外務省委託事業の実施責任者として主に研修運営に従事した後 https://peacebuilderscenter.jp/ 、東京に戻ってきた。すると、コロナウィルスの意識が全く違う世界が、そこにあった。電車に乗るのも、大げさに言えば、命がけ、という世界だ。
それでも現時点の日本国内の感染者数が200人程度にとどまっているのは、ほとんどの人が外出時にはマスクを着用しているといった国民性のゆえではないだろうか。マスクでどれだけ感染が防げるかわからない、といった言説も多々見られるが、やはり(潜在的)感染者がマスクを着用しているかどうかは、大きな違いであるように感じる。人々は自分を守るつもりでマスクを着用しているのだろうが、いずれにせよマスク着用率が高いことは、感染防止に意味があるように思う。
しかし、だからこそ逆に、私は、電車に乗ると、マスクを着用していない人の存在が気になってしまう。マスクを着用しない人物が、咳をした後、口を覆ったその手で吊革をつかむ場面を見たりなどしたら、うわ!! これはもう!! と背筋が寒くなる。
多くの識者が、感染症対策は、戦争と同じだ、と言っている。私もそう思っている。人類の歴史が、そのように語っている。
だから、戦場の比喩を使おう。軍事の世界では「兵力集中投下の原則」というものがある。相手の弱点に向けて、兵力を集中的に投下することが、戦場において最大限の効果を図るために最も効果的だ、という考え方である。
次々とイベントが中止され、(地域差が無視されて!)小中学校も休校が要請されている現在、日本社会で最も脆弱な弱点となっているのがどこであるかは、はっきりしている。医療援助のニーズのために閉鎖できない病院と、経済活動持続のために閉鎖できない大量輸送交通機関だ。
コロナウィルスは、ひとたび脆弱な空間を発見すれば、あたかもそれが相手の防御線を切り崩すための決壊ポイントであるかのようにみなし、襲いかかってくるだろう。
医療機関については、医療の専門家が管理する場所だ。機能し続けるとしても、最大限の配慮がなされていなければならないはずだと考える。
しかし全く別の意味で脆弱なまま放置されているのが、交通機関だ。特に通勤客を吸収する電車やバスであることは、言うまでもない。
密集した空間に数百人といった数の人間がいたら、ほんの少しの数の人によって、決壊ポイントは作られてしまう。
国会で、立憲民主党の枝野党首が、厚労省以外の省庁の当事者意識の欠如を指摘したという。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200227-00000002-yonnana-soci&p=1 「交通機関の問題がある。これは国土交通省」。
これは、全く妥当な指摘だ。より具体的な提案とともに指摘がなされたら、さらに良かった。
通勤者による自己防衛(ちなみに私は除菌ティッシュ―を携帯している)、及び通勤者の雇用者に対する時差通勤への配慮への要請がなされている。だが交通機関側は何をしているのか。
駅のトイレに行っても、手洗い場はあっても、石鹸さえ置いていない場合が多々見られる。論外ではないだろうか。
本来であれば、プラットフォームや改札に、消毒液を多数設置するべきではないのか。できれば車内にも、咳エチケット用のティッシュ―や、吊革につかまりたい人向けの除菌ティシューを備え付けておきたい。
いまだに咳やくしゃみをする際の留意事項を記した啓発ポスター類が全く見られないのも、残念だ。
私は平和構築活動の調査でシエラレオネなどの西アフリカによく行っていた。さすがにエボラ出血熱の大流行の際には渡航を控えた。収束後に入国すると、「愛する家族のために、社会のために、責任を持った行動をとろう」といった啓発目的の看板が、多々街に残って切るのを目にした。
感染症対策は戦争だ、といった比喩は、良いと思う。だがその比喩が間違って使われないことを願う。政府は強権を発動せよ、と言いたいだけであれば、わざわざ戦争といったレトリックを使う必要もない。
ポイントは、多くの人々に生か死かを問うような影響が及ぶ深刻な事態だ、ということだ。日常空間(たとえば通勤電車)に、非日常的な場面を挿入する(たとえば駅における大量の消毒液)といったことを、当然と考えるのが、「感染症との戦い」で必要な態度ではないだろうか。
コメント
コメント一覧 (92)
与党内でも今回の政治決断に反対が少なくなく、首相も一旦は断念したようだ。文科省も公明党も一貫して反対だったらしい。それを最終的に首相が押し切った。
日本の牧歌的気風は、そもそも安全保障上の戦略的思考を不得手とする以上に、それを何とか回避しようとする、意識的無意識的な心理メカニズムが働く。異を唱えて突出したり、責任を問われるのを極端に嫌う。
25日に発表された政府の基本方針のような総論的お題目では面従腹背(ἢ δουλεία στενόντων καὶ πείθεσθαι προσποιουμένων=面従を装う奴隷的服従)を遺憾なく発揮するが、各論、特に自分たちも巻き込まれる具体的な問題になると、それぞれの利害得失(συμφέρον, χρήσμον, ἀγθόν)に伴う対立が顕在化し、遠慮のない不平不満が相次ぐ。
大規模災害や急迫不正の事態の突発による安全保障上の非常事態が起きたらどうなるのだろうと心許ないが、そうした事態はできるだけ考えないようにするのが日本人の、特に戦後の自然的性向だから、戦略的思考は育たないし、大半の政治家も関心を示さない。
今回の新型感染症は、未だ解明されない点が多いが、一昨日夕刻の安倍首相の「唐突の」政治判断まで、何となく「大変な事態」とは考えても、どこか模様眺めを決め込んでいた大多数の国民にとって、「大変なことになった」と、俄かに慌てふためふためいたのが、昨日以降の一連の大騒動だろう。
自然災害ではないが、相手が半ば不可抗力の異国発の感染症でこの体たらくだから、本当に安全保障上の危機的な事態になったら、国中が大混乱に陥るのは必至だ。
与党内でも今回の政治決断に反対が少なくなく、首相も一旦は断念したようだ。文科省も公明党も一貫して反対だったらしい。それを最終的に首相が押し切った。
日本の牧歌的気風は、そもそも安全保障上の戦略的思考を不得手とする以上に、それを何とか回避しようとする、意識的無意識的な心理メカニズムが働く。異を唱えて突出したり、責任を問われるのを極端に嫌う。
25日に発表された政府の基本方針のような総論的お題目では面従腹背(ἢ δουλεία στενόντων καὶ πείθεσθαι προσποιουμένων=面従を装う奴隷的服従)を遺憾なく発揮するが、各論、特に自分たちも巻き込まれる具体的な問題になると、それぞれの利害得失(συμφέρον, χρήσμον, ἀγθόν)に伴う対立が顕在化し、遠慮のない不平不満が相次ぐ。
大規模災害や急迫不正の事態の突発による安全保障上の非常事態が起きたらどうなるのだろうと心許ないが、そうした事態はできるだけ考えないようにするのが日本人の、特に戦後の自然的性向だから、戦略的思考は育たないし、大半の政治家も関心を示さない。
今回の新型感染症は、未だ解明されない点が多いが、一昨日夕刻の安倍首相の「唐突の」政治判断まで、何となく「大変な事態」とは考えても、どこか模様眺めを決め込んでいた大多数の国民にとって、「大変なことになった」と、俄かに慌てふためふためいたのが、昨日以降の一連の大騒動だろう。
自然災害ではないが、相手が半ば不可抗力の異国発の感染症でこの体たらくだから、本当に安全保障上の危機的な事態になったら、国中が大混乱に陥るのは必至だ。
政治的選択には、具体的な政策目標があり、優先順位がある。24日に緊急会見した政府の専門家会議の見立て、今後の急激な感染拡大をできるだけ抑え、重症化患者の大量死につながる医療崩壊を招きかねないの危機的混乱を回避するため、「この一、二週間がcriticalで、感染拡大のスピードが行ってしまうのか、ある程度抑制できるのか瀬戸際にあるという問題意識」が政府や専門家に共有され危機感が切迫性を帯びているなら、首相の判断はむしろ遅すぎるという批判が出てもおかしくはないが、どうやら少数派だ。つまり、国民レベルで危機感が共有されていない。
つまり、民主的な合意形成と周知徹底のために、専門家を含め議論百出で何も決められない「小田原評定」をしても事態は何も進まないし、何の決断もできない、ということだろう。結局、危機管理は、民主制国家であっても、最終的には政治家にしかできず、政治家のみに決断の政治的正当性がある、ということだろう。
「責任は私が取る」と首相が言い切った以上、「否や」はない。政治は不確定な未来に向けた挑戦だが、別に首相は無謀なドン・キ=ホーテではない。
ケインズも説くように、人間は将来に向けて確かな見通しを欠いた状態で選択を余儀なくされる存在だ。そして、「将来を左右する人間の決意は、それが個人的なものであれ政治的なものであれ経済的なものであれ、そのような計算を行うための基礎が存在しないから厳密な数学的期待値に依存することはできず、車輪を回転させるものはわれわれの生まれながらの活動への衝動」でしかない。
その点で首相の決断にはショック療法の側面があるのだろう。
反氏の主張されるように、岡田晴恵博士は専門家である。だから、国民が信頼して、危ないのである。友人の一人が、池袋の大谷医院で診療を受けていて、テレビに出演しているから有名な先生だと思って通っていたけれど、忙しそうでよくみてくれない、と嘆くので、他の先生にしたら、とみんなで勧めて、近くの先生にしたところ、とても丁寧にいろいろ教えてもらえた、そうであるが、テレビに出る、ということは、結局そういうことで、その医師の名声は上がるかもしれないが、患者の立場に立った医療ができなくなるのではないのだろうか。患者の立場がわかれば、レッドゾーンとグリーンゾーンが混乱する主張はできないはずなのである。
ドイツのコッホ研究所が出した2月14日に提出したまだ未解決の3つの問題、感染者が感染から発病までどれだけの日数がかかるか、患者がどのぐらいの期間ウィルスを放出し、そのウィルスで他人を感染させるか、その病原菌がどれだけ危険なのかについて、あれから2週間たっても、まだ不明である。本来、政治、行政は、ファクト、その臨床結果によって、専門家のアドバイスを受けて、政策、方針を決めるべきなのであって、神がかり的発想、第一次世界大戦中のスペイン風邪がこうであったから、という理由で対策を決めるべきものではないのである。あの頃とは、国際間の人の交流の密度、所要時間がまるで違う。とにかく、お願いしたいことは、小池知事の豊洲問題、貴乃花親方問題で、マスコミの世論に及ぼす影響力は、すでに実証済みなのだから、その影響力をよく考えて、おかしな主張をして、首相をまどわせる、つまり、専門家の憶測や主観的な意見を一日中報道するのではなく、客観的な事実を報道していただきたい、そして、世界的に協力してこの3つの未解決の問題と取り組み、この病気の正体を知り、穴を防ぐ努力を真剣になってしていただくこと、を願う。それが、本当の意味の「オールジャパン」なのではないのだろうか。
中国の統計を見る限り、患者の84%は軽症だし、0歳から9歳までの死者は0、80歳以上の死者数にしろ、反氏の推計によると、大混乱した武漢も含めて、中国全土、14億人中208人である。日本の1億人の人口で、高齢者のお風呂での死者は3000人超えるそうであるが、この伝でいくと、お風呂を禁止しなければならないが、日本の現状はそうはなっていない。アビガンのことにしろ、今日の日テレの報道番組で専門家が説明されていたが、やはり、この薬には副作用がある。この薬を投与して、胎児に悪影響があったら、どうするのかと思うし、効き目も死亡率の高いエボラ熱に対してと同じぐらいだそうである。Covid19で重症になる人は、16%だし、効かない場合もある薬をCovid19患者に大量に消費して、従来のインフルエンザが大量発症したら、どうするつもりなのか、と思う。既存のインフルエンザでも、重症化し、亡くなっている方もあるのである。Covid19で亡くなる人だけを0にするのが目標でないのなら、軽症の患者が圧倒的に多い現状から見て、重症者になりそうな高齢者、持病をもつ人を隔離し、今までどおりの診断をし、Covid19の感染の疑わしい患者を帰国者、接触者外来で受けつける、にした方が、ずっと感染を拡大させない、重篤者を増やさない、日本社会を混乱させない政策だと私は思う。
ところで、私の個人的な行動の規準(ἀξίωμα)は、経験(ἐμπειρία)という事実(ὅτι)からは、「そうすべきだ」という有意味な(σημαντικός=significant)「規範的判断」(ἐπιτάττουσαι ὑπόληψις)、つまり規範的命題(ἐπιτάττουσαι προτατικός)はただちに生まれないとする自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)を説いた分析哲学の祖G. E. ムーアにならって、殺伐伐非情の論理主義者を通している。
事実判断(Tatsacheurteil)ではない価値判断(Werturteil)の領域に属する規範的命題は、M. ウェーバーの価値情緒説的な見解の基本である、所謂「没価値性」(Wertfreiheit)のテーゼにも通じ、理論的な認識(Erkenntnis)と実践的な評価(Stellungnahme)との間にある異質性(Heterogenität)、換言すれば実践的命令の規範としての妥当性(Gültigkeit)と、他方で経験的事実認定の真理としての妥当性とが、それぞれ絶対的に異質な問題平面に属するとの認識だといえる。
ケインズが説いたような、政治や経済にかかわる人間の選択は、将来という不確実性(uncertainty)の領域に属するもので、誰しも確かな見通しを欠いた状態を余儀なくされ、極言すれば何の確かな根拠もなく選択を迫られる世界だということにも通じる。
そこに自然科学科学的な客観的妥当性(Objektivegültigkeit)、普遍的妥当性(Allgemeingültigkeit)、ケインズの言い方なら、厳密な数学的期待値に依存する(depend on strict mathematical expectation)ことはできない代物だ。
だから政治的プロセス、つまり民主的な合意形成である討議を経て、それに基づく最終的決定の正統性(legitimacy=ἡ ὀρθότης)を負託された政治家(ὁ πολιτικός)の出番となる。
民主制とはこの意味で、畢竟、政治家=決定する人間を選挙など多数決によって選ぶ手続きにすぎない。
政治的経済的選択についてケインズが説くまでもなく、「なぜなら、そのような計算を行うための基礎が存在しないからである」(since the basis for making such culculations does not exist.)。
そして、政治の存在意義とは、そうした吉と出るか凶と出るか厳密には定ならぬ、誰にも勝義の(κύριος)意味で厳密に科学的には判定できない領域について、不特定多数の人々、今回は日本国民を巻き込む政治的決断を為し得る最終決定者が首相とされたているにすぎない。
感染症や公衆衛生学の専門家が、これまでの疫学的知見や、次第に明らかになってきた新型コロナウイル(SARS-CoV-2)について、できるだけ幅広い議論をして実態解明に努め、従来の対処法との適合性を含め、現在取り得るさまざまな選択肢について議論し、政策決定者に助言することはできるし、それは政策決定の前提条件として不可欠だ。
しかし、特定の政策選択がもたらすメリットとデメリット、つまり有効性とリスクについては過去の科学的な知見の蓄積からある程度確実な計算、つまり合理的推定は可能だとしても、実験してその有効性を事前に判定することは専門家といえども客観的にはできないから、どうしても最終的に具体的対応策を絞り込む過程で、政治家が当該分野の科学者を兼務するのではない限り、科学的には素人の政治家の決断に委ねざるを得ない。それが、民主制の原則だ。
そして、全国休校措置要請も一つの、選択可能な非常手段にすぎない。
そして、国民になにがしかの犠牲を強いる以上、政治的責任を取り得る誰かが選択せざるを得ない。われわれは、確実性それ自体と同じくらい計算可能な状態にまで不確実性を低減することはできない。特に危機管理において。そして不確実性と計算可能なリスクとは異なる。
危機管理に、確実で痛みを伴わない政治決断などないのである。
「しかし、このような現在の気運は別としても、経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりも、遙かに強力である。事実世界を支配するものはそれ以外にはない。どのような知的影響とも無縁であると自ら信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通だ。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のある三文学者から彼らの狂気じみた考えを引き出している。」
‘But apart from this contemporary mood, the ideas of economists and political philosophers, both when they are right and when they are wrong, are more powerful than is commonly understood. Indeed the world is ruled by little else. Practical men, who believe themselves to be quite exempt from any intellectual influences, are usually the slaves of some defunct economist. Madmen in authority, who hear voices in the air, are distillimg their frenzy from some academic scribbler of a few years back.’(“The General Theory of Employment, Interest and Money”, 1936: The collected writings of J. M. Keynes, Vol. VII. 1973., p. 383.)。
学問や思想には想像以上の影響力がある。そして、政治家を選ぶのもまた、賭けなのだ。[完]
この病気をコントロールできるようになることだけである。癌や白血病、心臓疾患も同じではないのだろうか。これからもCovid19が原因で亡くなる高齢者は多くおられるだろうし、感染される方も増えるだろう。我々が一番気をつけなければならないことは、Covid19撲滅にやっきとなって、日本の医療システムを崩壊させないことなのであって、この世の中には、他にもたくさん恐ろしい病気があって、介護、看護の必要な、免疫力の衰えておられる方が多くおられる、ことをよく自覚しなければならない、と思う。重症化率14%、子供の死者数がほとんどない病気なのに、どうして子供の感染をそれほど怯えなければならないのかわからないし、検査でその病気であったと判明しても、治療法がない病気に、どうして、PCR検査での陽性、陰性の認定がぜひ必要か、ということもわからない。結果がわかったところで、特効薬はないのである。あるのは効果がある薬にすぎないのである。
われわれの主題に関しては、この歴史を政治(τὰ πολιτικός)に読み替えることができるだろう。歴史的決定論に加え、政治的決定論を否定することは、歴史やその他政治や経済分野における不確実性(uncertainty=τὸ ἀφανές)の存在とその役割に関するケインズの主張を紹介した折にも論じたが、「将来に向けて」(τοῦ λοιποῦ χρόνου)、われわれが、最善(βέλτιστος)とは言えなくても代替可能なより善い(βελτιον)、望ましい選択(ἀγαπητός προαίρεσις)を実現し、人間としての幸福や自由を確保するための大前提となる。
「過去を研究する歴史家や現在を観察する政治屋、未来に目を向ける政治家を等しく困惑させる諸事象におけるそのような不確実性」(『ケインズ文書』1901年1月、1頁=Keynes Papers, King’s Colledge Library, Cambridge=引用はジル・ドスタレール [鍋島直樹、小峰敦監訳]『ケインズの闘い』、196頁)についてケインズは語っているが、凡庸な人々が将来を過去の延長とみなしたがる性向に不思議はない。
だから、「たいへん不思議なことに、人間の知力では諸事の状態の変化が生じる前にそのような変化を予想することができないので、ほとんどの人にとって、平和から戦争への転換のような大きな転換は、実際にそれが起こるまでは、ほとんどありそうにないことのように思われる」(1~2月、2頁=同訳書196頁)所以だとなる。
今回の肺炎禍における中国当局の一連の経過と、世界63カ国という感染拡大を招いた失態はその証左だろう。
29日発表の中国全土の感染者は427人増え79,251人となり、死者は47人増えて2,835人となった。韓国の感染増は爆発的で一気に3,000人を超え3,150人、イランでの死者も43人と急増している。
‘καὶ ἐπέπεσε πολλὰ καὶ χαλεπὰ κατὰ στάσιν ταῖς πόλεσι, γιγνόμενα μὲν καὶ αἰεὶ ἐσόμενα, ἕως ἂν ἡ αὐτὴ φύσις ἀνθρώπων ᾖ, μᾶλλον δὲ καὶ ἡσυχαίτερα καὶ τοῖς εἴδεσι διηλλαγμένα, ὡς ἂν ἕκασται αἱ μεταβολαὶ τῶν ξυντυχιῶν ἐφιστῶνται. ἐν μὲν γὰρ εἰρήνῃ καὶ ἀγαθοῖς πράγμασιν αἵ τε πόλεις καὶ οἱ ἰδιῶται ἀμείνους τὰς γνώμας ἔχουσι διὰ τὸ μὴ ἐς ἀκουσίους ἀνάγκας πίπτειν· ὁ δὲ πόλεμος ὑφελὼν τὴν εὐπορίαν τοῦ καθ᾽ ἡμέραν βίαιος διδάσκαλος καὶ πρὸς τὰ παρόντα τὰς ὀργὰς τῶν πολλῶν ὁμοιοῖ.’(“Ἱστορίαι”, Γ. 82. 2)
「内乱のために国家も国民も数多くの苦難に見舞われることになった。それは人間の性情(自然的条件)が同じである限り、始終起こっていることであり、これからもいつも起こるだろう。たまたま一緒に起こることが、それぞれ変化することによって、程度はもっとひどいこともあるし、またもっと緩やかなこともあり、形態もいろいろ変化するとしても。というのは、平和で事がうまくいっている時には、国家も個人も不本意な仕方で強制に屈服させられるというようなことはないから、その考え方も比較的よい状態にある。しかし戦争は、不自由のなかった日常生活を知らぬ間に取り崩し、手荒な教師となって、現在の状況に合わせて大衆の感情を同化させるからである。」(第3巻82章2節)
政治の意思決定者は、民主制であっても実質的に民衆ではない。主体となる政治的意思決定者は国民の負託を負った政治家だ。政治屋は遠い将来(ὁ λοιπὸς χρόνος)に関心を抱き、政治家は当座の関心事に気を揉むと言われる。一面の真理だし卓越した政治家のみを真の政治家と定義するならそれも妥当しようが、いずれの集団も学者や社会思想家の影響を個々に受け、それによって誘導される実態は変わらない。
安倍首相も例外ではなかろうが、個々の出来事に重大な影響を与え、成り行きを変化させるような特権的地位にある人物の心理的性向が、善かれ悪しかれ歴史をつくり出すのは不変だ。
ケインズはドイツの混乱と叛逆を生み、第二次世界大戦の遠因になったヴェルサイユ条約の失敗を、ウィルソン米国大統領の心理的な「ひ弱さ」に帰して、自然の惨禍でも神の報いでもない破局や経済恐慌、戦争を、歴史の見通しを欠いた政治家の凡庸さの罪とした。そして、安倍首相の政治的決断ががいずれの道をたどるかは、実際のところ誰にも分からない。
しかし、それは運を天に任せることを意味しない。成り行きに委ねるのをむしろ拒否する政治的決断だろう。ケインズの浩瀚な評伝の著者ドスタレールによれば、ケインズは「ものごとを成し遂げるために、人はすみやかに、きわめてすみやかに行動しなくてはならない。人は明日死ぬかもしれないのだから」(203頁)という人物だったが、「猶予して自ら決せず」、つまりクズグズして決断力に乏しい人物は、有能な政治家とは言えない。
カントではないが、独立した(倫理的な)行動基準である自由意志を想定するならば人間は因果的な必然性を変えることはできないとしても、自らが自由な行為の原因でもあることは可能だ。[完]
29日発表の中国全土の感染者は427人増え79,251人となり、死者は47人増えて2,835人となった。とあるが、中国の数字はピーク時から比べると少なくなっている。韓国の感染増は爆発的で一気に3,000人を超え3,150人になった、すごいと映るが、国民全員を検査すれば、爆発的な増加になるのは当たり前で、それを一挙に減らして、ムンジェイン大統領支持を増やしたい韓国政府の策略のように私には思える。この感染病は84%が軽症なのだから、時期がくれば、治る。それよりも、イランでの急増する死者43人に私は危機感をもつ。イランは、米国主導の経済制裁をかけられている為に、医療物資を含めて、枯渇している。そのような国で、急増するということは、検査すれば、中国と関連の深い内戦中のアフリカ諸国、中東諸国の感染者数が増え、被害が爆発的に拡大するのではないのだろうか?
私は、現行の日本国憲法の66条の3、93条の2の条文にこうなっているのは、首相の「独裁を防ぐ意味」がある、と考える。「三人寄れば文殊の智慧」である。「スピード感をもって」も必要だけれど、民主主義には、「時間も労力も妥協」も必要である。また、急ぎすぎると間違えることもある。間違えた時は、「朝令暮改」と批判されようが変更し、日本国民のより良い生活に資するような行政をしていただきたい、と首相には願う。戦前、日本が世界の孤児、国際連盟を脱退せざるを得なくなったのも、天皇が一度出した熱波作戦の進軍許可を取り消すことを、天皇の権威を保つために、側近がやめさせたからではなかったのだろうか。人間は判断を間違えることもある。間違えた、と思えば、そういう批判をあえて受けて、取り消すことも、勇気なのではないのだろうか。
新型コロナウイルスについて最大の謎は、濃厚接触者を調査しても感染の連鎖が全然みつからないことだった。それなのに、なぜ流行するのか。1人が10~20人に感染させているようなクラスターがあるはずだ。だからクラスターを見つけて、他に広がらないようにつぶせばよいと、この三人の専門家は考えておられるみたいである。その成功に期待したい。
一方で、それは極めて論争的な性格の書物であることもよく知られている。一見して、文字通りマクロ経済分析という、今日、経済現象を分析する際の有力な手法を提供し、マクロ経済学という「科学的理論」のパラダイムを生み出した20世紀の古典だが、同時に経済現象を構成する重要な諸要素(雇用量、貨幣量、利子率)の相互関係を説得的に説明する傍ら、経済主体である個人や法人の不確実性に対する心理的態度を分析することで、人間の本性を明らかにする側面を当然ながら含んである。
だから、経済現象と並んで今後の帰趨を見通すことは何ぴとにも容易ではない政治について考えるうえで、多大な示唆を与える。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の急激な拡大防止を軽減する手法の一環として今回、安倍晋三首相の謂わば「独断的」とも言えるリーダーシップで、あす2日からの全国の小中高校学校、特別支援学校での実施が要請された、春休み期間中も含めると実質1カ月以上に及ぶ休校措置が、極めて特異な政治行動であることは間違いない。
そして、政府の専門家会議の現状分析について、その疫学的説明、言うなれば科学的、論理的根拠が影響力の重大性に比して必ずしも充分説得力をもたない、暫定的な仮設的性格のものであることも疑いの余地はない。なおさら、全面休校措置の当否をめぐって、政策目的は理解されても、その有効性や実施方法をめぐって、首相に賛同する立場からも「唐突」とする戸惑があり、首相の独断専行的提唱を厳しく批判し否定する側からは、強硬な反対が渦巻いているのは驚くに当たらない。
子供対象の議論によくある、「子連れの政治論的」情緒志向で、子供を「だし」にして、危機を矯激に心情論理に訴える政治家も珍しくない。首相は明言を避けているが、問題の核心は子供の生命の危険性ではない。
当局を含め、国民各層の危機意識も一様でないし、社会経済への影響の大きさがそれに拍車をかけている。
ケインズの『一般理論』のような、一面迂遠な議論は、異論が続出する不確実な領域に関する政策的選択や、政治的決断が直面せざるを得ない人間精神をめぐる一般的考察を通して、政治について、人間について多様で厄介な問題を突きつけると同時に、問題をめぐる混乱の所在を浮き彫りにする点でも役立つ。
ところで、人間は将来において何が起こるかを確実には分からないままに意思決定をせざるを得ない、という普遍的な事実に結びついているのが、確率という概念だ。人間を取り巻く状況と不可分に結びついている、この将来に関する根本的な無知に伴って、正しい行為の判断と、正しい行為を為すことの判断が妨げられる現実を、認識する必要がある。
『一般理論』の各所にみられる、経済主体の将来の不確実性に対するさまざなな行為選択は、不確実性に対する複合的な態度決定が、どのような意味で全体として合理的でありうるか、という条件をめぐる議論に行き着く。そして、不確実性と不可分な関係にある確率は、われわれが特定の行動を選択する際に、われわれの信念(の根拠)が蓋然的で不確実であるという時の、蓋然性は何を意味するかを明らかにする必要を迫る。
善は自然的な性質の感覚的な知覚による認識や形而上学的な原理から理論的に導出される概念ではなく、理性の認識対象ではないという立場を取る。善の認識は、倫理的で価値一般にかかわるわれわれの認識は、善が定義不能で感覚することもできないとすれば、知的直観によって得られる特異な対象、領域とのプラトン主義的なものだということになる。
従ってそれは、首相の要請同様、単純に承認または否認されるほかはなく、その真実性または虚偽性を証明することはできない。
われわれは、合理的な根拠、例えば自分の行為の帰結について数学的期待値を遠い将来にわたって計算することは不可能だから、将来について限定された範囲内で計算を行いながら、常識の規則を参照すべきとするのが「われわれは何をすべきか」に関するムーアの規則功利主義(rule utilitarianism)だが、ケインズの議論はこの点で師に反対し、遠い将来の帰結を計算できないのであれば、「無差別の原理」(principles of indifference)を導入すべきで、常識に従って善を生み出す確率が高いという議論は、確率に関する誤った考を含むとして退ける。
なぜなら、われわれの通常の行為についての規範には、ある行為の帰結の蓋然性が過去の経験の知識によって知り得るという前提が含意されており、それは確率に関する「頻度説」に外ならないから、これまで経験したことがない事例について適用するのは不適切で、何の助けにもならないどころか、過去の経験に照らしてある行為に帰結の蓋然性を判断する場合も、最も重要なのは過去の事実をどのように解釈するかという判断の問題に行き着くとする。
ケインズのよれば、確率は、それを判断する際に用いられる命題が言及する物理的対象に帰せられるべき性質ではなく、ある一つの命題から他の命題に至る推論に適用されるべき概念であり、常に関係的で、一組の前提と帰結からなる推論が含む蓋然性の判断にかかわるのである。
このことから、確率が示すのは真理の度合(degreee of truth)ではなく確実性の度合(degreee of certainty)となる。それは合理性の度合(degreee of rationality)と言い換えることができ、合理性と真理とは独立した概念だから、明確に区別しなくてはならない。
つまり、安倍首相の要請には合理性があっても、それが必ずしも真理であることを意味しないように、真理であっても合理性を伴わないこともあり得るから、政治決断が要請される、ということだ。
言い換えれば、人間はたとえ誤った帰結をもつ推論であっても、それを蓋然的と判断すること自体において、必ずしも非合理的であるとは限らないのである。
命題同士の蓋然性についての関係=確率関係は、その推進をする者によって自明のものとして直観され、直接的に知覚されるもので、確率が付与される推論の前提となるのは知識でありデータであって、その帰結が信念になる。それ自体としては間接的知識の一種にすぎない。
安倍首相の信念も、何の根拠もない不合理な信念ではないということであり、その合理性の程度を問うことができるということは、その信念が何らかの知識、今回の場合は、政府の専門家会議による、現状が急激な感染拡大を抑止(実際は単なる緩和)するで、「この一、二週間が最も重要な分かれ目」に基づいて選択されている、というものだ。
直知に由来する命題的知識は、その知識が直知の対象の直視(contemplation)において成立するなら直接的知識になり、推論によるなら間接的知識になる。両者の違いは、対象の知識(knowledge of the subject)と、対象に関する知識(knowledge about of the subject)の違いだ。前者は感覚を得、後者は意味を理解という、知識に関する異なった作用だ。
間接的知識としての確率が関係するのは知識としての前提命題と、それに基づく推論によって得られる帰結命題で、それは直観や直覚の対象だから単純な概念に分解することはできず、基本的には定義不可能なものだとしても、同時に客観的概念でもあって、確率関係の形式化である。
ケインズによれば、確率的判断、つまり蓋然的認識が直観的に自明であり客観的でもあるのは、個々の推論が直知に基づく前提命題に基づき、既存の知識によって構成される一群の命題を参照することも含むためだが、既存の知識自体はけっして直観的には自明とは言えず、実際は多くの場合蓋然的であり、知識を共有する者にとっても相対的でしかない側面があり、確率判断が客観的だという主張は循環論に陥る弱点を宿している。
一方で、ケインズのケンブリッジの後輩、F. ラムジーのように、確率判断の絶対的な意味での客観性を否定して、言い換えれば、確率は命題の間の客観的関係にかかわるものではなく、信念の度合(degree of belief)にかかわるものであるという心理主義的性格を主張する立場もある。
推論関係としての確率関係というケインズの根本概念を全面的に批判して、個々人がある個別的な命題について確信する度合、またはそれが「真」であることに賭ける度合という新たな概念を提示して確率を論じるのがラムジーの議論で、その度合とそれに伴う欲求(選好)の尺度を組み合わせて、行為に向かう意思決定の論理を再構成する。それを形式的に厳密な形で提示し、その後の人間行動の数学的認識理論であるゲーム理論や意思決定理論の先駆けになった。
賭けにおける行為選択のメカニズムを定式化した「ダッチ・ブックの定理」(Dutch Book Theorem)、一言で言えば、確率と効用についての整合性が人間の思考の合理性の指標であるというラムジーの批判の有効性を認め、ケインズは論理主義的な確率解釈を放棄した。
しかし、ラムジーの議論も不確実な事態に関する信念と選好に基づいた期待値の計算という、それ自体が人間の行為選択における一定の理解を想定しており、賭けによる実験を通じて人間行動の思考モデルが構成可能とラムジーが論証したことと、実際の人間の行為選択の心理的メカニズムとの違いをケインズは主張したのが、規範への暗黙の依存であり、animal spiritsによる個人的な判断の恣意性だ。
個人の合理的信念の正当化は、それが形式論理学と記述心理学という二者択一を乗り超える点では正しくとも、結果として個人としての有用性の追求に人間行動が還元されてしまう個人主義的プラグマティズムとどまることをケインズが拒否したわけで、安倍首相の政治決断にも、不確実性への挑戦の色合いが濃厚だ。[完]
先生の社会的なの影響力に鑑みても、表現の修正ないし撤回をお願いします。
中国は全土への感染拡大を恐れて武漢市を1月25日に封鎖したり、春節休暇の延長、経済活動の再開延期など、さまざまな手法で封じ込めを断行、湖北省に4万人とされる医師や看護師を送り込んで力ずくでの制圧を図ってきた。その成果がようやく表れたとみるのはあまりに軽率で、全国31ある省と直轄市で何らかの操作が始まっているとみた方が自然かもしれない。
春節で故郷に帰省した農民工ら3億人とされる労働者の帰還=大移動はまだ始まったばかりで、経済活動の本格再開とともに、感染拡大に再び火がつく恐れがある。
それと軌を一にするように、ネット上での情報統制が1日から強化された。国家の安全にかかわる書き込みに加え、社会や経済に混乱を招く情報や書き込みも削除、摘発の対象になった。感染禍に伴う国民の不平不満や当局批判を封じ、世界的な感染拡大で今後広がる中国への批判や国内の動揺を抑え込む情報戦を本格化させたということだろう。
一方で世界中で感染が拡大しており、勢いが止まらない。既に事実上の世界的大流行(pandemic)が始まったとみて間違いはなさそうだ。
感染者(死者)は韓国が3,736人(21人)、イタリア1,128人(29人)、イラン978人(54人)となった。イランについて英国BBCが死者が少なくとも210人に上るとする医療関係者の情報を伝え、イランが強く否定している。
日本も連日死者が報告され、クルーズ船を除き感染者242人、死者6人となった。感染者は世界で65の国家、地域になった。
今後は情報の精査が問われそうだ。
クルーズ船に関しても、船内で毎日のように新たな感染者が見つかったような印象があるが、ほとんどの人は客室での待機が始まる前に感染している。クルーズ船の感染者は2月7日にピークがあり、徐々に減ってきている。隔離によってまん延したわけではない、ということも専門家がエビデンスを出して、そうコメントしてくだされば、世論は「Covid19を培養させている。」などというアメリカのマスコミの主張にはならなかった。また、岡田晴恵博士をはじめとする専門家は、検査をしないから全体像がわからない、ととにかく検査を国がさせないことばかりを批判されるが、今まで、PCR検査はされたわけで、その資料があるのではないのだろうか。それによって、集団感染の疑いで検査された人、本人の希望或いは医師が勧めて検査した人に区分けした、地域別、年齢、性別に区分けした陽性者の大体の傾向はわかるのではないのだろうか。どうして、日本では、その資料を中国のように発表しないのだろう。誤差はあるかもしれないが、それによって感染の大体の傾向はつかめ、安心につながる。現在は、専門家のどこで、だれが、どのぐらいの規模で起こってもおかしくない、という不安を煽る報道が多すぎる。無自覚感染者も感染させることがわかった現在でも、岡田博士は「発熱外来」を推奨されている。
大事なことは、「主観と偏見に基づいた専門家」と称する人に惑わされず、科学的エヴィデンスに基づいて判断することなのである。その為には、統計資料を責任者が公開することが求められているのではないのだろうか。専門家の岩田健太郎医師も専門家会議の資料の公開で、安心された。この種のことは、ケインズを持ち出さなくても、職場の経験で、常識で考えれば、わかるのではないのだろうか。
お詫びして、訂正します。
循環器の病気 13.2%
糖尿病 9.2%
高血圧 8.4%
慢性の呼吸器 8.0%
がん 7.6%
(2/16~2/24 中国国内薬56000人の検査の結果)
この種の病気の人は、普通街の診療所に来て、診療を受けるために順番を待っているのだから、岡田晴恵博士たちがお願いされるように、Covid19の感染者の疑いがある人がHCR検査をするために同じ診療所にくることを認めることが、その人々の命にとっていかに危険なことか、わかるのではないのだろうか。
考えてみれば、この病気は高齢者や持病をもっている人以外は軽症ですむ場合が多いのだから、軽症の感染者は菌をだしている間、軽症者どおし一緒に生活してもらっても、問題がないのではないのだろうか。とにかく、マスコミがおかしな世論を作り、視聴者も一日中その主張をきかされ、政府もそれにひきずられて、日本社会が混乱している気がする。正気に戻って、まともな日本にしていただきたい、と心から願う。
マスコミが熱が3日続いても、みてもらえない、たらいまわしにされる、と連日報道するから、問題があるシステムに思われるのであって、学校全体を休校にするぐらいなら、電話回線を増やすとか、電話の応対をする人を増やすとか、いくらでも方法があったのである。専門家によれば、熱が出て4日すると、検査によくあらわれる場合が多い、のだから、クラスター感染でない場合、指針として4日待って、検査を受けたらどうなのか、と思う。
指針をどういう意味か、わかりやすく説明するのではなくて、問題点ばかりマスコミが探すから、いいシステムが悪いシステムのようになってしまうのであって、熱があることが他人を感染させる指標でないCovid19の場合、発熱外来ではなく、感染症なのだから、帰国者、接触者外来でいいのではないのだろうか。
保菌者の80%は他人を感染させない人々である、という情報を得たお昼のTBSのひるおびを見ながら思ったが、HCR検査は、どの人がそのウィルスを体内に多くもっているか、も調べることができるそうなので、どの人が集団を感染させる可能性の高い人なのかを調べるために、北海道の小規模のクラスターを一人一人調べ、個々がどれだけのCovid19を体内にもっているかを特定するためにPCR検査を使うことこそが、PCR検査の有意義な使い方なのではないかと、私は思う。
新型コロナ感染症の拡大防止対策において現在が、政府の専門家会議の見立てでは「今が、この一、二週間くらいがクリティカル(critical)で、感染拡大のスピードをある程度抑制できるのか、行ってしまうのか、瀬戸際にある」という問題意識が、無知ゆえに連日狂乱の「クズ」投稿を撒き散らしている偏執狂の老婆をはじめ、少なからぬ国民には不在だという証拠だろう。
メディアの関心も、買い貯め行動など混乱する国民の反応に引きずり回され、国民に阿る煽情的な的な内容が目立つ。危機管理について、正面から論じる識者はあまり登場しない。
感染症の専門家であっても、危機的な状況下での選択可能な政策判断、畢竟「政治決断」に責任をもって対処できる政治的な正統性(legitimacy=ἡ ὀρθότης)はないというのが、民主制の原則であり、それこそ政治固有の役割であり責任だろう。
専門家の役割は、政治家が無知ゆえに誤って判断をしないよう、現在の状況を的確に示し、選択可能な複数の選択肢を利点や欠点の説明とともに提示し、有資格者の政治決断に委ねることだろう。
専門家にそれは期待されず、その効果を専門家も正確には計算できないからだ。政治決断は学問的論議とは異なるから、当然科学的な正当性をもたない。未知の、不確定な領域にかかわる、将来に向けた人間的行為で、不確実性(τὸ ἀφανές)への挑戦だからだ。
政治家に限らず人間は、究極的には何も確実なことは知らずに未来を選択することしかできない。不確実性を無にすることはできない。そして将来に常につきまとう不確実性は、リスク(ὁ κίδυνος)とは異なる。リスクはあらかじめ想定したうえで計算できるし、軽減措置を事前に測定したり調整できる点で、不確実性とは基本的に異なる。リスク計算と不確実性の事前認識を混同するのは、愚鈍でしかない。
2日午前の国会答弁でも、官僚の作文的言辞、「子供の生命と安全を最優先…」が冒頭に並んだが、それは謂わば高貴な嘘(noble lie)、方便であって、ある一定の感染拡大を覚悟(想定)したうえで、「空振り」を恐れた逐次的な分散的対応ではなく、一気に封じ込めを期する非常時対策で先手を打ったのだろう。
それは自ら政治的リスクを冒す(παραβαλλεσθαι)果断な決断であって、日本人には稀な資質だが、歴代最長政権の宰相だから為し得たのかもしれない。
むろん、その効果など事前に計算可能なはずもなく、真の攻略目標が全体の感染拡大のスピードを抑え、大量の患者発生による医療体制の混乱を可能な限り抑止することにあるわけで、子供の重症化率が低いとか、学校での集団感染事例事例は中国でも起きておらず、子供から大人に感染するより、その逆のケースが多いといった個別的反証材料を挙げても、本来の政策判断の意図への反論にはなり得ない。
中国でも未だに学校は再開されておらず、統計は武漢偏重で、当座の対応に部分的にしか有効ではない。非顕性感染者の感染力は考えられているよりずっと弱く、世界的な感染拡大の主要因ではないとの論文も相次いでいる。
感染拡大はもはや不可避だ。人為的に、つまり政策的な対処が可能なのは、感染拡大にスピードを抑制することだけだ。
唐突の要請で準備が追いつかないといった反撥が目立つが、近未来に発生自体は科学的に明白な東海、東南海地震、首都圏の直下型地震のケースだったら、いったいどうなるのか、不平を言い募ってできない理由ばかりあげつらうのは、危機意識の欠如でしかない。
最悪の事態を想定する、ということの意味が共有されていないようだ。
学校も武漢では再開されていないかもしれないが、中国全土では、マスク着用で学校の授業が行われているように、中国人の先生からきいた。たしかに、マスク不足で、迷うところであるが、マスクの効用も無視できない。
本欄の「ならず者」である矯激な婆さんのように、一方で有無を言わさず強権的手法で武漢の閉鎖を行う共産党一党独裁の中国の抑圧的支配を擁護しながら、中国からの全面的な渡航制限に踏み切るべきと主張する自衛官出資の参院議員の発言に対し、護憲派の名残が抜けない人物らしく、2月21日・217⇒【佐藤正久さんの主張は、下は上の言うことをきけばいいんだ、という、公共の福祉や、自由と民主主義がまるっきりわかっていない典型的な軍人の独裁的主張…必要なのは、開かれた議論、公正さ】のような時代錯誤的な言辞を漏らす。
29日・12⇒【安倍首相の記者会見…「必ず勝利する」というこの「勝利」はなにを意味…?太平洋戦争の日本政府も、この調子だったのだ】、1日・20⇒【政治学者五百旗頭真…国際政治記者の手嶋龍一…らも「日本の危機管理の為には、首相がリーダーシップをとって、果敢に先手先手を…」と主張…この方式で失敗したのが、ドイツ】のような、政権批判一辺倒の野党と変わらぬ騒ぎようだ。
習近平主席が「人民戦争」を掲げて感染症制圧に大号令をかけることには、何ら痛痒を感じないらしいご都合主義の二重基準も困ったものだが、危機管理上の非常措置が、すべてドイツのような、「身の毛もよだつ」災厄を呼び込むわけではなかろう。
今回の全面休校措置に対する政策的効果は、事後にしか検証できない。従って、現状で首相判断の科学的合理性を議論することに意味はない。合理的な議論をするための、計算の根拠が存在しないからだ。それがすべてである。
たとえば、軍国主義というようなものは、悪名中の悪名であって、…しかし戦後の反軍思想などというものは、昔の軍国主義をそのまま裏返ししたようなもので、やはり同じ過誤を含んでいるとしか思えない…戦前の反軍思想は一つの正義を代表していたが、戦後の反軍思想はむしろ卑怯であると言わなければならない…世界有数の海軍と陸軍をつくった実力は、戦後の日本がやはり世界の驚異となるような経済発展を遂げたのと別のものではないだろう。日本の歴史が生み出したエネルギーが、いろいろな形で発動したわけなのだ…富国強兵に努力することが…世界が帝国主義の時代であり…征服の危険にあったことを思えば、むしろ当然のことだったのかもしれない。
…軍国主義というようなものも、そのような歴史の必要が生んだ一つの産物とも見られるだろう。ただ、その明らかな過誤は、国家目的と軍事目的とを混同し、国家が軍備のために存在するかのような錯覚に陥り、政治の下にあるべき軍隊が、逆に政治を支配した結果、ついに国をほろぼすに至ったこと、個人心理的には、職業軍人が自己の立身出世や栄達のために、多数国民に犠牲をしいながら、それを崇高な国家目的のためであるかのように錯覚したことにある…これは今日の職業革命家にも見られる心理なのである。
…軍事や軍備を直ちに軍国主義と同一視するのも、戦後の最も危険な錯覚である」(田中美知太郎「戦前と戦後の連続」、1963年、『直言、そして考察』、26~28頁)
容易には今回の感染拡大を世界的大流行、感染爆発(pandemic)と認めてこなかったWHOもようやく認識を転換したようだ。
しかし、奇妙な議論も起きている。
例えば、WHOと中国による中国での55,924人の合同追跡調査で、全世代の致死率が3.8%、重症化率13.8%とされた数値をめぐる議論も、中国の医療事情を度外視した極めて一面的なものだ。
経済産業省まとめの「新興国におけるヘルスケア市場環境の詳細調査報告書 中国編」(2017)によると、中国人が通う病院には明らかな施設間格差があり、「一、二級病院の質が低く、患者が三級病院に集中」する傾向を指摘する。医療水準の高い施設は三級とされ、二級、一級とランクが下がる。武漢でも20程度しかない少数の大都市の三級病院に地方からも患者が殺到し、インフルエンザの流行期には患者が病院の廊下に泊まり込む例も珍しくないのが、日本より「医療インフラが強い」と狂信家が強弁する中国の実態で、1,100万人都市の武漢も例外ではない。
武漢単独での致死率5.8%、全体の80歳以上の致死率21.9%は、感染の全容が判明していないなか、独り歩きしている。
OECDのデータで、2017年時点の1,000人当たりの病床数は、日本の13.5に対し中国は4.34でしかない。中国の医療事情が如何に貧弱か分かる。今回の重症化患者の大量死は、そうした医療インフラの貧困に未知の新型感染症の地域的大流行に伴う混乱が加わったもので、致死率と密接に関係する新型ウイルスの病原性との関連性は薄い。あまりにも、中国の特殊な事情が絡んでおり、サンプル数も武漢のある湖北省に偏っている。
中国全土の2日発表の感染者は202人増にとどまった。4日連続の3桁台で、韓国の476人を下回っている。死者が確認されたのも湖北省だけという不自然さだ。[完]
とにかく、おかしな専門家を専門家として、マスコミがもちあげすぎる結果、おかしな世論が形成される。昨夜尾身茂・地域医療機能推進機構理事長がテレビに出演され、若い30歳以下の若者は、自覚症状があまりひどくなくても動き回らないでください、という指針を出されていたが、それは、若く自覚症状のない人の中にスーパースプレッダーがいる可能性があるからで、もっと推し進めて、コロナウィルスに感染しているかと疑われる場合には、クリニックにはいかず、帰国者接触者外来に連絡をとってください、を付け加えることが、PCR検査を増やすより、この病気の重症患者を増やさないことに役立つのではないか、と私は思う。
それは、後年、主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』で展開した将来の不確実性に対する人間の心理的態度に関する考察の萌芽であり、不確実性に対するさまざまな態度決定が、蓋然性=確率や、信念がいかなる意味で合理的とされるのかという観点から、人間の行動をどう支配しているかを明らかにする。
一見して迂遠にみえて、今回の安倍晋三首相の政治決断も、けっしてそれと無縁ではない。野党は首相が政治決断に至った経緯や決定過程の不透明性、対策の有効性の根拠が明らかでないとして責め立てたが、急激な感染拡大の抑制という問題について、われわれは科学的な意味での正当性を論じる根拠を何らもたず、何が起こるか厳密には知らないまま意思決定を行わざるを得ない。それは、文字通り賭けなのである。
これまでの政策手法、謂わば常道に従って、確実な成果を生み出す確率はどこにもない。それが、多少は解明が進んでも今なお未知のウイルスだからだ。
「確率は無知を意味している。なぜなら、その用語がいかなる意味で使われているのかを、われわれは少しも確実には知らないからである。そして、直近の将来においては善の差引残高を生み出すようなあらゆる行為も、全体としては莫大な悪の差引残高を生み出すことが(自己矛盾ではないという意味において)ありうるという事実は、さらなる証拠を得るまでは、そのような行為が蓋然的に正しいと主張することの障碍とはならないのである。まず第一に、この蓋然性が不可能性に転化する必然性は全くないのである。」(ケインズ文書「行動に関する倫理」)
‘Probablity implies ignorance; it is because we do not know for certain that we use the word at all; and the fact that it is possible(in the sense that is not self contradictiory)that ever action providing a balance of good in the immediate future may produce a vast balance of evil on the whole is no bar to our assertion, until we have further avidence that such an action is probably right. There is no necessity first of all convert this probability into an impossibility.’(John Maynard Keynes, ‘Ethics in relations to conduct’, read to the Apostles Sosiety, 23 Jan. 1904. quoted from D. E. Moggridge; “John Maynard Keynes, An Economist’s Biography, 1992, p. 132)
われわれは常に、無知=不確実性の海に漂っている。「リスクなしに」(ἀκίδυνος)行為を選択できることはある点で可能だが、不確実性なしに(σαφῶς)というわけにはいかない。
今回の急激な感染拡大抑止のための休校措置要請にも共通する問題だが、リスクと不確実性との混同に基づく思考上の混乱が、社会的混乱に拍車を駆けている。
ケインズによれば、われわれは、例えば今から一箇月後にわれわれの全体的な帰結がどうなっているかを知る方法が存在しない場合でも、「ある行為はxは蓋然的に正しい」と言いたい、という抜き難い傾向があり、実際のところそれに基づいて生きている。
そして確率とは「合理的ではあるが結論を確証できない議論を扱う論理学の一部分」(‘probability as comprising that part of logic which deals with arguments which are rational but conclusive.’=“A Treatise on Probability”, 1921: The collected writings of John Maynard Keynes, Macmillan, 1973, Vol. VIII. p. 241.)であり、帰納法とアナロジーから生じる。
蓋然性の理論とは、「所与の条件に従って、それを抱くのに合理的な信念の度合にそれはかかわっている」(‘it is concerned with the degree of belief which it is rational to entertain in given conditions.’=ibid., p. 4.)もので、「蓋然的である」ということは、われわれの知識に照らして信じることが理に適っていることを意味する。
「それゆえ、この点において、確率は主観的と呼ばれるかもしれない。しかし、論理学に大いに関係しているという意味において、確率は主観的ではない。即ち、それは人間の気まぐれに従うものではない」(‘Therefore, probability, may be called subjective. But in the sense important to logic, probability is not subjective. It is not, that is to say, subject to human caprise.’=ibid., p. 4.)。
つまり、それは個人の心の中に明示された、二つの内至は二組の命題間の論理的な関係になる。
確率関係は「a/h=1」の状況は確実(certain)、「a/h=0」は不可能(impossibility)で、あらゆるものごとは0と1との間に分布するが、大多数の事例において、数値は序数的な意味しかもっていない。つまり、二つの確率を数値的に比較することは不可能だ、ということである。さらに、一つの事象が生起する見込みは、もう一つの事象が生起する見込みのx倍大きいと主張することは不可能だ、ということだ。二つの確率は比較不能なのである。
人間は、社会や人間に関する現実的な状況において確率はほとんどの場合数値化できず、同一尺度では測れないと考えがちである。人間の知的能力には限界があるのでなおさらだ。確率の考察から直覚と直接的判断を除去することは事実上は困難で、そうした困難を伴うため、大数の法則(law of large numbers)に基づいた頻度的確率の範囲は限定される。直覚とアナロジーが統計的頻度の操作よりも重要な役割を果たすことになる。
ケインズは統計的帰納法の論理についても、さまざまな観点から厳しい批判を突きつけている。それらの理論において確率の解釈が算術的操作の対象であったり、経験する頻度といった物理学的現象の要約的表現という性格をまとっていて、両者を橋渡ししてどう統合するかという点に関する問題意識の欠如に不満を抱いていたためだが、最大の違和感は、現実の世界を支配している法則は一つしかないのに、われわれの想定する仮説が複数あって、それが等しく「真」である可能性がある、ということだった。
ケインズに従えば、それはわれわれが、完全に無知であることを意味した。以上は極めてテクニカルな領域の議論になるので、興味にある向きは伊藤邦武『ケインズの哲学』第2章、3章のケインズの認識論(確率論)の発展と科学方法論に関する記述(57~146頁)を参照されたい。概略的にはG. ドスターレル『ケインズの闘い』第2章「知識」の「不確実性と確率」(邦訳140~159頁)も。
‘Even apart from the instability due to speculation, there is the instability due to the characteristic of human nature that a large proportion of our activities depend on spontaneous optimism rather than on a mathematical expectation, whether moral or hedonistic or economic. Most, probably, of our decisions to do something positive, the full consequences of which will be drawn out over many days to come, can only be taken as a result of animal spirits―of a spontaneous urge to action rather than inaction, and not as the outcome of a weighted average of quantitative benefits multiplied by quantitative probabilities.…Thus if the animal spirits are dimmed and the spontaneous optimism falters, leaving us to depend on the nothing but a mathematical expectation, enterprise will fade and die; ―though fears of loss may have a basis no more reasonable than hopes of profit had bofore.
……We are merely reminding ourselves that human decisions affecting that future, whether personal or political or economic, cannot depend on strict mathematical expectation, since the basis for making such calculations does not exist; and that it is our innate urge to activity which makes the wheels go round, our rational selves choosing between the alternatives as best we are able, calculating where we can, but often falling back for our motive on whim or sentiment or chance.’(“The General Theory of Employment, Interest and Money”, 1936: Collected writings, Vol. VII. p. 161~163.)
「たとえ投機による不安定性を別にしても、道徳的、快楽的、経済的とにかかわらず、われわれの積極的な活動のほとんどは、数学的期待値に依存するよりもむしろ、自生的な楽観に依存しているという人間本性の特徴に由来する不安定性が存在する。恐らくその大部分は、われわれがその帰結の全体が遠い将来になってようやく分かるような何らかの積極的な行為を行おうと決意する場合、量的利益に量的確率を乗じたものの加重平均によるのではなく、不活動よりもむしろ活動へと向かう自発的な衝動に衝き動かされた結果、動物的精気(animal spirits)の結果として、そうするのである。…従って、もし動物的精気が鈍り、自発的な楽観が挫け、数学的期待値意以外にわれわれの頼るべきものがなくなれば、企業は衰え、死滅するであろう。ただしその場合、損失への恐怖は、先に利潤への希望がもっていた以上に合理的な基礎をもっているわけではない。
……ただわれわれは次のことを思い起こしているのである。すなわち、将来を左右する人間の決意は、それが個人的なものであれ政治的なものであれ経済的なものであれ、そうした計算を行うための基礎が存在しない以上は厳密な数学的期待値に依存することはできず、車輪を回転させるものはわれわれの生まれながらの活動への衝動であって、われわれの合理的自己は、可能な場合には計算しながらも、しばしばわれわれの動機として気まぐれや感情や偶然に頼りながら、できるかぎり最善の選択を行っているのである。」(『雇用・利子及び貨幣の一般理論』、東洋経済新報社『ケインズ全集』第7巻、塩野谷祐一訳、161~163頁=訳の一部を変更した)
ケインズと言えども、むろん合理的根拠に基づかない無謀な行為を慫慂しているわけではない。
しかし、危機管理は‘animal spirits’が最も顕著な働きをする領域で、それは人間存在そのものの本性に根差している。[完]
Endlich verständlich Was Sie zum Coronavirus wissen müssen
ようやくわかった、あなたがコロナウィルスの知らなければならないことについて、
という記事があった。https://www.spiegel.de/gesundheit/diagnose/coronavirus-symptome-gefaehrlichkeit-impfstoff-uebertragung-ansteckung-a-7403ece9-733c-43f8-a6c1-2a89f00e5e8a Wie lange überdauern die Viren auf Türklinken? Wie merke ich, dass ich infiziert bin? Kann man sich noch mal anstecken, wenn man schon einmal an Covid-19 erkrankt war? Antworten auf die wichtigsten Fragen.
どれだけ長くウィルスはドアのぶで生きているか?感染しているとどうすればわかるか?一度かかったCovid19にもう一度かかるか?など重要な質問について答えが書かれている。もちろん答えているのは、専門の研究員であるが、
一番印象に残ったのは子供の感染についてである。
Kinder können zwar erkranken, allerdings passiert es deutlich seltener als bei Erwachsenen. Abgesehen davon scheinen Kinder das Virus auch nur selten weiterzugeben. "Wir haben bislang keinen Fall beobachtet, bei dem ein Kind einen Erwachsenen infiziert hat", sagte WHO-Experte Aylward. Die Gründe dafür sind noch unbekannt.
子供はCovid19肺炎にかかるが、大人よりも明確にまれである。そして、子供はこのウィルスをまれにしか運ばない。今まで子供が大人を感染させた例がない、とWHOの専門家Aylwardさんは述べている。その理由はまだわからない、とあるが。
このことから、子供が高齢者にこの病気を移すことがわかり安心したが、同時に、全国一斉に休校にする必然性はなかったのではないのだろうか?家庭内感染が一番多いし、元気な若者は、無症状でも家庭内で大人を、子供を、高齢者を感染させる危険性があるのだから。
狂信家の老婆の止めどなく、取りとめもない素人論議にもそれは顕著だ。
確率論(Theory of prabability, Wahrscheinlichkeitsrechnung)の基礎に関する初歩的論議は今回のトピックスに関して、ケインズの議論を頼りに散々繰り返したのもそのためだ。
数学的な確率論の発生は17世紀とされ、パスカルとフェルマー(P. de Fermat)の間に交わされたサイコロ遊びに関する数学的考察に発するとされるが、「でたらめ」の語源が文字通りサイコロの目の出方にあるように、数学的には今日でいう順列や組み合わせ、二項係数の理論に関する以上の神秘性をもたらす一方、賭けごとの議論との絡みもあって、帰納法的議論との混同も含め素人論議の俗論が独り歩きする結果を招いている。
数学的確率論はその後、ラプラス(P. S. Laplece)によって組織化され(“Théorie analytique des probabilités”, 1812)、差分方程式や母関数の手法を用いて、自然科学や社会科学にも広く応用されるようになった。
現在の数学者の確率に関する主たる関心は、確率の直観的意味や実際的理解、経験論的な応用にあるのではなく、確率を支配する論理法則の解明にあって、高度の数学的手法を駆使した極めて技術的な議論に集中しており(確率過程や確率測度、確率微分方程式論など)、門外漢の理解から隔絶した世界だが、ケインズが『確率論』(“A Treatise on Probability”, 1921)で論じたのは、その哲学的基礎理論であり数学的確率論の論理学的、認識論的解明で、人間行動と確率、つまり蓋然性との関係を考えるうえで興味深い。
人間は不確実な対象を相手に行動を迫られた場合、過去の経験や、対象や課題をめぐる具体的な状況を総合的に判断して自らが合理的だと信じる推定に基づいて個々の行為を選択する。心理的な納得の程度、謂わば確信の度合(degree of belief)が、確率=蓋然性と深く結びつき、人間行動を支配する強力な要因になっていることは、既にみた通りだ。
このため、ケインズの確率解釈を批判したF. ラムジーなどは、確率判断の絶対的な意味での客観性を否定し、確率は命題の間の客観的関係にかかわるものではなく、不確実な事態に関する確信と選好に基づいた期待値の計算、確信の度合にかかわるものとして、その心理主義的性格を強調した。
今回の安倍首相の学校休校措置に関する、その賛否とは別種の混乱した議論は、政策決定の科学的根拠の有無という、そもそも、それ自体が論争的なテーマと、決定過程の透明性、主導性の正当性、事前説明が事実上欠いた猶予期間不在の唐突性などへの反撥が一体化したもので、混乱に拍車を駆けている。
このうち、蓋然性にかかわるのが政策判断の具体的根拠だが、急速な感染拡大速度をある程度抑えるという今回のような問題は、未だに新型ウイルスの実態について、疫学的、病理学的知見が不足しているうえ、感染規模、実態についての基礎的なデータも少なく、合理的、科学的判断を下すに足りる前提条件を満たしておらず、ある意味不毛な議論でしかない。
合理的根拠など、どこにもないし、誰も知らないのである。それが人々の精神に感染禍自体とは無関係な影を落としており、危機意識不在の空騒ぎたる所以だ。
ソクラテスのように死刑判決を受け、死ぬのを待つだけの人間にも、プラトンの対話篇『クリトン』に「人間界の事情だけで言えば、きみは明日死なければならならぬという見込みの外にあるから」(‘σὺ γάρ, ὅσα γε τἀνθρώπεια, ἐκτὸς εἶ τοῦ μέλλειν ἀποθνῄσκειν αὔριον,’=In all human probability you are exempt from the likelihood of dying tomorrow’; Crito, 46E)とあり、トゥーキュディデースの『歴史』の著名なメーロス島の対話の場面にも、滅びるか生き残るか、危急存亡の時に(決断次第なのに)「尽くせる人事も尽くさぬ」‘σὺ γάρ, ὅσα γε τἀνθρώπεια, ἐκτὸς εἶ τοῦ μέλλειν ἀποθνῄσκειν’ αὔριον’=When in all human pobablity they may still survive’; Ἱστορίαι, Ε. 103.)人間の行動が活写され、ありそうなこと=蓋然性の諸相が示されている。
人間にありがちな性向、in all probability(κατὰ τὸ ἐἰκός)とは、蓋然的に=as is probable(ὡς εἰκός)ということだが、思慮分別をよく働かせるには、人は情報のもつ意味を正確に認識し、それを基に事態をよく見極め、単なるリスク計算とは別の問題で合理的に判断も測定もできない領域について無駄な思惑を重ねて、愚行に陥らないことだ。
感染規模、実態が本当の意味では不確かな中国発の情報(特に致死率)や統計などに振り回されず、北海道についての専門家会議の提言のような、国内で集積されつつある知見に基づく専門家の提言の意味を正確に理解することだ。
真っ当な専門家は、初期段階から感染は散発的に広がっており、重症化は高齢者層に親和性があり、重症患者対策が最優先で、感染防止は拡大自体ではなく、拡大速度の抑制だと一貫している。[完]
北海道はクルーズ船やチャーター機帰国組を除き、3日現在で267人の国内感染者のうち、最多の79人に上る。報告は、感染者の2割程度を占める10~30代の感染者は軽症だが、同年齢層に感染が広がっている可能性が高く、証拠はないものの、そう想定しないと現在の状況を説明できないとして、無症状または軽症の弱年層が道内での感染拡大の主要因で、移動に伴って連鎖的に感染を広げ、cluster(集団感染)を形成すると警告した。
新型ウイルスの特性としてこれまで数多く指摘されながら、感染力の実態が解明されていなかった非顕性感染者や軽症者の感染拡大に及ぼす影響やメカニズムを、具体的調査に基づく推定として初めて示したもので、発症者に限られ、しかも医療崩壊で多数の死者を出している湖北省に偏った中国での追跡調査とは異なる科学的意味がある。
さらに、今回確認された北海道の感染の多くは2月初旬の雪まつり期間中に始まったと推定され、潜伏期間を経て現時点で相次いで発症または感染が確認されたもので、例年より減ったものの、北海道に多数の中国人観光客が訪れたこととも一致する。隠れた感染者を940人程度と見積もったのは、少なめの数値とみられる。
生命の危険に直結する高齢者や基礎疾患保有者の重症化リスクは中国や諸外国の事例と変わりはないが、致死率など、医療環境が全く違う中国の事例はそのまま国内に当てはまらないだけに、現在の非常事態宣言の効果と合わせ、今後の対策の試金石となる。
私は、この問題は、東京オリンピックを開催しようとしている日本に水をさす国難だと思うし、日本の医療システムが崩壊したら困るので、少しでもお役に立てば、と思って投稿しているのであるが、なぜ、暇をもて余している婆さんで、少しは脳みそを使って文章を書いたらいい、などと反氏に嘲笑されなければならないのだろう。
カ氏は「コピペ狂い婆さん」だから、酷くて目にも当てられない横着者ぶりを発揮する、と主張されるが、コピペした方が、入力ミスが少ないから、そうしている。
マスク問題であるが、知人から興味深いことをきいた。ロンドンではだれもマスクをつけて地下鉄に乗らないそうである。それは、マスクをつけて地下鉄に乗ると袋叩きにあうからだそうである。それは、マスクは、現実にはCovid19菌の侵入を阻止しないからであり、Covic19に感染した人がつけるべきものということが一般認識だからである。つまり、Covid19に感染したという恐れを自覚する人は、地下鉄に乗るな、ということらしい。日本もそうすればいいのではないかと思う。感染者が地下鉄に乗る、という行為は、日本の弱者、高齢者や持病をもった人にとって、命の危険を意味する。この考え方の差も、日本のCovid19の対応の仕方に対して、岩田健太郎医師が批判されたグリーンゾーンとレッドゾーンが明確でない、ことの一例だろう。
特措法問題でも同じであるが、メリットだけではなく、デメリットもきちんと報道する、客観的にファクトだけ、伝えるということをマスコミ各社はできないのだろうか。
また、N95マスクが品薄なら、なおのこと、院内感染の起こりやすいPCR検査は、どこの開業医でもできる、というのではなくて、指定機関一か所ですべきなのである。そうすれば、マスクが節約できるし、高齢者と感染者の接触も最低限ですむ。
マスコミのコメンテーターの政府頼みの問題解決の仕方は、現実離れし、どこか歪んでいるのではないのだろうか?
とにかく、おかしなマスコミに登場する専門家に惑わされない、日本を元気にする、経済活動も推し進めることができるような、発想の転換が日本政府には必要なのではないだろうか。
早朝から要領を得ない独りよがりの(αὐθάδης)法螺話で狂犬のように見境なしに噛みつき「クズ」投稿に狂奔する、齢70近い憐むべき無学な老婆(ἀμαθής γραῦς)のような狂信家(ὁ μαίνομαι)の特質は、お頭(ἐγκέφαλος)の程度以上に、その頑迷さ(ἡ σκληρότης)、陋劣さ(τὸ αὐθάδης καὶ πονηρός)にある。
「精神の狭量は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えるものをなかなか信じようとしない。」(‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.’=La Rochefoucauld; Maximes 265.)というが、それに加え精神の理解力(τὸ ψυχῆς σύνεσιν καὶ ῥώμην)が低劣だから、のみ込み(συνιέναι)が悪いのだろう。
そうした陋劣さは、オルテガ・イ=ガセが『大衆の叛逆』(José Ortega Y Gasset; ‘‘La leberión de las masas’’)の中で、「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見をもつ権利があると信じていることからして、私が『叛逆的大衆』と呼んだところの、人間としての莫迦げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく、閉鎖的、密室的な魂をもつということである。この場合は知的閉鎖性と言えるだろう」(‘Pero al creerse con derecho a tener una opinión sobre el asunto sin previo esfuerzo para forjársela, manifiestan su ejemplar permanencia al modo absurdo de ser hombre, que he llamado 《masa rebelde》. Eso es precisamente tener obliterada, hermética, el alma. En este caso se trataría de hermetismo intelectual.’=Obras Completas, 1983, Vol. 4, p. 186, 桑名一博訳『大衆の反逆』、『オルテガ著作集』第2巻、117頁)とした心性だろう。
「すぐれた人間とは、自分自身に多くを課す人間のことであり、凡俗な人間とは、自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、自分自身に陶酔している者である」(‘que aquél es el que se exige mucho a sí mismo, y éste, el que no se exige nada, sino que se contenta con lo que es y está encantado consigo.’=ibid., p. 181.;桑名訳111頁)という時の、凡俗な人間(honbre vulgar)とすぐれた人間(honbre excelente)とを分けるものについて、オルテガは、次のように書きつける。
「なんらかの問題を前にして、自分の頭に簡単に浮かんだことで満足する者は、知的にみて大衆である。その反対に、苦もなく自分の頭のなかに見いだせるものは尊重せず、未だに自分よりも上にあり、そこに達するには新たな背伸びを要することだけを自らに相応しいものとして受け入れる者は、高貴な人間である。」(‘Es intelectualmente masa el que ante un problema cualquiera se contenta con pensar lo que buenamente encuentra en su cabeza. Es, en cambio, egregio el que desestima lo que halla sin previo esfuerzo en su mente. y sólo acepta como digno de él lo que aun está por encima de él y exige un nuevo estirón para alcanzarlo.’=ibid., p. 182.;桑名訳112頁)
「従って、社会を大衆と優れた少数者(minorías excelentes)に分けることは、人々を社会的な階級に分けることではなく、人間的な階級(clases de hombres)によって分けることであり、上層階級、下層階級といった階層分けとは一致しない」(‘La división de la sosiedad en masas y minorías excelentes no es, por tanto, una división en clases socials, sino en clases de hombres, y non puede coincidir con la jerarquización en clases superiors e inferiors.’=ibid., p. 146.;桑名訳、59頁)となる。
「厳密に言えば、社会の各階級の中に真の大衆と真の少数者とがいる」(‘en rigor, dentro de cada clase social hay masa y minoría auténtica.’=ibid., p. 146.)にすぎない。
こうも言う。
「つまり、選ばれた人間(‘el hombre selecto’)とは、他人よりも自分がすぐれていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながらも知らないふりをしているのである。というのは、人間を最も根本的に分類すると、次の二種類に分けられることが明らかだからである。すなわち一方は、自分に多くのことを課して困難や義務を負う人びとであり、他方は、自分には何んら特別なことを課すことなく、生きるということがすでにある自己をたえず保持することで、自己完成の努力をせずに風のままに浮かぶブイのように暮らす人びとのことである。」
‘Caundo se habla de《minorías selectas》, la babitual bellaquería suele tergiversar el sentido de esta expresión fingiendo ignorar que el hombre select no es el petulante que se cree superior a los demás, sino el que exige más que los damás, aunque no logre cumplir en su persona asas exigencias superiors. Y es indudable que la división más radical que cabe hacer en la humanidad es ésta. en dos clases de criaturas: las que se exigen mucho y acumulan sobre sí mismas dificultades y deberes y las que no se exigen nada especial, sino que para ellas vivir es ser en cada instante lo que ya son, sin esfuerzo de perfección sobre sí mismas, boyas que van a la deriva.’=ibid., p. 146.;桑名訳58~59頁)
ところで、69⇒【反氏のコメント68…報告は…と警告したを読んで、ようやく理解が同じになった】は、「?」という外はなく、偏執狂の婆さんの早とちりだろう。「報告は…と警告した」部分は、政府の専門家会議が北海道や大阪のライブハウスの事例を分析した内容で、婆さんが固執するドイツの高が週刊誌Der Spiegelを基に頻りに繰り返していた、感染者が発症前でも他に感染を拡大する無症状感染者(非顕性感染者)の感染力一般の問題ではない。
無症状感染者の問題は、ドイツの事例に限らず、中国での報告例を筆頭に度々指摘されていたが、今回初めて、具体的根拠に基づく推定として感染のメカニズムが解明された。Der Spiegelとは重みが違う。しかもそれは、発症者に比べ、無症状感染者自体の感染力が強い、という意味ではない。
度を越した中国贔屓も困ったものだが、「ドイツ狂い」は深刻で、病膏肓のようだ。
無症状感染者からも感染することだけが、既に世界中な流行に感染が拡大している主要因なのではない。それが厄介なのは、感染者の補足が困難で、効果的な対策を難しくしているからだ。
無知な老婆の主張は、ドイツの一事例を基に、無症状感染者のもつ感染力を過大に一般化するもので、政府専門家委員会の主張とも、私の主張とも一致せず、何ら、【理解が同じ】にはなっていない。
病原性はインフルエンザよりやや強い程度とされ、感染者一人からの二次感染者数もロスアラモス米国立研究所の報告のように、2.2~2.7人から4.7~6.6人と諸説あるが、真相は未だに明らかになっていない。封じ込めが厄介なウイルス、というだけだ。
結果として700人を超す大量の感染者を出したクルーズ船への船内隔離による 水際対策の不手際も、2月初旬の段階で危機意識が不足していたその場しのぎの政府の対応水準から、現実的にそれ以外の選択肢がなかったとしても、70⇒【拡大させた原因はヴァイキングやマージャン…換気の悪い環境に、長時間留め置いたせいではない】のような結論は出てこない。ライブハウスや屋形船の事例でも、閉鎖空間での長時間の濃厚接触の危険度は他の事例でも確認されており、長期間に及ぶクルーズ船はその典型だ。ヴァイキングやマージャンに特化する合理的根拠がない。
単細胞の老婆の拡大解釈だ。
破れかぶれの妄言の典型は、71②⇒【80%が軽症ですむこの病気に対して、税金と人での無駄遣い…もっと恐ろしい感染症や病気がたくさんある】で、季節性インフルエンザや肺炎球菌による肺炎、その他ありとあらゆる疾病で人は死ぬとしても、それで今回の新型感染症を軽視してよい、という話にはならない。
現実に中国では、医療崩壊で死なずに済んだ人間が多数死んでいる。特効薬やワクチンによる予防措置など手段を尽くして感染拡大や犠牲者を最小限に抑える手段がない新型だから、WHOも公衆衛生上の世界的懸念材料として緊急事態宣言を出している。
72⇒【日本の医療システムが崩壊したら困るので、少しでもお役に立てば、と思って投稿…なぜ…反氏に嘲笑されなければならないのだろう…「コピペ狂い婆さん」…横着者…コピペした方が、入力ミスが少ない】は、見え透いた言い訳でしかない。コピペは入力ミス防止だけが動機ではなかろう。真っ当な分別を具えた人間は、みっともなくて口にしない言いぐさだ。甘ったれるのもほどほどにしたらいい。
73⇒【医学博士や教授の肩書があると、科学的知見に基づかない思い込みの主観的解釈が信頼され…主婦カロリーネ…であると、なぜ、暇つぶしに「無知蒙昧」な…偏執狂とレッテル…か理解できない。肩書ではなくて、内容で判断…日本の医療崩壊を含めて、日本人の生死がかかっている重要な問題】――「内容で判断」するまでもないが、狂信家とは、こうした被害妄想的文章を書きがちだ。世の中が騒然としてくると、お頭の具合に変調を来すようだ。文章にも莫迦さ加減が如実に窺える。
無知な素人がテレビやWikipediaなどのにわか勉強に基づく知見であれこれ気をも揉むのを愚鈍という。愚行は頭の悪さだけが原因ではあるまい。
73②⇒【感染者が地下鉄に乗る、という行為は…弱者、高齢者や持病をもった人にとって、命の危険…岩田健太郎医師が批判…グリーンゾーンとレッドゾーンが明確でない、ことの一例】は、素人の拡大解釈による妄想的議論で、地下鉄乗客のうちに感染者が潜んでいたとしても、多数の感染者は閉鎖空間にひしめきあっていたクルーズ船とは違うし、日数単位で、長時間乗車するわけではなかろ。
岩田氏信仰が過ぎるようだが、氏の議論はクルーズ船を感染の危険ゾーンと想定したうえでの区域分けによる防止策の議論で、カ氏の誇大妄想的議論の根拠にはならない。
「大衆人が莫迦だといっているのではない。それどころか、今日の大衆は以前のいかなる時代の大衆人より利口であり、より多くの知的能力をそなえている。だが、その能力も、彼らのために何の役にも立っていない。厳密に言うと、能力をそなえているという漠然とした意識は、彼らが自分の中に閉じこもり、能力を使わないことに役立っているだけである。大衆人は偶然が彼らの内部に堆積した決まり文句、偏見、思想の切れはし、あるいは無意味な言葉の在庫品を断固として神聖化し、それを大胆にもあらゆるところで他人に押しつけているが、その大胆さたるや、彼らが単純だからというほかには説明のしようがない。…つまり、凡庸な人間が、自分はすぐれていて凡庸ではないと信じているのではなく、凡庸な人間が凡庸さの権利、もしくは権利としての凡庸さを宣言し、それを強引に押しつけているのである。」
‘No se trata de que el hombre-masa sea tonto. Por el contrario, el actual es más listo, tiene más capacidad intelectiva que el de ninguna otra época. Pero esa capasidad no le sirve de nada; en rigor, la vega sensación de poseerla le sirve soló para cerrarse más en sí y no usarla. De una vez para siempre consagra el surtido de tópicos, prejuicios, cabos de ideas o, simplemente, vocablos hueros que el azar ha amontonado en su interior y, con una audacia que sólo por la ingenuidad se explica, los impondrá dondequiera.…no que el vulgar crea que es sobresaliente y no vulgar, sino que el vulgar proclame e imponga el derecho de la vulgaridad, o la vulgaridad como un derecho.’(ibid., p. 187~188.;桑名訳119頁)
とにかく、外出も会合もままならず、連日のテレビ漬けで業を煮やしているのだろうが、人間としての修養ができてない老人は哀れなものだ。他山の石として、戒めとしたい。οἴμοι.[完]
感染者の濃厚接触者、つまり、感染者が大量に出たダイアモンドプリンセス号の乗客、感染者がたくさん出たのライヴハウス来場者やスポーツセンター来訪者に注意を払うのは、当たり前のことである。その特定された人々が、感染していない、特に高齢者や持病を持った人と2週間接触しない、ということは特に必要なことだ。今、散発的に感染者が出ている日本で、そのことを踏まえた政府専門家会議の若者へのお願いなのである。花見につぃても、戸外とはいえ、不特定多数の人が、狭い空間に集まって酒を酌み交わし、談笑する。感染している無自覚者も当然参加するから、クラスター感染の大変起きやすい場所、になる。マスクをする、というのは、菌が体内に入らない為なのだから、マスクをとって物を食べたり飲んだりしたら、確実に感染する。どうして、その当たり前のことを当たり前に押さえないのだろう。岩田健太郎医師の船内のレッドゾーンとグリーンゾーンの指摘も同じで、彼は、防御服の着脱の場所を問題にしておられた。医師の義妹夫婦も、岩田医師の指摘は正しい、と言っていた。別に、偏執狂の婆さんとレッテルを貼られた主婦、カロリーネだけの主張ではない。普通の医師は、主婦の私と違ってワイドショーの時間、診察やその準備に忙しい。私の心配は、普通の主婦がマスコミの世論に洗脳されてしまうことなのである。この問題は、日本人の生命、経済にかかわる問題である。
感染者の補足が困難だからこそ、クラスターを特定して、それを構成している人々の行動の制限が必要である。PCR検査はそのために必要な検査なのではないのだろうか?PCR検査は、安心のため、ではなくて、感染のさらなる拡大の防止のためのものなのである。安心して外へ出歩いたり、仕事場に行く証明ではなくて感染しているとわかったら、その感染者は家族とも含めて他者との肉体的な接触を控える、言い換えれば、感染の拡大を防ぐための道具なのである。
その趣旨を、きちんと押さえなければ、このCovid19菌の感染力は強いのだから、どんどん拡大し、重症者も死者も多く出るのではないのだろうか?
狂信家とはそういうものらしい。具体的な裏付けなしに、ひたすら自分が正しいと思い込み(δοξάζω)、事柄自身(πρᾶγμα)がそれを指し示す論理的推論の前提や帰結、対象や取り違えて(ἁμαρτάνω)独りよがりになる(αὐθαδίζεσθαι)陋劣な人間に限って、独善家(Haberecht=ὁ αύθάδης)が少なくない。
無症状感染者(無症状病原体保有者)、所謂「非顕性感染者」の感染力と、全体の感染拡大に与える影響力について、偏った議論に終始するのは、その表れだ。中国の研究者の報告では新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は単一ではなく、重症化しやすいL型と、症状が軽いか現れないS型の違いがあるようで、実態解明は今後だろうが、ドイツ狂いの「無学な婆さん」の無謀な素人論議を退けるものだろう。
中国当局発表の5日現在の中国全土の感染者は、前日より湖北省の134人を含む139人増えて80,409人、死者は湖北省で新たに確認された31人が増えて、3,012人だという。
数値を信用すれば、湖北省以外では感染拡大に急ブレーキがかかり、ほぼ収束がみえてきたような形だが、今後の経済活動の本格再開を視野に、国家衛生保健委員会による集計の基になる検査結果や報告を、地方または中央政府が何らかの形で意図的に操作している可能性もあり、極めて不自然な数値が並ぶ。
習近平主席の訪日延期は、結構なことだ。それどころではない証拠だ。
5日正午現在の湖北省の感染者は67,217人で全感染者の83.59%、死者は2,834人で94.10%になる。今回の新型感染症の呼称について、WHOはCOVID-19と命名した理由を「風評被害などを避けるため、地名や動物名などを使うのは避けた」とするが、諸外国のメディアで「武漢肺炎」「武漢海鮮市場肺炎」「武漢コロナウイルス肺炎」などと呼ぶのは的を射ている。台湾では「嚴重特殊傳染性肺炎」と称するらしく、危機感が命名にも示されている。
感染者(死者)が、8,000収容規模の病院建設が伝えられた広東省で1,350人(7)、温州市のある浙江省1,213人(1)、河南省1,272人(22)、湖南省1,018人(4)、江西省935人(1)、安徽省960人(6)の横並び状況はいかにも不自然だ。温州市はイタリアの大規模感染の元凶とされる。
北京414人(8)、上海338人(3)、天津136人(3)、重慶576人(3)も、厳重警戒の割には、感染実態が伝わらない。全体的に軽症か自然治癒で退院した割合が広東省80.07%、湖南省87.62%、浙江省89.53%だが、江西省93.05%、安徽省95.52%、河南省に至っては96.15%と跳ね上がる。
山東省のように758人(6)で退院率65.57%、北京も退院率69.57%、湖北省を除く全体の退院率85.11%と相当乖離があるのが気になる。13人(感染者480)の死者を出した黒竜江省でも退院率は74.58%だ。入院も検査もできない膨大な感染者が存在するのかもしれない。
最も腑に落ちないのは、湖北省を除く30省、市、区の感染者数(12,904人)、退院者数(10,982人)を積み上げて湖北省分を合算しても、合計の感染者(80,409人)、退院者数(52,045人)と合致しない点だ。特に退院者数で開きが大きい。事情通にご教示願いたい。
まことに詰らないことを書くもので、返す言葉がない。
オルテガ・イ=ガセの『大衆の叛逆』はいろいろな読み方ができるが、老婆のようなその自覚がない、うんざりするほどの「平均人」(el hombre medio)である大衆(masas)の知的閉鎖性(hermetismo intelectual)について、まことに仮借ない。
オルテガによれば、大衆とは自らに「安住している」(στέργειν=estar contento)人々のことであり、出自や貧富、職業、学歴など階級(clase)や階層(capa)には関係ない、何ひとつ自らに要求を課することなく(no se exige nada)、「現にあるもの」(παρὸν πάθος=situación presente)だけを頼みとし(en su esutad actual)、「現にある自己のままで生きることに満足し(contentarse con la situación actual)固執する(ἐπιθυμέω=insistir en)」ような多数者(οἱ πολλοί=masas)の謂いだ。
老婆に限っては、以下も当てはまるようだ。
「大衆が自己の生命的な使命、つまりすぐれた者に従うということを拒み、すぐれた者の意見を聞くことも、受け入れることもないからであり、そして集団という環境の中では、つねにまとまりのない、的外れで幼稚な、大衆の意見が勝利を収めるからである。」(‘negándose la masa a lo que es su biológica misión, esto es, a seguir a los mejores, no acectará ni escuchará las opinions de éstos, y sólo triunfarán en el ambiente colectivo la opiniones de la masa, siempre inconexas, desacertadas y pueriles.’(José Ortega Y Gasset;“España invertebrada.”, Obras Completas, Vol. 3, p. 96=桑名一博訳『無脊椎のスペイン』、『オルテガ著作集』第2巻、314~317頁=一部表記を変えた)。
この資料はどこにありますか? WHOの3月4日統計と比べると、微妙に違います。死亡数が4日の方が多かったり。
2019年-2020年中国武漢における肺炎の流行⇒(https://ja.wikipedia.org/wiki/2019%E5%B9%B4-2020%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%82%BA%E7%82%8E%E3%81%AE%E6%B5%81%E8%A1%8C)を開くと、【「中国本土における2019年コロナウイルス感染症の流行状況」も参照】と出てくる。それを開くと⇒(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B2019%E5%B9%B4%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AE%E6%B5%81%E8%A1%8C%E7%8A%B6%E6%B3%81)
問題は、そこで「中国国内の新型コロナウイルス感染確認事例」(3月5日午後)零時現在)なる31の省、直轄市、自治区ごとの集計が示されているが、その内訳と全体の合計が一致しない。
中国全土の5日現在の感染者=80,409人▽死者3,012人▽退院者52,045人、湖北省67,217人▽死者2,834人▽退院者36,167人――となっているが、
湖北省以外の30の省、直轄市、自治区の合計=感染者12,904人▽死者110人▽退院者11,045人をそれぞれ加えても、全体の合計と一致しない。積み上げて合計は、それぞれ感染者80,121人▽死者2,944人▽退院者47,212人で一致しない。いずれも全体合計をそれぞれ、感染者288人▽死者68人▽退院者4,833人下回っている。
大方、地方集計分は5日以前の数値かもしれず、5日発表の全体と齟齬しているのかもしれないが、原因不明。
ありがとうございます。
ウィキの中国語版を見ますと詳しい統計があり、こちらでは湖北省の感染者67,466 死亡者2,902 退院者40,479 となっております。日本語への転記の誤りでしょうか? また中国語版では集計時間が4日24時つまり5日午前0時ですね。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。