「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/ 
過去のブログ記事(『アゴラ』) http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda

 119日のトランプ政権発足の前日に成立していたガザをめぐるイスラエルとハマスの停戦合意は、当初から脆弱で一時的なものであると見られていたとおり、早い段階で崩壊した。3月下旬からはイスラエルの「オズと剣」作戦が開始され、ガザ全域で大規模な空爆と地上攻撃が行われるようになった。現在の危機的状況は、かねてからガザを占領して封鎖しているイスラエルが、人道支援について完全停止とする食料や医療物資の供給の遮断を行ったことだ。これによってガザ全域で、飢餓の危機が広がった。急性栄養失調に陥っている人々も相当数になっている。

この状況でイスラエルは、516日に、新たな軍事作戦として「ギデオンの戦車」を開始し、ガザ全域への軍事攻勢を強化している。公式には依然としてハマスの壊滅と人質の解放が目的だとされるが、すでにイスラエルのネタニヤフ首相は、ガザ地区の住民を「自らの安全のために移動させる」と発言し、ガザ住民の強制移動を示唆する発言を行っている。たとえば、202555日、ネタニヤフ首相はヘブライ語のビデオメッセージで、ガザ地区での新たな軍事作戦について「ガザのパレスチナ人住民は自らの安全のために移動させられる」と述べ、住民の移動を伴う作戦であることを明らかにしている。519日に、限定的な人道支援を再開したが、イスラエル政府の完全管理下における非常にわずかな量の食糧供給であり、人道的危機を取り除く目的の措置ではないと考えられている。

イギリス、フランス、カナダなどがイスラエルの軍事行動に対して懸念を表明し、即時の停戦と人道支援の再開を求める声明を出した。日本も名前を連ねた。しかしネタニヤフ首相は即座に、これらの諸国をむしろ非難し、作戦を継続する意向を表明した。ガザは、1967年からイスラエルの占領下にあり、2023107日のハマスの攻撃以前から、完全封鎖の状態にある。時々、誤解されている場合があるが、政策の選択肢として軍の完全駐留をしたり、封鎖だけにとどめたりしていただけで、占領していたことに変わりはない。すでにUNRWAという国連組織を敵視して活動禁止する措置をとっているイスラエルは、国連その他の外部組織による援助活動も、もはや認めていない。一部アメリカの組織が、イスラエル軍の管理下で、例外的にガザに入っているようだが、あまり意味のある事柄ではないだろう。トランプ大統領が、ガザの住民の大移住計画を披露したことを、ネタニヤフ首相は繰り返し参照しているので、それをふまえたリップサービスのようなものであると思われる。

封鎖された区域で、軍事攻撃が続いているまま、人道支援の停止が進められているわけで、住民にとっての人道惨禍のレベルは尋常ではない。2310月以来、53,000人以上のパレスチナ人が死亡し、人口のほぼ全てが避難を余儀なくされたうえで、飢餓の危機にさらされていると考えられている。

私は、紛争分析から平和構築の政策の研究を専門にしている学者である。ガザも訪問したことがある。そのときに私が講演した大学は、2310月の段階で木っ端みじんに破壊された。戦場取材をするのは私の役目ではないが、私は、ウクライナやソマリアのような戦争が続いている国の都市部や、紛争終結直後の地域などには、数限りなく訪問している。紛争の理論のみならず、歴史的事例なども、努めて勉強するように心がけている。およそ600万人が犠牲になったとされる20世紀欧州のユダヤ人のホロコーストから、数百万人単位の犠牲が出たとされる北米大陸のネイティブ・アメリカンの掃討政策など、戦争にまつわる悲惨な歴史的事例を勉強するだけでなく、まだ多数の遺体が散乱するルワンダの虐殺現場などには訪問したことはある。外国人が先住民に対して持ち込んだ悲惨な事件の事例としては、大航海時代のヨーロッパ人の来訪以降に、南北アメリカ大陸が経験した先住民の人口減少がある。数千万人の単位の犠牲を出した事例であると考えられている。大西洋奴隷貿易で奴隷として連れ去られたアフリカ人の数は、少なくとも一千万人以上と考えられている。アフリカ西岸の各地で、奴隷貿易の遺跡などを見ると、本当に胸が詰まる。

これらのいずれの事例と比較しても、現在のガザの悲惨さは、同じように人類史に残るレベルだと思う。殺害された人の数だけであれば、もちろんもっと多くの犠牲者が出た事例はある。現時点でも、世界各地で、戦争の惨禍で悲惨な犠牲となっている人々は何万人もいる。

しかし200万人以上の市民が、封鎖されて逃げ場のない場所で、軍事攻撃にさらされながら、食糧もなく飢餓状態に置かれているというのは、極めて異常な人道的惨禍のレベルである。

2310月以来、ガザのための啓発活動にあたってきた方々は、全世界で疲弊しきっている。私自身も、519日のイスラエルの新たな軍事作戦以降に目にする画像や動画などで、あらためて精神的に参った状態に陥った。

日頃から紛争研究などをやっており、ロシア・ウクライナ戦争などでは実は2022年の段階から停戦の方向性などを論じていたが、ガザ危機については永久戦争になりそうだと書いていた私ですら、今は相当に厳しい。

日本には、欧米諸国と、非欧米諸国が、共同でガザ危機を憂慮するプラットフォームを構築してほしいなどとも書いていたが、今となってはそれも全て虚しい。

この状態までくると、もはや社会科学者は何の役にも立たず、宗教か哲学にすがるしかない。無力感が甚だしい。長生きなどするものではない。早くあの世に行きたい気持ちにかられている。人間は、徹底的な無力感の中でも、どうやって死ぬまでは生き続けていくのだろうか。それだけを問い直している。
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 トルコ・イスタンブールにおけるロシアとウクライナの停戦交渉に先立ってゼレンスキー大統領は、ロシア側代表団を「お飾りに過ぎない」と批判した。プーチン大統領が参加するように要請していたからである。これに対してロシア政府のペスコフ報道官はゼレンスキー大統領を「道化師」と呼び、「彼は悲劇的な人物であり、国を壊滅に導いている」と述べた。ザハロワ報道官は、「どんな学問的経験があるかも不明な人物が、立派な学術業績がある人物を馬鹿にするのは敗北者の行為だ」と述べた。前哨戦で感情的な侮蔑的な言葉のやり取りがあったということである。

 この雰囲気を受けて、実際の交渉のやり取りは、厳しいものだったようだ。もっともロシア側の主張は、従来から変わっていない。言葉のやり取りとして、現在ほぼ支配を固めているウクライナ4州に加えて、次回は8州が交渉対象になるぞ、という威嚇があった、と報道されている。ただこれは文脈としては、現在の停戦の機会を逃すと、むしろウクライナは損をするだけだぞ、という意味だ。メディアで伝えらえているように、それらの追加的な州の占領を完成させるまで停戦には応じない、と述べたわけではない。

 さらにロシア代表団を率いているメジンスキー大統領補佐官は、次のように述べた。メジンスキー氏は次のように述べ、ウクライナに屈服を求めた。「我々は戦争は望んでいないが、1年、2年、3年、どれだけ長くても戦う用意はある。我々はスウェーデンと21年間戦った(=170021年にかけて続いた大北方戦争)。あなたはどれくらい戦う覚悟があるんだ?このテーブルに座っている人たちの中には、もっと多くの愛する人を失う者もいるかもしれない。ロシアは永遠に戦う覚悟ができている」

https://news.yahoo.co.jp/articles/e0588406b4db8b80ad6cbfad2518c902c6904780

 メジンスキー大統領補佐官は、文化大臣も経験した経歴を持つが、政治学の博士号を持ち、歴史に関する著作を多数持っている。その学術的水準についてはうかがい知ることができないが、このように歴史的教訓を都合よく引き出してきたりするタイプの人物であるようだ。

 大北方戦争は、300年前の戦争であり、いくら何でも古すぎる印象も受ける。ただ、逆に言えば、なぜこの戦争を参照したのかは、気になる。たとえば59日に戦勝記念日を祝った第二次世界大戦の「大祖国戦争」ではダメだったのか? もちろん、いくつかの細かい条件はある。大祖国戦争はロシアではなくソ連の戦争で、ナチス側に加担したウクライナ人もいたとはいえ、ソ連側で戦ったウクライナ人が多数だ。

 もっともそれらは本質的な点ではないだろう。文脈から言えば、ロシアが非常に長期にわたって戦争をした過去の事例として、大北方戦争が参照されたようだ。ただし最も長期にわたる戦争としては、「コーカサス戦争」があげられる。1817年から1864年まで、約47年にわたって、帝政ロシアと北カフカース諸民族(特にチェチェン人・ダゲスタン人)が戦った戦争だ。ただ、これは国家間戦争の事例としての印象が薄い。また現在ロシア共和国を構成している民族を敵としている構図になってしまうので、政治的に不適切だろう。戦争が続いていたと歴史に記録されている期間の間の実際の戦闘の断続性も頻繁だ。

断続してもいいのであれば、ロシアがオスマン帝国を押し続けた露土戦争も、全部を総計すると、相当に長い。19世紀クリミア戦争どころか、第一次世界大戦でも、ロシアはオスマン帝国と戦った。しかしオスマン帝国との一連の戦争を参照するのは、交渉会議のホスト役を担っているトルコに失礼すぎる。

大北方戦争であれば、ロシアが、トルコ以外で、継承国が現在NATO構成国になっている事例の戦争だ。そしてロシアが、大北方戦争の結果獲得したサンクトペテルブルグを中心としたバルト海に面した地域は、その後300年にわたって、ロシア共和国領であり続けている(コーカサス戦争の敵方にはアブハジア共和国もあり、現在のロシア共和国に全てが残存し続けているとは言い難い面もあり、いくぶん微妙である)。

いずれにせよメジンスキー氏は、ロシアは長期の戦争に耐えうるし、耐えて結果を出してきた実績がある、と言いたかったようだ。

これは明らかに、ウクライナ側に「長期戦に持ち込んで事態を有利に進めていけないか」という意見があることを、強く意識している。

日本でも、停戦を拒絶し、長期戦に持ち込むことによって「プーチン政権の崩壊を待つ」といった主張をされる方が少なくない。「ウクライナは勝たなければならない/この戦争は終わらない」主義の方々である。

万が一キーウが陥落してもなお、最後の一人になるまでゲリラ戦も覚悟して戦い続ければ、やがてソ連がアフガニスタンから撤退していったように、ロシアはウクライナから撤退していくだろう、といった主張でもある。

つまり、「ウクライナは勝たなければならない/この戦争は終わらない」主義の方々の論拠は、最後の一人なっても戦い続ける永久戦争に持ち込めば、ロシアは撤退するのでなければプーチン政権が倒れる、という予測である。

メジンスキー氏は、この見方に挑戦し、否定しているわけである。

果たしてこれは妥当な見方だろうか。上述のように、日本でも、「ソ連はアフガニスタンから撤退した、アメリカはベトナムから撤退した」、といったことを言いたがる方々も多々いらっしゃる。だがこれらは全て状況が異なりすぎている。

断続的な押し引きをしたオスマン帝国や、大英帝国、日本などのとの戦争の事例は、微妙だ。たとえば日露戦争後に樺太南部を割譲している。ソ連として、ロシア革命後に第一次世界大戦から離脱した際のソ連のブレスト=リトフスク条約では、ロシア帝国領の整理を行った。
 だがメジンスキー氏が示唆するように、ロシアが陸続きの領土の併合を宣言して、その領地の防衛を「祖国防衛戦争」と位置付けた後、敗北を認めて領土を譲渡したような事例は、歴史上、見ることができない。ロシアにとっては、ロシア領の一部としてしまったウクライナ東部5州の死守は、すでに「祖国防衛戦争」になっていることには注意が必要だ。

「撤退しないのなら、ロシア国民が立ち上がってプーチン政権を倒すだけだ」と主張する方々も多々いらっしゃる。しかし残念ながら、3年以上戦争を続けてきて、その予兆はない。むしろ最初の1年間のほうが可能性があったように思われる。私が「ロシア・ウクライナ戦争の峠」と呼んでいる2023年春以降には、めっきりロシア国内の反政府運動も見られなくなった。
 私が別途「The Letter」で指摘しているように、ロシア占領地域で、目立った反ロシア運動が見られないことは、かなり重要な点だ。この事情は、ロシア国民の世論にも影響を与えていると思われる。現在の占領地においてすら、反ロシア運動が起こっていないのに、どうやっていずれはプーチン政権が倒れる反政府運動がロシア国内に起こる、と断言できるのだろうか。https://shinodahideaki.theletter.jp/posts/2b8da880-32cc-11f0-ab14-f74094ce99bd?utm_medium=email&utm_source=newsletter&utm_campaign=2b8da880-32cc-11f0-ab14-f74094ce99bd%20#theLetter%20@ShinodaHideaki 

ゼレンスキー大統領はロシア領内施設等への攻撃にこだわっている。ロシア領が攻撃されれば、プーチン大統領の全能のイメージが崩れ、ロシア国民が立ち上がってくれる、といった期待を述べたこともある。その観点から、ザルジニー総司令官を解任して、クルスク侵攻を仕掛けた。だが、8万人近いとも言われる兵士と、大量の欧米諸国提供の最新兵器を失っただけで、撤退した。ゼレンスキー大統領は、諦めきれず、依然としてクルスク州にウクライナ兵を侵入させたり、ドローンでロシア領を攻撃したりしている。それらの多くが、ほとんど軍事的には意味のないものばかりである。

歴史がどう展開するかは、最終的には、やってみるまでわからない。政策判断は、合理的な推論とリスク評価をもとにして、行っていくしかない。

だが日本でスマホでSNSをやりながら「ウクライナ人は必ず最後に一人になるまで戦い続ける!」と怒鳴ってみることが持つ倫理的な意味についても、考えなければならない。

「悪いのはプーチン、次にトランプ、ただそれだけ、結果が出なければ、ただこの二人を責め立て続ける、ただそれだけ」、という態度は、政策決定者なら、なかなかとれない。

すでに「これで戦争継続しかないことがわかった!」と高揚して主張している方々も多々見られる。しかしメジンスキー氏の役割は、3年ぶりに再会された交渉の冒頭でロシアの主張を強く出すことなので、後日プーチン大統領が裁決を出す機会があるとすれば、それが譲歩するときだ。冷静さを失わず、交渉を続けていく姿勢は、むしろ大切だろう。

 

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 59日ロシアで大祖国戦争戦勝80年のパレードが行われた。約30カ国の国家元首・政府首脳が集まる大規模な式典となり、外交会議も多数開かれたようである。ウクライナは西欧諸国にあわせて第二次世界大戦終結を58日と設定してロンドンでのパレードに参加したりした後、9日はウクライナ西部のリビウで「侵略の罪」を裁く「特別法廷」を設置するための準備会合を、欧州諸国・組織の代表者たちと開催した。その後、フランスのマクロン大統領、イギリスのスターマー首相、ドイツのメルツ首相、ポーランドのトゥスク首相が、キーウを訪問した。これら四カ国首脳は、ウクライナのゼレンスキー大統領とともに、「512日から30日間の停戦」をロシアに要請した。そして応じない場合には、アメリカとともに大規模な追加制裁をかける、と主張した。これに対して、プーチン大統領は、15日にトルコで停戦交渉を行うことを提案した。これに対して、ゼレンスキー大統領は、停戦に応じなければ、交渉はない、と主張した。その次には、プーチン大統領がトルコに来なければ、交渉はない、と主張した。

 非常に目まぐるしい動きだが、実質的なことはまだ何も起こっていない。トルコに来る準備をしているのは、プーチン大統領ではなく、ラブロフ外相だと言われている。また、欧州諸国が要求した12日からの「30日間の停戦」は、「最後通牒のような要請には応じない」としたロシアによって無視されている。そして追加制裁なるものも導入されていない。

実はウクライナでは、202210月の国家安全保障・国防会議決定・大統領令で、ゼレンスキー大統領自身の署名をもって、プーチン大統領と交渉をすることが禁じられている。交渉が決まれば、即座に大統領令を取り消す、ということなのかもしれないが、もともとプーチン大統領がトルコに来るはずはない、と信じているので辻褄が合わないことを言っているだけだろう、という醒めた指摘もある。

なお、アメリカのトランプ政権関係者は、追加制裁に同調する、と発言していない。加えて、EUでの全加盟国の同意が必要な追加制裁について、実現可能性を疑う見方もある。ハンガリーやスロバキアが、EUの反ロシア政策に疑念を表明するようになっており、追加制裁に同意するか、不明だからだ。EU指導部は、通常の制裁決定の手続きを回避する手段をとるのではないか、という憶測も流れている。もともとイギリスはEU加盟国ではない。今回は、EUと同調して制裁する、という意思表明を首相が行った、ということだろう。イギリスとともに、有志のEU加盟国が制裁措置をとることはできる。だがそうなると、さらにいっそう賛同国が減り、制裁参加国が減る恐れがある。果たしてそのようなわずかな数の小国だけが行うものが、「制裁」の名称に見合うものなのか、疑念も出てくるだろう。単なる断交に近いものかもしれない。

恐らくは、そのあたりの事情も見越しているのだろう。ロシアは制裁の「威嚇」に全く反応せず、無視している。追加制裁とは、ロシアと貿易をした第三国に500%の関税をかける措置だ、と噂されている。この追加制裁なるものは、「トランプ関税」の拡張版のようなもので、実効性があるのか、疑わしい。欧州人にしてみると「トランプさん、あなた、自国の勝手な都合で中国に145%の関税かけると言ったんだから、ウクライナのために中国に500%の関税をかけるくらい何でもないだろう」といった話なのだが、率直に言って、「トランプ関税」の交渉を中国やインドを含めた相当数の諸国と始めているトランプ政権にしてみると、迷惑な話であると思われる。

 SNSなどでは、「いいぞ、欧州、ロシアをつぶせ!」や、「プーチン、早くトルコに来い!怖いのか!」などの威勢の良い声が見られる。各国指導者の発言や行動は、お茶の間あるいはスマホ前のファン層へのサービスのアピールとしては成功しているようだ。だが停戦交渉の進展には、つながっていない。

 ロシア・ウクライナ戦争は、大規模で凄惨な戦争である。大規模侵攻開始時から3年以上、ドンバス戦争勃発時からは11年以上の長期にわたって続いている。背景となる歴史も深く、当事国の国民感情も重たく複雑なところがある。紛争に関わる「準」当事者のような有力アクターの数も多い。評論家や学者層の情緒的関与の度合いも高く、感情的憎悪関係なども蓄積されてきている。複雑方程式を解くのに、時間がかかるのはやむを得ないところはある。まだ前途は多難である。

 ただそれでもトランプ大統領就任後の変化は、大きい。「ウクライナは勝たなければいけない」と主張しなければ非難されてしまう雰囲気は、霧消した。「この戦争は終わらない」の主張も、あまり聞かなくなった。動いてはいる、ということだろう。今回は、トルコのエルドアン大統領が、調停を取り仕切るために待っている。黒海の玄関口を握り、かつて「穀物交渉」を成立させた実績を持つ。今年の2月24日に、国連安全保障理事会で2022年以降初めてのロシア・ウクライナ戦争に関する決議が採択されたが、それは「可能な限り速やかな停戦を要請する」という内容だ。そろって棄権した英・仏など欧州の理事国以外の全ての理事国の賛成票が集まった。安保理決議は、国連憲章に基づいて、全加盟国を拘束する。

 フランス・ドイツ・イギリスの首脳たちが電車でキーウに向かう際、突然の撮影に見舞われた場面で、マクロン大統領が何らかの白い紙を、メルツ首相が非常に小さいスプーン上の何ものかを、あわてて隠す、という動作があった。これについて、最初は「あの二人、何を慌てて隠しているのだろう」という指摘だったものが、やがて「コカインをやっていたのではないか」という話が広まり始めた。当然、フランス政府などは打消しの声明を出した。しかしロシアの報道官がコカイン解釈を紹介するところまでに至ったため、今度は「親露派バスターズ」界隈の一斉に反応した。「ほんの少しでもこのシーンに関係したことを言ったら、即座に親露派とみなして糾弾の対象とする」といわんばかりの「犬笛」を吹いて、SNS界隈でお馴染みとなった「隠れ親露派狩り」の嵐も吹き荒れることになった。

 私が感じているのは、欧州諸国指導者の世論対策の姿勢だ。ロシアの方は仰々しく派手な大パレードと多国間外交交渉を示したうえで、祖先への感謝といった共同体的価値観を強調するプーチン大統領の姿を強調するシーンで宣伝活動をしている。これに対して欧州諸国は、数名の仲間内の旅行のような雰囲気で、リラックスした服装、リラックスした表情、サークル的な協議風景を前面に出して、宣伝活動をしている。

https://x.com/ShinodaHideaki/status/1921690955674959891 

 ロシアの儀式主義を悪い権威主義だ、と印象付けるために、わざと庶民的な友情の光景をアピールするようなつもりなのかもしれない。だがこれは、一歩間違えると、欧州数カ国の仲間内のインナーサークルの集まりの軽いノリで、数十万人とも言われる犠牲者数が出ている戦争の継続支持をしている、といった印象を、欧州域外の70億人以上の世界の人々に与えてしまうリスクがある。

 西欧諸国のエリート層と付き合っている限り、悪いのはプーチンで、要するにそれだけのことだ、という雰囲気が強い。しかしそのノリで、ロシアを追加制裁で潰す、追加の特別法廷でプーチンを罰する、云々といった強い政策を、ただ欧州の間だけで発言し続けていると、どうしても西欧の外にいる人たちは引いてしまう。気づけば、あらゆる政策が、一部の西欧諸国だけで語っているだけの光景が広がっていってしまう。

 

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