「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2018年05月

 木村草太教授の『自衛隊と憲法』では、第1章が「国際法と武力行使」と題された国際法の話になっている。それをあえて第1章に持ってきたのは、「集団安全保障や個別的自衛権・集団的自衛権の概念そのものを悪者扱いするのは妥当ではありません」とまず言っておきながら、すぐさま、「(それらを)正当化する根拠は、とても濫用されやすい、危険なものである点に注意が必要」という警告で留保するためだっただろう(37頁)。
 木村教授は、回りくどいやり方をとるだけで、結局は、国際法を無視することを提唱する。
 「国際法は、国内法と違って、それを強制執行する仕組みが未発達です」(37頁)、という典型的な「国内的類推(domestic analogy)」の言い方をする。http://agora-web.jp/archives/2031774.html そして次のように言って、国際法に関する章を結ぶ。

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国際法上の権利濫用を防ぐためには、各国で、武力行使を厳密にコントロールし、国際法違反を防ぐ憲法・法律、行政上の仕組み、司法システムを整えなくてはなりません。そこで、次に、日本国憲法の武力行使の統制についての規定を見て行きましょう。(37頁)

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 そう言ってから、木村教授は、もう国際法の話に戻ってくることはしない。延々と憲法は集団的自衛権を否定している、といった話をするだけである。
 
これは少しおかしな態度ではないだろうか?
 
たとえば「表現の自由」が濫用されたと言って嘆く人が、「そこで私は自分自身に表現の自由を行使することを禁止する」と宣言し、一生涯無言で過ごすとしたら、どうだろう。周囲の人々は、「素晴らしい理想家だ」といって賞賛するだろうか。むしろ「なんか、あの人、勘違いしているよね」、と思うだけではないだろうか。権利の行使を禁じることでは、自分が濫用する可能性を滅することはできるかもしれないが、他人の濫用を防ぐことも、濫用に対抗することもできないし、そもそも権利を保障している自由な社会を発展させることはできない。
 集団的自衛権の意義を認め、ただ濫用の危険性だけを心配するのであれば、正しい集団的自衛権の行使方法を実現するように国内法を整えるのが、当然の措置だ。集団的自衛権の行使を全て禁止するといった方法は、侵略行為への対抗手段を保障して国際法秩序を維持しようとする国際的な努力を無視することに等しい。
 木村教授は、集団的自衛権は、「組織法」と「作用法」の二つの観点から、違憲だと述べる。前者が、憲法に授権規定があるか、後者が、憲法によって禁止されていないか、という審査だという。
 
後者をめぐる木村教授の議論は、「軍事権」に関する問題とあわせて。後に述べることにしたい。今回は、集団的自衛権を根拠づける規定が憲法にはない、という木村教授の主張について取り上げる。
 
木村教授は、憲法73条で列挙されている内閣の活動に、集団的自衛権が含まれることはない、と主張する。なぜなら集団的自衛権が、日本の領域内で「国内統治作用」として行われるものではないから、だという。
 
それではなぜ、外交官でもない国家公務員が海外の会議に出席するのは違憲にならないのか。ソマリア海賊対策でジブチに基地を持って自衛隊が海賊対策を行うのは違憲にならないのか。なぜ木村教授は、国連PKOに参加する自衛隊員は、「外交関係を処理すること」をしているにすぎないといった大胆な主張をすることに躊躇しないのか。
 
なぜ木村教授は、たとえば、憲法には「海洋法」における「公海」上の「航行の自由」などを根拠づける規定がない、「公海」は憲法が授権することができない「国内統治作用」を超えたものだ、したがって「航行の自由」を行使することは違憲だ、などと主張しないのか?あるいは「航行の自由」は「国内統治作用」なのか?
 
もし木村教授が「国内統治作用ではありません」と宣言すると、憲法61条・73条に基づいて内閣が締結し、国会が批准した条約であっても、憲法982項にしたがって「誠実に遵守する」対象とはみなされなくなるというのは、どういう憲法理論なのか。
 
日本が主権回復を果たした際の1951年サンフランシスコ講和条約は、「日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認」している。同時に締結された日米安全保障条約も、日本が「国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」した。翌年に日本の国会は国連憲章を承認し、日本の加盟申請は1956年に認められ、51条で集団的自衛権を定める国連憲章それ自体が、正式に日本国憲法982項が「誠実に遵守すること」を求める対象となった。
 
これらの条約は、全て憲法が定める正式な手続きにそって締結・批准され、国内統治作用の仕組みにそって、憲法が「誠実に遵守」することを求める対象となった。あとは国境を越えた活動になる場合に、管轄権を持つ国の同意を得て、国際法上の要件を満たせばよい。攻撃された国の同意があって初めて行使される集団的自衛権も、全く同じはずだ。
 
もっとも執行に関する手続きが法制化されていなければ、実際には内閣は執行することができない。自衛権に関する事柄だけでなく、あらゆる条約について、国内法上の執行手続き規定が必要とされる。憲法73条を適用するためだ。
 
現在の日本では、2015年安保法制で認められた範囲内でしか、集団的自衛権を行使できない。安保法制を超えた範囲が違憲だからというよりも、まずは執行手続きを定める通常法がないためである。逆に言えば、安保法制の範囲内の活動は、憲法731項の「法律を誠実に執行し、国務を総理する」という規定にもとづいて、内閣が執行する。
 
木村教授の場合、安保法制は違憲なので、731項は適用されないだろう。ところがなぜ憲法は集団的自衛権を認めないのかと言えば、73条に該当規定がないから、だという。
 
論理の前に結論があるトートロジーだと言わざるを得ない。
 なぜこのようなことが起こるのかというと、木村教授が初めの一歩から、「国際法上の権利濫用を防ぐため」、国際法上の権利を否定する、という錯綜した態度をとるからである。私に言わせれば、このような態度は、日本国憲法982項違反である。

<続く>

 木村草太教授の新刊『自衛隊と憲法』(晶文社)は、「憲法と自衛隊の関係について、適切に整理」し、「改憲論についても、ポイントを解説」したものだという(67頁)。確かに、他の木村教授による著作と比べると、穏便な文章になっている印象は受ける。それでも繰り返し「理性的・合理的な議論からは程遠い」「現在の憲法を理解しない人々」を、「有害無益」と断じていく姿勢は、随所で健在だ(6頁、143頁)。メディア関係者らのためのガイドブックであると紹介されるが、結局は木村教授の主張が一方的に提示される。
 内容面で言うと、同書では、このブログですでに私が木村教授らの議論の問題点として指摘した諸点が列挙されている。私としても、あらためて問題点を整理してみるにはいい機会かもしれないとも思う。複数あるので、何度かに分けて書いていきたい。
 まず取り上げたいのは、集団的自衛権の扱いである。木村教授は、数年前の安保法制成立の際の喧騒時に、『報道ステーション』などのメディアともかかわりながら、集団的自衛権違憲論を展開した人物である。http://agora-web.jp/archives/2032093.html だが木村教授は、「(2015年安保法制の)集団的自衛権の限定容認についても、合憲的に解釈する余地はあります」(115頁)とも述べる。ただし「存立危機事態条項は、憲法九条違反である以前に、そもそも、漠然、不明確ゆえに違憲」だともいう(125頁)。
 集団的自衛権は、範疇として常に違憲だが、しかしときどきは合憲で、結局は法律が漠然としているから違憲だという。
 
私は二年前の拙著『集団的自衛権の思想史』で次のように書いたことがある。

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木村草太・首都大学東京教授は、2014年に集団的自衛権行使を容認する閣議決定が出た際には、これは合憲だという主張をしていた。「憲法学者として七・一閣議決定の中身を見ると、『従来の解釈と完全に整合している』と読むことができる文章にはなっていると思います。公明党議員の方々が、与党協議でかなり頑張ったということでしょう」と述べ、「個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認めたものであり」、「日本国憲法の枠内に収まっていると評価」していた。違憲であるはずの集団的自衛権も、個別的自衛権と重なっていれば合憲になるという立場であった。ところが、その木村教授は、長谷部教授が安保法案は違憲だと明言し始めた頃には、安保法案違憲論を声高に唱えるようになっていた。やがて、「たいていの憲法学者が憲法違反と言っていますし、国民の間でもそのことが理解され、『憲法違反だと思う』というような回答が世論調査で多数を占める状況になっています。したがって、法案が憲法違反であるという点は決着がつきました」、と断言するようになった。・・・

たとえば、個別的自衛権と集団的自衛権が重なる部分があり、その部分において、集団的自衛権の違憲性が優越せず、個別的自衛権の合憲性が優越する、という理論をとってみても、それ自体として新しい理論であり、議論の余地があったはずだ。少なくともそのような見解を、過去に日本政府が示した経緯はない。200378日に民主党の伊藤英成・衆議院議員は、小泉内閣に対して提出した「内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問主意書」において、個別的自衛権と集団的自衛権は重なるのか、重なる場合にはどちらが優越するのか、という質問を行っていた。これに対して同年715日に小泉純一郎・内閣総理大臣名で提出された「答弁書」は、個別的自衛権と集団的自衛権の「両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別される」、と返答していた。そのためこの答弁書においては、両者が重なる場合にはどうなるのか、という質問に対する回答はなされなかった。

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 木村教授によれば、個別的自衛権と集団的自衛権は「行使要件が異なる別々の権利」(33頁)だが、「個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認め」ることができる。
 
木村教授は、「政府解釈や憲法体系を全くと言っていいほど理解していない」人々を嘆いている。その一方、木村教授は、個別的自衛権と集団的自衛権は「明確に区別される」という上記の政府答弁は無視して、二つは重なることができ、重なると「合憲的に解釈する余地」が生まれる、と主張する。
 
控えめに言って、わかりにくい主張である。どういうときに、どういう正当化事情で、個別的自衛権と集団的自衛権が重なり、どうして前者が優越して合憲となるのか。木村教授が学術論文を書いて丁寧に説明した気配はない。
 
そもそも一方が違憲であり、他方が合憲である二つの事柄は、どのようにして「重なる」ことができるのか?少なくとも個別的自衛権と「重なる」と集団的自衛権は合憲になりうるとすれば、どうやって集団的自衛権を一つの範疇として常に違憲だと断言できるのか?
 
木村教授は、安保法制の文言に関して、「存立危機事態とは、『外国への武力攻撃が、同時に、日本への武力攻撃の着手である事態』を意味すると理解するのが文言上は自然です」(123頁)、といったことを述べる。「重要な答弁がなされています。・・・公明党の山口那津男代表は、『武力攻撃事態等と存立危機事態が私はほとんど同じなのではないか、ほとんど重なるのではないかと思う』と指摘しました」(125頁)などとも述べる。
 
しかし「存立危機事態」や「武力攻撃事態等」といった概念は、あくまでも日本の国内法制上の概念である。それらが常に必ず集団的自衛権と個別的自衛権と同じものを指しているわけではない。
 木村教授は、「存立危機事態」と「武力攻撃事態等」という国内法上の概念の「重なり」を、集団的自衛権と個別的自衛権という国際法上の概念の「重なり」と誤認しているのではないか?
 集団的自衛権で説明するのか、個別的自衛権で説明するのかは、国際法の観点から決定すべき話であり、日本の憲法学者が「集団的自衛権容認よりも個別的自衛権拡大解釈で説明した方が好都合じゃないか」、と思うかどうかで決めていくべき話ではない。
 
そもそも憲法にそった説明であれば、まず憲法上の言語を用いて、違憲行為の性格を描写するべきである。そのうえで、国際法上の概念が、その合憲性/違憲性の範囲にどうかかわってくるかを、具体的に論じていくべきだろう。ある国際法概念に該当する行為は全て違憲だ、という結論を、憲法学者が先取りして結論づけるのは、おかしい。
 歴史的に言えば、あるいは国際的に見れば、「個別的自衛権拡大解釈」こそが、圧倒的に危険な行為だ。日本の満州事変以降の「いつか来た道」は、個別的自衛権の拡大解釈から生まれた破綻への道だった。個別的自衛権の拡大が可能なら、集団的自衛権の容認より望ましい、というのは、日本の憲法学のガラパゴス性を如実に示す発想である。
 「個別的または(or)集団的自衛権」を発動して合法的に行動する、と言うのが、国際的に標準的なやり方である。あとは両方に対して、国際法にしたがった制約をかけていけばいい。
 
ところが、日本の憲法学者は、どうしても一方を合憲、他方を違憲、と考えることに固執するので、議論が不必要なまでに著しく錯綜してくる。
 
木村教授の憲法13条を重視する議論にしたがえば、憲法13条の幸福追求権を根拠にした「自衛権」の発動は合憲だが、13条に反する「自衛権」の行使は違憲だ、と言うのが妥当なはずだ。http://agora-web.jp/archives/2026321.html ところがそれを強引に「個別的自衛権は合憲、集団的自衛権は違憲」、というフォーマットに言い換えて結論づけようとするから、無理が生じる。
<続く>

 53日の憲法記念日にあわせて、『現代ビジネス』での拙稿の執筆の機会をいただいた。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55523 それ以前には、読売新聞や共同通信配信各紙や信濃毎日新聞などに憲法問題に関するインタビュー記事を掲載していただいた。
 
私の専門は平和構築で、国際社会の動きの主に分析する。もっとも時には日本の話もしたいのだが、日本の国際平和協力分野の活動は、行き詰っている。http://agora-web.jp/archives/2032199.html 初めの一歩に立ち返って考えなおす時期と感じている。今後も、機会をいただければ、憲法学の問題性について、論じていきたいと思っている。
 たとえば、53日には、時事通信が、長谷部恭男・早大教授(元東京大学法学部教授)のインタビュー記事を掲載した。その中に、次のような箇所があった。

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砂川判決が集団的自衛権を認めているという議論には何の根拠もない。そこは明白に間違っている。9条の1項、2項を残したので解釈は変わらないとも主張しているが、一般原則として「後法は前法に優越する」ので、後からできた条文がフルスペックの集団的自衛権を容認しているとなれば意味自体が変わる。」https://www.jiji.com/jc/article?k=2018050100726&g=pol 

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長谷部教授は、2015年安保法制は違憲である、という立場に立つ。したがって「解釈は変わらない」の意味が、自民党と長谷部教授とでは異なる。その点を分かりにくくしたうえで、あえて「フルスペックの集団的自衛権」なる概念を持ち出して自民党改憲案にコメントしようとしている姿は、印象深い。もし自民党改憲案が成立した場合には、「フルスペックの集団的自衛権」が認められたことになる、と長谷部教授は考えているのか否か?憲法学者の「隊長」として、目の前の政局ではなく、10年後、20年後を見据えた明快な発言をされることを期待したい。
 
それにしても、いささか曖昧な表現を使う自民党改憲案の描写に比して、よりはっきりと目に付くのは、「砂川判決」に対する断定的な言い方だ。「明白に間違っている。」と言うからには、100%の自信があるということだろう。「隊長」長谷部教授が、少なくとも憲法学界内部からは異論が出ない、と確信するのは、当然なのだろう。
 
しかし、私は疑う。
 
以前にも、「砂川事件」最高裁判決を「統治行為論」で違憲判断を回避したものと断ずる見方は、イデオロギー的に偏向した理解だと言わざるを得ない、と指摘した。http://agora-web.jp/archives/2029642.html そこで、この俗説については、今回はあえては言及しない。
 
最近は、長谷部教授のように、砂川判決は、単に米軍基地の存在、つまり日米安全保障条約の合憲性を判断したものだ、という言い方を好む場合が見られる。もちろん、それこそが「砂川事件」の争点であった。だがそのことから、「砂川判決が集団的自衛権を認めているという議論には何の根拠もない」、という結論を導き出すためには、もう一歩論理が必要になるはずだ。私に言わせれば、そこで日本の憲法学のガラパゴス性が明らかになる。
 
私は、現在の憲法学者の方々が、あまりにも1972年内閣法制局見解を絶対視するあまり、1959年砂川判決に、1972年見解の否定を求める、というアナクロニズムの錯誤を犯していないか、疑っている。
 
1972年内閣法制局見解によれば、日本は集団的自衛権を保持しているが、憲法が禁止しているので行使できないという。これは、他の場面では見ることがない、奇抜な論理構成であった。人間は人権を持っているが、憲法が「公共の福祉」で制約している、といった話は、ありうる。しかし権利の行使を丸ごと憲法が禁止していると断言するのは、権利それ自体の不在の証明よりも、困難な課題である。私は、長谷部教授がそうした説明負担を引きうけているように思っていない。
 
2014年安保法制懇の見解はそうであったし、私自身もそうであると考えるのは、1972年内閣法制局見解が論理として破綻しており、間違っていた、ということである。
 
だが長谷部教授は、1972年内閣法制局見解の絶対性を主張するだけで、あとは「反立憲主義」云々の話をするだけである。手ごろな前提を論証抜きで絶対視しているので、「砂川判決が集団的自衛権を認めているという議論には何の根拠もない。そこは明白に間違っている。」と断言できるだけだ。そのようなレベルの断言には、何の知的魅力も感じない。
 
1972年より前の砂川判決が、積極的に集団的自衛権の合憲性を論じていないのは、全く不思議なことではない。当時は、集団的自衛権は違憲だ、という議論がなかったので、積極的に合憲性を論じる必要もなかったのだ。
 
日本は1951年サンフランシスコ講和条約締結と同日に日米安全保障条約を締結し、主権国家としての地位を回復した。その日米安全保障条約は、次のような謳うものであった。

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平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。
 
これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19510908.T2J.html 

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この文言を素直に読めば、米軍の駐留は、つまり日米安全保障条約それ自体が、「個別的及び集団的自衛の固有の権利」にもとづいて「日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利」によって成立しているものである。実際に、当時の条約交渉担当者の手記などから、条約がそのような認識で締結されたことは確認できる。
 
当時の日本は国連に加盟していなかったため、サンフランシスコ講和条約を媒介として日本が国連憲章51条の自衛権を享受する立場に立った、という論理構成になっている。ちなみに日本は19526月に国会承認をへて国連に加盟申請を行っているが、ソ連の拒否権発動で、認められなかった。しかし、この状態も、砂川判決の前の1956年の日本の正式な国連加盟によって解消している。
 
<なお日本が加盟申請にあたって明記した「日本のディスポーザルにある一切の手段を持って(by all means at its disposal)、その義務を履行する」という文言を拡大解釈する見方もあるが、俗説だ。日本が持つ実力の範囲内で国連に貢献するという特に問題のない趣旨であり、国連憲章に明記された権利を否認する意図のある文章だと読むことはできない。>
 
よく濫用される俗説で、「憲法優越説」を振りかざして国連憲章を否定しようとする人も少なくない。「憲法優越説」が正しく、憲法が禁止している行為は、条約を根拠に実施することはできないとしても、結局、憲法典(憲法学者ではない)が禁止しているかどうかをあらためて精査するだけのことだ。日本国憲法982項にしたがって、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを 必要とする」義務を、「憲法優越説」で否定することはできない。
 
砂川事件最高裁判決は、こうした状況の中で、次のように述べていた。

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「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。」www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf 

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砂川事件判決は、つまり日米安全保障条約締結時の論理構成の承認であり、その論理構成には集団的自衛権の行使が内在していた。
 
日本の憲法学では、「わが国の防衛」が目的とされていると、何でも個別的自衛権になるといった話で、砂川判決に内在していた論理を否定するのかもしれない。しかし「わが国の防衛」が主要な目的であることは、集団的自衛権の行使の否定にはならない。自国の防衛への効果を意図して、集団的自衛権を行使するのは、むしろ当然である。集団的自衛権とは、まさに「集団」の認識によって成立するものであり、純粋無垢な自己滅私的な他国への奉仕の精神によって成立するものではない。
 
百歩譲って、日本の憲法学の個別的自衛権と集団的自衛権の切り分けの仕方に、少なくとも日本国内においては意味があるとして、それは砂川判決に別の論理が内在していたことの否定にはならない。他人の言説の妥当性を否定することと、他人の言説の意図を否定することとは、違う。「わが国の防衛」を語りながら集団的自衛権も語る砂川判決の論理は間違っている、と主張することは、「砂川判決が集団的自衛権を認めているという議論には何の根拠もない。そこは明白に間違っている。」という断言の証明にはならない。
 
砂川判決が、あえて集団的自衛権は合憲だという説明をしなかったのは、憲法982項にしたがって遵守義務がある国連憲章51条の自衛権規定を否認したり、留保したりする意図がなかったからである、と考えるのが、自然だ。
 
1960年の日米安保条約改定以降に、日本への攻撃の際には米国は集団的自衛権を行使し、日本は個別的自衛権を行使する、という論理構成が注目されるようになったのは、事実だ。だが日米安保条約には、極東条項もある。朝鮮国連軍地位協定と連動して、朝鮮半島への米軍出撃にあたって日米安保条約が援用されることも自明である。岸内閣の閣僚たちの1960年当時の国会答弁を見れば、岸内閣が、砂川判決に内在する論理に依拠して、日米安全保障条約を理解していたことは、自明である。

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「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのでございます。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えています。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうのはもちろん日本として持っている、こう思っております。」 (岸信介首相) 

「例えば、現在の安保条約において、米国に対し施設区域を提供している。あるいは、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対して経済的な援助を与えるということ、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、私は日本の憲法は否定しているとは考えない」 (林修三内閣法制局長官)

「国際的に集団的自衛権というものは持っておるが、その集団的自衛権というものは、日本の憲法の第九条において非常に制限されておる、こういうような形によって日本は集団的自衛権を持っておる、こういうふうに考えておるわけであります。・・・憲法第九条によって制限された集団的自衛権である、こういうふうに憲法との関連において見るのが至当であろう、こういうふうに私は考えております。」(赤城宗徳防衛庁長官)

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長谷部教授のように、日米安保条約は合憲だが、集団的自衛権それ自体として違憲、といった話は、1960年代末の佐藤栄作政権下の沖縄返還交渉本格化の時期になってようやく出てきたものにすぎず、率直に言って、論理的には、政策上の後付けの詭弁を、強引にも憲法を引き合いに出して正当化しようとしたものでしかない。
 
まして一橋大学卒の国際法精通者が内閣法制局長官になると、「反立憲主義だ」「クーデターだ」と叫ぶ、そんなことは憲法を守ることと、何ら関係がない。
 
長谷部教授は、自らの精緻な言葉で、なぜ日本国憲法が集団的自衛権を禁止していると断言できるのか、まず説明すべきだ。憲法学者だけが良識を持った法の解釈ができる、といった話では、説明にはならない。
 
そのうえで、さらに加えて、「砂川判決が集団的自衛権を認めているという議論には何の根拠もない。そこは明白に間違っている。」という断言について、よりいっそう責任ある積極的な論証を行うべきだ。

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