トランプ政権が発足した直後の2017年初頭、私は、「トランプの「ジャクソン主義」について」という文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2024257-2.html トランプ大統領は「孤立主義者」だといった政権発足当初の「識者」の方々の描写に、納得ができなかったからだ。
「ジャクソン」とは、第7代合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンのことである。日本では明治以来の「ヨーロッパ中心主義」が根強すぎるため、「200年近く前のアメリカの田舎の大統領など知らない」、という学者が多い。しかしジャクソンは、アメリカの政治思想史における超重要人物の一人である。
「ジャクソニアン・デモクラシー」で知られるジャクソンは、「庶民(common man)の味方」として知られ、アメリカ政治を大衆化した人物だ。そのため19世紀前半のアメリカの民主主義運動は、「ジャクソニアン・デモクラシー」として知られている。
ただし同時に、ジャクソンは、苛烈な人種差別主義者でもあった。黒人差別は言うまでもないが、ネイティブ・インディアンに対する徹底した虐殺は、米国史においても、際立ったものだった。独立後の北米13州の「市民」たちの間では、まだネイティブ・インディアンとの共存する考え方があった。しかし、19世紀になってから合衆国に加入した南西部州の「市民」たちは、黒人を奴隷として使いながら、ネイティブ・インディアンを抹殺すべき邪魔者とみなしていた。
その「市民」たちの利益を代弁したのが、ジャクソンだ。「ジャクソニアン・デモクラシー」の時代に、アメリカ大陸のネイティブ・インディアンたちは、政治共同体としての存在を、抹殺された。
ところで、1990年代の日本に、強烈な存在感を放っていたBlankey Jet Cityというバンドがあった(今日では椎名林檎さんがBlankey Jet Cityのブランキーの熱狂的ファンであったことが有名だ)。Blankey Jet Cityの代表曲に「悪いひとたち」がある。この曲は、このような歌詞で始まる。https://www.youtube.com/watch?v=xzX4xCqLcRs&list=RDxzX4xCqLcRs&start_radio=1&t=2
――――――――――
悪い人たちがやって来て、みんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱い人たちがいたから
女達は犯され、老人と子どもたちは燃やされた
若者は奴隷に 歯向かう者は一人残らず皮を剥がされた
―――――――――
ネットを見ると、このブランキーの歌詞を見て、旧日本軍の大陸での行為を考える人もいるらしい。しかし、Blankey Jet Cityである。この「悪い人たち」の冒頭で参照されているのは、ジャクソン大統領だ、と言わざるを得ない。ジャクソンがネイティブ・インディアンたちに対して行った残虐行為は、Blankey Jet Cityの歌詞だけで物足りないくらいに、残虐なものだった。
このBlankey Jet Cityの「悪いひとたち」という曲は、「第三次世界大戦のシナリオライター」を乗せた「ガイコツマークの俺の黒い車」に轢き殺されることになる黒人の「恋人」が身ごもっている「お腹の赤ちゃんはきっと可愛い女の子さ」、というフレーズで終わる。ボーカルのブランキーが「きっと可愛い女の子だから」と繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し叫ぶところで、Blankey Jet Cityの「悪いひとたち」という代表曲は終わっていく。
ジャクソン主義の虐殺の後、独立戦争をへて、アメリカ合衆国の理想は確立された。
多くの人々は、したがってアメリカの理想とは、暴力と偽善の上に成り立っているものだ、と言うだろう。それは真実である。
ただし、国際政治学者ならば、必ずしもそういう言い方を選択しないかもしれない。
果たして人類の長い歴史において、虐殺に手を染めたのは、アメリカ人だけだった、と言えるのか?
ジャクソン主義の虐殺をへて、「アメリカの世紀」と呼ばれる理想主義的な20世紀の国際社会の秩序は確立された。
実はむしろ、アメリカ人とは、虐殺の血塗られた歴史を引き受けるために、理想主義の旗を掲げ続けることを誓った国民のことではなかったか?
日本は、アメリカとの間で、「決勝戦としての最終戦争」(石原莞爾)を戦った後、アメリカの同盟国となって生まれ変わった国である。
ソレイマニ司令官殺害は、残酷な事件であった。ただし、人類の歴史が始まってから最も残虐な事件であった、などといった偽善的ことは、言わないでおこう。
日本は、野蛮なアメリカのトランプ大統領とは、一切全く無縁だ、などといった偽善的なことは、言わないでおこう。
国際政治学も、国際法も、国際社会が残虐なジャングルであることを知っている。アメリカが残虐な歴史を持った国であることを知っている。
それを知った上で、理想を掲げている。
私ですら、トランプ大統領が、人格的にも優れた、素晴らしい大統領だ、などとは思っていない。
だが、そのことは、トランプ大統領の政策が全て間違っていて、トランプ大統領の行動からは何も生み出されることがない、ということを証明しない。
国際政治は不条理だ。日本人は、国際政治を、誤解している。つまり、国際政治は、驚くべきほど、哲学的なのだ。
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ソレイマニ司令官殺害は、残酷な事件であった。ただし、人類の歴史が始まってから最も残虐な事件であった、などとはさらさら思っていない。伊藤博文も暗殺されたし、ハプスブルグ帝国の皇太子も暗殺された。この二つの事件は、日本にとって、オーストリアにとって大したことだと思い、イラン人にとって、ソレイマニ殺害はそれに近いのではないか、と思うだけである。
肝心な部分が間違ってます。
BLANKEY JET CITYのボーカルはブランキーではなくベンジーです!
この記事を読まれる方の多くが、BLANKEY JET CITYを知らないと思うので、正しく伝わって欲しいと思います。
Blankey Jet Cityについては皆目無知だが、座興までに、このところの♡マーク急増に謝意のシャイなサービス。
「無学な婆ぁ」、カ氏とかがよう、「脳足りん」なのは、自分ちが仕出かしたどうしようもない間違い、書き損じ、道理違い、仇の文章の「ひっでぇ」読み違え、つまり何だぁ「イチャモン」、学のある奴らは「論点窃取」と称している、それは違うとか、実はこうでぇ~と言い訳する際、間違いに加え、赤っ恥の上塗りの間違いやヘマを何度もやらかしても、トンと分かんないからだ。
皆の衆はカ氏=瑕疵婆ぁほどしょっちゅうではなくとも、よくドジを踏む。「ぼぉ~っと」してのへまだったり、いい加減に調べたツケもあるわな。
だけどョ、婆ぁの場合はちと様子が違う。間違いがひっ切りなしで、ちっとも改まる気配がないうえ、やらかしたことやインチキをごまかし、取り繕ってその場をはぐらかすか、知らんぷりで頬被り、時には居直りやがって、戯けた料簡違いのすり替えなど日常茶飯、言い逃ればかり並べ立てやがって、挙句に逆らったりする始末だ。
懲りもせず新しいヘマを繰り返し、こちとらに逆らう際に、全然「関係ねぇだろう」という材料を持ち出して、何の言い訳にもならないといっても「阿呆んだら」だから呑み込めず、無駄な講釈を重ねる。
そうした結果、現在がどうなってるかぁっ~つうと、皆も承知のこのありさまょ。「現在進行形」っつうのかい、婆ぁはひっきりなしに間違いとインチキを毎日やらかしてはのさばっている。知恵足らずのそこいらの餓鬼ども並みの幼稚な言い分を重ねて、オルテガとかいう毛唐の偉いおっさんがいうように、「てめえの愚かさのなかに腰をおろして安住」している始末よ。
なんだな、気違い沙汰だぁ。莫迦が移るから、塩でも撒いておけ。οἴμοι.
そこには、党派こそ違え、篠田さんの指摘にもあるように、トランプ大統領を髣髴とさせる、幾つかの共通点がある。
グローバル化の結果噴き出した内外の矛盾に対する国民の不満の代弁者、インテリの欺瞞への冷笑という名の非知性主義、金正恩とも取引する人当たりのよい無節操ぶり、洗練された政治手法への蔑視などだ。
「ジャクソンの民主主義とは、いささか動脈硬化をきたしていたジェファーソンの共和党に対する、参政権を得たばかりの新しい世代の有権者の怒濤のような大攻勢であった。それは、分裂に反対し、地理上の境界をまったく問題にしていなかったという点で国家的な運動だったし、ジャクソン派の人びとは、メインでもルイジアナでも、呪縛的な演説の中で同じきまり文句を口にし、政敵について、たいていは根も葉もない同じ罪悪を慨嘆したのであった。しかし、それは、ヘンリー・クレーの『アメリカ方式(関税)』を拒否したという点では、反国家的だった。
つまり、それは…援助されることを望んだが、連邦政府が州にお節介をしたり、予想される利益の分け前にあずかったりすることは、まったく望まなかったのだ。ジャクソンの民主主義は、白人のためのみの平等を信じ、インディアンや黒人に対しては、その『貴族主義的な』敵対者よりもはるかに冷淡だった。それは、資産家を共通の水準にまで引き下げたいという欲求はもっていなかったから、ヨーロッパ的な意味での『平等化』(leveling)を行おうとしたのではなく、すべての人間が身を立てることのできる公平な機会を望んだのである。」(第2巻、34~35頁)
このジャクソンと、彼につながる人民民主主義の党の一派が、1828年(ジャクソン当選)から1861年に始まる南北戦争直前までの第15代J. ブキャナン(民主党)に至るまで米国政治の舞台を支配した(リンカーン当選は1860年11月)。
モリソンはジャクソンに甘やかされた二人の民主党大統領が米国史の悲劇=南北戦争をもたらした元凶とみる。そして彼によれば、ジャクソンを含め「彼らは、20世紀後半まで驚くほど変化も受けずに続いてきた、アメリカ政治の型を作りだした」とする。古い時代を記憶する人々は、同じ民主党の「F. D. ルーズヴェルトやH. トルーマンをジャクソンに譬えた」とも。
「いくつかの州で、ジャクソン派の民主党員たちは、いつも必ずというのではなく、ときどき、無月謝公立教育制や、いくぶん慎重な人道主義を後援したが、奴隷制廃止論、女権論、モルモン教など、当時たいていの『主義』からは関係を絶っていた。概して言えば…いずこにあっても民主主義の好ましくない特徴の一つとなっている、あの知的蔑視を分かちもっていたのだ。
ジャクソンの政治的民主主義と、エマソンのような人たちの哲学的民主主義とのあいだには、何の接触もなく、その裂け目に橋をかけようとする少数の知識人…の努力も空しかった。…民主党のシンボルとしてのろばは、最初は無知であると思われている老ヒッコリーの諷刺としてホイッグ党が用いたのだったが、民主党がこの表徴を喜んで受け入れたばかりでなく、今日にいたるまでそれを維持してきたことは興味深い。」(同35頁)
そして篠田さんが説くまでもなく、米国の理想が【暴力と偽善の上に成り立っている】のは一面の真実だ。しかしそれは、⇒【果たして人類の長い歴史において、虐殺に手を染めたのは、アメリカ人だけだった…か?】という問いの中に含まれる、人類の歴史とともにある戦争や内戦、異なる宗教や文明間の争いに伴って発生した残虐行為と、ホロコーストや米国による原爆投下とを比較可能な、人類が非文明的な野蛮状態または啓蒙化以前の愚かさゆえに犯した愚行として一般化し、相対化することに正当性を与えるものでもない。
ホロコーストと原爆投下は、むしろ文明化が進んだことで可能になった、現代における「文明の野蛮」(Zivilisation zur Barbarei)とみる、もう一つの視点が不可欠だ。それが、人類史への複眼的視点を用意する。
自由と民主主義のチャンピオンである米国型の理想主義的が、近未来も変わらぬ文明社会の指導理念だとするなら、その最も確かな理由は米国という国家の本質が、人種の坩堝という多民族によって形成された「人工国家」だという点だ。それが、価値観を同じくする欧州と米国を分かつ決定的な違いだ。
そして実際問題、現在の世界秩序は米国の軍事的な覇権によって維持されている。欧州も中東も、そして日本を含む極東も変わることはない。それは、ほとんど米国のみが支払う血のコストだ。先の大戦で米国に挑んだ日独は同盟国に転じ、米国の核の傘に守護されている。
国際政治は不条理には違いない。それこそ哲学の出番だが、人間の繁殖自体が地球環境破壊の最大要因であることを思えば、問い自体も凡庸な「常識人」の正対を困難にする。[完]
そして例えば、「ミネルヴァのフクロウ」を使って、ヘーゲルが「法の哲学」の中で主張していることは、哲学は時代精神を、人が見ることが出来ないものを、過ぎ去ってから目に見えるように取りまとめたものだと主張している、と書いてある。それを私が哲学の素人だから、と否定するのは、日本国憲法9条の良識的解釈は憲法学者にしかできない、と主張しているのと同じである。
私が、コメント欄に投稿をするのは、国際社会に「平和を確立」してほしいからである。私は、ソレイマニ司令官殺害が、人類の歴史が始まってから最も残虐な事件であった、などとは思っていない。ただそれを契機として内戦が拡大し、大国が核兵器を使ったら、人類の歴史が始まってから最も残虐な事態を引き起こす可能性がある、それを危惧しているのである。米国のトランプ大統領がイランとの核合意を順守してくださっていたら、ロシアとの中距離核戦力全廃条約を破棄されなければ、北朝鮮が核開発をやめてくれれば、その危険は減ると思うが、今、世界は米国、トランプ大統領の登場によって、核軍縮ではなくて、核拡散、核兵器の軍拡張競争に向かっているのである。
それは、米国のウィルソン大統領が、1917年4月に参戦に踏み切ったあと、1918年1月に、戦後の国際秩序「14か条の宣言」を発表し、その宣言が国際社会で熱く支持されたためである。そして、彼の発案である平和を構築する「国際連盟の樹立」にもこぎつけた。ところが、米国議会の反対によって、その発案者のウィルソン大統領を元首にもつ米国が参加できなかった。
ヴァイツゼッカー氏の1930年代アメリカは引っ込んでしまった、というのは、そのことをさしているのであって、それによって、ヨーロッパ人が公正である、と納得する調停者がいなくなってしまったのである。その結果、ナショナリズムが燃え盛り、ドイツ国内の「反英仏」感情が高まると共に、第二次世界大戦に突入してしまった、のである。
8⇒【そういう章(印象の誤り=筆者註)を読者がもつのは、マスコミ…報道のように、ささいな事件を大事件のように糾弾し…何度も繰り返すイメージ操作】のように法螺を吹いてごまかしているが、いつになったらまともな、間違いのない文章が書けるのか、得とお伺いしたいものだ。カ氏だけが、見当違いなことを言い張っている。
些細な間違いだとしたところで、連日連夜、ひっきりなしに続くこと自体、とても「ささいな事件」とは呼べまい。「一体どうなっているんだ、脳に変調でも来しているのではないか、幾らなんでも多すぎる」と逆に心配してしまうほどだ。
そうしたことは、本欄に限らずカ氏だけに起きている極めて特異な現象で、あらゆる種類の間違いを、「誤字脱字」だけと言い繕う虚言を含め、どう考えても腑に落ちないというか、何か原因があるのではないか、と考えるのが真っ当な分別というものだろう。
それに加え、8にはカ氏の莫迦さ加減とご都合主義が「満載」だ。まさか、「漫才」をやっているつもりではあるまい。「野村萬斎」という著名な狂言師がいるが、カ氏は狂言でも演じているのだろうか。
しかも、8の冒頭は引用符もなく、私の4のコピペで手抜き(⇒【間違いがひっ切りなしで、ちっとも…挙句に逆らったりする始末だ】の130文字=全体の17%)する怠慢ぶりだ。
性根が腐っている(μοχθηρία)というか、もはや手の施しようのない「病気」(νόσος)だ。
しかも、言うに事欠いて、⇒【反氏の専門…哲学の致命的な解釈の間違い】という割には、⇒【(aufhebenが)正反対の意味、廃止すると保管する、という二つの意味…これは矛盾する二つの言葉…話し合うことによって、妥協する…矛盾を駆動因、つまり発展の起爆剤にする生成の過程だとしたのである】という、前回65での再説明の際、「致命的な解釈の間違い」のはずの私による直前の63⇒【ヘーゲルはそれを…現実…は絶えざる矛盾の対立による、矛盾を駆動因、つまり発展の起爆剤にする生成の過程だとした】の《矛盾を駆動因、つまり発展の起爆剤にする生成の過程だとした》の箇所を、ちゃっかりコピペして盗用している。
自分ではヘーゲルの弁証法的概念操作が理解できず、手当たり次第に素人感覚で言葉をつなぎ合わせたのだろう。aufhebenが「矛盾する二つの意味をもつ」のではない。現実を構成するものごとの両面、つまり止揚的契機(aufgehobenes Moment)を不断に変化する現実=生成過程の両面とみて、その運動(Bewegung)、正確には「思惟の運動」(Gedankenbewegung)をaufhebenという言葉に込めたのだ。矛盾を、⇒【話し合うことによって、妥協すること】では全くない。
運動、つまり生成(Werden)を引き起こす現実の真の姿こそ「矛盾」だからだ。矛盾がなければ運動も生命もない。ヘーゲルにとってこの世は、概念の自己運動としての思惟なのだ。
ここまで書いてくると、カ氏には何のことか、さっぱり分かるまい。ものごとを概念的に「厳密に」(ἀκριβῶς)考えることができないからだ。
「頭が悪い」証拠だ。οἴμοι.
中国脅威論、仮想敵国が中国であると考える人が、日本のマスコミ界に多く、その思想で洗脳したいみたいであるが、中国は、日本の強力なライバル、競争相手ではあっても、敵ではない。逆に、戦争中、中国を侵略したのは日本なのであって、満州事変の際、「侵略した」と中国に「国際連盟」に訴えられ、「国際法上違法である。」と国際連盟に裁定されても、侵略を続け、中国との戦争に負けたのは日本なのであって、日本人の方がよほど「悪い人たち」なのである。その結果、国際連合が作られたとき、「国際平和を構築する責任」を米国大統領ルーズベルトは、中国に与えた。それは平和を構築する責任をアジアの大国中国にもってほしかったからである。日本は、「国際連盟の時代」、その責任を背負わされたのに、自ら裏切ったのである。
Der Generalsekretär der Kommunistischen Partei der Sowjetunion Michail Gorbatschow hat verlautbart, es ginge der sowjetischen Führung beim 40. Jahrestag des Kriegsendes nicht darum, antideutsche Gefühle zu schüren. Die Sowjetunion trete für Freundschaft zwischen den Völkern ein.・・・・・・・
gerade dann sollten wir dieses Zeichen aus Moskau nicht überhören. Wir wollen Freundschaft mit den Völkern der Sowjetunion.
ソ連の共産党ゴルバチョフ書記長は、終戦40年にあたって、反ドイツ主義の感情を煽らない、ソビエト連邦は民族間の友好を支援する、と述べた。・・・そうであれば、私たちもモスクワのサインを無視するべきではありません。我々は、ソビエト連邦の人々とも友好関係を求めています。とあるように、西独、ソ連間に友好関係を築けていたから、旧東独が平和裏に革命を遂行できたのである。反日主義を煽っていない中国に対して、どうして、日本のマスコミは米国人がそうであるという理由だけで、反中主義が正しいかのように、煽るのだろう。中国の政治指導者、習近平さんが、親日主義を示しておられるのだから、政治体制が違っても、私たちも中国との友好を深めるべきなのではないのだろうか。それが、本当の意味での「平和構築の礎」だと思う。問題は、韓国なのである。韓国のムンジェイン大統領は、明らかに「反日主義」を煽っておられる。彼は、本当に公正で、信頼できる政治指導者といえるのだろうか。
読者の反応も上々で、前々回に続き、前回も全投稿に♡マークがつき、全26件に計96ポイント(本日12:30現在)、多いものだと6Pが4件あった。一昨年5月投稿開始以来、新たな経験で、迎合はしないが反応を楽しみながら書いている。
特に6Pの獲得したのが、トーマス・マンの講演『ドイツとドイツ人』(1945年)を祖述的に紹介したもので、メルケル独首相演説はもとより、結局はドイツの自己弁護の民族共同防衛の論理でしかない欺瞞に満ちたヴァイツゼッカー演説より、マンの苦渋に満ちた祖国の精神史的分析の方が、遙かにドイツの宿痾を穿っているか分かる。マンの政治評論などあまり馴染みのないと思われる読者にも響くものがあるのだろう。マンが単なる文学者ではない所以だ。
他に反応が良かったのが、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』(1919年)を論じた回に5ポイント、シュムペーターの民主主義論を扱った3件も3~4Pあり、読者の生真面目な関心を誘ったようだ。
逆にカ氏の個々の誤謬を剔抉した回(aufheben解釈)は3P止まりだ。カ氏のドイツ語の語釈の杜撰さはもはや周知の事実で、化けの皮が剥がれても驚かなくなったようだ。座興までにBlankey Jet Cityにあやかってカ氏を揶揄した今回の4は受けが悪かった。「錯乱状態」のカ氏批判などどうでもよいとみえる。カ氏の相変わらずのポイント無しが、如実に物語っている。
カ氏のご都合主義の二重基準の中国礼讃とドイツ狂ぶりは相変わらずだ。同じ共産党独裁国家でも、東独がベルリンの壁を越える国民を狙撃するのは酷薄で、中国の人民解放軍が学生の民主化要求デモを武力弾圧するのは問題ないらしい。
これで、通算3,200件になった。今後も丁寧な立論を心掛けたい。
権力者にわかれ、というのなら、自分たちも権力者の気持ちを理解する必要があるのであって、暴力革命と民主政治、は本当は対極にある。本来、平和的に革命をするのが、民主政治なのである。
。もちろん、トランプ大統領の政策が全て間違っているとはいわないが、オバマ前大統領のレガシーを否定するために打ち出した政策は、まちがっているのではないのだろうか。
前々回の「トランプ大統領より冷静さを欠く野党」の項で天安門事件での武力弾圧を主導した鄧小平について、何と主張していたかお忘れのようだ。14日・95に⇒【このコメント欄の読者が、ベルリンの壁の意味がわかっておられるのか、とふと気になった…鄧小平…が自国軍を使って非戦闘員の…《少なくとも人民を殺戮した血塗られた権力者》…とあるが、東独の兵士たちは、東ベルリンを逃げ出そうとした非戦闘員を銃で撃って死亡させ続けた】と書いたばかりだ。まだ5日しかたっていない。
如何にも俄かに投稿された18⇒【なぜ、ベルリンの壁を超える国民を狙撃するのが過酷で、民主化要求デモを武力で弾圧するのをあまり問題にしないかというと…】云々は、当然、天安門事件との比較と考えるのが真っ当な理解で、私が16末尾で、⇒【東独がベルリンの壁を越える国民を狙撃するのは酷薄で、中国の人民解放軍が学生の民主化要求デモを武力弾圧するのは問題ないらしい】というのも、天安門事件との対比であることは、普通の理解力を具えていれば取り違えようもない。
ところが、日本語の文章のまともな読解も覚束ない「頭の悪い」カ氏は、18⇒【民主化要求デモの場合、民主化を求め…と言っても、すでに…暴徒化していて、その政治運動自体に暴力を使っている。香港も中東、アフリカも同じ】とくる。
香港?、中東?、アフリカ?――「話が違うだろう」という体たらくだ。
悪質極まる「論点ずらし」、つまり論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)と論点移行の誤謬(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)による詐術的議論は止まないようだ。
胡耀邦の追悼に天安門広場に集まった改革志向の学生たちが、途中で撤去させられハンガーストライキを交えながら党内改革を訴えたのが始まりだろう。それが、中国共産党内部の保守派対改革派の権力闘争に巻き込まれる形で民主化要求をすげなく拒絶され、学生たちの主張に理解を示した趙紫陽総書記が留守の隙をついて、鄧小平の意向を汲んだ保守派の策謀で、要求や行動自体を反革命分子による体制転覆を狙った「動乱」と『人民日報』社説で決めつけられ、その撤回を求めて最高実力者の鄧小平や保守派の頭目李鵬首相らの退陣要求にエスカレートし、全国各地から支援学生、労働者が駆け付け抗議デモをしただけの話だ。
そこに少しも暴力的要素などなく、暴徒化もしていない。世界中のメディアが張りついており、一部始終を記録している。激しく抵抗して暴力で抵抗したのは軍の精鋭部隊が徒手空拳の学生らに銃を向け、装甲車で突っ込んできて多数の犠牲者が出てからだ。しかも、酷薄な東独だって、多数の犠牲者をすぐさま片付け、事件自体を隠蔽し続けるようなことはしていまい。
⇒【権力者にわかれ、というのなら、自分たちも権力者の気持ちを理解する必要】も莫迦な話で、「人民共和国」と称する中国は、米国のようなまともな民主国家ではないが、「民主主義狂」のカ氏が信奉する近代民主主義の典型、アメリカ合衆国独立宣言には、国民の生命、自由、幸福追求を妨げる「いかなる形態の政府であれ、こうした政府本来の目的を破壊するようになれば、国民はいつでもそうした政府を変革し、廃止する権利を有する」とある。革命は正当化される。
少しは、第三次大戦を妄想するいかれたお頭を冷やした方がいい。οἴμοι.
ジャクソンはある意味でトランプ大統領と恐ろしく似ている。前任のオバマ氏が21世紀型の米国大統領に典型のようにみられるが、米国の大衆民主政治的伝統からみると、トランプ氏は必ずしも異形の大統領ではない。
ジャクソンは謂わば立志伝中の人物で、カロライナ州の開拓地に北アイルランドからの移民の子として生まれたが、早くに孤児となって軍隊に入り、英国軍と戦って捕虜になった後に法律を学んでノースカロライナ西部領土(現テネシー州)政府の法律顧問を経てナッシュヴルに移住、弁護士や土地投機で財を為し、奴隷や純血種の馬を手に入れたが28歳の時に一時は失敗したものの立ち直り、綿花栽培で活路を開き、翌1796年にテネシー憲法制定会議代表となり、一足飛びに98年に上院議員、テネシー州最高裁判所判事(1798~1804)を歴任、米英戦争(1812~14)には西部義勇軍司令官を務め、先住民のクリーク族を破り、1815年には英国軍とのニューオーリンズの戦いに勝利して勇名を馳せ一躍国民的英雄になる。時に48歳、のちの綽名である「老ヒッコリー」(クルミ科ぺカン属=槲)は、クリーク族との戦いでのタフさが兵士に賞讃されたことによる。
ジャクソンは苦労して育ったが貧困層ではなく、聖書とシェイクスピアについて充分な知識を有するなど。「力強い英語を書き、自分を完全に表現する」才能に恵まれた人物だった。そして、「貧乏人の擁護者でもなく、庶民の擁護者でもなかった」(集英社、邦訳『アメリカの歴史』第2巻、37頁)。
モリソンによれば、「人びとは、丸太小屋で生まれた人間でも金持ちになり、戦争で勝利を占め、そして合衆国の大統領に当選できることを彼が証明してくれたがゆえに、彼を愛した」(同)。
そして、以後の米国大統領はジャクソンが先鞭をつけたことで、大富豪や名家出身など、「丸太小屋で生まれなかった者が大統領の地位に達することは、まったく困難になってしまった」(同)。
米国の民主政治、1年の滞在を通じ鋭く観察したジャクソン時代の大衆化した民主政治を念頭に歴史的、理論的に分析した古典的大著『アメリカの民主政治』(“De la démocratie en Amérique”, 1835~40)を著したフランスの政治学者トクヴィル(Alexis de Tocqueville)が、独立宣言の最後の生き残りであったチャールズ・キャロルトンとの対談の中で指摘したように、「この種の人たちは、その最も偉大な人間たちをアメリカに与えたのち消え去りつつある、彼らとともに、洗練された作法の伝統は失われてしまった。民衆は教育され、知識は普及し、中位の能力が広く行きわたる。とびぬけた才能や偉大な人格は以前よりもまれであり、社会は光彩を減じて、いっそう繁栄を増している」(同)という時代に相応しい大統領の誕生だった。
一般民衆が、最高のもの以外すべての水準における積極的な参政権を得て、その子弟に学校教育を受けさせられる国(白人の自由人)、米国型民主政治に相応しいアイドルの登場だった。保守派はもう一つのフランス革命の到来と恐れた。
だから、ジャクソン民主主義の時代、政治は「凡庸に迎合し、無能者と堕落者によって政治を薄め、紳士にとってますます不愉快な公的生活の条件を作りだした。政党幹部会、政談演説、都市のボス連がかき集めてきた酔っ払いや寄る辺のない移民たちによる集団投票などが」(36頁)標準的なものになった。
そう呼ぶことが許されるなら「ジャクソン革命」の犠牲者となったのは選挙に勝利した政党の側が官職を独占して前任者を大幅に入れ替えるという、ジャクソンの当選を機に連邦政府に導入されたとされる、所謂「猟官制」(官職独占制=spoils system)で、現在に続く米国政治の伝統になった。
それによって解き放たれた「暴徒」の犠牲になったのは、黒人や奴隷廃止論者、カトリック教徒やモルモン教徒といった少数者だった。「ワシントンとジェファーソンの寛容の原則」(37頁)が庶民の力が高まるに伴って衰えていったのは、政治の大衆化がもたらす必然だろう。
ジャクソンは二期目退任後も8年生きた。民主党の決定や任命を「隠遁所」から指令し続けた。彼を偉大な大統領の列に加えるべきか否かは、立場によって異なろう。モリソンは、「問題へのアプローチの仕方はあまりにも個人的、本能的で、彼の人選は時として嘆かわしいほど誤っていた」(76頁)と点が辛い。
「二人のルーズヴェルトと違って、潜在している人民運動や、合衆国で進行している動乱の発酵(南北諸州の対立=筆者註)を見抜く力はほとんどなかったとも(同)。喧嘩っ早さと一種の騎士道精神、迅速かつ正確な判断力で「トルーマンと瓜二つ」と評価する。
ごまかしや妥協を拒絶する態度や、単純さと直情径行は、欠点とも言えたが、それでも誰もがジャクソンを愛さずにはいられなかった人間的魅力として、トランプ氏にも半ば似た側面がある。
その点でトランプ氏は米国の大衆民主政治の「忘れられた伝統」に根ざしている。[完]
前稿26の第二段落を以下に差し替え、第三段落以下(⇒【それによって解き放たれた「暴徒」の犠牲になったのは、…】はそのままとする。
そう呼ぶことが許されるなら「ジャクソン革命」は、階級闘争でも貴族に対する迫害でもなかったこと言うまでもない。選挙に勝利した政党の側が官職を独占して前任者を大幅に入れ替えるという、ジャクソンの当選を機に連邦政府に導入されたとされる、所謂「猟官制」(官職独占制=spoils system)は、現在に続く米国政治の伝統になった。
モリソンは、単純な思考法、一切を黒か白派かで判断することと命令の習慣がジャクソンの政策の基調にあるとみて批判的だ。改革を強調して前任のアダムズ政権について「浪費と腐敗」を虚偽を交えて徹底的に糾弾して、選挙戦の勝利に功績のあった民主党員のためにポストを割り振るために馘首を断行した。
実際にジャクソンが免職にしたのは大統領に任免権がある612人のうち252人だったが、パージには違いない。
その結果、政党組織が一層精力を増して連邦行政組織の威信が衰え、事務能率の低下を招いたとの指摘もあるが、ジャクソンはそれを否定しており、「猟官制」導入を悔んではいない。
All men are created equal.というもので、確かに、独立時は、南部には黒人奴隷がいたが、白人だけではなくて、すべての人々がequalに創造されている、というのが国是で、前提なのである。日本も、明治時代士農工商の身分制度をなくし、同じような精神の国になったが、民主政治は、本来それが基本のはずであり、それをめざして国際社会の文明が進化してきたはずなのである。そう考えた時、ジャクソン大統領も、トランプ大統領も反面教師として、捉えるべきなのではないのだろうか。
今回私は、先入見なしのA. ジャクソン米国大統領の質実な理解が議論の前提だと考え、邦訳で全3巻のS. E. モリソン『アメリカの歴史』の該当箇所を仔細に検討し、差し替えも含め合わせて7件、詳述した。従って、古代ギリシアの民主制との比較で、所謂「ジャクソン・デモクラシー」、米国政治史上、「ジャクソン革命」と称される民主政治の米国型の変容を紹介、分析するのが専らで、それを必ずしも「周愚政治」とは主張していない。
逆にカ氏は今回のテーマには全く関心がなかったようで、14件も投稿している割には、一箇所を除いて「ジャクソン」の一言も出てこない。テーマが次に移った「季節外れの」(ἄκαιρος)の今頃になって、28⇒【ジャクソン大統領も、トランプ大統領も反面教師】のような、与太話をするしか能がない。
滑稽なのは、8⇒【私は、ドイツ語は実力がある、という資格をもっている…ヘーゲル…をドイツ語から日本語に、わかりやすく訳すことはできる】と、法螺を吹いていることだ。
カ氏が前回の17日・41~42で展開した、間違いだらけで分かり易くもない、唐人の寝言並みの愚劣極まるヘーゲル解釈(Aufheben)については、既に同日・54~56で逐条的に論駁しておいたから繰り返さないが、ほとぼりが冷めると、当該回では何ら反論できなかった「阿呆」が、笑止な負け惜しみで、露呈した憐れむべきドイツ語の実力をごまかそうと悪あがきする。
しかも言うに事欠いて、8②⇒【ルターが新約聖書をギリシャ語からドイツ語に訳したように】なのだという。
相当、いかれているようだ、οἴμοι.
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