ロシア・ウクライナ戦争をめぐり、逆張りをかける親露派の方々は劣勢だが、鼻息は荒い。プーチン大統領の蛮行を目のあたりにしてもなお意気消沈せず親露的な言説を繰り返すのは、一部では政治的画策ではないかという憶測すら生んでいる。

橋下徹氏のように、憲法学通説を思想基盤にしている弱点が、外交安全保障政策では如実に露呈してしまう場合もある。https://agora-web.jp/archives/2056039.html さらに言えば、私の見立てでは、日本の高齢者層に根強い反米主義のイデオロギー的感情が、親露的スタンスを取りたくなってしまう一つの大きな心理的な要因として働いているようにも見える。

NATO東方拡大をめぐる議論は、反米主義的な感情に訴えるわかりやすいテーマだ。たとえば、NATO東方拡大に批判的なジョン・ミアシャイマーは、親露派のヒーローどころか、戦争を仕組んだのはアメリカだといった陰謀論者にまで英雄視されている。ミアシャイマーは第一級の理論家であることに疑いはないが、それだけに親露派や陰謀論者によって政治利用されてしまっている現状は、由々しき事態である。ミアシャイマーは「攻撃的リアリズム」という彼独特の理論的立場から提示できる洞察を明確に論じている。そうした背景を無視して、ミアシャイマーは歴史の真実を知っている賢者だ、といった話に持ち込もうとするのは、あまりに非生産的である。https://www.fsight.jp/articles/-/48809

大きな政策テーマについて、賛否両論を見たうえで、さらなる議論を喚起したりするのは、もちろん歓迎されるべきだろう。しかし問題を矮小化させたうえで、単なる印象操作の羅列をするような試みには、弊害が大きいと感じざるを得ない。

八幡和郎氏の「クリントンが戦争覚悟でNATO拡大と開き直り」という題名の53日付の文章を見た。ビル・クリントン元大統領が、『The Atlantic』に寄稿した論文を題材にしたものだが、「開き直り」という言葉が、クリントン論文のどこから出てきたのか、首をかしげざるを得ない。
 八幡氏にとっては、NATO東方拡大がウクライナにおける戦争の原因であることは既に確定済の事実なので、それに反する意見は全て「開き直り」にすぎない、という印象を作り出したいようだ。だが実際には、依然として外交専門家の間ではNATO東方拡大擁護派が大勢を占めている。ミアシャイマーのような有力な批判者もいるが、全体としてはまだ異端である。異端だから間違っているとは言えないのは当然だが、異端の立場をとらないと「開き直り」になるというのも、おかしな話である。https://agora-web.jp/archives/2056176.html 

クリントン論文は、47日に公表されたもので、どちらかというと目新しい内容ではない。https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2022/04/bill-clinton-nato-expansion-ukraine/629499/?fbclid=IwAR3dq7VgNvP9TZ13yKel8v1OSTCMKt-I-epTQ1KNeB1hZoEHo1d8Qiqvrt0 八幡氏は「ショッキング」な内容だなどと盛り上げているが、全くそのようなものではない。1990年代に8年間にわたって大統領を務めたビル・クリントンは、NATO東方拡大が大きな政策課題として議論されていた時期の米国の最終政策決定者だった。この論文でクリントンは、両論併記の形で政策決定時に考慮した意見を振り返りつつ、なぜ、どのように、彼がNATO東方拡大に舵を切る判断をしたのか、をあらためて説明した。論旨は明快だが、クリントンらしいバランス感覚も盛り込まれた論文だ。

ところが八幡氏は、クリントン氏が両論併記の形で紹介している様々な意見のうち、NATO東方拡大警戒論者の意見だけを取り上げたうえで、「専門家の忠告を承知の上で、ロシアがアメリカにとって都合のよい国にならなかったら、最初から戦争になっても仕方ないと考えていたと言明している」という理由で、クリントン氏を糾弾する。しかし、実際のクリントン論文には、全くそのような描写に適合する文章が見つからないので、極めて奇異な描写だ。

八幡氏は、クリントン論文の文章を、その文意から切り離したうえで、意味不明瞭な歴史比喩を繰り返すことによって、何かを論駁したような印象を作り出そうと試みる。例えば以下のような文章が一例である。

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その米国の意に沿わないロシアというのがどんな国かといえば、「天然資源を糧とし、強い権威主義的な政府と強力な軍隊」の国であり、それを「18世紀的な帝国」というのだが、アメリカこそ「天然資源を糧とし、世界最強の権限を与えられた大統領に率いられる強い権威主義的な政府と強力な軍隊」を持つ帝国である。

たしかに、18世紀にアメリカはイギリスという帝国の軛から解放されようとして、独立戦争をフランス帝国の支援を受けて戦ったのだが、連邦重視主義のハミルトンと地方分権主義のジェファーソンの論争で前者が勝利し、モンロー・ドクトリンを打ちだし、新大陸を大陸諸国の干渉を許さない勢力圏とし、やがて太平洋も自分の海と位置づけて日本と戦ったのであるから、まったく英仏独露などと同じ18世紀的帝国なのである。

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クリントンのNATO東方拡大の決定は、アメリカが18世紀に一つの帝国だった、という八幡氏独特の歴史観によって否定されることになるらしいが、全く意味不明である。

もちろん、アメリカは自己反省のない国だ!、ということを言いたいのだろうという感情論だけは痛いほど伝わってくる。しかし、アメリカが「18世紀的帝国」であるというテーゼが、冷戦終焉後のNATO東方拡大とどのように論理的につながるのか、八幡氏は全く説明しようともしない。そもそもロシアの話をしている時にいきなり話題を変えて、「アメリカだって」を延々と繰り返し、「ロシアの話などするな、ロシアの話をするなんて、クリントンは開き直っている」といった態度をとることに、一体何の意味があるのかも、不明だ。さらに加えて言えば、アメリカが18世紀に一つの「帝国」だったなどという歴史観は、どう考えても破綻した歴史観だ。説明不要な歴史的真実だ、といった態度をとれるような断言ではない。

八幡氏は上記の引用文の後、クリントン論文の「ピョートル大帝やエカテリーナ2世」への言及を取り上げたうえで、延々とピョートル大帝は「米国史ならセオドア・ルーズベルトに当たる」とか、「リンカーンも同様」といった独自の歴史観、というか的を得ない歴史比喩を羅列する。八幡氏は、それをもって「民族の統一を回復するとか、分裂した民族を統一し、強力な国家を建設することが18世紀的な帝国主義だとは暴論」と述べ、さらに「それなら、リシュリューやルイ14世もビスマルクもコール首相もそうだろうし、明治維新や辛亥革命でも同様だし、仏独伊が連合を組んでカール大帝の帝国を再現しようという欧州統合だって否定されるべきものになる」といった謎の議論を発展させている。

百歩譲って、万が一仮に、八幡氏の歴史記述が妥当性を持っているとして、これらの比喩はクリントン論文とは全く関わりがない。クリントン論文が、ロシアの「18世紀的帝国」の概念に言及したのは、1990年代にクリントン氏が直面した問いが、ロシアは再び拡張主義的政策を採るか、というものだった、という説明においてである。ロシアが拡張主義を再開すれば、必ず、共産主義政権の支配から脱し、NATO陣営への加入を望む東欧諸国と軋轢を生む。もしその可能性があるとしたら、将来の軋轢をどうやって防ぐか、が欧州に同盟国網を持つアメリカにとっても大きな問いになる、という説明において、クリントン氏はロシアの歴史的傾向についてふれただけだ。(「My policy was to work for the best while preparing for the worst. I was worried not about a Russian return to communism, but about a return to ultranationalism, replacing democracy and cooperation with aspirations to empire, like Peter the Great and Catherine the Great. I didn’t believe Yeltsin would do that, but who knew what would come after him?」)

八幡氏は、この後、「賢人たちはNATO拡大がロシアの暴発を生むと予言していた」という話を延々と続けていくが、これはクリントン論文への批判にならない。クリントン氏の議論を論理的に批判するためには、「NATOが東方拡大しなかったらプーチン大統領が拡張政策をとることはなかった」ということを証明しなければならない。なぜならクリントン氏は、NATOが拡大しなくてもロシアが拡張主義をとって軋轢を生む可能性を考慮して、NATO東方拡大の政策決定を行ったからだ。八幡氏は、印象操作のみに終始するが、基本的にクリントン論文を読まず、ただ単語レベルで歴史比喩の連想ゲームのようなことをしているだけに過ぎない。

私自身は、NATO東方拡大は正しかったと考えている。それはロシア・ウクライナ戦争で証明された、と考えている。クリントン大統領は、ロシアの拡張政策によって、東欧全域が不安定化する将来の危険を取り除くために、NATO東方拡大に踏み切った。2022年現在、NATO構成諸国がウクライナに強力な武器支援を提供している公の事実に直面しても、なおプーチン大統領といえどもNATO構成諸国に手を出せない。クリントン大統領がNATO東方拡大によって達成しようとした目標は、達成されている。

論点は、ウクライナのような事実上の緩衝地帯とみなされた旧ソ連構成の新興独立諸国群の安定が達成されていないことだ。ただし、ウクライナにNATOを拡大させる判断は遂になされなかったわけなので、ウクライナにおける戦争によってNATOが抑止に失敗したと論じるのは間違いである。「緩衝地帯」の防衛を試みることなく、NATOは自らの領域の安定だけを図っている、と言うのであれば、まだわかる。
 さらに踏み込んで、「緩衝地帯」であるウクライナがロシアの「影響圏」であることを認めて冷戦型の安全保障体制の継続を目指したほうが、ウクライナも、他の東欧諸国も、今よりも一層安定したと言えるのかどうかは、「歴史のif」のような話である。ただし疑うに足る十分な理由がある。ウクライナの人びとが既に弱体化して帝国の実態すら伴っていない「ロシアの影響圏」で衛星国扱いされることに満足し続けるはずはなく、それは他の東欧諸国の人びとも同様だ。しかしロシアの国境を越えた野心は実在する。軋轢は不可避であったと考えざるを得ない。その状況認識にそって、NATO東方拡大は、旧ソ連構成国までを安定させることはできなかったが、旧ワルシャワ条約機構に属していた旧ソ連以外の東欧諸国を安定化させることには成功している。ウクライナを守り切ることができなかったことは残念ではあるが、それはNATOの実力の限界の見極めどころの問題であり、NATO東方拡大の失敗の話にはならない。

ソ連という帝国の崩壊に伴って発生した巨大な政治変動の余波を、われわれはまだ体験している。NATO東方拡大は、ソ連という帝国の崩壊に対応して導入された政策である。NATO東方拡大が、何も問題がなかったところに新たな問題を作り出した、という議論は、まだ十分な証明がなされていない。基本的には、問題の発端は、ソ連の崩壊とそれを継承したロシアの位置づけであり、NATO東方拡大は、その問題に対応するために導入された措置でしかない。

もちろん、このように言うことによって、私はNATO東方拡大に有力な批判者がいることを無視しようとは思わないし、究極的には、どこまでいっても「歴史のif」に対して完璧な解答が証明されることはない、とも思っている。

しかしだからこそ、八幡氏のような印象操作だけに終始した態度に、私のような国際政治学者が納得することはない。ただ、むしろ八幡氏のような態度は、極めて非生産的であると感じるだけである。