10月から政府が入国制限を緩和するという報道が一斉になされた。私が勤務する東京外国語大学でも、本国出国前・入国時空港でのPCR検査と2週間の自己検疫を前提にして、留学生が渡日し始める。
永遠に鎖国体制をとるべきだと言わんばかりの感情的な拒否反応が広がらないように、政府関係者には、むしろ具体的な対応措置を充実させるための議論を進めていく姿勢を期待したい。
東アジアでは幾つかの国々が新型コロナの封じ込め政策に成果を出しているが、その中核が早期の入国制限策であったことは確かである。台湾は、早くも2019年12月31日に武漢と台湾間の直行便の乗客に機内検疫を行う措置を導入し、1月21日に国内に感染者が見つかると速やかに武漢との団体旅行の往来を禁止し、1月24日にはその対象を中国全土に広げ、2月6日には中国全土からの入国を禁止した。この迅速な措置が、台湾の新型コロナ封じ込めに大きく貢献したことに疑いの余地はない。
同時期の日本でも中国からの入国制限についての議論が沸き起こったが、政府は踏み切れず2月に到着後の14日間の自宅隔離を呼び掛ける中国の対象地域を段階的に広げる程度であった。3月になって欧米諸国が一斉に厳しい渡航制限を導入してから、日本も渡航制限地域を広げ始めた。ただしその後は、ほぼ全世界に対する人の移動の鎖国体制が継続的に実施されている。
ところが制限をかけるのに遅れた日本が制限緩和も見送り続けている間に、台湾は緩和措置についてもいち早く動いた。6月29日以降、ビジネス、親族訪問、研修、国際会議や展覧会への出席、国際交流事業、ボランティア、布教活動、ワーキングホリデー、青少年交流又は求職等を目的とする外国人の入境を許している。条件は、台湾の在外事務所に必要書類を提出し、審査を経て特別入境許可を取得し、出発前3日以内にPCR検査を行って陰性証明を取得するとともに、入境後14日間は自宅・指定ホテル等での待機をすることである。
台湾の累積陽性者数は509人、累積死者数7人、4月以降の死者はわずかに1名、陽性者も時折若干名が見つかる程度だ。その台湾が、管理体制を確保したうえで外国人に対して国境を開いているのだ。これに対して日本はどうだろう。累積陽性者約8万人、死者1,500人以上の日本のほうが、台湾に対して、危険なので渡航してはいけないという「感染症危険レベル3 渡航は止めてください。(渡航中止勧告)」の措置を維持し続けている。どう考えても奇妙な事態だと言わざるを得ない。
自国にウイルスが入り込むのを防ぐための入国禁止措置には、合理性がある。感染拡大を抑制するためのロックダウンにも合理性があると言っていいだろう。だがすでに新型コロナの流行が確認されてから半年以上の時間がたっている段階の日本で、いたずらに鎖国体制を取り続けることに、何らかの合理性があるのだろうか。少なくとも対応先進国の台湾は、そのような感情的な鎖国論を採用していない。
応用問題は、ヨーロッパである。EUはまず域内の人の移動を回復させたが、7月には日本を含む11カ国からの渡航者に対する制限を解除した。9月になってからの一部地域での新規陽性者の拡大を受けて、地方レベルの感染拡大地域に的を絞った移動制限や営業時間制限などの措置を導入している国が現れてきている。しかし日本からの渡航者に対する制限は解除したままだ。
本来であれば相互主義の原則が適用されるべきところで、ヨーロッパが日本に厚遇策を取り続けているのに対して、日本側は全く冷たい反応をしている。3月ころのヨーロッパでの急速な死者の拡大のイメージが強すぎるのだろう。ヨーロッパは危険だという先入観を多くの人々が持っているようだ。
しかしヨーロッパは、むしろロックダウン後に大きな改善を見せて、被害抑制に成果を見せている地域である。準備不足であったがゆえに混乱した封じ込め政策で医療崩壊を起こした初期対応の状況から脱して、日本と同様に、死者数の抑え込みと、感染拡大の管理を示し続けている。ある意味では、「日本モデル」を評価して、「日本モデル」路線に軌道修正して成果を見せているのが、ヨーロッパである。
ヨーロッパの優等生とされるドイツでは、新規死者数は一桁で、夏以降の感染拡大も微増で抑え込めており、9月22日時点の新規陽性者数(7日移動平均)は約1,700人程度である。興味深いのは、その他のさらに新規陽性者の拡大が顕著な国でも、死者数が抑え込めている点だ。
3月の状況が地獄のように描写されたフランスの状況を見てみよう。夏以降の感染拡大で、すでに新規陽性者数は3月の時点の数を超えている。
しかし死者数を見ると、3月とは全く異なって、抑え込みが図れている。
もちろん最近の陽性者数の拡大の影響が死者数に反映されるには時間がかかるので、死者数ももう少し増加してくることは予測される。しかし3月・4月と比べて違う状況になっていることは明らかである。同じような傾向は、オランダやベルギーなど、周辺の主要国でも確認できる。
現在の欧州諸国の状況は、7月以降の日本の状況と酷似している、と言えるだろう。尾身茂会長や押谷仁教授ら分科会(旧専門家会議)メンバーの落ち着きを反映した日本政府と同様に、3月を上回る新規陽性者数を見て、欧州諸国が導入しているのは、一部地域における飲食店の深夜営業の停止などの細かい措置である。欧州諸国は、「日本モデル」を踏襲しているのである。
日本では、7月以降の新規陽性者の拡大と死者数の増加が一致しないため、ウイルスが弱毒化した、日本ではすでに集団免疫が成立した、いや時間差が長いだけでいつか必ず死者数も比例的に増加する、などの実証がないままの「仮説」が入り乱れた。
私自身は、3月以降に新型コロナに関するブログ記事等を書いてきているが、科学者の真似事をするつもりはないので、「仮説」については論評したことがない。
だが、少なくとも、新型コロナの特性を洞察したうえでの管理を目指してきた「日本モデル」の意義を否定しなければならない材料はない、とは書いてきた。尾身会長や押谷教授は、国民の英雄と言ってもいい存在なのではないか、と考えていることは告白している。死者数の抑え込みにまず必要なのは、新たな「仮説」の提示ではなく、高齢者と疾患者の特別保護であり(施設崩壊と医療崩壊の回避)、三密の回避に象徴される感染拡大の抑制策の導入である。どんなに「仮説」を羅列しても、少なくともこれらの措置の効果を否定することはできない。
欧州は「仮説」を羅列することなく、むしろ「日本モデル」路線を歩む対応策をとっている。そして日本からの渡航者に国境を開いている。これに対して日本は、口では「インド太平洋」構想においても重要なパートナーだと言いながら、実際には欧州人は地獄の住人たちのように扱い、頼んでも絶対にマスクをすることもしない連中だと信じて、鎖国対象にし続けている。
この政策は、いったいどこまで持続可能なのか。真剣に考える時が来ている。
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コメント一覧 (26)
西浦博とか山中伸弥とか児玉龍彦を糾弾するのは先に延ばしとくとして、とりあえず今まで、感染爆発が起こらなかったことだけは確かである。
私の論説が正しければ、日本国内でコロナ感染者は千万人に達しているはずで、すでに社会免疫の域に達するほどであろう。
したがって、秋季から冬季、来年春季にかけてのコロナインフルエンザ波は大きなものは到来しないはずである。
すでに、第3波の恐怖を煽るcorona fear monger があふれ始めてきているようだが、❝オオカミおじさん、やオオカミおばさん❞には日本国民にも免疫力がついてき始めたようだから安心するとしよう。
【わたしの考えていることは、医者の大木隆夫さんが大木提言としてまとめておられる。内閣府の未来投資会議で論説された要旨である。これ以上のコロナ論説はない。みなさん熟読して日本の未来を考えてほしい。】
「大木提言」で検索すればでてきます。
「新型コロナクライシスに対する大木提言」(コロナ・大木レポート No.63) 大木隆生
www.japanendovascular.com/covid-19_proposal_Ohki.pdf
複数の政府関係者が新聞取材に答えたという(23日付「朝日」14版)。
それによれば、入国枠は1日最大1,000人程度に絞って実施される模様だ。感染拡大防止策として、出入国時に検査で陰性であることを条件に、入国後は2週間の待機を求める。そのための検査体制の拡充も進め、成田、羽田、関西に加え、新千歳や中部国際、福岡の国内主要6空港で、11月中に合わせて1日2万件を目指す。
政府はこれまで、ベトナムやタイ、中国、韓国、台湾、シンガポール、豪州など16カ国・地域を対象にビジネス関係者の往来再開に向け交渉を進め、既に7カ国・地域との間で長期滞在者の出入国が再開された。今後は観光目的を除き、16カ国・地域は「ほぼ全面解禁」になる。
一方、現在出している世界159カ国・地域への日本から渡航者中止勧告と、外国籍の入国拒否については、欧米諸国などからの要請を受け、全世界を対象に緩和する方向だ。入国拒否の例外対象拡大や、人数、条件の調整で当面の実施対象となる在留資格や対象地域を拡大する。16カ国・地域は感染状況が一部を除き落ち着いており、全世界の1日1,000人枠とは別枠で、最大1日1,600人程度を受け入れる計画だ。
こうした方針転換に伴い、これまで解禁済みだった日本が学費などを支援する国費留学生に加え、私費留学など外国人留学生の入国規制の全面解禁に踏み切る。篠田さんには朗報だろう。
日下部眞一氏の指摘とは違った意味で、日本モデルは国内の特殊事情から採用せざるを得なかった窮余の選択=「彌縫策」(ἀναγκαία παρασκευή)であり、篠田さんのように評価しない。
日本のこれまでの「実績」とされるものと、日本モデルとの因果関係は立証(δείκνυμι)されていないし、その実効性(ἡ δύναμις)、有用性(ἡ ὠφέλεια)、妥当性(τὸ κῦρος)は検証(ἐλέγχειν)されていない。ただ、そう見える(φαίνεται)だけである。そこに学問的な証明(επιστημνονικη απόδειξις)はもとより、共通の尺度(κοινὸν μέτρον)に基づく評価もない。
篠田さんが「現実的」(κατὰ ἐνέργειαν)と称しているのは、不確実な事実に基づく単なる「類比の論理」(τῷ ἀνάλογον)による蓋然的推理でしかない。
「蓋然性は真でありそうだということである。…その根拠は、要約すると、次の二つである。第一、ある事物と私たちの知識・観察・経験との合致。第二に、他人がその観察と経験を保証する証言」(大槻春彦訳『人間知性論』4、241~42頁=‘Probability is likeliness to be true. …The grounds of it are, in short, these two following: First, The conformity of anything with our own knowledge, observation, and experience. Secondly, The testimony of others, vouching their observation and experience’; J. Locke, An Essay concerning Human Understanding, Book IV, Chap. XV, 3-4, Everyman’s Library, vol. II. p. 250~51)
「帰納と類比」(Induction and Analogy)を扱った第18章の「序説」に、「それが有益な心の習慣であるというだけは、帰納法の原理の根底まで達することにはならない」(‘It is not getting to the bottom of the principle of inducting merely to say that it is a useful mental habit.’)とした英国の哲学者D. ヒュームの『人間知性の研究』の一節を掲げる。
それは、新型コロナウイルス問題をめぐる、不完全な信念(partial belief)に基づく世の蓋然的推理(probable inference)、要するに中途半端な帰納的推理(inductive inference)について、推定の積み重ねでしかない多くの論理的欠陥があることを教える。
ヒュームは次のように述べる。
「卵ほど互い似ているものはない。しかしこの外見上の類似性のために、それらのすべてに同一の味や風味を期待するものは誰もいない。われわれが個別的な出来事に関して確固たる信頼と安心とを得るのは、いかなる種類であれ、ただ斉一的な経験の長い過程を経た後のことである。一体、一つの事例から、それと少しも変わらぬ100個の事例から推理した結論とは大いに異なる結論の引き出すような推論の方法が、どこに存在するであろうか。私はこの質問を、異議を述べる意図からと同時に、参考のために提起するのである。私はこのような推論を、見いだすことも、想像することもできない。」(渡部峻明訳、55頁)
日下部眞一氏の示唆で、慈恵医大教授、大木隆生氏の「新型コロナクライシスに対する大木提言」(コロナ・大木レポートNo63)を、かなり丹念に読んだ。第一波が収束した連休明けの5月7日時点のものだ。
それ自体について、いろいろ指摘したいこともあるが、素人論議を重ねても意味がないので今回は見送る。ただ、
①「日本モデル的」対策は、その中核であるクラスター対策は、大木氏がPCR抑制政策のために「見えざるオーバーシュート」または「ステルス・オーバーシュートと称する、中国・武漢由来の大量感染やその後に対して実質上効果がなかった
②日本での死亡率は欧米に比べて著しく低く、大木氏の推定では季節性インフルエンザと同等レベルで、欧米流の強制的接触制限は有効ではなく、日本の状況に合わせた独自方針が必要
③低死亡率の原因として、多くの水面下の感染者にとって「天然ワクチン」として作用し事実上の集団免疫状態を既に獲得した可能性、欧米とは異なり既往の新型コロナ類似の感染症による自然免疫の効果、その他交叉免疫などの要因が、「推論の域を出ない」ものの合理的に推定できる――は充分検討に値すると思われる。
④政府が2月に感染症法の「第二類感染症」に指定してしたことと、死亡率から推定した病原性との乖離、法律上は隔離を要するが運用で形骸化しているうえ、実態とそぐわないリスク評価は過大で第二類指定の弊害。一刻も早く指定解除して第五類感染症とし、普通の病気扱いを可能にすべき――も、その他⑤医療機関への支援拡充と並んで検討に値する。
以上を総合すると、日本の現時点の感染状況はPCR検査の実施が感染実態に追いつかない政策的に恣意的な対策の裏返しでもあり、ウイルスの特性と、欧米と違って→▼BCGなどワクチン接種の影響▼類似の弱毒性ウイルスに感染して既に何らかの免疫を獲得している可能性(交叉免疫も)▼遺伝的に新型コロナへのレセプターの感受性が低い▼新型コロナに強いHLAをもつ可能性――も含めて、解明されるべき真の要因(τὸ ἀληθές αἰτία)、所謂「ファクターX」の候補は、公衆衛生意識の高さや医療環境の優位性を含め、「日本モデル」抜きでもいろいろ考えられる。
しかし、だからと言ってそれをもって大木氏のように、私は直ちに、▽新型コロナパンデミックにおける唯一のゴールは集団免疫の獲得▽日本での医療崩壊リスクは過大評価▽スローガンは「stay at home」から「back to school, back to work」――とも思わないが、事実上の無為無策(ἀπραξία)である「日本モデル」の有効性と全体感染状況や死亡率の相対的低さ、医療崩壊の回避との実質的関連性は希薄だと考える点では同じで、異論はない。
集団免疫策をとるスウェーデンの評価も近く、一時期大量の死者を出したのは、高齢者施設での集団感染が主要因であり、死生観から人工呼吸などを積極的に行っていないことを加味する必要がある。同国の推移は感染者、死者とも安定している。死者、死亡率を除けば、間もなく日本が追い抜くだろう。
以下、ケインズ全集の『確率論』に寄せた英国の哲学者ブレイスウェイト(R. B. Braithwaite, 1900~90)が、ケインズ以後の研究状況も含めて説いた「編集者の序言」(Editorial Foreword; The collected writings of John Maynard Keynes, Macmillan, 1973, Vol. VIII. p. xv~xxii)を手掛かりに紹介する。
ケインズの論理的確率論の主張(thesis)は、「確率言明は命題pと命題h(hは命題の連言であるのが普通)の間の論理的関係(即ち命題関係が成り立つこと)を表わす、ということ。hを知り、そしてまたpとhの間の論理的関係を知覚するなら、その論理的関係が成り立つことへの信念の度合でpを信じることが正当化される。」(‘a probability statement expresses a logical relationship (i. e. the holding of logical relation) between a proposition p and a proposition h (h is usually a conjunction of propositions). A man who know h and perceives the logical relationship between p and h is justified in believing p with a degree of belief which corresponds to that of the logical relationship.’; ibid., p. xvi)、というもの。
言い換えれば、「この論理的関係がpがhの論理的な帰結としてある関係なら、pの真であることを確信していることが正当化される。もしpが偽であることがhの論理的帰結であるという関係なら、pが偽であるのを確信していることが正当化される。もしいずれの関係も成り立たないなら、確実な信念と確実な不信との間にある不完全な信念の度合をpに対してもつことが正当化される。」
それは、「確率は命題間に成り立つ論理的関係よりは弱いが、それに類した論理的関係」(‘probability is a logical relation holding between propositions which is similar to, although weaker than, that of logical consequence.’; p. xvi)という趣旨である。ケインズは、二つの命題間の論理的な確率関係を、合理的ではあっても不完全な信念とみなしていた。
彼はその関係を、知覚する(perceive)、直接に認知する(directly recognize)、直観することができる(can be ituited)とみなしていた。
それは、確率を正当化される不完全な信念に関する論理学として提供できるという「頻度説」(frequency theory)への有効な論駁となっている。頻度説が合理的信念の文脈において理解されるべき「確率」の意味を説明できないことを的確についている。
確率論が扱う経験的命題が、確率を扱う論理的なアプローチや解釈、つまり論理的理論に組み入れるには容易に克服し得ない障害があることが事実だとしても。
確率は論理的解釈において、「確証」(degree of confirmation)または「信頼可能性」(credibility)ないしは「受容可能性の程度」(acceptability)と呼ばれ、現代の統計学者にみられる頻度説的解釈では「長期的頻度」(lomg-run frequency)または「統計的確率」(statistical prabability)ないしは「見込み」(chance)と呼ばれ、しばしば接近することはあるが。
ただ、ケインズが当初、確率関係のほとんどは可測的ではないどころか、多くの対は比較可能でもなく、すべての確率関係の集合を真の確実性と偽の確実性との両極端の間にある一次元的な順序に並べることはできない、という彼の主張に基づいて試みた確率計算の公理論的議論が、その後の数学の進展によって重大な形式的欠陥を含むものとして時代遅れとなっただけである。
今日残っていて、盛んに論議されているのは、確率への論理的な接近方法を提起した「ケインズ理論の本質」(the essence of Keyne’s theory)である。数学者がどのような分野の公理体系(an axiom system in any field)でも形式的に満足させるための必要な条件(the conditions required to be formal satisfactory)を発見する以前の試みだったからで、論理的アプローチ、解釈自体に欠陥や致命的誤謬があるわけではない。
今日の確率論の研究者、「不完全な信念に関する論理」(logic of partial belief)を考察する人々は、「確率関係から出発して、信念の度合を確率関係が成り立っているという知識によって正当化されるものとはみなさないで、信念の度合から出発して、所与の事情の下で合理的に考える者がもつであろうようなものとみなさせるためには、信念の度合は、いかなる条件を満たす必要があるかを考える」(‘start with a probability relationship and take a degree of belief as being justified by knowledge that a probability relation holds, but would start with the degree of belief and consider what conditions this must satisfy in order to be regarded as one which a rational man would have under given circumstances.’; p. xix)方向に修正していった。
それは、「pが真であるならば1単位の価値を受け取るが、pが偽ならば何も受け取らない権利に対して、もしその人が1単位のqなる割合の価値を進んで支払うならば、その信念はqなる度合=0≦q≦1をもつ。そうした仕方で測定される信念の度合は、賭け率と呼ばれる」(‘which is to say that a belief is of degree q (with 0≦q≦1) if the man is prepared to pay a proportion q of one unit of value (but no more) for the right to receive one unit of value if p is true but nothing if p is false. Degree of belief measured in this way will be called betting quotients:’; p. xx)というもの。
それは、ケインズに反対して「確率は命題間の客観的関係ではなく、(ある意味で)信念の度合にかかわるもの」(‘probability is concerned not with objective relations between propsitions but (in some sense) with degrees of belief’’; p. xxii)とする批判で、この点に関する限り、ケインズもそれを受け入れている。しかし、それはケインズが目指した帰納的推理の正当化に根拠を提供するものではないこともまた事実だ。
以上からも明らかなように、蓋然的推理、帰納と類推をめぐる論理的根拠は論理学的に困難な問題を孕んでいる。ほとんどの経験科学がこうした方法に基づくわけで、その推論の厳密さがなおざりにされてよいわけはない。
篠田さんの日本モデルへの「偏愛」は、現実的に(ἐνεργείᾳ)ものを考えると称して、実態は現実追随(ἡ ἀκολουθία ἐνεργείᾳ)の「似非非論理」(ψευδὴς λόγος)でしかない。[完]
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200923-OYT1T50285/?fbclid=IwAR2-0-vS6aNqdMhMemBlXl00xic1bzwS-gB6jdMsOongDbgrLFfmjDwDANA
「行政組織法」の観点からは、政府の新型コロナウイルス感染症対策本部(全閣僚が構成員で、新型インフルエンザ等対策特別措置法15条1項の規定に基づいて設置)ではなく、国家安全保障会議(国家安全保障会議設置法に基づいて設置)で決定するとしているところが興味深いところです。
当然のことながら、決定をするには感染症に関する専門的知見を要するので、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の主要な構成員(尾身会長、脇田会長代理、押谷教授等)や同分科会の構成員ではありませんが海外の感染状況の分析にも精通していると思われる西浦博教授等の感染症の専門家の意見を踏まえた上で決定をすることになると思われます。
なお、これまでの新型コロナウイルス感染症に係る水際対策の強化の際には、国家安全保障会議の緊急事態大臣会合とともに政府対策本部でも同様の内容の決定をしているようなので、今回もそのような方式になる可能性はあるのかもしれません。
余談ですが、上記のコメント2・7・8・9で出てきた大木隆生氏は、尾身氏、脇田氏等とともに政府の未来投資会議の民間議員として追加選任され、7月30日に開催の同会議(第42回)で自身の新型コロナウイルス感染症に関する考え方を披露しているようです。
(第42回未来投資会議での大木隆生氏の発言骨子)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai42/siryou4.pdf
(参考資料・ウィズ・コロナ、ポスト・コロナ社会の検討のための未来投資会議の拡充について)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai42/sankou.pdf
しかし、新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下、「特措法」と略称します。)は、本来的には新型インフルエンザ等(感染症(予防)法6条7項所定の新型インフルエンザ等感染症及び同条9項所定の新感染症(但し、全国的かつ急速なまん延のおそれのあるものに限ります。))に対する対策を想定しているものです。このため、今年の通常国会で、特措法の附則を改正することにより、(当初は2類法定感染症に相当する措置を可能とするものでしたが、現在は1類法定感染症並みの措置を可能とする)指定感染症である新型コロナウイルス感染症にも時限的に特例として特措法を適用することにし、法的根拠の明確な「緊急事態宣言」及びそれに伴う「まん延の防止に関する措置」を行うことが可能としたのです。
一方で、「コロナ狂い」の偏執狂の老婆が、一時とは言え、随分おとなしくなった。回心したわけでもなさそうだが、旅先でのスマホによる投稿は、それでなくとも老婆の場合は劣化するので、ほどほどにしたらよい。
私は古典学徒なので飽きずに古い本ばかり読んでいるが、所謂「古典」を頼りに教訓めいた議論や、仏教の話をしても抹香くさい説教じみた話題に何の興味もない一方、人々を無意識のうちに支配している厳密な思考の原理や法則を逸脱した経験的な類推や杜撰な帰納的推論の欠陥が気になる。
前回ケインズの『確率論』を取り上げたのも、ヒューム以来の伝統もあろうがこうした帰納的推論と類推について、ケインズくらい徹底して考え抜いた人間は少ないからだ。そして、日本的「無為無策」(ἀπραξία καὶ ἀπορία)の象徴である「日本モデル」の関する篠田さんの議論は穴だらけである。
それは謂わば、現代の「迷信」(δεισιδαιμονία=「神々への畏れ」の謂い)だ。篠田さんが讃仰する英雄たちを憚って、事実上の思考停止(ἀποκεῖσθαι διανοίας)に陥っている。健全な判断留保(ἐποχή)通り越して、妄信しているように見える。
しかし、堅い話ばかりしていても芸がないから話題を変えれば、読みさしのプルタルコスの『「隠れて生きよ」は適切な箴言か』(Εἰ καλῶς εἴρηται τὸλ άθε βιώσας)の中に面白い一節を見つけた。
「賢人面を装ってはいるが、自分のことには目端が利かない者など、私は憎む」(«μισῶ σοφιστήν, ὅστις οὐχ αὑτῷ σοφός.»; An recte dictum sit latenter esse videndum: Moralia, 1128B)
「なぜなら、後世の人々に知られぬままに終わることなどつゆとも思わない人間が、現在いる人々に気づかれれずにいることを願っていたのだとしたら、どうしてそうした言葉を口にする必要があったのか、しかもそれを文字にして後世に向けて公にする必要があったのか、理解に苦しむ。」(‘ἐπεὶ τί λέγειν ἔδει τοῦτο, τί δὲ γράφειν καὶ γράψαντα ἐκδιδόναι πρὸς τὸν μετὰ ταῦτα χρόνον, εἰ λαθεῖν ἐβούλετοτοὺς ὄντας ὁ μηδὲ τοὺς ἐσομένους;’; ibid., 1128C)
ともかく、プルタルコスの言い分はこうだ。
「だが、私はこう言いたい。『悪い生き方をしていて人に気づかれないようでもいけない。むしろ、人に気づかれ、慎むように諭され、そして心を入れ替えるべきである。仮に君に徳が具わっているにせよ、君自身の役に立たないようなことではいけない。仮に悪徳をもつのであるにせよ、それを矯正しないで放っておいてはならない』と」(‘ἐγὼ δ’ ἂν εἴποιμι μηδὲ κακῶς βιώσας λάθε, ἀλλὰ γνώσθητι, σωφρονίσθητι μετανόησον• εἴτε ἀρετὴν ἔχεις, μὴ γένῃ ἄχρηστος, εἴτε κακίαν, μὴ μείνῃς ἀθεράπευτος.’; ibid., 1128C~D)
老婆には打ってつけの諫言(ἀντιλογία)、説諭(νουθέτησις)、訓戒(νουθέτημα)ではないか。
もっともプルタルコスは、「それよりも、この言葉をどういう人間に対して向けるのか、相手をよく見極め、限定すべきだ」(‘μᾶλλον δὲ διελοῦ καὶ διόρισον τίνι τοῦτο προστάττεις.’; ibid., 1128D)と断っている。
何ごとも相手次第なのだ。
以前に、西欧諸語の古典について、ドイツ語の[Klassik]([ Klassiker])の一部の意味を根拠に、妄語を繰り返していたのを思い出す。老婆は自らの幼稚なお頭で了解可能なことしか受け付けない。
現代ギリシア語では古典を「クラシケー」(Κλασική)と称するが、古代には同じ意味では存在しなかった。そして、西洋で勝義の古典とは、シェイクスピアやゲーテにとって「教養」(παιδεία)の対象であったギリシア・ローマの著作を指し、シェイクスピアやゲーテではない。
なぜ西洋史上は必然的にギリシア・ローマ(ラテン)の古典作品と同一視されるに至ったかと言えば、中世やルネサンス期を通じて、ギリシア・ラテン作家の著作が教育を通して親しまれ、その普遍的価値が一つの模範、規範として仰がれ、標準的著作として聖書と並んで文字通り「第一級の」作品として重要視され、教養の対象になったからだ。
英語で[classical language]と言えば、ギリシア語とラテン語を指す。日本の研究者団体(学会)=「日本西洋古典学界」は[The Classical Society of Japan]だ。皆同じ伝統に基づいている。
一般に西欧諸語の古典は、英語→‘classics’、仏語→‘classique’)、独語→‘Klassik’ 、イタリア語→‘classico, classica’ 、スペイン語→‘clásico’であろうと、みなラテン語の「(ローマ市民の)等級の」「最上級の等級の」を意味する形容詞、クラシクス(classicus)に由来する。
そして、ラテン語の[classicus]はその形態や意味が示ように、「呼び出し(召集)」(callimg→ラテン語で‘calo’)を意味するギリシア語のクレーシス(κλῆσις)またはクラースス(κλάσις)を音写した借用語だ。呼び出され召集される市民の部類分けを想定した階級や等級を指す。
つまり、ローマで「クラスの人々」(classici)呼ばれていたのは、五階級のうちの第一のクラスに属する人々で、12万5千アエス以上の税査定をされた人たちに限られていたことに由来する。
それが転じて、勝義には「最上級の等級の」人々を指すことになった。この点では、ギリシア語と不可分に結びついている。[classicus]が、言葉のニュアンスとして「第一級の」ものを意味するのにつながる。
それではなぜ、本欄のならず者である老婆もそうだが、この西洋的常識が日本人、西洋文化に通じた人々を含めて共通の認識にならないかと言えば、最近はそうでもなくなったが、ギリシア・ローマの古典的著作が存在は知っていても馴染の薄いもので関心の外にあり、古典語、つまりギリシア語やラテン語が一般には隔絶した遠い存在と敬遠されているからだ。
もう一つの見逃せない要因は、「古典」という日本語は明治時代に生まれた純然たる日本語、つまり「和製漢語」で中国にも逆輸出されたもので、日本語の発想で、西洋文化と同じ感覚で日本の文化的な伝統に大きく影響したシナの伝統的文明を連想し、ひいてはそれをも‘classics’と考え混同しがちだからだ。
一般的に言って「日本の古典」とは、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』や『源氏物語』、『古今和歌集』、『平家物語』などを指し、歴史上知識層の教養の規準となったのが、シナの思想書や歴史、詩文だったことは間違いではない。
しかし、例えば英語の‘classics’という言葉が本来意味するのと同じ意味での「古典」という言葉は明治以前には存在せず、むろん逆輸入した形の中華民国以前のシナにも、というか中国語には存在しない。
中国文学の泰斗、吉川幸次郎の指摘をまつまでもなく、「古典」という言葉は、「literatureを文学といい、philosophyを哲学といい、societyを社会といい、traditionを伝統といい、thoughtを思想というのなどとともに、明治時代の日本で作られた新語」(「中国の古典」、『吉川幸次郎全集』第1巻235頁)、つまり翻訳語だ。
もっとも、吉川が同時に指摘するように、中国語で「古」と「典」とを「むすびあわせた複合語が、全く中国の文献に」見当たらない、という意味ではない(同235頁)。魏晋時代の文献に、稀に古典という言葉があるという。
しかし、吉川によれば「それはみな、『古きおきて』という意味で、書物を意味しない」。また、そうした意味で使われる「古典」の二文字も、まさに「シナの古典」とも言うべき書物が出た「それ以前の千数百年間、また以後千数百年間、中国の文献には、ほとんど表れない。つまりほとんど無視してよい少数の例」(同)だという。
要するに、クラシック(classics)を指して「古典」というのは、「明治以降の日本語として生まれたもの」(吉川)で、本来の中国語ではない。あくまで、西洋の古典との類比(ἀναλογία)でそう呼ばれるにすぎないというが吉川の結論だ。
もっとも中国語で今日われわれが「古典」という言葉で意味するような書物や文化的伝統がないわけではない。その代表的なものが、儒学の祖、孔子が編纂した「五経」で、「経」とは「永遠の書物」、「不朽の書物」を意味し、今日なら「古典」に相当する。しかし、それは西洋の‘classics’の伝統とは、基本的に関係ない。
だから、言葉本来の意味では、ゲーテが古典とされるのも、あくまで派生的、二義的な意味だ。
言葉にはそれぞれ、歴史があるからだ。[完]
最重要問題は、”重複感染”があるか!?です。インフルエンザでは、毎年2000人以上死亡しています(新型コロナは現在1000人超)。それと重複感染すると、両者の合併症を引き起こし、比較的新型コロナでは重症化しにくいと言われる若年層にも影響が拡大し、死亡者がバタバタ出ることも予想されます。
一方、南半球のオーストラリアなどの統計事例では、真冬の7月にはインフルエンザ感染者は、例年より少なかったとの報告もあります。TVで司会者が、これは「重複感染はない」(又は重複感染しての重症化)のではないか!?と北村義浩教授(日本医科大学)に訊いたところ、北村さん:わからない!しかしその可能性はあるとの回答でした。つまり、専門家でも秋冬の新型コロナウイルの動向は、わからないということです。
いずれにしろ国は、そのことを念頭にその対策を事前に準備し、国民に周知させておく必要があるかも知れません。まぁー!わたくしごときが、考えているぐらいですから、国(分科会など)は、すでに準備しているものとは思いますけど。
季節性インフルエンザは、たとえ事前にワクチンを接種しても罹患すること自体は回避できず、精々重症化を防げる程度だ。現在実用化を目指して各国がしのぎを削っている新型コロナウイルスワクチンも似たようなものかもしれない。
それはともかく、昨冬のインフルエンザの流行が下火だったように、以前にも増して人々が公衆衛生意識を高め、つまり手指の洗浄、マスク着用、人ごみ=三密回避を励行していて、しかも不要な外出を控え、なおさら新型コロナ感染症(COVID-19)と違って、インフルエンザは無症状または発症前の感染者からも相当の割合で感染することはないから、インフルエンザ罹患者は、この秋冬シーズンも相当抑制されるであろうことは、何となく類推される。インフルエンザ単体なら万能とは言いかねるが「特効薬のようなもの」もある。
問題は、重複感染した場合に重症化する危険性をどの程度に見積もるべきか、ということだろう。
この問題は、新型感染症に関するウイルス学的・免疫学的知見やデータの増大に加え、臨床的に症例研究が進んで治療法や重症化回避策が数多く報告されて情報共有され、特効薬こそ今なお不在なものの、症状軽減や死亡につながる重篤化回避に有効な薬剤の処方も次第に確立されつつある。それは、世界的傾向として全般的に死亡率を押し下げている。
「ファクターX」の解明に至らないまでも、そうした経験則に基づく推論から、対処法は増えており、重複感染についても、一定程度の想定は可能だろう。
それは、本来の意味では論理概念の拡張に基づく適用である。特に「類比」は、謂わば「語の転用」(μεταφορά)とも言える。多くの経験科学、特に社会科学や生命科学の思考法は、当然のことながら数学や論理学のように演繹的に組み立てられた公理論的モデルではないし、近代物理学理論がモデルとなるような法則論的演繹モデルでもない「発見法的推論モデル」だから、ある意味で已むを得ない。
数学的な確率論(Theory of probability, Wahrscheinlichkeitsrechnung)、それに基づく数学的帰納法は厳密な形式科学だが、その応用を含む確率、蓋然性にかかわる諸科学の議論はそれほどの厳密性を求められることはない。
それは、探究と仮説による検証過程を含めた対象への発展的、発見法的アプローチであって、そこで共有される理解は、大半は充分「ありそうなこと」に関する「論理的粉飾」の域を出ないことが珍しくない。それでも実用上充分役に立てば目的の多くは達せられるからだ。
そのことが同時に、哲学的論証の検証に堪え得る、厳密な論理的思考ではないのも、その文脈で理解できる。アリストテレスやケインズの議論はその側面から多くの問題を投げかける。
「ところで諸々の想到法(τὰ ἐνθυμήματα)は、四つの根拠をもとに語られる。その四つとはすなわち、ありそうなこと(蓋然性=εἰκὸς)、例示(παράδειγμα)、証拠(τεκμήριον)、しるし(徴候=σημεῖον)である。」(引用続く)
‘ἐπεὶ δὲ τὰ ἐνθυμήματα λέγεται ἐκ τεττάρων, τὰ δὲ τέτταρα ταῦτ᾽ ἐστίν, εἰκὸς παράδειγμα τεκμήριον σημεῖον, ἔστι δὲ τὰ μὲν ἐκ τῶν ὡς ἐπὶ τὸ πολὺ ἢ ὄντων ἢ δοκούντων συνηγμένα ἐνθυμήματα ἐκ τῶν εἰκότων, τὰ δὲ δι᾽ ἐπαγωγῆς ἐκ τοῦ ὁμοίου, ἢ ἑνὸς ἢ πλειόνων, ὅταν λαβὼν τὸ καθόλου εἶτα συλλογίσηται τὰ κατὰ μέρος, διὰ παραδείγματος, τὰ δὲ διὰ ἀναγκαίου καὶ <ἀεὶ> ὄντος διὰ τεκμηρίου, τὰ δὲ διὰ τοῦ καθόλου [ἢ] τοῦ ἐν μέρει ὄντος, ἐάν τε ὂν ἐάν τε μή, διὰ σημείων, τὸ δὲ εἰκὸς οὐ τὸ ἀεὶ ἀλλὰ τὸ ὡς ἐπὶ τὸ πολύ, φανερὸν ὅτι τὰ τοιαῦτα μὲν τῶν ἐνθυμημάτων ἀεὶ ἔστι λύειν φέροντα ἔνστασιν,’; Ars Rhetorica, 1402b12~23
この観点から「日本モデル」は「似而非論理」(ψευδὴς λόγος)でしかない。[完]
最近のSpiegelを見ると、ドイツの秋冬対策として、例えば、https://www.spiegel.de/gesundheit/corona-in-herbst-und-winter-und-jetzt-a-81df859a-4a92-4b43-96bd-98aea7c14952や、コメント5で紹介したように、
エアゾル感染を防ぐために、室内ではなくて、Roland Kaiser氏が9月初めベルリンで行ったように、オープンエアーでコンサートをして、三密の感染のリスクを下げること、誰と交流したかメモをとること、濃厚接触者アプリを活用すること、感染の疑われる人の隔離期間を5日程度にする、ことを主な柱にしている。PCR検査の拡大と政府の批判しか主張しない日本のマスコミも、専門家を登場させて、不安を煽ったり、楽観視する代わりに、どうすることが、被害を少なくするのか、「公共の福祉」ということを、真剣に考えるべき時がきたのではないのだろうか。
24⇒【日本のマスコミの報道の在り方を批判し続け…Covid19 対策のピントがずれているから…その影響は、反氏たちの私の翻訳への批判】――メディア関係者で如上の混同をして愧じない厚顔無恥は、滅多にいないどころか絶無に近いだろう。メディアと老婆の誤訳は元々無関係だ。「公共の福祉」(εὐτυχία κοινὸν)など、心得違いも甚だしい。
「最善の生活を選べ。習慣がそれを快適なものにしてくれるだろう。」(“ἑλοῦ βίον τὸν ἄριστον, ἡδὺν δ´ αὐτὸν ἡ συνήθεια ποιήσει,”; 123C)――プルタルコスの『モラリア』の中の『健康に関する諸教訓』(Ὑγιεινὰ παραγγέλματ, De tuenda sanitate praecepta)にある言葉だ。夜明け前から、いかれたお頭で想念をたぎらせている人間に碌なものはない。
「ヒッポクラテスが言っているように、『体が重い、疲れた、という感じがするのははっきりした原因がほかに考えられないのなら、病気の知らせだ』と」(“βαρύτητες καὶ κόποι,” φησὶν Ἱπποκράτης, “αὐτόματοι νοῦσον φράζουσι,”; 127D)いうのもある。老婆も病んでいる。
精神のバランスを崩すのは、無知についてプラトンがソクラテスをして言わしめたように、「魂の劣悪さ」(ἡ τῆς ψυχῆς πονηρία)の表れだからだ。
「大いなる正をなすために不正を犯す」(“τὰ μικρὰ δεῖν ἀδικεῖν,” ἔλεγεν, “ἕνεκεν τοῦ τὰ μεγάλα δικαιοπραγεῖν.”; 135F)のではあるまい。剽窃(τὸ μιμεῖσθια=plagiarism)はこそ泥(ὁ λωποδύτης)の仕業だ。
恥を知るといい。
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