日本学術会議は、文系学者が会員の3分の1を占めているだけでも不思議なのだが、そのうちの2割以上が法学者にあてられてきたことも不思議である。さらにその法学者のうちの少なくとも3分の1程度が共産党系の民主主義科学者協会法律部会の元理事などで占められてきたのは非常に不思議である。
従来から共産党に近い学者が多いとされる「憲法学者」集団は、日本学術会議の既得権益に深く入り込んだ集団である。ひょっとしたら、ここはあえて黙っておこうという配慮が働くのかと思えば、全く逆になっていることに茫然とする。
「憲法学者」は、極めて統制の取れた運動家ロボット集団のように「学問の自由を守れ」といったことを叫び、何か人類史に残る弾圧でも起こったかのような仰々しい言葉を並べて自らの不幸を嘆き続けている。
多少なりとも関心がある者には自明であったことが、今回の事件でさらに広く露呈したのではないだろうか。日本社会における「憲法学者」なる存在が、単なる党派的運動家たちの集団でしかない、ということが。
なぜそう言えるのか、三つの観点から説明しよう。
第一に、憲法学者は、議論よりも運動を重んじる。百歩譲って、日本学術会議問題に学問の自由の論点が関わる点があるとしよう。しかし世間一般では、多くの人々が、私も含めて、学問の自由の論点は関係がないと公に述べている。学者ではないが、日本の内閣総理大臣も、内閣法制局の確認を得て、そう述べている。それなのに、「これが学問の自由の侵害であることに一切異論の余地はない、憲法学者の間に一切の異論はない、だから菅政権は退陣せよ!」といったことを記者会見を開いて集団で主張することに余念がないのが、憲法学者なる極めて特殊な社会集団である。百歩譲って憲法学者であれば必ず100%そのように信じている人以外には存在していないのだとして、一切何ら異論を唱える議論の余地がなく、それを認める機運も絶対にない、としたら、本来であれば運動ではなく議論を尊重するはずの学術専門家の集団として、相当に異常である。
第二に、全体主義カルチャーが半端ではない。憲法学者と名乗るのであれば全員が同じ意見でなければならない、という統制がすさまじい。しかもその内実は一握りの東大出身の人物の発言によって左右されている。学会内に争いがあるとすれば、その全体主義集団のボスの跡目争いで「俺が」「いや俺だ」がある程度で、果てしない「マウント」競争があるだけだ。このような異様なレベルの権威主義に全体主義を組み合わせた学界は、日本でも相当に特異で異常だと言わざるを得ない。
第三に、学会の全体主義的総意として運動方針とされる内容のイデオロギー性が常にあまりにも明らかすぎる。世間一般で言うところの左翼系である。共産党系である。それ以外の意見に学界の総意がまとまる可能性がない。あらゆる社会問題について、左翼系の意見以外に憲法学者の集団から何らかの意見が聞かされることはない。恐らく異論は、認知される前に、学界から排除されるだけなのだろう。そもそも鋼鉄の人事システムのために、異論を公にしながら、大学のポストを得て憲法学者なるものになる可能性は乏しい、ということだろう。恐るべきは、「憲法学者」と特定の左翼系メディアの結びつきが完全に固定化されていることだ。「憲法学者」は特定メディアだけが真のメディアであるかのように語り、特定メディアは憲法学者の全体主義的に統制された意見だけが「学者の意見」であるかのように語る。団塊世代がまだ存在している間だけの時限付きビジネスに一つの学科に属する人々全員が群がる様子には、非常に強い印象を受ける。
木村草太・東京都立大学教授の例を取ろう。固定ファンに向けて、自らの絶対無謬性を語り、自らが「ミスター憲法学者」であるかのように振る舞うことに余念がない。そして、自らと違う意見を表明する者を徹底的に見下して卑下する攻撃的な言葉を羅列することに異様な執念を見せる。https://news.yahoo.co.jp/articles/1605950bb99596e6c6546634826c64713f033b4e
木村教授は、学術的に言って、何の専門家なのか。学会報告と称して、三国志の登場人物になぞらえて自分の意見と違う者を揶揄する冗談のような報告などを、堂々と公にしているのを見ると、真剣な疑問を感じざるを得ない。(木村草太「集団的自衛権の三国志」全国憲法研究会(編)『憲法問題28』[2017年])。
十分な数の固定ファンがいるだろう。木村草太教授には、早く大学を辞めて、手ごろな政党から立候補し、堂々と政治家に転身してほしい。
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コメント一覧 (216)
事実認識として、そこにいう細菌をことさらに「インフルエンザ菌」と同一視して、「インフルエンザ」という名称の外形のみの一致をもって議論を「インフルエンザウイルス」が原因で起こるインフルエンザに牽強附会に短絡させ(すり替え)、あまつさえ、新型コロナとインフルエンザの重複感染が懸念されるという一般的な議論に自らの誤訳という失態を「解消する」(διαλύω)ことで有耶無耶にし、まるで誤訳がなかったかのように、問題自体を葬る(ἆποτίθεσθαι)姿勢が、知的な誠実さの欠片もない老婆の「虚偽体質」そのものだということだ。
115でごく常識的な理解をもって、老婆の主張の不当性と虚偽性、端的に言えばごまかしをたしなめている「私の通りすがりの老人」氏も異論はあるまい。詐術は火を見るより明らかだ。
114③⇒【ミネルヴァの梟についての原文を読んでも、同じようなことを感じた】――何をもって「同じようなこと」なのか、一向に要領を得ない文章、主張で、個別具体的な論証を、ヘーゲルのテキストに基づいて独力では何らできない「哲学音痴」らしい迷文、妄語だ。
蜘蛛の巣(τὰ ἀράχνια)が張った老婆の憐むべきお頭で理解可能な内容をヘーゲルの文章に読み込んでも、それはヘーゲルとは無縁な愚劣な老婆の理解を投影しているにすぎない。老婆には、その具体的な指摘さえ皆無だ。無学たる所以だ。
ソクラテスの無知の自覚(οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι)、即ち老婆の主張する「無知の知」を「無知を知る」(γιγνώσκω ἀμαθίαν)ことと誤認し、特別の知であるかのようの思い込んでいるのと同様だ。
底知れぬ無学は手の施しようがなく、下手なピアノ演奏と同じで、憐れを誘う。
「事の終はその始よりも善し 容忍心ある者は傲慢(ほこる)心ある者に勝る/汝氣を急くして怒るなかれ 怒は愚なる者の胸にやどるなり/…/智慧の上に財産をかぬれば善し 然れば日を見る者等に利益おほかるべし/…/幸福ある日には樂め 禍患(わざわひ)ある日には考へよ 神はこの二者をあひ交錯て降したまふ 是は人をしてその後の事を知ることなからしめんためなり/我この空の世にありて各様の事を見たり 義人の義をおこなひて亡ぶるあり 惡人の惡をおこなひて長壽あり」(ἀγαθὴ ἐσχάτη λόγων ὑπὲρ ἀρχὴν αὐτοῦ, ἀγαθὸν μακρόθυμος ὑπὲρ ὑψηλὸν πνεύματι. / μὴ σπεύσῃς ἐν πνεύματί σου τοῦ θυμοῦσθαι, ὅτι θυμὸς ἐν κόλπῳ ἀφρόνων ἀναπαύσεται. / … / ἀγαθὴ σοφία μετὰ κληροδοσίας καὶ περισσεία τοῖς θεωροῦσιν τὸν ἥλιον• / ……/ ἐν ἡμέρᾳ ἀγαθωσύνης ζῆθι ἐν ἀγαθῷ καὶ ἐν ἡμέρᾳ κακίας ἰδέ• καί γε σὺν τοῦτο σύμφωνον τούτῳ ἐποίησεν ὁ θεὸς περὶ λαλιᾶς, ἵνα μὴ εὕρῃ ὁ ἄνθρωπος ὀπίσω αὐτοῦ μηδέν. / Σὺν τὰ πάντα εἶδον ἐν ἡμέραις ματαιότητός μου• ἔστιν δίκαιος ἀπολλύμενος ἐν δικαίῳ αὐτοῦ, καὶ ἔστιν ἀσεβὴς μένων ἐν κακίᾳ αὐτοῦ.; ΕΚΚΛΗΣΙΑΣΤΗΣ, VII. 8~9, 11, 14~15, Septuaginta, Vol. II, p. 250~51)
人は順境(εὐπραξί)なら醜悪さを露呈せずに済むが、逆境(δυστυχίαι)だと本性を露わにして修養が足りないことを示す。すべて、思慮次第なのだろう。
インフルエンザ菌にしても同じである。インフルエンザは、ウィルス感染だ、それを細菌感染に訳している、それは致命的な誤訳だ、と三段論法にするから、カロリーネは無知で無学の老婆になるが、本来の私の趣旨は、Covid19と重複感染すると重症化する物質を、Bakterienの訳語だから菌、と名付けたい、インフルエンザ菌という言葉が存在するからそれを使った、というのが私の趣旨である。理由は、他の記事でその危惧の為にドイツ政府がインフルエンザワクチンの手当てを万全にしている、ことを知っていたし、日本政府も今年は65歳以上の高齢者には優先的に、ワクチン接種を促した。何のために、去年と違って、65歳以上の高齢者に優先的に、しかも無料で、ワクチン接種をするか、反氏や老人は考えるべきなのである。私がこんなことを書くのも、昨年夫がインフルエンザに感染し、インフルエンザワクチン接種を受けていた健康な私は、感染しなかった記憶があるせいで、これが今年だったら、と話し合ったせいもある。もちろん今年は、高齢者世帯の私たち夫婦は、二人そろって、インフルエンザワクチン接種を受けた。
>Bakterienの訳語だから菌、と名付けたい、インフルエンザ菌という言葉が存在するからそれを使った
翻訳というものは、「○○したい」という翻訳者の願望のみによって訳語を選択していいものなんですか?
繰り返します。
もし、どうしても貴女の問題意識(「重複感染」の重大さを説きたい)を反映させるのなら、せめて「細菌及びインフルエンザウィルス」とすべきであって、単に「インフルエンザ菌」と訳してしまえば「肺炎球菌」やそれこそ「(細菌ではない)インフルエンザウィルス」を含意しないことになってしまうのです。
なぜなら、これも繰り返しになりますが、「インフルエンザ菌という【言葉】が存在する」という発想(表現)は不適切で、まさしくこの言葉に対応する特定の細菌が存在するからです。「インフルエンザ菌」というのは漠然と一群の病原体を指す「日常用語」ではないのです。
ここからは私見ですが、国会対策の観点から野党に譲歩しすぎの答弁ラインを設定してしまった当時の国会答弁が「学問の自由」を主張する根拠の一つになっており、今回の混乱に拍車を掛けているように思います。
カロリーネ氏が好きな日本版ウィキペディアによれば、「憲法普及会(けんぽうふきゅうかい)は、1946年12月1日、GHQの指導により、貴族院・衆議院の両院と政府が、帝国議会内[1]に創設した[2]日本国憲法を普及するための団体。」と記載があるのみであり、会長の任命権者が首相とは限りません。帝国議会の議決等による就任の可能性もあり得ます。
いずれにしても、芦田修正の意図が議論されることはあっても、公共の福祉や人権に関する芦田等の憲法解釈論が裁判実務、内閣法制局、憲法学者等の憲法解釈において参照されることはないように思います。
「芦田等」→「芦田均」
どの言葉を選ぶか、それが翻訳者の裁量である。どの法律を適用するか、が裁判官の裁量であるのと同じである。政府解釈氏の訳だと、B akterienの言葉の訳がいきない、そこに誤訳が生じるのではないのだろうか?いま考えるべきことは、コロナウイルス感染者を重症化させないことなのであって、それさえなければ、症状が風邪と変わらないのなら、ある程度感染者が増えても心配がいらない。その線引きをどこに置くか、の問題なのである。PCR検査を増やしても、その線引きはてきない、ことを主張しているのである。
私は以前に「インフルエンザ菌」の誤訳を指摘したことがありますが最近のコメントでは指摘したことはなく、「通りすがりの老人」氏と反時流的古典学徒氏の指摘が確認できます。私が直近のコメントで指摘したのは法律に関する事柄だけです。
その上で申し上げれば、翻訳者に一定の裁量があるとしても、裁量の枠を越える場合は誤訳となります。
なお、季節性インフルエンザの流行期に備えた検査体制の拡充についての政府の方針については、以前にもご紹介しましたが、下記をご覧ください。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000664805.pdf
最高裁判所の裁判官も、国民投票で罷免できるのであって、東大系の憲法学者や日本学術会議が罷免できるわけてはない。それが、民主主義政治なのである。安部首相が、日本の憲法には、自由と権利は、あるが、義務や責任についての言及が少ない、と述べられたことがあったが、そうしたのは、憲法学者なのであって、もともと民主主義政治は、責任政治であり、その政治家を選んだ国民にも、責任がある、と芦田均さんは、解説しておられる。そのような人物を芦田修正をネタに笑い者にするプライドばかり高い憲法学者たちの学識と品性が低いのだ、と私は考えている。
コメント98で紹介されているピアノ演奏とカロリーネ氏のコメント128との間の優劣は、仮に両者が同一人物だと仮定しても比較対象の次元が異なり本来的には「比較不能」な問題ですが、敢えてカロリーネ氏の投稿内容と比較をして当該ピアノ演奏を見ると随分と上手いのではないかという印象をもってしまいました。
なお、私は、反時流的古典学徒氏や自称「音楽学者」のカロリーネ氏とは異なり、音楽についての論評能力は全くありませんし、私のピアノ演奏能力は著しく低いので、相対的に甘い評価になっている可能性は否定できません。
114⇒【日本語の概要は、こう…それに対して、論争となっていることは、いわゆるSuperinfektion、スーパー感染、つまり重複感染の危険性、つまり…】――「論争となっていること」が[Unumstritten]の訳語なら、端的に誤りだ。老婆は、形容詞の[unumstritten](論議の余地のない、異論のない)を名詞化した[Unumstritten]を、不注意から[Umstritten](議論の行われている)と取り違えている。極めて初歩的なミスだ。
[Unumstritten]→[unumstritten]は、老婆の議論がごまかしであるように、「阿呆」なのは「明々白々の事実」(eine unumstrittene Tatsache)、「~は議論の余地がない」(Es ist unumstritten, daß~)のように使う。
こともあろうにそれを、ドイツ語に50年近く親しんだはずの老婆は、前綴りの[un]を見落として[umstritten]=「〔それをめぐって〕議論がある、異論の余地がある、評価の定まらない」と取り違える、つまりDer Spiegelの当該記事冒頭の文章を誤訳していることに、未だに気づいていない。
その程度の「ボンクラ」が、やれ、[Bakterien]の直訳がどうのこうのとか、重複感染の危機云々を議論したつもりになって、ますます意味不明な愚劣な言い逃れに終始するのだから滑稽だ。
ましてや、その程度の散漫な注意力と凡庸なドイツ語の読解力で、「ミネルヴァの梟」の一節を含むヘーゲルの文章を理解したと勘違いしているのだから、滑稽を通り越して、狂気の沙汰というしかない。
日本語が普通に理解できる普通の小中学生が、日常の「読み書き話す」能力に不足はないからといって、原文で『源氏物語』が理解できると錯覚したり吹聴するのと同じ程度の「戯画」でしかない。
老婆が嘘つきで阿呆なのは[unstreitig](争う余地のない)事実だ。
>その制約の中で、ことばを翻訳者が選び出してゆくものである。どの言葉を選ぶか、それが翻訳者の裁量である
貴女は、その制約を逸脱しているんです。そして私の主張の趣旨は、その逸脱を指摘されてもなお頑なに撤回しようとしない貴女の知的不誠実な態度に関するものです。
私は小学生てはない。高校で古文をとりいい成績で卒業した。ドイツ語も同じてある。ドイツの大学に語学試験なしで入学できる資格をもっている。その際に、言葉の選択、という教科書で勉強したのだ。同じような言葉でもニュアンスが違う。これをつかうのご、ポリティカルコレクトネスだ。ドイツ人の先生のドイツ語での説明は、そのニュアンスが楽しい。そのように勉強した人間を京都大学で哲学を勉強したという理由で、無学
こういうレスをするから読解する能力がないと言われるのです。
通りすがりの老人氏も反時流的古典学徒氏も「具体的な例」を出して誤訳していると述べられているのに、そのことに対しての返事をごまかし続け、それが通ると考えているなら阿呆と言われても仕方ない。
東大や京大に拘り、その反面で自分はよい成績をとっていたなどと昔のことを自画自賛しても、むしろ自分を貶めているだけで赤面しそうなだけ。
今、カロリーネ氏に求められているのは感情的になることでなく、相手に対する誠実な受け答えでしょう。
日本国憲法の施行日に各家庭に配られた「新しい憲法、明るい生活」の最後は、「私たちは新憲法の実施を迎え、新日本の誕生を心から祝うとともに、この新憲法をつらぬいている民主政治と国際平和の輝かしい精神を守り抜くために、全力を尽くすことを誓おうではないか。』、となっているが、東大系の憲法学者に民主政治の本質がわかっているのだろうか?私はそこを問題にしているのである。民主政治は、反権力でも、学者が政治を牛耳るのではなく、普通の人の経験にお互いにきく耳をもって、妥協して進めていくものなのである。どうしても自分の主張を押し通そうとするから、分断政治となって、力の政治、対決の政治になってしまうのである。
また、国民の代表者が首相に選んだ自民党の政治家、特に首相であった安倍晋三さんを目の敵にして、あることないこと批判の種にして、糾弾し続けた東大系憲法学者の態度も、民主政治がわかっておられるとは、到底思えない。また防衛、日本国民の平穏無事な生活のために、集団的自衛権は必要なのだ、という前提もまるでわかっておられない。どうしてその現実を理解されないのかはかりしれない。
「日本学術会議」の幹部の学者たちは、民主政治と国際平和の輝かしい精神を守り抜くために、なにが必要だと思われているのだろうか。そこが非常にあいまいになって、ただ、「学問の自由を」になってしまっているが、、本来「学問の自由」は一生懸命努力して、大切に守ってゆくものである。その学問は、東京大学医科学研究所のグループリーダー河岡義裕教授の実験のように、本当に日本国民や普通のアメリカ人の為になるものなのだろうか?ただの老婆に過ぎないカロリーネだけれど、祖父が貴族院議員の一員として日本人の「明るい生活」の為に一緒に作り上げた日本国憲法なのだから、その憲法のつらぬいている民主政治と国際平和の為に、日本人の一人として、全力を尽くしたいと思っている。
1. まず原文からの逸脱した翻訳と認められるでしょう。また、どうしても貴女の問題意識を反映させて翻訳するとしても
「細菌及びインフルエンザウィルス」とすべきであって「インフルエンザ菌」の語を用いてはいけません。
「インフルエンザ菌」というのはある特定の細菌です。もし「インフルエンザ菌」の語をもって"Bakterien"に充てれば、
「肺炎球菌」のことは考慮しなくてもよいということにもなりかねません。
専門技術的(この場合は医学)な言葉の翻訳は正確を期さねばなりません。
2. インフルエンザウイルス(influenzavirus)とインフルエンザ菌(haemophilus influenzae)の区別を知らずに、
インフルエンザ菌をインフルエンザを引き起こす原因病原菌としての「細菌」=[Bakterien]と誤認したことだ。
それが、致命的な誤訳を招き寄せた。それ以上でも、以下でもない。
3. 114⇒【日本語の概要は、こう…それに対して、論争となっていることは、いわゆるSuperinfektion、スーパー感染、
つまり重複感染の危険性、つまり…】――「論争となっていること」が[Unumstritten]の訳語なら、端的に誤りだ。
老婆は、形容詞の[unumstritten](論議の余地のない、異論のない)を名詞化した[Unumstritten]を、不注意から
[Umstritten](議論の行われている)と取り違えている。極めて初歩的なミスだ。
できれば上記はカロリーネさんに対してのコメントなので、1,2,3と具体的な!返答をそれ以外の話題に逸脱せずにお願いします。
申し訳ない、支障ないことを願います。
「インフルエンザ菌」以外にもいくらでもある「明白な」(φανερός)誤訳を頬被りして、分裂症(Schizophrenie)気味の投稿、132・133⇒【どこまで老婆カロリーネをばかにするつもり…同じような言葉でもニュアンスが違う…そのように勉強した人間を京都大学で哲学を勉強したという理由で、無学だとレッテルを貼る】も何もあったものではない。
[Unumstritten]と[Umstritten]の区別もつかないようでは、それこそ、132⇒【ドイツの大学に語学試験なしで入学できる資格をもっている】、自称(ὄνομα καθ’ αὑτόν)「音楽学者」で、投稿は⇒【50年間近くドイツ文化に慣れ親しんだ…「継続は力なり」】(2018年9月1日・18)とか、⇒【長い間ドイツ文化を勉強し…神髄を知る年長者】(同9月14日・23)とか豪語(=吹聴)していた肩書、虚飾の看板が泣くというものだ。
無駄な「自殺行為」(ἑαυτὸν κτείνειν)に等しい愚劣な投稿(ὁ ἔρανος λόγον)=及び「盗稿」をこれ以上重ねるのではなく、それこそ白旗を上げて、投降(ἡ παράδοσις)したらよい。投稿する(συμφέρειν λόγον)のではなく(ἐνδιδόναι)、降参する(παριεναι)することで、これ以上の汚辱を免れよう。
ところで、私は議論の根拠として、132⇒【京都大学で哲学を勉強】云々を少しも言及していない。ヘーゲル解釈は、ドイツ語を母語とするドイツ人ですら、正確な読解には近何んを伴うし、ましてや無学な老婆には荷が重かろうと指摘しているにすぎない。
そら婆さん 村の雀の 言うことにゃ 話すり替え いかんなレスぞ
間違えた ばれて恥ずかし どうしよう 知らないふりか 怒って見せる
反論に窮すると全く関係ない話に話題を転じる。何んともいたましい自傷行為で、莫迦丸出しの「婆さんデマゴーグ」(γραῦς δημαγωγός)ぶりを発揮して大言壮語(μεγαληγορία)をものともせず、「クズ」のような投稿を懲りずに撒き散らす。
憲法論議の場合、無学な老婆の信心のよすがは、今や聖域(τὸ ἱερός)、神域(τὸ τέμενος)と化した「神聖にして犯すべからざる」、「芦田均教」ならぬ「芦田均狂」の布教活動。
憲法学の基本書など読んだこともない老婆にとって、コピペし放題の芦田の戦後直後刊行の片々たる小冊子『新憲法解釋』(ダイヤモンド社、1946年)の電子版くらいご利益のあるものはないようだ。
かつて、左翼と論争して負けたことがない福田恆存も「第九条絛に關する芦田修正の如きは、三百代言の放言に過ぎぬ」(『問ひ質したき事ども』、『福田恆存全集』第7巻、594頁)と称した愚劣極まる「法匪」の論理が、蜘蛛の巣だらけのお頭には、堪えられないありがたい真理に聞こえところなど、まるで秘儀(τελετήs)、邪教(ἡ κακὸς εὐσέβεια)に狂奔するエウリピデスの悲劇「バッコスの信女」(Βάκχαι)さながら。
パスカルは、「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう。」(前田陽一訳=‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’; Pascal, B., “Pensées”, Frag. 358: Œuvres. par L. Brunschvicg, Tom. 13, p. 271)と戒めているが、とにかく(οὖν)、狂信家のお頭というのは、図りがたいものだ。
引用していただいてむしろ光栄に思います。
ただ読み返してみて、先に私が「翻訳するとしても「細菌『及びインフルエンザウィルス』とすべき」と申したのは言い過ぎだったと後悔しています。いやしくも「翻訳」と称するなら「及びインフルエンザウィルス」と付け加えるのはまずいですね。あくまでも余計な付加をせず翻訳して、カロリーネさん自身の意見として付け加えるべきだと言わねばなりませんでした。
もっとも、引用部分と自分の主張部分を区別することができないカロリーネさんにそれを求めても無駄だとは思いますが。
141. カロリーネさんへ
>インフルエンザウィルスの意味で、インフルエンザ菌という言葉を使ってもいい、と書いてあったと思ったのですが、改定され、インフルエンザウィルスとインフルエンザ菌は別の病気を引き起こす、と規定されている
私にはWikipediaの編集権はありませんが、編集履歴を見ることは可能です。
日本語版【インフルエンザ菌】については、直近の履歴は7月18日で貴女の主張とは無関係な内容です。また、貴女のいう「改定され」た後の記述については、以前に政府解釈さんが言及されていたと記憶します。
ええ加減にせえ!
ただ、インフルエンザウィルスの時は、私の主張したいこと、インフルエンザウィルスとの重複感染がCovid19を重症化させる、という内容が本文の訳になかったのです。Bakterienは、細菌のことですし。それで、ウィキで確かめて、インフルエンザ菌と訳してもいいかな、と思って、インフルエンザ菌と訳したのです。肺炎球菌なら、細菌の一種なので全く問題なく、この本文の訳で重症化させる要素になりますが、インフルエンザウィルスの方が。現実の日本の社会生活に影響が大きいと思った。けれども、訳の場合は細菌と訳さなければならないからそのジレンマがある。老婆が自分の意見として書いて、どれだけの信頼性があるのでしょう?もう少し、他の文献を入れて、構築すべきだったとは、反省しています。
基本書を読まないで、どのように試験を受けるのだろうか?妄想で人におかしなレッテルをはりつけるのをやめていただきたい。立派な人権侵害なのではないのだろうか。また、反氏の尊敬される福田恆存と芦田均を比べて、どちらが国際法の見識が高いのだろう。その見識と能力を買われて帝国議会の衆議院帝国憲法改正小委員会の委員長だったから、9条の修正に芦田修正という名前がついているのである。
要するに、楠山義太郎さんや、篠田英朗教授が主張されているように、マスコミ知識人、つまり、日本のマスコミの実権を握っている人々には、国際感覚が欠如しているのである。現実世界の法律の運用がわかっておられるとはとても思えない。
勝手な設問に応えていただきありがとうございます。
上から目線で申し訳ないが、投稿するなら自分語りで自身を着飾らず、また気儘な話題に迷走せず、まずは他者との食い違いの論点、内容を吟味して一つずつ整理して接点を見つけてください。
それは所謂「原罪意識」に通じるが、狂気というのは、そうした自覚を全くもたないか、それを気に病むことがない「狂信家」に宿ることを示唆している。
パスカルは、こうも指摘する。
「人間は、おまえは莫迦だと度々言われると、そう思い込み、またおれば莫迦だと自分に度々言いきかせると、そう思い込むようにできている。なぜなら、人間は一人で自分と内的な会話をするからである。そこでそれをよく調節するのが大切である。『悪い交わりは、よいならわしを損なう』。われわれはできるだけ沈黙し、われわれが真理であると認めている神とだけ語らなければならない。そうすればわれわれは真理を自分に納得させることができる。」前田訳271頁〔一部表記を変えた〕=‘L’homme est ainsi fait, qu’à force de lui dire qu’il est un sot, il le croit; et, à force de se le dire à soimême, on se le fait croire; car l’homme fait lui seul une conversation intérieure, qu’il importe de bien régler: Corrumpunt bonos mores colloquia prava. Il faut se tenir en silence autant qu’on peut, et ne s’entretenir que de Dieu, qu’on sait être la vérité; et ainsi on se la persuade à soi-même.’; Frag. 536, ibid., p. 424)
そうではない人間が本欄には跋扈している。良心(συνείδησις)という言葉の原義は、「自らとともに」(συν)知る(εἰδησις)という意味だ。
村雀氏は私の130をコピペしたと断っているではないか(140)。そのコピペを再度コピペして愚劣な言い訳を並べる料簡を、性根が腐っていると言う。
146⇒【反氏は、憲法の基本書を読んでない、と断定されるが、大学の教養科目で、憲法も、法学もとった…基本書を読まないで、どのように試験を受けるのだろうか? 妄想で人におかしなレッテル】――一般教養課程で使用する教科書、凡百の概説書を、憲法学の「基本書」とは言うまい。老婆の学生時代なら宮澤俊義と清宮四郎による有斐閣の二冊本の体系書のような書物だ。
その程度の常識もない無知無学な婆さんが何を言っても無駄だ。芦田の『新憲法解釋』も、もちろん基本書の部類には入らない。その程度のことは、老婆の誤訳や綴りの間違いを発見するのと同様わけもない。特別類推する(εἰκάζω)必要もない。
根拠なき(μάταιος)妄想やレッテル貼り(προσάπειν ἐκμαγεῖον)、「印象操作」(κακῶς εἰκάζειν περ)でないことを論証するため、130で誤訳を証明したではないか。見え透いた弁解(ἀπολογία)、言い逃れ(πρόφασις)は、自らの莫迦さ加減を増幅させるだけだ。明後日の方で戯けた寝言を並べているものではない。「阿呆」と恥知らずの証明は出尽くしている。
「…われわれをして善を不可能ならしめるほどの卑下でもなく、悪からまぬかれしめるほどの清浄でもない。」(前田訳270頁=‘… Non pas un abaissement qui nous rende incapables de bien, ni une sainteté 1 exempte du ma.’; Frag. 526, ibid., p. 421)
「われわれは欠点を指摘してくれる人びとに大いに感謝しなければならない。なぜなら、彼らはわれわれを鍛えてくれるからである。彼らはわれわれが軽蔑されていたことを知らせてくれるが、将来われわれが同じことを繰り返すのを止めてはくれない。なぜなら、われわれは軽蔑されるような欠点をほかにたくさん持っているからである。でも、彼らは矯正の実行と、ある欠点からの脱出とを用意してくれる。」(前田訳271頁=‘On a bien de l’obligation à ceux qui avertissent des défauts, car ils mortifient; ils apprennent qu’on a été méprisé, ils n’empêchent pas qu’on ne le soil à l’avenir, car on a bien d’autres défauts pour l’être. Ils préparent l’exercice de la correction et l’exemption d’un défaut.’; Frag. 535, ibid., p. 423~24)
とにかく、愚鈍で驕慢な人間は自ら墓穴を掘る。死ぬまで治るまい。
「悲惨は絶望を引き起こす。高慢はうぬぼれを引き起こす。神の子が人となられたことは、人間が必要とした救いの偉大さによって、人間の悲惨の偉大さを人に示すものである。」(前田訳269頁=‘La misère persuade le désespoir, l’orgueil persuade la présomption. L’incarnation montre à l’homme la grandeur de sa misère, par la grandeur du remède qu’il a fallu.’; Frag. 526, ibid., p. 420)
齢70近い憐むべきちっぽけな魂の迷盲は容易に解けないようだ。笑止にも嘘つきと以前盛んに批判していた首都の女帝(ἡ βασίλισσα μεγάλη πόλεως)、驕慢な女王蜂(ἡ μἡτρα)ほど抜け目なく(φρονίμως)狡賢い人物(πανοῦργος)でもなく、ひたすら凡庸で愚鈍かつ退屈なだけだ。
「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)幼稚な自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)に、溜め息しか出ない。[完]
1日13件も投稿されては、一々まともに取り合ってなどいられないが、136⇒【私は、ごまかしてなどいない。反氏が引用されたSpiegel誌の本文…】――私が111で掲げ、老婆が笑止にも114でコピペして再録し、同時に致命的な(θανάσμος)誤訳を再度やらかしたドイツ語のDer Spiegelの記事は、元々は再三なる「通りすがりの老人」氏の要求、というか追及によって、老婆が9月18日・324で渋々提示したものだろう。
その点で、老婆にとっては旧知の文章であるはずだ。「反氏が引用された」云々と、まるで他人事のような書きぶりだが、開いた口が塞がらない。しかも、私が頃合いとみて指摘するまで誤訳に気づかないのだから、「ミネルヴァの梟」どころの騒ぎではなかろう。
通常の神経だったら、先の西神中央駅でのお粗末なピアノ演奏同様、穴があったら入りたい心境になるものだが、ピアノ線、つまりワイヤーを凌ぐクジラの髭並みの図太い神経のもち主である偏執狂の老婆にかかると、136⇒【説明を理解しようとする努力をせず、ごまかしている、という人々がどうかしている】のような呆れた繰り言、怨み節になる。
そして、それをことごとく憲法学者、野党、メディア批判に短絡させるご都合主義の妄言に終始する。
145⇒【ほとんどの部分は、引用と自分の意見を分け】も大嘘で、老婆が引用符で明確に自分の文章と引用箇所を区分けしたことなど、絶えていない。その悪質な例は、篠田さんの今回の文章をコピペと切り貼りで仕立てた、コピペ率86.98 %の10月24日・46だ(詳細は58参照)。引用符など一切なく、「引用と自分の意見を」全く分けていない。老婆以外には、何ぴとも為し得ない芸当だ。だから、「盗稿」という。
「人間というものは自分の経験に合わせて、過去の記憶をつくり変える」(‘οἱ γὰρ ἄνθρωποι πρὸς ἃ ἔπασχον τὴν μνήμην ἐποιοῦντο.’; Thucydides, Historiae, II, 54-3)
一言で言えば、狂信的な女集団のことだ。つまり、渡来の酒の神ディオニューソス(Διόνυσος=Dionysos)=バッコス(Βάκχος=Bakchos)の供の女で、酒神によって没我の境地に入り、狂気に取り憑かれ、蔦や樫、樅の葉の頭飾りをつけ、身には豹のその他の動物の毛皮をまとって、半裸の状態で山野をさまよい、大木を引き抜き、猛獣を八つ裂きにして(σπαραγμός)その生肉を喰らい(ὠμοφαγία)、あらゆるものごとの正常な判断を忘れて狂乱した信奉者の女たち――エウリピデスの『バッコスの信女』はばっけー宗教的陶酔に翻弄される人々を描いたものだ(戯曲名[Βάκχαι]は[Βάκχη]の複数形)。
老婆の狂態に重なる。
「人もし口を慎まず、心なき無法の振る舞いあるときは、必ず果ては禍いを招く。静かなる生活を送り 心してほどを守れば、危うきことにあうこともなく、家もまた安らかならん。神々ははるかな空に在(いま)せど、人間の業を見守りたもう。賢(さか)しきは真の智慧にあらず、人間のほどらいを過ぎたる思いもまた。人の生命は短く、さればこそ あまりに大いなることを追い求めては、目前のものを失いやすし。かくのごときは、心狂いたるもの はた愚かなるものの 仕業とのみ思わるる。 願わくは、アフロディーテのお住居 キュプロスの島に行かなん、人間の心を魅する エロスらの住まうところ。…ああブロミオスよ、かなたへこそ、われらを率い 先立ちて導きたまえ。かなたには優雅の女神、憧れの神もともに在し、信女らの舞う狂うとも 咎めもあらず。」(松平千秋訳)
138⇒【ただの老婆…だけれど…民主政治と国際平和の為に、日本人の一人として、全力を尽くしたい】――狂信家の何やら悲壮な(τραγικός)、いや皮相な(οὐ βαθύς)決意のようだ。憂国の女闘士らしい。
「キリスト教は奇妙である。それは人間に、自分がくだらない、しかも憎むべきものですらあることを認めよと命じ、また彼に、神に似ることを願えと命じる。このような釣り合いをとる錘がなかったならば、その高挙は彼をおそろしく空虚にするか、その謙虚は彼をおそろしく卑屈にするかしたことであろう。」(前田訳271頁=‘Le christianisme est étrange. Il ordonne à l’homme de reconnaître qu’il est vil, et même abominable, et lui 1 ordonne de vouloir être semblable à Dieu. Sans un tel contrepoids, cette élévation le rendrait horriblement vain, ou cet abaissement le rendrait terriblement abject.’; Frag. 537, ibid., p. 424~25)
何やら莫迦くさいが、精々気張ったらいい。
当時冷戦時の国際政治も絡む政治的背景での「学問の自由」を強調(国民による公務員の選定罷免権よりも)した政治的リップサービスとも考えられます。公務員の選定罷免権の考慮はそれ以前からもあり、学術会議を特別扱いする法的理由もありません。まぁー!この答弁が、政府解釈さんや反時流的古典学徒さんのご指摘!?のとおり、無用の混乱を生じさせているのかも知れませんw 最後は世論戦ですかね。
>老婆が自分の意見として書いて、どれだけの信頼性があるのでしょう?
つまり貴女は「自分の言葉には信頼性がない、故に自分の言葉としてではなく"Spiegel誌"に仮託して自分の意見を語ろう」と原文を捏造していつもコメントしていると理解してよろしいですか?
また、誤訳自体はお認めになったようですが、貴女のコメントでは名宛人がはっきりしません。この2ヶ月ほど政府解釈さん、反時流的古典学徒さん及び不肖「通りすがりの老人」が、貴女の誤りを正そうと労力を尽くしてきたことは無視ですか?
155⇒【私は、ソクラテスやケルゼンと同じで、「全知全能は神のみ。」、「人間は間違いを起こす。」と思っている】――古代ギリシアを発祥とする民主制(δημοκρατία)は、別にソクラテスの国家観や「全知全能は神のみ」のような認識に基づいているわけではない。
同じことを、エウリピデスが『バッコスの信女』で「賢(さか)しきは真の智慧にあらず、人間のほどらいを過ぎたる思いもまた」(‘τὸ σοφὸν δ᾽ οὐ σοφία, / τό τε μὴ θνατὰ φρονεῖν’; Euripides, Bacchae, l. 395~96)と言い、ヘラクレイトスは、「人間のうちでも一番賢い者でも、神に比べれば猿のようなもの。知においても美においても、その他何ごとであれ。」(‘ἀνθρώπων ὁ σοφώτατος πρὸς θεὸν πίθηκος φανεῖται καὶ σοφίαι καὶ κάλλει καὶ τοῖς ἄλλοις πᾶσιν.’; Frag. 83, Diels-Kranz, Bd. I, S. 169)という断片を残し、『ローマの信徒への手紙』の中でパウロが、「高ぶりたる思をもたず、反つて懼れよ。」(‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ’; Προς Ρωμαιους, XI, 20)というのも、みな同じ趣旨だろう。民主制とは、直接関係ない。
別にその程度の認識はソクラテスやケルゼンを持ち出すまでもない。古今東西ありふれた認識で、凡庸を絵に描いたような老婆の理解には相応しかろうが、何の意味もない。
しかも、別に政治制度(πολιτεία)、つまり王制(βασιλεία)であれ、貴族制(ἀριστοκρτία=優秀者支配制)、共和制(πολιτεία)、僭主制(τυραννίς)、寡頭制(ὀλιγαρχία)、民主制(δημοκρατία)の違いによらないのは、驢馬並みのお頭の老婆以外は自明の事実だろう。
民主制は政治参加の平等(ἰσονομία)という原則に基づく政体であって、基本的には自由(ἐλευθερία)と「配分の正義」(τὸ διανεμητικὸν δίκαιον)に根差している。
ソクラテスが、「しかし、実際はおそらく、諸君よ、神だけが本当の知者(ὄντι ὁ θεὸς σοφὸς εἶναι)なのかもしれない。そして人間の知恵(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)というようなものは、何かもうまるで価値のないものなのだということを、この神託のなかで、神は言おうとしているのかもしれません」(‘τὸ δὲ κινδυνεύει, ὦ ἄνδρες, τῷ ὄντι ὁ θεὸς σοφὸς εἶναι, καὶ ἐν τῷ χρησμῷ τούτῳ τοῦτο λέγειν, ὅτι ἡ ἀνθρωπίνη σοφία ὀλίγου τινὸς ἀξία ἐστὶν καὶ οὐδενός.’; Apologia Socratis, 23A)という場合、「善美なるもの」(τὸ ἀγαθός)に関する真の(ἀληθές)「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)に関する無知(ἀμαθία, ἄγνοια)を問題にしているのであって、無学な「おしゃべり婆さん」(πολύλογος γραῦς)ように無闇に拡大解釈するのを正当化するものではない。
「無知の自覚」については、同じ箇所で「人間(並み)の知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)と言い換えているのもそのためだ。それは、「自分は知恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者」(‘ἔγνωκεν ὅτι οὐδενὸς ἄξιός ἐστι τῇ ἀληθείᾳ πρὸς σοφίαν.’; ibid., 23B)の認識だ。
老婆には何より、「自分が知らないことを知らないと思う」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.’; ibid, 21D)思慮分別が欠けているようだ。
「狂人」(ὁ μαίνομαι)と択ぶところはない。
若いころは莫迦にしてというか軽視していたが、最近聖書をよく読む。もとより、信仰のためではない。その言葉の硬質感というか、現代の書物にはない切り立った印象がある。
その点で、偏執狂の老婆の説く幼稚園道徳を盛った文章など、まるでクズに等しいふやけた代物だ。あまりに軽い。それなのに、「ものごとの軽重(καῦφοτης καὶ βαρῦτης)が分かっていない」などと説くのだから噴飯ものだ。
どちらかというと恬淡な(ἐλευθέριος)性の「通りすがりの老人」氏が、157⇒【貴女の誤りを正そうと労力を尽くしてきたことは無視ですか?】とご立腹である。
老婆の余りに粗野(ἄγροῖκος)で子供じみた(παίδειος、時に兇暴な(θήρειος)、そして何よりファナティックな(fanatic→μανικός, αὐθάδης, σκληρός, μανιώδης)作法、一言で言えば恥知らずで臆面もない言辞が癇に障るのだろう。
それは、下手なピアノ演奏の際に見せた驢馬のような間の抜けた温和な横顔のうちに秘められた狂信的な獰猛さ(ἡ ὠμότης)、ある種の獣性(θριώδης)が老婆を衝き動かしているからだろう。
「狂信的で独善的(μανικός καὶ αύθάδης)なのは、驚くに当たらない。
書きたい放題の私はともかく、自制心を発揮して穏やかに付き合った政府解釈氏と「通りすがりの老人」氏には、素直に詫びたらいい。
「腹黒き人柄、女々しい人柄、融通が利かぬ頑固な人柄、さらに挙げれば野獣にも似て粗野なもの、残忍なもの、子供くさいもの、怠惰なもの、油断のできぬ狡猾なもの、下品なもの、小商人根性のもの、暴君的なもの。」(‘Μέλαν ἦθος, θῆλυ ἦθος, περισκελὲς ἦθος, θηριῶδες, βοσκηματῶδες, παιδαριῶδες, βλακικόν, κίβδηλον, βωμολόχον, καπηλικόν, τυραννικόν.’; Aurelius, M., ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, IV, 28)と哲人皇帝が書きつけ、心を宥めたのとどこか似た心境だ。
「我知る凡て神のなしたまふ事は限なく存せん 是は加ふべき所なく是は減すべきところ無し 神の之をなしたまふは人をしてその前に畏れしめんがためなり/…/我また日の下を見るに審判をおこなふ所に邪曲(よこしま)なる事あり 公義を行ふところに邪曲なる事あり/我すなはち心に謂ひけらく神は義者と惡者とを鞫(さば)きたまはん 彼處において萬の事と萬の所爲に時あるなり」(ἔγνων ὅτι πάντα ὅσα ἐποίησεν ὁ θεός, αὐτὰ ἔσται εἰς τὸν αἰῶνα• ἐπ’ αὐτῷ οὐκ ἔστιν προσθεῖναι, καὶ ἀπ’ αὐτοῦ οὐκ ἔστιν ἀφελεῖν, καὶ ὁ θεὸς ἐποίησεν, ἵνα φοβηθῶσιν ἀπὸ προσώπου αὐτοῦ. /…/ Καὶ ἔτι εἶδον ὑπὸ τὸν ἥλιον τόπον τῆς κρίσεως, ἐκεῖ ὁ ἀσεβής, καὶ τόπον τοῦ δικαίου, ἐκεῖ ὁ ἀσεβής. / εἶπα ἐγὼ ἐν καρδίᾳ μου Σὺν τὸν δίκαιον καὶ σὺν τὸν ἀσεβῆ κρινεῖ ὁ θεός, ὅτι καιρὸς τῷ παντὶ πράγματι καὶ ἐπὶ παντὶ τῷ ποιήματι.; ibid., III. 14, 16~17, p. 244)
老婆にも「川原玲子」で登場したころの初心、良心の欠片は残っていようが…。
この説明に対して、反氏は、これを解説している人がTANZANという人だから信頼できない、となんども主張してこられた。反氏のようなタイプの人は、カロリーネという老婆の言葉を信頼するとはとても思えないのである。それだけではない。無知で無学で誇大妄想狂であるかのようなレッテルをはりつけて、読者にカロリーネの主張の信ぴょう性に疑いを抱かせる。反氏だけではない。老人も、政府解釈氏も、このところは、村雀も一緒になって、私の人格攻撃をしている。その結果、テレビのワイドショーのコメンテーターように、製作者の思惑で、あたかも、虚偽が真実で、真実が虚偽であるかのような印象操作を行われている。老人のカロリーネが「原文を捏造している。」という主張が典型的である。
大学生時代に、米国や西ドイツ国民の大統領や首相への信頼感、と日本のマスコミのかきたてる日本の首相への不信感の差に、驚いたことがあったが、放送法4条にあるように、テレビは、できるだけ公正な、偏向がない多方面にわたる報道をし、「政策」を通じて、普通の人に政治課題を考えさせることが必要で、テレビがおかしな専門家を出演させて、肩書の力で反権力の印象操作をしないことが、日本の民主主義を熟成させる道だと私は、考える。要するに、日本の報道番組が、マスコミ知識人が、日本人の真実の理解、日本の健全な民主政治の邪魔しているのではないのだろうか。
医療スタッフの不足、過労によって、助けられる命が助からない場合もあるし、医療スタッフ自身がが感染してしまうリスク、院内クラスターのリスクもある。マスコミの報道番組に携わる人は、そういう現実的な側面からものをきちんと見、多角的な報道をしてほしい。
これは、尾身・押谷ペアーの国の「日本モデル」の提言とは違う、東京都の専門家の提言、を基にしたものであるのだろうが、専門家同士、PCR検査や抗原検査への信頼度の差、に二者に違いがあるのは明らかである。私はそれを問題にしているのであって、マスクの着用につぃても、肘マスクでいいと言っていた欧州が、マスクの着用を法律で義務付けている国もあるのに、https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E5%B1%8B%E5%A4%96%E3%81%A7%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%81%AF%E4%B8%8D%E8%A6%81-%E9%96%93%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E5%AF%BE%E7%AD%96%E3%82%92%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6%E3%81%8C%E6%8C%87%E6%91%98%E3%81%99%E3%82%8B/ar-BB1awlho?ocid=msedgdhp感染症対策コンサルタントの堀成美氏のような主張が表れる。もし、専門家の堀成美氏の主張が正しいのなら、なぜ、ドイツは、11月2日から国をあげて、居酒屋やレストランを閉店にするのだろう。なにが、間違いで、なにが本当なのか、がマスコミが介在することで、真逆になっていることを私は問題にしているのである。世界の例で明らかなように、PCR検査の判別だけでは感染は止められない、感染させるリスクのある人の隔離、重複感染を防ぐことがなによりも求められているのである。
本日、非常に注目すべきコラムがアゴラに掲載された原英史氏の「毎日新聞「大阪都構想218億円」は、私への誹謗中傷報道とそっくりだ」である。まさに私も同じことを考えていた。あらかじめ逃げ道をつくっておいてインチキな記事を拡散する。緻密な検証や計算能力、情報収集能力や実社会の情報を咀嚼する能力は致命的に欠けているが、大衆相手のこういう印象操作だけテクニックに通じている。そして、毎日新聞が懇意にしている学術界も同じような才能をもった自称研究者のたまり場で、そうした共産党員か反体制屋かわからないような胡散臭い知恵者が背後にいて悪知恵を与えているという気配を感じる。
大阪都構想問題などは政治学者や社会科学者の思考能力や実用的能力を試すのに最適の問題だろう。こんなものは些末の問題で、もっと高等な分析のみが価値をもつという学者とはなんだろう。ただの縄張り意識の強い文献整理屋みたいなものだ。
中曽根(対レーガン)は、その後の小泉(対ブッシュ)、安倍(対オバマ、対トランプ)という米国大統領に対する日本側首相の「友情路線」の先例となった。
散々と書きちらかしたように、異様に根深い左翼の問題があり、日本の首相にとって、左翼対策は生命線のひとつだった。
中曽根は左翼包囲網を突破するために、目をつけた穏健派の学者や知識人と親交を結び、積極的にアドバイスを求めて、左翼対策を講じた。そのなかでゆずれるものとゆずれないもの優先度の高低を考えた。教育問題や歴史問題など数々の左翼攻勢のなかで、学術会議などは中曽根にとってはどうでもよい周辺組織的なことだったので、どうせ誰かにアドバイスを求めて、そのように行動したのだろう。深く考えて行動しなかったと想像される。
朝日新聞などが大あばれしていたので、その背後にいる共産党の動きなど意識する余裕もなかった。現在は朝日新聞が衰退してきたので、その背後でうごめいてきた共産党関係者の学者などにやっと焦点があたるようになった。
その一方で、中曽根は安全保障対策も進展し、安全保障会議の設置などの成果も残した。新聞テレビは「不沈空母の中曽根」、ロッキード角栄との癒着ありとして「田中曽根」などの用語を普及し、毎日のように中曽根への罵倒合戦をくりかえした。
マスコミの指摘席が政治家への次元の低い罵倒の野次馬でしめられるのは戦前からの日本の悪習だった。維新の会が守旧マスコミの言いなりにならないので、共産党などと手を組んで守旧マスコミが維新の会つぶしに仕掛けたのが先日のデマ報道である。
それでも足りずに167~168と、長口舌(πακρολογία)が日の出後も続く。172→11:12は10月28日・133をそっくりコピペしたもので、直前の旧会社員氏への迎合であり、鬱憤晴らしだろう。ほとんど、「病んでいる」(ταράσσειν)と形容するしかない錯乱ぶりだ。擬似「パラノイア性疾患」(paranoische Erkrankung)なのだろう。
162⇒【老人は、コメント139で、unumstrittenという言葉を形容詞の[unumstritten](論議の余地のない、異論のない)を名詞化した[Unumstritten]と主張しておられるが、現実は、umstritten様々な論議を呼んでいる、あるいは評価の分かれたという形容詞を接頭語unで打ち消すことで、unumstrittenは議論の余地のない、明々白々のいう意味】
まず、139は村雀氏のコメント、しかも一つは「通りすがりの老人」氏の10月27日・115(「まず原文からの逸脱した翻訳と認められるでしょう…」)、他の二つは私のコメントを貼り付けたもので、当該の⇒【unumstrittenという言葉を形容詞】云々は、私が老婆の明白な誤訳を指摘した10月28日・130の話だろう。
私はそこで次のような書いた。
⇒《[Unumstritten]→[unumstritten]は、老婆の議論がごまかしであるように、「阿呆」なのは「明々白々の事実」(eine unumstrittene Tatsache)、「~は議論の余地がない」(Es ist unumstritten, daß~)のように使う…こともあろうにそれを、ドイツ語に50年近く親しんだはずの老婆は…[un]を見落として[umstritten]=「〔それをめぐって〕議論がある、異論の余地がある、評価の定まらない」と取り違える、つまりDer Spiegelの当該記事冒頭の文章を誤訳していることに、未だに気づいていない》と。
162②⇒【私は、本当に、老人の主張されるように、原文を捏造していつもコメントしているのだろうか】――当人にその明白な自覚がなくとも、結果として[Bakterien]=細菌→インフルエンザ菌(haemophilus influenzae)→インフルエンザウイルス(influenzavirus)→新型コロナウイルス(SARS-CoV-2=das Coronavirus)とインフルエンザウイルスの重複感染(Superinfektion)の危険性と議論は次第に飛躍し支離滅裂になっていくから、「原文を捏造」と指摘されても致し方ない。
なぜなら、老婆は「通りすがりの老人」氏の再三の要請にもかかわらず、9月18日・324で渋々提示するまで、誤訳の明々白々たる証拠の露見を恐れて隠蔽、具体的には、「インフルエンザ菌」云々が該当する原文と訳文との同定を拒んでいたからだ。
問題がこじれ、しかもその後の「反社会勢力」並みの居直りと愚劣な言い訳、幼児性強弁に「通りすがりの老人」氏が悪感情を抱き、157⇒【“Spiegel誌”に仮託して自分の意見を語ろう」と原文を捏造していつもコメントしていると理解】せざるを得ないのは、誰が見ても自然な成り行きだ。
「どんな欠点であれ、それを覆い隠すために弄する手段ほど許しがたい欠点はない。」(‘On n’a guère de défauts qui ne soient plus pardonnables que les moyens dont on se sert pour les cacher.’; La Rochefoucauld, Maximes 411)
本欄読者に限って、信用が「地に墜ちた」老婆の愚劣な釈明を支持する投稿が皆無なのは、誤訳問題に特別の興味がない向きを含め、そのためだ。直近の投稿をもって、「虚偽体質」剥き出しの老婆の知的不誠実を指摘しているのは私を含め、政府解釈氏、「通りすがりの老人」氏、村雀氏だけではないことも、過去のその他の諸氏のコメントからみても明白だ。
「阿呆」の証明である冗語は尽きない。
162④⇒【Bakterienをどう訳すか、ということで、捏造ではなくて、置き換えた】とは言っても、162⑤⇒【Covid19ウィルスの特性の一つとして、インフルエンザウィルスとの重複感染も、Covid19によって引き起こされる肺炎を重症化するものとして付け加えた】が、論理的飛躍であることに気づかないのが老婆である。むしろ、この箇所でBakterien=細菌ではないインフルエンザウイルスを細菌と混同する致命的な取り違えを起こしていることを露呈する。
一言で言えば、重複感染の危険性の問題をどれほど強調しても、それをもって細菌であるインフルエンザ菌と、ウイルスでありインフルエンザ菌よりはるかに厄介なインフルエンザウイルスを、同じ「インフルエンザ」という名称が、細菌学やウイルス学が未発達な段階の知見の名残とはいえ、混同していいわけがない。
武漢の症例やドイツ政府の対応もそれを正当化しない。別の性質の話だからだ。間抜けな老婆は、その程度の理解力もない。ただ、それだけである。
162⑥⇒⇒【インフルエンザウィルスの重複感染の危険性の方が、肺炎球菌の重複感染の危険性よりはるかに高い】を主張ような記述は、Der Spiegelの記事からは読み取れない。老婆の弱論強弁、謂わば「妄想」である。
163以降はどうでもいい狂真的な一人語りだから、まともに相手にするまでもないが、163⇒【人々が対話と論駁を通じて自分自身の力によって真理へと到達するのを助けるというソクラテスの知の探究の態度を表す比喩として」】は、例によってソクラテスの「産婆術」(μαιευτική)についての「TANTAN」狸説の性懲りもないコピペ。
ソクラテスが問答法(διάλογος)によって相手を追い詰める手法、問答競技(ἐριστική)について、老婆はかねてから「TANTAN」狸説を信奉して剽窃を繰り返し、⇒【私がプラトンのこの二冊を通じて主張したい…彼の真理の見つけ方…その方法は、産婆術と呼ばれる」(2018年・7月22日・36)、「真理への王道】(2018年9月26日・158)とか称して無邪気に産婆術を主張している。
今回も、163②⇒【反氏は、これを解説している人がTANZANという人だから信頼できない】わけでじはない。
まず、「TANTAN」で「TANZAN」(「たんざん」)ではない人物は、老婆が【この二冊を通じて主張】としたプラトンの対話篇『ソクラテスの弁明』と『クリトン』には一語すら出てこず、それが出てくる中期対話篇『テアイテトス』を一応読んだ上で、素人論議を展開している。別に趣味なのだから、よくある「ソクラテス文学」にすぎないとは言え、素人論議だから特段批判しているわけではない。
老婆はそれを見落として、手前勝手な「彼の真理の見つけ方」「真理への王道」と言い募っていたのが、そもそもの、昨今の「インフルエンザ菌」に通じる、老婆の化けの皮が露呈するに至るきっかけだ。
産婆術は、俗説や訛伝で早とちりされるような、知恵や真理を生む積極的な手法ではない。それは老婆が覗いたこともない『テイアテトス』を読めばはっきりしてくる。むしろ、批判的な対話によって生み出された乳児に比すべき知見が、真の知恵か否かを見極める「否定的な」=消極的な(οὐ φάσκειν)手法であることが分かる。
「産婆の息子」(ὁ μαῖς μαιευτικόν)であるソクラテスによる精神(魂)の産婆取り上げの術(τέχνη τῆς μαιεύσεως)、「精神の産を看取る」(μαιεύεσθαι καὶ τῷ τὰς ψυχὰς)の議論は、プラトンの原文では次の通りだ。
「しかし、このほかに、僕たちの技術には、一番大事なことでこういうのが含まれている。すなわち当の青年が思考を働してい分娩したところのものが為似物(εἴδωλον)であって偽物(ψεῦδος)であるか、それとも正物(γόνιμόν)であり真物(ἀληθές)であるかを百方検査するということが〔この技術を心得ている者には〕できるというのである。なぜこれが一番大事であって他にこれ以上のことはできないかというと、それは次のような事情が産婆たちにあると同じように僕にもまたあるからなのだ。」(引用続く)
以上は、9月9日・175~177に今回省略した部分を含めて詳述したから、興味ある向きは参照されたい。
自分のやっていることを棚に上げて、163③⇒【反氏だけではない。老人も、政府解釈氏も…村雀も一緒になって、私の人格攻撃…あたかも、虚偽が真実で、真実が虚偽であるかのような印象操作…老人のカロリーネが「原文を捏造」という主張が典型的】のような被害妄想(Beeinträchtigswahn)、迫害妄想(Verfolgungswahnは、パラノイア気質の典型だ(174は「?」)。
法螺話に付き合う場合、「莫迦が移る」から用心しなくては。οἴμοι.[完]
☆余白に なお、„Unumstritten ist hingegen die Gefahr einer sogenannten Superinfektion.“という文章は倒叙的な強調構文で、形容詞[unumstritten]の名詞的用法もあるが、倒叙で「文頭に来たから」»Unumstritten«という趣旨の老婆の指摘(162)自体は誤りではない。
174⇒【私はコメント171を書いていない。というのも、わたしの主張は、旧会社員に近く…日本政府の対応のどこに問題があるあるか、よくわからないからである、】――読点で終わる妙な文章だ。そもそも171は旧会社員氏のコメントで、確かに老婆のものではなかろう。だから、「私はコメント171を書いていない」と「というのも」以下が論理的に接続しない。
実際は、「私はコメント172を書いていない」という趣旨だろう。もっとも、172⇒【だとレッテルを貼る行為が、傲慢で、上から目線だと主張しているのである、】は、私が被害妄想を募らせる擬似「パラノイア性疾患」の老婆を論じ、175で⇒《172→11:12は10月28日・133をそっくりコピペしたもの…ほとんど、「病んでいる」(ταράσσειν)と形容するしかない錯乱ぶり》としたように、老婆のコメントと同一で、こちらも「読点で終わる」という点で、老婆の174と、よく似ている。
あまりに、生まれつきの(φύσεως)嘘つき(ψεύστης)が昂じた婆さんによる、一種の「狂言」だろうか。狐につままれたような話だ。
そこで思い浮かぶのは、以前「会社員」名で投稿していた「旧会社員」氏が、当人の弁だと、何でも何者かに投稿名を勝手に使われたとか言って、しばらく投稿を控えた話だ。その後の真偽は詳らかにしない。
いずれにしても、老婆にも顕著な鬱憤をぶつける独りよがりで偏狭かつ矯激な言辞は、よほど入念に議論自体を練り上げ、興奮せずに冷静な文章で投稿しないと、思わぬ悪意にさらされかねない。
自らの経験や言説に取り憑かれては、どれほど切実なものであっても、何の説得力も共感も生まない。
「精神上の礼節とは、正しく繊細なことを考えること」(‘La politesse de l’esprit consiste à penser des choses honnêtes et délicates.’; La Rochefoucauld, Maximes, 99)
なぜこれほど関心を呼ぶかといえば、いわゆる「戦後知識人」のある種の象徴でもあるからだ。私が学生のころは、「フランス語は論理的で日本語は非論理的なので、フランスの子供のほうが大人の日本人より利口だ」のようなバカげた学者モドキがいたが、最近は(騙される日本人がいなくなったせいか)めずらしくなった。
だが、昔から強く感じるのは、かつて進歩的知識人というような戦後知識人の亜流は、西欧文化への強い劣等感をもっていた。これは、その種の劣等感を持ち続けなければ、日本の一般大衆への優越感を保てないという側面とコインの表と裏のように結びついているのを確信した。西欧へ劣等感をもつことにより日本を格下と見なし、根拠のない日本人への優越感とプライドを持てるのだ。
ただし、戦後知識人は西欧への劣等感だけでは迫力にかけるので、日本でしか通用しない独自の色彩を加えるようになった。それが、篠田氏のおられる大学にもいるような「非戦への道」だとか日本でしか通用しない特殊思想を仰々しくぶちあげて、それに思想建設的な活路を求める勢力だ。その連中が学術会議の中枢であるから、ややこしさは半端でない。一般の常識的社会人はろくに相手せず、カルト宗教のように見なすだろうから、さらに彼らはサークルに閉じこもる。そして、守旧マスコミの声援や同業のメーリングリストの参加者の多さに安堵を求めるのだ。
会社員というハンドルネームだとありふれているので他人が無意識に使ってしまってかぶることがあるので、念のため変えただけです。私は些末なことでは誰の悪意も感じないし、意識しない。基本的には愛深きほう(笑
娘は一応私大のトップクラス大学文系に在学中で、その大学で使っている教科書からシラバスまで何から何まで見せにくるので、最近の大学でどんなことを教えているか情報も一応入ってくる。過去には新聞と言う新聞、雑誌という雑誌、農業新聞から何もかも読んだ。だから「文は人なり」は血肉となっている。(自画像は「滑稽な何でも屋のディレッタント」であるが・・。自分で書いて自分で爆笑)。
しかし、それはマスコミが日本国民の目や耳を防いでつくりあげた架空の日本人である。だから、こそ学術会議会員が熱心に応援してきた共産党や社民党はいつまでも泡沫政党なのであり、ネットで膨大な情報が得られるようになったら裸の王様かオオカミ少年のように見なされることになったのである。
彼らが描く日本人は架空の日本人でしかないから、持論を軌道修正することなど出来るはずもなく、われわれについてこれない日本人やその代表の政治家もバカだという意識になるに違いない。そして、北朝鮮ミサイルや中国覇権の脅威が高まっても「自分たちについてこれないまわりが悪い」と空虚な優越感に浸って似た者同士でかばいあうしか能がない。
「マルクスは間違ってなかった。間違ったのはソ連や中国共産党。日本の自民党が政権をとっているのも何かの間違いで、世界の共産主義国家が正しく共産主義を実践せずに失敗したためだ。自民党は運がよかっただけだ」
「敵の過失に乗じて日本のファシストが勢いを増している。ファシストが多数派になることは通常ありえない。なぜなら彼らは悪のファシストであるからだ」
欧米の最先端学問を理解し外国論文を読み、日本の新聞も熟読するわれわれが「間違うことなどあり得るだろうか」
いったい書籍をいっぱい読んで同じ穴のムジナどうしで議論して作文しているだけだが、それで「知恵者になれないことなどありうるだろうか」「まして、ろくに本も論文も読まない庶民に論破されうるということがありうるだろうか」「いや考えられない」、、という意識だ。
これが普通の会社なら製品の不良在庫かかえてあっというまにつぶれている。税金で養ってもらい、学生も就職パスポートがほしいので受験しているだけ。もし自由人として本を売っても、かつての吉本隆明のように本が売れることもない。自活すらできないのに、自信だけは「天下人」。最後に残る特権意識とは大学入試や公務員試験の試験問題をつくっているということくらいか。四書五経から何百年も科挙問題をつくりつづけて官僚選抜し衰退していった中国のようだが、それでも科挙問題には政策立案能力を問う高度な問題があった。日本の左翼教授制作の試験問題など師匠から受け継いだ過去問のコピペ集でしかない。
186⇒【カロリーネさんは感性的な音楽家タイプ…直感的にぱっと思いついたことを書き込むことが多いのでは…間違ったことを書いたからといってオーナーの篠田氏が何か誤解を生むようなこともありえないので目くじらをたてることもない】――見当違いも甚だしい論評だ。
音楽家タイプに限らず、一般に芸術家志向の人間が「直観」でものをとらえ、考えるとするのは、短絡がすぎる。老婆の虚偽とごまかしは、篠田さん云々の話とは別文脈だろう。
それとは別の観点に立てば、②⇒【人生経験豊富なのでいろいろな経験談は参考に】となるわけで、「インフルエンザ菌」問題などで四面楚歌の老婆にも、捨てる神あれば、拾う神もあるということなのだろう。悪い冗談にしか聞こえない。
さすがは2年前、2018年9月4日・65⇒【周りを色々見ていて、老害、も確かにある、とも思います。そして、私も老害である、床屋談義である、と批評された以上、私のコメント投稿は、ここで終わりにしようと思います】と書いて一旦は退場し、その舌の根も乾かないうちに、50時間後、9月6日・7⇒【会社員さんへ、そうだったですか? そういうきっかけ…であれば、嬉しい…投稿を続けた意味があった…会社員さんとは、考え方が近く、同志的な気分だったのはその為ですね】とか称してノコノコ戻って来た暇をもて余した偏執狂の婆さんに、いかにも「出戻り」(ἡ ἀπόπεμψις)のきっけを提供した御仁らしい言いぐさだ。
つまり、旧会社員氏、当時は会社員氏は、2018年9月6日・6⇒【もう投稿されないのでしょうか。カロリーネさんの投稿を見て私も投稿しようと思ったのが最初のきっかけだったので残念…大変お疲れ様でした。ヨーロッパでの実体験等のお話は興味深いので、電子書籍等にされれば記念に】と塩を贈った。
日頃の矯激な言辞とは打って変わって、心優しい御仁なのだろう。これが最初。
3月27日・9⇒【何を言いたくて、または目的として同じことをくりかえしているのですか? 貴女の個人的なコラムではないでしょう。ここ数日貴女がスペースを独占…「またか!」という気持ちが強く、読む気にもなりません】、同日・11 ⇒【この欄を、単なる投書欄と考えておられるから、ピントがずれている】――ごく常識的な見解だ。
そこへ、何を勘違いしたか、再び助け舟。3月28日・17⇒【カロリーネさんは、「日本のマスコミが世界の水準からしていかに特殊か」…を(ネット投稿の平均水準からすると)「品の良い言葉」でたびたび訴えてきた…こういう方は、まだまだ日本のネットでは不足している…しかも、海外のメディアなどを例に指摘できる人は少ない】。
なるほど、矯激なメディア糾弾の「同志」らしいから、大概のことは大目にみるらしい。「品の良い言葉」云々も悪い「冗談」なのだろう。
それに老婆が早速応じ、3月28日・20⇒【旧会社員さま、コメントありがとうございました。嬉しいです。気分がなえてましたから】。莫迦莫迦しいこと、この上ない。
のちにTom氏、5月20日・47⇒【小生はあなたの名前が出ていると、略読みません…前回も同じことを言いましたが、どなたかの応援演説で気を取り直し、さらに投稿が増えています。自制が出来ない】。
要するに、老婆は諌言(ἀντιλογία)ならぬ甘言(θωπεία)で気を取り直して(θαρσεῖν)、ひたすら「唯我独尊」へと突き進んだ結果が今日のなれの果て。
甘言が老婆の老婆自身により自己を毀損する(κολοβῦν)愚行に拍車を駆けせたとすれば、罪深い。
「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はない」(‘El tonto es vitalicio y sin poros.’; ‘‘La leberión de las masass’’)
そして、三度目が今回。「誤訳問題」を含む老婆の「反社会勢力」にも比せられる居直り、強弁、ごまかしの限りについて、旧会社員氏は基本的に関心がないようだ。
そこへ、172⇒【だとレッテルを貼る行為が、傲慢で、上から目線だと主張しているのである、】との老婆のご託宣。当の本人は、174⇒【私はコメント171(ママ=172)を書いていない…日本政府の対応のどこに問題…よくわからないからである、】の奇妙な「読点」止めの駄文二つの奇妙な一致。
旧会社員氏は、4月18日・37⇒【「誰々に何々してほしい」というフレーズに便乗すると、私は篠田氏に総理大臣になってほしい…学界にとどまったほうが日本のために良いのか、それとも政界に進出したほうが日本のためになるのか、なんとも微妙】のような、一種の夢想家。見かけによらず、お人よしなのだろう。
この国のインテリの自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)は、何も近代以降に始まったことではない。何のかんの言っても、旧会社員氏の一人語りは上滑りぎみで、凡庸にして陳腐、何を今さらという域を出ない。
それが、夢想家の老婆をして、5月20日・43⇒【また、ブログの私物化かな、とも危惧するが、これから自分の人生を切り開いていかれる若い方々が…参考になれば…私はゲーテの使徒なので、自分の体験を生かして文章を書きたい】 ――ゲーテの「使徒」(ὁ ἄγγελος)とは、法螺話にしても言いも言ったりで、「ドイツ狂い」が昂じた「狂言」、端的に狂気の一種だろう。[完]
旧会社員さんのカロリーネさんは感性的な音楽家タイプなので、直感的にぱっと思いついたことを書き込むことが多いのではないか、ということであるが、私がみるところ、文科系の人より、理数系が強い人の方が、音楽的な人が多い。私の周りで趣味で音楽をセミプロ並みに演奏したり、歌っている人に、医師が圧倒的に多いし、私自身も学生時代理数系の方が、文科系の科目よりも点数がよかった。数学の問題を解くとき、直感的なぱっとした思いつきがなければ、回答に達せないのではないのだろうか。私は、そうして解いた答えを親友たちに教え、今でも感謝されている。だから、反氏が主張されるように、私に論理性がない、などということは、客観的な事実から、考えられないのである。私の欠点は、詰めの甘さと不注意なミスで、それは、夫にも常に指摘されている。その詰めの甘さ、コメント172を171とミスタイプをすることが典型的であるが、を反氏のような「偏執狂の翁」につかれるのであるが、ただこれは、私の人格批判であって、書いている内容が正しいかどうか、とはまるで関係がない。普通の人には、間違えたんだな、とわかる。
>老人の主張の趣旨は、その逸脱を指摘されてもなお頑なに撤回しようとしない貴女の知的不誠実な態度に関するものです、というレッテルである。どうして、インフルエンザ菌と訳したか、ということはなんども説明したし、インフルエンザ菌とインフルエンザウィルスは全く別なものだ、と私自身が納得したから、訂正した。その態度のどこが知的不誠実なのだろう。
私が「知的不誠実」の語を最後に用いたのはコメント131です。貴女が村雀さん宛のコメントでどうやら誤訳をお認めになったのはコメント141です。時系列を踏まえて議論を構築してください。
また、141におけるWikipedia云々という貴女の言い訳が多分に疑わしい旨、144で指摘しております。この点についてのご回答をいただいていないように思います。
あと、これまでの「インフルエンザ菌」を巡る貴女の議論の姿勢を「知的不誠実」と呼ぶことが「レッテル」貼りなんでしょうか?
>かつて、左翼と論争して負けたことがない福田恆存
福田恆存の功績は大きい。国民のなかの「声なき声」のサイレントマジョリティを代表していた側面もあり、ある意味で偉大であり、良き模範であった。
左翼が持ち上げた保守系の言論人の代表が福田恆存だった。左翼が福田恆存を持ち上げた理由は、福田恆存は寛大で紳士的だったから、左翼の弱点を攻撃しなかったからだ。たしかに福田は左翼の弱点をすぐれた文学的表現で暴露したし、メディアの弱点も鋭く追及したし憲法論議や歴史にも詳しかった。外国情勢にも理解があり、賛同する仲間もそれなりに一定数いた。韓国指導者などとも親交があった。
しかし、左翼の弱点をやんわりと皮肉るだけで、徹底追及しなかった。自然と世論が熟成するのを待つ良識的知識人の典型だった。だからこそ、左翼は、表では福田に綺麗ごとの賛辞をささげながら、裏では舐め切っていた。
あのようなタイプの知識人はたしかに貴重。しかし、それで左翼のやりたい放題の既得権維持が増長されていったからこそ、福田恆存は現代において、ある意味で反面教師であり、人気がないのである。
それで、もうひとり著名な知識人である清水幾太郎を比較対象としてあげる。
清水幾太郎は戦後左翼の代表的知識人として左から右に転向しためずらしい例であるが(それで福田恆存から不誠実と批判された)、清水幾太郎は左翼の問題点を(福田のように曖昧にお茶をにごさず)徹底的に追及した。具体的に書けば多岐にわたるが、要は左翼のウソを明確な根拠をあげて追及したのであった。それで左翼は(国民に知られては困る事実が次から次へと白日の下にさらされ、大騒ぎとなり無視するにも無視できなくなったため)左翼は清水幾太郎を集団化して糾弾し、つるし上げを行った。援助するメディアは皆無だった。(日本は核兵器もつべきでないかと究極までいったため危険人物とされた)
左翼との闘い方を考えるなら、福田タイプも清水タイプもどちらも必要だろうが、清水タイプのほうが破壊力は圧倒的である。福田は、英国紳士的な世俗の知恵もそなえていたので慎重だったのだろう。もちろん篠田氏のようなタイプは清水幾太郎でなく福田恆存のように左翼からも一目おかれる存在であったほうがよいのは書くまでもないが、清水幾太郎の緻密さも備われば鬼に金棒でないか。
国民側は国民側で、「政治の世界では民主的な選挙で日本共産党などわずかばかりの支持者しか残ってないが、学術の世界では、なぜこうも共産党系や旧社会党系の残党が多いのか? イデオロギーで政治活動に熱中している連中が不当に組織を支配しているからではないか? しかも他の先進国のアカデミーと違って国家に寄生している。いかにも共産主義的でないか」
それに対して、学術会議を代表する連中は「学問の世界は民主的投票で評価される世界ではない。学問には学問の論理がある」と反論した。
それに対して、篠田氏の指摘などが典型だが、「学問の論理でやるなら、正統で公正で開かれた学問的議論をやりなさい。現状は、党派的な統制が強く、異論を封じながら権力で学問を牛耳っているだけでないか」というもの。
以上のように、民主的な選抜の論理からも、学問の正統な論理からもハサミうちにあったいるのだが、あたかも学術界のイスに座っているという権威だけにすがりついて開き直っているように見えて、それがさらに滑稽感をかもしだしているのだ。
>この国のインテリの自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)は、何も近代以降に始まったことではない。何のかんの言っても、旧会社員氏の一人語りは上滑りぎみで、凡庸にして陳腐、何を今さらという域を出ない。
「インテリの自己欺瞞は何も近代以降に始まったことではない」とのことだが、その自己欺瞞のレベルがあまりにとんでもないレベルで壮絶だからこそ、繰り返して問題にしているのだ。
おそらくその辺の認識が根本的に違うのだろう。江戸時代の徳川家や武士階級は特権階級だ、なんのかんのといわれながら、明治維新で特権階級を捨てて商人や知識階級に生まれ変わり、日本近代化の道を開いた。
しかし、近代日本が主に西洋の知識や文物を輸入するなかで、理工系や科学技術は別として、人文社会系は、戦前は日本を戦争へと導いて日本を崩壊させたし、戦後は「極左でなければ知識人にあらず」という風潮で、日本人の精神を荒廃させただけに過ぎなかった。
それが、世界でも類を見ないような生き残りだけに悪知恵を働かすだけの無能な日本メディアと結託して恐るべき岩盤規制ともなって、日本人の自由な精神や気風を徹底疎外してきたのだ。
「日本人は集団的で自由がない。非近代的で原始的で未開の猿だ」と日本をこき下ろしながら、自分たちがそれ以下の猿なのだから、自己欺瞞などというレベルではすまない。犯罪的であり日本国民への背信行為であり、だからこそ年から年中、政権を罵倒しながら、がっぽりと既得権益を握ってはなさない。テレビのワイドショーでは、「公用車はこんなにお金がかかっています。XX県は2000万円の車でした。庶民はどう思うでしょうか」「議員の食べるカレーはなんと3000円です」とうそぶきながら、不当に電波独占して異様な年収をほこるテレビ局は独占的利益を一切遡上にもあげさせない。それで貧困格差、貧困格差とバカみたいにスローガンだけで煽っているのだ。
日本の国でも、政治家や官僚は、まだまとも。一般国民も世界的にみて民度などは高いほうだと見える。異様なのは、全体主義的で変態的なメディアとそれに寄生する人文社会系の自称知識人たちだ。これらが群を抜いて世界的に見てもレベルが低すぎる。それをごまかすためにさかんに欧米のリベラルを模倣し、真正リベラルのように見せかけている。
あまりに不誠実だし、欧米のリベラルを模倣するなら模倣するで、たとえば安全保障の議論などを欧米メディアと公開討論して日本で公開してもよさそうに思うが、そんなことは今まで行われたためしがほとんどない。
これは誰にでも世俗的に生きざるをえないため、多少は甘目にみられている自己欺瞞などというレベルではない。亡国に導く疫病神または死神とでもいうべきである。
これは推測で申し訳ないが、おそらく反時流的古典学徒さんは、小泉訪朝で北朝鮮による日本人拉致が発覚したときなどに、あまり激怒もしなかったタイプではないだろうか。ご自分が積み上げてきた哲学知識になんのゆらぎもない、なんの関係もないというか、むかしからよくあることが形を変えて起こっただけのこと、という御認識でなかったろうか。
私は、「あれに激怒しなかった自称インテリは断じて日本を代表するインテリではない」と断言する。なぜなら、世界のどこの国でも、その国家を代表するほどの責任性と優秀性をもつインテリであるならば必ず激怒するに違いないということを確信しているからである。(例外的に韓国の政治家などはもちろん自国民が北朝鮮に拉致されたと知ってもさほど激怒しない。朝鮮戦争が続いているからである)。しかも、日本の自称インテリはインテリを自任する連中にかぎって拉致の疑いを黙殺し封殺したのである。
192⇒【コメント172は非常に悪質…その本文は、私の…133のコピペ…その言葉は、通りすがりの老人にあてたもの】――この段階で、既に「?」である。思い違い(παρανοούσι)というか、お頭が混乱している(ταραχώδής)ようだ。錯乱している(παραπεπληγμένος)のだろう。
偏執狂の老婆は過去、といってもそう古い話ではなく、今回「悪質」と憤る172と同じ自分のコメントが投稿された133の経緯を取り違えているようだ。たった3日前のことだ。錯覚(παραισθησις)が生じるのは思い込み(οἴησις)が激しいからだろう。
172と全く同一の問題の133=【だとレッテルを貼る行為が、傲慢で、上から目線だと主張しているのである、】は、直前の131⇒【どこまで老婆カロリーネをばかに…そのように勉強した人間を京都大学で哲学を勉強したという理由で、無学】と、突然途切れた文章の2分後に投稿されている。前項を受けて、私に対して、【無学だとレッテルを貼る行為】となる文章であることは、前後の脈絡から自明だ。
つまり、133は「通りすがりの老人」氏ではなく、130で老婆の「インフルエンザ菌」以外にもある誤訳を指摘して、日本語にもドイツ語にもみられる低劣な老婆の読解力を揶揄した私の、⇒《ドイツ語に50年近く親しんだはずの老婆は…と取り違え…当該記事冒頭の文章を誤訳していることに、未だに気づいていない。その程度の「ボンクラ」》に対して、「どこまで老婆カロリーネをばかに」と激昂した老婆が、怒りのあまり誤って文章の中途で発信してしまった結果、「理由で、無学」で切れ、「だとレッテルを…」と続けたものだろう。
同じ取り違えは、既述(175)の通り162でも起きている。
「独りよがり(思い込み)は狂気の沙汰」(‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 159)という病だ。
131での「通りすがりの老人」氏の主張、⇒【逸脱を指摘されてもなお頑なに撤回しようとしない貴女の知的不誠実な態度に関するもの】というのは、別に「レッテル貼り」ではなく、事実に基づく主張だ。それは頬被り、強弁、論点ずらし、要はごまかしを重ねて知的には極めて不誠実な対応に終始した老婆に向けられた、正当な評価だ。老婆のごまかしは、本欄コメント欄という衆人環視の公共の言論空間で行われたもので、主観的な意図(προαίρεσις)や動機(ὑποθεως)は関係ない。
しかも、【翻訳の制約を逸脱…を指摘されてもなお頑なに撤回しようとしない貴女の知的不誠実な態度】は通常レッテルとは言わない。「レッテル」(ἐκμαγεῖον)とは通常、商標であり、「先入観をもって、ある種のマイナス評価」を下す際の特定の名辞(ὄνομα)、貶辞=悪名(διαβολή)の類であって、この場合は「知的不誠実」だろう。
「翻訳の制約を逸脱」も、自らの誤りを「頑なに撤回しようとしない」態度も事実であって、レッテルではない。195で「通りすがりの老人」氏が指摘している通りだ。氏はきちんと、具体的事例を挙げて論証している。老婆のような牽強附会なものではない。
192②⇒【インフルエンザ菌とインフルエンザウィルスは全く別なものだ、と私自身が納得したから、訂正】――納得もヘチマもない。両者が全く別なものであることは、確立された客観的な科学的知見だ。
それを知らずに混同する(συνταράσσειν)から、「阿呆」(ἠλίηθιος)なのだ。
日本の左翼は、安保反対闘争を狂ったようにやり抜いた。その過程で、あるひとりの女子学生が集団デモのなかで亡くなった。左翼はそれを「悲劇の象徴」として祭り上げた。伝記もいろいろ書かれたし、その女性学生の名前は、たしか昔の教科書にも載っていた記憶がある。
ところが、(自分からデモ等に参加したわけでもなし)部活から帰る途中のなんの罪もない女子中学生が北朝鮮に拉致されたことについては、なんとか黙殺しようとした。
それが真実だと証拠をつきつけられたら、何と言っただろうか?
「(それまで朝日新聞のキャンペーンで大騒ぎになった)日本軍の犠牲になった慰安婦の多さにくらべて日本人のたったひとりの犠牲に目くじらをたてるな」「北朝鮮へ日本がしたことにくらべればわずかな被害」などと開きなおったのである。
彼らの意図はわかる。平和憲法の「非武装無抵抗」の理想にケチがつくということだろう。意図はわかるが、こんな腐った連中がなぜメディアや言論を代表しているのか。過去にどんな経緯があるとはいえ、人情をそなえたどんな一国民でも心から嘆かざるをえないだろう。そして病人が社会中枢にいることに恐怖を感じざるをえないだろう。
そういうなかで、中国や朝鮮半島国家について軽々しく触れないのは、さすが賢いと思われる。これらは両極端の議論に流されやすく非生産的な側面も強い。また、少しでも中国や韓国を批判すると偏狭右翼というレッテルを張り付けられる。これは、過去に日本の左翼が著しく中国共産党や北朝鮮など共産圏の体制を美化し、逆にそれらの共産圏内部の民主派抑圧を間接支援していたことが暴露されることに対し、巧妙に反撃するための左翼の予防戦術である。人権や友好という概念を悪用しながら、左翼の醜態を暴露するような異論を封殺するのである。
コロナ問題は非常に入り組んだ問題なので、社会科学的考察の観点からもリスクが高く、うるさ型の批判者から反論殺到や突っ込みも十分に予想されるところであったが、「国際平和」から避けてはならないという倫理観を感じられて対象に選んでよかったと感じる。
特段回答を要しまいがご指名ゆえ、いくつかの点について、私見を披瀝する。
意欲的なのだろうが、不躾ながら、議論の肌理が粗すぎる。「極左」(der Ultralinke, der äußersten Linke)については、濫りに拡大解釈的用法を改めるべきで、活動家の文章のよう。品性を問われる。
195⇒【福田恆存の功績は大きい。国民のなかの「声なき声」のサイレントマジョリティを代表していた側面も】というのは、どうであろうか。福田は常に少数者(οἱ ὁλίγοι)の側に身を置く人間であって、この国の知識人とされる人々、所謂インテリ層の欺瞞や偽善に鋭く斬り込む論説を論壇誌などに発表して論争にもなったが、その主たる関心事は、一貫して近代人の宿命の自覚である。安全保障論議も国語問題も、その観点から論じられる。
インテリの二重基準(διπλοῦς κριτήριον)という意味での自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)を批判していた点で、インテリより質実な市井の民、例えばすぐれた職人の価値を他の誰より価値あるものと認め、民衆の機微に理解を示していた点で、「声なき声」に寄り添っていたと言えなくもないが、それはほんの一面だ。
ここに言うインテリの自己欺瞞とは、端的に言えば、憲法9条を楯に、その理想を非武装中立とみる平和主義を、国益が激突する国際政治力学上は非現実的だと百も承知していても、それを正確に認識できるのは一部の特権的なエリート層、その一端を担う知識層であって、それぞれの関心事や利害で、つまり状況によって動かされる多数者(οἱ πολλοί)である民衆にその真実を伝えることは、安全保障、端的には軍事力のもつ暴力性、危険性への警戒心をそらし、悪くすると軍備増強への抵抗感を弱め、戦前と同一ではなくても軍国主義化への可能性が絶無ではないから、非武装中立の理想を、われら知識層も「信じたふり」をするに如くはない、という身勝手な立場、認識基準のことだ。
つまり、一般の知的には劣る「後進国的な」認識水準にとどまっている民衆=圧倒的多数の国民に対して、自分たちは覚醒した「先進国的な」選ばれた国民という、実際は欺瞞でしかない意識を前面に押し出して存在理由(raison d’être)を誇示して保身に利用し、この国の政治社会活動で優越的な地位を維持、増強する手段となっている。往時の洋行帰りの知識人が事情通の権威として重要視されたように。
この点で、エリートである少数者というのは、日本に限らず多かれ少なかれ似たようなものだ。それが、『論語』でいう「民可使由之、不可使知之」(泰伯第八=「民は之れに由らしむ可し。之れを知らしむ可からず」)のような「奴隷道徳」を説くものではないけれど、優秀者の支配(ἀριστοκρτία)を信じている点で、あまり変わりはない。
それを、身分である知的エリートも大衆の一部と見なすオルテガ・イ=ガセが『大衆の叛逆』で説いたエリート観や、「イングランドの高等知識層」(high ‘Intelligenzija’)の伝統に立つ強烈なエリート意識のもち主であるケインズにもあったとされる特権意識、優越意識と同列に並べることはあまり意味はないが、そうした各界の支配層を民主制は必ずしも排除しないという冷徹な認識が知識人にはある。そして、それを充分に自覚しないただのインテリは、「阿呆」でしかない。
福田の認識もそうした近代の宿命を前提にしている。「天は人の上に人をつくらず」といったところで、天そのものは人の上になければならないのは理の当然で、この世は、天をめぐる闘争でしかない。
知識人の取り柄、存在理由とは、人と同じようにはものごとを考えないし、その必要すらないということで、多少は傲慢にできていないと役に立たない。問題は、正確な自己認識で、それがなければただの奇矯な無能者にすぎない。
福田は婦女子に向けた雑誌連載エッセー『幸福論』で次のように説く。
「いひかへれば、私たちは、いつでも過去を顧みたとき、どうしてもかうせねばならなかつたと觀念できるように生きたいのです。それが眞の意味の宿命といふものであります。…私はまへに…戰爭直後の若いひとが、戰爭指導者に『だまされた』などといふのはいけないと申しましたが、その本當の理由は、ここにあるのです。
『だまされた』と平氣でいふひとたちは、戰爭中はまだ子供で自分が確立されてゐなかつたから『だまされた』のであり、今日は、自分が確立できたから、その『だまされた』といふ事實に氣づいたといふのでせう。そして『だまされた』自分は自由でなかつたが、それに氣づいたいまの自分は自由に目ざめてゐるとでもいふのでせう。そんなことはありません。さういふひとたちは、現在、自分といふものに、また自由といふものに、この二つの新しい幻影にだまされはじめただけのことです。こうして『だまされた』をくりかへしてゐたのでは、私たちは、生涯、永久に自分の宿命に到達できません。」(『福田恆存全集』第4巻、35頁)
改めて説明の必要はあるまいが、その程度の認識を欠いて絶対平和主義を説くようなインテリは、真の意味での知識人には値しない。それが近代の規準、謂わば宿命だ。
196②⇒【左翼が持ち上げた保守系の言論人の代表が福田恆存】もどうかと思う。福田は戦後的な価値観では、自他共に認める「保守反動」で、それを当人も自覚している。左翼が生前激しく批判しながらその存在を無視できなかったのは、論争しても勝てない、その点で田中美知太郎と並ぶ随一の文壇人であったのは、日本人には稀有なその論争の作法だ。
「私はすべての問題をあまりに本質的に考へすぎる。人が私のことを『反動的』だといふのも、…提出されている問題を本質的にのみ考へようとするからでせう。本質的思考においては、歷史を背景とする現象論は當然、影がうすくなります。…したがつて、人から『反動的』だといはれるまへに、私自身のうちに、『反動的』だの『進歩的』だのといふ思考がないのであります」(「戰爭責任といふこと」、第4巻、180頁)
この点から、戦後の党内論争を経て徹底した政治主義を打ち出した当時の共産党を揶揄する形で、平和革命論に固執する知識人党員より結果として評価して物議を醸した論考「日本共産黨禮讃」のような主張も飛び出す。
「私は反共でありますが、嘗つて吉田茂は德田球一に親愛感を持つてゐたと言はれる程度には、日本共産黨禮讃に共感する事が多い。…私が疑問に思つたのは、戰爭直後、『大衆に愛される共産黨』を目指した時だけです。當時、暴力革命か平和革命かといふ議論が文壇にまで流れ込んで來たものですが、その點、私は『近代文學』一派と對立した事を覚えております。唯物史觀を奉じる限り、暴力革命論を捨てる手はない。現實的に言つても、議會政治を通じ、自國の力だけで日本に革命が起せる譯が無いと考へてゐた私にとつて、平和革命論は欺瞞としか思はれなかつたのです。…階級鬪爭にさういふけちくさい國家的自尊心は有害無用だと思ひます。」(『全集』第6巻、336~37頁)
そうは言っても、もとより反共の福田に革命願望などありはしない。共産党の、共産主義の、革命の本質のみを論じれば、甘っちょろい知識人が革命政党で主導的役割を果たしうるはずはないと見限っている。「平和革命」は幻想にすぎないと。その覚悟を欠くなら、インテリの「政治ごっこ」でしかない。
戦後は「似而非ヒューマニズムによつて、幼稚園道德にまで逆戻りさせられ」(341頁)、政治と道徳が未分化状態の日本人の国家意識の退嬰性と、集団的自我と個人的自我の対立を処理できない幼稚さについて、福田らしい主張は、末尾にある。
「ドイツばかりでなく日本もまた米國を『盟主』とする自由陣營の一員として生きる事を明かにした方が良い…それは國家的なエゴイズムや利益を否定することではありません。前者の根本を明かにし、自覺することによつて、後者は卻つて生かし易くなる…そこでは精神や道德の顔を出す餘地は殆ど無ささうに見えます。…政治か道德か、いづれかの一元論を以てしては解決が著かず、敢へて解決を著けようとすれば危險だといふ事です。…私が自由陣營を選び取るのは、その自由主義の故にではなく、この二元論的生き方の故であり」(343頁)
そこにあるのは、近代の宿命を自覚した徹底した合理主義だ。
福田は左翼に寛大ではない。196③⇒【左翼の弱点を攻撃しなかった】わけでもない。むしろ、「共産黨を、或はマルクス主義を一種の身分證明書の様な形で利用しながら、共産黨の前衞主義、及びその過失と頑迷を批判することによつて、今日の曖昧な政治的牀況に適應している」(334頁)左翼知識人を根源的に批判している。
「死文の堆積」である当用漢字ならぬ「當用憲法」=現憲法批判と、「近代日本知識人の典型清水幾太郎」批判については、いずれ別の機会に。
右往左往して慌ただしく生きた清水と、勁く静か生きた福田との違いこそあれ、根底には通じるものがある。批判が容赦ないのは、その力量を熟知しているからだ。[完]
天皇による首相の任命行為は、国会の”指名”があるので、個人の名前が特定されています。動かしようがありません。それに加えて前内閣の助言と承認より、天皇は任命行為を行います。極めて儀礼的な行為といえます。ただこの憲法規定は、立憲君主国(大日本帝国)だった戦前の名残でしょうね。
余談ですが、軍部は、敗戦時に国体の護持になぜかこだわりました。歴史的には(Gは歴史が好きなので)、首相(と最高裁判長官)の地位に「正統性」(似ていますが正当性ではありません)を、付与するという意味合いもあります。
指名と推薦では、任命権者への拘束の度合いが異なるようにも見えます.任命権者が象徴君主とされる天皇を除けば、内閣・首相が任命権者の場合は、法は当然に人事についての事前調整を予定しているものと考えられます。そのような場合、一方的に推薦(指名)名簿を作り、これを丸呑みして任命せよ!!として、一方的追認を迫るやり方は、法の予定している手続きからすれば、違法ではないにせよ手続き論からすれば瑕疵(不完全)があるのではないかと考えます。
217⇒【反氏のコメント201についてであるが…私が問題としているのは…172に私の名前を詐称して投稿した、その事実…どうして…問題にしないで、問題をすり替えるのだろう】と先走る。172が本当に名称詐称の投稿か、老婆の狂言なのか、それとも別の可能性もあるのか、私の知ったことではない。
私の201は誇大妄想狂ゲーテの「使徒」とやらが、見当違いな妄想(ἡ πλάνή)に取り憑かれているから、投稿で応答する相手を「お間違えではございませんか、惚けるにはまだ早ようございますよ、いきり立ったおばあちゃん」と書いている。詐称問題などに、何の関係もない。
それを言うなら2日前の30日・181だろう、「薄ら呆け」。自分のやっていることを棚に上げて217でぶつくさ見当違いな御託を並べて、ようやく血の巡りの悪いお頭で気づいたのか、178末尾になって、⇒【しかに、よく読んでみれば、コメント133は反氏にあてたもの】なのだという。
とんだ独り芝居で、それくらいだから、過去に何度かからかわれていることに気づかないお人よしというか、間抜けだ。
次のような投稿がこの春あった。
【MINAMI】4月18日・33⇒【カロリーネさん頑張って~…あなたは、もう少しで西浦先生の数理モデルが理解できる領域に入って来ると思っています……今後も、頑張ってください】
それに対して老婆、4月18日・43⇒【MINAMIさん、応援ありがとうございます。西浦教授の数理モデルが理解できる領域には、入れるかどうかわかりませんが、マイペースで進んでゆきたい、と思います】
驢馬並みの憐むべきお頭の老婆に数理モデルなど理解できるはずもなく、それが手の込んだ悪戯だと気づく気配もないから、当時呆気にとられたものだ。
からかわれているとも知らず、頓馬につける薬はない。
【HIGASHI】4月22日・7⇒【分かって良かったね。もう二度とワイドショーねたで我々を悩ませないで】――老婆が直前の6で、⇒【毎日おこもり生活をして、恐怖を煽るワイドショーばかり見ていると、戸外の新鮮な空気もすえないし、良質の食事もできないし、心配のあまり眠れなくなり、逆効果になるのでは、と思う】としたのを揶揄したもの。
さらに老婆、同日・10⇒【HIGASHIさんに嫌味を書かれましたが、ワイドショーの報道ぶり、それが日本の世論になっていること、になぜ悩まれないのですか?】、対して【HIGASHI】4月22日・7⇒【そもそもTVなんぞ持ってない。時間の無駄】。
南、東に続いて西も。こちらは悪戯ではない、直言。
【西コロナ】2020年4月22日・13⇒【ワイドショーを見て愚痴を書き連ねているカロリーネさん。ワイドショーがそんなに嫌であればワイドショーを見なければ良い…どんなに背伸びしても陳腐なコメントしか出来ないのですからストレスを引き起こすワイドショーを視聴せずに実り豊かな老後を】――婆さんはそれを無視。
その後、北は現われていない。褒め殺しも揶揄も直言も通じない相手に愛想を尽かしたようだ。
「智者の口の言語は恩徳あり 愚者の唇はその身を呑ほろぼす/愚者の口の言は始は愚なり またその言は終は狂妄にして惡し/愚者は言詞を衆くす 人は後に有ん事を知ず 誰かその身の後にあらんところの事を述るを得ん」(λόγοι στόματος σοφοῦ χάρις, καὶ χείλη ἄφρονος καταποντιοῦσιν αὐτόν• / ἀρχὴ λόγων στόματος αὐτοῦ ἀφροσόνη, καὶ ἐσχάτη στόματος αὐτοῦ περιφέρεια πονηρά• /καὶ ὁ ἄφρων πληθύνει λόγους, οὐκ ἔγνω ὁ ἄνθρωπος τί τὸ γενόμενον, καὶ τί τὸ ἐσόμενον ὀπίσω αὐτοῦ, τίς ἀναγγελεῖ αὐτῷ; ΕΚΚΛΗΣΙΑΣΤΗΣ, X, 12~14, Septuaginta, Vol. II, p. 257)
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