事項の選択も類比的で、不確定な将来という要因があり、しかも不特定多数の国民が関係し、その影響も広範囲に及ぶから票決の多寡で判断せざるを得ないわけだ。そうでなければ、無駄の多い、コストもかかる民主制など無用の長物だろう。
ケインズにしたところで、支払える水準を超えた高額な賠償金を科することの非合理性に反対したわけで、将来の不安材料として危惧していたとしても、ドイツに慈悲をかけたわけではない。
講和会議の英国大蔵省主席代表だったケインズの真の関心は、戦争をすればすぐに降伏してしまう腰抜けのフランスと違って、米国参戦まで連合国の戦費の大部分を賄っていた英国の資金事情がますます悪化して米国依存が増大したことで、英国の運命が以前の植民地(米国)に左右されかねなかったからだ。
1916年時点で、英国の運命が以前は植民地であった新興国米国に左右される恐れもあると、二つの報告書で警告し、「このまま事態が進むならば、来年の6月かそれよりも早くに、アメリカ共和国の大統領が、もし望ならば、彼自身の思うままをわれわれに命じることのできる立場に就くだろうと、あえて私は確信をもって言っておく」と戦争の帰趨に加え、将来への危機感を募らせていたくらいだ(‘The financial dependance of the United Kingdom on the United States of America, memorandom’, 10 Octover; ‘‘Tha Collected Writings of J. M. Keynes’’, vol. 16, p. 197~198./‘Our financial position in America’ and ‘Report to the Chancellor of the Exchequer of the British members of the joint Angle-French Financial Comittee’, 24 Octover, ibid., 198~209.=引用はG. ドスターレル『ケインズの闘い』、314頁)。
英国の第二次大戦後の長期的逓落は、対ファシズム戦争での国力消耗とその後の停滞が響いた結果だろう。一体、どの国がファシズム禍を欧州にもたらし、今なお安全保障は米国依存だという現状を直視していないか、明らかだろう。腰抜けのフランスも醜悪で恥知らずなドイツも、偉そうなことを言えた立場ではあるまい。
23も国際法など皆目理解できな「阿呆」が怠慢にも私のコメント16の文章をそのまま334字分コピペして(カ氏の23=555字の実に60.18%)、23⇒【とあるが、ヨーロッパの近世は、政教分離、ゴロテイウスの亡くなった後に結ばれたウェストフェリアー条約から始まるのではないのだろか】と愚にもつかない、素人論議で結ぶ。
グロティウスの自然法論(Naturrechtslehre)に基づく国際法理論はその後の欧州の歴史を貫いており、ウェストファリア条約もその系譜上にあることを理解できない、頓馬の「独り相撲」。その無知蒙昧は底が知れない。
「コピペの女王」らしい浅ましい所業も含め、性根が腐っているとしか言いようがない。ご大層なことを言いたかったら、コピペが自分の投稿文の6割を超すような無作法を猛省し、せめて他人の議論は自分の言葉で要約したらよい。おまけに、コピペでないと、Grotius=「ゴロテイウス」に様変わりする。「ゴロテイウス」は、新種の恐竜の名前? か何かなのか、阿呆らしくて、つける薬はない。
とにかく、投稿することが自己目的化しており、23は特に醜悪極まる「似而非反論」=クズの典型。恥を知ればよい。
23②⇒【認識が反氏と違うから、いつまでたたっても妥協点が見いだせない】のではなく、恥知らずで、おまけに間違いだらけの低能で愚鈍極まるから、妥協も何もない、だけの話だろう。οἴμοι.[完]
ここに一つの文章がある。私が今年6月18日(90~91)に書いたものだ。16に一部抜粋したもののオリジナルだ。
「正義の戦いとは、ギリシア・ローマ時代からその思想的萌芽はあったが、主に中世のキリスト教神学に基づいて理論化され、近世の国際法学者や自然法学者、例えばグロティウス(H. Grotius, 1583~1645)らによって議論された戦争観で、簡単に言えば「正当な原因」(justa causa=ἡ ὀρθὸς αἴτιον)に基づく戦争は「合法」であるとするものだ。
そこに言う「正当な原因」とは、グロティウスによれば、正当防衛、財産の回復、制裁の三点とされた。
それは不正を排除するために無制限に(ἁπλῶς)「戦争に訴える権利」を承認したもので、ローマ教会の権威(ἐξουσία)の下に、正義(δικαιοσύνη=Justice)の邪悪(ἀδικία=injustice)に対する、神(θεός)の悪魔(ὁ Ζατανᾶς)に対する闘争(ἀμφισβητεῖν)を意味した。」
それを、どこをどう読めば、23⇒【ローマ教会の権威の下に、正義、悪魔が置かれる】と読めるのだろうか。カトリックの総本山が悪魔と取引でもして、その「権威の下に…悪魔が置かれ」たとでも勘違いしたのだろうか。
カ氏以外には何人も、為し得ない、驚異的な誤読である。23②⇒【人間の道徳観や理性の下に、正義、悪魔がおかれる】も中高生並みの稚拙な作文だが、まだ意味はとれる。
カ氏は相当「いかれている」(μανήομαι)ようだ。
24⇒【反氏が大変重要視される左翼と右翼を分けること】なる捏造コメントの根拠になった文章を私は書いた記憶がない。25・3行目でカ氏の虚言癖とした所以だ。
12末尾=‘Les fous et les sottes gens ne voient que par leur humeur.’は「狂人と愚か者は、気分でしかものを見ない」と読む。
自滅は近そうだ。
29⇒【反氏は私の誤字を大事件にしておられるが、それより大事なのは、中身】と言うが、例えばコメント23のどこに検討に値する「中身」があるというのだろう。
23(11:20)は私のコメント12~16(09:34~09:38)と19(09:42)を受けて俄かに書かれたものだろう。既述の如く、呆れたことに23全体555文字のうち、冒頭部分の334字、つまり全体の6割超(60.18%)が私の16のコピペ=無断盗用だ。そうしたコメントのどこに「中身」があるのか、この際だから得と「釈明」(ἀπολογία)するといい。
しかも「無学」極まる阿呆だから、私のコメント16の記述、グロティウスが各国の「戦争に訴える権利」の位置づけ、意義を、⇒「ローマ教会の権威の下に、正義(δικαιοσύνη=Justice)の邪悪(ἀδικία=injustice)に対する、神の悪魔に対する闘争」と紹介したのを皆目理解できずに誤読したうえ(23⇒【ローマ教会の権威の下に、正義、悪魔が置かれ】)、その誤読に誤読を重ねる形で、29で言わずもがなの冗語を重ねている。
即ち、⇒【私の正義や悪魔についての主張は、宗教戦争以降、それを決める唯一権威は、ローマ法王だけではなくなった、という意味】。意味不明で、全く説明になっていない。「無学」だからだろう。
グロティウスは人名辞典などの記述によれば、【大著『戦争と平和の法』(De jure belli ac pacis, 1625)は三十年戦争の惨禍を見て人類平和確立のため執筆したもので、合理主義的自然法を中心に据えた法の一般理論を構築することで、戦争を制限、規律化することを目指したものである。とりわけ国際法学の発展に永続的影響を与えたため、近代法学の樹立者の一人とみなされている】(『岩波世界人名大辞典』873頁)。
「無学な」カ氏以外には初歩的な知識で、これ以上の説明は不要だろう。私が、27⇒「グロティウスの自然法論(Naturrechtslehre)に基づく国際法理論はその後の欧州の歴史を貫いており、ウェストファリア条約もその系譜上にある」としたのは、そのことだ。
日頃は滑稽にも、一知半解で「ウェストファリア条約」云々と幼稚な議論を展開しているカ氏は、その程度のことも知らないから、23⇒【ヨーロッパの近世は、政教分離、ゴロテイウスの亡くなった後に結ばれたウェストフェリアー条約から始まるのではないのだろか】のようなピントのずれた議論になる。つける薬がない。
「より大事なのは、中身」のような天に唾する冗語、ブーメランのようにはねか返ってくる戯けた御託は、どんなに意気がっていても、いずれは身を滅ぼす愚行だ。
少しは「分を弁えぬ」(πλέον ἔχειν)莫迦さ加減を反芻することだ。
‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes.’
別段深い意味を込めたわけではないが、江戸の仇を長崎で討って女を上げた伊藤氏も、民事とはいえ侮って一敗地にまみれた山口氏も今後が大変だ。新たな証言や証拠の有無、控訴審の帰趨がどうなるか知りようもないが、畢竟「鼎」=人徳が問われるのかもしれない。
余談ついでに、「問鼎輕重」の故事とは『春秋左氏傳』宣公・三年(紀元前606年)によれば以下の如くだ。
楚の楚子(荘王)は周を滅ぼし天下を征圧しようという野心を抱いており、陸渾の戎を討ち、その足で周の国境に大軍を並べて兵威を示して、周の定王・喩の使者王孫満に天子の位を象徴する鼎の大きさや重量を尋ねた。
楚子の下心をみて取った王孫満は「大きさや重さは、それをもつ人の徳によって決まるもので、鼎そのものには関係ない」としたうえで、「徳が明らかであれば鼎は小さくとも重くて移すことができませんが、反対に徳を欠いた場合には、鼎は大きくても軽くて移すことができます」として、夏王の徳は上下を和合し天の祐けを享けたが、のちの桀王が不徳だったために鼎は商(殷)に移り、その後600年経って、紂王が暴虐を働くと鼎は周に移った経緯を説いた。
さらに、天は徳ある者に幸いするが、それにも一定の期限があり成王が初めて鼎を河南の成周の地に移し定めたた時に、周は幾代続くかと卜わせたところ、三十代七百年と出た。それが天命であって、今でこそ周の徳は衰えているが、天命が革まらないうちは、無闇に「鼎の軽重を問うてはなりません」というものだ。
事件の真相はともかく、甘いようだが最終的には人間性、人としての器量(ἡ ἠθικὴ ἀρετή)が問われるのだろう。
「正しい戦争」の存在如何という一般的問題について、「すべての力の行使が一切禁じられているわけではない。ただ、社会に反する力、即ち他人の権利を奪おうとする力の行使が禁じられる。けだし、社会は相互援助と協力にとによって、各人は各人のものを安全に保持することを目的とするからだ」として、「他人の権利を侵さない力の行使は不当ではない」から、「戦争に訴える権利」を承認する。所謂「正戦論」(bellum justum)だ。
「戦争自体」(πόλεμος αὐτό)に直ちに不正義(ἀδικία)が内属する(ἐνυπάρχειν)わけではなく、不正(ἀδικία)を排除するために戦争に訴える行為が正当化される。
最終巻では、現在の戦時国際法の内容に相当する議論が展開され、戦争においていかなる力の行使が容認されるのかという主題目に加え、罰せられない行為、外国人によっても合法的とされる行為と過失を問われない行為とを区別したうえで、さまざまな戦争と講和に関する一切の慣例が検討される。
33⇒【グロテイウスは、十字軍遠征…どう考え】――「阿呆」に講釈は不要で、自分で調べたらよい。グロティウス自身は神学と法学の分離を主張し、国家元首もローマ教皇も如何なる支配者も私人と同様、自然法(jus naturale=Naturrecht)に従うべきとしており、自然法を軽視した実定法(Positivität)偏重の法実証主義者(Rechtspositivist)ケルゼンとは異なる。
着実な知見に基づく筋道の通った議論ができないため、思いつくままにさまざまな言葉を並べ、それに関する検討を怠り、イメージを膨らませて途方もない議論を展開する。さらに、提示された推論が内包する論理的な矛盾に気づかない。
33⇒【互いに信じている「正義」が違うから、戦争になる…妥協し、互いに相手を尊重…が「平和を構築」する為に必要だ、というケルゼンの主張が正当】――ケルゼンの主張というより典型的な俗論で、単なる信仰告白。
33②⇒【ローマ法王の威光が薄れ、活版印刷…によって、民衆が文字を読み、自分で判断できるようになった…が、民主政治の基礎】――近代民主主義の起源は英仏米の市民革命で、カトリックも活版印刷も関係ない。
35 ⇒【自然法…キリスト教の…神の啓示的側面が強かった…問題は、その啓示…が、ほんものなのか、妄想なのか、嘘なのかがわからない】――法理論の是非に、神も啓示も基本的には無関係。法と道徳、宗教の違いや関係いを没却した与太話。
35②⇒【アジアにはキリスト教とは違う宗教が多く…どちらを自然法とするのだろう…神からの啓示がこの世に存在するにしても、私は…実定法偏重の法実証主義者、ケルゼンの考えに軍配】――「不法な法は法ではない」という自然法論の立場に反対するケルゼンの実定法偏重の法実証主義が、「悪法も法」という立場を本性的に容認せざるを得ない相対主義、形式主義であることが、どうにも認識できないようだ。
前段のアジアの宗教事情など、議論の趣旨とは無関係であることも。
要するに、その場しのぎの愚劣な法螺話でしかない。
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