1月19日のトランプ政権発足の前日に成立していたガザをめぐるイスラエルとハマスの停戦合意は、当初から脆弱で一時的なものであると見られていたとおり、早い段階で崩壊した。3月下旬からはイスラエルの「オズと剣」作戦が開始され、ガザ全域で大規模な空爆と地上攻撃が行われるようになった。現在の危機的状況は、かねてからガザを占領して封鎖しているイスラエルが、人道支援について完全停止とする食料や医療物資の供給の遮断を行ったことだ。これによってガザ全域で、飢餓の危機が広がった。急性栄養失調に陥っている人々も相当数になっている。
この状況でイスラエルは、5月16日に、新たな軍事作戦として「ギデオンの戦車」を開始し、ガザ全域への軍事攻勢を強化している。公式には依然としてハマスの壊滅と人質の解放が目的だとされるが、すでにイスラエルのネタニヤフ首相は、ガザ地区の住民を「自らの安全のために移動させる」と発言し、ガザ住民の強制移動を示唆する発言を行っている。たとえば、2025年5月5日、ネタニヤフ首相はヘブライ語のビデオメッセージで、ガザ地区での新たな軍事作戦について「ガザのパレスチナ人住民は自らの安全のために移動させられる」と述べ、住民の移動を伴う作戦であることを明らかにしている。5月19日に、限定的な人道支援を再開したが、イスラエル政府の完全管理下における非常にわずかな量の食糧供給であり、人道的危機を取り除く目的の措置ではないと考えられている。
イギリス、フランス、カナダなどがイスラエルの軍事行動に対して懸念を表明し、即時の停戦と人道支援の再開を求める声明を出した。日本も名前を連ねた。しかしネタニヤフ首相は即座に、これらの諸国をむしろ非難し、作戦を継続する意向を表明した。ガザは、1967年からイスラエルの占領下にあり、2023年10月7日のハマスの攻撃以前から、完全封鎖の状態にある。時々、誤解されている場合があるが、政策の選択肢として軍の完全駐留をしたり、封鎖だけにとどめたりしていただけで、占領していたことに変わりはない。すでにUNRWAという国連組織を敵視して活動禁止する措置をとっているイスラエルは、国連その他の外部組織による援助活動も、もはや認めていない。一部アメリカの組織が、イスラエル軍の管理下で、例外的にガザに入っているようだが、あまり意味のある事柄ではないだろう。トランプ大統領が、ガザの住民の大移住計画を披露したことを、ネタニヤフ首相は繰り返し参照しているので、それをふまえたリップサービスのようなものであると思われる。
封鎖された区域で、軍事攻撃が続いているまま、人道支援の停止が進められているわけで、住民にとっての人道惨禍のレベルは尋常ではない。23年10月以来、5万3,000人以上のパレスチナ人が死亡し、人口のほぼ全てが避難を余儀なくされたうえで、飢餓の危機にさらされていると考えられている。
私は、紛争分析から平和構築の政策の研究を専門にしている学者である。ガザも訪問したことがある。そのときに私が講演した大学は、23年10月の段階で木っ端みじんに破壊された。戦場取材をするのは私の役目ではないが、私は、ウクライナやソマリアのような戦争が続いている国の都市部や、紛争終結直後の地域などには、数限りなく訪問している。紛争の理論のみならず、歴史的事例なども、努めて勉強するように心がけている。およそ600万人が犠牲になったとされる20世紀欧州のユダヤ人のホロコーストから、数百万人単位の犠牲が出たとされる北米大陸のネイティブ・アメリカンの掃討政策など、戦争にまつわる悲惨な歴史的事例を勉強するだけでなく、まだ多数の遺体が散乱するルワンダの虐殺現場などには訪問したことはある。外国人が先住民に対して持ち込んだ悲惨な事件の事例としては、大航海時代のヨーロッパ人の来訪以降に、南北アメリカ大陸が経験した先住民の人口減少がある。数千万人の単位の犠牲を出した事例であると考えられている。大西洋奴隷貿易で奴隷として連れ去られたアフリカ人の数は、少なくとも一千万人以上と考えられている。アフリカ西岸の各地で、奴隷貿易の遺跡などを見ると、本当に胸が詰まる。
これらのいずれの事例と比較しても、現在のガザの悲惨さは、同じように人類史に残るレベルだと思う。殺害された人の数だけであれば、もちろんもっと多くの犠牲者が出た事例はある。現時点でも、世界各地で、戦争の惨禍で悲惨な犠牲となっている人々は何万人もいる。
しかし200万人以上の市民が、封鎖されて逃げ場のない場所で、軍事攻撃にさらされながら、食糧もなく飢餓状態に置かれているというのは、極めて異常な人道的惨禍のレベルである。
23年10月以来、ガザのための啓発活動にあたってきた方々は、全世界で疲弊しきっている。私自身も、5月19日のイスラエルの新たな軍事作戦以降に目にする画像や動画などで、あらためて精神的に参った状態に陥った。
日頃から紛争研究などをやっており、ロシア・ウクライナ戦争などでは実は2022年の段階から停戦の方向性などを論じていたが、ガザ危機については永久戦争になりそうだと書いていた私ですら、今は相当に厳しい。
日本には、欧米諸国と、非欧米諸国が、共同でガザ危機を憂慮するプラットフォームを構築してほしいなどとも書いていたが、今となってはそれも全て虚しい。
この状態までくると、もはや社会科学者は何の役にも立たず、宗教か哲学にすがるしかない。無力感が甚だしい。長生きなどするものではない。早くあの世に行きたい気持ちにかられている。人間は、徹底的な無力感の中でも、どうやって死ぬまでは生き続けていくのだろうか。それだけを問い直している。
国際情勢分析を『The Letter』を通じてニュースレター形式で配信しています。https://shinodahideaki.theletter.jp/ 「篠田英朗 国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月二回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。https://nicochannel.jp/shinodahideaki/