日本学術会議会員の任命拒否問題が大きな話題となっている。率直に言って、過去に数々のスキャンダルを人工的な操作で作ってきたグループの特定メディアが、日ごろから政権批判を繰り返している学者たちと、お馴染みのキャンペーンをするために、新しい題材を見つけてきた、という印象は拭えない。当初は、私はたいして関心を持っていなかった。

もちろん論点がたくさんあるのは確かだろう。いずれも日本社会に深く根差す深刻な問題だ。議論は数多くすればいい。私自身は、そのすべてに関わるつもりはない。ただ、ここでは法的問題についてだけ、少し書いておきたい。

 というのは、菅首相によって任命拒否された6名の方々の中心が法律分野の方々であるのに対して、当事者の方々を含めた法律家の方々が真っ向から一斉に反政府運動を行い始めた、という構図が見え始めているからだ。任命拒否された6名の中でも、政治学者の宇野重規教授が「何も語ることはありません」というコメントを出しているのに対して、法学者の当事者の方々は一斉に自ら政権批判を展開している。鮮明なコントラストだ。

 背景に、2015年安保法制の際の憲法学者を中心とする方々の集団的な反政府運動の経験がある。法学者の方々自身が、党派的対立の当事者だ。そうだとすれば、まず心配しなければならないのは、果たして客観的な法律論が行われるかどうか、だろう。このような党派的対立の中で最も損をするのは、健全な情報にもとづいて考える機会を与えられるべき一般国民だ。

この点については、私自身もある種の思い入れがある。集団自衛権の合憲性を論じ、日本の憲法学の批判を行った一連の著作を通じて(『集団的自衛権の思想史』『ほんとうの憲法』『憲法学の病』『はじめての憲法』)、日本の憲法学の憲法解釈の問題性を、人事制度の慣行まで視野に入れて議論しようとした。しかし、「篠田は三流蓑田胸喜(戦前の右翼)だ」「法律家でない者が法律を語るな」といった類の批判を例外として、数名の良心的な方々を除けば、法律家の方々からは完全無視を貫かれている。今回のこの文章も同じように扱われるのだろう。だがそう思うからこそ、やはり一言書いておかざるをえないという気持ちがしてきている。

 

「学問の自由」と「統帥権」

 

日本国憲法23条は「学問の自由は、これを保障する。」と定める。これは一連の基本的人権の保障の規定の中で定められている条項である。学問の「自由」の保障は、思想・良心・信教・表現・職業選択の「自由」と列挙され、いわゆる「自由権」規定群の日本国憲法が定める基本的人権の一つを形成している。ここで憲法が保護している法的利益は、個人の尊厳である。学問を自由な追求が許されなければ、個人の尊厳は守れない。この人権規定によって保護されている「学問」とは、大学でお給料をもらっている人々の特権的地位を保障する何ものかではなく、もっと広く全ての国民の個人の尊厳を形成する精神的活動のことを指しているはずだ。

そのように保護法益が個人の尊厳である人権規定を根拠にして、ある組織体の完全独立性を主張することは、果たして可能だろうか。

その組織が人権保障に不可欠である場合、可能だろう。そうでなければ、不可能だ。

内閣総理大臣が、自らが「所轄」する組織(日本学術会議法1条2)の自らが任命権を持つ(同法17条)会員の任命にあたって、推薦を拒絶してはならないという主張が、基本的人権によって論証されるという主張は、控えめに言って、理解が困難だ。高度な論証責任は、むしろ内閣総理大臣の裁量を禁じる側の方にあると言っていい。

かつて大日本帝国憲法(明治憲法)をめぐって、「統帥権」と呼ばれた概念をめぐる議論があった。その根拠は、「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という短い規定であった。これは、本来は、明治憲法における天皇を最高指揮官とする軍隊の指揮命令系統を法的に定めたものだ。ところが、米英に譲歩をして1930年ロンドン海軍軍縮条約の締結にこぎつけた浜口雄幸内閣を拒絶し、軍部の超然性を主張するために、軍部指導者層が持ち出したのが11条を根拠にした「内閣は統帥権を干犯できない」という主張であった。明らかに、当時の軍部指導者層は、11条を拡大解釈して、自らの特権確保に都合の良いように濫用したのである。これについて、野党やメディアは、浜口内閣を攻撃するのに好都合と考え、「統帥権干犯」を非難する論陣に加わった。

戦前の日本を破綻させた大きなきっかけは、独善的な軍部指導者層と、日和見的な野党政治家とメディアの「統帥権干犯問題」をめぐる無責任な態度だった。

今回の事件で菅内閣を批判する論者の中に、「このままでは戦前の復活だ」といった昭和に使い古された議論を用いる方が目立つ。しかし「学問の自由干犯」の主張が、「統帥権干犯」の主張と同じ党派的な憲法の拡大解釈の精神構造によって生まれていないか、よく考えてみるべきだ。

 

学問の自由と制度的保障論

 

安保法制違憲論の急先鋒の一人であった憲法学者の木村草太教授は、今回の問題について、次のように主張して、政府を批判している。「憲法23条が保障する学問の自由には、『個人が国家から介入を受けずに学問ができること』と、『公私を問わず研究職や学術機関が、政治的な介入を受けず自律すること』の二つが含まれる。学術の観点から提言をする日本学術会議は、学術機関の一種だ。憲法23条は『公的学術機関による人選の自律』も保障しており、今回の人事介入は学術会議の自律を侵害している。学問の自由に、公的研究職や学術機関の自律が含まれるのは、一般的な解釈だ。」https://www.asahi.com/articles/ASNB27V60NB2UTIL04Q.html?fbclid=IwAR1uI3p1InAGalP5XiRTeQr7kTkCsOSnL23VwWAwPEIbO316FGKKLgaN1ZM

私にとっては久しぶりの木村節だ。教科書レベルの一般論の陳述の後に、根拠不明な「日本学術会議は、学術機関の一種だ」という断定と、「一般的な解釈だ」という多数派・通説の側にいるのが自分だという権威主義を織り交ぜて、結論が自明であるかのような印象を作り出す。いつもの木村教授の議論の方法である。

しかし、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし」、「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」(日本学術会議法前文・2条)という政治的性格を持つがゆえに「内閣総理大臣の所轄」(同法12)となっている日本学術会議は、果たして言葉の正確な意味での学術機関であろうか。果たして基本的人権としての「学問の自由」を根拠にして、不可侵の独立性を憲法によって保障されている組織だと言えるだろうか。相当に怪しいように思わざるを得ない。

次に「学問の自由に、公的研究職や学術機関の自律が含まれるのは、一般的な解釈だ」という点を見てみよう。ここで木村教授が言及しているのは、いわゆる「制度的保障論」のことであると思われる。これは、基本的人権の主体はあくまで個人だが、制度を保障しないと個人の権利が保障できない場合には、制度の保障が人権保障の観点から正当化される、という議論である。大学の自治が学問の自由の観点から保障されるのは、大学などの学術機関の制度的存在が保障されなければ、学問の自由という基本的人権の保障も、絵に描いた餅に終わってしまう、という制度的保障論の考え方による。

制度的保障論は、伝統的にドイツ法学の影響が根強い日本の憲法学で、数多くの議論がなされてきた分野だ。私は、この問題に精通した専門家を気取るつもりはない。しかし制度的保障論が、カール・シュミットの名と深く結びついていたり、ナチス・ドイツにも利用された経緯を持っていたりする概念であることくらいは、法律家ではない私でも、もちろん知っているくらいだ。法律家の方々が知らないはずはない。制度的保障論の濫用を通じた不必要な制度保障は、かえって基本的人権を阻害する。これについては数多くの議論を行ってきた憲法学者の方々が、誰よりもよく知っていることのはずだ。

制度的保障論を取り入れた憲法23条解釈を行って、いわゆる大学の自治といった制度的保障を認めていく「一般的な解釈」を根拠にして、「内閣総理大臣は推薦された日本学術会議会員候補の任命を拒絶することはできない」、という結論を導き出そうとする態度には、明らかに論理の飛躍があると言わざるを得ない。

 

素直な日本学術会議法の解釈

 

今回の事件があって、私も初めて日本学術会議法なる法律を読んでみた。結果、素直な日本学術法の解釈は、次のようなものではないかと思わざるを得ない気がしている。

日本学術会議とは、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし」、「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的と」した組織だ(同法前文・2条)。したがってこの組織の使命と目的は、学術活動を行うこと自体ではない。基本的人権を守ることでもない。日本の国家政策としての学術振興に寄与することが、この会議の使命・目的だ。

この政治的性格のために、「内閣総理大臣の所轄」とされ、構成員の任命も内閣総理大臣が行うことになっている。ただ内閣総理大臣が法律の目的に沿って「優れた研究又は業績がある科学者」を適切に任命するために、同会議は新規の会員の推薦を行う(同法7条2、17条)。内閣総理大臣による適切な任命に寄与することが、会議に会員を推薦させることの法的趣旨だ。

この際、任命者である内閣総理大臣は、推薦という寄与を受けながら、会員候補者が適切であるかどうかを審査する責任を持つ。内閣総理大臣は、当然、候補者一人一人の「研究又は業績」だけでなく、法の趣旨にしたがって、日本学術会議の使命と目的にも照らして、任命責任を遂行しなければならない。そうでなければ「経費は、国庫の負担」(同法1条3)である日本学術会議を「所轄」する者としての責任を、納税者や国民に対して負うことができない。そこに一定の裁量の余地が発生することは、当然だろう。

なお日本学術会議法は、その前文と第2条で、「科学者の総意」や「わが国の科学者の内外に対する代表機関」といった文言を用いている。しかしこれらは「使命」と「目的」の一部として用いられている概念である。そもそもどこにも「総意」や「代表」を確保する手続きがない。会議は「総意」を反映するように行動する使命を遂行し、「代表機関」として行動することを目的としなければならない、というのが法律の趣旨である。わかりやすく言えば、努力目標にすぎない。「学者の国会」というのは、その努力目標の観点から述べられる比喩にすぎない。

「総意」を反映し、「代表」として行動するために不断の自省を含めた努力をせよ、という指針ではあっても、万が一にも「学問の自由」の不可侵を旗印にして「所轄」責任を持つ者に対しても絶対独立を主張する根拠を与えるのが、この法律の趣旨であるとは思えない。

たとえば、もし会議が法の趣旨を逸脱し、「科学者の総意」を受けて「わが国の科学者の内外に対する代表機関」として行動しているか疑問が残る会員候補を推薦してきた場合には、内閣総理大臣が任免拒否権を行使して、「使命」と「目的」を守ることを期待するのが、法の趣旨だと考えるべきだ。

「学問の自由」と「研究又は業績」だけが内閣総理大臣の判断基準ではない。もしそうだとしたら、内閣総理大臣を任命者に定めている日本学術会議法は、的外れで欠陥のある法律だということになる。「使命」と「目的」に照らした政策判断を行う責任を内閣総理大臣に求めているからこそ、任命の権限を内閣総理大臣に与えているのが、この法律の法体系の素直な理解だ。

 

政策論をせよ

 

結論としては、内閣総理大臣の任命拒否権の行使が違憲だとか違法だとかという糾弾は、控えめに言って根拠薄弱だと言わざるを得ない。

ただし、この指摘は、政策論における結論を先取りするものではない。政治的重要性を鑑みて、内閣総理大臣は説明責任を果たすべきだ、任命拒絶の理由は政策論的観点から議論の対象にするべきだ、といった意見には、私も全面的に賛同する。尊敬すべき政治学者である宇野重規教授が「優れた研究又は業績がある科学者」である点には、いくぶんかの疑念の余地もない。疑う見方には断固として反対する。

ただし仮に内閣総理大臣の行動に問題があるというのが議論の結論になる場合には、最終的には選挙を通じた民主的な審判を通じて、内閣総理大臣の行動の是正が図られるべきだ。それが民主主義国家のルールであり、日本国憲法を頂点とする日本の立憲主義の仕組みだ。

いやあ実は選挙では勝てそうもないので、民主主義のルールを回避し、「学問の自由」云々といった話を持ち出して問答無用の攻撃をして、印象操作でとりあえず内閣支持率の低下を目標としよう・・・、といった態度は、邪道であり、有権者に対する裏切り行為である。