欧州諸国で新規陽性者の拡大が見られている。だが、すでに指摘したように、http://agora-web.jp/archives/2048229.html 死者数は、3月・4月の時期のように新規陽性者に比例しては増加していない。日本と同じような傾向を見せているのだ。
7月以降の日本では新規陽性者数の拡大が見られ、新規死者数も増加したが、3月・4月とは異なる比率でしか増加しなかった。全く同じ現象が欧州で起きているように見える。
確認しておこう。日本では、7~8月の新規陽性者数は、4月の水準を大きく上回った。しかし死者数の増加は抑制され続けた。ただし、全く増加しなかったわけではない。増加はした。ただ、3月・4月の時点よりも明白に抑制されていた。そのように死者数の増加を抑制し続けているうちに、新規感染者数も抑制した、という流れであった。
現在、欧州では、新規陽性者数の顕著な増加が見られている。一部諸国では、3月・4月の水準を上回っている。ところが欧州全域で、死者数の抑制が図られている。日本と同じだ。
もっとも死者数は、時間差をおいて、増加はしてくるだろう。すでに漸増する兆しが見られる。しかし発症から死亡までの期間は、平均で2~3週間と言われる。数カ月も時間差を置いて死者数が比例的に増加することまでは考えられない。現時点の欧州における死者数の新規陽性者数に対する比率(致死率)は、3月・4月の時点とは全く異なる、と言えることは明らかだ。
日本では、「日本の死者数が欧米より少ない」ことに着目した様々な「仮説」が出されてきた。しかしそうした「仮説」の根拠になっているのは、「3月・4月の欧州よりも」日本の死者数は大幅に少ない、という点であった。
これに対して私は、繰り返し、「3月・4月の欧米諸国の致死率が異常だっただけに過ぎない」という趣旨の文章を書き続けてきた。そして、「世界の中心は欧米諸国で、世界で信頼できるデータは欧米諸国と東アジアに関するものだけ、科学者にとっては欧米諸国と東アジア諸国以外の国々など存在していないに等しい」主義の方々を批判してきた。
3月・4月の欧米諸国の致死率は異常だった。ただし、現在の欧州と、7月・8月の日本を比べるならば、むしろ酷似している。新規陽性者の大幅な拡大が見られるのに、新規死者数は抑制されたままなのだ。
前回私が世界各国の動向を一覧で示したのは7月13日だったので、http://agora-web.jp/archives/2047153.html そこまでの時点の致死率と、それ以降9月25日までの致死率を比べてみよう。かつて世界最悪の致死率を示しながら、劇的な改善を図っているEU主要国であるフランス、オランダ、ベルギー、ドイツなどが位置する西欧地域を例にとってみると、6月15日時点で致死率は11.2、7月13日時点の致死率は10.6だったが、9月26日時点の致死率は5.34まで劇的に下がっている。これはどういうことかというと、7月13日から9月26日までの期間の西欧諸国の新規陽性者数593,151人に対して新規死者数は2,659人であり、致死率は実に0.4%という驚異的に低いレベルにまで抑制されているのである。
ちなみに同時期の日本の致死率は、0.9%である。日本の致死率も1%未満という好水準に抑制されているのだが、過去2か月余りの間だけをとれば、西欧の成績のほうが日本より良いのだ。
新規陽性者の拡大時期にずれがあるため、7~9月の致死率は日本に不利に働く要素はある。欧州の死者数の微増の傾向は見せ始めており、致死率も微増する可能性がある。それにしても3月・4月の西欧諸国が、実に10%を軽く超える致死率という異常値を見せていたことを考えると、劇的な変化が起こったことは明らかだろう。
私はすでに7月上旬の文章で、欧州の致死率が顕著に低下していることに注目すべきだと書いていた。そもそも感染者の10%以上が死亡するといった異常値は、3月・4月の欧州諸国くらいでしか確認できなかった。その後、欧州諸国は世界平均の動きを見せ、今や日本に匹敵するくらいの良好な成績を見せているのである。
日本では、旧専門家会議が2月中旬に招集され、医療崩壊を防ぎ、重症者対処に焦点をあてる方針が確認された。http://agora-web.jp/archives/2047913.html それは、裏を返せば、2月の時点ですでに日本では新型コロナの封じ込めは不可能である、無理な封じ込め政策はかえって混乱を招く、という英断の所産であった。
旧専門家会議(現「分科会」)の中心メンバーであり、「日本モデル」の最重要人物と言うべき押谷仁・東北大学教授は、著書で次のように述べている。
――――――――――
このウイルスに関しては、自国だけで完結した封じ込めシナリオは成り立たないのです。日本で大きな流行が起きそうになった時に最も懸念されるのは、重症者が急増することで医療の限界を超えてしまうことです。それが起きそうになったら、徹底的に社会活動を制限して、ウイルスの拡散を止める。いったん落ち着いたら、また淡々とクラスターを潰していく。そうした長期戦を覚悟する必要があります。(押谷他『ウイルスVS人類』96頁)
――――――――――
私は、こうした押谷教授の感染症の専門的知識に裏付けられた深い科学的洞察と、WHO勤務経験に支えられた政策裁量範囲の現実的判断が、「日本モデル」の土台を形成していると評価している。そしてそのことが、初期対応の混乱にもかかわらず、日本が比較的良好な対応を見せていることの大きな要因だと考え、押谷教授を国民の英雄と呼んでいる。
押谷教授の考え方にそって日本で強調されることになった「三密の回避」は、すでにWHOが公式に推奨する考え方になっている。3月には封じ込めに躍起になっていた欧州諸国も、今やその基本メッセージを素直に受け入れている。そして結果を出してきている。
いわば欧州諸国は「日本モデル」を踏襲する路線を進み始めているのである。
このように言うことは、もちろん、「日本モデル」が、永遠に(相対的な)成功を続ける、と断言することとは、違う。
しばしば統計処理に走りすぎる方々が誤認されているように見えるが、新規陽性者数の拡大も、致死率の抑制も、すべて「人間的な」営為の所産である。致死率の低下に、何らかの知られざる要因があるのかないのか、私は知らない。しかし、高齢者と慢性疾患保持者の脆弱性に対する社会的認知と政策的配慮が働けば、致死率は下がる。ウイルスの完全な封じ込めが不可能であっても、押谷教授らの業績により、「三密の回避」などの人為的努力によって感染拡大の抑制を図ることが可能であることも知られている。それらは全て自然法則のようなものに支配されている事柄ではなく、人間的な努力の有無によって大きく影響されるような事柄なのだ(ただしそれは必ずしも「西浦モデル」が要請する「人と人の接触の8割削減」ではない)。
欧州諸国は、そのことの意味を当初は誤認していた。しかし後に是正した。そして今はその成果を見せている。
新型コロナをめぐって、何やら数理モデル的な理解が流行りすぎている。だが、新型コロナ対策は、むしろ「人間的な」営為によって有意な差が作られる、ということを、もう少し重視すべきではないだろうか。そして、そのことを深く洞察する押谷教授の「日本モデル」路線の比較優位を、日本人は素朴に認めたうえで、さらなる深化の方法について真剣に検討していくべきではないだろうか。
また新規陽性者数が拡大すれば、「煽り系専門家」の毎度おなじみの「日本は2週間前のNYだ」論でひと稼ぎしようとする輩がはびこるのだろう。http://agora-web.jp/archives/2047773.html うんざりする。無責任なメディアに騙されることなく、「日本モデル」の比較優位性に自信を持ちたい。
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「原因あるいは結果からの推理は如何なる種類のものも、その根底が次の二つの点に基づいている。即ち、あらゆる過去の経験におけるある二つの対象の恒常的連接〔「常に類似している」=筆者〕、及びそれら二つの対象のいずれかと現在対象との類似の二点にある。……しかも言うまでもなく、連接と並んである程度の類似がなければ、いかなる推論もなしえない。」(大槻春彦訳『人性論』第1巻、223~224頁〔一部訳語と表記を変えた〕=‘all kinds of reasoning from causes or effects are founded on two particulars, viz. the constant conjunction of any two objects in all past experience, and the resemblance of a present object to any one of them. ……Without some degree of resemblance, as well as union, it is impossible there can be any reasoning.’; D. Hume A Treatise of Human Nature, Book I, Part III, Sec. XII, Everyman’s Libr. vol. I, p. 142)
ケインズやヒュームの指摘をまつまでもなく、「すべての帰納的推論の根底には、類比しうる何らかの要素がなければならない。」(‘Some element of analogy must, … lie at the base of every inductive argument.’; J. M. Keynes, A Treatise on Probability, Collected Works, vol. VIII, p. 247)。
そして、そうした類似が「正しいかどうかは措いて明確に、類比を強いとみなしたり、弱いとみなしたりする理由を分析」(‘precision the meaning of Analogy, and (try) to analyse the reasons, for which, rightly or wrongly, we usually regard analogies as strong or weak’; ibid.)して、明確に説明できなくてはならない。
もっとも、だから言って「類似した〔原因〕から類似した〔結果〕を期待しがちだという人間の生得的な原理に対する適切な根拠を見出すことが可能かどうか」(‘whether it is possible to find a good reason for our instinctive principle that likeness breeds the expectation of likeness.’; ibid.)という問題は、別種の検討を要するという点もケインズの指摘通りだ。
「もしあることが二つの対象の双方について真であるなら、即ちもしそれらの双方が同一の命題関数を満足させるならば、その場合その限りでそれら双方の間には一つの類比の関係が存在する。従って、一般化g(φ, f)はすべて次のことを断定している。即ち、一つの類比は常にいま一つの類比を伴うということ、つまり類比φをもつすべての対象の間には、別の類比fもまた存在するということを断定していることになる。」(一部訳語と表記を除き邦訳『ケインズ全集』第8巻258頁、佐藤隆三訳に拠る=‘If some one thing is true about both of two objects, if, that is to say, they both satisfy the same propositional function, then to this extent there is an analogy between them. Every generalisation g(φ, f), therefore, asserts that one analogy is always accompanied by another, namely, that between all objects having the analogy φ there is also the analogy f.’; ibid., p. 248)
そこで言う一般化(generalisation)とは、「命題のある定義可能なクラス(集合)のすべて(の成員)が真である」(a statement that all of a certain definable class of propositions are true)という言明のことだ。仮にφ(x)を真とするすべてのxの真理値についてf(x)が真であるなら、φおよびfについて一般化が得られ、それをg(φ, x)のように表記(定式化)することができる。
それに伴って、すべての「『欧州モデル』は『日本モデルの踏襲である』」という命題の一般化を扱う場合、それを、「xは『日本モデルの踏襲である』は、xは『欧州モデル』であるが真であるすべてのxに対して、真である」という言明と等値で、命題φ(x)・f(a) は、一般化g(φ, f)の一つの事例(an instance of the generalisation)になる。
基本的な定義と考え方は以上だ。
篠田さんの議論は弱い(薄弱な)根拠に基づいて強い類比を行う、しかも恣意的な一般化による個別的事例をもって主張を拡張する「似而非論理」(ψευδὴς λόγος)ということだ。
1990年代の日本の経済政策と同じである。あの頃も、「日本特異論」が現われて、米国経済の仕組みを取り入れて、日本経済の活力は失われ、中国にとって代わられた。年功序列、総中流社会が日本の経済の強みだったのである。それは、信仰告白ではなくて、現実の姿だ。今度のことでも、日本モデルが優れているから、ドイツの政府の司令塔ドロステン医師は、英米モデルではなくて、日本モデルを取り入れている。それは、実績が、統計が示しているのではないのだろうか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/adb6c851774a81755bb2c27bdd0e8e0f49e14a6a?page=3
また、カロリーネ氏が一方的に信頼をしているとする岩田健太郎・神戸大学医学研究科感染症内科教授も、下記記事によると、感染症数理モデルの第一人者である西浦教授が厚労省の感染症対策にデータ解析で協力する前の時代と比較をした上で、西浦教授の「貢献」を肯定的に評価をしていることがわかります。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/517429/
括弧書きでおっしゃっている「ただしそれは必ずしも「西浦モデル」が要請する「人と人の接触の8割削減」ではない」の意味が私には理解できません。
今回の議論なら、具体的には、⇒【医療崩壊を防ぎ、重症者対処に焦点をあてる方針…新型コロナの封じ込めは不可能…無理な封じ込め政策はかえって混乱を招く、という英断の所産】▼⇒【「三密の回避」は、すでにWHOが公式に推奨する考え方…3月には封じ込めに躍起になっていた欧州諸国も、今やその基本メッセージを素直に受け入れ…結果を出してきている…いわば欧州諸国は「日本モデル」を踏襲する路線】程度の話では、何の根拠もない類推にすぎない。
①WHOが「三密回避」を公式に推奨したことと、欧米が「日本モデル」を踏襲していることとは、問題の性質、意味合いが異なる。
②「医療崩壊を防ぎ、重症者対処に焦点をあてる方針」は、「日本モデル」に限った話ではなく、初期段階から各国共通の課題だ。欧米諸国が採用した強制的な接触制限措置は、感染者の急増を積極的な介入措置によって抑え、コントロール可能な範囲に置くことで医療資源への負担を軽減し、医療崩壊を回避することで、一定の割合で出てこざるを得ない重症者対策に応じる点で、特別なものではない。「日本モデルを踏襲」以前の話だ。
③「欧州が日本モデルを踏襲して成果を出している」という言明には、議論の前提として検証されなけばならない、未解決の想定がいくつも潜んでいる。相対的に死亡率が低く医療崩壊も起きていない日本のこれまでの取り組みに欧米諸国が関心を向けたことと、対策面で具体的に踏襲することとは全く次元が異なる。
「日本モデル」などお構いなしのスウェーデンは死者数が大幅減で、他の欧米諸国より安定している。
各国とも医療事情も公衆衛生のインフラも異なる。日本モデル的なクラスター対策で対処できる段階を疾うに過ぎている。勢い強制的介手法も捨てていない。
日本モデルはあくまでも、日本という特殊な環境、疫学的な安全保障に関する法体系の不備と国民性、厚生労働省の政策誘導的な意図も加わって編み出された窮余の策、つまり急ごしらえの「彌縫策」であって、「そう見える」だけの「成果らしきもの」の印象をもって、各国が参照することはあっても、踏襲できる性質のものではない。普遍性(τὸ καθόλου)がない。
自然免疫や交叉免疫、変異による弱毒化仮説をもち出さなくとも、集団免疫またはワクチンが有効に機能するのでもなければ、感染拡大は止まらない。介入措置は初期段階に徹底して実施しなければ効果を期し難い。
欧米やアフリカの動向だけに目が行って全体の感染状況への目配りが疎かなのは日本モデルを「偏愛する」篠田さんの「総観的思考」(σύνορᾶν διάνοια)の欠如で、南米や、東南アジアの一部、南アジアや中東を見れば、欧米の「日本モデル踏襲」云々が、何の根拠もない「似而非論理」による「弱論強弁」(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)であることは明らかだ。
論点窃取とは、議論が前提とする諸問題の妥当性が何ら具体的に論証されていない(οὐκ ἀπόδειξις)ということだ。これまでにも、前回冒頭の9月3日2~3で論じ、さらに遡って「日本モデル」≠「西浦モデル」という篠田さんの議論の枠組みにも同じ虚偽、虚構が存在することを論証してあり(8月25日・12~13)、改めて繰り返さない。
篠田さんはよく、「現実」(τὸ γιγνόμενον)を強調し、「現実によって」(κατὰ ἐνέργειαν)、現実的に(ἐνεργείᾳ)に事態をとらえることを主張する。しかし、そこに現実に対する省察(φροντίς)の欠片もない。現実は時々刻々と変化してとどまらない。現実と「そう見える」(φαίνεται)だけの仮象(φαίνεσθαι)とを用心深く分けて議論していない。
一見そう見えて「実はそうではない」(εἶναι δὲ μή)現象(πρόσχημα)、謂わば見せかけ(παρουσία)、事態の表面(τὸ ἐπιπολῆς)をなぞっているいるだけのアメンボ(water-spiders)のような議論に現を抜かしている。
水面を軽快に滑って行く分にはそれもよいが、所詮はものごとの表面しか見ておらず、実際に水面下で起きている、表面には浮かび上がってこない現象の背後(τὸ νῶτον)にある真相にお構いなしのようだ。
議論が上滑りしている(ἐπιπολαῖος)軽率な印象を否定できない。その典型例が無邪気な日本モデルや押谷仁氏、尾身茂氏の神聖視だ。
「言うことに何か一々棘がある」(ἀεί τι τραχὺ ἐν τοῖς λόγοις)のは私の性だかご勘弁願うとして、この「ざらざらとした」(τραχύς)居心地の悪いもう一つの現実に向き合うことなく、党派的な素人論議に明け暮れている昨今の篠田さんは感心しない。
⇒【新型コロナをめぐって、何やら数理モデル的な理解が流行りすぎている】のような無駄口は、慎むことだ。
随分ご気楽なものだ。[完]
コロナ対策という、自然現象に対する方策がいいか、悪いかは、そう簡単には断ずることはできないであろう。それを、初めからずっと押谷が神様であるかのように崇め奉っているお前は、バカだ❢❢❢というより理性に欠けている。私が思うには、尾身、押谷路線は、ゴミでしかない。感染症ムラの思い込みを押し切って動き出した内閣府の決断が良かったのだと感じている。感染症ムラの見解はほとんど日本社会には貢献していない。
なのに、篠田はゴマをするのか???
異常としか思えない。
よく、これで政治学がやっておれるのか???
日本の社会科学とは、しょせんこんなものなのであろう。
日本の将来が思いやられる。
あえて、現段階で感じるのは「日本モデル」という総括はひとりの国民として恥ずかしいというか面はゆい。菅総理がデジタル化をぶちあげたが、一国の総理がこんなことを目標にかかげるのは正直みっともない。韓国など政府の電子化など何事もなかったようにさっさと進めている。
遅れている部門は訳のわからない抵抗勢力がしぶとく既得権益を守っているため大幅に遅れており、別のところで日本モデルに卓越性があっても、ほかで著しくスマート性や効率性をおとしている。日本型モデルで最大のガンは社会を混乱させるだけの、本当に訳のわからないメディア集団が専門家の知見をつまみ食いしながら反権力的翻訳のバイアスで世論をたきつける。
しかし、日本人は変わりはじめると速度ははやい。膨大な流通網なんかでも人の接触をできるだけ減らすべく迅速に検討がすすめられ、民間につきあげられて政府や医療関係なども対人接触を減らす電子化が進むだろう。
ここまで複雑となると最後は民度つまり大衆の常識レベルというものが微妙に浮き上がってきて、なんとか帳尻をあわせるものだと思われる。日本人の常識はトップダウンとボトムアップのバランスをなにより重視する。そういった国民性のなかでは、篠田氏のような慎重な問題提起と理性的な仮説検証型の知識人と非常に相性が合うはずである。
昨夜のBS朝日「日曜スクープ」にも、感染症の専門家として、東京病院の感染症科部長が出演され、「インフルエンザ」治療の経験が豊富であるということ、PCR検査を病院内で即座にできる、ということを売りにされていたが、本当に「Covid19」について詳しいのか、と思った。唯一参考になった主張は、実際にこの医師が担当された40代のインフルエンザとCovid19に同時に感染した女性の病状が重篤化したこと、つまり、「Covid19とインフルエンザの重複感染は重症化するリスクがある。」と発言されたことぐらいである。武漢の例では、1・12-2・21に、コロナ307人の中に、インフルエンザ176人の患者がいた、ということも述べられたが、その可能性を考えた時、やはり、日本の秋冬対策として、インフルエンザとCovid19の重複感染の重症化リスクを考える必要性がある。
「日本国民」のことを考え、自分の専門知識を国民の為に役立てたい、という「公共の福祉」の為にテレビに出演するのではなくて、「日本は2週間前のNYだ」論でひと稼ぎしたい輩や、自分の所属する病院を効果的に宣伝したい輩が、専門家と称してテレビ他のマスコミに出演する、つまり、自己本位、だから、おかしな世論が日本社会に醸造されるのだ、と私は思う。子供のころ祖父母に習った「お天道さまはみておられる。」という初心に専門家は戻るべきだし、私も、「無責任なメディアに騙されることなく、「日本モデル」の比較優位性に自信を持ちたい。」という篠田英朗教授の主張を応援したい。篠田教授、がんばってくださいね。
❝日本が特異だから死亡率が低いのではない。死亡率が低いのは生物学的事実でしかない。❞
篠田は❝新型コロナ対策は、むしろ「人間的な」営為によって有意な差が作られるということを、もう少し重視すべきではないだろうか。、、、❞と結論している。
かりに、致死率の極限値が西欧諸国と日本でほぼ同じだったとして、人口に対する死亡者数における、20~30倍の違いは最後まで残るであろう。とすれば、西欧諸国が日本の20~30倍くらい感染しやすいということになる。この感染しやすさ、感染しにくさを篠田が主張するような❝押谷教授の「日本モデル」路線の比較優位❞に求めることは全く同意できない。
人口に対する死亡者数が日本同様に少ないのは東洋圏数か国諸国に見られる科学的事実であり、この少なさをすべて❝押谷「日本モデル」❞に求めるのは無理であろう。
もちろん、東洋圏以外のアフリカ諸国でも見られるかもしれない。
「人間中心主義的」志向性をもつ篠田の思考がわからないわけではないが、PCR というような言葉も日常語となってきた今日、ある程度の生物学的基礎知識と科学的思考を行えるようでないとこれからの世界、通用しないのではなかろうか。
今、窓辺からイソヒヨドリの鳴き声がきこえてきた。梅雨前まで裏山の平尾霊園でかまびすしい声を響きわたらせていて、福岡市内にもイソヒヨドリがいるんだなと思わせてくれた。
篠田さんも、人間である前に生物であることにもっと注意をはらってもよいのかもしれませんね? おっと、これは❝老爺心❞ですな! 失礼、失礼。
とにかく思うことは、日本のマスコミ知識人は、国際社会をよく知ってから、Covid19を含めた批判をするべきなのではないのだろうか。どこが、舛添要一氏が言われるような、「日本のコロナ対策は、アジアの劣等生なのだろう。」
季節は早いものでもう秋の兆しも。
神戸大の感染症専門医の岩田教授が6月の段階で自身のブログに長文の記事をあげています。
『楽園はこちら側』 なぜ、国ごとに差が出たのか。そして第二波がどうなるか。6月23日
https://georgebest1969.typepad.jp/blog/2020/06/%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%9B%BD%E3%81%94%E3%81%A8%E3%81%AB%E5%B7%AE%E3%81%8C%E5%87%BA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%B3%A2%E3%81%8C%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%8B.html
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>>「日本だけが特化して新型コロナウイルス対策でうまくいった」と断言するデータはどこにもありません。日本を「成功者」と判定するなら、そして、そのように判定してもよいとぼくは判断するのですが、それは日本「だけ」の属性ではなく、日本を含むいろんな国、特にアジア・オセアニアの特徴として、判断せねばならないのです。
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という意見で、反時流的古典学徒氏が述べているように、「日本モデル」はアジア圏においても普遍的でないことを理由にあげています。
>>さて、ではこのようなアジアの国々やオセアニアの国(オーストラリア、ニュージーランド)はどうして、欧米諸国よりも感染対策が上手くいったのか。それは、これまで検討したように、文化や習慣、BCG、PCR抑制といった理由ではなさそうです。
確定的な証拠はないですが、状況証拠から一番プラウジブルな理由は、
「スタート地点が違っていたから」
というものです。
日本は、隣国の中国で武漢の肺炎が流行していたことを知っていました。春節が近づいていて、春節が来れば多くの中国人が大挙して日本各所を訪れることも熟知していました。その中に感染者がいて、日本で感染者が発生、流行することも危惧していました。しかし、世界保健機関(WHO)は国際間の渡航規制には賛成せず、日本政府も中国からの渡航を容認しました。感染危惧はさらに高まったのです。
そして、日本では各地で散発的なクラスターが発生しましたが、それを追跡、捕捉することに成功し続けました。PCR検査抑制下でこれが可能だったのは、単純に患者数が少なかったからです。韓国のように短期間に大量の患者が発生していたら、このような追跡・捕捉は不可能だったでしょう(事実、ダイヤモンド・プリンセス号ではタイムリーな追跡は不可能でした。単に船内に隔離していたから、船外に感染が拡大しなかっただけです)。
患者が少なかった。これが日本の対策がうまくいった最大の理由。これがぼくの推測です。
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もしまだ読まれていなければ、一度目を通してみてくれますか。もちろん差し支えがなければ。
「スタート地点が違っていたから」にせよ、何故、東アジアより欧米のほうが猛スピードで感染が拡大していったかは不明です。
この岩田教授の見識については如何お考えか教示して頂ければ幸甚です。
上記のコメントを日下部氏宛にしてしまっていますが、勿論、皆さんのご意見を伺いたいです。
10⇒【篠田氏の勇気ある仮説構築作業…しかも、理性的…将来は代表的な社会科学者】云々のようなご贔屓もいるが、②⇒【外務大臣など…要職に…能力を十二分に発揮…と確信】に至っては、褒め殺しに近い。
数理疫学に基づくモデル解析も、ゲーム理論のように高度に抽象化された数学的手法を駆使する人間行動理論も、そして厚生経済学から発展した社会的選択理論も、すべて人間の行動様式を抽出したもので、すぐれて「人間的な」(ἀνθρώπειος)認識だ。個々のパラメータにも左右されるが、妙に情を込めないだけ、かえって客観的に人間性の真実を映している。
何んと言っても、そうした数理的なモデル思考に習熟した人間は実際には数えるほどで、知らないが故に敬して遠ざけるのと同様、一種の「魔法の杖」的に信仰の対象にして過大視したり不可侵の信仰の対象に祀り上げられる懸念が絶無ではないが、流行の恐れはない。如何にも言葉が「軽い」。
各国の対策=【「人間的な」営為】の違いによって生まれる有意な差については個別的には否定しないが、その差が「日本モデル」の採否や踏襲によって生じるかどうかは、別途の検証を要する。
日本国内でそれが主要因となって有効だったとしても(私は否定的だが)、感染拡大の初期段階で日本モデル的な対策を講じなかったから欧米のように急拡大して異様な致死率、死亡率になったか否かの証明は困難だ。
そして、いったん収束または小康状態後の第二波以降の致死率、死亡率の一変した状況への日本モデルの影響を検証することも容易ではない。それは欧米にとどまらない世界的傾向だからだ。
『キリストの肉体について』(“De carne christi)の中の実際の記述は、「一言で言えば信ずること、莫迦げたことであっても」(‘prorsus credibile est, quia ineptum est.’;→‘it is immediately credible because it is silly’ or ‘it is by all means to be believed, because it is absurd’)というもので、「不合理ゆえにわれ信ず」はその要約的表現にすぎないが、信仰に生きる人々の心性はよく伝える。
イエス(Ἰησοῦς)、つまり救世主キリスト(ὁ Χριστός)が、「神の子」(ὁ υἱὸς τοῦ θεοῦ)とはいえ人間の子(ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου)として、しかも処女マリア(Μαρία ἀκήρατος)から肉体をもつ存在として生まれてきた奇蹟について、普通の知恵(conventional wisdom)を拒否し、「真の受肉なしに贖罪はあり得ない…神は真に死に、そして復活するために肉体に宿らねばならなかった」(‘without true incarnation, there can be no true redemption…God must have flesh, in order to have a real death and real resurrection.’)とする信仰の論理に基づいたその限りで、ある意味、理に適った、合理的な発想だからであるにすぎない。
だが、新型コロナ論議に信仰や聖域、英雄視する気遣いや賞讃の対象は不要だ。イエスやキリスト教徒(Χριστιανός)にとって、「わが王国はこの世のものではない」(ἡ βσιλεία ἡ ἐμὴ οὐκ ἔστιν ἐκ τοῦ κόσμου τούτου•’; Κατα Ιωαννην, XVIII. 36)と同時に、コロナ論議はすべて現世の都合や論理が介在しても自然界の必然(ἀνάγκη)で動くもので、そこに神の国、「王国」(ἡ βσιλεία)の論理はなじまない。
これくらいご都合主義の【「人間的な」営為】はない。そもそも中国の統計は多く眉唾もので信憑性を欠くことは疫学統計に限らないが、「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」(“πάντων χρημάτων μέτρον ἄνθρωπος, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστιν, τῶν δὲ οὐκ ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν.”; Diogenis Laertii Vitae philosophorum, IX. 51, R. D. Hicks ed. vol. II, p. 462~64)のアジア的な亜種の典型だ。
この極端な人間中心主義、「ホモ・メンスラ」(homo mensura=人間が尺度)というのが言葉の元々意味での「ヒューマニズム」には違いないが、中国ぐらい独りよがりのご都合主義で徹底されると、疎ましさを覚える。
そうした人間中心主義的な倨傲が、逆にあらゆる自由と価値を窒息させる。もっとも、中国で人間らしく(ἀνθρωπείως)生きているのは、共産党とそれにつながる一部の人民でしかないが。
最後に老婆心氏の問いに答えれば、⇒【「スタート地点が違っていたから」】という岩田健太郎氏の見立ては、欧米が新型コロナのような感染症への全般的な免疫がアジアその他ほどなく、初期段階での水際対策の失敗が惨事を引き起こしたという点で、一部は正鵠を射ているかもしれない。
しかし、問題の「スタート地点」ということに、自然免疫や交叉免疫など新型ウイルスとの親和性、地域性、ある意味で人種的・遺伝的な要素を加味して考えることを排除するものではなかろう。[完]
結論を先に言いますと、❝対コロナ反応地域特殊性❞についての仮説検証はほとんど不可能でしょう。仮説提示とそれを検証した論文は蓄積されていくでしょうが決定的な論証を行うことは10年、20年では無理なのではないでしょうか。
無理なのが、また研究のネタになるでしょうから、無限の泥沼のような気がします。
さて、岩田さんは、❝ではこのようなアジアの国々やオセアニアの国(オーストラリア、ニュージーランド)はどうして、欧米諸国よりも感染対策が上手くいったのか。それは、これまで検討したように、文化や習慣、BCG、PCR抑制といった理由ではなさそうです。❞と簡単に言っておりますが、
彼の論述は荒すぎてこの位の論述では、少なくとも3月のサトウ・ジュンさんのBCG仮説の緻密な論考を反証したとは認められないでしょう。事例、論文のつまみ食いに終わっています。
❝確定的な証拠はないですが、状況証拠から一番プラウジブルな理由は、
「スタート地点が違っていたから」
というものです。、、、
患者が少なかった。これが日本の対策がうまくいった最大の理由。これがぼくの推測です。❞
岩田さんのこの結論は意味をなさないと思います。患者は少なかったとして、じゃ、なぜ日本では患者が少なかったのですか? これに答える必要があるでしょう。岩田さんの結論は、単なる問題の先送りにすぎません。
これは尾身、押谷らのクラスターつぶしにも言えるのですが、患者数が少なかったのではなく、
❝患者数は少なかったけど、それの10倍20倍ほどの無発症感染者を見過ごしていた❞ のではないでしょうか。
群馬県や栃木県では2月下旬の時点で全国的にはまれな人工呼吸器装着数の利用が見られます。
北海道のコロナ感染クラスター対策は2月中旬下旬に盛んにおこなわれていましたが、北海道以外の国内各地でコロナの種が移入伝播をし始めていたのでしょう。おそらく、2月3月の国際線(札幌、成田、羽田、中部、関空、福岡)は結構な無発症感染者を迎え入れていたことでしょう。
岩田さんは、
❝世界最大の感染者数を出した国になってしまいました(本稿執筆時点)。日本でも感染の察知が遅れていたら、同じことが起きていたでしょう。
そうです。日本がコロナの第一波を乗り越えた最大の要因は、「運が良かった」のです。アジアの文化や風土や歴史は関係ありません。❞ と言ってますので、
私が言う❝神風が吹いた❞と同じような意味で解釈されるかと思いますが、私が言う❝神風❞は、追及するのは難しいが生物学的原因がある❝神風❞であって、岩田さんが言う単なる偶然とは違います。
コロナ発病の疫学的性質の想定される原因としては①RNAウイルス、②寄生する人間(先天的体質)、③環境条件(人間の後天的体質)があると考えられます。
②の先天的体質は遺伝子上の違いからくる要因です。③の後天的体質というのは、人間の免疫機構にかかわる体質は人間の生育環境(類縁のコロナ雑菌などに囲まれているとか)と人間との相互環境によって決まってきます。例えば先進国(この区別を嫌いなのですが我慢してください)の人間は清潔な環境条件に生育するでしょう。後進国の人間は、わたしが育ってきたような泥まみれの不潔な環境条件で生育するでしょう。そのような人間の自然免疫に対する免疫環境はどちらが耐性、親和性があると思われますか?おそらく不潔な環境で育ってきた人間の方が自然免疫力が高いでしょう。わたし自身はそんな免疫力の差異がコロナにたいしては働いているのかもしれないかと考えております。
清潔な環境条件で育ってきた西欧諸国人はコロナ耐性に欠けるがゆえに自然免疫の段階でフルに振り落とされて死者多数となっていった。しかし不潔な環境条件で育ってきた人間たちは自然免疫力が強くコロナ耐性にすぐれ初期免疫段階でコロナに親和性を保ち発病せずにすませてしまえた、ということになるのでしょうか。
解釈は簡単なのですが、検証は実に難しい、ほとんど不可能でしょう。力足らずで、こんな個人的感想を述べる以外にはありません。なにか、悟ることがありましたら改めて書かせていただきます。
手前勝手にコメントを求めたものに、レスポンス頂き有難うございました。
岩田氏の記事を目にした時に、やはり感染症専門医の現場からの合理的な説明に納得させられる個所も多々あり、又、それは一つの見方として反論できるだけの専門性は私にはないので、見識の高い諸氏に伺ってみたいと思っていたものです。
日下部さん
詳しい見解を述べて頂いて感謝です。お人柄が現れているような感想を持ちました。
ひと昔前だと、清潔な環境条件で育った西欧諸国人と言えるかも知れませんが、現状だと日本も清潔な環境条件ではないでしょうか(アジアの田舎は当てはまるが)。30~40代の若い母親は極端に清潔好きな人も多くて私から見れば驚くほど。だから子供にアレルギー体質が多いのかも知れないですね。日本では高齢者ほど田舎暮らしを経験した人が多いので、この理由だと若者が殆ど重症化しないという理由も説明し辛いのでは、などと。
何かまた書き込んで頂けるのを楽しみにしています。
「木を見るのではなく森を見る」新型感染症へのアプローチの優位性を以前、押谷仁氏が主張しており、それには氏になりに感染症の専門家として何らかの直観(Anschauung)があるのだろし、それはそれで感染症に向き合う一つの態度、方法論かもしればいが、その正しさを立証することは極めて困難だろう。
「日本の現実を見れば明らか」という篠田さん式の論駁(ἔλεγχος)はこの場合、問題外だ。「現実なるもの」(Wirklichkeit=ἔργον γιγνόμενον)を自らの都合のいいように解釈するのはそれぞれ自由だとしても、何ら説得力(πιθανότης)を伴わない。
単純に総感染者数、死者数、致死率、単位人口当たりの死者数(死亡率)を国際比較すれば、日本が比較的優位にあることは間違いない。しかし、それが「日本モデル」、つまりそれを含む日本的な対応によって必然的に生み出されたものかどうかは、論理的には別問題だ。
その因果関係を、日本モデルの優位性、有効性を主張する者は論証しなくてはならない。精々、アリストテレスが指摘する想到法(ἐνθύμημα)的な議論、その中でもありそうなこと(τὸ εἰκὸς)についての蓋然的な推定か、例示(παράδειγμα)による一面的で不充分な推論がやっとだろう。
それは、証明型の推論(δεικτικὸς συλλογισμός)には該当せず、証明型の想到法(δεικτικὸν ἐνθύμημα)も覚束ないだろう。なぜなら、現実として提示した事実はそれ自体は因果関係を証拠立てるものではなく、因果関係は推論の首尾一貫性に内属するからだ。
日本モデルの「比較優位性」やそれを生み出した洞察(γνώμη)を主張するにしろ、新型感染症に関する政策と結果との因果関係の論証には実験による検証も困難だし、事実=現実をいくら言い立てても、それは手法の客観的、論理的正当性を示すものでは全くないから、篠田さんの議論が、論理の名に値しない(οὐκ ἄξιος)所以だ。
「確からしい」(ἀληθείᾳ ἐοικώς)という推論も、実際には難しい。ケインズ『確率論』の冒頭、第1章「確率の意味」でその事情を次のように説く。
「確実なおよび確からしいという用語は、ある命題について、異なった量の知識がその命題に対してわれわれがもつことを正当と認める合理的信念のさまざまな度合を表している。命題はすべて真もしくは偽であるが、それら命題に関してわれわれがもつ知識はわれわれが置かれている状況による。また、命題に関して確実もしくは確からしいと述べることが便利であることはままあるが、厳密に言えば、このように述べることは、それら命題が現実的もしくは仮説的な、一塊の知識に対してもつ関係を表しているのであり、命題そのものの特性を表しているのではない。一つの命題は、それが関係する知識のいかんによって、同時にいろいろな度合の、そのような関係をもつことができるのであり、したがってその命題と結びつける知識をわれわれが指定しない限り、その命題を確からしいと呼んでも意味はない。」(佐藤隆三訳、邦訳『ケインズ全集』第8巻、4頁=一部訳語を変えた)
ケインズはそうした意味で確率を主観的な(subjective)ものと呼ぶことは可能だとする。しかし、同時に論理の問題としては、確率は主観的ではない。確率は人間の気紛れ(human caprice)に左右されるものでもない。
つまり、「命題は、われわれがそれを確からしいと考えるから確からしいのではなく、われわれの知識を限定する諸事実がひとたび与えられたならば、それらの状況において確からしいこと、あるいは確からしくないことは客観的に決まってしまい、われわれの考えとは独立である」(‘A proposition is not probable because we think it so. When once the facts are given which determine our knowledge, what is probable or improbable in these circumstances has been fixed objectively, and is independent of our opinion.’; ibid., p. 4)からだ。
偏執狂の老婆のような杜撰な議論は論外で、日本が初期段階で(現在も似たり寄ったりだが)PCR検査対象を、ほとんど重症者発掘とクラスター対策に絞ったのは体制的な制約もあったが、行政検査としての位置づけに固執し、それによって全体の感染状況を把握しようとする政策的な意図が最初から欠落していたからだ。
日本モデルによる「科学的洞察」などでは全くない。[完]
日本人の生活については、私たちは結構清潔好きで、世界一の❝清潔ブロイラー国民❞に育ってきたと思い込んでいるかもしれませんが細菌学、食生活学的に見て本当にそうでしょうか。日本人が結構❝ワクチン好き人❞であることは、細菌学的に見れば、不潔さを日常的に甘受している、享受していることを意味しないでしょうか。それと、わたしが頭の隅に1%くらい置いている可能性は、❝ひょっとしたら、私たちがまだ知らない第三の免疫機構が、例えば腸管細胞あたりにないのかな❞という可能性です。されば、食生活なども知らないところで免疫力に大きな貢献をしているかもしれないなと???
そんな、幅広い思考をしていないと、コロナ耐性の理解はむつかしいような気がします。宮坂昌之先生にきくのが一番よろしいでしょう。
また、いつかまとめてみたいのですが、社会疫学には学問の蓄積がほとんどありません。わたしが、手の届くところに置いている、英語国の大学院レベルのテキストと称されるRothmanの❝Modern Epidemiology❞を見ても、空理空論的な理論的解説ばかりで実証分析が全くありません。AIや計算機を使った理論分析をどれだけやっても実証分析の蓄積がないことには社会的な実用は難しい、というより❝感染爆発❞というような社会的煽り害悪をもたらすことが多いでしょう。わたしが、この篠田ブログの書き込みを利用させてもらって自説を主張しているのは、その害悪を一番わかっているかもしれないという自己責任からです。
切羽詰まった、思いつきですが、
① 自然免疫は生まれてから成熟期までが一番強く、老化とともに低下する。
② 自然免疫は食物性雑菌によって日常的に免疫訓練されている。
③ コロナ類縁菌が分布している地域の住人には自然免疫による新型コロナへの親和性(交差免疫)が高い。
どのように人間の体でウィルスが増え、免疫システムが病原菌を抑止できるか。コロナウィルスはカメレオンだ、というところに特色があるのである。その意味は、この感染症はイライラするほどいろんな症状をもち、無症状で推移することもあるからである。
4つのフェーズがあるが、この中で大事だと思う、フェーズ1と2を翻訳する。
雫がコロナウィルスのある種タクシーである。唾液あるいは粘液に覆われて咳、くしゃみ、会話で1000もの病原体が空中に放出され、物体、幸運であれば新しい宿主の顔にかかる。そして宿主の口、鼻、目の粘膜を伝わって、ウィルスは新しい体に侵入する。
ウィルスがそこで広がるためには人間の細胞を必要とする。その助けがなければ、ウィルスは増えない。ウィルスは細胞をつかまえ、ウィルス工場に組み替える。その際、鍵穴に対する鍵のようにウィルスの突起にぴったりの特別な受容体となる細胞の表面のぎざぎざが助けになる。一度ウィルスは細胞に錨を下すと、その細胞はウィルスを受け入れる。そして、病原体は例えばトランスミッターを細胞内に運ぶなど、細胞の機能を利用する。この段階を超えると、ウィルスは細胞の働きを新しいウィルスの製造に利用する。病原菌は、その為に、その細胞の中で手ほどきをする。一つの細胞が無数の小さなウィルスのコピーを製造すると、しばしばその細胞は飽和状態になる。コロナウィルスは自由につかまえることのできる新しい細胞を探す。しかし、しばらくすると免疫システムが、ウィルスの行動を感知し、次の段階に進む。
多くの病原体が新しい宿主細胞を探すと、免疫システムが警戒音を鳴らす。防御反応を元に、感染者はなにかがおかしい、と気づく。体温は上がり、体は咳を通じてウィールスを放出しようとする。Covid19に感染してから発症するまで、大体5-6日かかる。ドイツの67000人の感染者のうち、コッホ研究所がまとめた症状は、
咳 52%、熱42%、くしゃみ22%、
ドイツの感染者のほぼ半数は咳をせず、熱のある感染者は半数以下であった。その他の症状としては、下痢、呼吸困難、吐き気、のどや頭や節々の痛み、臭覚や味覚の異常があった。
つまり、コロナウィルスが人の体内で爆発的に増えている間、その人の免疫細胞は、ウィルスの侵入を気づかないから、ほぼ半数は咳をせず、熱のある感染者は半数以下なのである。それと共に、飽和状態になった細胞から、無数のウィルスが新たな細胞、つまり、その人の体内から唾液や粘液に覆われて、空中に放出され、新しい宿主によって、取り入れられると、その宿主は、感染するのである。だから、無症状の人からも感染するのであって、それは、その人の免疫システムが、感染に気付いていないので、防御反応、咳や発熱をしない結果なのである。また、ほとんどの人が、軽傷ですむのは、4月11日のコメント6、7で書いたように、免疫システムが病原体を止めるからで、免疫システムが病原体をとめられず、ウィルスが肺の奥深く入り、体が酸素と二酸化酸素を血液と呼吸で交換できず、免疫システムが病原体を攻撃し始めると肺炎となり、重篤化するのであるhttp://shinodahideaki.blog.jp/archives/34893461.html#comments
私は、医学の素人である。どうして、日本のテレビに出演される感染症の専門家は、Covid19の病理、伝播の仕組みを、ドイツの雑誌が素人の読者に解説しているように、メデイアを通じて報道しないのか理解できない。日本では、メデイア関係者も専門家と自称する人々も、反氏が私を馬鹿にするように、教育程度の高い日本国民を、浅はかな虚栄心で「大衆」と馬鹿にしている、としか、受け取れないのである。
ロジスチック増殖
「幾何級数的な個体数の増加が見られることはほとんどない。無限な環境の広がり、無限な環境許容量というものが、実際には見られないことによっている。ただ、①ある環境の下で個体数が増殖を始めた最初にあたってのみ、近似的にこのような増殖が認められるのは普通のことである。②幾何級数的な増殖はやがて増殖率の減少傾向を示し、いわゆる転移点を境としてゆるやかな増殖期に入る。③最後に個体数はほとんど増減を示さないいわゆる安定状態(steady state)に到達する。
この三つのフェイス(フェイズ?)を示すのが、一般の個体数の増殖の経過であって、これをもっともよく記述しているのがロジスティック曲線である。」
わたしの恩師内田俊郎の「動物個体群生態学(p.38)」からの引用です。
生物が未知の領域に侵入して増殖、拡散、増加、安定、減退する経過はいかなる物理的障害を施しても環境許容量が示す上限までロジスティック増殖するものなのです。
ロックダウンにしろ、尾身・押谷路線にしろ、日本に侵入してきたコロナは日本人との親和性が保てるようになるまで変動していくのでしょう。そして、もうそろそろ社会免疫状態になっているようですので、❝コロナ恐怖煽り屋❞がまた騒ぎ始めた❝第3波❞はほとんど波を呈することなく、引いていくことになるのでしょう。
だから、「日本モデル」もクソも初めっからないのです。
そのような❝狂信❞を訴えつづけているのは、カロ婆さんや篠田英朗の❝妄想❞にすぎません。
早く、❝コロナ狂❞から目を覚ましたらどうですか。
今日は、秋晴れのいい天気ですよ。
おにぎり🍙持って、大濠公園あたりに散歩に行くとしましょうか。
なお、下記は、新型コロナウイルス感染症に関する感染症法の運用の見直しの議論のために9月25日に開催された厚労省の審議会である厚生科学審議会感染症部会の資料1です。感染症法を所管する厚労省は来月中に政令改正を目指しているようですが、一部で議論されていた季節性インフルエンザ並みの5類相当にするという結論にはならない見込みです。現在も行われている入院措置についての柔軟な運用について政令上も明確にするものです。
(https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000675463.pdfからの引用)
「感染症法に基づく新型コロナウイルス感染症の入院措置の対象について、季節性インフルエンザの流行期も見据え、 重症化リスクのある者や重症者等に重点をシフトしていく観点から、患者等を一律に捉えて適用するのではなく、入院が必要な者を明確化してはどうか。
具体的には、感染症法に基づく入院措置の対象について、高齢者や基礎疾患を有する等の重症化リスクのある者や現に重症である者等の医学的に入院治療が必要な者とするなど、規定の見直しをしてはどうか。
併せて、感染症のまん延を防止するため都道府県知事等が入院を必要と認める者について、合理的かつ柔軟に入院措置ができるよう、規定を整備してはどうか。
※ 無症状や軽症で入院の必要がないと判断された者も、引き続き、まん延防止のため、宿泊療養(適切な者は自宅療養)を求めることとする。 」
https://www.mhlw.go.jp/content/000618525.pdf
今後、感染症部会の議論を踏まえて政令の文言に具体的に落とし込むことになりますが、内閣が制定する政令は、所管省庁限りの府省令とは異なり、内閣法制局の法令審査を経て閣議決定をする必要があるため、法制執務上の観点からは、どのような文言になるのか興味深いところです。
Spiegel誌の報道によると、
この年始から、世界規模でみると、100万人がCovid19関連で亡くなっているのである。https://www.spiegel.de/gesundheit/diagnose/corona-opfer-fuenf-von-einer-million-a-c1e9eb72-8983-496e-a89b-bae31f596e41
だから、Covid19パンデミー問題は、国際社会の大問題になっているのである。この数字は、インフルエンザと違い、Covid19の感染者、死亡者には、幾何級数的な個体数の増加が見られていることの、何よりの証拠なのではないのだろうか。
43⇒【日本人は成績がいい結果「平和ボケ」ならぬ、「安全神話ボケ」になっているのではないか…と危惧】――「平和呆け」(ἠλίηθιος δι’ εἰφήνην)はまあよい。政府はともかく、国民の大多数が安全保障への世界標準的な真っ当な感覚を喪失した状態で、如何に同盟国米国の「乳母日傘」とはいえ、戦後一貫して平和を享受しているのは、必ずしも本当に惚けているわけでもないことが分かる。
平和(εἰφήνη)が大切、戦争(πόλεμος)は最悪(κάκιστος)で二度と御免だと称しても、ちゃっかり世界で最強の(κράτιστος)米軍を利用し、大したトラブルなしに(ἀπραγμόνως)、戦後を「欺瞞と偽善」(ἀπάτη καὶ ὑπόκρισις)で乗り切ってきた。
政府はむろん意図的だし、国民もそれに疾うから気づいている。老婆のようなお子様の政治論など、市井の民が歯牙にもかけない所以だ。彼らは大衆には違いないが、自らの分を冒さない点で老婆ほど愚かではない。
何を危惧するのか知れたものではないが、現在の日本に、東日本大震災以前の原発の「安全神話」(ἠλίηθιος δι’ ἀσφαλὴς μῦθον)が潰え去ったように、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関して、新たな「安全神話」など存在しない。
原因はよく分からないが、何となく、運良くというのか、難を逃れていることに国民は安堵しつつも、今後に不安な思いを抱えてビクついて(ὑπερφοβεῖσθαι)生きているのが実態だろう。
政府やメディアに騙され、「正しく恐れる」(ὀρθῶς ὀρρωδεῖν)分別を欠いているわけではない。
安倍前首相が辞意表明をした後のメディア各社の世論調査で、長期政権に対する支持率が大幅に上昇し、例えば「朝日」だと「大いに評価する」(17%)と「ある程度評価する」(54%)で合わせて71%に達したが、新型コロナ対策への評価は、「指導力を発揮してきた」(41%)を「発揮してこなかった」(49%)が上回ったこともそれを裏づける。路線継承でも「引き継ぐ方がよい」(45%)が「引き継がない方がよい」(42%)を辛うじて上回った程度だ。
現在の結果が日本モデル的な対策で首尾よくここまできた要因を検証する(ἐλέγχειν)、説得力に富む立論は、未だにない。篠田さんは事態の推移という表面をなぞっただけの素人論議に終始するが、どれほど熱心でも自らが熟知しておらず、特別な知識の集積もない科学的な議論にはほとんど踏み込んでいない点で、老婆ほど無防備でないことを窺わせる。
日下部眞一氏にしたところで、ウイルス学についての「無知」を以前、率直に告白している。それでも生物学者だから、「無知の自覚」が老婆とは次元を異にしていることは明白だ。
私は古典学徒で西洋古代哲学の研究者だから、コロナ問題に深入りせず、苛立つこともない。よく言えば「観想的生活」(θεωρηκικὸς βίος)、有体に言えば高見の見物(θεωρία ὐπέρφρων)に徹している。
相手を見極めず無闇に突進するのは愚かな(μῶρος)証拠だ。ものを徹底的に考え抜くということは、それほど気楽な作業ではない。
しかも、人は同じ目線でものごとに角突き合わせていると、肝腎のことが見えてこない。世間や常識の風圧に萎縮する(ὀκνεῖν)ことなく、頭一歩抜け出した視点に立つ覚悟と矜持が必要だ。
良い意味で、「上から目線」(ὐπερφρονεῖν)でいいのだ。
ところで、本日29日は必要あって昨夜から引き続いて一日中カントの『純粋理性批判』(„Kritik der reinen Vernunft“)を読んでいる。ただそう見える(φαίνεται)だけで「実はそうではない」(εἶναι δὲ μή)かもしれない仮象(φαίνεσθαι=Schein)と、実態の一面を表している現象(πρόσχημα=Erscheinung)に関して、カントは次のように説く。
「私たちは先に弁証論一般を仮象の論理学と名づけておいた。これは、弁証論は真らしさの教説であるということを意味しはしない。なぜなら、真らしさも真理ではあるが、不充分な諸証拠によって認識されたものであって、それゆえその認識はなるほど欠陥はあるものの、それだからとて欺瞞的ではなく、したがって論理学の分析的部門から分離されてはならないからである。ましてや現象と仮象とは同一視されてはならない。なぜなら、真理とか仮象とかは、直観される限りにおいての対象において存在するのではなく、思考される限りにおいての対象に関する判断において存在するからである。
それゆえ、人が、感官は誤ることがないと言うのはなるほど正しいが、しかしそれは、感官はいつでも正しく判断するという理由からではなく、感官は全然判断しないという理由からである。だから、真理も誤謬も、したがってまた誤謬へと誘惑するものとしての仮象も、判断においてのみ、言い換えれば、対象と私たちの悟性との関係においてのみ見出されうるものである。悟性法則とあまねく合致する認識においては、いかなる誤謬もない。」(第二部「超越論的弁証論」、序論「I 超越論的仮象について」=原佑訳〔平凡社ライブラリー版〕中巻、19~20頁。一部表記を変えた)
その後の『判断力批判』(„Kritik der Urteilskraft“)と異なり、ゲーテは必ずしもよい読者ではなかったが、大山定一が文学全集の解説文で、文豪をして「カントの文章をよめば、ランプにあかるく照らされた部屋へはいった時のように、頭のなかが鮮明になるとゲーテは言っている」(筑摩世界文学大系『ゲーテ I』、472頁)とした精緻な分析は、老婆のクズに等しい駄文への解毒剤くらいにはなりそうだ。
老年になって時を過ごすこと(διαγωγή)の意味を見失った狂信的な議論は、日下部氏ならずとも、匙を投げたくなる道理だ。[完]
☆余白に 日下部氏の再登場と直接関係ないが、以前本欄で紹介したヴァレリーの『海邊の墓地』を含む詩集『魅惑』(“Charmes, ou Poèmes”, 1922)のNouvelle Revue Française限定初版本(ラフュマ紙[Lafuma-Navarre]刷りNo. 154)を一昨日入手した。妙な御縁だ。
老年の愚鈍と狂気を39歳で夭折した天才は見抜いている。
「若すぎると正しい判断ができない。年をとりすぎても同様である。考えが足りない場合にも頑固になり、夢中になる。」(前田陽一訳、『世界の名著』第24巻、214頁=‘Si on est trop jeune, on ne juge pas bien; trop vieil, de même. Si on n’y songe pas assez, si on y songe trop, on s’entête, et on s’en coiffe.’; Frag. 381., Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 13, p. 290)
「自己愛。……人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。彼が当面するこの困惑は、想像しうる限り最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみをいだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。」(110頁=‘Amour-propre. —……il veut être l’objet de l’amour et de l’estime des hommes, et il voit que ses défauts ne méritent que leur aversion et leur mépris, Cet embarras où il se trouve produit en lui la plus injuste et la plus criminelle passion qu’il soit possible de s’imaginer; car il conçoit une haine mortelle contre cette vérité qui le reprend, et qui le convainc de ses défauts. Il désirerait de l’anéantir, et, ne pouvant la détruire enelle-même, il la détruit, autant qu’il peut, dans sa connaissance et dans celle des autres; c’est-à-dire qu’il met tout son soin à couvrir ses défauts et aux autres et à soi-même, et qu’il ne peut souffrir qu’on les lui fasse voir, ni qu’on les voie.’; Frag. 100, ibid., Tom. 13., p. 25~27)
反氏にしろ、日下部教授にしろ、「私は専門家だ。」、「お前は無学だ。」という主張の元、私の主張を否定される。これは、日本国憲法9条の解釈においての東大系憲法学者の篠田英朗教授の扱いと同質のものであるが、私自身が、日本国の「憲法普及会会長」の「芦田均」さんの新憲法解釈を読んで、東大系憲法学者の主張は間違っていて、篠田英朗教授の主張が正しい、と確信したのと同じで、篠田教授のブログの指示通り、日本国のCovid19の諮問機関、「分科会」の司令塔、「尾身・押谷」コンビの主張を読み、私の愛読するドイツの知的な国民に信頼されている週刊誌「Spiegel誌」を信頼した結果、日本のテレビなどに露出度の多い自称「専門家」の主張は間違っている、という確信に至ったのである。
とにかく、国際的なCovid19関連の資料を見ると、とても日下部教授のような楽観論に立てない。ニューヨークの親友は、アメリカでは、教育のない人が科学を信頼せず、トランプ大統領の発言を盲目的に信頼して、マスクを着用しないから感染者が増える、と嘆いていたが、日本は教育程度が高いのにもかかわらず、どうして、マスコミに出演される「専門家の肩書」のある人を信頼し、法律の難解な文書をもちだしたり、PCR検査を妄信し、具体的に自分の頭で事実をもう一度筋道立てて考えないのか、「日本モデル」を評価しないのか計り知れない。法律の中身は、国会によって変更できるのである。
確か7月初めの段階で夏のコロナ感染が増えてきて、くらべて死者がほとんどなかった時、その原因として①死ぬべき人が淘汰された、②ウイルスが弱毒化した、③ウイルスとの親和性が増した、と三つの可能性を指摘したことを記憶しているが、弱毒性と結論付けた記憶はない。三つのどれかと問われれば③と答えたい。しかし、その検証は難しいし、わたしは、その検証に立ち会えない。
以上。
わたしは、あまり、本質的でないことで、からまれるのが嫌いなたちで。
「日本モデル」などと❝妄想❞するのは勝手だが、公にだして論じるまでもないだろう。非生産的なことは嫌いだ。
だから、尾身、押谷の努力には頭が下がるし、よくがんばってきたと敬意を表するが、それと、その時点その時点での科学者としての❝間違い❞は指摘されてしかるべきだ。
それによって、責任追及するつもりはないが、科学者として取るべき❝思考❞、❝方策・決断❞は評価されてしかるべきである。
❝妄信❞どころか❝狂信❞ともなると害をなすことはあっても、無益ではすまされない。
以上。
これらは、感染症法の委任(6条8項、7条1項、66条)を受けて制定された「新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令」の3条で、新型コロナウイルス感染症について、感染症法8条1項の疑似症患者に関する「みなし適用」の規定を準用することに由来するもので、緊急事態宣言及びそれに伴う「まん延の防止に関する措置」(外出自粛要請等)等を定めた新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下「特措法」と略称します)とは全く無関係です。なお、カロリーネ氏は明らかに現行法の議論をしているのであり、法律は改正が可能であるという趣旨のコメント53は単なる一般論としては正しくとも、カロリーネ氏の現行法に関する誤ったコメントを正当化することは出来ません。特措法に言及して議論をするのであれば、特措法の根拠条文をよく確認して下さい。
(感染症法)
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=410AC0000000114#920
(上記政令)
https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=78ab7336&dataType=0&pageNo=1
この人は渋谷健司のロス版といえば理解してもらえよう。❝ロスのオオカミおばさんだ❞
「米研究所がコロナの最新予測を発表 12月までに米で31万人超が死亡」とか。
アメリカの累積死亡者数の推移を検討すると30万人位で落ち着いて最終的には40万人死亡累計になりそうである。そんなに的外れではなさそうだ。
しかし、このワシントン大学の日本の予測が❝日本の死者数は6万人超に?❞だそうだ。
バカバカしいことはハナからわかっているのだが、どうしてこんな予測をすることができるのだろうと、そのシミュレーションなり理論予測のいかがわしさと、その予測を疑うことを知らないワシントン大学研究者の頭を疑うというより、不思議に思う。
なぜこういった予測ができたにしても、何の斟酌もなしに公表できるという無神経さがわからない。西浦博の❝45万人死亡説❞と同じようなものだ。
科学以前の問題のように思われてくる❢❢❢
AIとかシミュレーションやっておればどんな結果でも出てくるであろうが、どうやって未来、将来の前に検証できるのだろうか?
全く独立な方法論や理論モデルによる予測をたてて、最尤推定するとか、考えるべきであろう。
51⇒【本筋と関係のないところでの私の表現の不正確さを問題にして、私の主張を否定するのではなく、大筋に注目して判断してほしい】というのは、甘えである。その程度の認識しかないから、漫然と間違いを犯し、要領の得ない偏執狂の老婆の他愛ないおしゃべり(ὁ γραός ὕθλος)、つまり果てしない「無駄話」(ἀδολεσχία)に終始する。
51②⇒【「日本モデル」は特措法、によって、PCR検査結果にこだわらず、クラスター探査と症状から医師の判断で、感染者と濃厚接触し、Covid19に感染したと疑われる人が強制入院、少なくとも隔離生活を強いられたことが「マスク着用」と「三密の回避」と並んで、日本でのCovid19の蔓延を防いだ一つの理由】は、文章も酷いが、論理以前の問題で、政府解釈氏も指摘する通り、明白な誤りだ。
所謂特措法、「新型インフルエンザ等感染症特別措置法」(平成24年法律第31号)の条文のどこにも、上記で老婆の主張する規定などありはしない。
「『日本モデル』は特措法、によって」▼「PCR検査結果にこだわらず」▼「クラスター探査と症状から医師の判断で」は根拠を欠いた(οὐκ διὰ τι)空語であり、裏づけのない(μάταιος)莫迦話にすぎない。
「蔓延を防いだ」云々も、PCR検査が実態に追いついておらず論証は不可能、つまり主張できる根拠がない。そして、蔓延=市中感染の問題と死者数の少なさに相関関係は想定されても、死者数の少なさだけで蔓延を科学的に否定できるものではない。
水面下で感染拡大、実態は蔓延に等しい事態になっていたとしても、致死率や死亡者数の少なさには別の要因が絡んでいると考えることは可能だからだ。
何より、⇒【Covid19に感染したと疑われる人が強制入院、少なくとも隔離生活を強いられた】は、法制上の規定はともかく、実態を反映していない。
特措法というより、大本の感染症法の規定に沿ってそのまま忠実に運用していたら、感染症指定病床はもとより、その他の施設もCOVID-19の陽性者や濃厚接触者であふれ返り、混乱を来していたはずだ。
つまり、老婆の議論は盛んに強調する現実(τὸ γιγνόμενον)を反映していない。論理的にも首尾一貫性がなく、空理空論(ἀδολεσχεῖν)にも値しない。少なくとも、現実に(ἔργῳ)はるかに乖離したような机上の空論(τὸ φάντασμς λόγῳ)だって、老婆の議論より緻密に組み立てられている。老婆は、愚鈍なだけだ。
そもそも、COVID-19は中国での感染拡大を受けて今年1月の政令によって、感染症法に基づく指定感染症(感染症法6条8項)及び検疫法に基づく「検疫感染症」に指定されたもので、以前に政府解釈氏が指摘した通りだ。
政府専門家会議、現対策分科会の方針を「日本モデル」を称するか否か以前に、日本モデルと指定自体とは基本的には分けて考えるべきで、日本モデルや特措法によって国内の蔓延を防いだという、大風呂敷の愚劣な議論を正当化するものではない。
それは、無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)、老婆の妄想(ἡ πλάνή)、ありもしない(κέρτομος)ことを強弁する錯覚(παραισθησις)にすぎない。
錯覚=パライステーシス(παραισθησις)というくらいだから、パラノイア気質(ὁ τρόπος παρανοίας)には親和性があるのだろう。ともに、語源のパラノエイン(παρανοεῖν)は錯覚する、誤認するに加え、気を狂わせる、正気を失う(οὐ φρονεῖν)状態だ。
自らの議論を篠田さんの憲法解釈になぞらえるなど狂気の沙汰で、篠田さんは老婆ほど憲法論で杜撰な議論をしておらず、類比の論理は成り立たない。見当違いもここまで来ると、もはや病気だ。
政府解釈氏の忠告に従って、特措法と同じくらいに感染症法を実際に読むことだ。第二類相当指定についても、感染症法によれば、「この法律において『感染症』とは、一類感染症、二類感染症、三類感染症、四類感染症、五類感染症、新型インフルエンザ等感染症、指定感染症及び新感染症をいう」(第6条)とある。ちなみに、インフルエンザ(鳥インフルエンザと新型インフルエンザ等感染症を除く)は五類感染症指定だ。
そもそもCOVID-19にも準用されている「新型インフルエンザ等感染症」とは、感染症法第6条3項の規定によれば、「急性灰白髄炎、結核、ジフテリア、重症急性呼吸症候群(病原体がコロナウイルス属SARSコロナウイルスであるものに限る)、鳥インフルエンザ(病原体がインフルエンザA属インフルエンザAウイルスであってその血清型がN5N1であるものに限る[以下略]」ということになっている。
2009年シーズンに世界的に大流行して今回改正された特措法の基になった新型インフルエンザH1N1亜型(A/H1N1)はその後、2011年から「新型」ではなく季節性インフルエンザ(H1N1/2009)として扱われているから、分けて考えなくてはならない。
そして、感染症法第44条の2以下「第7章 新型インフルエンザ等感染症」に、発生及び実施する措置等に関する情報の公表、都道府県知事が実務を所掌する防止するための協力規定、予防や蔓延防止のため2年以内の政令で国が行う建物に係る措置等の既定の適用、都道府県知事による経過報告について規定している。
そして、「指定感染症」とは、「すでに既に知られている感染性の疾病(一類感染症、二類感染症、三類感染症及び新型インフルエンザ等感染症を除く)であって、第3章から第7章までの規定の全部または一部を準用しなければ、当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあるとして政令で定めるもの」を指す(第5条8項)。
ちなみに「新感染症」とは、「人から人に伝染すると認められる疾病であって、既に知られている感染性の疾病とその病状又は治療の結果が明らかに異なるもので、当該疾病にかかった場合の病状の程度が重篤であり、かつ、当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるもの」を指す(第5条9項)。擬似症状者に加え、非顕性感染者についても「無症状病原体保有者」として規定がある(第5条11項)。
議論というのは、そうしたことを押さえたうえで行うものだ。老婆にはそうした点に関する基本的な認識が全くと言っていいほど欠落している。無知な阿呆に限って、何ごとも饒舌に語る。その弊は老婆ほど著しい。
COVID-19について、特措法の改正の必要性をめぐる議論の中で、政府は改正前特措法の対象となる「新感染症」には該当しないから特措法の適用は難しいとする解釈を表明しており、従って法改正しなければ適用できないという論理を展開していた。「対象となる感染症の種類が異なる」という理由だ。
一方で、政府専門家会議副座長の尾身茂氏は、3月中旬の参院内閣委員会でCOVID-19を「新しい感染症」だとする意見を述べ、明らかな食い違いを見せていた。
最終的に、特措法の対象とする「新型インフルエンザ等」とは、感染症法第6条7項に規定する「新型インフルエンザ等感染症」や、同9項に規定する「新感染症」のうち、「全国的かつ急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれのあるもの」を指すことになり、同7項1の「新型インフルエンザ」だけではなく、同程度の脅威のある新たな感染症が発生した場合にも対応できる(特措法第2条1項)ことになった。
老婆の議論は、そうした経過を含めて、何ら実態を反映していない。
54⇒【「無知の知」は、神以外は「全知全能」ではない、という確信、人間としての謙虚さに基づく言葉】の程度の処生訓的な凡庸な認識なら、ソクラテスを特別扱いする理由はない。
「人間のうちでも一番賢い者でも、神に比べれば猿のようなもの。知においても美においても、その他何ごとであれ。」(ἀνθρώπων ὁ σοφώτατος πρὸς θεὸν πίθηκος φανεῖται καὶ σοφίαι καὶ κάλλει καὶ τοῖς ἄλλοις πᾶσιν.; Frag. 83, Diels-Kranz, Bd. I, S. 169)というヘラクレイトスの断片が残るし、別にその程度の認識はギリシアに限らない。凡庸を絵に描いたような老婆の理解には相応しかろうが。
「無知の知」ならぬ老婆の「無恥の痴」(πάραπληξ δι’ ἀναισχυντίαν)とは、無知とか迷妄を意味するサンスクリットの「莫迦」の語源、癡(moha)に通じる。[完]
恥知らず もは(moha)や手遅れ 愛想尽き
内閣法制局も、厚労省の当該法解釈を是認したため、新型インフルエンザ等対策特別措置法(同法の所管省庁は厚労省ではなく内閣官房であり、安倍首相(当時)の指示によって、同法に関する事務を担当する国務大臣を、西村康稔経済再生担当大臣が担うことになり、これは菅内閣でも同様です。)の改正案が今年の通常国会会期中である3月10日に国会に提出され、野党の協力も経て迅速な審理の上で令和2年3月13日に可決成立しました(同日公布、翌14日施行)。
(改正法案の新旧対照表)
https://www.cas.go.jp/jp/houan/200310/siryou3.pdf
その結果、同法の附則1条の2において、新型コロナウイルス感染症を同法2条1号所定の「新型インフルエンザ等」とみなす所謂「みなし規定」が追加され、同法が適用されることが明確になりました(以下、長いので、第1項のみ転載いたします。)。これにより、閣議決定により既に設置されていた政府の新型コロナウイルス感染症対策本部が同法15条1項の「政府対策本部」と位置付けられ、また、「緊急事態宣言」やそれに伴って実施される「まん延の防止に関する措置」が可能となったのです。
カロリーネ氏のコメントには、同法が適用される以前から、感染症法、検疫法、入管法等に基づき様々な対策が行われていたことが抜け落ちていますし、感染症に関する基本的な法的枠組みや制度を理解しないまま、「日本モデル」なるものを礼賛しても、単なる「信仰告白」に過ぎません。
「日本モデル」なるものを肯定的に評価をしている篠田教授におかれても、公衆衛生上の問題に言及するだけではなく、新型コロナウイルス感染症に伴って生じている諸問題について、専門分野である「平和構築」や「国際政治学」の観点からも論じて欲しいと一読者としては期待しております。
(参考条文)
「(新型コロナウイルス感染症に関する特例)
新型インフルエンザ等対策特別措置法1条の2第1項
新型コロナウイルス感染症(病原体がベータコロナウイルス属のコロナウイルス(令和二年一月に、中華人民共和国から世界保健機関に対して、人に伝染する能力を有することが新たに報告されたものに限る。)であるものに限る。第三項において同じ。)については、新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律(令和二年法律第四号。同項において「改正法」という。)の施行の日から起算して二年を超えない範囲内において政令で定める日までの間は、第二条第一号に規定する新型インフルエンザ等とみなして、この法律及びこの法律に基づく命令(告示を含む。)の規定を適用する。」
子供の頃、ばい菌、と他人を虐めたことはなかったのだろうか?反氏たちが私を糾弾している手法は、まさにそれ、人格攻撃である。昨日トランプ大統領とバイデン氏のテレビ討論会があり、ののしりあい90分、と朝日新聞が報道しているがhttps://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%95%97%E5%8C%97%E8%80%85%E3%81%AF%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E6%B0%91-%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E8%A8%8E%E8%AB%96%E4%BC%9A-%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%8490%E5%88%86/ar-BB19zh41?ocid=msedgdhp、朝日新聞とは違って、トランプサイドに立たず、客観的にものごとを見る私は、バイデン氏はトランプ大統領の挑発に乗らず、本当に冷静に対応していると思った。
Covid問題にしろ、アメリカが現在ワーストなのは、中国の責任ではない。トランプ大統領が2月の時点で、専門家からCovid19は危険である、と進言を受けていたにもかかわらず、国民に対して「大したことがない。」、「マスクをつける必要がない。」、と主張し、不格好な「あべのマスク」を着け続けられた日本の安倍首相と対照的に、現在でもなおマスクをつけないトランプ大統領のせいである。理由は、「アメリカ国民」にパニックを起こさせないため、自分自身の見てくれが大事だから、マスクをつけないわけであるが、トランプ支持者はそれを信じ、それをまねる。「マスクを着用しない人」に罰金を科し、現在周辺諸国と比べて感染者の少ないイタリアと好対照であるし、両国を比較した時、中国政府ではなくて、トランプ大統領がアメリカのCovid19の感染を広げている、ことは明らかである。私が、日下部教授の楽観的な主張に危惧を覚えるのはそのためである。
バイデン氏は嘘つきではない。ところが、あたかもバイデン氏が嘘つきのように、トランプ氏は主張する。反氏たちが、私を「虚偽体質」をはじめとする、下品な言葉の数々で誹謗中傷する様とまるで変わらない。安倍首相に対する誹謗中傷も、尾身・押谷コンビへの誹謗中傷も、篠田英朗教授への誹謗中傷も根は同じである。
感染症の専門家である神戸大学の岩田健太郎教授は著書、「新型コロナウィルスの真実」、の中で、PCR検査ではCovid19に感染したかどうかを、証明できない、また、ウィルスというのは自然発生しないので、すべての感染症には「感染経路」があり、その「感染経路」を突き止めることが、感染症対策では非常に重要である。一番簡単なのは、患者さんを見つけて隔離すること、(p51-56)と主張されている。そのことを踏まえ、「日本モデル」を参考にして「、ドイツ政府の司令塔」ドロステン医師は、感染者の濃厚接触者の5日程度の隔離の後のPCR検査の実施を主張されているのである。感染力の一番強い時期、PCR検査では偽陰性が出やすい、という事実をマスコミの感染症の専門家は、あえて無視している。
我々に必要なのは、専門家の「仮説」ではなくて「真実」、世論に惑わされない現実の「正しい認識」なのである。
ここ6週間、締切に追われて忙しく、沈黙しています。悪しからず。
今日の日経新聞「春秋コラム」に次のような〆の言葉がある。
❝コロナ禍の渦中にいる私たちの場合、会食でも感染防止を考えないといけない。おのずと取り分けを選ぶことになろうが、・・・
酒杯を重ねすぎず、楽しみたい。❞ だって❢❢❢
日経新聞は、いつからこう押しつけがましい、教訓がましいコラムを書き始めるようになったのか、編集子の顔ぶれが変わったのであろうか?
8月14日の日経朝刊に『❝with コロナ特集❞ チャートで見る感染再拡大
「正しく恐れて」前へ』というのが出て、
何を今頃、時代遅れの時代錯誤な。 と思っていたのであるが、この頃からやけに「春秋コラム」内で❝コロナ禍❞、❝コロナ下❞が目障りになってきた。
数えてみたら9月の日経の❝春秋❞29編のうち❝14編❞に❝コロナ禍❞、❝コロナ下❞が書き込んであった。
日本経済新聞も❝コロナ狂❞になってしまったのかは読者の判断によるが29分の14というのは、多いというより作為的ではなかろうか。
国錯放送局(ママ)NHKが朝から晩まで❝今日のコロナ感染確認者数はxxxでした。❞と言ってるからといって、日本経済の展望を切り開くはずの経済新聞が❝コロナ狂❞に落ちいってしまえば日本も終わりである。
マスク・ファシズムもしばらくは続いて倒産続発、自殺者うなぎ上りとなるのであろう。
朝ドラ、❝エール❞を見ながら❝マスク・ファシズム❞と❝鬼畜米英❞が重なって見えてきた。
「インフルエンザ菌」に関するウィキペディアの記載は下記で引用のとおりであり、カロリーネ氏の「「インフルエンザ菌」は、昔、「インフルエンザをバイキン」と認識する使い方が許容されている」という要約は不正確です。
「歴史的な理由によりインフルエンザという名称が付けられてはいるが、インフルエンザの病原体ではない。1890年代のインフルエンザの大流行の際に、原因菌として分離されたためインフルエンザ菌という名称が付けられたが、その後否定されたため名称だけが残ることとなった(インフルエンザの真の病原体は、RNAウイルスのインフルエンザウイルスである)。」
また、カロリーネ氏は、感染症法に根拠がある積極的疫学調査や入院措置についての議論で新型インフルエンザ等対策特別措置法を持ち出しましたが、これは「法律の解釈」の誤りといった範疇の問題ではありません(例えば、新型コロナウイルス感染症が「新感染症」に該当するか否かという論点ならば法解釈の問題です。)。このような誤りをするのは、法解釈以前の基本的な法体系に関する理解が欠如しているからです。
一夜明ければ、概して(prāyaḥ)「忠告は愚者を怒らす結果となる」(upadeśo mūrkhānām prakopāya)ことを痛感する。容易に(duḥkhena)とはいかないまでも、事実と論理を長いことかけて(cireṇa)説くことで、自ら(ātmanā)議論の優劣(etābhyāṁ)は明らかになったはずだ。それは必ずしも「学識の故に」(pāṇḍityena)ではない。
政府解釈氏のように抑制的な議論に終始し、「彼はわずかなもので満足する」(svalpena tuṣtati)奇特な努力も、しかし(prajñayñ)、相手は常人ではないから通じない。
66⇒【いまだにしつこく「インフルエンザ菌」の翻訳や、法律の解釈、など形式的、表面的なことを論点に私は糾弾され…「インフルエンザ菌」…「インフルエンザをバイキン」と認識する使い方が許容されている、とウィキペデイアに…ウィルスにこだわることなく、日常語として「インフルエンザ菌」と表示した方が、読者の理解が早い】――ほとんど「狂人の戯言」(μανικός παίζειν)に等しい
そこに、「公共の福祉」(εὐτυχία κοινὸν)などに関心を装うかのように見せかけ、一向に何の分別(σύνεσις=vijiñāna)も自制心(σωφροσύνη)ももち合わせず、「人間として国家社会の一員としてもつべき徳」(ἡ ἁνθρωπίνη τε καὶ πολιτικὴ ἀρετή)の欠片もない、一人の憐むべき狂人(ὁ μαίνομαι)紛いの人物がいるだけでしかない。
だから、相変わらず夜明け前の闇の中で、意味もなく吠えている。
その言辞は、さながら夢遊病者(ὁ πλάνος ἄκαιροι)のようだ。主張自体が、精神が「彷徨するように取り留めがなく」(πλάνος φρενων)、「夢見る人」(ἐνυπνιαστής)のような寝言(εὐήθης λαλία)をほざいている。
政府解釈氏の指摘(72)通り、日本版Wikipediaの「インフルエンザ」「インフルエンザ菌」「インフルエンザウイルス」の各項目に、⇒【「インフルエンザをバイキン」と認識する使い方が許容されている】形跡はない。みな、老婆の苦し紛れの妄想(ἡ πλάνή)、作り話(μῦθος)であって、端的に虚言(ψευδής)だ。
インフルエンザ菌は日常語とは言い難く、ましてやインフルエンザウイルスを、そう【表示した方が、読者の理解が早い】というのは、老婆の妄想だろう。何より、インフルエンザ菌はインフルエンザの原因物質ではない。虚言癖のある、つまり「虚偽体質」の老婆はトランプ米大統領を批判できる立場にはない。
「独りよがりは狂気の沙汰」(‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 159)そのままの、「夢見る人」の狂気(τὸ μανιῶδης)について、ベルクソンの以下の議論は示唆的だ。『物質と記憶』(“Matière et mémoire, Essai sur la relation du corps à l’esprit”, 1896)から、熊野純彦氏の新訳(岩波文庫)で紹介する
「そのけっか夢とはつねに、注意が身体の感覚-運動的平衡によって固定されていないような、精神の一状態ということになる。だから、しだいにありそうなところであると思われてきているように、神経システムのこういった弛緩は、覚醒状態における正常な活動から生まれた分泌物が排出されないことによって、神経システムの要素が麻痺することに起因するものだろう。ところで夢は、すべての点で狂気を模倣している。」(引用続く)
知られているとおり、狂気は往々にして、伝染病に感染することに引きつづいて起こることがあり、そのうえ毒物によって実験的に、狂気によって現われる現象のいっさいをつくり出すこともできる。そうであるとすれば、たしからしく思われてくるのは、狂気における心的な均衡の破壊は、ただひたすらに、有機体のなかに樹立された感覚-運動的な関係が攪乱されるところに起因するということではないだろうか。」(342~43頁=‘De sorte que le rêve serait toujours l’état d’un esprit dont l’attention n’est pas fixée par l’équilibre sensori-moteur du corps. Et il paraît de plus en plus probable que cette détente du système nerveux est due à l’intoxication de ses éléments par les produits non élimi- nés de leur activité normale à l’état de veille. Or, le rêve imite de tout point l’aliénation. Non seulement tous les symptômes psychologiques de la folie se retrouvent dans le rêve, –– au point que la comparaison de ces deux états est devenue banale, –– mais l’aliénation paraît bien avoir également son origine dans un épuisement cérébral, lequel serait causé, comme la fatigue normale, par l’accumulation de certains poisons spécifiques dans les éléments du système nerveux. On sait que l’aliénation est souvent Consécutive aux maladies infectieuses, et que d’ailleurs on peut reproduire expérimentalement avec des toxiques tous les phénomènes de la folie. N’est-il pas vraisemblable, dès lors, que la rupture de l’équilibre mental dans l’aliénation tient tout simplement à une perturbation des relations sensori-motrices établies dans l’organisme ?’; Matière et mémoire, p. 194~95)
夢は、空間に対してベルクソンが「純粋持続」(la durée pure)と呼ぶ時間の比喩であり、普通の知覚の背後に広がる、われわれにとってほとんど隠された状態の過去の記憶の総体とも言える「純粋記憶」(la mémoire pure)の像=イマージュ(image)なのだが、老婆の夢想は狂気の趣がある。
「この攪乱があるだけで、一種の心理的な眩暈がつくり出され、かくて記憶と注意力が現実との接触を喪失するにいたるのである。いくらかの精神病者がじぶの発病にかんして与えている記述を読めばよい。かれらはしばしば違和感、あるいは、かれらの語るところでは『非現実』感を体験するしだいがみとめられよう。それはあたかも、知覚される事物がじぶんにとっては、その起伏も堅固さも失ってしまったかのようなのだ。」(343~44頁=‘Cette perturbation suffirait à créer une espèce de vertige psychique, et à faire ainsi que la mémoire et l’attention perdent contact avec la réalité. Qu’on lise les descriptions données par certains fous de leur maladie naissante : on verra qu’ils éprouvent souvent un sentiment d’étrangeté ou, comme ils disent, de « non-réalité », comme si les choses perçues perdaient pour eux de leur relief et de leur solidité.’; ibid., p. 195)
われわれはみな、夢を通じて狂気と接していると言えなくもないし、それが人間の精神活動を支える裾野であり、われわれの正常な覚醒状態にとっても「基体」(substratum)となるものであること自体も否定できないが、白昼(μεθ’ ἡμέραν)は論理と理性に従うほかはない。
ベルクソンは、「夢の生」(la vie du rêve)という表現で、次のように説く。
「みずからの生活を生きるかわりに夢見るような人間は、おそらくはそのようにしてありとあらゆる瞬間に、過ぎ去ったじぶんの物語に属する無限の細部のひとつひとつをその視界のうちに留めておくことだろう。たほうその反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず演じて、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕ものなのである。」(307~08頁=‘Un être humain qui rêverait son existence au lieu de la vivre tiendrait sans doute ainsi sous son regard, à tout moment, la multitude infinie des détails de son histoire passée. Et celui, au contraire, qui répudierait cette mémoire avec tout ce qu’elle engendre jouerait sans cesse son existence au lieu de se la représenter véritablement: automate conscient, il suivrait la pente des habitudes utiles qui prolongent l’excitation en réaction appropriée.’; ibid., p. 172)
白昼夢(τὸ ὕπαρ)のような戯けた議論は、葬るに如くはない。[完]
アメリカから伊藤隆敏が「日本でPCR検査を拡充するべき理由」(Forbes JAPAN 10月1日)を書いている。賞味期限が過ぎてしまった内容の論説だが批判しておこう。内容がほとんどナイような論説だからひょっとしたら国内の❝PCR拡充論者❞からのヤラセ記事かもしれない。
現在のニューヨークと東京の感染者数、死亡者数の比較をしておこう。10月1日のworldometer coronaと国内yahooのコロナデータによる。
残念ながら州のデータしかないが、差が大きすぎるので無視できる。
New York 陽性者数 493155 死亡者数 33246 PCR検査数 7万件
東京 陽性者数 25973 死亡者数 408 PCR検査数 5千件
PCR検査数は伊藤の9月9日の論説による。
現在、ニューヨークでは1000人ほどの感染者が出ているのに対して東京は200人ほどであり、死者数は、ともに一桁以下に少ない。
人口比を勘案して東京の死者数の55倍がニューヨークの死者数であるので当然PCR検査数も55倍あってしかるべきだろう。東京の5千兼を55倍すると27.5万件だ。ニューヨークの7分の一くらいしかPCR検査していないことになるではないか。
ニューヨークはコロナの春波が東京都の50~60大きくて、したがってPCR検査数もやむなく数万件行わざるを得なかっただけであろう。
夏波残存の今、ただそれだけの検査力で行ってはいるが、東京より毎日2~3倍の感染者が多いのはなぜなのか?
東京より毎日十数倍のPCR検査を行っても感染者は東京より2~3倍多いのである。これを、どう説明して日本国民を納得させようというのか。
「目糞鼻糞を笑う」どころか「目糞鼻糞、ノミの金玉を笑う」ほどであろう❢❢❢
東京の十数倍のPCR検査を行っているのに、東京の2~3倍の感染者をいまだに出しているニューヨークのコロナ対策をどう正当化するのか、その回答を聞きたいものである。
既に72で政府解釈さんが指摘されていますが、Wikipediaの【インフルエンザ】【インフルエンザウイルス】【インフルエンザ菌】のいずれをみても、貴女のおっしゃっているような記述はないようです。
ちなみに【インフルエンザウイルス】の項から引用しておきますが、「『インフルエンザをバイキン』と認識する使い方が許容されていた」のではなく、医学(ウイルス学)が未発達なゆえに、そのような表現があったということであり、インフルエンザウイルスの存在が確認されて以降、あえてこのウイルスを「インフルエンザ菌」と呼ぶことが許容されていたわけではないようです。
〔以下引用〕
1892年、北里柴三郎らがインフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる細菌を分離し、Haemophillus influenzae(インフルエンザ菌)と名付けたが、コッホの原則に基づいた証明には至らなかった。実際、歴史的経緯のため今も名前が残っているが、インフルエンザ菌は、疾病「インフルエンザ」の原因ではなかった。
これが、PCR検査、抗原検査の現実の姿、実態なのである。
コメント78で計算上の間違いがあったが、要するに、ニューヨークは東京の、人口勘案して55倍コロナ死者数が多いのだから東京の55倍、27.5万件のPCR 検査をすべきなのにたった7万件ではないか。ニューヨークこそ少なすぎではないか。 というような、小学生の算数問題であった。
PCR検査問題は、テレビの羽鳥ショーやヒルオビの、福岡では朝日、毎日系のテレビからすっかり消えてしまった。
❝あれは、何だったんだろう❓❓❓❞と日本を沈没させる本当に❝バカメディア❞だったが、❝PCR検査問題❞はこれでかたづいたわけではない。
特に、来年、オリンピックを控えているので国内の健康安全問題というより観光・スポーツなどの❝外交問題❞なのである。
外国の人が日本を訪問するにあたって、日本国内の❝コロナ感染状況❞が一目でわかるような情報を外務省のHPで簡単に確認できるような体制整備をすることが大切なのである。
そのためには、何度も主張してきたように、東京、大阪、京都周辺での定期的なランダム標本コロナPCR定期調査を行って、市中感染率の推定を行うことである。三つの地域で各々1,000件のランダム調査をすれば十分であろう。
1週間に一度くらい定期的に行って、外務省のHP上で公開しておれば、IOCも安心するであろう。❝安心❞が一番大切である。観光地のコロナ過剰対策よりもこういう広報が大切である。
厚労省の、毎日の陽性率のメディア発表は早く辞めて、菅総理大臣が早く❝コロナ安全宣言❞を国会の所信表明演説で公表すればよい。
日本国中、平均して陽性率が3%弱であることは結果が出ている。
数百万か、1千万かはわからないがすでに社会免疫に達するほどに市中蔓延しているのだから、❝コロナ安全宣言❞を出しても良いころ合いである。
これ以上、コロナ感染症ムラ分科会に引きずりまわされていたら、それこそ日本沈没である。
「日本モデル」を構築された尾身ー押谷ペアーがいかに賢明であったか、、私たち日本人が安倍首相の政治指導の元、「優れた専門家会議」をもっていかに幸せだったのか、を本来は、日本のマスコミ関係者が日本国民に報道すべきなのに、その事実が、いつまでたっても日本のマスコミ関係者には理解できない。その愚かで無責任な「マスコミ」の作り上げる世論の圧力に負けて、「日本モデル」を壊すような発言をされる「日本政府」の田村厚労大臣の発言に、私は不安をぬぐい切れない。
菅政権は、ほんとうに、安倍政権の継承なのだろうか?朝日新聞社の10月1日付の[アジアで感染少ない理由 たんぱく質タイプの差が一因か],という報道も、仮設の域を出ないし、インドはアジアの国ではないのか、ということを朝日新聞関係者にもう一度問いたい。
❝感染症ムラ❞を率いる尾身・押谷さんたちには早く撤退してもらわねば日本がさらに不幸になるであろう。
❝狂信カロ婆さんも❢❢❢❞
無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)の思い込み(οἴησις)、誤認に基づく明らかな誤訳なのは繰り返すまでもない。
それをこの期に及んでもなお、81⇒【der Spiegel誌には、Bakterienという言葉が使ってあって…のBaktrienが重複感染すると、Covid19が重篤化する、と書いてある。Bakterienを日本語に訳すと、バクテリア、細菌、菌…ウィルスという訳はない】なる意味不明な寝言をほざいている。
午前4時という夜明け前の闇の中だから、大方寝惚けているか、不眠症で寝つかれず錯乱しているのだろう。
釈明が人柄と憐むべき知性を反映して愚劣極まりない。これでは、弱論強弁(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)の域(χώρρ)にも達せず、愚鈍の証拠だ。
インフルエンザが、「細菌ではない」influenzavirusによる【ウイルス感染感染する、ということは、わかっている】人間は、偏執狂の老婆のような論拠による議論は展開しないものだ。
翻訳する(μετάφερειν)のではなく「創訳」、まさにDer Spiegelの当該記事を基にしたでっち上げ(ἡ σκευωρία)、大幅に変更する(μετασχηματίζειν)改竄(τὸ ψευδές)に等しい創作(ποίησις)だ。
[Bakterien]云々の箇所の原文は、普通に読めば、「新型コロナウイルスによって広範囲の肺組織(Lungengewebe)に炎症を引き起こし、多くの軽症の細菌(Bakterien)もまた繁殖する(sich … ansiedeln)」(„Ist das Lungengewebe bereits durch das Coronavirus entzündet, können sich viel leichter zusätzlich auch Bakterien ansiedeln.“)という趣旨であって、普通考えるなら「細菌」というのも肺炎球菌のような「病原菌」だろう。
阿呆だから、悪あがきして一層墓穴を掘っていることに気づかない。
>この西浦博教授の発見が、三密の回避、クラスター探査の必要性、マスク着用の理由となっているからである
クラスター探査の意義はともかく、三密の回避とマスク着用は西浦教授の見解がなくとも接触感染や飛沫感染さらには空気感染が疑われる疾病については一般的なことです。
日本の専門家会議のよかった点は、いち早くエアロゾル感染への対策として密閉の排除を打ち出していたことだと思います。
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