1月31日に遂にイギリスがEUから脱退した。移行期間があるので、すぐには影響は見えない。だがこれからいよいよブレグジットの余波が具体的に立ち現れてくることになる。
これにあわせて日本では「日英同盟」復活論が盛んだ。イギリスがEU域外諸国との連携を強く模索しており、日本への関心を強めていることは、事実だ。経済面のみならず、安全保障面でも、強力なアプローチが続いている。
日本の側にも、これに反対する理由はない。欧州における特別なパートナーとして、さらにイギリスを位置付けていくべきだろう(離脱の余波を見極めながらになるが)。
ただし、「日英同盟」が、1902年に締結された実際の条約に基づく概念だとすれば、言うまでもなく、この「日英同盟」の復活などありえない。多くの事柄が当時とは異なっているからだ。一番は、今のイギリスと当時の大英帝国が、全く違っている。大英帝国は、東南アジアにも領土展開するアジアの大国でもあった。極めて素朴な地理的環境から、極東におけるロシアの南進を懸念するのが、日本の次には大英帝国だった。
現在のイギリスに、そのようなレベルでの東アジアに対する関心はない。それは日本の側に、ヨーロッパに対する関心が乏しいのと、同じだ。
いわゆる「日英同盟復活」論とは、日本がアメリカとともに、オーストラリアやインドを主要パートナーとして推進しようとしている「インド太平洋」構想の強化を意味するはずだ。
イギリスは現在でもインド洋の島嶼部に海外領土を持っている。地中海東端でトルコとギリシアが係争を抱えるキプロス島に軍事基地を持ち、小規模だが長期に渡って展開する国連PKOにも派兵して影響力を維持している。地中海西端が大西洋と接合するジブラルタルを、スペイン王位継承戦争後の1713年ユトレヒト条約以降、保持し続けている。
イギリスは、単に「インド太平洋」と無関係ではないだけでなく、「インド太平洋」が欧州と接合するために一つのカギを握る国である。
ブレグジット後のイギリスが真っ先に関係を強化したいのは、コモンウェルス構成諸国だが、その筆頭が近年に著しい経済成長を果たしたインドであり、その周辺に位置するバングラデシュなどであることは、言うまでもない。イギリスの関心は、「インド太平洋」に注がれた後で、極東の日本につながる。日本だけに関心があるわけではない。
日本にとってイギリスが、アメリカと同格の同盟国になることはないし、それはイギリスにとっても同じだ。イギリスはEUは脱退しても、NATOからは脱退しない。イギリスの軍事同盟国は、依然としてNATOを構成する28カ国だ。日本は含まれない。
NATOは、現在もアフガニスタンで展開中の「Resolute Support」ミッションをはじめとして、域外展開を含めて、活発な活動をしている、人類史上最も成功したとも言われる巨大軍事同盟組織である。
そもそもEUの安全保障ミッションに対しても、ブレグジット後のイギリスは関与を続けるだろう、というのがもっぱらの見方である。現在のEUは、6つの軍事ミッションと、11の文民ミッションを展開させる、巨大な安全保障貢献組織でもある。https://eeas.europa.eu/headquarters/headquarters-homepage/430/military-and-civilian-missions-and-operations_en これらの共通安全保障・防衛政策の領域で、イギリスがEUと決別していくという兆候はない。
NATOやEUと、日本が、「日英同盟復活」を通じて、間接同盟関係を持つ、ということは、日本国内では想像されていないだろう。
もっとも私個人は、これらの組織と、パートナー関係を強化すべきだと考えている。少しずつでも要員をNATOやEUのミッションに参加させるべきだ、と考えている点で、おそらく日本国内の誰よりも具体的に、そう考えている。
そのためにイギリスとの関係は、さらに強化していくべきだ。
ただしそれは1902年日英同盟の復活などとは全く異なる。21世紀の「インド太平洋」構想の強化の見取図の中で、日英関係の強化を進めていくべきだ。
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ドイツを第二の故郷とし、der Spiegel誌を情報源とする私、と書いたのは、der Spiegel誌から得られる情報には、納得できるが、毎日テレビを見て、専門家と自称されるコメンテーターから得られる情報には、ほとんど納得できないからである。その点、岩田健太郎教授の意見には納得できる。これは、水島朝穂教授の意見には納得できないが、外地の戦場をご存じの、安全保障の専門家の篠田英朗教授の意見には納得できる、というのに近い。
現実に、2月5日以降に船内に入って発病した厚生労働省の職員もいるわけで、潜伏期間の14日が19日で終わったなどとは、とても言えないのではないのだろうか。反氏の主張こそが、致命的なのではないのだろうか。
206⇒【199…人数的に、4次感染はなかったが、3次感染まであった、ということを認め…るわけで…3次感染が2月5日に終わったことをどのように証明】――カ氏が闇雲に敵視する感染症の専門家の主張を参考に、私は首尾一貫して、今回の大型クルーズ船内への防疫の水際対策としての隔離は、国内に感染者が入るのをブロックする一定の効果は否定しないが、同時に感染者を船内で連鎖的に増加させる結果を引き起こすリスクを抱え込む結果になり、感染の連鎖を未然に食い止めるという点では逆効果、だったと主張している。
つまり船内隔離と感染防止が、クルーズ船に限っては相反する結果に陥っているというのが船内で起きた集団感染ということだ。病院の院内感染に似ている。
船内での大流行(outbreak)を生み、一見法に従った合理的措置にみえる船内隔離が、クルーズ船という特殊な閉鎖空間に、不適切な=中途半端な形で乗客を閉じ込めることで感染連鎖を招いたうえに、当初は乗員を別扱いしたことで状況をさらに悪化させた、ということだ。
もっとも、現実に今起きていることは、単細胞(ἁπλοῦς)のカ氏が考えるほど単純ではない。カ氏は「潜伏期間」に幅があること、未解明の感染と発症のメカニズムを無視して妄想を膨らませる。
203⇒【der Spiegel誌から得られる情報には、納得…専門家…は、ほとんど納得できない】は、「ドイツ狂い」の偏執狂の告白でしかあるまい。
192②⇒【一人の菌で最大4~6人しか感染しない、という説明と明らかに矛盾…現状は、一人の菌から500人以上が感染…どのように考えても、2次、3次感染、4次感染】が含意する致命的誤謬は既に論証済みだが、繰り返せば、先月25日に香港で下船した感染者を唯一の感染源と仮定して(ὑποτίθεσθαι)、しかも一人で多数の感染させるスーパー・スプレッダーがいなかったと想定して(ὑπολαμβάνειν)、米国の研究機関のそれぞれ異なる報告、つまり一人当たりの感染者が2.2~2.7人内至は4.7~6.6人という想定(ὑπόθεσις)に基づいて、感染者数を計算した(λογίζομαι)もので、206⇒【人数的に、4次感染はなかったが、3次感染まであった】ということではない。計算上の可能性としては、三次感染までで1,003人になるが、それはあくまでも、種々の仮定を積み上げたうえでの推定値だ。
そして、そこに言う二次、三次感染は、政府の見解と必ずしも論理的に矛盾しない。政府はそれを5日以前の感染から理論上は説明できるからだ。
船内での感染経路は未だに開明されてはいない。二次感染はもとより、国立感染症研究所が想定するような検疫が始まった今月5日以降に新たな感染者が出ていない(「陽性」の判定が出て感染者数が積み上がったということと、感染の原因物質であるウイルスを取り込んだのは別だ、という意味)ということは検証されていない。それと対立する事実も散発的に出ている。
論理的に考えるということは、カ氏のように、都合の悪い事例を無視したり、論理法則を度外視することではない。論理的にはいろいろな推計ができる。
一方で、たとえ発症しても免疫能力が低下している高齢者や持病をもつ者以外には肺炎を併発して重症化したり、生命の危険につながる重篤化の割合は低いことから、今後の対策の焦点が感染拡大と並び、もしくはそれ以上に重症化した患者の死を防ぐ医療体制の安定的な運営確保に移ってきたようだ。
不適切な隔離措置で集団感染を引き起こした大型クルーズ船の対応は、今後の病院や福祉施設内での連鎖的な院内感染防止に教訓として生かされるべきだし、東京五輪を控えた予防対策や体制の見直しに加え、国際世論への効果的な情報発信など適切な対応が要求されるが、感染拡大を抑止するには新型ウイルスの特性や感染力の強さから考えて限界があり、指定医療機関での隔離や診療が追いつかなくなる可能性が大きくなるだけに、大規模感染を前提とした早期の対策や体制の見直しが必至となろう。
その点で過去の類似例との比較で、大量感染したしたものの、死者は198人にとどまった2009年の新型インフルエンザの際の対応が参考になる。新型ウイルスの病原性はまだ充分に開明されていない側面は残っているが、インフルエンザより強いとしても、医療崩壊状態の中国で起きているような致死率2.96%は特効薬が不在でもあり得ず、インフルエンザの過去10年間の致死率0.015%をある程度上回ることは避けられないとしても、発症者が大量に医療機関に押し寄せたり、院内感染で医療機関が機能不全に追い込まれない限り対応の余力を残しているとみられる。
2009年のインフルエンザ並みに新型ウイルスも1,000万人規模の感染となれば、1,500人を超す死者は不可避だが、感染者75,465人で2,236人も死ぬ中国と比べたら遥かにましだ。
別の気になる情報もある。米国が今年大流行で2,600万人が感染し、14,000人の死者が出ているインフルエンザについて、その相当割合が新型コロナウイルスによる可能性もあるとみて、CDC(米国疾病予防管理センター)が追跡調査に乗り出したことだ。
致死率は0.054%と通常の季節性インフルエンザよりかなり高めで、インフルエンザの特性と異なる多数の死亡例が目立っていることから、今回の事態に至ったものだ。仮に新型ウイルスが今回の大規模流行の背後に潜んでいるとすれば、既に世界中に感染が拡大していることになる。日本も例外ではない。
一般的に感染症は、病原性と感染力が反比例する関係にあるとされる。大流行したからといって、必ずしも多数が死ぬわけではない。2009年の新型インフルエンザはその典型だ。
専門家によれば、新型ウイルスの今後想定されるシナリオは三つあり、①感染拡大が続き、世界的な感染爆発(pandemic)になる②症例の大部分が中国国内に限局し、SARSのように自然に終息③消滅せず現在のインフルエンザのように季節的な流行を繰り返す別の疾患に変わる(風土病ウイルスになる可能性がある)――だという。
帰趨が展望できない以上、封じ込めは必要だが、ウイルスの一般的特性から、「人人感染」に変化した後、さらに突然変異によって感染力がさら強化される傾向はないようだ。
ウイルス自体の特性とは別次元で起きている中国のような惨事は、回避可能ということだ。
カ氏は個々の資料や指標を検討する際にも、比較可能なものと、同じ条件では比較できなものを混同する。「頭が悪い」からだ。
それを基に議論の組み立てる場合も、前提となるその他の条件を無視して、「結論ありき」で無理な推定を重ねるから、結局「弱論強弁」(‘τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)にも値しない(ἀνάξιος)空理空論(ἀδολεσχία)になる。無知蒙昧な割には思いつきで何にでも口を出す「おしゃべり屋」(ἀδολέσχης)だからだが、何んと言っても、「頭が悪い」からだ。
209⇒【香港で降りた老人一人で、これだけのウィルスを放出】というが、専門家の誰一人として、香港で先月25日に下船した人物から「直接感染した」とも、彼がスーパー・スプレッダーだとも指摘していない。問題は男性の出すウイルス量ではない。毎日テレビばかり観ている割には、肝腎のことは何も理解していないカ氏の妄想だ。
二次、三次感染といっても、老人が最初の感染源だとして、彼から直接感染した感染者と、その感染者を介した別の感染者とを厳密に分けて感染経路を区分することはできないその程度のことも分からず混乱した議論をしている。「頭が悪い」からだ。
国立感染症研究所が公開したデータに基づく、2月5日の検疫着手以降は新たな感染者がいないという議論は、形式論的にはそうした資料解釈を排除しないが、カ氏はデータの読み方ができないから不審を募らせるのだろう。「頭が悪い」からだ。
船内の連鎖感染は、ウイルスの感染力の強さや無症状感染者からの感染ばかりが原因ではない。クルーズ船のような状況では、インフルエンザだって蔓延する。その程度のこともカ氏は理解できない。「頭が悪い」からだろう。
♡マークが未だにゼロなのも、「頭が悪い」からだろう。
言うに事欠いて、209⇒【中国の方がひょっとしたら、医療インフラは強いかもしれない、と当初から思っている】のだという。狂人(ἄνθρωπος μαίνομαι)の戯言に等しい妄言で、中国全土での20日発表の新型ウイルスの感染者は前日より889人増えて75,456人になり、死者も118人増えて2,236人になったが、その病原性はインフルエンザよりやや強い程度で、多くは軽症で済むとされる感染症で致死率2.96%という惨状のどこに、「医療インフラ」が日本より勝っている点があるというのだろう。
特に医療崩壊で連日多数の死者を出し続けている武漢のある湖北省は20日発表分だけで115人が死んだ。多くは野戦病院並みの哀れな施設で、満足な治療も受けられずに命を落としたのだろう。重傷者は同省だけで未だに8,979人もいる。
武漢は中国を代表する重工業都市だが、病院の整備は遅れている。少数の中枢病院以外の医療水準は低く、そこに多数の患者が押し寄せるために機能不全に陥っている。日本の健康保険制度を悪用して、治療目的に来日する富裕層が後を絶たない実態も報告されている。
カ氏は「医療インフラ」の意味さえ理解していないようだ。単なる医療施設や人材に加え、健康保険制度や救急救命体制も含む。救急車を呼ぶのにも有料の国家のどこが、「医療インフラが強い」のだろう。当局が、強権体質を背景に人権を無視した感染対策を講じることと勘違いしているようだ。
北海道で新たに見つかった子供の事例は、日本が感染拡大期にある兆候で、重症化リスク云々の問題とは違う。
外部から入った検疫官や政府の役人が感染したこと、陽性の船客・クルーが入院のために下船したあとの同室者の感染を含め、隔離開始後の二次感染も起きています。しかし発症#1の香港人が乗船していた7日間、そのあと横浜入港までの9日間を通じて複数次の感染が起きていた可能性が大きく、国立感染症研究所「現場レポート」(2/19)は、隔離初期の数日に発症した陽性確定例の多さを根拠に、2月5日の検疫開始前に「実質的な伝播(substantial transmission)」が起きていたと強調します。
上記の科学的主張がはっきりと伝わらないのは、これが報告書であってプロパガンダでないことが理由の一つでしょう。であれば、宣伝戦は別ルートできちんと行わないと、日本側が強弁していると二重の誤解を受けます。
米・英・豪・NZ・加ほか英語メディアはかなり早くから東京特派員が大黒埠頭からの中継で「なぜ全員検査ができないのか」と日本政府を責めていましたし、英語圏出身の船客はYouTubeやTwitterで日々の隔離生活を発信し、多くの同情のコメントが寄せられていました。英語圏では2週間かけてこういう空気が醸成されていたのです。そこへ最後になって、良く燃える可燃性の礫を投げたのが岩田氏でした。ジュネーブを拠点に慰安婦問題を焚きつけた日本人弁護士によく似た臭いがします。
もちろん、中国政府がすべてカウントしているわけではないだろうが、例えば、その全数が武漢だけで起こっていたと計算しても、0.75%である。それに対して、ダイアモンド・プリンセス号の場合、最終的に2月18日時点で、531名が陽性と判定され、それは、2月5日時点の乗船者の14.3%であって、もし、Covit19の中国全土の感染者が武漢だけで起こっていた、と考えても、感染率からいけば、ダイアモンド・プリンセス号では、20倍の感染者が出ているのであって、中国全土に広げると、2000倍になる。この事実をまず考え、「ダイアモンド・プリンセス号」の感染者がいつ発生したかも大事であるが、どうしてこれほどの感染率になったのか、を考えることもこの感染病を考えるうえで、大事なのではないのだろうか?つまり、ダイアモンド・プリンセス号船内のCovid19の感染病対策は、野戦病院のような中国の武漢と比べてもよくなかった、としか考えられないのに、穴倉のアナグラムさんの意見を読んでも、昨夜のプライムニュースを見ても、そう考えない人が日本には多い。私は、ある時期から毎日テレビに出演される岡田晴恵医師の主張に疑問をもちはじめたが、日本政府の問題は、ダイアモンド・プリンセス号乗員全体の検査をしなかったことではなくて、感染を阻止できなかったことなのである。現在の日本でも同じことがいえるが、3000人の検査でもむりなのに、心配だからという理由で、日本国民全体1億人全体に検査ができるかどうか、マスコミの人々は考えてみればいいのである。優先順位を考えるべきなのではないのだろうか。
日本の経済が戦後驚異的に成長したのは、欧米のような現場を知らないトップダウン型ではなくて、ボトムアップ、現場の意見を重んじる経営方針を日本のトップがとったからなのであって、学歴は関係ないのである。岩田医師は、感染病の専門医としての道義心からDMATの隊員として紛れ込んで、意見を海外にも発信された、そのことに対して、規律を乱した、などという佐藤正久さんの主張は、下は上の言うことをきけばいいんだ、という、公共の福祉や、自由と民主主義がまるっきりわかっていない典型的な軍人の独裁的主張である。自由と民主主義に必要なのは、開かれた議論、公正さなのであって、本来は、議論の優劣によって自己主張を通すことではないのである。民主主義には、妥協、自分にはない他人のもつ経験への敬意が大事な要素として含まれるのである。自分の考えと違うからと言う理由で、「クモの巣だらけの頭をもっている」、などと主張しない。このことは、ドイツの偉大な政治家ヴァイツゼッカー、メルケル演説をきいて、学んだものであるが、佐藤正久さんの主張には、その要素がまるでなく、武漢政府のcovit19に対する対応に対して警告を発した医師を糾弾した中国当局者と全く変わるところがない。
現在の問題は、感染病にしろ、テロ難民問題にしろ、サプライチェインにしろ、環境問題にしろ、一国ではもはや解決できず、国際協調が必要なのである。中国との専門家同士の交流もぜひ必要だと思う。 つまり、covid19感染病に対する日本政府の対応についてもいえることだけれど、だれが信頼のできる「専門家」であり、なにがほんとうの「自由」、「民主主義」、「法治国家」であるかを知らず、「人権人権」と騒いだり、「欧米がそうだから」という理由で、「日本のマスコミで作られた世論」に従うと、先人が作ってくれた日本国憲法で定められた「国際協調」とは異質の、おかしな政治となってしまうことを私は危惧する。
まさに、狂気の沙汰(ἡ μανικός)に等しい、見境のないその行動の隠れた動機(ὁρμή)は、あまりに支離滅裂で収拾がつかなくなった自らの見解を有耶無耶するためのこけ脅しであり、次々と話題を変えてクズを撒き散らすことで、笑止な自己弁護(αὐτὸς ἀπολογία)、その実、自殺行為(ἀποτείνειν ἑαυτόν)でしかない独りよがりの(αὐθάδης)別種の暴論に入れ込むことで墓穴を掘っているようだ。とにかく、「阿呆」ほど、逆上せ上がって(μέγα φρονεῖν)よくしゃべる。
しかも、矯激な(νεωτερίζοντες)、何やら新型コロナウイルスとは違った別種のウイルスにでも冒され、どこか病んでいる(ταράσσειν)その言辞は箍が外れた(οὐδένι κόσμω)ところがあり、齢70近い割には真っ当な分別もなく凶暴になる(βιάζεσθαι)質だから救いようがない。
暇をもて余した(σχολάζω)婆さんの驕慢さ(ὕβρις)ゆえの虚勢(ἀλαζονεία)であり、お頭の程度は知れているから、結局は道化者(βωμολόχος)だし、茶番(κωμῳδία)というしかない。
武漢も悲惨だが、蜘蛛の巣が張ったカ氏のお頭も大変なことになっているようだ。
カ氏が心得違いの比較を試みた武漢に関する議論は、弱論強弁にも値しない暴論の典型で、クルーズ船内での局所的な集団感染をもって、人口が1,100万人の巨大都市で起っていること、しかも必ずしも実態を反映していない数値を基に、カ氏以外の何ぴとも為し得ない無謀な妄言で、偏執狂の誇大妄想癖をよく示す。
クルーズ船内への隔離は、特殊な環境も手伝って感染を拡大させる結果になったが、別に武漢のような大量の感染者発生による大混乱や医療崩壊が起きていたわけではない。病院内のインフルエンザや結核の集団感染に似ている。局所的事例をもって、恣意的に一般化する詐術的議論でしかない。
しかし、武漢の場合は全く異なる。21日発表の統計で中国全土での感染者は397人増えて76,288人、死者は109人増えて2,345人になった。その大半が武漢のある湖北省の数字だ。中国全土の感染規模は実態がまだ分からないのが現状で、武漢ほどひどくなくとも、当局の初動対応が遅れたことで全国規模で局地的な流行(epidemic)が起きている蓋然性が大きく、感染規模は桁違いだろう。武漢はあくまで氷山の一角だということだ。武漢の感染者が人口の1%未満というカ氏の議論に何の意味もない。
韓国でも急速に感染者が拡大している。南部の大邱市のキリスト教会関係者の集団感染で1万人弱の関係者が今後隔離される見通しらしい。しかし、それをもって武漢並みか、それ以上とは言えない。
中国からの渡航者の一時的入国禁止を説く佐藤正久氏への剥き出しの敵愾心といい、カ氏の莫迦話にこれ以上付き合う必要はあるまい。
クルーズ船の人が気の毒だ、早く全員検査をして、解放してあげたい、市中に住む人々も不安なのだから、心配ならすぐかかつけの医師に検査をしてもらえるようにすべきだ、などという現実離れした夢のような主張ばかりが、ワイドショーではまかり通っているし、出演した専門家も現実的にできることと、できないことをはっきり言えばいいのに、言わない。わからないことは、なぜわからない、と言わないのだろう。
この文章を読むと、専門家に、あるいは国に、なにができてなにができないのか、なにに確証が取れて、なにに確証が取れていないか、(例えば、PCR検査をして陰性であれば、発病しない、という証明になるのだろうか?)、また社会の目標がなになのか、がよくわかる。現実には、人材的にも、予算的にも、これしかできないのである。反氏は私がドイツ狂い、と主張されるが、マスコミに登場する人の主張がまともだから、信頼をおくのである。
シリア反体制派の最後の拠点イドリブ県で、アサド政権側が、ロシア軍の支援を受けて、攻勢をかけた影響で、昨年の12月から90万のシリア人が難民となって、トルコ国境へ急ぎ、トルコは反体制派を応援していることもあり、ソチ条約、シリア問題でトルコとロシアが結んだ軍縮条約、の順守をロシアに求め、ロシアが遵守しなければ、攻撃も辞さない、と脅している。また、これ以上トルコ経由の難民が増えると、大変に困るドイツとフランスが仲介の労を取ろうとしているが、日本人も、少しずつでもこのような問題も知る必要があるのではないのだろうか。そういう報道が日本ではあまりないから、難民問題、環境問題、感染病問題を含めて、日本は国際問題音痴になってしまうように、私は思う。
クルーズ船内への隔離は大量の感染者を出したうえ、下船時は陰性反応ながら、各国に戻った元乗客からも新たに陽性反応者が出るなど感染拡大を改めて裏づけたことで一段と問題を複雑にしているが、「頭が悪い」単細胞のカ氏は、思いつきで、221⇒【クルーズ船の状況は、Covid19と闘うヒントになるのでは】と、お粗末な素人論議(τὸ ιδιωτικόν)に淫する。問題の性質を取り違えた妄言にすぎない。
新型ウイルスは今後、規模は見通せないものの日本国内でも諸外国でも感染が拡大する可能性が大きいとみて、国内に入り込むのを阻止する水際対策、つまり「封じ込め」で引き続き警戒しつつ、その限界を見極めたうえで、感染者が増え爆発的な流行(outbreak)になった場合の対策を、混乱が広がる前の現時点で講じておく安全保障上の危機管理の問題に移っているようだ。
221②⇒【これだけ蔓延させた主な責任は、米国の運航会社、英国の船会社にあり、例えば、レッドゾーンでビュッフェ形式の食事、ダンスパーテイー、マージャンをすると蔓延】というような末梢的の議論は、全体の感染拡大を抑止するうえで、拡大自体を抑止するという全体的な問題と、感染が疑われる対象者の検査や発症者の治療に混乱なく対処し、重症化や死亡につなげないように円滑に維持するという別の対処法的問題を混同する愚劣な議論の典型だ。
医療インフラが脆弱な中国での事態を再現させないために、2009年に大流行した新型インフルエンザ時の対応を含め、医療現場が混乱する原因となる大量の患者の医療機関への殺到や院内感染対策を徹底させればよいだけの話で、クルーズ船に感染問題の今後の対応全体へのヒントなど、何もない。
別の問題を、その軽重も含め適切に比較考量できないカ氏の「頭の悪さ」を露呈している。不幸にして死亡した男女2人が示すのは、重症化しやす高齢者や基礎疾患はある患者への優先的対応だ。
発生の初期段階は過ぎたとみる認識が専門家に広がっており、依然として、湖北、浙江両省以外からの中国人の入国を許している日本も、当面一時的に中国人の入国禁止措置を講ずる必要性に直面している。
米国やオーストラリア、シンガポールなど14カ国がいち早く入国禁止に舵を切った事例にならう例は今後増えていく傾向で、入国制限措置が緩い日本や韓国、マレーシア経由が「抜け穴」として警戒され、クルーズ船での失態と併せ、日本人への風当たりは強くなってこよう。
より根本的な動きは、いち早く中国人の原則入国禁止に踏み切った米国のCDC(米国疾病予防管理センター)が、現段階では国内での感染拡大の傾向はないが、「いずれ感染拡大の可能性が高い」として、水際対策の限界を見越しつつ、「感染拡大を遅らせ対応への準備期間を稼ぐため」、空港などでの検疫を強化する一方、各州保健当局と緊密に連携を強め、世界的流行が起きた場合の対応マニュアルの改訂し、感染拡大に備える方針を明確にして動き出したことだ。
2,600万人が感染し、14,000人の死者が出ている今季の米国でのインフルエンザ大流行にも新型ウイルスが関係しているとみて既に追跡調査を初めているのと同じ動きだ。
伝えられている10万人に達していない中国での感染者はあくまで氷山の一角で、早晩、世界中で感染者が増えそうな形勢になってきた。日本でも散発的感染が起きているようだ。
封じ込め対策が全く無駄だというわけではないが、その効果は新型肺炎を引き起こすウイルスが毒性の低いものに進化するか、夏以降に感染が鈍化するまで、封じ込めによって感染拡大や死者の発生を防ぐ副次的効果にとどまるとみるのが、専門家の共通認識のようだ。
新型コロナウイルス(COVID-19)にはワクチンも特効薬もないのは周知の事実だから、議論はそのことを指しているように誤読されかねないが、実質は全く別の議論に関連している。
中国、特に湖北省で新型肺炎により膨大な数の発症者が重症化し、死亡しているのは医療インフラの立ち遅れが事態の悪化に拍車を駆けているわけで、医療インフラの意味や中身について碌に知らないカ氏の認識は、227②⇒【中国はお金持ちの国…医療を含めてインフラが整備できるが…】程度の認識だ。
カ氏が私の「勘違い」としたのは、中国での医療インフラの立ち遅れを論じた私の214の中の、⇒《日本の健康保険制度を悪用して、治療目的に来日する富裕層が後を絶たない実態》の箇所に反応したものだろう。それが、ワクチンも特効薬もない今回の新型肺炎には当てはまらないから、私が「勘違い」していると誤認したようだ。
如何にも粗忽者のカ氏らしい。私の議論は中国の貧弱な医療事情を全体的に論証する必要から出た記述で、昨年5月の法改正で、医療保険制度の適正運営を図るため健康保険法が改正されたなかで、それまで訪日中国人観光客による日本の医療制度の想定外の悪用を誘発する、所謂「タダ乗り医療ツーリズム」などによる不正受給が横行していたことに言及したものだ。
その背景には、特別の富裕層でなくとも高度な医療サービスが受けられる日本の医療水準や、保険制度を含めた医療インフラに対する関心が中国でも高いことが背景にあり、そのことは逆に、如何に中国の医療インフラが貧弱化かを示す証拠として付け加えたもので、近視眼的な理解しかできない「頭の悪い」カ氏の誤読を誘ったのだろう。
Sterblichkeit durch Covid-19 Die Gefahr steigt ab 50 - und wenn man ein Mann ist
Chinesische Behörden haben eine Auswertung von mehr als tausend Covid-19-Toten veröffentlicht. Die Daten zeigen, wie stark Alter und Geschlecht das Risiko beeinflussen.
Von Irene Berres und Heike Le Ker
20.02.2020, 17:24 Uhr
https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/neues-coronavirus-welche-menschen-durch-covid-2019-besonders-gefaehrdet-sind-a-261c0cf4-2ca3-4a42-a85b-d3dc546faa98
Covit19の致死率。危険は50歳以上で増す、そして、もし男性であった時。
中国当局は、Covid19の1000人以上の死者の評価を発表した。このデータは年齢と性別がこの致死率の危険にどのような影響を与えているか、を示している。(2020年2月20日)。
この記事によると、
Der Untersuchung zufolge haben Menschen ab einem Alter von 80 Jahren, das höchste Risiko zu sterben: Fast jeder siebte Mensch in dieser Altersgruppe, bei dem eine Infektion mit dem neuartigen Coronavirus nachgewiesen wurde, erlag der Erkrankung.
80歳以上の人々が死ぬ危険度が高い。7人に1人がこのウィルスで亡くなっていることがわかる。
年齢 感染者数 死者数 死亡率
0- 9歳 416 - 0 Prozent
10- 19歳 549 1 0,2 Prozent
20- 29歳 3619 7 0,2 Prozent
30- 39歳 7600 18 0,2 Prozent
40- 49歳 8571 38 0,4 Prozent
50-59歳 10.008 130 1,3 Prozent
60- 69歳 8583 309 3,6 Prozent
70- 79歳 3918 312 8,0 Prozent
80歳以上 1408 20 8 14,8 Prozent
Quelle(情報源): China CDC Weekly
この中国の研究成果を信頼すると、0歳から9歳までの子供の感染者は416名出ているが、死亡率は0だから安心であるが、50歳以上は1.3%、80歳以上になると死亡率は14.8%で感染すると命にかかわるのである。
また、22,981人の感染した男性のうちの死者は416人、2.8%であったのに対して、21,691人の感染した女性のうち亡くなったのは370人、1.7%であった。多くの死者は、混乱した武漢で出ているので、軽症感染者や無症状感染者はカウントされず、死亡率はもっと低いだろう、と記者たちは書いている。
私は日本語の真っ当な読解さえ覚束ない、「ドイツ狂い」が昂じてドイツの高が週刊誌Der Spiegl電子版の情報が示す一事例を過大に一般化して見当違いな法螺話を展開し、何らや「国際事情通」を僭称するカ氏の戯けた議論の莫迦莫迦しさを逐一論証してきた。
今回の新型ウイルスの感染禍で中国で多くの重症患者が死亡していることの背景に医療インフラの脆弱さがあり、その一例として昨年5月の法改正以前に横行して問題が深刻化していた中国人による日本の健康保険制度の悪用があり、それを引き起こしたものこそ中国のお寒い医療事情で、それに引き替え財政悪化や地方の医療事情の厳しさなどさまざまな問題を抱えつつ、中国よりは遥かに整備された医療インフラがあることを指摘したまでで、莫迦ウイルスに冒されたカ氏のため、改めて229で再説したものの、徒労だったようだ。
カ氏以外は何ぴとも、今回の新型肺炎で、⇒【中国人の富裕層が、この病気の治療のために、日本に来日】と私が主張しているとは読むまい。
狂気じみた妄言を弄して言い逃れに終始するカ氏の莫迦さ加減を本欄読者も先刻承知なのでこれ以上繰り返すまでもないが、病膏肓、「K印の阿呆」の自滅は近いようだ。
実質的議論を怠って、やれ「反中」「反独」、意味不明な「主客転倒」云々と喚く、芸のない低能の議論は陳腐で退屈だ。資料を文章化して提示せず、「コピペ狂い」(κλοπή μανικός)よろしく貼りつけて傍若無人に振る舞う。
まさにならず者の出来損ないだ。οἴμοι.
笑止なことに、235⇒【いい加減にしてほしい】なのだという。朝から晩までテレビばかり観て苛立っている。憤激(θυμός)の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例(ἡ ἐναντίκος ἀναλογία)するから、言うことも、その理由なるものも、知性(νοῦς)も歳相応の自制心(σωφροσύνη)も分別(σύνεσις)の欠片もない莫迦丸出しの箸にも棒にもかからぬ素人論議で、愚劣な議論(λήρησις)だ。
それを自覚せずにおしゃべり屋(ἀδολέσχης)の婆さんの他愛もない無駄話(ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος)に我を忘れて(ἀσχολεῖσθαι)入れ上げている。
プライド(φρόνημα)だけは一人前だが、お頭の血の巡りはさっぱりという知性欠乏症が随所に(πανταχοῦ)顕著で、235②⇒【日本人も「神がかり的」な指導者】云々と要領を得ない御託を並べるが、ヴァイツゼッカー宗の「いかれた」(ἐμένα)「巫女」(προφῆτις)らしく、トチ狂った神憑り状態(ἐνθυσιασμός)、戯けた自称「布教活動」に夢中になっているのはカ氏本人だろう。
いい加減に頭を冷やして(ἀνεικάζομαι)、思慮分別(φρόνιμος)を取り戻す、つまり正気に返る(σωφροσνιζω)ことだ。
おべっかを使って頻りに中国を擁護する、カ氏特有のご都合主義的な民主主義の二重基準もごまかしだが、橋下徹氏は感染症対策における危機管理の常道を説いただけの話だろう。
私はカ氏が指摘した番組を観ていないが、橋本氏の指摘は最近の別番組での発言から、大阪府知事として2009年の新型インフルエンザに取り組んだ経験から、急激な感染拡大で医療機関の対応の限度を超える大量発生を抑止するという、最終的に政治家が権限と責任をもって下さなくてはならない対応を指摘しているにすぎない。
感染症の専門家の見立てははっきりしていて、日本でも季節性インフルエンザ並みの大流行(outbreak)が起きても不思議ではない状況になってきた。端的に言えば1,000万人規模の感染者が出ても不思議ではない、ということだ。
ならば、同じ感染規模で10月ごろから春先までのインフルエンザ対応で混乱が起きない条件を整える、つまり特定の短期間に感染が急拡大し、患者が殺到するような、検査、医療対応のピークを越えるような事態を回避する人為的対応が必要になる。
感染者全体を1,000万人と想定してその分布を人為的に、即ち政策的に調整するしかない。ピークが立ってもなだらかになっても積分値は同じだが、それがもたらす医療体制への影響は全く異なるからだ。
カ氏はその程度の理屈も理解できない。「頭が悪い」からだ。数学的思考は、受験勉強のためだけにあるのではない。
米国が22日、日本と韓国への渡航警戒レベルを、一段上げ「レベル2=注意強化」に引き上げた。感染者増もあるが、未だに中国からの入国制限が中途半端で抜け穴になっているから警戒したのだろう。
武漢封鎖からちょうど一カ月になる。23日発表の中国全土の感染者は648人増えて76,936人、死者は97人増え2,442人になった。単独で96人増の湖北省に過度に集中しており、信憑性に疑問が残るが、中国と心中するわけにもいくまい。
対応を誤れば、東京五輪どころではなくなる。
カ氏の議論はどこまでも幼稚(νήπιος)で愚劣(ἀμαθής)だ。
「医療インフラ」の意味も分からずに無謀な議論をしたかと思ったら、武漢を中心とする湖北省での異常に高い致死率が、236⇒【中国の医療インフラの脆弱さ…私はそう捉えていない…中国の一流病院に…高齢者が殺到し、車の中で夜を明かしたりして体力の消耗…飛沫感染や、接触感染の結果、感染が拡大した結果、劣悪な環境】のような素人論議しかできない。
実態は全く異なる。人口1,100人規模の、日本なら東京都と並ぶ武漢市には、日本の医療水準からみて「一流病院」と呼ぶにふさわしい医療機関は極めて少ないのが現状だ。医療インフラの立ち遅れは医療技術や人材、施設の充実ばかりではなく、健康保険制度や予防対策、救急救命を含めた総合的なものだが、急速な経済発展を優先して、人民の健康と生命の安全確保を後回しにしてきたツケが、今回の急激な感染拡大に伴う医療崩壊状態で一気に現実になった、というだけの話だ。
数少ない、頂点の大規模病院に患者が集中するのは、その他大勢の医療機関を人民が信用していないからだ。医療インフラは特定の医療施設を整備しただけでは不充分なことくらい、如何に「頭の悪い」カ氏でも、日本の医療事情との比較で想像がつくはずだ。
カ氏の236での解説は、暇をもて余したテレビ漬けの婆さん特有の物ごとの表面をなぞっただけの印象論だ。なぜ、日本の健康保険制度の抜け穴をつく「タダ乗り医療ツーリズム」が横行したか、何も説明できまい。
外国人が日本で治療や人間ドック等を受けるため来日する場合は「医療滞在ビザ」の取得が必要になるが、2016年の統計ではその9割近くが中国人だった。ただ、医療ビザの場合、医療費は100%自己負担で高額になり、そこで注目されたのが法の抜け穴をついた「タダ乗り医療ツーリズム」の横行ということだ。
暇なのだから、少しは、お勉強したらいい。
現在中国を発信源に起きているウイルス禍は、中国人自身が自ら招いたものだ。因果応報(hetuphala-dharma)だから、彼らがその報い(vipāka)を受けるのは避けようもないし、ある程度、已むを得ない。これを機に、彼の国が少しでもまともな方向に変われば結構なことだが、それもこれも彼らの選択だ。
そして、変わることには痛みと犠牲が伴う。常にそのツケを払わせられる国民は誠に迷惑で不幸だし、不条理だが、それもこれも、巡り巡って彼らが引き受けなくてはならない宿命には違いない。
そうした点で、有史以来4,000年の文明国であるシナにも数多くの聖賢に事欠かないが、彼らは現実を何も変えはしない。思えば孔子は人の道、人間として復むべき基本、規範的徳を「礼」に求めたが、礼は秩序であり法であり手続きだとはいえ、彼の国の父祖相伝のこの遺徳が歴史上の為政者によって生かされた試しはない。
彼の国は「易制革命」の語をまつまでもなく古来革命の国であり、そこに言う人知を支配する「天」とは強者の正義、力の正義の別名でしかなかった。現在の共産党政権もその系譜にあり、「人民共和国」というのは、単なる美名(κάλλος)にすぎない。
そして、かつて魯迅が説いたように、シナは「国辱記念日のいちばん多い国」(「礼」)だ。今回の事態もその一つであり、彼の国においても、「陽の下、新しきものは何もない」(‘καὶ οὐκ ἔστιν πᾶν πρόσφατον ὑπὸ τὸν ἥλιον.’=“ΕΚΚΛΗΣΙΑΣΤΗΣ”, I. 9.; Septuaginta. Id est Vetus Testamentum graece iuxta LXX interpretes)ようだ。
‘Ὅτι οὐδὲν ἧττον τὰ αὐτὰ ποιήσουσι, κἂν σὺ διαῤῥαγῇς.’(Aurelius, M.; ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, VIII, 4)
「いまお前が怒りを爆発させたところで、彼らはやはり同じような間違いを繰り返すだろう。」(マルクス・アウレリウス『自省録』第8巻4章)
‘Τὸ τὰ ἀδύνατα διώκειν μανικόν˙ ἀδύνατον δὲ τὸ τοὺς φαύλους μὴ τοιαῦτά τινα ποιεῖν.’( (ibid., V, 17)
「不可能なことを求めるのは愚かだ。莫迦者どもが莫迦げたことをしないでいるのは不可能なのだ。」(第5巻17章)
‘Μέλαν ἦθος, θῆλυ ἦθος, περισκελὲς ἦθος, θηριῶδες, βοσκηματῶδες, παιδαριῶδες, βλακικόν, κίβδηλον, βωμολόχον, καπηλικόν, τυραννικόν.(ibid., IV, 28)
「腹黒い性格、女々しい性格、頑なな性格、野獣のごとく残忍、家畜ごとく小児じみている。愚図で油断がならない、へつらい根性、強欲な、暴君さながら。」(第4巻28章)
‘Ἀταραξία μὲν περὶ τὰ ἀπὸ τῆς ἐκτὸς αἰτίας συμβαίνοντα,δικαιότης δὲ ἐν τοῖς παρὰ τὴν ἐκ σοῦ αἰτίαν ἐνεργουμένοις˙’(ibid., IX, 31)
「外的原因より生ずるものに動じないこと、お前の内なる原因より為されることにおいて、正しくあること。」(第9巻31章)
‘Πολλὰ περισσὰ περιελεῖν τῶν ἐνοχλούντων σοι δύνασαι, ὅλα ἐπὶ τῇ ὑπολήψει σου κείμενα˙’(ibid., IX, 32)
「お前を悩ませて苦しめるものには無用なものというべきものが多く、当然ながら心の外に取り除くことができる。なぜなら、それらはすべてお前の考えに基づくからだ。」(同32章)
不動心(ἀταραξία)とは、そう容易ではないが、頭を冷やす(ἀνεικάζομαι)ことで、見えてくるものがある。人の世は儚く、束の間の迷蒙だ。
ダイアモンドプリンセス号のでのCovid19の感染者数が14日間の潜伏期間が過ぎても増える一方だったのに、1回のPCR検査で陰性だから、というお墨付きだけで、自由な行動を許し、公共交通機関で自宅に帰ることを許した日本政府の対応に、米国政府が危惧をおぼえたからだ、と思う。日本に1人、オーストラリアでは、帰国してから4人の陽性反応の感染者が存在した現状からして、米国政府は日本政府の対応に危惧をおぼえるのではないのだろうか?これも、日本のマスコミが、クルーズ船の乗客はかわいそうだ、の世論を作り出した結果である。自然科学的所見から考えると、岡田教授の感情的指摘は疑問だらけだ。コピペで明らかにしたように、免疫力のある子供の死者はほとんどいないのだから、子供だけの大規模集会は問題がないが、高齢者や持病をもつ人が集う診療所はグリーンゾーンでなければならず、そこに不安だからという理由で感染の可能性のある人が行くと、岩田教授の表現を言葉を使うと、グリーンゾーンとレッドゾーンがごちゃごちゃになって、悲惨な世界が現出するのではないのだろうか。現実への対処という面で、理解力がなく、頭が悪いのはどちらなのだろう。
理解力が低劣でお頭の血の巡りが悪いから、検討に値する内容にはとてもなるまいが、現在の惨憺たるレベルは、少しは回避できよう。どうせ暇なのだから、工夫の余地はあるはずだ。
水際での封じ込め対策を強化している米国が22日、日本と韓国への渡航警戒レベルを「レベル2」(注意強化)に引き上げたのは、日本と韓国、マレーシアが未だに中国全土からの全面的入国制限に踏み切っていないからとした私の指摘に、242⇒【中国からの入国制限と米国の措置は関係ない】というなら、もっと事態に合致した理由を挙げるべきだ。
大型クルーズ船内の感染者は直近で691人になり死者も出たが、船内感染者はWHOの統計でも、厳密には日本国内の感染者に計上されない。どんなに船内で集団感染を起こし感染者数が増えても水際対策としては有効で、日本国内の感染者を増やしたことにはならず、米国の防疫策に影響しない。日本政府も、国内感染者(147人)とクルーズ船感染者とを分けているのはそのためだ。
従って、水際対策としては、入国制限が緩い日本や韓国を通じて入国されると「抜け穴」になることを警戒しており、国内感染者も多いから「レベル2」に引き上げたわけだ。船内の感染対策の不手際を米国政府が表立って批判せず、危惧していないのもそのためだ。メディアが批判的なのと、当局の判断は分けて考える必要がある。
ついでに言えば子供は感染しても軽症が多いから懸念が少なく、高齢者は危険というのは一面の真理で、子供も感染すれば感染を広げる元になるから、高齢者同様の感染防止防止策が重要なことぐらい認識したらいい。
より重大なのは、実質的な意味で中国に次ぐ感染者数602人(死者6人)となった韓国、135人(死者2人)のイタリアでの急拡大だ。まだ世界的大流行(pandemic)とは言えないが、極めて憂慮すべき事態だ。
子供は感染しても軽症が多いから懸念が少なく、高齢者は危険というのは一面の真理であっても、子供も感染すれば感染を広げる元になるから、とあるが、この病気は、子供だけでなく、大人も感染するのである。大人の感染者数の方が圧倒的に多い。違いは、子供にとっては、高齢者のように死に直結する病気ではない、ということである。つまり、高齢者がこの病気に感染しない注意が必要なのであって、その為に必要なことは、多くの高齢者や持病をもった人が診療を待っている診療所に、親が心配だから、と言う理由で、感染している疑いのある子供を検査の為に連れていかず、Covid19の専門外来を作る感染防止策が重要だ、と私は主張しているのである。
新型コロナウイルス、流行期に備えたいこと。チェックポイントと専門家の見方https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200224-00010000-telling-sctch
それを読んで、納得したので紹介する。
潜伏期間がある以上、一定数の感染者が国内に入ってしまうのは仕方がないと考えたうえで対策を行うことが肝要です。新型コロナウイルスの感染の可能性がある人がいたら、封じ込めるために全員検査して隔離するという方針から重心を移し、ある程度の感染拡大は許容しつつ医療機能を守る方が大切です。必ず確定診断を行うという段階から医療体制の維持に力点を移すべきです。流行が進み、みんなが免疫を持つようになれば収まりますし、いわゆる普通の風邪になります。もう少し冷静になった方がいいと思います、とあるが、感染力が強いのだから、重症化しやすい人への感染をどう防ぐか、を一番に考え、軽症で回復すれば、免疫をもてると楽観的に考えるべきだ。治った人の白血球や血清を使えば、優れた治療薬ができる、と昨夜の報道番組で放送もしていた。とにかく、パニックをマスコミが煽ることが、医療崩壊につながる、ことをマスコミ関係者はよく自覚すべきだと思う。
HRVの試薬にしろ、アビテックにしろ、実証実験の段階である。この前、中国人の先生に、マラリアの特効薬が効く、あるいは、ある種の漢方薬が効くときいたが、治癒した人の血小板や白血球で作った薬、も含めてすべて可能性、なのであって、このCovid19の場合、体力のある人、免疫力のある人が治癒するようにできているのである。
そうではなくて、病原菌をばらまく人を、感染したら重病化しそうな人から離すことが大事で、隔離のためにHRV検査は必要なのである。とにかく、テレビは影響力があるのだから、専門家と自称している方には、まともな常識をもって発言していただきたいと強く思う。
政府が先に出した、感染の恐れがある場合の都道府県等が設置した相談窓口=帰国者・接触者相談センターへの相談を行う基準として、①37.5度以上の高熱が4日続き②強いだるさや息苦しさ(呼吸困難)がある場合(高齢者や基礎疾患がある人は以上が2日続いた場合)――を示したように、既に一定程度の感染拡大を想定したものになっていることでもそれは明らかだ。
日本感染症学会は早い段階で国内でも散発的な感染は起きており、テレビ番組にコメンテーターとして登場する感染症や公衆衛生学の専門家も共通して指摘していた内容で、感染拡大時の重症化者対策の強化と、感染者が特定時期に一気に集中して患者が医療機関に押し寄せるといった医療現場の混乱や院内感染による機能不全を未然に回避するための医療資源の有効活用と、拡大時の勢いを抑えるための集会やイベントの自粛呼び掛けによる限定的な封じ込めによって、感染のピークをできるだけなだらかにする社会政策的予防策が軸になる。
本日24日、政府の専門家会議が開かれ、加藤勝信厚生労働相が「今後の患者数の大幅像に備え医療提供体制を整える準備をすべき」として、あす25日に政府としての総合的な基本方針を出すことを明らかにした。
これまで、同種の主張を事あるごとに主張してきた元国立感染症研究所研究員の岡田晴恵氏や感染症の専門家久住英二氏を目の敵にして、肝腎なことが何も分かっていない奇想天外な素人論議で大暴れしていたのとは真逆な宗旨替えで、開いた口が塞がらない。
何ごとも好き嫌い(ἥ εὔνια καί μῖσος)で判断する狂信家(ὁ μαίνομαι)のカ氏にかかると、同じ見解でも賛否がご都合主義で分かれ、自らの主張の自家撞着(αὐτό ἀντίφασις)は一向に気にならないようだ。
投稿の目的が単なる虚勢(ἀλαζονεία)と虚栄(χαυνότης)とに基づく暇つぶしの自己顕示欲だからだろうが、それにしてもその主張が首尾一貫せず、でたらめとごまかしの限りを尽くし、その場しのぎの矯激な(νεωτερίζοντες)議論を撒き散らすことしかできない醜悪な人間性は、愚鈍さゆえの軽率(ῥᾳδιος)だとしても異様だ。「医療インフラ」に関する一連の妄言、強弁にもそれは歴然だ。
カ氏のお頭は一種の「仮死(=瑕疵)状態」であり、本日も早朝から昼まで、取り憑かれたように、正真正銘の専門家を敵視して、249⇒【専門家と自称している方には、まともな常識を…と強く思う】のような妄言を並べている。
‘τέθνηκας, ἔφθαρσαι, τεθηρίωσαι,ὑποκρίνῃ, συναγελάζῃ, βόσκῃ;’(IX, 39)
「お前は死んでしまっているのだ。腐ってしまったのだ。禽獣に堕してしまったのだ。お前は芝居をしている。畜群の仲間に加わって徒食しているだけだ。」(第9巻39章)ということなのだろう。
いい歳をして、テレビばかり観ていて大騒ぎするしか能がない、一人前の自制心(σωφροσύνη)もないどころか、修養(παιδεία)の欠片もない出来損ない(ἡ ἥμιγενής)の老人というのは見苦しい(ἀκάθαρτος)。
とにかく、246⇒【日本のマスコミのコメンテーター、専門家と自称…の作る世論があまりにもおかしな方向にゆく結果、北朝鮮問題…この感染病問題に関しても、身の危険を感じる】ような誇大妄想、被害妄想を膨らませるところは、偏執狂ならではだ。
昨日23日の241では字数の関係で一部のみの引用にとどめたが、
‘Ἀταραξία μὲν περὶ τὰ ἀπὸ τῆς ἐκτὸς αἰτίας συμβαίνοντα,δικαιότης δὲ ἐν τοῖς παρὰ τὴν ἐκ σοῦ αἰτίαν ἐνεργουμένοις˙τουτέστιν, ὁρμὴ καὶ πρᾶξις καταλήγουσα ἐπ αὐτὸ τὸ κοινωνικῶςπρᾶξαι ὡς τοῦτό σοι κατὰ φύσιν ὄν.’(ibid., IX, 31)
「外的な原因より生じてくるものにあっては、心乱さないこと。お前が原因になって為される事柄においては、正しさを守ること。つまり意欲と行為は、公共的行為そのものを思いつつそうすることが、お前の自然の本性に適うことことなのだとみること。」(第9巻31章)
検討に値する中身も新情報も何もない。「羽鳥慎一モーニングショー」「TBSのひるおび」と、ドイツの高が週刊誌Der Spiegelの電子版が主たる情報源というのは、大ウソである。連日、刻々と変わる情報を追うのに週刊誌ではどうにもなるまい。
244⇒【マスコミの先入観で一番危険…PCR検査で陰性であれば…感染の危険がない、と思い込んで】のような事実はない。無知なカ氏の誤解だ。244②⇒【専門家の岩田教授が主張…感染の初期は、陰性とでる確率は高く、判定の確率は、岡田博士の言われるような100%信頼に足る検査】も、岡田晴恵氏は検査の精度を「100%」と称していない。ただ、感染の有無を最終判定するには、PCRによる遺伝子検査が不可欠だという、一般的な事実を指摘したのを「頭の悪い」カ氏が誤認したのだろう。
子供の感染の危険性は、感染症に関する認識が希薄で多動性を特質とする子供が感染を拡大させるからで、カ氏の一面的理解はポイントがずれている。子供は集団感染しやすいから、さおさらだ。子供がいないカ氏に言うだけ無駄だが。
これ以上、「K印の阿呆」(Κ σημεῖον ἠλίηθιος)の妄言に付き合うのは無用だろう。
中国全土の24日発表の感染者が409人増えて77,150人(その後77,345人)、死者は150人増えて2,592人になった。中国は感染判定基準を二転三転させており、中国以外での感染規模が広がる一方、全国に31ある省や直轄市のうち24で新たな感染者が出なかった不自然さは否めない。韓国は794人(死者7)、イタリアも155人(死者3)となり、日本のクルーズ船を除く147人(死者1)を上回っている。[完]
真実は、「K印の阿呆」ではなくて、「反印の阿呆」なのであって、反氏の主張される「反独」、「反中」のイデオロギーから、平和は生まれない。
Covid19は、SarsやMersのように、致死率の高い病気ではないので、感染したら危険だ、というのではなくて、特効薬がないから、重症化したら危険なのである。つまり、重症化しそうな人に感染させないことが、一番大事なのであって、今までの情報によると、それは、高齢者と持病をもった人々で、子供ではないのである。その情報が正しいとしたら、子供は集団感染しても、あまり問題はないのではないのだろうか。
とにかく、反氏は私を「頭が悪い」と評されるが、「現実的な問題」に対して、論理的、合理的な思考方法を取れない「頭が悪い」人は、どちらなのだろう?
その意味で、私は、日本人の感染を遅らせたという意味で、ダイアモンドプリンセス号を封じ込めたということは、意味あることだと思っているし、予想よりも感染力があった、ことが日本政府の誤算であったと思う。本来、それを指摘するための専門家なのではないのだろうか。
子供は学校がなければ、母は仕事があるので、おばあちゃん、要するに感染したら重症者になりやすい高齢者が世話をすることになるのである。テレビに出て子供の健康が心配だ、という意見を言っておられる女性のコメンテーターも、現実の自分の子供が休校になったら、自分は仕事があるから、親に頼むのではないのだろうか。そうすると、もし自覚症状のない子供が感染していた場合、その濃厚接触者である高齢者の病状が重篤になるのである。
とにかく、マスコミに出る人には影響力があるのだから、いろんな情報を得て、多角的に考えて、意見を述べていただきたい、と思う。
感染症、というと世界の歴史的では、ペストとスペイン風邪が二大感染病である。スペイン風邪は第一次世界大戦中アメリカのカンザス州原発で世界中に拡散したものであるが、スペイン風邪とCovid19はまるで病態が違う。スペイン風邪は致死率が高いのにくらべて、Covid19は、感染力は強いが、重症化する人は、高齢者に限られている。子供の犠牲者はいない。そして特に80歳以上の人は、14%、7人に1人亡くなるのだから、ダイアモンドプリンセス号で感染した80歳代の方が3人亡くなるのは、想定の範囲内なのである。恐れるべきことは、集団感染なのであって、北海道に調査チームを派遣し、専門家が聞き取り調査をし、PCR検査を多用することは、日本の医療体制を維持するために、ぜひ必要なことなのである。どうしてまともなことを、すべきことに対して批判するのだろう。とにかくマスコミが起用するおかしな専門家、ジャーナリストの洗脳から脱して、一人一人日本国民が自分の頭で考えるまともな感覚をもたないと、この問題の解決をまちがえる、と危惧する。
昨日24日夜、政府の本日25日の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の基本方針発表に先立って緊急会見した記者会見した政府専門家委員会の尾身茂副座長は、会見中何度もクリティカル(critical=危機的な)という言葉を繰り返して、現在が感染対策の重大な分かれ目であり、一歩対応を誤れば大規模感染に加え、医療機関の混乱、機能不全により日本国内でも多数の犠牲者を出す深刻な事態を招きかねないことを強調したが、カ氏の「血と知の巡りが悪い」低劣なお頭も、一足速く混迷と狂熱の惨状を呈して危機的な状況だ。
だから、260⇒【イタリアのミラノ…無観客でファッションショー…街を封鎖】のような、如何にも軽率な粗忽者らしい先走りぶりで狂奔の限りを尽くすのだろう。会場内での感染防止に「無観客でファッションショーを開いた」のは事実だが、ミラノが街を封鎖した事実はない。中国の武漢とは異なるのだ。
真相はミラノのあるイタリア北部ロンバルディア州(110人=24日現在)と隣接するヴェネト州(21人=同)で感染が拡大して131人の感染が確認され、死者も3人に上ったことでイベント自粛が相次いでいるなか、発生した自治体のいくつかの地域が閉鎖され、2週間、住民5万人規模の出入りを禁じている、というだけの話だろう。ミラノで【街を封鎖】のような事実はない。
ドイツの高が週刊誌Der Spiegelの電子版を主たる情報源としている割には、肝腎の欧州情勢についてこの体たらくだから、後は押して推して知るべしだろう。
虚勢(ἀλαζονεία)、我執(πικρία)ゆえの狂信性(μανικός)が際立つパラノイア気質の偏執狂の「頭の悪い」カ氏ならではの妄言癖=「お病気」で、まさにcriticalだ。
そこで重点対策としたのが「患者クラスター(cluster=集団⇒clusterは元々果実の「房」の謂いで、多数が連なった状態。cluster爆弾も同じ)への対策を抜本的に強化する」ことで、局地的な集団感染が連鎖して大流行する(outbreak)のを軽減化し、現在の医療資源で対応可能な範囲に感染を制御しようというもので、2009年の新型インフルエンザ対策の教訓に基づき、専門家の助言を全面的に取り入れたものだ。
感染の流行を早期に収束させるために必要とされる手法の常道で、感染者の多い集団が新たな集団を連鎖的に生み出すのを防止を徹底することに対策の重点を移行することは、カ氏が敵視する人物を含めほとんどの専門家の提案そのものだ。それを理解できないから、カ氏は未だに「K印の阿呆」なのだ。
政府方針や専門家の指摘通り、患者の増加速度を可能な限り抑制することは、感染のピークを低め、先送りにすることで、それでも大量の患者が出るのは避けられないかで、特に重症化して死者が続出するのを制御できる、ほとんど唯一の選択肢となる。未解明な部分を残すとは言え、ウイルスの病原性はインフルエンザをやや上回る程度で軽症者も多いから、高齢者や基礎疾患保持者の重症化を防ぐ対策が最重要項目となるのは、理の当然だ。専門家が度々強調していたことだ。
それは、今後、対策を講じてもある一定程度の感染拡大は不可避とみて、危機管理のポイントを絞り、医療体制整備の準備期間を稼ぐものだ。
だから、初期段階は感染者を国内に入れないための水際での防疫対策として、失態が目立ったクルーズ船対応を含め、感染経路の解明や濃厚接触者の経過観察による実態解明が重要だったし、感染の有無の確認法としてPCRによる遺伝子判定が重要だったが、感染拡大期を迎えた今後はその意味も低下する。
政府が、政府が濃厚接触者の経過観察の縮小を促したのも、今後増えてくる別種の対応への注力のための労力節減で、充分納得がいく。カ氏が大騒ぎする、クルーズ船を下船した陰性判定者が公共交通機関で自宅に帰ることなど、大した問題ではない、ということだ。
カ氏は感染拡大を招く、所謂「濃厚接触」について、基本的な認識が足りないようだ。
尾身・政府専門家委副座長が会見で強調したように、①感染源の飛沫が届く近距離で②長時間、長期間にわたって閉鎖空間で③不特定多数の人々が一緒に過ごす――ことが、必然的に「濃厚接触」状態となるからだ。
感染しても重症化率は際立って低い子供の感染が憂慮されるのは、学校や幼児施設は基本的に「濃厚接触」空間で、インフルエンザやノロウイルスなどの例を挙げるまでもなく、学校は集団感染の温床になりやすい。感染症に対する危機意識も、手洗いなどの重要性も、子供の認識は大人に劣るうえ、子供はどこでも動き回ってウイルスの運び手、感染拡大の呼び水になりやすいのは見えやすい道理だ。
萩生田光一文科相が、感染者が出た地域で、感染者を出していない学校などが臨時休校や学級閉鎖を検討するよう要請することは、積極的な防止対策として無駄ではなかろう。
259②⇒【とにかく、マスコミに出る人には影響力…いろんな情報を得て、多角的に考えて、意見を】は、カ氏の取り越し苦労で、皆カ氏ほど愚鈍ではなかろう。
254~261と、要領を得ないことを3,272字も費やしながら、PCR検査が「HCR」検査に化けるような特異な言語感覚のもち主で、投稿自体が目的の粗製乱造でクズを撒き散らすカ氏は、朝から晩までテレビ漬けで悲憤慷慨している異様な、間違うことが個性(ἰδιώτης)というならず者だ。
私はカ氏の「養育掛」(παιδαγωγός)ではないので、これ以上、カ氏の主張を相手に「クズ」処理に贅言を費やすまでもなかろうし、カ氏の異様な人格は、その言説の端々に顕著なことは本欄読者も周知の事実だから、繰り返さない。
今回の基本方針の発表で日本の感染症対策も本格的な危機管理の意義を明確にした。少なくとも、今年7月に東京五輪を控えるなかで、日本が現実的に選択できる対応策は、時期を逸すれば逸するこど、深刻な事態を惹起するのは目に見えている。
預言者ではない私が言うことでもないが、新型感染症の拡大・収束を左右する山場がこの一、二週間という瀬戸際にあるとの危機感を国民が共有しているかと言えば、心許ない。少なくとも、中国という反面教師の愚行と隠蔽を繰り返さない思慮が求められる。
熱狂は何の知恵も生まない。[完]
カ氏のような頑迷固陋(ἡ αὐθάδεια καὶ σκληρότης)の「阿呆」は論外として、煩悩(kleśa)だらけの人間にとって、今回の新型感染症のような事態は歴史上、何度も繰り返されてきたし、今度も続くのだろう。
ウォールストリート・ジャーナルが‘‘China Is the Real Sick Man of Asia’’(中国は「アジアの病人」)と打った見出しの記事に中国が噛みついて、北京駐在記者3人の国外退去を求めているが、記事自体は本当のことだろう。メディアというのは因果(hetuphala)な商売で、相手がそれで苦しんでいようがいまいが、真実を抉り出すという点では容赦ない。
彼らが伝えるのはものごとの全体像ではないが、その欠かせない一端であるには違いない。哲学者や歴史家のように、ものごとの全体像を見通す透徹した見識や、歴史がもたらす重圧をたじろがずに受け止めようとする覚悟に欠け、物見高くて責任感に欠ける側面も否定できないが、それだからやっていられる。民衆の卑俗な関心事に寄り添う外はない。
あまり立派な商売とはいいかねるが、人間というのはそれほど立派な存在ではなく、地球上に棲息するなかで最も碌でもない存在である面をもっているわけで、環境破壊でも何でも、他の生命体にとって迷惑至極な存在かもしれない。
古代ギリシアの哲学者で、プラトンのライバルでもあった原子論の提唱者デモクリトスは、‘νηπίοισιν οὐ λογός, ἀλλὰ ξυμφορὴ γίνεται διδάσκαλος.’(「愚か者どもには、言葉ではなく不運が教師になる」=H. Diels; “Die Fragmente der Vorsokratiker”, herausgegeben von W. Kranz; 6 Aufl., 1992, Bd. II, S. 159)という断片を残している。
御説ごもっともと、返す言葉もないが、それだから人生は面白いともいえ、悲惨と幸福は表裏一体で、原子(τὰ ἄτομα)ではないが、不可分(ἄτομος)かもしれない。
ストア派の哲学者皇帝であるマルクス・アウレリウスは、政治の公共性を否定する時代の専制政治の当事者だから、あくまで自己の内面に徹底して向き合う内省家にとどまった。その言葉は、人間性に対する卓越した洞察に満ちている半面、民主政治の徹底した批判者であったプラトンと異なり、政治本来の機能である国民の政治批判を許さない時代の人物の限界を示し、政治と哲学との乖離は避けられず、国家の危急存亡に対処し、民の安寧やよりよい生活を実現するための自国の政治に対する徹底した検討や批判を欠くがゆえに、一個の倫理思想にとどまっている。
彼の自他に対する苛立ちが、ゆえなきことではない所以だ。
それは、ずっと時代を隔てた中国の現在の指導層と国民との意識の乖離にも明らかだ。中国国民の不幸は、卓越した哲人皇帝を欠くことではなく、隷従が過ぎて21世紀になっても自由に政治を語る自由すら許されぬ政治的貧困だ。それが今回の感染禍で改めて露呈した。
‘Παρὰ μὲν τὸ μὴ ἐφιστάνειν, τί ἐν τῇ ἄλλου ψυχῇ γίνεται, οὐ ῥᾳδίως τις ὤφθη κακοδαιμονῶν˙ τοὺς δὲ τοῖς τῆς ἰδίας ψυχῆς κινήμασι μὴ παρακολουθοῦντας ἀνάγκη κακοδαιμονεῖν.’(Aurelius, M.; ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, II, 8)
「他人の心に何が起こっているか、それを知らないからといって不幸になるという人間など、そうおいそれと見つかるものではない。それに反して、自分の心の動きに絶えず注意を払っていない者は、必ずや不幸な人間になるのを免れない。」(『自省録』第2巻8章)
一方で、政治の現実を熟知し、プラトンが理想として説いた哲人王を我が身の現実としたが、徹底した内省の人として「道化者」ではなかったから、プラトン的な理想的統治を最初から断念していた。卓越した人間観察を政治に生かす途が最初からなかった。優れた統治を追求する政治哲学は、政治批判を前提とするからだ。
彼にとって政治は義務(καθῆκον)であり、宿命(εἱμαρμένη)でしかなかった。
‘Μὴ κατατρίψῃς τὸ ὑπολειπόμενον τοῦ βίου μέρος ἐν ταῖς περὶ ἑτέρων φαντασίαις, ὁπόταν μὴ τὴν ἀναφορὰν ἐπί τι κοινωφελὲς ποιῇ˙ ἤτοί γὰρ ἄλλου ἔργου στέρῃ, τουτέστι φανταζόμενος τί ὁ δεῖνα πράσσει καὶ τίνος ἕνεκεν καὶ τί λέγει καὶ τί ἐνθυμεῖται καὶ τί τεχνάζεται καὶ ὅσα τοιαῦτα ποιεῖ ἀπορρέμβεσθαι τῆς τοῦ ἰδίου ἡγεμονικοῦ παρατηρήσεως. Χρὴ μὲν οὖν καὶ τὸ εἰκῇ καὶ μάτην ἐν τῷ εἱρμῷ τῶν φαντασιῶν περιίστασθαι, πολὺ δὲ μάλιστα τὸ περίεργον καὶ κακόηθες, καὶ ἐθιστέον ἑαυτὸν μόνα φαντάζεσθαι, περὶ ὧν εἴ τις ἄφνω ἐπανέροιτο˙’(ibid., III, 4)
「残り少ない人生を、誰であれ他人について想像することに費やすようなことは、それを何か公益に関係させるのでなければ、してはならない。なぜなら、その時お前はそうすることで、必ずや他の仕事から切り離されるのだ。つまり、公益のために大いなる必要があるのでなければ、他の某々が何を為しているだろうとか、それは何ゆえにとか、何を言い、何を考え、何を企んでいるかとかを想像して、自己の内なる指導的理性を見守ることから注意を逸らされるゆえ、想像の外に置くこと。」(第3巻4章)
‘Χειμάρρους ἡ τῶν ὅλων αἰτία˙ πάντα φέρει. ὡς εὐτελῆ δὲ καὶ τὰπολιτικὰ ταῦτα καί, ὡς οἴεται, φιλοσόφως πρακτικὰ ἀνθρώπια˙ μυξῶν μεστά. ἄνθρωπε, τί ποτε; ποίησον ὃ νῦν ἡ φύσις ἀπαιτεῖ. ὅρμησον, ἐὰν διδῶται, καὶ μὴπεριβλέπου εἴ τις εἴσεται. μὴ τὴν Πλάτωνος πολιτείαν ἔλπιζε˙ ἀλλὰ ἀρκοῦ, εἰ τὸ βραχύτατον πρόεισι, καὶ τούτου αὐτοῦ τὴν ἔκβασιν, ὡς οὐ μικρόν τί ἐστι διανοοῦ. δόγμα γὰρ αὐτῶν τίς μεταβαλεῖ; χωρὶς δὲ δογμάτων μεταβολῆς τί ἄλλο ἢ δουλεία στενόντων καὶ πείθεσθαι προσποιουμένων;’(1bid., IX, 29)
「宇宙全体の原因は一つの奔流をなしている。それはすべてを運び去る。思えば、これらの芬々たる政治的対処の下らなさは、どうだ。しかもこれらのことが、まるで低劣卑小な者どもによって、哲学的に行動できるもののように信じられているのだ。おい莫迦者どもよ、それがいったい何だというのだ。事情が許すものなら、意欲を燃え立たせて、自然がいまお前に求めていることをすればいい。それを誰が知ろうと知るまいと、気にしないことだ。プラトンの理想国は期待しないこと。むしろ、たとえわずかなことでも、前進したなら満足すること。そしてそれだけでは、如何に効果が少ないかを思うべきだ。なぜなら、彼らの考えを誰が改めさせられるというのだ。考えを改めなければ、溜息をつきながら面従を装う奴隷的服従のほかに、何を望みえよう。」(第9巻29章)
認識に徹することも容易ではない。そして、中国での死者は増え続け、25日発表で71人増の2,663人になった。[完]
無学な(ἀμαθής)カ氏相手に、例えばソクラテスの「無知の知」(「知らないことを、知らないと思う」=‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’⇒Apologia Socratis, 21D)、所謂「不知の自覚」(「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」=‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’⇒ibid., 21D)について、ギリシア語の原文に沿って、正確無比に逐一解き明かすことはできる。
人口に膾炙した日本語の「無知の知」という言い方が、あたかも「無知」(ἀμαθία, ἄγνοια)という状態について、何ごとかを知る(γνωρίζω, ἐπίσταμαι)ということを意味していると考えるなら、とんでもない誤解だ、という専門家またはギリシア語が読める者の常識を伝えることができる。
ソクラテスの言辞を伝えたプラトンの対話篇では、稀代の文章家であるプラトンの精彩に富む筆致でソクラテスが活写されているが、言葉の使い分けも極めて厳格で、プラトンは「無知について知る」(「知らないということを知っている」)という言い方を一切せず、意識的に避けている。
「私は知らないことを、その通りに知らないと思う」(「私は知らないことを、知っているとは思わない」)というだけだ。「知らない」「知っているとは思わない」は知る(οἶδα)の否定的表現(μὴ οἶδα, οὐκ οἶδα)としてのみ表現される。
別の言い方なら、それは「善美なるもの」(τὸ ἀγαθός)に対する厳密な知(「神の知」)と区別された、「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία=ibid. 23A)を指すにすぎない。
そうした知的禁欲が、カ氏の理解の及ばない専門家と素人の違いだ。新型感染症も同じだ。
‘Τὰ μὲν πράγματα ἐν τοιαύτῃ τρόπον τινὰ ἐγκαλύψει ἐστίν, ὥστε φιλοσόφοις οὐκ ὀλίγοις οὐδὲ τοῖς τυχοῦσιν ἔδοξε παντάπασιν ἀκατάληπτα εἶναι, πλὴν αὐτοῖς γε τοῖς Στωικοῖς δυσκατάληπτα δοκεῖ˙ καὶ πᾶσα ἡ ἡμετέρα συγκατάθεσις μεταπτώτη˙ ποῦ γὰρ ὁ ἀμετάπτωτος; μέτιθι τοίνυν ἐπ’ αὐτὰ τὰ ὑποκείμενα, ὡς ὀλιγοχρόνια καὶ εὐτελῆ καὶ δυνάμενα ἐν κτήσει κιναίδου ἢ πόρνης ἢ λῃστοῦ εἶναι. μετὰ τοῦτο ἔπιθι ἐπὶ τὰ τῶν συμβιούντων ἤθη, ὧν μόλις ἐστὶ καὶ τοῦ χαριεστάτου ἀνασχέσθαι, ἵνα μὴ λέγω, ὅτι καὶ ἑαυτόν τις μόγις ὑπομένει.’(ibid., V, 10)
「事物はある意味、神秘の帷に包まれており、ゆえに凡庸と程遠い哲学者でさえ、これを把握することは全く不可能であると考える者も少なくない。ストア派の哲学者でさえ、その把握を不可能ではないが困難であるとみた。しかもわれわれは感覚の印象を受け取りそれに同意を与えるが、いずれもたちまち変転して、人を欺くまことに頼りにならぬものだ。一体どこに、このような変転と欺瞞を経験しいない者があろうか。ついでに、これらの印象の基礎に存する事物に目を向けるとせよ。それはいかにも束の間の、つまらないないもの、言うなれば男娼や遊女や盗賊も所有するようなものなのだ。そこでまた、一緒に生活する者どもの品行に目を向けてみよ。その最上の者にしても、まことに付き合いにくく、ましてや人は自分自身を我慢するのさえやっとのことなのだ。」(第5巻10章)
中国の災厄が世界中に飛び火し、WHOは断定を避けるが、現在は感染爆発(pandemic)の前夜なのだろう。東京五輪の開催は思いもよらぬ形をとるかもしれない。
運命に抗うことは何ぴとにも難しい。
(参考 ソクラテス、岩波新書、田中美知太郎)
274⇒【田中美知太郎さんが「ソクラテス」の中に書いて…ジャーナリストというものは、自分でよく考えもしなければ、また真面目に考えてみようともしない人たちであり、自分の言っていることが、自分にわからないという、奇妙な無知がみられた、つまりかれらは、自分でほんとに考えて、ものを言っているのではなくて、何か神がかりにかかって、他の考えを述べているのにすぎない、という一例を端的に示している(デルポイ信託の謎、p 129-130)】とある。
カ氏が、何も分からずに誤読しているのは明らかで、無謀な行為だ。パラノイア気質の偏執狂たる所以だ。
田中は、戦前戦後を通じてわが国のメディアや政治、社会の現状や学問について、左右の政治的立場を問わず常に厳しい意見のもち主だったが、哲学研究においては、岩波新書の『ソクラテス』のような一般向けの小著においても、プラトンの『ソクラテスの弁明』に基づき厳格な議論を展開している。
そこでソクラテスによる批判の対象となったのは、アテーナイで人々から知者と目され、当人もそう考えていた有力政治家や作家(詩人)、技術者らだった。
そして知的吟味(ἔλεγχος)と称して、彼らを相手に議論をした結果、いずれも、ソクラテスが人間としての徳=卓越性(ἀρετή)、つまり最も肝腎な「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)の対象とした「善美なるもの」(τὸ ἀγαθός)について、何も知らないことを発見した。
所謂「デルポイの神託」(Δελφοῖς μαντεία)、つまり「デルポイの巫女は、(ソクラテス)より知恵のある者は誰もいないと答えた」(‘ἀνεῖλεν οὖν ἡ Πυθία μηδένα σοφώτερον εἶναι.’:Apologia Socratis, 21A)としたことが、本当だということを論証したわけだ。
「K印の阿呆」であるカ氏によれば、それがデルポイの「信託」になるらしい。
「しかし、無智と無反省は、これら政治家だけに限られるものではない。むしろもっと精神的な仕事をしていると考えられる人々において、かえってそれが大きいかも知れない。今日のジャーナリズムは、各方面のそういう人たちを、大きな機構のうちに養っている。しかしむかしのギリシアでは、このような仕事は、もっと狭く限られていて、舞台や朗読を通じて人々を導く、各種の作家、詩人たちが、主としてこれに当っていた。だから、当然ソクラテスの遍歴も、これらの人々に向かわねばならなかった。そしてかれが個々に見たものも、やはり自分でよく考えもしなければ、また真面目に考えてみようともしない人たちであった。かれらには、自分の言っていることが、自分に分からないという、奇妙な無智が見られた。つまりかれらは、自分で本当に考え、ものを言っているのではなくて、何か神がかりにかかって、他の考えをのべているに過ぎないのである。かれらにあるものは、単なるセンスであって、智慧ではないとも言われるであろう。それは神の啓示を取りつぎ、神託を伝える人たちが、いろいろ結構なことを口にしても、自分ではその意味を、何も知っていないようなものだと言われる。しかもそういうかれらが、『作家として活動しているということから、自分が世にも大へん智慧のある人間だということを、自分が実際には、そうでない他のことがらについても、信じこんでいるのを』ソクラテスは見なければならなかった。しかし、このようなことは、何も作家だけに限らないであろう。」(『ソクラテス』、129~130頁)
天に唾する(καταπτύειν)行為というものがある。無学な(ἀμαθής)「コピペ狂い」のカ氏の間抜けなところは、自らの議論の拠り所である如上の文章を読めば一目瞭然なのに、それに気づかないことだ。
田中がまさに批判した、知ならぬものに取りつかれ、神憑り(ἐνθυσιασμός)となったのが、「巫女」(προφῆτις)を自称し、本欄で「布教活動」に熱狂しているカ氏だということだ。
《神の啓示を取りつぎ、神託を伝える人たちが、いろいろ結構なことを口にしても、自分ではその意味を、何も知っていないようなもの》――と田中が批判する作家たちこそ、偽善と欺瞞に満ちた戦後ドイツの自己弁護「ヴァイツゼッカー」演説を取り次ぐ狂信家であるカ氏の姿だろう。
田中が説くように、古代ギリシアには情報の伝達手段として新聞はないし、今日のような形の書物もない。識字率も低い。その代わりとなったのが口承による詩や演劇で、その担い手が作家(ποιητής=詩人)で、詩や劇作品は基本的に韻文だから、自ずと詩人ということになり、彼らが社会のさまざまな出来事を創作に取り入れたことで、現在のジャーナリストの役割を担った。
しかし、そうした創作活動(ποίησις=芸術的創造)の本質は、哲学のような厳密な知的な探究ではなく、単なる想像力の産物である実物の模倣(真似=μίμησις)、つまり「似像」(εἱκών)にとどまり、謂わば二次的存在であって、それが作り出すものは実在から遠ざかること第三の序列にあり(ἐστι τρίτος)(『国家』597E)、詩人は自分が真似て描くものごとについて真の知識をもたない、というのがソクラテス(やプラトン)の主張であり、田中の指摘であることを、無学なカ氏は何も知らない。
哲学的な知の優位性を説くソクラテスや田中の批判は、結局、政治家や技術者以上に、贋物の知を弄ぶ作家や詩人、当時のギリシアなら詩人や劇作家、近代以降ならゲーテのような創作家に向かうことを、カ氏は認識できない。
一見して高邁で格調高いように誤解されるヴァイツゼッカー演説の太鼓持ちだから、尊重すべき内容が含まれると浅はかにも思い込んで、それを取り持つことで⇒《自分が世にも大へん智慧のある人間だということを、自分が実際には、そうでない他のことがらについても、信じこんでいる》という狂態(γαστρίμαργος)がカ氏には際立っている。
今回の新型感染症をめぐるカ氏の専門家への敵愾心も際立った狂信性の表れで、ヴァイツゼッカーの「お告げ」(μαντεία)でも、カ氏のように神託(託宣)を伝える人(託宣師=μάντις)でも、ギリシア語では狂気(μανία)を意味する同じ語源の言葉で、狂信的な(μανικός)信条は、正気(τὸ σωφροσνέω)の向こう側の世界だから、相手にするまでもない。
中国発の災厄に世界が騒然としてきた。隣国韓国の感染者は急激な勢いで増え、26日現在で1,146人になった。死者も12人だ。イタリアも300人を超え326人、死者も11人出ている。イランも深刻で、確認された感染者数こそ95人にとどまっているが、死者は16人と中国に次いで多い。
中国全土の26日発表の感染者数は406人増加の78,064人、死者は52人増え、2,715人だ。湖北省以外で新たに感染が確認されたのが5人というのは、実態を反映していまい。全国31ある省、直轄市の26はゼロだからだ。死者もゼロだ。
こうした世界的伝播を受け、米国CDC(米国疾病予防管理センター)が、世界的大流行(pandemic)の二つの基準を満たしているとして一層の警戒感を表明した。中国、韓国への渡航はレベル3(最も危険な段階)になった。
カ氏の莫迦騒ぎを含め、日本が何やら牧歌的(νόμιος)に映る。[完]
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界中で猛威をふるい始めたからだ。中国全土の感染者数、死者数は、前日分が翌日のほぼ正午前に明らかになるが、ここにきて感染が急拡大している韓国、イタリア、イランは刻々と数字が塗り変わる。現時点(27日午前1時)だと、韓国1,261人(死者12)、イタリア374人(死者12)、イラン139人(死者19)だ。世界的大流行の兆しだ。
ラジオ代わりに点けている昨日26日のテレビは、感染の有無を判定する遺伝子検査、つまり今回の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)判定の唯一の決め手であるPCR検査が、自治体の相談窓口に相談したり、申し込んでもなかなか受けられず、依頼者が「検査難民」化している、という話だ。
国会でも取り上げられ、国が一日3,800件まで対応可能だとした官民の検査容量枠に対して、今月18~23日までの6日間の実施実績はクルーズ船分を含めて一日最多で1,594件、最小で656件の合わせて5,800件で、クルーズ船を除く検査実績は合わせて1,846件あるうち、20~25日までの6日間で、最多の20日が136件、最小は24日の39件で、わずか550件にとどまったことが報告され、野党の批判が集中した。
テレビなどでも、国側に早急な改善指導を求める声や、重症化を防ぐ掛け声の一方で、現実に苦しんでいる感染の疑いがある発症者を見殺しにする事態で、感染拡大の危機を声高に訴え、国民に理解と協力を求めている割には対応が遅れ、懸念された「医療崩壊」にも等しい状態ではないかと、声を荒らげる解説者もあった。最前線の現場で診療にあたる医師からも改善を求める声が出た。
その中で共通して指摘されたのが、韓国が最近一日最大で13,249件の検査を実施したこととの比較で、日韓の能力差がどこから出ているのか、東京五輪を控え、民間の検査機関の積極的な活用を促す声が相次いだ。
偏執狂のカ氏の議論にも共通する難点だが、日本もメディアの論調は単調で、事態を多面的に掘り下げる視点を欠く。政府が対策の柱としたクラスター(cluster=「集団感染」)の連鎖防止による大流行を可能な限り抑えるという点についても、クラスターという表現が分かりづらいといった不満を燻らせるばかりで、政府の基本方針を実効性あるものにするための独自の分析や具体的改善策の提言は、専門家を含めてあまりない。
不安を募らせ不満と不信が渦巻いている割には、どこか「牧歌的」と私が称したのは、本当の意味での危機感が欠落していることだ。イベントの中止が相次ぎ、北海道がきょう27日からすべての学校の一週間の休校に踏み切るが、それぞれの目の前の関心事に気を取られて、危機の全体像に注意を促す指摘はや心構えは少ない。
私は現実的に医療崩壊など、少しも起きていないとみる。東京と北海道で、いずれも持病をもつ高齢者が死んだが、重症者が急増したり、死者が相次ぐ事態には至っていない。検査をしなくても、必ずしも手遅れにもならず、死者を増やさない。しかも、人が死ぬのは新型感染症だけではなく、連日遥かに多数の高齢者が、別の肺炎やインフルエンザ関連症で死んでいる。それが現実だ。ただ、その一部には新型感染症とは確認されない患者が含まれている可能性があるだけだろう。
現実の医療崩壊は、新型感染症患者が医療機関に押し寄せて現場が混乱し、院内感染などで機能不全に陥ることで起こる。その兆候は今のところない。皮肉なことに、PCR検査が捗っていないことも、混乱を防いでいる。
今後、対策がどんなに首尾よくいっても膨大な感染者が日本でも出るのは必至だ。感染力の強さから、その数は最低で数百万人は不可避だろう。
問題は、それを突き崩す、当初の想定を上回る想定外の事態が混乱を生んだ場合、日本の医療体制の基礎的な体力がそれに持ち堪えられるかどうかだ。
妻が昨年死んだことで、日本の医療現場を改めて実見する貴重な機会を得た。そして、それが高齢化の進展に伴い膨張し続ける医療費負担や地域医療の荒廃、健康保険制度の持続的な安定運用の障碍といった制度・財政を揺るがす多くの問題からも、危ういバランスの上に成り立っていることを痛感した。
日本に指定感染症に対応する病床は、2016年の政府統計で1,841しかない。従って、新型感染症患者が増えれば一般の病床へのしわ寄せは避けれらない。
そもそも、日本に入院可能な病院と診療所(19床以下)は、15,131施設で985,703床しかない。その多くに入院患者が存在する。国民1,000人当たり,7.9床程度しか急性期の入院ベッドはない。なぜなら、総数で178,624の医療機関があり(病院8,454、診療所101,322)、1,667,033のベッドがあるが、そのうちの20.3%、338,992床は大半が高齢者に療養病床であり、20.1%、335,022床は精神病床だからだ。高齢化の影響は、このでも顕著だ。
つまり、実際問題として大量の新型感染症患者を収容し、治療する余裕は現在の日本の医療機関にはない。だから、感染の急拡大による短期間の重症患者の大量発生は致命的で、医療機関にとっても、既存の入院患者にとっても脅威になる。
それが日本の医療の現実であり、当然ながら新型感染症だけが病気ではない。そして制度だけでなく、医師も看護師も疲弊している。
殺伐非情に考えればそういうことで、医療資源の効率活用は至上命題だし、甘い考えで右往左往するのは、愚鈍でしかない。[完]
逆に、80歳以上は14.7%なのである。なんのために、学校を休校にし、老人が多く訪れる診療所で、致死率0.%の10歳以下の子供の健康が心配だ、という理由で、PCR検査を受けさせる必要があるのだろう。 この病気は、感染力は強いのである。老人に移るのである。北海道知事の学校を休校にするという決断が、スペイン風邪の時のセントルイスの市長のような英断だった、と岡田晴恵博士は称賛されるが、英断は、大阪府の協力を得てクラスター通しがくっつかないように、感染の広がりの状況を知るためにPCR検査を実行された和歌山県の仁坂知事がされた決断で、北海道の鈴木知事の学校の休校の決断は、橋下徹さんの影響を受けてマスコミ受けを狙ったものだ、と考える。
昨日も226事件のドキュメンタリーを見たが、あのころのマスコミの、昭和恐慌に対する無思慮な政治家批判が、陸軍青年将校の226事件を引き起こし、日本を軍国主義に突っ込ませたのではないのだろうか。
Covid19は、感染力が強い。また、中国は「一帯一路」政策をとり、イタリアを含めて世界中に旅行者を送り出しているのだから、Covid19の感染患者が世界中に広がっている、ことは当初から予想がついたことである。武漢は工業都市なのだから、アフリカに感染者がほどんどいないことの方がおかしい。伝えるべきことは、中国国内は、中国政府の努力によって、発生数が減った、ということ、BBCが伝えているが中国の場合、このCovid19の感染患者のうち84%は、軽症であった、ということである。もちろん、亡くなった方も多いが、それは既成のインフルエンザの患者にも多いのであって、去年アメリカでは何人亡くなったのだろう。こうなってくると、日本より、健康保険のないアメリカでのCovid19の感染の方が医療サービスを受けられない貧者が多い分、蔓延するのではないのだろうか。イタリアで大量感染が出た時点で、アメリカ政府が心配するのはもっともなことだと思う。日本は、発病すれば、公費でPCR検査を受け、陽性なら治療もしてもらえるし、医療システムが破壊されなければ、中国の経験からいろいろ智慧を得、全快できるのではないのだろうか。賢明な人(マスコミのコメンテーターではない)が対処すれば、被害は少なくてすむような予感がしてきた。とにかく、日本のマスコミの人がすべきことは、邪魔をせず、不安を煽らず、被害を最小限にする協力をすることだ。
岡田氏は、発生が報じられた当初から在京テレビ各局の報道、情報番組や討論番組に連日出演して、専門家としての見解を披歴しているが、一連の世論形成や政府の対応を左右するような決定的な影響をメディアを通じて与えているか、と言えば、それほどのこともあるまい、というのが、少し事態から身を退いて考えればすぐ分かる事実だろう。
岡田氏の主張は一貫していて、特に初期の頃はその時点で出ている論文の内容を紹介しながら、
①新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の病原性はインフルエンザよりやや強い程度で、エボラや鳥インフルエンザはもとより、SARSやMERSのような高い致死率を招く毒性はないが、感染力が強い
②発症者だけでなく、未発症感染者(未発症病原体保有者=非顕性感染者)からも感染するから捕捉や封じ込めが困難
③重症化したり死亡するリスクは高齢者や基礎疾患の保有者に多く親和性があるから、優先的に対処する
④既に感染発生の初期段階を過ぎて国内でも散発的な感染が起きている蓋然性が高いから、「湖北省縛り」をやめて、もっと感染実態をつかみ、感染拡大による患者の大量発生で医療機関が混乱し、院内感染などで機能不全を招き医療崩壊につながらないよう、対策の重点を重症者対策に絞る
⑤感染発生のピークを抑え、現在の医療資源の対応やコントロールできる範囲内に抑え込むべき
⑥感染実態をつかむために、中国との関連性を離れてPCR検査の対象を拡大し、それを促すために速やかに保険適用を進める
――といった、専門家の共通認識を集約したような、常識的内容にすぎない。
カ氏は連日テレビ漬けで、他に医師の久住英二氏とか大谷義夫氏を目の敵にするなど、意味不明で支離滅裂な議論で番組の出演者の見解に苛立って噛みついているようだが、それこそ無知な素人の印象(ἡ εἰκών)で、ただの感想(ἡ σύννοια)だろうし、カ氏が気に入らない識者の代表的存在として岡田氏に見当違いな憤懣(θυμός)をぶつけているのだろう。
つまり、岡田氏の主張の妥当性、客観性、首尾一貫性など実はどうでもよく、メディアを闇雲に批判するカ氏特有の狂信的な姿勢で、岡田氏をメディアの象徴として標的にするのだろう。
連日、朝から晩まで日本のテレビ漬けの割には、ドイツの高が週刊誌Der Spiegelの電子版の解説などを滑稽なほどありがたがって特筆大書して不当に一般化しているのも愚劣な議論で、「ドイツ狂い」ならではの虚勢にすぎない。
その場の思いつきで矯激なクズ投稿を撒き散らすカ氏の主張に傾聴に値する一貫した妥当性や説得力はなく、多くは陳腐で退屈な議論のゴミの山だ。
北海道の公立小中学校の休校措置について、282②⇒【なんのために、学校を休校に…子供の健康が心配だ、という理由で、PCR検査を受けさせる必要があるのだろう…この病気は、感染力は強い…老人に移る】も、ものごとを論理的かつ総合的に考えられない「頭の悪い」カ氏ならではの混乱した議論で、重症化する割合は低くても子供にも感染し、子供を介して感染が広がる。
学校は典型的な「濃厚接触」の場で、集団感染が起きやすいから、感染症の運び手になりやすい子供への感染予防措置として、学校の休校措置は、北海道のような感染事例が多い地域では当然の選択だ、ということをカ氏が理解しないだけの話だ。
282④⇒【232で書いたように、武漢を含めた中国の…】は、ネット上から中国・国家保健衛生委員会傘下の研究機関の公表データを、整理せずにコピペして貼り付け手間を省き、粗雑で愚劣な素人見解を並べてお茶を濁しているにすぎない。謂わば、カ氏の怠惰と愚鈍さの自己証明(αὐτό τεκμήρια)でしかない。
有体に言えば、「莫迦丸出し」ということだ。
カ氏がコピペする際に補正しなかったので、単位や位取記号(,)、%表示の際のピリオド(.)を適切に表記すれば、次のようになる。合わせて、如何にも杜撰な中国流の計算結果も補正した。
◆年齢層別の感染者数/死者数(死亡率=%)⇒▼0~9歳 416/0人=0 .00%▼10~19歳 549/10人=1.82%▼20~29歳 3,619/70人=1.93%▼30~39歳 7,600/180人=2.37%▼40~49歳 8,571/38人=0.44%▼50~59歳 10,008/130人=1.30%▼60~69歳 8,583/309人=3.60%▼70~79歳 3,918/312人=7.96 %▼80歳以上 1408/208人14.77 %(情報源: China CDC Weekly)
ことほど左様に、カ氏は低能(πονηρία)の横着者(ὁ ἀργός)で、つける薬がない。
陰性の元乗船客がもたらす感染リスクは、現段階での市中感染のリスクと比べ特別に危険視する必要はない、というのが、専門家会議の議論をまとめたのがWHOでSARS対策の陣頭指揮を執った副座長の尾身茂氏(元WHO西太平洋地域事務局長)の見解で、尾身氏が現時点でcriticalとして最も経過しているのは、クルーズ船乗客が集団感染源になるというものではない。
283②⇒【加害者は政府ではなくて、マスコミのコメンテーターかもしれない】のような議論は、世の中が騒然としてくるよく現われる狂信家の遠吠えとして、無視するしかあるまい。
ソクラテスやプラトン、その哲学理論の中核的主張を説く田中美知太郎の議論は、284⇒【いい加減なことを主張する政治家やジャーナリストや専門家と正しいことを主張している政治家、ジャーナリストや専門家がこの世に存在】のような、中途半端なものではない。哲学が要求するような厳密な「知」は政治家や技術者はもとより、その欠陥が最も著しいのが創作家、つまり作家や詩人、つまりゲーテのような存在だという、作家としての有能さの程度を超えた根源的な否定だ。
つまり、作家や詩人がもたらすものに、厳密な意味では何の価値もない、という主張であって、田中はともかく、ソクラテスやプラトンにとって、作家や詩人は理想の国家から追放されるべき無用な存在だということだ。
ゲーテは創作家である。どんなに体験を重視しても、作品は所詮は想像力の産物、現実の模倣にすぎない。そして作品の卓越性は現実を忠実に写すことにあるのではないように、体験に裏付けられていることにあるのではない。むしろ、想像力を駆使して現実から独立した世界をつくり出す構想力の中に作品としての真価、存在意義がある。
しかし、その真実の認識における価値は、哲学には遙かに及ばないというのがプラトンの主張で、創作は究極的な存在について、何も教えはしない、どこまでも代用物にとどまるという否定的見解なのだ。
ソクラテスやプラトンが説く実在(εἶναι, οὐσία)や真実在(ἰδέα)とは、カ氏が強調する体験(πείρα)や直接経験(εὐηθικός περιπτωσις)のことでは全くない。むしろ、体験の背後にある真の現実(τὸ γιγνόμενον)のことだ。現実を成り立たせ、貫く構造のことで、ゲーテ程度の陳腐な体験主義とは正反対の見解だ。
「体験を踏まえる」ことが説得力を生むという見解は一見してもっとものように聞こえるが一種の幻想で、愚かな人間は体験して酷い目に遭わないと、肝腎なことは何も理解しない、というのとほとんど同じ意味だ。
中国全土の27日発表の感染者は433人増えて78,497人になり、死者は29人増の2,744人になった。悲惨な実態を如実に示す数字だが、それも氷山の一角で、真相(ἀληθῆ)、現実の全体像(τὸ ὄλος)を映してはいまい。醜悪な抑圧支配が今日の事態を引き起こしているのだろう。
共産党に家畜(βοσκήματα)、のように飼い馴らされた(τιθασός)国民も哀れだ。[完]
カ氏が233で杜撰なコピペによって示した、新型コロナウイルス感染症による中国での年代層別の感染者、死者、致死率(「中国疾病管理予防センター」まとめ)を、私が289で、表記や数値を補正して示した記述のうち、コピペによる不適切な引き写しを誤認し、それに基づいて転記したために誤りが生じた部分があるので、以下の通り修正する。
誤りが生じたのは、次の三つの年代層で、次の箇所。
【▼10~19歳 549/10人=1.82%▼20~29歳 3,619/70人=1.93%▼30~39歳 7,600/180人=2.37%】、
死者数を10~19歳=10人⇒1人▽20~29歳=70人⇒7人▽30~39歳=180人⇒18人――にそれぞれ差し替え、従って致死率(死亡率)も一桁繰り下がる。
正しくは以下のようになる。即ち、
◆年齢層別の感染者数/死者数(死亡率=%)⇒▼0~9歳 416/0人=0 .00%▼10~19歳 549/1人=0.18%▼20~29歳 3,619/7人=0.19%▼30~39歳 7,600/18人=0.24%▼40~49歳 8,571/38人=0.44%▼50~59歳 10,008/130人=1.30%▼60~69歳 8,583/309人=3.60%▼70~79歳 3,918/312人=7.96 %▼80歳以上 1,408/208人14.77 %(情報源: China CDC Weekly)
全体で、感染者44,672人、死者1,023人、致死率2.29%。
なお、誤りではないが、誤解を招きやすい記述、281⇒【総数で178,624の医療機関があり(病院8,454、診療所101,322)】は、総数で178,624の医療機関のうちには、一般の医療機関に加え、記述にはない歯科=68,838、その他=10があり、それらを合計すると178,624という意味である。
これも、橋本徹さんが、「大阪の例をあげて、学校の休校の必要性をとき、それは国の政治の責任だ。」と強硬に主張された結果、マスコミのコメンテーターの主張がそれ一色になり、その主張に感染した国の政治がそうなってしまったのであるが、これは、安倍首相が責任を取ったらすむ、という問題ではなく、「日本全体の問題」になるのである。つまり、マスコミ界の声の大きなコメンテーターに世論が誘導された結果、現在、「現実遊離を起こした政策」になってしまっているのである。
もっとも、ビスマルクの箴言として伝えられているこの言葉=Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.“は、「ただ愚者ばかりが自らの経験から学ぶと信じている。私はむしろ、始めから自分の誤りを避けるべく、他人の経験から学ぶことを好む。」というほどの意味で、「歴史」を他人の経験(Erfahrungen anderer)に読み込むのは、聊か牽強附会の気味もないわけではないが、そうした傾向がカ氏の一連の主張にも際立っているように思う。
293⇒【愚かであった私は、入院中痛い目にあった結果、少し賢くなり、医療に関してマスコミの専門家面されているコメンテーターと意見が違う】というのはカ氏の自由だが、それは、カ氏がいたずらに敵視するテレビに連日登場する個々のコメンテーターの主張を正確に理解したり、分析できたりすることが前提にならなければ、本欄のような「公共の」言語空間での議論としては不適切だろう。
カ氏が連日にわたって狂態の限りを尽くしている「クズ」投稿は、そうした条件をクリアしていない、暇をもて余した単なるおしゃべり屋(ἀδολέσχης)の、それこそ「老婆の他愛もない無駄話」(ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος)にすぎない。カ氏のような矯激な女デマゴーグ(δημαγωγὸς)の法螺話には、何の学識(μάθημα)も技量(τέχνημα)もなく、騒々しいだけだ。
安倍晋三首相が昨日27日、来月2日からの全国の公立小中高校の休校措置要請に協力を呼び掛けたのに、反対の大合唱の野党と何も変わらない。
危機管理を何も理解していない。
ラ・ロシュフコーなら‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。」=La Rochefoucauld; Maximes 386)ということになる。
人間は、必ずしも経験(ἐμπειρία)に学んだりしない。むしろ、経験によって形成された固陋な固定観念(ὑπόληψις)が人をして誤った方向に導くからだ。
歳を重ねて賢明な老人は意外と少ない。プラトンは「叡知とか、しっかりした真実の思惑などは、せめて老年においてなりと人に具われば、もって幸運とすべきもの」(‘φρόνησιν δὲ καὶ ἀληθεῖς δόξας βεβαίους εὐτυχὲς ὅτῳ καὶ πρὸς τὸ γῆρας παρεγένετο’=Leges 653A)という趣旨の指摘をするが、世の現実はむしろ逆で、「そうするとどうやら、『再び子供に戻る』というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなる」(‘οὐ μόνον ἄρ᾽, ὡς ἔοικεν, ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνοιτ᾽ ἄν, ἀλλὰ καὶ ὁ μεθυσθείς.’=ibid. 646A)のが実態(τὸ τί ἦν εἶινι)なのだ。
だから、辛辣なラ・ロシュフコーにかかると、‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(ibid., Maximes 93=「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」)となる。
特定の個別的経験を過大視して教訓(διδασκαλία)とし、不適切に重要視したり一般化するから、逆に手痛いしっぺ返し(ἀντιδρᾶν κακῶς)を喰らうことだってある。個別的経験や体験(πείρα)、見聞(περιπτωσις)は、所詮は個々の事例(ἴδιος παράδειγμα)、「個々の(独立した)事物」(τὰ καθ’ ἕκαστον)であって、それぞれにとって(ἕκαστος=each as opposed do all)、「個別的」(καθ’ ἕκαστον)に有効(περαντικόν)だったり、理にかなって(λογικός)いたり、適切な選択だったりしただけなのだ。
端的に言えば、それはカ氏の私事(ιδιώτης)、私の(ἴδιος, οἰκκεῖος)こと、領域(τόπος)にとどまる。そして人はすべて「個であること」(ὑπόστασις[唯一絶対性]=καθ’ ἕκαστον[個々特殊の])を抱えた存在である以上、皆「等しくない」(ἄνισος)のは必定で、それゆえに、というかその限りで比較が不可能(ἀδύνατον)で、カ氏が強調する個性(ἰδιώτης)も、しきりに主張する個(人)が個として尊重される(τιμὴν ἔχω)べき尊厳(σεμνόν)も成り立つのである。そこには何の価値もないが、それぞれにとって独自の(ἴδιος)意味(ἔμφασις)の領域を拓く。
そうした個別的経験は自然科学のように、実験によってそれを再現して(μιμεῖσθαι)真偽を検証することはそもそも不可能だ。その真理(ἀλήθεια)、真実(τὸ ἀληθές)なるものは、カ氏の単なる確信(πίστις)、畢竟信仰(πίστις)であって、けっして普遍妥当性(Allgemeingültigkeit)、端的に普遍性(τὸ καθόλου)を主張できないし、何の価値もない。
カ氏は、首相の政治決断を批判して、294⇒【日本のマスコミに洗脳された安倍首相】とか、294②⇒【橋本徹(橋下徹=筆者註)さんが、「大阪の例をあげて、学校の休校の必要性をとき、それは国の政治の責任だ。」と強硬に主張…結果、マスコミのコメンテーターの主張がそれ一色に…その主張に感染した国】のような妄言を重ねるが、安倍首相もそれほど愚鈍でも認識不足でもなかろうし、橋下氏にそれほどの影響力あるとも思えない。
ただ、政府の専門家会議が現在の日本が置かれている状況が、現状のまま放置すると急激な感染拡大につながりかねないcritical(危機的)な、対策を講じるうえで瀬戸際の状況にあることを重くみて、政治決断に踏み切っただけだろう。
科学的に、というか計量的に考えれば、危機管理の要諦は空振りになることを恐れず、常に想定外の事態を計算に入れて、そのための緊急時の代替的対応策(emergency plan)を一方で用意しながら、その場しのぎの対処、つまり労力や資力の逐次投入ではなく、一気に全力であらゆる対策を講じて危機や最悪の事態を封じ込め、被害や損失を回避することだろう。
確かに歴史に学ぶことはこの点で有効であり、第二次大戦中の日本の愚劣な戦争指導は他山の石になる。
政治とは不確実性への挑戦である限り、その決断は政治家本来の最も大切な役割だ。日本国内は既に市中感染が起きていることからみて、対策の有無にかかわらず大規模感染は必至だが、たとえ同規模の感染者数でも、つまり最終的積分値は同じでも、ピークを抑え時期をずらすことで医療崩壊を回避でき、死者を減らせる。
恐れるべきはもはや感染ではなく、感染者の死なのだという根本的認識が日本人には欠落している。危機管理とは、一種の戦争(πόλεμος)だからだ。
政府や専門家の悩みは、現状で選択可能な有効な対策を決定することより、実施や効果の障害になるようなさまざまな要因、民主制国家に避けられないコストも考慮に入れて、説得に当たらねばならないことだろう。
日本人の近視眼はこの点でも際立っている。自称「国際事情通」の「国際理解」かぶれが際立つカ氏がいきり立つのにも一面無理はない。
「国内の」を意味するドメスティック(domestic=ἴδιις)という言葉は、元々‘domestic animals’というように家畜(βοσκήματα)、つまり獣(θρίον)のように飼い馴らされた(τιθασός)状態、従順な(εὐπειθής)性向を意味する。
あくまで一般論だが、否定できない事実として、日本人は戦後70年以上にもわたって、事実上押しつけられた碌でもない憲法を一切変えずに、後生大事に守ってきたくらいだから、特にその傾向が強い。
保守政治家や自民党の意向とは別に、一貫して改憲または廃止を唱えてきた田中美知太郎や福田恆存が進歩派や護憲派から激しく批判され、保守反動のレッテル(γράμμα)を貼られたのもそのためで、福田などは、戦後憲法を当用漢字になぞらえて「當用憲法」と称していたくらいだ。
中国全土の28日発表の感染者は327人増えて78,824人、死者は44人増えて2,788人になったが、不自然さを感じる。韓国は感染者が2,000人を超え、死者は13人、イランは死者26人だ。イタリアの死者も17人で、ドイツの感染者も48人と一気に増えた。世界54カ国に広がった。
危機を通じて見えてくるものは多いようだ。[完]
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