5月25日に緊急事態宣言が解除されるまで、私は「検証」シリーズと題した文章を何度か書いていた。その後、小康を保っている情勢の間、私もこの件については文章を書く機会を持たなかった。しかし、最近になって、新規陽性者の拡大傾向が顕著になり、にわかに新型コロナ問題をめぐる議論も騒がしくなってきた。そこで久しぶりにあらためて日本における新型コロナの現状について書いてみたい。
現在、東京の新規陽性者数の拡大が顕著である。この傾向はいつから始まったと言えるだろうか。底を打ったのは、2人の新規陽性者まで減った5月23日であった(7日移動平均値で見ると5月19日を中央値とする5.8人が最小)。その後は、増加傾向に復活している。
潜伏期間をだいたい2週間でとるのが通常なので、その考え方を適用すると、5月5日頃が最も感染が発生していなかった時期だったことになる。
結果的に言うと、4月7日緊急事態宣言は、最初の1カ月で最大の効果を示した。私自身も5月4日に決定された緊急事態宣言の「延長」は、「移行期間」を意味すると書いたことがある。http://agora-web.jp/archives/2045864.html すでに4月半ばから新規陽性者数の減少傾向は顕著だったので、最初に設定した1カ月を「延長」しても、実質的にはそれは解除後の体制を見据えた「移行」としての意味合いを持つことになるだろう、と私は考えたのである。
1カ月と言われて自粛に応じた人々が、ようやくその1カ月たったところで「やっぱり延長します」、と言われて、「ああ、そうですか」と全く同じ努力を続けることができると想定するのは、人間社会の常識に反する。その意味でも、「延長」は「段階的な移行」のことになる、と考えるのが妥当と思われた。
7月の時点から見て、実際に、「移行期間」突入後の5月初旬から、新規陽性者数の増加傾向の回復は始まっていた。「延長」期間の間に、自粛は緩和されていたのである。
なお7月になった現在の拡大傾向を見て、緊急事態宣言の解除が早かった、という評価を導き出す人もいる。だが私はそうは思わない。「延長」を繰り返しても、やはり増加率は戻ってきただろう。そう推察するのが、5月の動きを見れば、合理的であるように思える。確かに増加率の回復を遅延することはできたかもしれないが、遅延の程度の問題である。
「検証」シリーズの際に繰り返し繰り返し述べたが、緊急事態宣言の目的は「医療崩壊を防ぐ」であった。「新型コロナを完全駆逐する」のは、目的ではなかった。そんなことは達成するのが不可能なので、最初から目的化されていなかった。あくまでも「医療崩壊を防ぐ」を基準にして、5月の「延長」が決められた。
したがって7月になった現時点においても、拡大された医療能力を前提にして、緊急事態宣言の再発出時期を決めるのが、一貫性のある政策判断である。今、4月7日と同じ新規感染者数になったら緊急事態宣言を発するべきだと政府が考えていないのは、「医療崩壊を防ぐ」を基準にしているという点で、一貫性のある政策判断である。医療体制の充実によって、医療崩壊の決壊点は変わる。
ただし、このように言うことは、近い将来に「医療崩壊を防ぐ」ために、緊急事態宣言を再発出しなくていいことを保証しない。そういう事態は近い将来に到来するかもしれない。まだわからないので、今は様子を見ている段階だということだろう。
全体傾向を見るために、底を打ってからの2カ月弱の様子を、7日移動平均の推移でみてみよう。カッコ内は、その前の7日間と比べたときの増加率である。
5月17日~23日:
5.8人 (0.3倍)
5月24日~30日: 13.2人 (2.2倍)
5月31日~6月6日: 19.7人 (1.4倍)
6月7日~13日: 18.2人 (0.9倍)
6月14日~20日: 35.6人 (1.9倍)
6月21日~27日: 44.0人 (1.2倍)
6月28日~7月4日: 85.8人 (2.0倍)
緊急事態宣言が終了した後しばらくは、増加に転じたと言っても、緩やかな増加であったこと、そして6月末以降に増加率が顕著に高まっていると言わざるを得ない傾向があることが、見て取れる。
東京では「東京アラート」が「ステップ3」に移行して飲食店営業が0時まで可能とされたのが6月11日、ライブハウスと接待を伴うバー・スナックなどの飲食店などに対する休業要請が解除されたのが6月19日だった。現在の新規陽性者数の拡大は、「東京アラート」の解除に伴って発生してきた現象ではないかと推察することもできる。
感染を抑えるためにとっていた措置を解除すれば、抑制効果が減って、増加の傾向が強くなる。自然ななりゆきである。したがって、現在の新規陽性者数の拡大は、ある程度は予測されたことだと言える。
問題は、今後の新規陽性者数の拡大が、解除の効果が出たと言える一定の範囲の規模で止まるのか、無限の拡大を引き起こす傾向に入るのか、である。
ゼロリスクを求めるのではなく、流行の先送りのための策を取り続ける「日本モデル」の展望も、その点にかかっている。
ここで重要なのは、「西浦モデル2.0」である。最近、「7月になって新規陽性者数が100人を超えた」ことをもって、「西浦教授の予測が当たった」云々といった言説が出回った。だがこれは必ずしも正確ではない。
5月15日に東京都広報ビデオに登場した際に西浦教授が示したモデルを思い出してみよう。https://youtu.be/aI8zvZAdSTM 緊急事態宣言が解除されて元の生活に戻ると、7月10日くらいの段階で、1日200人くらいの水準に達し、しかもそのままの勢いで拡大し続けることになっていた。http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2020/05/845df3168da61458628203025bc9597a.png
これは5月末日まで緊急事態宣言が続いた場合の試算だったので、1週間程度の前倒しをしてみると、7月4日の段階で1日あたりの新規陽性者数が200人になっていないと、計算があわない。西浦教授によれば、「夜の街」への対応等が2~3割程度では、ほとんど差が出ないはずであった。厳密に言えば、すでに「西浦モデル2.0」は、現実と食い違っている。
しかし、「東京アラート」の6月半ばまでの継続で、東京では感染拡大に遅延が起こったのだ、と仮定することもできるのかもしれない。したがって遅延した形で今後「西浦モデル2.0」に近い現象が起こる可能性は残っているとは言えるのかもしれない。
「西浦モデル2.0」は、「42万人死ぬ」で有名なオリジナル「西浦モデル1.0」を修正したものであった。「西浦モデル1.0」では、3月の欧州と同じスピードで感染拡大が起こると仮定した基本再生産数が用いられていた。これに対して「西浦モデル2.0」は、日本の3月下旬の感染拡大スピードを参考にしたものだ。したがって「2.0」の感染拡大のスピードは、「1.0」よりも緩和されたものになっている。
しかしそれでも両者に共通した「西浦モデル」の特徴は、「人と人との接触」の6割程度以上の削減がないと、感染拡大が止まらず、どこまでも果てしなく感染拡大が続いていく推定になっている点である。より現実的な言い方をすると、緊急事態宣言が再発出されるまで、感染拡大の勢いが衰えることはない。
「三密の回避」などの平時の国民行動を通じた予防策や、クラスター対策などを通じて、流行の先送りを模索し続ける「日本モデル」は、依然として「人と人との接触の6割以上削減」を求める「西浦モデル」によって否定される。
「42万人死ぬ」の「西浦モデル1.0」については、私はかなり批判的な文章を何度か書かせていただいた。間違っているというよりも、過剰な自粛を引き出すために4月15日の時点で判明していた現実とは合致しない計算結果を意図的にマスコミに流した、と指摘した。「西浦モデル2.0」についても、同様に懐疑的なトーンの文章を書いたことがある。http://agora-web.jp/archives/2046174.html
ただし「2.0」については、否定まではしなかった。なぜなら「西浦モデル2.0」は、「西浦モデル1.0」と比べれば、だいぶ穏健な内容だからだ。現時点においても、「2.0」は、「1.0」よりも現実に近いとは言える。
果たして現実は「西浦モデル2.0」に今後どんどんと近づいていくのだろうか。もしそうだとすれば、緊急事態宣言解除後の「日本モデル」の取り組みが、早期に挫折を余儀なくされるということだ。今後あらためて事態の推移を注視していきたい。
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コメント76の日下部眞一氏の日本社会はハンセン病で検査隔離と社会的排除の苦い経験を持ったでしょう、という主張にしても、二つは明らかに違う。ハンセン病とレッテルを貼られれば、その人から移る可能性がある、ということで一生そのレッテルに支配されるが、Covid19は。感染させる期間せいぜい10日である。それが終わればそのレッテルから解放される。また現在、例えば、亡くなった志村けんさんや岡江久美子さんに悪いレッテルをはられているか、生還された赤江珠緒さんや藤波投手が悪いレッテルをはられているか、考えてみればいいのである。石田純一さんは、無責任だ、と批判されているが、その批判は好ましい、と思う。そういうふるまいをすると、Covid19の感染が広がるから、やめるべきだ、といういい教訓である。大事なことは、「正しい知識の普及」なのであって、専門家なら、ジャーナリストなら、それをよく考え、日本国憲法で定められているように、「公共の福祉」のために、「自由や権利を利用する責任」をきちんと自覚してほしい。
英国の研究、Covid19が死に至る一番の危険因子はなにかの調査を発表した。https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/britische-studie-zu-covid-19-das-sind-die-groessten-risikofaktoren-fuer-einen-toedlichen-verlauf-a-ad91c69b-ee1e-4e79-b928-969e31ee276b
研究者は170万人の英国人を分析した、そのうち約11000人がCovid19で亡くなっている。
年齢や既往症以外に重要な危険因子がある。
09.07.2020,
1.男性
2.高齢者
3.貧困、或いは社会的経済的に低い階層
4.既往症(糖尿病、ひどい喘息、免疫疾患)
5.肥満(体脂肪率35以上)
6.有色人種
研究そのものは、その連環、理由を発見できない。研究チームは、それゆえ、どうして、貧乏で、白人でない人々が、Covidで亡くなるかの連関を詳しく説明するように求められている。
つまり、日本では、アジア系が死亡率が低いように思われているが、英国では、そうではない。それは医療関係者や介護関係者にアジア系が多いので、白人に比べて死亡者が多いからである。そのこと一つをとってみても、日下部眞一教授の理論を含めて日本の専門家の主張する理論が間違っている、ことがわかるのではないのだろうか。この研究を深めていけば、人種よりも、三密の住環境、仕事環境が死に至る危険因子を押し上げていることが日本の「日本モデル」を称賛しない専門家にもわかる、と思う。
カロさん、英国の一例を持ってきても意味ありませんよ。もっと、自分の思い込みからはなれて、対立仮説をいくつかたてて検証していくくせをつけないと、成長しませんよ。、、、ジイの、独り言。
ただ、本当にマスコミの専門家たち、コメンテーターたちは、自分の都合のいい数字の解釈をしすぎる、と思う。日本はPCR検査が少ないから、真実はわからない、という状況を悪用して、専門家の肩書を使って、不顕性感染者が多いと難しい言葉を使って、日本には、ほんとうは大変多くのCovid19感染者がいる、かのように恐怖を煽る。岡田晴恵博士のやり方が典型的だが、それを一日中テレビできかされている我々は、知らず知らずにテレビに洗脳され、歪な恐怖感をもってしまうのである。小池百合子知事の数字の使い方も同じであるが、用法は反対である。私たちが知りたい資料は、東京都に重症用のベッドがどのぐらいあって、どれだけ空いているのか。無症状者と有症状者の比率、有症状者の軽症、重症者の割合、今おられる場所、病院におられるのか、隔離施設におられるのか、自宅におられるのか、無症状者は他県を含めて自由に行動する環境におられるのか、という実数である。それによって、感染のリスクが変わってくる。それを、無症状の若者が多いから心配がない、とそらすのは、東京都知事としての責任感も誠意も感じられない。
今の状況は暖簾に腕押し。東京、大阪で任意抽出の唾液PCR検査を10か所100人、計千人程度の調査を定期的に行うことが大切。ランダム標本調査というのが大切。今のように、局所的しらみつぶし法はほとんど無駄な調査に終わる場合が多い。そういった、統計リテラシーのある研究者が委員会にいないのが致命的欠陥。
私のコロナ蔓延説が正しければ、ランダム1000人調査で二桁くらいの陽性者が検出されるでしょう。時間的変化を追えば、拡大説が正しいのか検証できるでしょう。一般市民の安心感を取り戻すためには定期的な統計リテラシーの高い調査で検査結果を公表する以外にないでしょう。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona1.pdf
そして、「…『驢馬は黄金よりむしろ切り藁をとるであろう』。驢馬には黄金よりも食物の方がうれしいからである。」(断片9、同311頁=‘…ὄνους σύρματ᾽ ἂν ἑλέσθαι μᾶλλον ἢ χρυσόν• ἥδιον γὰρ χρυσοῦ τροφὴ ὄνοις.’; ibid., S. 152)ことは、人間界でも広く観察される事実だ。
それは、アリストテレスの「すなわち、馬の快楽、犬の快楽、そして人間の快楽はそれぞれ異なり、『驢馬は黄金よりむしろ切り藁をとるであろう』と、ヘラクレイトスも言う通りである。言うまでもなく、驢馬にとっては黄金よりも餌の方が快いからである。」(‘ἑτέρα γὰρ ἵππου ἡδονὴ καὶ κυνὸς καὶ ἀνθρώπου, καθάπερ Ἡράκλειτός φησιν ὄνους σύρματ' ἂν ἑλέσθαι μᾶλλον ἢ χρυσόν• ἥδιον γὰρ χρυσοῦ τροφὴ ὄνοις.’; Ethica Nicomachea 1176a5~8)に由来する。
ことほど左様に、人はものごとの真の価値について、実際は何も理解しておらず、驢馬並みに盲目であることが少なくない。何がその人物をして盲目にする(τυφλόω)かはいろいろ理由があろうが、主たる要因は無知と凡庸さ、過剰な自己愛だ。
だから、「独りよがりは聖なる病い」(断片34=‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, S. 159) とか、「ふだんは人間を盲目にする自己愛」(‘amour-propre qui les aveugle d’ordinaire.’; La Rochefoucauld, Maximes 494)という言い方がなされる。
別の観察もあって、「どうやら人間は、自分には欠点が充分にないと思うらしい。わざと幾つもの変な性質をこれ見よがしに装って、欠点の数を増やしている。そしてそれを実に大切に育てるから、しまいには生まれつきの欠点のようになって、自分の力で治せなくなるのである。」(‘Il semble que les hommes ne se trouvent pas assez défauts: ils ev augmetent encore le nombre par de certaines qualités singulières dont ils affectent de se parer, et ils les cultivent avec tant de soin qu’elles deviennent à la fin des défauts naturels qu’il ne dépend plus d’eux corriger.’; La Rochefoucauld, Maximes 493)という。そこにも、「聖なる病い」(ἱερὰ νοσός)は明らかだ。
しかもこの世の大概の出来事は、「目に顕わでない結びつきは、顕わな結びつきよりも優れている。」(‘ἁρμονίη ἀφανὴς φανερῆς κρείσσων.’; Frag. 54, Diels-Kranz, S. 162)ものだ。
本日10日も、「目に顕わでない」新型ウイルスの広がりを窺わせるように、東京で過去最多の243人の新規感染者が報告されたが、所謂「市中感染」の有無について、われわれは確実なことは何も知らないし、そのための系統的で継続的な調査は行われていない。
目に顕わでない「結びつき」(ἁρμονίη=ハルモニエー)とは、ロゴス=理(λόγος)のことである。「ハルモニエー」=調和(ἁρμονοία)の原義は単なる一致(ὁμόνοια)ではなく、「弦を張る」(χορδή νευράν)、つまり「弓に張られた弦や竪琴の調弦(ἁρμονοία)のように」(ὥσπερ ἁρμονίαν τόξου τε καὶ λύρας)、「逆向きに働き合う」(παλίντροπος)、逆向きに引っ張り合う(παλίντονος)見えない力の均衡という含意がある。
そしてそのことは、「日本モデル」の中核であるクラスター対策の有効性自体に大きく影響する。篠田さんの説くように「日本モデル≠西浦モデル」なのではなく、両者は一見したところの違いにもかかわらず、相関関係にある。厳密に言えば、西浦モデルはクラスター対策が有効となる条件を整えるための介入=接触削減の根拠を形式化した手法であり、クラスター対策はその従属変数である。クラスター対策の有効性は、押谷仁氏が強調するほどには論証されていない。
クラスター対策の普遍性は、日本の現状の好成績に着目して各国が注目する割には際めて乏しい。精々、三密の回避をスローガンにするぐらいで、感染の初期は効果的だが、台湾やベトナムなど早い段階で水際対策を徹底し封じ込めに成功してほぼ終息状態に近い国家でも、日本的なクラスター対策を実施していないことでも明らかだ。
さらに、日下部眞一氏が指摘するように、検査件数と一定程度連動する感染者数と異なり、死亡率はクラスター対策の採否や有効性から導出されない。日本の死亡率の低さをクラスター対策と結びつけるには前提が多すぎ、結局は感染者数に逆戻りする循環論法に陥る。
クラスター対策によらずに多数の感染者を抱えながらも死亡率が低い国家はいくらでもある。
常に早とちりする老媼が指摘するような英国での死亡者の人種との関連の否定は、人種的特性(τὸ γένου ἴδιον)なるものを、人種の純粋な区別(κᾶτᾶρός διαίρεσις)と同一視し、短絡することが招く誤謬だ。
つまり、同じアジア系でも、近年の移住者でもなければ、人種としての基本的DNAは同一であっても、居住国での過去の類似ウイルスの感染状況、ワクチンの接種の違いという主たる要因に加え、既往症や肥満や喫煙の有無、持病を含めた現在の健康状態、年齢や居住環境を含めた副次的要因が絡んでくるから、同じ人種でも欧米とそれ以外では、比較に際して考慮しなくてはならない異なる要素があまりに多い。
貧困やウイルスに感染しやすいessential workerの割合、人口構成や医療、衛生環境など社会経済的要因も加味すると、人種的要因が死亡率に及ぼす影響はますます見えづらくなる。英国の調査をもって、他の地域のアジア系の死亡率の低さの要因としての人種的特性の有無を判断できない、と考えるのが自然だ。ましてや、そこにクラスター対策の有無など結びつける議論は、何の意味もない。
‘αἰὼν παῖς ἐστι παίζων, πεσσεύων• παιδὸς ἡ βασιληίη.’(Diels-Kranz, Bd. I, S. 162)
直訳すれば、「人生は遊ぶ子供(παῖς παίζων)、将棋遊びだ」(断片52)で、意味深長だ。コロナ禍に翻弄される児戯に等しいわれわれの人生を指すのかもしれない。[完]
83⇒【反氏の…75…「夢遊病者」のように、自分自身に起きていることに何ら疑念を抱かず…彷徨っている多くの、一見して明晰な頭脳の持ち主と見られている人物…というのは、私ではなくて、東京都知事の小池百合子さん】は、小池氏でも無学な老媼でもなかろう。
議論の前提は、たとえ「彼らは自分の身に起きていることに何の疑念も抱かず、夢遊病者のように、それぞれの幸運もしくは不運のなかを彷徨い歩いている」(van como sonámbulos, dentro de su buena o mala suerte, sin tener ka más ligera sospecha de lo que les pasa)としても、「一見して明晰な頭脳の持ち主と見られている人物」(a primera vista, el hombre de cabeza clara)であって、明らかに老媼ではない。
老媼はオルテガ・イ=ガセが批判的に考察する対象である、知的に秀でた一廉の人物には全く該当しない。勘違いが過ぎるようだ。
「一見して」(a primera vista)という意味は、オルテガの言い方なら、「彼らが自分自身や周囲のことについて断定的な表現で話すのを聞くと、彼らがそうしたものについて明確な思想を持っているように思うかもしれない」(Los oiréis hablar en fórmulas taxativas sobre sí mismo y sobre su contorno. lo cual indicaría que parecen ideas sobre todo ello)と考えられがちだからで、老媼は「断定的に」(taxativamente)ものごとを論じることはあっても、何の知性も説得力も伴わない。
政治の現実に無知な、幻想に欺かれるしかない「幻影的な」(fantasmagórico)、つまり「老媼のような明晰さ以前の幻影(fantasmagoría)に囚われている凡庸な魂」ということもその関連で考えるとよい。
オルテガの議論を単なる専門知識に習熟した科学者、知的エリート批判と取り違えているようだ。
「難破者と同じように、彼は本能的にすがりつくべき物を求めるだろうが、その悲劇的で切迫した絶対的に誠実な――というのは、自分を救おうとしているのだから――まなざしが、彼の生の混沌を秩序づけてくれるだろう。これこそ唯一の真実なる思想、つまり難破者の思想である。その他はすべて空言であり、見せかけであり、心の演ずる笑劇にすぎないのである。自分を迷える者と真実に自覚していない者は必然的に自己を失う。つまり、けっして自己を見いだすこともなければ、絶対に真の現実に出会うこともないのである。」(桑名一博訳、215頁=‘Instintivamente, lo misimo que el náufrago, buscará algo a que agarrarse, y esa mirada trágica, perentoria, absolutamente veraz porque se trata de salvarse, le hará ordnenar el caos de su vida. Estas son las únicas ideas verdaderas: las ideas de los náufragos. Lo demás es retórica, postura, íntima farsa. El que no se siente de verdad perdido se pierde inexorablemente; es decir, no se encuentra jamás, no topa nunca con la propia realidad.’; ‘‘La leberión de las masas’’, Ortega Obras Completas, Vol. 4, p. 254)
不確実性への挑戦である政治について、
「政治は科学よりはるかに現実的である。なぜなら政治は、人間が好むと好まざるとにかかわらず、突然に投げ込まれた唯一無二の状況から成り立っているからである。したがって政治は、誰が明晰な頭脳の持ち主であり、誰が凡庸な頭脳の持ち主であるかを識別するのに最もよいテーマである。」(215頁=‘La política es mucho más real que la ciencia, porque se compone de situaciones únicas en que el hombre se encunentra de pronto sumergido, quiera o no. Por eso es el tema que nos permite distinguir mejor quiénes son cabezas claras y quiénes son cabesaz rutinarias.’; ibid., p. 255)
‘non convenit esse ita, ut ridiculus ipse videaris.’
Gの持論は、この秋冬(10月ころ~のインフルエンザなどが流行する時期)に、感染流行国からの第二波(正確には第三波)が来たばあいの、感染者急増時の”有事”に、備えるべきということです(これは即応体制を準備しておくべき)。それまで(現状がそうですが)は、医療従事者司司(つかさつかさ)の対応で充分です。
★★★これは押谷たちのクラスター対策班が勝手にそう思い込んでいるだけでしょう(日下部コメント)
★★★これは、ものすごい思い込みですね。研究者としては失格!!!
「8割の感染者は人にうつさずにウイルスが消える」ということが、どこに保証されてるのでしょう。全くのバカですね。やっと最近になって空気感染の可能性が指摘されてきましたけど、細菌、ウイルスの病理学者であれば接触感染だけでなくすべての感染の可能性を疑ってかかるのが研究者としては当然のこと。これだけでも、専門家失格。
★★★期待しているのは小林らしいが、批判力がないですね。困ったものだ。クラスター班がこんなことを思い込んでいるから、今まだ、日本での感染は少なくて、クラスター対策で抑え込める。したがって、やれ検査だ、隔離だということになって、20万人PCR検査体制への提言となっていくわけですね。財政緊縮派の小林慶一郎がね。私の200万人感染蔓延説が正しければ、検査隔離なんて吹っ飛ぶでしょう。そんな金も労力もありませんから。ただのコロナ風邪にムダな国費をつぎ込めますか?
とにかく、ランダム唾液PCR検査を1000人位行って、市中感染の状況をモニタリングすることが最重要。
別にそれを見越したわけでもないが、前回98の末尾に添えたものの字数の関係で訳文を割愛した‘non convenit esse ita, ut ridiculus ipse videaris.’は、
「人を笑わせるのもよいが、自分自身が笑われるようでは具合が悪い。」という意味だ。ヘラクレイトスの断片130(Diels-Kranz, Bd. I, S. 181)だ。
「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。」(‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.’; La Rochefoucauld, Maximes 386)と、これまで度々たしなめたものだが、過失を繰り返す(παλιλλογία)ことも、同じことを執拗に繰り返すこと(καρτερία)も老媼の「習性」(ἦθος)であり個性(ἰδιώτης)だから、ちょうど1週間前(7日・258)の誤りが再現される。病癖(τὸ κακόηθες)だから、「修正」(ἐπανόρθωμα)は利かないのだろうし、そうやって「終世」(εἰς τὸ πᾶν χρόνου)性懲りもなく繰り返すのだろう。
所謂「日本モデル」について、その定義は措いて、対処法として篠田さんが称揚するほどのものか、私は以前から疑問を呈してきた。感染防止策をウイルスとの戦争になぞらえて、それを「徹底的に叩く」ことを主眼としながら、強力な封鎖措置を講じても感染爆発を回避できなかった欧米流の思考法を「木を見て森を見ない」と批判し、欧米流の「前向き」(Prospective)の調査ではなく、時間的に過去に「さかのぼり」(Retrospective)、ウイルス自体の特性ではなく感染伝播のメカニズムにアプローチする手法だけなら、特段の卓越性、普遍的を見出し難いからだ。
さらにその過程で、8割の感染者は他に感染させないという新型ウイルスの際立った傾向を突き止めた、つまり「場」という要素とも異なる感染特性の異質性(heterogeneity)を解明したことも賞讃されてよい。
しかし、評価はそこまでだ。クラスター対策の採否にかかわらず、好成績を上げている国は少なくないからだ。欧米の一部の事例に幻惑されるから真相を見誤る。しかし、世界は広い。別に自然免疫を含む体内の感染防御メカニズムの関与やワクチン接種の違いを含めた交差免疫などの違いに注目しなくても、多数の感染者を出しながら死亡率を低く抑えている国が、同じ欧州の中でもある、ということだ。
例えば、ベルギーとベラルーシを比較するとよい。人口は共に1,000万人前後で、感染率=10万人当たりの感染者数もベラルーシが高いが、ほぼ同水準だ。西欧とスラブ系の違いはあるが共に白色人種だ。
▽ベルギー15.69%(☆62,357←★9,781=*540.39/84.76)
▽ベラルーシ0.70%(☆64,604←★454=*683.47/4.80)
ベルギーは、100万人以上の人口の国では致死率がフランスに次いで世界第二位で、死亡率は世界一だ。一方、ベラルーシは感染率が中東並みに高い割(サウジアラビアよりやや高い)には死亡率は極めて低い。ベルギーの17.66分の1だ。
欧州でのこの違いは、クラスター対策の有無とも、人種的要因、自然免疫や交差免疫仮説では説明できない。日本との比較では感染率は約42倍、死亡率こそ6.23倍で高いが、要因が分からない点では同じだ。
日下部説でも説明不能だ。そうした事例が世界には少なくない、ということだ。
要するに、確か4種類あるらしい風邪やインフルエンザを引き起こすコロナウイルスの一種で、その中で特に強毒性というわけではなく、多くは、特に弱年層は症状が出ないかほとんど軽症の「年寄り風邪」だという見立てである。医療機関や福祉施設などには脅威だろうが、死にたくなかったら年寄りはおとなしく引っ込んでいたらよい、ということかもしれない。
新型ウイルスを「忍者ウイルス」と称するノーベル賞医学・生理学賞者の本庶佑氏は、日本での死亡者者数の少なさという事実を基に、しかも検査数が少なく、それに伴って計算上の母数となる感染者が実態より相当少ない現状から、実際の致死率はもっと低いかもしれないという推定に基づき、「必ずしも恐れなくともよい」病気か否か、早期に見極めるべきだとして検査の拡充を促す一方で、救命の最後の砦となる治療法の確立を説く。
その手掛かりは既存の薬剤の活用で、日本企業が開発した抗インフルエンザ薬のアビガンの有効性は未だに未確認のようだが、他の薬剤を含めて重症化防止や期間短縮に役立つ症例も報告されていることから、積極的に対応すべきとしている。それは副作用を軽視するものではないが、新種の特効薬開発は時間を要するし、各国で開発競争に鎬を削るワクチンにしたところで、インフルエンザの例もあるように、重症化防止に一定の決め手になっても、感染防止にどの程度効果があるのか、見極めがつかないからだ。
ならば、病気の脅威度を見定める方策を尽くしたうえで、それこそ現実的に対処する道を探ることが、巡り巡って社会経済活動との両立可能な道も見えてくる、という趣旨だ。
本欄でも単なる風邪とする、ボルソナロ・ブラジル大統領並みの直言を辞さない集団遺伝学者、日下部眞一氏の見解は本庶氏と同じではないが、ここにきて再び中西南部諸州で大規模な感染拡大が続いている米国トランプ大統領の今月4日の独立記念日の発言、「4,000万人近くに検査を実施し(感染しても)99%は無害であることを示せた」というのも、死亡率の実情やここにきて低下傾向の致死率をみると、必ずしも大統領選挙目当ての強弁とは言えない側面がある。
米国の11日正午現在の感染者は3,291,786人で、死者は136,671人、致死率は日本やドイツより低い4.15%で、10万人当たりの死亡者はさすがに実数が多いから41.53人とドイツの約3.8倍、日本の約54倍だが、確かに死亡者は4,000万人の0.34%、重症者を含めると1%という数字は、「99%は無害」という認識が全くの虚偽ではないことを物語る。
世界最大の確認感染者数、死亡者数という表面の数値だけみると途方もない発言に映るが、大半は重篤化しない「ただの風邪」という側面が完全否定できないのも事態の一面だ。
コロナ禍に伴い大量に発生した失業者の存在、自由な活動を制限された人々の不満に、警官による黒人暴行死事件の衝撃と、それをめぐる大統領の強硬姿勢が火に油を注いだ感があるが、さすがは何より自由を重視し、個人主義を尊重する国家、国民らしい率直さが大統領発言にも窺える。
「真の雄弁は、言うべきことの一切を言い、しかも言うべきことしか言わないことである。」(‘La véritable éloquence consiste à dire tout ce qu’il faut, et à ne dire que ce qu’il faut.’; La Rochefoucauld, Maximes 250)が当てはまるか否かは迷うところだが、政治家のご都合主義とも言い切れない。
ジャクソニアン・デモクラシーと称される第7代、A. ジャクソン大統領(民主党)の時代に米国を訪ね、醒めた目で人口国家の民主制を観察したフランスの思想家トクヴィル(Alexia de Tocqueville)は、『アメリカの民主政治』(“De la Démocratie en Amérique”, 1835~40)の中で、米国流の人民民主政治=ポピュリズムや革新主義に、所謂「多数者の専制」(tyrannie de la majorité)、「多数者の暴政」(despotisme de la majorité)、つまり多数の全能(l’omnipotenca de la majorité)に基づく民主的専制(le despotisme démocratique)をみて、それが民主制的な社会にある平等の力学のなかで、人々を孤立させ相互の連帯,紐帯を突き崩す自然的傾向があると見抜いた。
しかし、一方で「アメリカ人の偉大な美点は、民主制的革命の苦難を蒙らずに民主制に到達したことであり、そして平等な者になろうとすることなくして、平等な者として生まれたことである。」(‘Le grand avantage des Américains est d'être arrivés à la démocratie sans avoir à souffrir de révolutions démocratiques, et d’être nés égaux au lieu de le devenir.’; Œuvres complètes, Michel Lévy Feréres, 1864, tom. III, p. 167)と付け加えることを忘れていない。
平等に起源をもつ個人主義(l’individualism)がもたらす社会的、公共的関心(intérêts général)の低下、政治的無関心が私的利益(intérêts individuels)、私的世界(le mondo individuels)追求への埋没を一層助長する利己主義(l’égoïsme)に傾く危険と隣り合わせだとしても、アメリカの政治と社会には、政治的自由が、地方分権や政党、結社など市民を私的世界から引き戻して共同の世界に参加させる契機が制度化されているという特質をみている。そしてそれが米国の活力の源泉になる。
それこそ、時代遅れの寡頭制へと先祖返りする抑圧体制である中国との違いなのだろう。
良くも悪くも米国は、日本の先を歩いている。[完]
だから、小林慶一郎にならって私説を述べれば「日本政府はイモヅル方式を信条とするクラスター対策班にコロナ対策をまかせたために、多くの無病な感染者を市中放任することになり、国内200-300万人のコロナ感染者のまん延をまねくにいたった。しかしながら、たまたま日本人は体質的にコロナとは親和性があり欧米諸国とは50-100倍ほどの軽い被災ですむことになった」となる。
だから、これからの政策は、コロナ普通の風邪化、そしてコロナ恐怖に煽られた多くの日本人のPTSD対処ということになるでしょう。
そして、「新しい生活様式」ではない「前の生活と連続性ある生活」をとりもどして働いて、ムダに費やした国費の穴埋めをしなければ後の世代がかわいそうです。
北海道の調査前に導入された「三密回避」以前の「専門家会議」のCovid19の予防対策
• 手洗い、うがい
• 接触感染を媒介しうる物表面の消毒
• サージカルマスクの着用
• 体液の接触を避ける
• SARS感染者の私物を、熱した石鹸水で洗浄する
(フォーク・スプーン類や皿などの食器類、寝具など)
• 症状を呈した子供の出席停止措置
というのは、SARSの予防対策をまねたものである。
2003年のアウトブレイク時、SARS感染は次のような患者で疑われた
• 38 °C (100 °F)以上の発熱、その他の症状(咳や呼吸困難)を呈している。そして、
• 以下の2条件のどちらかを満たす。
1. 10日以内に、SARS診断を受けた人物と濃厚接触している。
2. 世界保健機構 (WHO) の発表で現在流行が起きているとされている地域に、渡航歴がある。
そのために、Covid19にも入国制限があり、最初、38度以上の発熱がPCR検査の条件だったのだ、とわかったが、SARSの場合も、RT-PCR法は、迅速診断の一つの手段であり、確定診断にはウイルス分離、核酸検出、中和抗体の上昇などの決め手がいるのである。
また、10日以内にSARS診断を受けた人物と濃厚接触しているかどうかを調べることが、Covid19においては、retrospective contact tracing,つまり、過去にさかのぼった患者の病歴や生活スタイルまで含んだ「日本モデル」のクラスター調査なのである。
WHOの感染予防の技術責任者ベネデッタ・アレグランジ氏は7日の記者会見で、エアロゾルを介した感染の可能性を示唆したうえで、「換気の悪い場所などでの感染の可能性は否定できない」と話した。「証拠を収集して解釈する必要がある」と、検証作業を急ぐ考えを示した、そうである。
「エアゾール感染問題」も同じである。WHOはこれまで新型コロナの主な感染経路は飛沫と接触だとして、対人距離の確保などの徹底を求めてきた。仮にエアロゾルからの感染が正式に認められれば、WHOが推奨する対策も変更を迫られる可能性がある、と「日経新聞」にあるが、それは、「三密回避」、「日本モデルを採用する」ということなのではないのだろうか。
「人権教」にしろ、「マルクス教」にしろ、「平和憲法教」にしろ、「PCR検査万能教」にしろ、「接触大幅削減教」にしろ、「ただの風邪たいしたことがない教」にしろ同じである。現実を無視して、肩書を信じて、一見もっともらしいおかしな理論に洗脳されると、国が悲惨なことになる。
(参考: 重症急性呼吸器症候群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E7%97%87%E6%80%A5%E6%80%A7%E5%91%BC%E5%90%B8%E5%99%A8%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
★★これは北海道でのイモヅル解析の症例分析が少なかったからに過ぎない。こんな症例を普遍的事実と信じて、イモヅル方式を展開し続けたことが間違い。これだけ感染が増えてるんだから、あきらかにイモヅル方式は❝失敗❞である。
とにかく、日本のマスコミ各社も、キャッチフレーズで、国民を惑わすのは、いい加減にしてほしい。
東京都の感染者発表がまずいことに都庁関係者はわかってないことはないだろう。おそらく、都財政を食いつぶしたので小池百合子が内閣を脅し始めたのだろうか?
統計リテラシーがあれば、感染者数は簡単に補正できるでしょう。それを出さないで実数しか出してないのは、ほとんど詐欺に近い情報操作ですね。
彼は、今年の3月ホットスポットと言われた北京にゆきたい、という希望をもっておられたが、それが可能になったら、まず手を清潔に保ち、できるだけ人と体を接触しないようにし、肘にくしゃみをし、多くの人がいるあまり狭い場所や集会にはいかない。けれど、それ以外は、全く普通に生活する、と述べておられる。今は、肘にくしゃみの代わりにマスク着用であろうが、要するに、3密の回避と公衆衛生なのであって、トランプ大統領のされていることは、言語道断であるが、決して「ステイホーム」ではないのである。人生は短い。Covid19に感染しない注意を接客する側も、される側も注意して、いい思い出をたくさんつくってほしい、と老婆は願っている。
おそらく日本国内ですでに200~300万人の感染者がいて、東京都では30万人ほど大阪府では20万人ほどの感染者がほとんど無発症の状態でいると推定される。したがって、次の季節性インフルエンザの時期、10月から来年初頭くらいまでは大きな感染はおこらない。単発的感染のみである。ただし、収容所タイプの施設(介護、収監、学校、自衛隊などなど)では集団感染が起こる可能性は高いので、十分気を付ける必要がある。それいがいにおいては、単なるインフルエンザと同じような対応をすればよい。ということになるでしょう。
① 統計リテラシーがない。PCR検査が3倍くらいに増えているんだから、直感的には観察数を3で割って判断するのが普通の数量感覚でしょう。それすらできていない。
② ②第1波はおさまってなくなってしまってると思い込んでるらしい。だから、次は、第2波の拡大感染へと思考が向かうらしい。
③ ②と関連するが、すでに感染が蔓延しているという可能性(私の感染まん延仮説)を全く考えていない。つまり、集団における病原菌、ウイルスの感染動態を時間的空間的に考えることができていない。わたしには、疫学の基本だと思っているのですが、西浦博すら、これを理解してないようです。40万人死亡説が終われば、第2波10万人死亡説を言い出すのですから。
Covid19の場合、「ロックダウン」よりもretrospective、過去にさかのぼる「クラスター探査」の方が、この感染症を抑え込むには適切なのである。インフルエンザの場合は、例えば1人が2.5人に移すから、感染者と非感染者を隔離した方がいいので、ロックダウンが適当であるが、Covid19はそうではない。5人いたら4人は移さず、1人が12.5人移すのである。ということは、感染者が出たら、過去にさかのぼって感染させた人が、他に感染させた人がいないか、を調べ、その経路をたどっていった方が、よほど感染者を特定できる。感染していても、80%の人は移さない、ということは、80%の感染者から先にはいかない、ということと同義で、その人たちをロックダウンして閉じ込める必要はないのである。感染させる可能性の高い人を隔離した方が、よほど効率がいいし、それを実行しているのが「日本モデル」なのである。
「効果の弱い変異ほど集団中にランダム拡散によって拡がっていく」というのは集団生物学の素養です。
東京近辺であれば1月~3月頃の中国、欧米からの入国者によって羽田、成田経由のコロナウイルスは拡散増殖をくり広げ現在にいたっています。東京圏の5000万人ほどの住人のうち50~100万人ほどが感染し、10000人ほどの人が発病した。そのうち運悪く500人ほどの方々がお亡くなりになったということになります。
大発生の危険性を防ぐためにもランダム1000人唾液PCR検査(10定点)を東京圏と関西圏で1週間に一度行うのが真っ先に取るべき施策でしょう。今のように、行き当たりばったりでムダな国費を費やしてるのは一番悪い。特に夜の街対策とやら。
企業は自衛のため、社員にPCR検査を強制したり推奨したりする企業が増えている。地方の主要取引先を安心させるためであったり、すでに社員に感染例があったので顧客や取引先の不安をとりのぞくためである。それ以外に社員が自発的に検査するケースも増えている。自己負担は何万円もするのでそれなりの高額負担である(それなりのフランス料理のフルコースが食べれる値段である)。
抗体検査によれば0.5%くらいの感染率なので、検査をすればするほど感染者が増えていく。ほとんど症状のない無自覚者だが、例によって間抜けなテレビ番組が「東京の3桁感染者が続いている」と恐怖を煽るので、地方の人々は「東京人は地方に来るな」と警戒を強めている。重症者は数人なのにこうやって恐怖を煽りながら不埒なテレビ番組は「コロナ差別をやめてください」と偽善者づらをする。エイズや原発騒動などの頃から続く、いつもと同じ風景である。
「唾液を用いたPCR検査に係る厚生労働科学研究の結果について」
https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000635988.pdf
この程度の精度のものを大規模にやる必然性が理解できない。陰性と出たとしても、その数日後に感染するかもしれない。
やはり(アビガンが有効かどうかもいまだに結論がでないことに見られるように)複合的で高度な治療が必要な重症者を増やさないことが何よりも最重要の鍵となる。それを最優先に行い、それに基づいて対策を練るのが適切である。そしてこの数値や医療機関のひっ迫などを定量化し、その指標にもとづいて経済活動の活性化をコントロールするのが妥当であると考えられる。
しかし、高齢でそれなりに持病持ちの人が高級クラブにいくなんていうのは不規則な生活をしている芸能人だからで、それなりに特殊な人々だということを大衆はあまり知らなかった。
岡江久美子さんも芸能関係者と発病する一週間くらい前まで会っていた。芸能関係者のだれかが夜の街か外国からの帰国者から新型コロナをもらってきたのだろう。だから夜の街が感染源だと考えられる合理的根拠はあったのだ。もちろん先入観はよくないが、NTT系の大企業の社員が初期にいきなり新型コロナ感染て。そんなの夜の街でもらってきたか、その手の友人からもらった可能性が高いのだろう。
ただし、今のように不特定感染が広まりつつある段階だと、夜の街に限定するのはあまり得策でないかもしれない。また、急ピッチですすんでいるが、老人ホームや病院の監視体制はもっとも重要だろう。
新型コロナが収束しても、リモートワークはやはり効率がよいという知見が広がって大手企業も推進しつつある。この傾向が定着すれば都心の通勤地獄は解消され、保育園の問題も少しは緩和されるかもしれない。(ただし、ろくでもない職場はリモート化しても社員を逆に苦しめるばかりであるのでリモートモ諸刃の剣ではある)リモート化が進むとウィルス感染対策と同時に地方との雇用格差の解決策のひとつになるのではないかと若干期待している。
母親をPCR検査した結果、運よく陰性だった。もし陽性のときは、その本人はもちろん同僚のどこまで検査の範囲を含めるか判断をせまられたので、安堵したとのことである。社員はともかく派遣社員やパートナー会社の労働者もいる。どこまで会社が高額の検査費用をもつのか問題となるだろう。(インフルエンザの場合は社員だけ会社持ちで外注社員は自腹でなんてこともよく聞く。インフルエンザは検査費用がまだ数千円と安いのでなんとかなった)
うちは娘がコロナ初期から不安がるので、最初の時期から「CTスキャンもあり先進医療が進んでいる日本ではそれほど心配することはない。持病の高齢者に万が一移さないように近づかないことが肝心だ。そんなことよりも朝鮮半島で有事が起こったときの中距離ミサイルが日本にとっては最も怖いし危険。有事の可能性は2割くらい。その有事でのミサイル発射は5割くらいで命中精度は高い。一発で相当数が亡くなる。人類はウィルスと何万年も戦って勝利してきた。もっとも怖いのは人間だ」と言ってやった。
Covid19はそういうタイプの感染症である、という認識が専門家には必要だ、ということである。
と、断言できるの?自分でちゃんと調べたの?
あっちこっちの情報をつなぎ合わせて都合の良いことを言ってもダメ。
病理学、感染症学は本当に難しいんだから。野口英世はアフリカ、ガーナの地で黄熱病で死んだんですよ。
外交Web. Vol.61、May/June.2020http://www.gaiko-web.jp/test/wp-content/uploads/2020/06/Vol.61_6-11_Interview_New.pdfで述べられている。要するに、世の中にたくさん感染症の専門家がいて、テレビで専門家として好き放題解説されているが、私が信頼している専門家は尾身茂さんであり、押谷仁さんなのである。日本国憲法問題では、篠田英朗さんの見解を信頼している。5人の感染者がいて、そのうちの一人が12.5人ぐらい移し、他の感染者4人は移さない、という現実を考えた時に、西浦博教授がなぜ、基本再生産数2.5を使ったり、実効再生産数を使われるるのか、その意味がよくわからない。その信者である、東京都小池知事が、なにをどのように考えて、対策をたてられているのか、全くもってよくわからない。
立民のバカな枝野が「緊急事態宣言」の再発令をけしかけておどしてるようだが、本当にバカだ。
既に、西浦10万人死亡説は破綻しています。
小池百合子さんという人は、ヴァイツゼッカー元大統領の嫌う、「反」で人々の共感を得、支持を獲得するタイプの政治家である。米国トランプ首相も似ているが、ポピュリスト政治家、妥協、寛容を旨とする「民主主義を愛する政治家」とは言えない「分断の人」である。反自民、自民党の金権政治打倒でのしてきた人、都知事選挙でも反石原だった。私は、新潟の冬を知ってから、反田中ではなかったし、親石原なので、彼女とはまるで政治信条が違うが、どうしてここまで支持が集められるのか、よくわからないのである。
小池百合子さんは、「あなたは日本のゲッペルスになれる、」と小沢一郎さんにほめられた、と石井妙子さんの「女帝」という本にあるが、日本のマスコミの姿勢は、戦前のポピュリスト政治家をもちあげた姿勢とまるで変わっていない。本当に、日本のマスコミの人々には、言論や報道の自由、或いは権利を日本国民の公共の福祉のために利用している、という自負があるのだろうか。
お詫びして訂正いたします。
。
昨日たまたま昼間NHKテレビの「歴史ヒストリア」で、「ペスト」について報道していた。日本の北里柴三郎氏が、公衆衛生を啓蒙して、この感染症撲滅の指導的役割を果たされたそうである。ペストの起こったイギリスのある村の神父は、「ペスト」感染者が出た時、その村全体の「ロックダウン」をするように、住民を説得したそうだ。移動すると他の村に迷惑がかかるからである。村人たちはしぶしぶそれに従ったが、その村には医師がいなかったために、その村にペスト菌が蔓延し、他の村からは患者は出なかったが、その村で40%の方が亡くなったそうだ。小池知事のお願いは、それに近い、確かに、東京都民が移動しなければ、地方の住民に感染することはないが、東京都内で陽性者を野放しにする、ということは、東京都の感染者は増え続け、東京都では重症者も増え、死者も出る。東京都内では、「日本モデルの基本」、過去にさかのぼってのクラスター調査もしなければ、隔離もせず、検査だけして、感染拡大防止対策をとっていないからである。強力な「西浦1.0」の「接触削減」の際でも、「家庭内感染」、「院内感染」は残った。つまり、ロックダウンでは、感染連鎖は止まらない、ことが明らかだし、この方式はリスクグループに感染させる比率が高まり、重症化させるリスクも大きい。
https://thehill.com/homenews/coronavirus-report/501931-fauci-says-coronavirus-is-his-worst-nightmare
Fauci, the head of the National Institute of Allergy and Infectious Diseases, said the virus surprised him with "how rapidly it just took over the planet.
Fauci said the virus met all four criteria for a nightmare scenario — it is new, respiratory-borne, easily transmissible, and has a significant degree of illness or mortality.
ファウチ氏は、このウィルスの「この惑星を侵略したスピード」に驚いておられる。そして、このウィルスが「悪夢の4つすべての条件」を満たしている、と述べられている。新しく、呼吸器系ウィルスで、感染しやすく、重症化あるいは死にいたることもある、というウィルスなのである。トランプ大統領の考えられるように、単なる風邪ではないし、感染拡大を収束させるのは大変であるが、80%の人は感染させないのだから、隔離は必要であるが、ロックダウン、stay homeは必要ない。物事は専門家の意見をよくきいて、筋道だてて考えるべきものではないのだろうか。「よく見、よく聞き、よく考えよう。」である。
Covid19のウィルス菌は、米国をみると暑さにも強いが、やはり、冬の方が勢力が強く、インフルエンザと同時に襲われたら、確実に重症化する。それがあるから、合理的な国ドイツは、インフルエンザのワクチンを用意している。日本も潤沢に用意すべきで、それにお金を使った方が、感染力の強い初期偽陰性が出る確率の高いPCR検査に使うより、よほど公衆衛生上効率がいい。秋には第3波がくる可能性があり、学校の休みの「今でしょ。」だということが、マスコミの専門家にはなぜわからないのだろう。大事なことは、陽性患者を隔離することで、小池知事が人権を公共の福祉の上におくから、おかしなことになるのである。
人目もある。また、忘れる場合もある。東京全体から考えて、他人に移す人が、どれだけの割合でいるのか考えたらいいと思うし、逆に、大勢に感染させる危険性のあるクラスター関連の人を、東京都内で自由行動させるのをやめていただきたい。実際に、マスクをかけ電車に乗っていて、うつっている人というのが、現実になんにんいるのだろう。とにかく、人を疑心暗鬼にさせるような不安を煽って、マスコミが「Go to キャンペーン」をやめさせるのをやめてもらいたい。
都道府県の中では、コロナ未飽和な都道府県がありますので、例えば、岩手県など、完全封鎖することなく、少しづつコロナに慣れていった方が良いように思います。集団感染に注意してください。
東京都は4日続けて新規感染者数が200人を超え、この3日間は100人台で推移しているものの、小池百合子知事が危機感を強めている。政府が前倒しで実施を打ち出している「Go To キャンペーン」に反対姿勢を明確にしたのも、結局はその場しのぎの無為無策に終始してきたツケを糊塗する責任回避の論点ずらしとも思えない。
「日本モデル」のクラスター対策が有効なら、欧州由来の感染拡大の波を取りあえず制御できたように表向きは見える現在、社会経済活動の制限を緩めたそばから、想定を超える感染の再燃が始まっているような形勢を示しているのを異としなければならないし、所謂「夜の街」関連の接待飲食業を軸にクラスター対策を全くしていないはずもないが、目立った効果は出ていないようで、西浦博氏の警告の一部は現実性を帯びてきたようにも見える。
それに対して「コロナ狂い」(ὁ στέφανος μαίνομαι)で不眠(ἀγρπνία)の気配ものぞかせる「無学な老媼」(ἀμαθής γραῦς)は、日本モデルに敵対する(ἐχθροξενος)らしい西浦モデルを採用して、感染再燃をあらかじめ見越した対策に手抜かりがあったという見当違い、というか妄想的な発想で、首都の女帝(ἡ βασίλισσα μεγάλη πόλεως)の責任追及に入れ込んでいる。内容は、独自の民主主義信仰に基づくお子様政治論に終始して、莫迦丸出しの大風呂敷な法螺話に終始する。
政治家である小池氏の人格としての器量(ἠ τοῦ ἤθους ἀρετή)はともかく、実態はそれほど単純でもなかろう。
何ごとにも取り憑かれる単細胞らしく、寄せ集め(συναγω)の俄か知見に基づく愚劣な思いつき(συντυχία)を並べて、何か論じた気になる莫迦騒ぎが、早朝から続く。
同じく連日のようにテレビの情報番組に登場する、メディアの「コロナの女王」(ὁ στέφανος βασίλισσα)岡田晴恵氏への批判も同工異曲で、「ドイツ狂い」(Γερμνανία μανία)らしく、ドイツ仕込みの狂信的で独りよがりな作法で、何にでも吠え立て噛みつくのが習性らしい。
一方、集団遺伝学の専門家日下部眞一氏は、人口動学としての感染規模予測に対する数理モデル解析的なアプローチに冷笑的かつ否定的な点、統計リテラシーに関する自説の展開を含めメディアの取り上げ方に批判的な点で老媼と見解は一致しているようだが、感染実態に対する見解が正反対で、謂わば呉越同舟のようなチグハグな遣り取りが続いている。
その数を「数百万規模」とする推定の当否は措いて、老媼が全く認めず、その意味も正確には理解しているようにも見えない市中感染が既に起きており、少なくとも200~300万人規模との想定で論を進める日下部氏によれば、今回の感染拡大の再燃と見られるものは「PCR感染“偽装波”」らしく、168⇒【ピークを打ってあと3~4日でおさまる】と、極めて楽観的だ。この断定が氏の専門家としての試金石(ὁ βάσσνος)になるかもしれない。
それは根拠が乏しい類比の論理(τῷ ἀνάλογον)で、結果に責任を問われる(αἰτιάομαι)立場ではないから、何ともご気楽なものだ。
従って、「新たな生活様式」など無用で、クラスター対策にも否定的だ。水面下に大量の感染者が存在する以上、有効性以前に、手の施しようがないからだ。
致死率ではなく日下部氏が重視する死亡率、つまり日本を含む、アジア、アフリカ、東欧などを中心とする一部地域が人口対比の死者数で欧米諸国に比べかなりの低水準で推移している点に着目する議論は、免疫学者の宮坂昌之氏(大阪大免疫学フロンティア研究センター招聘教授)のように、生体に元々具わった免疫システムである自然免疫の役割を指摘する研究者もあり、ほかに弱毒性コロナの既往症やワクチン接種などが重症化しにくい、従って死亡者を抑えているとみる交差免疫仮説もあって、今回の有意な現象の違いについて、いずれも実証的に説明しているわけではないが、「ありそうな」推定であることは否定できない。
しかしこの点に関する日下部氏の議論は総論的な推定の域を出ておらず、説得力は乏しい。無学な婆さんの法螺話に引きずられているわけでもなかろうが、結局はご気楽なメディア批判に淫している。
ところで、統計リテラシー云々以前に、人間には不確実な将来を事前に見通し(προγινώσκειν)、為すべきことを見抜く(γνῶναί τά δέοντα)正真正銘の(γνήσιος)先見の明(ἡ πρόνοια)など望めないから、確とした結果は思いもよらず、あれこれ思い悩むのが思案(βούλευσις)という行為だろうし、不特定多数相手の説得による合意形成である政治はその典型だ。
「ある事柄Xについて、…端的に知識を持っているとわれわれが考えるのは、その事柄Xがそれを通じてそうある原因Yを、その事柄Xの原因であり、その事柄Xは他のようではありえないと認識していると考えるときである。」(‘Ἐπίστασθαι δὲ οἰόμεθ’ ἕκαστον ἁπλῶς, …, ὅταν τήν τ’ αἰτίαν οἰώμεθα γινώσκειν δι’ ἣν τὸ πρᾶγμά ἐστιν, ὅτι ἐκείνου αἰτία ἐστί, καὶ μὴ ἐνδέχεσθαι τοῦτ’ ἄλλως ἔχειν.’; Analytica posteriora, 71b9~12)と、指摘する通りだ。
ものごとの因果関係、つまり原因(τὸ αἴτιον)と結果(ἡ συμφορά)、原因であるものと原因ではないもの(ἀναίτιον)とを分けて、個別的に(καθ’ ἕκαστον)、決定的な第一の原因(τὸ πρῶτον αἴτιον)に至らないまでも、真の要因となるもの(τὸ ἀληθές αἰτία)を解明していく必要がある。
それが、単にそう思われる(δοκεῖν)ということと「認識する」(γνωρίζειν)こととの違いだ。それを学問(μάθημα)とか科学(ἐπιστήμη)という。空理空論(ἀδολεσχία)のようでも、西浦氏はその手順を踏んでいる。もっとも、政策としての当否の矢面に立つのは政治家の方だが。
ところで、政治家はよく、「われわれは今のことにのみとらわれるより将来のことを考える必要がある。」(‘νομίζω δὲ περὶ τοῦ μέλλοντος ἡμᾶς μᾶλλον βουλεύεσθαι ἢ τοῦ παρόντος.’; Thucydides, Historiae, Γ 44, 3)として説得の議論を進めるし、人々が「なすべきことを為す」(τὸ τὰ δέοντα πρᾶξαι)ように協力を求め、それを将来の実利や幸福につなげるための耐乏生活(τραχύτης)を説く。
そして、「自信をもって考えたことでも、いざ実行する段階になって誰しも自信を持ち続けられなくなるからだ。危険を回避しようとして恐怖に囚われ実行に当たって失敗してしまう。」(‘ἐνθυμεῖται γὰρ οὐδεὶς ὁμοῖα τῇ πίστει καὶ ἔργῳ ἐπεξέρχεται, ἀλλὰ μετ᾽ ἀσφαλείας μὲν δοξάζομεν, μετὰ δέους δὲ ἐν τῷ ἔργῳ ἐλλείπομεν.’; ibid., Α 120, 6)ことも珍しくない。
だから、われわれは政治家を選ばなくてはならない。しかも所詮は「多数者の専制」(tyrannie de la majorité)である民主制という根本的制約の中で。だから、あまり贅沢なことは言えない。政治家とはわれわれの似像(εἱκών)であるより外はないからだ。
民主制の本質を、人民の名において支配するのは多数派である民衆であり、単なる「多数者の権利の尊重」(Respect pour ses droits)という政治制度にとどまらない、「民主政治における多数者の自然力」(Force naturelle de la majorité dans les démocraties)である、畢竟「多数者の道徳的支配」(Empire moral de la majorité)と見抜いたトクヴィルにならって、行き着くところ、「多数者の無謬説」(Opinion de son infaillibilité)に殉ずる覚悟をもつほかない。
「多数者の道徳的支配」とは、トクヴィルによれば、「知性に適用された平等理論」(la théorie de l’égalité appliquée aux intelligences)に外ならない。
トクヴィルは『アメリカの民主政治』(“De la Démocratie en Amérique”, 1835~40)で、「人民主権と出版の自由とは全く相互に関わり合っている二つのものなのである。」(‘La souveraineté du peuple et la liberté de la presse sont donc deux choses entièrement correlatives:’; “De la Démocratie en Amérique”, Œuvres complètes, Michel Lévy Feréres, 1864, Tom. II, p. 18)としているくらいだ。
「アメリカではジャーナリズムの精神は、ジャーナリストが目指している人々の諸情熱をぶしつけに無謀に拙劣に襲いかかり、人々をとらえるのに諸原則だけをぶちまけ、人々の私生活に入り込み、人々の弱点と悪徳とを丸裸にすることである。」(‘L’esprit du journaliste, en Amérique, est de s’attaquer grossièrement, sans apprêt et sans art, aux passions de ceux auxquels il s’adresse, de laisser là les principes pour saisir les hommes ; de suivre ceux-ci dans leur vie privée, et de mettre à nu leurs faiblesses et leurs vices.’; ibid., p. 25)
それが米国と変わらぬジャーナリズム、メディアの本質であり、甘いことを言っても始まらない。しかし、それはまた、過剰な自由が生む隷属、所謂ファシズムのプロパガンダとも異なる点に留意しなくてはならない。ロシアやドイツなどの左右のファシズムが20世紀前半に登場したのはまた別の事情による。
次のような記述もある。
「出版は常時開かれている眼によって絶えず政治の秘密のからくりを丸裸にして示し、公人たちを次々に世論の法廷に出頭させるようにしている。」(‘C’est elle dont l’œil toujours ouvert met sans cesse à nu les secrets ressorts de la politique, et force les hommes publics à venir tour à tour comparaître devant le tribunal de l’opinion.’; ibid., p. 26)、「アメリカ連邦では、一つひとつの新聞は個別的にほとんど力をもっていない。それにしても、なお定期刊行物は、人民を別とすれば、権力の第一位を占めている。」
むろん、トクヴィルも説くように、「このような思想の濫用は慨嘆すべきものである」(‘Il faut déplorer un pareil abus de la pensée:’; ibid., p. 25)。しかし、それが政治の現実であり、メディアの活力だ。
「『無知は学の両端にある』とある偉人は言っている。彼は恐らく次のように言った方が真理に一層近づいているであろう。深い確信は両端にのみ見出されるし、中間には疑惑があると。人間の知性は実際にこれら三つの、そしてしばしば継続的な状態にあるものと考えてよいであろう。」(‘Un grand homme a dit que l’ignorance était aux deux bouts de la science. Peut-être eût-il été plus vrai de dire que les convictions profondes ne se trouvent qu’aux deux bouts, et qu’au milieu est le doute. On peut considérer, en effet, l’intelligence humaine dans trois états distincts et souvent successifs.’; ibid., p. 27~28)
「人間は掘り下げて考えることなしに、採用するため確信するのである。いくつもの対象が現われている時には、彼は疑うのである。しばしば彼は、すべての疑問を解決してしまうこともあるが、その時、彼は再び信じ始める。このたびには、彼は真理を偶然にも暗闇のうちでもとらえることはない。けれども彼は真理に直面し、真理の光に照らされて直進する。」(‘L’homme croit fermement, parce qu’il adopte sans approfondir. Il doute quand les objections se présentent. Souvent il parvient à résoudre tous ses doutes, et alors il recommence à croire. Cette fois, il ne saisit plus la vérité au hasard et dans les ténèbres ; mais il la voit face à face et marche directement à sa lumière.’; ibid., p. 28)
政治でも学問でも、「掘り下げて考えることなしに」(sans approfondir)、真理など覚束ない。[完]
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