石破茂氏は、私が憲法改正推進本部で講演した二回の機会において、二回とも質問をしてくれた。二度目には、私の『「国家主権」という思想』まで携えて質問してくれた。学者として、書物の著者として、心より感謝を表明したい素晴らしい読者だ。
石破氏は政治家としても一流だと思うし、しっかりした考えを持つ真摯な人物だ。だが、だからこそ、どうしても疑問に思うことがある。
石破氏の「国際法における「軍」など」という文章だ。https://blogos.com/article/406998/ ほとんどの記述は非常にもっともなことなのだが、一点、どうしても理解できないところがある。私自身、何度か書かせていただいたことがある石破氏の思想に対する疑問の中心点だ。
石破氏は、次のように語る。
――――――――――――
「『軍』は本来、三権以前の自然的権利である自衛権を体現する。よって、国内法執行組織である行政と同一ではない。ゆえに「文民統制」と言われる、国民主権に依拠した司法・立法・行政による厳格な統制に服さなければならない」
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これは完全に木村草太・首都大学東京教授の憲法学説であるが、私は繰り返し木村教授の主張自体に法的根拠がない、と主張している。https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1579533782&s=books&sr=1-1
残念ながら、本当に非常に残念ながら、石破氏は、この木村説を踏襲している。
法的根拠を示してほしい。
なぜ、どのようにして、「『軍』は本来、三権以前の自然的権利である自衛権を体現する。」などといった極度に抽象的な断定を、何の説明も施すことなく、下すことができるのか。なぜ、「軍が三権以前の自然的権利である自衛権を体現する」という命題を、説明もなく、断定することができるのか。
法的根拠を示してほしい。
それどころかまず、「自衛権は自然的権利である」という命題の法的根拠がわからない。国際法における「慣習法」と、憲法学が語る「自然的権利」を混同しているのではないか?という疑問がわき出てくる。
法的根拠を示してほしい。
加えて、「三権以前の自然的権利」とは何なのか、全くわからない。それは「個人の持つ自然権」=「人権」だと言ってくれるのであれば、わかる。しかし、国家が持つ「自衛権」が「三権以前の自然的権利」であるというのは、かなり革命的な議論である。
法的根拠を示してほしい。
そもそも国家に「三権以前の自然的権利」などがあっていいのか?そんなことをしたら、「三権分立」は溶解し、「四権分立」の仕組みを熟考しなければならないではないか?
しかも「自衛権」が「三権以前の自然的権利」であるとしたら、その統制を「行政権」の長でしかない内閣総理大臣が行うのは、矛盾ではないのか?「文民統制」によって「三権以前の自然的権利」は「行政権」の統制に服する。とすれば、結局は、「四権」は「三権」に集約されるのではないのか?「四権」あるのに、統制しているのは「三権の長」だけだというのは、いったいどういうことなのか?理解できない。
国際法上の自衛権は、国連憲章51条に定められた実定法であり、同時に、国連憲章以前に存在してた国際慣習法によっても規定されている。しかしそれは「自衛権は三権以前の自然的権利である」といった断定とは、全く違う。自衛権は、国連憲章という条約と、慣習法だけによって、規定されている。国際法の法源は、条約と慣習法の二つだけだ。
自衛権は、国連憲章と国際慣習法に法的根拠を持ち、両者によって制約されている、国際法規範である。国際法における自然権、などという謎の概念を持ち出す必要もない。
石破氏の「自衛権」の理解が、万が一にも、「芦部信喜『憲法』が法的根拠だ」、といった資格試験受験生レベルの回答ではないことを、期待する。
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その際は、初歩的な三段論法(συλλογισμός)も覚束ないカ氏を、2,341年前に死んだアリストテレスからみたら、「白痴」に等しいと揶揄した覚えがある。矛盾対立(ἀντίφασις)と反対対立(ἐναντιότης)との違いも理解していなかったからだ。
正否でその他(中間)を許さない、つまり幅がない(ἀπλτής)矛盾(ἀντίφασις)と、見解の違いにも幅を(開き)を認める、即ち白黒(λευκόν καὶ μελανιόν)は簡単につけず灰色(φαιόν)、しかもさまざま諧調(graduation)だってある反対(ἐναντίον)との違いだ。
だから、カ氏は当然、排中律(law of excluded middle⇒a∪ā=I [or a∨ā])など、「?」となるわけで、演繹(συλλογισμός)と枚挙(ἀπολογίζεσθαι)の違いも分からない「阿呆」だ。カ氏のような未開人並みのお頭を、「論理音痴」という。
カントにはこうある。
「ところで、矛盾律は、一つの単なる論理的原則として、その言うところはけっして時間関係に制限してはならないものであって、如上の定式はこの矛盾律の意図に全く反している。こうした誤解が如何にして生じるかと言えば、あるものの述語を最初はそのものの概念から分離しておいて、あとになってこの述語にそれとは反対の述語を結びつけるからにすぎない。しかし、この反対の述語はけっしてその主語と矛盾するものではなく、この主語と綜合的に結合されていた最初の術語とだけ矛盾するのであって、しかも第一の述語と第二の述語とが同時に定立される場合にのみ、そうした矛盾を生じるのである。」(引用続く)
‘Nun muß der Satz des Widerspruchs, als ein bloß logischer Grundsatz, seine Aussprüche gar nicht auf die Zeitverhältnisse einschränken; daher ist eine solche Formel der Absicht desselben ganz zuwider. Der Mißverstand kommt bloß daher: daß man ein Prädikat eines Dinges zuvörderst von dem Begriff desselben absondert, und nachher sein Gegenteil mit diesem Prädikate verknüpft, welches niemals einen Widerspruch mit dem Subjekte, sondern nur mit dessen Prädikate, welches mit jenem synthetisch verbunden worden, abgibt, und zwar nur denn, wenn das erste und zweite Prädikat zu gleicher Zeit gesetzt werden. Sage ich: Ein Mensch, der ungelehrt ist, ist nicht gelehrt, so muß die Bedingung zugleich dabei stehen; denn der, so zu einer Zeit ungelehrt ist, kann zu einer andern gar wohl gelehrt sein. Sage ich aber: Kein ungelehrter Mensch ist gelehrt, so ist der Satz analytisch, weil das Merkmal (der Ungelahrtheit) nunmehr den Begriff des Subjekts mit ausmacht, und alsdenn erhellet der verneinende Satz unmittelbar aus dem Satze des Widerspruchs, ohne daß die Bedingung zugleich, hinzukommen darf. Dieses ist denn auch die Ursache, weswegen ich oben die Formel desselben so verändert habe, daß die Natur eines analytischen Satzes dadurch deutlich ausgedruckt wird.’
原本で21行程度だから造作ないが、それでも誤記しないよう注意を払う。単純作業のようだが、それが学問の作法なのだ。カ氏のような外道は、学問とは無縁だ。
音楽評論家の故吉田秀和氏が、98歳で死去する晩年まで、手書きの原稿に添える楽譜のコピーを、よく原稿用紙に糊づけしていた。時に楽譜を筆写した。コピーで済むのにわざわざ労を惜しまなかったのは、書き写すこと自体が何ら苦痛ではなく、かえって楽しむ心の余裕(σχολή)があったからだ。
一人前の画家なら、スケッチブックやキャンバスに線を引くことを厭わないのと同じだ。別に卓越した画家でなくとも皆、そうすることに喜びを見出すからこそ画家なのだ、という趣旨のことを、ドガについてのエッセーの中でP. ヴァレリーが指摘している。
テキストを筆写することで、カントと対話しているわけだ。プラトンやアリストテレスはもとより、トゥーキュディデースでもオルテガ・イ=ガセでもケインズ、アドルノでも同じだ。
その余裕が学問を生む。余裕というのは暇のことだ。暇をもて余している割には如何にも余裕がない(ἀσχολία)カ氏の莫迦さ加減こそ、閑暇が学問を生むことを知らない「ならず者」(ὁ μοχθηρός)=外道たる所以だ。[完]
‘Les passions ont une injustice et un propre intérêt qui fait qu’il est dangereux de les suivre, et qu’on s’en doit défier, lors même qu’elles paraissent les plus raisonnables.’(La Rochefoucauld; Maximes 9)
私の学生時代の「朝日ジャーナル」の記事は、ソ連、中国、北朝鮮礼賛一辺倒で、その報道を信じた父や、東京大学をはじめとする学生が左翼になったわけであるが、西独に留学して、旧東欧や東独を見た私は、どこがいいのか、と思った。それに対して、2001年に中国の仏像が見たくて、中国の洛陽、長安に行った私は、旧東欧へ行ったときとは、違った印象を受けたのである。まだ粗削りだけれど、人々に活力があると感じたのである。その後、中国は日本をぬいて、世界二位の経済大国になった。それで現在の日本に活力がなくなり、引きこもりが増えていることを私は心配するのである。
例えば、三浦瑠璃さんの主張、戦争を防ぐためには軍が暴走しないようにシビリアンコントロールすることよりも、実は血のコストを忘れ、時に好戦的になるシビリアン自体をコントロールすることの方が重要である、というような主張を、「陸軍の若手がテロを通じて「国際協調志向」の文民政治家を殺し、軍国主義体制に日本を作り上げた」日本の歴史を知ってできるものなのだろうか。これを、狐のようには知恵が働かず、賢くはない、端的に言えば無思慮で、直情径行型の偏執狂の婆さん、主婦のカロリーネがするのなら、狂人なのだから仕方がない。けれども、国際政治学者の藤原帰一の下で学び、防衛省・自衛隊主催「安全保障に関する懸賞論文」で優秀賞。「シビリアンの戦争 : 文民主導の軍事介入に関する一考察」著して博士(法学)号を取得された人が主張したら、政治家を含めて、日本人は信じるのではないのだろうか?私がこれを問題視するのは、自分が東京大学で勉強ができなかった、あるいは、法学博士という資格をもっていない、主婦であるという肩書しかない、というルサンチマンからではなくて、「過去に目を閉じる者は、現在に盲目になる。」というヴァイツゼッカー氏の主張どおり、平和を構築するためには、「日本の歴史の教訓」を生かすべきだ、と考えるからである。
ウィーン古典派の捉え方も、ワーグナーの捉え方も、学者によって違う。音楽を演奏するときは、著名な多様な理論をよく勉強して、自分の体験を交えて、自分なりの演奏すべきだ、と私のことをintelligent、と評してくれたウィーン音大の教授に教わるが、なかなかうまくいかない、彼は私の演奏には、「音楽性がない」といつもけなすので、持ち上げるタイプの人柄ではない。率直な人である。
ところが、哲学者マルクスを持ち上げた哲学者たちも、ヒトラーを脚色した哲学者ゲッペルスも、あたかも彼ら二人が明るい未来に導いてくれる人のように脚色し、国民が自分で判断することをやめ、ついていったから、世界がおかしくなったのである。
現実の政治は、相手もいれば、時間的制約がある。TPOをふまえて、政治指導者に、タイミングよく、的確に決断していっていただかなければ、国民が困る。マスコミや学者にとっては、米イラン戦争、米中戦争にすぎないとしても、国民一人一人の人生は、それに対する政府の判断によって大変な影響を受ける。第一次世界大戦は、したい国はなかった、なだれ込んだからそう思うのかもしれないが、「自衛権」についての定義は大事である。三浦瑠麗さんをまた、三浦瑠璃さんとまたしてしまいました。お詫びして訂正します。
実に陳腐で下らない「老婆の他愛もない法螺話」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)の体で無駄口(ἀδολεσχία)を叩いている。「他に言うことはないのか」(‘Changez de refrain !’)という類の、まるで「ヤケクソ」=自暴自棄(βιάζεσθαι ἑαυτόν)の狂態(γαστρίμαργος)で見境がない。
とにかく、議論の内容がころころ変わる。さまざまな話題を喰い散らかして大暴れ(μέγας θάρρος)している。仏教でいう「餓鬼」(preta)の所業、6種類ある衆生(sattva)の業(karman)のうち三悪道の中位に位置する「出来損ない」(ὁ πονηρός)の外道の乱暴狼藉で、目にも当てられない。
おまけに論理音痴で、ドイツ語どころか、日本語のまともな読解も覚束ない驢馬並みの「阿呆」(ἠλίηθιος)、つまりソクラテスや田中美知太郎を騙って「無知の知」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’ or ‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’=Apologia, 21D)を振れ回る割には一向に、「善美なるもの」(τὸ ἀγαθός)どころか「肝腎なこと」(τὸ μείζον)を何も知らない(οὐκ οἶδα)愚物が繰り広げる独り相撲(σκιαμχία=a fighting against a shadow)よろしく、「無知」(ἀμαθία)=別名「無明」(avidyā)ゆえの煩悩(kleśa)に居直って自滅(αὑτὸ φθορά)、自壊(αὑτὸ ὄλεθρος)の狂騒曲を続けて倦む様子もない。
自らを見世物にして怯む様子もない「道化者」(βωμολόχος)のようだ。
恥を知ることだ。
107⇒【学問は、ゆっくり、自分のペースで正解にたどりつけばいいが、それは対象が過去だから…ヘーゲルが主張したように、哲学は未来を予言することはできない】も、論点ずらしの唐人の戯言の類で、別に私が、「ヴァツゼッカー宗(狂)」の巫女(προφῆτις)よろしくの「布教活動」に熱心な婆さんに対抗して予言をしている(ἀπομαντεύομαι)わけでもなく、占う(μαντεύομαι)ことが可能だと主張しているわけでもあるまい。
それに、私はカ氏と異なって「ヴァツゼッカー演説」を何か神聖な「経典」(ἡ γρφή)のように崇め奉って(προσκυνέω)、「お告げ」(μαντεία)のように取り次ぐ狂信的な(μανικός)で神がかりの(ἐνθυσιασμός)女祭司(ἱέρεια)でも託宣師(μάντιςまたはχρησμῳδός)でもない。
第三次世界大戦や核戦争を妄想する狂気(μανία)と正気の(σύντροφος)境界(ὅρος)も定かならぬいかれた(μαίνομαι)婆さんのように、狂気の術(ἡ μανικός)である予言(μαντεία)や占い(μαντεία)、予感(μαντεία)、神託(μαντεῖον)の類に何の興味もない。
そもそも、⇒【ヘーゲルが主張したように】が示唆する、ヘーゲルの代表作『法哲学綱要』(‘‘Grundlinien der Philosophie des Rechts, oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse’’, 1821)に出てくる著名な惹句「ミネルヴァの梟は、迫りくる黄昏とともに初めて翔び立つ」の正確な引用(‘die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug’=W. F. Hegel;Werke in zwanzig Bänden, Bd. 7, 1970, S. 27)もできない無知蒙昧の阿呆が、今さらヘーゲル云々でもなかろう。
‘Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau läßt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.’
私の「試訳」では
「哲学がその理論の灰色に灰色を重ねて描く時、生の一つの形姿は既に年老いたものと成り果てているのであって、灰色に灰色ではその生の姿は若返らせることはかなわず、ただ認識されるのみである。ミネルヴァの梟は、迫りくる黄昏とともに初めて翔び立つ。」
以前Wikipediaに頼って、このヘーゲルの該当するドイツ語原文の正確な引用さえ覚束なかった「無学の鑑」のカ氏の惨状は、2018年10月23日・61、同24日・65、同71に詳しいから参照されたい。
なお、カ氏が改竄したテキストは、以下の通り。
つまり、⇒‘ule der Minerva, die erst bei einbrechender Dämmerung ihren Flug beginnt.’で、正確には⇒‘die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.’。
カ氏は無学なりにドイツ語は読めるようだが、西独に2年間留学し、50年近く勉強を重ね、現在進行形でお勉強会をしている割には、冒頭の[die Eule der Minerva]が、⇒【ule der Minerva】なのだから、それに気づかない程度に致命的なボンクラで、救いようがない。カ氏が引用した分は構文を勝手に変えており、コピペしたものなら、相当杜撰で目も当てられない。
ことほど左様に、偏執狂の婆さん相手にこれ以上縷節するまでもないのは、読者も了解されよう。
カ氏は、アウシュヴィッツより、ご贔屓の中国の隠蔽体質で今回も感染拡大が止まらない病厄でも心配したらよい。
それにしても本欄の厄病神の婆さんと言い、世界に厄介事を輸出する中国といい、困ったものだ。οἴμοι.[完]
「コピペ狂い」(κλοπή μανικός)の外道(ὁ μοχθηρός)であり、ごまかし(τερθρύεῖσθαι)にごまかし、嘘(ψεῦδος)に嘘を重ねて愧じない生来の「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)のうえに、どこまでも自己愛(φιλαυτος)に淫する「虚飾に満ちた人格」(ἀλαζονικός ἦθος)で、虚栄心(ἡ μεγαλαυχία)の塊のような御仁だから、似而非反論を弄して、頼まれてもいないのに自ら墓穴を掘る莫迦丸出しの偏執狂ぶりだ。
しかも、驢馬並みの脳みその頓馬だから、説明も間が抜けていて、⇒【EuleのEをコピペし忘れたことを、大事件に…その神経が…まるでわからない】のような冗語を並べる。
誤りは「梟」(die Eule)の綴りだけではなかろう。私は111で、カ氏がWikipediaからコピペした文章そのものが、ヘーゲルの原テキストと「異なる」(διαφέρειν)改竄と指摘している。
つまり、脱落箇所を補正して‘Eule der Minerva, die erst bei einbrechender Dämmerung ihren Flug beginnt.’としたところで、正確な原テキスト⇒‘die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.’とは異なり、改竄の事実は変わらない、ということだ。
定冠詞[die]の有無のような些細な問題ではない。構文が違っている。それに伴って、[mit der einbrechenden]⇒[bei einbrechender]となり、文章全体の中での位置関係が変わってきている。
カ氏の引用は異文(variant)ではない。改竄され他者の翻案文で、ヘーゲルとは何の関係もない。
112②⇒【ヘーゲルがミネルヴァの梟…どういう思想を表現したかった】など、百年早い。
Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau lässt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.“
を見つけた。そしてその説明は、こうなっていた。 Wie Eulen, die erst in der Abenddämmerung umherzufliegen beginnen, sei die Philosophie, die erst Erklärungen liefern könne, wenn die zu erklärenden Phänomene bereits Geschichte seien. Philosophen könnten immer nur Vergangenes deuten. Die Philosophie setze mithin Wirklichkeitserfahrung voraus und könne nicht aus sich selbst heraus utopische Phantasien entwickeln; es gehe ihr immer um die Erkenntnis dessen, was ist.
訳 夕方になって初めて飛び始める梟のように、哲学は説明すべき現象が歴史になって初めて、説明を提供できる。哲学は、いつも過去だけを解釈できる。哲学は現実の経験を前提とし、それ自体からユートピア的な空想を発展させられない、それはいつも存在するものの認識である。
ニュアンスの違いはあるが、大まかにとらえれば、私が書いたように、ヘーゲルの思想は、哲学は現実を前提とする学問なので、説明すべき現象が歴史になって初めて、説明を提供できる、ユートピア的な幻想、マルクスの哲学やヒトラーの演説は、哲学ではない、というものなのである。文章全体の位置関係が変わってくる、などという理屈はささいな問題で、我々のドイツ語の勉強会は、ドイツ語で行われるので、ドイツ人の教授が、常にわかりやすくドイツ語で説明してくださる。要するに、中身が大切なのであって、ミネルヴァの梟・・は、哲学は、ユートピア的な幻想ではない、ということが、この表現の核心部分なのである。
病膏肓と言えば中国で、湖北省・武漢を発生源とする新型コロナウイルスによる肺炎患者が急増している。死者が100人を超え、さらに増え続ける勢いだ。飛躍的な感染拡大で、中国の隠蔽体質が世界的な脅威をもたらし、世界中に感染者をばら撒いている。
17年前に700人を超す死者を出したSARS(重症急性呼吸器症候群)ウイルスに伴う肺炎発生の際は当初、中国当局が事案の発生を隠蔽したために感染を広げ、被害を拡大させた経緯がある。何せ、2011年7月の新幹線事故のように、不都合があると事故車輛を即座に埋めて隠蔽するような国柄だ。
カ氏の見え透いたごまかしと嘘は、中国贔屓も影響しているのかもしれない。厄病神という点でまさに同類で、本欄読者への感染力は皆無だが、自分の憐むべき驢馬並みのお頭には毒(φάρμακον)が回っているようだ。
解毒剤(ἀλεξιφάρμακον)はない。正気にさせる(σωφροσνιζω)ためには、過去のおびただしいごまかしと嘘を告白し、悔い改める(μετανοέω)必要があるが、カ氏にそれは望むべくもない。気の毒(τάλας)という天の配剤もあるが、「虚偽体質」のカ氏には耐えがたい屈辱で、死ぬ以上の苦しみだろう。
それにしても、間違うことが自らの個性(ἰδιώτης)と嘯いてのさばっているが、間違う、過ちを犯しても一向に意に介しないというその独自の(ἴδιος)、際立った個体性(ἕκαστος)というのか、カ氏の人格(ἦθος)の一部なのだろう。
‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’ (Pascal, B, “Pensées”, Frag. 358)
114⇒【批判にこたえ…ドイツ語のWikipediaに…ヘーゲルの…説明】云々というが、引用部分をみると、⇒【Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, …die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.】とあって、私が111で引用したSuhrkamp版『ヘーゲル全集』第7巻28頁11~12行目と何ら変わらない。
従来のカ氏の話と全く違う。カ氏が一貫してヘーゲルの文章だと言い張っていた、⇒【Eule der Minerva, die erst bei einbrechender Dämmerung ihren Flug beginnt.】など、影も形もない。
カ氏が途方もない大嘘つきなのが分かる。読者がドイツ語を読めないと高を括っているのだとしたら思い上がりで、これほど莫迦げた真似もない。大方の読者はカ氏よりずっと賢明で、詐術は先刻お見通しだからだ。
残りは、例によって悪癖のコピペでに素人か二流三流学者だか、誰とも知れないものの、愚鈍なカ氏がありがたがる人物の愚劣なヘーゲル論だ。
大意を訳したというカ氏の愚劣な文章が滑稽だ。哲学に限らず、生成過程を終えて歴史という過去のものとなった現象の説明など、特別の解釈や説明を要しまい。実に下らない素人解釈でヘーゲルとは何の関係もない。
ヘーゲルは、⇒【哲学は、いつも過去だけを解釈できる】などとは言っていない。「哲学がその理論の灰色に灰色を重ねて描く時、生の一つの形姿は既に年老いたものと成り果てている」(Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden)というのは、そうした意味ではない。それは、ヘーゲル自身ではなく、ヘーゲルが批判の対象とした過去の哲学理論への批判だ。
⇒【哲学は、いつも過去だけを解釈】というのはヘーゲルではなく、マルクスの見解だろう。
愚劣なのは、⇒【哲学は現実の経験を前提とし、それ自体からユートピア的な空想を発展させられない、それはいつも存在するものの認識】云々で、素朴な実在論者らしいWikipedia筆者の独自見解にすぎまい。
「哲学が現実的経験に先立って(Wirklichkeitserfahrung voraus)それ自体でユートピア的な空想(utopische Phantasien)展開させられない」というのはヘーゲルに限った思想ではなかろう。それでは。悪しき現実追従思考と何ら変わらない。
むしろ、汎論理主義者(Panlogist)のヘーゲルが現実の中にみているのは、すべての存在(Sein)を貫いている理性(Vernunft)、即ち理念(Idee)だ。その観点から現実をみると、一切の現実は理念の表現(Ausdruck)であり、すべての存在は実現された思想(Gedanken)であって、すべての生成過程は理性=思惟(Denken)の発展(Entwicklung)とする極端な主知主義者(Rationalist)に行き着く。
「ミネルヴァの梟」に先立って、‘Was vernünftig ist, das ist wirklich; und was wirklich ist, das ist vernünftig.’(ibid., S. 24. 33~34=「理性的なものこそ現実的であり、現実的なものこそ理性的である」)とした所以だ。
ヘーゲルはあらゆる現実に理念の顕現をみている。ヘーゲル哲学は現実的経験の説明ではなく、現実自体のもつ理性的構造の解明だからだ。
要するに、カ氏の素人解釈には「何の中身もない」ということだ。
「百年早い」と言ったではないか。οἴμοι.[完]
その道理が憲政史家・倉山満氏にも、この訴訟を起こした弁護士たちにもわかっていない。どうして日本の学校では、第一次世界大戦から、国際連盟樹立、満州事変、日本の国際連盟脱退、日本の軍国主義全盛の歴史を教えないのだろう。知らないから、騙されるのである。私は、第一次世界大戦がはじまり、終結し、ヴェルサイユ条約ができ、ナチスが台頭する歴史を、der Spiegelの記事を教材にして、ヴェルサイユ条約締結の日が誕生日であるドイツ人の元教授から教わった。私がドイツのその時期についてきちんと知りたかったから、その記事を選んだ、という側面も大きいが、日本人のその時期の歴史認識がいい加減だから、おかしな世論が作られるのではなのだろうか。
ヴァイツゼッカー氏はあの演説で、こう述べられている。
Gerade deshalb müssen wir verstehen, daß es Versöhnung ohne Erinnerung gar nicht geben kann. Die Erfahrung millionenfachen Todes ist ein Teil des Innern jedes Juden in der Welt, nicht nur deshalb, weil Menschen ein solches Grauen nicht vergessen können. Sondern die Erinnerung gehört zum jüdischen Glauben.
"Das Vergessenwollen verlängert das Exil,
und das Geheimnis der Erlösung heißt Erinnerung."
Diese oft zitierte jüdische Weisheit will wohl besagen, daß der Glaube an Gott ein Glaube an sein Wirken in der Geschichte ist.
それゆえ、心に刻まない和解は決してないことを我々は理解しなければなりません。数百万人の死者の体験は、世界のユダヤ民族一人一人の内面の部分です、それは、人類がこのような残酷なことを忘れることができないという理由だけではなくて、心に刻むということが、ユダヤ民族の信仰、「忘却は追放を長引かせる、そして、救済の秘密は心に刻むことである。」という信仰に属しているからである。このよく引用される賢明な教えは、「神への信仰は、歴史におけるの神の作用への信仰」を意味しているのです。
反氏は私が、神がかってお託宣をありがたがっている老女であるかのようなイメージを植え付けようとされているが、現実はそうではない。私がもっているのは、フロムが「愛するということ」で述べている「理にかなった信念」である。私自身の観察と思考の結果である。権威に対する盲従ではない。会社をやめて、時間ができた時、ゲーテの「エッカーマンとの対話」や「愛すること」を読んで、本当に、そのとおりだな、と納得して、迷いが晴れた。その延長線上で、70年近く生きてきて、いろいろ勉強して、経験して、ゲーテやヴァイツゼッカー氏や芦田均さんの見解が、ほんものだ、と思うのである。やはり、人間は誰の見解がほんものか、ということがわからなければ、プロパガンダに容易に騙され、民主政治が衆愚政治になったり、あげくに、独裁制となってしまうのではないのだろうか。
Wir Älteren schulden der Jugend nicht die Erfüllung von Träumen, sondern Aufrichtigkeit. Wir müssen den Jüngeren helfen zu verstehen, warum es lebenswichtig ist, die Erinnerung wachzuhalten. Wir wollen ihnen helfen, sich auf die geschichtliche Wahrheit nüchtern und ohne Einseitigkeit einzulassen, ohne Flucht in utopische Heilslehren, aber auch ohne moralische Überheblichkeit.
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負ってはおりません。我々の義務は率直さであります。心に刻み続けるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人々が理解できるようにてだすけしなければならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人々に助力したい、と考えるのであります。
演説の中で、ユートピア的な救済論、と表現されているのは、ヒトラーの「国家社会主義的」演説や「共産主義」の理論であろうと思うし、道徳的に傲慢不遜な態度、というのは、現在の日本の政治でいえば、国会審議での野党の態度、「さくらを見る会」や「もりかけ」ばかり追求する姿勢だと思い、自分たちは、自分たちの支援者に忖度していないのか、と腹がたってくる。それは、戦前も、野党が政権を取るために、政権党の不祥事ばかりを追求し、マスコミが報道し、結果的に、文民政治家、政党政治家が国民の支持をなくし、軍国主義になった経緯を勉強した結果知ったからである。
それにしても、連日に及ぶ夜明け前の咆哮(μύκημα)だ。投稿119(05:28)~126(08:12)が如実に物語る。いい加減に正気に(συνήθως)戻らないかと思うが、怒りの焔(θυμός φλόγες)が燃え盛っている(φλογμός)のだろう。あまりに間抜けで数々の失態を仕出かす不始末や、一向に共感の度合いを示す♡マークが点灯しないのに八つ当たりしても仕方がない。
自分が途方もない出来損ない(ὀ ἥμιγενής)であることを全く理解しない(οὐδαμῶς ἐννοέω)体の憐むべき人格だから、笑止極まるヘーゲル解釈に汲々としているが、学問的議論(ἀκριβολογεῖσθαι)以前の問題だ。少しは歳相応の節度を、と思うほどの大暴れで、もはや国会論議や憲法改正など、国家公共の事柄(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)について、要領を得ない無駄話をしている場合ではなかろう。
「独りよがり」(σκιαμχία)愚にもつかない狂気じみた長広舌(πακρολογία)を眺めていると、「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」(M. Warnock)ということでしかなく、意のままに(ἐπ’ αὐτῷ, ἐφ’ ἡμῖν)にならないと茶番に等しい悲憤慷慨(ὀργή κὰι θυμός)に憂きを身をやつす年寄りじみた(πρεσβυτικοί)気短しさ以外に何もうかがえない。
猛り狂う糾弾(ἐπιτίμησις)に、知性(νοῦς)の欠片もない。
114⇒【ニュアンスの違いはあるが、大まかにとらえれば、私が書いたように、ヘーゲルの思想は、哲学は現実を前提とする学問…説明すべき現象が歴史になって初めて、説明を提供できる】云々など、「哲学音痴」どころか、単なる頭の悪い独善家の法螺話で、箸にも棒にもかからないお粗末さだ。
およそ、数学など特殊な領域を除いて、現実を対象、というか現実の構造を解明するために格闘することがないような学問など存在しない。カ氏の議論は凡庸で陳腐、愚鈍かつ退屈な素人論議を勝手に哲学にもち込んで憂さを晴らしているだけの独り相撲にすぎまい。
ヘーゲルは問題の箇所で、114②⇒【ユートピア的な幻想、マルクスの哲学やヒトラーの演説は、哲学ではない】云々を何ら示唆していない。それは、ドイツ版Wikipediaの「クズ」記事を手掛かりに、カ氏が勝手にヘーゲルの文章にもち込んだ(hineinlegen)ものだろう。
テキスト本来の意味を、具体的な裏付け(διὰ τι)に基づいて議論せずに、恣意的に好都合の解釈を取り出す(herauslegen)という形で、自由気ままに利用しているにすぎない。拡大解釈(zur viel verstehen)の最たるものだ。
114③⇒【文章全体の位置関係が変わってくる、などという理屈はささいな問題…我々のドイツ語の勉強会は、ドイツ語で行われる】とは大きく出たものだが、頓馬連中が何人集まって無い知恵を絞ったこところで、原テキストの正確な引用もできない人間が、素人感覚で哲学用語を弄んでいるだけだろう。
原文のどこにそのことを裏付ける(συμβιβάζειν)証拠(τεκμήριον)があるか?(‘Avez-vous un texte?’)と問わざるを得ない。
私との応酬で苦し紛れに(ἀπορέω)「ミネルヴァの梟」をネット上で検索し、一見して気の利いた議論をした気になってお茶を濁す(τεχνάζω)つもりだったのだろう。その時の遣り取りから推して、カ氏は「ミネルヴァの梟」の「梟」(γλαῦξ)が何を意味するのかも知らなかったはずだ。
「ミネルヴァ」(Minerva)はローマ神話の技術、職人の女神で元々はエトルリア系だが、ギリシア神話の処女神(パラス)アテーナー(Παλλὰς Ἀθηνᾶ)、つまり都市国家アテーナイ(Ἀθῆναι)の守護神と同一視される(または[Ἀθήνη]。元の形は[Ἀθηνά]、イオニア方言で[Ἀθήνη]に変化)という点が問題だ。
「ミネルヴァの梟」が知性の擬人化とされ、哲学や知性の象徴とされるのは、女神が守護するアテーナイが、古代世界を通じて哲学研究の中心地=哲学の都であったことに由来する。なお、[Ἀθηνᾶ]は[Ἀθηναία](ホメーロスの[Ἀθηναίη〔=アテーナイの女〕]に由来する、アッティカのアテーナイ方言形)。
その社が世界文化遺産のアテーナイのアクロポリスの丘にあるパルテノーン神殿で神殿、パルテノン(Παρθενών)とは、「処女神宮」を意味する。
ゼウスの頭部から、甲冑を纏い槍と楯を携えた武装した状態で生まれ、頭部に戴く兜の中心にスフィンクスをあしらう(雲間から煌めく雷電光=ゼウスの娘の表象)女神は、「眼光輝く」(γλαυκῶπις)というホメーロスの叙事詩でもおなじみの形飾詞(ἐπίθετον)をもち、「眼光輝くアテーネー」「燦めく眼のアテーネー」(‘γλαυκῶπις Ἀθήνη’)と称する。[γλαυκῶπις]は元来、「梟の眼をした」という意味で、アテーナーは鳥=梟に姿を変えて移動することから梟と一体化している。
「梟は夜行性…黄昏に飛び立つ」。ホメーロスを読んだことのない「無学」のカ氏に妄説など、問題にもならない。
114④⇒【要するに、中身が大切…ミネルヴァの梟…は、哲学は、ユートピア的な幻想ではない…が、この表現の核心部分】などと言ったところで、唐人の戯言の法螺話にすぎない。
カ氏は盛んに、「分かりやすく」ということを強調する。しかし、カ氏の解釈はヘーゲルをカ氏の凡庸なお頭並みの水準に引き下げる小中学生レベルの陳腐な議論にすり変え、おまけにWikipediaの筆者の尻馬に乗って左翼批判を繰り返すのみで、ヘーゲル哲学の核心にかすりもしない。
平易な(εὐμαθής)ということは、杜撰に(σομφῶς)、粗雑に(οὐκ ἀκρβῶς, ἐπισύρειν)、いい加減に(οὐκ βέβαιῶς)、大まかに(ἀφετος, ἀνειμένος)、ルーズに(ἀνέδην, οὐδένι, κόσμῳ, χύδην=‘in a slovenly way’)、その場しのぎの(εἰκῆ)、粗雑な(οὐκ ἀκριβής)解釈をすることではなかろう。
哲学は「頭の悪い」、暇をもて余した怠惰な虚飾家のミーハー婆さんの玩具ではないのだ。Wikipedia程度を頼りに、あれこれと素人の糞度胸(τόλμα)で、哲学用語を盲目的に機械的に当てはめて「盲訳」する以外にできない人間が、ヘーゲル解釈でもあるまい。
カ氏が114で展開したのは、Wikipediaというおもちゃを弄ぶ老婆の一人遊びだ。誤訳も含め、救いようがない([Philosophen]は哲学ではなく、哲学者)。しかも、そこには、カ氏がコピペの際にへまをした痕跡が残っている。
頓馬につける薬はない。
119⇒【どうして、共同通信しか報道しない】というが、共同は新聞社に記事を配信しており、扱いに軽重はあろうが地方紙に掲載される。メディア批判をする割には、メディアの仕組みについて何も知らない。残りは「芦田均熱」のクズ
120は「クズ」以下で、121~122はお決まりに「布教活動」と愚劣な身の上話と性懲りもない「繰り言」、123は「狂言」の言い訳、124も弱論強弁の法螺話。125~126も下らない信条告白と「狂気の沙汰」の決意表明。
皆に無視されて、お呼びではないのだが。οἴμοι.
最後にカントの『純粋理性批判』の「原則の分析論」からを引く。
‘Der Mangel an Urteilskraft ist eigentlich das, was man Dummheit nennt, und einem solchen Gebrechen ist gar nicht abzuhelfen. Ein stumpfer oder eingeschränkter Kopf, dem es an nichts, als an gehörigem Grade des Verstandes und eigenen Begriffen desselben mangelt, ist durch Erlernung sehr wohl, so gar bis zur Gelehrsamkeit, auszurüsten. Da es aber gemeiniglich alsdenn auch an jenem (der secunda Petri) zu fehlen pflegt, so ist es nichts Ungewöhnliches, sehr gelehrte Männer anzutreffen, die, im Gebrauche ihrer Wissenschaft, jenen nie zu bessernden Mangel häufig blicken lassen.’(I. Kant, “Kritik der reinen Vernunf”; Werke in Gemeinschaft, Bd. III, S. 139=Benno Cassirer, 1913, Berlin.)
「判断力の欠如は、本来は愚鈍と呼ばれているもので、この欠陥は全く救いようがない。鈍いか知力が乏しい人物は、適度の悟性と悟性に固有な概念とを欠いているだけで、学習によって彼を充分立派に、それどころか博識にすることさえ可能だ。しかしそうした場合も、一般的に判断力(ペトルスの第二部)も欠いているのが通常だから、博識な学者にも、自分の学問を使用する際には、到底改善の余地のない判断力の欠如をしばしば窺わせる人物を見出すのは、少しも珍しくない。」(岩波文庫版、上巻212頁)[完]
ゲーテなど高が文士ではないか。ゲーテが古典主義的節度と柔軟な現実主義的精神で、それまでのドイツには欠けていた近代の人間中心主義的世界観を盛った作品を通じて、普遍的な人間形成の可能性を追求する世界文学志向が強かったのは、それだけ英仏伊と異なり、まともなルネサンスを経験せず、碌な人文主義者を出さなかったことで欧州文明の周縁であり続けた祖国の現状へのアンティテーゼとしての意義は認めるべきだとしても、それ以上のものではない。
癲癇もちの偏執狂とルターを嫌悪するトーマス・マンが、その対比で如何にゲーテを敬愛しようと、ロマン派に比して極端に自らを誇示するゲーテの小児病気質は感心しないし、「田舎国家」=ドイツ的な特殊事情でしかない。
しかも、そうした文明論的問題設定を何ら認識せず、音楽のみに偏した憐むべき知的貧困から、音楽における「古典派とロマン派」の議論しかできないカ氏の比類のない無学に愕然とする。
Wikipediaの恣意的な俗論によるしかヘーゲル解釈もままならない無学のクズが、「古典派は現実、ロマン派は仮想現実」のような硬直的で紋切り型の、畢竟現実感覚を喪失した大風呂敷の物語思考に堕するしかないのは、まともな教養の欠片もないからだ。
欧州で教養人の指標はギリシア・ローマ由来の古典文化だ。ゲーテにもその志向が強烈だ。対するカ氏は、ドイツ的な偏狭な音楽文化的思考の枠組みから一歩も出られない無知蒙昧の外道でしかない。両派の対立は、カ氏が考えるほど単純ではなかろう。
ゲーテとマルクス、ヒトラーは何の接点もない。論点の飛躍が過ぎる。ゲーテの現実主義には、ヘーゲルのような理論的な洞察も先進性もない。所詮は文士でしかない。
「所與の表象の多樣を統覺の統一の下に齎らしこれを先天的に結合することを、『純粹理性批判』の著者が人間的全認識に於ける最高の原則であると考へたとき、彼は先天的直観觀の多樣の綜合的統一の統覺の自同性卽ち自己同一Identitätの基礎として指摘した。統覺の自己同一卽ち自覺の自同性はそれ故直觀の多樣の綜合的統一に基づいて成立し、『この綜合の意識に依てのみ可能』なのである(Kr. d. r. V. § 16)。」(木村素衞『獨逸觀念論の研究』、1940年、3頁)
カントの議論は次のようなものだ。木村が註記するのは、「超越論的分析論」第一篇「概念の分析論」の§ 16=「統覚の根源的・綜合的統一について」だが、§ 18=「自己意識の客観的統一とは何か」にこうある。
‘Die transzendentale Einheit der Apperzeption ist diejenige, durch welche alles in einer Anschauung gegebene Mannigfaltige in einen Begriff vom Objekt vereinigt wird. Sie heißt darum objektiv, und muß von der subjektiven Einheit des Bewußtseins unterschieden werden, die eine Bestimmung des inneren Sinnes ist, dadurch jenes Mannigfaltige der Anschauung zu einer solchen Verbindung empirisch gegeben wird.’ (I. Kant, “Kritik der reinen Vernunf”: § 18 ‘Was objektiv Einheit des Seibstbewußtseins sei’; Werke in Gemeinschaft, Bd. III, S. 119=Benno Cassirer, 1913, Berlin.)
「統覚の超越論的統一は、直観において与えられたすべての多様なものがそれによって客観についての一つの概念において合一される(客観即ち対象=筆者註)ところのものである。それゆえに、それは客観的統一と呼ばれ、意識の主観的統一から区別されなければならない。この意識の主観的統一は内的感官の規定であって、この内的直観を通じて経験的に与えられた多様なものを、そうした綜合のために提供するのである。」
‘Nämlich diese durchgängige Identität der Apperzeption, eines in der Anschauung gegebenen Mannigfaltigen, enthält eine Synthesis der Vorstellungen, und ist nur durch das Bewußtsein dieser Synthesis möglich. Denn das empirische Bewußtsein, welches verschiedene Vorstellungen begleitet, ist an sich zerstreut und ohne Beziehung auf die Identität des Subjekts. Diese Beziehung geschieht also dadurch noch nicht, daß ich jede Vorstellung mit Bewußtsein begleite, sondern daß ich eine zu der andern hinzusetze und mir der Synthesis derselben bewußt bin. Also nur dadurch, daß ich ein Mannigfaltiges gegebener Vorstellungen in einem Bewußtsein verbinden kann, ist es möglich, daß ich mir die Identität des Bewußtseins in diesen Vorstellungen selbst vorstelle, d. i. die analytische Einheit der Apperzeption ist nur unter der Voraussetzung irgend einer synthetischen möglich.’(ibid. S. 115)
「例えば、直観において与えられた多様なものの統覚のこうした完全な同一性は、諸表象の綜合を含み、綜合の意識を通じてのみ可能である。なぜなら、さまざまの表象に伴う経験的意識は、それ自体ではとりとめもないもので互いに主観の同一性との連関をもっていないからである。それゆえこの関係は、私がそれぞれの表象を意識するというだけでは未だ生じず、それは私が一つの表象を他の表象に付け加えて、それらの諸表象の綜合を意識することによってのみ、初めて生じる。それゆえ、私が直観において与えられた多様な表象を一つの意識において結合することによってのみ、これらの諸表象における意識の同一性を私が自ら表象することが可能となるのである。換言すれば、統覚の分析的統一は何らかの綜合的統一を前提にしてのみ可能となる。」
「カントの文章をよめば、ランプにあかるく照らされた部屋へはいった時のように、頭のなかが鮮明になるとゲーテは言っているが…」(大山定一)というが、それが厳密で明晰な認識を事とする哲学の役割だし、効用だ。
カ氏には永遠に(ἀίδιότος)分かるまい。[完]
私の主張は、「ミネルヴァの梟」の解釈は、ドイツ語の勉強会のまとめと同じ手順、ドイツ人の教授の説明をドイツ版ウィキペデイアにかえてはいるが、を踏んでしたもので、結論として、「私の解釈」であっているのではないか、ということである。反氏のようにそれを否定すると、通訳者や翻訳者の役割を否定することになる。また、私自身、頼まれて翻訳や通訳をして、学ぶことも多い。
さすがはドイツ仕込みの「ごまかし」論法で、以前にパルテノーンを「パンテオン」(Pantheon)という、118~125年に建てられたローマの神殿と混同し、「(「パンテオン」が」)イスラム教の寺院」になったとか称して(2019年11月6日の31④⇒【ギリシャ神殿が、キリスト教の聖堂になり、今はイスラム教の寺院となっているパンテオン神殿】)、それを指摘されるとさらにごまかしを重ねて迷走していたパラノイア気質の偏執狂=「K印の阿呆」(Κ σημεῖον ἠλίηθιος)で、お頭が毒素で冒され、目下新型コロナウイルスによる肺炎禍の中国並みに病膏肓のカ氏の言うことは違う。あまりに「でたらめ」が過ぎて、隔離したらよさそうだ。
当時(2019年11月7日)も、【一皮剥くごとに「でたらめ」(τερθρύεῖσθαι)が明らかになる。「タマネギ男」と揶揄され、先ごろ法相辞任に追い込まれた隣国の政治家と似ている(文在寅大統領の側近で在宅起訴された曺国氏=筆者註)】として、カ氏にも「タマネギ婆さん」(κρόμμυον γραῦς)の称号を進呈したが(命名は同年10月16日)、愚にもつかない抗弁(ἐπιχείρησμα)は今回も何ら変わっておらず、言い訳を重ねれば重ねるほど墓穴を掘る。
初期段階の隠蔽対応で感染拡大させて、既に17年前のSARS禍以上の感染者を出し、人口1,000万人超の巨大都市を機能不全状態に追い込み、せっかくの春節休暇を台無しにした中国同様の醜悪さだ。
カ氏のお頭を冒している毒(φάρμακον)も、新型ウイルス並みに相当強烈のようで、解毒剤(ἀλεξιφάρμακον)がないのが気の毒(τάλας)だが、「気の毒」というくらいだから気(ἀήρ)のもちようで、正気にさせる(σωφροσνιζω)ためには、過去のおびただしいごまかしと嘘を悔い改める(μετανοέω)ことだと指摘したばかりだが、「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)のカ氏には「無駄な忠告」(ἄχρηστον συμβουλή)だったようだ。
パルテノーン神殿に話を戻せば、ペルシア戦争で破壊された(紀元前480年)旧社を紀元前438年に再建して、約850年間はパラス・アテーナーを祀る神殿だった。ゼウスの娘であるアテーナーもその一人であるオリュンポスの神々を祀る神殿が、その後キリスト教やイスラム教という別種の宗教に仕え、何度も戦禍に見舞われ、掠奪に遭い、破壊されるという数奇な運命に翻弄される。
5世紀の初めに本尊のアテーナーが神殿があるアクロポリスの丘を追われて、当時の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに運ばれたのがケチのつき始めだろう。間もなくパルテノーンは聖母マリアに捧げられ、ギリシア正教、つまりビザンティン様式のキリスト教会になる。
それに伴って、神殿の構造は大きく改変され東正面の扉口は封鎖され、プロナオスと呼ばれる前室の部分の半円形の後陣が設けられる。内陣の天井は取り払われ採光のために破風の大理石の中央彫刻群が消失する。
1204年の第4次十字軍遠征では、本来の目的を逸脱して遠征軍がコンスタンティノープルを攻略した際にパルテノーンも掠奪に遭い、今度はビザンティン様式から、ローマ・カトリックの教会に改造される。それ以降、付近一帯を支配する西欧領主たちの居城となり、周囲に銃眼つきの堅固な城壁を構え、入り口のプロピュライアには高い物見櫓の塔が建てられた。西側には鐘楼も設置された。
1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル陥落後は、アテーナイもその支配下に入ったから、アクロポリスの丘にはトルコの総督が住み込み、パルテノーンはイスラム教のモスクに改装され、西側には鐘楼に代わってミナレット(高尖塔)が立ち、入り口の神殿エレクテイオンはハーレムに変わる。
1687年には、東地中海貿易で繁栄を極め、一帯の制海権を維持していたヴェネチア軍がギリシア本土に上陸して、トルコ総督の立て籠もるアクロポリスを包囲、籠城軍の要人や軍需物資を移動させ火薬庫ともなっていたパルテノーンを、包囲軍が臼砲で攻撃、木製のパルテノーンの屋根を突き破って火薬に引火、パルテノーンは大爆発して、「火焔は柱となって天に達した」と言い伝えられる大音響とともに次々に誘爆して、神殿の屋根は完全に吹き飛ぶ。
上部をフリーズ彫刻に覆われた内室の壁は一部を残して崩壊、南北14本の柱を含む28本の柱がばらばらに飛び散った(列柱は全部で46本ある)。1687年9月26日夕刻のことだ。
壊滅的な打撃だが、神殿に最も深刻な影響を与えたのは、実際は267年のゲルマン民族のヘリル族が侵攻した際の火災だという(修復主任のM. Korrés)。厄病神はドイツ人の先祖らしい。
古代アテーナイの繁栄の象徴、アクロポリスと聖域は、狭い路地にみすぼらしい家が立ち並ぶ高台のトルコ人居住地区に様変わりした。そこから、私財を投じて人類の至宝とされる大理石彫刻群を運び出し、破壊から救ったのが今日、大英博物館の至宝となった一連の神像彫刻群、エルギン・マーブル(Elgin Marble)に名を残す、トルコ大使だった英国外交官の第7代エルギン卿、T. ブルース(Thomas Bruce, 1766~1826)だ。
エルギン卿が救ったのは全長160メートルのフリーズ彫刻のうちの75メートルに相当する。白眉の破風彫刻の17体は最も著名で、保存状態のいい南側メトープ彫刻も、あらゆる困難を排して英国に運んだ卿の英断がなかったら、今日に伝えられていたかどうか怪しい。
1821年にギリシアの独立戦争が勃発し、一時はアクリポリスがトルコ軍に占領されたが1833年3月、トルコ軍がアテーナイから撤退し、ギリシアが三世紀半に及ぶトルコの支配から解放され、独立する。
モスクを撤去して、大規模な発掘調査を経て、1900年に着手したパルテノーン神殿復元が一段落するのは1929年で、翌1930年5月12日のギリシア解放100周年を期して落成式が行われる。今日の姿に戻ってから、まだ百年も経っていない。
140⇒【1770年に生まれ、1931年に亡くなっている】ヘーゲルは、161歳らしい。
141⇒【現実を直視し、歴史に目を閉ざさず、過去の失敗に学び、真実をよく認識する】のは、莫迦丸出しの自分から始めたらよい。
莫迦が移りそうだ。οἴμοι.[完]
核爆弾で、文化財にも被爆地に住んでいる民衆にもひどいことが起こるから、「桜を見る会」より大事だと私は思うのであるが、南北問題も、Brexitを含む現在の欧州問題である。日本の過疎の問題も含むかもしれない。ヨーロッパでは国境を越えて、人の移動ができるようになったから、技術水準の低い東欧の企業は倒産し、人々は技術先進国に移動する。国によって格差が増大するし、二級国民、という不満、被害者意識が生まれる。もともとのNATOの加盟国、ギリシャもトルコもそうなのではないのだろうか。
本来、そういう現実をみることから、問題設定を始めなければならないのではないのだろうか。
如何にも直情径行型の矯激な性格だから、滑稽になる。146⇒【どうして、他人の揚げ足取りばかり…もっと建設的な論議】と泣き言を並べているが、間違う方が悪いのだろう。指摘に感謝してもらいたいくらいだ。
「頭の悪い」盗人(κλέπτης)の嘘つき(ὁ ψεύστης)と、「建設的な論議」など、成立するはずもない。しかも、言うことがその場しのぎ(εἰκῆ)でコロコロ変わり首尾一貫性がないうえに、論理的思考能力は「白痴」(ἠλίηθιος)に等しい頓馬だから、相手にするだけ無駄だ。
間違うのは個性(ἰδιώτης)だと意気がるくらいだから無視すればよいものを、途方もない阿呆の証(τεκμήριον)である「K印」の偏執狂という病気で、歳の割には人間としての修養が全くできておらず、自己愛が著しい「餓鬼」並みの精神の幼児だから、堪え性がない。生まれつきの驕慢な資質の為せる業なのだろう。
ゲーテがどうのこうのとか、ヴァイツゼッカー元独連邦大統領の兄が云々と、お定まりのミーハーの信仰告白に現を抜かしているが、文豪だろうとなんだろうと、高が文士ではないか。ナポレオンがわざわざ訪ねて来たのは流行作家だったからで、宰相(⇒140)といったところで、実質はヴァイマール公国という田舎宮廷の文化大臣程度の位置づけだ。
それにしても、そのご都合主義の議論は愚劣極まる。最近は何やらアウシュヴィッツがどうのこうのと、見え透いたドイツ擁護の猿芝居を繰り返している。
最近も、やれ第三次世界大戦だとか核戦争だとか、北朝鮮から核ミサイルが今にも飛んできそうな狂気じみた妄想を膨らまして大騒ぎしているが、話を突き詰めていくと、結局は阪神淡路大震災で倒壊した実家の話とか、当事者にとっては気の毒な出来事には違いないが実に他愛もない身の上話が専らだ。自らや身内、知己など卑近な人の経験や話題でないと考えが及ばず、想像力も働かない。
気ままな個人レベルの感想に終始して、「知覧」発言がそのきっかけだったように、結局はドイツ(人)による、国家挙げての計画的な史上未曽有の、戦争犯罪を超えた罪業を相対化してすり替えることしか眼中にない。すべてをナチスやヒトラーの罪に帰して最終的には逃げ回っておいて、141⇒【「アウシュビッツ」を心に刻み】もあったものではない。
所謂「集団的な罪」(Kollectivschuld)の否定もそうだが、「人間の業、因縁をよく考え」のように神妙になっても、力点は結局、108⇒【事件を民族に帰着させるべきではない…個人の責任】のような言い訳しか出てこない。
アウシュヴィッツでガス室で殺したユダヤ人をせっせと焼却して最終解決に従事した人物たちは、別に凶悪な犯罪者ではなく、普通のドイツ人だ。法に基づき業務として従事した。誰もプロパガンダで洗脳され、どうかしていたのでもない。狂信的な反ユダヤ主義者でもない。
ホロコーストは、ヒトラーの一貫したユダヤ人の絶滅意志だけからは説得力をもって説明しきれない。普通のドイツ人が人類史上最も極悪非道な犯罪に熱心に関与していくメカニズムは他に比類がなく、ドイツ人自身が永遠に背負い続けるべき罪過だ。
139⇒【パルテノン神殿は、古代ギリシャ文化の神殿…キリスト教文化の神殿…イスラム文化の神殿】と一知半解で、ドイツ人も元教授とやらから仕入れたという愚にもつかない知識=俗説を得意げに披歴しているが、パルテノーン(Παρθενών)とは、直訳すれば「処女の間」で、古代アテーナイの守護神パラス・アテーナー(Παλλὰς Ἀθηνᾶ)を祀る神殿(意訳すれば「処女神宮」)であることは、昨日の129で語源を含めて説明しておいたのに、一向に理解できないらしい。
ギリシア語も読めない哀れなドイツ人の教授の説明も要領を得ないのかもしれないが、それより日本語の驚くべき低劣な読解能力に如実に表れたように、カ氏が教授氏の説明を碌に理解できないだけのことかもしれない。カ氏のお頭は、蜘蛛の巣が張っているだけでは足りず、腐っているのかもしれない。
従って、⇒【古代ギリシャ文化の神殿】という表現も極めて不適切で、「古代ギリシャ文化」では具体的に何のことか分からない。アテーナイの文化施設、記念堂くらいに思っているのだろう。神殿はそれぞれ固有の神(θεός)を祀る(ἑορτάζειν)祭祀(ἑορτή)のための施設なのだということを見落としている。
130②⇒【キリスト教文化の神殿】という表現も間違いだ。「キリスト教文化」ではなく、端的に聖堂であって、神殿ではない。130③⇒【イスラム文化の神殿】というのも論外で、「文化」は余計で、神殿ではなく「モスク」だろう。
ことほど左様に、カ氏はその表現からして無知無学ゆえの(δι’ ἄγνοιαν καὶ ἀπαιδευσίαν)莫迦丸出しだ。
パルテノーンを翻弄した歴史の変遷のなかでオリュンポスの神々の神殿からビザンティンやカトリックのキリスト教聖堂(教会)、丘全体は封建領主の城砦、イスラム教のモスク、隣接してトルコ総督の館やハーレム、破壊され列柱が倒壊後は小さなモスクと丘の上の貧民住居となっても、パルテノーンとアクロポリスの丘上の神殿群は、古代ギリシアの栄華を物語る卓越した建築技術、壮麗な彫刻群、素材となったペンテリコン産出の白大理石の稀有の堅牢さと相まって輝きを失わず、歴史に翻弄され消えるか、役割や性格を全く変えていった他の凡百の宗教施設とは全く異なる異次元の存在だ。そこにパルテノーンの価値がある。
この点で、キリスト教の大聖堂からイスラム教の大モスクに姿を変えた大建築、東ローマ帝国の都、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア(ἃγια σοφία=Hagia Sophia)大聖堂とも異なる。
現在のものは、同名の元の聖堂が焼失した後にユスティニアヌス帝によって537年に建てられ、コンスタンティノープル陥落によってモスクに変わり、政教分離政策をとるトルコによって1930年代にモスクとしての役目を終えた。
ヘーゲルなど読みもしない「ミネルヴァの梟」の素人解釈、Philosophen(哲学者)を「哲学」と誤訳するような杜撰さ、でたらめと無知を列挙すれば限りがない。
140も誤謬の宝庫だ。⇒【ソクラテスが問答を始めたのは、40歳をすぎて…ペロポネソス戦争…スパルタに負ける、という体験を経て後】も大間違いで、ペロポネソス戦争がアテーナイの敗北で終わるのは紀元前404年で、ソクラテスは64~65歳の時だ。敗戦体験とは何の関係もない。
莫迦につける薬はない。
150⇒【ユダヤ人は…ナチスドイツから寄生虫…奴隷民族だと決めつけられていた人種…オウムがポアと、サリンをまいて地下鉄の乗客を殺害したように、ナチスに洗脳され…ドイツの人の気持ちは理解はできる】――血の巡りの悪いお頭でも、理解できる(εὐμαθής)らしい。
同じ境遇や立場だったらカ氏も同じことをするのだろう。洗脳された、騙されたと称して、進んで虐殺行為に加担する矯激な人間性かもしれない。国際協調を力説する老いぼれドイツ狂は、隠れた反ユダヤ主義者(Antisemitist)なのかもしれない。
しかもそのユダヤ人観は、『ヴェニスの商人』並みの旧弊極まるステレオタイプだ。害虫、寄生虫、蛆虫…癲癇もちのルターを髣髴とさせる。
次は、ある意味さらにおぞましい。カ氏の比類ない狂信性が透けて見える。まさに、聞きしに勝るK印の偏執狂だ。
151⇒【コメント108に書いた…ユダヤ人も、同胞のユダヤ人の虐殺を手伝っている。ユダヤ人同士助け合ってドイツ人に対抗しない…姿に唖然…反ユダヤ主義が蔓延…真面目に働くドイツ人の寄生虫…と考えて、普通のドイツ人が害虫駆除のつもりでガス室に送る、ということの方が、ユダヤ人の態度よりよほど理解できる】
一瞬、わが眼を疑ったが、如何にも見境のないカ氏の狂信的なドイツ狂ぶりを如実に示す暴言だ。日頃の、お為ごかしの幼稚園道徳並みの綺麗ごとも木端微塵だ。
第三次世界大戦や核戦争を妄想する割には、絶滅収容所という極限状態で身も心も引き裂かれる人々に想像が及ばないらしい。【助け合ってドイツ人に対抗】できる状況か否か、理解できないらしい。昔、収容所に入れられ、選択を迫られ長男を救うために長女を差し出す母親を描いた『ソフィーの選択』という映画があった。
カ氏の狂態を目の当たりにして、思い出した。
「わたしたちのところへ…印刷物が送られてくることが比較的多い…それぞれの篤志家が、自分の意見を自費で印刷して配ってくるわけである。私の仕事の関係で、人生の一大真理を発見したというような文書も少なくないが…世界平和とか、人類更生とか、あるいは核戦争防止とかの妙策や念願を書きつづったものも多い。そのうちには精神病の医者に回したほうがよさそうなものも見られる。
…精神病者の妄想にも時局の反映する場合が少なくないという…戦前だと『皇室中心主義』にからまる妄想が多くて…戦争中だと、『聖戦完遂』とか『大東亜共栄圏』とか、『八紘一宇』という観念が、妄想の中心になった…しかし、今日では皇室関係…や戦争推進のための妄想はむしろ少なくなって…世界平和とか、人類救済とか、軍備廃止とかいうことの妄想が多くなってきている…正気と狂気の境が判然としなくなって、とんでもない妄想が大衆化され、集団ヒステリーのもととなったりする危険もあるわけで、むしろ厳正な批判や識別が必要になってくるのではないかと思う。
むやみと高尚めいた政治論をすることが戦後の流行になって、なんだかそんな議論をすることで、人間そのものまでりっぱになってしまったような錯覚にとらえられる場合も少なくない。…世界平和とか、人類愛とか…たしかにりっぱなことではあるが、しかしわたしたちは、世界政府から直接雇われているわけでもなければ、人類から月給をもらっているわけでもない。
…一足飛びの理想論だけが大衆化されて、精神病者の妄想までも支配するようになったりしたのだとすれば、それはすでに何か警戒を要する現象なのだということにもなる。」
余計な註釈は不要だろう。[完]
人生でも歴史でも、失敗して、教訓を得て、少しでもいい方向にもっていく努力をしなければ、長く生きている、歴史を勉強する意味がないし、ヴァイツゼッカー氏が演説で訴えられていることもそれなのである。その為に、必要なことは、どの人が偉人で、どの人が狂人、人類を悲惨な方向にもっていった政治指導者、思想家なのか、ということを正しく認識することだ、と私は思う。
反氏が哲学と多種の言語を勉強されている間に、私はアメリカ学、ドイツ文化をその国に行っても勉強した。帰国して通訳になろうとしたので、時事関係も詳しくなった。本来、互いに人格を尊重すること、というのは、相手の話に耳を傾けることである。もちろん、その話に中身がなければ、どうしようもないが。
連日、中国・武漢市を震源とする新型コロナウイルスによる新型肺炎の感染者が増え続け、きょう31日現在の発表で、中国国内で死者が213人に達し、感染者も9,692人と1万人に迫る勢いだ。世界中でも感染者が増え、WHO(世界保健機関)が公衆衛生上の重大な懸念があるとして、前回は見送った非常事態宣言を出した。日本政府のチャーター便による武漢からの邦人脱出も3便で600人近くに上った。政府は10日間の周知期間に配慮して見送っていた今回の指定感染症指定伴う施行を前倒しして、あす1日から実施する。内外とも切迫した事態だ。
その譬えで言えば、本欄も連日、パラノイア気質の偏執狂であるカ氏の日の出前から深夜に及ぶ狂乱状態の大量「クズ」投稿が現在も続いており、合わせて160件うち82件と、単独で過半数を越す。中身は読者も周知の通り、誤記、事実誤認に加え、「でたらめ」(ἐψευσάμην)と「ごまかし」(τερθρύεῖσθαι)だらけで、既に詳細に指摘した通りだ。
読者の共感も私の64件に対して♡マークが通算197件まで積み上がる一方、カ氏に点灯する気配はない。読者の真っ当な感覚が示されている
カ氏の狂人並みの所業と暴論は根も葉もない「誹謗中傷」ではない。論証は済んでいる。
頑迷な(σκληρότης)カ氏は、K印(Κ σημεῖον)の「阿呆」(ἠλίηθιος)ゆえ、無駄な言い訳を弄することで新たに失態を重ねてぼろを出し、一層傷を深くするという悪循環で、それでも虚勢(ἀλαζονεία)を張ることをやめられないから、結局墓穴を掘り続け、自暴自棄になって文字通り「気違い沙汰」の狂態(γαστρίμαργος)を演じる。
読者は見向きもしない。その焦燥感(μανία)と苛立ち(ὀργή)が、やり場のない吐け口を求めて連日の大量投稿に向かわせる心理的メカニズム(μηχανική)を形成している。その果てに、150~151のホロコーストに走る心情を【理解できる(εὐμαθής)】発言に行き着く。
今回の感染禍の世界規模の拡大でアジア人に対する差別が欧州で顕在化している。フランスでは人種差別を糾弾するハッシュタグ「#JeNeSuisUnVirus」(「私はウイルスではない」)がツィッター上で拡散している。カ氏ならさしずめ、‘Je ne suis un ὁ ψεύστης’(「私は嘘つきじゃない」)、‘Je ne suis un ἀφροσύνη’(「私は莫迦じゃない」)だろうか。
157~158の安易な希望にもかかわらず、「反ユダヤ主義」は永遠になくならないだろう。しかし、反ユダヤ主義だけではホロコーストが起きないことを、歴史は示している。それはドイツの犯罪だ。セファルディ(sefardí)とアシュケナージ(Ashkenazi)の区別も覚束ないような無学(⇒158)に歴史を語る資格はない。
いい加減に(οὐκ βέβαιῶς)、投稿やめちゃえばぁ~。
現在のコロナウィルスの問題でも、中国当局者の隠ぺい体質を糾弾するのではなくて、国際的に協力して、どうすればコロナウィルスの世界への蔓延を防ぐことができるのか、を考えるべきなのではないのだろうか。中国は中国なりにがんばっているのだから、協力した方がよほどいい知恵がでる。
メルケル首相が昨年のドイツ統一29周年演説の中で、現在の問題、環境問題にしろ、デジタル化の問題にしろ、難民の問題にしろ、二国間ではなくて、大国間で解決しなければならない問題が多い、と主張されているが本当にそのとおりだと思う。そういう視点に、トランプ大統領も反氏も、いつになったら、移行できるのだろう。
知恵など微塵もない(ἐλάχιστος)カ氏にとって、「最善の道」(λῷστος ὁδός)は、道理に背く現在の無軌道(ὕβριοτής)極まる無駄な投稿などやめて、錯乱状態のお頭を冷やすことだ。
鬱憤晴らしに85本も投稿してほとんど(ὀλίγου)反応がないのは、異様なことだ。誰にも読まれない、間違いだらけで、当人も少しは自覚するように、無学を覆い隠して怠け癖を糊塗するため、Wikipediaの記述をコピペしてそのまま垂れ流すような手抜きのやっつけ仕事、しかも粗末な素人の手慰みで文章など書いても、何の意味もない。
誰にも読まれない文章というのは極めて不健全で、虚しい(μάταιος)ものだ。いたずらに(μάτην)、自らのちっぽけで「鬱屈した魂」(μελαγχορικός ψυχή)を、匿名を隠れ蓑に公共の言語空間に晒すこともあるまい。
カ氏には特段の学識も見識もないから、なおさらだ。西独留学時の近視眼的な知見など、退屈なだけだ。自らの莫迦さ加減(ἡ κακόφρων)を少しは思い知ったろう。
真っ当な対話(διάλογος)が成り立つには、単なる経験や信念、信条を越えた成熟した議論が必要で、そこには克服すべき厳しい前提条件がある。
外にすることがない婆さんには耐えがたいだろうが、時間が解決する。少なくとも(γε γοῦν)、これ以上の恥を重ねずに済む。
暁前から夜中まで狂信的なデマゴーグのアジ演説よろしく咆哮(μυκητής)しては、迷蒙の中を彷徨する(πλάνη)ことは、齢70近い身には狂気でしかない。世間への「奉公」(ἡ θεραπεία)は、もっと他の賢明な人物に任せたらよい。お呼びではないからだ。
如何なる英雄も、‘Old Soldiers never die, they simply fade away.’――というではないか。年寄りは静かに潔く去るものだ。
‘μήτε φεύγων μήτε διώκων’
星マークのことも、もともと反応などというものは、このコメント欄にすくなかった。反氏にまるでないので、気の毒だな、と思っていたほどである。ある時期から突如反氏のどの原稿にも星マークがつくようになった。それも異常なことである。
「クズ」コメントをみると、ニュースの真っ当な読み方もできないようだ。それで過激なメディア批判に熱中しているのだから呆れてものも言えない。とんでもない間違い、事実誤認も相変わらず多い。
とにかく、歴史の真実とか称して、正否が見極め難い領域でさえ特異で偏狭な認識で「物語思考」というしかない御託を並べ立てるのに夢中になっているような単細胞だから、歴史などよりもっと見えやすい、「現にあるもの」(παρὸν πάθος)としての目の前の事実(ὅτι)、事柄自身(πρᾶγμα αὐτό)の「ありのまま」(ἀληθῆ)を認識する(γνωρίμως)ことさえ覚束ない、というか、ごまかして(συκοφαντεῖν)笑止極まる愚劣な議論を展開する。
164⇒【この病気のワクチンはまだない。中国で発病した場合は、まだ対処できるが、他の国で発病したとき、保菌者本人に自覚症状がないから、無限に広がる可能性】というのは、新型ウイルスの特性と、感染の診断法について誤解している、というか理解できない(ἀσύνετος)がゆえの、とんでもない事実誤認だ。
感染の有無の判定は、中国から提供された遺伝子情報に基づく、一定の確立された標準的な手法に拠っている。自覚症状の有無とか自己申告によるものではない一定の基準がある。日本も国立感染症研究所が、治療薬やウイルス開発に役立つ新型ウイルスの分離に成功した。
治療法はワクチンが不在で、それに見合った薬剤などないから中国は現在、細胞分裂を抑制するHIV用の薬を処方する方向で試行錯誤しているのが実態だ。「中国で発病した場合は対処可能」ということでは全くない。
自覚症状がない感染者による感染拡大の可能性は、中国でも海外でも同じだ。それが潜伏期間も症状も、感染リスクが高まる状況もSARSのケースとは全く異なる今回の新型ウイルスの特徴だ。カ氏はそれを全く理解できない(ἀσύνετος)ようだ。「頭が悪い」からだろう。
164②⇒【初動段階での中国当局者の隠蔽体質が事態を深刻にしたわけではない】などと、カ氏は何を根拠に主張するのだろう。カ氏が100万人とする武漢市は1,100万人の大都市だ。中国当局が移動を禁止する封鎖措置を講じる前に既に500万人が脱出している。封じ込めは遅きに失し、初動段階での失態は明らかだ。世界にウイルスをばら撒いていることになる。
初動で誤ったのは関係者の隠蔽体質、実態は責任の押し付け合いと自己保身への誘因を招きやすい政治制度の欠陥だ。習近平主席に報告されたのは今月19日以降らしいという信じられない実態だ。武漢市のナンバーツーでしかない市長が実態を暴露する(ἐκφαίνω)に等しい「叛乱」を起こしている。
167⇒【WHO…外交辞令にすぎないのだろうか】のような寝言は、エチオピア出身のWHO事務局長の言葉を表面通りに受け取るからだ。舞台裏を含め中国が如何に圧力をかけていたかを見逃している。
WHOにしては今回の緊急事態宣言は素早いくらいだが、中国が国際世論に如何に神経を尖らせているか分かる。中国外務省の昨夜30日の緊急会見での自画自賛ぶりも滑稽だ。
♡マークはカ氏の今月6日の不用意な暴言で「潮目が変わった」ことが原因だ。異常でも何でもない。未だにごまかす神経こそ以上だ。
皆、カ氏が嘘つきと知っている。
また、現実は反氏が嘘つきなのであって、反氏がこのコメント欄を使って、私が嘘つきであるかのような印象操作を懸命にしているにすぎない。
要するに、軍事力にしろ、経済力にしろ「力への過信による物事の解決」は危険で、相手の立場もよくきいて妥協する「国際協調」、妥協を伴った「民主主義」が必要、というのが私の主張である。
同時に、もはや周知の事実である自らの大ウソを何とかしてごまかそうと論点をずらしたり、矯激な(νεωτερίζοντες)メディア批判に躍起になっている。愚にもつかない老婆の他愛もないおしゃべり(ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος)、つまり無駄話(ἀδολεσχία)を止めれば済むことだ。
もはや、「他に言うことはないのか?」(‘Changez de refrain !’)という体の聞き飽きた愚劣な議論を撒き散らし、狂気の限りを尽くしている。あたかも、壊れかけた蓄音機よろしく, 蜘蛛の巣(τὰ ἀράχνια)の張った「いかれたお頭」(μανήομαι ἐγκέφαλος)も壊れている(ἐπικλασθῆναι)のだろう。
書けば書くほど間違いの連続だし、口を開けば嘘に嘘を、ごまかしにごまかしを重ねるから、「タマネギ婆さん」(κρόμμυον γραῦς)よろしく一皮剥くごとに虚偽やインチキが露呈しては嘘や詐術がばれ、しかもタマネギの特性で、後に中身は何も残らないという「独り相撲」の狂態と化している。
歳と分相応の賢明で「穏やかな生き方」(ἡσύχιος δίαιτα)は別にあろうに、阿呆だから墓穴を掘る。
まずは事実認識の誤り。
170⇒【WHOが「緊急事態宣言」を発表したのは、人から人への感染が起きる…ことが確実になったせい】ではない。そういうことなら、緊急事態宣言を見送った前回、前々回と事情は変わらない。直接的には中国での感染拡大が止まらず、宣言を出した時点(日本時間31日未明で)、国外での感染者が25の国と地域で確認され、国際的な対策が不可避になったからだ。
174⇒【WHO議長、エチオピア出身の外相】というのは、記者会見したテドロス・アダノム氏を指すなら、WHO議長ではなく「事務局長」だ。164では「WHOの委員長」と称していたが、一体何度間違えれば気が済むのやら、カ氏は病気(νόσος)だ。
170②⇒【武漢に住む中国人の不満も「自由に行動できないこと」…その不満を習近平…に押し付けて】も実態とは異なる、それこそ抑圧や監視体制に慣れっこになっている中国国民の民衆心理に疎いカ氏の主観的な臆測(δόξασμα)、つまり願望(βούλησις)の投影でしかない。
市民の不満は自由に行動できないことではなかろう。真相は、感染防止に戦々兢々で、対策がすべて後手に回っている地方政府への不信や疑心暗鬼が渦巻き、混乱している。地方政府の実態を的確に掌握できていない習近平主席への失望や不満はあったとしても、雲の上のお偉いさんに関心などない。
先月27日には武漢市長が、昨年暮れに患者が発生した初期段階での地方政府の実態を暴露しており、武漢市の実質的トップ、市共産党書記も30日に対応の遅れを認めた。
174②⇒【日本テレビのウェークアップぷらす…反氏と同じ主張をしているコメンテーター…出演者はその専門家の解説に納得】――私はその手の番組はあまり見ないし、当該発言を承知していないが、宣言に先立って中国を訪れ習近平主席とも会談して、緊急事態宣言を見送るよう要請されたアダノム氏が中国側に忖度しても不思議はない状況があるのは、記者会見で妙に中国の対応をもち上げていることからみても今回の動きと符合する。
しかし、私は必ずしもそうは考えない。元エチオピア外相だから中国マネー漬けになっている祖国の現状も勘案して忖度したとしても異とするに当たらない現実があることを示すだけで、過去のWHOによる緊急事態宣言と比較して今回が特異なものではないからだ。むしろ、宣言後に平仄を合わせるように滑稽にも記者会見で自らの対応を自画自賛して居直った中国への不信感が世界で高まっているという現実だ。
WHOは、会見で中国との往来を抑制したり中止する動きが広がっていることに懸念を表明していたが、各国のその後の動きをみれば、各国とも中国やWHOを相手にしていないのは明らかだ。
WHOの指導力など高が知れており、中国に利用されているだけだ。中国に行って、中国政府の174③⇒【本音がきけるのでは】と妄想する頓馬は、カ氏以外には珍しかろう。
173⇒【相手の立場もよくきいて妥協する「国際協調」…「民主主義」が必要】というが、中国は国際標準の「民主主義」に敵対する、共産党一党独裁の抑圧的支配を驀進する体制だろう。17年前のSARSの時と何も変わっていない。当時と比べて経済力で国力が国際的地位がより向上し、科学技術も進んだ思って慢心したのが今回の体たらくだろう。
初動の遅れは地方政府レベルでの保身体質にあるとして、そうした政治社会構造を支える中国の国際基準とは異なる隠蔽体質が昨年来の発生を隠し続け、事態悪化を招いた最大の要因であることは間違いない。国外感染者も26カ国(地域)に及び、米国も31日、「公衆衛生上の緊急事態」を宣言した。
極端な中国贔屓のカ氏も同類で、相変わらず、見え透いた手口で自らの醜悪極まる嘘とごまかしだらけの愚行を重ねて事態を悪化させ、防戦に余念がないようだ。
苦し紛れに、171⇒【現実は反氏が嘘つき…コメント欄を使って、私が嘘つきであるかのような印象操作】との言い逃れを、誰も信用していない。
私の169⇒「♡マークはカ氏の今月6日の不用意な暴言で「潮目が変わった」ことが原因だ…未だにごまかす神経こそ異常」を念頭に、172⇒【反氏の主張が、第二次世界大戦の歴史の教訓を生かした場合、この「自衛権」というのは、どこまで許容されるべきものだろう。という私の主張が、不用意な発言を意味しているとすれば、それは違う】のような、「?」というおとぼけ(εἰρωνεία)ぶりだ。
お頭のねじが緩んでいるのではないか。
171②⇒【国籍を問わず武漢にいた人全員はある一定期間、健常者との接触を遮断すべき】というのも「?」であって、通常の日本語の理解では「健常者」とは「障害者」の対立概念で、日本語も真っ当に理解できない(ἀξυνήμων)のカ氏にかかると、新型コロナウイルス感染者または国籍を問わず武漢にいた全員は、「障害者」並みの扱いになるらしい。
[ἀξυνήμων] は「アクシュネーポーン」と発音する。カ氏なら「アンポーンターン」に変えた方がよさそうだ。οἴμοι.[完]
今回の新コロナウイルスによる肺炎禍で中国での死者が159人に上るが、所謂「感染爆発」=パンデミック・フルー(pandemic flu)に至る深刻な事態になるか否か、専門家による確かな見立ては現時点では示されていない。
感染がさらに拡大し、新型ウイルスが変異を続けていって今後、感染者の総数が飛躍的に増えても必ずしも感染爆発とはなない、というのが大方の感染症の専門家の共通認識のようだ。
生体でなくては繁殖できないウイルスの特性もあって、感染が広がると同時に毒性の強さと感染力とは反比例(ἡ ἐναντίος ἀναλογία)する関係にあるようで、予断を許さないがSARSやMERSに比べ致死率の低い今回の新型ウイルスが、ペスト(λοιμός)並みの死の病に変化する可能性は低いようだ。
ところで、パンデミック(pandemic)の語源はギリシア語のパンデーミア(πανδημία=whole people)、つまり「すべて」とか「汎」を意味する接頭辞のパン(πάν)と民衆の意味のデーモス(δῆμος)の合成語だ。その原意パンデーモス(πανδημος)は美の女神アフロディーテの形飾詞で、「大衆の愛」を意味する。
パンデミックは感染が世界中に蔓延するイメージで、パンデミック・フルー自体は「汎発性インフルエンザ」の謂いだが、テレビドラマにもなった小説の影響で「爆発的感染」の代名詞になった。WHOが病原体の強さや感染力に応じて6段階に分類して公衆衛生上の対策の目安としている。
カ氏の嘘つきウイルスの影響力は皆無に等しいが、無駄な努力にもかかわらず当人だけが必死になってクズ投稿を量産しているのが何とも滑稽だ。別種の「お莫迦ウイルス」に感染しているのだろう。
☆訂正 178 末尾の[ἀξυνήμων]の発音は「アクシュネームーン」の誤り。従って⇒【「アンポーンターン」に変えた方がよさそう】は削除する。莫迦が移ったようだ。οἴμοι.
179⇒☆訂正 [ἀξυνήμων]の発音は、「アクシュネーモーン」の誤りだ。「も~ん」どうしようと言っても後の祭りで、雑念が混じっていたのだろう。
カ氏が異常とも言えるおびただしい間違いを繰り返すのは生来の愚鈍な質もあろうが、その魂胆が与っているのかもしれない。文章を書く際、その意図を確定させたうえで、虚心坦懐に、自らの心を空しく(μάτην)して、いたずらに(μάτην)心を煩わせることなく書くことが最もよい(λῷστος)ようだ。
パンデーミア(πανδημία)からの類推だが、「パンタ レイ=万物流転」(‘πάντα ῥεῖ’)で知られる古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの断片にこうある。
‘φησι τοῖς ἐγρηγορόσιν ἕνα καὶ κοινὸν κόσμον εἶναι, τῶν δὲ κοιμωμένων ἕκαστοv εἰς ἴδιοv ἀποστρέφεσθαι.’(Frag. 89=「目覚めている者には、全体の秩序(世界)が、すべてに共通するものとして、ただ一つあるけれども、(寝ている時は、銘々がそのようなものに背を向けて)自分だけのもの(に戻る)。」: H. Diels; “Die Fragmente der Vorsokratiker”, hrsg. von W. Kranz; 6 Aufl., Bd. I, S. 171)
人間は目覚めている時はともかく、カ氏の戯言は偏狭な信念、信条という名の想念=狂信にとらえらた夢遊病者と同じで、この世の秩序の埒外のあるようだ。
‘τοῦ δὲ λόγον τοῦδ’ ἐόντος ἀεὶ ἀξύνετοι γίνονται ἄνθρωποι καὶ πρόσθεν ἢ ἀκοῦσαι καὶ ἀκοῦσαντες τὸ πρῶτον•’(ibid., Frag. 1=「ロゴス(理)は、この通りのものとして、常にあるのだけれど、人間どもはこれをけっして理解するようにならない。これを聞かなかった以前も、一度これを聞いてからも。」: S. 150)
カ氏にはロゴスと同時に道理は、無きに等しいようだ。
自分にとって都合の悪いことは認めたがらないカ氏の生来の「虚偽体質」ならではの悪癖で、まるで私が何かカ氏を不当に貶める(ἀδίκως κολοβῦν)ために策を弄する(ἐπιβουλεύειν)かのような言い分だが、カ氏がその内容について具体的に反論をした試しがない。常に繰り言、泣き言のように「印象操作」云々を繰り返す。
実態は自ら嘘に嘘、ごまかしにごまかしを重ねて自分で自分を毀損(κολοβῦν)しているだけだ。謂わば身から出たさびにもかかわらず、自らそれをけっして認めようとはせず愚行を繰り返すから、逆にぼろを出して余計に傷を深くするばかりで、救いようがない。
私は本欄読者に何らかの先入観(κακόνοια)を与えるために、予見をもって(κακῶς)カ氏の実像とは異なる印象(χαρακτήρ)を読者に与え、悪しきレッテル(ἐκμαγεῖον)や刻印(σημεῖον)を定着させようとしているわけではない。
むしろ、表面的な印象などではないカ氏の醜悪極まる真実の姿(ἀληθής σχῆμα)、謂わば掛け値なしの実態(ἀκριβῆς ἀληθής)を、数々の証拠を挙げ、具体的に論証している。
それが悪意に満ちた誹謗中傷などではなく、充分に信ずるに足りる(ἀξιόπιστος)客観的事実であることは言うまでもない。
単なる見かけ(ὄψις)を越えて、カ氏の憐むべき姿(μορφή)を浮き彫りにしている。それがカ氏の「自画像」(αὐτός εἱκών)と異なるとするなら、それはカ氏が自らの真実の姿に無自覚である(ἀγνοέω)、つまり何も知らない証拠だ。
自己を知らずして、歴史の真実も嘘もあったものではない。すべては、カ氏の自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)でしかない。
市民の不満は自由に行動できないことではなかろう。真相は、感染防止に戦々兢々で、対策がすべて後手に回っている地方政府への不信や疑心暗鬼が渦巻き、混乱している、ということでも、そうかといって、春節の時期に移動を止められたら、市民の不信、不満が起こったろう。雲の上のお偉いさん、習近平さんに関心があるからこそ、1000万都市の武漢を封じ込めることができたのであって、日本でできるか、考えてみればいいのである。先月27日に、昨年暮れに患者が発生した初期段階での地方政府の実態を暴露した武漢市長自体が問題のある人物であり、本来、彼が地方政府の実態を熱心に報告すべきなのである。阪神大震災の時、兵庫県知事の貝原知事の対応は、迅速な対応であった。私たち夫婦も翌日に神戸に飛び、迅速に両親の救出作戦をした人の中に含まれると思うが、この事件の場合、それが武漢からの逃避、を意味したとしても、不思議ではない。
考えてみたら、母がリンパ腫の闘病生活をしていた時も、この病気の人は風邪でも、下痢でも死につながる、ということで、点滴治療中は生ものは禁止、我々も除菌して面会しなければならなかった。健常者(またこの言葉を使うが)が、この肺炎にかかった時、どれだけのダメージを体に受けるのだろう。マスコミは問題を大きくするのが好きであるが、問題を解決する手段を考えなければ、責任者を糾弾しても、混乱が広がって、社会不安を引き起こし、収拾がつかなくなるだけだ、と思う。
所謂「アナクルトン」(anakouluton, anacoluthon)と呼ばれる破格構文がある。一つの文章の中で起こる構文の変化のことで、一般的には文法の規則を無視した、論理的に破綻した(⇒支離滅裂な=incoherence)飛躍のある(discontinuous)文章を指すが、西洋の修辞学史上長い歴史を有する。意図的に使用される場合もある。
ギリシア語由来の言葉で、アナクルトン(ἀνακόλουθον)は否定を意味する[ἄν]と「接続しない」(not following)を意味する[κόλουθος=non sequitur]の合成語だ。
以上を前提にカ氏の182⇒【172⇒【反氏の主張が、第二次世界大戦の歴史の教訓を生かした場合、この「自衛権」というのは、どこまで許容されるべきもの…9条の規定が日本国憲法にあるのではないのだろうか。】という619文字もあるクズ文章を読むと、《172⇒【反氏の主張が》が対応する述語や目的語を欠いた夢遊病者の戯言に等しい文章であることが分かる。
無論、私はカ氏が似而非反論である自己目的と化した投稿の嵩増しをするため、過去の自らの文章をコピペまたはコピペにより再加工して、莫迦の一つ覚えのようにルフラン(refrain)する「満州事変は自衛戦争の名目で行われた侵略行為」云々や、今回の論題である自衛権には何ら言及していないから、カ氏の議論とも呼べない議論は異様だ。
カ氏が故意であると否とを問わず、論点ずらしで虚偽の限り尽くす「話の通じない人」(βάρβαροι)=間抜け(ἀμαθία)たる所以だ。
アナクルトンは変則的な構文の変化(a change in the syntactical stracture of the sentense)ではあるが、カ氏のような破格の、平たく言えば「ぶっ飛んだ」変換ではない。《どこまで許容されるべき…》以降…《ないのだろうか。》までの575文字もある後続部分は述部でさえない、狂人の戯言に等しい。
カ氏がなぜ、172でも行われた要領を得ない主張を再度繰り返すのかと言えば、私の追求、つまり先月6日のカ氏の不用意な発言(⇒【東京に戻ってきた。パソコンが使えるので、コピペもできる。それで、スマホの時よりはましな文章が書けると思って、書くのだけれど…】(1月6日14:27・6)から始まった本コメント欄における劇的な変化、読者によるカ氏への無言の総スカンとも言うべき現象に対する言及を頬被りするためだろう。
カ氏の特性、というかその憐れむべき醜悪な人間性に由来する属性(τὸ συμβεβηκός)として、私は「凡庸」「陳腐」「退屈」「愚鈍」を挙げるが、最も著しいのはその愚鈍さゆえの軽率(ῥᾳδιος)さだ。カ氏は世間に珍しくない単純な莫迦だが、類まれな軽弾みな(ῥᾳθυμηος)人物だ。愚鈍さが倍増するのはそのためだ。なまじ他愛もない西独留学経験など鼻にかけるから、莫迦さ加減は底なしだ。
今回の新型コロナウイルスの感染者が中国全土で14,380人に達し、死者も304人になった。重篤な患者は1,210人に及ぶという。カ氏の中国贔屓の軽口がいつまで続くか見ものだ。所詮は頭の悪い道化者(βωμολόχος)にすぎない。中国国民の「奴隷の繁栄」も憐れを催す。
私の本欄への投稿もこれで通算3,316件になった。先月ひと月で270件、今回だけで79だが、相変わらず、効率が悪い。οἴμοι.[完]
どういうつもりか、新たなトピックスが本日2日始まったにもかかわらず、本欄にのこのこ戻ってきて、わけの分からない、無責任(ἀνεύθυνος)で支離滅裂(ἀσύμφωνος)かつ愚劣な議論に憂さを晴らしている。
文字通り常軌を逸した(οὐκ ἀκόσμως)病んでいる(ταράσσειν)人間の所業だ。カ氏は病気(τὸ νόσημα)だ。
その度を越した自己愛と偏狭性ゆえの狂信性が著しく、文字通り「パラノイアしている」(παρανοεῖν)。
日本語の真っ当な理解ができない(ἀξυνήμων=アクシュネーモーン)については既に指摘した通りだが、190の狂乱(παραφρονεῖν)した、もはや議論ともとも呼べない異常な(θόρυβος)似而非反論をみる限り、相手にするのは遠慮した方がよさそうだ。
狂乱=[παραφρονεῖν=be mad]は「パラプロネイン」と発音するが、あるいは、カ氏には錯乱(παραπεπληγμένος=パラぺプレーグメノス)が相応しいのかもしれない。いずれにしても、皆「パラ、パラ、パラ…」だ。カ氏のいかれた(φύρχειν)お頭は、「アッパラパ~」の仮死状態なのだろう。
意趣返しに夢中の我執の塊であるカ氏は、次回の2でもイラク(またはシリア)をアフガニスタンと取り違えて議論したまま未だに気づかないのは、最初から真面目に議論するつもりなどないからだろう。「平和ボケ」云々も、嗤わせる。
なお、190も184も172も、私が169⇒「♡マークはカ氏の今月6日の不用意な暴言で「潮目が変わった」ことが原因…異常でも何でもない。未だにごまかす神経こそ異常だ」としたことに何ら答えず、逃げ回っている。
莫迦丸出しだ。οἴμοι.
‘νηπίοισιν οὐ λογός, ἀλλὰ ξυμφορὴ γίνεται διδάσκαλος.’
パラノイア、偏執狂、病んでいる、度を越した自己愛、日本語の理解ができない、などの言葉のオンパレードが続くが、私のここでの疑問は、「自衛権」とはどこまでさすのかということで、それが、このブログの篠田教授と関連したテーマなのである。また、次回の2はイラクではなくて、アフガニスタンについてのことであることを、書いておきたい。アフガニスタンも、中村哲氏が殺害されたことが象徴しているように、内戦中で、相当混乱し、治安が乱れれば、大量の難民が発生する危険のある地域である。
矯激な(νεωτερίζοντες)パラノイア(παρανοία)気質の偏執狂で、生まれつきの「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)と愚鈍さゆえに(δι’ ἄγνοιῶν)招いた事態で、193は何の反論にもなっていない。
私は脳みそが「仮死状態」にあるカ氏の人格(ἦθος)や、間違うことが習性(ἦθος)で個性(ἰδιώτης)だという驢馬(âne=ὄνος)に興味も関心もない。「頓馬につける薬はない」(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’)からだ。今回も多数寄せられた私のコメントに対する共感の印、優に200を超す♡マークもそれを傍称している。
それらはいずれも、今さら言うまでもない分かり切った客観的事実(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)だからだ。そのために、既に3,318件、250万字を超す投稿によって積み上げられたカ氏の愚鈍の証明(συμβιβάζειν)=『カ氏誤録』がある。
つまり、私は、193⇒【反氏の主張は、私の書いた内容に対する反論ではなくて、私の人格への批判に終始】という笑止な言い分にもかかわらず、カ氏の投稿したコメントという名の「クズ」、謂わばドキュメント(τὸ γραμματεῖον)に基づき、カ氏の反論を装ったインチキ(τερθρύεῖσθαι)を、個々に具体的に論証している。その過程でカ氏の醜悪な人間性を同時に証明することになったとしても、それはカ氏自身が招いた事態だろう。
カ氏はそれを認めたがらないだけだ。あまりにも浅ましい真実の自分の姿(αὐτός ἀληθής σχῆμα)が耐えがたいのだろう。
カ氏はテレビで各種のドキュメンタリー番組を観るのが好きなようだが、私も具体的な証拠=文書に基づいて(τὰ γράμματα τούτων=documentary evidence of)議論しており、⇒【水島朝穂教授の篠田教授への反論と同じ】との指摘は当たらない。
そもそも、カ氏が自分を篠田さんになぞらえる根拠(τὸ διότι)が存在しない。水島氏の篠田さんに対する批判を、私のカ氏に対する批判と同列に、謂わば類比的に(κατ’ ἀναλογίαν)議論する正当性(ἡ ὀρθότης)を何ら論証していない。カ氏は比較や類比を絶した、ただの「阿呆」だろう。
カ氏は無知蒙昧な割には何にでも口を出す、西独留学経験があるだけの単なる「K印の阿呆」(Κ σημεῖον ἠλίηθιος)にすぎない。
偏執狂ゆえの誇大妄想と被害妄想で篠田さんと自らを比べること自体が莫迦げている。篠田さんはカ氏ほど無学でも、おびただしい間違いを繰り返す偏執狂でもない。
ともかく、ドキュメントによれば事実は以下に尽きる。
私への圧倒的多数の♡マークについて、カ氏が162⇒【ある時期から突如反氏のどの原稿にも星マーク…異常なこと】とし、私が、169⇒【♡マークはカ氏の今月6日の不用意な暴言で「潮目が変わった」ことが原因…異常でも何でもない。未だにごまかす神経こそ異常】としたことに、カ氏が172、184、190、193と一貫して何ら答えずごまかしていることだ。
火を見るより明らかなのは、私の169は自衛権論議ではない、ということだ。カ氏は病んでおり(ταράσσειν)、お頭も相当いかれている(be mad=παραφρονεῖν, παρανοεῖν, παραλλάσσειν)所以だ。
私ではなく、事実=ドキュメント(カ氏が書いたもの)がそれを示している。
日本のマスコミ界では、武漢だけではなくて、中国全土の中国人を遮断すればいい、と発言される方もおられるが、中国人だから保菌者なのではなくて、保菌者と接触した人々が無症状であっても、菌をばらまき、接触した人が発病する可能性があるのである、つまり、ほんとうにその発病をとめたいのなら、医療関係者が国際協力をしてワクチンを作る、この病気の正確な情報を交換しあうことが大事であるが、同時に、国籍を問わず武漢にいた人全員はある一定期間、健常者との接触を遮断すべきなのであって、国籍で分けるべきではないのである。アウシュビッツ虐殺も、ユダヤ民族が人類の害虫であるかのような法制度が作られたから惨事になったのであって、反氏を含めてこのような主張をする人は、ある種の「反中」の思想をもっておられるのではないか、この事件を使って、事実を歪曲し、それを表明されておられるのではないか、と思う。
それから、時間が過ぎ、武漢以外に発病者が中国、日本、欧米を含めて大勢出て、病気になった人と接触のあった人全員を隔離する、ということは医療関係者の人数、建物のキャパシティー的にも、現実的には不可能に近いこと気づき、コメントを書いた。夫と話していて、この中国の新型肺炎問題は、死者の割合が、それほど高くないのだから、糖尿病など罹患したら死につながる病気の人を隔離して、健康な人はこの軽い肺炎にかかり、抗体をもった方が、問題の解決が早いのではないのか、と思った。極論すぎるかもしれないが。
これはコメント171、185に書いたことであるが、事態はこのように推移しているし、私の考えはあれからほとんど変わっていない。
新しい内容は、何もない。過去の甘過ぎた認識を反省もせずに開き直り、笑止極まる議論に興じて、莫迦丸出しの言い訳の羅列という愚劣な釈明に終始している。
196⇒【国籍を問わず武漢にいた人全員はある一定期間、健常者との接触を遮断すべき】はその最たるもので、今回の新型ウイルス(2019-nCoV)の特性、病原性(毒性)と感染力の程度を考えれば、避けるべきは持病などをもたない、一般の健康な人々(それを日本語では「健常者」とは言わない)ではなく、免疫力の低い高齢者や持病をもつ人々であることは、火を見るより明らかだ。カ氏はいかれている。
カ氏の勘違いは、「頭の悪さ」を反映して悲惨だ。②⇒【健康な人はこの軽い肺炎にかかり、抗体を】もてば、感染者は一層拡大する。お頭が仮死状態のカ氏の論理は破綻している。
③⇒【国籍で分けるべきではない】といっても、SARSなどと異なり、熱や咳など自覚症状がない、所謂「非顕性感染者」からも感染し、防護対策に確たる見通しが立たず、決め手を欠く現状からして、最も感染者である蓋然性が高い「中国人」を「区別」して、対策を講じることは現実的な選択肢として有効だ。
日本は甘い方で、遠隔の米国や欧州、豪州などの方がより厳しい措置に踏み切っている。それと反ユダヤ主義の事例は、何の関係もない。
反ユダヤ主義が如何に根強くても、それだけでホロコーストに直結しないのは、歴史が教えている。欧州大陸のユダヤ人を抹殺しようと国家による「合法的」で計画的な大虐殺に手を染めたのは、他民族に対してそうした計画すらなかった他の国家ではなく、ドイツ(人)固有の問題だ。
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