「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2018年11月

 リベラル派で知られる政治学者の吉次公介・立命館大学教授の『日米安保体制史』(岩波新書)の記述内容に疑問を感じたので、質問メールを、実名で、岩波書店に出した。返事がなかったので、三日後にもう一度出した。すると、誤りでした、と言われた。その誤りは、増刷のときに訂正する、という。しかしそれでは、増刷になるまで訂正されない。つまり、増刷されなければ訂正されない。
 
私の本の議論を否定する内容であるため、それでは困るので、ブログに書く、と宣言した。私は不利益を受けているので、誤りがあることは、公にせざるをえない。
 
吉次教授の『日米安保体制史』29ページには、次のような記述がある。

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日本政府は、54年に集団的自衛権の行使は憲法上認められないとの認識を初めて示し、56年には、日本は集団的自衛権を有しているが、憲法が許容する自衛権の行使は「わが国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」との見解を表明していた・・・。

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新書で注がないのは、珍しくないとしよう。だがそうであればなおさら、参照先について情報を提示しておくべきではないか。「1956年*月*日・・・大臣は、衆議院外交委員会で・・・」と書いておいてさえくれれば、注がなくても検証可能だ。だが吉次教授のような書き方では、全く検証ができない。
 
そこで私は、岩波書店に出典根拠を質問した。1956年に、日本政府が、吉次教授が引用しているような発言を行った記録がない。私もあらためていくつか文献を見直してみたが、1956年に吉次教授が引用するような政府見解がなされたという記録はどこにも見つからなかった。
 
なんと、岩波書店からの回答によると、著者である吉次教授が、「昭和56年」を誤って1956年」と誤認し、そのままそのように書いてしまったのだという。ところがその誤りを根拠にして、吉次教授は、1950年代から日本政府は一貫して集団的自衛権を否定してきている、と岩波新書の中で主張している。
 
いささか驚くべき事情ではある。
 
私にとって問題なのは、結果として、吉次教授が、私の議論を完全否定し、その根拠を密かに持っているかのように岩波新書を通じて喧伝したことである。私は、繰り返し、日本政府が集団的自衛権を違憲だと明言し始めたのは、1960年代末からのことであり、それはベトナム戦争進行中の状況で沖縄返還を目指していた政治状況と密接に結びついていた、と議論している。吉次教授の岩波新書は、それを完全否定するものだ。ところが否定する根拠を見せてほしい、と尋ねると、「実は昭和56年のことを1956年と間違えて書いてしまいました」と打ち明ける・・・。
 
1954年についても、やはり日本政府が、吉次教授が述べているような公式見解を表明した経緯はない。ただしこちらについては、吉次教授が何を参照しているのかを推察することはできた。当時の外務省条約局長下田武三の5463日衆議院外務委員会での発言だ。
 
岩波書店からの回答では、著者の吉次教授は、坂元一哉教授の『日米同盟の絆』を参照したのだという。坂本教授は、阪口規純氏の1996年の『外交時報』論文で下田答弁にふれているのを参照していただけだ。となると、吉次教授の記述は、いわば「曾孫引き」、である。国会議事録検索システムで容易に検証できるのに、なぜそのようなことをしてしまったのかは、よくわからない。
 
私にとって問題なのは、結果として、吉次教授が、私の議論を完全否定し、その根拠を密かに持っているかのように岩波新書を通じて喧伝したことである。
 
少し長くなるが、私の拙著『集団的自衛権の思想史』から箇所を引用しておきたい。

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 195463日、当時外務省の条約局長であった下田武三は、次のように答弁を行った。「日本憲法からの観点から申しますと、憲法が否認してないと解すべきものは、既存の国際法上一般に認められた固有の自衛権、つまり自分の国が攻撃された場合の自衛権であると解すべきであると思う」。そのため「集団的自衛権、これは換言すれば、共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約ということでありまして・・・、一般の国際法からはただちに出て来る権利ではございません。それぞれの同盟条約なり共同防衛条約なり、特別の条約があつて、初めて条約上の権利として生れて来る権利でございます。ところがそういう特別な権利を生ますための条約を、日本の現憲法下で締結されるかどうかということは、先ほどお答え申し上げましたようにできない」。
 
この下田の答弁には、質疑応答の相手方であった社会党議員である穂積七郎のほうが驚き、「集団的自衛権という観念は、もうすでに今までに日本の憲法下においても取入れられておるわけです。そうなると、・・・すでに憲法のわくを越えるものだというように考えますが」、と質問した。これに対して下田は、「憲法は自衛権に関する何らの規定はないのでありますけれども、自衛権を否定していない以上は、一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利であるから、憲法が禁止していない以上、持つておると推定されるわけでありますが、そのような特別の集団的自衛権までも憲法は禁止していないから持ち得るのだという結論は、これは出し得ない、そういうように私は考えております。」と答えた。そこですかさず穂積は、「今のその御解釈は、これはあなた個人の御意見ではなくて、外務省または政府を代表する統一された御意見と理解してよろしゆうございますか。」と質問した。下田は、「外務省条約局の研究の段階で得た結論」と述べ、政府統一見解にまでは至っていないと説明した。(第19回国会衆議院外務委員会議録第57号[195463日]、5頁)。
 
なおこの下田の答弁をもって集団的自衛権違憲の政府判断がなされていた、と論じられることもある(浦田一郎「集団的自衛権論の展開と安保法制懇報告」奥平康弘・山口二郎(編)『集団的自衛権の何が問題か 解釈改g憲批判』[岩波書店、2014年]所収、106頁)。これについては、まず下田が「政府の見解」ではないと強調した点は留意しなければならない。またさらに日本が国連未加盟国であった1954年の当時と、国連加盟を果たした1956年以降とで国連憲章上の権利に対する評価が変わるか、1960年新安保条約もまた「共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約」ではないと言えるのかどうかが、論点になりうる。
 
なお下田は、1931年東京帝国大法学部卒で、佐藤達夫らと同じく、美濃部・立の盛時代に東大法学部に在籍した世代である。「一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利」だという考え方を論理構成の基本に据えるのは、「国家法人説」を通説とみなす世代に、特徴的なものであろう。第1章で見たとおり日本では立作太郎が基本権に依拠した国際法講義を東大法学部で行っていたが、第2章で見たとおり横田喜三郎は戦前から「国家に固有の先天的」な「国家の基本的権利」を否定していた。国際法においては「一般国際法」といえども、結局は慣習法の集積に過ぎない。その内容は、国連憲章のような新しい包括的条約によって上書きをされる。一般国際法というのは、自然法的な国家の自然権が表現するようなものではなく、「自然権」を求めるのは「国内的類推」の陥穽である。(拙著『集団的自衛権の思想史』194-196頁。)

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 下田が自らの見解を政府統一ではないと明言したこと、社会党議員の方が驚いて「「集団的自衛権という観念は、もうすでに今までに日本の憲法下においても取入れられておるわけです。」と反応しているような同時代の風潮があったこと、同時代に下田説を補強する意見を述べる者が他にいなかったこと、1960年新日米安保条約締結の審議の際に岸信介首相や他の閣僚のみならず内閣法制局長官も集団的自衛権行使を認める答弁をしていることhttp://agora-web.jp/archives/2035078.html、などを考えると、1954年の下田答弁をもって日本政府が集団的自衛権を違憲とする立場を固めたと主張するのは無理がある、というのが私が拙著『集団的自衛権の思想史』で指摘したことだ。
 拙著は読売・吉野作造賞をいただいたのだが、吉次教授によってその存在は完全に否定されている。岩波書店も完全に無視をする。
 
周知のように、岩波書店は、2015年安保法制が議論されていた時期、憲法学者らによる「安保法制は違憲だ!」的な本を、大量に出版していた出版社である。その出版社が、謎の出典不明の政府見解で、憲法学者とは違う見解を持つ私の議論を完全否定する本を大量印刷する。そこで私が証拠を見せてくれと繰り返し質問すると、「誤りだったが、増刷するまでは直さない」、という態度をとる。
 
非常に割り切れない思いだ。


 『現代ビジネス』さんに「日本の憲法学は本当に大丈夫か?韓国・徴用工判決から見えてきたこと」という拙稿を掲載していただいた。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58305
 日本国内では韓国大法院の判断に批判的な論調が大半だが、日ごろから日本政府に批判的な弁護士や学者の方々は、日韓請求権協定を見直すべきだ、と主張する。一貫性を保つためには、仕方がないのだろう。
 
今回の事件は、いい機会だ。日本の憲法学で通説であり、日本の法曹界では絶対的真理のように信じられている「憲法優位説」について考え直してみるのに、いい機会だ。
 
『現代ビジネス』拙稿では芦部信喜・元東大法学部教授を引用したが、ここでは樋口陽一・元東大法学部教授を引用してみたい。樋口教授は、憲法と条約の関係について、次のように述べた。
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A説は、憲法の国際協調主義的側面をより強調して、「主権」を国際的制約をかぶったものとして理解し、憲法と条約の形式的効力関係につき、条約優位説をとるにいたる。B説は、「主権の維持」の側面を強調し、憲法と条約の関係について憲法優位説をとる。C説は、さらにすすんで、「主権」の標識として形式上の自己決定の保障だけでなく、実質的な独立性までを要求し、日米安全保障条約のもとで日本国の「主権」が侵されている、と考える。A説の背景には、つきつめていくと、国際法すなわち西洋「文明」社会の法が、「野蛮」な国内法に対して「文明のための干渉」をすることはゆるされる、とする西欧的国際法観がある。それに対し、C説の背景には、国際法すなわち「帝国主義」の支配が、「民族自決」に基づく国内法を侵すことはゆるされない、とする第三世界的な国際法観がある。B説は、その中間に位置する。」(樋口陽一執筆部分『注釈日本国憲法』[1984年]45頁。)
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樋口によれば、憲法と条約の関係の理解には、三つのパターンしかない。一つは、「西洋文明」を支持し、「野蛮な国内法」を否定し、「文明のための干渉」をする、「西欧的国際法観」の立場だという。もう一つは、「民族自決」を標榜し、「帝国主義」の産物である日米安全保障条約を否定し、「実質的な独立性」を要求する立場である。両者の「中間に位置する」のが、「憲法優位説」なのだという。
 
言うまでもなく、「憲法優位説」以外の二つの説には、あまりに悲惨な描写しか施されていない。こんな嫌味な描写を見てからもなお、「僕は西欧的国際法観を支持します!」とか「僕は帝国主義たる日米安保条約を否定します!」と叫ぶ者は、それほど多くはないだろう。
 
もっとも、憲法学のムラ社会の中では、日米安保を否定するかどうかは、学会を二分する大きな踏み絵だったのかもしれない。まして国際社会について語るような連中は、国際法の一方的な優位を唱える異星人のようなものだったのかもしれない。いずれにしても、せまいムラ社会の話だ。
 
もっとも、司法試験受験を志していれば、ムラ社会の動向にも気を使わなければならない。「憲法優位説」が「中間に位置する」説だと聞けば、なおさら安心して、日本の憲法学会の通説を支持することを誓うのだろう。
 
だが「憲法優位説」が、「中間に位置する」という説明は、本当に説得力のある議論だろうか。結局、国内法と国際法の関係について、前者の優位を一方的に主張するという点で、全く「中間に位置する」ものだとは言えない立場なのではないだろうか?
 
樋口教授の見え見えの操作的レトリックに騙されず、冷静に考えてみよう。本当に対立関係にあるのは、国際法優位の説と、国内法優位の説だ。とすれば、憲法優位説が「中間に位置する」ものだとは、認めがたい。両者の二元論的な有効性を認める「等位理論」=「調整理論」こそが、本当に「中間に位置する」立場だ。
 
日本人にとって今回の韓国大法院の事件は、国際法の重要性を思い出す、いい機会になった。一方的に「憲法優位説」を唱えることの危険性と、「中間に位置する」立場から「調整」をすることの重要性を思い出す、いい機会になった。
 
憲法9条をめぐるイデオロギー闘争も、こうした事情と無関係ではない。本来、前文にしたがった解釈を施し、国際法との調和を前提にした解釈を施していれば、憲法9条は、争いの種になるようなものではなかった。
 
憲法優位説は、「中間に位置する」ものではない。憲法学会通説は、「中間に位置する」ものではない。
 
国際法を尊重し、憲法と国際法の調和を前提にする立場こそが、「中間に位置する」ものだ。国際法も、「ほんとうの憲法」も、そうした「中間に位置する」ものだ。中間に位置していないのは、憲法学通説である。

 安田純平氏が記者会見を開いた。安田氏についてブログ記事を書いた直後だったので、http://agora-web.jp/archives/2035452-2.html 私も会見の内容を見てみた。いくつか興味深い点があった。
 
私が「三つの謎」とブログで書いたことのうち、一つ目の拘束の目的に関する謎については、示唆があった。 やはり政治的主張や経済的利潤が当初の拘束の目的ではなかったようで、スパイの疑いも持たれたうえ身柄を拘束され、一か月してから初めて「正式に人質であると言われ」たことが、語られた。
 
安田氏は、自分が拘束されていた場所が「ジャバル・ザウイーヤ」であることを聞いていた。これによってかねてから言われていたとおり、拘束場所が反政府勢力の最後の砦となっているイドリブ周辺地域であることが、確かになった。
 
安田氏を拘束した勢力は「新興」アル・カイダ系勢力の「フッラース・アル・ディーン」だといった話があったが、安田氏の証言から、その可能性が高まった。リーダーの様子や、トルキスタン部隊との関係についても、明らかになった。トルキスタンとは、新疆ウイグル系の人々の存在を意味する。ちなみに中国政府は、シリア領内のウイグル系の勢力の除去に動いており、アサド政権を強く支援している。安田氏の発言の詳細に、中国政府も注目していることだろう。
 
驚いたのは、安田氏が、シリアに入国してすぐに拘束された経緯だ。武装勢力系の有力者に身をゆだねるような画策をして武装勢力に拘束された安田氏の経験には、目を見張る。
 
どのような人々が反政府武装勢力の中で戦っているか知りたかった、と言う安田氏の取材の目的は、単なる戦地の取材ではない。いわば武装勢力の構成員の身辺調査だ。戦争被害の現場を見るといったレベルの戦地の取材とは、次元が違う。スパイだと疑われても仕方がない。
 
おそらくフリージャーナリストとしての境遇では、本当の大々的な準備を要する戦地取材は、できない。少なくとも国際的な競争に耐えられるような取材はできない。そこでフリージャーナリストは、武装勢力内部への潜伏取材のような行為に及ぶのではないか。
 
いわゆる自己責任論では、フリージャーナリストがこうした危険な取材をすることの是非が議論されたようだ。安田氏は、自らの自己責任について肯定をする発言をして、お詫びと感謝の念を表明した。
 
違和感を抱くのは、自己責任論を批判する人々が、実際には日本政府の怠慢を批判するだけであったことだ。政府は、渡航制限をかけ、情報収集を怠らないという、邦人保護の面での努力は払った。
 
何もしていないのは、フリージャーナリストが危険極まりない形でシリアに入っているのに何も組織的な支援をせず、ただ後で情報を買おうとしているだけの人々なのではないか。そしてフリージャーナリストが拘束されると、ただ日本政府批判だけを繰り返して、手ごろな日本国内の論争をけしかけて何かやっている気分にだけなる人々なのではないか。
 
今さら安田氏を非難するのは、気乗りしない。日本政府を批判することも、違う、という気がする。
 
安田氏拘束事件の教訓として問題視すべきは、フリージャーナリストにだけ危険な取材をさせ、あとは日本政府の批判をすることだけで何かしているような気持になっている人々の存在なのではないか。

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