「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2017年06月

 稲田朋美防衛大臣の「自衛隊としてお願いします」発言を見て、私は、自分自身が6月20日に書いたブログ記事を思い出した。「自衛隊員の立場を勝手に代弁するのはルール違反ではないか」という題名を付した記事だ。http://agora-web.jp/archives/2026715.html
 朝日新聞の対談において長谷部恭男・早稲田大学教授(元東大法学部教授)が、安倍首相は「改憲の道具として自衛隊利用」をしているので「自衛官の尊厳がコケにされている」と発言しているのを見て、私は「気分が悪くなった」。
 私が「気分が悪くなった」理由は、見え見えの子供だましの話しぶりで、自分の政治的立場を正当化するために、勝手に「自衛官の尊厳」なるものを振りかざし、自分自身が自衛隊を政治利用していることに、全く良心の呵責を感じていない様子である言論人を見た気がしたからだ。他人=権力者は、自衛隊を政治利用してはいけない。しかし憲法学者なら、自衛隊を政治利用してもよい。といわんばかりの法技術論に、「気分が悪くなった」。
 素朴に見て、5月3日の安倍首相の発言のほうが、品が良いと思う。安倍首相は、次のように言っていた。

今日、災害救助を含め命懸けで、24時間365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任です。

 この発言の姿勢は、いわば自衛隊員に「なりすまし」て、勝手に自衛隊員を代弁しようとしたりする態度とは、違っていると思う。自衛隊員を統括する最高責任者として、部下である自衛隊員の憲法上の位置づけを明確化したいという思いを吐露した上で、その思いを共有してほしいと国民に求めるため、改憲案を政治的議題として世に問うことを表明した。政治家としてまっとうな姿勢ではないだろうか。
 イデオロギー的・政策的な評価は別にして、安倍首相が、少なくとも政治家として持つべき基本的な素養を持った人物であることは、稲田大臣の「失言」との比較では、明らかになったような気がする。
 稲田大臣の態度は、大臣としての地位を自民党のために「政治利用」して、自衛隊員に「なりすまし」、勝手に23万自衛隊員を特定政党への投票行動のレベルで独断的に代弁したものだ。権力を逆手にとった狡猾な「政治利用」以外の何ものでもない。憲法学の最高権威としての社会的権力を逆手にとった狡猾なやり方で自衛隊を「政治利用」しようする憲法学者と、大差ない。
 自衛隊に対する日本社会における評価は非常に高い。東日本大震災における献身的な姿勢などもあり、日本社会において圧倒的な尊厳を持つ組織体になっていると感じる。私自身も、平和構築関連の調査・会議・研修・講演等の様々な機会にお付き合いをさせていただいており、素朴な尊敬の念は持っている。彼らは、社会的尊重を受けるべき人々である。
 だが、だからこそ、自衛隊員の「政治利用」には、敏感になりたい。大臣なら「政治利用」していいというものではなく、憲法学者なら「政治利用」していいというものでもない。
 自衛隊員の「主たる任務」は、「 我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。」(自衛隊法第三条)だ。自衛隊員を尊重するということは、彼らがこの「任務」が重要な任務であると信じ、危険を顧みず、その任務の遂行にあたる準備を日々整えている人々だ、という事実を尊重するということだ。
 自衛隊法は、その他、周辺地域における我が国の平和及び安全の確保に資する活動」や「国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」を、「任務」として掲げている。要請にもとづく「災害派遣」も可能としている。私は、自衛隊員を尊重することとは、これらの任務を遂行する専門人として尊重することだ、と思っている。余計な修辞や浅薄な感情論は、一切いらない。任務を信じ、任務を的確に遂行する「プロ」として尊重することが、自衛隊員を尊重することだ、と思っている。
 自民党に票を入れるかどうか、憲法学者を支持するかどうか、そんな低次元なことは、どうでもいい。彼らが「任務」を遂行する「プロ」であるという事実の尊重が、彼らへの尊敬の根源であるべきだ。
 僭越ながら、私は、学者として、尊重されたい。プロの学者として、自分自身の社会的価値を認められたい。私が、どの政党に票を入れるか、護憲派であるかどうか、そんなことで評価されたくない。だから、自衛隊も、そのように尊重したい。
 南スーダンPKO派遣時には「自衛隊員が可哀そうだ」といった無数の勝手連自衛隊員代弁者が生まれた。「私は自衛隊員だ」のような悪質ななりすましとしか思えないような言説が、無数にとびかっていた。私の個人ブログですら、「(自称)自衛隊員」なる人物から、「私は自衛隊員です、あなたの言説を否定します」、のような匿名投稿コメントを受けたことがある。http://shinodahideaki.blog.jp/archives/14804753.html#comments
 改憲議論が沸騰するにつれて、さらにまた「私こそが自衛隊の気持ちを代弁している者だ」「何だと、俺こそが自衛隊の尊厳を守ろうとしている者だ」「私は自衛隊員(なりすまし)だ、お前は黙れ」、といった言説が、さらにいっそう数多く飛び交っていくことは、必至である。大臣も、憲法学者も、右翼も左翼も、入り乱れて、「我こそが真正な自衛隊員代弁者(なりすまし者)だ」、という言説が、あふれかえっていくのだ。
 私自身は、そのような事態を想像するだけで、気分が悪くなる。
 自衛隊を尊重する、とは、どういうことか。任務を遂行するプロとして尊重するということだ。勝手に自衛隊員を政治利用してはいけない、ということだ。改憲議論の行方がどのようなものであろうとも、発言者は、勝手に自衛隊を政治利用することなく、自分自身の言葉、思想、責任で、語っていくべきだ。
 今後も、自衛隊員「なりすまし」ご都合主義者の言説には、気を付けていきたい。

 自民党の全国会議員を集めた憲法改正推進本部の会合が、昨日開催されたという。現在、自民党内の議論は、安倍首相の自衛隊合憲性明記を追記する提案と、石破茂・元幹事長の9条2項削除論の意見が、対立軸になっているように見える。
 私自身は、6月12日に、自民党の憲法改正推進本部のお招きを受けて、話をさせていただいた。私の話が終わるや否や、真っ先に手を高々とあげて質問をしてくださったのは、石破・元幹事長であった。非常に熱情こもる話しぶりであり、真面目さが伝わった。
 私は石破・元幹事長の現行憲法理解には全面的に賛同する、と申し上げた。また改憲案としての2項削除案は綺麗な案であることは間違いないと述べた。ただ自分自身は、自衛隊の合憲性明確化は早期に確定したほうが良いと考えるので、争いが少ないだろう首相提案のままでいいのではないかと思っている、と述べた。
 以前に書いたブログ記事では、首相案のまま提案するのか否かは、「政治判断だろう」、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2025987.html
 ちなみに私は、やはり以前のブログで、「護憲派は改憲案に賛成すべきだ」、という意見を書いた。http://agora-web.jp/archives/2025881.html
  しかし、残念ながら、実際には、改憲に賛成する護憲派はいないようである。それどころか、護憲派は、「政治判断」以前のいわば誤解を広めて、何としても改憲を阻止しようという政治運動を展開する構えのようである。
 健全な論争は、もちろん望ましい。しかし政治運動を優先させて、誤解、あるいは意図的な問題のすり替えを広めようとするのは、邪道である。そこでまずは、扇動主義の蔓延を少しでも防ぐための解説を施しておきたい。

<ポイント1:但し書きは一般条項に優越する>
 自衛隊の合憲性を明記する9条3項(9条の2が良いという見解もあるようだが、ここでは便宜的に新設の3項と仮に呼んでおく)は、2項に対する但し書きになるはずである。「特別法は一般法に優越する」のが法解釈の大原則である。したがって但し書きは一般条項に優越する。つまり但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する。但し書きを作っても、なお2項で「戦力」が禁止されているので矛盾が残る、といった議論は、端的に間違いである。
 巷では、首相案では、9条に自衛隊禁止規定と合憲規定が混在して混乱してしまう、などと言っている憲法学者がいるが、全く成り立たない。2項が自衛隊を禁止しているという理解が生まれる余地を消し去るのが、新設3項の但し書き規定になる。但し書きがあっても2項があるので自衛隊は禁止され続ける、といった話を流布しようとしている憲法学者は、法学者というよりも、混乱の拡張を狙う政治運動家だ、と言わざるを得ない。
 英文で「Force」が2項で禁止されているのにSelf-Defense Forceが合憲化されるのはおかしいとか、自衛隊をしっかり軍隊にしないと自衛隊員が可哀そうだといった「自衛隊員なりすまし」式の言説も見かけるが、議論としては全く成り立たない。2項で禁止されている「War Potential」としてのForceに、自衛隊というForceが該当しないことが、但し書き規定によって確定されることになるはずだ。同じForceという語だと曖昧だという話は、現在の状態に対する評論ではありうるかもしれないが、新設但し書き3項案への批判としては成り立たない。また現時点でも、「実力組織」としての自衛隊は、Militaryとしての軍である。軍隊にしてやらないと可哀そうだといった議論は、現状でも成り立っていない。どうしてもということであれば、新設3項の但し書き規定に、自衛隊は2項で禁止されている戦力ではない「軍隊」だ、ということをしっかり明言すればよい。
 9条2項の「戦力」概念は、日本国憲法特有の法律概念であり、そのような概念として理解しなければならない。「僕は戦力という言葉をこう考えています」「私は戦力という言葉を聞くとこういうことを想像します」といったレベルの話は、憲法解釈論とは言えない。まして新設の但し書き3項が作られた後でも、「とにかく、何が何でも僕は戦力という言葉をこう解釈するので、憲法典が但し書きで何を言おうとそんなことは知ったことではない」というレベルの言説に固執しようとするのは、少なくとも憲法解釈の議論とは言えない。
 これもやはり以前のブログで書いたが、http://agora-web.jp/archives/2026481.html 但し書き3項が設定されれば、2項で禁止されている「War Potential」という「戦力」が、侵略戦争などの国際法違反を犯すための「戦力」であるという解釈が確定することになるはずだ。なお私自身は、この解釈は、しっかりと前文から日本国憲法を精読すれば、現在であっても自然に見えてくるはずの解釈だとも考えている。

<ポイント2:但し書き追加に反対するのは政治的立場である>
 以上をふまえると、但し書き3項によって自衛隊の合憲性を明確にする提案に反対する立場は、法的見解をめぐる立場ではない、ということが判明する。それは、自衛隊の合憲性を明確化することに反対する、という政治的立場のことである。仮に、その立場をとっている者の職業がたまたま憲法学者である場合でも、そういう立場をとるという判断は、政治的立場をめぐる判断である。

 ここまでをふまえたうえで、次に2項維持案と削除案を比較すると、次のようになる。

<ポイント3:維持案のメリットは解釈の安定性にある>
 2項を維持する案は、「戦力ではない自衛隊」を明確化するという案である。言うまでもなく、従来の政府見解は、自衛隊は2項の「戦力」ではない、というものであった。したがって維持案のメリットは、従来の政府の立場を変更するコストを防ぎながら、自衛隊の合憲性を文言の上で明確化できることにある。従来の政府見解との整合性や、新たな位置づけを与えられる自衛隊を確立し直すコストを回避したいのであれば、維持案がよい。

<ポイント4:削除案の意味は自衛隊の再構成にある>
 上記のメリットは、立場を変えると、デメリットになる。「戦力ではない自衛隊」という位置づけに不備を感じる場合に、2項を削除すべきだという意見になる。従来の政府見解を正すのであれば、2項を削除することが、わかりやすい。自衛隊を新たに国防軍として位置づけし直すのであれば、2項の制約はないほうが望ましいということになる。2項削除案のポイントは、現状の変更を恐れずに自衛隊の位置づけを再構成して国防軍の設置を求める、ということである。

  619日付『朝日新聞』の長谷部恭男・早稲田大教授と杉田敦・法政大教授との間の「対談」を読んだ後、気分が悪くなった。なぜだったのか、一晩寝かしてから、もう一度考えてみた。

 「安倍政権マフィア化」という品のない題名も、ハッとはする。政権は個人攻撃をしているからマフィアだと言いながら、首相の個人攻撃に終始する記事を載せているのは、同じ学者として、暗澹たる気持ちになる。が、ここ数年の政治運動の仕組みを考えれば、特に今さら驚くほどのものではないのかもしれない。

 気分が悪くなったのは、自衛隊に関する記述部分だ。「改憲の道具として自衛隊利用」という見出しの欄で、長谷部教授は、次のように述べた。

 

「自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。」

 

 ここでは自分は自衛隊員を尊重しているが、首相はコケにしている、という文脈だ。自己説明では「俺は言っていない」ということだろう。だがそうであれば、首相もまた「俺はそんなことは言っていない」と思うに決まっていることは当然だろう。論争相手の尊厳を一切認めず、誹謗中傷だけを繰り返す、「子どものケンカ」である。

 しかし何と言っても「子どものケンカ」の題材に、「自衛官の尊厳」なるものを、勝手に持ち出し、あたかも自分こそ自衛隊員の立場を代弁しているかのように振る舞う態度が、私の気分を悪くさせた原因だ。

これは禁じ手だと思う。というのは、憲法学者が、自衛隊員自身が発言を行うことを憲法違反として禁じているからだ。自衛隊員が自ら何かを言うと、一斉に批判の声を上げ、黙らせようとする。その上で、自衛官のことを本当に代弁しているのは、私、憲法学者であるという話を、全国紙を通じて流布しようとする。ルール違反ではないだろうか。

 

  1. 自衛隊員が、憲法改正を含めて一切の政治事項について発言するのを、「違憲だ」とまで表現して、禁止する。

  2. 次に、「首相は自衛隊をコケにしており、自衛隊員を尊重しているのは憲法学者だ」と主張する。

  3. さらに、全国紙を通じて自分の政治的思想を「自衛官の尊厳」の名で広める政治運動を展開する。

 

 憲法学者は、こういった論理構成に慣れている。「主権者・国民」こそが絶対的で、政府を常に制限するのが国民だと主張しながら、ただし「国民」は何も発言しないので、憲法学者のコミュニティが学会の多数派意見で「国民」の一般意思の内容を決める、と言う但し書きをつける。こういった発想を常識とする人々だけのコミュニテイに、数十年も浸かっていると、その論理の奇妙さに気づかなくなるのだろう。

 改憲に反対したり、首相が嫌いだと言ったりしたいだけなら、ただ「私は改憲に反対する、首相は嫌いだ」、と発言すればよい。そのうえで、自分の主張の根拠について、相手の論拠にも対応した精緻な学術的な議論を提供することに努力を払うように心がけるべきだろう。

自衛隊員の発言を違憲として禁止するのであれば、勝手に自衛隊員の気持ちを代弁するのも違憲に等しいと考えるべきだ。学界で最高権威を持つ憲法学者であれば、代弁しても許される、それどころか立憲主義の進展につながるのだ、といった発想には、私は根拠がないと思う。

 安倍内閣の内閣支持率がだいぶ下がったということで、各方面でニュースが流れている。なぜ安倍内閣の支持率は下がらないのか、と問い続けてきたメディアが、ついに安倍政権の限界が露呈した、とほとんど高揚しながら、伝えている。

 一部報道では、やはり高揚感のある野党政治家の動向を伝えるものがある。しかし近視眼的なメディアの場当たり的な雰囲気に乗せられるのは、どうかしている。良識ある野党政治家は、冷静に事態を見守り、しっかりと仕事をしてもらいたい。

 政治家は、実現したい政策を実現するために政治家をやっているはずだ。ただ単に現下の内閣支持率が下がったといって喜ぶ一部の野党政治家のあり方は、理解に苦しむ。たとえ内閣支持率が変わらなくても、自分の掲げる政策に関する理解が広まったときに、喜びを感じるのが政治家のあるべき姿ではないか。

 実現したい政策があるのなら、選挙に勝ちたいと思うのは、当然だ。勝つために戦略的に動くのが、当然だ。つまり次の選挙で過半数を獲得するために、選挙区割だけではなく、時間軸をとって効果的な世論喚起の方法を計算し、さらに幾つかのオプションを比較較量したうえで、日々検証しながら、現在の政策的立場を表現していくことが、当然だ。ところが、日本の野党は、そういう当然のことをやっているように見えない。

世間の人々は、戦略を持って、日々の仕事に従事している。戦略を持っていない人に尊敬の念が湧かないのは、当然だ。

 強行採決を演出しようとするのも、無理がある。コンセンサス方式への信奉に訴えようとする態度は、国対政治ボケである。

そんなことよりも、政権獲得したらどういう政治をするつもりなのかを表明し、与党より優れたことを言っているという印象を国民に与えるために、審議の機会を活用すべきだ。

野党が広告代理店を雇っているといった話も聞くが、実績のある経営コンサルタント会社などを雇って成長戦略を作ることにもう少し力を入れたほうがいいのではないか。

 日本の議会政治の行方には、野党が持っている責任が重い。

 冷戦時代に「保守/革新」と呼ばれていた左右対立は、いつのまにか「保守/リベラル」と名前を変えただけで、現在もなお終わりなき延長戦のようなことを続けている。「強行採決の暴挙に反対する!」云々と、時代がかった罵声も、あまりに見慣れたものになってしまった。国内スキャンダルであるかもしれないニュースの内容も、「一極支配を打破せよ!」という対立構図で、かき消されてしまう。
 冷戦は良かった、と言う人はあまりいないだろう。だが冷戦時代の頃の日本は良かった、と思っている人があまりに多いことには、時々驚かされる。それが日本なのか。独特な社会的雰囲気が、21世紀の現代にも日本の独特な政治文化を維持し続けている。
 10日ほど前、拙著『集団的自衛権の思想史:憲法九条と日米安保』に、読売・吉野作造賞を与えていただけることを、読売新聞と中央公論の紙上で発表していただいた。数多くの方々からお祝いの言葉をかけていただいた。時代の状況の中で書いた本であっただけに、お世話になった方々への感謝は募る。
 同時に、何人かの方々からは、「いよいよ篠田さんにも人格攻撃が始まるんじゃないか」などと忠告めいたことを言ってくださった。「要するに篠田なんていうのは〇〇だ・・・」という一刀両断式の批評をされるよ、ということらしい。まあ、あくまでも私などに批評されるほどの価値があれば、という前提での話だが・・・。
 私はかつて、朝日新聞社の「大佛次郎論壇賞」を『平和構築と法の支配』という国際政策研究で、「サントリー学芸賞」『「国家主権」という思想』という国際思想史研究でいただいたことがある。確かに、その時と比べると、私自身もあまり「お祝い」といった気分に100%浸れない気がしている。本の内容に同時代の論者への批判が含まれていることが一つ。自分の政策的立場が日本で推進されている気がしないのが一つ。
 読売新聞のインタビュー記事では、「護憲派」でも「改憲派」でもない、いわば「国際派」だと書いておいてもらいたい、とお願いした。ご親切にも、そのように書いてもらった。しかし果たしてそれを読んでピンときた読者がいただろうか。自分で紙面を読んでみると、読売新聞に悪いことをしたような気がした。「その国際派っていう少数派閥、日本に何人くらいいるんですか?」、というようなものだろう。
 先週15日、PKO協力法が25周年を迎えた。私は1993年にPKO協力法にもとづいてカンボジアの国連PKOに派遣してもらい、6週間ほど選挙関連業務にあたらせていただいたことがある。その後に書いた体験記は、ひそかに翌年の大宅壮一賞の候補作に入れていただいていた。その『日の丸とボランティア』という題名の(今は絶版となっている)書物の冒頭を、24歳の私は、次のような文章から始めた。
 
「僕は1968年に生まれた。その年の5月、パリでは学生たちの革命が起こった。・・・日本でも学生運動の嵐が吹き荒れ、翌年に安田講堂に籠城した者たちが東大の入試を中止させた。だがその一方で、日本はGNPで西側第二位の地位を獲得していた。・・・だから僕の属する世代は、戦前や戦後と格闘したことがないだけでなく、そうした格闘を見たこともない。自分が右にいるか左にいるかと考えたことがないだけでなく、右と左の対立図式を破壊しようとしたこともそこから逃げようとしたこともない。・・・僕が・・・大学を卒業したのは1991年だった。・・・」

 思えば、24年後の今、あらためて自分自身の言葉について考えているような気がしている。あの当時、24年後の日本でも、ここまで硬直した左右対立が残存し続けていると言うことを予測できていたわけではない。
 私が大学で日常的に接している学生たちは、冷戦後の世界だけしか知らない世代である。学部の学生であれば、もうすぐ21世紀生まればかりになり始める。冷戦期へのノスタルジアやその反発の言説を垂れ流しながら、彼らと接していいはずがない。
 だがそうだとすれば、この国にとって、冷戦後の世界は、どんなものなのか。あらためて、問い直していかなければならないような気はしている。

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