トランプの七カ国出身者入国禁止大統領令に対してワシントン、ミネソタ両州が行った提訴に対して、ワシントン州シアトルの連邦地裁が全米を対象に差し止めを命令し、トランプ政権をめぐる事態はさらに流動化してきた。
 違憲であるかどうかは、大統領令が、合衆国憲法修正第1条「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律・・・を制定してはならない」、に抵触するかどうかにかかっている。トランプ政権側も、今回の措置が一時的なものであるという説明は行っていた。実際のところとしては、行政府側のほうが、宗教・国籍による全面的差別には該当しないことを明示する追加措置を導入し、事態収拾のための行動を早期に適切にとっていけるかどうかを政治的に問われている事態だと言えるだろう。
 それにしても日本人の目には異様に見える行政府と司法府の対立だが、アメリカの国制や風土を差し引いて考えるべきところはあるだろう(もちろんトランプ政権の政策が前例のない拙速さで導入されたことは間違いないのだが)。
 昨日のブログ記事で、「ジャクソン主義者」としてのトランプ大統領の理解を紹介した。その観点から、今回の騒動を見るならば、ジャクソン大統領(在職1829年~1837年)が「Worcester v. Georgia」事件(1832年)の最高裁判決後に言い放ったとされる「John Marshall (最高裁首席判事)has made his decision; now let him enforce it.」が思い出されるだろう。
 1830年代に、ジョージア州は、同州北部のアメリカン・インディアンCherokee 部族を取り除こうとしていた。ジャクソン大統領も同調していた。しかし合衆国最高裁は、インディアンを「外国民族(foreign nation)」と認定し、ジョージア州法の適用を無効と宣したのであった。ところがこの最高裁判決は、結局厳格に適用されることなく、ジャクソン大統領は1830年「Indian Removal Act」に基づく強制移住を執行し続けた。
 この時代の有名な合衆国最高裁判事に、ジョセフ・ストーリーがいる(在職1812年~1845年)。ストーリーは、ジャクソニアン・デモクラシーに敵対的で、より伝統的な合衆国憲法解釈を信条としていた。同時に、スペイン籍の奴隷船「アミスタッド号」で反乱を起こしたアフリカ人奴隷たちが裁かれた「アミスタッド号事件」で、もともとの誘拐が違法であったため奴隷は無罪かつ自由である、とした最高裁決定でも、重要な役割を演じた。
 私個人は、ストーリーの大著『Commentaries on the Constitution of the United States』(1833年)には思い入れがある。この19世紀における最重要の合衆国憲法に関する注釈書は、18世紀イギリス憲法の最重要注釈書であるWilliam Blackstone『Commentaries on the Laws of England』とともに、LSEの国際関係学部の博士課程学生だった私に、ある種の衝撃を与え、博士論文の構想を固めてくれたものだった。Ph.D.論文で「constitutional sovereignty」という概念を「national sovereignty」と対置させることを思いつかせてくれたのは、BlackstoneとStoryだったと言っても過言ではない。その私のPh.D論文は、内容を整理してMacmillan社から『Re-examining Sovereignty』(2000年)の題名で公刊したが、日本語の『「国家主権」という思想』(2012年)(サントリー学芸賞)にもつながっている。
 伝統的な合衆国憲法の解釈とは、たとえば「分割主権(divided sovereignty)」論によって象徴される。ストーリーは、ヨーロッパにおける「主権」の概念は、合衆国には存在しないと断言した。そのうえで次のように述べた。「国家(the state)―それによってわれわれは国家を構成する人民を意味するのだが―は、その主権権力を様々な機能に分割するかもしれない。そして各々は、制限的意味において、各々に限定された権力に関する限り、主権者であり、その他の場合には従属的である。厳密に言って、われわれの共和制政府においては、国家(the nation)の絶対主権は国家の人民に存する。各国(州)の残余的主権は、いかなる公的機能にも委ねられていないならば、各国(州)の人民に存する。」(Joseph Story, Commentaries on the Constitution of the United States [Boston: Little, Brown, and Company, 1891], first published in 1833, p. 152.)
 9条解釈から立憲主義それ自体の定義に至るまで、すべて「国民が主権者である」という「憲法制定権力」者絶対説といっていいテーゼを振りかざすことによってしか日本国憲法解釈を行うことがない日本の数多くの憲法学者にとってみれば、ストーリーらアメリカ人による分割主権論や、19世紀イギリスのブラックストンらによる「絶対主権論の例外」としてのイギリス混合政体による主権共有論は、全くの異端であり、ほとんど「反知性主義」的なものであるかもしれない。だが、それらこそが、アングロ・サクソンの世界の正統な立憲主義である。
 トランプの「ジャクソン主義」は、19世紀のジャクソンがそうであったように、今後も様々な摩擦を司法府と繰り広げるだろう。日本の憲法学者であれば、「国民主権」を振りかざして、両者の調停に乗り出したいかもしれない。日本の憲法学者であれば、「国民主権」の絶対性によって行政府と司法府の間の摩擦を統一的に理解しようとしないアメリカ人を、「反知性主義者」だとさえ思うのかもしれない。しかし、アメリカでは、そのような絶対的な単一的存在の主権者は存在しない。
 合衆国憲法においては、立憲主義とは、自己制約であり、チェック・アンド・バランスのことである。確かに、それはいずれ南北戦争のような危機を招きかねない憲法システムであるかもしれない。しかし、いずれにせよそれは、「絶対国民主権主義」ではない。それは彼らが「立憲主義(Constitutionalism)」という概念で理解する何ものかなのである。