9日、尾身茂・分科会会長の記者会見が久しぶりに開かれた。感染拡大傾向に入っているので、警戒心を持って取り組みたい、ということで、政府に行った対策提言の細かな説明がなされた。
これに対して、質疑応答では、いつものように、生産的ではないやり取りが繰り返された。記者から「第2波と同じ波が来るのか」「欧米と同じ波が来るのか」といった質問が相次ぎ、尾身会長や脇田(国立感染症研究所)所長から「寒くなったら拡大するという見方にエビデンスはない、そういう傾向があるとしても今日語っているのは人間のファクターが大きいということ」という説明が繰り返された。
記者たちは、相変わらず専門家に気象予報士のような役回りを期待しているらしい。あるいは西浦主義の余韻だろうか。「42万人死ぬ、もし8割削減すれば撲滅できる、中間はない」という考え方がこびりついてしまっているらしい。
記者たちに限らず、気になるのは、新型コロナウイルスの流行に「波」があることが当然視されていることだ。冬を迎える日本には「第3波」が到来している、ということらしい。それでしきりに人々が、「第3波は大きいのか小さいのか」云々といったことを心配しあっているのである。
社会科学者として痛切に感じるのは、この「波」という概念が「物象化」されて独り歩きしているということだ。あたかも海の波と同じような自然現象であるかのように捉えられてしまっている。
しかし、言うまでもなく、ウイルス感染の「波」は、単なる比喩の表現でしかない。
自然現象としての海で起こる本当の「波」は、人間が関知することなく発生する。たまたま人間のいるところを襲ったりするだけだ。これに対してウイルスの流行は、人間が自分たちで作り出している現象である。ただ、意図せず無意識のうちに作り出しているだけで、人間的な営みの結果として流行が発生することに違いはない。実際には、「波」など存在していない。存在しているのは、ウイルスを伝播させている人間の活動だ。
物理的には存在していない事柄を、抽象概念で表現しているうちに、あたかも物理的に存在しているかのように誤認していくのは、社会科学者が「物象化」と呼ぶ錯誤である。
かつてマルクスは、人間の労働という具体的な行為が商品経済を通じて法則化されて人間を支配していく「物象化」を、資本主義のメカニズムの中に見出した。その後、「物象化」は、具体的な人間の行為の総体が抽象化されて人間を支配するようになる現象一般を指す言葉として、使用されるようになった。
ニーチェは、「雷が光る」という言い方は間違いで、「光っているのが雷だ(ある種の光の現象を人間は雷と呼んでいる)」と言うのが正しいと指摘し、人間の暴力的な抽象化思考が主語にならないものを主語にして人間の思考を支配している有様を、そして主語を隠ぺいすることによって人間が認識者としての自らの行為の介在も隠ぺいしてしまう偽善を、指摘した。
難しい話は置いておこう。
要点は、「波」は自然現象ではなく、人間的な営みだ、ということである。
ウイルスが人間社会に侵入すると、人間の行動を通じて、人間の間で、ウイルスの伝播が広がる。「第1波」だ。そこで流行を抑制する行動を人間がとると、「第1波」が終了する。ところが抑制行動を緩和させると、「第2波」が到来する。そこで抑制行動をさらに調整すると、「第2波」が終了する。このプロセスが繰り返されるのが、「波」という比喩を用いてグラフ上で可視化させている現象である。「第3波」の場合、たとえば冬を迎えて窓の開閉を面倒がって喚起しなくなることが感染の拡大傾向に影響しているとしたら、暖房方法の改善という政策努力で、「波」は抑制可能である。
いたずらに「今度の波は大きいかもしれない、怖いから高台に逃げよう」といった自然現象の津波の対策と同じようにウイルスの流行への対策を考えるのは、愚の骨頂である。そのように考えると、「全国民毎日PCR検査で感染者を全部あぶりだして周囲にいるかもしれない感染者から逃げよう」という発想しかできなくなる。
また、「波」が小さくなったのはウイルスが弱くなったからだ、というふうに、常に外部条件にのみグラフの曲線移動の理由を求めることも、正しいとは思えない。人間的な営みとしての「波」の発生と、抑制策の繰り返しを、あたかも完全に自然現象であるかのようにみなすことに、私は懐疑的である。
いわゆる「第2波」が到来したとされていた時、日本では新規陽性者数に対して死者数が抑制されていた。これをもってウイルスが弱毒化した云々といった議論もあったが、実際には高齢者や慢性疾患者の致死率(だけ)が高いことがさらに広く知られて社会的防衛の方法が進んだことや、治療方法の進展があって、致死率が下がったのではないか。少なくとも万人に対して等しくウイルスの殺傷性がなくなったわけではない。
グラフを見てみよう。日本の「第2波」は、「第1波」と比べて、一日当たり新規陽性者数では2倍程度の大きさになっているように見える。
ところが一日当たり死者数で見ると、3分の2程度の大きさで抑制された。
これを見てウイルスが弱毒化した、と考える人もいたが、証拠がないと思う。人為的な努力によって死者数が抑制された、「第2波」では、「第1波」の時以上の学習効果が働いた、と評価する方が、より自然だ。
現在、ヨーロッパを巨大な「第2波」が襲っているとされる。これは私に言わせれば、巨大な「第1波」に対する厳しいロックダウンなどの対策の効果が薄れた後に発生している現象である。日本と比したときの欧州諸国の「波」の大きさや長さの違いは、流行の度合いや社会政策の度合いによって決まっている。
致死率だけを見ると、ヨーロッパ全域で劇的な改善が見られる。「第1波」を大きく超える新規感染者が発生しているにもかかわらず、「第1波」を上回る死者数を記録している国はない。日本と同じで、学習効果が働いていると評価することができる。
日本と異なるのは、絶対数が大きい(波が大きい)まま振れていることだ。抑制していても、感染拡大の規模が大きくなりすぎれば、やはりなお看過できない絶対数にまで死者数も達する恐れがあるために、次々とロックダウンに踏み切ることになる。欧州でとられているのは、日本の「第2波」対策よりも、強い措置だ。しかし、春先の「第1波」に対する措置と比べれば、各国とも緩和した措置だけをとっている。なぜなら、死者数の相対的な抑制を図りながら、日本と同じように「医療崩壊を防ぐ」を判断基準にして、社会政策の内容を決定しているためである。
現在のヨーロッパで注目すべきは、たとえばオランダだろう。致死数を下げて、「第1波」の死者数を上回る状態に達する前に、緩和された社会政策で、「第2波」の新規陽性者数の抑制に成功し始めたように見える(ベルギーも似た傾向があるが、相対的に成績が悪い)。
グラフを見て一目瞭然だが、オランダの「第2波」の一日当たり新規陽性者数は、「第1波」の際の約10倍の高水準に達した。
だが「第2波」の死者数は、現時点で「第1波」の際の半分を超えた程度の水準である。
もちろん、死者数は、陽性者数の遅行指標と考えるべきものなので、今後数週間にわたって死者数の増加が見られることはほぼ確実である。しかし逆に言えば、新規陽性者数がピークアウトしたのであれば、死者数もピークアウトする。最終的には、「第1波」の10倍の新規陽性者数で「第1波」と同程度の死者数になった、ということになりそうである。この場合、致死率は10分の1程度にまで下げた計算になる。
ヨーロッパでは様々な条件から、日本よりもいまだ「波」が大きい(陽性者数と死者数の絶対数が多い)。オランダとベルギー以外では、まだ「第2波」の抑制の糸口が見えていない。むしろ一部の国、特にフランスの状況は非常に悪い。ただヨーロッパが目指しているのは、日本とほぼ同じものである。恒常的な対策と、段階的な社会政策の導入による抑制管理が、進められている。オランダが目に見えた結果を確定できるかどうかは、注目点だ。
オランダ政府は「インテリジェント・ロックダウン」の概念を好んで用いて、部分的かつ段階的な社会政策を導入する姿勢をとっている。11月に入ってからのピークアウトは、10月中旬に導入した飲食店の閉店措置によるものだろう。ただしその他の目立ったロックダウン措置はとられておらず、日常生活の中での一層の配慮が求められているだけだ。国境封鎖も導入されていない。
オランダでは、10月になってからようやく公の場におけるマスク着用が要請されるようになっただけで、マスク着用率も日本と比べると非常に低い。その他の社会行動の変容も、日本人からすれば「手ぬるい」ものだ。とはいえ、ソーシャル・ディスタンスや除菌剤などは普及しているし、喚起の重要性なども徹底されてきているので、全般的に気を付けていないわけではない。「知性的な対応」を強調しているだけあり、少なくとも「第1波」の段階と比して目に見えた改善は図っている。
私は、ここまでくると、一概に日本のほうがオランダより優れている云々といったことはあまり言えないと思っている。オランダはもともと高齢者の安楽死を合法化しているような国だ。新型コロナの犠牲者数の捉え方も、日本と全く同じではないだろう。何を、どのように、いつ行うかは、議論を通じて決めるべき政策判断事項なのだ。
そもそもウイルスの蔓延をゼロにしたいのであれば、全国民に強制的に睡眠薬を飲ませて何か月も眠らせておくしかない。そうではなく、社会的に持続可能性のあるやり方で抑制管理を図りたいのであれば、どの程度の水準での抑制を目指して、どのような措置を、いつとっていくかを、しっかりと議論して判断していかなければならない。
「波」は自然現象ではない。人間が作り出しているものである。尾身会長が、「人間のファクターが大きい」と説明しているのは、そうした意味だ。そのことを意識化せず右往左往していたのだとしたら、意識化しよう。そして、何を、どこまで、いつやるのかを、人間自身がしっかりと考えて決めていく、という政策判断を行っていこう。
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「アメリカ大統領選で、トランプ氏に7000万のアメリカ人が投票した事実を考えると、 バイデン氏があたかもイカサマ氏のようなイメージを作り上げている、そのトランプ氏の言葉を信じる人々が7000万人もいるという事実を考えると、こういう「プロパガンダづくり」に天才的な才能がある人がいるんだな、とつくづく思う。そして、日本のマスコミ知識人のこの才能こそが、日本人の真実の理解にバイアスをかけている、と考える。」
この見解を反証してみたことがありますか?
一方的な見方、つまりカロさんの反証不可能な政治的主張は科学的な態度とはいえない。カロさんの見解が真実の理解とは限らない。
米国の中間層を壊したのは民主党、クリントンやオバマ政権のグローバリズムであり、既得権層保護の立ち位置で、トランプ大統領はむしろ中間層を立て直そうという政策を実行したのではないか。
「ものごとをありのままに見て、ありのままに考えられる・・・」
反氏が何度も指摘しているように物事の真相はありのままに見える姿をしているとは限らない。カロさんのいうマスゴミのプロパガンダもその役割を担っているが日本だけでなく米国のCNNなども同類。
有名なドレッド・スコット事件(Dred Scott v Sandford,60 U.S. (19 How.) 393(1857))で連邦最高裁は結果的に奴隷制を擁護する判断を示して大きな非難を受け南北戦争後に合衆国憲法修正13条で奴隷制が禁止され修正14条第1節で平等保護条項が規定された経緯があります。
その演説は、Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty and dedicated to the proposition that all men are created equal.で始まる。そして、 government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.で終わる。国際法学者の芦田均さんは、その著書、「新憲法解釈」の中で、政治が民主的であるとは、リンカーンの有名な言葉で言い尽くされている通り、政治が民衆によって行われ、また民衆の為に行われるのをさす、のである、と解説されている。トランプ大統領は、アメリカの民衆の為に政治を行っているのだろうか?もし、その気持ちがあるのなら、25万人も死者が出ているのに、感染者数が世界のワーストをひた走っているのに、ゴルフに興じることができるわけがない。周近平さんは、国賓待遇の来日も、全人代の開催も中止して、真剣にコロナ対策にあたられたではないか。ワーストでもないドイツのメルケル首相もドイツで感染者が急激に増えたから、地方の知事たちと対策会議をされている。ものごとをありのままに見て、ありのままに考える、というのは、そういうことである。日本の菅首相が同じ状況で、トランプ大統領と同じことをしたら、日本国民はどう思うだろうか?
陽性率10%±5%で浮動しているのが日本の国内状況である。
慌てることはないのである。
あわてるな、すでに1000万人感染の国だから安心して社会活動に励めよ❢❢❢
今、食事に忙しい。時間ができたらまた書こう❢❢❢
私のコメント168は、カロリーネ氏のコメント167の「合衆国憲法は、All men are created equal.なのであって」という誤ったコメントを指摘するために、初出とされているアメリカ独立宣言を挙げたもので、リンカーンのゲティスバーグ演説もアメリカ独立宣言を受けたものです。また、カロリーネ氏が芦田均・教(狂)なのは相変わらずですが、全く反論になっていません。
なお、カロリーネ氏は、中国の「習近平」国家主席のことを「周近平」とよく間違えますが、カロリーネ氏のパソコンやスマートフォンの辞書機能は、利用者が間違いだらけなのを学習するためかよく間違えるようですが、通常は「習近平」と出てくるように思います。
ところで、146の終わり近くに引いたソフォクレスの戯曲『オイディプス王』(Οιδίπους Τύραννος)の中の盲目の預言者テイレシアス(Τειρεσίας)の不吉な予言、
「あなたは目あきでありながら、どんな禍のうちにあるか、どこにいるのかも、だれと一緒に住んでいるのかも見えないのだ」(‘εἰ καὶ τυραννεῖς, ἐξισωτέον τὸ γοῦν/ ἴσ᾽ ἀντιλέξαι•’; 408~409)に続く一連の最後の部分、「今は正しく目が見えるが、その時には闇しか見えぬあなたを追い立てるであろう」(‘βλέποντα νῦν μὲν ὄρθ᾽, ἔπειτα δὲ σκότον.’)に続く箇所は、字数の関係で訳文を削除し、原文だけ(420行目)が残る形となったが、
「恙なき船旅の後に、この館においてたどり着いた婚礼が、どんなに恐ろしい港であったかに気づいた時には、あなたの叫び声の届かぬ隈が、キタイロンの尾根また尾根も、その声に木魂して響き渡らずにいられようか。それだけではない、まだほかにも、いまあなたの気づいていない凶事が数々ある。それらはやがて、あなたをまことの素性に返し、あなたの子供らと同じ境涯に置くであろう。」(‘βοῆς δὲ τῆς σῆς ποῖος οὐκ ἔσται λιμήν, / ποῖος Κιθαιρὼν οὐχὶ σύμφωνος τάχα, / ὅταν καταίσθῃ τὸν ὑμέναιον, ὃν δόμοις / ἄνορμον εἰσέπλευσας, εὐπλοίας τυχών;/ ἄλλων δὲ πλῆθος οὐκ ἐπαισθάνει κακῶν, / ἅ σ᾽ ἐξισώσει σοί τε καὶ τοῖς σοῖς τέκνοις.’; 420~425)と続く。
盲目の預言者はこう言い放つ。「されば、クレオンに向かっても、わしの申したこと対しても、勝手に罵ればよい。およそこの世で、あなたより惨めに打ちひしがれて滅びる人間は、誰一人としていないのだから。」(‘πρὸς ταῦτα καὶ Κρέοντα καὶ τοὐμὸν στόμα / προπηλάκιζε• σοῦ γὰρ οὐκ ἔστιν βροτῶν / κάκιον ὅστις ἐκτριβήσεταί ποτε.’; 426~428)
一寸先は闇のこの世に安全な場所、待避所、安息所はない。老婆の逃げ場所も。
420行目末尾の[λιμήν]は「港」という意味。比喩的に退避所、避難所(haven, retreat)となる。さらに、入れ物(容器)、gatherring-placeとなる。[Ἅιδου λιμήν]は不吉な「死の退避所」となる。それとは知らず生母と契ったオイディプスの婚礼、寿ぎの新床がそれとなった。
古典の解釈というのは、テキストに就いて、さらに註釈書を参照し、辞書を引く繰り返しで、無駄口を叩く暇はない。容易に読めるヘーゲルやニーチェの全集の繙読とは次元が異なる。この無味乾燥な作業が、ものを考える基本を徹底的に鍛える。田中美知太郎もわが師藤澤令夫も、その点では一切の妥協を許さない厳しい師だった。
ギリシアの古典は、あたかも大理石に刻まれた碑文のように、忘却されても隠滅することのない不滅の光芒を湛えている。そして蘇る。
ついでだから、『オイディプス王』の当該個所を碑文風に表記すれば、以下のようになる。
ΕΙ ΚΑΙ ΤΥΡΑΝΝΕΙΣ, ΕΞΙΣΩΤΕΟΝ ΤΟ ΓΟΥΝ / ΙΣ’ ΑΝΤΙΛΕΞΑΙ. ΤΟΥΔΕ ΓΑΡ ΚΑΓΩ ΚΡΑΤΩ. / ΟΥ ΓΑΡ ΤΙ ΣΟΙ ΖΩ ΔΟΥΛΟΣ, ΑΛΛΑ ΛΟΞΙΑ. / ΩΣΤ’ ΟΥ ΚΡΕΟΝΤΟΣ ΠΡΟΣΤΑΤΟΥ ΓΕΓΡΑΨΟΜΑΙ. / ΛΕΓΩ Δ’, ΕΠΕΙΔΗ ΚΑΙ ΤΥΦΛΟΝ Μ’ ΩΝΕΙΔΙΣΑΣ. / ΣΥ ΚΑΙ ΔΕΔΟΡΚΑΣ ΚΟΥ ΒΛΕΠΕΙΣ ΙΝ’ ΕΙ ΚΑΚΟΥ, /(引用続く)
ΟΥΔ’ ΕΝΘΑ ΝΑΙΕΙΣ, ΟΥΔ’ ΟΤΩΝ ΟΙΚΕΙΣ ΜΕΤΑ. / ΑΡ’ ΟΙΣΘ’ ΑΦ’ ΩΝ ΕΙ; ΚΑΙ ΛΕΛΗΘΑΣ ΕΧΘΡΟΣ ΩΝ / ΤΟΙΣ ΣΟΙΣΙΝ ΑΥΤΟΥ ΝΕΡΘΕ ΚΑΠΙ ΓΗΣ ΑΝΩ, /ΚΑΙ Σ’ ΑΜΦΙΠΛΗΞ ΜΗΤΡΟΣ ΤΕ ΚΑΙ ΤΟΥ ΣΟΥ ΠΑΤΡΟΣ / ΕΛΑ ΠΟΤ’ ΕΚ ΓΗΣ ΤΗΣΔΕ ΔΕΙΝΟΠΟΥΣ ΑΡΑ, / ΒΛΕΠΟΝΤΑ ΝΥΝ ΜΕΝ ΟΡΘ’, ΕΠΕΙΤΑ ΔΕ ΣΚΟΤΟΝ. / ΒΟΗΣ ΔΕ ΤΗΣ ΣΗΣ ΠΟΙΟΣ ΟΥΚ ΕΣΤΑΙ ΛΙΜΗΝ, / ΠΟΙΟΣ ΚΙΘΑΙΡΩΝ ΟΥΧΙ ΣΥΜΦΩΝΟΣ ΤΑΧΑ, /ΟΤΑΝ ΚΑΤΑΙΣΘΗ ΤΟΝ ΥΜΕΝΑΙΟΝ, ΟΝ ΔΟΜΟΙΣ / ΑΝΟΡΜΟΝ ΕΙΣΕΠΛΕΥΣΑΣ, ΕΥΠΛΟΙΑΣ ΤΥΧΩΝ; / ΑΛΛΩΝ ΔΕ ΠΛΗΘΟΣ ΟΥΚ ΕΠΑΙΣΘΑΝΕΙ ΚΑΚΩΝ, /Α Σ’ ΕΞΙΣΩΣΕΙ ΣΟΙ ΤΕ ΚΑΙ ΤΟΙΣ ΣΟΙΣ ΤΕΚΝΟΙΣ. / ΠΡΟΣ ΤΑΥΤΑ ΚΑΙ ΚΡΕΟΝΤΑ ΚΑΙ ΤΟΥΜΟΝ ΣΤΟΜΑ / ΠΡΟΠΗΛΑΚΙΖΕ. ΣΟΥ ΓΑΡ ΟΥΚ ΕΣΤΙΝ ΒΡΟΤΩΝ / ΚΑΚΙΟΝ ΟΣΤΙΣ ΕΚΤΡΙΒΗΣΕΤΑΙ ΠΟΤΕ.; ΟΙΔΙΠΟΥΣ ΤΥΡΑΝΝΟΣ, 408~428.
本来のギリシア語に小文字はないから、以上のようになる。
ついでに、古典ギリシア語の辞書がどうなっているか、最も完備したOxord希英大辞典、通称‘Liddell & Scott’(A Greek-English Lexicon, by H. G. Liddell & R. Scott, rev. by Sir H. S. Jones with the assistance of R. Mckenzie, 1968)から、[λιμήν]=ΛΙΜΗΝ(p. 1050)の箇所を紹介する。細かい活字で18行ある版面をそのまま忠実に筆写したものは、次の通りだ。
【λιμήν, ένσς, ὁ, A harbour, Il.1.432 (here distd. fr. ὅρμος, mooringplace), al., Pl. Ti. 25a, etc.; Κανθάρου λ. a dockyard in the Piraeus, with a pun on κάνθαρος just above, Ar. Pax 145 (ubi v. Sch.): freq. in pl., λιμένες νηῶν ὀχοί Od. 5. 404; λιμένες δ’ ἔνι ναύλοχοι αὐτῇ 4. 846; λιμένες τε πάνορμοι 13. 195, cf. S. Ph. 936, etc.: c. gen. objecti, λιμένες θαλάσσης havens of refuge from the sea, Od.5.418, cf. Hes.Sc. 207.】(この項続く)
【II. metaph., haven, retreat, refuge, Thgn. 460; ἑταιρείας λ. a haven of friendship, S. Aj. 683; οὗτος… λ. πέφανται τῶν ἐμῶν βουλευμάτων E. Med. 769: c. gen. objecti, λ. κακῶν from ills, A. Supp. 471; ὦ ναυτίλοισι χείματος λ. φανείς E. Andr. 891; ὕπνον… τῶν καμάτων λ. Critias 6. 20 D.; λ. τῆς πλάνης ἥδε ἡ γῆ μόνη λείπεται D.H.1.58. 2. gathering-place, receptacle, πλούτου λ. A. Pers. 250; μέγας E. Or. 1077; παντὸς οἰωνοῦ λ. S. Ant.1000; Ἅιδου λ. harbour of death, ib.1284 (lyr.); ξείνων αἰδοῖοι λιμένες Emp.112. 3; βοῆς τῆς σῆς ποῖος οὐκ ἔσται λ.; what place shall not harbour (i.e. receive) thy cry? S.OT 420. III. = ἀγορά in Thessaly and Paphos, IG 9(2).517. 42 (Larissa), Gal. Thras. 32, D. Chr. 11.23 (interpol.). IV. the source of birth, womb, Emp. 98. 3, S. OT1208 (lyr.).】
略号や圧縮的表現が頻出して、慣れない訳語だけ知りたい初学者には引きづらいが、慣れればこんなよくできた辞書はない。初版は1843年で相当古いが、これを凌ぐ辞書は未だに存在しない。改訂増補を重ね、さらに補遺を追加して現在の姿になったのは1968年。1980年代初頭、23,400円もしたが、現在もあまり変わらないか、かえって安い。
編者の一人Henry George Liddell(1811~98)は、『不思議の国のアリス』のモデルAlice Liddell(1852~1934)の父親。
いずれにしても、II. 2.に『オイディプス王』420行目の[βοῆς τῆς σῆς ποῖος οὐκ ἔσται λ.]が例文として引証されている。
辞書が一人前に引けないと専門家としては失格で、学問以前の話。田中美知太郎は保守論壇の「主柱」とされ、評論活動も活発だったが、教室ではその手の話題を一切禁じた。
無駄口を叩くのは、一人前になってからという無言の圧力だ。瑣事など存在しない。学問というのは、そうしたものだ。[完]
新型コロナの動向に関する記事を除いて、学術的なものは少なくとも大きく外していません。新型コロナについては、未知のウイルスゆえ、反さんに限らず専門家・非専門家を含めて、どなたも予測を外しました。この点については、Gは真実ないしは最適解は、中間(100・ゼロではなく、1~99)に宿ると改説(修正)しました。これだと確率99/101で外れませんww
Gは、本欄投稿者の日下部眞一さんの「既に市中蔓延説」に興味を持っています。仮にそうであっても、やはり”対策が重要”であることはいうまでもありません。
自国民、20万人以上の人が亡くなっているのに、マスクをせずに、大規模集会を開く。たしかに、初めの頃は、Covid19ウィルスの実態がわからないから、予測があたらないことは、仕方がない。けれども、日本の尾身・押谷氏の着眼点「木を見ずに森を見る。」がすばらしかったから、「三密回避」、「マスク着用」の対策が欧米の「PCR検査とロックダウン」よりも優れていたから、日本の犠牲者が英米に比べて少なかった、という事実を日本のマスコミは、認識すべきなのである。そして、現在は、Covid19ウィルスの特性もわかり始めている。そんな中で、マスクをせずに大規模集会を開くと、なにが起こるか、国の政治指導者がそのような政治運動を主催すべきかどうか、わかるのではないのだろうか。
彼の発言が真実であると、自分が大統領職を追われるからであるが、このような人格の人物が、国際社会の安全保障面から考えて、アメリカの大統領職にふさわしい人物なのか、ということをよく考えるべきだし、日本のマスコミはこういうニュースを広く、日本中に報道すべきだ、と考える。それをしないから、日本人は、国際感覚が養えないのである。
また、トランプ大統領によって解任された二人の人物は、トランプ大統領の取り巻きと違って、忖度のない、アメリカ国民の為を考えられる、公共の福祉を考えられる、誠実なアメリカ人だ、という印象を強くする。
メディアがやや抑え気味かと思ったら
尾身茂はじめ感染症専門医のバカたちが、率先して騒ぎ始めた。
医療崩壊、町医者破産が増加するとすれば、
それは騒ぎ始めた感染症専門医が原因であることを予告しておく。
重症者、中等症患者だけに集中しないと医療崩壊を起こすことは
7月の❝PCR検査爆発❞でわかっているだろう。
都知事小池が、やっきになってPCR検査やりだしたら2万人の10%で2000人、4万人の10%で4000人の潜在感染者を収容する施設がいるのである。
それだけの金と施設があるか❓❓❓
もっと礼節をわきまえて、神様に感謝しよう❢❢❢
日本人は2000人のコロナ死者数でおさまっていることを、、、
グーグルのバカ予測が北海道500人死亡のバカをしている。
コメント118、119で論じたように
現在の致死率は、0.016(1887/117262)である。
致死率はPCR検査の増加につれて下がっていく。
黒木登志夫先生の20万人感染予測を正しいとすると200000 x 0.016 で3200人となる。
わたしは過大推定だと思うが、
グーグルの推定は、
西浦博や山中伸弥のホラ話よりは、まだましとは言えウソに近い。
年明けて2月ころになればわかるだろう。
しかし、ホラ話におびえて❝社会を止め❞れば日本は即死する❢❢❢
❝集団感染❞には十分気をつけねばならないが、
❝社会は止めるな❢❢❢❞
「民主主義は、しばしば指摘されるように、「demos(民衆)」の「kratein(支配・統治)」という言葉が示すように、‘"government by the people"すなわち統治の方法または形式を意味した。それは、古典・古代においては、「衆愚政」と揶揄され、マイナス・イメージで語られることが多かったが、しかし、市民革命を契機にして、プラス・イメージに転換し、それ以来、人が望ましいと考えることは何でも「民主主義」と呼んで正当化する傾向が生じ、現代に至っている。民主主義に「for the people」を含ませる上記の「実体的民主主義」の概念も、その顕著な一例である。
しかし、民主主義はどこまでも「統治の方法または形式」(by the people)を意味する概念と捉えられなければならない。その理由は沢山あるが、主要な2つを挙げよう。
第1に、古来より「国民のため」(for the people)と標榜しない国家はなく、「国民のため」という名のもとに、専制が行われ、独裁が行われてきた。これを典型的に示すのは、「すべての人民のために、しかし何ものも人民によらず」という啓蒙専守制君主フリードリヒ二世の言葉である。20世紀におけるその典型例は、いうまでもなく、共産主義・社会主義的政府のプロレタリア独裁であり、ファシズム・ナチズムによる独裁である。かくて、民主制は、その対立概念たる「専主制(autocracy)」へと転換するに至る。それ故、統治形態が民主的か非民主的かは、ひとえに、統治に国民が参加しているかどうかという統治方法ないし手続によって判断されなくてはならない。民主主義の真偽は、統治の手続にある。すなわち、民主主義とは、被治者と治者の同一性(identity)を原理とする統治形態である。
第2に、他方、「国民のため」(for the people)という統治の目標・指標を定めるのは、民主主義ではなく、それとは概念上全く別個の政治的原理である。日本国憲法においては、それは自由主義(liberalism)である。前文に即していえば、「自由のもたらす恩恵(the blessings of liberty)」の確保であり、それは、本文第3章の基本的人権、特に自由権の保障に具現化されている。その対立概念は、いうまでもなく「全体主義」である。」(新正幸・憲法訴訟論(第2版)278・279頁)
その上で、ハンス・ケルゼンにも造詣が深い憲法学者の新正幸・金沢大学名誉教授は、オルテガ「Invertebrate Spain(New York,1937)p.125.」やハイエク「自由の価値(自由の条件Ⅰ)151頁」の議論を紹介した上で(上記279・280頁)、「自由と民主の結合」を主張した芦部信喜の「実体的民主主義」論については、「誤った「民主主義」の理解」であり「民主主義と自由主義の区別を曖昧なものにし、両者の真の深刻な緊張関係・対立関係を不明確なものにする」(上記280頁)として痛烈に批判をしています。
上記のような極端な「手続的民主主義」論を採用するかは兎も角としても、「民主主義」の概念が多義的な使われることを自覚した議論が必要であり、カロリーネ氏による「お子様民主主義論」は論外です。なお、「私の言う国際協調とは音楽の概念」(2020年8月16日付のカロリーネ氏のコメント113参照)といった意味不明の「音楽的国際協調論」に基づく独自の「国際協調」概念を誤用的に濫用するのも同様に論外です。
グーグル予測は、なぜ間違いか❓❓❓
それは、第一に、PCに打ち込む感染者数のデータが間違っているからである。
実際の生物学的意味での本当の感染者数とPCR検査でわかる感染確認者数は全く違うのである。
PCR検査による感染確認者数しか感染者と認めていないのが厚生省発表の棒グラフでありNHKはじめとしてメディアが毎日朝から晩まで垂れ流す❝ホップ、ステップ、ジャンプ❞、3段飛びのいつものグラフである。
そして、宮田裕章監修のグーグル予測はこのデータを使っているから、ホップ、ステップ、ジャンプの超過大推定になってしまうのである。
単純な比例計算で行くと北海道が500人であれば全国の死者数は7000人を超える。今までの死者数2000人の3倍を超えるのである。これから100日間平均して70人がバッタバッタと死んでいかねばならないのである。
そんなバカな予測がどうしてできる❢❢❢
西浦博や山中伸弥のホラ話と同じである。
今また、❝東京、今まで最高の感染者数493人❞と慌てふためいている。
どうしようもない。陽性率は7月よりもまだ低い5.7%である。
今、都知事小池がPCR検査が8000人を超えていると言ったから陽性率6.16%である。10%+-5%の感染揺動である。感染爆発ではない❢❢❢
グーグル予測と感染症専門屋がきっかけになって
また、恐怖煽りメディアと恐怖煽り放送と恐怖煽り政治が始まった。
よほど自粛、引きこもりが好きらしい❢❢❢
無能な専門家集団だ。
東京は8月、9%ほどに高まった陽性率が9月末4%ほどに下がったが人間活動の高まりに応じて6%ほどまでに上がってきた。
PCR検査も8000件と増えているのでこれまでで最高の感染確認者数がでてもおかしくはないのである。
どうして冷静に対応できずに慌てふためくのであろうか❓❓❓
どこで止まるかはまだわからないが5%下がってもどってきているので9%を5%くらい超える14%くらい行くかもしれないが、陽性率10%が一つのめどであろう。
すでに❝感染蔓延❞しているから、❝感染爆発❞は起こらない。
冷静な対応に心がけて、
❝社会を止めるな❢❢❢❞
自粛、自制を煽るやからは日銭に困らないバカばかりである。
しかし、侵入してきた個体群の3回目の振動である、予想される分散幅の10倍くらい大きく見ても間違いではなかろう。
その揺動幅の推測は、物理屋さんにまかせる。
それは、「其學貴乎自得也。自得之。然後博之以典籍。則典籍之言。我之言也。否則典籍自典籍而我自我也」(『白沙子集』附録、張詡『行牀』=「そもそも學問というものは自得を尊ぶのである。自得したうえで典籍によってそれを豊かにするならば、その場合は、典籍の言葉は卽ち我の言葉である。然らざる場合は、典籍は典籍、我は我、であるにすぎない」=引用は島田虔治『中國における近代思惟の挫折』、1970年、22頁に拠った)という陽明の先駆者である白沙先生即ち陳獻章によるところが大きい。
白沙の精神とは、「あらゆる儒家的傳統的なる粉飾にもかかわらず、陽明や其の後輩をも一貫して、明學の根本精神であった」(同)とされるものだ。宋代以来のシナ近世の特権的知的支配層、所謂士大夫=読書人的なエリート層の読書人的な「博覧通籍」でも、もう一つの側面である士大夫=官僚的な「経世済民」でもない、つまり学問の第一の意義を、教養のための手段でもなく、統治のための道具ともせず、ひとえに人倫の理法、道を究めるものとする立場を打ち出す。
つまり、「人所以學者。欲聞道也。求之書籍而弗得。則求之吾心可也」(『學案六』林光記白沙語)、「人が学問をするのは道を開こうと思うからである。その場合、典籍のうちに求めても得られぬ場合は、吾が心に求めればよい」となる。基本的には立派な心掛けだ
そうした観点から眺めると、182⇒【トランプ政権下の米国は民主主義国家ではない】のような偏執狂の老婆の粗雑かつ愚劣な莫迦話は、伝統的な儒学の「博覧通籍」の欠片もない無知蒙昧の夢想家の獣声にも等しい無意味な呻きであり、道の探究である攷学の精神とは全く対極にある、自得ならぬ狂信への「自瀆」に外ならない。
それも一つの起因となって陽明学左派の心学運動が陽明説を「決壊させ」、明末期の李卓吾(李贄)による、今日風に言えば儒学の、心学の「脱構築」をもたらす。しかしその兆候は、既に陽明自身のうちに胚胎していた。
『傳習録』(下巻112)に「我在南都已前。尚有些子郷愿的意思在。我今信得這良知眞是眞非。信手行去。更不著些覆藏。我今纔做得箇狂者的胸次。使天下之人都說我行不揜言也罷」とある。
大意は、「自分が南都(南京=南宋の都開封)に来る前は、まだいくらか『郷愿』(『孟子』盡心下)の気味を免れなかった。ところがいまでは、この良知を信ずるに及んで、是は眞の是、非は眞の非に従い、思うがままに事を行って、覆藏などさらには爲さぬ(全く飾り立て隠し立てするところがない)。つまり、私はいまこそようやく『狂者』(同上)の心境(胸懐)になることができた。天下の人はすべて、言葉のみ高くて実践が伴わぬ(言行不一致)と謗ろうとも、言いたいものには言わせておいて、構いはしない」。
『中國における近代思惟の挫折』の中で島田虔治は、「この一絛こそ陽明心學が畢竟激しき排撃に遭遇せざるを得ぬ必然性を陽明自ら表白したものであり、その泰州派的展開を豫告するものであったといわねばならぬ。中庸中行の得られざる場合、儒家士大夫一般の擇ぶべき矩矱(標準として守るべき事柄=筆者註)は、爲さざるところにある『狷者』の側にこそあったであろう。」(138頁)
訳文(現代語訳)は、溝口雄三訳『続世界の名著』第4巻「朱子・王陽明」558~559頁を参照されたい。
ところで、そこに「郷愿」(郷原)、「狂者」とある。『孟子』盡心下の議論が特に知られる言葉だ。一般的には「徳があるようにみせている偽善者」の意味だ。『論語』(陽貨第十七)にも、「郷原德之賊也」(「似而非君子は、道徳の賊(道徳の冒瀆)である」)とある。
「郷愿」「狂」「狷」を問われて龍渓は、次のように説く。
「孔子は中行の人は得がたいので狂を思い、次いで狷を思った。然し、かの郷愿の如きに至っては、之を徹底的に惡(にく)んだのであって、德の賊とまで言っているのである。九牛の毛に數えられるどころのことではない。狂者の心は、ただ聖人になろうとめざす。その實践が主張においつかぬ點があるのは(其行有不掩)その缺點ではあるが、然しながらその心事は光明超脱、些かの隠蔽も自己辨護もしないのは、まさしくその長所であり(亦便是得力處)。もしもよく私念に克ち、常に嚴密であり得るようになったら、それが卽中行なのである。狷者は謹守という點では大いにつとめはするけれども、必ず聖人になろうという志は未だ明らかになっていない。」(引用続く)
ありがとう、色々、考えを促していただけるところ多大であります。
何回も読み直してみます。
そのうえで、「若夫郷愿。不狂不狷。初間亦是要學聖人。只管學成穀套。居之行之。像了聖人忠信廉潔。同流合汚。不與世間立異。象了聖人混俗包荒。聖人則善者之好。不善者惡之。尚有可非可刺。郷愿之善。既足以媚君子。好合同處。又足以媚小人。比之聖人。更覺完全無破綻。譬如紫色之奪朱。鄭聲之亂雅。更覺光彩艶麗。」(王龍渓『與梅純甫問答』、『王龍渓全書』4頁=「然るにかの郷愿に至っては、狂でもなく狷でもなく、はじめはやはり聖人を學ぼうと志したのでありながら、學びとるのはただただ(聖人の)穀套のみ。それに依りそれを實践するところ、聖人の忠信廉潔に類似はする。流れを同じくし汚濁も合わせ、世俗に異を樹てないところ、聖人の俗に混じ荒穢を包容するのに類似はする。然しながら、聖人であれば、『善き者よりは好まれ、善からざる者よりは惡まれる』のであって、聖人とてもやはり非難や攻撃の的となりうるのである。郷愿の善たるや、既に君子に媚びるに足るうえに、好んで人に同じくみする點、小人にも媚びるに足るものであるから、聖人に比してより完全で缺陥がないものの如くさえ見える。譬えていえば、紫が朱を壓倒し、鄭の淫樂が雅樂を亂せば、より光彩艶麗に思われるのと同様である。」→引用は、島田前掲書、142~43頁に拠った)
龍渓がいかに「郷愿」=俗物、偽善者を痛罵していたか、よく分かる。
本日も未明から愚劣な主張に入れ上げる老婆。批判の対象である「郷愿」は、それでもまだ一廉の知性を具えるが、老婆は到底その域に達しない。無意味に未明の闇の中で獅子吼するだけだ。
この場合、「狂狷」(いちずに理想に走って、非常識を憚らず信じるところを枉げない)=狂簡(志は大きくとも具体性が伴わず粗略)は「狂犬」に通じる。
こちらも、岩波文庫版その他の現代語訳があるので、当該個所を参照されたい。今回は一部について論じるにとどめる、
孔子が陳国に在って、志を得ず故国の魯に故郷しようと思ったことについて、萬章と孟子とのやり取りだ。同じ話は『史記』(「孔子世家」)にも出てくる。
世の激動に揉まれ妥協を余儀なくれて仕官を求めて諸国を彷徨している間に、孔子といえども初心を失う危機に見舞われたのであろう。
ところが、郷里魯に残してきた門弟たちは狂狷=狂簡進取で、学問を目指す素心、つまり初心を失ってはいない。
だから、「歸與。歸與。吾黨之小子狂簡。斐然成章。不知所以裁之」(「歸らん與(か)、歸らん與。吾が黨の小子。狂簡にして、斐然として章を成す。之を裁する所以を知らず」=同)。
一方の『孟子』は、「孔子、陳に在りて曰く。盍(なんぞ)歸らざる乎。吾が黨の士、狂簡なるも進取にして、其の初を忘れず、と。孔子、陳に在りて、何ぞ魯の狂士を思うや、と。孟子曰く、孔子、中道を得て、之に與せざれば、必ずや狂狷乎。狂者は進取し、狷者は爲さざる所あるなり。孔子、豈(あに)、中道を欲せざらん哉。必ずしも得べからず、故に其の次を思うなり、と。…孔子曰く。我が門を過ぎて、我が室に入らざるも、我憾みざる者は、其れただ郷原乎。郷原は德の賊なりと…孔子曰く。似て非なるものを惡む。莠(ゆう)を惡むは、その苗を亂すを恐るれば也。佞を惡むは、其の義を亂すを恐るれば也。利口を惡むは、その信亂すを恐るれば也。…郷原を惡むは、其の徳を亂すを恐るれば也。」
孟子は狂簡を狂狷に代えている。「狷」は気が短いさま、片意地、不本意なことを拒んで拒否するさまだ。へそ曲がりとも。老婆は凡庸な常識派という点では愚鈍極まる郷原(「郷愿」=俗物、偽善者)でしかないが、我を忘れて狂態の限りを尽くす点では、狂狷だ。
自己愛と狂信に取り憑かれ、病んでいるからだろう。[完]
„Die Engländer werden uns beschämen durch reinen Menschenverstand und guten Willen, die Franzosen durch geistreiche Umsicht und praktische Ausführung“,: „Maximen und Reflexionen“ 171, J. W. von Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Band. 12, S. 387.
「萬章問曰。孔子在陳曰。盍歸乎來、吾黨之士。狂簡進取不忘其初。孔子在陳。何思魯之狂士。孟子曰。孔子不得中道而與之。必也狂狷乎。狂者進取。狷者所不爲也。孔子豈不欲中道哉。不可必得。故思其次也。敢問。何如斯可謂狂矣。曰。如琴張。曾晳。牧皮者。孔子之所謂狂矣。何以謂之狂也。曰。其志嘐嘐然曰。古之人。古之人。夷考其行。而不掩焉者也。狂者又不可得。欲得不屑不絜之士而與之。是狷也、是又其次也。孔子曰。過我門而不入我室。我不憾焉者。其惟郷原乎。郷原徳之賊也。曰。何也斯可謂之郷原矣。曰。何以是嘐嘐也。言不顧行。行不顧言。則曰。古之人。古之人。行何爲踽踽涼涼。生斯世也。爲斯世也。善斯可矣。閹然媚於世也者。是郷原也。萬子曰。一郷皆稱原人焉。無所往而不爲原人。孔子以爲徳之賊。何哉。曰。非之無擧也。刺之無刺也。同乎流俗。合乎汙世。居之似忠信。行之似廉絜。衆皆悦之。自以爲是。而不可與入堯舜之道。故曰。徳之賊也。孔子曰。惡似而非者。惡莠。恐其亂苗也。惡佞。恐其亂義也。惡利口。恐其亂信也。惡鄭聲。恐其亂樂也、惡紫。恐其亂朱也。惡郷原。恐其亂徳也。君子反經而已矣。經正則庶民興。庶民興斯無邪慝矣。」
こちらも、岩波文庫版その他の現代語訳があるので、当該個所を参照されたい。今回は一部について論じるにとどめる、
孔子が陳国に在って、志を得ず故国の魯に故郷しようと思ったことについて、萬章と孟子とのやり取りだ。同じ話は『史記』(「孔子世家」)にも出てくる。
世の激動に揉まれ妥協を余儀なくれて仕官を求めて諸国を彷徨している間に、孔子といえども初心を失う危機に見舞われたのであろう。
ところが、郷里魯に残してきた門弟たちは狂狷=狂簡進取で、学問を目指す素心、つまり初心を失ってはいない。
(承前2)前後を含む原文は以下の通り。
「薛尚謙・鄒謙之・馬子莘、王汝止侍坐。因嘆先生自征寧藩以來。天下謗議益衆。請各言其故。有言先生功業勢位日隆、天下忌之者日衆。有言先生之學日明。故爲宋儒爭是非者亦日博。有言先生自南都以後。同志信從者日衆。而四方排阻者日益。先生曰。諸君之言、信皆有之。但吾一段自知處。諸君倶未道及耳。諸友請問。先生曰。我在南都已前。尚有些子郷愿的意思在。我今信得這良知眞是眞非。信手行去。更不著些覆藏。我今纔做得箇狂者的胸次。使天下之人。都說我行不揜言也罷。尚謙出曰。信得此過、方是聖人的眞血脈。」(『傳習録』下112)
訳文(現代語訳)は、溝口雄三訳『続世界の名著』第4巻「朱子・王陽明」558~559頁を参照されたい。
ところで、そこに「郷愿」(郷原)、「狂者」とある。『孟子』盡心下の議論が特に知られる言葉だ。一般的には「徳があるようにみせている偽善者」の意味だ。『論語』(陽貨第十七)にも、「郷原德之賊也」(「似而非君子は、道徳の賊(道徳の冒瀆)である」)とある。
「郷愿」「狂」「狷」を問われて龍渓は、次のように説く。
「孔子は中行の人は得がたいので狂を思い、次いで狷を思った。然し、かの郷愿の如きに至っては、之を徹底的に惡(にく)んだのであって、德の賊とまで言っているのである。九牛の毛に數えられるどころのことではない。狂者の心は、ただ聖人になろうとめざす。その實践が主張においつかぬ點があるのは(其行有不掩)その缺點ではあるが、然しながらその心事は光明超脱、些かの隠蔽も自己辨護もしないのは、まさしくその長所であり(亦便是得力處)。もしもよく私念に克ち、常に嚴密であり得るようになったら、それが卽中行なのである。狷者は謹守という點では大いにつとめはするけれども、必ず聖人になろうという志は未だ明らかになっていない。」(引用続く)
山中伸弥は本当にバカだ❢❢❢
正義感にあふれるようだがバカ一直線のバカだ❢❢❢
わたしがあれだけ叩いたのに性懲りもない❢❢❢
よく京都大学の一研究室の所長であり続けることが不思議である❢❢
Ips研究所でバカな山中伸弥を止める勇気あるものはいないのか❢❢❢
カリフォルニア州の死者数は18333人だ。
大阪は265人だ。
どうして対応な比較ができる。
バカとしかいいようがない。
山中伸弥が4月の初めから間違っているのは死亡率と致死率を正確に読むことができていないからである。
顔を洗って出直せい❢❢❢
忘れていたけど
山中伸弥は7月、西浦博との学会対談で10万人死亡説を主張したはずだ。
結果はそうならずに、
わたしが主張していたように
感染爆発は起こらなかった。
その責任はどのようにしてとるのか❓❓❓
問いたい❢❢❢
バカも休み休みにしたほうがいいよ❢❢❢
IPS研究所の格が下がっていくだけですよ❢❢❢
あなたの発言は、あなたの責任だけでは済まされないのですよ。
いい年してそれがわからないの❓❓❓
すでに篠田ブログへ書き込み始めた最初のころ6月上旬に書いてたことを書いておく。
山中伸弥の3つの間違い。
山中伸弥は4月の宣言前にNHKデビューしたころのインタビューで回答していたのだが、わたしには3つの間違いをしていると思われた。その場だけの問題であれば見過ごすことができたのであるが、わたしにはコロナ問題の本質であり重要な点であると思われたので再びここに書き記しておく。
一つ。
山中伸弥は死亡率にはほとんど注意を向けずに致死率だけを追っていた。
何度でも書いてきたが、今回のコロナは感染者を的確に把握することはできないので死亡率の推定に比べれば致死率の推定はなかなかむつかしいということを山中はじめほとんどの感染症医者がわかっていなかったことである。
二つ。
コロナの集団免疫率を60~70%と言ってたこと。
山中がNHKインタビューしていたのはクルーズ船解決後の遥か後である。そのとき無発症感染者の出現はすでに分かってたのに60%~70%と言ってたのである。しかも、自然免疫の関与がささやかれていたというのに。
つまり、CDCか英国、独国の権威に追従して主張していただけで自分で考えていなかったのである。
三つ。
わたしは、4月の宣言のころ3月の無病感染者の侵入で感染者の20倍くらいの感染者が溢れていたと推測していた。
山中はまるでそんな可能性は全く考えていなかった様子で、隔離感染をしきりにとなえていた。
以上の三つは、今日にいたるコロナののちのちの対処に甚大な影響を及ぼしていることは言うまでもない。
大阪は265人だ。
という日下部教授の主張であるが、これがまさに、大量の精度の悪いPCR検査や抗原検査をしたり、三密回避、マスク着用をしなかった米国、カリフォルニア州と、「木を見ずに、森を見て。」自分たちの頭で考えて、日本独自の対策をした日本の大阪府の差なのであって、カリフォルニア州やニューヨーク州に住んでいても、適切なCovid対策をしている親友や親友の息子一家は、Covid19に感染していない。カリフォルニア州に住んでいる彼女の息子は、外から帰ってきたら、すべて消毒し、自身シャワーを浴びる徹底ぶりである。
大事なことは、Covid19ウィルスを、正しく知って、正しく恐れ、正しく対処する、に尽きるのである。
一方、世界の感染者数を見てみると、https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-chart-list/#countryNewInfected
新規感染者数は、米国は7日平均で、15万人を上回るのだから、1日では2万人、死亡者数は、7日平均で1000人を超えているのだから、一日では100人を超える。中国と比較した時、大統領の無策ぶりがよくわかるのではないのだろうか。中国がCovid19をコントロールしているのに比べて、米国は、全くコントロールできていない、ということが歴然としている。また、PCR検査の量であるが、フランス、英国の検査数が日本の5倍近くあるのに死者数が日本よりはるかに多い。要するに、PCR検査をあまり増やしても、効果がないことが、歴然としてわかるのである。それなのに、なぜ医師会会長をはじめとして、岡田晴恵博士、玉川徹さんは、PCR検査を拡大することが日本がCovid19を収束するために、どうしても必要であるかのような、主張をされるのだろう。
また、習近平氏は、現在Covid19感染症の為に、世界は1930年台に匹敵する経済危機に陥る危険性がある。国際協力をして、感染症に打ち勝って、グローバル経済を再生していかなければならない、と主張されていて、それは、現状を素直に見たまともな主張であると思うが、一方米国のトランプ大統領の主張、「アメリカを再び偉大な国にする。」という主張には、どのようにして偉大な国になるか、の道筋が読めない。中国製品をボイコットしたり、外国製品に高い関税をかけることで、米国産の製品が売れることで偉大になるのだろうか?それとも、環境政策、核兵器削減交渉を凍結することで、偉大になるのだろうか?アメリカンドリームはいいが、それを実現する手段が夢物語で、中国の周近平氏の主張と違って、現実性がないのである。これ一つを見ても、どちらが、世界の政治指導者としてまともな人物か、わかるのではないのだろうか。偏見と先入観で他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられないようにならなければならない。・・若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手を取り合って生きていくことを学んでいただきたい。 要するに、ワイツゼッカー氏が敗戦後40年の記念演説で述べられたことが、世界が平和であり続ける道なのである。
カロリーネ氏の「教祖」である芦田均の「民衆の為に」でも、私がコメント187・188で引用した「国民のため」でも、結局は何が民衆・国民のためになる政治なのかが主観的な判断に左右されることになりかねません。「実体的民主主義」概念を使うのであれば、その意味内容を明確化した上で慎重に使う必要があります。しかし、カロリーネ氏には、その自覚がないようであり、カロリーネ氏は自らの政治的主張を基準に「民主主義」概念を誤用的に濫用し、「トランプ政権下の米国は民主主義国家ではない。」と断定しているのです。
なお、「同じ貴族院議員であった宮澤俊義氏、その流れをくむ樋口陽一氏などの東大系憲法学者が「被支配者」、「反権力者」を「民衆」と定義」したという典拠が不明ですが、東北大学法学部出身の樋口陽一東京大学名誉教授は、東京大学法学部教授であった宮沢俊義の「流れをくむ」というよりも、東北大学法学部教授であった清宮四郎(宮沢俊義と同様に美濃部達吉の弟子)の弟子なので、宮沢との共通点としては美濃部達吉の「流れをくむ」になるかと思います。
ゲルゼンの主張は、シュミットのあれか、これか、言い換えるなら自分の弁論術を駆使して、相手の人格を誹謗中傷して、自分の主張を押し通そうとすることではなくて、相手の立場も考慮し、妥協して、合意できる妥協案を一緒に作り上げて行くプロセスが民主政治に必要なもの、と主張しているのであって、それがあるからこそ、内容が、民衆による、民衆の為のものになるのである。裁判の勝者、敗者が決まる裁定とは、異質なものである。だからこそ、トランプ氏の高額の弁護士を雇って、裁判で勝つことを通じて自分の主張を通そうとする手法は民主政治ではない、と主張しているのである。
言論のプロが、長期間に渡って他人様のブログのコメント欄で粘着して、他者にからみつくというケースはあまり想像できませんね。「扇のかなめ的な学問・哲学の基礎知識」があっても社会常識がなければ多くの社会人を納得させる文章など書けるわけがないのです。また、知識を縦横無尽に駆使し、多くの大人を納得させることができるなら、すでに地に足の着いた作家になっているでしょう。(コロナについては膨大なニュースが流れているのだから、比較評価してどれが正しそうかは暇な時間があればだれでもできることです)
私にとっては、何か特定分野の専門知識については他にひけをとらないという専門バカが素人や社会人を過剰に見くだすという本当によく見られるありふれた光景です。本当に自信がある専門家は丁寧に指摘するか、指摘してもしょうがないとわかったら、そんなの相手にしません。見世物にして集団リンチなどするのは何か屈折しているからでしょう。
左翼が非常に浸透した分野を概念的に3つに分けると「平和(安全保障)」「歴史」「人権」に区分できると考えられます。最後の人権については、先進国のリベラルとそれほど異ならないように見えます。(あるいは印象操作しています。真正のリベラルであるかのように左翼が偽装しています)
最初の「平和(安全保障)」「歴史」が、特に日本の左翼が他先進国のリベラルと決定的に違うところです。(これによって最後の「人権」概念も歪曲されます)
「平和(安全保障)」「歴史」のうち、先頭の平和または国際平和の分野で篠田教授が闘っておられます。権謀術数に長けた戦後日本の左翼は、この2分野について巧妙に学術界やメディアから他勢力を排除しました。だから、先頭の「平和」に関連する憲法に関して、日本国憲法専門以外の篠田教授が外部から批判するまで、ほぼ内部的な純血主義が保たれていたのです。
次の「歴史」も本来は「正確な史料を選別し正しい解釈に基づきながらも、民族間の和解と合意をめざすと同時に各民族プライドもそれなりに守る」というのが適正な位置づけあるいは常識的な目的でしょうが、日本の左翼によって、その一部の「日本をひたすら貶める」ことだけが自己目的化し、さらには政治目的化しました。
なぜ、日本の極左は、この「平和(安全保障)」と「歴史(認識)」に狙いを定めたか、それは究極のところ、左翼はマルクス主義イデオロギーで荒廃し、未来志向の建設的議論ができないので、過去の史実解釈や憲法解釈にしがみつくことでしか、日本のオピニオンリーダーの座を守るどころか、職業的にも生き残れなかったからです。この大局観を、できるだけ多くの日本国民が共有する必要があります。そして、なぜ公正で高度な議論がなされずに、いつも議論が歪曲され、印象操作の天才であるマスコミが一躍脚光をあびたか振り返る必要があると認識しています。このような大局観にもとづいて議論しないと左翼による些末な議論の消耗戦に巻き込まれるだけなのです。
それと、最近の学術会議問題とだぶって思うのは、「お前は何様のつもりか」ということである。人文社会系の学術会議は過去に何を提言したか。日米安保も自衛隊活動もことごとく妨害したりして、ろくな実績がない(自然科学系は別である)。そのくせ権威を欲しがる。高齢者は学術会議の歴史を知らないので何も考えないが、若い世代の間では「お前たちは何様のつもりだ、ばかやろー」である。「なぜ訳のわからない左翼による国政妨害の活動費を国民の血税から出さなければならないの」かというのはボンクラでなければ誰でも気づくことである。
だが、ときに失敗もありました。最大の失敗は、(いろいろな議論がありますが)米国の権威を著しく失墜したベトナム戦争だと考えています。日本もこれにより基地を部分的に提供したことで、日本の左翼は大勢力となりました。
現代は、中国共産圏がどうなるかという非常に不透明な状態と対峙しています。バイデンも苦悩するに違いありません。戦後をふりかえれば米国のリーダーシップを抜きにして冷戦時代を考えられないので、日本人が米国を批判するにも、それら歴史を大局的に見て批評する必要があります。
私の子供のころ、「吉田茂が日本の軍備を拒否したから憲法9条がその後も日本を呪縛した。吉田茂の呪いだ」という議論が一部の論壇で話題になっていた。それにだまされそうになっていたが、高坂正堯の吉田茂に関する伝記を読んで見方が変わった。アデナウアーと吉田茂の比較にも興味をもちはじめたのはその頃からだった。高坂正堯が成熟していたのは父親からの学問的遺産もあるだろが、吉田茂を徹底的に分析したことにより高坂氏の人間観に一層の厚みや深みが加わったためと想像した。
もう一点大きな要素がある。アデナウアーのドイツはソ連など東側諸国に対する防衛ラインであることがすぐ察知されたから、ドイツ人と協調的な関係を構築しなければならなかった。日本では、日本を共産圏の防衛ラインにするという発想がすぐ出てこなかったので(それより日本民主化の夢想のほうが優先した)、日本はGHQリベラルにより極左(にわか転向も含めて)が大量に社会の言論や教育の主要ポストに抜擢された。また、日本の極左は西洋に劣等感が強かったので(ドイツ人左翼は逆に英米に優越感)、GHQリベラルの評価を得て巧妙にそれら分野における権力も得た(というか継承した)。
以前は憲法改正がその焦点だったが、若い世代は関心をなくしつつあり、その代わりに立ち上がっているのが、あえて書けば「権力の分散化」だ。その感情が、たとえば学術会議やNHKを民営化したり解体しろという声となって表出している。これは、方向性としては非常に正しい。メディアなどに左翼の権力が集中しているため、そこで議論が毎度歪曲される。メディアや左翼の権力集中化が排除されたら、そこでやっと公正な議論が可能になり、政治の問題や憲法問題なども一方的立場でなく多面的な意見が集まって真摯に議論されるようになる。
その道筋をつけることで戦後のパラダイムが克服されるのだと思う。その際に、篠田教授の議論の仕方は、国際感覚をもった日本人として、どのように議論を行うべきかについて非常に良い模範となっていると昨今感じる。
私が新正幸・憲法訴訟論(第2版)278頁から引用したコメント187の「しかし、民主主義はどこまでも「統治の方法または形式」(by the people)を意味する概念と捉えられなければならない。」という一文ですが、引用の便宜上、文末の注である「(2)」は引用しませんでしたが、その一文への注として「(2) ケルゼン・デモクラシーの本質と価値123頁以下、同・民主政治の真偽を分つもの8頁以下[ハンス・ケルゼン著作集Ⅰ 154頁以下]参照。」と記載されています(注は新正幸・憲法訴訟論(第2版)279頁の下欄の(2))。原典までは手元にないので確認していませんが、表現形式上、ケルゼンの著作にある言葉を引用しているようなので、ケルゼンも、「民主主義」は「統治の方法または形式」(by the people)を意味する概念と捉え、「国民のため」(for the people)を含めるカロリーネ氏の「教祖」である芦田均のような見解には批判的であり、カロリーネ氏はケルゼンの主張内容を誤解して主張している可能性が高いようです。
なお、「民衆」(コメント204参照)に関する樋口陽一・東京大学名誉教授の見解については、原典の「個人と国家 ―今なぜ立憲主義か (集英社新書)」を本来は確認する必要がありますが、以下のブログ記事を見る限りは、「民衆」は「君主」以外の者であり、現在の日本において「君主」に相当するのは天皇なので、「民衆」は天皇(但し、皇族も天皇に準じ選挙権・被選挙権がないと解されているため、天皇に準じて考える必要があるかもしれません。)を除く「主権の存する日本国民」(日本国憲法1条)を指すと思われ、カロリーネ氏と同様に「民衆といった場合、企業の経営者も、金持ちもその中に含まれる。」という見解になりそうです。
https://hatohebi36.hatenablog.com/entry/20150808/1439040059
コメント222で説明したとおり、コメント187の「しかし、民主主義はどこまでも「統治の方法または形式」(by the people)を意味する概念と捉えられなければならない。」は、新正幸名誉教授の著作からの引用ですが、原典は未確認ですが、表現形式上は、新正幸名誉教授の「解釈」ではなくハンス・ケルゼンの著作からの引用部分と思われます(ケルゼンの主張なのか疑問があるのであれば、ケルゼン信奉者でもあるカロリーネ氏であれば原典を容易に確認可能と思われます。)。
カロリーネ氏は、コメント211に限らず、「民主主義」については公法学者・国際法学者であるケルゼンの議論を挙げることが多いことから(その意味で、コメント223の「学者は、あくまでも学問をする者なのであって、真理に到達した者ではない。」というカロリーネ氏の主張と整合性があるか甚だ疑問です。)、注の部分も含めコメント222で補足説明をした次第です。
なお、私の知る限り、ケルゼンは、公職としてオーストリア憲法裁判所の終身判事の経歴(但し1929年に罷免。ケルゼン・純粋法学(第2版)奥付の著者略歴参照)はあったものの、「政治家」(コメント223参照)ではなかったように思います。
私は芦田均を嘲笑しているというよりも、芦田均の憲法解釈論が役にたつと狂信しているカロリーネ氏に対して疑問を呈しているのです。
憲法解釈が示された最高裁判例についての最高裁調査官解説(最高裁判例集(民集・刑集)に掲載判例についての最高裁調査官解説は、一般財団法人法曹会から、雑誌「法曹時報」に掲載後に「最高裁調査官解説」として年度毎に出版されています。)を見る限り、憲法訴訟論(違憲審査基準論等)の第一人者である芦部信喜の憲法解釈論(憲法訴訟論に関する代表作としては、「憲法訴訟の理論」、「現代人権論」、「憲法訴訟の現代的展開」の三部作が有名。なお、岩波書店の「憲法」は司法試験受験生にも読まれているようですが、放送大学向けのテキストがベースなので、本格的な解釈論については別の著作等で補う必要があるかもしれません。)が参照されることはあっても、芦田均の憲法解釈論が参照されることは全くありません。
芦田均の憲法解釈が示されている「新憲法解釈」(ダイヤモンド社、昭和21年)は、参考資料として掲載されている「明治憲法」を除けば、91頁にも満たないものです。このような極めて薄い憲法解釈論が、争いのある憲法解釈について最終審の最高裁で判断する上で参考になろうはずがありません。幸か不幸か、著作権保護期間を経過しており国立国会図書館のインターネット公開されているので、興味のある方は下記で御覧ください。カロリーネ氏が信奉する憲法解釈論が如何に薄っぺらいものなのかが一目瞭然となります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1045378
そして、「だれもが自分の知ったと信ずることを伝えなければならないと信じる。これほど愚かなことはない。」(„Das Närrischste ist, daß jeder glaubt, überliefern zu müssen, was man gewußt zu haben glaubt.“)とも。
そして、「全体の中にしか一般を求め得ないのに、反射的にすぐ個別から一般へ進むのが、頭の弱い人間の犯す過ちである。」(„Der Fehler schwacher Geister ist, daß sie im Reflektieren sogleich vom Einzelnen ins Allgemeine gehen, anstatt daß man nur in der Gesamtheit das Allgemeine suchen kann.“)ということを、悧巧なこの男は当然見抜いている。
いずれも、ただの「老婆の他愛もないおしゃべり」(ὁ γραῶν ὕθλος)の域を出ない愚劣な「クズ」投稿に躍起になっている偏執狂の老婆のためにあるような箴言だ。ドイツ語だから、ラ・ロシュフコーのような鮮やかな切れ味はないが、それも「ドイツ狂い」(Γερμνανία μανία)の老婆には相応しかろう。漢籍など読めもしないだろうから、この方が打ってつけだ。
最初のものは、無学な割にはその自覚が全くない老婆をそのまま示し、二番目はよく知らないことに何でも嘴を突っ込み、結局お子様論議以上のものとならないその憐むべき知性の程度、阿呆ほど饒舌なのを示し、最後は個別事例を挙げた枚挙(ἀπολογίζεσθαι)だけでは、論証としては不充分なのを認識し得ない莫迦さ加減を示す。
文豪の名はゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)である。老婆がその憐むべき半可通(ἡμιπόνηρος)ぶりをものともせず(ἀναισχύντως)、その名を喋喋し、しきりに『ファウスト』などを挙げてはみるものの、その全体像を知らない、碌に引用もできない相手だ。
実際、老婆は心酔するドイツ最大の文豪、この多面的な人物について、肝腎なことを何も知らない。一部を除いて、あまり読んだことがないのだろう。
ゲーテは同胞、つまりドイツ人について容赦ない観察を残す。「正義はドイツ人の特性であり、幻影である」(„Gerechtigkeit: Eingenschaft und Phantom der Deutschen.“,: ibid., 167, S. 386)といい、198末尾で引いたように、「イギリス人は曇りない良識と善意、フランス人は才気豊かな思慮と手際良い実行とによって、私たちに恥ずかしい思いをさせる。」(„Die Engländer werden uns beschämen durch reinen Menschenverstand und guten Willen, die Franzosen durch geistreiche Umsicht und praktische Ausführung“,: ibid., 171, S. 387)と突き放す。同胞の弱点、欠陥をよく見抜いている。
そうした観点から昨日来の政府解釈氏とのやり取りを眺めていると、もう一人の矯激なメディア批判の同志の口真似で、178⇒【ほんとうに、些末な議論に討論を誘導し、議論をかく乱する名人】と称し、204⇒【コメント187と188…一知半解な「民主主義」概念の理解をしているのは、どちらなのか】とする戯けた反論の真似ごとを繰り返すが、蜘蛛の巣だらけのお頭の老婆以外は、政府解釈氏の理にかなった説明に誘導され、混乱させられる低能など読者など、老婆を除いては皆無に近いだろう。
お子様政治論以外に何もない老婆が、「民主主義の概念」とは随分大きく出たものだ、老婆に概念的な思考など皆無だ。
Gくんのように、もう爽やかには綴れないなあ。
ブログの初期のころは、篠田さんもコメントに返信してくれたのにね。。。
それにしても、老婆は怠惰極まる外道だから、【些末な議論に討論を誘導し、議論をかく乱する名人…現実社会にとって大切なのか、を理解することを妨げる名人】の68字分を、コピペして使い回している。そして、【些末な議論に討論を誘導し、議論をかく乱する】の部分は、そのまた同志の154(⇒【…(自分の思想を表明せずに、)些末な議論に討論を誘導し、議論をかく乱(しにやってくる左翼くずれ)…】)のコピペで、どこまで横着なのだろうと呆れる。
それもまた、取るに足らない(φλαῦρος)凡庸な(μέτριος)な人間同士の一種のエール交換、‘L’âne frotte l’âne’(「驢馬が驢馬を擦る」)、つまり「莫迦が莫迦にお世辞を言う」というフランス語の辛辣な表現、ラテン語なら、‘asinus asinum fricat’というように、自らの凡庸さに気づかない人間同士がもたれあって、互いにお追従(ἀρέσκεια)を言い合ってもたれ合っているさまを髣髴とさせる。
そうこうするうち、忠告を無視して錯乱している老婆がよほど気になるのだろう、間欠泉(σπάνιος θέρμαι)の如き相も変わらぬ陳腐で退屈かつ粗雑な左翼、メディア批判を、「チンピラ」(βλαβερός)が源泉かけかけ流し宜よろしく9件も吹き上げる。
自分で言うんだから間違いないだろう。
僻み(ζηλοτυπία)というか、左翼やリベラル派を含め世のエリート層とされる人々、支配層への妬み深い(φθονερός)屈折した思いが相当重症なようで、怨念に満ちた激情がほとばしる文章と行論は、どこをどう装っても人間性が透けて見える。
世間知らずの過激で鬱屈した思いを抱えたタイプによくある臭気が漂う。
政治学者のS. M. リプセットが“Political Man”(1960年、邦訳は『政治の中の人間』)で、現代においていかに民主主義を機能させるかという課題に向き合うなかで、それを妨げる多様な要素を分析し、過激主義運動に関して言及した箇所で「不満をもった者や心理的に家庭をもたない者、人間としての失敗者、社会的に孤立している者、経済的に不安定な者、教育のない者、理論をもたない者、及び社会のあらゆる地位の権威主義者」(邦訳194頁)としているのと共通する、鬱勃とした焦慮、暗い情念が窺える。
随分以前(2018年8月9日~ 「池田信夫『丸山眞男と戦後日本の国体』を読んで」)、丸山眞男による戦前型日本のファシズム分析について、猛烈な反感を窺わせる文章を書いていた。小田実についても悪態をついていた。
2018年8月14日・50⇒【戦後日本は、まともな日本人の大部分は日本を復興させるためにビジネスや官僚や科学技術、商工業、金融、市井の職人の世界…実際の社会を豊かにする技能…すぐれた人間性をもった人物はそちらにむかったので、文系学問や評論の世界は二流、三流の人間の寄り合い所】▼同・51⇒【小田実のような左翼は一色に染まったメディアによって英雄にまつりあげられていた。口を開けば、日本を罵倒し、どす黒い怨念を発散することが習い性……丸山真男の抽象的で、どこかきどった鬱陶しい文体も、朝日新聞記者である父親ゆずりのものだったのかもしれない】▼同・52⇒【「テクスト」とかしゃれた言葉を使うだけが取り柄で、文献を暗記しているだけで、本当に論理的な思考や推論の前にはひとたまりもない】――といった調子だ。
「どす黒い怨念を発散」という点では、矯激な「間欠泉」氏も同類だろう。
それにしても、自らの凡庸さを棚に上げて、ご大層なもの言いだ。世間には意外と珍しくない、ありふれたタイプで、要するに精神の田舎者(ἄγροικος τῆς ψυχῆς)。勝手吠えればいい。莫迦丸出しというのは、この種のタイプを言う。「類は友を呼ぶ」(ὅμοιον ὁμοίῳ ἀεὶ πελάζει)というが、老婆とは同類(συγγενής)なのだろう。サンスクリットで[kalāpa]という。「間欠泉」に乗じて、もう一匹のこのこ這い出てきた(232)。
ついでに、以上に続いて、老婆が同じ日に、53⇒【反時流的古典学徒様 吉川幸次郎さんのこと、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。実は、吉川幸次郎さんは、私の卒業した高校の校歌の作詞をされた方なのです】――何のかんの言っても、老婆は元お嬢様だ。「様」なる呼称を進呈されたこともあったのだ。
脱線した。ゲーテに戻る。
「分別のある思慮深い人びとが老年になって学問を軽んずるならば、それは学問に対し、自分に対して要求が多すぎるからにほかならない。」(„Wenn verständige sinnige Personen im Alter die Wissenschaft gering schätzen, so kommt es nur daher, daß sie von ihr und von sich zuviel gefordert haben.“: ibid., 406, S. 420)、「学問において、例外に惑わされず、問題点を尊重することを心得てさえいれば、ただちに多くのことが確実となる。」(„In den Wissenschaften ist viel Gewisses, sobald man sich von den Ausnahmen nicht irremachen laßt und die Probleme zu ehren weiß.“: ibid., 412, S. 421)。
つまり、ゲーテは単純な経験論者(ἐμπειρικός)などではない。
それを最も端的に示すのが、「概念は経験の総計であり、理念は経験の結果である。総計を出すには悟性が、結果を把握するには理性が必要とされる。」(„Begriff ist Summe, Idee Resultat, der Erfahrung; jene zu ziehen, wird Verstand, dieses zu erfassen, Vernunft erfordert.“,: ibid., 537, S. 438)だ。
ところで、学問はおろか、初歩的な概念的思考に向かない人間がいる。それを妨げる要素はいろいろ挙げれれようが、生来の気質に加え怠惰で性急なのも禁物で、偏狭な信念のもち主というのもそれに当たる。ゲーテの観察は辛辣だ。
「どういう仕事をやらせるにも、生来力不足の人間がいる。しかも性急と己惚れとは、どんなに能力のある人をも力不足にし、いっさいの働きを停滞させ、自由な進歩を麻痺させる危険な悪霊である。これは俗世間的なことについても言えることなのだが、学問についても特にそういうことが言える。」(„Es gibt wohl zu diesem oder jenem Geschäft von Natur unzulängliche Menschen; Übereilung und Dünkel jedoch sind gefährliche Dämonen, die den Fähingsten unzulänglich machen, alle Wirkung zum Stocken bringen, freie Fortschritte lähmen. Dies gilt von weltlichen Dingen, besonders auch von Wissenschaften.“,: ibid., 430, S. 424)
「方法のない内容は夢想に、内容のない方法は空しい屁理屈に導き、形式のない素材は厄介な知識に、素材のない形式は虚ろな妄想に導く。」(„Gehalt ohne Methode führt zur Schwärmerei; Methode ohne Gehalt zum leeren Klügeln; Stoff ohne Form zum beschwerlichen Wissen, Form ohne Stoff zu einem hohlen Wähnen.“,: ibid., 435, S. 425)所以だ。
しかし、ゲーテは一方で「顕微鏡と望遠鏡は、ほんとうのところ、純粋な人間感覚を掻き乱す。」(„Mikroskope und Fernröhre verwirren eigentlich den reinen Menschensinn.“,: ibid., 469, S. 430)という汎神論者にして素朴実在論者だ。だから、地動説にも否定的だ。
「現象のうちにある理念を承認してしかるべきときに私たちを大いに惑わせるのは、その理念がしばしば、そして通常感覚と相容れないことである。コペルニクスの体系の基になっている理念は把握に困難なものであったし、今もなお毎日、私たちの感覚とは相容れない。私たちは認識も理解もできないことをただ口真似して言うだけである。」(„Was uns so sehr irremacht, wenn wir die Idee in der Erscheinung anerkennen sollen, ist, daß sie oft und gewöhnlich den Sinnen widerspricht. Das Kopernikanische System beruht auf einer Idee, die schwer zu fassen war und noch täglich unsern Sinnen widerspricht. Wir sagen nur nach, was wir nicht erkennen noch begreifen. Die Metamorphose der Pflanzen widerspricht gleichfalls unsren Sinnen.“,: ibid., 536, S. 438)
ニュートンの光粒子説についても『色彩論』(‘‘Zur Farbenlehre’’, 1810)で無謀ともみえる反抗をしたゲーテの誤謬は明らかだ。
「数学者のニュートンは大層名声が高いために、彼の極めて拙劣な誤謬、すなわち、明るく、純粋で永遠に濁らない光がいくつかの暗い光で合成されているというような今日に至るまで命脈を保っている。」(引用続く)
ゲーテは数学について無知なわけではない。「数学だけが確実なものだという話を聞くが、数学は他のどの知識や行為よりも確実だというわけではない。数学が確実なのは、数学が賢明にも、確実につかむことができるものだけを、そしてそれを確実につかむことができる範囲でのみ扱う場合である。」(„Man hört, nur die Mathematik sei gewiß; sie ist es nicht mehr als jedes andere Wissen und Tun. Sie ist gewiß, wenn sie sich klüglich nur mit Dingen abgibt, über die man gewiß werden und insofern man darüber gewiß werden kann.“,: ibid., 638, S. 453)のような、一見してもっともな見方を示す。
しかしそれは、憐むべき素人論議にすぎない。哲学でも同様だ。なぜなら、「数学者は、私たちが神と呼ぶもっとも測りがたい存在までも、同時に把握できるものと思い込み、そのために神の特殊な、あるいは卓越した存在を放棄するように見えるからである」(„indem er(Mathematiker) ja das Unmeßbarste, welches wir Gott nennen, zugleich mitzuerfassen glaubt und daher dessen besonderes oder vorzügliches Dasein aufzugeben scheint.“,: ibid., 641, S. 454)――汎神論的な神秘主義者であったゲーテは、所詮は文士である。[完]
☆余白に ぐだぐだ宣っている「過去の亡霊」のような連中(232の同類)は、この際だから、挙って復帰するとよい。
偏執狂の老婆は、「いじめられている」(ἀδικέομαι)とか戯けたことを宣っていたが、リンチ(ἡ αἰκία=虐待)とは穏やかではない。お頭に血が上って日本語の真っ当な用法が覚束ないのだろう。
しかも「集団」ときた。となると当然一人ではないだろうから、人聞きが悪い言辞の「複数の対象者」が存在することになる。老婆との応酬なら、本日の政府解釈氏を含め、最近だと「通りすがりの老人」氏、村雀氏、コロナ論議に限って日下部眞一氏がすぐ思い浮かぶが、いずれも自制心を発揮して我慢強く付き合っており、錯乱して悪罵を投げつけるのは老婆の側だ。
過去に遡れは十指では足りない。すべて老婆が蒔いた種で、それぞれ老婆の莫迦話は疾うに承知だ。問題は、相手に非を鳴らすだけで、一向に真っ当な応対も反省もない老婆の責任で、謂わば身から出たさび、因果応報だ。
みな一廉の紳士だから、チンピラの相手をするような酔狂はあるまいが、言葉には気をつけた方がいい。何せ、貴殿が甘やかすから事態が一層悪化したことは、「盲目の目にも明らか」(φαίνεται καὶ τυφλῷ)だ。
それでも老婆にお節介を焼くのは、齢70近い婆さんを憐れむというより、貴殿のような臭気が希薄だからだろう。
„Le sens common est le Génie de l’humanité.“(J. W. von Goethe, „Maximen und Reflexionen“, 579)
「旧会社員さんのコメント217、。最大の失敗は、米国の権威を著しく失墜したベトナム戦争だと考えています。・・・。私も日本しか知らない時は、ベトナムの無辜の民を傷つけた、ベトナムの民衆を爆撃した米国が悪い、と単純に考えていた。日本のマスコミがそう報道したからである」
ベトナム戦争の時代はもっと研究されるべきと感じます。米国のリベラルは民主党政権の時代にベトナム戦争が始まったとあって端切れが悪く、共和党系の保守派もみずから米国をおとしめたくないので慎重で、当のベトナムも被害者意識を誇張せず逆に社会主義政権下で英雄神話にすりかえているので消極的です。
日本においても、べ平連というソ連など共産圏につながっていた左翼が大活躍し、当時の与党も米国戦略に突き合わされて糾弾されていた時代とあって暗いムードが漂っていますが、日本の左翼が大きく戦略を変えた時代でもあります。あの時代に、日本の言論空間の論調が大きく変わっています。篠田教授の著作においてもベトナム戦争の時代は沖縄基地問題と絡んで特筆する時代として取り扱われていた印象もあります。
「【見世物にして集団リンチなどするのは何か屈折】とは、意想外だ。・・ しかも「集団」ときた。と」
はい、どんぴしゃり。やはり元マスコミ関係者の感覚ですね。集団リンチをしていても、まったく集団リンチをしている感覚がないのが、大衆マスコミの典型です。
他者に対して見せしめ的に「偏執狂の老婆」などと罵倒する、他者が攻撃に便乗してくれば面白がる、他者をあおって、要は吊るし上げこそが集団リンチです。
それで、元々あまりヒステリックでなかったカロリーネさんが、なぜか躍起になって表現も硬化し、ヒステリックになっていったことに驚きました。
いや、カロリーネさんも反氏も立派な社会人ではありましょう。反氏が最愛の奥様を亡くされたときにカロリーネさんは停戦し丁重にお悔やみを述べられ、反氏もお礼を述べ、停戦合意が成立しました、たしか数時間くらいは・・。
でもなんというか互いに相性がよくないのかもしれません。私もぶっきらぼうに書きちらかして場を乱しましたが、もともと篠田教授のご回答やコメントへの要望や期待はゼロでした。万が一、質問に対して迂闊なコメントを返すと、著作以外に攻撃のネタとして使われることもありますので。思想的質問への回答は校正や自己チェックのゆきとどいた著作で返すのがおそらく最良でしょう。気軽な匿名コメント者とは背負っているものが桁違いに違います。
それは当たっている。たしかに表現が過激すぎた。
しかし、反氏と「偽善マスコミ」の筆致や手法はなんと似ていることだろうか。なにか著名作家や歴史的人文家の文章をすぐに引用して、自己を大きく見せたがる。とにかく引用が多い。朝日新聞なども、いきなり「長谷川如是閑がかくしかじか」と引用を発射するが、引用部分を消し去ると内容があまり無い。しょうもない社会的愚痴を名文にかこつけて、もっともらしく見せたい動機が働いているのか。それで、堅実な庶民は、さすが朝日新聞記者先生は頭の倉庫のストックが違うと変なことで感心する。このテクニックは、多くの新聞記者の性癖だろう。ちなみに、私が目から鱗が落ちた新聞記者といえば、朝日新聞を退社すると同時に「新聞を疑え」を書いた百目鬼恭三郎などを思い出す。いままでよくわからず、ごまかされていたことが実に明快に書かれていた。とっくに手元にないが、引用部分も最小限にして簡潔だったという記憶がある。朝日新聞記者も大学入試問題に採用されるのを楽しみにしているので文法的チェックや語用ミスはたしかに無いが、内容は引用を除外したらスカスカだらけ。
ゲーテの言葉はなかなか良い。単純だが味わい深い。
「人間の最大の罪は不機嫌である」
どうも(お爺さんだが)ゲゲゲの鬼太郎の砂かけ婆あのように、重石をぶらさげて、どっかりと取りついてやろう、あちこちを掘り探してやろうと、ここにたどり着いてきたという匂いを感じる。そのついでに、元マスコミ関係者としての自己顕示欲と知識ストックをあますところなく放出しようとしている印象だ。ギリシャ語の濫用は認知症対策か。
いや、私の妄想であれば良いのだが。過去にもこういうケースがあった。中立的観測者の立場を装って、論破のタネをしかけるが、実は罠である。そして失言やミスなどを引き出したら、他所で勝ち誇ってあげつらい嘲笑する。まず、まず末端のファンや参加者をダシにして制覇したら、より上位の参加者に罠をしかけて、最後はネット掲示板の管理者やホスト論客グループを罠にかけようとする。順番にしかけてくる。それを目的としているので、それに関係ない質問がきても無視する。自己の思想遍歴などを公表しない。非常にこみ入った政治論争や歴史認識論争のブログではこんな感じでかつてスパイ合戦が横行した。今もそんな物好きで暇な連中がいるかどうかは、もはや全く興味ないので知らないが。学者や記者の層もいた。ただし、現在はそのような連中に左右されるほどネットもヤワな構造ではなくなっている。
241⇒【はい、どんぴしゃり。やはり元マスコミ関係者の感覚】――如何にも早とちりな「精神の田舎者」らしい独り決めだ。何が「どんぴしゃり」か知れたものではないが、勝手に自得している。まるで自瀆。どの程度の単細胞か透けて見える。人が皆貴殿と同程度だと勘違いするから焦慮(μανία)が生まれる。
大学生の娘をもつ割には、修養が足りない。
241②⇒【元々あまりヒステリックでなかったカロリーネさんが、なぜか躍起になって表現も硬化】――何も分かっていないで、少なくとも充分確認しないで、よくもまあ駄文を書き散らすものだ。
偏執狂の老婆が態度を硬化させた端緒や原因は、主に以下の三点。
①老婆の事実誤認、誤記、論点ずらしを証拠物件としてまとめ、⇒《さて、以下にカロリーネ説の指摘されざる過去の誤り、謹んで纏めてご指摘申し上げます。よくもまあ、これまで放置されてきたもので、一種の奇観》として、ほんの一部をまとめて列挙したこと(2018年7月14日・74~76)
②老婆の心酔するRichard von Weizsäcker元西独連邦大統領の戦後40周年演説を偽善と欺瞞の政治的構築物と批判し、道徳で言えばパリサイ(Φαρισαῖος)的偽善(ἡ ὑπόκρισις)であり、心理的には道徳以前の感傷(φῖλοικτίρμων=sentimentalité)にとどまっているとしたこと
③パリ講和講和会議の舞台裏を活写したケインズの『平和の経済的帰結』(“The economic consequences of the Piece”, 1919)におけるフランス主席全権、クレマンソー(Georges Eugène Benjamin Clemenseau)首相の対独講和観の一端を示すケインズの観察に老婆が驚愕して、引用自体を敵視した
「まず第一に、彼はドイツ人の心理について、次のような見解を真っ先に信奉している人であった。」(引用続く)
老婆本人もその旨の主張を繰り返しており、後は自分で確認することだ。
とにかく、いかなる因縁か、老婆とは行きがかりがある。何事も中途半端はいけないから、無事に往生するのを見届けるのも当事者の務めなのだろう。別に言論上のことで、虐殺(τὸ πρόσφαγμα)するわけではない。絶滅に等しいくらい、完膚なきまでに葬り去るだけのことだ。既に、事実上の決着はついているが。
そういう礼節もある。
241③⇒【反氏が最愛の奥様を亡くされたときにカロリーネさんは停戦し丁重にお悔やみを述べられ、反氏もお礼を述べ、停戦合意が成立】――通常の儀礼的なやり取りで、「停戦合意」でもなんでもない。貴殿の早とちりにすぎない。「惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり」)と『孟子』(公孫丑上)にも言うではないか。
242⇒【著名作家や歴史的人文家の文章をすぐに引用して、自己を大きく見せたがる】――それは貴殿の感覚であり、認識の地平に伴う評価の違いであって、私には何の関係もない。私は貴殿程度の駄文を書いて自得するほどものを知らないわけでも、軽躁でもないし、64歳にもなれば独自のスタイルが確立する。私は奴隷道徳は好まない。
何より古典学徒で、外国語の判読には不自由しないからそうしている。一般向けの新聞記事を書いているわけでもなく、しかも退職してから17年半になる。
242②⇒【「どす黒い怨念を発散」という点では、矯激な「間欠泉」氏も同類だろう」それは当たっている。たしかに表現が過激すぎた】――だったら最初から書かなければよい。コンスタントに安定してではなく、時折堰を切ったかのように噴出するから、しかも激情的な文章なので、「間欠泉」と命名した。
244のような妄想にお相手しかねる。[完]
„Der Philosoph ist nicht Bürger einer Denkgemeinde. Das ist, was ihm zu Philosophen macht.“’; L. Wittgenstein, „Zettel“, Frag. 455: Schriften, Bd. 5, S. 380.
そういう面から考えて、韓国のムンジェイン大統領の「親日派」排除、植民地時代に日本に協力したという理由で、その芸術家の作品を展示品からはずす、という政策は、「慰安婦像」を世界中の主要都市への設置しようとする試みと同様、言語道断、に私は写る。日本、日本人は信頼できない、という偏見を韓国人や外国人に煽って、日本の外国との国際関係を悪化させる意図、としか私には思えなのである。
(参考 民主主義の本質と価値、ハンス・ケルゼン著、岩波文庫、
「荒れ野の40年」 ワイツゼッカー連邦大統領演説全文
(1985 年 5 月 8 日)http://www.nenkinsha-u.org/04-youkyuundou/pdf/deu_weizsacker1502.pdf)
【日本人はAI以上に賢く学習する❢❢❢】
【交通事故死よりも少ない死者数のコロナに日本経済を自滅できるか❢❢❢ 専門医のアホ❢❢❢】
慌てふためく専門医たちをテレビで見ていて、いやになって書き込む元気が湧いてこなくなったのであるが、もう最後にしようかなとも、
日本経済をつぶすのは、医者たち、特に感染症専門医たちかもしれない。
個々の症例にあたっておれば、大変な病気であろう。
だから、感染症専門医たちは研究のネタができて結構なことだろう。
あげくのはては、❝自分の健康は自分で守ってください❞だとか。
バカも休み休みに言ってくれ❢❢❢ だよね。
個々の症例がどれほどひどくても、
問題なのは、それが日本人集団の中でどれくらいの頻度で起きるかだ。
致死率は最初の0.03から、PCR検査爆発によって半分の0.016にまで下がった。
死者数は❝一山1000人❞である。来年の3月まであと一山なら、
❝死者総数3000人❞である。
年間交通事故死3200人より少ない、コロナ死になぜ日本経済を死滅させる。
事故死を気にして、日本人全員が車をどこに止めているか❢❢❢
医者、感染症専門医たちは、大バカであることがこれで立証されるのである。
【社会を止めずに❢❢❢ 社会文化経済活動に励もう❢❢❢】
とにかく、いかなる因縁か、老婆とは行きがかりがある。何事も中途半端はいけないから、無事に往生するのを見届けるのも当事者の務めなのだろう。別に言論上のことで、虐殺するわけではない。絶滅に等しいくらい、完膚なきまでに葬り去るだけのことだ。既に、事実上の決着はついているが。
つまり、反氏はシュミット流の敵味方を分けて、議論に勝つことだけに主眼があり、視野を広げ一緒に作り上げていく、みんなで作り上げていく、という姿勢が全くないのである。それは、私が国立付属時代に教わった民主主義の真理の追究のプロセスとは違う。要するに、独善的なのである。
マスコミに出て来る感染症の専門家は、日下部教授の主張されるように日本経済のことをまるで考えない。理解しようとしない。それに比べて、尾身茂教授の、コロナ分科会に経済の専門家を入れるべきだ、という主張が、いかに民主的なものか。ただ、その人選が、PCR検査至上主義の小林慶一郎氏であり、その肩書の権威でテレビに出演され続けた点が誤算であったが。
Gは、156の最後のところで、人は”感情”レベルでは差はない< と書きました。説明に説得力がなければ(あれば大歓迎です・あれば上記のような異論は出ないはずです)、旧会社員さんけんさんなどなど異論が出ている以上、学問(文献引用のこと)を混ぜるのは逆効果になっている!と思うんですよね。
なぜなら、文献を引くといきなり引用句が出てくる、そればかりでは難解でわかりにくくなってしまいます(Gは何回も後半”難解”だといっているw)。また、自己に都合のよい部分だけを(故意ではないにせよ)つまみ食い(チェリーピッキング)して利用している結果にもなります。でも、この”手法”を封印してしまうと反さんの個性がなくなってしまうんですよね。しかし、このサイトのコメ欄は、管理人篠田教授のお家の”庭”です。地主の用途制限(篠田教授の意思を勝手に推測しますが、たぶん外れていないw)には服さねばなりません。
日本経済新聞の春秋コラムが❝コロナ狂い❞から目覚めたのかどうかわからないが、今日のコラムで❝ではのかみ❞という懐かしい言葉を話題にしている。
もう死語になってるだろうから、今の人には通じないかもしれないが、
例の山中伸弥さんが
❝サンフランシスコでは、、、❞、
❝イギリスでは、、、❞と、
話の中に、❝・・・では❞を多発して❝さも知ったようなふりをする人❞を揶揄して表現した言葉である。
今度のコロナで注意深くあらねばならないのは感染者数の国家間比較である。総死者数はかなりしっかりした確実なデータであるが、感染者数の比較は手ごわい。PCR検査数にもよるし、鎖国やロックダウンなどの国家政策にもよってくるからである。
日本経済新聞の春秋コラムが❝コロナ狂い❞から目覚めたのかどうかわからないが、今日のコラムで❝ではのかみ❞という懐かしい言葉を話題にしている。
もう死語になってるだろうから、今の人には通じないかもしれないが、
例の山中伸弥さんが
❝サンフランシスコでは、、、❞、
❝イギリスでは、、、❞と、
話の中に、❝・・・では❞を多発して❝さも知ったようなふりをする人❞を揶揄して表現した言葉である。
今度のコロナで注意深くあらねばならないのは感染者数の国家間比較である。総死者数はかなりしっかりした確実なデータであるが、感染者数の比較は手ごわい。PCR検査数にもよるし、鎖国やロックダウンなどの国家政策にもよってくるからである。
尾身茂が❝感染者数の上限は神のみぞ知る❞と西村感染症担当相に言ったそうだ。
こんなバカな感染症専門医分科会の座長に日本国民の命を預けているのである。バカとしか言いようがない。
❝バカ❞、❝バカ❞と言うなって❢❢❢
本当に❝バカ❞としか出る言葉がないのである。
7月の梅雨明けの活動活発化に対応して8月上旬の陽性率8%まで上昇してきたのである。わたしが予告していたように、幸いなことに9月下旬の陽性率4%まで下がってきたわけだ。
そして、また活発化とともに現在、陽性率6%に戻ってきつつあるわけだ。
活発化の度合いがGOTOキャンペーンなどの効果で夏波を上回ったとしても下げ4%幅を超えるくらいだろうから8%+4% = 12%。
わたしの❝1000万人市中蔓延説❞は正しいようだから、感染爆発は起こらない。すでに蔓延しているから感染爆発が起こるなら6月下旬から今までに爆発する機会は何度となくあったはずだ。
感染爆発の恐れにおののいている尾身茂以下専門家がバカであることの証明である。
わたしの、❝陽性率10%+-5%揺動説❞は単純な目の子計算である。
❝1000万人市中蔓延説❞の拡張進化形である。
グーグルAIが正しいか、わたしが正しいか2~3か月すればわかる。
その時までに専門家に煽られて❝社会をとめれ❞ば、
❝日本は即死❞する。
専門家の巻き添えになるのはごめん被る。
別段、反氏が煽らなくても、カロリーネ氏の投稿には瑕疵が多く、目に余る偏った見解に対して反論せざるを得ないのは当然であろう。元会社員氏自体が全面的にカロリーネ氏に賛同はしないが、と逃げ道を作っているくらいだ。
元会社員氏の投稿はネットで広範に見られる日本自虐説に過ぎず陳腐で目新しいものはない。反氏の書き込みのほうが余程、投稿の文献や内容の見解を噛み砕く必要があって困難であっても腑に落ちることが多く学ばせてもらっている。
人其々だと思う。 258のGくん氏の意見はもっともではある。
259~261 【専門家の❝コロナ恐怖❞に煽られる日本人】
日下部氏の説を信じたいと思う。
わたしは、かつて40年ほど九州大学の向井輝美先生のもとでキイロショウジョウバエを用いて、進化に寄与する弱有害突然変異遺伝の研究を行っていた。いわゆる❝生存力ポリジーン❞である。
弱有害遺伝子は目に見えるわけではない。様々な交配実験で生まれるハエの数を朝から晩まで、日曜日もなく数十万数百万と数えて、得られたデータを統計分析して考察するのである。
そのような弱有害突然変異遺伝子の挙動は、今のコロナ病原菌の日本集団中の挙動に重なって見えてくるのである。
❝有害効果が少ない突然変異遺伝子ほど長い時間集団中に保有される❞ は集団遺伝学の【ホールデン-マラーの原理】で、最もラディカルな拡張が、木村資生先生の❝進化中立説❞である。
日本人にはコロナのような微弱有害な病原菌が若年世代を中心に揺動・浮動するのは当然な考えである。それで❝増殖爆発❞は起こさないのである。
まさかコロナ菌が地雷でも持っているはずはなかろう。
引用自体に問題があるわけではなく、むしろ、表現の自由や学問の自由といった公益的な価値を有することから財産権である著作権に一定の制約を課して引用を一定の要件のもとで認めているのです。
引用において重要なのは、公表された著作物であること、引用部分を引用符等により表現形式上明瞭に自己の著作物と区別すること、主従関係(但し、量的概念ではないので判断は難しい場合も)、出所の明示等をすることです。これらは、著作権を制約する以上は著作権者の利益にも配慮して設定された要件です。
最近は一部については出所の明示をするようになりましたが、これらの点がカロリーネ氏にはに欠如しているのです。
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