4月7日に緊急事態宣言を出した際、安倍首相は、「東京都では感染者の累計が1,000人を超えました。足元では5日で2倍になるペースで感染者が増加を続けており、このペースで感染拡大が続けば、2週間後には1万人、1か月後には8万人を超えることとなります」と述べた。
東京都の累計感染者が1,000人を超えたのは、今日4月26日からちょうど3週間前の4月5日であった。4月26日現在の東京の累積感染者数は3,908人である。5日前の1.18倍にとどまっている。5日で2倍になるペースとは、1日約15%増のペースだが、この5日間は1日平均3.4%程度のスピードで増加しているに過ぎない。
ちなみに5日間で2倍になるペースとは、7日間で約2.66倍になるペースである。したがって緊急事態宣言の際に安倍首相が言及したペースが続いていれば、4月26日の東京の累積感染者数は、2.66万人程度でなければならない。しかし実際は3,908人である。
すでにこれまでの『検証』シリーズで見てきたように、オリンピック中止が決まった3月24日翌日の3月25日小池東京都知事「自粛要請」会見の影響が出始めた4月に入った頃から増加率の鈍化が見られ、4月7日緊急事態宣言の影響が出始める4月3週目には鈍化がさらに進んだ。この傾向が緊急事態宣言発出から2週間をすぎた4月21日以降も続き、現時点で、新規感染者数の減少の傾向は、よりはっきりしてきている。
前回の『検証』と同じやり方で、週ごとの動向を見てみよう。累積感染者数(括弧内は新規感染者数)と前の週と比べた時とのそれぞれの増加率である。
4月20~26日: 3,908人( 827人): 1.26倍( 0.81倍)
4月13~19日: 3,082人( 1,015人): 1.49倍( 0.98倍)
4月6日~12日: 2,067人( 1,035人):
2.00倍( 1.71倍)
3月30日~4月5日: 1,032人(
602人): 2.87倍( 2.06倍)
東京の新規感染者数は、明らかに減少傾向にある。次に全国レベルでの傾向を見てみよう。
4月20~26日: 13,031人(2,812人): 1.27倍( 0.78倍)
4月13~19日: 10,219人( 3,603人): 1.54倍( 1.05倍)
4月6日~12日: 6,616人( 3,425人):
2.07倍( 2.21倍)
3月30日~4月5日: 3,191人(
1,544人): 1.93倍( 1.24倍)
やはり新規感染者数の減少傾向が認められる。
安倍首相は4月7日に「人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができます」とも述べていたが、この目標は達成されている。
もっとも減少を目指す目的は、医療崩壊を防ぐことにあるはずなので、どこまでの減少が必要かは、医療体制の充実との相関関係で評価されることになると思われる。
これに対して、「西浦教授が主張する『人と人との接触機会の8割削減』がまだ達成されていない」という理由で、目標達成の評価を覆そうとする人もいるようだが、倒錯している。「8割削減」は「感染者数の減少」の手段なのであって、その逆ではない。手段を目的と勘違いするのは、一番典型的な工程管理の落とし穴である。
減少に転ずる様子については、藤原かずえ氏が丁寧にグラフ化して、ピークは4月12日だったと述べている。http://agora-web.jp/archives/2045626.html 結局、いわゆる「3月の気の緩んだ3連休」の影響が出きったところがピークだったということだ。そして3・25自粛要請、加えて4・7緊急事態宣言の効果が出る時期になって新規感染者数の増加には歯止めがかかった。非常に簡明な話ではないかと感じる。
もっとも渋谷健司「WHO事務局長上級顧問」(日本のメディア用肩書)あるいは「元WHO職員」(海外メディアではこちらの肩書になる)「WHOコーディネーター」(渋谷氏が代表を務める上杉隆氏が社主である株式会社No
Border代表就任時の肩書)のように、学者生命を賭けて、何週間も前から「日本は感染爆発の初期段階」「日本は手遅れ」「喫緊の感染爆発」と主張し続けている「専門家」=「WHO事務局長上級顧問」兼「元WHO職員」兼「WHOコーディネーター」もいるので、事情は複雑だ。https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000072.000042473.html?fbclid=IwAR3C18mCTITYpi5XogpSOXAtvcZwy7C8JnU1wpidTtdKwAVnTmuyg-uA4tA (ツィッターで上昌広氏などが、やたらと渋谷氏はすごいのだ!と言ったことを主張しているようだが、そんなことはどうでもいいので、渋谷氏には、日本で何週間も前から感染爆発が起こっていたことを証明する論文を、学者生命を賭けて、早く公表してほしい。)
「専門家」は、藤原かずえ氏のような分析を、拒む。そしてただひたすら「思考を停止せよ、そしてただ8割削減せよ」といったようなことを述べ続ける。http://agora-web.jp/archives/2045621.html 実際にクラスターを起こした事例の研究分析など一切ない。「ロックダウンせよ!」と叫び続けるのでなければ、ただ、「あ!公園に人がいる!これでは8割削減達成できない!」、といったような話だけを熱心に行っている。
もはや何が目的なのかは忘れ去られ、手段の一つでしかなかったはずの「人と人の接触の8割削減」目標が、完全に崇高で唯一の目的と化してしまっているのだ。現実世界ではどんな形で感染が進んでいるかといったことは忘れ去られ、「思考を停止せよ、ただ8割削減だけを考えよ」、だけが独り歩きを始めてしまっている。
どうやら「専門家」は、4・22より前に感染者増加の鈍化が見られたのが気に入らなかったらしい。4月22日には、状況分析については、口を閉ざしていた。それでも西浦教授は、質疑応答で、記者に強いられて「鈍化が始まっているのは確実」と述べた。ただし、それでも、なぜ「42万死者」モデルは実現していないのかについて説明をするつもりは一切ないようである。
それどころか、驚くべきことに、NHKの番組に出演した西浦教授は「ようやく今週末に減少に転じたが、期待したほどの減少ではなかった」と、数字や根拠や考え方も一切示さず、ラフに語った。 https://twitter.com/PeachTjapan2/status/1254056259285704704
「42万死者」はどうなったのか? いったい誰が「劇的な減少を期待」したのか? なぜようやく「今週末から」なのか? 西浦教授以外の日本人のほとんどは、「42万死者」を予測しない代わりに、「劇的な減少への期待」も表明してもいなかったのではなかったか? 緊急事態宣言2週間後までは増加しないといけないので、減少は「今週末」からでないと認めない!などという頑なな気持ちは、西浦教授以外には誰も持っていないのではないか?
西浦教授は、感染者を減少させて、クラスター対策を再開して、ウイルスの撲滅までもっていきたいかのような壮大な願望を、繰り返し語っている。https://www.buzzfeed.com/jp/yutochiba/cluster-japan-senmonka?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharefacebook&ref=mobile_share&fbclid=IwAR0F2ag5bqCD4dWfrDZ7f_mK-6lGd07varZeB7TnPFXUhK3f_2ObZuSewOI
多くの人々が、ワクチン開発か、集団免疫の実現でもなければ、撲滅はできないと考えている。しかし、西浦教授は、クラスター対策の再開によるウイルスの撃退を夢見ている。
目標設定は、西浦氏の仕事ではない。専門家なら、複数の政策に応じた複数の可能性を提示して、政策決定者の判断を助けることに努めるべきだ。専門家が自分の心の中で勝手に政策目標を設定し、その目標の実現に役立つかどうかを判断基準にして数字や発言を操作していくのは、危険な状態である。それなら、まず、その目標の妥当性を議論の俎上にのせる意見を述べるべきだ。
私が大学時代に聞いた逸話を思い出す。
当時、キャンパスでオウム真理教の勧誘が盛んだった。その頃に聞いたジョークがある。「麻原彰晃は、破局的な事件の勃発を予言した。ところがなかなか事件が起こらない。そこである信者がなぜ起こらないのかと尋ねた。すると麻原は答えた。『私が止めているのです』と。」
当時、そんな話で友達と笑い合っていたのだが、この話には恐ろしいオチがあった。麻原は、その5年後くらいに、このやり取りが通用しなくなってしまったため、仕方なく自分で地下鉄サリン事件を起こしたのである。
麻原のような人物は、「解脱できないのはお前の精進が足りないからだ」、といったロジックも駆使する。自分の権威を維持するという目的が絶対になると、現実の事象を否定したり、叱責したりせざるをえななくなる。
「42万死者・8割削減収束」下の日本人も、麻原と向き合っている信者と同じような心理状態に置かれている。信じなければ破局(42万人死者)が訪れると言われる。そこで破局を回避してくれる尊師を信じて行動するのだが、どこまでいっても解脱(収束)は得られない。すると尊師は「それはお前が怠慢だからだ」と叱責する。解脱を目指す信者たちは、そこで死ぬまで尊師の奴隷となる。
数理モデルは、架空の抽象的条件で算出した計算式でしかない。したがって、計算ミス以外には、間違いというものがない。モデルに現実が屈服するようになると、世の中の事象が「破局(42万死者)」に進まなかった場合には、「私が警告したので最悪の事態を避けることができた」とか言っておけばいい。そうでなければ、「日本政府が事実を隠蔽しているだけで、実はもう感染爆発は起こっている」、とでも言えばいいのだろう。
また、もし「解脱(収束)できる」という計算が実現しなかった場合には、「私の期待通りにお前が動かなかったからだ!」と他人を責めておけば、それで済む話だ。
42万人に震え上がった素直な性格の方々は、猛然と「8割削減」教に突き進む。そして「あそこに外出している奴がいる、ああ!まだ公園に人がいる!」といった魔女狩り運動に奔走する。
しかし、わずか数か月の間に世界で300万人以上を感染させたコロナウイルスを、日本においてだけ収束させるなどというのは、常識で考えれば、気の遠くなる壮大な作業である。しかも「人と人との接触の8割削減」を1億2千万人の1か月の生活の中で完全に測定するのは不可能だ。たとえ指標を100にしても、1000にしても、無理だ。全ての家庭に隠しカメラを設置しても、まだ無理だろう。ただ、結果だけが、「8割」の達成基準なのである。収束を達成するまで、「8割削減」したことにはならない。
そもそも驚くべきことに、西浦教授は、「医療と性風俗には残念ながら介入ができないと仮定して、一般の人口でそれを補填して、二次感染の平均値を1より下げるにはどれぐらい必要か見て、正確に言うと79%という数字が算出されました」、と「8割」の根拠について語っている。と同時に、自分は「2月の前半から厚労省に詰めています。厚労省近くのホテルを転々として、いつも空いているところはないか探しています。」という自らの生活ぶりについても語っている。https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-nishiura?fbclid=IwAR3ocYbmkCggDo2wgwFsQVnXKg64NDUJIKE_nZXl3Zo9RzPtU_3bA-U7CW4 ということは、医療にも性風俗にも従事していないのに、外出自粛していない西浦教授のせいで、もう最初から「8割」は無理だったのだ!
ずっと人並みに自宅にこもっている私としては、魔女狩りをする人の気持ちがわかるような話である。
しかし西浦教授は悪くない。なぜなら、専門家だからだ。
悪いのは、西浦教授以外の国民である。国民は、この状態に置かれてしまったら、ほぼ永遠に自らの怠慢を恥じ、不徳をお詫びし、永遠に奴隷のように、自宅から魔女狩りを叫び続けるしかない。
この閉塞感には、どこかで既視感がある。憲法9条信仰だ。
狂信的な憲法9条教の信者たちは、冷静な憲法9条の解釈論に応じることすらしない。ただ、憲法9条を信じれば、必ず世界は平和になる、という計算式から議論を始める。そして憲法9条を信じない者がいるために世界は平和にならないという理由で、他人を非難する魔女狩りを始める。憲法9条は常に絶対に正しいという前提から出発すれば、期待した通りの世界が訪れないのは、すべて憲法9条を信じない連中がいるからだ、という結論しか導き出されない。
なぜ実効再生産数を2.5にして計算するのか、という指摘があるように、私は狂信的な憲法9条信者に対して、なぜ国際法を無視した解釈を通説とするのか、と指摘し続けている。すると、憲法学者からは「篠田は蓑田胸喜(極右という意味)だ!」という叱責の言葉をもらい、魔女狩りされそうになる。
憲法9条教の狂信的でおかしな解釈は、実際の政策では、採用されていない。それは政策当局者が怠慢だったり邪悪だったりしたためでなく、宗教的な理念モデルが、現実に適用できなかったからだ。
現下の「8割削減」教の布教活動についても、同じように冷静に見つめておく姿勢が必要だろう。「8割削減」に本気になるあまり、自らの怠慢を責め続け、あるいは魔女狩りに明け暮れる日々を続けていっても、数理モデルと現実とのギャップに、ますます苦しでいくだけに終わると思う。
教条的な憲法9条信仰も、平和文化の普及という意味では、意味があった、という議論もあるだろう。8割削減も、同じように、突き放して一つのスローガンとして見るなら、効用があるかもしれない。
だが「8割削減」を、あたかも来世の幸せを約束する宗教教義のように狂信的に捉えてしまったら、やがて現実とのギャップに苦しむことになるだろう。
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甚だ非礼な物言いながら、真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)を失って、どうかしていると言わざるを得ない。
「現状でこのまま何もしなければ」という前提に基づいた西浦氏の試算が相当程度的中して、今後日本で急激な感染拡大、つまり感染爆発が起きて日本中が大混乱に陥っても、オウム真理教の教祖が予言し(προαγορεύειν)、警告した(νουθετεῖν)たような破滅的な(καταπεπτωκώς)事態が到来するはずもない。
国民に危機意識が広がっているのは事実だが、それは8割接触削減が生み出した幻想(φάντασμα)ではない。
新型感染症の致死率は現在確認されている感染者との対比では相当高いが、水面下に相当存在している蓋然性(τὸ εἰκός)が高いことを勘案すると、それほどでもない可能性が高い。ワクチンや特効薬がないから、当面は感染拡大が避けられないが、日本はもとより、感染爆発で苦しむ各国もいずれ収束を迎える。ウイルスはその特性として、宿主である人間を死滅させては繁殖できないので、滅亡のシナリオもあり得ない。
国民の大半は憲法論議をはじめ学問には無関心だし、今回の数理モデル解析に基づく流行予測を理解しなくとも、その程度の分別や想像力はもち合わせている。
「人間界の事情だけで言えば、君はあす死ななければならないというようなことの外にある」(‘σὺ γάρ, ὅσα γε τἀνθρώπεια, ἐκτὸς εἶ τοῦ μέλλειν ἀποθνῄσκειν αὔριον.’)と、素朴に信じて生きている。
人間というのは、そういうものらしい。
「8割削減」が、急激な感染拡大抑止の⇒【手段なのであって、その逆ではない。手段を目的と勘違いするのは、一番典型的な工程管理の落とし穴】というのはその通りだが、西浦氏はもとより、国民も、⇒【もはや何が目的なのかは忘れ去られ、手段の一つ…の…目標が、完全に崇高で唯一の目的と化してしまっている…「思考を停止せよ、ただ8割削減だけを考えよ」、だけが独り歩き】というのは、篠田さんとも思えない冗語だ。
そうしたことは、当局やメディアの口実(πρόφασις)であって、本当の理由(ἡ ἀληθεστάτη πρόφασις)は別にあると、本能的に見抜いているものだ。
例えば、核戦争の危機(ὁ ἀγών)に伴う「人類の滅亡」(ἄνθρώπων φθορά)という妄想(φαντασία)を信じないのも、その人類の中に自分が含まれているとは、あまり考えないで生きる方を選ぶし、先のことは究極的には分からないから、そうした不確実なことで心を煩わす愚を、直観的に悟っているからだ。
それが健全さというもので、ニューヨークやイタリア、スペインで起きていることをみて、それを大変だろうし気の毒だと思っても、それだけで社会や国家が滅ぶわけでもない。
実際に今より大変な事態になっても、その時はその時で、どうやって生き抜くかを考える。疫病の恐怖は、ある意味で独裁政権の抑圧的支配や恐怖や被害よりましで、耐える(φέρειν)ことも可能だと。
⇒【どうやら「専門家」は、4・22より前に感染者増加の鈍化が見られたのが気に入らなかったらしい】はただの勘ぐりだろう。⇒【「42万死者」モデルは実現していないのかについて説明をする】ことは可能だろうが、何度も繰り返すと逆にメッセージ性が薄れると遠慮したのだろう。
別に国民を騙す意図はないし、一定の前提を明示した試算自体にも虚偽はないとしても、単なる要請だけで人を動かすためにそれが政策に取り入れられ、他に有効な手法が現段階で見出し難い以上、余計な説明を重ねることは、舞台が現実的な政治的に移った以上、無用の混乱を招くこともあり、逆効果だと考えているのかもしれない。
⇒【専門家が自分の心の中で勝手に政策目標を設定し、その目標の実現に役立つかどうかを判断基準にして数字や発言を操作していくのは、危険…目標の妥当性を議論の俎上にのせる意見を述べるべき】という点も賛同できない。
政策目標の設定自体は政府、つまり政治家が行っており、西浦氏はもとより、専門家会議も自分たちの役割とは考えていないだろう。目標を可能にする条件と手法、評価の基準を提示しているだけであり、そのうちクラスター対策や、その具体策の一つとしての「三密回避」も、感染症対策の標準的ツールである数理モデル解析による流行予測も手段やツールにすぎず、恣意的に数字や発言を操作しているわけではなかろう。
「目標の妥当性」は社会経済活動との均衡も考慮して政府が設定しているもので、専門家の独裁の余地はほとんどない。
⇒【数理モデルは、架空の抽象的条件で算出した計算式でしかない…計算ミス以外には、間違いというものがない】とする割には、必要以上に神秘化している。
現在の日本を覆っている過剰な自粛(ἡ ἐγκράτεια)は一見して「コロナファッショ」(corona fàscio)の様相を呈している面は否定できないが、所詮は国民の自由意思に任されており、法に則って(κάτα νόμος)厳しい外出禁止措置に踏み切っている欧米各国に比べれば、罰金も罰則もなく、利己主義的な(πλεονετικός)行動の余地も残されている日本で、「魔女狩り」云々をことさらに指摘することは、現状にそぐわない。
⇒【「42万死者・8割削減収束」下の日本人も、麻原と向き合っている信者と同じような心理状態】に至っては、篠田さんがどこまで本気で書いているか疑問に思うが、⇒【信じなければ破局…が訪れると言われ…尊師を信じて行動するのだが、どこまでいっても解脱(収束)は得られない…解脱を目指す信者たちは、そこで死ぬまで尊師の奴隷】は質の悪い冗談だろう。
このあたりになると、単なる類比の論理で(τῷ ἀνάλογον)、言葉だけが踊っている印象だ。
⇒【この閉塞感には、どこかで既視感がある。憲法9条信仰】以下も牽強附会の弱論強弁(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)だ。
憲法学者の極端な憲法解釈の莫迦莫迦しさや護憲平和主義の欺瞞は篠田さんの指摘通りだし、感染症対策にも憲法論議の不毛が影を落としていることは間違いないが、「憲法9条教の信者」の狂信性をもって、西浦氏を批判してもしょうがない。
冷静に(ἥσύχως)「正しく恐れる」(ὀρθῶς φοβεῖσθαι)とは言っても、当然のことながら、ウイルス自体は目に見えないし、しかも症状(σημεῖον)が現われていない感染者もうつすという、恐るべき厄介な伝播力をもつ相手だから、世の中がこれだけ騒然としてきて、それを身近に感じさせる出来事がいくつも重なると人びとの動揺も増し、それに伴って各種の混乱に加え、日本のような「同調圧力」の強い社会では、不当な差別や攻撃、医療従事者などに対する心ない偏見も目立ってくる。全体の空気に抗って、「理に適った形で怖がる」(εἰκότως ὀρρωδεῖν)ということが、なかなか難しくなる。
ウイルスの特性(ἡ φανεμὰ οὐσία)を知って感染を前もって警戒する(προτρβεῖν)ということを頭では理解できても、必要以上に恐れる(ὑπερορρωδεῖν)ことなく、できるだけ平常心を保って、気の重い耐乏生活(τραχύτης)を遣り過ごすには、知恵がいる。
日本のコロナ対策は、それを「日本モデル」と呼ぼうと呼ぶまいと、感染症対策の常道に沿って、終始一貫して正攻法(ἀξιόπιστος μέθοδος)で進められてきたかと言えば、成り行き任せで現在に至っているという側面が目立つ。
よく言えば臨機応変(αὐτόθεν)というか「融通無碍」に見えるが、実態は出たとこ勝負の彌縫策(ἀναγκαία παρασκευή)という色合いが否定できない。迫りくる現実を前に、文字通り必然に迫られて(ἀναγικαῖος)ここに至った、という感が強い。
個人情報保護の観点から日本では今のところ採用に二の足を踏んでいるスマホの位置情報や利用履歴を活用した感染者の監視強化と感染経路の解明にしても、その前提として、PCR検査による感染者の把握が必須になる。日本にその条件が充分整っているかと言えば、必ずしもそうとは言えない現状があり、実施に向けた合意形成を含め、課題は山積している。職場でのリモートワークが、当局者の掛け声にもかかわらずあまり進んでいないことも、日本的要素として押さえておく必要がある。
経済対策として出口戦略を検討するためにも、現在の数値には表れていない水面下の感染実態を含めた全体の感染規模、それによって初めて実質的な病原性の強さ=致死率を推定できる。PCR検査と並行して抗体検査が必要になってくる所以だ。
重症患者の一部が急激な症状悪化で死に至る「一番本当の理由」(ἡ ἀληθεστάτη πρόφασις)など、治療法確立に必要な肝腎の病態解明は未だ不充分だ。
日本型対策は、スウェーデンなど少数例を除けは世界の中で極めて特徴的なものだ。現行の法体系では、改正インフルエンザ等特別措置法に加え、感染症対策法など既存の各法を駆使しても、できることは要請、その延長線で法的拘束力がない点では同じでも社会的強制力をちらつかせる「指示」以上のことはできない。
それで現在の水準で何とかもち堪え、爆発的な感染を封じることができたとしたら、実際問題として、世界に誇るべき成果になる。日本的特殊性が標準(κριτήριον)になることになる。
篠田さんが酷評する、数理モデル解析による流行予測に基づいた8割の接触削減という、「短期間での急速な感染拡大抑止」のための西浦氏の提言は、そうしたなかでは最も標準的な、つまり「日本型」という形容が不要な最もオーソドックスな手法は、あくまで「原理原則」を見失わない正攻法と言える。クラスター対策偏重のような一面的な対策は効率的なようで、それが実効性に限界が見えてきた時点で、かえって弊害を生むからだ。
ここにきて、新型感染症患者に限らず、救急の重症・重篤者に対応した救急医療を担う、所謂「三次救急」医療機関の受け入れ態勢が逼迫しており、受け入れ制限や停止を余儀なくされる施設が全国で増えていることが報告されている。
医療崩壊は複合的な要因(πολύπλοκος αἴτιον)で起こる。現状のように「感染確認者」の増加速度が鈍化したとしても、他の要因が重なれば、つまり「急激な感染拡大」というもっとも深刻なシナリオが当面は回避できたとしても、それは起こり得る。
その予兆(τεκμήριον)が随所に出始めていることは、院内感染の報告例が増えていること、他の感染症だったら充分に警戒し、ブロックできた手法が、今回の新型ウイルスでは通用せず、隠れた感染者が気づかれず、無防備な(ἀφύλακτος)状態で医療機関に紛れ込む可能性が高まっていることは、慶應大病院の例が端的に示している。
感染者は少数でも、それが医療機関にとってどれだけの打撃(βλαβή)になるか、計り知れない。それは、決定的に不足しているN45マスクや防護服以上に、医療関係者が戦々兢々(ὑπερφοβεῖσθαι)となり、萎縮する(ὀκνεῖν)結果を招く。
医療崩壊の危機は、夢物語ではない。[完]
この傾向は、専門家と自称する人を先生扱いする、マスコミが作り上げているのである。オウムの例、自分の権威を維持するという目的が絶対になると、現実の事象を否定したり、叱責したりせざるをえなくなる、も彼らがしていることと同じなのではないのだろうか。反氏が、私にとられる態度と同じである。こういうタイプの人は、学歴信仰の人によくみられる。
(コメント8に評価の星を入れるのを忘れてしまったので)。
要するに、恐怖を煽って国民を思考停止に陥らせ、西原理論に従って人との接触を80%減らせば、日本はすぐに元の生活に戻れる、というイメージを振りまいているマスコミが、言論機関としての機能を果たさず、異常なのである。篠田英朗教授の主張通り、目的と手段を間違えている。
マイクロソフト社創設者、ビルゲイツ氏は、メルケル首相の「指導性と明確な声」をほめている。
Microsoft-Gründer Bill Gates lobt Merkel als "Führungsfigur und klare Stimme"
マイクロソフト社の創設者、長らくパンデミーの警告者であったビルゲイツ氏が、これほどアメリカの危機管理を激しく批判し、ドイツ政府をほめたたえることも珍しい。https://www.spiegel.de/wirtschaft/unternehmen/corona-bill-gates-kritisiert-donald-trump-und-lobt-angela-merkel-a-c52de64a-a239-4dde-86c7-3d72bcb1b1c2、26.04.2020, 20:29
ゲイツ氏の米国政府への批判はこの上なくハッキリしている。彼のトーンは普通、政治家に対して、トランプ大統領に対しても、外交官のものである。しかし、今回は、WHOの支払い拒否を含めて、米国の決断を批判した。
はやく、日本のマスコミ関係者も、中国やWHOを敵対視、不信感をもつのをやめ、真実はなにか、をつかみ、純真な日本国民を正しく誘導してほしい。
渋谷氏の出鱈目な肩書と、発信されている言動に同じ学者として怒りさえ感じておられるのでしょうね。新しい宗教と教祖様が次々と現れる現象を私も感じます。上昌広PCR教祖、渋谷健司感染爆発教祖、接触の8割削減教の西浦教祖。
出口の見えないこの状況の中で、ウイルスのリスクと向き合いながら、現在の日本の衛生習慣を更に改善し「普通の」経済活動ができる社会が訪れる事を一日も早く待ち望みます。
欧米からの経験則では、死亡者ピークは2~3週間遅れるとか< です。医療インフラのキャパを考えると、この死亡者数(重症者数も)の方が重要です。今週1週間で確定できると思います。それからは、経済をも復活させるべく「出口戦略」です。弱ったところに予算を「選択と集中」です。
気になったのは、分析者によって見解が異なるところがあります。篠田教授は、国民の自粛努力にその原因を求めています。アゴラ主催者の池田信夫氏は、自然減だ!人為的なもの(緊急事態宣言などによる移動自粛)ではない!と、はっきり主張していますww 藤原さんは、両者の中間的立場です。
この見解の相違は、緊急事態宣言を解除して経済活動を正常化する方法論で、異なってきます。篠田教授は、第二波・第三波がありうるとします(専門ではないので経済には触れません)。池田氏は、緊急事態宣言・自粛は無意味だから、経済は直ちに通常に戻すべき。藤原氏も、経済の重要性を指摘しています(解除派か!?)。
特異な人格(ἦθος)、理解しがたい人間性(τὸ ἀνθρώπειος)であり、それが精神医学でいう「妄想性障害」とか「偏執症」、所謂パラノイア(paranoia)なのか否かも解明されず、2年前に刑死した。
既存宗教と比べ、オウム真理教を普通の感覚で「宗教」(τὰ θεῖα)と認めるか否かは措いて(私はその偏狭性を含め、紛れもない宗教だと思う)、麻原が宗教指導者として、宗教的な幻想(φάντασμα)、説話(μῦθος)、夢物語(μυθολογία)、物語思考(εἰκὼς λόγοι)で、一般の国民はともかく、心酔者をペテンにかけ(ἐξαπατᾶν)、詐術(ἀπάτη)や印象操作(κακῶς εἰκάζειν περί)で、時に巧みなフレーズや言葉(美辞麗句)で飾り立てられたスピーチ(κεκαλλιεπημένοι λόγοι ῥήμασί τε καὶ ὀνόμασι)で人びとを騙し、自らの狂信的な信念や願望を満たすため、世を欺く(παρακρούειν)べく策を弄したり(ἐπιβουλεύειν)、詐術を弄して(παίζειν πρός)陰謀(ἐπιβουλη)を巡らす手段になったのが、チベット密教と終末論思想が綯い交ぜとなった救済神話(ἡ σωτηρίας μῦθος)だったことも知られている。
今回の論題に限っていえば、それを西浦博氏の数理モデル解析に基づく感染症の流行予測への盲目的な追従や賛同者、内心は反感や異論を抱えつつ希望を託さざるを得ない大多数の国民の素朴な帰衣感情、さらに単なる連想から、日本の主流派憲法学者の制度化された憲法解釈への心酔者(ὁ σπουδαῖος)を一括りにして、「狂信的」(μανικός)と論断することは、悪意に満ちた形容でなければ、単なる言葉遊びの類だろう。
一方で、「狂信的な憲法9条信者」に限るとして、その信仰や信条は、宗教的なまやかしに満ちた、得体のしれない狂信性(μανικός)というより、多分に政治的、言葉を換えればイデオロギー的なものだ。
つまり、主に左翼系知識人やメディアを標的に、共産主義批判の文脈で語られているイデオロギー(Ideologie, idéologie)という手垢にまみれた言葉は、何もそうした特定の政治的見解の支持者に限らない幅広い共通的性格を有しており、虚偽意識性(das falsche Bewußtsein)の謂いだ。社会哲学者の徳永恂氏によれば、それは、単なる感情の表白や行動に伴う直接的、無媒介的な反応ではなく、「何らかの理論的な定式化を含む認識装置であり、思想体系」(『ヴェニスのゲットーにて』、273頁=以下、引用同)ということになる。
つまり、それ自体が純粋に(ἁπλότης)客観的な(καθόλου)理論(ἐπιστήμη)や認識(γνῶσις)などではなく、「何らかの動機ないし理論関心(Interesse)によって制約」(同)されざるを得ない主観的な性格を指摘する。
それは内在的に「論理的な首尾一貫性によって評価されるよりより、外在的な社会的・政治的な機能もしくは影響の面で評価され」(同)、人をして「何らかの行動に駆り立てる『信念体系』もしくは『民衆の心を掴んだ理解』として、何らかの実践的性格」(273~74頁)を有する。「虚偽意識性」である所以は、「現実をありのままに捉えていない」とか、「独善的な自己主張」でしかないからだとされる。
「狂信的な憲法9条信者」、その典型的な事例である護憲平和主義者を拘束して内面的人間性(ὁ ἐντὸς ἄνθρωπος)や政治的な利害(συμφέρον, χρήσμον, ἀγθόν)、関心(ἐπιμέλεια)を支配し、拘束している観念は「政治意識」の別形態であり特定の政治的立場に直結するもので、日本の現実の安全保障を支えている構造や国際政治の問題を「ありのまま」(ἀληθῆ)に考えてはいない。
虚偽意識性の観念的構築物としての虚偽性、性格を根本的に考えるなら、感情や一定の経験を合理化する、つまりロゴス化する行為は何もイデオロギーに限らないわけで、たとえそれが特定の政治意識や階級意識、真理観、学問観はもとより、それぞれの動機や利害関心に制約された頑迷固陋な信念体系でしかないとしても、人は愚劣な信念・信条を合理化して生きるしかない存在で、民主主義でも共産主義でも同列だ。
その欺瞞と偽善、現実的な思考の欠如を批判する点で篠田さんの指摘は正鵠を射ているが、その狂信性は政治的自由、政治的平等を尊重せざるを得ない民主制の下では、いたずらに批判して「神がかり」(ἐνθυσιασμός)的態度や性向しても仕方がない。
しかも、その当事者がその瞞着(παρακρούειν)を自覚して(ἑαυτῷ συνειδέναι)意図的に行動している可能性もある。それは自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)であり見え透いた偽善(ἡ ὑπόκρισις)には違いないが、オウム真理教になぞらえて糾弾しても見当外れで、日本の安全保障上は致命的な障碍とも言えない。
パラノイア(paranoia=παρανοία, παράνοια)と言えば、プラトンは『テアイテトス』で、われわれの感覚にも誤認、つまり錯覚があることを丹念に論じている。
‘πάντες οὖν οὗτοι γίγνονται οἷοι δοξάζειν ψευδῆ. ὅταν γάρ τι ὁρῶσιν ἢ ἀκούωσιν ἢ ἐπινοῶσιν, ἕκαστα ἀπονέμειν ταχὺ ἑκάστοις οὐ δυνάμενοι βραδεῖς τέ εἰσι καὶ ἀλλοτριονομοῦντες παρορῶσί τε καὶ παρακούουσι καὶ παρανοοῦσι πλεῖστα, καὶ καλοῦνται αὖ οὗτοι ἐψευσμένοι τε δὴ τῶν ὄντων καὶ ἀμαθεῖς.’(Theaetetus, 195A)
「かくて、これらの者はすべて虚偽を思いなす(δοξάζειν ψευδῆ)性質の者となるわけである。即ち、彼らはいつも何かを見たり、聞いたり、思いかけたりする時に、これらの各々を敏速にそれぞれの印影(ἕκαστα→τὰ σημεῖα[194D])たるべきものに割り当てることができずに、手間取って、極めて多くの場合、割り当て違いをして、見損なったり、聞き違えたり、思い損ねたりするのであって、従ってこの人たちはまたこれで、実際にあるところのものに関して、これを逸して全くの虚偽にとらわれてしまっている者だと呼ばれ、『愚か者』(ἀμαθής)とされているのである。」(田中美知太郎訳、岩波書店版『プラトン全集』第2巻、347頁=一部表記を変えた)
そこには、錯覚する(παραισθάνομαι)ことの個々の事例として、見損なう(παρορῶσί)、聞き違える(παρακούειν)、思い損ねる(παρανοοῦσι=思い違いをする)ことが指摘されている。何のことはない文章だが、判断の誤り、虚偽が発生する現場を的確に押さえている。
一つは、プラトンに文章にある [παρανοέω]、「思い違い」(think amiss)であり、「思い損ね」(misconceive or misunderstand)、二つ目はそこから出た「精神の状態に異常を来した」、「狂わせた」、「錯乱した」(to be deranget or senseless, lose one’s wits)で、名詞化したものが[παράνοια]または[παρανοία]だ。別の名詞形[παράνοησις]は、「頭を狂わせること」や「錯乱すること」、つまり狂気(derangement, madness)を意味し、形容詞[παράνοητον]は、正常な思考を逸脱した状態で(ἐν τοῖς λόγοις=one must deviate from accurate thougt)、「精神錯乱」(παράνοια)ということになる(Liddelle and R. Scott[ed.]; A Greek-English Lexicon, rev. and augmented throughout by H. S. Jones,1978, p. 1319)。
ちなみに、古代アテーナイで「精神錯乱」は、怠慢(ἀργία)とともに、市民の家の財産の維持管理のために設けられた公私の訴訟(γραφή καὶ δίκαι)の対象となる欠格事項(δίκαι παρανοίας=δίκαι παρανοίας πρὸς τίνα λαγχάνονται)とされた(アリストテレス『アテーナイの国制』第56章6節)。
ついでに言えば、数理モデル解析でその推定が問題になるパラメータ(parameter=媒介変数)もギリシア語由来の言葉で、しばしば「~に沿って」(beside, by)を意味する前置詞[παρά=パラ]と「尺度」の[μέτρον=メトロン]の合成語のように説明されるが、「測る」(計る)の謂いの(παραμετρέω=パラメトレオー)に由来すると考える方が理に適っている。民主制(δημοκρατία)が民衆(デーモス=δημος)と支配する(κρατέω)の名詞形クラティア(κρατία)の合成語なのとは事情が異なる。
世が騒然としてくると、日頃の鬱憤を晴らそうと、生来の軽躁さと驕慢、臆面のなさにもの言わせて愚劣な議論をエスカレーさせる齢70近い老媼のようなお調子者がはしゃぎ出す。暇をもて余しているのだろう。老後は悲惨だ。
10⇒【要するに、恐怖を煽って国民を思考停止に陥らせ、西原理論】――、「西原理論」なるものは寡聞にして承知しないが、戯言だから、それもあり得るのだろう。12⇒【「羽鳥慎一モーニングショー」を見て、憤懣やるかたないが、ノーベル賞受賞者、山中伸弥教授も文字通り、素人なのだと再認識…日本の検査体制が途上国レベル、なのではなくて、コメントしている人々の水準が、途上国レベル】も、何とも勇ましい法螺話である。
執拗に(σκληρῶς)絶え間なく繰り返される(διατελής)ルフランは、病的だ。塩があったら撒けばよのだろう。
以前に紹介したように、「精神病者の妄想にも時局の反映する場合が少なくないという…戦前だと『皇室中心主義』にからまる妄想が多くて…戦争中だと、『聖戦完遂』とか『大東亜共栄圏』とか、『八紘一宇』という観念が、妄想の中心になった…しかし、今日では…世界平和とか、人類救済とか、軍備廃止とかいうことの妄想が多くなってきている…正気と狂気の境が判然としなくなって、とんでもない妄想が大衆化され、集団ヒステリーのもととなったりする」(「理想論の先走り」、田中美知太郎『直言、そして考察』、16~17頁)
それを言葉の本来の意味でパラノイア気質というのだろうが、道化者の老媼に限っては不治の病(ἀνίατος νόσημα)のようだ。
篠田さんは高齢者福祉(γῆρας εὐτυχία)にも貢献しているようだ。οἴμοι.[完]
たしかに、日本が軍隊をもったから、過去に日本が戦争に巻き込まれた、というのは本当である。日本が、軍隊を使って、中国で戦争をしなければ、米国を攻撃しなければ、第二次世界大戦は起こらなかったし、広島・長崎に原爆は落ちなかった。けれどもそれは、日本人がマスコミに扇動されて、政府のこの政策を承認したから起こったのであって、軍隊があったから、戦争になったわけではない。軍隊を是認すると、問題を武力で解決しようとする人が増えるし、軍拡競争が加速されるから、そう考えることで、抑止力になっている面はあるが、戦後日本は、その外交政策をとらない、と日本国憲法前文で宣言しているし、その解釈を取って外国から侵略されたらひとたまりもない。西ドイツは現実にソ連に侵略される恐れがあったから、NATOに加盟したのである。それは、ソ連崩壊後の東欧の国々も同じである。
また、現実の日本の実効再生産数を無視して、数字が低いのはPCR検査の数が少ないせいで、Covid19不顕在患者が多い、という理屈で、基本再生産数2.5を使って40万人の犠牲者が出る、という西原博教授の予測が是認されるのなら、今までの検査結果で、はるかに信頼にたる数字が可能である。こういう理屈で攻めて来る岡田晴恵博士をはじめとする専門家は、どれだけの不顕性患者をみつもっておられるのだろう?6%なのだろうか?それ以上なのだろうか?現実に大事な数字は死者数ではなくて、重症患者の数で、それにみあう人工呼吸器が存在するか、部屋が空いているか、が大事なのである。人工呼吸器を使うことができなければ、重症患者は亡くなってしまう。
これがCovid19の現実の姿だし、アジアの国々の成功を見て、導入を検討しているEUだけでなく、オーストラリアは、25日に実際に導入した。反氏も言葉で人をたぶらかす同じような個性の持ち主だと思うが、パラノイア気質というのだろうが、道化者の老媼に限っては不治の病のようだなどという、他人への勝手なレッテル付けへの自制を求めたい。
der Spiegel誌のStukenberg記者の説、Ebola-Mittel könnte für Covid-19-Patienten doch wirkungslos sein
エボラ熱の薬剤は、Covid19の患者に効果がない、という
記事を深堀してみた。
24.04.2020, 16:33 https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/corona-verwirrung-um-studie-zu-ebola-medikament-remdesivir-a-ab9c26b1-20ad-4952-8a81-52bf79b65923?sara_ecid=nl_upd_1jtzCCtmxpVo9GAZr2b4X8GquyeAc9&nlid=rllbdrav レムデシベルの効果は不明
米国Financial Timesは木曜日に、レムデシベルは、コロナ患者の健康状態を改善しなかった、と報道した。
メデイアの報道によると158人の患者にレムデシベルの臨床試験をした。79人の患者は作用物質抜きの偽薬を得た。1か月のち、レムデシベルを投与された13.9%の被験者は亡くなった。偽薬を処方された患者の致死率は12.8%だった。記録によると18人の患者は、強い副作用を起こし、投与が中断された。レムデシベルは、Covid19に効くどころか、致死率を少し上げる、とまでMerlotさんは報道している。そんな薬を日本政府は承認して、医師がCovid19患者に処方して本当に大丈夫なのだろうか?
素人ながら心配になるが、プロの専門家と自称している人々は、どう思っているのだろう。
ドイツの「ほんとうの感染症の専門家」の意見、とにかく、私たちは、このウィルス感染が再び拡大しようとした時、闘う武器をもっていません。ワクチンもありませんし、特効薬もありません。このCovid19についての可能な治療の方法に関する情報があまりに少なすぎるのです。我々がこの感染症とウィルスが体に与える影響をよりよく理解してはじめて、早期に、よりよく処置できるのです、ということが現実の姿である、ということを日本人の我々もきっちり認識すべきだし、感染病である以上、市中感染、といっても感染者がウィルスを放出しなければ感染しない、という基本に立ち戻って、接触者を追い、感染経路を追うしかないのだ、ということをきちんと認識すべきだ考える。
英語のschoolの語源ともなったギリシア語のスコレー(scholē)は、同時に「余裕」を意味する。矯激なメディア批判に象徴される独善性とお粗末極まる稚拙な文章、品性やユーモアの欠片もない野卑さは、いい歳をして修養はおろか、精神に全く余裕がない(ἀσχολία)憐れむべき人間性をそのまま示す。
従って、相手にするのも阿呆らしいレベルなのだが、性懲りもなく、ソクラテスなど肝腎のことは何も知らない無学(ἀμαθής)特有の糞度胸で、陳腐極まる法螺話に余念がない。
それを、当のソクラテスは「老婆の他愛もないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)とニベもない。もう一人の恐るべき毒舌家、皮肉屋で知られる田中美知太郎は、「老生常譚」と表現する。辞書でも引いて意味を確認すればいい。
ソクラテスはしばしば、「無知の知」(「知らないことを、知らないと思う」=‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’⇒Apologia Socratis, 21D)、所謂「不知の自覚」(「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」=‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’⇒ibid., 21D)を説いたと称される。
ギリシア語の原文を読めば実際に確認できることだが、ソクラテスは、「無知」(ἀμαθία, ἄγνοια)という精神の状態について、何ごとかを知る(γνωρίζω, ἐπίσταμαι)という表現を一切使っていない。著者のプラトンは、「無知について知る」(「知らないということを知っている」)という言い方を一切せず、意識的に避けている。ただ、知る(οἶδα)の否定的表現(μὴ οἶδα, οὐκ οἶδα)を使っているだけだ。
愚劣な老婆の思い及ばない世界だ。
それが何を意味するかと言えば、「無知の知」=「不知の自覚」とは、それをもって浅はかな素人解釈で、何か「特別の知」とするようなそうした都合のよいものではないということだ。
無学な婆さんが、何も知らずに勘違いして、つまり「思い違い」(παρανοέω)する、即ち錯覚して(παραισθάνομαι)、「無知の知」を利用して自らの甚だしい無学を棚に上げてあたかも魔法の杖(ἠ ῥάβδος)のように弄ぶ愚かさ、さらにその愚劣さを少しも自覚する(ἑαυτῷ συνειδέναι)ことがないから、滑稽な阿呆ぶりを世間に晒して愧じない結果になる。
ソクラテスやプラトンがここで真の「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)の対象としているのは、「善美なるもの」(τὸ ἀγαθός)に対する厳密な知(「神の知」=‘τῷ ὁ θεὸς σοφὸς εἶναι’)であって、「無知の知」は、そうした真の知とは区別された、「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία=ibid. 23A)を指すにすぎないこと見落とすから、見当違いな素人論議に淫することになる。
錯覚(παραισθησις)も聞き違い(παρακούουσι)も思い違い(παρανοούσι)も、みな、「パラ」(παρά)という前置詞で始まる。[παρά]はその支配する格に応じて意味が異なるが、この場合は、対格支配で「の傍へ」「に沿って」で、①beside, near, byの意味で、他に②along③past, beyond。属格支配なら「から」(from)、与格支配は「の所で」(beside)になる。
血の巡りの悪い老婆には無縁な世界だが、学問というのはそうしたものだ。
肝腎のことを何も理解しないカ氏には、錯乱した(παραπεπληγμένος=パラぺプレーグメノス)というのもある。
頭を冷やすことだ。
ところで、数学の関連で話をするなら、プラトンが40代でアテーナイ北西郊外に開設し、若きアリストテレスも学んだ今日の大学に相当する学校、アカデメイア(Ἀκαδημεία or Ἀκαδήμεια)は、一緒に生活をしながら共同研究する(κοινὰς ποιούμενοι τὰς ζητήσεις)の研究機関であり、一種の宗教結社(θίασος Μουσῶν)のような存在だったとされる。
学生(οἱ μαθητής)は学問生(οἱ μαθηματικοί)修業生(οἱ ἀκουσματικοί)に分かれていたようだが、この学園の門に掲げられていたとされるのが、「幾何学を学ばざる者は、入門を許さず」(‘μηδεὶς ἀγεωμέτρητος εἰσίτω μον τὴν στέγην’=Elias. In Aristotelis Categorias Commentaria, Prooemium, Commentaria in Aristotelem Graeca, XVIII, 1, p. 118.)という、人口に膾炙した文言だ。
なぜなら、「幾何学は等(ἴσος)と正(δίκη)を意味するから」と、「幾何学せざる者」(ἀγεωμέτρητος)は、「幾何学的に方正でない」という意味にもとれる中世ビザンティンの文献学者のツェツエス(Tzetzes)の註釈もある。志願者が入学を許可される条件として、数学の試験が課されていたとされる。
しかし、そこに言う試験は、哲学または学問をする資格のことでもあり、プラトンは『国家』の中で、幾何学その他の数学的学科を哲学への予備的学問として重視しているから、アカデメイアの基本的教育理念もそこに示されている。
アカデメイアでは、のちのユークリッド(エウクレイデス=Εὐκλείδης)の『幾何学原論』(‘‘Stoicheia’’)に集大成される数学的研究が盛んに行われ、学園関係者から夭折した愛弟子のテアイテトス(θεαίτητος)をはじめ、エウドクソス(Εὔδοξος)、メナイクモス(Μεναίχμος)、キュジコスのアテナイオス(Ἀθῆναιος)、ピリッポス(Φίλλιπος)と名だたる数学者、天文学者を輩出した。
このうち、エウドクソスは紀元前4世紀最大の数学者、天文学者で、一般比例量論、去尽法(区分求積法)を創案、それと並ぶテアイテトスは無理数論の基礎づけを行い、立体幾何学の創始者とされる。彼らが、単なる「学科」(μαθηματα)の意味にすぎなかったものを、すべての科学的思考の基礎である数学(μαθηματική)に飛躍的に進展させ、近代以降の西洋的学問における数学尊重の伝統という礎石を置いた。
話を戻すなら、早朝から夕方まで、何度聞いたか分からぬ下らないお勉強の成果を、執拗に(σκληρῶς)これ見よがしに10件も並べ、自らの度を越した「ドイツ狂い」はそっちのけで、メディアや政治家では足りず、「憲法9条信者」批判をするかと思えば、数日前に投稿したばかりの自分の文章をコピペして使い回し、戯けた自己満足(αὐτάρκεια)なのか、妄執の限りを尽くして壊れかけた蓄音機のように繰り返す以外にすることもないようで、偏執狂の一本調子の咆哮(φθέγμα)がうそ寒く、空しく響く。
「老生常譚」を通り越して狂信的な一人芝居、愚劣な悲憤慷慨に転ずるさまは、「コロナ狂」(ὁ στέφανος μαίνομαι)の面目躍如で、さしもの新型ウイルスを避けて通りそうな勢いだ。
ソクラテスなどもち出す御仁に限って、「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)。[完]
日本よりも実効再生産数や感染者数の傾向の数字が悪い欧米が、経済を立て直すために、米国は思い切って、ドイツはstep by step、様子を見ながらで社会活動を再開しようとしているのに、どうしてニュージーランドを持ち出して、Covid19を撲滅することだけに日本人を専心させようとしているのか、まるでわからないのである。篠田教授の主張通り、西浦教授は、感染症学者として「Covid19に勝った。」という勝利宣言をしたいだけなのではないのだろうか。ニュージーランドは、南半球に位置するし、人口が少ない農業国だし、三密社会の日本とは全く違った特性をもった国である。それを一緒にして、同じ目標を達成するために、非常事態宣言を5月31日まで続けるのか、そうなれば、日本の経済や社会生活はずたずたになってしまうのではないのか、と心配するのである。日本と同じ国際社会の先進国が、ニュージーランドのようなやり方をとってなどないことは100も承知なはずなのに、厳しいロックダウンをすれば、Covid19を撲滅できる、などと主張する自称専門家、コメンテーターを持ち上げている日本のテレビ業界の姿勢が異常なのである。
医師や医学部教授の肩書があるのだから、「感染学」という学問の一般的知識はあるのかもしれないが、特定のこの新しい感染病Covid19に関しては、あまり知らないのに、スペイン風邪やインフルエンザと一緒にする、つまり「思い違い」、「錯覚」をしているマスコミに登場する自称「専門家」。何も知らないのに、あたかも知っているふりをして無智を棚に上げて、あたかも自分の持論を魔法の杖のように弄ぶ愚かさ。本来その愚劣さが判明したら、ジャーナリストなら批判したり、矯正すべきなのに、その必要性を少しも自覚することがない日本のマスコミ業界。これは、日本国憲法9条問題にしろ、ベルリンの壁が崩れる前の社会主義国家についての主張、についても同じであるが、「政府批判」、「反権力」だから、修正されることがないのである。
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