シノドスに掲載した文章が意外に反響があった。拙著の内容にそったものだが、あえて書籍では書かなかった言い方をした書き出しが、わかりやすかったようだ。
 他方、結局、篠田は合憲・違憲論をどう考えているのか、についてもう少し踏み込んで言ってほしい、という意見もいただいた。たしかに視点がずれると思って、あえて私はこういう立場です、というところから書き始めるということをしていない。

私は東大法学部系の憲法学の議論が間違いだ、とは言っていない。ある解釈体系を間違いだと糾弾するのは、よほどのことであろう。東大法学部系の憲法学者があまりに安易に他人を愚弄していることについては批判的だ。政治家や国際政治学者を「反知性主義者」と呼び、憲法学者と官僚群が素晴らしい知性と良心の砦だと主張するような態度は、全く根拠がないイデオロギー的態度ではないか、と指摘したい気持ちはある。もっともだからといって彼らの解釈論が間違いだ、とまでは言っていない。

ただ申し訳ないが、説得力がある卓越した解釈だとも、日本国憲法全体との体系的調和が果たされている美しい解釈だとも、考えていない。むしろ単なる自己撞着的な議論であると考えている。東大法学部の伝統という権威がなければ、全く異なる扱いを受けるはずの議論だろう。

そのことを指摘するために私が拙著で使ったキーワードは、たとえば「国家の基本権」思想だ。国家が自分自身を守るのが自衛権なので、個別的自衛権が最低限で、したがって合憲で、それ以外が違憲だ、という憲法典を超越した論理を信じる踏み絵を迫るのは、「国家の基本権」を信じ、それを国際法学者も認めなければならない超越的真理だとして主張するからなのだ。

この「国家の基本権」信奉の背景には、観念論的なドイツ国法学の影響下で開設・運営された東大法学部憲法学の伝統があり、それは英米圏の思想を基盤にしているはずの本来の日本国憲法の体系と鋭く対立する解釈論的立場であることを拙著では説明した。もちろんフランス革命に強くこだわる戦後憲法学における「国民」の「一般意思」への憧憬がそこに加わる。

屈折しているのは、国際法学者が信奉しない国家の基本権思想を信じて国連憲章を解釈するべきだ(憲法学者の言うとおりに国際法学者は国際法を解釈すべきだ)と主張しながら、憲法学者はその基本権を持つ巨大な国家に立ち向かう勇敢な者たちである、といった独特の論理構成でさらなる自己正当化を主張することであろう。勝手に「自衛権は国家の自己保存権だ」と断定しながら、「われわれはそれを制限する」という宣言を誇る。
 正直、学者としての私が困るのは、こうしたイデオロギー的な試みを推し進めるために、「立憲主義」といった概念も、独特のやり方で定義し、それ以外の定義を持つ者は皆「反知性主義者だ」と呼ぶような態度をとることだ。(それがそもそも拙著『集団的自衛権の思想史』を書いておこうと思った動機の一つであり、この文章を書いている理由でもある。)
 立憲主義者であるならば、徹頭徹尾、個人の権利について語るべきではないだろうか。国家の基本権を主張した上で、それを制限するから憲法学は素晴らしい、といった迂回路をとる意味が不明瞭なのだ。

以下、拙著からの引用である(34-35頁)。

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社会契約論に根差した立憲主義によれば、政府は社会構成員の安全を確保する責務を負っている。人民は、自分たちの安全をよりよく守るために、「信託」して政府を設立するのである。思想史の関連から言えば、社会契約論に根差した自衛権の理解こそが立憲主義的なものだと言えるだろう。日本国憲法前文において登場する「信託」概念は、この意味での立憲主義を示している。政府が「信託」を受けて行使する自衛権は、憲法11条・13条などとの関連で、その根拠および範囲が設定されるべきである。
 
ところが実際には、内閣法制局も多くの憲法学者も、このような英米流の立憲主義の考え方にそって日本国憲法を議論せず、むしろ擬人法を多用し、国家法人説を導入して、自衛権などの議論につなげる。人権保障に対する「必要性と均衡性」を基準にするのではなく、国家の自己防衛の範囲が「最低限」なのが個別的自衛権で、集団的自衛権は「最低限以上なので違憲」、といった議論を展開する。多くの憲法学者や過去の内閣法制局が依拠している論理は、上述の意味での立憲主義的なものではない。日本が個別的自衛権だけは行使できるのは、自分が自分自身を守る国家の自己保存の権利までは憲法も否定していないはずだから、という論理である。そこで国家が自分自身を守るのが本当の自衛権なので、他者を守る権利を自衛権と呼ぶのはまやかしであり、憲法は許していない、という議論になる。(注1)
この国家の自己保存権としての「自衛権」の正当化方法は、国民を守るために政府が取る措置を正当化するのではなく、国家あるいは国民が自分自身を守るために取る措置を正当化する概念構成に依拠している。国家の自己保存の権利が自衛権で、それは個別的自衛権なので、憲法が国家の自己保存の権利として認める自衛権は個別的自衛権だけだ、という自家撞着的な論理構成である。「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使」といった内閣法制局の説明は(注2)、「国家固有の権能」を強調する点において、憲法典内在的な説明を拒絶した主張である。従来の内閣法制局の説明では、自衛権をめぐる主語も述語も、「国家」なる超憲法典存在であるのが特徴だ。
 
憲法学においては、自衛権は否定されないが戦力は持てないという理由で、「民衆蜂起」が残された自衛権行使方法だ、とする学説が根強かった。この考え方によれば、国民が主権者だと言う理由で、国民それ自体が自ら直接自分自身を守ることが最も正しい本当の自衛権だということになる。「信託」して政府などに安全保障を代行させるのは真の主権者らしくない行為なのである。また内閣法制局によれば、国家が自衛権を持ち、国家が自分自身を守るのが自衛権だという。ここでも国家それ自体が主権者として直接自分自身を守ろうとするのが本当の自衛権だ、という論理が貫かれる。つまりこれらの憲法学者や内閣法制局の議論からは、社会構成員と政府の間の「信託」関係などは全く度外視されてしまっている。社会契約論に根差した伝統的な意味での立憲主義は忘れ去られており、ひたすら真の国民主権、真の国家主権が追い求められているのである。

1:「自衛権は、独立国家であれば当然有する権利である。国連憲章五一条において、個別的自衛権として認められている。」芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』第六版(岩波書店、2015年)、59頁。この記述に対する説明のようなものは施されていない。

2:大森政輔内閣法制局長官の発言。第145 回国会参議院日米防衛協力のための指針に関する特別委員会会議録第4 号、平成11 5 11 日、5頁。