安倍首相の功績の歴史的評価については、様々な意見があっていいと思うが、新型コロナ対応で失敗した、などという言説を流布する方がまだいたのことには、率直に言って、驚いた。
今回が8回目となる「『日本モデル』vs.『西浦モデル2.0』の正念場」シリーズで示してきたように、あるいはそれ以前の3月からの一連の文章で主張してきたように、安倍首相の指導下で、日本の新型コロナ対策は、着実な成果を見せている。評価の仕方に細かい議論の要素はありうるだろうが、「日本モデル」が失敗しているなどという主張には、全く根拠がない。
私は、尾身茂会長や押谷仁教授らの旧専門家会議・現分科会の方々を「日本の英雄」と呼んで繰り返し称賛してきている。これらの真の質の高い専門家の方々に、専門家としての重責を担う仕組みを担っていただく仕組みをとれたことが、「日本モデル」の成功の秘訣である。
ただし政治的に言えば、この方々を信頼し、ブレることなく政策を遂行してきたのは、もちろん最高責任者としての安倍首相の功績である。
首相に求められた仕事は、質の高い真の専門家を見出し、それらの専門家を信頼し、一貫した政策を遂行していくための体制を整えることだった。安倍首相は、その仕事を誠実に遂行した。
もし新型コロナ危機下の首相が、安倍首相ではなく、「様々な意見を総合的に勘案して」テレビ番組の内容にも気を使っていることを示すために渋谷健司氏のような煽り系専門家にも意味もなく要職を配分していくようなタイプの人物だったら、日本の運命は大きく変わっていたかもしれない。
安倍首相は、最も適切な専門家に、最も適切な立場を提供し、そして決してブレることなく、その真の専門家を信頼し続けた。その功績は、計り知れないほど大きい。真の専門家の方々が日本の英雄であれば、最高責任者である安倍首相もやはり日本の英雄であろう。
最近の傾向を、新規陽性者数の動向で、あらためて確認しておこう。東京の7日移動平均値をとったグラフで見るとこうなる。https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/
私は7月初旬から一連の「日本モデルvs西浦モデル2.0」シリーズの文章を書いてきているが、それは5月15日に西浦博北海道大学教授が示した試算では、7月以降の新規感染者数の増加は、指数関数的拡大に至ったまま、6~8割程度の人と人との接触の削減がなされなければ、減少に転ずることはないはずだったからだ。6~8割未満の人と人との接触の削減では、大勢に影響のある新規陽性者数の減少は見られないはずだった。
この「西浦モデル」の考え方は、「日本モデル」の考え方と、鋭く対立する。そこで私は、緊急事態宣言がない状況での新規陽性者数の推移の意味を明らかにするために「日本モデルvs.西浦モデル2.0」という文章のシリーズを書き始めた。
2か月がたち、9月になった時点での結論を述べれば、「日本モデル」の勝利である。「西浦モデル」にしたがえば6~8割の人と人との接触の削減がなされなければ起こるはずのない新規陽性者数の明確な減少が達成されている。素晴らしい成果である。「日本モデル」を管理している尾身会長や押谷教授らを、私が「英雄」と呼ぶのは、決して間違った態度ではないと思う。
ここで年初からの日本の新型コロナへの取り組みを、安倍首相の退陣の機会に、簡単に振り返っておこう。
<1月>
今年の1月に新型コロナは中国の武漢で発生していることが、世界に広く知られることになった。このとき、かつてSARSの被害を受けた記憶を持つ台湾に代表されるアジア諸国は、機敏かつ厳格な対応措置をとった。そして新型コロナの封じ込めにほぼ成功した。
日本は、中国からの早期の厳しい入国制限などを躊躇した。そのため、ウィルスの国内への侵入を許した。もっとも欧米諸国などにもウィルスは侵入していたので、中国からの来訪者を止めることが、日本のような人口1億2千万人を擁する国にとって、どれほどの意味を持ちえたかは、もはや永遠の謎としか言いようがない。
いずれにせよプリンセス・ダイヤモンド号事件への対応でも厚生労働省が厳しく批判されるにあたって、2月中旬に内閣府に専門家会議が設置されることになった。これが「日本モデル」の実質的な開始点であろう。
<2月>
招集された押谷仁・東北大教授ら感染症の専門家たちは、2月半ばの段階での新型コロナの封じ込めの不可能性を洞察した。これは英断であった。
今日に至るまで、日本は、早期に入国制限などを行って封じ込めを図ったアジア諸国と比すると、死者数などにおいて成績が悪い。他方、そのような措置をとらなかったにもかかわらず非現実的な封じ込め政策を導入した欧米諸国などと比すると、圧倒的に良好な成績を誇っている。
「日本モデル」の成功は、専門家会議に招集された感染症専門家グループの洞察が正しかったことを示している。専門家会議は、失敗を約束されている封じ込めを目指す政策ではなく、感染ペースの鈍化と医療体制の充実を目指す政策が妥当だと考えた。その背景には、感染率は高いが重症化率は低いという新型コロナウィルスの特性に対する的確な洞察があった。
2月25日に決定された新型コロナウイルス感染症対策本部の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」では、次のような考え方が示されていた。
――――――――――――――――――――――
・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、
患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模を抑える。
・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。
・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。
――――――――――――――――――――――
この方針は2月23日の「新型コロナウイルス対策の目的(基本的な考え方)」で簡明に示されていた。https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000617799.pdf
この専門家会議招集後に確立された「日本モデル」の基本的洞察の正しさは、半年後の今日では、すでに実証済だと言える。
2月半ばより前に厳格な入国規制などを通じて封じ込めを図った一部の東アジア諸国を除いて、それ以降の後付けの措置だけで封じ込めに成功した国はない。日本は、封じ込めを目指さなかった、あるいは封じ込めを断念したグループの中では、先頭を走った優等生であった。
結局、この「日本モデル」は、今日の世界のほとんどの諸国が採用しているアプローチとなった。2月半ば以前に封じ込めに成功した一部のアジア諸国を除いて、今日では、世界中の国々が、新型コロナの完全封じ込めを目指すのではなく、重症者への予防と対応に重点を置きながら、感染拡大の緩和化を政策目標としている。「日本モデル」は、そうした世界の国々にとって、着目すべき重要な先例である。
<3月>
大枠の方針が提示された後の3月に、いわゆる「三密の回避」という「日本モデル」を象徴するアプローチが確立されるようになった。http://agora-web.jp/archives/2046366.html 新型コロナの感染を拡大しているのは、全ての陽性者ではない。特にクラスターと呼ばれる大規模感染を引き起こすのは、密集・密閉・密接という条件が重なった状況においてである。したがって、手洗い・マスク着用等の基本的な感染予防を施したあとは、「三密の回避」などの大規模感染拡大予防策を徹底すれば、ウィルスの撲滅は果たせないとしても、重症者が急増して医療崩壊が引き起こされるような事態は回避できる。これが「日本モデル」の基本的考え方であった。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71284
<4月>
「三密の回避」の訴えが政治家層からもなされるようになり、一般の人々にも広く理解されるようになったのは、三月下旬になってからであった。その効果が見極められる前に医療機関への負担の危険な増加が懸念されるようになったため、4月7日に緊急事態宣言が発せられた。安倍首相は、緊急事態宣言の発出にあたって、その目的を「医療崩壊を防ぐ」ことに設定した。2月時点からの「日本モデル」の考え方にそったものであった。
ただ安倍首相は、人々の感染予防行動を集中的に促進するために、西浦博・北海道大学教授の試算を事実上参照して、「人と人との接触を8割減らす」ことができれば、ウィルスを収束させることができる、とも述べてしまった。
このときの「収束」とは、医療崩壊を回避して管理可能な水準にまで感染拡大のスピードを低下させる、という意味であっただろう。しかし西浦教授が、ツィッターなどを通じた社会運動を展開して、8割削減が達成されれば新型コロナは終息する(消滅する)という考え方を流布させたことによって、混乱が起こった。
私は4月10日の時点で、すでに3月からの国民の努力もあり、感染拡大の増加率は低下してきている、とはっきり述べていた。http://agora-web.jp/archives/2045379.html しかし西浦教授は、4月15日に主要マスコミ各社を集めた記者会見を開いて有名になった「42万人死ぬ」試算をグラフ付きで示した。「8割削減」を達成できれば、新型ウィルスを撲滅できる、という夢物語に1億2千万人の国民を総動員するための社会運動であった。
この「42万人死ぬ」事件については、後に押谷仁教授は、自分は公表に反対だった、と述懐している。https://www.dailyshincho.jp/article/2020/07090602/ 西浦教授の、おそらくは正義感に燃え上がった、独断のクーデターであった。
西浦教授は、専門家会議の正式メンバーではなかったが、厚労省クラスター班に属する数理モデル専門家として招かれた専門家会議の記者会見においても、座長や副座長をさしおいて独自の考えに基づく断定的な発言を繰り返した。それは、自身の数理モデルの絶対的な無謬性に信仰心にも似た確信を持った人物の姿であった。西浦教授の反政府的なトーンを大歓迎したマスコミは、西浦教授を、日本において世界の真理を知り、真実を語る勇気を持つただ一人の人物である、といった調子でもてはやした。http://agora-web.jp/archives/2045808.html
西浦教授が、公園の人出が減っていないので8割削減が達成されない、と記者会見で強調すると、翌日の都内では児童公園にまでテープが貼られて立ち入り禁止になるという狂奔ぶりであった。
<5月>
緊急事態宣言前からの措置及び緊急事態宣言中の追加的な措置により、5月には新規陽性者の拡大が減少に転じていることが明らかになった。ただその効果は5月初旬には確定的には十分に明らかではないという理由から、安倍首相は、緊急事態宣言を延長することを決め、それを国民に謝罪した。左翼マスコミは政府の取り組みの失敗をファンファーレを鳴らすように報じ続けたが、左翼マスコミが無視することができないほどに新規陽性者が減少するには、少し時間が必要だっただけの話である。5月末には、延長を早期に切り上げる形で、緊急事態宣言は終結した。その頃までに新規陽性者数は、全国で100人以下のレベルにまで低下していた。
「8割削減」が達成されないままの緊急事態宣言に危機感を抱いた西浦教授は、政府批判の姿勢を強めた。そこであらためて緊急事態宣言の解除に反対するかのようなトーンで、破滅を回避するためにはどこまでもウィルスの徹底撲滅を目指すべきだといった示唆で示されたのが、5月15日の東京都広報番組で示された「西浦モデル2.0」であった。http://agora-web.jp/archives/2046174.html
<6月>
6月は感染者数が少なかったので緊急事態宣言期の検証を進める機運が高まったが、実際に高まったのはモリカケ問題などで見られた構図そのままの不毛な対立であった。
西浦教授は、日本政府はアメリカ政府の圧力に屈して開国して感染を拡大させるな、政治家からの経済重視の圧力に行政官は抵抗せよ、政治家が自説を採用して政策を遂行しないのが問題だ、といった左翼メディアが好む図式に自己の見解をのせた言説を発信し続け、反安倍首相勢力のアイドルになっていった。https://news.yahoo.co.jp/articles/602a038dc47f6aa1a3952ba5f318888f50cc0713?page=4
<7月>
政府は、新型コロナ対応の特別措置法に基づく新たな分科会を設置し、旧専門家会議の主要なメンバーを分科会に移行させた。これ以降、正式メンバーではない西浦教授が、専門家会議記者会見で、座長や副座長をさしおいて断定的な発言を繰り返す、といった光景は見られなくなった。「日本モデル」と「西浦モデル」が、明確に切り離されたわけである。
分科会の助言にもとづいて、政府や自治体は、歓楽街に焦点をあてた戦略的な集中PCR検査の実施などのクラスター対策の政策を実施していった。また緊急事態宣言の急進的な措置の影響が抜けた反動が出る時期にもさしかった。そこで、7月を通じて、新規陽性者の確定報告数は、拡大の傾向を見せた。渋谷健司氏ら、3月~5月に左翼メディアの寵児となっていた煽り系専門家たちは、水を得た魚のように再び日本批判を声高に行い、54兆円全国民PCR検査運動を推進しようとするなどの派手な動きも見せた。http://agora-web.jp/archives/2045987.html
もっとも実際には、拡大スピードのピークは7月初旬で、その後は減速し続けていたことについては、私の7月時の「日本モデルvs西浦モデル2.0」シリーズの文章を読んで確認していただきたい。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda
<8月>
新規陽性者数の拡大は、明白に減少傾向に入り、8月末には7月上旬の水準にまで下げ戻すことになった。重症者数・死者数は、一貫して低い水準に抑え込み続けた中で、新規陽性者数の拡大も抑え込んだことによって、「日本モデル」の政策の妥当性が示された。
そんな中、安倍首相は、休日のない連続勤務後の持病の悪化によって、退陣を表明した。多数の海外指導者は安倍首相を称賛するメッセージを送った。今や、1月の早期の段階で封じ込め政策をとった一部の東アジア諸国を除いて、どの国もウィルスの撲滅を目指す封じ込め政策などはとっていない。重症者数の増加を抑えて、感染拡大ペースの管理に努める日本的なアプローチをとっている。世界各国が「日本モデル」の優位性を認めているのである。
ところが、そんな中、日本のメディアだけが、日本の新型コロナ政策は失敗していると主張し、安倍首相の政策は破綻したと主張し、安倍首相に協力する専門家たちは良心を犠牲にして権力に近づいた者たちだといった許しがたい誹謗中傷を続けている。http://agora-web.jp/archives/2047773.html
果たして日本のメディアは、どこまで断固として世界の趨勢に抗し続けるつもりなのか。この半年間で、私は、安倍首相の政治力の下で、尾身会長や押谷教授が作り上げた「日本モデル」を称賛し続けてきた。他方において、あえて煽り系専門家の言説には警告を発することを厭わないようにしてきた。
それにしても無責任なのは、首相の悪口さえ言っていれば知識人になれるという浅薄な世界観を貫くために、日本をダメにすることも躊躇しない言論人やメディア関係者である。これらの人々が、私が以前から憲法9条問題などで批判をすることを厭わなかった人々とぴったり重なっているのは、どういうことなのか。http://agora-web.jp/archives/2045700.html
この半年間で、日本に専門家であることを美徳とする英雄がいることがわかったのは、私にとって心の救いと言ってもいい出来事だった。だが、圧倒的に多数の無責任な煽り主義者がはびこって隠然たる勢力を誇っていることもまた明らかになった。それは、率直に言って、心が陰鬱になる出来事であった。
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老婆がようやく提示した324 の「原文」なるものは、老婆が指定した2020年4月12日・17(同趣旨の同日7もあるが、後者を選ぶ)⇒【ドイツのアーヘンの大学病院の場合、運ばれた重症患者50人のうちいわゆるスーパー感染者、Covid19以外に他の細菌で侵されている人4人のうち3人に人工呼吸器が必要だった】という不正確で稚拙な日本語訳の出所ではあろうが、所謂「重感染」(sogenannten Superinfektion)と、老婆がその後に誤認したインフルエンザ菌との関係は、今もって不分明だ。
そもそも、提示された文章中の[Bakterien](Bakterieの複数)を「インフルエンザ菌」と訳す必然性はどこにもない。無知ゆえの明らかな誤訳である。さらに、原文の[50 Covid-19-Patienten]は、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)患者50人」であって、老婆の訳した「重症患者50人」ではなかろう。
4月12日時点では、[Superinfektion]=「重感染」も老婆は「スーパー感染者」で不正確極まる。端的に言えばこちらも誤訳だ。まるで、スーパースプレッダー(superspreader)を連想させる。
4月12日・7②⇒【今論議されているのは、いわゆるスーパー感染者で、Covid19以外に他の細菌で侵されている人がいる…】も、「新型コロナウイルス」(SARS-CoV-2)とすべき箇所は、老婆にかかると⇒【Covid19以外…】(正確にはCOVID-19〔新型コロナウイルス感染症〕)になり、原因物質の病原体とそれによる疾病との区別ができていないことを歴然と示す。原文は分けて論じているのを理解できていない。
この時点はもとより、現時点に至るも「通りすがりの老人」氏や政府解釈氏の指摘をまともに受け止めず(理解できず)、中途半端な対応に終始しているのは、生来の「虚偽体質」もあろうが、どこをどう考えても、のちにインフルエンザウイルスを「インフルエンザ菌」と訳すような無知が、4月以来一向に改善されていないことを物語る。
「それに反して、議論の余地がないことは、特定の所謂「重感染」(Superinfektion)の危険性である。新型コロナウイルス(das Coronavirus=新型コロナウイルス〔SARS-CoV-2〕であって、新型コロナウイルス感染症〔COVID-19〕とは異なる←筆者註)によって、広範囲の肺組織(Lungengewebe)に炎症を起こさせた。加えて多くの軽症の細菌(Bakterien)も住みつく(sich ansiedeln)ことが可能になった。アーヘン大学病院に搬送された新型コロナウイルス感染症患者50人の中の4症例はそうした重感染で、うち3例は人工吸入をせざるを得なかった」
そこには、インフルエンザ菌はもとより、老婆がのちに言い繕うインフルエンザウイルスへの言及はない。ここに言う細菌とは、高齢者(肺炎球菌ワクチンの接種を受ける)が起こしやすい肺炎を考えれば、常識的に肺炎球菌のような肺炎を起こす細菌性の病原菌の謂いだろう。
それを無知な老婆が妄想して、その後「細菌」→インフルエンザ菌と曲解したのだろう。
何の釈明にもならない324~325は恥の上塗り的「蛇足説明」で、相変わらずインフルエンザウイルスとの重複感染=重感染に言及しているが、それは、原文中の[Bakterien]をインフルエンザ菌と訳すことを何ら正当化しない。
325⇒【インフルエンザ菌という言葉があるのなら…感染症の専門医たちは、インフルエンザ菌との重複感染を恐れている】は支離滅裂な妄想ないし無駄口で、老婆が如何に愚鈍かの歴然たる証明だ。
結局、自分の莫迦さ加減を理解する(saṁ-jñā)ことも、正直に事情を吐露して和合する(mātra saṁjā-nīte)こともできない阿呆。
「賢明のゆえに釈放された」(pāṇḍityena mukta-)という日が訪れる日は老婆の場合、はるか先のようだ。
「誤りを認めるのは、真理を見いだすのよりも遥かに容易である。誤りは表面にあるので、片づけやすい。真理は深い所におさまっているので、それをさぐるのは、だれにでもできることではない。(格言と反省」から」(高橋健二編訳、ゲーテ格言集34頁)
「真理と誤りが同一の源泉から発するのは、不思議であるが、確かである。それゆえ、誤りをぞんざいにしてはならぬことが多い。それは同時に真理を傷つけるからである。(格言と反省」から」(高橋健二編訳、ゲーテ格言集34頁)
「誤りも、われわれが若いうちは、きわめて結構だ。ただそれを年をとるまで引きずって行ってはならない。(格言と反省」から」(高橋健二編訳、ゲーテ格言集35頁)
迷論濁説は大いに結構ですが、インフルエンザが細菌によって惹き起こされると思っていたり、あるいは細菌とウイルスの区別がついていなかったりする人物に、公衆衛生・感染症対策の何が理解できているのでしょう。私の妹レベルでも知っていることですよ。ついでに繰り返しますが、政府が対策を進めているのは、秋冬のインフルエンザウイルスに関するものです。
原文に存在しない言葉をわざわざ創出して、それを誤りと指摘されると「翻訳者のプロでもない人が、なにを偉そうに訳語を決め、批判しているのだろう。翻訳者には、翻訳の言葉を選ぶ権利がある。」(112)と開き直るような人間が、何を学べるというのでしょう。これまでの人生で何を学んでこられたのでしょう。
貴女に対し、「インフルエンザ菌」という「間違い」を指摘しつづけることは、確かに「表面的な」ことなのかもしれません。カロリーネさんにおける「社会に致命的な影響を与え」る「間違い」とは、貴女が「発信しつづけること」なのですから。あえて申せば「この世に生まれてきたこと」なのかもしれません。
あなたの主張、私が生まれてきたことが間違いだった、というのは、女子プロレスラー、木村花さんが、22歳で自殺する原因になったネットでの誹謗。中傷と同質なものだ。
そうした人間が、誤訳を重ねていた当時、2020年4月12日・15⇒【ドイツの大学の語学入学試験免除、言い換えれば、ドイツ語を習熟した私の見解】などと逆上せ上がっていたのだから、笑止千万だ。普通の羞恥心を具えた人間だったら、死にたくなる水準の恥辱だろうが、偏執狂の老婆は例外的存在のようだ。
当時私は、別の関連で、老婆が全く読んだことのないヘーゲルについて、「ミネルヴァの梟」にしろ「aufheben」の解釈にしろ、ドイツ版Wikipediaなどの解説記事を鵜呑みにし、それすら粗笨な読解による「にわか雑学」で、無謀で噴飯ものの素人論議、要するに莫迦話に入れ上げていたことを、今回改めて確認した。
今回も繰り返される、どこをどう見ても誤訳でしかないみっともないミスを矮小化してごまかす魂胆、腐り切った性根は、救いようがない。オルテガ・イ=ガセではないが、「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はない」(‘El tonto es vitalicio y sin poros.’)という意味での、愚行だ。
そういう愚鈍極まる御仁だから、出まかせで332⇒【「無知の知」、「ミネルヴァの梟」についても同じ…東大系憲法学者の…憲法9条…解釈も同じ…専門家の見解…学識のある人の見解が正しい、などということはいえない】のような、論点ずらしの十把一絡げの妄言を繰り返すことしかできない。
「妄言」(mṛṣā-vāda)は、文字通りパラノイア気質の老婆の莫迦話、狂言ですしかなく、傍目には「妄(もう)言(限界)」と映る。
相手にするのも莫迦莫迦しいが、所謂「無知の知」とは、「無知(無智)の自覚」(‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι•’=「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」)、「不知の知」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’=「知らないことを、知らないと思う」)という意味、ソクラテスの別の言い方なら「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)であって、何か特別な「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)ではない。
真の知の対象となる、「善く生きること」(τὸ εὖ ζῆν)の根本となる善美なるもの(τὸ ἀγαθός)について、ソクラテスは自らの無知(ἀμαθία, ἄγνοια)を自覚という意味で熟知していたにすぎない。
「デルポイの神託」(χρησμός)、つまり「すべての人間のうちでソクラテスこそ最も思慮がある人物」(‘Ἀνδρῶν ἁπάντων Σωκράτης σοφώτατος.’)にしたところで、『ソクラテスの弁明』の該当箇所で無知を自覚し、‘ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι’(「とにかく、つまりこのちょっとしたことで(σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ …ὅτι)、少なくともわたしのほうが知恵がある(σοφώτερος)ことになるらしい」)としているにすぎない。
田中の『ソクラテス』における「無智の自覚」「不知の知」(→127, 137, 153, 155, 207頁)、「無智」(→129~132, 135, 138~141, 150, 153, 170, 176, 179頁)に言及した該当箇所のいずれも、そうした意味を、現存するテキストに基づいて厳密に論じている。
テキストの厳格な解釈について、田中は恐ろしい師で、1956年に日本西洋古典学会が神戸で開催された際、東大の若手研究者の稚拙で奇矯なプラトン、アリストテレス解釈に興奮した田中が、この研究者を京大の研究室に呼び出して、「きみを生きて帰すわけにゆかない」という権幕で、弟子たちと応酬させた挿話が残る。当事者の証言だ。
肝腎のことを何も知らない素人の無駄話をこれ以上相手にしても仕方ないが、狂信的な専門家批判は、まさに「神聖病」(ἱερός νοῦσος)だ。無謀な阿呆ほど、よく吠える。自らの莫迦さ加減を老婆くらい自覚していない人物も珍しい。だから、狂信家という。
老婆は「クジラの髭並み」の神経だから、羞恥心(αἰσχύνη)はもとより、真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)はないことが、今回もまた明らかになった。
出演番組をめぐるネット上での心ない書き込みなどによる炎上を苦にして自殺したとされる女子プロレスラーは、実名で攻撃された。普通の神経の持ち主だったのだろうし、人生経験の乏しい22歳だ。
一方で、まともな神経をもち合わせていない、しかも齢70近い婆さん。それも匿名で法螺を吹きまくっている気違い沙汰(τὸ μανικός ἔργον)だから、335⇒【木村花さんが、22歳で自殺する原因になったネットでの誹謗。中傷と同質】といったところで、空しく響くだけだ。
理の曲直は、「すべてお天道様がお見通し」(οἱ θεοὶ πάντα ἴσασιν)ということだ。しかも、老婆は間抜けな横着者だから、「天網恢恢疎にして漏らさず」、悪事はほっておいても露見する。[完]
そもそも、老婆が誤訳をごまかし続け、それが通じなくなると「些細なミス」「本質的な問題ではなく表面的な誤り」のような趣旨の見苦しい言い訳や矮小化による論点ずらしに終始し(その割には「カトリーネ属」を言い募って大騒ぎの二重基準)、身勝手で放恣だから言うことなすことがコロコロ変わり、浅ましく居直って、9月8日・144⇒【口語の日本語で「インフルエンザ菌」という言葉が使われている以上…謝らない】とほざく。
「口語の日本語で『インフルエンザ菌』」なる文言自体が意味不明で、如何にもお頭に蜘蛛の巣が張った、最近は腐っている老婆らしい狂態だ。まだ10日前の話だ。
どういう心境の変化か、ようやく誤訳の基になったDer Spiegelの該当箇所のドイツ語テキストを提示し、どこをどうみても誤訳、しかも下手な訳文の実態が改めて露呈したところで素直に詫びればよいものを、虚栄や虚飾、虚勢はあり余っていても、真っ当な分別や知的な誠実さ、自制心など欠片もないから、331⇒【反氏たちが、糾弾している間違いは、私の表面的な間違い】のように、致命的な間違いを渋々認めても、まるで間違いを指摘すること自体が不当だと言わんばかりの居直りで、醜悪な人間性を隠そうともしない。
かつて、法哲学者の碧海純一は毛沢東を評して「人間公害」と称したが、その伝でいけば、「悲憤慷慨症」(ὀργιλότητα)の老婆は「人間慷慨」であり、連日粗製乱造で撒き散らす「クズ」投稿は投稿慷慨であり、傍迷惑で皆の顰蹙を買うこと、慷慨転じて公害並みだから、毛沢東とは別の意味で「人間公害」(τὸ ἀνθρώπουκοινὸς κακόν)の亜種なのだろう。
阿呆ほど吠えるというが、低劣なドイツ語や日本語同様、どこまでも醜悪なおべっか使い(ślāgh)で、「通りすがりの老人」氏の皮肉が通じないようで、最近は「篠田大先生」とか、真顔で称している(144⇒【篠田大先生や私の怒りは…】)。
怖いもの知らずの無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)法螺話の典型は、篠田さんにおべっかを使ったのに続けて、2020年4月11日・1⇒【Aufhebenという言葉…小池東京知事も…好んで使われた…Aufhebenにしろ、数理モデルの公式にしろ、知らないと哲学、Covid19の感染力がわからない、のではなくて…この言葉のドイツ語のニュアンス、公式の基本的な意味がわかって初めて、ヘーゲルが意味すること、数理モデルがわかる…普通の日本人にこの言葉のニュアンスがわかるのだろうか】――まるで、自分がヘーゲル哲学の真意や、数理モデル解析を構成する常微分方程式やパラメータ認定の方式を理解しているかのような戯けた口ぶりだった。
私が同日14で、数理モデル解析の基本的考え方であるコンパートメント・モデル解析法(compartmemt model analysis)とヘーゲルの弁証法論理の重要な契機である所謂「アウフヘーベン」(aufheben=止揚)を同列に論じる莫迦らしさ加減を指摘して、⇒《 [aufheben]を理解するにはドイツ語の元々の意味を追求しても何の意味もない…ドイツ語のニュアンス…わかって初めて、ヘーゲルが意味すること…がわかる…は、ヘーゲルなど…読んだことのない…老媼特有の、戯けた法螺話…数理疫学や数理モデルについて、何の理解もないのに、批判の真似ごとをして何か論じた気になって逆上せ上がるという、滑稽を通り越した狂気の沙汰に等しい》とたしなめた。
すると飛び出したのが翌12日の、15⇒【ドイツの大学の語学入学試験免除、言い換えれば、ドイツ語を習熟した私の見解を重んじない。京都大学の哲学科を卒業したことが、どれほどのものだろう】に続く、愚劣極まる素人ヘーゲル解釈だ。
未だに、テキスト一つまともに引用できない。老婆に哲学の主たる要素である、高度に抽象的な、しかし無意味ではない概念的思考など皆無だからだ。
そこで、[aufheben]に関する最も核心的な議論が展開されるテキストを紹介する。ヘーゲルの主著『精神現象学』(„Phänomenologie des Geistes“, 1807)からで、哲学史上際立った難解さで知られるその特異な文章と行論の晦渋さは、ドイツ語で読んでも日本語でも変わらない。合わせて、最も新しい熊野純彦訳(ちくま学芸文庫版)を添える。
‘Das Dieses ist also gesetzt als nicht dieses oder als aufgehoben, und damit nicht Nichts, sondern ein bestimmtes Nichts oder ein Nichts von einem Inhalte, nämlich dem Diesen. Das Sinnliche ist hierdurch selbst noch vorhanden, aber nicht, wie es in der unmittelbaren Gewißheit sein sollte, als das gemeinte Einzelne, sondern als Allgemeines oder als das, was sich als Eigenschaft bestimmen wird. Das Aufheben stellt seine wahrhafte gedoppelte Bedeutung dar, welche wir an dem Negativen gesehen haben; es ist ein Negieren und ein Aufbewahren zugleich; das Nichts, als Nichts des Diesen, bewahrt die Unmittelbarkeit auf und ist selbst sinnlich, aber eine allgemeine Unmittelbarkeit. – Das Sein aber ist ein Allgemeines dadurch, daß es die Vermittlung oder das Negative an ihm hat; indem es dies an seiner Unmittelbarkeit ausdrückt, ist es eine unterschiedene, bestimmte Eigenschaft. Damit sind zugleich viele solche Eigenschaften, eine die negative der ändern, gesetzt.’(„Phänomenologie des Geistes“: W. F. Hegel Werke in zwanzig Bänden, Bd. 3, S. 94[Suhrkamp, 1970])
「〔知覚は否定を具えるから〕『このもの』(das Dieses)は『このものではないもの』(nicht dieses)として定立されている。あるいは止揚されたもの(aufgehoben)として定立されている。」(引用続く)
しかし、直接的な確信においてはそうであるとされていたように、思いなされた個別的なものとしてあるのではない。むしろ、普遍的なものとして、言い換えると性質として規定されることになるものとして存在している。
『アウフヘーベンする』という言葉が、ここでは二重の意義(Bedeutung)を示しており、それこそがこの言葉の真の(wahrhafte)意義なのである。その意義について、われわれは既に『否定的なもの』においてみておいたところであった。即ち、『アウフヘーベンする』こととは『否定すること』であると同時に『保存すること』(ein Negieren und ein Aufbewahren)である。
ここではつまり『無』とはいっても『このもの』の無であって、そこでは無の直接態〔直接的なありかた〕が保存されている。それ自身感覚的なものでありながら、しかしそれでいて普遍的なしかたで直接態(eine allgemeine Unmittelbarkeit)である。――『保存すること』が、このように普遍的になものとなるのは、存在が媒介を、言い換えると否定的なものをそれ自身具えていることによる。
存在がこの否定的なものを表現するのは、その直接態においてのことであるから、存在するとはこの場合、〔他から〕区別され、規定された一つの性質として存在することである。そして、これによって同時に多数の普遍的な性質を、しかもひとつの性質はそれ以外も性質を否定するものとして定立されている。」(186~87頁。一部訳語と表記を変えた。〔〕内は筆者の補足)
人が経験や体験を過大視するのは、現実的というより、知恵が足りないからである。[完]
「この地上において、いつの日か理性が優勢を占め、世界があまりにも理性的な色彩に染まりすぎるという危険性は、全くない(仮にそうしたことにでもなれば、退屈極まりないことだが)。だが、人間が途方もなく奇妙な具合に野獣になり変わるということは、既に明らかなように、大した手間はかからない。人間の裡には、血の気の失せた天使のような存在になる傾向より、野獣になる傾向の方がはるかに強く息づいており、一般的な本能礼讃によって劣悪な本能を解き放つには、それで充分なのである。なぜなら、劣悪な諸本能がそうした一般的な礼讃に出会うと、常にまず自らにそれを関連づけ、賞讃されているのは自分だと思い込み、そうすることで野獣的傾向を圧倒的優位に置こうとするからである。」
‘Es besteht nicht die geringste Gefahr, daß je die Vernunft auf Erden überhandnehmen, daß es je zu vernünftig zugehen könnte auf Erden. Es besteht keine Gefahr, daß die Menschen eines Tages zu emotionslosen Engeln werden, was sehr langweilig wäre. Aber daß sie übertrieben interessanterweise zu Bestien werden, dazu gehört, wie sich gezeigt hat, gar nicht viel. Diese Neigung ist viel stärker im Menschen als die zum Anämisch-Engelhaften, und es genügt, durch allgemeine Instinktverherrlichung die schlechten Instinkte freizugeben, die immer die Verherrlichung zuerst auf sich beziehen, um die bestialische Neigung zu triumphalem Übergewicht zu bringen.’; Schicksal und Aufgabe, 1945: T. Mann Gesammelte Wreke in dreizehn Bänden, Bd. 12, S. 919)
同じことをパスカルは次のように説く。
「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。」(前田陽一訳=‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’; “Pensées” Frag. 358, Œuvres de B. Pascal, Tom. 13, p. 271)
「堪えがたいほどの陳腐さ加減」(d’une trivilité insupportable !)
当時の新聞の報道ぶりについて、楠山さんは痛恨の思いでこう語った。
「結局、国際感覚が全く欠如していたんです。軍部が強硬になっていく過程で、
社内でも支那(中国)派が勢力を握り、英米派は冷や飯をくわされた。
支那問題を連盟で論じていると、『欧米に支那のことがわかるか』と反発をくい
ましてね。
現在の、日本のテレビを中心とするジャーナリズムを見ていると、私は、楠山義太郎さんと同じことを感じるのである。国際社会では、Covid19が猛威を振るい、WHO、新型コロナ死者1週間に5万人は「容認できない数字」https://www.msn.com/ja-jp/news/world/who-%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E6%AD%BB%E8%80%851%E9%80%B1%E9%96%93%E3%81%AB5%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%81%AF-%E5%AE%B9%E8%AA%8D%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E6%95%B0%E5%AD%97/ar-BB19coco?ocid=msedgdhpと報道されている。
篠田教授のブログを読むと、明らかに、「日本モデル」を推奨し、「西浦モデル」を批判されている。余命三年時事日記考の著者は、8169の断罪って?、西浦先生達を断罪した藤井教授とつるんでるくせによく言うわ、という主張で明らかなように、西浦氏を評価し、宮沢教授を強烈に批判しておられる。篠田教授は、2020年06月15日
「大阪モデル」が「日本モデル」をけん引していることの意味というブログを書いておられる。
http://shinodahideaki.blog.jp/archives/35367797.html
ただ、国際社会のCovid19の現在の死者の状況を見ていると、インフルエンザ並みに恐れればいい、とはとても思えない。大事なことは、Covid19を正しく知り、正しく恐れること、そのためには、日本のマスゴミの報道だけではなくて、国際感覚にあふれ、かつ、合理的なドイツの、信頼ができるSpiegel誌、が基盤である拙い私の翻訳も読んで、正しい知識を仕入れて、正しい判断力を身につけていただきたい。私の本意は、テレビ報道を中心とする日本のマスゴミの「世論のミスリード」に惑わされないでいただきたい、ということなのである。民主主義政治、というのは、「マスコミ言論人」が主役なのではなくて、「我々普通の市民」が主役である、ということ、その責任、我々の「代表者を選んだ」結果責任を我々がもたなければならない、という前提に立って、「日本国憲法」に定められている国際協調を前提とした「国の未来」、「公共の福祉」を志向して、ものを考えていただきたい、ということなのである。
客観的な意見を述べれば、、「知識はあるが、智慧がない」のはカロリーネ氏本人です。その知識は相当に偏っているが。
「人間にとって大事なものは、知識ではなく、智慧であり、学者も、自分が「無智である」と知る謙虚さが必要なのである」、これもそのままカロリーネ氏に当てはまる。
くだくだと屁理屈を捏ねるより、
人間にとってもっと大事なことは、剽窃しない、明らかな自分の非は認めて反省する謙虚さ。
まずは自ら顧みて身を律することが重要。
剽窃、とはなにをさすのだろう。
反氏の翻訳を含めた膨大な量の引用は、剽窃ではいわないのだろうか?
私も、反氏なみには、引用元、リンク先を表示している。
220や348についても反論したいところなのですが、多忙につき後回しにさせていただきます(反論の時間がとれないかもしれません)。
しかし、とりあえず一言だけ。
貴女にメリットがあろうがあるまいが、「剽窃」は「剽窃」です。
偏執狂の「無学な婆さん」(ἀμαθής γραῦς)は、どこまで言っても無知だ。田中美知太郎が『ソクラテス』で展開した議論の趣旨は、「蜘蛛の巣だらけの」(araneosus)老婆の理解を超えるようだ。
ここに私が言う「無知」(ἀμαθία, ἄγνοια)とは、通常の「ものを知らない」(ἀμαθής)「愚かな」(μῶρος)「思慮を欠く」(ἄπρων)という、ギリシア語でも日本語でも基本的に変わらない意味や用例に加え、特にソクラテス・プラトン的な意味で、世間的な理解とは異なる。
それは、人間の卓越性(ἀρετή)、即ち徳(ἀρετή)の欠如につながり、善く生きる(εὐ ζῆν)ことの根底にある善美なるもの(τὸ ἀγαθός)、所謂「真理」(ἀλήθεια)への認識、即ち「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)を欠く状態を指している。
この点で、ソクラテス・プラトン的な理解に、アリストテレス的な詮議、区分で、知識(scientific knowledge or science)と訳されるエピステーメー(ἐπιστήμη)、思慮(practical wisdom)と訳されるプロネーシス(φρόνησις)、一般的に知恵または知慧(thoretical wisdom)と訳される伝統的なソフィアー(σοφία)のような区別は存在しない。三つの知が一体だとみなすのが基本的見解だ。
そうした意味で、344⇒【知識はあるが、智慧がない】という、老婆に限らず、世間によくみられる俗信は、少なくともソクラテス・プラトン的な「無知の自覚」、「不知の知」には、何の関係もない、ということだ。
ソクラテスや田中が「無知の知」ではなく、「無知の自覚」(οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι)、「不知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)で、「善美なるもの」を知らない(οὐκ οἶδα, μὴ οἶδα)というのは、勝義の(κύριος)意味ではそうした趣旨だ。
老婆が知識もない=無学で、智慧もないだけの話だろう。
インフルエンザの原因物質としての病原体ではない「インフルエンザ菌」(haemophilus influenzae)を、原因物質の「インフルエンザウイルス」(influenzavirus)と誤認し、ウイルスと根本的に異なる「細菌」=バクテリアを混同して誤訳する程度の阿呆に、344③⇒【訳文の妙】などありはしない。錯乱しているようだ。
訳語の選択は原文または原語の意味を取り違えない、損ねないということが大前提で、それすら覚束ない無学な勘違い婆さんに、「訳文の妙」など、あり得ない道理だ。ドイツ語も日本語も、如何に低水準か、自ら暴露している。
田中が『ソクラテス』で、344④⇒【「無知」ではなくて、「無智」という言葉を使って】いるのは、現在の使用例で一般的となった「無知」が以前は「無智」とするのが通例だったからだ。田中もその後「無智」を→「無知」という大勢に従っている。肝腎なのは「無知」であれ「無智」であれ、ギリシア語の[ἀμαθία, ἄγνοια]に準拠している点だ。
ついでに言えば、田中は「知恵」または「知」ではなく、「智慧」または「智」としているのもそのためだ。このほか一般的には「知慧」という表記もあるが、田中はほとんど使わない。
こうしたことは、田中の文章を丁寧に読めば、偏執狂の老婆以外は、自ずと気づくことだ。老婆は思い込みが激しい狂信家だから、その程度の理解力、分別すらない。
そうしたお頭の蜘蛛の巣が、インフルエンザ菌→インフルエンザウイルスのような途方もない妄想を生む。
「智と無智」に関するある箇所で、田中が『ソクラテスの弁明』から引用している。
「どちらを自分は、受け容れるだろうか。いまわたしは、かれらのもっている智慧は、少しもこれをもっていないし、かれらの無智も、自分の無智とはなっていない。これはこのままの方がよいのだろうか。それとも、かれらの智慧と無智とを、二つとも所有する方がいいだろうか」(『ソクラテス』131頁)
同じ箇所の田中による最終的な訳は以下の通り。
「どちらがわたしにとって、我慢できることなのだろうか(πότερα δεξαίμην ἂν……ἢ)。いまわたしは、かれらのもっている知恵は、少しもこれをもっていないし(μήτε τι σοφὸς)、またかれらの無知(ἀμφότερα)も、そのままわたし自身の無知とはなっていない(μήτε ἀμαθὴς τὴν ἀμαθίαν)が、これはこのままのほうがいいのだろうか。」(岩波書店版『プラトン全集』第1巻、65頁=原文は‘πότερα δεξαίμην ἂν οὕτως ὥσπερ ἔχω ἔχειν, μήτε τι σοφὸς ὢν τὴν ἐκείνων σοφίαν μήτε ἀμαθὴς τὴν ἀμαθίαν, ἢ ἀμφότερα ἃ ἐκεῖνοι ἔχουσιν ἔχειν.’; Apolpgia Socratis 22E)
一見して明らかな通り、「智慧、無智」はすべて「知恵、無知」に変わっている。しかし、内容は一切変わってはいない。
344⑤⇒【私は、なんどか、反氏は、知識はあるが、智慧がない】云々は、肝腎の原文の正確な読解に関して言うべきことではなかろう。
当然のことながら、ギリシア語の知識に裏づけられた正確な解釈がすべてで、それ以外の「人間にとって大切なもの」云々の御託は、本件の議論に関しては全く通用しない無学の冗語にすぎない。
それぞれの主張自体はどれほど莫迦げたものでも、矛盾だらけであっても自由だし、愚鈍の報いはあくまで当事者が負えばよいが、知識と知恵(智慧)の区分など、ソクラテのス・プラトンにとっては無縁な代物だ。
この点については、既に論じている。8月23日・143⇒《老婆の見解と正反対になり…首尾一貫しない…科学的な専門知(ἐπιστήμη=scientific knowledge)、つまり「知識」と、実践的な知慧=思慮(φρόνησις=practical wisdom)を対比させる形で論じた議論は、現代人の一般常識にも適った見解…つまり、頭でっかちには知識はあっても知慧がないという広く行きわたった見方を支持するもので、老婆も基本的に同じ立場、アリストテレス説…それを「当たらない」というのだから、ソクラテス・プラトン流の理論的認識と実践的知慧の一体化を支持するかと言えば、そうでもない。明らかな矛盾…自分で何を言っているのか、皆目分からない程度に、愚鈍なのだろう。莫迦が移りそう》と。
ついでに、老婆の田中『ソクラテス』読解が如何に杜撰か、それに先立つ同日の138~142で、プラトンの『ソクラテスの弁明』や田中『ソクラテス』の該当箇所を引証して、詳細に論駁しておいたから、興味ある向きは参照されたい。
私は、テキストの裏付けのない議論は一切しない。
「智慧」(prajñā=prajñāの音写語が般若)と一応表記したが、漢語の「智慧」に正確に対応するサンスクリットの言葉は、あるようでない。それでも実際の使用例に即して考えると、三つある。
言語学、仏教学的には、①原語[prajñā]、パーリ語で[paññā] の訳語として「智慧」という一つの語で、音写語の「般若」(prajñā)と同等の意味で用いる場合②「智」を原語[jñāna]の訳語、「慧」を原語[prajñā]の訳語とし、「智」と「慧」という二つの側面を合わせて示す語として用いる場合③対応する原語を離れた漢訳語としての独自の意味で用いる場合――だ。
語本来の意味での「智慧」(prajñā)とは、要するに自我(ātman)を否定した仏教的な空(śūnya)、縁起(pratītyasamutpāda)、つまり法=ダルマ(Dharma)の徹底である「無常」(anitya)の道理を認識すること、またはその能力を指す。
実践的には、「智」(jñāna)「慧」(prajñā)の関係は、「慧」(prajñā, paññāṇa)が戒(śīla)、定(samādhi)とともに仏教でいう三つの基本的な修行(bhāvānā=修)を意味する三学(tri-śikṣā)の徳目の一つである「知的理解」の側面を指す。「十地」でその「慧」よりもさらに高い境地であるとされるのが「智」だが、基本的には同義語とみなしてよい。
一方、③の意味での漢語的な「智慧」は世俗的な「さかしら」「分別」を軽侮して、世俗を離れた、その根底にあるものを見通す叡智、賢さを指すのが一般的用法で、個本的にはアリストテレス以来の分類である、知恵(wisdom)と知識(knowledge)の分別を正当化するものではない。
少なくとも、ソクラテス・プラトン的な知の認識とは異なる。
それが、優に2,000年を超す研究の蓄積がある西洋古代哲学、西洋古典学の謂わば常識、共通見解であって、日本の憲法学と比較すること自体がナンセンスだ。
345⑥⇒【デルポイの信託の謎…岩波新書のページ数でp124~136を読んでほしい…この個所はなんどもコメント欄に引用…読まないで、読んでも理解する努力をせずに、他人を虚偽体質である、と批判するのは、どこに起因】と、とぼけているのも「虚偽体質」ならではで、まさに狂気の沙汰。
そもそも、デルポイの「神託」(χρησμός)であって、「信託」ではない。「すべての人間のうちでソクラテスこそ最も思慮がある人物」(‘Ἀνδρῶν ἁπάντων Σωκράτης σοφώτατος.’)の意味と、ソクラテスがそれを受けて行った、当時知者とされていた人々をめぐる知的論駁、所謂「吟味」(ἔλεγχος=エレンコス)についても、それを通じて浮かび上がってくる「無知の自覚」「不知の知」の意味も、過去に詳細に論じており、最近も産婆術を含めて詳細に(9月9日・175~180、10日・199)、さらに直近の昨日19日・337にも書いた通りだ。
田中のジャーナリズム批判の真意、思い込みの激しい老婆のために、特にソクラテスによって批判された当時の「知者」とされた人々、有力政治家や名工と並んで、現在で言えばジャーナリズムの役割も果たした当時の劇作家や詩人たちへの批判の趣旨を詳細に記述し、ソクラテス(プラトン)によって語られた詩人追放論を含め解説してある(一番最初は2018年7月23日・58)。
最初の2年前に、詩人が得意とする模倣(μίμησις=ミーメーシス)が、真似(描写=μίμησις)としての創作行為(ποίησις=ポイエーシス)であって、それが作り出すものは「実在(ἰδέα=イデア)から遠ざかること第三の序列にあり」(Respvblica, 497E)、詩人(作家)は自分が真似て描くものごとについて、真の知識をもたないことを挙げ、哲学とは次元の異なる行為であり、詩作(創作)の感情的効果も、真似(描写)としての詩作(ποίησις)は「魂の劣った部分に働きかけるもの」であり、人間の人格形成に有害な影響を与えると、ソクラテスが説いたことも紹介した。
それはゲーテのような作家にも跳ね返ってくる根本的な批判だ。
田中の『ソクラテス』執筆の動機は、老婆が345⑦⇒【敗戦から12年経った頃】云々で妄想するような種類のものではない。田中の戦後観、戦前認識の一端は、1963年のエッセー「戦前と戦後の連続」を手掛かりに3月2日・49で紹介した。
その趣旨は、「軍国主義というようなものも、そのような歴史の必要が生んだ一つの産物…ただ、その明らかな過誤は、国家目的と軍事目的とを混同し、国家が軍備のために存在するかのような錯覚に陥り、政治の下にあるべき軍隊が、逆に政治を支配した結果、ついに国をほろぼすに至ったこと、個人心理的には、職業軍人が自己の立身出世や栄達のために、多数国民に犠牲をしいながら、それを崇高な国家目的のためであるかのように錯覚したことにある…軍事や軍備を直ちに軍国主義と同一視するのも、戦後の最も危険な錯覚」(田中美知太郎「戦『直言、そして考察』、1971 年、28頁)だ。
老婆の妄言は、剽窃や誤訳の独自解釈がよく示している。お頭に「虚偽毒」が回って日本語の理解も覚束ない。もはや贅言を要しまい。[完]
だから、古のモラリストも、「人は欠点を隠すために弄する手段以上に許しがたい欠点など、めったに持っていないものである」(‘On n’a guère de défauts qui ne soient plus pardonnables que les moyens dont on se sert pour les cacher.’; La Rochefoucauld, Maximes 411)と書きつける。
しかし、世の中にはそうでない人間も珍しくない。本欄で錯乱している偏執狂の老婆である。異様な頻度で間違いを犯す。田中美知太郎の『ソクラテス』など、誤記なしに引用したことは皆無だ。「皆無に近い」の誤りではない。
それ自体が驚異的だが、ただそれだけなら、そういう阿呆もいるのかで、人は驚き怪訝に思うことはあっても、それ以上の印象は残さない。精々、我が身を振り返って真似をしないように用心するだけである。
しかし、老婆の場合は異なる。まず、頬被りする。それが通じないと否定する。さらに質の悪いことに何んとかごまかそうと、別の口実を設けて、間違いが単なる不注意によって生じた、すべて表面的で軽微なもので、それを問題視すること自体が不当で主張自体を顧みない心外な印象操作、重ねて繰り返すのは誹謗中傷であり、人格否定だと居直る。
異様な言いぐさだが、そうした虚勢、はったりで何とかやりすごそうとする。一種の適応障害に近い、人格発達の歪みを垣間見せる。
本人に特段の自覚はない。「無知の知」も何の役にも立たない。「無恥の痴」と言い換えた方がよいかもしれない。
「通りすがりの老人」氏が適切に表現したように、まるで「反社会勢力」ではと思わせるような粗暴さだ。これが、歴然たる剽窃=盗用の否定と居直りに発展すると、「盗人猛々しい」となる。
敵を増やすばかりである。無理解を嘆く悲劇的人物にもなれない。
それを「精神の幼児」に等しい老婆は理解できないか、甘く見る。すると相手も座視できない。
「われわれは相手にうんざりしても、その人を大目に見てやることが多いが、われわれにうんざりするような相手は、容赦できない」(‘Nous pardonnons souvent à ceux qui nous ennuient, mais nous ne pouvons pardonner à ceux que nous ennuyons.’; ibid., 304)となり、相手の不信を逆なでし、怒りの火に油を注ぐことになる。
戦術上は明らかに失態だ。人の心を読み損ねた世間知らずの驕慢な人物が犯しやすい愚である。
「精神の幼児」はいくら齢を重ねても所詮はお子様だから素直に誤る潔さが株を挙げることも、下手に出てかえって狡賢く立ち回ることもできない。事態は一層悪化する。
何よりも知識も知恵も人間観察も足りないから、悪足掻きして元の木阿弥である。致命傷は、不用意に、というか中途半端に間違いを認め、状況が以前とは変わっていることを理解できないこともによる。
弱り目に祟り目、助けてくれる親もいない。善意の第三者にすら顰蹙を買って敵に回す不用意な冗語、軽口、挙句は剣幕やヒステリーも出て、四面楚歌を免れない。
それが、相手に344⇒【知識はあるが、智慧がない】程度の意趣返ししかできない人間の底知れぬ愚鈍さだ。
「老いた狂人は、若い狂人よりさらに狂っている。」(‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes.’; ibid., 444)所以だ。
自らまいた種、身から出たさびだから、救いようがない。
「弱い人間は率直になれない。」(‘Les personnes faibles ne peuvent être sincères.’; ibid., 316)
客観的に事実だから、今の事態に陥っているわけでしょう。
反氏や通りすがりの老人氏、政府解釈氏のみならず、多くの読者が非難するコメントを残されては、論点ずらし、屁理屈に呆れて去っているではないですか。
見たくないものは見ないという性格ですかね。
また、自分を篠田氏と同列扱いするような認識も傲慢な性格にみえる。
何故、自分の誤りを認めることができないのか不思議でもあり、同調する家族や親友の意見を聞くよりも、意見の違う他者からこそ学ぶことが多い。
以前に、プルタルコスの『怒りを抑えることについて』(Περὶ ἀοργησίας)を紹介したが、程度にもよるとして、私の下手なギリシア語作文なら、「われわれは誰でも腹を立てる時はいつでも正気ではない」(‘μαινόμεθα πάντες ὁπόνταν ὀργιζώμεθα.’)ということになろうか。
何せ、相手は齢70近い婆さんである。尊顔を拝したことはないが、どうみても一目置かざるを得ない美女とは思えない。文章の拙さや措辞の貧相なこと、313で見せたセンスの欠片もない表のみっともなさ、すべて、大学時代に美学を専攻した経歴のもち主と思えないお粗末さで、挙措、佇まいも朧ながら見えてくる。
それにも増して、お頭も程度も高が知れていることは、その議論の水準から容易に想定できる。パラノイア気質だし、見るべき取り柄、美質など薬にしたくともない。
如何にも相手として役不足で、阿呆を相手にするとこちらの沽券にかかわることになりかねない。「われわれの憎悪があまりにも激しい時、その憎悪はわれわれを、憎んでいる相手よりも一段劣る人間にする。」(‘Lorsque notre haine est trop vive, elle nous met au-dessous de ceux que nous haïssons.’; La Rochefoucauld, Maximes 339)からで、用心しなくてはならない。
浅ましいこと、この上ない。「われわれの自分の幸も不幸も自己愛に見合う分しか感じない。」(Nous ne ressentons nos biens et nou maux qu’à proportion de notre amour-propre.’; ibid., Maximes 339)というのが同じモラリストの観察だが、老婆の場合は特にそれが際立っているようだ。
相手をするのは、暇をもて余して無聊を託っている婆さん相手の、一種の高齢者福祉(γῆρας εὐτυχία)にも思えてくるから因果である。
それにしても、話の通じない(ἄγνωστος γλῶσσαν)婆さんだ。
ドイツ語どころか、日本語が分からないのだろう。ドイツ語ではPlagiatと称する。他人の文章を98.52%もそれと告げずに何度も引き写して自分の文章のように偽装し、出処を暴かれるまで秘匿する行為、ということだ。
老婆の異常さは、露見してからも借用(盗用)して何が悪いと言わんばかりに、その後もこれ見よがしに愚行を重ねたことだ。盗み癖は「TANTAN」某だけでないことは、私の調査で確定している。
いずれ暴かれるのに、借り物の文体を改める程度の小細工さえ惜しむ横着さが、頭隠して尻隠さずの滑稽を催す。老婆に何の後悔も、改悛の情も、逡巡もないことも異様だ。
350②⇒【反氏の翻訳を含めた膨大な量の引用は、剽窃では】――私の場合は、正当な引用。剽窃と引用の区別も覚束ない莫迦丸出しの無駄口で、それで齢70近いのだから思いやられる。
ものの道理を意味するギリシア語のロゴス(λόγος)は、同時に共通認識や思考の手段である言葉を意味する。老婆の言い分が唐人の寝言にすぎないことは、この共通の世界からの逸脱した夢遊病者に等しい狂気じみた行為に由来する。
ヘラクレイトスの断片に、 「『目覚めている者たちには共通の一つの世界がある』が、眠っている者たちには、それぞれが『自分だけの』世界に帰っていく。」(内山勝利訳=‘φησι τοῖς ἐγρηγορόσιν ἕνα καὶ κοινὸν κόσμον εἶναι, τῶν δὲ κοιμωμένων ἕκαστον εἰς ἴδιον ἀποστρέφεσθαι.’; Frag. 89, Diels-Kranz, 6 Aufl., Bd. I, S. 171)とあるが、この「共通の世界」(κοινὸν κόσμον)とは、何よりもロゴス=言葉だ。
婆さんが言葉の原義に照らしても、「ならず者」(ὁ μοχθηρός)たる所以だ。
首相問題でも同じである。「安倍政治の継承」というスローガンだったから、私は菅首相でいいと思った。けれども、ふたをあけてみると、竹中平蔵さんが出てきて、経済政策は、小泉政権の「規制緩和」の再現だ、と知って、なぜ、マスコミは、その方針を早く国民に知らせないのか、と思った。政治学者たちの主張する、二大政党制の政治、そして、経済学者、竹中平蔵氏のこの方式で、現実の日本には、格差社会が作られ、日本経済の国際競争力が落ち、1980年代の元気がなくなったのである。私がOLをしていた1980年代は日本の経済力が、現在の中国と同じで、欧米の脅威とみなされていたものが、今は、日本の経済政策は失敗した、同じ轍を踏んではならない、と欧米諸国にみなされているhttps://www.spiegel.de/wirtschaft/soziales/regierungswechsel-in-tokio-die-japan-falle-a-f85e102a-3bb9-442d-8781-9f98de0e0547。訳すと、また、インフルエンザ菌のような問題が起こるので、詳細は、翻訳ソフトで翻訳していただきたいと思うが、原因は、1992年のバブル崩壊以降の日本の政治なのである。日本新党が政権を握り、二大政党制になってから、日本の経済がおかしくなった、ということは歴然なのである。
そういう観点から私は、中間所得者層に手厚くする、という岸田文雄さんの経済政策に魅力を感じ、応援していた。マスコミは、総裁選挙の時、どうして、その二人の経済政策違い、を国民にはっきり伝えず、なんでも、派閥レベル、人間関係に問題を落とし込んだのだろう。要するに、日本のマスコミの政治解説者に、政策への関心がまるでないのである。戦後、日本の経済を奇跡的な成長に導いたのは、経済学者ではなくて、通産省のキャリア官僚たちなのである。いつまでも、規制緩和、キャリア官僚悪玉説、に猛進していると、本当に日本は沈没してしまう、と危惧する。「現実の安倍政権の政治」がうまくいったのは、ほんとうは、「経産省のキャリア官僚が官邸を握っていた」からなのではないのだろうか。なぜ、日本のマスコミの人々には、尊敬すべき人、信頼すべき人、がまるでわからないのだろう?反氏を含めて、どこか、人格が歪んでいる。
反氏が登場される前は、こうではなかった。お互いに学びあう、雰囲気があった。それがなくなってしまったから、常識のある人は去ったのであって、論点ずらし、屁理屈以前の問題として、そういう人たちにとって、反氏の哲学をはじめとする知識を誇って、他人に対する協調する姿勢がまるでない、ことによって、このコメント欄の魅力が失せたのだ、と私は考えている。
とかく悪玉、善玉を作って他人に協調する姿勢がまるでないのもカロリーネ氏の特徴。共感を示すハートマークは圧倒的に反氏や通りすがりの老人氏、政府解釈氏に多く、カロリーネ氏にはまったく付いていないですけれど。まぁ、操作性はあるので頑張ってハートマークを押してください。www
以前から思っていたことをおっしゃっていただきました。
善玉・悪玉を含め、カロリーネさんは対立図式でとらえることに拘泥しすぎているように思います。
時間がないので個別のコメントを挙げることはできませんが、西浦モデルを批判することも結構、岡田晴恵氏を批判することも結構なんですが、あたかも西浦氏と岡田氏とを一括りにしているようなコメントがあるんですよね。
遠く離れた違う世界の人間関係なんてよく知りませんが、このお二人はせいぜい面識がある程度だと思うんですけど。
371⇒【私を非難するコメントを書いている人々は、去らずに、飽きもせず…私を批判、糾弾し続けている。去っているのは、私と考えの近い、良識的な考えの持ち主たち】なのだという。
単なる強がりの負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)が引き起こす虚勢以外の何ものでもないとはいえ、ご都合主義もここここまで来ると、自己防衛の心的機制にしろ、ある意味で「おめでたい」の一語。
それは泣き言(τὸ βοᾶν)、繰り言(μεμψιμοι)、恨み節(φθόνος)、愚痴(συκήπτεσθαι)があるばかりで、独りよがりの狂信家だから基本的には考えを改めたり(μεταγιγώσκειν)、心を入れ替えたり(μεταλαμβάνειν)することは永遠にないわけで、挙句は「精神の幼児」(ὁ νήπιος τῆς ψυχῆς)よろしく、小中学生でもあるまいし「苛め」(ἡ ὠμότης)なのだという。
それもまた、パラノイア気質に伴う老婆特有の被害妄想、迫害妄想で、ヒステリー(νοσοτροώφία)を起こす激しやすさ(ὀξύτης)で喚いたかと思うと、打って変わってこの調子だから、如何にも取り留めがない。
不平不満を愚劣な文章で並べ立て(ἀπολογίζεσθαι)、言い訳する(συγγιγνώσκειν)しかない悪循環(ὁ κακός κύκλος)が、老後の暇つぶし(διατριβή)でしかない「クズ」投稿に加わっただけのことだから、如何にも他愛ない。
自己の浅ましい行状の正当化(ἀπολογεῖσθαι περί)する以外に、知恵も浮かばないのだろう。
367⇒【角谷隆将さん】というのは、評論家の「門田隆将」氏の間違いだろうが、テレビばかり観ているから、よく情報番組に登場する政治評論家の角谷浩一氏と取り違えたのだろう。ほとんど、病気だ。
「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。」(‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.’; ibid., Maximes 386)は、老婆のためにあるような箴言だ。
被害妄想と「物語思考」の典型は、371②⇒【反氏が登場される前は…お互いに学びあう、雰囲気…それがなくなって…常識のある人は去った…ことによって、このコメント欄の魅力が失せた】で、私の登場以前に「わがもの顔に」(δυναστευτικός)愚劣なお子様憲法論、政治論、ドイツ論を展開し、ほとんど相手にされなかっただけではないか。
あまりに愚にもつかない幼稚な議論と、よく知りもしないことに何にでも口を出したがるおしゃべり婆さん(πολύλογος γραῦς)の本性は変わっていない。その典型が、2018年6月14日・4⇒【北朝鮮が恐ろしいのは、過去の大日本帝国だから】(いったん、南ドイツ新聞・ヒールシャー説の受け売りと撤回するも、同年9月7日・21で再び固執)であり、知性の低劣さを端的に示すドイツ国法学(Deutsche Staatsrechtslehre)ドイツ国法学(Deutsche Staatsrecht))の混同、おびただしい事実誤認と誤記を指摘されると、態度を硬化させて今日に続く。
コメント欄の一種低調だが牧歌的な雰囲気が次第に変わっていったとしても、意に染まず誰が去って行こうと、それは各自の自由で、ぬるま湯が解消されただけの話だ。
俗説を一歩も出ない、しかも事実誤認だらけの大風呂敷の妄言=「愚劣な議論」(λήρησις⇒‘Karoline Doctrine’)を批判され、老婆が面目を失っただけの話だろう。
最も感心しないのは、「他人への協調姿勢」とか称して、具体的に論拠を尽くして議論できずに老婆が事あるごとに繰り返す論点ずらし、即ち論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν=petitio principii)と論点移動(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)。この時点で、老婆は議論の資格を自ら放棄したに等しい、ただの負け犬。
凡庸で陳腐、愚鈍で退屈極まりないお子様論議と、「ドイツ狂い」ゆえの狂信しか残らない。だから苦し紛れに「剽窃」=盗用も辞さない。
▼2018年6月5日・7⇒【フランスでは、5月革命の影響で、右派のドゴール体制から左派の社会党のジスカールデスタンの移行の布石になったのと同様、西ドイツ、ドイツ連邦共和国も、右派のアデナウアー体制から両国とも…学生運動の影響で、左派が実権を取った】の中にどれだけの事実誤認が詰まっているか、気の遠くなる話だ。
この点については、最近改めて紹介したので繰り返さない。5月革命のあった1968年の5年前にアデナウアーが退陣しており、左派ではないジスカール=デスタンの前任者で保守系のポンビドゥーが翌1969年にド・ゴール後の大統領という点を指摘するだけで充分だろう。
その後、以下の愚劣な論議で今日を髣髴させる妄論を展開する。
▼2018年6月28日・57⇒【ソクラテスは、ペロポネソス戦争にアテネが敗れ、国力が衰退し始めた時に出てきた哲学者で、カネをとって弁論法を教えるソフィストを揶揄したために、多くの敵を作り、若者を堕落させた罪で公開裁判にかけられ、死刑を求刑され、プラトンらに亡命を勧められたが、自身の知への愛…意志を貫き…亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだ、哲学者】
①ソクラテスの登場はペロポネソス戦争の敗戦後ではない②弁論法ではなく、弁論術(ῥητορική)③「ソフィストを揶揄したために、多くの敵を作り」⇒「当時、アテーナイで知者とされた有力政治家や名工、作家を反駁的対話で論破し恨まれた」の誤り④アテーナイの司法制度には求刑を行う検察官は存在しない。従って「求刑」(τίμησις)の意味が異なる(いずれも抽籤で選ばれた裁判官または判事、つまり普通の市民からなる陪審員で500人または501人。原告・被告の弁論の後有罪無罪の票決。ソクラテス裁判の場合有罪票決に基づいて原告は提案=求刑[τίμησις]、被告が反対提案[ἀντιτίμησις]という形でそれぞれ希望する刑を申し出、再び票決――という流れ)。
指摘に対して、居直ってさらに、間違いを拡大させる莫迦丸出しの愚行。
▼同6月29日⇒【私が問題にしたいことを、時代的にそれはおかしい、ペロポネソス戦争(BC431~404)、ソクラテス(BC 469~399)と主張されるが…反時流的古典学徒さん(マスコミの人に代表される)、のはぐらかしのテクニックそのもの…ソクラテスが、アテネの衆愚政治時代に現れた哲学者で、その衆愚制は、ソフィストによってもたらされたもの、とソクラテスが判断して、論争を試みた…ソクラテスに対して若者を中心として人気が出て、ソフィストに敵をたくさん作り、処刑を余儀なくされたのが紀元前399年…ペロポネソス戦争が終わってから、5年間盛んにその活動をしたなによりもの証明】
主な事実誤認は、①「衆愚制は、ソフィストによってもたらされた」とソクラテスは主張しておらず、その事実もない。ソフィストの多くはアテーナイ市民権をもたない外国人居留民(μήτοικοι)または滞在者(税金は支払った)②論争、この場合は論駁的対話の相手はソフィストではない(続く)
とにかく、老婆は驚くほどの無知にもかかわらず、同年6月28日・57⇒【私は、高校の倫社の時間にそうは、習わなかった。その先生は、東大法学部政治学科卒業の肩書をおもちで…】のように、見当違いな理由で間違いを認めず頬被りして、ほとぼりが冷めたころに、何の具体的な反論もなく間違いだらけの妄言を繰り返す虚偽体質の典型で、盛んに主張する「真理愛」(φιλαληθής)の欠片もない如何に虚飾に満ちた(ἀλαζονικός)人物であるかを、以上は示している。
誤訳、「インフルエンザ菌」には歴史がある。そして、それと並んで剽窃も見逃せない。
なお、ソクラテスへの公訴は、⇒【若者を堕落させた罪】が主要因ではない。
『ソクラテスの弁明』のもの以外にも公訴内容が知られており、告発者の宣誓口述書(ἀντωμοσία)によれば、次の通り。
「ここにピットス区のメレトスの子メレトスは、ソープロニコスの息子にしてアローペケー区のソクラテスを公訴し、宣誓したうえで口述を行う。ソクラテスは、国家の認める神々を認めず、他の新奇なる神霊の類を導入せる罪を犯している。かつまた、青年たちを堕落させたる罪も犯している。よって死刑を求刑する。」
『ソクラテスの弁明』では、「青年たちを堕落させたる罪」(ἀδικεῖ τοὺς νέους διαφθείρων)が先で、「国家の認める神々を認めず、他の新奇なる神霊の類を導入せる罪」(ἀδικεῖ οὓς μὲν ἡ πόλις νομίζει θεοὺς οὐ νομίζων, ἕτερα δὲ καινὰ δαιμόνια)が後になっている。
ソクラテスが生きた当時の古代アテーナイについて、肝腎なことを何も知らないに等しいドン・キ=ホーテ並みの無謀な議論は、無知蒙昧ゆえの妄言なのである。それは畢竟、⇒【高校の倫社の時間にそう…習わなかった】程度の素人論議を一歩も出ていない。
田中美知太郎の『ソクラテス』を丹念に読まず、浅薄な理解に合致する箇所に自らの幼稚なソクラテス観、ソフィスト像を投影しているにすぎない。そうした愚劣で狂信的な姿勢が、今回の「インフルエンザ菌」問題にも如実に表れている。
間違いだらけの偏狭な主張だとしても、公開された言論空間で自由に公表する権利は老婆にもある。しかし、そこで保障された平等は機会の平等であって、それに対する批判もまた自由で、主張自体の内容の平等を保障するものではない。
目下老婆が置かれている窮状の中で、自らの名誉と尊厳をかけて、「何ぴとも存亡の危機に直面して自己の利益を守ることに非難を受ける謂われはない」(‘πᾶσι δὲ ἀνεπίφθονον τὰ ξυμφέροντα τῶν μεγίστων πέρι κινδύνων εὖ τίθεσθαι.’)。
しかし、言説には優劣があり、「弱肉強食は世の変わらぬ原則」(αἰεὶ καθεστῶτος τὸν ἥσσω ὑπὸ τοῦ δυνατωτέρου κατείργεσθαι)であるのもまた事実だ。
老婆は明らかに、そのための学識と準備、覚悟を欠いている。お子様だからだ。[完]
令和元年10月31日に開催された第1回規制改革推進会議の議事概要によれば、安倍首相(当時)は、同会議において、「規制改革は、これまでも、そして、これからも、安倍政権の成長戦略の中核、いわば一丁目一番地であります。」と発言しております。
https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/meeting/committee/20191031/gijiroku1031.pdf
また、竹中平蔵氏は、安倍政権において、産業競争力会議の議員、未来投資会議の構成員、国家戦略特別区域諮問会議の有識者議員等として起用されてきました。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/pdf/meibo.pdf
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/pdf/meibo.pdf
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/pdf/meibo.pdf
菅政権は、安倍政権における規制改革を更に前進させるのであり、「安倍政権を継承する」という菅首相のスローガンには誤りはなく、いつものことなので驚きませんが(コメント353の「国政政治学」には若干驚きましたが)、カロリーネ氏の事実認識の方に誤りがあるのです。カロリーネ氏の「お子様政治論」は聞き飽きました。
なお、経産省は規制改革に積極的な省庁として知られています。
◆300⇒【戦前、旧制高校が華やかなりしころ、ドイツ語を選択する人…知的虚栄心…ドイツ哲学万能論、を形作】
◇2018年6月19日・40⇒【どうして、日本で、ドイツの学問というと、ドイツ哲学…】
今回の◆300に対する私の304の原点である2年前の応答は以下の通り。
◎2018年06月19日・41~42⇒《なぜ、日本においてドイツ哲学の威信が高いかというと…帝国大学を軸とする戦前のアカデミックな哲学研究の世界では、当時最先端の成果だったドイツ哲学…ヘーゲル学派が退潮…当時の自然科学の発展への哲学側の対応として登場した新カント派…が日本にも紹介され、東大や京大を支配したから…
帝大での哲学研究の中心がドイツ講壇哲学の最新の動向だった…「ドイツ哲学にあらざれば哲学にあらず」という風潮が大学を支配…明治期に招聘された外国人教師がドイツ哲学の紹介者だったことや、明治憲法がプロイセン憲法を参照したように、ドイツに対する親和性が極めて強かったのも原因…
哲学研究を志す者はとにかく世界最先端の新カント派で、そのためにはドイツ語を習得しなくては、というのが旧制高校生のドイツ語熱の一つの背景…第一外国語がドイツ語(独法科)なら「知性を誇り合う」という無邪気な…知的スノビズムとしてはあったでしょう。ただ、高級官吏を目指すため法学部に進む学生にとってもドイツ語は必須で…全体的な傾向とは言えません。戦前の哲学流行は西田幾多郎の盛名によるもの…
法学部を蹴ってまで京大哲学科を目指す学生も…法哲学者・尾高朝雄のように東大法科を卒業後、京大哲学科に入る者も…つまり、法学や経済学を目指す学生でも哲学に強い関心…戦前における哲学研究の二大拠点、京大と東大をドイツ哲学が占拠…》
何の進歩もない。その程度の人間が村雀氏に偉そうに、300⇒【ドイツ文化を知らない人】とは。
9/17(木) 7:01配信の現代ビジネスhttps://news.yahoo.co.jp/articles/ec0c6492161cb4ec617969a256450c51f61f6484の舛添要一氏と田原総一朗氏の対談の中身は、真実なのだろうか。
まず、田原総一朗氏の主張、5月の時点で、PCR検査の量は、韓国の50分の1、ドイツの17分の1です。なんでこんなに少ないんだ、とあるが、それなら、それだけ多くのPCR検査をしているドイツは、現在Covid19を封じ込めているか、が問題なのである。現実のドイツは、日本より、感染者数、死者数とも、はるかに多いし、現在4月以来最大の感染者を出している、https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/corona-hoechststand-bei-neuinfektionen-seit-april-was-die-steigenden-fallzahlen-bedeuten-a-97ddb4f1-7689-4e73-a6ae-98ef3773bf4e
その上、ドイツ政府の司令塔、ドイツ国民に信頼が厚いドロステン医師は、日本モデルの信奉者である。どうして、日本の大手マスコミは、日本のPCRの検査量はドイツの17分の1、バイエルン州は、「いつでも、どこでも、なんどでも」が無料にできる、というPCR検査を増やすのに説得力のある情報だけを流して、ドイツ政府の司令塔、ドロステン医師のインタビュー記事を取ろういう努力をまるでしないのだろう。大手マスコミの報道は、虚偽ではないが、あからさまな「印象操作」である。
また、今井尚哉氏は菅政権になって内閣官房参与に任命されていますが、普通は何ら役職はなく退任するので、寧ろ内閣官房参与として任命されたことの方が異例な人事です。
なお、菅事務所出身の政務担当官房長官秘書官であった新田章文氏が政務担当首相秘書官になることは事前に予想されていたところですが、課長級の事務担当の官房長官秘書官の大半が局長級の首相秘書官に任命されたのは異例の人事です。
横からすみませんが、
>380の政府解釈氏の意見が正しいとするなら、どうして、今井尚哉首相秘書官(政務担当)が菅政権の発足と同時に官邸の舞台から退いた、のだろう。
まず貴女が369等で「「安倍政治の継承」というスローガンだったから、私は菅首相でいいと思った。けれども、ふたをあけてみると、竹中平蔵さんが出てきて、経済政策は、小泉政権の「規制緩和」の再現だ、と知って・・・」等と述べられているんです。
これを踏まえて政府解釈さんは、安倍政権下でも竹中氏が政府関係の様々な委員を務められていたこと、(明示的な表現ではありませんが)アベノミクスの三本目の矢は成長戦略(≒規制改革)であったこと等から、「菅内閣が安倍政権の路線を継承しないのではないか?」という貴女の見解に異を唱えておられるんです。
それに再反論するのに今井秘書官の処遇を持ち出してもほとんど意味がありませんし、現に貴女が引用している中央日報の記事は政策路線の継承云々ではなく、菅・今井両者の個人的確執の話ではないでしょうか。
こういうのを論点ずらしと言うんです。
なお、この私のコメントに対し「政府解釈氏と通りすがりの老人氏は、竹中氏の地位の継続性を語るが、菅総理が安倍政権の経済政策理念を継続するかが問題なのである」とか、さらなる論点ずらしをするのはやめてくださいね。
なお、私が竹中氏的な経済政策路線に肯定的か否かは別問題です。
ソフィストは、黒いものを、白、とも、赤、とも言いくるめることができる人だから、私は、米国の「ソフィスト系言論人」を信頼できないのである。ソクラテスは、真実を追求しようとした人で、その為に、当時の知識人とされる人に悪感情をもたれ、死刑になった人であるが、その死刑も、ソクラテスは「自分はアテネの市民である。」と受け入れた人である。
その貴女のコメントこそが論点ずらしだというのがまだ分からないのですか?
他人は貴女のうつろいゆく関心に振り回されるために存在しているわけではないのです!
メデイア批判、いわゆるマスコミの煽り系専門家への批判、安倍政権のコロナ対策支持の主張である。、
首相に求められた仕事は、質の高い真の専門家を見出し、それらの専門家を信頼し、一貫した政策を遂行していくための体制を整えることだった。安倍首相は、その仕事を誠実に遂行した。
もし新型コロナ危機下の首相が、安倍首相ではなく、「様々な意見を総合的に勘案して」テレビ番組の内容にも気を使っていることを示すために渋谷健司氏のような煽り系専門家にも意味もなく要職を配分していくようなタイプの人物だったら、日本の運命は大きく変わっていたかもしれない。
安倍首相は、最も適切な専門家に、最も適切な立場を提供し、そして決してブレることなく、その真の専門家を信頼し続けた。その功績は、計り知れないほど大きい。真の専門家の方々が日本の英雄であれば、最高責任者である安倍首相もやはり日本の英雄であろう。と。
今度の菅首相が、そうされるかどうかは未知数である。経済においても、同じことが言えると思うが、竹中平蔵教授が、日本経済を立て直す経済の真の専門家なのか、というのが、私の疑問なのである。
今の事態を引き起こしている原因は貴女の書き込みの内容に他ブログからの剽窃、明らかな誤りに加え、論点ずらしからテーマを離れた話題に振っているのは貴女自身です。その内容に対しての批判が起こっているだけで、他人の所為にしてはいけません。
>竹中平蔵教授が、日本経済を立て直す経済の真の専門家なのか、というのが、私の疑問なのである
貴女が疑問に思われるのは自由です。私とて疑問に思わなくもないです。
しかし、今、そんな話を持ち出すのは論点ずらしでしょう。
ついでですが、反氏は篠田氏の主張に対してもその理由を明記してコメントされており、カロリーネ氏は読んでいないのか、理解できないのか。他人の書いたコメントがきちんと理解できていないようである。
更に、本ブログのテーマから逸れ出すきっかけになるコメントは殆ど貴女から出ていて、自分が関心のあることなら一向に構わないということですね。
上記はゲーテの自然研究の方法論的考察を説いた、全集で11頁足らずの小篇『客観と主観の仲介者としての実験』(„Der Versuch als Vermitter von Objekt und Subject.“, 1832)の中の一節だ。「小児のように酷い目に遭って学ぶ」(‘ὥσπερ νήπιον παθόντα γνῶναι’)、出たとこ勝負の愚劣な体験至上主義でしかない老婆の主張する経験と、ゲーテの説く経験が、必ずしも同じではないことを示している。
その典型が偏執狂の老婆であることは言うまでもない。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(„Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.“=「ただ愚者ばかりが自らの経験から学ぶと信じている。私はむしろ、始めから自分の誤りを避けるべく、他人の経験から学ぶことを好む」)というビスマルクの言を引くまでもなく、それは自明の理だ。
この点で、経験(Erfahrung)を重視するゲーテが必ずしも「経験主義者」ではない所以だ。ゲーテの議論は用心深い。彼はむろん理論的な考察一辺倒ではない。他方、体験=経験一辺倒の盲目的な愚昧を避けつつ、自然科学的な探究でも、仮説と実験に基づく数理的思考、機械論的自然観が近代技術への応用の有用性と相まって圧倒的主流となるなかで、合理主義者にもなり切れない、汎知学(Pansophie)と呼ばれる16世紀以来の神秘主義的、擬似宗教的世界観、宇宙観を信奉する詩人らしい独自の主張を展開する。
「なぜなら、経験から判断へ、認識から適用へと移行するこの縊路でこそ、人間のすべての内面の敵が彼らを待ち伏せているからである。想像力は、人間が相変わらず地面に触れていると思っているときにもう彼をその両翼で高い所に連れ去っているし、性急・早計・自己満足・強情・思考形式・先入見・怠惰・軽率・無定見その他さまざまな名前の敵たちがここで待ち伏せしていて、行動する人間だけでなくすべての激情から守られているようにみえる冷静な観察舎をも不意打ちするのである。」(木村訳、43頁)
個別的な利害関心に左右される経験一辺倒ではなく、ものごとの客観的で必然的な認識に、自然研究に多くのエネルギーを注いだゲーテも無関心ではいられない。人が自分の周囲の対象の知覚から始まって、それを自分自身に引きつけて、つまりそれが有益か有害かを基準に事物を眺めて判断する、世の多くの人間に共通した自然的性向からゲーテも議論を始める。
ゲーテに純粋に理論的関心は希薄だ。しかし、そこにとどまってはいられないという基本認識がある。
「はるかに困難な日常の仕事を引き受けるのは、知識欲に駆られて自然の諸対象そのものとそれらの相互関係を観察しようと努める人々である。一面で彼らは、人間として事物を自分との関係で眺めたときに助けとなった尺度を失う。すなわち、気に入るか入らないか、引きつけるか反発するか、有益か有害であるという尺度である。この尺度を彼らは本来全く断念し、利害を超越したいわば神的な存在として、気に入るものではなく現にあるものを探究し研究しなければならない。」(36~37頁)
しかし、それには学識と訓練、研究者としての経験に培われた一種の洞察を伴わなければ実効性を伴わない。しかし、いずれにしても、ゲーテが説くまでもなく、「この自己放棄(Entäußerung)が人間にとっていかに困難であるかは、科学の歴史が教えている」(Wie schwer diese Entäußerung dem Menschen sei, lehrt uns die Geschichte der Wissenschaften.)。
そうした点、問題意識については、基本的にはゲーテの指摘通りだろう。そして、
「われわれがある対象をそれ自身との関係および他の対象との関係において考察し、その対象を直接に欲求したり嫌悪したりしないならば、われわれは冷静に注意することにより、それについて、またその諸部分と諸関係について間もなくかなり明確な理解を得られるであろう。われわれがこのように観察を続け、いろいろな対象を相互に結合すればするほど、われわれの内部の観察能力はそれだけ多く訓練される。これらの認識を実際の行動においてわれわれ自身と関係づけることができるならば、われわれは賢明であると呼ばれるに値する。」(37~38頁)
そして「賢明とはけっして難しいことではない。なぜなら、人生は一歩ごとにわれわれの誤りを正してくれる」(ist die Klugheit keine schwere Sache: denn das Leben weist uns bei jedem Schritte zurecht.)からだ。
残念ながら狂信家の老婆にはその欠片もない。だからゲーテを騙る。莫迦の一つ覚えの『ファウスト』云々の議論も、その後が続かない。『ファウスト』は創作にすぎない。
一方で、この怜利で自己抑制に富む厳格な観察者の試みが首尾よく達成されることは、容易に望みえない。この点で、理論や方法論を没却した素朴な自己本位の観察にも、単なる仮説、理論、体系追求による検証にも偏しないで考察を前進させることは、経験される事象に対する別の観点からの方法論的考察が要請されるし、不可欠となる。
そこでゲーテは方法論的考察に向かう。「いかにすればもっとも有利にかつ安全確実に仕事にかかれるかという方法論の問題」(und zwar zu der Methode, wie man an vorteilhaftesten und sichersten zu Werke geht)を喚起する。そこで挙げられるのが、数多くの経験を意図的に繰り返し、偶然または人為的に生じた現象を再現させる実験(Versuch)だ。
そこにあるのは、近代的自然観を大成したニュートンとは異なる、「生きた自然の中では、全体と結びついていないものは何も起こらない」(in der lebendigen Natur geschieht nichts, was nicht in einer Verbindung mit dem Ganzen stehe)という汎神論的世界観で、そこにゲーテの前時代性が内包されている。
いずれにしても、無学な老婆は、学的現象(das wissenschaftliche Phänomen)やゲーテが諸現象の「絶えざる連続性のうちにおいて」(in einer stetigen Folge)認めた純粋現象(das reine Phänomen)について何の弁えもなく、ただ経験的現象(das empirische Phänomen)に固執する。
経験から判断、認識からその適用へと移行する際に人が陥りやすい陥穽について、ゲーテが列挙した「性急・早計・自己満足・強情・思考形式・先入見・怠惰・軽率・無定見」(Ungeduld, Vorschnelligkeit, Selbstzufriedenheit, Steifheit, Gedankenform, vorgefaßte Meinung, Bequemlichkeit, Leichtsinn, Veränderlichkeit)のいずれにも当てはまるのが愚劣極まる「虚偽体質」の婆さんだろう。
大口を叩いても(386⇒【ゲーテには、真の知識は、経験あるのみ…一生かけて創造した「ファウスト」のテーマ】)、ゲーテなど何も知らないに等しい。
本日もパラノイア気質の老婆の錯乱は止まず、いよいよもって断末魔の様相だ。自滅するのもそう先ではなさそうだ。[完]
秋桜や 老婆錯乱 飽き風に 花びら飛ばす 狂女にも似て
表現の不自由展をめぐる憲法学者に関する記事は印象操作
http://shinodahideaki.blog.jp/archives/33454136.htmlのコメント欄にゆきあたり、いかに政府解釈氏が、ご自身の主観的な考えを、学識があるから、という理由で、客観的な考えだと主張し、その考え方ですべて判断しようとする個性の持ち主か、これは、反氏とも共通することであるが、よくわかった。「学識がある。」ということと、「客観的である。」、ということは同義ではない。本来、成熟した人間は、これはソクラテスの「無知の知」と考え方が近いが、自分の考えは客観的ではない、ということを前提にしてものを考えるべきものなのである。そこに妥協の余地が生まれる。私はいつも、「私の目からみれば」という言葉を使う。客観的であろうと努力はするが、そうはできないのが人間だからである。これは、ドイツ文化センター、ドイツ人の学識経験者から教えてもらったものの見方で、なるほど、と思ったことである。
日本の学識経験者、特に、東大系の人々としてマスコミに登場される人々には、その学問人として、人間として、の謙虚さ、が著しく欠けているのではないのだろうか。
390⇒【ソクラテスは、真実を追求しようとした人…その為に…死刑になった…が…「自分はアテネの市民である」と受け入れた】
今回の11日・217~218で論じたのとは別に、以前ソクラテスの国家観、国法(οἱ νόμοι=πολιτικὸι νόμοι)への考え方について、その獄中の様子を扱ったプラトンの『クリトン』や、当時の古代アテーナイ市民の国家意識をめぐっては、トゥーキュディデースに加え、英国の歴史家が明治時代(主として日露戦争当時)の日本人がもっていた国家意識にギリシア人と共通するものをみていたこと(A. Zimmern; “The Greek Commonwealth”, 1911)を合わせて紹介したは(5月8日・44~46)。
公訴や死刑判決の不当性を訴え、脱獄によって難を逃れることを勧める竹馬の友のクリトンの言い分をソクラテスはたしなめる。
「それとも、お前は賢すぎて忘れてしまったのではないかね。母よりも父よりも、またその他の祖先のすべてよりも祖国は尊いもの、厳かなもの、聖なるものなのだ。それは神々の間にあっても他に勝って大きな比重を与えられている。だから、人はこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしている時には、父親がそうしている時よりもっとよく機嫌を取って、それに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところは何でもなさなければならないのだ。またもし何かを受けることが指令されたら、静かに何でもこれを受け、打たれることであれ縛られることであれ、また戦争に連れて行かれて傷ついたり死んだりするかもしれないことであっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとはこの場合、そういうことなのだ。そして、そこから退いても引いてもいけないのであって、持ち場を放棄することは許されないのだ。」(引用続く)
‘ἢ οὕτως εἶ σοφὸς ὥστε λέληθέν σε ὅτι μητρός τε καὶ πατρὸς καὶ τῶν ἄλλων προγόνων ἁπάντων τιμιώτερόν ἐστιν πατρὶς καὶ σεμνότερον καὶ ἁγιώτερον καὶ ἐν μείζονι μοίρᾳ καὶ παρὰ θεοῖς καὶ παρ᾽ ἀνθρώποις τοῖς νοῦν ἔχουσι, καὶ σέβεσθαι δεῖ καὶ μᾶλλον ὑπείκειν καὶ θωπεύειν πατρίδα χαλεπαίνουσαν ἢ πατέρα, καὶ ἢ πείθειν ἢ ποιεῖν ἃ ἂν κελεύῃ, καὶ πάσχειν ἐάν τι προστάττῃ παθεῖν ἡσυχίαν ἄγοντα, ἐάντε τύπτεσθαι ἐάντε δεῖσθαι, ἐάντε εἰς πόλεμον ἄγῃ τρωθησόμενον ἢ ἀποθανούμενον, ποιητέον ταῦτα, καὶ τὸ δίκαιον οὕτως ἔχει, καὶ οὐχὶ ὑπεικτέον οὐδὲ ἀναχωρητέον οὐδὲ λειπτέον τὴν τάξιν, ἀλλὰ καὶ ἐν πολέμῳ καὶ ἐν δικαστηρίῳ καὶ πανταχοῦ ποιητέον ἃ ἂν κελεύῃ ἡ πόλις καὶ ἡ πατρίς, ἢ πείθειν αὐτὴν ᾗ τὸ δίκαιον πέφυκε• βιάζεσθαι δὲ οὐχ ὅσιον οὔτε μητέρα οὔτε πατέρα, πολὺ δὲ τούτων ἔτι ἧττον τὴν πατρίδα;’(Crito, 51A~C)
彼らに国家と個人とが、近代的な意味で正しさにおいて対等(ἐξ ἴσου…εἶναι…τὸ δίκαιον; Crito 50E)という観念がない。近代的価値観を投影しても仕方ない。
Cocoaである。これが、「日本モデル」のこれからのCovid19対策における、デジタル分野の肝になることがらである。「感染者の濃厚接触者」が、デジタル技術を使って早く見いだせるのなら、秋から冬にかけての、感染者拡大に歯止めがかけられる。本来この問題が、PCR検査の拡大よりもずっと、優先度が高いのである。
私もOL時代、デジタルを整備しようとした。made in Germanyだから、日本に商品を搬入する場合、距離的にハンデイがある。Faxだと、担当者が動いてくれないと、発注にならないが、ドイツ人はながく休暇を取るから、長くインプットしてくれないことも多い。Covid19のデーターが最新でないのは、保健所や医院が忙しく、入力するまでに時間がかかるせいなのではないのだろうか。それでは、最新のデータが取れない。Cocoaなら、即座に濃厚接触者がわかり、調査時間が著しく短縮できる。机上論ではなく、そういう当たり前の、現実に問題が解決する方向へ、報道の重点を移すべきなのではないのだろうか。
朝が極端に早い不眠の婆さんが、夜中にいったい何をしているのやら、お宅には、ドイツ語の『ゲーテ全集』がないようだ。
409⇒【よくわかった。「学識がある」ということと、「客観的である」、ということは同義ではない。本来、成熟した人間は…ソクラテスの「無知の知」と考え方が近い…自分の考えは客観的ではない、ということを前提にしてものを考えるべき】――老婆は、客観性(καθόλου)、客観的妥当性(Objektivegültigkeit)、の意味が理解できないのだろう。それは、普遍的(πᾶς ἃπᾶς, ὅλος)であり、「全体的にみて主題が何かということを言うこと」(κατὰ ὅλου εἰπὼν λόγου πέρι)だ。
何が「よく分かった」のか知れたものではないが、無学(ἀμαθής)では手も足の出まい。やおら、どこかから他人の記事を盗用してくることになる。
いずれにしても、言説は言葉=ロゴス(λόγος)かかわる。そして言葉は共通な(κοινός)ものだ。老婆のような独りよがりで放恣な使用は相手にされない。
学識がある(ἐπιστήμων, ἐπιστάμενος)、博識(πολυμαθία)ということは、あくまで手段、前提条件であっても、無学に比べて偏狭(μικρόψυχος)を免れている点で、老婆よりずっと客観的で公平な(ὀρθός)条件を備えている。
「無知の自覚」の客観的資料は、『ソクラテスの弁明』(21D)の《ἐγὼ δέ, ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι• ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.》。
読解できなければ、お話にならない。
そうではいけない、と教育制度、試験制度が改革された結果、兵庫方式、思考力テスト方式が導入され、知識の量で優劣を判断するのではなくて、思考力があるかどうかで合否を判定するものに変わり、大学入試も共通一次となった。弟などは、大学入試が共通一次であるが、大事なのは、細かな知識があることではなくて、思考力があること、私は意見が同じだから、弟と話すのではなくて、違っていても、なるほど、と思える点が多く、参考になるから話すのである。デジタル時代は、スマホで簡単に、詳細な知識が得られる。英語のヒアリングについても、私は英語は得意な方ではないが、音楽をしたために、ヒアリングはよかった。篠田教授も同じなのではないのだろうか。そうであれば、留学中の大学の講義の内容が聞き取れる。その差は、現実には、とても大きい。
>翻訳問題をもちこんで、「論点ずらし」をしているのは、「通りすがりの老人」をはじめとする人々なのである
私は326で次のように申しております。私の方が論点ずらしを図っているとは心外ですね。
「重複感染を恐れるべきだ、もっと重要視すべきだとおっしゃるのなら、それもいいでしょう。貴女がご自身の無知又は誤訳を認められれば、我々の議論のテーマをそこにステップ・アップすることができるんですよ」
[※]「ステップ・アップする」は「ステップ・アップさせる」の間違いでした。
誰かが間違いを指摘する → 貴女は屁理屈を捏ね論点をずらすことによって間違いを認めようとはしない → 間違いを指摘した者は当初の「間違い」に加え「屁理屈」「論点ずらし」も指摘する → 貴女はより一層の「論点ずらし」を図る
概ねこの図式で説明できるでしょう。
日本語さえ正確に読解できない点は、413⇒【反氏のコメント410を読んで、日露戦争のころというのであれば】云々がよく示す。文意をとらえた議論に全くなっていない、退屈な一人語り(ὀχληρὸς λόγος)。
410~411はソクラテスの国家意識の話。それを20世紀初頭に古典学の英国人学者が明治期の日本人に類例を見出し、ソクラテスにも際立つ一身を国家に捧げて悔いなかった国家との一体感を「驚異」(amazment)と評した話で、当時であっても西洋では到底見出せなかったくらい特異だったという趣旨を、全く理解できていない。第一次大戦後の国際状況(パリ不戦条約)や満洲事変など、何の関係もない。
それでは、どう言い繕ってみたところで、無学(ἀμαθής)ということになってしまう。415⇒【一般教養の哲学で優…高校時代の英語購読のソクラテスの倫社も、普通以上の成績】程度の他愛もない話をしているのではない。
老婆は肝腎なことを何も知らない(οὐκ οἶδα μηδέν)という点で底知れぬ無学(ἀπαιδευσία)であり、当然学識(μάθημα)や専門知(ἐπιστήμη)をもち合わせた「学識のある人間」(ὁ ἐπιστάμενος)、つまり「無学ではない」(μὴ ἀμαθής)とは、到底呼べなし、自分の分を弁えていない(πλέον ἔχειν)点で、無思慮(ἀφροσύνη)というしかない。
「シネ リテーリアエ」と読む。別に無学だから「死ね」とも思わないが、[litteriae]は「文字通り」(ad litteriam)、学問の初歩、読み書き、文書・書類から作品・著述を意味する[littera]の変化形(奪格)で、知識、学問、教養、博識を意味している。一方、[sine]は「~がなく」「~なしに」を意味する前置詞で、合わせてその欠如した状態、無学を意味する。
教養のある、学問のある[litteratus]人間と、そうでない老婆のような無学な人間とを分ける指標になっている。老婆に相応しいのは、無学なのに無闇におしゃべりな、無駄口を叩く(linguosus)おしゃべり屋(lingulaca)ということだ。舌(lingua)は誰でももっているから、向こう見ず(θρασύς)で軽率な発言を繰り返しても一向に無恥(ἀναισχυντία)でいられる。それもこれも、偏狭な(μικρόψυχος)性向、狂信家だからだ。
教養があり、弁えのある人間、その意味で自らを知っている人間は、つまり思慮を具えた人間は、415②⇒【私は、別に無学ではない】などとは言わない。
自分の知識や思考力がどの程度か知っていればなおさらだし、上を見れば、つまり老婆が無邪気に母校の校歌の作詞者として挙げながら、その学問に対する厳しい精神を全く理解していない吉川幸次郎のように、博大精深、博大深奥を地で行くような学識を具えた「博大眞人」の体現者がいて、それに比して己が如何に無学で「日暮れて途遠し」の状態なのかを自覚することが、無学の醜悪さを回避できる唯一の途だ。
老婆の場合は、それさえ弁えぬ夜郎自大、ただの粗野な(οὐκ ἀπειργασμένος)精神の田舎者(ἄγροικος τῆς ψυχῆς)でしかない。
そうでなければ、サンスクリットの無学(aśaikṣa)、日本語とは全く逆の意味で、「学ぶものが何もなくなった」悟達の段階になるが、そうでもなさそうだ。
ヘラクレイトスではないが、「博学は悟りを教えない」(‘πολυμαθίη νόον έχειν οὐ διδάσκει•’; Frag. 40, Diels-Kranz, Bd. I, S. 160)と言われるのは一面の真実だとしても、それは無学な人間の言うことではない。
吉川でも田中美知太郎でも、どれほど血の滲むような努力をし、いかに多くを犠牲にして学問に心魂を傾けていたか、想像すらしない「阿呆」が言っても、何の意味もない。
何よりの老婆は「無知」で「愚昧」なのだ。ソクラテスは、次のように言っている。
▼「無知はまことに悪」(κακὸν μὴν ἄγνοια)→「無知はまことに災悪の一つで、ありがたくないものであり、われわれがどうしようもない莫迦さ加減と言っているもの」(‘κακὸν μὴν ἄγνοια καὶ ἣν δὴ λέγομεν ἀβελτέραν ἕξιν.’ ;Philebus 48C)、
▼「無知が諸悪の原因」(ἡ ἄγνοια τῶν κακῶν αἰτία)→「無知こそが諸悪の原因であり愚昧としても非難の最も多い愚昧」(‘αὕτη ἄρα ἡ ἄγνοια τῶν κακῶν αἰτία καὶ ἡ ἐπονείδιστος ἀμαθία; Alkibiades I, 118A)、
▼「無知は魂の悪い状態」(ἐν ψυχῇ πονηρίαν ἀμαθίαν)→「君がその悪い状態と呼ぶものは不正、無学、臆病、その他そういったもの」(ταύτην οὖν οὐκ ἀδικίαν καλεῖς καὶ ἀμαθίαν καὶ δειλίαν καὶ τὰ τοιαῦτα;Gorgias 477B)▼「魂の劣悪さが一番醜い」(ἢ βλάβην ἢ ἀμφότερα αἴσχιστόν ἐστιν; ibid., 477D)――と。
それは、「不正」(ἄδικος)と並んで最も「魂の劣悪さ」(ἡ τῆς ψυχῆς πονηρία)を示す。
老婆を眺めていると、無知の哀れさがよく分かる。[完]
参考、ゲーテとの対話 中 p45 岩波文庫
旅先のところ恐縮ですが、ゲーテ(余談ですが、ゲーテは余り熱心ではなかったようですが大学で法学を学び弁護士として開業していたようです。)なら兎も角も、「誤謬まみれ」のカロリーネ氏が誤謬の批判をしても、カロリーネ氏には自覚はないでしょうが「自己批判」になるだけです。なお、引用の記事の著者は、「坂元春香さん」ではなく「坂元晴香さん」かと思います。
https://wedge.ismedia.jp/list/wedge
「知るということ(τὸ εἰδέναι)、そして学的認識に達すること(τὸ ἐπίστασθαι)は、すべてどんな探究に携わる場合であれ、関わっている対象の根本原理(ἀρχαί , ἀρχαή)、その原因(τὰ αἴτια)をなしているもの、あるいはその基本要素となっているものを見定めることによってもたらされる(すなわち、われわれがそれぞれの事柄を知っていると思うのは、その第一の原因(τὰ αἴτια)、第一の根本原理(τὰ πρῶτα καὶ τὰς ἀρχὰς)であるものを見定め、あるいは事柄の基本要素(στοιχεῖα, στοιχεῖον)まで遡って見定めるに至ったときである)。とすれば、明らかに自然について(περὶ φύσεως)の学的認識(ἐπιστήμη)に関わる場合にも、まず第一にその根本原理にまつわる事柄を規定しておかなければばらない。」(内山勝利訳、第4巻18頁=‘Ἐπειδὴ τὸ εἰδέναι καὶ τὸ ἐπίστασθαι συμβαίνει περὶ πάσας τὰς μεθόδους, ὧν εἰσὶν ἀρχαὶ ἢ αἴτια ἢ στοιχεῖα, ἐκ τοῦ ταῦτα γνωρίζειν (τότε γὰρ οἰόμεθα γιγνώσκειν ἕκαστον, ὅταν τὰ αἴτια γνωρίσωμεν τὰ πρῶτα καὶ τὰς ἀρχὰς τὰς πρώτας καὶ μέχρι τῶν στοιχείων), δῆλον ὅτι καὶ τῆς περὶ φύσεως ἐπιστήμης πειρατέον διορίσασθαι πρῶτον τὰ περὶ τὰς ἀρχάς.’; Physica 184a10~16)
それは、新型コロナウイルス感染症が特に日本や東アジアで、なぜ重症化しても単位人口当たりの死亡率が際立って低いのかという、所謂「ファクターX」問題に重ねてみると理解しやすい。
全体で8巻からなり、第1巻で自然研究の一般的考察を行い、以下自然に関する存在論的な基本概念、基本的枠組みの解明、第3巻で運動や変化(転化)に関する連続性や無限・有限にからむ多面的側面を包括的に、第4巻で空間と時間について精細に論じるなど、巨匠の才筆が際立っている。
それが、他の古代ギリシア由来の数学や自然研究の成果とあいまって、中世以降はアリストテレス・スコラ的自然観として、長らく西洋社会のあらゆる分野の自然認識、つまり自然観、世界像(宇宙像)を支配したことは周知の事実だ。
それに根底的な転換をもたらしたのが、観察と実験による検証と仮説に基づく数学的モデル構築によるガリレオ・デカルト的な近代的自然観、世界認識だ。
それは劇的な変化、「コペルニクス革命」とも言うべき、閉じた世界的な目的論的自然像から、開かれた世界を象徴する無際限的で機械論的な自然像への移行、パラダイム転換をもたらしたことも通説的な理解として共通認識になっている。
しかし、自然科学研究のその後の進展は、この二項対立的な目的論的自然像と機械論的自然像の解釈に大幅な修正を迫る知見も増えている。特に今日の宇宙論や生命科学分野でそれが目立ってきている。旧弊なアリストテレス的宇宙像の復権ではないが、それを支える目的論的解釈に合理性があることが見直されつつある。
現在隆盛を誇っているビッグバン宇宙論の理論構成からみて、宇宙が時空的に無限の大きさをもつという西洋近代科学的前提、ニュートン物理学的宇宙観を誤りとする理論的内容を含意している。それはゲーテ的な汎知学的な神秘主義的、有機体的自然像を正当化するものではないとしても。
「ところで、われわれにとってまずはじめに明白かつ明瞭(δῆλα καὶ σαφῆ)であるのは、むしろ雑然たる複合物(τὰ συγκεχυμένα)である。そして後になってそれを峻別していくことによって、そうしたものから基本要素的なものや根本原理となっているものが知られることになるのである。一般的なもの(τὰ καθόλου)から個別的なもの(τὰ καθ’ ἕκαστα)へと進んでいかなければならないのもそのためである。なぜなら、感覚的には総体的なもの(τὸ ὅλον)のほうが知られやすいが、普遍的なもの(τὸ καθόλου)とは何らかの総体的なものだからである。というのも、普遍的なものは雑多なものをその部分として包括しているからである。これと同じ事態がある意味で名称(τὰ ὀνόματα)とその説明規定(ὁ λόγον)の関係にも当てはまる。」(18~19頁=‘ἔστι δ’ ἡμῖν τὸ πρῶτον δῆλα καὶ σαφῆ τὰ συγκεχυμένα μᾶλλον• ὕστερον δ’ ἐκ τούτων γίγνεται γνώριμα τὰ στοιχεῖα καὶ αἱ ἀρχαὶ διαιροῦσι ταῦτα. διὸ ἐκ τῶν καθόλου ἐπὶ τὰ καθ’ ἕκαστα δεῖ προϊέναι• τὸ γὰρ ὅλον κατὰ τὴν αἴσθησιν γνωριμώτερον, τὸ δὲ καθόλου ὅλον τί ἐστι• πολλὰ γὰρ περιλαμβάνει ὡς μέρη τὸ καθόλου. πέπονθε δὲ ταὐτὸ τοῦτο τρόπον τινὰ καὶ τὰ ὀνόματα πρὸς τὸν λόγον•’; ibid., 184a21~b10)
新型コロナについても、感染防止対策、医学的臨床的な重症化防止、救命策と同時に、真の要因「ファクターX」の解明が求められる所以だ。
少なくとも、アリストテレスの基本認識は2,300年以上前に死んだ人間とは思えないほど極めて合理的で、単独で論理学体系を考案したのも頷ける。
「ところで、場所(ὁ τόπος)とは一体何であるかということには、多くの難しい問題がからんでいる。というのは、場所の持つ諸特性をすべてまとめて考察してみようとすると、それが同じものとは思われないからである。しかも、これについては、これまで他の誰からも問題提起されておらず、むろん答えが与えられてもいないのである。さて、場所というものが存在することは、『置き換わり』(ἀντιμεταστάσις)という事態から明白であるように思われる。…」(162頁=‘ἔχει δὲ πολλὰς ἀπορίας τί ποτ’ ἐστὶν ὁ τόπος• οὐ γὰρ ταὐτὸν φαίνεται θεωροῦσιν ἐξ ἁπάντων τῶν ὑπαρχόντων. ἔτι δ’ οὐδ’ ἔχομεν οὐδὲν παρὰ τῶν ἄλλων οὔτε προηπορημένον οὔτε προηυπορημένον περὶ αὐτοῦ. ὅτι μὲν οὖν ἔστιν ὁ τόπος, δοκεῖ δῆλον εἶναι ἐκ τῆς ἀντιμεταστάσεως• …’; ibid., 208a32~b2)
「知者たちのマエストロ」(maestro di color che sanno=Dante, La divina commedia, Inferno, IV. 131)、「万学の祖」(avus omnes scientiae)だけのことはある。[完]
☆余白に 墓参で帰省中でも狂気じみている。老婆が引用した『ゲーテとの対話』の該当箇所(岩波文庫、中巻45頁)の、420⇒【たえず語られている】の主語は「大衆」。大衆では都合悪いのだろうが、如何にも老婆らしい小細工で、ここにも「虚偽体質」。後続部分でゲーテは調子に乗って、「真理と誤謬を…青色が生じる原因…ニュートンの誤った説が平然と書かれて」云々と称して、墓穴を掘っている。
https://mobile.twitter.com/AdultSpotDiffer/status/1308631587353890817?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1308631587353890817%7Ctwgr%5Eshare_3&ref_url=https%3A%2F%2Fyomeiblog.com%2F2020%2F09%2F23%2F8194-e5b08fe69fb3e68980e995b7e381a8e5aeaee6b2a2e58588e7949f%2F
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