2月26日、衆院予算委員会分科会で、立憲民主党の松原仁氏が、中国当局による同自治区でのイスラム教徒少数民族に対する弾圧を、米政府やカナダ下院が「ジェノサイド(民族大量虐殺)」と認定したことを挙げ、集団殺害などの防止や処罰を定めた「ジェノサイド条約」に日本が未加入である理由をただした。これに対して、外務省が、「必要性、締結の際に必要となる国内法整備の内容について、引き続き慎重に検討を加える必要がある」と答弁したという。
一般に、日本がジェノサイド条約に未加入なのは、ジェノサイド教唆罪が国内刑法で犯罪化されていないことに加えて、「締約国は、集団殺害が平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、国際法上の犯罪であることを確認し、これを防止し、処罰することを約束する」(第1条)が、憲法9条に抵触するという見解があるためだとされている。
日本はすでにジェノサイド罪を処罰対象とする国際刑事裁判所(ICC)ローマ規程に加入している。国際法において慣習法化していると言ってもいいジェノサイド条約に日本が未加盟であるのは、技術的な問題の要素が強い。とはいえ、望ましいことではない。
教唆罪の制定については、ヘイトスピーチをめぐる議論などとの法技術論的な整合性の問題等があるだろうが、犯罪化それ自体に大きな異論があるとは思えない。刑法の「国外犯」規定がジェノサイド条約に対応していないことも、一体の問題として是正すること自体に大きな反対があるわけではないだろう。
より深刻なのは、憲法9条との整合性が問われかねないと認識されているために、議論が避けられてきていることだ。ジェノサイド条約に加入すると、自衛隊が次々と海外に派遣されて人道的介入を繰り返すようになる、といった夢想は、全く非現実的であり、法律論としてもナンセンスである。ジェノサイド条約に加入しているいかなる国も、そのように条約を解釈していない。
ところが日本国内では、国際法と憲法9条の関係をめぐる議論が忌避されてきたために、半世紀の長きにわたって、ジェノサイド条約加入問題もまた面倒な問題として忌避されてきた。
すべては憲法学通説の破綻した憲法9条解釈のせいである。
「戦争放棄」を、「戦場とみなされるかもしれないところには一切絶対に日本人は近づいてはいけない、もし近づいたら憲法違反だ、自衛隊の近くのどこかで誰かが戦闘が始めるだけで自衛隊は憲法違反だ」、といった奇妙な議論を、大真面目に憲法学者なる方々が半世紀以上にわたって主張し続け、国内の有力な圧力団体として行動し続けているために、「ジェノサイドを防止するなんてとんでもない、ジェノサイドが起こっていたらとにかく離れて逃げて無視しなければ憲法学者に憲法違反を問われる」といった発想方法が生まれてしまっているのである。
立憲民主党は、今回の議論を、憲法学通説の憲法9条解釈の異常さに気づき、それと決別するための機会にしてほしい。
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もっとも、篠田さんの議論はあくまで、憲法学主流派による憲法解釈の都合上の、謂わば見せかけ(φαίνεται)、口実(πρόφασις)でしかない虚偽的な対応を突破できないこの国の「政治的貧困」(πενία πόλιτκόν)に向けられ、国際法や国際政治上の焦点である、新疆ウイグル自治区で中国政府によって行われているジェノサイドに比定されている苛酷な人権侵害を名指しで批判しておらず、その主張は旗幟鮮明とはとても言えないが、今後に期待したい。結論は自ずと明らかだからだ。
最後に立憲民主というクズにも等しい野党第一党に、憲法学通説との「訣別」(ὁ χωρισμός)を期待するのは、時間の無駄だろう。
27日未明の深夜番組(テレビ朝日系「朝まで生テレビ」)で、「前身」の旧民進党に見切りをつけた細野豪志氏(静岡5区)の正論と一種の覚悟を聞いたが、有為な人材は疾うに離党しており、立憲には何もない。
「ギリシアの暴虐」とは、次のような主張の背景にある、ドイツにおけるルネサンス文化の不毛に通じる。
„Alle Völker haben eine Renaissance gehabt, diejenige, die wir für gewöhnlich so bezeichnen, mit einer einzigen Ausnahme, nämlich Deutschland. Deutschland hat zwei Renaissance gehabt; die zweite Renaissance liegt um die Mitte des 18. Jahrhunderts und knüpft sich an Namen wie Herder, Goethe, Schiller, Lessing, Winckelmann. Da stehen die Griechen ebenso im Vordergrund wie in der ersten die Lateiner, die nationale Wesensverwandtschaft der Deutschen und Griechen ist entdeckt worden. Daher kommt es, dass die Deutschen ebenso stark Griechen, wie die Engländer, Franzosen und Italiener bis auf den heutigen Tag Lateiner sein können. Für uns steht in erster Linie Homer, nicht Virgil, Thucydides, nicht Titus Livius, Plato, nicht Seneca, das ist ein ein grundlegender Unterschied. Wir denken zunächst ganz instinktiv an das Griechische, dann an das Römische, die Leute zur Zeit der ersten Renaissance und die grossen Kulturnationen des Westens machen es gerade umgekehrt, und darin ist vielleicht ein gutes Teil des Grundes zu sehen, weshalb die Deutschen so unbekannt und missverstanden in der Welt stehen.“; Paul Hensel, „Montaigne und die Antike“ (Vorträge der Bibliothek Warburg, 1925~26, Leipzig, 1928), S. 69: The classical tradition, Note on Chap. 19, p. 663~64.(訳文は前回2月23日・136)
文中、»die nationale Wesensverwandtschaft«=「民族として似ていること」は英語で表現すれば‘the national kinship’と明晰だ。ドイツ語の»Wesensverwandtschaft«は、»wesensverwandt«=「本質の似通った、同質の」を名詞化したもので類似性。
こうしたところにも、「近代語としての」未進化=後進性がよく出ている。それは、古代ギリシア語と同質性があるが、あちらは近代語ではない。
ちなみに、ドイツ語で「確率論」(theory of probability)を»Wahrscheinlichkeitsrechnung«と称する。甚だ冗長だ。
田舎者だから、ギリシアを»Eine edle Einfalt und eine stille Grösse«(「高貴な単純さと落ち着いた雄大さ」)としたが最後、拡大解釈する。
なんども書いたと思うが、その考えが間違っていると気づいたのは、西独留学中、ベルリンに行った時である。西ベルリンの「自由と平和」は、米国をはじめとする英、仏の軍隊が駐留して守っているからであり、いなければ、ソ連軍が侵略し、西ベルリンは東ベルリンと同じ不毛な都市になり、西ベルリン市民は思想、表現の自由を奪われ、ソ連流の「秘密警察の監視下」に置かれるという事実を知った時である。そんなことは、日本の一留学生のカロリーネよりもマスコミ関係者の方がずっと詳しくご存じなはずなのに、それを報道しない。そのような忖度が働いていることに、日本のマスコミ人の最大の問題点があるのである。
また、毎日新聞によると、「米国務省が中国による新疆ウイグル自治区での行動を「ジェノサイド(大量虐殺)」と認定したことを巡り、外務省の担当者は26日の自民党外交部会で「日本として『ジェノサイド』とは認めていない」との認識を示した。」とあり、日本の外務省が消極的な対応のようです。
https://mainichi.jp/articles/20210126/k00/00m/010/145000c
かって、河野太郎氏が外務大臣就任する前に「害務省」と酷評していたのは有名ですが、外務省には人権問題への意識が欠如しているようです。
https://m.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_601cd709c5b69749da3c7219
その点で、ジェノサイドに「認定」されている、1=「苛酷な人権侵害を名指しで批判しておらず、その主張は旗幟鮮明とはとても言えない」という反時流氏の指摘は、今回のテーマとして、中国当局の対応自体を批判の対象にしていない点、しかも篠田氏自身のこのジェノサイド問題に対する明確な態度表明としては物足りない点ではその通りだが、言外に込めた意思は、明らかだと思う。
中国のやり方を、「ジェノサイド=民族大量虐殺」と問題視しているアメリカやカナダ議会が認定したことの意味を重視している点は変わりない。
これに対して、ジェノサイド条約未加入も含めて、日本政府、特に外務省の姿勢は煮え切らない対応に終始しており(確かにジェノサイド罪を処罰対象とする国際刑事裁判所のローマ規程に加入しているが)、面倒なことを忌避する及び腰が目立つのは、篠田氏の言う通り。
憲法や憲法改正に対する一貫して守旧派的な姿勢の一方で、皮肉なことに、日本で中国の行為に明確な抗議を最も強く打ち出しているのは、維新はともかく、日本共産党や一部の有志議員など野党勢力で、自民党は個人対応。香港での国家安全維持法による民主活動家の弾圧でも同じ。
どちらにしても、ジェノサイド条約に加入することで、「自衛隊が次々と海外に派遣され… 人道的介入を繰り返すようになる」という主張は、篠田氏の言うように、全くナンセンス。
ところで、カロリーネさんは、新疆ウイグルだけじゃないこの重大な問題について日頃は何と言っているか、自分でよく考えたらいい。
「ドイツ系主婦」とは、どういう意味。ドイツばかりか、中国に忖度ばかりしているから、貴女は「中国系主婦」にもなるの⁉︎
3⇨【主婦カロリーネには看破できない表現】。それを言うなら、「看過できない」。ご贔屓の中国に「カンパ」でもするのかな。それとも、反時流氏に、いつでも「完敗」の誤りか?
4⇨「中村哲さんと共に農作業に必要な治水作業」。中村さんがアフガニスタンでやったのは、水=降雨不足で荒廃した大地に対する「灌漑事業」。何か勘違いしておらんか。
確かに、「治山治水」とは言うが、「治水」とは、【洪水にならないように堤防を築いたり、水の流れを制御したり、灌漑の便をよくしたりすること】(『新明解国語辞典』)で、ダムもあるが、灌漑(【田畑に必要な水を、人口的に引いて来て供給すること】=『新明解』)と同じじゃない。
灌漑=「かんがい」と、勘違い=「かんちがい」は、確かに似とるが。お主のよくやっとることよ。
3の2⇨「東大系憲法学者とつるんで」。70歳近いと羞恥心がなくなるのか知らんが、「つるむ」なんて言葉、簡単に使ったらいかん。品性が問われる。
言葉の乱れは、心の乱れ。ひいては思考の乱れじゃ。ドイツ語より、日本語を学び直したらいい。
貴殿は、いい歳して、半端者じゃな。他人を批判している場合ではなかろうに。
以前スーダンにいましたので、その際に“ジェノサイド”について同僚と議論をしたことを覚えております。
また関連して新しいところでは、「ロヒンギャ避難民」に関してかと思われます。
こちらも難しい問題ですが注目しております。
さて、「…ジェノサイド条約に加入すると、自衛隊が・・・人道的介入を繰り返す・・・全く非現実的・・・」(同意します)とありますが、
(単純な私の頭では)100歩譲って、自衛隊が人道的介入をして何が悪いのだろう?と思ってしまいます。
PKOに派遣された自衛隊の方々と話す機会(および飲む機会も)がありましたが、
「肉体的そして精神的にも辛い日々が多かったが、貴重な経験を積むことが出来た」、と仰ってました。
また、現地(国外)での評判も非常に良かったと聞いております(南スーダン人の方や他国のPKO関連者に聞きました)。
政治家の方々にはマスコミの言動に一喜一憂せず、地に足を付けて議論を進めて頂きたいと願う次第です。
ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、
ユダヤ人やトルコ人、
オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
黒人や白人
それをやっているのが、現代では、トランプ前アメリカ大統領、戦前のマスコミに煽られた日本人もそうであった。中国の国土でどれだけの期間日本軍は戦争をし、ご迷惑をかけたのだろう?鬼畜米英も言い方を変えれば、反英米、なのであってマスコミに騙されて、日本人は悲惨な戦争に突き進んだのだ。ワイツゼッカー演説もあって、独仏は敵対関係をやめたから、EU,ヨーロッパが発展しているのであって、「反中国」=当たり前の指摘は世界の常識 的な見方こそが、国際協調の阻害要因になる、と私は考える。ヨーロッパ文明の古代ギリシャのような役割を、古代中国は日本文化に果たしているのではないのだろうか。そのことを日本人はよく考えるべきだ。
「この偉大な自然の中で病いと向き合えば / 神様について ヒトについて 考えるものですね / やはり僕たちの国は残念だけど何か / 大切な処で道を間違えたようですね」
「診療所に集まる人々は病気だけれど / 少なくとも心は僕より健康なのですよ / 僕はやはり来てよかったと思っています / 辛くはないと言えば嘘になるけど しあわせです / あなたや日本を捨てた訳ではなく / ぼくは『現在』〔いま〕を生きることに思い上がりたくないのです」
作品は若き日にケニアの長崎大熱帯医学研究所に派遣され、ナイロビを中心に巡回医療活動に従事した日本人医師、柴田紘一郎氏(1940~)の、「青春を歌に込めた作品」だ。
それが「憲法前文」の精神に拠ろうが拠るまいが、国内だけに目を向けることなく、それぞれの動機や使命感に促され、海外で自らの信じる道、仕事に精励した、そして現在も第一線で活躍している日本人が少なからず存在するのは間違いない。
そうした人々が、篠田さんが今回取り上げた「ジェノサイド条約」をめぐる憲法論議をどうみるかは、分からない。ただ、世の中を含めて、いろいろな風圧と無理解、無関心に耐えて、それでも怯まずに旧弊や世に抗う初心と覚悟を崩さなかった人々の目に、この日本が「残念だけど何か / 大切な処で道を間違えた」ように映ることもあるのだろう。
34年前の作品だから、日本は基本的に何も変わっていないとも言える。
一昨年暮れ、アフガニスタンで殺された中村哲氏も、単純に途上国支援のため現地で医療活動に従事したわけでも、その限界を思い知って医療より水と方向転換して、畑違いの大規模な灌漑事業に乗り出し苦闘したわけでもない。現地に寄り添って生きるなかで、覚醒することがあったろう。
世の通念に抗って生きる、獅子のような志操のもち主だったのだろう。
本文表題→立憲民主党は憲法学通説と決別< 反さんが1の下の方でも触れておられます。立民党は、憲法解釈については守旧派中の守旧派です。松原議員など一部議員は除きますが、(立民)党の支持者が、それを許さない構図です。
7の「反中国」=当たり前の指摘は世界の常識さん!かなりお詳しいですね!(ジェノサイドについての篠田教授への言及部分)→・・・ 言外に込めた意思は、明らかだと思う< かっこいい表現ですね! そのさらに下の方(政権党自民党の姿勢)→自民党は個人対応< これもそのとおりだと思いました。
習近平政権になって数年したころから、この件はもちろん、南シナ海・東シナ海での対応(「力による現状変更」といわれています)などを見てみますと、中国は、覇権主義を隠さないようになったと感じています(一例、中国外務省の報道官の態度)。
構成する人種、民族が変わってもドイツ人はドイツ人なのである。つまり、ローマの歴史家、タキュトスの『ゲルマーニア』(Germania)の世界だ。
ドイツ人は後発とは言え、ギリシア・ローマ以来の文明と文化、それを伝える古典学の研究において、19世紀以前こそ、イタリア、英国、フランス、オランダなど先進諸国の後塵を拝したが、19世紀に至って目覚ましい進展を遂げたことを私は本欄で何度も紹介してきたし、古典学界も私自身もその恩恵に浴している。
その象徴が全84巻のパウリ・ヴィソヴァ・クロール『古典古代学大辞典』(A. Pauly, G. Wissowa und W. Kroll; „Realenzyklopädie der klassischen Altertumswissenshaft“, 1893~1978)であることにも、何度か言及した。たとえ、それを支えたのがドイツ特有の、政治を蔑視する一方で政治的に成熟しないという意味で「非政治的な」(unpolitisch)「教養市民層」(Bildungsbürtum)であり、彼らがナチズムに熱狂し、それを下支えした民衆の心性と如何に隔絶した存在だったとしても。
それにしても、2で指摘したように、類似性(»Wesensverwandtschaft«)でも、確率論(»Wahrscheinlichkeitsrechnung«)でも、ドイツ語は前近代的だ。優雅さに欠けるというべきか、そこに長らく共通文章語が確立されなかった「後進国」の歴史がある。
さらに、形容詞の名詞化もあり、そこには形容詞として使用可能な過去分詞や現在分詞がすべて含まれる。これに分離、非分離の前綴りのついた複合動詞が絡んでくる。造語可能な単語は枚挙に暇がない。
そうした事情で新語を容易に作れるから、辞書に当該の語を見出せなくとも、語を既知の要素に分解して、再び再結合すれば、意味がさほど苦労せずに了解できる。
さらに、名詞や形容詞の男性、女性、中性の性(gender)の違いはともかく、格(case)による語形変化を残しているのがドイツ語ならではの際立った特性だ。ギリシア語やラテン語に比較すれば特別なことではないが、日本語なら助詞一つ、他の近代諸語でも簡素化され、語順と前置詞で済むものを、一格から四格まである。一格はギリシア語、ラテン語なら主格(nominative)、二格は属格(genitive)、三格は与格(dative)、四格は対格(accusative)に相当するが、近代語としての未分化状態は顕著だ。
ところで、先に挙げた『古典古代学大辞典』は、ドイツの古典学界が達成した古典学研究の金字塔ではあるが、精緻な研究の成果を盛り込んだものとは言え、およそ優雅な代物ではないどころか、その対極にある。それもまたドイツ的特性だ。
それは一言で言えば、如何にもドイツ的な探究、»Überlieferungsgeschicte«(「文献伝承の歴史」)ということになるが、この言葉もドイツ語らしい語だ。似た研究である»Qullenforschung«=「典拠の探究」も含め、それこそドイツ的勤勉さの集積が『古典古代学大辞典』であり、その刊行に完成まで87年もかけることは、他の先進国家では考えられない。
「一番の好例は、パウリ・ヴィソヴァ・クロール『古典古代学大辞典』という巨大な業績である。この大著には貴重な知識が膨大に含まれている。すべての事項は十分にそして慎重に分析されている。しかしその文章たるや学者でさえ読みにくい。文の中にむやみと挿入があり引用があり、前後参照の註があり、言葉は無器用で専門的である。大体二段組にびっしり活字を詰め込んだ体裁からしていけない。」(柳沼重剛訳、下巻、255頁=‘A very good example is provided by the huge German encyclopaedia of classical learing, Pauly-Wissowa-Kroll’s Real-enzyklopädie der klassischen Altertumswissenshaft. It contains a monumental amount of valuable information, fully and carefully analysed. But it is even for scholars, painful to read. The sentences are clogged with parentheses and citiations and cross-references, the language is thick and technical, and even the format, close type in double column, is repellent.’; The classical tradition, Chap. XXI, p. 498)
私も、クーランジュ(N. D. Fustel de Coulange)のひそみにならって、‘Avez-vous un texte?’、つまり「それには何か典拠があるのか?」については喧しいが、ドイツ人研究者の比ではない。
★余白に10⇒【古代ギリシャのような役割を、古代中国は日本文化に果たしている】――端的に誤りで、上古の官制や漢字の採用はともかく、明治以前も以降も、日本の発展とシナは無関係。特にシナ的な制度を採用した国は、すべて近代化に失敗した。老婆の無知の証明のような莫迦話。
「古典に関する学術書の文章もほとんど悪文揃いであった。それどころかどうかとすると故意に悪文に仕立ててあった。この点で特に罪深いのはドイツの学者である。彼らはほとんど常に良い文章を書くことを苦手としていた。彼らは科学の名において難解さと、美しさにはおよそ縁遠い文章とを一生懸命に養って来たのである。モムゼンは実際言ったそうである、『ルナンは、その文章の美しさにも拘わらず、本当の学者である』。」(同=‘The actual writing of scholary books on classical subjects is seldom good, and is sometimes deliberately repulsive. For this the Germans are chiefly to blama. They have always found it hard to write good prose; in the name of science, they have cultivated difficulty and gracelessness. Mommsen is actually reputed to have said ‘In spite of beautiful style, Renan was a true scholar’.’; ibid., p. 498)
本来の古典研究によってもたらされる古典文化、人文主義=フマニスムの伝統は、現代も例外ではない物質万能主義や狂信など、「文明の野蛮」(Zivilization zur Barbarei)に対する対抗重量になるものである。ドイツには、美しい、洗練された文章だけでなく、最も肝腎なものが欠けていた。
ジェノサイド=ホロコーストに至る文明的素地の一つがそこに潜む。その根底にはドイツを支配してきた「後進国」ならではの歴史の桎梏がある。[完]
☆余白に 2のPaul Hensel, „Montaigne und die Antike“からの引用文のうち、訳文を省略した箇所は、「ドイツ人はウェルギリウスよりホメロスの方がすぐれていと考える。リウィウスよりトゥーキュディデースの方が、セネカよりプラトンの方が偉いと思う。」(→„Für uns steht in erster Linie Homer, …“以下)
ヴァイツゼッカー演説とか真に受けて、アホくさ。そう言う血気盛んな婆さんほど、ナイーブ、つまりおめでたく単純にできている人間なんか、世間にそうはおらんわ。
ドイツくんだりまで行っても、何も分からん、中途半端な頭でっかち。
「アフガニスタンに派兵しているNATOの一員であるドイツ……このようなニュースは日本で重点がおかれないが、一体どうなっている」ーーどうもなってないわ、日本にどれだけ関係があるの? 派兵しているドイツと一緒にされてもかなわんわ。重点が置かれないのは、そんなん興味ないから。婆さんほど、物好きじゃない。
「ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたて」というけど、そんなんドイツ人同士で勝手にやったらいい。戦争に負けたから、手のひら返して、身勝手な理屈並べているだけ。アホらしくて、聞いてられない。「戦前のマスコミに煽られた日本人」とかも、煽られてお先棒を担ぐやつらもおったかもしらんが、戦争に熱狂したのは、別に煽られただけとは違うやろ。
大体、大本営発表だから、マスコミだって自由に報道できるはずがない。今度の菅首相の長男の話だって、裏があるに決まっている。「文春砲」ばかり、何でそんなにスクープ連発すんの。おまけに、録音まで出てきた。国際ニュースより、よほど面白い。
そもそも、国際情報や国際政治に興味ない、テレビや新聞からしか情報とれないやつはナイーブとか言っているやつらに限って、しょうもないことで一々カッカしている。婆さんには、あまりおらんが。
しかし、中国はけったクソ悪い。新疆ウイグルも、香港もチベットも、内モンゴルも気の毒。それくらいは、分かるよ。
空飛ぶ狐というのもケッタイな投稿名だが、婆さんより話が地に足がついている。ご苦労さん。
Gくんの習近平政権になって数年したころから、この件はもちろん、南シナ海・東シナ海での対応(「力による現状変更」といわれています)などを見てみますと、中国は、覇権主義を隠さないようになったと感じています、というコメントであるが、覇権主義、とはいったいなになのだろう?
篠田英朗教授もそのお一人であるが、途上国支援のため現地で活動に従事しているヒューマニテイに富んだ夢のある日本人は多いし、JICAで活躍している優秀な日本人は多い。その活動の延長として、中村哲医師が、医療活動だけではなくて、食糧問題、農業問題など、もっと大きな視点でその地域を発展させたいと思われた気持ちもよくわかる。平安時代の僧、空海がそうである。空海も降水量の少ない四国に井戸を掘った。本来、現場の取材もせず、本だけ読んで、好き放題の主張しているマスコミのコメンテーターや学者の主張をそのまま信じるのではなく、現場を知る人の主張を知る、ことが日本人には求められている。SNSやマスコミに加工された映像では、現場を知ることはできないのである。
「北方ルネッサンス」は主にオランダ、フランドル、英国、フランスだよ。ドイツはほんの付けたりで、「開花」なんてものじゃない。
反時流氏が引用している次に具体的に反論できるの、貴女。ホラはおよしなさい。
「イタリアのルネサンスは、そのままただちに芸術的な人間の復興であった……ヒューマニズムの流れはややおくれて、イギリスやフランスにも波及した……ドイツはどうかというと、エラスムスやメランヒトンのようなヒューマニストを出しながら、結局ルネサンスの開花をもたらすことができなかったのだ。デューラーやバッハの仕事は、さびしく孤立した例外でしかない。…… ルターの宗教改革にエネルギーのすべてを注ぎこんでしまったのがドイツである。」(大山定一)
エラスムスはオランダの人、バッハはバロック音楽、というのが反時流氏の指摘だから、一部訂正が必要。
「15、16世紀には他の諸国……はルネサンス的なものと宗教改革的なものとを経験した。ところがドイツでは宗教改革だけがあったのである。その主導者であったルターは、この宗教改革と時を同じうしてドイツにも実際にルネサンスの火花が生じたにも拘わらず、それを揉み消してしまうのに力を貸している。そのためにその火花は焔となって燃え上がるには至らなかった。……実際には、二、三のラテン語が書ける人文主義者が出ただけである。中でも最も際立っているのは……フッテンであるが、同時代のエラスムスと比べたら、独創性でも創造性でも問題にならない。……その理由は、一つは民衆の文化水準が非常に低かったからであり……ラテン語を読み書きする大学人とそれ以外の人々の間に大きな溝がいつまでも存続した……かくて15、16世紀のドイツにはルネサンスがなかったのである。」(G. ハイエット)
コメント欄でそこまでしなくともいいと思うが、18=「カロリーネが懇切丁寧に説明しても、理解できない」と言って、何も肝心な(「肝腎」というのが正式)説明、反論が出来ないのが、お主=カロリーネ婆さまよ。
「ドイツの大学に入学できるレベルにまで語学力を高めること」(18)とか言っも、肝心の日本語が怪しいお主がいろいろご託を並べても、空しいこと。
「反氏は哲学の大家」というのは、お主の勝手な解釈で、反時流氏は、当人も言うように、「学徒」と称しておる。お主の日本語はどうなっておるんじゃ。
「とっくに時代遅れになった特定の書籍」とか言って、お主は西洋の古典について、専門の学術書を読んだことがあるのか?
「日本のマスコミの論調は、『米国が覇権主義、帝国主義だ』一色だった」と碌なことを知らんで言っとるが、それは左翼やマルクス主義者、元々は社会主義陣営の主張=プロパガンダで、マスコミの専売特許じゃない。
だが、あの時代、ヴェトナム戦争に対する反対は、世界的に広がっていて、日本だけの話じゃない。今さら、「覇権主義、とはいったいなになのだろう?」でもあるまい。日本語の勉強をやり直さないといかんな。
屁理屈にもならない、婆さんの井戸端会議論法は、同じ年寄りとしても恥ずかしいわ。篠田氏もTwitterで言っておる。
「老人天国ニッポン。老人でなければ市民権なし」。
老人は行儀よくせい。
日が昇り始める前の闇の中で喚き散らしているから、「夜老自大」、粗野=野卑だから「野郎自大」「野老自大」でもよいかもしれない。
「アリストテレスの問題集」はとらえ方からしてそもそもズレていて、「万学の祖」であるアリストテレスに、雑多な問題について、何か「設問」を集めた著作でもあると勘違いしているのかもしれない。一切の著作を残さなかったソクラテスについて、『ソクラテス全集』があると勘違していたような婆さんだから、「さもありなん」ということでしかない。
『問題集』(“Προβληματα”, Problemata)は、正式には「種別に配列された自然学問題集」(“Φυσικὰ προβλήματα κατ’ εἶδος συναγωγῆς”)で、38巻からなり、「アリストテレス著作集」(Corpus Aristotelicum)として伝承されたアリストテレスの一群の著作には含まれるが、実際には彼自身の著作ではない偽作、その学派、ペリパトス学派(Περίπατητικός)内部での議論を反映したものとみられる雑録的小論文を集めたもので、対象とするのは医学、生理学、生物学、音楽、数学、学問論、徳論など多岐にわたる。
18⇒【「とっくに時代遅れになった特定の書籍」を偏重】などと称したところで、当該の書物はもとより、ドイツにルネサンスが「開花しなかった」事情について、肝腎なことを何も知らずに莫迦話を繰り返すことしかできない。
しかし、老婆が四苦八苦して、その挙句「インフルエンザ菌」騒動程度の語学力の実情では、「ドイツ大学入学レベル」も当てにならないということで、それを証明する証拠=惨状を、連日にわたって性懲りもなく堤供し続けているのだから嗤えない。
老婆が関西学院大時代にその授業(「論理学」)を受講し、99点をとったと吹聴している野田又夫(1910~2004)は、元々は京大哲学科の主任教授(哲学哲学史第一講座担当)だった。戦後に担当者が教職追放などでガタガタになった「哲学科再建」のため母校に助教授として招聘され、1974年に定年になるまで務めた、デカルトやカントなど西洋近世・近代哲学研究の権威だ。「学問とは本を読むこと」と言い切った碩学だ。
退官後の関学時代は、「余生」のようなものだから、京大哲学科時代と比べてもあまり意味はないが、老婆程度を相手とする一般教養の論理学の授業を担当させられていたとしたら、何とも気の毒というほかはない。本質的には、関学というより、老婆の問題だろうが。
そういう篤実な研究者の肉声を伝えるものとして、以前にも紹介した古稀祝賀会で行った挨拶がある(2018年9月1日・16~17参照)。一部を再録すると、次のようなものだ。
「大学というところはどうも講義の義務が重すぎて、自分勝手ができません。京大はことに古い本が多くありすぎる。本があることは研究のため結構なことなのだが、それがなかなかこなせないので、かえって愚痴を言いたくなる。私は近世哲学史をたどることを義務づけられましたがその義務がなかなか果たせない。結局二十数年間本読みに追われて過ごし、青年の時代の『青白きインテリ』の姿を幾分再現したと思います。」(引用続く)
厳密な実証科学であるシナ学の伝統(清朝考証学)に立つ中国文学、経学の研究者である吉川幸次郎とも、フランス文学者の生嶋遼一とも事情は異なろう。そもそも、哲学は実証科学ではないし、所謂科学でさえないからだ。しかし、そのことを誰よりも熟知していたうえで野田は、新たな局面から「西田幾多郎―田邊元」以来の伝統を継承する仕事に苦闘する。
一言で自由に考えるとは言っても、その前提となる知の蓄積が、哲学の場合は膨大だからだ。しかも、哲学など伝統的な人文系諸学には「時代遅れ」も何もない。「新しい」「独創」と思われることが、実際には既に説かれていることが大半だからだ。そうした歴史や伝統を超越して、真の独創性を主張できる天才は、ごく稀にしか存在しない。
そうした独創的な思索、哲学的総合が如何に困難で、稀有な才能を哲学者自身に要求するかは歴史の教えるところだ。野田の普遍的=世界哲学の構想は充分な達成に至らず、やがて放棄される。結果はともかく、京都には、そうした「ヘラクレス的難行」を有為な哲学者たちに強いる伝統がある。
そうした教授が如何に立派でも、生徒がクズ同然の「出来損ない」だと、大学はどこであろうと、東大、京大であれ、ミュンヒェン大学だろうと意味はない。
その野田は哲学を、「科学の科学」、つまり「学問の学問」として論理的分析を徹底的に追求することを第一の任務と考える一方で、神話や宗教が「独断的に」提供してきた「人生の意味」についても批判的吟味を徹底させる。
「哲学者の仕事は、実はたんなる論理的分析の仕事ではなく、客観的世界についてのみならず人生の全体についての博大な眼光を必要とするものとなっているのであるが、ともかく科学という第一次的な世界認識に対する、第二次的な反省を、哲学は引きうけている…哲学のもう一つの問題は、いうまでもなく、神話や宗教がいわば独断的に与えてきた人性の意味に対する答を、改めて批判的に取り上げることである。しかしながらこの方向の反省は、多くの場合、科学の論理的分析という第一の問題から切りはなされ、哲学者自身が、みずからの思索の論理的客観性をゆるめがちであって、その結果、哲学は、さまざまな人生観の相対性についての歴史的な考察として、一種の博識の誇示になったり、あるいはまた、どれかの世界観を独断的に選ぶことによって、疑似宗教的な姿を呈するに至ったりすることが多いのである。」(『哲学の三つの伝統』、岩波文庫、63~64頁)
野田は、東洋や日本の思想的伝統に安直に哲学を読み込み、独断的な世界観を押し売りすることの意味のなさを指摘し、それが「なに一つ哲学に有用な結果を生まなかった…客観性の規準を引き下げ、いわば点を甘くしたのが悪かった」と、哲学のもつ普遍性への認識の欠如に厳しい。それは、東洋思想も含め、安易な相対主義哲学観への批判だった。
そのうえで、「壮絶な禁欲の哲学」(中国学者の森三樹三郎)が現われる。
「哲学は、世界観の探求においても、高度の論理的客観性の要求を、みずからに課する用意がなくてはならない。これが哲学に要求される禁欲である。哲学者とはみずからの満足のためや、人心に訴えるための論を構えようとはせぬ者のことである。」(『哲学の三つの伝統』64頁)
無学な老婆が考える以上に、学問は遥かに厳しいのである。
「『プラトンと近世哲学』という課題作文を引きうけてしまったがやや慎重を欠いたきらいがある。私はプラトンの愛読者ではあるが、プラトンの議論のこまかな吟味はできない。ギリシア語が読めぬからである。ギリシア語が読めなければ、プラトンを読んで楽しむことはできてもプラトンについて議論はできぬ、というのが、親しいプラトン学者たちの意見であって、私もすでに久しくその理に服している」(『世界古典文学全集 プラトン1』月報)
別の文章でも、同僚の田中美知太郎を名指しして、「ギリシア語ができなくてはプラトンについて議論はできない…私もすでに久しくその理に服し」と繰り返している(『著作集』第5巻、333~34頁)。
そのギリシア語については、
「自分のつとめている京都では…私がある話をして最後に『それは私にとってギリシア語のごときものである』と結んだとすると、学生はすべて(哲学哲学史の「哲学」〔所謂「純哲」〕や哲学史3講座〔古代、中世、近世〕専攻者=筆者註)はすべて少々ギリシア語が読めるから、この句の意味は割り引きされ、『不可解だ』というのではなく『理解可能だが年月を要する』という意味位にとられるおそれがある。さらによく出来る学生だと全く反対に『それはギリシア語のごとく明晰である』と解するかも知れぬ。」(同)
このギリシア語修得の困難さについては、ギシシア人が「青銅の腸」(χαλκέντερος=of branzen bowele→Liddell & Scott, Greeek English Lexicon, p. 1972)という表現で呼ぶ「鉄の不動心」を要すると指摘する向きもあるが、大騒ぎすることもない。確かに、ドイツ語修得の比ではないが。そして語学は入り口にすぎない。
世は老婆のような無学ばかりで出来ているわけでないのである。恥をかくだけだから、無闇に旧師を語らぬことだ。[完]
キーボードで隣接する[e][s]の入力ミスで、他の語なら申告不要だろうが、特殊な用法ゆえ。
☆余白に [χαλκέντερος=カルケンテロス]は比喩的には【never tiring】。
アリスタルコス派の古代ギリシアの文献学者で「青銅の腸をもつ男」(Χαλκέντερος)と綽名された人物が存在する。ディデュモス・カルケンテロス(Δίδυμος, Didymos Chalkenteros[ラテン語Didymus Chalcenterus], ca. BC80(63)~10)だ。
ヘレニズム期のアレクサンドリアで活動した。ホメーロスのテキストの註釈をはじめとして、古典期およびそれ以前のほとんどすべての作家の註釈を書き、辞書を編纂し、文法書を著わした。生涯で4,000を超す著作を残したとされる、その倦むことのない「超人的な」業績が、「青銅の腸をもつ男」と称せられた。ここから、辞書編集者を「青銅の腸をもつ」と表現することがある。
その学派の創始者が古代ギリシアの文献学者アリスタルコス(Ἀρίσταρχος, ca. BC216~144)。アレクサンドリア図書館の館長。文法の研究、特に各作品の原典の校合に努め、ホメーロスのテキスト確立に功績があった。科学的な文献学研究の創始者的存在で、その門下から数多くの優秀な文献学者を輩出した。
‘Μέχρι πρότινος ο εν λόγω Δίδυμος ταυτιζόταν με τον Αλεξανδρινό φιλόλογο και λεξικογράφο Δίδυμο τον Χαλκέντερο, καθώς το προσωνύμιο «μουσικός» αναφέρεται τόσο από τον Πτολεμαίο όσο και τον Πορφύριο• η σύγχρονη έρευνα καταδεικνύει ότι ο Δίδυμος ήταν ένας νεαρός γραμματέας και μουσικός στη Ρώμη την εποχή του Νέρωνα.’
その①
ガード下2.1さんが、軍ではなくマスコミが国民に戦意を煽ったから、日本は無謀な戦争に突入したというカロ婆さんの「マスコミ主犯説」に対して、17で→「大本営発表だから、マスコミだって自由に報道できるはずがない」と異論を唱えると、早速、論点をずらして、太平洋戦争開始から9年近く歴史を遡って、
21→「私の主張…大本営発表以前…国際連盟を松岡洋右氏が脱退し…たときの新聞報道」となる。つい最近まで、「鬼畜米英」と煽ったからと盛んにまくし立てていたのに、あ〜ら、大変身。
国際連盟脱退の原因になった満州事変て、陸軍、つまり関東軍の独断専行。マスコミはほとんど関係ない。マスコミに煽られ世論が沸騰したから連盟脱退するほど、日本政府も軍も単純じゃない。ましてや、提灯行列報道などでは。
その②
そこで、カロリーネ説=鬼畜米英扇動のマスコミ主犯説。
ここで便利なコピペ作戦。そもそも「鬼畜米英」を最初に言い出したのは誰か、どの組織か。これって定説がないらしい。一番先に思い当たる、「欲しがりません勝つまでは」の大政翼賛会宣伝部も、確証なし。
「鬼畜米国」を訴える『アサヒグラフ』昭和19年3月1日号があるけど、昭和19年じゃね。
【「鬼畜米英」という言葉そのものは、あまり使われることがありません】とか、昭和18年12月8日の【『読売報知』が《鬼畜米英の慴伏は火を睹るより瞭かであらう》と書いてる】らしいけど、こちらも開戦から2年後。当時のメディアでは「鬼畜米英」より「米鬼」の方が多いらしい。
どっちにしても、誰が言い出したのか、はっきりしないのに、主犯にされてもね〜。
マスコミがいけないのは、軍や時の政府に散々便乗して、後は責任取らないこと。そんな組織に戦争を唆す力なんか最初からないと考えるのが、普通じゃない。
コロナの座長、尾身茂が❝コロナ変異株❞、❝コロナ変異株でリバウンド❞❝リバウンドの恐怖❞とか言い始めて、
どこかの民族がよく使う❝ゴールポスト❞ずらしを始めた。
尾身茂は、いつも困ったことが起こり始めると❝カタカナ言葉❞を使い始める。
❝感染ボリューム❞、そして今度の❝リバウンド❞。
日本経済❝クズ❞新聞までも、2月初めに飽き足らずなのか、またもや❝世論調査ならぬ世論操作❞を行っている。
日本経済の断末魔と思ってたほうがいい。覚悟しとくことだ。
イギリスが変異株と言って、ジョンソンが❝恐怖あおり政治❞をやりだしたと、12月初めころ書き込んだ記憶があるが、
❝強力化した変異株❞とでも言い始めないと、民衆が反乱を起こし始めたというだけのことだ。
1.5倍ほどの強さだと言っているから、人間の寒冷に対する免疫力・体力が2倍ほど下がったと理解すれば済むことだ。オランダの感染者動態を見たら同じような傾向が見て取れる。
❝スペインで雪が❞と、西欧の寒波襲来についてすでに書き込んでいた。
❝変異株❞ではなく❝北極圏の寒冷寒波の波❞が東洋とともに西欧をも襲っていただけの話である。
現代科学は、❝分子の時代❞になってしまったから、こういう❝基本生物学❞で考えることができなくなっただけの話である。
結局は、❝市民の行動変容❞の要求が届かなくなってきたから❝強力な変異株❞を持ち出してきただけだ。
変異株騒動を起こしている、
尾身茂
小林慶一郎、
日本経済❝クズ❞新聞
等、コロナ犯罪人の名前を記憶しておこう。
カロ婆婆婆―につける薬はないから、いくら暇とはいえ相手にするな。
反氏の腹話術のコメント、当時のメディアでは「鬼畜米英」より「米鬼」の方が多いらしい。にしろ、誰が言い出したのかわからない、の弁解にしろ、それを多用したのは日本のメデイアなのだから、同じなのである。「米鬼」いう言葉で、メデイアが「反米」を煽ったのだから。その余波が、全共闘の時代、「米国帝国主義」に受け継がれたのかもしれないし、今は「反中」オンパレードであるが、とにかく日本のメデイアが戦前、戦後を問わず、イデオロギー知識人に扇動されて「国際協調を乱す」プロパガンダを煽っていることはまちがいない。
英語も読めない婆婆婆ーがよく言うわ、
その上、算数もできないらしい。
また、算数ができないのはだれなのだろう。感染による死者50万人を超えたアメリカと5000人そこそこの日本のどちらが、コロナ対策に成功しているのだろう?失業者数、経済指数はどうなのだろう?どちらが算数がてきないのだろう?
よく考えていただきたい。
バカな宣言延長への政治決断は止めて、即刻宣言解除せよ❢❢❢】
昨年、10月ころか、すでに問題提起していたが、問題は、
❝予防医学にどれだけ金をつぎ込むのか❞
❝その上、経済負担をどれだけしょい込むのか❞ という次元に入っている。早くこれに気づかなければ、❝無限地獄❞である。
コロナはRNAウイルスだから変異体は次々に現れよう。それらひとつづつに対応していたら、それこそ費用も労力も無限大必要になるだろう。
それが、❝無限地獄❞の行きつく先である。
イギリスのいう変異体が1.7倍ほど感染力が強いというのなら、3か月ほどたっているのだから、すでに西欧で爆発的に感染者が増えていてもおかしくはないであろう。
現実は、そうではない。
変異体は、単なる❝恐怖煽り❞にすぎない。
早く、目を覚ませ。
❝ヘッドライトに照らされたタヌキは、ヘッドライトに飛び込む❢❢❢❞
❝恐怖に煽られた医者どもは、民衆へ恐怖を煽る❞
❝恐怖に煽られたクズ新聞は、恐怖を煽り建てる❞
❝みんな、タヌキになってしまった❢❢❢❞
それが、本当の意味の感染予防なのではないのだろうか?
それに待ったをかけているのが、人権意識、差別反対運動なのである。風評被害なのである。それに対して対策をとったほうが、人権の尊重の為に、国民全員を感染させる可能性のある人あつかいするよりも、ずっと効率的な対策ができ、お金の効率的な使い方になるのではないのだろうか?
まだ暗いうちから、喚き出したよ、カロ婆さん。前回何て言ってた⁉︎ その一例を示すと、
論点ずらしその①
2月27日・27→「現実は、戦争をするように、日本のマスコミが煽ったため日本国民がその気になった」▼同日・34⇨「戦前の日本のマスコミの煽りスローガンは、『鬼畜米英』…英米人は鬼でもなければ畜生でもない…日本のマスコミが人間扱いせず、『鬼退治』と煽り立てたから…戦争になった」
それを、国際連盟脱退の後の新聞報道にずらしてみたり、言うことがその都度、ころころ変わる。おまけに理屈が支離滅裂。満州事変は脱退の1年半前の昭和6年9月だから、満州事変を「十五年戦争」の開始とみても、あれは関東軍の謀略で、マスコミが国民を煽ったから、関東軍が動いたわけじゃない。
論点ずらしその②
34⇨「ドイツの国にルネッサンスがなかったのではなくて、ルネッサンス時代にドイツの国がなかった」ーーあまり頭良くないようね。屁理屈にもならない。ドイツは300を超す小国に分裂していただけの話。神聖ローマ帝国の一部だろうと、プロイセンだろうと、ゲーテが仕えたワイマール公国だろうと、皆ドイツ。統一国家がないと、ドイツじゃなくなる。そんなバカな話、聞いたことない‼︎
その論法でいくと、ドイツほどじゃないけど同じ分裂状態のイタリアも統一前だからイタリアがないことになる。それでもルネサンス文化の大輪の花が咲いている。デューラー、ホルバイン……ドイツみたいな、チョロチョロ花火じゃない。
「ローマ教皇から思想的に独立」していない国の方が立派なルネッサンス文化があるよ。
34⇨「G. ハイエットの主張がおかしい」。Gilber Highetって反時流氏の話では、「米国を代表する古典学者」(前回135)だよ。
悪あがき、みっともないよ。
冒頭は、エピクロスの断片(Epicurus, Κυρίαι δόξαι IV-XVII)をもじった私の作文だが、英国生まれで、米国を代表する古典学者であるギルバート・ハイエット(Gilbert Arthur Highet, 1906~78)について、その代表作である索引を含め800頁を超す大著『西洋文学における古典の伝統』(The classical tradition, Greek and Roman influences on western literature, renewed 1976(1949), Oxford)についてさえ、皆目知らず、狂信家の老婆は無学特有の無謀さで、笑止な莫迦話(ἡ φλυαρία=foolish talk)を並べているようだ(32⇒【G. ハイエットの主張がおかしい、ということに気づけない】)。
ハイエットについては、日本版Wikipediaに記述はなかろうから紹介すると、わが国で最も大部の世界人名辞典『岩波 世界人名大辞典』に、次のようにある。
【20世紀のアメリカを代表する古典学者。イギリスのグラスゴー生まれ。グラスゴー、オックスフォード両大学でバウラ(Cecil Maurice Bowra)、G. G. A. マリー(George Gilbert Aimé Murray)などに学ぶ。オックスフォード大学フェロー[1933-37]、コロンビア大学ラテン語・文学教授[37-72](兵役期間[41-46]を除く)。ユウェナリスの風刺詩、ウェルギリウスの叙事詩等の専門研究のほか、古典学・人文主義を中心とした教育に対する強い関心から、該博な知識を駆使して多数の啓蒙的書物を著し、古典学の普及に多大な功績を残した。《主著》西洋文学における古典の伝統: The classical tradition; Greek and Roman influences on western literature, renewed ,1949. Juvenal the Satirist: A Study,1954. The anatomy of satire, 1962. The speeches in Vergil’s Aeneid, 1972. The immortal profession; The joys of teaching and learning.】
注文をつけたい部分、物足りなさは残るが、一般的な記述としては、客観的で要を得たものだと言える。
わが国を代表する古典学者である柳沼重剛氏(つくば大名誉教授)による邦訳もあり、原著は今なお Oxford大学出版会から廉価なペーパーバックス版が出ており、興味ある向きは読むとよい。その該博な知見に圧倒される。日本でそれに匹敵する概説書は今なお存在しない。
柳沼氏は「訳者あとがき」で説く。
「ヨーロッパの文学を研究しようと志す者が、その文学の伝統の中にずっしりとした古典の重みを感ずる――そこで、……研究をほんものにするためにはどうしても古典文学の知識が必要だと感ずる。だが……ラテン語もかつて学んだことはあっても、あるいはこれから学ぼうと思っても、むずかしいという印象以外には何も残らなかったりする。ギリシア語に至ってはなおさら無理だ……本書はそういう人々にとって大変すぐれた案内書として役立つであろう……本書の真価はここに盛られた膨大な知識にある……知識の収集、蓄積が何んと言っても学問の基礎である以上、この点で本書が読者に与えてくれるものは計り知れぬものがある」(下巻376頁)
それはまさに、日本で西洋の人文系諸学を学ぶ、研究する者の実感だろう。
当該書を興味深くしているのは、それが「西洋文学における古典の伝統」と継承にとどまらない、広範な領域、古代末期から説き起こして、かつて「暗黒時代」と称された中世からルネサンス、バロック、18世紀の革命の時代、19世紀の古典学や歴史学の隆盛、現代文学への摂取、今日における古典語教育の意味、ギリシア・ローマの古典的文化遺産がもつ意味を、人文主義の展開を各国ごろに詳細かつ縦横に論じていることだ。
ルネサンスの中核はイタリアやフランスの例を挙げるまでもなく古典文化の再生であって、メランヒトン(Philipp Melanchthon[Φίλιππος Μελάγχθων], 1497~1560)やフッテン(Urlich von Hutten, 1488~1523)以外に目ぼしい人文主義者を出せなかったドイツの「後進性」は覆い隠しようもない。両者とも当初は同調したルターと袂を分かっていることもそれを象徴する出来事だ。
いずれにしても、ハイエットの記述する膨大な固有名を通じて、読者は西洋文化の骨格となっている「西洋における古典の伝統」を学ぶことになる。つまり古典の継承を通じた西洋文化史そのものになっているところが、凡百の類書とは異なるところだ。
早稲田大のオープンキャンパス、老婆がしきりに言及する「イクステンションセンター」で「習った」云々程度の話や、34⇒【2000年参加したワイマールのドイツ文化センターで学んだ】とかいうドイツの画家ルーカス・クラーナハ(Lucas Cranach, 1472~1553)程度の知見など、わざわざドイツくんだりまで出かけずとも、デューラー(Albrecht Dürer, 1471~1528)、ホルバイン父子(Hans Holbein der Ältere, ca. 1465~1524とHans Holbein der Jüngere, 1497(98)~1543)を含め、日本の美術愛好家なら周知の事実だし、高校の世界史程度の知識を出ない。
その程度のことで、読みも知りもしない古典学の大家に噛みついたり、事実の指摘に、35⇒【反氏を含めて、いい加減な知識で、他人に愚鈍、阿呆、その他、人を誹謗中傷…】と大騒ぎ。
文字通り、「阿呆につける薬はない」(‘À laver la tête d'un âne, on perd sa lessive.’)。
「古典研究を科学だと誤ったためにこれ以外にも幾多のあやまちが犯された。その中でも一つおかしいのは、ドイツの学者がQuellenforschung、つまり出典(典拠)研究と称した探索である。これは本来詩人や歴史家あるいは哲学者がどういう典拠ないし材料を用いたかを探ろうとする極めて当然の結果であったが、これが次第に極端に進められて、詩の中のあらゆるものがそれ以前の詩のどこから借用されているのだとばかばかしいことを言い出した。例えば『アエネイス』の如きものでさえそうだと言い出した。どんなものでも合成という過程によって説明できるものだというのは典型的な科学的仮説である。しかし、こういう考え方では、芸術的事実の中で最も本質的なもの、すなわち創造の営みは無視されてしまうのである。」(柳沼訳、下巻256頁=‘The false parallel with science caused many more errors exaggerations in classical study. One odd one was the habit of Quellenforschung, the search for sources, which began as a legitimate inquiry into the material used by a poet, historian, or philosopher, and was pushed to the absurd point at which it was assumed that everything in a poem, even such a poem as the Aeneid, was delived from earlier writers. It is typical scientific assumption that everything can be explained by synthesis, but it omits the essential artistic fact of creation.’; The classical tradition, Chap. XXI, p. 499)
私も議論において、特に考証的な場合はなおさら、‘Avez-vous un texte ?’(それには何か典拠があるのか?)について喧しいし、調べは徹底するが、ここで言われていることは、問題の設定が異なる。しかも、野田又夫の「禁欲の哲学」の議論でも紹介したが、哲学は実証科学ではないし、所謂科学でさえないからだ。
しかし、それだからと言って何の根拠もない議論、無駄話を許容するわけではない。
ドイツの悪弊は、とかく極端に走ることである。そしてそれは、田舎者の心性である。その究極の行きつく先がジェノサイド(génocide=ギリシア語で種族、人種を意味するゲノス[genos=γένος]とラテン語の接尾辞[coedes]の合成語)、つまりホロコーストである。
一方で古典文化、古典の研究はそうした現代世界であっても無縁ではない狂信、文明の野蛮(Zivilization zur Barbarei)に対する防波堤、対抗重量の役割を歴史上果たしてきた。それが、人文主義=フマニスム(humanisme)の伝統だからだ。まともなルネサンスを経験しなかったドイツが「文明の野蛮」という形で暴発することは、謂わば「他のようではありえない」(μὴ ἐνδέχεσθαι τοῦτ’ ἄλλως ἔχειν)必然性(ἀνάγκη)がある。
そうした問題意識からだろう、ハイエットは次のように結ぶ。
「古典学というのは、ギリシアやローマの文化の独特に貴重な影響が、今なお生き続けて多くの実を結び、今なお計り知れないほど多くの刺激を与えつつ、近代社会に伝えられた主な通路の一つである。そして近代世界は、一度ならず二度三度まで、そしてさらに何度も、古典文化の影響のおかげで、執拗に繰り返される物質万能主義や野蛮な行為からの攻撃に対して身を守ることができたのである。」(257頁=‘For classical scholarship is one of the main channels through which the uniquely valuable influence of the culture of Greece and Rome, still living and fertile, still incalculably stimulating, can be communicated to the modern world―the world that it has already, not once but twice and thrice and oftener, saved from the repeated attacks of materialism and barbarism.’; p. 500)
ジェノサイドとドイツと古典学、関連性は想像以上に深いのである。[完]
①32⇒【本当に、反氏はどうしようもない。カロリーネに対しての批判G. ハイエットの主張がおかしい、ということに気づけない…まともなことを主張している人におかしなレッテル付けをする】
『コヘレトの言葉』第10章13~14節⇒⇒「愚者は戯言をもって口を開き うわ言をもって口を閉ざす / 愚者は口数が多い。未来のことは誰にも分らない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。」(‘ἀρχὴ λόγων στόματος αὐτοῦ ἀφροσόνη, καὶ ἐσχάτη στόματος αὐτοῦ περιφέρεια πονηρά• / καὶ ὁ ἄφρων πληθύνει λόγους. οὐκ ἔγνω ὁ ἄνθρωπος τί τὸ γενόμενον, καὶ τί τὸ ἐσόμενον ὀπίσω αὐτοῦ, τίς ἀναγγελεῖ αὐτῷ;’; X. 13~14; Septuaginta, Vol. II, p. 257)
②35⇒【とにかく、反氏を含めて、いい加減な知識で、他人に愚鈍、阿呆、その他、人を誹謗中傷する「おかしなレッテル」をはる傲慢さをマスコミ系の人々は慎むべきだ】
『コヘレトの言葉』第5章2節⇒⇒「夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。」(‘ὅτι παραγίνεται ἐνύπνιον ἐν πλήθει περισπασμοῦ καὶ φωνὴ ἄφρονος ἐν πλήθει λόγων.’; V. 2; ibid., p. 247)
③33⇒【マスコミの人々の見識がどれだけ高いのかわからないが、現在も、政治家の意向、真意、国際社会の現実をまるで伝えない】
『コヘレトの言葉』第5章6節⇒⇒「夢や空想が多いと饒舌になる。」(‘ὅτι ἐν πλήθει ἐνυπνίων καὶ ματαιότητες καὶ λόγοι πολλοί•’; V. 6; ibid., p. 247)
★余白に 脳たりん(κακόφρων=カコプローン)▼愚かにも(ἀφόνως=アポ〔阿呆?〕ノース)▼阿呆(ἀφρων=アプローン)▼莫迦丸出しに(ἀποληεῖν=アポレーエイン)
④34⇒【ドイツの国にルネッサンスがなかったのではなくて、ルネッサンス時代にドイツの国がなかったのである】
『コヘレトの言葉』第10章3節⇒⇒「愚者は道行くときですら愚かで だれにでも自分は愚者だと言いふらす。」(‘καί γε ἐν ὁδῷ ὅταν ἄφρων πορεύηται, καρδία αὐτοῦ ὑστερήσει, καὶ ἃ λογιεῖται πάντα ἀφροσύνη ἐστίν.’; X. 3; ibid., p. 256)
⑤36⇒【日下部教授は、専門家だし…もう少し世界の情報を取って、国際社会の真の姿を知って、よく考えてからコメントを書いていただきたい】
『コヘレトの言葉』第7章9節⇒⇒「気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。」(‘μὴ σπεύσῃς ἐν πνεύματί σου τοῦ θυμοῦσθαι, ὅτι θυμὸς ἐν κόλπῳ ἀφρόνων ἀναπαύσεται.’; VII. 9; ibid., p. 250)
⑥38⇒【英語が読めなければカロリーネのようなキャリアは築けない…よく考えていただきたい。】
『コヘレトの言葉』第4章13節⇒⇒「貧しくても利口な少年の方が 老いて愚かになり 忠告を容れなくなった王よりも良い。」(‘Ἀγαθὸς παῖς πένης καὶ σοφὸς ὑπὲρ βασιλέα πρεσβύτερον καὶ ἄφρονα, ὃς οὐκ ἔγνω τοῦ προσέχειν ἔτι•’; IV. 13, ; ibid., p. 246)
阿呆は嘲笑するだけで充分。
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’; La Rochefoucauld, Maximes 93.(「年寄りは悪い手本を人に見せることができなくなったのを自ら慰めるため(腹いせに)、結構な教訓を垂れたがる。」)
‘ὅτι παντὶ πράγματι ἔστιν καιρὸς, καὶ κρίσις ὅτι γνῶσις τοῦ ἀνθρώπου πολλὴ ἐπ' αὐτόν• / ὅτι οὐκ ἔστιν γινώσκων τί τὸ ἐσόμενον, ὅτι καθὼς ἔσται τίς ἀναγγελεῖ αὐτῷ;’; Ἐκκλησιστής, VIII. 6~7, p. 253.
以前に、「気候の温暖なカリフォルニア州の死者数30,500人が極寒のニューヨークの39,834人とあまり変わらない、という現実をよく認識されるべきなのである」(1月13日・365)と偉そうなことを日下部さんに言っていた貴方が、反時流氏になんてたしなめられたか、覚えてる。
それを忘れて、38→「算数ができないのはだれなのだろう。感染による死者50万人を超えたアメリカと5000人そこそこの日本のどちらが…」なんて、偉そうなこと言える立場かしら。
ここで話は細かいから、コピペ大作戦。
反時流氏によれば、→「カリフォルニアの人口はニューヨークの2.04倍で、11日現在のカリフォルニアの死者数29,701人は、ニューヨークの14,599人に相当する…ニューヨークの死者数は39,441人は、死亡率としてカリフォルニアの2.70倍、つまり3倍近い…人口10人当たりの感染者数、死者数はカリフォルニアがそれぞれ、6,759.84人、75.17人、ニューヨークはそれぞれ、5,896.13人、203.53人、つまり単位人口当たりの比較では、両州とも感染率に大差はないが(カ州はニ州の1.15倍)、死亡率はニューヨークはカリフォルニアの2.70倍という顕著な格差がある…これによって、老婆の莫迦話は成立せず、誤謬であることは明らか」(1月13日・377)
貴方、その時も頬被りして、何も反論できなかったじゃない。「数多くのデータ、数値のうちから、その客観的な意味も考えず」(同)という指摘に。
トンでも勘違い、数字音痴はほかにもあって、イギリスの1日の死者を、→「イギリスは、厳しいロックダウン政策にもかかわらず、一日の死者数が80,000人を記録」(1月10日・273)ともやってたよ。
貴方、それでよく秘書務まったね。
ところで、日本の死者は8,000人を超えて昨日3日現在で8,075人なんだけど、貴方ダイジョウブ~。「5000人そこそこの日本」なんて、相当ズレているよ。
アメリカのコロナ犠牲者の数は、50万人を超えているのであって、日本の人口とアメリカの人口を相殺しても、アメリカのトランプ政権下のコロナ対策は明らかに失敗している。3/4/2021,4:22時点のジョーンホプキンス大学の資料によると、Coronavirus COVID-19 (2019-nCoV) (arcgis.com)国別死者は、米国が518,265人、英国が123,530人、ドイツが70,964人、日本が8,068人、アメリカ国内の州別では、カリフォルニア州が、52,808人、ニューヨーク州が47,909人、フロリダ州が31,261人
2020年5月1日に更新されたデータによると
世界の人口 国別ランキング・推移(国連) – Global Note
米国は、3億2906万人、英国が6753万人、ドイツが8351万人、日本が1憶2686万人、
アメリカ合衆国の州人口 ランキングアメリカ合衆国の州人口 ランキング - Ran-King ランキング (ran-king.jp)によると、
州別では、カリフォルニア州、3925万人、ニューヨーク州1975万人、フロリダ州が2061万人で、国別では1万人あたりの死者が、アメリカが15.7人、英国が18.3人、ドイツが8.5人、日本が0.6人、アメリカ国内の州別ではカリフォルニア州が13.4人、ニューヨーク州が24.2人、フロリダ州が15.2人となった。
私が特に日本のマスコミに希望することは、世界の真の姿をきちんと報道することによって、日本の菅首相がなぜ、尾身押谷ペアーの提言をきいて、あの判断をされているか、という理由を正しく報道していただきたい、ということである。反氏と同じような小池都知事の目くらまし戦術で、彼女のメデイア戦略にのって、日本国民を騙すのはいい加減にしてほしい。
菅さんが、宣言延長するかどうかわからないが、こうふらふらして、ゴールポストを延ばすようなことをすれば、これはまたこれで民心ははなれるだろう。
が、しかし宣言延長効果は得られることはないであろう。
その次に来るのは、おそらく東京オリンピックの中止となるのか、
内閣が、こうふらふらして、民意のご機嫌取りをやっていたら、ろくなことにならないであろう。
肝心なことには何も答えず、触れず、都合の悪いことは、ひたすらダンマリを決め込み、どこ吹く風で、誰でも承知のことをコピペによる引き写しで数字を並べ、やり過ごす。
その呆れた言いぐさが、本題とは何の関係もないバカの一つ覚えの、51→「日本のマスコミに希望することは、世界の真の姿をきちんと報道すること」、そして話を逸らす、49→「反氏の腹話術」とかいう論点ずらし。
恥知らずは、自分で言う通り、49→「現在も全く変わらない」。
確かに、『コヘレトの言葉』第10章3節の「愚者は道行くときですら愚かで だれにでも自分は愚者だと言いふらす。」を地で言っている。子供にも劣る、愚かで醜い老人そのもの。コロナがどうであれ、それが貴方の紛れもない姿、51→「というのが世界の現実なのである」。
貴方が持ち上げるドイツの雑誌、Spiegelって「鏡」の意味らしいけど、ご自分の醜い姿を得とご覧あれ。
ところで、国が分裂状態で統一国家がないとドイツがドイツじゃないとかいうお話、どうなったの? 滅多に聞けないおバカな話だから、この際、もっと言ってご覧なさいよ。
G. ハイエットの話は、反時流氏の説明で分かったでしょ⁉︎ 何か言うことないの? ごまかしばかりでその年まで生きてくると、恥も外聞もないようだけど、老醜というか、憐れを催して老愁、な〜んちゃって。他の真っ当なお年寄りから見たら、老人の面汚しよ‼︎
「愚かにも」って、ギリシャ語でも「アポ〔阿呆⁉︎〕…」何とかなんだ。貴方にピッタリ。今日は2件で、いつもに比べたら神妙だこと。
悔しかったら、なんか言ってみなさい。恥の上塗りで、墓穴を掘るだけだろうけど。
ヒキガエルの面に何とかって、あるのかしら?
私は、反氏の文章を読むと、ミュンヘン時代の日本でゴルフ部に入っていたハンデイ2であった、日本人男性の言葉を思い出す。このコメント欄にも書いたと思うが、「大学の二級のゴルフ部の部員に、誰が好きか、ときくと、普通の人の知らないプレイヤーの名前を、挙げるけれど、僕にとってはアーノルド・パーマーだ。彼ほど素晴らしいゴルフをするプレイヤーはいないよ。」。祖父も父もゴルフをしなかった私は、ゴルフには疎かったし、アーノルド・パーマーのゴルフは知らなかったが、彼の名前ぐらいは知っていた。たしかに、私の専門の音楽の世界でも、年をとるほど、ベートーヴェンやモーツアルトの偉大さ、すばらしさが私にもわかってきた。今朝も夫が、モーツアルトの「魔笛」のパパゲーノの「鳥刺しの歌」について、この世に音楽は多くあるけれど、この音痴の自分が「魔笛」のオペラを1回見ただけで、あの曲を覚えられた、モーツァルトはすごいよ、と言っていた。反氏は、アドルノがらみのシェーンベルグやアルバンベルグなどの名前と曲をあげられるのだろうが、多くの作曲家の曲を知っている私も、「魔笛」はすばらしい、と心底思う。すばらしい、と思う人が多いからこそ、モーツアルトの「魔笛」は、不朽の名作になっているのである。ベートーヴェンの「フィデリオ」も「第9」もそうである。「月光」も「悲愴」も。
しかし、憲法(第9条)に係る安全保障論自体については(ジェノサイド条約の件での破綻ではなく)、安倍政権時代に成立した安保法で、集団的自衛権を他衛(具体的には→米国)にならない程度まで限定的に認められました。安倍首相は、田原総一朗氏の会談で、もう国の安全保障上”実害はなくなった”と述べたとのことです。この安保法改正は、池田信夫氏(アゴラ)によると、日米同盟の現場レベルでの深化のためになされた!。これに反対した学者は、日米同盟に反対しているのと同じだ!と学術会議の騒動があったときに、発信していました。Gも池田氏のこの考え方、納得しています。
中国については、海警法の施行(2月1日)により、外国公船への武器使用も排除していない法律を施行しています。共産党(志位委員長)は、この中国の海警法、国際法(国連海洋法条約)違反としています。このままでは、尖閣(具体的には魚釣島)の占有を奪われ、日中の軍事力の実力差から、日本は泣き寝入り(尖閣の実効支配を奪われてしまえば、米軍も安保条約の適用外となり助けてくれません!)ということにもなりかねません。
現在、国際社会に右翼の権威国家を樹立させ、SNSを使ったプロパガンダ戦略で対立を煽っているのは、ロシア、プーチン政権である。反共産主義、反中が、今の風であるが、国連を中心にする国際協調の姿勢で、偏見と敵意と憎悪とを排して、ものごとを解決する努力が国際社会にはいるのではないのだろうか。
それも「御意」とは思いつつ、「英語」云々はともかく、狂信的な老婆に最も欠落しているのは、その並み外れた「数値音痴」はともかく、気の利いた小学生でも達者な「算数」などでは実際にはなく、論理的に「首尾一貫した」(ἐαυτῷ σύμφωνεῖν)思考(διάνοια)、つまり推論(συλλογισμός)の能力が皆無に近いことだろう。
その点で、大学時代に「論理学」(λογικόν)で99点を取ったとしても、それは文字通り羊頭狗肉なのである。その惨状については過去に散々指摘したから繰り返さない。老婆はこの分野でアリストテレス(Ἀριστοτέλης, BC384~322)が果たした役割、結局人間の言語のもつ規則性、畢竟「思考の法則」を日常言語の精緻な分析に基づいてほとんど独力で厳密に定式化し、完璧な論理学(所謂名辞論理学[定言三段論法=συλλογισμός]=数学でいう「クラスの理論」)を樹立したことを知る由もない論理音痴(ἀμουσος τοῦ λογικοῦ)だ。
それは第1~3格14式と第4格5式の19の推論式に集約され、さらに科学的方法論、論点の分類、蓋然的推理、虚偽的=詭弁的推理の研究に及ぶ。
論理的な思考(εὔλογος λογισμός)とは推論(συλλογισμός)のことである。アリストテレスがその三段論法、形式論理学を確立した『分析論前書』(Ἀναλυτικὰ πρότερα, Analytica priora)に次のように説き起こす。
「まず。はじめに、この研究が何を主題とし、何を対象としているかを述べなければならない。それは論証を主題とし、論証的知識を対象としている。次に、前提とは何であるか(τί ἐστι πρότασις)、項とは何であるか(τί [ἐστι] ὅρος)、推論とは何であるか(τί [ἐστι] συλλογισμός)、またどのような推論が完全で、どのような推論が不完全であるか、さらに次には、これ〔X〕が全体としてのこれ〔Y〕のうちにあることやないことは何であるか、また『すべてについて述語される』や、『いかなるものについても述語されない』とわれわれが言うのは何であるかを定義しなければならない。前提とは、何かについて何かを肯定するか、または否定する文である。……次に、項と私が呼ぶのは、前提がそれへと分解されるところのもの、すなわち、何かについて述語されるもの〔述語項〕と、このものがそれについて述語されるところのもの〔主語項〕であって、前提としては、これらの両項に『ある』か『ない』かのいずれかの表現が付加される。」(今井知正訳『アリストテレス全集』第2巻、18~20頁=一部訳語、表記を変えた)
‘Πρῶτον εἰπεῖν περὶ τί καὶ τίνος ἐστὶν ἡ σκέψις, ὅτι περὶ ἀπόδειξιν καὶ ἐπιστήμης ἀποδεικτικῆς• εἶτα διορίσαι τί ἐστι πρότασις καὶ τί ὅρος καὶ τί συλλογισμός, καὶ ποῖος τέλειος καὶ ποῖος ἀτελής, μετὰ δὲ ταῦτα τί τὸ ἐν ὅλῳ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τόδε τῷδε, καὶ τί λέγομεν τὸ κατὰ παντὸς ἢ μηδενὸς κατηγορεῖσθαι. Πρότασις μὲν οὖν ἐστὶ λόγος καταφατικὸς ἢ ἀποφατικός τινος κατά τινος•……Ὅρον δὲ καλῶ εἰς ὃν διαλύεται ἡ πρότασις, οἷον τό τε κατηγορούμενον καὶ τὸ καθ’οὗ κατηγορεῖται, προστιθεμένου [ἢ διαιρουμένου] τοῦ εἶναι ἢ μὴ εἶναι.’: recog. W. D. Ross, appendice avxit L. Minio-Paliello, Analytica priora, 24a10~17, b16~18.
当面の議論の焦点である推論については、その定義を含め以下のような議論が続く。
「また、推論とは、そこにおいて、何かあるものが措定されるとすると、これ措定されたものとは別の何かが、これらがあることによって、必然的に帰結するところの議論である。ここで、『これらがあるところによって〔帰結する〕』と私が言うのは、これらのゆえに帰結するということであり、『これらのゆえに帰結する』と言うのは、推論の必然が生じるためには、いかなる項も外から付け足す必要がないということである。そして、完全な推論と私が呼ぶのは、推論の必然が明らかになるためには、すでに容認されたものの外に他のいかなるものも付け足す必要のない推論であり、また不完全な推論と私が呼ぶのは、一つまたは一つより多くのものを付け足す必要のある推論であり、これらにものは仮定される項のゆえに必然であるが、前提を通してまだ容認されていなかったものである。」(20~21頁)
‘συλλογισμὸς δέ ἐστι λόγος ἐνᾧ τεθέντων τινῶν ἕτερόν τι τῶν κειμένων ἐξ ἀνάγκης συμβαίνει τῷ ταῦτα εἶναι. λέγω δὲ τῷ ταῦτα εἶναι τὸ διὰ ταῦτα συμβαίνειν, τὸ δὲ διὰ ταῦτα συμβαίνειν τὸ μηδενὸς ἔξωθεν ὅρου προσδεῖν πρὸς τὸ γενέσθαι τὸ ἀναγκαῖον. τέλειον μὲν οὖν καλῶ συλλογισμὸν τὸν μηδενὸς ἄλλου προσδεόμενον παρὰ τὰ εἰλημμένα πρὸς τὸ φανῆναι τὸ ἀναγκαῖον, ἀτελῆ δὲ τὸν προσδεόμενον ἢ ἑνὸς ἢ πλειόνων, ἃ ἔστι μὲν ἀναγκαῖα διὰ τῶν ὑποκειμένων ὅρων, οὐ μὴν εἴληπται διὰ προτάσεων.’; ibid., 24b18~26.
ところで、「ある」(繋辞の「~である」も)には二つの表現がある。[εἶναι]の方は日常的な言い方で、[ὑπάρχειν]は、「主語―述語」の世界記述、推論の方式に基づき、「〔~が〕~にある」と訳せる。
「すべての何か(X)は何か(Y)である(εἶναι)」というのが普通の言い方なのに対して、主語(X)と述語(Y)の位置を逆転して、「何か(Y)が何か(X)のすべてにある(ὑπάρχειν)」というふうに使う。
それは、[εἶναι]では明示的でない「主語―述語」の区別を明示するためだ。「何か」(τί, 複数はτινά)であるXやYは一般に述語の形をとることから、アリストテレスはその論理学的述語主義を徹底させるため、「~が~にある」という表現をする。
詮議立てて訳せば、「~が~に〔述語で〕ある」ということで、謂わば集合論的考え方だ。つまり、何かが何かのすべてに〔述語として〕付随する」という形で、「すべてのXはYである」を考える。
★余白に 57⇒【尖閣問題は…国際司法裁判所で判断を仰ぐ】――おべっかが過ぎて老婆は中国の犬になったようだ。
アリストレテスは他の著作、『トピカ(トポス論)』(Τοπικά)や『ソフィスト的論駁について』(Σοφιστικοὶ ἔλεγχοι)でも、ほどんど同じ定義をしている。即ち、
「推論とは、そのなかでいくつかのものが措定されることによって、それらの措定されたものとは違う別の何かが必然的に、それらの措定によって、帰結するところの議論」(‘συλλογισμὸς λόγος ἐν ᾧ τεθέντων τινῶν ἕτερόν τι τῶν κειμένων ἐξ ἀνάγκης συμβαίνει διὰ τῶν κειμένων. ’; Topica, 100a25~27)
「推論とは、措定されたいくつかの命題から、前提されたものを通じて、前提とは別の命題を必然的に語るように導出する議論」(‘συλλογισμὸς ἐκ τινῶν ἐστι τεθέντων ὥστε λέγειν ἕτερον ἐξ ἀνάγκης τι τῶν κειμένων διὰ τῶν κειμένων’; De Sophisticis elenchis, 165a1~2)
いずれもそれは、議論の手続きの厳密さ、前提と帰結の一体性、必然なこと(τὸ ἀναγκαῖον)を必須条件とする。それが、「形式科学としての論理学を誕生・成立させ、論理学の創始者」(今井知正)となり、厳密な思考のなんたるかを示した哲学者の教えだ。
その死から数えて2,343年を経過してなお、論理的に考えるどころか、肝腎の論理について何も知らない未開人(barbarian)のような人間が存在する。甚だしい無学はともかく、莫迦さ加減の証左、神聖病の兆候を示すヴァイツェッカー信仰など、狂信の徒の偶像崇拝(ἡ θεραπεὶα εἴδωλον)を嗤えない所以だ。[完]
★余白に Wikipediaは日本版だけではなかろう。無学はこれだから困る。G. Highetについて、あれこれ御託、言い訳を並べる前に(54)、知らないことには口を慎むものだ。阿呆の証明にしかなるまい。
しかし、海上保安庁法20条1項で準用される警察官職務執行法7条によれば、正当防衛や緊急避難のほか、公務執行に対する抵抗抑止のため、警察比例の原則のもとで武器を使用することも排除されず、同条1号の「兇悪」犯罪の場合は危害射撃も許容される場合があるというのが国内法の解釈となります。また、国際法上の適法性については、国際法学者の論文(坂巻静佳「軍艦その他の政府公船に対し保護権の行使としてとりうる措置」oceanpolicy.jp/jsop/gakkai51.htmlから日本海洋政策学会誌の5号で閲覧可能)からも、軍艦・政府公船の管轄権免除も絶対的なものではなく、国連海洋法条約25条の「必要の措置」(沿岸国の保護権)として許される場合があると思われます。
上記25条の沿岸国の保護権行使の必須の要件として「自国の領海内」である必要があることから、尖閣諸島が日本の領土である前提にたてば中国が日本の政府公船に武器使用することの違法性は明らかですが、日本政府は尖閣諸島に領土問題は存在しないとする立場であり、現状において有効に支配をしている状況下で国際司法裁判所(ICJ)に提訴をするのは想定し難く、また、仮に日本政府がICJに提訴をしても、中国は敗訴する可能性もあるので応訴をしないと思われます。同じ理由から、中国がICJに提訴することもないと思われます。
「現実」という用語を無意味に多用するカロリーネ氏ですが、相変わらず「夢想家」です。
日韓関係にしろ、政府解釈氏はまだ生まれておられなかったのかもしれないが、元々、韓国が1952年2月12日、李承晩ラインを作り、「日韓基本条約」によってこの境界線が無くなるまでの13年間で韓国が、日本の漁船233隻を拿捕し、漁師2791人拿捕・抑留死亡5人を拘束し、日本の漁業界は深刻な打撃を受けていた。朝鮮戦争後の東西冷戦の元、米国の要請で日韓関係を悪化させない為、日本の漁業関係者を保護するために、日本は韓国に大幅に譲歩した「日韓基本条約」を締結したのである。韓国は、日韓基本条約の結果、日本からの莫大な資金で世界の経済先進国の仲間入りができたにもかかわらず、まだ慰安婦問題その他、で「日本国民」や「企業」から金を請求しようとしているのである。この問題も、国際司法裁判所に法律的に解決できないのだろうか。軍事力のある側が、メデイア戦略でそのような国際世論を作った側が勝ち、というのでは、軍拡競争、プロパガンダ戦略ばかりが横行し、真の「国際協調」はできない。
そういう「不公正が起こらない」為に、武力による支配、戦争が起こらない為に、国際協調の為の、国際司法裁判所の充実が必要だ、と私は思う。
日本の知識人ぶっている人々は、この意味をよく考えなければならない、と思うが、ロシアプーチン政権は、生き延びるために、たくみに国内外の分断を煽っているのである。
論理的思考力と並んで、「夢想家」(ἐνυπνιαστής)の老婆の読解力は低劣だ。私は、老婆の指摘するような、55⇒【反氏のように、ドイツの民衆の文化水準は非常に低かった】のような杜撰かつ単純な主張をしているわけではなく、個別具体的な議論をしている。その一端を挙げるなら、
①ドイツにはルネサンス文化が開花しなかった。二、三を除いてこれといった人文主義者を輩出せず、芸術家も数えるほどで極めて低調②ルターの聖書のドイツ語訳にもかかわらず、長らく共通文章語が確立せず、それが実現するのは18世紀末から19世紀初頭。宮廷や上層階級は長らくフラン語を社交語とし、フランス趣味に明け暮れた③階級区分の意識が強いことに加え、民衆の識字率が低く、知識人との格差が大きい。民衆の知的な面での解放が遅れ、産業化を促す活力も乏しかった④宗教改革やその後の三十年戦争の影響で国土は荒廃したうえ、300を超す領邦国家に分裂して国家統一が遅れた結果、政治的にも進取の気風が希薄――などだ。どう見ても「後進国」でしかない。
ルネサンス期には存在しなかったが、ドイツが、同時代のヨーロッパを代表する知性を産まなかったわけではない。
バロック期の人物で、哲学者にして数学者、すぐれた外交官にして歴史家、神学者、法律家であり、ニュートンと微積分発見の栄誉を争い、今日の記号論理学の祖というべきアイデアを提出した、かつてルネサンスが理想とした「万学の天才」(genio universale)を体現したライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646~1716)のような知的巨人も存在した。
ただ、その知的営為のほとんどは未完成のまま残されてしまい、稀代の天才もドイツ文化、特に民衆の文化的水準を引き上げるには程遠かった。
57(中ほど)→日本は中国と戦争をして、負けた< 少し異論がありますね。確かに「連合国」としての米ソ中英仏には、負けました。サ平和条約で明らかです。中国(蒋介石の国民政府等)には、負けたという実感はない!と思います。日中戦争(シナ事変)は、泥沼化して収拾が付かなくなった!。そして、日米戦争で負けて終戦。余談ですが、毛沢東の共産軍は強かった!とは、戦中派の父親から聞きましたw
それ以上に注目すべきは、収録された99篇と付録篇の合わせて101篇のうち、大半はフランス語、次いでラテン語で書かれ、ドイツ語の著作はわずか1篇、『至福なる出来事について』(Von der Glückseligkeit, S. 671~73)という、わずか3頁弱の小篇しかないことだ。
ライプニッツはハノーファーに住み、ゲルフ家に仕え、ゲルフ公を選帝侯に昇進させたり、アン女王の死後に、ハノーファー選帝侯ジョージ・ルートヴィヒ (George Ludwig, 1660~1727)の英国王位継承を助け、ジョージ一世(George I, 在位1714~27)とするのに功があった。
ベルリンにアカデミーの礎になる学士院を設立して初代院長に就任したり、学術的著作にドイツ語を使用するよう慫慂したものの、歴史書、法律書などを除き、自らの主要著作はドイツ語で書くことはなかった。そこにも、後進国の刻印は明らかだ。
ところで、西洋の論理学史上、最初の論理学書であるアリストテレスの『分析論前書』(Ἀναλυτικὰ πρότερα)は、必ずしも楽しい読みものではない。私は哲学の学徒だからこの種の書物の扱いに慣れているが、一般には無味乾燥の極地のような書物だろう。
昔から、その三段論法、形式論理学の創案につながった哲学的な議論の内容の理解より、アリストテレスが定式化した推論式を丸暗記して、実際の論理的推論に機械的に当てはめるために活用されることが専らだったからだ。
最近は、岡田博士に代わって、一日中、テレビ局をわたりあるいて、さも専門家のごとく解説される松本哲也氏であるが、どうして、変異株の感染者の濃厚接触者は、変異株のCovid19ウィルスに感染した疑いが非常に強い、という観点にたてず、変異株の為の特別な検査を大量にすべきである、などと主張されるのだろう。ゲノム解析でもあきらかなように、突然変異をしなければ、感染症は同じタイプのウィルスが感染するので、だれが、スーパースプレッダーか、特定できるのである。特に従来型のCovid19ウィルスは、20%の人しか他人に感染させなかった。だから、1.7倍、34%の人が感染させるB.1.1.9ウィルスの保菌者とその感染した疑いのある濃厚接触者をゲノム検査をしたり、隔離すれば、感染のスピードはワクチン接種をしなくても、随分スピードダウンするのではないのだろうか。クラスター探査と隔離とワクチン、これがこれからのCovid19対策の鍵である。今までのやり方だと、指数関数的な広がりから判断して、対処できない。これが、算数、数学的発想から割り出した答えである。
中世のスコラ哲学(スコラ学)はアリストテレスの遺産の正当な後継者であるうえに、アリストテレスの名辞論理学とは異質の論理学で、古代ストア派のクリシュッポス(Χρύσιππος, Bc 280~ca. 205)が創案者の一人である命題論理学も加味して、すぐれた論理学的研究が相次いだ。
それは、アリストテレスに元になるアイデアが含まれていたものの充分な達成に至らなかった分野を加えた。その典型が、特に中世論理学的要素として、命題の中で使用された名辞が何を指示するかを意味する「代表」(suppositio)と称される名辞の代表作用、今日の言葉で言えば指示やメタ言語に関する意味論的研究や、「推断」(consequentia)と呼ばれる、妥当な命題論理学上の定理を発見、蒐集する研究、討議のルール(obligatio)やパラドックス(insolubile)の理論を含む豊かな成果で、15世紀初頭までに出そろった。
しかし、それは神学体系の形成と精錬にアリストテレス哲学を利用したカトリックの場合であって、その圏外に置かれたプロテスタントは、アリストテレスや中世論理学を否定する独自の論理学を主張したペトルス・ラムス(Petrus Ramus (Pierre de la Ramée), 1515~72)の『論理学』(Dialectique, ca. 1555)や、それを継承し、近世論理学の嚆矢となった、数学者で神学者のジャンセニスト(janséniste)であるA. アルノー(Antoine Arnauld, 1612~94)やP. ニコル(Pierre Nicole, 1625)の『論理学、一名思考の技術』(La logique, ou l’art de pensee, 1662)、所謂「ポール・ロワイアル論理学」(Logique de Port-Royal)の影響を受けているが、アリストテレスの水準に達しない状態が続いた。
ヴォルフ派の哲学を独断論と批判しつつ、論理学自体は継承したカントも、その批判哲学的議論の価値をどう評価するかはともかく、純粋な推論の技術としての形式論理学の面での水準は相当低い。
この点でカントの著名な指摘、
「論理学がこの確実な歩みをすでに最古の時代からたどってきているということは、論理学がアリストテレス以来、一歩も後退する必要のなかったことから見てとれることであって、……なお論理学で注目すべきは、論理学が現今にいたるまで一歩も前進することができず、それゆえどう見ても閉鎖的で完結的であるように思われるということである。」(『純粋理性批判』第2版序文、原佑訳、『カント全集』第4巻、理想社、34~35頁〔一部訳語を変えた〕=„Daß die Logik diesen sicheren Gang schon von den ältesten Zeiten her gegangen sei, läßt sich daraus ersehen, daß sie seit dem Aristoteles keinen Schritt rückwärts hat tun dürfen, …… Merkwürdig ist noch an ihr, daß sie auch bis jetzt keinen Schritt vorwärts hat tun können, und also allem Ansehen nach geschlossen und vollendet zu sein scheint.“; I. Kant, „Kritik der reinen Vernunft“, S. VIII., hrsg. von A. Görland; Immanuel Kants Werke in Gemeinschaft, Bd. III, S. 13, Benno Cassirer, 1913)
は、中世哲学の豊かな展開を何ら認識していない点で致命的だ。そこに、カント自身というより、ドイツの置かれた、紛れもない後進性がある。
一方、カントやフィヒテ、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論は、世俗化された一種のプロテスタント神学の側面を有し、その論理学は極めて低水準である。そこにも、哲学的思索の独自の展開は評価すべき点が皆無ではないとしても、ドイツならではの後進性が刻印されている。
同時に、ギリシア・ローマの古典文化の再興運動であるルネサンスの未開化は、その古典摂取にみられたドイツ特異性、偏向を抜きにしては語れない。
かつてドイツは、「神聖ローマ帝国」を称した歴史をもつが、ヴォルテールが揶揄したように、「自らを神聖ローマ帝国と呼び、そして今なお呼んでいるこの政体は、いかなる点でも、神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらなかった。」(『歴史哲学序論 諸国民の風俗と精神について』第70章、=‘Ce corps qui s’appelait et qui s’appelle encore le saint empire romain n’était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.’; Essai sur l’histoire générale et sur les mœurs et l’esprit des nations, Chap. 70)というのがドイツの歴史である。[完]
★余白に まるで小中学生レベルの理想論という名の無知の産物。係争中の南シナ海・スカボロー礁を中国に不当に奪われたフィリピンが常設国際仲裁裁判所に提訴し、中国の領有権主張に2016年、「国際法の法的根拠がなく、国際法違反」という判決を得て勝訴したが、その結果、どうなったか知らぬらしい。
昨日まで❝世論調査❞報道によって❝世論操作❞を行ってきた日本経済❝クズ❞新聞が、今日は、打って変わって社説に❝社会を挙げて孤立を防げ❞と書いている。
ならば、なぜ❝宣言延長へと世論操作❞をするのか。
バカもほどほどにセイと言っておこう。
感染症専門と称される医者、研究者(ノーベル賞受賞者たちを含む)たちをはじめとして政治屋、知事たち、マスゴミ、TV、 すべて
❝コロナ夢幻地獄❞の❝ファシズム❞に陥っているのだ❢❢❢
ファシズムに抗するのが、新聞の社会的使命であろう。
❝コロナファシズム❞の先頭を切る、
日本経済❝クズ❞新聞は、本当に❝クズ❞になってしまった。
◎⇨63=政府解釈
尖閣諸島が日本の領土である前提にたてば中国が日本の政府公船に武器使用することの違法性は明らかですが、日本政府は尖閣諸島に領土問題は存在しないとする立場であり、現状において有効に支配をしている状況下で国際司法裁判所(ICJ)に提訴をするのは想定し難く、また、仮に日本政府がICJに提訴をしても、中国は敗訴する可能性もあるので応訴をしないと思われます。同じ理由から、中国がICJに提訴することもないと思われます
❌⇨64=カロリーネ(無断等用)
尖閣諸島が日本の領土である前提にたてば中国が日本の政府公船に武器使用することの違法性は明らかですが、日本政府は尖閣諸島に領土問題は存在しないとする立場であり、現状において有効に支配をしている状況下で国際司法裁判所(ICJ)に提訴をするのは想定し難く、また、仮に日本政府がICJに提訴をしても、中国は敗訴する可能性もあるので応訴をしないと思われます。同じ理由から、中国がICJに提訴することもないと思われます
❌⇨64=70歳近い幼児(?)の正義論
「国際法の正義」の為に、日本が提訴してみたら…第二次世界大戦の誘因は、日本が「国際連盟」の裁定を受け入れず、国際連盟から脱退…「国際機関を無力化した」ことに原因
❌⇨日韓基本条約=1965年は56年前(「政府解釈氏はまだ生まれておられなかったのか」)カロリーネは?
◎⇨Wikipedia「李承晩ライン」から
日韓基本条約によってこの境界線が無くなるまでの13年間で日本の漁船233隻を拿捕し、漁師2791人(拿捕・抑留死亡5人)を拘束
❌⇨64(殆ど盗用=末尾は内訳の解釈誤り)
「日韓基本条約」によってこの境界線が無くなるまでの13年間で韓国が、日本の漁船233隻を拿捕し、漁師2791人拿捕・抑留死亡5人を拘束
今日の東京都の感染者数が、300人を超えた。いかに東京都の対策がなっていないか、よくわからないのではないのだろうか?隔離対策、過去に遡ったクラスター対策をしていないことご、致命的なのである。
→→【天網。[老子に出ている語で、天が悪を見張るべく張りめぐらした網の意]天帝の観察網・警戒網。〜恢恢、疎にして漏らさず[=どんな小さな悪事でも天罰をまぬがれることは出来ない形容]】(『新明解国語辞典』)
→→【……天の網はあらいが、悪人が必ずひっかかる意で、天道は厳正で悪事には必ず悪報があること】(『岩波国語辞典』)
それにしても、いきなり相手の文章を引用符も、断りの挨拶も、何より意味もなく、ダラダラ並べてコメントを書き始めるのは、コメント欄を見渡しても、お主だけだ。そんなことは、誰もやっとらん。
確かに、「コソ泥」並みにケチ臭いが悪事、つまり「悪癖」には違いない。何でもコピペしてもってくるのは、お主がどうにもやめられないない、根っからの病気のようなもの。
これは私の生徒だったら、大目玉、喝‼︎じゃ。
皆んな暇だから、お主が偉そうなことを言っても、幼稚に子供並みの理屈しか並べられない世間知らずだということを、とっくに見抜いて、嘲笑っておるぞ。
「政府解釈氏はまだ生まれておられなかったのかもしれないが、元々」(64)なんて、偉そうなことをぬかしおって、天に唾する言いぐさ。あちらはお主より、よほど分別があり、知識も確かで、しかも幾つかは知らんが、精神年齢ははるかに上だ。
「モーニングショーをみて、愚かな解説、コメンテーターにつくづく愛想が尽き、忍耐も限界に達した」(70)などと、朝からヒステリーばかり起こしとらんで、とにかく年寄りの面汚しは戒め、少しは安直と怠け癖を反省して、行儀よくせい‼︎
「仰いだ天に愧じず、俯して人に炸(は)じざるは、二楽なり。」(『孟子』196)
カロリーネお婆ちゃんは、「腹話術」云々の憶測は、ちょっとおかしい。あなたも証拠もなしに、あれこれ想像で決めつけている。それこそ「主観」。
もう少し、批判にまともに答えたらいいのでは。さすがにGくんさんも、「国際司法裁<はないと思いますよ!現実的に」(68)と言うはず。それって、現実的だし、日本人の常識。
ところで、「天網恢恢」さん、1カ所変換ミス(等用→盗用)。元国語教師さん、さすが、年の功。『孟子』の77=「仰いだ天に愧じず、俯して人に炸(は)じざるは、二楽なり。」は全く知りませんでした。いつか、私もコメントの最後に気の利いた言葉を引用したい。
ただ、僭越ですが、「はじざる」の「炸」 は、辞書で調べたら、「怍」(さく、ざく=①ぎくっとする②これはまずいと心の中で強くはじらう)とありました。つまり、「ひへん」=炸、じゃなくて、「りっしんべん」=怍でした。
元国語の先生だから、そんなことはとっくにご存知でしょうけれど。弘法も筆の何とか、ですね。お陰で、とても勉強になりました。恥にも愧、羞、慚、慙、そしてこの「怍」といろいろあるんですね。
カロリーネお婆ちゃんの身勝手さとデタラメさ加減に、きっと憤りが「炸裂」したんですね。確かに、皆んなうんざりしています。
それにしても、中国好きのカロリーネお婆ちゃんは、よく「東洋」を力説しますが、それって、日頃からコピペで「盗用」を繰り返しているからでしょうか?
でもそれって、「どうよう〜」(盗用≒動揺)ってことですかね。アハハハ‼︎
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