「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/ 
過去のブログ記事(『アゴラ』) http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda

 昨年8月に開始されたウクライナのロシア領クルスク州侵攻は、軍事部隊の衝突としては終了した。ロシアは、ウクライナ側に8万人近くの死者を出した、と主張している。欧米諸国が提供した兵器類の多数が鹵獲されていることは、映像資料で確かめられている。もちろん詳細は不明だが、異国の地で相当な犠牲を払って、何も得るものもなく、撤退したことは事実である。

 ウクライナ国内のみならず、ウクライナの友好国においても、この作戦について語ることはタブーとなっている。政府の責任を問わざるを得ないからだ。ウクライナ政府自身は、制圧した集落などがなくなった後も、繰り返し攻撃を仕掛けようとしているようだ。軍事的に意味のある目標は存在していない。クルスク作戦はまだ続いている、と言い続けることを目的にして、クルスク作戦を続けているような状態である。ロシアはウクライナ領に侵入して、「安全地帯」と称した緩衝地帯の設置を始めている。

 東部戦線でも昨年よりもロシア軍の進撃スピードは遅くなったと言われるが、基本的にはロシアが占領地を広げ続けている。このため、アメリカのトランプ政権が働きかけている停戦調停も、簡単には結果が出せない。時間がたてば支配地を広げられることをロシアが知っているためだ。

 紛争分析の「成熟」理論の観点からすれば、2023年春のウクライナ軍の反転攻勢で、ロシア・ウクライナ戦争の峠は越えた。ウクライナ側から見れば、本来であれば2023年のうちに停戦をしておくことが、損失を小さくするためには、合理的であった。膠着状態を作り出していたからである。現在は、膠着状態ではない。現状での停戦は、膠着状態での停戦よりも、難しい。
https://agora-web.jp/archives/241111070449.html

 ウクライナが執拗にロシア領攻撃にこだわっていたのは、膠着状態を作り出して停戦に持ち込む選択肢を排除していたからだ。「ウクライナは勝たなければならない」の大合唱の中で、冒険的な行動を繰り返し、戦況を悪化させている。

 現在は、59日にモスクワで開催される「大祖国戦争」戦勝パレードの際に何らかの攻撃があるかどうかが、大きな話題となっている。式的に参列する各国首脳がロシア入りする日程になってきたところで、ウクライナ軍は繰り返しモスクワを狙ったドローン攻撃を仕掛けている。またロシア軍高官を狙ったロシア国内の市街地での爆殺事件なども、ウクライナの犯行であることをにおわせる発言を、ゼレンスキー大統領自身が行っている。

ゼレンスキー大統領が、「ロシアが自作自演の偽旗作戦の攻撃を行うので、各国首脳はロシアに行かない方がいい」と発言したことが、物議を醸しだしている。スロバキアのフィツォ首相は、ゼレンシキー大統領に対して名指しで「他国を脅迫すべきでない」と述べた。

執拗なモスクワ攻撃の試みから得られる軍事的な効果は乏しい、と言わざるを得ない。クルスク侵攻をめぐる攻防では、明らかに資源の乏しいウクライナの側に失ったものが大きかった。それでも執拗にウクライナがロシア領への攻撃、あるいは何らかの形での攻撃、にこだわるのは、「ウクライナは勝たなければならない」の呪文に未だに束縛されているからだろう。

トランプ大統領の停戦努力により、最近ではゼレンスキー大統領も停戦拒絶の姿勢を表に出すことは控え、停戦を拒絶しているのはロシアだ、という主張を繰り返す姿勢をとるようになっている。

しかしバチカンで15分間自分と話してトランプ大統領は変わったかもしれない、といったことも口にしたりしていて、焦点が定まらない状態になっている。

ゼレンスキー大統領は以前に、ロシア領を攻撃して、プーチン大統領が全能ではないことを見せつければ、ロシア人のプーチン大統領への幻想が消滅し、厭戦気分が高まり、あるいは反プーチン運動すら盛り上がるかもしれない、といった想像を語ったことがある。残念ながら、今のところ、この想像が実現しそうな兆候が、全くない。しかしこの想像が実現するのでなければ、「ウクライナは勝たなければならない」の呪文を成就させることができないのだ。

ゼレンスキー大統領の言動を分析する者たちのみならず、アメリカ政府なども、59日にモスクワを攻撃しないように働きかけている。しかし、ウクライナ政府は、「ロシアが自作自演の偽旗作戦の攻撃を行う」という予告に終始している。

 

国際情勢分析を『The Letter』を通じてニュースレター形式で配信しています。https://shinodahideaki.theletter.jp/ 「篠田英朗 国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月二回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。https://nicochannel.jp/shinodahideaki/  

 「ポーランドはチェンバレンのように行動しない」とポーランド外相が語った、というニュースを見て、チェンバレン氏が可哀そうになった。https://www.ukrinform.jp/rubric-polytics/3985947-porandohachenbarennoyouni-xing-dongshinaishikorusuki-wai-xiang.html

 「チェンバレン」は「宥和政策」の代名詞として用いられる。ヒトラーのドイツによるチェコスロバキアのズデーデン地方の併合を認めた1938年ミュンヘン会談で、ヒトラーと向き合ったのが、当時のイギリス首相チェンバレンであった。

 俗説では、チェンバレンはヒトラーに騙されたお人好し、あるいはヒトラーが怖くて何も言えなかった腰抜けであるかのように扱われる。だが実際のチェンバレンは、ミュンヘンから戻った後「ヒトラーは狂人だ」と周囲に語り、ドイツとの対決に備えた大軍拡路線に政策の舵を切った人物であった。そして翌193991日にドイツが、独ソ不可侵条約締結時の密約にしたがってポーランドをソ連と分割併合するため、ポーランド侵攻を開始したのを見て、93日にはドイツに宣戦布告をしたのが、チェンバレン英国首相であった。

イギリスは、ポーランドのために、ドイツとの戦争を開始し、結果として大英帝国も崩壊させるまでに国力を疲弊させた。その大決断をしたのが、チェンバレン英国首相だった。

それが2025年の今日、ポーランド人にどのように扱われているか。宥和政策の権化の腰抜け扱いされている。

ポーランドのような国においても、あるいはポーランドのような国だからこそ、機微に触れる戦前・戦中の歴史の細部は捨象され、戦後の教科書の歴史観が標準とされてしまう傾向があるのだ。

現在、アメリカのトランプ政権が、ロシアのクリミア併合を承認しようとしている。これは大きな判断になる。https://shinodahideaki.theletter.jp/posts/f92dbbc0-226e-11f0-9877-e9e7e60d36f9?utm_medium=email&utm_source=newsletter&utm_campaign=f92dbbc0-226e-11f0-9877-e9e7e60d36f9

だがクリミアはミュンヘンだ、つまり宥和政策だ、と単純に断定するのは、あまりに短絡的な歴史観だと言わざるを得ない。

そもそも、仮に、クリミア併合承認がズデーデン併合承認と同じであるとしたら、単にトランプ政権は、ロシアがポーランドに侵攻しても、手を出さないだけだろう。トランプ大統領は、「チェンバレンのように行動しない」だろう。

比較をするのであれば、「チェンバレンは腰抜けだ、トランプは間抜けだ」といったレベルではなく、もう少し真面目な国際情勢の分析をふまえた比較をするべきだろう。

ズデーデン地方の帰属問題は、第一次世界大戦の戦後処理としての1919年ヴェルサイユ条約の妥当性の問題であった。クリミア問題は、ソ連崩壊の事後処理としての1991年時の各共和国の国境線の問題だ。それぞれに独特の複雑な歴史がある。1919年までチェコスロバキアという主権国家は存在していなかった。1991年までウクライナという主権国家は存在していなかった。またズデーデン地方はドイツ人が多数住み、クリミアにはロシア人(話者)が多数住む複雑な民族構成を持つ。ズデーデン地方がドイツの手に移った際には、約22万人のチェコ人が難民としてチェコ側に流出したが、戦後にチェコスロバキア領に戻った際にはドイツ人の約250万人の難民と約25万人の不遇の死者が出た。

基本的に、中欧・東欧のようなところには、民族分布とも一致した歴史的に正しい固有の国境線、と言えるようなものは存在しない。国際的に認められている国境線はあるだろうが、それはあくまでも現在有効な諸国の多数の承認行為によって支えられているという意味であって、絶対不変の線が地面の上に描かれているわけではない。「力による現状変更はいけない」というのは、だからこそ領土問題は武力に訴えず話し合いで解結すべきだ、という意味であって、絶対不変の国境線を確定させることに成功してある、という意味でもない。

現代では、「チェンバレンのように行動しない」とは、ヒトラーに「宥和政策」を採らない、とにかくヒトラーと対決し続けるのが正しい、という意味で解されている。それは、プーチンに「宥和政策」を採らない、とにかくプーチンと対決し続けるのが正しい、という意味としても用いられている。

だがミュンヘン会談の教訓とは、ただただとにかくヒトラーとプーチンと最後の最後まで戦争をする、ということしかないのだろうか。

「宥和主義はダメだ」という精神論を離れて、システム論の観点から、ミュンヘン会談の教訓を引き出すことなどは、できないのだろうか。

システム論の観点からは、ミュンヘン会談がさらなる欧州の危機を救えなかったのは、地域的な安全保障システムが欠落しており、再確立もできなかったからだ、という答えになる。

結局、ズデーデン地方とポーランドを、ドイツの手から引き離したのは、腰抜けチェンバレンがいなくなった、といった精神論の話ではない。

ズデーデン地方とポーランドを、ヒトラーが手放したのは、ソ連がヒトラーに戦争を仕掛けられた後に反撃したからであり、アメリカが日本に奇襲攻撃を仕掛けられた後に欧州でも戦争に参加したからだ。

そしてチェコスロバキアとポーランドが戦後に独立国として存在し続けられたのは、ソ連がワルシャワ条約機構を、アメリカがNATOを作り、両者で勢力均衡の考え方に基づく安全保障システムを確立して維持したからだ。冷戦終焉後は、係争が起こる前に、旧ワルシャワ条約機構からNATOに、前者の消滅を介して、配置換えで加盟することができたからだ。

もし同じような歴史を、クリミア、あるいはウクライナが辿ることができていたら、今のロシア・ウクライナ戦争の悲劇はなかった。ただし、ウクライナは、ポーランドやチェコスロバキアではない。そして相当な年月をかけても、ウクライナが、もう一つのポーランドやチェコスロバキアのような国になる可能性は、もはや非常に乏しい。

今必要なのは、精神論ではなく、こうした現実を冷静に見据えたうえで、安定的な地域安全保障のシステムを構築することだ。それこそがミュンヘン会談の教訓である。

 

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 以前に「『親露派バスターズ』と化した『ウクライナ応援団』」と題した記事を書いたことがある。https://agora-web.jp/archives/250316100338.html 

 現在は、さらに「トランプ・バスターズ」というか嫌米「嫌トランプ」に、流行が移ったようだ。立派な評論家や学識者が、毎日毎日繰り返しせっせとトランプ大統領を人格的に侮蔑する言葉を語り、書き連ね続けている。

 高関税問題で経済系の問題に飛び火したが、安全保障政策系では「ウクライナ応援団」が「嫌トランプ」派となっている傾向が強いようだ。

 かつて1970年代にドル変動相場制と米中和解と二つの意味で「ニクソン・ショック」という言葉が生まれたことがある。現在は、高関税とロシア・ウクライナ戦争の調停の二つの意味で「トランプ・ショック」が生まれているようだ。

 果たして嫌トランプ主義で、日本は「トランプ・ショック」を乗り切れるのか。

 日本は2022年以降、1.8兆円以上と言われる額の支援をウクライナに投入してきた。その背景には、同盟国アメリカの要請があり、アメリカの同盟国との結束を強めることが日本の安全保障に資するという認識があったはずだ。

 「今日のウクライナは明日の東アジア」という標語のような考え方も、人口に膾炙するようになった。だが、これは一つの技巧的表現だ。ウクライナへの支援さえしていれば自動的に東アジアも平和になる、というわけではない。
 実際には、日本にとってウクライナ支援はアメリカとの同盟関係を強化する政策だ、という認識があって初めて、ウクライナと東アジアを比較する考え方をより具体的に持てていたはずだ。

 この認識レベルの考え方は、トランプ大統領就任に伴う「トランプ・ショック」によって、打ち砕かれた。そしてトランプ大統領の就任にともなうアメリカのロシア・ウクライナ戦争に対する立ち位置の変更は、日本の主流派の識者の方々に、大きなショックを与えた。

 「ウクライナは勝たなければならない」主義の識者の方々からは、アメリカを見限って欧州と同盟関係を結んで、ウクライナ支援を強化しよう、という威勢のいい掛け声も聞こえてくる。しかし巨額の財政赤字を低経済成長のまま抱え込んでいる日本に、そのような非現実的な規模のウクライナ支援を実施できるとは思えない。

 今年2月の国連総会で、ロシア侵略非難決議が、国連加盟国数の過半数を下回る93票しか集められないという事件が起こった。3年前には141カ国の賛成票があった。同日の国連安保理では、欧州諸国棄権のまま、賛成多数で、ロシア・ウクライナ戦争の早期停戦を要請する決議が採択された。今の国際社会に、ウクライナへの軍事支援が高まっていく気運はない。

 トランプ大統領の調停努力に対しても、「嫌トランプ」派の方々の非難や侮蔑の声が大きい。だが、果たして日本は、主流派「嫌トランプ」主義の識者の方々の恨み節の主張だけで、「トランプ・ショック」を乗り切れるのだろうか。

 

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