拙著『集団的自衛権の思想史』の「あとがき」で次のように書いた。

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2015年の安保法制反対デモの中に、「War IsOver, If YouWant It」というスローガンがあるのを、何度も見かけた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが1960年代末からベトナム反戦運動で使いだしたメッセージであり、1971年の「Happy Christmas」の中のフレーズでもある。「戦争は終わっている(あなたがそれを望めば)」というメッセージは、その瞬間に進行中の戦争があることを念頭に置いたうえで、その事実に対する共感と責任を、その時代に生きたアメリカ人たちに、求めたものだ。ジョン・レノンは、その瞬間の同時代の世界の現実に対する想像力を求めた。

 安保法制反対デモで、このメッセージを使うことに、いったいどういう意味があるのだろうか。日本がすでに戦争に関与していると言いたいわけではなさそうだ。始まるかもしれないと想像する戦争がすでに終わっていることを想像してほしい、というのは、いささか思弁的に過ぎる話であるように思えてならない。ジョン・レノンのメッセージが、「アベ政治を許さない」といったことだったとしたら、そこにわれわれは何を感じるべきなのか。2015

年の日本では想像力が進展しすぎているのか、想像力の欠落した半世紀前へのノスタルジアだけがあるのか。
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それにしても思弁的なやり方で脅威を作り出した上で、その脅威への抵抗を呼びかけるという構成は、憲法学それ自体に見られたものではなかったか。拙著では「第1章」で次のようにも書いた。

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実は日本の憲法学界では、戦前の大日本帝国憲法の時代から今日に至るまで、「国家の三要素」なるものの存在を通説として保持し、その一つを「統治権」とすることが、ほぼ常識として確立されてしまっている[1]。ところが、この「三要素」について憲法典を含めて法律上の根拠はない。憲法学者が自分たちで作り上げ、美濃部達吉以来、東大法学第一憲法学講座の教授陣の面々が守りぬいてきた理論だ、ということ以上のものではない。

実定法として国家の成立要件を定めた根拠として参照されるのは、国際法の分野では1933年「モンテビデオ条約」である。そこには三つではなく、四つの要件が定められている。住民、領土、政府、そして他国と関係を持つ能力だ。ところが日本では、高校の教科書などから、堂々とモンテビデオ条約を脚注で参照しながら、「国家の三要素」が説明されていたりする。勝手に「政府」と「他国と関係を持つ能力」を合体させたうえで「主権」と言い換えて、四つを三つに作り替えてしまうのである。憲法学者が書いた憲法学の教科書に記載されている「統治権」なる概念は、さらにいっそう謎の権利である。日本国憲法には、「統治権」はおろか、「統治」という概念も登場しない。「統治権」なる概念の実在を信じる憲法学者は、大日本帝国憲法下の戦前からの憲法学の伝統を踏襲しているにすぎないのである。なぜそのような態度が普通になっているのだろうか。

高橋和之・東大名誉教授執筆の基本書『憲法』第一章は、絶対王政によって国家が確立されて「領域的支配権」が確立されて、「領土、国民、統治権(主権)」の三要素を持つ国家が生み出されるようになったのだ、と断言する。これらの要素が憲法典に記述がないのは、「憲法の前提ではあるが、憲法の中で確認するには必ずしも適さない」からだと注釈が施されている。根拠となる文献類は提示されない[2]。「国家の三要素」とは、いわば憲法学者だけが知る「社会学的意味での国家」の「歴史的成立」の物語の産物であり[3]、憲法学者だけが知る「憲法の条規を超えた『不文の憲法原理』」なのである。



[1] 美濃部達吉『憲法撮要』(有斐閣、1923年)、1018頁。「国民は、属人的に、ある国の統治権に服する人間だということもできる」。宮沢俊義『憲法』(第五版)(1956年)、96頁。芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』第六版(岩波書店、2015年)、3頁。

[2] 野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法I』第5版(有斐閣、2012年)、35頁。

[3] 高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣、2005年)、34頁。高橋教授は「三要素」を備えた「国家の成立により、国際社会は、相互に独立の『主権国家』から成るものと理解されるようになる」と断言し、憲法・国際法にも先立つ原初的存在としての「社会学的な意味での国家」の概念を、立憲主義に関する著作の冒頭で提示する。根拠となる文検討の指示はなく、原初的な「社会学的な意味での国家」の成立の措定は、いわば高橋教授による立憲主義理解のための「命題」のようなものとなっている。