大阪都構想が、住民投票で否決された。私は、大阪に居住したことがなく、体感も知識もないため、この問題について語る準備がなく、今までSNSレベルでも言及したことがない。
しかし、住民投票の否決によって、一つはっきりしたことがある。維新の会が、全国政党に変化する大きなチャンスが訪れた、ということだ。
都構想が実現に向けて走り出したら、維新の会の主力は、都構想の実現の成功に向けて、多大な追加的労力を払うことになった。
しかし、否決によって、その負担がなくなった。
余った労力は、国政への貢献にあててほしい。
維新の会は、もう大阪都構想を実現するための政党である必要はない。全国的な視野で、地域主義の可能性を模索していってほしい。
維新の会には、もともと外交安全保障政策に強い関心を持つ方々もいらっしゃる。新型コロナ対策では、吉村大阪府知事が、全国的な影響を与える地方自治のあり方を示した。
地域主義の性格を捨てる必要はない。引き続き地方自治の可能性を最大限に模索する政党であるべきだ。そこは自民党との差異性を出す領域になる。ただ外交安全保障政策を中心とする分野の知見も活かして、国政レベルで活躍できる政党として発展していってほしい。
現在の日本の政治の停滞の大きな原因が、固定支持者を固定的に確保するためだけの行動しかとらない野党勢力が、政権担当能力を持つことを放棄していることであるのは、誰でもよく知っていることだ。
日本学術会議問題などを見ても、自民党に「弱い少数者に譲歩する大人の寛容を見せてやれ」といったタイプの批判が相次いでしまうだけなので、モンスター・クレーマー化した野党群との間で、建設的な議論が生まれる可能性が乏しくなっていることが明らかだ。
維新の会は、この国政レベルの閉塞状況を打開する大きなポテンシャルを持っている。
大阪都構想の否決を、ぜひ、全国レベルでの日本の政治の発展という前向きな動きにつなげる機会としてほしい。
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逆なのである。OLをしていた時、理論書ではなくて、信頼できる、と思う新聞記事を訳して、ドイツに送っていた。政治も、経済活動も、刻々と変わっていく変化に対応していかなければ、イデオロギーに固執していたら、現実の変化についてゆけない。ヘーゲルが「ミネルヴァの梟」で述べているように、哲学、それを理論でまとめる仕事は、それぞれの時代の終わりがけ、いわば一日の夕方に、はじめて可能なのである。
音楽と社会の関連、その相関性をミュンヘン大学の音楽学の授業で若き日に学んだのだな、とつくづく思う。
トランプ大統領のやり方、敵を作るやり方、熱狂的な支持者の作り方、はそのやり方にそつくりなのである、
時間がおありの方、興味のある方は、ぜひ、みていただきたい。
今回は事前の世論調査に基づく予測とは異なる接戦で、州法にもよりますが僅差の州では再集計等が認められているため、それを巡って下されるであろう司法判断が気になるところです。参考になりそうなのは2000年のブッシュ対ゴア事件です。
「この大統領選出の手続が争われたのが、2000年の大統領選挙をめぐる一連の訴訟であった。同年の選挙ではブッシュ対ゴアの接戦となり、フロリダ州の結果次第で当選が決まることとなった。ブッシュの票がややゴアの票を上回るとの結果にゴアがいくるかのカウンティでの手作業での再集計を求めた。ところが、州の選挙監視委員会は期間内に間に合わない集計を排除する立場をとった。ゴアはこれを争い、州最高裁は集計を続けるよう命じたが、最高裁はBush v. Palm Beach County Canvassing Board,531 U.S.70(2000)でこれを覆した。憲法は大統領選挙人の選出方法の決定を州議会に委ねており、州最高裁の判断がどのような権限に基づくものかはっきりしないというのであった。その後ゴアは、ブッシュ勝利の州選挙監視委員会の認定に不服を申し立て、州最高裁はすべてのカウンティにおいて投票とみられなかった票を再吟味して再集計するよう命令したが、ブッシュが最高裁に事件移送令状を求め、最高裁は再集計を中止させた上、
この点、連邦最高裁の中で保守派と一般に分類されている5名中でロバート首席判事(最高裁長官に相当する役職)のみが大統領選挙に関し州の裁量を重視する立場と思わるところ(他の4名は、投票日よりも後に届いた票についての票の集計をするのは州の権限を超えるものとして認めない立場のようです。)、リベラル派のギンズバーグ判事の死去を受けて新たに任命されたバレット判事(6人目の保守派)がどのような判断をするのか注目されるところです。
しかし、アメリカ連邦最高裁は裁量上告制度をとっているので、ブッシュ対ゴアのときのように連邦最高裁が実質判断をする段階まで至るのかは未知数です。
因みに、民主党の大統領候補のバイデン氏と副大統領候補のカマラ・ハリス氏は共に法曹資格を有しています。バイデン氏は弁護士開業して直ぐに政治家に転身したので法曹実務経験は僅かのようですが、ハリス氏は検察官として活躍した後に政治家に転身し民主党予備選での敗退の後に副大統領候補となりました。バイデン氏がかなりの高齢なのでバイデン氏の後任でハリス氏が大統領となる可能性が高いのかもしれません。一寸先は闇なので今から予測をするのは無意味なのかもしれませんが、2024年の大統領選で共和党の大統領候補がニッキー・ヘンリー前国連大使の可能性があるとすると女性同士の対決となる可能性もあるのかもしれません。
ニッポン放送の飯田浩司氏の番組での篠田教授(今まで篠田氏とえらそうに書いていたが、これもGくんさんによる呼称を参考)の解説を聞きました。両氏とも非常にまとも(これって見下し表現かな?)であるので安心しました。メディアのなかにも優秀な方々がいることに安心をしたという意味でもありますが、こういった理性的な分析がもっとメジャーな地上波テレビ等ではほとんど見られることがない(だから地上波はほとんど見なくなった。ただし「鬼滅の刃」など話題になったものは時々視聴する)。
大統領選についてはバイデンが事前の予想通り勝ったが、トランプも意外と善戦しました(それにしても米国の選挙管理の杜撰さはかなり病的であります)。これはトランプの徹底した反マスコミスタイルが多くの国民から前回は支持されたが、大統領当選後も罵倒合戦が日常化してしまったので、もう国民から飽きられてしまったというのがあるのではないでしょうか。バイデンは路線としては中道化した以降のクリントンの路線と似たようなものになると予想します。
個々の意見については違うことが多いかもしれない。たとえば、カロリーネ さんは111でトランプがヒトラーに似ているとの指摘だが、全マスコミを支配し掌握したヒトラーとほとんどのマスコミから袋叩きにされているトランプを並べるのは全く同意しない。しかし、熱狂的な吹き出し方に共通点があるという意見はそれなりに尤もである。
私が飽きもせず書いているのは「左翼から日本の政治経済を守らなければならない」ということだけである。日本の左翼マスコミはドイツがヒトラーなど極右を排除した部分は執拗にとりあげるが、同じくドイツが極左を排除したことは完全に黙殺または隠蔽してきた。日本のマスコミにとって都合悪いからである。それに象徴されるような左翼があたかもリベラルであるかのように偽装した風潮が戦後日本における異様な左翼の全盛期をつくりだした。
自宅のテレビでアマゾンプライムを見るようになってリモコンのスイッチをいれると民放地上波以外の情報番組も見れる。それで昨日深夜にテレビをつけて検索するとDHC制作の何週間か前の虎ノ門ニュースが表示されたので半分くらい視聴した。
このDHC制作の情報番組を目のかたきにしたのが、放送倫理委員会とやらで、極左のデマには驚くべきほど寛大だが、右派の情報番組だけを集中攻撃して他の某番組は中止になったか排除されていた。たしか去年の話である。
これが昔なら、中立公正を名乗って左翼がやりたい放題ができたが、現在は多くの国民が注視しているのでやりたい放題にはできない。良い傾向だが、まったく油断できない。左翼はかつての共産主義国家のように権力に寄生します。公正な議論では真正の自由主義者には勝てっこないからです。それでレッテルばりや集団リンチに精をだす。
だから表現をかえると、マスコミという仕組みそのものに致命的人材を呼び込む欠陥があるという考え方です。さらに海外もそうかもしれないが日本の場合は特にマスコミ業界を志望する学生の質が劣化しつづけているので、ますます日本のマスコミは能力に比して態度だけデカイ夜郎自大が占有してくると思われ、そのマスコミが各種メディアを独占し、(米国以上に)世論をかく乱してきたので、これをなんとか言論によって阻止する必要があります。考えてみれば、これだけ憲法論議で注目されている篠田教授にNHKが取材をしているという記憶がありませんが、冷静で公正な議論喚起を行うべき役割の公共放送のNHKが篠田教授を黙殺しているのも実に奇妙なことです。あくまでこの範囲内でしか議論をさせないという枠組みをもっているようです。そもそもNHK改革なども国民アンケートなどをとって整理しようという意思が皆無である。どう考えても、学術会議などと同様に、歴史的に左翼や共産党系から強い影響を受けてきたという背景を抜きにしてこうなるはずがないというのは明らかです。
これを多くの投票者が見て、特に高齢者は新聞とテレビで注目したと考えられる。あの僅差だと報道が結果を左右した可能性は高い。
ただし、私も篠田教授と同様に大阪都構想をそれほど支持する立場でも反対する立場でもないので、都構想が成立すれば大阪都構想の改革に費やされるべきであった維新の会の政治的パワーが、国政や地方政治の本格的議論に向けられることを願っています。
それにしても冒頭にあげた事象が不思議でしょうがない。工作であることはわかりきっているのですが、それが何事もなかったように、もう忘れ去られようとしている。だから、こういう点はトランプの郵便投票や選挙工作批判を見習って、不公正な報道が民主主義の総意たる選挙を左右しなかったかという検証をやるべきだと考える。そして、次のデマ報道を防ぐため、それを知らない高齢層に広く事実を共有してもらうべきだと確信します。
原英史氏や大阪都構想に関する毎日新聞の報道とそれに追従する既存メディアを見れば、たとえば憲法に関する国民投票が今後あっても選挙結果を左右させようとしたデマ報道が発生するのは間違いないと考えられます。
憲法には「言論の自由」などがもちろん唄われているが、「マスコミがメディアを牛耳って世論を支配し、他の先進国とも明らかに様相が違う。記者クラブも独特だが、それで本当に言論の自由があるのか」といった本質的な問題提起の議論が一回たりとも行われなかったのです。
まともな公開討論番組がなかったため、朝まで生テレビという深夜番組が流行しましたが、あの人選も偏っていました。
「言論の自由」と憲法に書けば即実現できるわけでなく、維持するために不断の努力がいうまでもなく必要です。そして、メディアは「言論の自由」の維持に関して不断の努力をしているように偽装しながら、実態は「言論の不自由」をつくりだしてきました。もちろん過激な人権違反の言論は排除されて当然ですが、「日本の防衛は必要だ。海外への自衛隊派遣も必要だ」というような常識的な発言までしただけで、無視するばかりでなく印象操作と集団的レッテル貼りによってそうした異論を徹底攻撃し抹殺しました。それが一時代だけのことでなく慢性的に続いている、戦後だけでなく戦前もそうだった、というような客観的に見た歴史的評価です。その根源は、職業的マスコミというものが自己価値を高めるため、流行的権威に順応しながら世論を工作することに目的を見出すから「何事も真実理解が誠実かつ堅実に深まらない」ということです。
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/27208.html
ついでながら、NHKについては、「左寄り」の勢力からは政権寄りと批判を受ける一方で「右寄り」の勢力からは反日的などと相対立する双方の勢力から批判されているので、結局は、評価者の主観的判断に左右される「水掛け論」にならざるを得ません。
なお、放送法4条違反と同法を所管する総務省が判断するような極端な場合には行政指導をし、それでも改善されない場合は電波法76条に基づく電波停止命令等の行政処分も可能ですが(表現の自由との関係で慎重な運用は必要ですが)、私が知る限りでは行政処分の例はないようです。
少し古い資料ですが、下記の総務省の資料には放送番組に係る行政処分(不利益処分)の例はなく、行政指導があるのみです。行政指導の具体例も掲載されており興味深いです。なお、違反根拠の条文として放送法の「第3条の2」や「第3条の3」とありますが、その後に改正されているため現行の放送法の4条1項や5条に相当する違反となります。
https://www.soumu.go.jp/main_content/000078893.pdf
K. J. アローの社会的厚生関数の一般可能性定理(General possibility thorem of Social welfare function)は、それを数学的に証明し、定式化したものだ。
民主的合意形成は、手続きを徹底して重ねれば重ねるほど、根本的パラドックスに逢着する。2日・4⇒【三人寄れば文殊の智慧…もっと視野の広い考え方】は、実際には何の役にも立たない。偏執狂の老婆が、現代民主制をめぐる諸問題を全く理解していない「お子様民主制論」たる所以だ。
それは手続きとしての正当性を部分的に満たすが、それ以上でも以下でもなく、パラドックスは手続きを駆使すること自体に内在しているからだ。民主主義的な合意形成の難しさだ。
ロールズは『正議論』54 節の「多数決ルールの位置づけ」(The status of majority rule)で、以下のように説く。
「多数派の意見が適確である可能性はどれくらいかと問うならば、最善の判断に到達するための理想的な手続きと、専門家集団の見解をプールするという統計学的な諸問題との間に、一定の類比が明らかに見て取れる。理想的な手続きにおける専門家は、公平無私であるがために客観的な観点を取り得る合理的な立法者たちに等しい。代議制の立法者側の判断が不適確ではなくて適確である見込みが高いならば、多数派による投票結果が適確となる蓋然性は、代議制の立法者たちによる意思決定が適確である見込みが高まるにつれて増す。この提案はコンドルセのものにまで遡る。そこで私たちは次のように仮定する誘惑に駆られるかもしれない。すなわち、もし多くの合理的な人びとが理想的な手続きの諸条件を摸擬実験しようと努め、それに沿う形の推論と議論を積み重ねたならば、ともかくも大多数の意見がほぼ確実に正しいとされるであろう、と。」(引用続く)
今回の米国大統領選は、野党民主党やメディアの再選阻止「包囲網」(ἡ ἄρκυς περιβολαί)によってトランプ氏が敗れ去る構図が決定的になってきた。それは多分にコロナ禍、それも対策の失敗という直接要因ではなく、投票所での感染を恐れた民主党支持者の郵便投票への大量シフトが決め手となりそうだ。
郵便投票分の開票が進むにつれ、常識では考えられない圧倒的な割合でそれがバイデン票であることで、それまでのトランプ氏の優位を覆していった現象は、相当特異な条件下でしか出現しえない極めて特殊な現象だ。
郵便投票自体は、トランプ氏の「不正の温床」という指摘にもかかわらず合法的なものだが、全体の支持の拮抗状態から見れば、投票所での厳格なチェック下での完全な秘密投票という普通の行動とは性質が異なることも自明だ。
トランプ氏の再選を阻んだものは、「成り行きに影響されがちな」民衆の党派的投票行動であったと言える。それもまた、今回の大統領選の異様さだ。
「運(=偶然)とは人間の思考では明らかとならない(理解し難い)原因」(αἰτία ἡ τύχη, ἄδηλος δὲ ἀνθρωπίνῃ διανοίᾳ)というが、新型コロナのこのところの新たな感染拡大局面も「人間の理性には明らかとならない」(ἄδηλον ἀνθρωπίνῳ λογισμῷ)不確定要因が目白押しだ。
「なぜなら、こんなことが起ころうとは、誰が予想したであろうか」(τίς γὰρ ἂν ᾠήθη ταῦτα γενέσθαι)という状況だからだ。
現実(τὸ γιγνόμενον)というものは、このように「思いも設けぬこと」(ἡ δ᾽ ἀδοκήτων)によって成就する。「現実的に」(ἐνεργείᾳ)と称して、人々が現実という名の観念(ἡ ἔννοια)、つまり仮象(φαίνεσθαι)によって翻弄されるのはそのためだ。
しかし、問題はその先にある。
「だが、理想的な過程ににおいては、無知のヴェールによって、立法者たちは既に公平無私の状態にある。〔それでもなお〕議論に利益があるのは、代議制の立法者たちでさえ知識と推論能力において限られているからである。代議制の立法者の中に、他の者が知っていることのすべてを知っている者はいないし、協調して出しうる推論と同じ推論をすべて一人で出しうる者もいない。議論と情報を組み合わせて論証の幅を広げる方法にほかならない。少なくとも時が経つにつれて、共通の熟慮・討議には事態を必ず改善する効果があると思われる」(473~74頁=‘But in the ideal process the veil of ignorance means that the legislators are already impartial. The benefits from discussion lie in the fact that even representative legislators are limited in knowledge and the ability to reason. No one of them knows everything the others know, or can make all the same inferences that they can draw in concert. Discussion is a way of combining information and enlarging the range of arguments. At least in the course of time, the effects of common deliberation seem bound to improve matters.’; ibid., p. 315)とするにとどまる。
結局、われわれは、正議論の一部である「正義の重要事項をめぐる公共的な熟慮・討議に関する理想的な憲法――つまり正確な判断に達しないとしてもそれに最も良く近似できるように、集団の知識と推論力を高めるべく適切に設計された一群のルール――の定式化を試みるという問題に到着する」だけである。
‘arrive at the problem of trying to formulate an ideal constitution of public deliberation in matters of justice, a set of rules well-designed to bring to bear the greater knowledge and reasoning powers of the group so as best to approximate if not to reach the correct judgment.’; ibid.
こうしたロールズの議論は激しい論争を巻き起こした。冒頭で言及した数理経済学者のアローは、効用の個人間の比較可能性を認めない正統派経済学の立場から徹底的な批判を行った。
アローが新生面を開いた新厚生経済学は、「あるべき経済政策」を構想する規範理論においては、正議論の重要テーマである「分配の正義」を回避できないが、経済活動の理論的分析では、効用の最大化という功利主義的な観点が専らで、市場の均衡状態とパレート最適が同値関係にあるとする厚生経済学の基本定理に忠実だ。
アローは、多数者による決定である「社会的選択」(social choice)と、各自が望ましいと考える事柄=「個人的評価」(individual values)の衝突を民主制のパラドックスとして抉り出した以上は、個人と社会との調和や一致を説く規範理論の理想主義の根底にある脆弱性を見抜いていたからだ。
もっとも、市場万能主義者ではないアローは、「格差原理は、生まれつきの才能の配分・分布を共通の資産とみなし、この配分・分布の相互補完性によって社会的・経済的諸便益を分かち合おうとする、一つの合意を実質的に表している」(‘The difference principle represents, in effect, an agreement to regard the distribution of natural talents as in some respects a common asset and to share in the greater social and economic benefits made possible by the complementarities of this distribution.’; ibid., p. 87)というロールズの基本的な見解を支持している。
ただ、正義に関する有意味かつ普遍的な概念が存在する、というロールズの仮定には終始疑念を呈している。
現代の民主制論は、民主制を蝕む新たな病理現象を含め、今なお途上にある。[完]
113の最後で 政府解釈さんが、おもしろい見解を披露していると思いました→4年後は、民主カマラ・ハリスVS共和ニッキー・ヘンリー(初出は72の函南子さん)< 女性対決、ありえますね。おもしろい!! なお現時点でのトランプVSバイデンは、バイデン氏で大勢は決しているでしょう。
アゴラ主催者の池田信夫氏は、Vlog「合衆国憲法は前代の遺物」(動画)として、「選挙人制度」をやめるべきだ!としてます(選挙人は必ずしもその事前誓約に拘束されない州もあるとか)。Gは、議院内閣制同様に為政者が大衆と直結しない(結果的に)いい制度だと思っています。国民は主権者であると同時に被統治者でもあるからです。以上は直感にすぎませんが、専門は反時流的古典学徒さんでしょう。その反さんが102などで掲げています→ポピュリズム< にならないようにするための歯止めだと考えます(このような制度は)。
政治的リベラリズムが推し進めた社会における多様性の受容が、少数者への配慮を優先するあまり、多数者とされる側の旧来の伝統的価値観を阻害し、さらに歴史的、文化的伝統、慣習への見直しに発展していることに不快感を抱き、危機感を募らせているからだ。
さらに、グローバル化に連動して一層対象領域を広げたそうした伝統的価値観の見直しは、一種の文化破壊にも及んでいる。米国でクリスマスが多数派による信仰儀式の一環であることから公的施設でツリーを飾ることもままならない状況の変化への戸惑い、苛立ち、反撥が根強いからだ。
皮肉なことにそうした新思潮を熱心に推進するのが、知識人や専門家、経営エリート、高学歴層という社会的少数者で、グローバリズムや国際化の推進者にして受益者であり、その恩恵に与れず零れおちた人々や別種の社会的弱者が反撥を一層深めるという構図だ。
オバマ政権によって米国でそうした差別・格差解消の動きが一層進み、国内産業の空洞化による旧中間層の衰退などで経済的格差が拡大したことも、トランプ政権の誕生を後押しした。
その流れは、今後新たに民主党政権になってもなお残ることは自明だ。多くの批判にもかかわらず未曽有の大接戦を演じ、根強い支持層が厳然として存在することを今回の選挙が示した。
それは同時に、都市部と周辺地域との絆も断ち切った。社会全体の信頼の絆と連帯が喪失し、それぞれが公正原理の下に自己の利益を最大化しようとするロールズ流の抽象的「正義の原理」の一つの帰結としてのリベラルデモクラシーの今日の姿となった。
伝統的価値観に根ざした信頼や良心、伝統的価値観への帰属意識を、ロールズは抑圧的な特性と見なす傾向がある。それは地域社会の隣人より、抽象的な「人類を愛する」と揶揄される所以だ。
そして高度に抽象的な原理が置き去りにしてきたものが、米国の人民民主制、即ちポピュリズムの伝統だ。それは市民としての自覚に富んだ大衆による政治関与の本性的欲求で、米国流民主制の一つの水脈を形成している。それは行き過ぎた=誤った差別解消政策から生じる自立的精神の腐食への嫌悪感でもある。
ロールズの600頁を超す大著『正義論』には政治的正義(political justice)はあっても、[political correctness]はもとより、 [populism]も一語もないことがそれを象徴する。
分断だけでない、「トランプ現象」を生み出した根深い問題が横たわっている。
☆余白に 「Gクン」氏がロールズを知らないと知り一瞬。驚いた。そこでWikipediaの記述をのぞて再度驚いた。「正義の二原理」の訳文に添えられた英語原文は、元著には存在しないことに。解説自体はましなのに、惜しまれる。
「NHKについては、「左寄り」の勢力からは政権寄りと批判を受ける一方で「右寄り」の勢力からは反日的などと相対立する双方の勢力から批判されているので、結局は、評価者の主観的判断に左右される「水掛け論」にならざるを得ません」
主観的判断では全くありません。過去の客観的指標があります。いくらベストセラーになっても右派の作家や評論家、学者などは絶対にNHKに出演させない。ところが、左翼はベストセラーになると徹底的に持ち上げるということです。たとえば、過去には左翼の小田実をNHKは徹底的に持ち上げました。NHKアーカイブスのなかでも特別評価と思われます。また、NHKのメイン解説者や過去のドキュメンタリーも左傾化が著しいものでした。日本の安全保障問題についても客観的議論を封殺する先頭のメディアでした。
左翼がNHKを「政権寄り」だと批判するのは、左傾化したNHKを左傾化したままで置いておきたいための思惑に過ぎません。極左にとっては普通の左翼でも右翼に見えます。元社会党の村山委員長が非武装中立を廃止したときは左派から右翼だと罵倒されました。
どちら側も主観的判断であるに過ぎないからこそ、客観的指標でしか評価せざるをえません。さらに致命的なのは公開討論など焦点となっている社会問題について識者の議論をやらせないことです。NHKが世論をこのように工作したいという願望があって、それに順応した見解のみが一方的にNHK番組で披露されます。こういう点が英国のBBCなどとも決定的に違うと厳しく批判され続けているのです。右派と左派が対立するなら、なぜ両者の識者代表を招いてなぜ議論されないのか。情報工作機関だと批判されるのもそれなりの背景があります。
「右翼も左翼。どっちもどっち」というのは真理でありますが、明らかに日本社会では左翼の過剰な存在感が異様です。左翼メディアがその象徴です。
たとえば普通の社会人であるなら流通の歴史なども知っていると思われるが、流通の卸売業界では、商品を卸売業者が恣意的に保管したり横流ししたり選別しておいて、自社の利益を操作するなど姑息な前近代的事情があったため、卸売業法などにより改正されて流通が健全化および近代化されました。
しかし、政治や社会の情報を中間で独占し姑息に情報操作しているのが守旧メディアであるが、守旧メディア内にあまりに社会常識からかけ離れている連中が生息し民主主義を歪曲しているという現状があります。これは確実に他の先進国には見られない前近代的な業界ですが、NHKなど主要メディアも言わば同類であるためなかなか改善できないという事態にあります。
自分で議論の焦点をアジェンダ(課題項目みたいなものです)として設定すればよいです。たとえば、反時流的古典学徒さんから「お前は左翼批判の度が過ぎる」「良い知識人たとえば田中美知太郎を見習え」と批判されたので、自分なりにアジェンダを設定しました。
ここでアジェンダを3つに分解しました。「左翼批判の度が過ぎるというのは文体か内容か」(私の文体はたしかに過激)「さて良い戦後知識人と左翼の関係は?」「左翼の批判を抑制した知識人が模範となるか」
後者は一般論を論じたり、具体例としては指名された田中美知太郎もかなりストレートな左翼批判を行っている事例などを紹介しました。
ちなみに、アジェンダ設定はどちらが勝者かを決めるゲームではなく、客観的に第三者の理解を深めるための事前準備または前提のようなもので、適切なアジェンダ設定によって議論が生産的に進められます。アジェンダ設定をぶちこわそうとしたり、そもそもアジェンダ設定が的外れとか陳腐だと批判しながら代案をだそうとしない連中はそもそも議論不可で印象操作や歪曲で世論操作をめざす勢力です。
社会的には、アジェンダ設定はまともに議論しようとする人が集まる普通の会議室でこそ成り立つもので、彼ら左翼のまちかまえているのはいつもの通りの(なんでもかんでも議論を封じて)既得権益を守ろうとする、言わば「バリケード」なのです。政権側もまずバリケードを突破しながら、ふさわしい時期が来たところで適切なアジェンダを設定するつもりなのかもしれないと想像しました。
また精神的価値としては、従来の真・善・美・聖という価値観のなかでは「善」を強調していたと感じられる。自然科学は真をめざす。人文系は真だけでなく善をめざす。さて善の土台とは何なのかという永遠の難問をまじめに自問自答した。米国らしい誠実な学者である。米国流のプラグマティズムをより高度なプラグマティズムに進化させようとしたのかもしれない。
限定的な範囲では目的はよく理解できるが、だからといって目から鱗が落ちたというほど感心はしない。
個人的には、日本の左翼は、世界の自称知識人または思想家の「時代的欠陥」に加えて、さらに日本人特有の知識人や民族性の弱点がミックスして、非常に「えげつないもの」になっているという認識をもっている。社会の実態を知らず直視できない頭脳肥大化の知識人特有の欺瞞に、日本人特有の情緒性が加味されて出来上がった醜悪性が強く感じられる。研究しても面白い素材かもしれないが、バカバカしいのでほとんど後世の参考にもならないだろう。
そして、他者を激しく糾弾し攻撃しながら、逆に批判や攻撃されると倍返しの報復をもたらす。そんな偏狭な頭脳が寛大な視野や深い真理に到達することはありえないというのは永遠の真実である。何を言っているかではなく何をやっているかということである。
マスコミが「反権力であるか、どうか」、ということは関係なく、「そのマスコミが作り上げる世論が正しいか、どうか」、ということがその判断の基準にある。本来、放送法4条にも定められているように、テレビ報道の役割は、世論を一方向に流すのではなくて、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること、にある。それが、日本では全く守られていない。「日本学術会議問題」、「日本国憲法9条解釈」にしろ同じである。
私に対して「虚偽体質」であるというレッテル張を繰り返し、「現実の経験」の無価値さを著名な哲学者の言葉を借りてシャカリキに否定しようとされるのである。ではなくて、
私に対して「虚偽体質」であるというレッテル張を繰り返し、「現実の経験」の無価値さを著名な哲学者の言葉を借りてシャカリキに強調しようとされるのである、でした。
お詫びして、訂正します。
そして、「現実の体験が価値があるものか、どうか?」は、読者の判断にお任せします。それは、この判断は、「権威、哲学者」の言葉ではなくて、「自分の体験」で判断できるものだ、と私は考えるからである。
NHKを批判する人々のなかでは偏向番組や低レベル番組を批判する人と受信料徴収しながらBBCなどに比べても不釣り合いな高い平均年収や高慢経営や組織腐敗を批判する人の2種類に分かれる。
私は前者および後者のどちらに対しても強く同意であり、右翼も全体主義志向の面は時にあるが、右翼の対局にある左翼も全体主義に近いイデオロギーであることから、左翼がNHKにのっとられて、このように腐敗することは最初から自明であった。
NHKの偏向性については公共放送として中立公正のためスポンサーをつけないという名目だが、逆にスポンサーがいないことを逆手にとって偏向放送をやってきた。なにもかも悪用されるのだ。国民投票をNHK解説委員がすすめながら、NHK改革に関するアンケートだけはほとんど取らない(総務省のパブリックコメントだけのようだ)
普通の社会常識を持った人間が評価すれば、あまりに非常識であることがすぐわかる。しかも国民からの正当な反論に対して完全無視し、あざとく黙殺する。いったいこのような左翼勢力にもし日本政府がのっとられていたら、どうなっていたかを想像すると身の毛がよだつというレベルである。
「本来、ジャーナリストに、・・・独善性の強い頭の固い人、自分の理論で人々を洗脳しようとする人は向いていない」
けれども、そういう人々に限ってメディアをめざすのですね。しかもメディアの最大の問題はその連中が可視化されないということです。新聞社の編集委員やテレビのディレクターなどの役割を担って背後でうごめいているということです。
大阪都構想の問題などでも様々な意見をネットで見聞きしたが、賛成あるいは反対にしても、その個人の主張や振る舞いが目の前で可視化されているわけだから判断がつきやすい。その断片的論理そのものよりも、社会全体への視座や狂ったように他を排撃し思い込みの強い人間でないかを社会経験あればすぐ判定できる。篠田教授のように一歩距離を置いて構える冷静なタイプが信用できる。論理に自信があるから自然とこうなるのである。だから、「TPPは悪だ」と狂ったように一方的に指弾しつづけた自信満々の保守系論客なども時代が変わってろくに見向きをされないようになっている。
それに対して、原英史の毎日新聞の印象操作報道を見ても露骨にわかる通り、既存メディアは裏で無能な野党と結託し、社会の裏側でうごめいている不逞の輩からネタを集めて、検察機構なども不当に操り、それら寄せ集めのなかから訳のわからないデスクや記者が記事を製造している。
目的は世論を右往左往させて政治に大きな影響を与えることにより、メディアの価値を大衆に誤信させ、巨額の利益を得ることだろう。そのために既得権益に寄生し、制度の不備に便乗しながら不当な第4権力を行使しつくしているのだ。それが暴露されるのを恐れるため、そもそも議論を設定できない。印象操作と隠蔽という手段でしか自己保身できない。最悪としか言いようがないのである。
「日本民族による中国を含めたアジアのの劣等民族の支配」
この表現は微妙である。そんなことは戦前の日本人は考えてなかった。戦前の日本は国際政治のかじ取りを誤ったとは考えているが、ナチスのようなアーリア人種の優越思想に染まっていたわけではない。むしろ、白人中心の苛烈な人種差別に反対し抵抗した側面もある。ただし、同時に白人支配の植民地構造や帝国主義を全面否定できなかった。近代化にも良き近代化と悪い近代化があったが、両者の峻別は簡単でなかった。日韓併合も明治天皇や伊藤博文も反対した。やはり台湾を例にとってもわかる通り、近代化という洗礼は多くの地域におよんだが、先住民にとっては複雑な事情となる。
ここでもマスコミ批判につながるが、日本人を夜郎自大に仕立てたプレイヤーとしては朝日新聞など守旧メディアが先頭を走っていた。明治の思想家を見てもたとえば岡倉天心は中国やインドと連携し白人中心の世界構造を変革しようとした。
日本の近代史のなかでそれに値する知識人はほぼ大部分が精神の自由主義者であった。ただし、時代が変われば当然価値観が激変するので現代のリベラルにあてはめると大きな祖語は生じるだろう。しかし、その時代に順応しながら、普遍的価値観を提示した人々である。
カロリーネさんが詳しい近代ドイツの例でいえば教育分野で活躍したシュプランガーなどを以前に例として挙げた。来日したが師匠よりもすぐれている。
こういった知識人はナチス時代により相当皮肉に扱われて、時代の価値観から取り残されてしまったが、たしかな人間観察にもとづいた普遍的な洞察力は不滅だと思える。ナチスが排除されることにより、もっともシュプランガーが強調したのが「イデオロギーに侵されない自立した良心をもて」ということだった。その自立した良心の復活でドイツを復興させようとしたのであった。最良のドイツ人にはその血脈が続いているのだ。
本人の書き残した論文や大量のエッセーなどは、むかし私の実家の書庫に残っていたが、すべて廃棄された。いつの日には電子書籍などで復活されればよいと思う。日本に来日したときの日本の知識人との対話も非常にすぐれたもので、あの時代の雰囲気を知るには良い材料だ。どちらかというと国家や民族の役割を強調した派閥と見られているので現代教育学からは低い価値を置かれ、人間の6つの類型だけが心理学や教育学の本の片隅などで紹介されることがある。
ジャーナリズムの大量生産の文章でなく、シュプランガーにかぎらず、こうした偉人の著作を幅広く徹底的に読み、理解できない文脈がでてきたら、その背景を調べて納得させる、こういう作業を若い時代にやったかどうかで、その後の思考力や洞察力に各段の違いがでてくることになる。ただし、戦後左翼はそれをマルクスやその一派に偏ってやったから奇形化したのである。
話題に出ていた日曜討論についていえば、自民党から共産党に至るまで幅広い党派から出演していることが多いと思いますし、最近のNHKは(昔のことは、旧会社員氏とは世代が随分と異なるようなので論評は難しいですが)、憲法記念日の特番などで憲法改正議論や安全保障問題などもテーマとして扱っているように思います。直近では、日本学術会議を巡るニュースで、一般的には「右寄り」との評価を受けている日本会議に所属の憲法学者の百地章教授が菅首相の任命見送りを支持する立場で出てSNSで話題になっていました。
また、鶏が先か卵が先かという議論にはなってしまいますが、マスコミが世論を形成するという側面もありますが、マスコミも、視聴者数や購読者数を意識して発信をしている側面もあるので社会の空気感のようなもので発信内容が左右される側面はあるように思います。
国政に参加してもなんら組織を動かせずに、場外でメディアで怪気炎をぶちまけるだけなら、都政をあずかるリーダーと同時にオピニオンリーダーであったほうがはるかに良かった(自己評価を誤った)。そして、現代日本の最大の政治課題のひとつは(少子高齢化の影響が大きい)地方の衰退であるから、地方の再構築は重要。大阪は東京の衛星都市から飛躍するチャンスがくるかもしれない。東京都の直下型地震がくるのは時間の問題で吉村知事の時代にやってくるかもしれない。その際の首都機能代替の候補は、大阪、札幌、仙台、名古屋、福岡の5か所であるが、福岡など九州の経済拠点として発展しているが、やはり大阪しか歴史的経緯もあって自発的に取り組めるところは他にないだろう。
はんこや実印なども結局は本人確認というジャンルに属する。また、システム的には認証と認可に分かれるというのは常識である。ところが、憲法などを盾にとって朝日新聞を筆頭に学術界が狂ったようにマイナンバー制度、要は国民番号などの制度または仕組みをプライバシー批判など数々の理屈で徹底攻撃したのである。
そのため、日本社会では、先進国ではどこでも行われていた議論が公けで十分にできなかった。年金制度の不備なども結局は本人確認制度の不備に帰着する。そして、左翼は自分たちの狂ったような妨害活動の責任は棚上げしながら責任を体制側にすべて押し付け、またケロッとして何事もなかったように、毎度毎度、社会の仕組みをその都度あら捜ししてケチをつけながら世論をひっかきまわし存在感をアピールし続けている。要は安全保障問題の歴史的混乱と背景はまったく同じなのだ。
ところが、左翼は「国民の不安をあおりたてる」という一点に向かって報道活動や議論を行った。そこで役立ったのが、おなじみの憲法学者などで、一度その路線を決定したら固陋な学問的権威を守るためなのか絶対に持論を変更しないという、その頑固さが悪用され、偏向メディアが「学界が警告している。大変なことになる」と妨害活動に突進した。こういうときだけは海外の事例などを丁寧に取材し冷静に紹介しないのが左翼であり、海外のケースも歪なフィルターで偏った海外情報だけが選別されて日本人に伝えられた。
そもそも左翼の落ち武者が生き残りのため、反権力だけのメディアと「権力叩き」を学問的看板にして結託しただけの連中だから内容空疎であった。こうした経緯も維新の会のメンバーなどは熟知していると思われる。
非効率をおしすすめているのは偏向メディア(守旧メディアのほぼすべて。記者クラブ等でつながっているため)であり、その非効率につけこんで、さらにコロナ対策で「日本は(電子化がすすんでいる)台湾や韓国に遅れている」と、すべてがPCR検査が原因のように偽装することもできるので、偏向メディアにとっては濡れ手に粟で、日本の政治を妨害すれば妨害するほどボロが数珠つなぎに発生して、さらに偏向メディアが政治を攻撃しやすくなり、「偏向メディアの独占的支配も安泰」という悪循環である。その悪循環をなんとかして断ち切らないといけないのである。
もともと近代日本人には「国際社会で名誉ある地位をしめる」という理想があり、それは明治天皇の五箇条の御誓文などにも明らかであった。国際社会で名誉ある地位を占めるというのは、要は西洋の主要国家とならんで世界のリーダーとなりながら、同時に抑圧された有色人種の救世主ともなるということで大きな矛盾をはらんだ難問であった。明治天皇とハワイ国王の交流などもあの時代の微妙さを象徴している。
ところが、毎度毎度書いている通り、愚劣な大衆メディアが国民を煽って、指導者も混乱し、とてもそのような理想を追い求めることは幻想となってしまった。これは必ずしも悪いことではないだろうが、目の前の飯を食うことだけが政治課題になってしまった。
知識人やインテリは共産主義という間違った方向に解決策を求めた。メディアが煽動する言論界は最後は戦争への道を煽って国家の自滅寸前までいったのだった。どの国にも善良な勢力と悪辣な勢力がいて、善良な勢力どうしは平和を求め、悪辣な勢力は戦争や紛争を煽る。道徳的に断罪する人々が善良だとは断じて言えない。道徳的に日本を断罪することを看板にした朝日新聞など左翼は、従軍慰安婦キャンペーンによって、それまで比較的に順調だった日韓関係を10年くらいかけて破綻させた。両国間の憎悪はエスカレートするばかりだった。
中国はバイデンになっても強く警戒されると予想される。上院の院内総務チャック・シューマーなどはクリントンを守った民主党重鎮だが、トランプの中国警戒策を強く支持していた。やはり香港問題がターニングポイントであった。「一帯一路」も懐疑的であったが、懐疑が決定的になった。ソ連とまではいかないだろうが、一種の封じ込め政策に向かうかもしれない。ただし、自国企業を中国から引き揚げろという方向には行かないだろう。なぜなら中国で商売することで中国社会の情報が入ってくるから、警戒活動を強力化する上でもふみとどまるだろう。外からと内からで圧力をかけていく。受動的だが、日本は米国の出方を見ながら動いていくしかない。
私の調べた範囲での解釈は以下の通りである。もちろん私は日本人だから日本人的なバイアスはかかっている。
日本は日露戦争の勝利によって、有色人種の期待を一身に集めることとなった。そして国際連盟の委員会において「人種的差別撤廃提案」を提案した。
これは第一次大戦の傷跡の残るヨーロッパでは内心では屈辱ととらえられた。
この微妙でもあり陰湿でもあった情勢のなかで、日本の阿呆どもが、「これからは日本の時代だ」とはやして国民を煽動した。その代表が、朝日新聞など大衆マスコミで、日本という国を人種対立に終止符をうつヒーローであるかのように理想化した。それから白人の過去支配の王者である米英を「鬼畜米英」と罵倒し、大衆の留飲をさげた。同時に中国大陸では、中国人のナショナリズムが不気味に頭をもたげて日本は理性的に対応できなかった。
これも、大衆メディアが政治家を罵倒しながら軍部をもちあげたので軍部の下克上が国際関係を悪化させた。無知な煽動が世論を動かし、政治家や官僚も翻弄されて戦争への坂道を転がり落ちていった。後知恵で総括すればこういうことである。もう戦争段階にいけば整然とした政治などの出る幕はない。最後は原爆による皆殺し大会であった。
そうはいっても香港問題、チベットウィグルなど少数民族問題や人権問題などで、民主主義諸国から正論を言えば(中国人というより)中国政府の不信感が出るしかないので、政治的先進国は中国の内側から改革するための支援をするしかないという状態である。
(もう書きすぎたので今日は自分の仕事をやる)
英語圏で主流だったそれまでの正義(Justice)は功利性を基礎とすべきという、J. ベンサムやJ. S. ミルによって骨格が築かれ、H. シジウィック(H. Sidgwick, 1838~1900)が『倫理学の方法』(The Methods of Ethics, 1874)で集大成した支配的な見解であった功利主義理論に対して、カントを復活させる形で個人の自由や権利の尊重の根拠は、功利性の考慮とは無関係な、普遍的な正義という基盤が不可欠という主張だ。
さらに、政府は基本的な市民的自由、政治的自由を何より尊重すべきとするF. von ハイエクやR. ノージック(R. Nozick) らに代表されるリバタリアン的自由主義=リベラリズム(Libertarianism)に抗して、市場の機能を過大視せず所得の再配分政策を含め、社会的・政治的な基本的な要求に応えなければ社会的・政治的自由を有意義には行使することができないとする平等主義的な民主的リベラリズムを志向する。
その帰結としてリバタリアン的自由主義より一層、権力志向のリベラリズムに至る。それは、一言で言えば、「正は善に優先する」という主張に要約されるというカントの見解と同一の地平にロールズは立つ。「正(しさ)の優先権こそ、カント倫理学の中核的特性」(‘The priority of right is a central feature of Kant’s ethics’)だと。
「善に対する正義の優先権を〔あくまで部分的にだが〕説明するには、〈正義の侵害を要求するような諸利益は全く価値をもたない〉と考えればよい。そもそもそれらの利益には何の取り柄もないのだから、正義の権利要求に優先しこれを覆すことなど不可能なのである。こうした善に対する正義の優先権こそが〈公正としての正義〉という構想の中核的な特色をなすことが判明する。」(川本隆史ほか訳45頁)
‘The priority of justice is accounted for, in part, by holding that the interests requiring the violation of justice have no value. Having no merit in the first place, they cannot override its claims. This priority of the right over the good in justice as fairness turns out to be a central feature of the conception.’(A Theory of Justice, Chap. VI, p. 28)
「社会の基礎構造総体の設計に用いるべき一定の判断基準を、この優先権が与えてくれる」(‘It imposes certain criteria on the design of the basic structure as a whole’; ibid.)とみるロールズの見解、正義が善に優先するという主張は、個人の自由の権利は、共通善(the common good)についての思慮より重要だという意味だ。
さらに、われわれの自由や権利を規定する正義の二原理(two principles of justice)が、その正当性を論証するのに「善き生」(εὖ ζῆν)に関する特定の概念に依拠しないからだ。
ロールズは『正義論』の終わりに近い部分で、改めて善に対する正義の優先を次のように主張する。
「正とは独立に定義される善をまず目指すことによって、私たちの生活を形作ろうなどと試みるべきではない。私たちの自然本性を第一義的に示してくれるのは、私たちの達成目標ではない。むしろ(私たちの達成目標を形成するうえで背景をなす)複数の条件および(達成目標が追求されうる流儀を律することを私たちが承認すると考えられる)原理こそが、私たちの自然本性を浮き彫りにする。なぜかというと、自我は自我が確証・肯定する諸目的に先立つ存在だからである。有力な人生目的であれ、無数の可能性の中から選択されなければならない。熟慮に基づく合理性(deliberative rationality)を超える理路は存在しない。それゆえ私たちは、目的論的な学説によって企てられた正と善の関係を逆転させ、正の方が善に優先すると見なさねばならない。」(736頁)
‘We should not attempt to give form to our life by first looking to the good independently defined. It is not our aims that primarily reveal our nature but rather the principles that we would acknowledge to govern the background conditions under which these aims are to be formed and the manner in which they are to be pursued. For the self is prior to the ends which are affirmed by it; even a dominant end must be chosen from among numerous possibilities. There is no way to get beyond deliberative rationality. We should therefore reverse the relation between the right and the good proposed by teleological doctrines and view the right as prior.’; ibid. Capt. 84, p. 491)
正義の優先性についてのこの後者のロールズの見解はデモクラティック・リベラリストと、マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)もその一員である共同体主義者(Communitarian)との論争を引き起こした。それは、正義は善をめぐる顧慮から切り離すことが可能だとみるロールズの(リバタリアンも)見解に反対するものだ。
サンデルは、ロールズのカント的、主意主義的な見解に基づいて、目的に対する自己の優先が善に対する正義の優先を支えているとみて、「道徳的な人格性は二つの能力――ひとつは善の構想のための能力、もうひとつは正義感覚のための能力――によって特徴づけられている。両者が実現されるとき、第一の能力は合理的な人生計画によって、第二の能力は一定の正(正しさ)の原理に従って行為したという統制的な欲求によって、それぞれ実現される。」(‘moral personality is characterized by two capacities: one for a conception of the good, the other for a sense of justice. When realized, the first is expressed by a rational plan of life, the second by a regulative desire to act upon certain principles of right.’; ibid. Capt. 85, p. 491)とする主張を批判する。
結局は、人格概念をめぐる対立に行き着く。
未明からの莫迦騒ぎも漸く止んだようだ(旧会社員氏→22件、老婆→10件)。滅多にお目にかかれない狂態だ。自制心が皆無の餓鬼道だ。
ところで、リベラリズム的偽善について考える。その趣旨は末尾で判明する。
あらゆる種類の社会的マイノリティーの差別や格差是正のために人為的に創案された「新たな差別」である、日本語に訳せば「積極的差別是正措置」、所謂アフーマティヴ・アクション(affirmative action=以後、文字数の関係で一貫して[affirmative action]と表記)についてロールズに批判的立場のサンデルが説得的な議論を展開している。
affirmative actionについては、米国社会内部に今なお大きな葛藤がある。そして対立する政治的テーマについて、政治的論議で勝利するためには、「言葉を支配する」ことが最初の須要な条件、「第一歩だ」とサンデルは説く。つまり、[affirmative action]という言葉を作り出したことで、議論の内容にも増して優位性を獲得できる。なぜなら、それが、政策担当者による「政治的操作」だけでなく、「葛藤する世論」を動かし、その結果が議論自体に反映するからだ。
サンデルはそうした社会的葛藤が生まれる要因について、
「affirmative actionを批判する人びとによれば、新たな差別によって過去の過ちを正すのをアメリカ人がよしとしないからだという。affirmative actionを支持する人びとによれば、社会に根強く残る人種差別のせいだという。どちらも間違いである。」(『公共哲学』156頁)と説き、双方の主張の一面性を解き明かす。
理に適った(κατὰ τὸν λόγον)説得を欠く議論へのサンデルの率直な反応は、米国人の伝統的な価値観の一端を覗かせる。
一方で、大学への入学資格をめぐって人種という要素を考慮するaffirmative actionを賛成する立場は、過去に対する償いとしての補償や多様性を主張する。
補償とは、人種的マイノリティーを不当に不利な立場に追いやった過去の米国における差別の歴史への償いとして、現時点での優遇を主張する。それは、入学許可をそれを受ける現時点での学生にとっての利益として扱う明からさまな差別で、過去の遡った差別ゆえの特典となる。如何にも説得力に乏しいとサンデルは突き放す。
利益に与るのは必ずしも差別の被害者ではないし、補償をする側も、この過ちを匡すという行為について正当な責任を負う立場であることが保証されているわけではないからだ。
サンデルはさらに、「affirmative actionの受益者の多くは中産階級のマイノリティの学生で、スラム出身のアフリカ系アメリカ人やヒスパニックの若者がなめたような辛酸を知らない」(同)とする。それによってはじかれるアジア系など、「それなりに苦労してきた」学生への差別を見て見ぬふりをする偽善を助長する。
だから、「補償の議論に基づいてaffirmative actionを擁護する人びとは、この措置がなければ合格できた〔他の〕志願者が、マイノリティを苦しめてきた歴史的不正の責任をとるべき理由を説明できなくてはならない」(同)とする。
それだけ、affirmative actionの名の下に推進されて措置は広範囲に及ぶからだ。
「似たような環境で育った学生ばかりが揃うよりも、たがいに学ぶものが多い…学生がある一地方の出身者ばかりだと知的な面で視野が限られ…人種や階級や民族が同質である場合も同じ…不利な立場のマイノリティの資質を磨いて、社会的・職業的に重要な仕事において指導的地位に就けるようにするのは、大学の公民的目的を促進し、共通善に貢献する」(157~58頁)側面をサンデルは必ずしも否定しない。
しかし、異なる出自の学生の混在=多様化は望ましいとしても、試験で合格に値する成績を収めた入学志望者が、本人が責任を負う落ち度ではない、大学当局が賛同するある特定の目的を促進するため特別扱いする「人種的・民族的出自」を欠くがゆえに合格できないとすれば、新たな不公平、差別を生じるとして、サンデルは明確に「ノー」を突きつける。
なぜなら、そこに「affirmative action擁護論がはらむ重大な前提」が見落とされているからだ。つまり、「入学許可は優れた美徳に授けられる名誉ではない」という前提だ。affirmative actionの適用が分かれ目となって不合格となった成績優秀者も、合格したマイノリティー出身の学生も、「道徳的に合格に値する」わけではないからだ。
サンデルは、「多様性の議論のもつ道徳的な力は、入学許可を個人的要求から切り離し、共通善の配慮に結びつける…だが、そこが政治的弱点の源である。職や機会はそれに値する人への報賞であるという考えはアメリカ人の精神に深く根づいている。…『ルールを守る働き者』が勝つに値する」(158頁)という伝統的価値観に言及する。
このことが、正に孫文の「王道」と「覇道」の「演説の肝」なのである。
1924年(大正13年)11月28日、孫文が神戸で頭山満と会談した翌日に行った講演。神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂において行われたものであるが、東洋の王道(有徳の君主が仁義に基づいて国を治める政道)と、西洋の覇道、(武力や権謀をもって支配、統治すること)を区分し、東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を批判したもの、という説があるが、その後の日本は中国に対して、満州事変をはじめとして覇道に傾いたのではないのだろうか。トランプ大統領の政治手法は、バイデン氏と違って覇道であるが、中国の習近平さんの政治手法は、そのどちらなのか、が問題なのではないのだろうか。
「とはいえ、次のように説明する役割を果たせるのは、どんな政治家だろうか?ゲームのルールは、それが最善のものであっても美徳に報いることではなく、いかなるときも共通善を促進するために必要となる資質を生み出すことだけである、と」(同)――affirmative actionは偽善と欺瞞の産物なのである。
その自覚、というより本質を直観的に見抜いているがゆえに、敗北は決定的とは言え、トランプ大統領は広範な支持を獲得した。
本欄にも一種のaffirmative actionを要求する驢馬並みのお頭の偏執狂の老婆がいる。日本語が真っ当に理解できず、事実誤認、誤記、論理破綻、頬被り、論点ずらし、「幼児型強弁」(ὁ κρείττω ποιεῖνπ αίοδος)に加え、剽窃を駆使するごまかしだらけの恥知らずの狂信家、「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)の申し子だ。
夜明け前から狂犬のように吠える狂態は目も当てられない惨状、仏教でいう「無慙」(āhrīkya=罪を犯しても自分自身の考え、狂信に愧じることがない心性)の証しだ。いずれも、個別的事例を挙げて具体的に論証済みだから、改めて繰り返さない。その集積が膨大な『カ氏(瑕疵)誤録』で、「虚偽体質」はもはや本欄の共通認識だ。
「精神の幼児」は往生際が悪く、包囲網(ἡ ἄρκυς περιβολαί)の前でいたずらに「悪あがきする」(πειρᾶν μάτην)のは「空しく甲斐なきものである」(εἶναι κενὴν καὶ ματαίαν)。それに抗うのは、「虚偽体質」に加え愚鈍だからだ。
「精神の荒野(ἡ ἔρημος τῆς ψυχῆς)を彷徨うのみで、救いは覚束まい。[完]
病んでいる、というか、お頭がおかしいのであろう。本日11件目に当たる169でのコピペによる剽窃=盗用だ。タネ明かしをする。
169は全文377文字のうち、3行目以下の⇒【1924年(大正13年)11月28日、孫文が神戸で頭山満と会談した翌日に行った講演。神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂において行われたものであるが、東洋の王道(有徳の君主が仁義に基づいて国を治める政道)と、西洋の覇道、(武力や権謀をもって支配、統治すること)を区分し、東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を批判したもの】のうち、中ほどの「ものであるが、」と括弧2箇所を除く196字が、Wikipediaと「goo辞書」からの剽窃だ。
コピペによる剽窃率は51.99%の当たる。懲りずに、まだやっている。
まず老婆はWikipediaで「孫文」を検索、「生涯」項の最終段落「国共合作」の「大アジア主義講演」をクリックして、⇒【1924年(大正13年)11月28日、孫文が神戸で頭山満と会談した翌日に行った講演。神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂において行われた】をコピぺ、さらに、⇒【東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を批判したもの】も拝借。
そのご気楽さと、類を見ない怠惰に開いた口が塞がらない。
そういう恥知らずな「阿呆」に限って「真理愛」(φιλαληθής)を騙る。呆れてものが言えない。
μὴ μήγα λέγε.
それにもかかわらず、⇒【旧会社員さんのコメント162に関して】などと、何か主張する内容があるかのように装っている。
⇒【という説があるが】も何もないもので、コピペ部分は謂わば「通説」とされる従来の解釈。コピペで拝借したWikipediaの筆者は、通俗書の渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書)を挙げて別の見方も示しており、そちらにも言及すべきだが、「盗賊の論理」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)で都合が悪いので素通り。冒頭の⇒【正に孫文の「王道」と「覇道」の「演説の肝」】なる法螺話に行き着く。
コピペ以外で残るのは、⇒【という説があるが】以降の部分で、老婆の中国へのおべっかと、トランプ→「覇道」、バイデン→「王道」(?)、習近平→「?」という莫迦話だけである。
従来の主張を繰り返すのみで、改めて投稿するまでもない。最後の部分を、⇒【習近平…そのどちらなのか、が問題】と明言を避け、本日未明から猛り狂ったように大暴れの「盟友」=旧会社員氏に媚びを売る。
とんだ田舎芝居で、まさに「狂言」。即ち、どこをどう見ても「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)と言う外ない。
「盗むな」(μὴ κλέψῃς)、嘘をつくな(μὴ ψεύδοσο)ということは「王道」云々以前の基本的戒めだろう。「そんなことはするな」(μὴ ταῦτα ποιήσῃς)と親にしつけれらなかったのだろう。
「もうやめにしたら」(μὴ ταῦτα ποίει)と言う外ない。
‘El tonto es vitalicio y sin poros.’; “La leberión de las masass”
大阪弁で書きたくなったのは、まったく今回触れてない部分を思い出したからだ。黒田了など共産党や社会党により大阪が支配されたという部分だ。これは現在までの流れを把握する上でかなり重要だ。
共産党など左翼が大阪をのっとたのは、要は高度経済成長の闇の部分、具体的には公害などを左翼マスコミと二人三脚で追及したからだ。歴史観はそれぞれその人によっていろんな歴史観があってよいと思うが、私は共産主義者が日本の異様な公害など副作用を日本社会にもたらしたと考えている。それはなぜかといえば、左翼が貧困を救うには共産主義革命または計画経済しかないと日本社会の中枢を恫喝しづづけたので、日本はまず何がなんでも経済成長させなければならないと脅迫観念にとらわれた。また、極左が日本の伝統文化や慣習を破壊したので、人をおとしめても害をたれながしても金もうけすべしという浅薄な功利主義の風潮がでた。
そして案の定、社会の発展のゆがみを突いて政権や権力を打倒する。初期の資本蓄積の資本主義の時代にはそのゆがみと貧困格差を突いて共産主義革命を起こしたが、その結果、共産圏は初期資本主義以上の地獄となった。強制収容所までセットになった。
学生時代に京都に住んだことあるが、想像以上に左翼の怨念が関西を覆っていた。アパートにテレビを置かず、新聞を熟読したが実に荒廃していた。なぜ長い伝統をもつ京都人が共産党や社会党に入れ込むのかずっと疑問だったが、いろいろ調べてその経緯がわかっていた。関西では毎日新聞が強いというのはよく理解できて、私のアパートにも狂ったようにおしかけてきて何度断っても新聞を放り込むので最後は飛びけりをすると毎日新聞勧誘員が逃げていった。今の時代からは到底信じられないことである。
共産党は狡猾で、天皇制打倒を狙っていたが、それを公言すれば関西人が不信となるため、京都府知事の蜷川虎三など天皇好きの指導者を抜擢した。その陰で左翼をあちこちに浸透させた。「なんでこんなやつが教授をやってるのか」という人間性も能力も低い学者は大部分が共産党系の利権にあずかって地位についた連中だったとしか思えない。理系は科学的人間が多くて評価基準は明快だが(だから京大理学部は東京から離れた自由な気風でノーベル賞を輩出した)、文系は共産党や社会党信奉者の極左の草刈り場だったろう。
思想もちゃらんぽらんでいい加減で、気まぐれとしか思えず、最先端の合理的な社会工学を理論的に持ち出すと思えば、訳のわからないこじ付けにも精をだす。何か獲物をみつけて攻撃するときには都合よく団結する。基本的に爬虫類のような印象で、血の通った印象を受けず、頭でっかちの読書人間に物知らずの不器用さが合体したような感じであり、まず指導者にしては皆が不幸になるだろうというタイプである。一言でいえば特定分野の知能は高いが、バカである。
日本の場合はこういう連中が寄ってたかって社会問題やら安全保障問題などマスコミの号令と同時にあちこちをひっかきまわしてきたのだから、その後遺症は並大抵なものではない。
常識で考えれば、まず、優先順位は 「日本の平和すなわち安全保障」があって、その次が「日本国憲法」だろう。最初に「日本国憲法」があって、それに合わせて、「日本の平和すなわち安全保障」があるのではない。
ところが、その逆転的イデオロギーを見事に完成させた。偏向マスコミや左派学者の協力があったからだ。偏向マスコミが強力しなければその詐術はすぐ日本国民によって見破れただろう。こうして綱渡りの解釈憲法が半世紀以上に渡って政治を混乱させる。日本人のまあまあという社会を徹底分断すべきでないという穏健な常識が「顕教」と「密教」の共存を許した。
その煽動はすさまじいものだった。ナチスを攻撃するように現日本政府を攻撃しろと。日本の自民党や政権はファシストで、人類の敵だとドイツのメディアを鼓舞した。その役割専門の言論人だか学者のようなのもうようよドイツをうろついていて、またそれらの極左のアジテージとドイツメディアの連携を朝日新聞など左翼メディアが勝ち誇ったように日本で記事にした。戦争のざんげ屋は一年中大忙しで、極左のビジネスモデルのような戦争反省が一大利権となった。ドイツが日本を見る強い過剰な偏見はこのころに生まれた。ギリシャなどにナチスの片割れと蹴りつけられながら「ドイツは日本にくらべて反省しているし関係国と和解している」と信じるドイツ人はこのころの左翼の洗脳によって方々から吹き込まれたものである。
極左が海外から日本を攻撃したのは、海外の権威に弱い日本人の心性につけこんで、日本の社会党や共産党など左翼政党が誕生しやすいムードを海外からつくるだめだった。朝日新聞など左翼マスコミは徹底的にそのキャンペーンにのっかって戦前の朝日新聞活動を棚上げして日本を断罪した。
今後も、剽窃(μιμεῖσθαι)=盗み(ἡ κλοπτή)がばれたらばれたで、「*.*%して何が悪い」と言わんばかりの居直りを繰り返して悪態をつくことだろう。あるいは、過去にあったように、意地になって、これ見よがしに同じ文章をコピペするかもしれない。その際は、件の「TANTAN」狸説由来のソクラテス「産婆術」解釈を繰り返していた。年頭、1月8日・29だ。
その一部を紹介すると、⇒【人間として善く生きるためには、すべての人々が自分自身の力によって能動的かつ主体的に知の吟味と探究…そのような自分自身の力によって見出された真理でなければ…】のだそうだ。
Wikipediaからコピペしてして投稿の真似ごとをすることが、「善く生きる」(εὖ ζῆν)ためというのもとんだ心得違いだし、「自分自身の力によって能動的かつ主体的に知の吟味」も、「自分自身の力によって」(καθ’ αὑτό)という日本語の意味が理解できないのだろう。
老婆は怠惰で、何でもコピペで楽をしたがる横着者。以前(2019年4月27日・107)も別のケースで、⇒【100の全文567文字中、実に298字、52%、つまり過半数はコピペをして、どこが悪いのかと思う】と嘯く始末。
年初は冒頭の戯言に先立って、1月5日・24⇒【具体的にコピペはいけなあのか、という点…コピぺを繰り返して自分のオリジナルを確立すればいいので…バカなコピぺは、100パーセントコピー…かしこいコピぺは、様々な情報を自分で組み立て発信】。
パラノイア気質特有の健忘症(Amnesie)で、すっかりお忘れになったのだろう。
コピペで投稿ならに盗投稿では、「能動的かつ主体的に知の吟味と探究」が泣くというものだ。
‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’; La Rochefoucauld; Maximes 112.
北朝鮮の主張していることこそ、かつて日本の極左が、朝日新聞などメディアを使って北朝鮮や中国に拡散していたことである。通常の先進国のまともなリベラルがこんな狂った煽動をやることはありえないのである。
いかに日本の左翼が悪質かというのはこういうところに感じる。左翼や極左は北朝鮮を戦後長期に渡って「地上の楽園」だと賞賛してきたのだから、北朝鮮にとっては日本の左翼は貴重なお得意さんであった。
学術会議を応援する人々は、なんにも知らない無知な高齢者か、共産党系の一家の若者か、よほど奇妙な思考や刷り込みをされているかのいずれかであろう。
旧会社員さんの主張は、歴史的な事実に即している。連合赤軍の若者たちは、日本の左翼の主張、「北朝鮮は地上の楽園だ。」という言葉を信じて、よど号をハイジャックして、北朝鮮に渡った。日本にいた朝鮮出身者は、「北朝鮮に戻れば、幸せなれる。」と信じて、「北朝鮮帰国者事業」、北朝鮮に移住する決意をし、北朝鮮に着いたとたん、唖然とした。その落差を人々が感じるのは、「朝日ジャーナル」をはじめとする日本のマスコミが「北朝鮮は地上の楽園だ。」かのような報道をしてきたからである。父も、その報道に騙された。私も、日本にいる間は「北朝鮮を地上の楽園だ。」と主張する学者、あるいは政治家の集まりである日本社会党や共産党が、酷い政党とは思わなかった。ただ現在、現実的に考えれば、拉致問題にしても、北朝鮮にパイプのある党首であった「土井たか子」さんや「福島瑞穂」さんが、もっと積極的に動いておられたら、現在のような状況になっていない。
反時流的古典学徒氏のコメントは、精緻にして徹底、とことん。舌鋒鋭い国文学者、谷澤永一を彷彿とさせてくれる。サスペンス小説ような手さばきはお見事、敬意を表します。反氏は優れた啓蒙家でもあるようだ。「筆名 カロリーネ」こそ、何より具体的に実例を上げた指摘、批判に感謝すべきはずである。
私 「kosaragiさんの183のこと?」
妻 「ええ。お婆ちゃんのことを、⇒【端的に「類を見ない怠惰」「恥しらずの『阿呆』」と適切に批判】とか、⇒【精緻にして徹底…舌鋒鋭い国文学者、谷澤永一を彷彿…サスペンス小説ような手さばきはお見事】と大変な褒めようよ」
私 「確かに情も容赦もない殺伐非情だから、前の方は当たってるね。後者の方は過褒で照れくさいけれど、谷澤永一という人は、『司馬遼太郎全集』の第二期刊行分(第33~50巻)の解説を、生前に司馬さんに指名された人だぜ」
妻 「そうなんだ~。『全集』って全部で68巻もあるあれでしょ。谷澤さんて人も偉い学者なんだ」
私 「うん。そして大変な蔵書家だよ」
妻 「あら、その点は貴方も負けていないわよね。家計を圧迫していたのは私と知り合う前までだけれど、本当は古書と私と比べたら、本の方が大事だと思ってたでしょ!! 憎たらしい!!」
私 「とんだ藪蛇だな。その点は『ノーコメント』とか、『そんなこと言わせるなよ、決まっているだろう、聞かなくても』とふざけていたけど、あなたは私の宝ですよ」
妻 「あら、そう。じゃ許してあげる。それにしても、投稿する以外に楽しみがないわけでもないんでしょうけど、困った人ね。だって、そうじゃなかったら169のような非常識なコメント、誰もしないもの。それにしても、あなたよく見破ったわね」
私 「わけないさ。こちとらは元プロの編集者だからね。婆さん自身の文章でないことは、それこそ仲間由紀恵ちゃん演じる『トリック』の天才手品師じゃないけれど、『するっと、丸っと、ごりっと、お見通しよぉ~』というわけさ」
妻 「ふぅ~ん、そうなんだ。お見事でした。だけど、仲間由紀恵ちゃんは余計よ!! 調子に乗ってすぐ女の名前出すんだから」
妻 「そんなんじゃないわ。あなたの女好きは、それこそ『するっと、丸っと、ごりっと、お見通よぉ~』。勘が働く点では私、ちょっとしたもんなんだから。
それにしても、前々回の「白日の下にさらされた党派的運動集団『憲法学者』」でも(10月24日・46)、篠田先生の本文をまる写しにして、あなたの計算だと、691字のうち、読点やカギ括弧を含む90字以外の601字は全部コピペによる切り貼りで、コピペ率は86.98 %というんでしょ。私、驚いちゃった。出来の悪い子のレポートみたいよね、まる写しって。それでばれないと思っているんだから、ちょっとお間抜けね」
私 「ありゃ、生まれついての習性だな。人間は突然嘘つきになるわけじゃないからね。それに虚飾と虚栄と虚勢が三拍子揃った、ちょっとした性悪だからね。思い込みが激しい分、自分で自分が見えなくなっているんだね。その自覚があったら、もっと巧妙に、狡賢くやるんだろうけど、一種の女王様気取りだから手間暇を極端に惜しむわけさ。子供じみた言い訳、逆恨みに近い反応といい、パラノイア気質というのは、外れていないと思うよ。ここまで来ると、皆関わり合いを嫌って、シれっと眺めているようだけど」
妻 「女同士でもいるわ、お婆ちゃんみたいなタイプ。あまりお互いをよく知らないうちは遠慮しあっているけれど、中には最初から『**は嫌っ』て言い張って、一人で好き勝手に振る舞う、図々しいタイプよ」
私 「婆さんの『小児性強弁』もその一種さ。何でも好き嫌いで判断する傾向があるね。幼稚だけど、本人は自分の頭で考え、選んだことだと思い込んでいる。例えば、日本のメディアの大半は米国のメディアに右倣えでトランプ大統領に批判的だけど、婆さんにかかると逆になるのと同じさ。婆さんの論理では日本のメディアは偏向しているから、トランプ不支持では具合が悪いんだろうね」
私 「前々回10月24日・46の詐術を私が指摘したのが同じ日の58だろう。まだ半月しか経っていない。しかも、4日後の10月28日・145で、⇒【ほとんどの部分は、引用と自分の意見を分けています】と言って、でたらめもいいところだけど居直っている。その舌の根も乾かないうちに、引用符、引用元が一切ない、しかもWilipediaと「goo辞書」から安直にコピペして投稿しているつもりなのだから、救いようがない」
妻 「すっごい言い訳、っていうか居直りでしょ。まるで子供よね。だって、相手が使った言葉をそのまま返すんですもの。あんなの、小学校低学年までの話よ」
私 「冒頭から、187⇒【老婆が…非常識で大嘘つきなのかが分かる、という独善的な主張は、トランプ氏の主張と同じで根拠が皆無】だろ。悪さがばれた子供の言い分だ。しかも、②⇒【Wikipediaからコピペしたら、「非常識」で「大嘘つき」なのだろうか?】と論点をずらす。Wikipediaから註記なしにコピペして投稿に仕立てる読者は老婆以外にはいない。だから『非常識』だし、⇒【ほとんどの部分は、引用と自分の意見を分けて】という前言と今回の行動は正反対だ。何度でも繰り返すから、『大嘘つき』。Wikipediaの記述自体の適否については、一切論じていない」
妻 「そうよね。しかも具体的事実を根拠として示しているのだから、反論の余地はないわ」
私 「語るに落ちるで、剽窃を事実上認めている。自分で言っておいて『筋道立てて考えててみる』ということを理解していない。莫迦丸出しの無知=無恥の狂信家」
妻 「あなたは、鞭の人ね。私も一本取ったわ。ねぇねぇ、お座布団頂戴!!」[完]
‘Quand on sent qu’on n’a pas de quoi se faire estimer de quelqu’un, on est ben près de le haïr.’; Vauvenargues, Maximes, 45.
前項186の末尾に引いたのは、フランスのモラリスト、ヴォーヴナルグ(Luc de Clapiers Vauvenargues)の『箴言』の一節で、「自分がある人から尊重されるだけのものをもっていないと感じる時、人は既にその人を憎みかけている」という意味だ。
つまり、老婆には軽蔑(ὀλιγωρία)に値する、非難されるべき(ἐπονείδιστος)行いこそあれ、尊重する(τιμὴν ἔχω)に値することは皆無で、逆に損なう(φθείρω)ことばかりだからだ。それはまさに、「精々自分に恥をかかせたらいいだろう」(‘Ὕβρίζεις, ὑβρίζεις ἑαυτήν, ὦ ψυχή•’; Aurelius, M., “τὰ εἰς ἑαυτόν”, II, 6)ということでしかない。
概して、取り立てて卓越性をもたない多くの人間の本性として、人は易きに就くというか、安易な方向に流れがちだ。偏執狂の老婆のコピペ癖も、情報のデジタル化とパソコンという文明の利器があってこそ成立する、現代社会ならではの病弊だ。
元々気が短く粗忽者の性なうえに、ものの道理を弁えるという正常な判断力が欠落しているから、安易に情報として他者の文章をコピペしても、何ら痛痒を感じないのだろう。しかも、Wikipediaなら、情報はただである。
莫迦と鋏は使いようというが、Wikipediaも下調べ用だと、従来の百科事典やその他の分野別の辞書、参考書をもたない向きには便利なツールかもしれない。「玉石混淆」とはいえ、使い方次第では有用な情報に出会うこともあろう。
しかし、かつての劣等学生が参考書や論文の類を丸写しにしてリポートを仕立て、それが露見して教師に大目玉を喰らったのと同じ心得違いの使い方をする老婆のような「外道」も現われる。
老婆のように虚栄心(χαυνότης)と俗物根性(ἀλαζονεία=Philistertum)の塊のような人物にとって、しかも怠惰だから、コピペによるお手軽なやっつけ仕事は、暇つぶしのクズ投稿を量産するには理に適った手法となる。
だが、匿名とはいえ、公的な言語空間でここまで野放図に行えば、当然顰蹙を買う。激しく糾弾するメディアの人間でそれをやったら、ただでは済まない。同じように、見境なく批判する学者の世界も同じだ。正道からの逸脱を戒める一片の良心と職業意識、矜持がそれを許さないから専門家でいられる。
それにしても、8日・169のような所業は、投稿内容もクズ同然だが、まさに「人間のクズ」(φορυτός ἀνθρώπου)に等しい愚行だ。知を愛する(φιιλόσοφος)人間、「真理愛」(φιλαληθής)を語る人間がすることではない。
しかも、「盗むな」(μὴ κλέψῃς)は人間の基本的な約束事で、その最も肝腎な点を頬被りして、まるで「盗人猛々しい言い分」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)、「盗人の言い訳」(κλωπτός ἀπολογία)に終始する。
それで、経験を積み重ねたはずの齢70近い、多少はものの道理を弁えたはずの年寄りなのだから、目にも当てられない。それは自らを貶める(κολοβῦν)行為で、老婆が「嘘つき」(ψεύστης)、「愚鈍」(ἀφροσύνη)、「恥知らず」(αναισχυντία)の三位一体(ἡ ἁγὶα τριάδα)であることを自ら身をもって天下に宣言するようなものだ。
「たしかに、欠陥に満ちていることは悪いことである。しかし、欠陥に満ちていながら、それを認めようとしないのは、なおもっと悪いことである。なぜなら、それは、その上にさらに、故意のまやかしを加えることになるからである。」(前田陽一訳=‘C’est sans doute un mal que d’être plein de défauts; mais c’est encore un plus grand mal que d’en être plein et de ne Jes vouloir pas reconnaître, puisque c’est y ajouter encore celui d’une illusion volontaire.’;“Pensées”, Frag. 100, Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 13, p. 27)
>Wikipediaを参考にすることは、反氏にとっては、非常識なのだろうが、それは見解の相違だし、少なくとも、その行為を「大嘘つき」と形容する根拠にはならない。
見落としがあるかもしれませんが、私の知るかぎり、反時流的古典学徒さん(HNが長いので、今後は私も「反さん」と略させていただきます。ご不快でしたらお申し付けください)が「Wikipediaを参考にすること」自体を「非常識」とおっしゃったことはないと記憶しています。もちろん反さんと貴女とではWikipediaに対する評価は異なると思いますけど。
肝心なことは引用の仕方なのです。反さん、政府解釈さん、この私、それぞれにやり方は違いますが、試みに貴女も誰かの引用の方法を真似してみては如何ですか?「虚偽体質」と呼ばれる回数は激減すると思いますよ(それでも私は本質的に貴女は「虚偽体質」だと思いますが)。
186の反さんのコメントで「182⇒」とされるべきところ「187⇒」と間違えておられるようなので、貴女が理解できないのではないかと思い、老婆心ながらコメントいたしました。
尾身茂は、感染確認者10万人の裏でそれを超える数十万人が失業しているのがわかっているのだろうか、バカというほかはない。
今のような検査体制ではPCR検査爆発なのか感染掘り起こしなのかわからないではないか❢❢❢ すでに何か月経っているというのか❢❢❢
医学者というのは本当に数理能力や統計能力が全くないことが赤裸々にわかってしまった。
感染症専門分科会に感染動態について思考能力が全くないことがわかってしまった。
日本の不幸である。これだけ日本の統計学の伝統があったのにである❢❢❢
尾身茂らの❝コロナ恐怖煽り自粛煽動警告❞は日本国民、耳を貸すものはほとんどいなくなった。
これから2週間たてば、これから2週間たてばというセリフを何度と聞かされてきたことか❢❢❢
バカも休み休みにせい❢❢❢
冬になっても❝感染爆発は絶対に起こらない❢❢❢❞
気を付けておくべきことは、閉鎖環境(介護施設、病院など)での集団感染だけである。
過剰な❝コロナ恐怖煽り❞はやめよ❢❢❢
❝社会を止めるな❢❢❢❞
いま朝ドラで「エール」という番組をやっているのご存じでしょうか!? 作曲家の古関裕而をモデルとしたドラマです。Gは、この古関裕而さん!大作曲家だと思っています(古関さんも妻に先立たれる)。「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などなど名曲ばっかりです。参考歌謡<長崎の鐘 > 新妻聖子(4:41)https://www.youtube.com/watch?v=n_yVF3KQhok。
その「長崎の鐘」の二番
召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙・・・作詞:サトウハチロー< を思い出しました。
176の旧会社員さん→常識で考えれば、まず、優先順位は 「日本の平和すなわち安全保障」があって、その次が「日本国憲法」だろう・・・< この段落、気になりました。そして大賛成です。これは、一連の篠田教授の憲法第9条学説(1項≧2項で戦後国際法の範囲内で考える学説VSいわゆる憲法学者「通説」は2項≧1項です)と同じですよね。
日下部さま、
ファイザーの新型コロナワクチン、大規模試験で90%の感染防ぐ -
ーBloomberg
というニュースが入っています。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-11-09/QJJ2OVDWRGG901?srnd=cojp-v2
私が西独に留学中、ミュンヘンという土地柄もあって、ワーグナーが、ドイツを戦争に突き進ませた作曲者であるかどうかが、音楽学上の一つの大きなテーマでもあった。ワーグナーの音楽が、ナチスの後押しをした、人々をその気にさせた、その事実は否めない。私自身、ミュンヘンではじめて見たオペラワーグナーの「タンホイザー」で魅了されて、オペラフリークになり、イタリア物は、学業に忙しい時はスキップしたが、ワーグナーの公演は逃さなかった。その為に、余計に、「戦争」と「音楽」、「政治」と「音楽」、「ナチスやドイツ人」と「ワーグナー」の関係は、私にとって大変興味深いテーマであった。そして、現在の私の結論は、ワーグナーは、ナチスのように考えて「楽劇」を作ったわけではなくて、ベートーヴェンの音楽と同じ、「ナチスに利用されたのだ。」ということである。
トランプ支持者は、自分の頭で、一つ一つ筋道立てて考えていない。トランプ氏を盲目的に信じている。ナチス時代にヒトラーが現在の自分たちの窮状を救ってくれる、とヒトラーの言葉の力、演説とワーグナーの音楽に騙されて、ヒトラーに盲目的についていったように、その人々はトランプ氏の言葉の力、演説とTwitterに騙されて、トランプ氏が自分たちを救い出してくれる救世主、と考えて、トランプ氏に夢を託している人々なのである。その人々を、反知性派、と呼ばずになんと名付けるのだろう。もし、科学的知見でものごとを考えたら、Covid19を収束させるためには、マスクをしなければならない、三密の状況を作ってはいけない、ということがわかるはずなのである。それがわからない、それだけ、「アメリカ社会の闇が深い。」ということである。
そういう「普通の人の生きた感情がわからない人」は、いくら学識があっても、カリスマ性であっても、その国の政治指導者、社会の指導者になるべきではない。私が「実体験が必要である。」と主張するのは、そういう意味で、バイデン氏もハリス氏もそれをもっておられるのではないのだろうか。
「文才や言葉」に騙されてはいけない。
憲法9条の対立図式を数式で表すのは興味深いです。憲法9条の政府見解について1項と2項を融合的に解釈する下記の見方は、おそらくは1項=2項というなのでしょう。
この点については以前にご紹介しましたが、内閣法制局への出向経験もある行政法学者の仲野武志・京都大学大学院法学研究科教授が、著書「法治国原理と公法学の課題」(弘文堂)198頁以下において、憲法9条の政府解釈について、要約引用すると次のように解説されております。
「自衛のための必要な最小限度の実力行使及びそれを裏付ける実力組織の保持は認められるという政府解釈は、憲法9条1項・2項というお互いに平仄の合わない二つの規定を、いわば刺し違える形で両立させたものにほかならない。政府解釈は1項の反対解釈の射程(放棄しない武力行使の範囲)を2項の存在に照らして限定する一方、2項の文理解釈の射程(「戦力」の範囲)も1項の存在に照らして限定したのであろう。換言すれば、1項は、自衛のためと評価しうる最大限度を超える実力行使しか禁じていないかにみえるが、自衛のためと評価しうる最大限度を超えないが自衛のため必要な最小限度を超える実力行使までも黙示的に禁じている一方、2項は、一切の実力行使を裏付ける実力組織の保持を禁じているかにみえるが、自衛のための必要な最小限度の実力行使を裏付ける実力組織の保持までは禁じていない、ということである。これは、両項いずれの法規範性を損なわないばかりでなく、憲法前文(平和的生存権)・13条の精神にも沿うものといえよう。以上のような法令解釈の手法は、実は決して珍しいものではない(例:地方議会の債権放棄事件)。」
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=82206
なお、カロリーネ氏にも確かに表現の自由はありますが、剽窃をする自由があるわけではありません。
妻 「それにしても神戸出身のお婆ちゃんの居直り、あなたの表現で言えば『幼児性強弁』て、すごいわね。悪事=剽窃がばれたらばれたで、これみよがしに、意地になってコピぺで応酬すると予言したけど(178)、その通りだわ。193の冒頭の文章なんか、183のkosaragiさんの文章をコピペしただけじゃない。それも193全体の6割よ(59.86%)。呆れた、やっぱり変ね。しかも、『表現の自由』とか言っちゃてさ、バカみたい」
私 「それがパラノイア気質の、もって生まれた嘘つき、『虚偽体質』の証しだって。kosaragiさんのだって、引用符一つないだろう。他人のものと自分のものを分けて考える習性がないんだね、元から。『非常識』なのも火を見るより明らかで、誰も婆さんのような狂気の沙汰に近い言論の盗み行為はしないからね。ところで、君のことも四の五の言っているじゃないか、194⇒【奥様は、カロリーネを擁護し、反氏をたしなめ…】とか」
妻 「そんなこと、あったっけ?」
私 「ほら、nakaさんとかいう投稿者が割って入ってきた時のことだよ(2018年6月30日・92)。サッカーW杯で世の中が沸き立っていた2年前の夏のことさ」
妻 「ああ、あのこと。お婆ちゃんが考えるような意味じゃないわ。ところで、あなた私のこと、何て書いてたっけ? 私の記憶では~、確かぁ~、そうだそうだ、あなたが変なドイツ留学帰りのご老人がいて、議論が滅茶苦茶で間違いだらけのうえにすっごく片意地張って偏執的だと言っていたから、抛っておけば、ネットって、ストレス抱えた変な人たちがうようよしているから、およしなさよと言った話のこと?
私 「まあね。当時は今よりずっと言葉遣いも折り目正しくて、文体もですます体だったからね。書き出しが何と言っても『カロリーネ様』だからね。お頭のカロリーがこれほど「ネェ」=無ぇ~とは、思わなんだ」
私 「ただ、篠田さんを応援している点では皆共通だし、君がnakaさん宛に書いた直後の93を読んで、⇒《「貴方らしくないわ」と苦言…内容についてではなく、作法に対して。「そういうものかね」と私は答えた》(2018年7月1日・105)と添えたことを、日本語のまともな読解力を欠く婆さんが勘違いしたということだろ」
妻 「そうそう、莫迦は相手にしないが、あなたの口癖だからね。それじゃ、私が、家庭内野党っていうのは?」
私 「うん、同じ105で、⇒《私がいつも、「君はnaiv ダネ」とたしなめるのに「家庭内野党」として暗に抵抗したようだ。「不服従は良心の砦だ」、と私が教えた》という箇所のことだろう」
妻 「『不服従は良心の砦』ねぇ~。確かにあなたと議論して勝った記憶がないもの。一番最初にお茶した時なんか、私が『声を荒げる人は嫌い、穏やかな人がいいなぁ~』って言うそばから、『それ違う。君は国文科だろ、荒らげるの間違い』って、これだもの。この野郎、なんて失礼な奴と思ったわ」
私 「あはっ、そんなこともございましたね。『家庭内野党』と言っても、別に君が反対一辺倒の抵抗勢力ではないことをそう表現したまでで、婆さんにかかると、勝手な思い込みで君がまるで婆さんを擁護したように勘違いするわけさ」
妻 「あなたの言う、『神聖病』というやつね。『万物は流転す』(‘πάντα ῥεῖ’)のヘラクレイトスだっけ、『「独りよがり(思い込み)は聖なる病い」(‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 159)、平たく訳せば『気違い沙汰』という」
妻 「『パンタ レイ』かぁ~、懐かしいわね。私の読める数少ないギリシア語」
私 「君んとこの母方の大伯父さん、作家の芹沢光治良の方じゃなくて、京大で松平千秋氏に西洋古典文学を学んだ最初の弟子の一人、芹沢茂さんは、田中先生(美知太郎)と松平氏の共著『ギリシア語入門』(岩波全書、1951年初版)の「語彙と変化表」の作成にかかわった陰の功労者なんだぜ」
妻 「まぁ、そうなの。私より私の母方の親族について詳しいものね、あなた。新聞記者ってみなそうなの。探偵か興信所の人みたい。あなたが迂闊なのは女心、それも私の本当の気持ちをよく分かっていないってことョ。それさえなければ言うことないんだけどねぇ~」
私 「天国から見て、つまり閻魔様に舌を抜かれなかった正直者の君から見て、今回の婆さんの狂態はどうだい?」
妻 「そうねぇ~、この世にはいろんな人がいるんでしょうけど、人の言葉を盗む人に、もっともらしいことを言う資格はないわ。盛んに本当の民主主義とかいうけど、‘Rule of law’ってよく言うじゃない。何と言っても人間としての基本ができていないわ。私の中では最低ランク。とてもトランプさんを批判できないわ。kosaragiさんが誰か制止する善意のセコンドがいないものかと嘆いていたけど、ご亭主の責任かも」
私 「そう来ましたか。でも、亭主の言うことを素直に聞く玉じゃないさ。知らぬは亭主ばかりなり、っていうし。ドイツ人の自分が正しいと言い張る癖を、竹山道雄が「ダハウのガス室」(1963年)の中で書いていたけど、ホロコーストについて「ドイツ人にはむしろ他人事のように思っている気配が多い。つねにおのれが正しいとする癖(rechtshaberei)はまだ残っているようだ」という国だからね。そういう被害者面した知識人、民衆が少なくないってことで、ドイツの悪い面ばかりを学んできたんだろうさ」
私 「立場が変わって自分が批判される側だと、印象操作だとかレッテル貼りとか称して被害妄想、迫害妄想が酷いし、自分を棚に上げて『ものの軽重が分からない』『歴史をご存じない』とか嘯いているんだからね。歴史を理解している人間が、他人に説明する文章を、Wikipediaからの切り貼りで仕立てるなどあり得ない。
何というか、莫迦莫迦しさを通り越して、戯画というしかない。とんだ偽善者であり道化者だけれど、自分で自分のことを分かっていないという点では、愚鈍極まる無知な人間だね。言うことなすこと、恥知らずもいいところで、『無恥の人』ってわけさ」
妻 「話は変わるけど、あなた最近よく聖書を引用するわね。カトリックにでも入信するの。私がいなくて淋しい?」
私 「改宗なんかしないさ。ただ、婆さんが例のWeizsäckerの巫女とか称して「荒野の40年」とかいう偽善と欺瞞を振りまいている割には、元大統領が信奉するキリスト教について皆目無知だから、頂門の一針に進呈したのが始まりさ。何と言っても、ギリシア語で書かれているからね」
妻 「そうなんだ。1日10時間も本を読んでいて、よく飽きないわね。私がこっちに来るについては、あなたのことが気懸りだったけど、安心したわ。気を永くして待ってから、長生きしてね」
私 「ありがとう。泣けてくるね」
妻 「だったら、クリスマスには、お仏壇にまた大きなスイカお願いね。その心は、あなたと老婆は水火の仲、私が成敗してくれよう、なんちゃってぇ~!!」[完]
嘘つきに 汝はと誰何 カロリーネ
203の下の方→私 「そう来ましたか< の転調には2~3度笑いました。204の下の方→気を永くして待ってから、長生きしてね」 私 「ありがとう。泣けてくるね」< 改めてGが191で引いた→召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ< を実感しました。これってドラマでもありましたけど、医学博士・永井隆さんの妻への心境を詠んだもののようですね。以上、カロリーネさんに対しては、Gは放任の立場ですから、他意はありません。
第9条の文理解釈にしても、篠田教授は自明でない!少なくとも国際実定法の根拠がないといいます。また、どのような安全保障政策を採るかは、国民が選択するものです。これも学術会議と同じで、法的議論を離れて世論獲得合戦になっていると思います。この問題は、制憲議会(昭和21年6月26日の吉田首相の9条に関する最初の有権解釈)での現行憲法の制定過程とか、反時流的古典学徒さんと通りすがりの老人さんが詳しいように見えます(その投稿から)。
篠田教授の新記事→11月09日「波」という概念の「物象化」について~オランダに注目~< も出たようです。ステージが変わりました。篠田教授の新記事で、また見解を披露できたら!と思います。
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