先週末に、「新規陽性者数:本当に「指数関数的」拡大なのか?」という文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2049119.html 新著『新型コロナからいのちを守れ!』という題名の自著の出版の機会に、西浦博教授が「報道各社のインタビューに応じ『都市部で感染者が指数関数的に増加している』と述べ」たことを受けたものだった。https://www.tokyo-np.co.jp/article/70490/
果たしてこれは正当化される発言だろうか。対談集『不安を煽る人たち』を出版したばかりの私としては、非常に気になるところである。https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%82%92%E7%85%BD%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-WAC-BUNKO-330-%E4%B8%8A%E5%BF%B5/dp/4898318304/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=1607145806&sr=1-1
私は、「第1波」の際には、「西浦モデルの検証」と題した文章をシリーズで13回書いた。「第2波」の際には、「日本モデル vs. 西浦モデル2.0の正念場」と題した文章をシリーズで8回書いた。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda その私としては、「第3波」に対する西浦教授の発言には、関心を持たざるを得ない。
先週末、私は、果たして西浦教授のように言えるか疑問だ、という趣旨のことを書いた。感染拡大のスピードは、11月12日頃にピークを迎えてから鈍化傾向に入っている、と言わざるを得ないと感じていたからだ。全国、東京、大阪の指標のいずれも、新規陽性者の拡大は11月下旬になって横ばい状態であるように見えたからだ。
ちなみに11月下旬の連休の影響があれば、12月第1週前後に新規陽性者数に変化が見られることになる。確かに、この一週間では、実際に、鈍化傾向が鈍る様子、つまり少し増加率が高めに戻る様子が観察された。しかしそれは必ずしも大きな動きにはつながらず、再び鈍化傾向に戻り始めているように見える。
実は「第2波」の際にも、続いていた拡大スピードの鈍化が、7月下旬の連休の一週間後には少しだけ跳ね上がりを見せた時期があった。その連休の影響が見られた後の8月2週目頃から、新規陽性者数は顕著に減少を開始した。
このような動きを、「指数関数的拡大」、と呼ぶのは、いささか困難であるように思われる。もっとも指数関数的拡大の意味は、意外にも、可変的である。たとえばグラフの横軸の単位を1年とか10年にした場合、現時点でのデータでは何も判断できなくなる。あるいは「昨日から今日にかけての二日間だけについては指数関数的拡大が見られる」と言うとき、実質的な意味はほとんど何もないが、もし今日の新規陽性者数が、昨日の新規陽性者数の乗数であったら、必ずしも間違いではない。
押谷仁・東北大学教授は、4月に西浦教授が報道陣を集めて「42万人死ぬ」をやったときのことを述懐して、次のように述べている。
―――――――
尾身先生から、西浦さんが試算を公表する可能性があると聞いたのは前夜。当日朝電話したが西浦さんは出ず、僕は新橋のスクリーンであの推計値が発表されたのを見ました。試算の公表には反対でした。・・・ああいうモデルは被害想定を大きくしようと思えば、どこまでも大きく出せる。この感染症の実態にいまの数理モデルは合わないと思います。
――――――――――
押谷教授は、過大な試算を強調することの危険性について、指摘する。
――――――――――――
あまりに現実とかけ離れた数字を出すと、そんなに死亡者が出るなら細々とした対策など意味がないのではないかと、人々が逆に対策をあきらめる方向に動く危険性があるのです。https://www.dailyshincho.jp/article/2020/07090602/
―――――――――――――
私は繰り返し押谷教授を「国民の英雄」と呼び、その貢献を称賛し続けている。私は、押谷教授の考え方が正しいと思う。煽るだけ煽り、怖がらせるだけ怖がらせることが「専門家」の役割である、とは言えない。少なくとも長期戦である新型コロナへの対策として適切とは思えない。
被害がコントロール不能なレベルに達しているという認識が広がりすぎると、人々は地道な努力を放棄し、「全ては政府の責任だ!テレビのワイドショーにしたがえ!さぼってないで早くウイルスを撲滅しろ!」という「煽り」言説に留飲を下げることしかしなくなってしまう。国民の行動変容が絶対不可欠な感染症対策を長期にわたって続けていくことは、不可能になる。
日本は現在でもまだ、強制力を伴う感染症対策を可能にする法整備を充実させていない。国民の現実的な状況認識が極めて重要だ。国民意識がついてこなければ、対策の効果は出ない。
政府が「何か」をしてウイルスを撲滅するべきだとする左派勢力と、対策は不要だという右派勢力に社会が分裂してしまえば、4月のような緊急事態宣言に踏み切っても同じ効果は出ないだろう。
西浦教授には、印象論で語っているかのように聞こえてしまう描写や予測を控え、もっと専門家らしく客観的な現状の分析をすることを心掛けてほしい。たとえば、「指数関数的拡大」が起こっていると主張するのであれば、それはいかなる意味でそうなのか、きちんと説明するべきだ。
|
日付 |
新規陽性者数 |
直近一週間の陽性者数 |
7日移動平均 |
前日からの増加比 |
直近一週間の増加比 |
|
11/1 |
606 |
4821 |
689 |
103% |
121% |
|
11/2 |
482 |
4902 |
700 |
102% |
121% |
|
11/3 |
868 |
5121 |
732 |
104% |
121% |
|
11/4 |
607 |
5004 |
715 |
98% |
115% |
|
11/5 |
1049 |
5249 |
750 |
105% |
116% |
|
11/6 |
1137 |
5617 |
802 |
107% |
123% |
|
11/7 |
1302 |
6051 |
864 |
108% |
129% |
|
11/8 |
938 |
6383 |
912 |
105% |
132% |
|
11/9 |
772 |
6673 |
953 |
105% |
136% |
|
11/10 |
1278 |
7083 |
1012 |
106% |
138% |
|
11/11 |
1535 |
8011 |
1144 |
113% |
160% |
|
11/12 |
1623 |
8585 |
1226 |
107% |
164% |
|
11/13 |
1704 |
9152 |
1307 |
107% |
163% |
|
11/14 |
1723 |
9573 |
1368 |
105% |
158% |
|
11/15 |
1423 |
10058 |
1437 |
105% |
158% |
|
11/16 |
948 |
10234 |
1462 |
102% |
153% |
|
11/17 |
1686 |
10642 |
1520 |
104% |
150% |
|
11/18 |
2179 |
11286 |
1612 |
106% |
141% |
|
11/19 |
2383 |
12046 |
1721 |
107% |
140% |
|
11/20 |
2418 |
12760 |
1823 |
106% |
139% |
|
11/21 |
2508 |
13545 |
1935 |
106% |
141% |
|
11/22 |
2150 |
14272 |
2039 |
105% |
142% |
|
11/23 |
1513 |
14837 |
2120 |
104% |
145% |
|
11/24 |
1217 |
14368 |
2053 |
97% |
135% |
|
11/25 |
1930 |
14119 |
2017 |
98% |
125% |
|
11/26 |
2499 |
14235 |
2033 |
100% |
118% |
|
11/27 |
2530 |
14347 |
2049 |
100% |
112% |
|
11/28 |
2674 |
14493 |
2070 |
101% |
106% |
|
11/29 |
2041 |
14384 |
2054 |
99% |
100% |
|
11/30 |
1429 |
14300 |
2042 |
99% |
96% |
|
12/
1 |
2019 |
15102 |
2157 |
105% |
105% |
|
12/
2 |
2419 |
15591 |
2227 |
103% |
110% |
|
12/
3 |
2507 |
15599 |
2228 |
100% |
109% |
|
12/
4 |
2425 |
15514 |
2216 |
99% |
108% |
|
12/
5 |
2508 |
15348 |
2192 |
98% |
105% |
|
12/
6 |
2058 |
15365 |
2195 |
100 |
106% |




コメント
コメント一覧 (70)
つまり、感染者と濃厚接触しなければ、感染、それに続く重症者、死者の発生は防げる。どうして現実に感染原因の一番多い、大阪で重症者激増の原因となっている、家庭内感染を防ぐことに焦点をあてないのか、と思う。
新型コロナウイルスは未曽有のパンデミックです。日本は、第3波に直面しています。第1波、第2波とは比べ物にならない脅威です。医療が限界に近づいています。今こそ、私達1人1人の賢い行動が求められています。国民全員が力を合わせ、この冬を乗り切る必要があります。 ❞
これは、山中伸弥が書き直した❝第3波❞への慈愛に満ちた警告文である。
わたしには、全くの煽りにしか思えず、西浦博の❝指数関数的増殖❞と全く同類に感じられるのだが、共通点は
●さも正義感に満ちて訴えかけるような文面にしている。
●科学的事実、根拠が明示されていない。
●❝脅威❞とか、不安を煽る言葉が書き込まれている。
日本は言論自由の国だから何を発言してもよいだろう。
しかし、わたしは不必要に不安をもたらすような発言は、特に、その科学的根拠が明示されない場合は、科学研究者倫理に反することだと考えている。
そういう意味で、わたしは山中伸弥や西浦博を批判するのである。
医療崩壊とコロナ恐怖は別物である。
医療崩壊は❝感染症2類指定❞によって引き起こされた、身動きならぬコロナ対応策による人災であろう。
山中伸弥のブログ1面を引用したが、
❝日本は、第3波に直面しています。第1波、第2波とは比べ物にならない脅威です。❞は本当だろうか?
わたしは科学的根拠も事実もないと判断しているから、これは単なる煽りにすぎないと判定しているのだ。
先に、❝一山、1000人のコロナ死者数❞と目の子計算を示した。
❝死亡者増加らしい❞という情報をかんがみて、三山目の死者数を2倍の2000人と想定しておく。すると、致死率は、
一山目 感染者数 35000人 死者数 1000人 致死率 0.028
二山目 感染者数 60000人 死者数 1000人 致死率 0.0167
三山目 感染者数 13万人 死者数 2000人 致死率 0.0154
となるから、到底、脅威になったようには見えない。
もし、山中伸弥がかつて言ったように❝10万人❞死ぬのなら、毎日、1500人くらいが、バッタバッタと死んでいかねばならぬ。
しかも、その時の致死率は 0.4 位になってしまって、当初の致死率の10倍~20倍になってしまうのである。
正気な科学研究者であれば、そんなことは考えつきもしないであろう。
だから、山中伸弥の言う❝第3波は比べ物にならない脅威❞というのは、科学的事実にもとづかない、間違いなのである。
前者がいうまでもなく、テレビのワイドショー、岡田博士や玉川徹コメンテーター、後者が日下部教授や反氏であるが、私は、Spiegel誌やyoutubeを通して欧米のCovid19の現状を知るだけに、後者の意見にも賛同できないのである。どうして、中道がいけないのだろう?
山中伸弥教授も、米国で研究生活もされ、米国の知己が多いから、Covid19の脅威を感じられるのは当然だと思う。トランプ大統領のアメリカのように、マスクもせず、三密を回避せず、Thanks giving Dayだから、と米国内には感染者、死者も驚異的に多いのに、マスクせずに行動の自由を制限しなければ、感染者、死者共に歯止めがかからないのは目に見えている。ジュリアーニ弁護士も感染されたのではなかったのだろうか。当然の帰結である。
本来、日本はCovid19対策の先進国なのだから、国際社会で、国際協調をしながらCovid19を乗り越える、先生役をすべき国なのであって、いつまでも、その先生を嘲笑したり、批判したりする日本のマスコミは、どうかしているのだ、と私は思う。
自分のブログに気ままに何を書こうと随意だから、それ自体について咎め立てする意図はないが、表題の「指数関数」云々についての部分を拡張して、⇒【「全ては政府の責任だ!テレビのワイドショーにしたがえ! さぼってないで早くウイルスを撲滅しろ!」という「煽り」言説】とか、⇒【政府が「何か」をしてウイルスを撲滅するべきだとする左派勢力と、対策は不要だという右派勢力に社会が分裂】のような、相も変わらぬこじつけ(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)に等しい主張に終始する。
メディアが取り立てて批判的な論調を展開しなくとも、政府や与党内部にも日本の新型コロナ対策がその場しのぎの彌縫策に終始してきたことへの否定的、冷笑的な見解が少なくないことは事実であり、お膝元の旧専門家会議、現在の対策分科会が一枚岩ではないことも明らかだ。
そもそも「ウイルスを撲滅」云々を前面に押し立てて極端な封じ込め対策を求めるメディアなど、現実には存在しない。多様な個々の主張を誇大視して、「煽り」言説とするのは弱論強弁でしかない。
感染症専門医を含めた医療関係者や、感染症学、ウイルス学の専門家が、社会経済活動との両立を意識しつつ、個々の局面で概ね「感染防止対策」優先に傾く傾向が目立つのは、別にメディアに煽られ、または加担して政府に批判的になっているわけでもないことは見えやすい道理で、「ウイルス撲滅」の主張など、ほとんど見かけない。
積極的な介入措置によって感染拡大のレベルを医療資源を逼迫させない制御可能な水準まで抑えることを主張しているにすぎない。
篠田さんの議論は、概念規定があいまいか杜撰、別の言い方なら融通無碍で多義的な用法によって、ほとんど無意味で暴論に近い空疎な内容に堕する。結局は素人論議のご気楽なコロナ批評の域を出ない。
上記の議論だと、専門家の大半は、「煽り」系の「左派勢力」に分類されかねないことが、主張の莫迦莫迦しさを物語っている。コロナ対策に「右派勢力」も影響を及ぼし、国論を二分させる可能性を有しているなど、ほとんど「夢物語」(μυθολογία)の誇大妄想(ὑπερβολή)に等しい。
少しは、頭を冷やすことだ。一貫して声高に言い募る、⇒【押谷教授を「国民の英雄」と呼び、その貢献を称賛し続けている】という、繰り返しルフランする無意味なこだわりを含め。
何が英雄(ἥρως)だか、知れたものではないが、如何にも気の早い話だ。「木を見て森を見ない」欧米的アプローチを批判した当の本人によるクラスター対策の有効性も、もはやぼろぼろではないか。
日本的対応を「野生の思考」(pensée sauvage)とか称していた法螺話は、途中経過の段階での軽口、ご愛嬌だとして、篠田さんが勝手に塗布した「英雄」のメッキも、感染メカニズムに関する「先見の明」(ἡ πρόνοια)も、とんだ期待外れで、もはや語るも無残だ。
当の押谷氏は地味で謙虚な人物のようだから、勝手に「英雄」視されても戸惑うばかりだろう。篠田さん自身、新型コロナとの戦いが「長期戦」(μάχη μακρὸν χρόνον)であることを自覚するなら、なおさらだ。
そろそろ、新型コロナ論議を玩具にして戯れるのはほどほどにして、身を入れて、コロナ後の世界について、国際政治学者ならではの「洞察」(γνώμη)を聞きたいものだ。
押谷教授は謙虚で地味な方かもしれないが、Managing COVID-19 Pandemic - Experiences & Best Practices of China, Japan and the Republic of Korea (https://www.youtube.com/watch?v=iUuq8HWHuuk)の日本のゲストスピーカーとして、WHOに招聘されたのだから、感染症学者としての自負心はおありだろう。私はこのサイトを篠田英朗教授から教わった。とにかく、日本のマスコミはどこから情報を取っているのか、きっとトランプ大統領のTwitterなのだろうが、あまりにも不勉強な割に、政府への批判、中傷だけは得意なのである。私がコメント6のようなことを書いたのも、現実に、日本は、中国と韓国と並んで、Covid19対策で優れた実績をあげた国、として、国際社会で評価されているからである。
教の宮根屋で神奈川県の阿南英明さんが神奈川県が開発した❝対コロナtriage❞戦略を紹介していた。
一律入院隔離ということではなく、感染者の状況に応じて緊急度を判定して加療仕分けるという柔軟性に富んだ方策である。 安心した、
多くの都道府県に普及していくだろう。 よかった、よかった、
世界恐慌を機にその破綻が決定的となった第一次大戦後の戦後秩序であるヴェルサイユ=ワシントン体制については、それが戦勝国である英米主体の、その意味ではアングロサクソン流の支配と秩序、即ち、国際的な経済的協調と海軍軍縮を骨格とする緊張緩和によって取り繕った暫定的なものにすぎなかったし、当時にあって単独で長期戦遂行を可能にする資源の自給自足が可能であった最有力の国家であった米国の世界戦略の一環として米国主導で他の海軍国に軍縮案を呑ませたのがワシントン会議であったことは紛れもない事実であり、本質だ。
しかし、そうした根底に潜む大国の帝国主義的力の論理とは別に、もう一つの側面が経済的協調を背景とする、国際連盟も介在させた多国間協調であったこともまた事実で、それが世界恐慌を直接的な要因として、各国による国家主義的な貿易再編の方向性(域内の特恵関税などで自国だけが不況から速やかに脱出しようとするようなブロック経済化)が強まったことで経済的協調を困難にさせたとしても、現在は当時とは事情が異なるのもまた、明らかだ。
なぜなら、現在は貿易に関する各種の国際機関や条約、多国間の通商の枠組みが重なり合う形で混在し、当時無視できない要因だった英仏の対米戦争債務のような問題もないからだ。
現在のコロナ禍に伴う停滞で、1930年代の悪夢が再現するという偏執狂の老婆のような発想は(9⇒【このままCovid19問題が解決しないと、1930年代の、ブロック経済と悲惨な生活、の再現になる】)、妄想でしかない。
端的に、無知ゆえに(δι’ ἄγνοιαν)、歴史を知らないということだ。
問題は新型コロナ対策をめぐる左右のイデオロギー対立とかいう、実態が伴わない空疎な議論、先の「日本モデル」と「西浦モデル」の対立図式をことさら強調したような、それこそイデオロギーまみれの立論の恣意的な性格が問題だということだ。その議論は、ほとんど「こじつけ」(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)でしかない。左翼、右翼の概念規定も明確さを欠くどころか、ほとんど意味がないまでに拡大解釈し、その適用も恣意的で根拠不在だ。
その根底には、しばしば引き合いに出される措辞から憲法論議をめぐるこの国の対立構図があるようだ。しかし、それにしたところで、単純な左右やイデオロギーの対立ではなかろう。
いずれにしても、すべてを憲法論議や安全保障政策の対立の構図になぞらえ、類比的に(τῷ ἀνάλογον)語ることは莫迦げている。しかも、それにメディア批判を絡ませるから、ますます恣意的になる。
先の「波」(ἡ αἰώρησις)という感染の変動を示す語に関する議論にもそうした無意味な拘泥があった。
それはちょうど、論理学的には個別名辞(a singular term)における「意味と名指しの混同」(confusion of meaning with naming)ような混乱がある。波のように存立する(ὑφεστάναι=subsist)としても、物的存在として存在する=「実在する」(εἶναι, ὑπάρχειν=exist)のではない存在=「ある」(εἶναι, ὑπάρχειν, φῦναι)ことについて、明確に区別して論じないことに由来する。「存在」(existence)と「存立」(subsistence)は、多義的で一様ではない。
それを解消しようとしたのがラッセルの記述理論(theory of description)で、問題の対象をさらに広げて、その利点は「非存在についての言明が言明そのものを無効にする(自己反駁的)、という古来の観念は棄てられることになる。」(引用続く)
現代論理学の偉大な開拓者であるドイツの論理学者フレーゲ(G. Frege)の指示する例を採るなら、それは同じ金星(Ἀφροδίτης ἀστήρ)の異なる呼称である「宵の明星」(ἕσπερος=Evening Star)と「明けの明星」(ἑωσφόρος=Morning Star)の混同に伴う混乱に等しい。
「『宵の明星』という句は、ここから何百万マイルも離れた空間を飛び回っている球形のある巨大な物理的対象を名指している。恐らくある観察力に秀でたバビロニア人の誰かが初めて立証したのであろうが、『明けの明星』という句も同じものを名指している。しかしこの二つの句が同じ意味をもつと考えることはできない。そうでなかったら、かのバビロニア人は観察などせずに、これら二つの言葉をよく考えることで満足できたであろう。従って、意味――相互に異なっている――は、名指しされた対象――これは、いずれの場合も同じ――とは異なるものでなければならない。」(‘The phrase ‘Evening Star’ names a certain large physical object of spherical form, which is hurtling through space some scoresof millions of miles from here.’=引用続く)
(‘The phrase ‘Morning Star’ names the same thing, as was probably first established by some observant Babylonian. But the two phrases cannot be regarded as having the same meaning; otherwise that Babylonian could have dispensed with hiu observations and contented himself with reflecting on the meanings of his words. The meanings, then, being different from one another, must be other than the named object, which is one and the same in both cases.’; ibid., p. 9)
意味と名指しの混同は、例えばケンタウロス(Κένταυρος)やペガサス(Πήγασος=ペーガソス)のような、実在しない存在について、単なる観念であって、心的存在でしかないという誤った考えを人々に抱かせる元になる。なるほど、上半身が人間で、腰から下が馬身である生き物や、翼をもった馬などは実在しない。しかし、それは存立し、意味をもつ。
この混同は、呼称的に名指しされた対象=架空の存在であるケンタウロスと、「ケンタウロス」という言葉の意味とを混同し、この言葉が意味をもつためにはケンタウロスが何らかの形で実在すると想定することから生じる。
しかし、意味をもつということを単なる観念と見なしたり、その実在を想定する必要は必ずしもない。それは、属性、関係、集合、数、関数といった普遍的な存在者にしても同じだ。
そして、ラッセルの記述理論に従えば、「われわれが名前の援けを借りて表現するどんなことでも、名前を完全に排除した言語で表現可能だ」(‘Whatever we say with the help of names can be said in a language which shuns names altogether.’; p. 13)。
従って、ものごとは何によらず、厳密に思考されなくてはならない。無駄口を思考とは言わない。
偏執狂の老婆の戯言など、獣の呻きに等しい所以だ。[完]
「存在者とされるということは、全く掛け値なしに、変項の値とみなされること」(‘To be assumed as an entity is, purely and simply, to be reckoned as the value of a variable.’; p. 13)
下記は、12月3日に開催された第16回・厚労省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードに提出された「資料2」です。
(資料2)
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000701630.pdf
このうち、「資料2-1」は構成員の押谷仁教授が提出したもので、エピカーブ等が掲載されています。「資料2-2」は構成員の鈴木基・国立感染症研究所感染症疫学センター長が提出したもので、こちらには鈴木氏の推計による実効再生産数等が掲載されています。「資料2-3」が西浦教授の提出資料であり、実効再生産数を推計した数値等をグラフ化した図が掲載されています。なお、西浦教授は従来と同様にアドバイザリーボードの構成員ではないので、アドバイザリーボード座長の脇田隆字・国立感染症研究所長からの要請で、協力者としての立場で資料提出をしているものと思われます。
今日国民民主党が出した憲法改正に向けた論点整理とやら、憲法9条に関する部分について是非論評していただきたい、というか読んだらしたくなるはずです。
特に、「自衛権を行使するために戦力と交戦権保持を認める」という戦後国際法秩序への挑戦ともとれるような案が示されています。
下記PDFの、pp.35-38です。
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2020/12/a496a30ca55082bede1b85480540c5f4.pdf
コメント11から16を読むと、ラッセルの記述理論、論理学の偉大な開拓者であるドイツの論理学者フレーゲ、という固有名詞が出て来る。私は今まで、その固有名詞も、彼らの理論も知らなかった、要するに無知で無学であるわけであるが、「日本モデル」と「西浦モデル」の実質的な差はわかる。「明けの明星」、「宵の明星」のように同じものを違った風に認識している二つの表現ではない。
コメント9に書いたように、押谷教授が、Managing COVID-19 Pandemic - Experiences & Best Practices of China, Japan and the Republic of Korea 日本語に訳すと、Covid19感染症のコントロールー中国、日本、韓国の経験と一番優れた医療実務の講演をきくと、その違いがわかる。英語の字幕もついているので、理解がしやすいのでじっくり聞いてみていただきたいが、明らかになったことは、WHO(世界保健機関)は、日本のマスコミのCovid19感染症、と自称されている解説者、と違って、「欧米モデル」を優れたCovid19コントロールの医療活動、とはみなさず、中国、日本、韓国の「Covid19の医療活動を国際社会で一番優れたCovid19をコントロールする医療活動」だとみなしている、ということである。日本政府の処方箋をまずいもの、とみなしているテレビのワイドショーとは対極にある。
が正解なのである。また、吉村知事を筆頭に、Covid19の死者を0にする、という目標をたてておられるが、感染し、クラスターが発生すれば、重症化する病院内に感染を広げてはいけない、のが大原則なのである。感染者の濃厚接触者は移るのだから、高齢者同居のstay homeをすれば、Covid19重症者が出ることは、火をみるより明らかだ。どうして、現実の基づいた、論理的な思考というものが、吉村知事や反氏にはできないのだろう。
大事なことは、「感染しているリスクの高い集団」を隔離することであって、東京都のように、「歌舞伎町の感染者を野放しにする」政策は、最悪である。中国も韓国も国の政策としてそれを実行しているから、欧米の国々と違ってBest Practiceというお墨付きをもらえるのである。
「獣の呻きに等しい理論」を提出しているのは、どちらだろう。
Eine beispiellose Hungerkrise erfasst die USA: Wegen der wirtschaftlichen Folgen der Corona-Pandemie haben mehr als 50 Millionen Amerikaner nicht mehr genug zu essen. Doch die Trump-Regierung bleibt tatenlos.
アメリカで未曽有の食料危機 コロナパンデミーの経済的な影響で5000万人のアメリカ人が十分な食事ができない。トランプ政権はなにもしないままだ。
その本文の中に、このような事態は1930年の大恐慌以来なかったことだ、と書かれている。歴史を知らないのは、書斎におこもりしても生活できる日本に住む反氏の方ではないのだろうか。それほど、米国を含む世界では、Covid19問題は現実に深刻な事態を引き起こしているのである。。
篠田教授は、条文改定を正面からは主張していません。篠田教授は、いまの通説といわれるものは憲法学者「通説」(他の条文はともかく第9条については憲法の学者はしろうとに毛が生えた程度)として、文理解釈からも自明でない!としています。G個人は、安全保障政策は、究極には国民が選択するものと考えています。条文改定を目指すのではなく、国際社会の平和は、有力各国の力の均衡(パワーバランス)から実現しています。そのために安保政策はどうしていくべきか!?を、国民に啓発していくのが、真の護憲派だと思います。今の護憲派は”誤”憲派ですw。
また、篠田教授はあえて引用していないのでしょうが、同記事で押谷先生は直前に「日本よりはるかに人口が多いアメリカの試算でも、死者は最大20万人とされていたのに、42万人は多すぎる」とおっしゃっていますが、現時点のアメリカの死者数を篠田教授はご存じでしょうか?
さらに次の記事のとおりとするならば、「8割の接触削減」というのも尾身先生も了承の上で(というか尾身先生のご尽力があって)進められた話のようです。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid19-nishiura-4
また、6月15日付け記事「「大阪モデル」が「日本モデル」をけん引していることの意味」では、「吉村府知事の「大阪モデル」の方向性を絶賛し続けて」おられますが、大阪の現状を踏まえてもご見解には変わりはありませんか?
政府解釈さんがたびたび言及されておられるように、西浦先生は今も分科会に関与されています。
たまたま思い付いた「日本モデル vs 西浦モデル」という構図にいつまでも拘泥しつづけるのは、見苦しく感じます。
大事なことは、感染させるリスクのある人の隔離である、東京新聞に掲載されて東大研究者の発表、Go toに行った人は、行かない人の二倍、コロナの自覚症状がある、ということにしろ、Go to事業を止めたい、という主張の一つの柱にはなるが、PCR検査もせず、感染者を隔離もしないのなら、感染の収束は全く抑えられない、東京都の歌舞伎町のPCR検査の時も同じことを感じたが、政府不信、批判、「反政府」イデオロギーの増長以外のなんの目的があるのだろう。日本のマスコミがこういう報道をするから、菅政権の支持率が下がるのである。日本国民にとって、なんのメリットもない。
>たまたま思い付いた「日本モデル vs 西浦モデル」ではなくて、二人は、考えの基本が違うのである
>どうしてマスコミ知識人たちは、感染者の80%は移さない、移す20%の中に、特に無症状の時期に一時に10数人以上感染させる感染力が強い人がいる・・(中略)・・という前提からものを考えないのだろう
便宜的に引用を2つに分けましたが、貴女のコメントでは連続している文章です。
上の引用では、どうやら私のコメント23の最後のセンテンスを批判しているらしい。
しかし、下の引用はマスコミの報道姿勢を批判するものであって、私の篠田教授への批判とは無関係な事柄です。こういうのを「論点ずらし」というのです。
また、7月31日付けNEWSWEEKの記事で押谷先生は「西浦さんの最初のデータで示されたことだが、110人のうち80人くらい、80%近くの人は誰にも感染させていないことが分かっている」と語っておられます(下記URL参照)。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/pcr-4_2.php
「日本モデル(ここでは押谷モデル?) vs 西浦モデル」という構図から離れることができないネイティブ・インディアンを批判した私のコメントに対し、貴女はなんら有効な反論をしていないのです。
もちろん、例によって「老人氏は『日本モデル vs 西浦モデル』の構図を問題にしているが、私が言いたいのはマスコミの姿勢なのである。老人氏はどうして物の軽重が分からないのだろう」と更なる論点ずらしを図られることは、承知してますが(笑)
18⇒【「日本モデル」と「西浦モデル」のどこがちがうかというと、西浦博教授は「森の性質を見ておられない」につきる】――無学な偏執狂の老婆による、未明の莫迦話である。
森(ἡ ὕλη)というのは感染のクラスター、謂わば「場」(χώρα)であり機能(δύναμις)、それ自体で存立する実体(οὐσία)というより、むしろ環境(τὰ περιόντα)という因子(τὸ αἴτιον οὐ κοινός)、さらに一般化すれば感染の母集団ということになろう。
そして、日本モデル的クラスター調査は、感染の経路を過去に遡って連鎖を確定することだろうから、最終的には感染が始まったとされる最初の出発点(ἀρχή)を見出すまで追跡する点では、つまり、それを「これ」(οὗτος, ὅδε)、「これなるもの」(τόδε)が「ここから」(ἐνθένδε)と名指しするまで枚挙する(ἀπολογίζεσθαι)手法であって、最初の「これ」を森の中の一本の木(τὸ δένδρον)とするなら、結局は個々の感染対象をしらみ潰しにしていく、欧米流の木から森の形成を辿るアプローチと日本モデルのクラスター調査が、「本質的に」(ἀναγκαίως)異なるわけではない。
所謂「ソクラテス以前」のギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、「上り道と下り道は同じ一つのものである」(‘ὁδὸς ἄνω κάτω μία καὶ ωὑτή.’; Frag. 60, ibid., Bd. I, S. 164)と指摘するように、明けの明星(ἑωσφόρος)と宵の明星(ἕσπερος)の場合同様、一見して異なるかに見え、名前も異なっていても、同じことがある。
つまり、視点を変えただけの話で、その譬えに従うなら、篠田さんが英雄(ἥρως)と持ち上げる押谷仁氏が主張する「さかのぼり」調査(“retrospective” investigation)は、欧米流の「前向き」調査(“prospective” investigation)とは、押谷氏が主張するほど、実際には違っていないことになる。
偏執狂の老婆が如何にも愚鈍でお調子者なのは、それを口真似するしか能がないことだ。
17⇒【反氏の主張を読んでいると…数学が得意だったのか、という疑問…「ミネルヴァの梟」にしろ、なんにしろ、私と解釈がまるで違うが、それは、私が無知である、というよりも、反氏がその理論の本質をわかっておられないから…】――本質(ἡ οὐσία)、本質的な(ἀναγκαίος)云々は老婆がよく使う措辞だが、それは独力で個々の問題や指摘に答えられない、老婆の蜘蛛の巣だらけの憐むべきお頭では条理を尽くして論じられない場合の逃げ口上でしかない。老婆に限っては「本質」云々など、百年早い。ということは、老婆は現在齢70近いから、本質的な議論など、死ぬまで覚束ないということになる。
「反氏…数学が得意だったのか、という疑問」のような愚問がどこから生じるのか訝しむが、大方、「数学が得意であれば、論理的な思考も達者であるはず」という何の根拠もない思い込み、というか妄信があるのだろう。それでは理数科の人間が優位になるが、理数科には老婆同様の単細胞も多い。数学など、何の関係もない。
高校までの段階で習得するような初等数学、現在は何と称するか知らないが、私の高校時代1972~75年当時は、数学I、数学IIB、数学IIIとか称していた。受験の年の秋の全国模試で、私の数学の試験の得点は83点で、偏差値は76だった。
余計な話だが、私は高校時代受験勉強らしいものはしたことがなく、全国模試の試験代も親に内緒で書籍代に充てていたから、問題の試験も進路相談の材料にするため、今度だけは受けてくれとの担任教師たっての頼みで受けた。数学が最もよく、次いで英語、かなり自信のあった国語は思ったほどではなかったのを覚えている。
全国模試ではないが、社会科の教師に勝るとの自負のあった『世界史』でも、暗記を中心に受験対策を怠ると、思ったほど点が伸びないのと同じで、確かに受験対策の部分的有効性は認めなくてはならないが、私は自分勝手な性格なので、受験時間の無駄だとと思って好きな本ばかり読んでいた。今から考えれば子供っぽい考えに固執していた。
京大でも東大でも、全国の名立たる進学校の出身で、難関とされる受験を突破してきたのだからさぞ怜悧だろうと話をすると、思いの外凡庸な人間が少なくない。老婆がよく繰り返す、高校時代に数学が得意だった云々の話の莫迦莫迦しさは、水準は随分老婆とは異なるが、他愛もない無駄話であることに変わりはない。
老婆が抽象的、論理的思考が全く覚束ない、平たく言えば愚鈍であることは、その文章をみれば歴然としている。頼みとする、「常識」というのも怪しいようだ。
「それがすべてではない。戦火の教訓は一層完全であります。われわれの世代は、自分自身の体験によって、いかにして最も美しいものと古いものが、また最も恐るべき力をもつものと最も秩序正しいものが、偶然によって滅び得るかを学ぶだけでは足りなかった。思想と常識と感情の世界において、法外な現象、逆説の唐突な現実化、明証の無慙な裏切りを目撃したのであります。私は一例を挙げるにとどめます。ドイツ諸民族の偉大な美徳の数々が生み出した害悪の多さは、有閑性といえどもかつてはそれほど多くの悪徳を創り出しえなかったほどである。良心的な勤労、最も堅実な教育、最も厳格な訓練と勤勉が、恐るべき目的のために用いられるのを、われわれは見た、わが眼をもってみたのであります。」(桑原武夫訳『ヴァリエテ』第2巻、18~19頁=一部表記を変えた)
‘Ce n’est pas tout. La brûlante leçon est plus complète encore. Il n’a pas suffi à notre génération d’apprendre par sa propre expérience comment les plus belles choses et les plus antiques, et les plus formidables et les mieux ondonnées sont périssables par accident; elle a vu, dans l’ordre de la pensée, du sens commun, et du sentiment, se produire des phénomènes extraordinaires, des réalisations brusques de paradoxes, des déceptions brutales de l’évidence.
Je n’en citerai qu’un excemple; les grandes vertus des peuples allemands ont engendré plus de maux que l’oisiveté jamais n’a créé de vices. Nous avons vu, de nos yeux vu, le travail consciencieux, l’instruction la plus solide, la discipline et l’application les plus sérieuses adaptés à d’épouvantables desseins.; P. Valéry, Œuvres I, 1957. Bibliotèque de la Pléiade, p. 988~89.
未だナチズムがドイツどころか、欧州大陸を席捲する以前のはなし講演だ。現在なら、その厄病神(ὁ λυμεών)は新型コロナの震源地(ἀρχή)、中国かもしれない。[完]
まるで分別の全く欠けた幼児に等しい行動で、「幼児型強弁」(ὁ κρείττω ποιεῖνπ αίοδος)と称した所以だ。
ところで、私は14で⇒《偏執狂の老婆の戯言など、獣の呻きに等しい》とは書いた。それは、闇の中でけたたましく吠えるような愚劣な、立論の体をなさない戯言(ἀλαζονεία)、妄言(ἀλλοδοξία)、寝言(εὐήθης λαλία)の類の莫迦話(λήρησις⇒‘Karoline Doctrine’)であって、理論(ἡ γνῶσις)などと呼べた代物ではないことは一目瞭然だ。
そもそも、老婆の【獣の呻きに等しい理論】という措辞自体が形容矛盾で、獣(θρέμμα)が理論的に(λόγῳ μέν)ものを語るとも思えない。ただ、老婆のように人の寝静まっている刻限に浅ましく吠えるか呻くだけだろう。そこに首尾一貫した論理性も、何のウイットもない。狂信家の叫びがあるだけだ。
久しぶりに登場した「通りすがりの老人」氏は、自己愛の化け物(τὸ κνώδαλον)への認識が希薄なようだ。
「私利私欲は、あらゆる類の言葉を口にし、あらゆる類の役を演ずる。無私無欲の役柄さえも。」(‘L’intérêt parle toutes sortes de langues, et joue toutes sortes de personnages, même celui de désintéressé.’;La Rochefoucauld, Maximes 39)
ラッセルは、Bedfordshireのウーバーン(Woburn Abbey)に300年以上続くベドフォード公爵(Duke of Bedford)の家系で、19世紀半ばに英国の首相を務めた祖父を先祖にもつ第三代伯爵(Earl)であり、家名は公爵家と同じRussell。20世紀最大の論理学者にして数学者、哲学者にしてノーベル文学賞も受賞(1950年)した著名な文筆家、アインシュタインらと語らって核兵器廃止と科学技術の平和利用を呼び掛けるラッセル=アインシュタイン声明(Russell-Einstein Manifesto, 1955)を掲げ、ベトナム戦争にも反対して、戦争責任告発の国際戦争犯罪法廷、所謂「ラッセル法廷」を開くなど、平和運動の先頭に立った人物だ。
哲学者としての業績である記述理論を知らないから、集合論の基本的な難点を発見したラッセルのパラドックス(Russell’s paradox→〔(x)(x ε z≡~( x ε x) )〕)も知らないだろう。「数学」云々など語る資格はない。
最大の業績である現代論理学、数学基礎論の巨大な一里塚『数学原理』(“Principia Mathematica”, 1910~03)も知らないはずだ。老婆に論理性は無縁だからだ。日本版Wikipediaにも、H. ケルゼンなどとは比べものにならない長文の記述がある。「アリストテレス以来最大の論理学者の1人」か否かはともかく、知らぬは、無学な老婆のみという巨人だ。
私の12~14は、ラッセルの正統な後継者とも言える20世紀に最も影響力のあった米国の哲学者であるクワイン(Willard van Orman Quine)の著名な論文「何が存在するのかについて」(“On what there is”, “From a Logical Point of View”)を手掛かりに記述したもので、論旨は明解だ。
それは特段、20⇒【難しい哲学の理論】でもなく、原理的な問題を考察するのに、20②⇒【現実生活に必要なのは、現実に根差したものの考え方】も何もない。
老婆のクズ投稿は、何ごとによらず、老婆の他愛ないおしゃべり(ὁ γραός ὕθλος)そのままの愚劣な身の上話とか、陳腐で退屈な経験談、テレビを見た感想と、篠田さんや中国へのおべっかしかない。
日下部翁命名の「Carova-20」なる莫迦ウイルスに血の巡りの悪いお頭を冒され、滑稽な「コロナ狂い」(ὁ στέφανος μαίνομαι)が未だに収まらない。篠田さんが渋谷健司氏を目の敵にするように、テレビの「コロナの女王」(ὁ στέφανος βασίλισσα)の異名を取る岡田晴恵氏に対抗意識を剥き出しにして、愚劣な素人コロナ評にお門違いの「公共の福祉」を「騙って」(ἐξελαύνω)入れ込んでいる。
岡田氏については、新型コロナが日本で話題になって以来、連日テレビに出続けたことで批判もやっかみも多いが、医療機関で通常の患者と導線を分ける発熱外来の導入や、秋冬の感染拡大に一貫して警鐘を鳴らしてきており、その見立ては目下の段階で大筋で間違ってはいない。特段の洞察もないが、常識論の規矩を踏み外さないからだ。
確認された累計感染者は検査実施数と連関するから、全体の感染規模は実際には推定の域を出ない。重症化、死亡要因については、欧米に比べなぜアジアが少ないのかを含め、個々の断片的知見は集積されているが、それを統合した説得力に富む仮説は、まだない。
老婆の莫迦話には、何の取り柄もない。何せ、矛盾対立(ἀντίφασις)と反対対立(ἐναντιότης)の違いも分らない、非論理の塊だからだ。しかも、現実を騙る夢想家(ἐνυπνιαστής)。[完]
要するに米国のトランプ理論は、支離滅裂、敵を作り、反XXを煽る、責任転嫁にすぎないのである。
反氏と同じである。現在をどうするか、それが問題で、感染症は感染しなければ発病しないのだから、脈絡なく大量のPCR検査をするよりも、感染者の濃厚接触者を追い、隔離すべきだ、と主張しているのである。感染者がたくさんの人と会っているので、濃厚接触者を思い出せない人が多い、という保健所職員の苦情が昨夜もテレビで報道されていたが、その為のCocoaなのである。「文明の利器」Cocoaは感染者の記憶のあいまいさ、保健所の職員の仕事の量を大量に減らし、過去にさかのぼった正確なクラスター調査に寄与してくれる、となんどもこのコメント欄で説明した。Go toにしろ、どの人と接触したか、がわかれば、テレワークで、或いは、地域間協力で、各自治体が協力して濃厚接触者を隔離することができれば、感染は収束する。感染させているのは、土地ではなくて、感染者と感染者の濃厚接触者、感染者と同じ場所にいて、Covidウィルスを大量に吸い込んだ結果、その人の口腔の細胞内でそのCovidウィルスが異常に増殖し、その人の吐き出した息や唾液に多数のCovidウィルスがからみついた動き回る人間だ、という原則に戻るべきだ、と主張しているのである。感染者が、しゃべったり、歌ったり、スポーツをするときに、吐き出す息や唾液にからまったウィルスをその周りにいる人が吸い込んで感染するのである。
私が反氏が数学が、と書いたのは、事実に根差した論理的思考ができないからである。すぐに普通の人の知らない、名前だけは著名だ、と人の知る西洋の哲学者の名前が出て来るが、江戸時代、庶民の教養が読み書きそろばん、であったように、そして、明治維新後日本人がすぐに欧米に追いつけたように、大切なのは、良識、常識なのである。有名な哲学者の名前、理論を知らなくても、良識と常識があれば、人と協調でき、人は幸せな人生を歩める。それは、京大の哲学科を卒業した父と、戦争中に少女時代を過ごし、英語を含めてろくな勉強もできなかった、反氏からみれば、無知、無学としかみえない母の人生を観察してきた娘の私にはよくわかる。母の世代、そういう昭和一桁世代が、戦後の日本の高度成長の原動力、豊かな日本を築いてくれたのではないのだろうか。彼らに「ひきこもり」が許されたか、教育評論家はよく考えてみるべきではないのだろうか。大切なのは、協調性であって、知識の量ではない。
コメント9で紹介した、Managing COVID-19 Pandemic - Experiences & Best Practices of China, Japan and the Republic of Korea (https://www.youtube.com/watch?v=iUuq8HWHuuk)で、中国の専門家は、武漢の例をあげて、重複感染の危険性があるのでコロナ患者とインフルエンザ患者の導線は分けるべきだ、と主張されているが、発熱外来では、それはできないのではないのだろうか?私は、それによる重症化を危惧しているのである。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/seifu_teigen_17.pdf
「公共の福祉」の誤用も相変わらずですが、カロリーネ氏の主張は一貫しないものです。Go To Travel事業の(一時)停止に反対をするのであれば、一時停止を政府に提言した政府分科会も批判すべきなのです。
また、「細菌」と「ウイルス」の相違を無視した例は、これだけではありません。カロリーネ氏は、以前、ウイルス学が専門で新型コロナウイルス感染症の問題でテレビ出演をしていた岡田晴恵教授について「細菌学者」と表現していました。なお、私の記憶では、その際、カロリーネ氏は、「自称」の誤用もしていたと思います。
中国人の発言だから、という理由で無視するのだろうか?
他にもあるかもしれませんが、確認したところでは、カロリーネ氏は下記ブログ記事のコメント11で岡田晴恵教授のことを念頭に「自称細菌学者」と表現していました。
http://shinodahideaki.blog.jp/lite/archives/35271686/comments/3111007/
カロリーネ氏は、高校時代に学んだと「自称」していた生物の基礎知識は(当時はあったのかもしれませんが、50年程度経過していると思われる)上記の投稿時においては欠如していたと思われます。
(コメント40について)
「中国人医師の貴重な証言」がコメント37の「中国の専門家は、武漢の例をあげて、重複感染の危険性があるのでコロナ患者とインフルエンザ患者の導線は分けるべきだ」を指しているとすると、該当部分の発言がされている動画の経過時間の具体的な特定がないので動画を確認していませんが、検査前の段階では「患者」とは確定していないはずであり、どのようにして導線を分けることが可能なのか疑問があります。そもそも、今年はインフルエンザは激減しているようなのでインフルエンザとの重複感染を心配するよりは、一般外来と発熱外来の導線を分離するのが素人ながら合理的で現実的かと思います。
厚労省も、令和2年度インフルエンザ流行期に備えて、「発熱外来」を推奨しており補助金の対象事業となっておりますが、検査前においては実現不可能と思われる「コロナ患者とインフルエンザ患者の導線は分ける」ことなど当然のことではありますが何処にも記載されておりません。
ドイツ教(狂)に加え中国教(狂)でもあるカロリーネ氏は、日本の厚労省の取り組みぐらいは確認した上で議論をすべきように思います。
(厚労省ウェブページ・「令和2年度インフルエンザ流行期に備えた発熱患者の外来診療・検査体制確保事業」について)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou18/index_00012.html
「令和2年度インフルエンザ流行期における発熱外来診療体制確保支援補助金(インフルエンザ流行期に備えた発熱患者の外来診療・検査体制確保事業)の交付について」(厚生労働事務次官から都道府県知事への通知文)
https://www.mhlw.go.jp/content/000672635.pdf
発熱外来診療体制確保支援補助金は、令和2年度第二次補正予算の予備費から支出されているところ、予備費の使用については(全会一致による議決方式が(憲法・内閣法の)解釈上・慣行上採用されている)閣議決定事項とされており、厚労省の独断ではできず政府全体の取り組みとなります(憲法87条及び財政法35条3項参照)。
(参照条文・財政法35条抜粋)
「第三十五条 予備費は、財務大臣が、これを管理する。
② 各省各庁の長は、予備費の使用を必要と認めるときは、理由、金額及び積算の基礎を明らかにした調書を作製し、これを財務大臣に送付しなければならない。
③ 財務大臣は、前項の要求を調査し、これに所要の調整を加えて予備費使用書を作製し、閣議の決定を求めなければならない。但し、予め閣議の決定を経て財務大臣の指定する経費については、閣議を経ることを必要とせず、財務大臣が予備費使用書を決定することができる。」
妻 「おはようございます。随分寒くなってきたわネ。ストーブはつけているようだけど、おこた(炬燵)はまだなのね。★さんからお蜜柑届いたけど、やっぱり蜜柑はおこたよ。もっとも、こんなにたくさん本を広げていたら、炬燵を設ける隙間なんかないわ。風邪ひいちゃうわョ。いくらバイ菌マンでも、もう年なんだから」
私 「おはよう。久しぶりに出たか。天国もクリスマスとか正月準備で忙しくはないのかい?」
妻 「失礼な人ね。『出たか』って私お化けじゃないわ。心配して来てあげたのに、相変わらず愛想がないというか、一こと余計なんだから」
私 「それはそれはご無礼致しました。今年は正月に何を買い込もうかいろいろ思案していたから、ちょうどいいところにおいでになったと、ついうっかり口が滑ったわけさ~ね」
妻 「あら、そう。数の子も入れといてネ。先刻分かっているでしょうけど。ところで、イギリスで新型コロナのワクチン接種が始まったわね。第一号が90歳のお婆ちゃんだって、天国でも地上ニュースでやってたわよ」
私 「そうだね。それが目論見通り、本当に『終わりの始まり』(‘initium et finis’)になればいのだけれど。三層治験で安全性は一応クリアされたようだから、カエサルじゃないけど、いよいよ『賽は投げられた』(‘jacta est alea’)ってところかね」
妻 「ルビコン河を渡る時の台詞ね」
私 「『人事を尽くして天命を待つ』(‘homo proponit, sed Deus disponit’)、成否は天にありというほどでもないけれど、首尾よくいくといいな」
私 「そう、いろいろなシナリオ、被害想定を政府も専門家も考えてそれなりに対策を講じているんだろうけど、後手後手に回っている印象は否めない。まだ冬は始まったばかりなのにこの体たらくさ。昨日8日も47人も死んだ。うち6人が旭川。政府は打つ手なしって感じだ。少なくとも、首相の存在感は影が薄いね。医療の最前線の疲弊度合いや緊張感をしっかり受け止めているようには映らないな」
妻 「今後も続々、私のお仲間が増えるってことね。病院の人たちって今年はボーナスも随分下がったんでしょ。個別に病院関係者だけ手当てするのは制度上難しいのは分かるけど、それにしても何とかならないのかな。精神的に追い詰めれれて不調な人の割合が多いし、弱り目に祟り目じゃない。『Go To』もいいけど、政府も専門家も、知恵が足りないわ」
私 「ラテン語で『変更不能な計画(決定)は悪い計画』(‘malum consilium quod mutari non potest’)という諺があるけど、芸がないというのか、頭が固いって言うか、もう少し臨機応変に機動的に対処できなものかと思うよ」
妻 「それに、政府と対策分科会も微妙に温度差って、いうか随分言ってることが違っている気がする。何か頼りないわ」
妻 「そうね。観光客や行楽客、外食需要が頼みの宿泊施設や飲食店、交通会社などはそれで随分助かったと思うけど、何か割りれないわね。ワクチンはできたけど、長期戦を考えると、あんまり戦略的に動いているとは思えないもの」
私 「戦略と来ましたか。君が滅多に使わない言葉だね。もっとも、この世は古代ローマの喜劇詩人プラウトゥスの言うように、『人間は人間にとって狼』(‘homo homini lupus’)という側面があってね、皆がうまくゆくっていうわけにはいかないのさ。ホッブスだって、『万人の万人に対する闘争』(‘bellum omnium contra omnis’)というように、それが人間の自然状態(ἡ φύσις ἀνθρώπων)で、人間の人間に対する関係は、狼の狼に対する関係と、根源的には違わない」
妻 「何か寂しい話ね。そう言えば、東日本大震災の後、5月の連休にあなたと那須高原に行った時、レストランで東京から来たらしいグループの人が、あの頃高速料金が無料になって、『東日本大震災様さま』とか言っていたので、私睨みつけてやったことがあった。世の中の災厄や人の不幸が得になる人たちもいるのね」
私 「パレート最適(Pareto optimality)といっても、君にはピンとこないかもしれないけど、『多くの人々(少なくとも一人)の生活を同時により困窮させることなしに、ある人々(少なくとも一人)の暮らし向きが向上するように経済の配置形態を変更することが不可能な場合には、当の配置形態は効率的』というのが経済の大原則さ。だから、そうやって皆必死で生きている。この世は甘くない」
私 「どうかね。出たとこ勝負だろう、たぶん。それを胆力という人もいるし。『涙より速く乾くものはない』(‘nihil lacrima citius arescit’)って言ってね、人も経済も移ろう。そしてアダム・スミスじゃないけれど、『神の見えざる手』(an invisible hand〔of Got〕)という市場のメカニズムを誰も否定できない」
妻 「自由放任(laisser faire)は、あなたが私にしてくれたように基本的に大歓迎なんだけど、今は非常時なんだし、もう少し何とかならないものかしら」
私 「ハハは、恋女房に対する対応と国民とは違うんじゃない」
妻 「ところで、☆さんがお亡くなりになったのね。あんなに元気だったのに。人の一生って呆気ないわ。それに引き換え、あなたの自由放任も相当なものね」
私 「いやはや、とんだ藪蛇だ。今度は年末の特別査察かい、元財務大臣殿」
妻 「これが例のターナーの版画集ね。『イングランド及びウェールズの名勝』(“Picturesque Views of England and Wales”)か。確かに絵になる(picturesque)風景ね。革装幀も立派。こりゃ当然高いわ。ここにあるアビー(Abbey)て、私が好きだった英国テレビ歴史劇の『ダウントン・アビー』(Downton Abbey)のアビーでしょ」
私 「そうさ。元の意味は大修道院。そこから興った大聖堂とか貴族の邸宅をそう呼ぶ。昨日書いた、バートランド・ラッセルの本家ベドフォード公爵家の本邸もウーバーン・アビー(Woburn Abbey)っていう。ダウントン・アビーは架空の名前だけど、撮影の舞台となったハイクリア城(Highclere Castle)は代表的な英国貴族の大邸宅、Country houseとして現存する。家名はハーバート(Herbert)で、ジョージ3世から1780年にカナーヴォン伯に叙せられている」
私 「この中にハイクリア城は入っていないけど、カナーヴォン伯爵(Earl of Carnarvon)の家名ゆかりのウェールズのCaernarvon Castle(Caer-yn-Arfon Castle)の方、1283年にエドワード1世が建てた方は入っている。カナーヴォンの綴りが少し違う」
妻 「あらそう。ハイクリア城って、いつごろできたの? それにしても素敵、英国好き女子には堪んないわ」
私 「元々は1679年らしいけど、現在のものは1842年に完成した。設計者はロンドンの国会議事堂と同じC. バリー(Charles Barry)。新古典主義というか、ゴシック・リヴァイヴァル様式」
妻 「ふぅ~ん、そうなんだ。あなたCountry houseの大きな写真集ももってるもんね。それって、私の父方のお婆ちゃんが男爵令嬢だったからなの」
私 「いや違う。元々英国のあのなだらかな曲線の景観が好きなのさ。このカナーヴォン伯爵家の第5代ジョージが、エジプト王家の谷のツタンカーメン王の墓の発掘の立役者であるH. カーター(Howard Carter)の後援者さ。君好きだもんな、古代エジプト」
妻 「ええ。伯爵が王墓の公開直後に急死したのを『ファラオの呪い』(curse of the pharaohs)っていうんでしょ。あなたも、あの変なお婆ちゃんの出鱈目を指摘して、呪われない方がいいわよ。最近は一段と酷いけど、元気よね何だか。あなたと日下部さんが、右翼だって。笑っちゃったわ。私がついているから心配はないけど。コロナにもかかりそうにないし」
私 「無学で狂信的なのは今に始まった話じゃないけど、往生際の悪さを含めて救いようがない。病膏肓というか、ますます酷くなる。政府解釈氏の自制心には感心するよ」
妻 「あまり本ばかり買っちゃ駄目よ。自由放任の呪いはないだろうけど。でも、立派よねぇ、いい仕事してるわ。あなたに買ってもらった私のエルメスといい勝負。もうすぐクリスマス、元気でね」[完]
日本医師会長 中川俊夫さんが「全国で感染、特に市中感染が拡大している現状では、誰もが感染している可能性があります。いま一度、初心に立ち返って、“うつらない”だけではなく“うつさない”ことが大切であることも忘れないでください。特に若い世代、現役世代の皆さま。新型コロナの最強の感染防止策は、1人ひとりの、日常の慎重で愚直な所作と行動です。日本国民一丸となって頑張りましょう」
❝日本国民一丸となって❞というくだりは、その昔、わたしが生まれる前に流行っていた御言葉のような気がする。コロナファシズムといいマスクファシズムといい❝通奏低音❞は90年前頃とほとんど変わらないのかもしれない。世代が全く変わってしまったというのに。
これはこれ、分析するのは将来の課題だ。
コップの底1cmの水を❝こんなに有る❞と思うか❝たったこれだけかと❞思うか、❝心中の賊を破るは難し❞。フンドシを締めねばならぬ。
死者数30人、50人でアタフタ騒いでいるが、これから年明け3月まで(100日)、毎日100人死んでいったとして、1シーズンのコロナ死亡者数は30000人でしかない。
猪木武徳さんが8月日経の経済教室で引用していた2017年の季節性インフルエンザによる死亡者数は38951人で、コロナ死亡者数をはるかに超えている。
どんな医療崩壊が起きたとしても、こうはなるまい。
7日に書き込んでおいた神奈川県の医療緊急度仕分け(triage)がフットワーク軽く運用されていけば医療現場は見る見るうちに改善されていくはずだ。これを祈っている。
もう、コロナはいい、
天意 幽草を憐れみ
人間 晩晴を重んず
日本については、医療資源(ハード医療施設・ソフト看護師などマンパワー)に問題はない。ただソフト面で、医療機関相互の人材の融通が、スウェーデンやドイツに比べて劣っている< これが改善点だとします。
欧米各国は、その波に合わせて臨機応変に人材を融通する仕組みを、平時から整えているとのことです。これは、Gが、かねてらいっている、日本は”有事”への備えというか準備を整えておかなければならない< との提言のとおりです(Gの過去の投稿参照)。今までの経験則(第1波と第2波での)から、医療体制の”有事”への整備(準備といってもいい)は、第一義的には民間の問題ですが、民間のそれを後押しするのは、行政の役目です(例えば予算を付ける・税制面での優遇など)。その筆者はこうもいいます→日本の機動力の低さが大いに浮き彫りになっているのだ。これでは感染症のパンデミックに対応できるわけがない<(真ん中らへん図表の下)
この記事の筆者は、医療を「安全保障」と捉えています。この点は、憲法(第9条)と本文でコロナ問題を取り扱っている篠田教授と問題意識は同じです。ご両人の姿勢を評価したいですww 篠田教授と同じようにこの記事の筆者は、今の医療の体制整備を、国の安全保障と同様に考え、その体制の見直しを短期(いますぐに)と中期(これから)でもって、提言しています。その視点が、篠田教授と同じで興味深い。
この点は、民間医療機関(現場レベル)相互の努力だけでは、解消されません。いまあるマンパワーを活用できる「仕組み」を作るべきでしょう。そのためには、欧米先進各国の医療有事の際の人材融通の仕組みに習う必要があります。もし法整備も必要なら中期的課題となります。医療も「安全保障」と考えれば、予備自衛官のような仕組み、(仮称)予備公益看護師< のような仕組みを作る(試案です)。
その勤務形態は、普段は民間の病院で普通に看護師として勤務している。医療有事の際に、知事などの首長が人員配置をするとかです。そのときは、招集された看護師本人・勤務先病院・派遣先医療機関には、国が相当の補助金を出すとかです。あくまで試案です。
少なくともこの点(マンパワーの融通)については、問題点がはっきりしているわけだから、日本の50倍の死者が生じていても、「医療崩壊」していない欧米先進国のやり方を参照するということです。
もう書くまいと思っていたが、文芸春秋が新年特別号の宣伝を掲載していたので、いくつか書き残したことについてふれる。
文芸春秋のコロナ記事広告が紙面の20分の1くらいになったことは、それだけ世の中のコロナ関心もおさまってきたというか、慢性化してきたということだろう。
4人の記事の一つは、和田耕二の❝最後は「マスク」「手洗い」「換気」しかない❞。 すでに書いた、100年前のスペイン風邪の時の注意広告とさして変わらない警告だ。感染症学は100年間進歩をしなかったことの照明である。
すでに書いたが、❝3密の回避❞を2~3年も続けておれば、そのような生物種はいずれ絶滅する。3密というのは、生物にとってそれほど大切なことだ。
したがって、❝3密の回避によらない防衛策❞を技術革新によって開発すること。これが、喫緊の課題である。
もう一つは、岩田健太郎の❝「ファクターX」の幻想を捨てよ❞がのっている。おそらく、感染爆発するだろうとかの煽り記事だろう。
コロナ感染死亡者数が一山1000人、多くとも1シーズン10000超えることはないだろうという見当がつき始めてきて、
❝コロナ恐怖を煽ってきた連中❞がとるこれからの戦略は、
① まだ、未知だからいつ感染爆発がおこるかわからない、
② 後遺症が多発しているらしい、
③ 医療崩壊が起これば死亡率は格段に上がって感染爆発となる
の、3つくらいであろう。こんな、くだらない煽りのために、年末年始の楽しみを奪われないよう、
【みなさん、よいお年をお迎えください】
していないのは、中国の武漢、医療崩壊の危機にあった武漢、が習近平さんの陣頭指揮の元、現在は、コロナウィルスをコントロールしているから、今中国経済は、活況で、高級品が飛ぶように売れているそうだ。
仮想現実ではなくて、現実をしっかり見て、どの国のコロナ対策、医療体制、経済対策、が成功しているか、見極めるべきなのではないのだろうか?
「要するに(ὅλως)…」云々などと具体的論証を怠って何かを言ったつもりでも、その言説が支離滅裂(ἀσύφής)で首尾一貫しない(ἀκατάσταος)うえに、真っ当な言説の前提となる、言われていること、指摘されたこと自体をまとも理解せず、含意を取り違える。畢竟言語能力に致命的な欠陥(θανάσμος κακία)があるから、自ずとその主張に過誤が現われずにはおかない。
それは何も先の「インフルエンザ菌騒動」に限らず、外国語の解釈などではなく、母語の日本語の理解力に欠陥が潜んでいる、ということだ。その典型が、「Caroba-20」ウイルスの宿主、偏執狂の老婆に外ならない。
51の「Gくん」氏の指摘に対する、52⇒【医師という肩書のついた森田洋之のアゴラに書かれた主張なら信頼でき、無知で無学な老婆の…主張なら信頼できないのだろうか】のような頓珍漢な誤読や被害妄想、言わずもがなの59も生まれる。
同じことは、33⇒【反氏のコメント26の私への批判…】にも顕著である。篠田さんが「英雄」と持ち上げ、老婆がその論理的含意も理解せずひたすら追従する押谷仁氏の「日本モデル」的な「木ではなく森を見る」新型コロナ対策の核心=「さかのぼり」調査(“retrospective” investigation)について、私は26でその論理的構造を分析して、それが欧米流の「木を見て森を見ない」=「前向き」調査(“prospective” investigation)と、論理的含意では本質的な(ἀναγκαίος)な違いはないことを論証した。
それへの反論は何もない。
33⇒【反氏の主張は、西洋哲学を学んだ人に似つかわしい】、35⇒【事実に根差した論理的思考】といった議論の対象である事柄自体や論理に何の関係もない冗語に終始し、挙げ句は、35②⇒【有名な哲学者の名前、理論を知らなくても、良識と常識があれば、人と協調でき、人は幸せな人生を歩める】のような、老婆ならではの莫迦話以外に何も出てこない。
論理的な推論(συλλογισμός)の法則は普遍的で、哲学の研究者であれ、老婆のように無学であれ何の区別もない。定言三段論法(categorical syllosismus=συλλογισμός)、「すべての人間(G)は死ぬ(H)」→「すべての日本人(F)は人間(G)である」→「すべての日本人(F)は死ぬ(H)」、G→H⇒F→G⇒F→Hは、属人的なものではなく、言語の用法自体に内属する論理的思考(λογιστικόν)の法則(κατὰ τὸν νόμον)だからだ。
それを論理学(λογικόν)と称し、人類史上この推論の科学(μάθημα)を最初に体系化し、記号化に先鞭をつけたのがアリストテレスであり、それは時代、言語、人種、文化の違いを超えた共通の基準(κριτήριον κοινόν)というだけのことだ。
その観点からみれば、老婆の莫迦話など禽獣の呻きに等しく、論理的な推論、つまり首尾一貫した論理的思考が覚束ない点で、アリストテレスが考案した論理の法則性の前では、「白痴」(ἠλίηθιος)に等しい。
それにしても、老婆が盛んに主張する、現実的な(κατὰ ἐνέργειαν)【事実に根差した論理的思考】が、35②⇒【江戸時代、庶民の教養が読み書きそろばん…大切なのは、良識、常識】には拍子抜けする。
それでは、パソコンもインターネットも出現しなかったろうし、「はやぶさ2」も戻ってこない。
50末尾に、中唐の詩人、李商隱の「晚晴」の一節を引いて、心境を託している。「天意 幽草を憐れみ。人間 晩晴を重んず」――コロナ論議などに入れ込んで焦慮を募らせるより距離を取り、世の喧騒は抛っておいて淡白な方が、人間としては上等かもしれない。
命も惜しいが、海外旅行をはじめ、ご気楽に世界や世間を遊び回る老後の計画を台無しにされ、いきり立って狂態を晒すしか能がない老婆よりは。そして、「顔は、魂の指標」(vultus est index animi)というように、ある程度の年齢になれば、修養の有無を含め、内面の浅ましさは老婆のように自ずと姿形に現われる。
「晚晴」は技巧的な作品で知られる李商隱の中では、穏やかな調べだ。
「深居俯夾城。春去夏猶淸。天意憐幽草。人閒重晚淸。倂添高閣迥。微注小窗明。越鳥巢乾後。歸飛體更輕」――ネット上に、その調子を巧みに表現したブログがあるようだ。出典は明らかではないが、あるいは自作かもしれない。それによれば、
「ひとりみおろす、しろきいしがき/はるはゆけども、いまださわやか/てんはひかげの、くさをあわれみ/ひとはひぐれの、はれをとうとぶ/あめがあがれば、たかどのみえて/かすかにそそぐ、こまどのあかり/えつどりたちは、すのかわくころ/このちへかえる、はねかろやかに」
学生時代に私も、吉川幸次郎に嘱望された弟子で作家の高橋和己が『中國詩人選集』の一冊として上梓した『李商隱』(1958年、岩波書店)を読んだ。あいにく「晚晴」は含まないが、主要作を註解している。
どうか、よい新年をお迎え下さい。
例えば、シナの知識人、「士」(士大夫)と称される支配階層のことである。それで、「王道」などを主張するのだから、滑稽だ。
士大夫=知識人=読書人について、吉川幸次郎の「中国の知識人」というエッセーに簡潔に説かれている。
「ここに述べんとする事柄は、中国の現在の情勢を理解する前提として、知っておくべき事柄のひとつである。…つい四十年前、民国革命に至るまでの中国社会は、知識人独尊であった。知識人と知識人でないもののとの区別は、至ってはっきりしており、しかもその区別は、同時に、人間の社会的身分を決定するものであった。
すなわち人間には、二つの身分のものがあると意識された。一つは、一定の知識教養をもつ人間であって、それのみが行政官として、政治に参与する。この身分にあるものは『士』と呼ばれる。それに対し、一定の知識教養をもたない人間は、政治に参与することが出来ない。少なくとも正式に参与することが出来ない。この身分にあるものは『庶』と呼ばれる。つまり、人間には、政治に参与し得る人間と、そうでない人間との、二種類があるわけであるが、その区別は、知識教養の有無によって、決定される。知識教養というのは、今日われわれが行政官に必要なものとして考えているものでは、必ずしもない。哲学文学を中心とする知識であり、教養である」(『吉川幸次郎全集』第2巻、400頁)
だから、シナの著名な政治家は、同時に知識人としてその時代を代表した事例に事欠かない。
「役人となることは、過去の中国に於いては、ただ単に、権力と名誉を得るばかりでなく、最も確実な到富の道でもあった。つまり、すべての意味で優位を占め得るのであるが、それは知識人であること、つまり『士』であることによってのみ得られる。『士』とは『仕』と同語源の言葉であって、役人の意であり、…『士人』『士大夫』『士類』…、更に重要な別の呼び名は、『読書人』という言葉である。『読書人』とは、書物を読むことによって、知識を蓄積した人間の意であるが、『士』と『読書人』とが同義語である点に、過去の中国の特色はあった。文化と道義の負担者、それが同時に政治の負担者であった。『士』の和訓は『サムライ』であるが、中国の『士』はサムライではない。武力は…過去の中国の社会の蔑視するところであった。『士』に必要な能力ではない。」(401頁)
さらに、中国の知識人を他と分かつ著しい特徴は、みな一廉の詩人であることだ。そこに言う哲学とは、儒学の古典である経学の該博な知識であり、文学は主に詩であった。
知識人である官吏は、つまり政治、道義の担当者は、同時に文化の担い手としての能力を求められた。その対象は主として文学、シナの場合は第一に詩であり、鑑賞にとどまらない創作能力だった。文学とは韻を踏んだ定型詩と典拠、語彙と語法の制約を踏まえた修辞的擬古文に基づいた散文を作る能力で、それを必ず具えた人間が「士」であり、それができないのが「庶」だった。
江戸時代の日本的身分制度「士農工商」は、「士」が文人であるシナからみれば夷狄の風習だった。元々は警護役の侍が天下に号令するなど、あり得ない道理だ。江戸初期に日本も儒学を正統の教学として採用するが、支配階級である「士」ならぬ武士に限ってみれば、実質は極めて乏しい。東贏の非文明国たる所以だ。だから、朝鮮に軽侮された。
しかも、シナの士が日本と決定的に異なるのは、基本的に万人に向かってその門戸が開かれていたことだ。知識人であり支配層である資格の取得に身分差はない。どんなに有能でも、生まれた時から士になる可能性を閉ざされた江戸期の農民や町民は、一生を庶として士に隷属するしかない。実力による飛躍の可能性は、身分の枠内のことでしかない。
逆に武士の子は、生まれた時からどんなに暗愚でも身分保障された。生産を庶に依存するのは同じでも、決定的に異なる。
シナは実力主義の社会なのである。漢民族でなくとも、科挙の受験資格はあった。現在の共産党支配体制はそれを歪めている点でも過去に劣る。
そうしたシナの政治体制の根底には、文化と政治の一致、賢人の支配を説く儒学の影響がある。それは世襲によらない官吏登用制度と一体となってシナのエリート層を涵養した。現在の中国は、根幹の儒教思想が共産党イデオロギーに入れ代わったにすぎない。
歴史上のシナは、想像以上に実力主義で、基本的に世襲が排除されたから、にわか成金の子息も士になれた。
同じ儒教文化を奉じても江戸期の日本との決定的な違いであり、シナに倣った科挙を導入しながら、李氏朝鮮時代、朝鮮版「士」である支配階級「両班」に三代継承の特権を認めた隣国とも異なる。
それでもシナは西洋的な意味での近代化に失敗した。資格は解放されていても人材登用システムが時代の要請にうまく対応できなかった点や、旧弊墨朱の王朝支配、工業生産力の充分な展開につながる科学技術の未発達など、民主制的な政治思想以外に原因はいろいろ挙げられるが、明治維新で目覚めた日本の後塵を拝するようになったのは、制度の閉鎖性のゆえでは必ずしもない。
結局、支配階級の時代に即応した政治意識の成熟が、牢固たる儒教文化の壁を突破できなかったという以外に、決定的な要因を見出しがたい。巨大既得権益集団と化した現在の共産党一党支配も、必ずしも安泰とは言えず、一種の王朝支配化する習近平体制も、思いの外脆いかもしれない。
西洋との比較なら、ドイツの知識層の中核を担った「教養市民層」(der Bildungsbürger)、ドイツ版‘mandarinism’的「文化的保守主義」は、シナの士大夫に似ていなくもないが、その非政治的な性格、政治的未熟さは、全く別だ。英国の貴族も有力な教養層で支配層だが、世襲だからやはり異なる。
いち早く近代化に成功したのは英国で、政治的な成熟の影響が無視できない。
「読み書き算盤」の莫迦話から、図らずもシナ文化論になった。現在の中国はシナ文明の正統な後継者ではない。[完]
ありがとう。
年もせまってきました、家人たちに大掃除をせまられています。
よい、お年を、年明けまでだいぶありますが、
どのくらい世の中が静かになっているか、
平和な年でありますように。
55⇒【ソクラテスの容貌も、極東に住む日本人にも、かなりひどいかのように、伝わっているな、と思う】――ソクラテスが容貌のうえで不(醜)男であったことは、晩年に身近に接したプラトンの証言があり、最初の妻クサンティッペの悪妻伝説などとは異なり、確定的な事実だろう。
それは、けっして「かのように」(ὡσπερεί)といったものではない、具体的で諧謔も交えた記述だ。
いずれもプラトンの真作である中期対話篇『饗宴』と『テイアテトス』にみえる。
『饗宴』はソクラテスに心酔するアルキビアデス(Ἀλκιβιάδης)のものだ。
「さて、ぼくに言わせれば、この人は彫像屋の店頭に置かれているあのシレノスの像にこの上なく似ている。その像と言うのは、竪笛とか横笛を持った姿に工芸家が細工したものであって、それを両方開くと、内部に神々の像を蔵しているさまが現われるというものなのだ。さらにまたぼくは主張する。この人はサテュロスのマルシュアスに似ていると。ところで少なくとも容姿の点で、あなたがそうしたものに似ていることは、ソクラテス、あなた自身でもおそらく反対することはできないだろう。」(鈴木照雄訳『プラトン全集』第5巻、106頁=‘φημὶ γὰρ δὴ ὁμοιότατον αὐτὸν εἶναι τοῖς σιληνοῖς τούτοις τοῖς ἐν τοῖς ἑρμογλυφείοις καθημένοις, οὕστινας ἐργάζονται οἱ δημιουργοὶ σύριγγας ἢ αὐλοὺς ἔχοντας, οἳ διχάδε διοιχθέντες φαίνονται ἔνδοθεν ἀγάλματα ἔχοντες θεῶν. καὶ φημὶ αὖ ἐοικέναι αὐτὸν τῷ σατύρῳ τῷ Μαρσύᾳ. ὅτι μὲν οὖν τό γε εἶδος ὅμοιος εἶ τούτοις, ὦ Σώκρατες, οὐδ᾽ ἄν αὐτὸς δή που ἀμφισβητήσαις•’; Symposium, 215A~B)
一方、サテュロスは山羊の特徴をもつ若者としてイメージされる。快楽を好み野獣的に行動する。巨大な男根をもつ深毛の野蛮な男として表現される。酒の神ディオニュソスの従者、その中で最も有名なのがマルシュアス(Μαρσύας)で笛の名手。
ソクラテスが魁偉な風貌のもち主だったことが精確に描写されている。
もう一つの『テアイテトス』では、無理数論の基礎づけを行い、立体幾何学の創始者とされる、エウクレイデス(Εὐκλείδης)、所謂ユークリッドの『幾何学原論』(“Στοιχεῖον”)の中に業績を残す夭折した同名の数学者とソクラテスの容貌が似ていることが指摘される。
「ええ、それがまた実に、ソクラテス、お国の人たちの中で私がどんな児に出会ったか、あなたにしてもたいへん聞きがいがあり、私にしても大いに話しばえのするのがあるのですよ。それも、これがもし見目よい児であったなら、私はその児におぼしめしがあるように誰かに思われるのもいやだから、まさにそのために熱をいれて話すことをはばかったことでしょう。ところが実際はべつに器量よしというわけではない(οὐκ ἔστι καλός)のでして、そのまことにこう申しては失礼だが、鼻は上向いている(σιμότητα)ところといい、目の飛び出ている(τὸ ἔξω τῶν ὀμμάτων)ところといい、あなたに似ているのですよ。」(引用続く)
ソクラテスは凹鼻(σιμός, σιμότης)、獅子鼻(ἐπίγρυπος)で、出目(ὁ ἔχοντα ῥῖνα)だった、ということだ。それは、次の箇所にも明らかだ。
「とはいうものの、これでもし僕がただ目や鼻をもっている者だけを考えるのではなくって、それがまた出目や凹んだ鼻をもっている者であるということまで考えるにしたところで、やはり、僕がそこに思いなすであろうところのものは、何も君と限ることは少しもないのであって、僕自身にしても、また僕たち以外のそうした性質をもつ者らにしても、同様にその思いなしのうちへ入って来るわけではないのかね。」(田中訳、399頁=‘Ἀλλ’ ἐὰν δὴ μὴ μόνον τὸν ἔχοντα ῥῖνα καὶ ὀφθαλμοὺς διανοηθῶ, ἀλλὰ καὶ τὸν σιμόν τε καὶ ἐξόφθαλμον, μή τι σὲ αὖ μᾶλλον δοξάσω ἢ ἐμαυτὸν ἢ ὅσοι τοιοῦτοι;’; ibid., 209B~C)
ソクラテスには容貌の魁偉さ、醜さを補って余りある知性の輝き、内面の美を湛えていたが、老婆にはそれが皆無ということだ。
ソクラテスを騙る前に、老婆はどう見ても容姿は並み以下で、知性の欠片もないことを自覚したらよい。[完]
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。