日本医師会の中川俊男会長が、新型コロナの感染拡大と「Go Toトラベル」との関係について「エビデンス(証拠)がなかなかはっきりしないが、きっかけになったことは間違いない」と発言したことが、波紋を広げている。
この問題の背景には、結局われわれは何をしているのか、についての意識共有が図られていないことが存在していると思う。船橋洋一氏などは、「日本モデル」という概念を使うのは「日本特殊論だからダメだ」と言い続けているが、他国をどれだけ模倣できたかどうかを評価の中心に据えなければならない理由はない。http://agora-web.jp/archives/2048784.html
「Go To」をめぐる論争を考えるにあたっても、私たちが今何を目標にして、そのために何をしているのかを意識化する作業が、まず大切ではないかと思う。
「命を取るか、経済を取るか」の短絡的で不毛の論争が広がりすぎた。そこにいつのまにか、どうしても全てを政府の責任したい左翼勢力と、それに反発する勢力のイデオロギー論争がからみあってきて、大変なことになってきている。
日本は、2月の段階から、ウイルスの撲滅を目指すのではなく、「重症者中心主義」で「社会経済活動との両立」を基調とした「抑制管理」を目指している。http://agora-web.jp/archives/2048347.html
「Go To」をめぐる論争も、まずはその点をよくふまえたうえで、行うべきだろう。
私は「第二波」の際に「日本モデルvs.西浦モデル2.0」という文章を連続シリーズで書き、最後は「日本モデル」の勝利を宣言して、終わりにした。http://agora-web.jp/archives/2047913.html その時の大きなテーマは、「第一波」の際に大きな論争を呼んだ「人と人との接触の8割削減」だけが新型コロナ対策なのか、あるいは日本が追求してきている「抑制管理」アプローチに妥当性はあるのか、ということだった。私が「日本モデル」の勝利を宣言したのは、過剰な「人と人との接触の削減」を求めることなく、新規陽性者数の抑制に成功したからである。
ただし「第二波」の抑え込みは、感染者数をゼロにしたことを意味せず、「第二波」以前の緊急事態宣言終了直後の状態に戻ったことも意味しない。「第三波」における医療施設の負担が「第二波」のときよりも大きいのは、「第一波」終了時ほどの低水準までには、入院者数などが下がっていないところから「第三波」が始まったためだ。そこに早くから予測されていたとおり、冬に入って「換気」の徹底が不十分になる季節では、新規陽性者数の拡大の力学が高まり、いわゆる「第三波」の状態への突入が始まった。したがって「第二波」への対応と全く同じ対応で全く同じ結果が得られるとは言えない。政府の分科会が10月の段階から冬に備えるべきことを提言していたように、https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/teigen_12_1.pdf また11月9日に緊急提言という形で記者会見も行ったように、https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/seifu_teigen_14.pdf 「第二波」とはまた違う対応が求められていたことは間違いない。
ただ、それはもう「人と人との接触の8割削減」をするかどうかの選択ではない、ということは、はっきりしている。
ウイルス撲滅を目指して国家財政が破綻するまで全国民毎日PCR検査に狂奔するか、ウイルスなど存在していないと強弁して何もしないか、の選択肢も、検討されていない。
「命か経済か」で言い争う必要もない。
政府は邪悪で無能なので否定されるべきかどうか、の国民投票を実施する必要もない。
すべては過去10か月ほどの間に蓄積した経験と、さらなる理論的推論とを組み合わせて、より精緻に行う「抑制管理」の政策の問題だ。
その観点から「Go To」キャンペーンについて考えてみよう。
「Go Toトラベル」のウェブサイトを見ると、次のような記述が見られる。
―――――――――――――――
Go To トラベル事業は、ウィズコロナの時代における「新しい生活様式」に基づく旅のあり方を普及、定着させるものです。https://goto.jata-net.or.jp/
―――――――――――――――
「Go Toイート」のウェブサイトにも次のように書かれている。
―――――――――――
Go To Eatキャンペーンは、感染予防対策に取り組みながら頑張っている飲食店を応援し、食材を供給する農林漁業者を応援するものです。https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gaisyoku/hoseigoto.html
ーーーーーーーーーーー
これらの事業趣旨は、全く国民に理解されていないと言っていいだろう。「煽り」系メディアの意図的な扇動報道によるところが大きい。ただ、与党政治家たちが、「経済は止められない」といった誤解を招く悲壮感あふれた発言を繰り返すために、誤解が助長されている面があることも否めない。
日本の「抑制管理」を目指すアプローチでは、社会経済活動を止めるのでなく、感染拡大を防ぎながら、社会経済活動を続ける方法こそが、重要である。そこで政府は、事業主が積極的に感染拡大防止策を導入することを推奨する目的で、十分な予防策をとっている事業者を選定し、広く公にし、その事業者の感染予防と両立した活動を奨励する目的で、「Go To」を導入しているのである。
したがってまずは、この目的を十分に周知徹底する「コミュニケーション」のあり方を検証すべきだ。
さらにチェックして奨励している「感染予防策」が、果たして適切で十分な内容を持ったものであるかを、一定期間をへた後に検証する作業も、当然あっていいだろう。それがなければ国民の信頼も得られないし、事業の趣旨にも合致しない。その際に、「Go To」に対して不信感を持っている方々の意見も、より具体的なレベルで、よく聞いてみたらいい。
「日本特殊論はダメだ!」と言われているうちに、本当に「命か経済か」の不毛なイデオロギー論争に陥ってしまい、これまでの日本の現実的で堅実な取り組みの意義が全否定されてしまうことがないように、切に願う。
(11月24日に上念司さんとの対談を収めた本が公刊されます。https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%82%92%E7%85%BD%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-WAC-BUNKO-330-%E4%B8%8A%E5%BF%B5/dp/4898318304/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=1605836014&sr=1-1 )
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そうそう、今日の朝のNHKニュースで高瀬アナが専門医の和田耕造(漢字間違いか?)に❝コロナを抑えるにはどうしたらよいのでしょうか?❞と盛んに迫っていたが、和田は窮していた。
インフルエンザワクチン、肺炎球菌ワクチンなどを打って❝免疫訓練❞して❝免疫力❞をあげておくことだ。マスク警察に言いがかりをつけられないようななら、率先してマスクをはずし❝コロナ被爆❞しておくことだ。
❝自分の免疫力は自分で高める❞、これが肝要である。
❝コロナに慣れる❞以外にない。
尾身茂は、天を仰いで❝空が落ちてくる❞と上げ相場の恐怖に足がすくみ、地面に目をやれば、致死率0.016で3000人の死亡予測で責任追及される恐怖に身がすくむ。
これで年明け2月、3月までのコロナ死亡者数が3000人におさまれば、わたしはそう確信しているが、その時には
飲食店観光業組合の人たちは、感染症専門家らを戦犯として
❝コロナ弾劾裁判❞をおこしたらいいのではなかろうか。
わたしが学校に上がる前頃、1950年代中頃では❝はしか❞のワクチンはなかった。子どもによってはひどい反応を起こしていたようだが、一度は罹ると言われていた。
それで、わたしの姉がはしかに罹った時に、年子のわたしも傍に寝させてはしかに罹るようにしたそうだが、わたしははしかに罹らずじまいである。
オヤジの解釈では、生まれてそうそう(1年以内?)に死にそうになった、わたしはオジさんから輸血してもらって、その血液の中にオジさんのはしかの抗体があったのではないかということだった。
わたしは今でもその解釈は正しいだろうと考えている。
今の人には考えられもしない❝極悪❞な養育であろうが。
生まれた子どもの半分くらいは死んでいく時代である。
神様に感謝しよう。
もう、そろそろいい加減平常心を取り戻そう。
医者の本分は❝発病者の病を直すこと❞だ。
本来は、未発病者は相手にしなくてもいいのである。
将来、重症化するということで相手にすることはないのである。
未発病保菌者が感染可能性を持っていると言って心配することはないのである。
何度でも言ってるように❝中等症・重症患者に集中❞すればよいだけだ。
専門家集団がこぞって❝コロナ恐怖❞を煽ること自体が国民を❝コロナ猜疑心❞に陥れ、社会文化経済活動を委縮することになるのである。
わたしの❝市中感染1000万人説❞は正しいようだから、PCR検査爆発に応じて感染確認者数爆発は連日ニュース化され社会を恐怖に陥れることだろう。
バカとしか言いようがないが、
❝この原因は尾身茂以下感染症専門医❞が引き起こしていることを確認しておこう。
クラスター分析でわかってきたとか言ってもわかってくるところは、単に目につきやすいからである。
ほんとにそうかは、全員PCR検査をしてみないとわからない。
そういう意味で、飲食店観光旅行業界は、ひょっとしたら行政による風評加害を受けている被害者なのかもしれない。
何度でも言ってきたが、コロナは若年層には無害に近い。
だから、年増の発病者だけを対象にしていても、若年層は取りこぼされるのである。
わたしの推測であるが、小中高大学の若年層に対してPCR集中検査を行えば15%位の陽性率にはなるだろう。
今まで、これに触れなかったのは、ホントにこれが事実になれば、担任、校長、教育長などなど日本社会総ぐるみでいじめ恐怖社会になるだろうからである。
都知事小池百合子はじめ、会見のたびに❝高齢者❞❝高齢者❞といっては、さも❝優しい政治❞を振り撒いているが、高齢者はそもそもどんな圧力にも屈しやすいものである。
❝死亡率の比較が、間違っている❞のである。
若年層の死亡率に対する比較ではなく、
他の病気様々の場合における高齢者の危険性と比べてコロナの危険性が高いかどうかを比較しなければならないのである。
これも感染症専門家のバカの証明である。
春と間違えたのか福岡では❝ウグイスの笹鳴き❞がしきりである。
国際社会で、Covid19を封じ込めているのは、中国、韓国、日本であって、英米はワースト。欧州も大した成績ではない。中国、韓国がやっていることが、隔離なのであって、https://www.youtube.com/watch?v=iUuq8HWHuukパネラーたちが発言している会議で、日本からも押谷仁さんが発言しておられる。
日本の場合人権上の配慮があって、強制的な隔離ができないから、一律の接触制限なのだろうが、感染させている人は、感染者の濃厚接触者であって、感染していない人は、感染させないのである。人の命と人権はどちらが大事なのか、公共の福祉、をよく考えて、人権、いじめと弁護士やマスコミが騒がないことが今、一番求められているのではないのだろうか。。
これを見た、普通の日本人は、やっぱり、高くても、コロナ収束の為には、PCR検査の量を爆発的に増やさなければ、と思うのではないのだろうか?
本当に、いったいどうすれば、まともな世論、ができあがるのだろう。本当におかしな世論を作り続けるテレビのワイドショーの責任は重い。
せっかく、努力していい結果を出している、日本政府の専門家委員会、分科会、優秀な尾身、押谷ペアー、の努力が水の泡である。
政府の尾身茂を座長とするコロナ対策分科会の専門家らが、
GoToトラベルなどの「運用見直し」を提言するらしい。
菅総理の胆力が問われるところである❢❢❢
バカな専門家に押し切られるようであれば、日本経済は立ち行かなくなる。
交通事故死3200人よりも少ないコロナ総死亡数3000人である。
年明け3月には
尾身茂はじめコロナ対策分科会の面々を戦犯として
❝コロナ弾劾裁判❞にかけよう。
検疫法では16条1項で「感染症の病原体に感染したおそれのある者」を停留する規定があります。一方、感染症法(略称)には17条1項で「当該感染症にかかっていると疑うに足りる正当な理由のある者」に対して健康診断をさせる規定はあるものの、隔離の規定はありません。
そのため、「患者」と確定診断がない段階で濃厚接触者を隔離することは不可能であり、隔離をするには感染症法の法改正が必要です。この点、憲法上は公衆衛生上、真に必要性があり必要最低限度の手段であれば、「人身の自由」を制約することになる法改正も合憲となると思われます。現に、場面は異なりますが、上記のとおり、検疫法では感染のおそれのある者の停留が可能とされています。
むしろ、人権上出来ないというよりも財政的負担に対する懸念の方が大きいように思います。宿泊施設等に隔離をする場合には強制をする以上は公費負担が生じることになりますが、濃厚接触者の人数や感染予防に効果のある相当期間を考慮すると相当な額になります。また、現状の保健所の限られた人的資源の中で、濃厚接触者の隔離をすることは更なる業務負担となる可能性が高く現実的ではありません。
Spiegel電子版で、一番ドイツ人に読まれている記事の内容がおもしろいので紹介する。一番読まれているのが、Das schwedische Scheitern
Die zweite Corona-Welle rollt auch in Schweden heran, entgegen den Prognosen des Staatsepidemiologen Anders Tegnell. Nun muss die Regierung drastisch eingreifen – und erwägt Schulschließungen.スウェーデンの失敗、スウェーデンには国家の感染症担当者Tengell氏の予想に反して第二波が起こり、学校休校を含めた対策の根本的変更をスウェーデン政府は行わなければならなくなった、という報道、要するに、スウェーデンでは、集団免疫もできなければ、死者、感染率を含めて、近隣諸国、デンマーク、ノルウェイ、フィンランドと比べて、数倍以上多いのである。要するに、スウェーデンの現実は反氏や日下部教授の主張を裏付けてはいないのである。
この点で、国民の間に合意形成の基になる共通認識が欠如していることは事実だろう。しかし、それに続く、⇒【「日本モデル」という概念を使うのは「日本特殊論だからダメだ」…他国をどれだけ模倣できたかどうかを評価の中心に据えなければならない理由はない】という指摘は筋違いだろう。
「日本モデル」に新型コロナ対策としての「普遍性」がないのは自明で、「日本特殊論」云々とは問題の位相が異なる。日本モデル的な対策を参照・採用することで各国が特段の成果を挙げているようにも見えないし、具体的な証拠もなく、検証(ἡ πεῖρα)も証明(αποδεῖξαι)も不在だ。
日本が比較相対的に累計感染者数が少なく、単位人口当たりの死者数=死亡率が低いといっても、それを日本モデル的な対策と結びつける正当な根拠、必然的な要因は未だに解明されていない。
現在「第三波」(ἡ τρίτος αἰώρησις)到来で世間が騒がしくなっているが、水面下に捕捉されていない大量の感染者が存在しても何ら不思議ではない蓋然性は残るなか、1,000万人感染説を説く日下部眞一氏がその必要を指摘する実態解明のための疫学的サンプル調査さえ実施されていない。
日本の現状=目下の「現実」とされる数値は、累計感染者数はPCRその他の実施件数と相関関係があり、現状の実施件数では実態を反映していないのは明らかだ。重症者の割合の少なさはもはや世界的傾向で、日本モデルの有効性を裏付けるものではない。死亡率の低さは、医療インフラの整備や国民に公衆衛生意識の高さだけでは説明できない。
死亡率の低さは、ウイルスの弱毒説その他の根拠が明らかになっていない要素は除いても、自然免疫や交叉免疫など、東アジア諸国との共通因子に加え、その他の日本特有の要素も加えて検討してみないと確かなことは言えないが、そこに日本モデル的対策が決定的要因となっているとは考えにくい。
日本モデルは、これまでの日本的な感染症対策の延長で、その不備を反映したその場しのぎの彌縫策の別名であって、以前の専門家会議、現在の対策分科会を率いる尾身茂氏や押谷仁氏の卓越した見識や先見性、指導力、一言で言えば炯眼にあるのではない。
⇒【短絡的で不毛の論争が広がりすぎ…全てを政府の責任したい左翼勢力と、それに反発する勢力】といった要素は通常の政治闘争の一環であって、特段「イデオロギー論争」が介在するとも思えない。篠田さんの議論は、無闇に「イデオロギー」を拡大解釈する観念性が際立っている。
船橋洋一氏に代表される先の民間シンクタンクの「新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書」は、政府の対応を間近で見てきた政治家らの正直な感想、場当たり的対処で原因はよく分からないがなぜか首尾よくいった、「結果オーライ」という本音を炙り出しただけの話で、恣意的な作り話ではなかろう。
そもそも、「生命か経済」という二者択一的な議論は不毛だとしても、それをめぐる対立は別に政策論議を不毛にする(ἐξαμβλοῦν)イデオロギー論争ではなかろう。
憲法論争と同一の視点で類比的に考えることに何の意味もない。
Japan und Südkorea kamen in der Coronakrise ohne strengen Lockdown aus. Taiwan hat seit gut 200 Tagen keine Neuinfektionen. Die Wirtschaft erholt sich. Was machen die Staaten besser als die Europäer?東アジアの国々がどのようにコロナ危機を克服しているか。日本と韓国は厳しいロックダウンなしにコロナ危機を乗り越えているし、台湾は200日以上新規感染者を出していない。経済も持ち直している。ヨーロッパと比べてなにが、いい結果をもたらしているか?
東アジアとアメリカ合衆国を比べているが、3か国の人口は2億Ⅰ00万人に対して、死者が2406人、アメリカは3億3000万にたいして死者が25万2000人、やはり、台湾も韓国も隔離政策を行っている。日本は政府解釈氏の言われた理由で、できないのだろう、グラフによれば、人口10万人当たりの死者数が、中国、韓国、台湾に劣るが、米国やドイツに比べて格段にいいし、クラスターを早期に発見しようと努めたこと、入国チェックを厳しくしたこと、が成功の鍵であるなど、押谷仁教授の話を聞いたうえで、日本の成功の原因を分析している。日本のマスコミは、どうして成功している日本の政策を失敗だと糾弾し、失敗している欧米の政策を取り入れなければならない、かのような主張するのだろう。ほんとうにいい加減にしてほしい。
参考資料のリンク元https://www.spiegel.de/politik/ausland/schweden-die-gescheiterte-corona-strategie-a-780a89aa-60c8-49b2-a23a-e79129fd4b10、
https://www.spiegel.de/politik/ausland/corona-pandemie-wie-ostasien-die-krise-meistert-a-c2e5dc80-2154-4140-a8ae-7571e929f7a6
名前がコロコロ変わるから忘れたが、バカな枝野がGO TO 批判をしている。
細菌沙鴎一歩さんが朝日新聞の社説を批判していたので実家の朝日を取り寄せようしていたのだが、すでに遅し。ゴミに回っていた。仕方なく、最寄りの図書館へ往復万歩を散歩がてらに行ってきたら、オマケがついてきたのでそれについて書く。
朝日新聞の11月12日付で、
【「第2波」2つの「火種」から】
「国内のコロナ 感染研がゲノム分析」とあった。
これは拾い物であった。
あとの見出しに「緊急事態後も封じ込められず」とある。
まさに、わたしの蔓延説の補強事実である。
わたしは、若年層を通して蔓延してきたと主張してきた。
❝7月から9月にかけての新型コロナウイルス感染症の「第2波」は、3月以降に欧州などから流入した後、緊急事態宣言を経ても感染が断ち切れなかった2系統のウイルスから再拡大したものだと考えられることが、国立感染症研究所の分析でわかった。❞と記事は書いている。
これは、国会で児玉龍彦が叫んでいた、
❝東京タイプのウイルス❞の歌舞伎町❝エピセンター説❞とは全く反する報告である。
児玉龍彦はこの事実に科学者としてどう対応するのか❓❓❓
歌舞伎町の経済破産者らに対してどう謝罪するのか❢❢❢
全く、わたしが言っていたようになってきている。
都知事行政による飲食業界への❝公権力を使った風評加害❞である。
歌舞伎町の飲食店営業者の皆さんは可能なら
児玉龍彦と民主党、そして尾身茂ら感染症分科会専門家ら、そして都知事小池百合子を戦犯として弁護団を構成して❝コロナ弾劾裁判❞を考え始めたほうがよいであろう。
グーグルが日本の国内コロナ感染者数の予想を出したことは皆さんご存じでしょう。
気になったので、わたしの目の子計算、一山の死亡者数1000人と比較してみました。一山100日3か月(12月~2月)とすると、わたしの計算では毎日平均して10人がコロナ死していくことになります。
グーグルは11月15日から12月12日の28日間の予測死亡者数を512人としています。1日当たり18人です。わたしの予測の1.8倍になります。
おそらくグーグル予測では1か月幅をずらしながら予測していくのでしょうから、今の時点で1月2月のグーグル予測はわからないのですが、今の28日間の予測がそのまま続いたとすればグーグル予測では3800人のコロナ総死亡者数となります。
わたしの予想では3000人ですから結構近い予測値になっています。
結構、目の子計算でもよいのではないでしょうか。
グーグル予測もわたしの予測に近いというのならますます感染爆発は起こらないということの証拠でもあります。
❝感染爆発は起こらない❢❢❢❞
❝全力を中等症患者、重症患者に集中すべし❢❢❢❞
❝集団感染に注意すべし❢❢❢❞
まず、信頼できる調査で、こういうのがあります。
・日本の指導者、国民評価で最下位 コロナ対策の国際比較(ネットであちこちで掲載されているのでURLは省略)
なんと、シンガポールとフランスの各企業の共同調査によると政治、経済、地域社会、メディアの4分野でそれぞれの指導者の評価を指数化したところ、日本は全4分野すべてでなんと最下位、もちろん総合指数も最低です。
はたして日本の指導者は最下位レベルだろうか。新型コロナ死者数の少ない日本でこの評価は到底ありえない数値です。
これが、メディアによる政府への「イデオロギー闘争」でなければ何なんでしょうか。社会常識を持った社会人なら多くが異常と判断するだろう。
得たいのしれない証言を流し、統計知識のない大衆の恐怖を煽る。その先頭に立つテレビ局は守旧マスコミの傘下にあり、新聞社の論調をさらにエスカレートする過激な印象操作で視聴率を稼いでいる。イデオロギー闘争どころか、いまだ日本は近所の呪術師の占いで多くの大衆が明日の行動を決めるような未開の原始社会のようである。
この日本モデルのメディアのスタイルの特徴は、「絶対に異論を同時に並べない」ということである。一方的に持論を数千万人が視聴するメディアから拡散しながら、それに対する反論を完璧に無視する。独特の日本スタイルなのである。先進国のメディアは対立する論点を同時に提示するのが模範的メディアである。新聞もひどいが、テレビのいわゆる報道ワイドショーがすさまじいに尽きる。毎日新聞系のTBSの日曜の朝は巨大な人口が見ているだろうが、完璧に異論を黙殺し、一方的なアジテーターが思い込みをまくして、司会者がシナリオ通りに同調する。一体これがプロパガンダでないというなら何なのか。何かのパフォーマンスのショーなのか。代表的な露出メディアの演出が常識的に判断してプロパガンダとしか見えない以上、プロパガンダの背後にイデオロギーがあると考えるのは全く正常である。
「イデオロギー」を拡大解釈する観念性が際立っている」というのは難癖か言いがかりに等しいものである。言いがかりでない、違う!というなら、上記のデータやメディアの集団的行動は何なのか、私の脳内の幻とでもいうのか、、ということである。
飽きもせずに「PCR、PCR」といつまでも連呼し、PCRに関する多面的で総合的な情報を伝えない。無能な野党を煽って政府を攻撃させることしか眼中にないくらいだ。そのため、メディアによる年金騒動における大騒動で、しょうもない民主党政権が誕生したのである。これほどの飛びぬけた必死の活動における基底には「物事に関して歴史的・政治的な自分の立場によって構築された考え方」があると判断するのが適切で、と同時に、それはあまりに特殊な「歴史的・政治的な自分の立場」によって形成された考えるのが自然である。
まともに反論できなければ「無闇に「イデオロギー」を拡大解釈する観念性が際立っている」という見立てのほうが、逆に「根拠なく、めくらめっぽうに反駁する否定的観念性が際立っている」とでもいうべきである。
これは否定的な意味で「日本スタイル」とでもいうべきものだが、そのイデオロギー形成過程は実はわかっている。戦前から日本のメディアが、いわば「護送船団方式」として特別に保護され、その特権または既得権益を維持するのが自己目的となり、時流に便乗した付和雷同するシステムとなったからである。
核心部分は徹底的な「自己批判の拒否」である。自浄作用がないのである。そのため、例えば諸外国では分離された新聞とテレビの資本関係が、日本においては密着した関係となった。電波オークションなどメディアの自浄作用につながる情報が完璧に国民の視野から抹消された。弊害があまりに大きい。主要メディア間の相互牽制が働かないのが致命的な構造である。それと表裏一体なのが、左翼学術界であり、宣伝塔のマスメディアの上にあぐらをかいて一方的に御託をたれることが可能となるため、国民の目前で相互にオープンに公正な議論を重ねることなど全く出来なくなった。こうして左翼学術界と守旧メディアと表裏一体の依存関係となり、オープンに議論しないし議論できないので、イデオロギーを刷り込むため姑息な印象操作を積み重ねるテクニックだけ進化してきた。
これが反氏の結論かもしれないが、まったく内容を曲解している。趣旨の本質は2点である。
・1点目
左翼が(大衆的メディアを駆使して)イデオロギー闘争をしかけているので、それに反発する力が起こっている。(すなわち、先に一方的にしかけたのは左翼の側である。しかも、コロナにかぎらずこれを繰り返している)
・2点目
政府など指導者はこのイデオロギー闘争に巻き込まれないで、国民になにを伝えるべきかコミュニケーションの本質を洞察し、その内容も洗練させるべきである。
いつも、偏向マスコミの印象操作とは、冒頭のような姑息な言いかえと趣旨の矮小化によって、それらしく見せかけているのである。
そして、あまり意味があるとも思えない海外調査機関のランキングは、評価の基準となる各指標の適否も含めて話半分に聞けばよい。一々いきり立って鬱憤を募らせても仕方ない。
大多数の国民は自国のことには厳しい。当事者だから当然だ。しかし、他の国と比べ、それほど酷いと見下しているわけでもなかろう。国民の水準、民度からからして極端に低劣な政権があり得ないように、極端に立派でも褒められたものでもないという、真っ当な分別を具えている。市井の民とは、その時々の都合によって騙されたふりはしても、余程の世間知らずか、特定の偏狭な想念に囚われている人間でもなければ、考えられるほど愚鈍ではないものだ。
評価、格付けがあくまで海外機関のそれであって、論理の飛躍でそれを、17⇒【メディアによる政府への「イデオロギー闘争」でなければ何なんでしょうか】に飛躍させ、血相を変えたような莫迦騒ぎは滑稽だ。
「イデオロギー」「左翼」云々でなければ「夜も日も明けない」夢想家(ἐνυπνιαστής)には困ったものだ。何事によらず印象操作、プロパガンダ、洗脳の一点張りで、金太郎飴の様相を呈する。
「イデオロギー」というのはその発祥である19世紀初頭のフランス思想、「観念の起源」が先天的なものか経験的なものかを問う「観念学」(idéologie)とに由来する。そうした意味での「観念論者」、即ち「イデオローグ」(idéologue)をナポレオンが現実から「乖離している」と嘲笑したことから「イデオロジー」には否定的なニュアンスがつきまとうことになった。
マルクス、エンゲルスの『ドイツイデオロギー』(„Die deutsche Ideologie“ 1845~46)もその延長線上にある。
このことから、それは批判の規準となる真理概念が相対化されて曖昧になるにつれて、「特定の政治目的のための理論武装」という展開を見せるわけで、イデオロギーを批判的に析出したマルクス主義が、逆に典型的なイデオロギーとなる逆説を生む。左翼やマルクス主義批判に入れ上げる「間欠泉」氏がイデオロギー的な虚偽意識性、謂わば観念論、典型的な物語思考(εἰκὼς λόγοι)に取り憑かれているのが滑稽だ。
粗雑な「思考がつくり出す想念」(φάντασμα διανοίας)に囚われているようだ。
ということで、けたたましい偏狭な信念の徒はこれ以上相手にしない。
閑話休題。昨日は日下部翁が奮闘されていた。感染症学やウイルス学の専門家ではないが、集団遺伝学の研究者であり、個体群動態学(population dynamics)に詳しい日下部氏の専門家としての血が騒ぐのだろう。一種の義憤(νέμεσις)には違いない。
ところで、杜甫の『奉贈韋左丞丈二十二韻』に、「讀書破萬卷下筆如有神」、つまり、後世において「孔孟李杜」と称されながら、生涯不遇のうちに没したシナの大詩人は、「書物は一万冊を読破し、筆を下ろせば神懸かりのよう」ということが処世においては無益であることを悟っていた。日下部氏に進呈したい。
試しに前後を引けば、以下のようになる。
なお、この「讀書破萬卷下筆如有神」には先達がある。「讀書萬巻、猶有今日」(「書を讀むこと萬卷なるも、猶お今日のこと有り」)と言ったとされるシナの南朝梁の初代皇帝である武帝蕭衍の七男で、第二代の元帝、即ち蕭繹(508~555年)だ。『十八史略下』巻四南北朝に以下の記述がみえる。
「梁主焚古今圖書十四萬卷、歎曰、文武之道今夜盡矣。乃出降。或問、何意焚書。曰、讀書萬巻猶有今日。尋被殺。在位三年。改元者一、曰承聖。」(『十八史略下』巻四南北朝=「梁主、古今の圖書十四萬巻を焚き、歎じて曰く。『文武の道、今夜盡きなん』。乃ち出でて降る。或人問う。『何の意あって書を焚く』。曰く。「書萬巻を讀めども猶今日有り」と。尋(つ)いで殺さる。在位三年。改元する者(こと)一、承聖と曰う」)
杜甫と異なり、こちらは西魏軍によって都の江陵が陥落する際に非業の死を遂げる。杜甫は自らの不遇とシナの歴代皇帝の中でも際立って学問を愛好した先達に己を重ねたのかもしれない。学問は予知の道具ではないから、無益なこともある。一廉の研究者なら、当然その自覚はあろう。
それにしても、「犬どもは見知らぬ者には見さかいなく吠えたてる」(ヘラクレイトス断片97=‘κύνες γὰρ καταβαΰζουσιν ὧν ἂν μὴ γινώσκωσι.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 173)というが、何が【趣旨の本質は2点】か、一向に要領を得ない文章もあったものだ。
真夜中に獅子吼する狂犬紛いの人物は、偏執狂の老婆だけではないようだ。同類は同類を呼ぶ」(ὅμοιον ὁμοίῳ ἀεὶ πελάζει)のだろう。[完]
その真実をまるで報道しない、日本政府批判しかしない日本のマスコミはどうなっているのだろう。「反政権」のイデオロギーに毒されているとしか思えない。
【感染爆発は起こらず、感染症専門医の❝恐怖爆発❞が起こるだけだ】
昨日、書き込んだように、年明け2月~3月までの死者数予測は、
わたしの目の子計算が 2500~3000 である。
黒木登志夫先生は死者予測はしていないが
先生の感染者数予測をもとにすると 3200人になる。
グーグル予測の1か月予測を外挿すると 3800人である。
3か所が、独立した死者数の予測 2500人~3800人 を出しているのである。
この数は、交通事故による死者数 3200人前後であるということだ。
❝感染爆発❞しているのは尾身茂以下、感染症専門屋の頭の中の❝ウイルス恐怖❞であり❝PCR検査爆発❞である。
【中等症患者と重症者だけに集中、特化すれば良いだけのことだ】
【社会は止めるな❢❢❢】
どうして、「感染経路不明」でほおっておくのだろう。歌舞伎町の時も感じたが、どうして、クラスターが起こっている場所を、公にしないのだろう。感染者、その濃厚接触者を自由に行動させるのだろう。コメントで書いたように、日本の成績がよかったのは、「木を見ずに、森を見る。」要するに、欧米のように「PCR検査をたくさんして、感染者一人一人白黒つける」のではなくて、「感染の経路を追い、クラスターを重視することで大規模感染を防いだ」から実現できたのであって、小池知事の対策は、明らかにそれと逆行するものである。
自分の行政の無策ぶりを棚にあげて、なぜ、東京都民に我慢をしいるのだろう。本当に行政の長として、識見もなければ、実行力もない。ただの言葉だけの広告塔、「宣伝ウーマン」である。こんな行政官をもちあげるマスコミの人々の気が知れない。
未知のウィルスに対して世界各国の知性も混乱し右往左往していたときに、なんの一貫性を求めるのか。どうせ方針や方法論を変えずに一貫すれば「硬直している」と糾弾し、状況変化に応じて柔軟に対処して、一度でも失敗すれば「行き当たりばったり」と揶揄するのである。なんの責任も持たない口舌の徒くらい気楽な商売はない。
また、反氏「大多数の国民は自国のことには厳しい。当事者だから当然だ。しかし、他の国と比べ、それほど酷いと見下しているわけでもなかろう」とあるが、では客観的指標で世界各国と公正に比較評価できる材料などを日本のマスコミが提供しようとしたか、客観的に議論の場を提供しようとしたか。一方的な思い込みと結論ありきの硬直した宣伝屋にすぎない。そのような体で、なにをえらそうに(貴重な公共電波など国民の資産を悪用して)政策の滑稽な粗探しばかりに国民を巻き込んでるのか。
今回も、「マスコミのは毎度同じのプロパガンダではないか。プロパガンダの背景にはイデオロギーがある」と幾つかの事例をあげた核心部分から抽象的な反論に論点をずらしし、「何事によらず印象操作、プロパガンダ、洗脳の一点張りで、金太郎飴の様相を呈する」「粗雑な「思考がつくり出す想念」」と一方的レッテルをはりつけている。客観的データとして、日本メディアの異様性を表す数値は例としてあげたコロナへの政府対策評価アンケート以外にいくらでもある。そもそもマスコミの制度自体が他の先進国と比較して狂気の沙汰である。
反氏「論理の飛躍でそれを、17⇒【メディアによる政府への「イデオロギー闘争」でなければ何なんでしょうか】に飛躍させ、血相を変えたような莫迦騒ぎ」とあるが、
反氏自体の論理が最初に飛躍したので、それが言いがかりや難癖レベルだと批判しているのに、こちらが「論理の飛躍だ」とボールを投げ返してきているだけだ。そして、このような愚にもつかないレトリックによる印象操作だけ得意なのが特徴だ。
それは、他からの引用部分を取り除いたら「論理の飛躍」以外に何物もない、滑稽なレトリックと断片的つまみ食いがお家芸の日本の守旧マスコミの特徴と奇妙なほど一致する。
「客観的な理論というより、行動を動機づける利害関心によって規定される主観的な性格を帯びる」の「行動を動機づける利害関心」が一番目の重要キーワード、次に「個人や組織を行動に駆り立てる信念・信仰体系」が二番目のキーワードである。
日本独自の既得権益の閉鎖的制度によって守られた集団的マスコミにとっては「行動を動機づける利害関心」がまず第一であり枠組みとなる。その因習的な枠組みに対して、空疎な内容を埋めたのが、「個人や組織を行動に駆り立てる信念・信仰体系」ですなわち左翼イデオロギーである。だから、左翼マスコミとか左翼メディアと呼ばれるのである。
自身で引用したテキストにちゃんと書かれているではないか。
ひとつ断言できることは、共産主義の理想が現実味をおびてインテリや大衆が熱狂していた時代には「直接的な共産主義の脅威そのもの」があったが、その夢想的な幻想イデオロギーが衰退した後に、共産主義者があちこちの思想畑や社会の各所に分散し「思想的生き残り」を模索して暴れまわったことによる複雑な後遺症に悩まされてきたのが現代日本の特徴である。その背景には、公けの場での公正で堅実で実証的な議論を行わず、ひたすら自前の出版物で陰湿に怒鳴りあい、マスコミを筆頭に、縦割りの集団的タコツボの言論界構造をつくりだしてきた日本の悲劇がある。
ところが、今回のケースのような場合にも「日本モデル」と呼んでしまうと2点の弊害または副作用が懸念されました。一点目は、他国とくらべて突出しているわけでもないのに差別化する意味があるのだろうか、二点目は、他から学んでもらうのが筋で日本からモデルだ模範だとおしつけるのは日本人の謙虚さという美点からどうなのか、です。
篠田教授の理屈づけはこの2点にも反駁するような形になっていたので強い違和感を感じるほどでもないのですが。
半分冗談だが「日本の左翼モデル」というのも浮かび上がらせる必要があるかもしれない。
「不毛な論争」に巻き込まれないためには、日本と世界の歴史を貫く「縦の線」、それと国際社会を貫く「横の線」から最良の部分を取り出し、真正の客観的科学で補強することである。
たとえば、近代日本で最良の部分といえば、日本の奇跡的な高度経済成長の日本モデルの基礎となった、近代日本の福沢諭吉や渋沢栄一など巨星である。ここで、また左翼勢力への愚痴がでるが、日本の自由主義者の精神的支柱のひとつであった福沢諭吉を左翼勢力は実に狡猾におとしめた。その手法は悪質で、学術界が福沢の関連するメディアからアジア蔑視の断片を切り取りアジア差別だと糾弾すると、朝日新聞など左翼マスコミが同調した。ところが、不思議なことに福沢の論壇よりはるかにアジア蔑視だった戦前の朝日新聞の記事だけはほとんど取り上げないのである。左翼学者は戦前朝日を批判すれば朝日新聞に取り上げてもらえないので朝日だけ批判対象から除外する。こうやって左翼学術界と左翼マスコミの協力関係が出来上がっていた。
自由主義者の信条の極致とは、「大勢が心を開いて公正に議論を継続すれば真実から遊離することはない」。それと「各人の教養レベルや経験深さに各段の違いや高低はあれど、無名の庶民の人生体験をも貴重な社会の財産と見なし、公平に誠実に耳を傾け、決して自ら驕り高ぶらない」ということである。これが民主主義の理想に直結している。
それに対して、共産主義者は、まず「運動」から入る。「もう議論している段階ではない。行動する者たち集まれ」。「労働者の選良こそがブルジョア階級の支配を断ち切る」
いかに、自由主義者と共産主義者が対極にあるかわかるだろう。また、自由主義者の明るさ(時に能天気にも見えるが)と共産主義者の暗さの根源がわかるだろう。
そして、この自由主義者と共産主義者の二つを一人二役できるとうぬぼれて大衆の上に君臨したのが、日本の守旧マスコミとそれを操るリベラルに見せかけた左翼勢力であり、結果的に表の皮だけ自由主義者に見せかけて、中味の本体は多くが共産主義者に侵食された。
https://www.jiji.com/sp/article?k=2020050100850&g=pol
これに加えて、日本にとっては不運でしたがダイヤモンド・プリンセスを巡る対応も加えても良いのかもしれません。
これらについては守旧メディアに批判的な安倍首相の熱烈な支持者の中でもSNS上で強く批判をしていた方が多かったように思います。
因みに、私の経験なので一般化出来るかは不明ですが、今のところ街中で「アベノマスク」をしている人を見たことはありません。報道などで安倍首相がしていたのは見ましたが、当時の菅官房長官、加藤厚労大臣、西村コロナ担当大臣を含む閣僚、与党議員、官僚(アベノマスクの発案者と言われている経産省出身の佐伯首相秘書官を除く)、専門家会議・分科会の構成員なども、「アベノマスク」をつけていた方はなく、孤立無援で「アベノマスク」をつけ続けた安倍首相は痛々しい姿でした。櫻井よしこ氏は「アベノマスク」をしなかった菅官房長官に対してネット番組での対談で苦言を呈していたようです。
最後に、「イデオロギー」は法的概念ではなく専門外なので単なる印象論ではありますが、旧会社員氏やカロリーネ氏のように左翼やマスコミに対する強い怨念などがあると「イデオロギー」に囚われた議論に陥る危険性が逆にあるように思います。これに対して、日下部眞一氏の議論は自らの専門分野である遺伝学の知見からマスコミ報道を批判しているので、義憤に駆られて時に過激な表現を用いるので若干戸惑うことはありますが、「イデオロギー臭」は感じず議論の内容自体は素人なので専門的な論評は不能ですが建設的な議論をしているように感じます。
恥ずかしげもなく、凡庸で陳腐かつ退屈で愚劣な御託を並べている。まさにチンピラの作法で、「狂気の沙汰」(τὸ μανικός ἔργον)。
それにして、よくも8件も並べたものだ。よほど鬱屈したものを抱えているのだろう。内容は莫迦の一つ覚えでしかない、金太郎飴のような左翼批判、メディア糾弾に終始する。前回の村雀氏ではないが、⇒【元会社員氏の投稿はネットで広範に見られる日本自虐説に過ぎず陳腐で目新しいものはない】(20日・262)の、「陳腐で目新しいものはない」の部分はその通りだろう。
私も現役時代、権力者から警察官僚、地域の政治ボス、はたまた労働組合の全国組織の高級幹部、過激派、所謂「反社会勢力」という怖いお兄さんたち、民族派(右翼)や総会屋、暴力団関係者の類を相手にすることもあったが、これほど脇の甘い人間も少ない。
懲りずに繰り返す議論の中身は、型通りの左翼、メディア批判でしかない。
得々と愚劣な主張を並べて愧じない、「自由主義」云々なる持説、44⇒【「大勢が心を開いて公正に議論を継続すれば真実から遊離することはない」…無名の庶民の人生体験をも貴重な社会の財産と見なし、公平に誠実に耳を傾け、決して自ら驕り高ぶらない」…これが民主主義の理想に直結している】程度のお子様論議に自瀆している。「激昂しやすい人物」(ὀργιλότης)特有の狂信が透けて見える。
言いがかりでは、38⇒【反氏自体の論理が最初に飛躍したので、それが言いがかりや難癖レベルだと批判】なのだという。
憤激(θυμός)の程度は、攻撃者の知性(νοῦς)の程度に反比例(ἀντιπεπόνθησις)するというが、判で押したような反応だ。
39など、自らの凡庸なイデオロギー解釈を棚に上げて、⇒【自身で引用したテキストにちゃんと書かれているではないか】との言いぐさ。自制心の欠片もない餓鬼道だ。
「ゴロツキ」(ὁ μαστιγίας)の類をまともに相手にしても仕方ないが、11~12の補足ついでに、議論の論理破綻についてのみ、言及する。
38②⇒【引用部分を取り除いたら「論理の飛躍」以外に何物もない、滑稽なレトリックと断片的つまみ食い】とか称して文章同様、子供じみた悪態をついているが、直近の25~26でも、最初の篠田さんへの異論を含む11~12でも、「間欠泉」氏との関連では、引用は一切ない。
26の終わり近くから28の杜甫の『奉贈韋左丞丈二十二韻』と『十八史略下』巻四南北朝は、日下部眞一氏に宛てたもので、「間欠泉」氏とは、何の関係もない。
「論理の飛躍」(τὸ πήδημα λόγου)の意味を理解できないようだ。
篠田さんの冒頭の二段落部分の議論を対象とした 11⇒《しかし、それに続く、⇒【「日本モデル」という概念を使うのは「日本特殊論だからダメだ」…他国をどれだけ模倣できたかどうかを評価の中心に据えなければならない理由はない】という指摘は筋違い》は、
中川俊男日本医師会長がGo to Travelキャンペーンと今回の急激な感染拡大の因果関係を示すevidenceがないとしつつ、引き金になったことは間違いないとの確証を抱いているという冒頭段落の議論と、続く⇒【船橋洋一氏などは】云々以下の議論に、何の論理的な脈絡もない、ということだ。
だから、指摘は「筋違い」で、「論理の飛躍」になる。
トランプ大統領を含め政権担当者、支持者がその主張をきかないから、アメリカ人の感染は増え続け、トランプ氏の息子までが、Covid19の感染をした。ロックダウンが必要なのではない。今まで日本人が政府の指導の元してきた、クラスター対策に力を入れ、感染拡大を抑えながら、with Colonaの経済活動を維持していくことが正しいのである。ところが、「反安倍」陣営の印象操作の為に、日本人はそれも認識せず、感謝もしていない。世界の国々と比べると、安倍政権下のコロナ政策は正しかったのである。本当に、親の心、子知らずである。
「日本モデル」が理解されないことに、最初期の命名者一人として、憤懣やるかたない篠田さんが、勢い余って論理的に逸脱したのだろう。日本モデルへ「意識の共有」というより認識の共有を阻んでいるのは、日本モデルがもつ普遍的有効性の欠如であり、充分に浸透していないのはモデル化自体が未成熟だからで、多くの専門家やメディアの責任ではない。
「間欠泉」氏の17の主張に至ってはそれより酷く、論理的には箸にも棒にもかからない。【信頼できる調査】とか称して海外機関による日本の政治指導者への国民の評価が最低ランクだという部分と、末尾の⇒【これが、メディアによる政府への「イデオロギー闘争」でなければ何なんでしょうか】 の部分に何の論理的脈絡もない。それぞれの名辞は論理的に独立したもので、両者を結びつけるにはそれを媒介する別の名辞が必要だが、17にはそれが皆無だ。
「間欠泉」氏の論理的思考力とはその程度のものだということだ。だから、「憤激の程度は、攻撃者の知性の程度に反比例する」。
ぐだぐだ、たらたら、ぼやきが見苦しい。浅ましい人物の正体見たりという趣で、老婆もとんだ喰わせ者に気に入られたようだ。[完]
‘Il faut se connaître soi-même: quand cela ne servirait pas à trouver le vrai, cela au moins sert à régler sa vie, et il n’y a rien de plus juste.’; “Pensées”, Frag. 66, Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 12, p. 67~68.
安倍のマスクで、安倍晋三さんを嘲笑したように、マスクをかけながら食事をする仕方を説明された尾身会長を嘲笑する。経済活動をとめないで、感染を減らす苦肉の策なのだから、嘲笑する代わりに、他に方法がないか考えてあげればいい。とにかく、反氏や政府解釈氏にもいえるが、日本のマスコミの人のすることは、他人の揚げ足取りばかりである。、
ところが、実際に1977年3月にチェコのプラハに行ってみると、公害は、日本や西独よりひどく、街の空気がにごっていた。なぜ、そうなるかというと、社会主義国家には、言論の自由がないから、マスコミが社会問題を糾弾できない。また、チェコが経済発展するためには、公害対策費用が重荷になるのである。旧東独のドイツ文化センターの館長も言われていたが、社会主義国の官僚たちは、その関心が国民ではなくて、自分の出世に目がゆき、政治指導者に忖度するのである。
日本のマスコミは、「反権力」がマスコミの使命のように考えているが、それは違う。権力者の意向とは関係なく、自分が大事だと思うこと、真実だと思うこと、公共の福祉に役立つ報道をすることが、使命なのである。リットン調査団のスクープ記事、ルーズベルト大統領との単独会見に成功された楠山義太郎さんのように。
ちょっとちょっと。毎日アベノマスクを愛用している身としては聞き捨てならぬ。どこが不細工で使用に耐えぬのか? 安倍さんは顔がデカイからマスクが小さく見えるのであって、私ら顔の小さい人間にとってはまさにちょうどいいサイズですぜ。夏のあいだはガーゼマスクは暑いから、そもそもマスク自体あまり着用しませんでしたが、冬になると暖かくて気持ちいい。2枚あるので、使ったものは熱湯をかけて洗い、予備の1枚をフレッシュマスクとして使えます。下顎まで覆う化繊のマスクは不格好で、パンツみたい(笑)。
掲載された死亡率を見ると日本はヨーロッパのなんと100分の1である。よく縦軸を見ないと2分の1と勘違いする人もいると思われる。この違いを指摘しないで、ヨーロッパを見習えとでもいうかのような印象操作の報道がなされている。ただし、ヨーロッパからの入国者検疫強化にふれているのもバランスがとれている。
この記事でも指摘されている通り、病院の施設がひっ迫する前提で印象操作記事を、また、例の毎日新聞が報道しているようだ。首相の配布マスクを執拗に揶揄したり、本当に箸にも棒にもかからぬメディアだ。布マスクの配布は、何度も洗濯できて再利用できたので、マスクの市場価格をつりあげて暴利をむさぼろうとした輩の詐欺行為から、日本国民を守った側面があったかもしれない。その大量配布の後に、高値のマスク価格が急降下したからである。しかし、相手が些末な難癖をつけてきたら、主要な論点から目をそらさずに、相手の些末な問題点に対して反撃するのも必要なこともある。毎日新聞の場合は、汚れた安部マスクだという写真の捏造疑惑である。そのパッケージが実際に配布したものとは違うと指摘されていた。もちろん毎日新聞はろくに反論せずに、どこのどいつが撮影した写真かも知らせずに完全黙殺し、腐敗の程度がどの程度かという簡易的な統計調査さえやろうとせず、ひたすら悪質な印象操作記事で連日安部マスクを糾弾しつづけた。異常者の集団としか思えなかった。
反氏「篠田氏の論理は飛躍している」
※「イデオロギーを拡大解釈する観念性が際立っている」ということは、要は「根拠ない」あるいは空想と指摘しているのと同じ
↓
私「篠田氏の論理は飛躍してない(と具体的な根拠を提示)。反氏の批判こそ難癖であり、根拠も示さず、論理が飛躍している」
↓
反氏「お前は論理が飛躍している。なぜなら論理が飛躍しているからだ。粗雑だからだ」
ブログ主に言いがかりをつけて、その根拠を示せと指摘しているのに、なんの根拠も示さず、お前は論理が飛躍しているから論理が飛躍するのだというようなトートロジーかあるいは表現変えたレッテル貼りしか返ってこない。
これこそ、異様な偏向マスコミの印象操作に満ちたレトリック技術の典型です。とにかく大勢の無知な読者をだませればよいのだという魂胆です。
とにかく反氏のレトリックと偏向マスコミのレトリックが似ているという点は、彼らが何かを批判するときには具体的な事例などだして具体的に批判または攻撃してくるのですが、彼らに対して批判がむけられると、その反論はいつも抽象的なのです。要は、狭窄視野で攻撃するときは具体的表現力で威勢がよいが、いざ欠陥とか狭窄視野を批判されると、抽象的な反論で具体的論点をはぐらかして、逆に相手にレッテルを張り付けるなどして、抽象的なレトリックと印象操作で逃げるのです。
逃げていて、あたかも反撃しているように見える。抽象的言説ではぐらかすこと自体が具体的論議から逃げているのと同じである。
目の前の論点に特化しないで、相手の過去の発言や記録のなかを漁りまくって、「なにか上げ足をとれる材料はないか」と、相手に一泡ふかせようとするネタを散策するような実にケチな根性である。
偏向マスコミは雑多な知識のみで自前で総合的に考える脳みそがないので、なにか過去の素材でもって相手をおとしめるという手段に愛着を感じるのだろう。これは特にいやらしい。だれか政治家に目をつけると、芸能雑誌のように醜聞をかぎまわって、「取材によるとこういうやつです」と真贋ごちゃまぜにして陰湿な印象操作で、相手の人格をおとしめるのである。
そして、これは偽善的な引用文でエセ教養をちらつかせながら、その合間に、身のもだえるような激しく一方的な印象操作の低劣な表現の嵐で、世論をいやらしく洗脳し、思うが儘に世論を誘導しようとする愚劣な偏向マスコミの本性と実によく類似している。
ところで、E. ギボン(Edward Gibbon)の『ローマ帝国衰亡史』(“The Decline & Fall of the Roman Empire”, 1766~88)を知らぬ人士は本欄読者にはいないと思うし、ギボンがキリスト教の信仰について、ひどく懐疑的な見解のもち主だったことも周知だろう。
18世紀の啓蒙主義的な環境で育ち、ギリシア・ローマの古典文化に通曉していたから、キリスト教徒の狂信性と粗野さは彼の神経には耐え難かったようだ。それは何も、無知な平信徒とばかりは限らない。
本欄にも狂信的な人物が二人いて、猛り狂ったように、陳腐で愚にもつかないことを書き散らす。私は古典古代の貴族主義的な都市文明であるギリシア・ローマに突きつけた「漁師と大工の宗教」「女と乞食の宗教」と蔑まされたキリスト教について、若い時分ほど否定的ではないが、ギボンの心情はよく分かる。
その典型例が、正統派の教理確立に大きな影響を与え、のちに聖人に列せられた初期キリスト教神学の大立者、アレクサンドリアのキュリロス(Κύριλλος Ἀλεξαδρείας, 376~444))が使嗾した異教徒の女哲学者ヒュパティア(Ὑπατία=Hypatia, c. 370~415)の惨殺だ。
ヒュパティアはギリシア数学史の継承者として歴史上確認された最初の女性数学者で、新プラトン派の哲学者、天文学者でもあり、アレクサンドリアで教えた。生涯独身だった才色兼備の女性を描いたスペイン映画『アレクサンドリア』(原題“Ágora”, 2009年、Alejandro Amenábar監督)の主人公としても知られる。
その様を活写したギボンの筆は、真に迫る。狂信というものが、宗教であれ政治的見解、あるいは矯激な左翼批判であれ、それに取り憑かれた人間をいかに狂奔させ、凶暴にするかの典型例(παράδειγμα)を示す。
スペースを節約するため一部に日本語訳を添え、他は原文で紹介する。
彼の端麗な容姿は説教壇を飾り、彼の音声の諧調は大聖堂に反響し、彼の味方は会衆の喝采を誘導ないし援助するために配置された。書記の手で慌ただしく書き留められた彼の訓話は、内容はともかくその効果の点で、アテーナイの雄弁家のそれにも、さして見劣りせぬもののようである(His comely person adorned the pulpit; the harmony of his voice resounded in the cathedral; his friends were stationed to lead or second the applause of the congregation; and the hasty notes of the scribes preserved his discourses, which in their effect, though not in their composition, might be compared with those of the Athenian orators.)。
……かくして39歳にしてキュリロスは、かつてのアタナシウスの主教座に就任した。この地位は彼の野心にとって充分ふさわしいものであった。宮廷から遠く離れた地域の巨大な首都の首長として、このアレクサンドリア総主教は[これが新しい彼の肩書きである]は、次第に文民の為政者の威厳と権威を簒奪するに至った。都市の公私の浄財はすべて彼の一存で運用された。」(and after a period of thirty-nine years, Cyril was seated on the throne of Athanasius. The prize was not unworthy of his ambition. At a distance from the court, and at the head of an immense capital, the patriarch, as he was now styled, of Alexandria had gradually usurped the state and authority of a civil magistrate. The public and private charities of the city were blindly obeyed by his)
彼がたまたま街路を通行してしている最中に、彼の馬車はニトリア修道院僧500人の一隊に襲撃された。彼の護衛隊は、この砂漠の野獣をみて逃走した。自分はキリスト教徒でありカトリック教徒である旨の彼の抗弁は投石の雨で報いられ、オレステスの顔面は血だらけになった。アレクサンドリアの忠誠なる市民たちが彼の救出に駆けつけ、彼はただちに自分に向かって手を挙げた修道士に対する彼自身の正義と復讐を満足させ、かくてアンモニウスは警吏の笞刑を受けて絶命した(As he passed through the streets, his chariot was assaulted by a band of five hundred of the Nitrian monks his guards fled from the wild beasts of the desert; his protestations that he was a Christian and a Catholic were answered by a volley of stones, and the face of Orestes was covered with blood. The loyal citizens of Alexandria hastened to his rescue; he instantly satisfied his justice and revenge against the monk by whose hand he had been wounded, and Ammonius expired under the rod of the lictor.)。
キュリロスの命令で、彼の死体は地面から起こされて荘重な行列で大聖堂に運びこまれ、アンモニウスの名はタウマシウス[不思議の人]と変えられた。」
「彼の墓所は殉教者の数々の記念品で飾られ、総主教は説教壇に立ってこの暗殺者にして反徒の義挙を称揚した。」(his tomb was decorated with the trophies of martyrdom, and the patriarch ascended the pulpit to celebrate the magnanimity of an assassin and a rebel.)
そしてこの後がヒュパティア惨殺の場面となる。
「日ならずして彼は、かねてよりギリシア人の宗教を告白しオレステスとの友情を温めていた一人の処女の犠牲を煽動もしくは受納した。数学者テオンの娘ヒュパティアは彼女の父の学統を承継し、彼女の博学な註釈はアポロニオスやディオファントゥスの幾何学を解明してきたし、彼女はアテーナイとアレクサンドリアでプラトンとアリストテレスの哲学を公的に講義した。花の容姿と円熟した叡知のもち主であるこの謙虚な処女は、求婚者を拒絶して門弟を教育した。地位や学殖の面で最も高名な人々は、争ってこの女哲学者の門を叩いた。キュリロスは彼女の学園を訪問する馬車と奴隷の豪華な供廻りを嫉妬の眼で眺めた。」(and he soon prompted, or accepted, the sacrifice of a virgin, who professed the religion of the Greeks, and cultivated the friendship of Orestes. Hypatia, the daughter of Theon the mathematician, was initiated in her father’s studies; her learned comments have elucidated the geometry of Apollonius and Diophantus, and she publicly taught, both at Athens and Alexandria, the philosophy of Plato and Aristotle. In the bloom of beauty, and in the maturity of wisdom, the modest maid refused her lovers and instructed her disciples; the persons most illustrious for their rank or merit were impatient to visit the female philosopher; and Cyril beheld, with a jealous eye, the gorgeous train of horses and slaves who crowded the door of her academy.)
狂信とは、何事であれおぞましいものだ。論理学の初歩も覚束ない57の愚鈍さ。誤謬は言明の形式自体にある。既に論証済みだ。頓馬には理解不能なようだ。
このギボンの記述の影響は古典学の標準的な辞書Oxford Classical Dictionaryの[Hypatia]の項目にも顕著だ。文字通り「八つ裂き」にされた情景を、‘she was torn to pieces b a mob of Christians at the instigation of their bishop (later Saint) Cyril.’(p. 534)とする。[完]
‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’; B. Pascal, “Pensées” Frag. 358)
さて、元朝日新聞記者の百目鬼恭三郎の「新聞を疑え」は実に名著である。電子書籍として、将来出版させたい(現代となっては陽の当たらない)名著のひとつである。某所で入手したので、ひとつ目についた箇所を引用する。マスコミのコロナ報道を考えるに非常に意味深い文章である。
「世論をリードするためには、いわゆる国民感情に訴えかけ、あるいは国民感情におもねるなど、徹底して感情に働きかけることを必要とする。理性に働きかけて多数を納得させるのはひどくむずかしい。まして、事の真実を理解させるのは至難のわざである。なぜなら、真実は、いくつもの視点の取捨選択と組み合わせを通してはじめて明らかになるからだ。それにくらべると、感情に働きかけて共感を得るのはずっとたやすい。理屈抜きで頭を使わずに済むし、良いか悪いかという二者択一で簡単に割り切れることも、多くの読者をひきつける要因になっているようだ」
こういった頭脳明晰な記者は一生「平記者」となり、売り上げ向上に直結するような煽り専門の記者が新聞社内で有利に出世した。まさに、悪貨が良貨を駆逐する世界である。左翼ばねの効いた「エッジのきいた記事を書け」とアジられているのだから、そうなるのは当然の勢いである。
不思議なことに、安保法案の熱狂的な騒動が一過性のものとして終わった後に、安保法制への違憲に関する話題が劇的に減りました。ひきつづいて論議されるべきでしょうが、守旧マスコミのアジェンダ設定のなかでは不思議なほど優先順位を落とされています。本来は、こういった違憲訴訟のグループと、合憲だと考えるグループで公開議論の場などを設定するべきでしょう。そうすれば互いの巨大なギャップを多少とも埋められる可能性もあります。ところが、議論させるとメディアの考える通りに誘導できず、不利になると考えているのか、ほぼ二次的扱いです。あれほど狂ったように攻撃していたのに信じられないことです。日米安保闘争の時代から、こういうことを繰り返しています。
地上波が狂い咲きするなかで、SNSやユーチューブでの有志専門家の啓蒙や、地上波以外の番組が救いです。最近視聴者を増やしているのが、虎ノ門ニュースで、いずれ篠田教授も出演される機会がくるのではないでしょうか。この番組はコンビかトリオ方式のようですが、お相手は上念氏などもよいでしょうが、正論編集長の田北さんなどが鋭く冷静でよいと思います。
いったい憲法9条を盾にして「自衛隊を一歩たりとも海外にだすな。自衛隊はいらない。災害救助隊をつくれ」と主張しつづけてきた勢力は後世の歴史で、どのように評価されるだろうか。
無防備の日本領土のあちこちから北朝鮮工作員が侵入し日本人が拉致され、逆に海外の日本人は自衛隊による救出が許されず放置され、海外での紛争は外国軍隊にすがりついて同胞救助するしかない、日本国内の言論界では「攻撃されたらもろ手をあげて降伏する」という能天気がはびこり、近隣諸国の中国や北朝鮮における少数民族虐殺や人権弾圧は黙殺される。
この恥知らずの様を帳消しにして、「憲法9条信者が平和を担保した」などと後世の日本人が認識することがあるだろうか。到底かんがえられないことである。しかも、日本の左翼は、共産圏の軍事独裁を称賛していたのだから、その正体は真正の平和主義者でもない。その正体がばれて共産党員などが憲法9条で平和主義を偽装しているだけである。
57での旧会社員さん(旧会さん)の読者への簡略化した再説明は、わかりやすかったです。前後しますが、反さんの49の定言三段論法< は見苦しかったです。これは、自分の土俵に相手を引き込むレトリックでしょうが、旧会さんは乗りません。本来こういう理論って、説明する者が、内在的に理解して、相手方(旧会さん)を説得すべきものです。61以降は、反さんはホームグラウンドのギリシャへ帰ってしまいました。
今日も昼日中、激論で忙しい様子ですね。
今日も、一日中、秋晴れの快晴に恵まれ、❝がまんの3連休❞どころか、❝楽しい3連休❞の楽しい初日を過ごすことができました。
福岡周辺と以南では紅葉狩りというより枯れ紅葉狩りになってしまいましたが、それでも楽しい一日でした。
連休で人出が多いだろうから近場だったら付き合うと言ってたら、15kmの大宰府近辺の鬼滅の刃ゆかりの竈門神社を取り込んだ散策と相成ることになってしまいました。なんと歩数計で2万歩を超えてしまいました。
実は、大宰府から二日市、天拝山周辺はわたしの育ちのゆりかごで、小学校時代は太宰府天満宮の境内から遊園地は遊び場でした。
今年の菖蒲のころは外国人観光客もほとんどなく、かなり閑散とした度合いがひどく胸が痛んだのですが、今日は、良かった。
まず、普通だったら小一時間で大宰府につくのですが、1時間ほど余計時間がかかりました。
福岡中心部から東西南へ休みを過ごす人たちが一斉にでたように感じます。
大宰府についた10時半頃は少なめだった観光客も帰りに通った3時ころには参道がかなり満杯になるほど増えていました。
そして、東南アジア系の言葉が数種類飛び交っていたことが何よりうれしく感じました。
❝がまんの3連休❞が❝たのしい3連休❞になりそうで、 GO TO もよかったのではないかと感じています。
今まで、わたしも❝医療崩壊だけは何とかして❞とは、思っていたのですが、最近の医師会や専門医の狼狽を見ていて、❝医療崩壊がどうなろうと❞と思うようになってきました。
❝どうせ、あと1000人の命だ。我慢しようと。❞
❝普通の生活をして、社会文化経済活動を行って、行きつくところまで試したらいいジャン❞とね。
❝どうせ、専門家や医師会ができることは何もないんだから❞とね。
❝自分の命は、自分で守りなさい❞と言われるのが落ちなんですから。
バカに付き合う暇はありません。
それぞれに楽しそうな国内外の観光客をながめながら楽しいひと時を過ごすことができたことを感謝しています。
田中美知太郎の引用にはだまされた。田中美知太郎とは「憲法で平和を唱えるだけで平和がもたらされるというなら、台風は日本に来てはならないと憲法に記すことだけで台風が防げるか」という言葉があまりに有名だが、田中美知太郎の思想性と反氏のそれはあまりに乖離しすぎているので、単なるダミーだったのだろう。田中美知太郎の思想信条を知らずに、ギリシャ哲学系の著作だけを詳しくマスターしていたのかもしれない。
戦前の軍部、軍部とよく言うが、戦前の軍部にも欧米の歴史を研究し、日本がアジアの敵となっては絶対にならないと考える多くの軍人がいた。それらにすべての責任をおしつけながら、まだ戦争の清算は終わってないと開き直って、極左と手を組み、卑劣に生き残ったメディアは本当に悪の権化なのである。それが日本を呪いつづける。多くのメディアの中枢でお家芸を続けているからで、コロナ報道などでも日本はそれが如実にあらわれた。
8+8+5+2+3+2=27と、都合27件の無礼講。粗製乱造では先輩格の同志、偏執狂の老婆のお株を奪う、昨今はやりの新型コロナ同様の過去最高を驀進中。
滑稽というか、憐れむべきは、70⇒【岩波書店…「人間 西田幾太郎」がわりと良い。もちろん岩波風の強いバイアス…西田幾太郎を研究する際に非常に参考となる本のひとつ】なる迷言。「研究ねぇ」
「西田幾多郎」(ニシダ キタロウ)は承知しているが、「西田幾太郎」なる哲学者を寡聞にして聞かない。「バイアスがかかっている」のは、貴殿のお頭の方じゃないの。医者に相談した方がいいのでは。清水幾太郎(シミズ イクタロウ)と混線しているのかもしれない。
通常の日本語変換では、「キタロウ」=[kitarou] [kitaro]と打って、「幾太郎」は出てこない。幾多の(イクタノ)しか出ないデスョ。75の妄想を聞かせられると、相当重症だ。
田中(美知太郎)先生「君大丈夫か? 悪いことは言わないから、早く寝なさい」 (「そのうちには精神病の医者へ回したほうが…」)▽私「先生、男のヒステリーでしょうか?」▼田中(美知太郎)先生「蒙以養正」▽私「先生、それは上原專碌」▼田中「おお、そうじゃった。あの人も大変じゃった」
☆余白に Gクン氏、寝言(72)を並べる前に,記号論理学を勉強したら。貴殿が相手にするような御仁でない。technical termの言明(statement)ですョ。
(私たちの考えー分科会から政府への提言ー)
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/seifu_teigen_16.pdf
(第16回分科会の配布資料)
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/corona16.pdf
今後は、Travel事業については所管をする国交省の外局である観光庁(観光産業課)において、Eat事業については所管をする農水省(食料産業局食品製造課Go To Eatキャンペーン準備室)において、都道府県等の関係機関の意見を踏まえ検討がされ具体的な運用方針が示されることになると思われます。
再び、緊急事態宣言が必要となる事態(医療崩壊寸前の状況等)に至らないことを願うばかりです。
前回、字数の都合で割愛した箇所。英語なので、各位、自分で解釈されたし。
‘and the præfects of Egypt were awed or provoked by the temporal power of these Christian pontiffs. Ardent in the prosecution of heresy, Cyril auspiciously opened his reign by oppressing the Novatians, the most innocent and harmless of the sectaries. The interdiction of their religious worship appeared in his eyes a just and meritorious act; and he confiscated their holy vessels, without apprehending the guilt of sacrilege. The toleration, and even the privileges of the Jews, who had multiplied to the number of forty thousand, were secured by the laws of the Cæsars and Ptolemies, and a long prescription of seven hundred years since the foundation of Alexandria. Without any legal sentence, without any royal mandate, the patriarch, at the dawn of day, led a seditious multitude to the attack of the synagogues.
Unarmed and unprepared, the Jews were incapable of resistance; their houses of prayer were levelled with the ground, and the episcopal warrior, after-rewarding his troops with the plunder of their goods, expelled from the city the remnant of the unbelieving nation. Perhaps he might plead the insolence of their prosperity, and their deadly hatred of the Christians, whose blood they had recently shed in a malicious or accidental tumult. Such crimes would have deserved the animadversion of the magistrate; but in this promiscuous outrage, the innocent were confounded with the guilty, and Alexandria was impoverished by the loss of a wealthy and industrious colony.’; E. Gibbon, The Decline & Fall of the Roman Empire, Cap. 47., Modern Library, Vol, II, p. 815)
「PhilologieなきところにPhilosophieはない」(吉川幸次郎談)、「人生の本質は如何! その文学との関わりや如何! 素人がしばしば発する、専門家の度肝を抜く、広大にして無辺なる質問」(同)
「著者の本來の好みから言へば、自由に勝手なことを考へるのが、何よりの樂しみなのであるが、そのやうな好みに溺れることは、何か危險なこと、許すべからざることと考へなければならなかつた。この故に私は、古典言語學の部分的な小問題に没頭することをもつて、むしろ自分の救いであり、自分の爲になる勉強だと信じたのである。…自己の獨特の思想などを誇るのは、淺薄な虛榮心にすぎず、前人未到の新奇を求める功名心は、哲學の動機としては、甚だ俗惡であると言はねばならない。…私は人々がとうに卒業してしまつたと考へてゐる古人プラトンの亞流であり、舊式なプラトン主義者(cum Platone malo errare)として嗤はれることをむしろ誇りとしる。」(田中美知太郎『ロゴスとイデア』あとがき)
「プラトンはその對話篇に、現存の人物を一人も登場させず、いつも既に故人となつた人物だけを用ゐたとも言はれてゐる。しかし彼の對話篇そのものは、彼の現在の問題を取扱つてゐたのである。價値の判然としない現存の二、三流思想家の名前が出て來なければ、現在の問題は語られてゐないと思ふやうな、眼のきかない批評家には困つたものである。著者は現在の質實な問題について、現在の流行書が最もよく敎へてくれるとは信じないのである。それらは現在を反映する一つの現象として、觀察的興味はあるけれども、ついて學ぶべきものは、何もないのである。」(同『善と必然との間に』あとがき)
學問とは好き勝手に自由に考えることが本質だとしても、その大半は、既に過去に語り尽くされたことでしかなく、独創性なぞ絶無に近い。正確な引証と過不足ない考証が学問の常道。自分の無學に通底してこそ、ほんの僅かな前進も可能になる。
気儘なおしゃべりはお子様の粘土細工のようなもので、學問とは何の関係もない。
☆訂正 77は、8+8+5+2+3+2=28の誤り。
それを”外形的に”(中身にはいらず)のみ見てみますと、26で反さんは→・・けたたましい偏狭な信念の徒はこれ以上相手にしない< としているので、それ以降の投稿はできないはずです(自己拘束力)。それでも以降異論がでてくるということは、説得力のある説明がなかったできなかった!と判断されます(これも外形的に)。旧会さん(ご両人とも)もこれ以上、この件には、触れない(お互いに)ということが賢明だと思います。
そういう論理的な説明をして、視聴者や国民を安心させる代わりに、岡田氏も、小池氏も、恐怖を煽っている。また、日本のマスコミがそういう報道方針を取るから、日本では、コロナの死者よりも多い自殺者数に海外メディアが驚愕。日本の「メンタルヘルス・パンデミック」 (msn.com)という現象がおこるのである。独居老人や、生活困窮者がテレビ報道を見て、将来を悲観するからである。
コロナ分析があまりにもバカバカしくなってきたので、もうこれを最後としよう。ただし、❝コロナ煽り❞が徘徊し始めたら野放しにはしない。
一山、1000人死者数のコロナである。
個別死亡が、いかに悲惨でも、それは❝コロナ感染症専門医❞が医療研究して治療法を開発していけば良いだけのことである。
❝一般市民はみずからの果すべき務め、社会文化経済活動に専念すれば良いだけのことである❞
全国の人工呼吸器装着数がかなり伸びたのでここ1週間が我慢のしどころであろう。
特に重要なのは、地方県知事の動揺の具合であろう。
感染者数増加の意味合いがわかってないだろうから浮足立てば県民に動揺を与え、いたずらに社会不安をもたらすであろう。
動揺に菅総理の政策動揺はいたずらに経済動揺をもたらし、社会の安心・安全感覚を削ぐだけである。これでは経済回復にはたどりつきもしない。
一番いい政策は、
【コロナ安全宣言】を出して、医者たちを医療十字の本分に専念させることである。
医者や専門医たちに日本社会の分析をさせても国民は被害を受け続けることが明瞭になってしまった。
NHKの朝の放送が、222nmの紫外線が対コロナ効果として有望であると言っていた。これが本当なら、結構、良いであろう。
生化学の学生実験で初めに覚えるのはDNA吸光度220nmである。
大学から保育園、そして介護施設、刑務所、自衛隊などの集団活動施設の蛍光灯を紫外線222nmの蛍光管に変えれば、コロナ保菌者、陽性率はNegligibleに消滅していくだろう。
紫外線222nm、は果たして対コロナの救世主となるか❢❢❢
さて、今日はどこへ散策に出かけようか?
❝たのしい3日間❞の中日である。
37. 「行き当たりばったりと柔軟性はそれこそ紙一重」。批判するのは簡単だが、現場の対応や混乱は、さぞ大変だろう。私も、56. 「池田信夫氏の11/19のアゴラ記事「第3波は来たのか」がバランスのとれた分析である」と思う。日下部さんの説を信望しているが、残念なことに周りの一般市民(職場の人など)に話してみても、なかなか共感を得るのは難しい。60.あたりも、まったくご指摘の通り。
私はカロさんのようにワイドショーをチェックできないけど、Gくんが以前触れいていた藤原かずえの著書「テレビ界『バカのクラスター』を一掃せよ」を買って読んでみたら、そのひどさがわかった。
私もアベノマスクをありがたく愛用していた一人。最近は使い捨てマスクが流通してきたから、そういえばどこへやってしまったか。。。
せっかく軌道に乗り始めた「Go To キャンぺーン」が、中途半端に終わってしまうことがないように望む。
7月から都内で❝鯉すくい(PCRによる感染者すくい)❞を100日やってきて毎日5%~10%の鯉が取れるわけだ。
❝都内に10%くらいの鯉がいる❞と計算できない大人は小学校の算数を勉強しなおしなさい。
今、思いつきました。
もし、222nm紫外線に対コロナ効果がありそうなら、
飲食店、ホストクラブ、ライブ施設の照明を222紫外線の蛍光管にすれば安全ですね。
これは、はやく実行しましょう❢❢❢
222nmの蛍光管をつけよう❢❢❢
これから山を越え、吉野ヶ里周辺へ散策に行ってきます。
「「西田幾多郎」(ニシダ キタロウ)は承知しているが、「西田幾太郎」なる哲学者を寡聞にして聞かない」
まったくご指摘通りで、実に情けない。若いとき愛読していた哲学者で「キタロウ」と呼ぶのは過去には意識していたが、無意識に名前を清水幾太郎と取り違えた。やはり書いた後に人名くらいは校正しないとだめだな。
ここは、弁解になるが、この辺が理系専攻と文系専攻の違いになるかもしれない。私は友人と西田幾多郎について議論したことなく、あくまで一時期に博覧強記に西田幾多郎をひとりで読んだにすぎない。そこで哲学専攻などしていたら到底まちがえないという人名の記載を誤った。
それは大変はずかしいことだ。しかも学者さんのコメント欄では。
ただ、名前など二次的になるほど「善の研究」や解説というのを読みふけって考えた時期があって、いまだに「西田とは何だったのか」という風に、今後も意識しようと心掛けている100人くらいの思想家のひとりであるというだけである。自分が咀嚼しないといけないので、反氏に教えをこうつもりは毛頭なく、学術的な研究をしようというわけでもない。学術的にどうだというのは無関係だ。それは、聖書や仏典などを愛読するが、その学術的研究にはあまり関心のない読者とある意味似ている。こういう読者は日本に意外と多いのではないか。ただし、私はすぐれた学術研究にはそれなりに関心ある。
まあ、次からは気を付ける。また、最後に強調するが、ここで哲学談義をしたいわけではない。反氏よ、ミスを指摘してくれて有難う。
くどいが、それこそ、日本の左翼学者や左翼メディアの顕著な特徴であった。つまり、相手のミスをあげつらって、それよりはるかに重要な論点をはぐらかす。それこそが、日本の偏向マスコミの手口である。相手のミスに乗じて集団的な総攻撃をかけて、モリカケ騒動など半狂乱となって日本社会を混乱させつづけているが、重要なメディア批判には論点をずらしまくって頬かむりしてきたのである。
田中美知太郎とは「憲法で平和を唱えるだけで平和がもたらされるというなら、台風は日本に来てはならないと憲法に記すことだけで台風が防げるか」という主張をされる極めて現実的な知性派、常識的な考えの持ち主で、その田中美知太郎さんの個性は、ふんだんに岩波新書の「ソクラテス」にも表れているが、反氏は、違うのである。「知性のある者が、無学のもの、無知なものを指導する。」要するに、芦田均さんが「新憲法解釈」に書かれているファシズム的考え方、「優秀な民族が、劣等な民族を指導する。」ならぬ「日本の優秀な人が、日本の劣等な人を指導する。」という考えの持ち主なのである。長谷部教授も同じである。だから独善的な解釈になるのである。
みんなで話し合って、お互いの意見に耳を傾け、妥協しあって作り上げていこう、という意識は皆無である。本来それが「民主主義の考え方」なのに。
反氏がそういう人格である、ということがわかれば、反氏の主張の大略はわかる。反氏には、田中美知太郎さんへ敬愛の情、著作物の知識は膨大にあるのだろうが、田中美知太郎さんの思想性、精神性にはまるで無頓着である。 日本では、右翼と軍国主義が結び付けられるが、旧ソ連、北朝鮮をみれば明らかなように、社会主義の国にも軍国主義の国はある。逆にその軍事力を使って自国民を弾圧し、近隣諸国に圧力をかけている。その認識が東大系憲法学者には、欠如しているのである。
Spiegel誌に指摘されているように、日本の国力は落ちているのだから、どうすれば、豊かな日本を維持できるのか、本来は、首相を糾弾する代わりに、案をだすべきなのである。Covid19のこの欄も同じである。重複感染すると、Covid19が重症化するのなら、日本が大変になるからあの記事を翻訳した。ところが、焦点がインフルエンザ菌に移り、このような不誠実な訳しかできない無知無学な、虚偽体質の人の主張は信頼できない、と問題がすり替わってしまった。それも、反氏と政府解釈氏の策動である。
91⇒【カロリーネさんや私のミスを指摘して鬼の首でもとったように勝ち誇るのではない。丁寧に指摘すれば相手も感謝】――90を読む限り、「間欠泉」氏にはそういう側面もあるのだろうが、偏執狂の老婆はそうでもあるまい。
「鬼の首でもとったように」も余計な修辞で、「間欠泉」氏や老婆程度を相手にして、勝ち誇るも何もあったものではない。私はただ、事実(τὸ ὅτι)をもって語らしめているだけ。それには、具体的な根拠(διὰ τι)、事実を提示する(ἀληθεύειν)ことが不可欠だろう。
老婆のような、ひっきりなしの事実誤認、誤記、論理破綻、論点ずらし、無断盗用=剽窃、怠惰の常習者、「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)の見本(παράδειγμα)のような人物、頑迷固陋さ(δυστράπελος κὰι ἀκληρότης)が際立つ精神の幼児には、事実を突きつける以外にはあるまい。
むろん、充分に(ἱκανῶς)説得力(πειθώ)のある他者の「見解」(δόξα)を気にかけ(ἐπιορκέω)、敬意を払い(τιμάω)、「入念に検討する」(πειράζω ἱκανώς)ことに吝かではない(οὐδεὶς φθόνος)。ただし、それに「値する」(ἄξιος)立論、人物ならばの話だ。
議論は言われたことがすべてなのだ。動機(ὑποθεως)や状況(ἡ κατάστασις)は基本的には関係ない。思想遍歴など、どうでもいい。文学ではない。思考の自由、つまり、「何ぴとも思ったことの廉では罰を受けない」(cogitationis poenam nemo patitur.)としても、その内容への批判は自由だし、論争は苛烈だ。
相手に忖度したり、あらぬ妄想を膨らませる前に、その程度の覚悟と矜持(πίστις καὶ μεγαλοψυχία)はもった方がよい。
▼2018年6月5日・7⇒【フランスでは、5月革命の影響で、右派のドゴール体制から左派の社会党のジスカールデスタンの移行の布石になったのと同様、西ドイツ、ドイツ連邦共和国も、右派のアデナウアー体制から両国とも…学生運動の影響で、左派が実権を取った】という、欧州事情通という触れ込みとは全く別の、全文誤りだらけの法螺話。
最初はただの無知な阿呆と、本欄の「Gくん」氏の放任ならぬ放置(ἡ ἀμέλεια)していたが、意地になって余り莫迦話を繰り返すので、他の誤謬、法螺話とまとめて指摘したのが、以下のコメントだ。
★同年7月14日・75⇒《左派の社会党のジスカール=デスタンはミッテランの誤り。もっとも、ドゴールの後のフランス大統領は右派のポンピドーで左派ではない。ジルカール=デスタンは左派ではなく中道右派で、ポンピドー死去後の大統領。再選を期したがミッテランに敗れる。両国とも左派が実権を取ったのではない。この記述は目眩がしそうな間違いの宝庫》
それに対する老婆の応答、釈明が、個々の事実関係の間違いには一切言及せずに言い放たれた、7月15日・80⇒【(「独仏両国とも…学生運動の影響で、左派が実権を取った」という大ウソを=筆者註)西ドイツで左派のブラントさんが政権の座についたのは確実…それを否定することは、歴史への冒涜」】(「死刑制度をめぐる議論と憲法9条」の項))という狂信的な居直りだった。
「歴史への冒涜」とは畏れ入ったが、冒瀆の「瀆」は老婆の場合、独りよがりな狂信に淫する自瀆の「瀆」だろう。
これは、最近のインフルエンザ菌誤訳騒動で各位も周知の通りだ。
それを含むと思われるブログの当該回の全コメントをトレースして別面に貼り付け、改めて【アデナウアー】【歴史への冒涜】を検索すれば、現場に到着する。
法螺話=誤謬発生の現場を押さえれば、既に相手の虚偽をあぶり出し、事実=証拠を発見するという最初の問題の大半は解決されたも同然だ。別に特別の執念や悪意を要しない。
人は勝手に記憶を作りかえる変える(‘οἱ γὰρ ἄνθρωποι πρὸς ἃ ἔπασχον τὴν μνήμην ἐποιοῦντο.’; Thucydides, Historiae, II, 54-3→「人間というものは自分の経験に合わせて、過去の記憶をつくり変える」)ものだ。肝腎の当人が忘れて、しらばっくれる(εἰρωνεύομαι)場合もある。相手の嘘が見抜けないようでは、新聞記者さえ勤まらない。
問題の老婆の歴史観、歴史認識以前の史実の間違いも、仏5月革命(5月危機)の翌年1969年9月の西独総選挙で政権を奪い首相に就任したSPDのW. ブラント(Willy Brandt)と、その5年後の74年5月の仏大統領選挙で、ド・ゴール(Charles André Joseph Marie De Gaulle)ではなく、その後継のポンピドゥー(Georges Jean Raymond Pompidu)、その大統領の急死を受けて保守統一候補として立ち、左派連合のミッテラン(François Maurice Marie Mitterrand)を破って当選したジスカール=デスタン(Varély Giscard d’Estaing)を、「ドゴール体制」「左派の社会党」、しかも「五月革命」のあった1968年から1974年にスライドする、老婆以外には滅多に為し得ない「離れ業」だ。
何せ、老婆はドイツの1986年に始まる「歴史家論争」(Historikerstreit)さえ知らない。
そもそもアデナウアー(Konrad Adenauer)西独首相は5月革命の前年、1967年4月19日に死去しており、⇒【右派のアデナウアーから】云々は、あり得ない立論ということだ。
首相を務めていたのはさらに遡って63年までで、以降西独はL. エアハルト(Ludwig Erhard, 63~66)、K. G. キージンガー(Kurt Georg Kiesinger, 66~69)と続き、社会民主党のブラントが首相になるのは1969年10月21日。
さまざまな政治・法律談議では、私以外の投稿者に対して、歴史認識が足りないとか、国際政治の現状を知らないとかいう法螺を繰り返しており、それで元西独留学生というのだから、開いた口が塞がらない。だから、性懲りもなく間違いを繰り返す。議論以前の問題だ。
ところで、「Gくん」氏は81を見る限り一向に理解していないようだが、アリストテレスが考案し、現代論理学でも基本的に有効な定言三段論法(categorical syllosismus=συλλογισμός)とは、「すべての人間(G)は死ぬ(H)」→「すべての日本人(F)は人間(G)である」→「すべての日本人(F)は死ぬ(H)」という議論を指す。このF, G, Hを名辞(term=正確には一般絶対名辞)という。
そこから帰結にあたるF→Hを導き出すには、最初の言明G→HとF→Hと結びつけるをF→Gが介在しなければ三段論法による推論とは言えない。
この場合(F→G)、主語のF=小名辞、述語のG=大名辞、そして各項目の前提には現われるが結論には表れない残りの名辞を三段論法の中名辞という。そして中名辞と大名辞を含む前提を大前提(major premise)、中名辞と小名辞を含む前提を小前提(minor premise)という。
私の議論は篠田さんの冒頭二段落の議論は三段論法の体をなしていない、という趣旨だ。そこにあるのは、単なる論証不在の断定。
人類普遍の言語の論理的使用の原則で、難癖ではなく、指摘が72⇒【見苦しかった】道理もない。
無思慮な軽口を越えた悪罵でしかないが、92⇒【田中美知太郎さんは、民主主義的な考えの持ち主…反氏はファシズム的な考え】も、典型的な事実誤認。
田中は私の師である藤澤令夫の師で、ともに世界水準のプラトン学者。田中は最初の主著『ロゴスとイデア』の「あとがき」で指摘するように、民主制の原理的な否定者であるプラトンに傾倒し、「私は人々がとうに卒業してしまつたと考へてゐる古人プラトンの亞流であり、舊式なプラトン主義者である(cum Platone malo errare)として嗤はれることをむしろ誇りとする」と決然と語るように、民主制を原理的に矛盾を含んだ二義的な政治制度だと論じている。
しかし、それは直ちに現在の民主制を否定して別の政体を志向する、現実的な実践も視野に入れた政治的立場を意味しない。
そうした立場から、現行憲法や9条を論拠にした戦後民主主義を田中は根源的に、つまり徹底的に批判する。それがプラトン研究と渾然一体となっている。民主制それ自体に何の価値もないからだ。本格正統の哲学の伝統を日本に根づかせるために心血を注いだ。その点で、西田幾多郎にも否定的だ。
だから、戦争絶対反対、核兵器廃絶を神聖視し、それに否定的な一切の議論をタブー視する戦後の日本的な風潮、価値観を新興宗教=「神聖なる病」になぞらえ歯牙にもかけなかった。
究極の「醒めた人」ということになるが、それを成立させるのは、「国家の安全は最高の法」(securitas cvitas est summus lex)とした古代ローマにも通じる冷厳な認識だ。
お子様民主主義の心酔者には、無縁の存在。[完]
それにしても、よく数えているわ。元新聞社のデスクって細かく、よく観察してる。友人に剣道の達人、自称「女赤胴鈴之助」っていうモサがいたけど、太刀筋を見極めって一刀両断ってわけね。
1日28件もコメントしちゃダメ。鬼気迫るっていうのかな、なんかブキミ、ついていけない。理系の人って子供っぽいところがあるのかも。
飽きもせずに盛んに糾弾している、「サヨク」っていうの、おばあちゃんに言わせると共産党だけど、新聞やテレビの人たちがみんなそんなに偏っているのかな。どうせ、サラリーマンでしょ。お給料はべらぼうにいいんだろうけど。NHKも民放もすごいらしし、それでそんなに左翼的になるのかしら。結局、下じもからみたら、みんな体制側のエリートじゃない。なんか、しっくりこないっていうか、腑に落ちないわ。
私、日下部センセーは好きだわ。尺取り虫みたいな変な記号をよく使うけど、なんかかわいい。「バッカも~ん」で怒られそう。死んだおじいちゃんを思い出しちゃった。
反時流さんが挙げた映画「アレクサンドリア」、テレビで何年前か、見た記憶がある。綺麗な女の人だった。確かにひどい殺され方だった。ヒュパティアっていうんだ。ギボンて長いから、旦那の読みさしのぞいてみたけど、途中で放り出した。狂信的な人たちって、みんああなのかな。
議論でカッカするのは感心しないけど、ここのお年寄りたち(失礼)、みんな元気。年金、たくさんもらえるんだろうな。羨ましい。
女帝の(失礼)カロリーネさんは、興味ないわ。政府解釈さんにまで八つ当たりして、礼儀知らずよ。本当にお気の毒。
かしこ
不毛でも何でも在りません。
命を取るに決まっています。
経済は再生可能ですが、一度失われた命は再生不能だからです!
『 そこにいつのまにか、どうしても全てを政府の責任したい左翼勢力と、それに反発する勢力のイデオロギー論争がからみあってきて、大変なことになってきている。 』
したいしたくない話では在りません!
全ては、政府の責任です!
「Go Toトラベル」は、最初、東京を発着共に除外していましたが、10月1日から対象に加えることになりました。
東京が「Go Toトラベル」にプレイヤーとして参加したのは、2020年10月1日なのです。
その日に、東京を訪れた人と東京から他道府県に旅行した人が感染したとしたら、二週間後の10月15日前後に発症する可能性が高い。
厚生労働省のホームページの新型コロナウイルス感染症について > 国内の発生状況など>【 国内の発生状況 】 によれば、
( https://www.mhlw.go.jp/stf/covid-19/kokunainohasseijoukyou.html )
[陽性者数]、[入院治療等を要する者の数]、[重症者数]の三つのグラフにおいて、第2波が終わりそうなのに、東京が「Go Toトラベル」に参加した日の二週間後の10月15日前後から第3波が始まっています。
グラフを見て頂ければ分かると思いますが、可成りハッキリと、10月15日前後が第3波の起点になっているのが分かると思います。
従って、東京が「Go Toトラベル」に参加したことにより、武漢コロナウィルス感染症が拡散した疑いが濃厚です。
これは、政府の責任以外何物でも在りません!
従って、今直ぐにでも、東京発着の「Go Toトラベル」は止めるべきです!
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