新型コロナ危機が発生し、世界各国に瞬く間に広がっていってから、半年以上の時間が過ぎた。半年間の間で、各国・各地域で様々な動きがあるが、かなり大きなグループ分けをすることができるようになってきたと思える。
第1グループは、「封じ込め」タイプで、初期対応が迅速で、ほぼ封じ込めに成功した国々である。中国、台湾、ベトナム、ニュージーランドなどが成功例として頻繁に参照されてきた。これらの諸国は、基本的には、極めて迅速に国境を閉じてウイルスの流入を遮断することによって、封じ込めに持ち込んだ。その背景には、迅速な政策的判断とそれを指示する国民意識の基盤があったわけだが、それができた理由は、SARSなどの過去の感染症の経験の記憶であった。旧専門家会議・現分科会のキーパーソンである押谷仁・東北大学教授は、これらの東アジアからオセアニアにかけての成功事例の諸国の多くが、「SARSの感染を体験した」という特徴を持っていることを指摘している(押谷他『ウイルスVS人類』65-66頁)。感染症の流行を警戒する一般国民の自然な感情が、初期段階における迅速な対応を可能にしていた。
第2グループは、「危機」継続中のタイプで、甚大な被害を出している国々である。初期段階では欧州・北米諸国が典型例だったが、その後に南米諸国がこのグループの典型例となっている。初期段階の失敗は、封じ込めの失敗だったと言ってよいだろう。感染症対応の準備が不足したまま、封じ込め政策をとろうとしたために、かえって医療崩壊などの現象を起こして被害を広げてしまった。後に、そもそも対応策をとることに意欲的ではなかったか、不備のある対応しかとれなかった国々が現れた。
時系列で「封じ込め」第1グループと「危機」第2グループの諸国の動きを見ていくと、いくつかの目立った変化を見ることもできる。ネパールやミャンマーは、初期段階では、「封じ込め」政策が奏功した第1グループの国々であるように見えた。ところが最近になって感染者と死者の拡大を経験することになり、今やほとんど第1グループから脱落し始めていると言わざるをえない状態だ。こうした国は局所的に存在しており、たとえばアフリカではガンビアなどが、オセアニアではパプアニューギニアなどが、このようなパターンの典型例を提供している。7月中旬までは「封じ込め」派に見えたが、その後、急激な感染拡大を経験しているのである。なおオーストラリア、韓国、シンガポールなどは、当初は第1グループの代表例であるかのように扱われながら、感染拡大・死者数増加の局面を経験しつつ、何とか乗り切ってきた、微妙な位置づけの諸国である。
もともと第1グループを成り立たせた一番の要因は、初期段階でのウイルスの流入の遮断であった。したがって、逆に言えば、第1グループの諸国においても、今後もいつでも感染が流行する潜在的危険があることは当然である。
第2グループの諸国も、最悪の時期を半年間にわたって継続的に経験しているわけではなく、時間的な変化を見せてきた。世界最大の陽性者数と死者数を持つアメリカ合衆国ですら、3月・4月の最悪の時期と比べれば、現在は改善を見せている。とはいえ、新規陽性者数は3月時の2倍程度の水準(一日あたり4万人強)、新規死者数は3月時の2分の1ほどの水準(一日あたり800人前後)が続いてしまっており、まだ高止まり状態だと言わざるを得ない。
ブラジルを代表とする多くの中南米諸国も、高い感染拡大の水準を続けている。一貫して右肩上がりの新規陽性者数と新規死者数の増加を経験し続けてしまっているか、あるいは少なくとも新規陽性者数や新規死者数の抑え込みができずに高い水準を続けてしまっている例としては、ロシア、インド、バングラデシュ、インドネシア、イラン、イラク、トルコなど、アジアから中東にかけての地域にも、多数ある。
これら二つのグループとは異なる特徴を持つ第3グループとして、「抑制」タイプがある。小規模な感染拡大を経験しながらも、抑制された新規感染者数と新規死者数の範囲にふみとどまっている日本は、このグループの代表例だろう。
押谷教授が、「もし日本がSARSを経験し、それを踏まえて感染症に対する準備を徹底していれば、もう少しきちんとこのウイルスに対処できていた可能性はあります」(『ウイルスVS人類』66頁)と述べたように、日本でも初期対応に混乱が見られた。だが旧専門家会議が招集された2月中旬以降は、重症者への対応を主眼にしつつ、大規模感染を防ぐ国民の行動変容で、事態の制御に努めてきている。
第3グループの「抑制」アプローチの特徴として指摘すべきは、死者数の抑制であろう。押谷教授は、新型コロナウイルスが高い感染力と低い致死力という特徴を持っていることを、初期段階から洞察していた。
――――――――――――
「病原性=症状の重さは肺のウイルス量で決まり、感染性=うつりやすさはのどのウイルス量で決まっている。感染性と病原性がまったくリンクしていないところが、このウイルス対策の難しいところなのです。・・・実は2003年にSARSが流行したときに、私たち研究者の間では、もしSARSウイルスがもっと感染性を増したらどうなるだろうか、という議論をしていたんです。そうなると、病原性は下がるだろうけれども、そのために、かえって広がりやすくなる。非常に制御しにくいウイルスになるだろうという議論になったのですが、今回の新型コロナウイルスは、まさにそういうウイルスが出現してしまったことになります。」(『ウイルスVS人類』42、44頁)
―――――――――――――
この洞察から成り立つ推論は、新型コロナの感染流行を止めることは著しく難しいが、医療崩壊を防ぎ、医療基盤の高さを活かし、高齢者保護を確保していくことで、死者を減らすことは可能である、ということだ。
さらに押谷教授らは、限られた数の感染者だけが感染拡大を引き起こす新型コロナの特性に対する洞察にもとづき、「三密の回避」で知られる大規模クラスター発生予防のための行動変容の方向性も示した。
―――――――――
「そもそも都市を封鎖したり、住民の外出を禁じたりするロックダウンは、基本的には感染の可能性のある者をすべて隔離するという、19世紀的な考え方なんですね。・・・そこでわれわれが考えているのは、すべての社会機能を止めるのではなく、その制限を最小限にしながら、ウイルスの拡散するスピードをいかに制御していくかという対策なんです。」(『ウイルスVS人類』99、100頁)
――――――――――
「日本モデル」という言葉は、私自身が、3月頃に意識的に使い始めたものだが、この押谷教授の洞察の上に成り立つ日本の新型コロナ対策の基本姿勢を言い表すための概念として導入したものである。
この「日本モデル」の成果に一定の手ごたえを感じることができているため、尾身茂・分科会会長は8月26日に次のように発言していたる。
――――――――――――
「このウイルスには弱さがある。当初、多くの人が恐ろしいウイルスだと印象を持ったと思いますけど、ここに来てこのウイルスはある程度、マネージできる、コントロールできると言うのがわかってきた。」http://japanmorningpost.info/archives/2394
――――――――――――――
私は、先日、「欧州諸国は新型コロナ対応「日本モデル」を踏襲するか~日本人はもう少し「日本モデル」を誇りに思うべきだ~」という題名の文章を書いたが、http://agora-web.jp/archives/2048273.html 「日本モデル」が代表する「抑制」第3グループに欧州諸国が加わってきたかもしれないことは、注目したい点である。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59793200Q0A530C2EAF000/
欧州では、日本の7月・8月頃と同じように、8月以降に新規陽性者数の目立った拡大が見られている。ところが死者の絶対数は抑制され続けている。感染拡大に直面しても、大規模ロックダウンの再導入はまだ行っていない。欧州では、意識的に封じ込めを目指すアプローチが放棄され、「抑制」路線に移行しているのである。「抑制」派の今後の世界的潮流を占うのは、EU諸国だと言える。
7月・8月に、私は「日本モデルVS西浦モデル2.0」という題名の文章をシリーズで書きながら、日本の状況を観察した。そして、最後は、ロックダウンをへることなく重症者の発生を抑制し続けながら感染拡大も止めた「日本モデル」の勝利を宣した。http://agora-web.jp/archives/2047913.html 現在の欧州が目指しているのも、同じ路線だと言えるだろう。
EU域内の優等生であるドイツは、死者数のみならず、新規陽性者数の抑制にも成功し続けている。フランスやオランダなどの他のEU主要国は、死者数の相対的抑制は維持しながらも、感染拡大はまだ歯止めを見いだせていない。その他の国々の一部は、さらにもう少し憂慮すべき状況にあるように見える。
日本自身がそうであるように、EU諸国は、「日本モデル」の方向性での新型コロナ対策を確立するために、苦闘している。だが、今のところ、完全に悲観しなければならないほどの事態にまでは至っていない。
日本人から見ると警戒意識や衛生観念に不足が見られるかもしれないが、欧州では、高齢者と基礎疾患保持者だけは特別に保護しなければならないという社会意識は浸透している。全国民が享受できる医療制度も整っている。医療崩壊を防ぐことが最重要課題だという政策意識も確立されているため、PCR検査も盲目的に実施するのではなく、「戦略的」に実施すべきだと理解されている。「三密の回避」という言葉こそ用いられていないものの、換気の重要性を含めて、その基本メッセージが広く受け止められている。一部で抵抗があるものの、マスク使用率も高い。日本との違いは、むしろ、屋外ではマスクをしない、レストランではなるべく屋外テラスで食事をする、といった「戦術」レベルの実践方法にあるようにも思われる。
「抑制」グループの困難は、国内世論対策にもある。「抑制」派は、新型コロナの致死力の低さに攻め入るアプローチをとる反面、感染力の強さは受け入れて、無理な封じ込めを目指さず、大規模感染の抑止に努める。残念ながら、この「日本モデル」型のアプローチは、不当にも抽象的で非現実的な「ゼロリスク」を求める扇動的なポピュリストたちからの誹謗中傷を浴びがちである。
だが突如として現れた感染力の高い新型コロナを撲滅できていないのは、日本政府の責任でも、私が「国民の英雄」と呼ぶ尾身会長や押谷教授の責任でもない。問われているのは、その都度その都度の現実的に対応可能な範囲で、最善に近い対応を遂行できているかどうか、である。「日本モデル」は、現実的に可能な範囲での良好な政策として、善戦している。
今後の日本の外交的な課題は、比較優位にある「日本モデル」を日本人自身が深化させながら、「封じ込めグループ」との交流を開拓しつつ、「抑制グループ」諸国相互の連携をとっていく道筋を作るかどうか、であろう。
いずれにせよ、はっきりしているのは、日本は、今さら「封じ込めグループ」とともに、非現実的で的外れな願望を持つべきではない、ということだ。ただし、同時に、日本は、「抑制グループ」の代表としての地位を固めるための努力は惜しむべきではない。
10月1日(GMT)の陽性者数・死者数・致死率
<カッコ内は6月15日の数値と比べた時の増加率>
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
1,121.93 (6.06倍) |
27.44 (5.56倍) |
2.45 (0.92倍) |
北アフリカ |
1,415.82 (4.76倍) |
47.01 (3.76倍) |
3.32 (0.79倍) |
|
東アフリカ |
457.96 (7.98倍) |
7.56 (7.95倍) |
1.65 (1倍) |
|
中部アフリカ |
348.63 (2.59倍) |
7.05 (2.31倍) |
2.02 (0.89倍) |
|
南部アフリカ |
10,345.29 (9.88倍) |
254.33 (11.54倍) |
2.46 (1.17倍) |
|
西アフリカ |
465.18 (3.46倍) |
8.22 (3.11倍) |
1.77 (0.90倍) |
|
米州 |
|
16,706.95 (4.35倍) |
554.91 (2.75倍) |
3.32 (0.63倍) |
北米 |
20,734.88 (3.37倍) |
601.35 (1.75倍) |
2.90 (0.52倍) |
|
カリビアン |
3,859.76 (4.92倍) |
71.47 (3.38倍) |
1.85 (0.68倍) |
|
中米 |
6,340.07 (5.89倍) |
487.64 (4.75倍) |
7.69 (0.80倍) |
|
南米 |
18,790.32 (5.70倍) |
588.72 (4.21倍) |
3.13 (0.73倍) |
|
アジア |
|
2,326.36 (6.53倍) |
42.45 (4.81倍) |
1.82 (0.73倍) |
中央アジア |
3,250.59 (8.08倍) |
43.61 (16.83倍) |
1.34 (2.06倍) |
|
東アジア |
120.34 (1.73倍) |
4.07 (1.14倍) |
3.39 (0.66倍) |
|
* |
(日本) |
661 (4.78倍)
|
12 (1.71倍) |
1.81 (0.35倍)
|
東南アジア |
1,038.67 (5.82倍) |
25.44 (4.84倍) |
2.45 (0.83倍) |
|
南アジア |
3,952.54 (9.61倍) |
72.18 (6.08倍) |
1.83 (0.63倍) |
|
西アジア |
6,712.17 (3.36倍) |
100.40 (3.58倍) |
1.50 (1.06倍) |
|
ヨーロッパ |
|
6,466.24 (2.28倍) |
283.76 (1.21倍) |
4.39 (0.53倍) |
東欧 |
6,393.88 (2.65倍) |
125.18 (2.93倍) |
1.96 (1.10倍) |
|
北欧 |
4,558.78 (1.60倍) |
356.80 (1.03倍) |
7.83 (0.64倍) |
|
南欧 |
8,701.62 (2.22倍) |
484.40 (1.14倍) |
5.57 (0.51倍) |
|
西欧 |
6,241.60 (2.41倍) |
311.28 (1.07倍) |
4.99 (0.44倍) |
|
オセアニア |
|
767.93 (3.50倍) |
22.72 (7.49倍) |
2.96 (2.12倍) |
コメント
コメント一覧 (43)
第二グループの諸国、政治指導者がCovid19をただの風邪と見くびったり、その国の国民の経済、社会的格差が大きい、或いは、質の悪いPCR検査や抗原検査を大量にして感染を広げたアメリカ、ブラジル、ロシア、インドなどの国々だけではなくて、第一グループの「封じ込め」もCovid19対策としては、よくない、と考えるようになったからである。ニュージーランドが代表的であるが、国内に感染者が0であった時期は確かにあり、Covid19の優等生だと評される時期もあったが、また、感染者が出現し、現在は、また厳しいロックダウンを行っている。ニュージーランドは、元々の人口密度が低い国だし、酪農業が盛んで、自給自足の色合いの強い国で、日本と社会条件がまるで違う。日本で、ニュージーランドのような政策をとると、相互依存が強く、人口密度の高い日本の社会生活や経済生活が成り立たない。また、厳しいロックダウンをした欧州のスペインやフランスもマスクの着用を重視したドイツやイタリアと違って、感染者も死者も多い。
「封じ込め」、「危機継続中」、「抑制」各タイプの三分類は恣意的で、大まかな傾向としては誤りとは言えないまでも、定義(ὁρισμός)、論理的な概念規定が必ずしも明確ではなく、単なる記述的描写にとどまっている。
⇒【小規模な感染拡大を経験しながらも、抑制された新規感染者数と新規死者数の範囲にふみとどまっている】として、篠田さんが比較優位性を主張する日本の対応、つまり「日本モデル」についての踏み込んだ分析は行われず、押谷仁氏の著書を引用した一方的な評価以上のものはない。
押谷氏が示していたとする洞察(γνώμη)、謂わばある種の「先見の明」(ἡ πρόνοια)への賞讃もご都合主義的なものだ。それは実質的には事後の論理、早い段階で新型ウイルスや感染症の実態を見抜いていた(διαφερᾶν)というよりも、結果(ἐπί τούτοις)を後から考えて(ἐπιμηθεύομαι)生まれる後知恵(ἐπιμήθεια)にとどまっている。
今回のウイルスの感染伝播に関する特性、パレートの法則(Pareto principle=80:20の法則)の新型コロナ版である「感染者の8割は他に二次感染させない」を突き止めたのは、数理疫学の知見に秀でた西浦博氏であって押谷氏ではないうえ、クラスター対策や「三密回避」にしたところで押谷氏の創見(ξυνετός)とは言えない。
篠田さんの分類や主張の前提にあるのは、日本の現状確認された限りでの、検証されず判断留保(ἐφεκτική)を必要とする(検査数が圧倒的に少ない)感染者総数に基づき、抑制的な対応が功を奏して医療崩壊を免れ、結果的に死者数を低位に抑えているという、不徹底な現状認識に基づく暫定的評価への妄信、要するに懐疑的(ἀπορητική)態度を欠く「現状肯定」でしかない。
篠田さんの三分類だと、集団免疫策をとるスウェーデンの分類は、例外とみるべきか、それとも「抑制」タイプの亜種とみるべきか位置づけが明確ではない。それ以外にも、三分類に当てはまらない国・地域は少なくない。⇒【かなり大きなグループ分け】というのは、その程度の分析ということだ。
さらに「封じ込め」グループの代表格である中国についての分析がほとんどない。統計基準自体が世界標準と異なり信憑性に疑念が払拭できなうえ、その強制的な封鎖措置など、今回の直接のテーマとは言えないが、国際政治学者としての踏み込み不足は否めない。
⇒【第3グループの「抑制」アプローチ】云々にしろ、「死者数の抑制」は既に指摘した通り各国共通の課題なので、議論の焦点がぼやけている。病原性と感染性=感染力が反比例(ἀντιπεπόνθησις)する特性は、基本的には新型コロナ(SARS-CoV-2)に限らない。無症常病原体保有者による感染拡大が無視できないファクターとなっていることが今回の特徴的な事態ということだろう。
⇒【「日本モデル」型のアプローチは、不当にも抽象的で非現実的な「ゼロリスク」を求める扇動的なポピュリストたちからの誹謗中傷を浴びがち】あたりには、篠田さんの社会経済面での現状認識の不備がある。
日本で当局の対応に不満や批判が目立つのは、日本の比較優位的な感染状況を世間やメディアが認めないからではなく、それを前提としたうえでの当局の対応に多くの改善の余地を見出し、目立った政治的指導力を発揮しているようには見えない当局への苛立ち、失望感があるからだ。
篠田さんの主張には党派性が出すぎている。是非は措いて、それを自覚すべきだ。
ケインズは『確率論』(“A treatise on probability”, 1921)の第二部「基本定理」(‘Fundamental Theorems’)で、その課題を確率に関する形式論理学的定式化であり、その目的は「哲学的諸概念から出発して、単純で、しかも正確な諸定義から、厳密な方法を用いて、確率の加法および乗法の定理ならびに逆確率の定理のような一般に受け入れられている諸結果を演繹することができることを示すことにある」(佐藤隆三訳、邦訳『ケインズ全集』第8巻、133頁〔一部表記を変えた〕=‘〔My object in it is〕to show that, starting from the philosophical ideas …, we can deduce by rigorous methods out of simple and precise definitions the usually accepted results, such as the theorems of the addition and multiplication of probabilities and of inverse probability.’; The collected writings, vol. VIII. p. 125)とする。
そして、それを数学を論理学に基づいて基礎づけようとしたB. ラッセル(とA. N. ホワイトヘッド)の『数学原理』(“Principia Mathematica”)の影響を意識したと意気込む。その作業は結局充分に果たされずに終わるが、確率を厳密に定式化し、帰納法の論理を基礎づける論理主義的確率論の意義がそれによって失われるわけではない。
本欄の議論に引きつけて言えば、それは「自分の考えを正確なものにし、誤謬や思い込みを発見することを強制するという消極的な利点がある」(‘the negative advantage of compelling … to make his ideas precise and of discovering fallacies and mistakes.’; ibid.)ということである。
ケインズは当初、「確率は一つの関係であるという仮説に基づいて、この主題の基本定理」(‘the fundamental theorems of the subject on the hypothesis that Probability was a relation’)を導出しようとした。それは、「確率を形式論理学の一部門として扱うという野望」(‘the ambition to treat Probability as a branch of Formal Logic’)だった。
厳密に考えると言っても、問題はそれほど単純でも容易でもない。われわれの思考にはさまざまな誤認や錯覚、論理的形式上の誤謬に加え、論理を適用する方式にもさまざまな陥穽が待ち構えているからだ。
汎神論者であるスピノザの主著『エティカ』(“Ethica”, 1677)、「幾何学的秩序に従った論証」(ordine geometroco demonstrata)だ。それは門外漢には厳密な論証の典型のように見えるかもしれない。
ケインズは、「スピノザは必然性、偶然性および可能性を扱うに当たって、真であることと蓋然的であることとの区別を念頭に置いていたと思われる」(‘Spinoza had in mind, I think, the distinction between Truth and Probability in his treatment of Necessity, Contingence, and Possibility.’; ibid., p. 127)として、『エティカ』第一部「神について」の定理33、
「物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることはできなかった。」(‘Res nullo alio modo, neque alio ordine a Deo produci potuerunt, quam productae sunt.’; Ethica, I, Propositio 33)の「証明」(Demonstratio)の一節を引く。
「すべての物は与えられた神の本性から必然的に生起し、かつ神の本性の必然性によって一定の仕方で存在し(定理16により)・作用するように決定されている(定理29により)。」(畠中尚志訳、岩波文庫『エチカ』上巻、77頁=‘Res enim omnes ex data Dei natura necessario secutae sunt (per prop. 16.), et ex necessitate naturae Dei determinatae sunt ad certo modo existendum et operandum (per prop. 29.) ’; ibid., 33, Dem.)
この場合、定理に従う限り「すべてのものは、何らの留保条件もなしに、真または偽である。」(‘That is to say, everything is, without qualification, true or false.’; ibid., p. 127)ということになる。
そのうえでケインズは、「すなわち、偶然性、もしくは私が呼ぶところの確率は、われわれの知識に限界があることことからのみ生じるのである。われわれの知識との関連において蓋然的でしかない、すべての命題を含む、広義の偶然性(この用語は中間的なすべての度合の確率を含む)は、さらにゼロより大なるア・プリオリな、もしくは形式的な確率に対応する、厳密な意味の偶然性と可能性とに分けられる」(135頁=‘That is to say, Contingence, or, as I term it, Probability, solely arises out of the limitations of our knowledge. Contingence in this wide sense, which includes every proposition which, in relation to our knowledge, is only probable (this term covering all intermediate degrees of probability), may be further divided into Contingence in the strict sense, which corresponds to an à priori or formal probability exceeding zero, and Possibility; that is to say, into formal possibility and empirical possibility.’; ibid., p. 127)とする。
つまり、「我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。」(下巻12頁=‘Res singulares voco contingentes, quatenus, dum ad earum solam essentiam attendimus, nihil invenimus, quod earum existentiam necessario ponat, vel quod ipsam necessario secludat.’; Ethica, IV, Definitiones 3)、「その個物が産出されなければならぬ原因に我々が注意する場合に、その原因がそれを産出するように決定されているか否かを我々が知らぬ限り、私はその同じ個物を可能的と呼ぶ。」(同=‘Easdem res singulares voco possibiles, quatenus, dum ad causas, ex quibus produci debent, attendimus, nescimus, an ipsae determinatae sint ad easdem producendum.’; ibid., 4)。
スピノザが説く第一部「神について」(De deo)であれ、第二部「精神の本性および起源について」(De mente humana mens et corpus)であれ、また第四部「人間の隷属あるいは感情の力について」(De affectuum viribus conditio humana)であれ、それが具体的な、言い換えれば経験可能なわれわれの認識対象になるのか、精査が必要だ。
スピノザ的な知的直観(intellektulle Anschauung)を退け、カントが説く可能的経験(die mögliche Erfahrung)の範囲にあることが、われわれの客観的妥当な認識の条件だからだ。カントが思惟の形式として起源においてはすべての経験から独立したものである純粋悟性概念(die Begriffe des reinen Verstandes)、即ちカテゴリー(Kategorie)が適応される対象を、直観に与えられる経験である現象(Phänomen)に絞り、神的存在や物自体(Ding an sich)など経験が不可能な本体(Noumena)とを峻別したものそのためだ。
空間や時間とともにわれわれの認識を構成するカテゴリーは、現象を経験として認識する役割を果たすにすぎず、それが経験を超越した物自体に適用されれば意味を失ってしまうからだ。
カントはカテゴリーを越えて知的に直観する悟性、即ち知的直観のようなものを、その存否についてわれわれは認識し得ないとして積極的な意味では基本的に退けるのもそのためだ。
知的直観とは、われわれの思惟する対象が感性的な直観によって与えられることを必要とせず、われわれが直接対象を思惟することによって対象が生じるような認識能力だから、カントはそれを神の精神に等しいとみる。
「そうではなくて、私の言う超越的原則とは、あらゆるあの境界標を取りこわし、どこにも境界設定を認められない一つのまったく新しい地域をあえてわが物とするよう私たちに要求する現実的規則のことである。」(引用続く)
(承前1)そして、そうした作業が、「その目的が達成可能であるか」(‘the results can be’)よりも、「その作業がもたらす成果の価値よりも、著者にとってその作業を行う価値の方が大きい」(‘the process of doing it may be of greater value to him than the results’)という確信に基づいている。
「確率は推論、すなわち一つの命題集合と他の命題集合との『関連』を問題にする。もしこの主題の一般化された取り扱いを形式的に処理しようとするのならば、実際に知識の主題である集合間のみならず、任意の一対の命題集合の間の確率の関係をも考えることを心がけなければならない。しかし、推論の仮言的な主題であるとみなしうる命題集合の特徴に対し、若干の制限を加えなければならないことが間もなく分かる。すなわち、その制限というのは、それらの命題は、命題の主題となりうるものでなければならないということである。つまり、われわれの諸定理は、自己矛盾的でかつ形式的に自己矛盾する諸前提に対しては、適切に適用することはできないのである。」(134頁=‘Probability is concerned with arguments, that is to say, with the ‘bearing’ of one set of propositions upon another set. If we are to deal formally with a generalised treatment of this subject, we must be prepared to consider relations of probability between any pair of sets of propositions, and not only between sets which are actually the subject of knowledge. But we soon find that some limitation must be put on the character of sets of propositions which we can consider as the hypothetical subject of an argument, namely, that they must be possible subjects of knowledge. We cannot, that is to say, conveniently apply our theorems to premisses which are self-contradictory and formally inconsistent with themselves.’; ibid., p. 126)
厳密に考えると言っても、問題はそれほど単純でも容易でもない。われわれの思考にはさまざまな誤認や錯覚、論理的形式上の誤謬に加え、論理を適用する方式にもさまざまな陥穽が待ち構えているからだ。
(„sondern wirkliche Grundsätze, die uns zumuten, alle jene Grenzpfähle niederzureißen und sich einen ganz neuen Boden, der überall keine Demarkation erkennt, anzumaßen. Daher sind transzendental und transzendent nicht einerlei. Die Grundsätze des reinen Verstandes, die wir oben vortrugen, sollen bloß von empirischem und nicht von transzendentalem, | d.i. über die Erfahrungsgrenze hinausreichendem Gebrauche sein. Ein Grundsatz aber, der diese Schranken wegnimmt, ja gar sie zu überschreiten gebietet, heißt transzendent. Kann unsere Kritik dahin gelangen, den Schein dieser angemaßten Grundsätze aufzudecken, so werden jene Grundsätze des bloß empirischen Gebrauchs, im Gegensatz mit den letztern, immanente Grundsätze des reinen Verstandes genannt werden können.“; „Kritik der reinen Vernunft“, hirsg. von A. Görland, Werke[Cassirer Ausgabe], Bd. III, S. 246)
繁簡宜しきを得ない、迂遠な哲学的議論になった。しかし、ものごとを単なる「類比」(ἀναλογία)の粗雑な論理で論じることの無意味さを認識させるのが、哲学固有の役割であり存在意義であることに変わりはない。
真に現実的に(ἐνεργείᾳ)、しかも自由に(ἐλευθέρως)ものを考えるということは、仮象(φαίνεσθαι)かもしれない現実に埋没せず(οὐ κατῶρυξ)、現実と距離を取る(διάστῆναι)ことから生まれる。[未完]
Wie gefährlich ist das Coronavirus für Trump?
Nach dem positiven Corona-Test von Donald Trump ist noch ungewiss, wie sich der Zustand des Präsidenten entwickeln wird. Er gehört jedoch mit gleich zwei Faktoren zur Risikogruppe.
トランプ氏にとって、コロナウィルスはどれほど危険か。ドナルド・トランプ氏のコロナ陽性判定のあと、病状はどう進展するだろう。トランプ氏の場合、二つの危険因子がある。・・・年齢と肥満である。
私の疑問は、どうして、専門家、学者、とよばれている人たちが、公共の福祉為に、そういう客観的な解説をせず、専門家という肩書をつけながら、野次馬的な興味しかもたないのか、ということなのである。アメリカ大統領であるトランプ氏が、マスクを着けず、三密を避けないから、アメリカの死者数が日本と違って、世界のワーストの一因になっているのではなのではないのだろうか。
Neue Corona-PrognosenWas der Welt noch bevorsteht
コロナの予測、これからの世界はどうなるか
年末までに、コロナの犠牲者は何倍にも増える、と学者たちは予言している。その際、賢い行動で多くの人の命を救うことができる。
筆者 Marco Evers 、30.09.2020, 16.36
Covid19を「危険のない風邪」と、最初医師たちも望み、陰謀論の理論家たちは今も信じている。しかし、世界的にみると、Covid19は、今年一年間130万人の死者が出ると予想されているのである。今年、世界全体で、6000万人が心臓病、癌、事故、ウィルスや細菌で亡くなることが予想されているが、そのうち、25人に1人は、コロナウィルスで亡くなるのである。
このCovid19ウィルスのみかけ上軽い病気であるかのように錯覚させる危険は、多くの人々に状況を軽視し、Covid19にまつわる規則に怒り、その規則は、必要ないと思わせます。しかし、ドイツ人は、「魔術」で他の国民よりもCovid19に対しての免疫をもっているわけではありません。「規則なし」では、ドイツは早期に感染症の流れに巻き込まれ、もっとひどい状態におかれたでしょう。例えば、隣国のオランダは、マスクとソーシャルデイスタンスを過去数か月ぞんざいにとりあつかいました。サッカーファンは、大声で街路にくりだし、ハグして祝いました。介護施設でも、マスクの義務はありません。現在、オランダの公式の感染者数は、4月の最悪期の2倍です。オランダでは、次のロックダウンが発表され、国民は深い経済的な傷を負うおそれがあります。もっとひどい状況にあるのが、スペイン、フランス、あるいはイギリス、チェコなどで、また、緊急事態宣言を発動しています。
まさにそのことについて押谷仁教授は、感染症対策「森を見る思考を」、何が日本と欧米を分けたのか、に書かれているのである。
http://www.gaiko-web.jp/test/wp-content/uploads/2020/06/Vol.61_6-11_Interview_New.pdf
つまり、「日本モデル」が「英米モデル」より優れているのは、現実の状況から見て明らかなのだから、今後の日本の外交的な課題は、欧米かぶれの日本のマスコミの作り上げる愚かな理論や仮説に左右されず、比較優位にある「日本モデル」を日本人自身が深化させながら、「抑制グループ」諸国相互、特に「日本モデル」の価値を認めてくれている欧米の先進国ドイツ、その他国際社会の「日本モデル」の価値を認めてくれる国々と連携をとりながら、世界の指導者として、先進国としての「日本」のリーダーシップを発揮し、WHOとも協力する国際協調の元、「世界の中の日本」として、「国際社会」に貢献してほしい。
以下は、イタリア国内の感染状況と死亡状況(致死率、*10万人当たり死者数)をまとめたものである。初期に感染が急拡大し多くの死者を出した北部と中南部の差が際立っていることが分かる(各州(Regione)別の数値は9月26日現在。★は1平方キロ米当たりの人口密度)。
☆北部諸州
▼ロンバルディア(州都ミラノ)105,988→16,941=致死率15.56%*170.82/10万人=人口9,917,714★415.6
▼エミリア=ロマーニャ(州都ボローニャ)34,932→4,481=致死率12.83%*103.22/10万人=人口4,341,240★196.2
▼ピエモンテ(州都トリノ)34,906→4,160=致死率11.92%*93.76/10万人=人口4,436,798★174.7
▼ヴェネト(州都ヴェネチア)26,814→2,174=致死率12.83%*44.79/10万人=人口4,853,657★265.7
▼リグーリア(州都ジェノヴァ)13,041→1,599=致死率8.11%*98.90/10万人=人口1,616,788★298.3
☆その他、中南部など
▼ラツィオ(州都ローマ)15,654→906=致死率5.79%*15.82/10万人=人口5,728,688★332.9
▼カンパーニア(州都ナポリ)11,629→460=致死率3.96%*7.88/10万人=人口5.834,056★429.1
▼トスカーナ(州都フィレンツェ)14,465→1,157=致死率8.00%*30.85/10万人=人口3,749,813★163.1
▼プッリャ(州都バーリ)7,445→590=致死率7.92%*14.57/10万人=人口4,050,072★209.2
▼カラブリア(州都カンタローザ)1,921→100=致死率7.92%*4.97/10万人=人口2,011,395★132.0
▼シチリア(州都パレルモ)6,576→306=致死率4.65%*6.15/10万人=人口4,974,154★194.5
▼サルディーニャ(州都カリャリ)3,591→148=致死率4.12%*8.83/10万人=人口1,675,411★69.5
▼モリーゼ(州都カンポバッソ)637→23=致死率3.61%*7.19/10万人=人口319,780★72.1
各州の際立った格差、特に南北格差は、人口規模や人口密度とも相関関係は微小で、地域差が主要因であることが分かる。人種差や既存の免疫状況を想定しなくてよく、移動制限は短期的には有効なのだ。
イタリア全体の感染者数は2日午後8時現在317,409人、死者35,918人、致死率11.32%、10万人当たり死者数59.32人。北部5州の合計(215,681人、死者29,355)で、感染者数の67.96%、死者数の81.73%を占めるのがイタリアの実情だ。
以上のことから分かるのは、同じイタリアと言っても状況は全く異なっているということだ。世界各国も同じだし、日本でも実感されることだ。
法の建付け上已むを得ないが、緊急事態宣言にしろ、「全国的かつ急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれのある」に応じた措置として個々の事情を捨象して一括りせざるを得ない対策は、新型コロナの場合はうまく当てはまらない所以だ。
「インフルエンザ菌」に妄執(ἀματηλός καρτέρσις)する偏執狂の老婆のような大風呂敷の議論とは異なる。老婆にとっての現実(τὸ γιγνόμενον)なるものは、「日本モデル」への狂信(τὸ αύθάδης)とテレビの討論番組、ドイツの週刊誌電子版にしかないようだ。
「封じ込め」対策を取る「第1グループ」について、篠田さんの⇒【最近になって感染者と死者の拡大を経験…グループから脱落し始めている…国は局所的に存在…アフリカではガンビアなど…オセアニアではパプアニューギニアなどが…典型例】という分析にしろ、小国ガンビア(人口2,347,700人)の感染者3,584人、死者113人(10万人当たり4.81人=日本1.24人の約3.4倍)はともかく、パプアニューギニア(人口8,776,100人)に至っては感染者539人、死者7人(10万人当たり0.080人=日本比約16分の1)程度の話で、ことさら「典型例」(παράδειγμα)というほどの事例でもなかろう。
トレンドを過大評価する典型だ。
☆訂正 12のカント『純粋理性批判』からの引用中、【僭越な諸原則の仮象をする】→【僭越な諸原則の仮象を暴露する】。
「仮象」と訳される[Schein]というドイツ語は、哲学用語でなければ、「光、輝き、光沢」という意味に加え、「外見、外観、見せかけ、上辺、体裁」という意味がある。実体の逆だ。
„Schein und Sein“は哲学的には「現象と実在」だが、日常語では「外見(見せかけ)と実体」になる。„Der schein trügt“(「外見は当てにならない」)、„den äußeren schein retten“(「上辺を取り繕う」)のように表現する。形容詞の[scheinbar]は、「見せかけだけの、表向きの」という意味で、まさに老婆のためにあるような言葉だ。要するに幻影=「まやかし、ぺてん」(Blendwerk)である。
老婆はそれを意図的に行う場合もあるが、苦し紛れに無意識に行う場合もあるようだ。問題、というか哀れなのはその自覚が欠如していることで、だから愚鈍でしかない。自分で自分の仮象に欺かれているわけだ。その議論にはこうした実体ならぬ仮象=まやかしに満ちた錯覚にあふれている。それを含めて「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)という。
それが厄介なのは、謂わば「自覚されざる嘘」(τὸ ἄγνωστος ψευδής)、気づかれない嘘という側面があることだ。知性を具えた狡知な(πανοῦργος)人間にはあり得ないことだ。老婆特有の強情ぶり(ἰοχυρογνώμων)の原因はそこにもあって、「本意からのもの」(τὸ ἑκούσιον)と「本意からでないもの」(τὸ οὐχ ἑκών)を問わず、それは自らについての「無知による」(δι᾽ ἄγνοιαν)ところが大きい。
そうした人物に限って、ソクラテスをもち出して空語を弄ぶ(κενοὺς φθόγγους ἔχωμεν)のだから、これ以上の戯画(ἡ κωμῳδεῖν)もない。
カントの議論は緻密かつ徹底したものだ。
「私たちの仕事はここでは、経験的仮象(たとえば視覚上の仮象)を論ずることではないのであって、そうした経験的仮象はふだんは正しい悟性の諸規則を経験的に使用する際にみられる、またそうした経験的仮象によって判断力は、構想作用の影響を受けて、惑わされるのである。しかし、そうした経験的仮象ではなくて、私たちが問題とするのはもっぱら超越論的仮象だけであって、この超越論的仮象は、まったく経験を目指すことなく使用される場合の諸規則に影響を及ぼすのである。
しかし、それらの諸原則の使用が経験を目指している場合には、私たちはやはり少なくともそれの正しさ如何の試金石をもっているはずであるのに、むしろこの超越論的仮象は、批判のあらゆる警告に反して、私たち自身をカテゴリーの経験的使用(empirischen Gebrauch der Kategorien)を全面的に越えて連れ去り、私たちを純粋理性の拡張というまやかし(Blendwerke einer Erweiterung des reinen Verstandes)でもって釣るのである。
私たちは、その適用があくまで可能的経験の制限内に(in den Schranken möglicher Erfahrung)とどまる諸原則を内在的原則(immanent[Grundsätz])と名づけ、この限界をかならずや飛び越えることになる原則を超越的原則(transzendente Grundsätz)と名づけようと思う。しかし、私が超越的原則で意味しているのは、カテゴリーの超越論的使用ないし誤用ではないのであって、それは、批判によって適切に制御されていない判断力がおかす単なる過失にすぎず、その判断力は、純粋悟性がそこでのみ許されている地域の境界に充分注意を払わないのである。」(原佑訳、中巻21~22頁〔一部表記と訳語を変えた〕
上記は『純粋理性批判』の第二部門第二部の「超越論的弁証論」(Die transzendentale Dialektik)の最初の「序論」(Einleitung)に出てくる。
第一部「超越論的分析論」(Die transzendentale Analytik)で、カテゴリーや図式(Schema)などわれわれの認識の条件と仕組みを明らかにしたカントが、それが該当しない対象について論を進め、『純粋理性批判』の中で最も難解な箇所である「純粋理性の誤謬推理」(Die Paralogisumus der reinen Vernunft)や「純粋理性の二律背反」(Die Antinomie der reinen Vernunft)で論じる序章となっている。
謂わば、「知的禁欲」だ。認識の規則の枠組みに沿った悟性的認識を司るカテゴリー=悟性概念をカントは12提示したが、経験に拠らない認識に伴う「原理の能力」(das Vermögen der Prinzipien)である理性がかかわる無制約者(die vernunftideen des Unbedingten)の「理念」(Idee)をカントは三つ挙げる。神(Gott)、自由(Freiheit)=世界(Welt)、不死(Unsterblickkeit)=心(Seele)だ。
そして理念は、われわれにとってはどこまでも到達し得ない「仮象」にとどまる。カントが批判的に展開する弁証論(Dialektik)とは、「仮象の論理」(Logik des Scheins)という意味だ。
理念としての心も世界も神も、偶然に生じたわけではない、理性の本質に由来する必然的な(notwendig)概念であり、そして課題(Aufgabe)であり規則(Regel)であっても、認識の対象や手段ではない、というのがカントの超越論的哲学の基本的な考え方だ。
理念が、悟性のカテゴリーのように対象を構成することで客観的な認識を生み出さない代わりに、悟性的認識を越えた狭義の理性として、悟性的認識の上にあってその限界を定め、認識の目標=課題を定める役割を果たす。カテゴリーと悟性の規則(der Regel des Verstandes)は構成原理(konstitutive Prinzipien)だが、理念は規制原理(regulative Prinzipien)でしかない。
「人はこう言うことができる。単なる超越論的理念の対象は、たとえこの理念がまったく必然的に理性において理性の根源的な諸法則に従って産出されたものであろうとも、人がそれについてはいかなる概念ももっていない或るものであると。なぜなら、事実、理性の要求に完全に合致すべきであるような対象については、いかなる悟性概念も可能ではなく、言い換えれば、可能的経験において示された直観化されうるような概念は可能ではないからである。」(67頁=„Man kann sagen, der Gegenstand einer bloßen transzendentalen Idee sei etwas, wovon man keinen Begriff hat, obgleich diese Idee ganz notwendig in der Vernunft nach ihren ursprünglichen Gesetzen erzeugt worden. Denn in der Tat, ist auch von einem Gegenstande, der der Foderung der Vernunft adäquat sein soll, kein Verstandesbegriff möglich, d. i. ein solcher, welcher in einer möglichen Erfahrung gezeigt und anschaulich gemacht werden kann.“; ibid., S. 272)
翻って、篠田さんが過大評価する「日本モデル」は、「仮象」でしかない。なぜなら、その有効性、客観的妥当性(Objektivegültigkeit)、普遍的妥当性(Allgemeingültigkeit)が充分に論証されない理念(Idee)にとどまっているからだ。
老婆のような単細胞を喜ばせることはあっても、それこそ、⇒【非現実的で的外れな願望】にすぎない。
概念規定が不明確な点にもよるが、それは目指すべき目標としての課題にとどまっており、合理的な認識の対象ではない。現実(Wirklichkeit)を反映しているとするその論理は隙だらけであり、杜撰極まる。
⇒【日本の外交的な課題…比較優位にある「日本モデル」を…深化させ…「封じ込めグループ」との交流を開拓…「抑制グループ」諸国相互の連携…道筋を作る】は、どこまでも課題にとどまるであろう。
空疎な理念でしかないからだ。[完]
知ることだけでは十分ではない。
それを使わなければならない。
やる気だけでは十分ではない。
実行しなければならない。
‐ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ‐
と述べていることからもわかる。http://ikiyosu.com/goethe-meigen/
ファウストの最初のモノローグも、大山定一教授のゲーテの解説も、同じであるのに、いつまで反氏は、ゲーテという人物の個性、特徴、を歪めて理解し、「ドイツ文化センター」の名前の元になっているその本質を理解されないのかわからないが、要するに反氏の手法も、アメリカ人のデイベートの手法と同じ、自分の都合のいいロジック
事実だけを借りて来るから、全体像が歪むのだと思う。
学生時代に、ドイツは観念論、英米は経験論、である、と習ったが、現在はそうともいえない。マスクを着用しなくても、Covid19には感染しない、というアメリカ大統領、トランプイデオロギーは見事に粉砕されたのではないのだろうか。仮説、観念ではなくて、現実、統計の勝利なのである。
ゲーテの言葉に次の言葉がある。結婚の時、ドイツ人と結婚し、英独日3か国語ペラペラな子供を育てた京都大学から農学博士を授与されたとびきり秀才の伯母が、私たち夫婦にくれた言葉である。結婚式の寄せ書きに書いてくれた。
名誉を失っても、
元々なかったと思えば生きていける。
財産を失ってもまた作ればよい。
しかし勇気を失ったら。
生きている価値がない。
‐ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ‐
これをドイツ語で書いてくれた。
私はこの言葉を大事にしている。だから、反氏から、無学だと形容されようと、虚偽体質だと蔑まれようと、意に介さない。
『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』(„Wilhelm Meisters Wanderjahre“)にも、「あらゆる賢いことは既に考えられている。ただわれわれはそれをもう一度考えてみなければならない。」(„Alles Gescheite ist schon gedacht worden, man muß nur versuchen, es noch einmal zu denken.“)としているように、哲学的な探究、大袈裟に言えば煩悶の外にある。
だから、人間の認識の根拠と正当性を徹底的に突き詰めたカントのような問題意識も緊迫感もない。
それが謹厳実直を絵に描いたような厳粛主義の生ける化身である哲学者と比べて賢明な態度か否かは措いて、所詮は人生を謳歌し、艶福家でもあったゲーテとの際立った落差を感じさせる。その分、ゲーテは哲学的な認識に関しては、所詮は文士であって、ナイーブな知的直観に生きていたようだ。
しかし、凡庸で陳腐、退屈で愚鈍を絵に描いたような驢馬並みのお頭のもち主である偏執狂の無学な老婆とは違って、愚鈍な男ではない。
「学問は、知る価値のないものや、知ることの不可能なものに携わることによって、甚だしく妨げられる。」(„Die Wissenschaft wird dadurch sehr zurückgehalten, daß man sich abgibt mit dem, was nicht wissenwert, und mit dem, was nicht wißbar ist.“; ibid., 434, S. 425)のように、最初から及び腰だ。
老婆が莫迦の一つ覚えのように口真似して繰り返す、「哲学は常識を難しい言葉で表現しただけ」、正確には「厳密に吟味すると称して、すべての哲学はわけの分からない意味不明な言葉で常識を表現するだけである。」(„Genau besehen, ist alle Philosophie nur der Menschenverstand in amphigurischer Sprache.“;ibid., 423, S. 423)も同じ『箴言と省察』にある。
そうした精細で根源的な概念的思考の必要性に無頓着な人間にとって、カントが提示した超越論的哲学、われわれの悟性的な認識、つまり経験の対象である実在を根拠づける(擁護する)経験的実在論(empirischer Realismus)にして、他方でその基本的条件である時間や空間という純粋直観(reine Anschauungen)や、思考の形式的規定=規則である純粋悟性概念、即ちカテゴリーの観念性を同時に論じる超越論的観念論(transzendentaler Idealismus)であるカント哲学の革新性など、とんとお構いなしだ。
内容には一切言及なしに、24⇒【反氏の主張は、ドイツ観念論至上論者】のような莫迦丸出しの空語(κενολογία)しかない。私はゲーテのテキストを引用して具体的に論じている。
もっとも、『純粋理性批判』の熱心な読者とは言えず、そうした批判哲学の画期的な意義をゲーテは充分理解することができなかったとは言え、それでも読んでいなかったわけではなく、議論の内容も承知していたのと違って、老婆に至っては一行も読まずに見当違いな議論とも呼べない妄言を逞しくしているわけだから、救いようがない。
ドイツ観念論(Deutscher Idealismus)と一言で言っても、フィヒテもあればシェリングもおり、何と言ってもヘーゲルもあるわけで、その内容や志向は相当異なる。観念論(Idealismus)ということの哲学的な意味を老婆は何ら理解していない、端的に理解できないことが歴然としている。高校時代の教科書レベルの俗論の域を一歩も出ていない。なぜなら、観念論の対立語は経験論(Empirismus)ではなく実在論(Realismus)だからだ。
それなら、経験論を理解しているかと言えば、それもまた覚束ないようだ。カントの超越論哲学(transzendentale Philosophie)は批判主義(Kritizismus)と呼ばれるが、それはデカルト以来の大陸的合理論(Rationalismus)と英国流の経験論との批判的綜合だからだ。
合理論と経験論との争点は、われわれの一切の認識(Erkenntnis)の前提である表象(Vorstellung)のすべてまたは一部が、経験(Erfahrung)によってもたらされたものか、あるいは精神(Geist)が生まれつき具えているものかの相違にある。
つまり、表象は知覚(Wahrnehmung)によって外部から受け取ったものか、それとも精神の自己活動によって形成されたものかという争いだ。端的に言えば表象に基づく認識は感覚(Empfindung)の所産か、思惟(Denken)の所産かの対立だ。
この程度の基本的知識は高校生レベルだか、老婆はそれも怪しい。
ましてや、カント哲学の中核的概念である超越論的(transzendental=先験的)と超越的(transzendent)の使い分けなど、老婆には何のこと想像もつくまい。
従って、われわれの認識の普遍的妥当性(Allgemeingültigkeit)を根拠づけ、認識の条件・形式的枠組み(カテゴリー等)の非実在性(観念的形式性)を説く超越論的観念論(transzendentaler Idealismus)が、何ゆえ同時に、経験的な世界の客観的な対象認識を通じてその実在性を解き明かす経験的実在論(empirischer Realismus)であるのか、全く理解できまい。カントは観念論者であると同時に実在論者でもあるからだ。
厳密な使い分けができてこそ、つまりその必然性が理解できてこそ哲学的議論は可能になり、常識を専門用語で言い換えただけではない、思考のメタ批判である根源的認識だということが呑み込めてくる。老婆の驢馬並みのお頭では到底無理な所以だ。
ゲーテはさらに、「人真似で言われた真理は、既に品位を失っている。人真似で言われた誤膠は、全くもって吐き気を催させる。」(„Eine nachgesprochene Wahrheit verliert schon ihre Grazie, aber ein nachgesprochner Irrtum ist ganz ekelhaft.“;ibid., 326, S. 409)ともいう。
老婆のように、凡庸で愚にもつかないお子様論議が、ものごとを真に考えるという域には到底達していないことを突きつけるかのような言葉だ。
暇つぶしなりに、少しは工夫したらいい。幼稚なりに、ドイツ語が読めるのであろう。
それをコピペして本欄に貼り付ける老婆の怠惰と陳腐さも、それこそ「吐き気を催させる」(ekelhaft)ものだ。
「現象の背後に何も求めないことだ。現象そのものが教えている。」(„Man suche nur nichts hinter den Phänomenen: sie selbst sind die Lehre.“;ibid., 488, S. 432)というゲーテの議論も誠に単調で、如何に哲学的議論の才が、多くの天分に恵まれた文豪に欠けているかよく分かる。
「行動する人間にとっては、正しいことを行うのが重要な問題だ。正しいことが結果するかどうかについて、心を煩わすべきではない。」(„Dem tätigen Menschen kommt es darauf an, daß er das Rechte tue; ob das Rechte geschehe, soll ihm nicht kümmern.“;ibid., 1082, S. 517)は、24②⇒【知ることだけでは十分ではない】云々なる「生きよす。」氏に同調して、《深すぎる『人生の本質』》とかに舞い上がっても、結局は凡庸な人生訓、常識論になる。
同趣旨で「理論と経験はいつも対立する。思考において両者を合致させてみても、それは虚妄にすぎぬ。真の合致は、ただ実践においてのみ可能である。」(„Theorie und {Erfahrung Phänomenen } stehen gegeneinander in beständigem Konflikt. Alle Vereinigung in der Reflexion ist eine Täuschung; nur durch Handeln können sie vereinigt werden.“;ibid., 497, S. 433)も、取り立てていうほどの洞察ではない。
ゲーテに言及するなら、全集を買って原語で読めとは言わないが、下手の横好きで半世紀近くもドイツ語に親しんでいる以上、ゲーテを少しはまともに読んでから書くことだ。
「侍僕から見ると英雄なるものは世の中に存在しないという。それは、英雄は英雄だけが認めうるということに基づいているからにすぎない。侍僕はたぶん自分の仲間なら、評価することを心得ているのだろう。」(„Es gibt, sagt man, für den Kammerdiener keinen Helden. Das kommt aber bloß daher, weil der Held nur vom Helden anerkannt werden kann. Der Kammerdiener wird aber wahrscheinlich seinesgleichen zu schätzen wissen.“; Zweiter Teil Fün. Kap., Goethe Werke, Bd. 6. S. 398)とある。
さらに辛辣なのは、中国人に重ねて考えたら面白いと思われる、
「自由でないのに、自分は自由だと思い込んでいる者ほど奴隷になっている者はない。」(„Niemand ist mehr Sklave, als der sich für frei hält, ohne es zu sein.“; ibid.,, S. 397)だ。
ゲーテはなかなか食えない男だ。その点では「精神の幼児」でしかない老婆向きではない。「生きよす。」氏のブログからコピペしたのが歴然としている老名の「クズ」投稿を眺めるにつけ、痛感する。
「外国語を知らぬ者は、自国語について何も知らぬ者。」(„Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.“; „Maximen und Reflexionen“, 1015, S. 508)という箴言もある。ゲーテは老婆のようなお子様には意地悪な言葉に随所に出会うことは確かだ。
「人間の特性は、彼らが何を滑稽だと思うかによって、何よりもよくその性格が分かる。」(„Der Verständige findet fast alles lächerlich, der Vernünftige fast nichts.“; Die Wahlverwandtschaften, Bd. 6. S. 384)――それになぞらえて言うなら、老婆がありがたがるゲーテの箴言は、その凡庸極まる人間性を映す格好の鏡になっている。
今さらながら、いくら強がっても、知恵が足りないただの莫迦な女にすぎないことがよく分かる。[完]
「感官は欺かないが、判断があざむく」(„Die Sinne trügen nicht, das Urteil trügt.“;ibid., 295, S. 406)
昨日4日は手持ちのハンブルク版14巻本『ゲーテ全集』を、あちこちひっくり返してゲーテの箴言を採録した。それだからといって、別にゲーテをありがたがる義理も謂われもないが。
「愚か者と悧巧者は同様に害がない。半分愚かな者と半分悧巧な者だけが、最も危険な人間である。」(„Toren und gescheite Leute sind gleich unschädlich. Nur die Halbnarren und Halbweisen, das sind die Gefährlichsten..“; Die Wahlverwandtschaften“, Goethe Werke, Bd. 6. S. 398)、あるいは、
「凡庸な者にとって天才も不滅ではないということほど、大きな慰めになることはない。」(„Es gibt keinen größern Trost für die Mittelmäßigkeit, als daß das Genie nicht unsterblich sei.“; ibid.)は、ラ・ロシュフコーを思い起させ興味深い。
さらに、「望んだものを手に入れていると己惚れている時ぐらい。われわれは望みから遠ざかっている時はない。」(„Wir sind nie entfernter von unsern Wünschen, als wenn wir uns einbliden, das Gewünschtezu besitzen“; ibid.)というのもある。
これなどは、ヘラクレイトスの次の断片を想起させる。
「人間にとっては、何でも望み通りになるということは、あまりよいことではない。」(‘ἀνθρώποις γίνεσθαι ὁκόσα θέλουσιν οὐκ ἄμεινον.’; Frag. 110, Diels-Kranz, Bd. I, S. 175)。
しかし、そこで示される一種の「叡知」なるものは、ある意味で他愛もない。本来の行き届いた思考とは、体系的であることを要する。さまざまな矛盾対立する要因を顧慮して総合的に考えることが思考本来の眼目だからだ。
気の利いた片言隻句で人生やこの世界の真実が言い表されていると考えるのは軽率でしかない。体系的で首尾一貫した思考を追求することは容易ではなく、それを厭う人々にとって、大家の名言、金言の類がもて囃されるのは不可避だとしても。
「行状とは、各人が自らの姿を映す鏡である。」(„Das Bertangen ist ein Spiegel in welchem jeder sein Bild zeigt. “;ibid“)
https://researchers.waseda.jp/profile/ja.e26e783eaf3dcec758d55ad8ae330acf.html
33⇒【反氏の主張は屁理屈…ゲーテは、「人間は、経験して初めて、いろんなことの実態がわかる」、ということを主張】――自分の頭で条理を尽くして説明できなくなると、事あるごとに「机上の空論」「主観的な推測」、そして今回の「屁理屈」では、議論を放棄したに等しい。
従って、相手にするまでもないが、それではゲーテやドイツ文学者の大山定一が気の毒だから、老婆が不正確または杜撰にしか論じていない彼らの所説を原文で紹介しておく。
まず、ゲーテが経験または体験(Erfahrung, Erlebnis)を重視したという老婆の主張は、所謂「経験主義」(Empirismus)にまで拡張する必然性はなく、必ずしもそうした趣旨ではないことは、死の前年の1831年の次のエッセー『若き詩人に贈る言葉』(„Noch ein Wort für junge Dichter“)からも明らかだ。
大山はそれをゲーテの「文学的遺書」(筑摩世界文学大系24『ゲーテ I』、解説477頁)とする。詩作に限らず文学だから当然で、単細胞の老婆のように無闇に拡大解釈すべきではない。
大山自身が一部を訳しているものは、今回の議論に引きつけて言えば、以下の箇所だ。
「ポエジイの内容は、作家の生活の内容である。この内容は誰も与えることができぬ、同時に、誰も奪うことができぬものだ。虚飾、すなわち空しい自己欺瞞は、もっとも醜悪である。しかし、自己の自由を宣言することは、おそろしい冒険といわねばならぬ。自由を宣言することは、自己の自律を宣言するのにほかならぬからである。誰が自己制御の確信をもちうるだろうか。わたしはわたしの友に――わかき詩人に言おう。きみたちはもはや何らの束縛も規範も持たぬ。きみたちはきみたち自身で規範をつくらねばならぬ。」(引用続く)
„Poetischer Gehalt aber ist Gehalt des eigenen Lebens; den kann uns niemand geben, vielleicht verdüstern, aber nicht verkümmern. Alles, war Eitelkeit, d. h. Selbstgefälliges ohne Fundament ist, wird schlimmer als jemals behandelt werden.
Sich frei zu erklären, ist eine große Anmaßung; denn man erklärt zugleich. daß man sich selbst beherrschen wolle, und wer vermag das ? Zu meinen Freunden, den jungen Dichtern, sprach’ ich hierüber folgendermaßen: Ihr habt jetzt eigentlich keine Norm. und die müßt ihr euch selbst geben; fragt euch nur bei jeden Gedicht, ob es eine Erlebtes enthalte und ob dies Erlebte euch gefördert habe.
Ihr seid nicht gefördert, wenn ihr eine Geliebte, die ihr durch Entfernung, Untreue, Tod verloren habt, immerfort betrauert. Das ist gar nichts wert, und wenn ihr noch so viel Geschik und Talent dabei aufopfert.“; „Noch ein Wort für junge Dichter“, hirsg. von H. J. Schrimpf , J. W. von Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Band. 12, S. 361
ついでに、『ファウスト』第一部から。
「それにはまず自分で実感することだね、おのずから肺腑からわき出すものが、一人のこらず聴衆ぜんぶの心を根づよい力と興味でとらえなければ駄目だ。ただじっとそこにすわっていて、何や彼や膠でつぎあわせたり、他人のご馳走の余りでシチューを煮たり、灰のなかから乏しい火だねを吹いたりするのでは、せいぜい子どもや猿どもを感心させるだけだろう。」(引用続く)
„Wenn ihr’s nicht fühlt, ihr werdet’s nicht erjagen, / Wenn es nicht aus der Seele dringt / Und mit urkräftigem Behagen / Die Herzen aller Höher zwingt. / Sitzt ihr nur immer ! Leimt zusammen, / Braut ein Ragout von andrer Schmaus, / Und blast die kümmerlichen Flammen / Aus eurem Aschenhäufchen raus ! / Bewundrung von Kindern und Affen, / Wenn euch darnach der Gaumen steht –– / Doch werdet ihr nie Herz zu Herzen schaffen, / Wenn es euch nicht von Herzen geht.“; „Faust“, Erster Teilm. 534~545, hrsg. von E. Trunz, Goethe Werke, Band. 3, S. 25
以上のことから自ずと明らかだろう。老婆的な出たとこ勝負の「経験至上主義」は、ゲーテも推奨していない。
経験の重要性は超越論的観念論者のカントとて変わらない。ただ、それは経験知を過大評価したり、それに客観的認識や真理の基準を置くこととはまるで違うということだ。
それでなければ学問など成立しない。
「しかし、かの論争が話題になるやいなや、私は人間にもっとも敬意をはらう側に味方することを好み、カントとともに、われわれの認識がすべて経験とともに始まるにしても、それだからといってあらゆる認識が経験から生ずるわけではないと主張するすべての人たちに全面的に賛意を表した。…私は生涯を通じて、詩作と観察を行いながらまずは綜合的に、また分析的なやり方をしたからである。」(„Sobald aber jener Streit zur Sprache kam, mochte ich gern auf diejenige Seite stellen, welche dem Menschen am meisten Ehre macht, und gab allen Freunden vollkommen Beifall, die mit Kant behaupteten: wenn gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung angehe; so entspringe sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung. …… denn hatte ich doch in meinem ganzen Leben, dichtend und beobachtend, synthetisch, und dann wieder analytisch verfahren,“; „Einwirkung der neuren Philosophie“, Goethe Werke, Band. 13, S. 27)
以上で充分だろう。[完]
中林教授の場合も、ワシントン大学で修士号を取得し、アメリカ政治の中枢で翌年1月から2002年4月まで上院予算委員会の共和党(ピート・ドメニチ委員長)側に勤務し、約10年間、アメリカ政治の中枢で公務に専念し、米国家予算編成にかかわった日本人唯一の女性、ということを売りにしておられるが、普通有名な、ワシントン州シアトルに本部があるワシントン大学と考えるのではないのだろうか。私の周りには、ニューヨーク在住の親友を含めて米国の有名大学院の修士号をもっている女性は多い。
いずれにしても(πάντως)、次回の86(06:46)に先立って、同じ本日明け方に(ἃμα τῇ ἡμέρᾳ)に、舞い戻ってきても、どうせ返り討ちに遭うしかない。
私の38~40から4日経った。反論のつもりらしいが、ごまかしだ。政府解釈氏の37に対しても寝言だ。寝惚けているのだろう。
遅ればせながら、全く中身のない議論で反論を装っているだけだ。「私は、説得されなかった」という一種のアリバイ作りに興じたいようだ。
次回の86で改めて、⇒【中林美恵子教授の州立ワシントン大学】云々と再説するまでもあるまい。
ところで、41⇒【本当に、反氏は本質をまるでつかめない人物だと感心】なのだという。相変わらず、ゲーテ自身の議論に直接言及した上での議論ではない。無学で怠惰だから、どうしようもない。
私も中学時代に購入して読んだ48年前に刊行された世界文学全集の一冊(筑摩世界文學大系24『ゲーテ I』、解説477頁)にある、私も何度か引用し、前回も別の観点から触れた大山定一の文章を恣意的に解釈して、妄言を並べている。
⇒【ランプに明るく照らされた部屋に入った時のように、頭が鮮明になると言っているが、物自体という観念はおよそ厄介至極な観念といわなければならない】とあるのは、正確には⇒【ランプにあかるく照らされた部屋にはいった時のように、頭が鮮明になるとゲーテは言っているが、物自体などという観念はおよそ厄介至極な観念といわねばならぬ】だ。
誤記が3カ所、脱落が2カ所もある。わずか74文字の文章だから、病的な杜撰さである。よく見比べてほしい。老婆以外では考えられない。
「間違う病気」というのも狂人的だ。
ゲーテの主張は「カントの文章をよめば…頭が鮮明になる」であり、大山の主張は「カントが主張する(認識をもたらす所与の感覚の原因であるとして導入した=筆者註)物自体の観念は厄介至極な観念」というものだ。双方の主張はずれている。
そのうえで老婆は、41②⇒【私も同じように思う。どのように虚飾をはぎとり、物自体を取り出すのだろう。抽象的には可能であるが、現実には難しい】という、唐人の寝言のような主張を展開する。
大山の哲学論議も頓珍漢だが、老婆の口から物自体(Ding an sich)とは、畏れ入った。
「虚飾を剥ぎ取り、「物自体」を取り出す」――自分で何を書いているかを全く理解していないことが明白な、噴飯物の奇怪な文章だ。どうやって経験すること、つまり知覚不能な対象を取り出すことが可能となるのだろうか。
さらに、「虚飾をはぎ取る」とは具体的に何を指しているのか、全く意味不明だ。老婆の悪事やごまかしが露見し、または暴露され、虚飾が剥ぎ取られるのとは全く事情が異なる。どこまでも、粗雑なお頭の素朴実在論で、救いようがない。そもそも、物(Ding)という表現が使われているが、「物自体」は物ではない。
ゲーテが、「もうずっと前に刊行されていたが、それは全く私の関心事ではなかった」(„war schon längst erschienen, sie lag aber völlig außerhalb meinens Kreises.“; Werke, Band. 13, S. 26)と書いた、カントの『純粋理性批判』(„Kritik der reinen Vernunft“)を一行も読んでいないと思われる老婆に、理に適った真っ当な議論を期待すること自体が到底不可能なことが分かる。
少しはゲーテを読むといい。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。