拙著では、(東大法学部出身)憲法学者の方々に大変に厳しい言い方をしている個所がいくつかあります。背景には、最近、私が公務員試験の試験委員をしたり、高校の教科書の執筆者になったりしていることがあるかもしれません。公務員試験・司法試験などを通じて、東大法学部を頂点とする憲法学が日本社会に行使している権力は尋常ではありません。論理的なやりとりを許さず、「今までずっとそうだから」という形で行使する社会権力の度合いは甚大です。
 日本社会のためには、ぜひ憲法学者の方々は、人間には完全ということはなく、学説に依拠する価値観がないものはないということに意識的になってもらいたいと思わざるを得ないのです。東大法学部卒の国会議員が総理大臣に「芦部信喜を知っているか」と尋ね、「知らない」と答えさせると、多数の人たちが一斉に「反知性主義だ」などと人を小馬鹿にする言葉を繰り返し投げつける。このような悪趣味な態度が、かえって選挙において票を減らすということに気づくこともない。
 芦部信喜が神様のような存在だと多くの人たちに信じられていることを、私も知らないわけではありません(たいては試験のために予備校講師に言われてそう信じることにするのでははないかと思いますが)。しかし、本当に神様のような人ですか?と私が思ってしまっていることは、告白しなければなりません。

それはともかくアメリカ式の憲法典を力づくでもヨーロッパ大陸の歴史の中に埋め込み、ドイツ国法学やフランス式憲法制定権力論で読み込もうとする数十年にわたる東大法学部系憲法学の営みは、本来は政治思想や国際法などの隣接分野の議論を見て相対化できるのですが、実は京大系の憲法学の雄である佐藤幸治の著作や立憲主義の説明を見るだけでも、本来十分です。(たとえば佐藤幸治『立憲主義について―成立過程と現代』[放送大学叢書:左右社、2015年])それにしても佐藤氏は、安保法制を違憲と言わなかったという理由で、反動的憲法学者と批判されたりしているようです。憲法学者は憲法学者なりに大変です・・・。