「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2019年04月

 池袋高齢者暴走事件について二度ほど記事を書いた。その後も高齢者の運転事故が起こっている。前回も書いたが、80歳以上の高齢者による死亡事故は、75歳未満の約3倍だという。さらに高齢者人口は絶対数も比率は高まり続けている。3倍の危険性を持つ85歳以上の人口が、過去20年弱の間にすでに2倍以上になってしまっており、その数は将来的にさらに倍増する勢いで増えていく。その一方、若者の人口は減少し続け、若者一人当たりの老人数はさらに一層の拡大をし続ける。

このような未曽有の少子高齢化社会を迎える日本にとって、高齢者暴走問題は、一つの深刻な社会問題である。「地方部で車がないと買い物できない老人がいるので、池袋で87歳の元高級官僚が親子をひき殺しても仕方がない」、と言えるような問題ではない。多数決では問題解決できない。政治の問題としてとらえていく必要がある問題だ。

 地方部での買い物に車が必要、といった議論が根強い。しかし高齢者ドライバーが多いから、そのような状態が続くのだ。高齢者ドライバーを減らし、高齢者が車両維持にあてていた資産を、すべて宅配(含むドローン宅配)の注文に回させないから、いつまでもこんな状況が続く。政治家は、社会政策に根差した考え方をとらなければならない。

高齢者ドライバーを減らし、日常品の遠隔宅配サービスを、推進する、そういう社会政策論に根差した見解を、政治家が持つべきだ。そのうえで、自動車業界には、自動運転車限定免許を導入するための下地作りを急いでもらえばいい。

 それにしても的外れなのは、高齢者は生活が不便なままの状態に置かれているので、池袋で死亡事故を起こした87歳の高齢者を責めるべきではない、といったそれっぽい識者の間の議論だ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190426-00010021-abema-soci 

 罪をしっかりと償ってもらう結果を作らなければ、未曽有の少子高齢化社会に突入している日本社会に、深刻な悪影響が及ぶ。個人を責めるのはよくない、と言った論調が識者の間で流通しすぎるのは、危険だ。

 もともと刑事罰は、交通犯罪も含めて、社会政策の一環として、抑止効果を狙って作られている制度だ。殺人者をとがめても、殺された者が戻ってくるわけではない。しかし殺人者に厳罰を下さなければ、次々と模倣者が現れてしまうので、重大犯罪には厳罰を下す。民事上の損害賠償にも、同じような社会政策上の措置があることは、言うまでもない。

 重大事件を犯した者が、免責されてしまえば、社会政策としての抑止効果が保てない。未曽有の少子高齢化社会を迎える日本にとって、高齢者にどのような抑止力を働かせていくかは、国益にかかわる重大問題だ。

 全てのドライバーに抑止力を働かせて、危険回避を自己の利益に沿うと感じさせるためには、それに十分な刑事罰と民事上の損害賠償が高齢者にも課せられなければならない。

 ところがそれが難しいので、高齢者暴走問題が、深刻な社会問題になっている。

 刑事裁判で懲役刑を科しても刑期を全うせず他界する可能性が高い。そもそも刑事裁判の判決が寿命に間に合わないかもしれない。

 より深刻なのは民事訴訟だ。普通であれば重大交通事故は、「一生涯かけて償う」姿勢を損害賠償で示す。ところがすでに定年退職しているだけでなく、将来にわたって収入のある職業に就く可能性がない。そこで未来ではなく、過去の資産を差し押さえるなければ、高齢者に対する抑止力が全く働かない。ところが民事訴訟の場合も、決定が寿命の限界に追いつかない可能性が高い。そうなると相続人に対して損害賠償請求することになるが、相続放棄されたら、損害賠償請求できない。

 つまり高齢者に対する抑止力の確保には、非常に大きな制約がかかっている。もし抑止効果を狙う社会政策の効果が高いと仮定すると、その効果が低い高齢者のドライバーの危険性の意味がよくわかってくる。85歳以上のドライバーの危険度が高いのは、認知度、身体能力の低下だけでなく、社会政策上の抑止力の低下が原因になっている可能性すらある。

 現在、87歳の池袋暴走者が逮捕されていないのは、入院しており、証拠隠滅の可能性がないからだという。高齢者特有の事情を考慮に入れていない官僚的な対応だと思う。たとえば、資産防衛をしていないか、チェックが必要だ。後で事故被害者の弁護人が検証できる仕組みが必要だ。

 相続人に対して「生前贈与」をする場合、夫婦間の不動産贈与で2000万円、住宅取得資金贈与の特例で1200万円、年間基礎控除110万円がある。そもそも課税対象になっても、損害倍書による差し押さえが確実な場合には、税金を払ってでも生前贈与をすることに私的利益上の合理性が発生する。もちろん、事故被害者は、詐害行為取消権で生前贈与の取り消しを求めて対抗することができる。だが、資産運用に慣れた加害者の場合、資産の第三者を介した売却・贈与など、被害者の対抗措置の裏をかく方法や手段を追求しないとも限らない。少なくとも調査から査定に加えて、法的対応で、被害者側に不要な多大な負担がかかるのは不当だ。

 逮捕しないというのであれば、証拠隠滅の恐れがないことだけでなく、不動産・株式資産等の相続や現金化の恐れがないかも確証するべきだ。できれば資産運用を差し止める措置を即時にとりたい。

 暴走老人に、どのような抑止力を働かせるかは、少子高齢化社会においてもなお、未来ある子どもを守り、将来の日本の活力を保つという国益がかかった問題である。少なくとも政治家には、そのような認識をしっかり持ってもらいたい。


 先日、「高齢者暴走は政治家の問題なのではないか」、という記事を書いた。その後、立憲民主党が、高齢者運転対策に乗り出したというニュースを見た。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190425-00000162-jij-pol 応援したい。

 立憲民主党は、どちらかというと高齢者からの得票率が高かった政党だ。私自身も、何度か憲法問題などで批判的な文章を書いたことがある。
 しかし、その立憲民主党が、こうした問題で、次世代の側に立つのは、大変に素晴らしいことだ。長期的な党の立ち位置を固めるためにも、得策だ、とあえて強調しておきたい。

 少子高齢化社会に立ち向かうということが、どういうことなのか、まだわかっていない人が多い。多数決で物事を決めていったら、すべて高齢者に有利なことしか決まっていかない、それが暗澹たる少子高齢化社会の本質の一つだ。

80歳以上の高齢者による死亡事故は、75歳未満の約3倍だという。http://agora-web.jp/archives/2038592.html 人口の絶対数は減り始めているが、高齢者人口の比率は高まり続けている。厚生労働省によれば、2000年には、70歳以上の人口は901万人、85歳以上はわずかに224万人だった。2020年に70歳以上の人口は1,879万人、85歳以上が637万人になり、2055年までに70歳以上の人口が2,401万人で、85歳以上だけで1,035万人になるという。

3倍の危険性を持つ85歳以上の人口が、過去20年弱の間にすでに2倍以上になってしまっており、その数は将来的にさらに倍増する勢いで増えていく。その一方、若者の人口は減少し続けている。マイノリティに転落した若者層は、2000年時と比べても、何倍にも増大した危険高齢者のリスクにさらされながら、生きていかなければならない。
 アンフェアだ。 

無策であれば、これから高齢者による危険運転事故は増え続けるのだ。統計を見れば、そういう結論しか導き出せない。現実を直視した政策をとるべきだ。

危険が増大しているという現実を見据えたうえで、公正さを取り戻すための政治的措置をとる必要があるのだ。

 政治の本質は、価値の配分である。高齢者に配慮して高齢者の票を維持しようとするのか、高齢者の票を失っても、日本の未来のために、子どもを守る政策を推進するのか、日本が今置かれている状況を考えて、政治家は態度を決していくべきだ。

 池袋の高齢者暴走事件には、多くの示唆があった。都会で、社会的地位の高かった人物が、87歳になって、暴走して起こした事件だ。田舎の貧しい高齢者の苦難などを持ち出して、池袋で暴走した元高級官僚を守ろうとするのは、的外れである。社会的地位が高かった者に限って自分に甘く、周囲も遠慮して苦言を呈することに躊躇しがちだ。池袋で暴走した87歳の人物のような老人に、二度と暴走させないための政策が必要だ。

 生活に運転が必要なら、それに見合う自分を維持する努力をするべきだ。必要性があって、努力している高齢者は、認めてあげるべきだろう。したがって基準の厳格化が必要だ。

 車の運転以外の手段の利便性を高めて、免許返納のインセンティブにしていくというのは、いかにも不足感がある。車の運転に伴う負荷を高めなければ、釣り合わない。

 70歳以上は運転免許の毎年更新、80歳以上で半年更新、85歳以上は3カ月更新でもいい。費用は、講習料の値上げでまかなうべきだ。「認知症のテストに通った、あと何年も自分は大丈夫だ」、と勘違いしている高齢者が多数いる。頻繁にテストしていくべきだ。

 ただ免許返納ですら、決め手ではない。池袋暴走事件の直後であってもなお、「郵便局に歩いていくのが面倒」という理由で、84歳の無免許の人物が、逮捕されたという事件が起こっている。https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「郵便局に歩いていくのが面倒」無免許運転の疑いで84歳男逮捕-%EF%BC%8F松戸/ar-BBWen7r 

これが少子高齢化社会の日常風景というものなのだろう。

免許返納するか、免許失効した高齢者が、車を所有したままだったり、運転者のままになっていたりしないか、罰則も設けて、厳しくチェックしていくべきだ。当然、高齢者に限らず、無免許者に車を貸した者にも厳しい罰則を設けなければならない。

 ところで高齢者暴走の場合、加害者が被害者家族よりも先に他界することになる。民事上の負担が、無責任な高齢者ドライバーに危険回避をするインセンティブとして働かないかもしれないという意味で、一つの深刻な問題だ。法的解決も図られていないまま加害者がいなくなってしまうケースも多いだろう。相続人に対して損害賠償請求することになる場合、被害者側の負担が増す。手続きを簡素化する措置を導入するべきだ。

 将来的には、一刻も早く、自動運転車専用免許を導入すべきだ。そして高齢者による免許の切り替えを促進する措置を導入しなければならない。自動ブレーキ車に限定する措置がとれないかも、自動車メーカーの大々的な協力を得て、検討していくべきだろう。

 普段は政治の話などしか文章で書かないが、これも政治の話ではないかと思い、書いている。
 87歳のドライバーによる親子死亡事故の件だ。
 現場には、子ども用のヘルメットが転がっていたという。あまりに胸が痛み、夜も眠れない人も多いのではないか。
 政治の怠慢だ。
 日本は少子高齢化の深刻な危機にある。子どもを守るのは政治家の務めだ。
 高齢者支援を充実させるべきだという意見もある。財政赤字の中で少子高齢化が進む社会で、どこまでやれるのか、やれるだけやってみたらいい。しかしどこまで充実させても、「車に乗ってしまったほうが楽だ」、と考える高齢者をなくすことはできないだろう。それははっきりしている。ごまかしてダメだ。
 高齢者の票を失わないことだけを考えて行動するのは、政治の無責任だ。
 75歳以上のドライバーの免許更新の際には、認知症のテストをしているとされるが、手ぬるいのではないか。そうだとすれば、少なくとも毎年更新・半年更新などにするべきだ。
 テストや講習の内容充実も精査が必要だろう。認知力・体力だけでなく、運転をやめる決断力があるかどうか、そのような環境にあるかを試すことが必要だ。更新料を大幅に値上げして被害者補償にあてるなどの措置はとれないか。
 高齢者対策で、高齢者の事件については特に民事訴訟手続きを迅速に処理する手立てなどはとられているのだろうか。
 将来的には、高齢者を想定して、AT者限定免許のように、自動運転車限定免許への切り替えを促す仕組みも作るべきだろう。

 龍谷大学で憲法学を教えていらっしゃる奥野恒久教授が、私の著書を論じる内容の論文を一本書かれた(「『戦後日本憲法学批判』に向き合う」『龍谷大学政策学論集』第8巻第12合併号)。憲法学者の方に正面から論じていただいた論考が公刊されたのは初めてなので、大変に光栄である。

 「篠田の議論が憲法問題に関心を寄せる市民に参照され、影響を与えていることを重く受け止め・・・憲法学研究者として応答を試みる」(47頁)というもので、大変にありがたいものだ。篠田への批判としては、水島朝穂教授のブログがあるが、残念な内容だったので、http://agora-web.jp/archives/2029005.html 今後も奥野教授のような方が増えてくださると本当にありがたい。

 もちろん奥野教授の論考の狙いは、篠田の批判である。私としては、奥野教授のご厚意に感謝しつつ、論点を拾い出す形でコメントをしてみたい。

<「抵抗の憲法学」の描写に対する批判>

 私は拙著『ほんとうの憲法』の中で戦後日本憲法学を特徴づける概念として「抵抗の憲法学」という言い回しを使っている。これは私が考えたものではない。高橋和之・元東京大学法学部教授が使い、その後に石川健治・東京大学法学部教授が使っている(拙著251頁注3)。私はそれを念入りに分析しているだけだ。憲法学者が自分で使うのはOKだが、国際政治学者がそういうことを言うのはダメだ、というのは、不当だろう。

もちろん私が、高橋教授や石川教授が語っていないことを語っているのは確かだが、分析をしているだけだ。分析の過程において、「権力を制限する」ものとして立憲主義の概念を使いたがる傾向について論じている。奥野教授は、これに対して、「憲法学でも国民主権と民主主義の緊張関係は論じられている」、といった指摘をしているが、私の議論とかみあっていない。

あまりにも政府が国民の代表者であることを軽視して、一方的に政府を制限することを無条件に良しとする「抵抗の憲法学」の傾向がある、そのことについて、私は分析をしている。

私が論じているのは、たとえば、主権という概念とは別に「統治権」という実定法上の根拠のない概念を、極めて実体化したうえで、堂々と若い法律家たちに教え込もうとする憲法学者の態度に、いったいどんな法的根拠があるのか、といったことだ。「主権」とは区別された「統治権」がないと、憲法学にとって不都合だ、と感じているから、そういう法的根拠のないことを無批判的に行っているのではないか、と疑わざるを得ないのだ(サントリー財団『アステイオン』90号[20195月公刊予定]掲載予定の拙稿「『統治権』という妖怪の徘徊~明治憲法の制約を受け続ける日本の立憲主義~」もご参照いただきたい)。

<憲法9条解釈に対する批判>

長谷部恭男教授が、今年の1月に出た岩波文庫に寄せた「解説」文について、拙論を書いたばかりだがhttp://agora-web.jp/archives/2038336.html 、篠田の憲法9条解釈批判は、今や面白い意味を持っている。

長谷部教授は、今世紀になってから、学会通説を変えるべく、自衛隊を合憲とする内容の著作を出した人物である。その長谷部教授は、今や二正面作戦を強いられている。

一方では、自衛隊違憲論を信奉する伝統派に対抗して、自衛隊合憲論を通説化させようとし続けている。条文にとらわれない憲法学者の「良識」で進めてきたプロジェクトだ。憲法9条と国際法のつながりも、役立つところがあるのであれば、利用してもいいのだろう。

ところが、この試みはうっかりすると、足を取られる。なぜなら憲法が国際法に結びついている経緯を明かせば明かすほど、「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」、という主張が、怪しくなってきてしまう。そこで長谷部教授は、さらにいっそう憲法学者の「良識」とやらを強調して、「自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」という立場を維持しようとする。

だが、それは本当に法律論によって支えられている議論なのか?ただ憲法学者たちの「良識」に訴えるだけで、法律論としては、学術的には、まだ全く成功が証明されていない作業のままなのではないのか?

さて、奥野教授は、そんな長谷部教授のような立場を助けることができるだろうか?奥野教授は、長谷部教授が満足するようなやり方で、篠田を否定できるだろうか?

奥野教授は、「国民」と「アメリカ」の力を借りて、篠田の憲法論を否定する。恐縮だが、よくあるタイプの議論だ。

篠田の9条解釈を見て、奥野教授は、「何ゆえ、戦勝国の意図に基づいて日本国憲法を理解しなければならないのか」(奥野論文55頁)、と訴える。「憲法9条の解釈にあたり国際協調主義を踏まえるとしても、あくまでも国民の視点で行わなければならない」(同上)と主張する。奥野教授によれば、篠田の憲法9条解釈を許すと、「アメリカの世界戦略への加入」(奥野論文56頁)になる。奥野教授は、篠田の解釈では「92項の意義が全く見出されていない」と断定し、「国民の視点から92項の意義が語られなければならない」(奥野論文57頁)と主張する。

こういった篠田の否定論が正しいとすれば、憲法の解釈にあたっては「アメリカの政策に同調する可能性がある憲法解釈は否定されなければならない」という原則が事前に確立されていなければならない。しかしそんな解釈原則は、さすがにどんな憲法学の教科書にも書かれていない。そんな解釈原則が正しいと、学術的に証明されたことは一度もない。

・・・国民主権が憲法の三大原理の一つだ。篠田は憲法「前文」に書かれている「原理」は「信託」の一つだけだ、とか憲法学通説を否定するようなことを言っているが、まあそれは無視しよう。とにかく憲法学通説では国民主権が三大原理の一つなのだから、「国民の視点」に立つということが、憲法解釈の原則だ。ところで篠田は、「国民の視点」に立っていない。だから篠田は間違っている。これに対して、憲法学者は「国民の視点」に立っている。したがって憲法学者は正しい。・・・

果たして、こういう議論は、本当に学術的な議論なのだろうか。

一方では、憲法学者は主権者「国民」も憲法には服することを認める、だから「抵抗の憲法学」を強調する篠田は間違っている、と主張する。

他方では、篠田の憲法解釈は「国民の視点」に反している、したがって「国民の視点」に寄り添っている憲法学者が正しい、と主張する。

「国民の視点」とは何なのか?どこにも説明がない。「アメリカの世界戦略」ってつまり何?どこにも説明がない。ただ、こうした不明瞭な言葉が、篠田を否定するには十分なもの、として提示される。

これは法律論なのか。初めに結論ありきで、ただあとは印象操作で言葉が並べられているだけなのではないか。奥野論文を読むと、疑問が次々と沸き起こってくる。

と、言いながら、しかし、最後に繰り返し申し上げる。私の議論をとりあげて論文を書いてくださった勇気ある憲法学者である奥野教授に対しては、心より感謝している。最後にあらためて、深く敬意を表したい。

 今年1月に出た岩波文庫の『日本国憲法』は、日本国憲法とあわせて、英文日本国憲法、大日本帝国憲法、パリ不戦条約、ポツダム宣言、降伏文書、日本国との平和条約、日米安全保障条約のテキストを収録するという意欲的な仕組みになっている。

国際的な流れの中で日本国憲法を位置付けるのは、正しい方法であり、歓迎したい。

 解説は、あの長谷部恭男教授である。憲法学者がかかわっている憲法理解が、このような形で提示されていることは、素晴らしいことである。賞賛したい。

それにしても、長谷部教授の解説文は、目を見張るものだ。

 

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 国際紛争解決の手段としての戦争を禁止する不戦条約の文言を受けた日本国憲法九条一項も、同じ趣旨の条文であり、禁止の対象を武力による威嚇と武力の行使へと文言上も明確に拡大したものである。「戦力(war potential)」の保持を禁じずる二項前段も、「決闘」としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるものと理解するのが素直であるし・・・、「国の交戦権」を否定する二項後段も、政府が一九四五年以来、一貫して有権解釈として主張してきたような、交戦国に認められる諸権利の否定ではなく、紛争解決の手段として戦争に訴える権利(正当原因)はおよそ存在しない、という趣旨に受け取る方が筋が通るであろう。一項と二項を分断した上で「戦力」「交戦権」など個別の概念に分解して解釈する手法は、条文全体の趣旨を分かりにくくする。(長谷部恭男「解説」岩波文庫『日本国憲法[2019年]所収、171頁。)

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 つまり長谷部教授は、1946年日本国憲法91項が1928年不戦条約と同じ趣旨のものであり、1945年国連憲章の文言にしたがった文言整理も行われている、ということをはっきり認めた上で、その延長線上で「戦力(war potential)」と「交戦権」概念を位置付けるべきことを提唱している。あえて内閣法制局の有権解釈の間違いを指摘しながら、提唱しているのである。

私は、2016年に『集団的自衛権の思想史』を出版し、20177月に『ほんとうの憲法』を出版した。そこで私が提示した憲法9条解釈は、次のようなものであった。91項で放棄されている「戦争(war as a sovereign right of the nation)」は、その文言から国際法で不戦条約以降に放棄されている「戦争」のことを指していることは、明らかである。したがってそこでは自衛権は放棄されていない。その1項の「戦争」の理解に沿って92項の「戦力(war potential)」を解釈すべきなのは、その文言から、明らかである。したがって92項は自衛権行使の手段を禁止していない。91項は「不戦条約」と「国連憲章」に強く影響された文言であり、そこで放棄されている「戦争」に自衛権が含まれたりしないことは、確立された国際法規から自明である。

憲法学通説は、伝統的に、私のような解釈の余地を認めてこなかった(芦部信喜『憲法学I憲法総論』[有斐閣、1992年]261頁、樋口陽一「戦争放棄」樋口陽一(編)『講座憲法学2主権と国際社会』[1994年、日本評論社]111頁、高橋和之『立憲主義と日本国憲法』[2017年、有斐閣]、53-54頁など)。

国際法にそった91項解釈の可能性を認めつつも、それを最後に覆すために、2項の「戦力」不保持を持ち出すという手法をとっていた。仮に1項で「自衛戦争」(憲法学者はわざと自衛権行使のことを「自衛戦争」と呼ぶが、実はそのような用語法には法的根拠がない)が留保されているとしても、2項で「戦力」が禁止されているので、結局、「自衛戦争」はできない、と憲法学者たちは論じてきたのである。

 私の主張は、この憲法学通説の解釈は、逆さまだ、というものであった。1項で先に国際法に合致した「戦争」概念が登場している以上、2項の「戦争潜在力(war potential)」としての「戦力」も、1項に続いて1項と同じ「戦争」概念が用いているものとして解釈するのが正しい、というのが、私の主張である。したがって2項で不保持が宣言されている「戦力(war potential)」には、1項で禁止されていない自衛権の行使の手段は、含まれない。それが最も論理的な解釈である。20191月の長谷部教授が言うように、91項・2項を一続きのもとして体系的に理解する解釈である。

 しかし長谷部教授は、自分の主張が篠田と重なるところがある、などということは、絶対に認めないだろう。

まあ、それはいい。

 だが気になるのは、長谷部教授が、いつから「war potential」に言及するような解釈論を提示するようになったか、である。

 長谷部教授は、まだ東大法学部教授であった2004年に出版した『憲法と平和を問い直す』で自衛隊合憲の議論を提示し、話題を呼んだ。だがそれは、ひどくふわっとした、絶対平和主義は特定の価値観の押し付けなので、「穏健な平和主義」あたりがいい、といった曖昧な主張であった。

そのとき、長谷部教授はむしろ、「日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない」(長谷部『憲法と平和を問い直す』142頁)、などと平気で主張していた。そのうえで憲法の「解釈運用は、最後は専門の法律家の手に委ねられる」(同上、173-174頁)べきだと平気で主張していた。つまり、長谷部教授好みの「穏健な平和主義」が正しいのは、文言解釈にはとらわれない憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねることが、憲法学者が信じる最も正しい憲法解釈の方法だから、憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねて憲法を運用していかなければならないからでしかなかったのである。この驚くべき憲法学者中心主義それ自体は、最近の著作でも貫かれている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 

いずれにせよ、以前の著作において、決定的な自衛隊合憲論を主張する著作においても、長谷部教授は、「war potential」の概念を提示することなどはしていなかった。むしろ、憲法解釈は、憲法の文言に委ねるのではなく、憲法学者に委ねろ、という話しかしていなかったのである。

それ以降の著作でも同じだ。私も長谷部教授の憲法9条論はだいたい確認しているつもりである。しかし最近になるまで、長谷部教授が、「war potential」についてふれているのを見たことがなかった。長谷部教授がようやく初めて「war potential」についてふれたのは、私の『ほんとうの憲法』が出版された数か月後の201710月のことである。ウェブサイトにおける連載記事で、長谷部教授は、201710月に、次のように書いた。

 

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戦力ということばは、いろいろに理解できることばである。歴代の政府は、このことばを「戦争遂行能力」として理解してきた。war potential という条文の英訳(総司令部の用意した草案でも同じ)に対応する理解である。91項は、明示的に「戦争」と「武力の行使」を区別している。「戦争遂行能力」は「戦争」を遂行する能力であり、「武力の行使」を行う能力のすべてをおおうわけではない。そして、自衛隊に戦争を遂行する能力はない。あるのは、日本が直接に攻撃されたとき、必要最小限の範囲内でそれに対処するため、武力を行使する能力だけで、それは「戦力」ではない、というわけである。<http://www.hatorishoten-articles.com/hasebeyasuo/10

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 201710月になってようやく「war potential」の概念を参照するようになった長谷部教授は、しかしまだ「歴代の政府」と「総司令部」の解釈がそれだ、という突き放した言い方で、「war potential」を参照するだけであった。つまり201710月にようやく「war potential」について触れ始めた長谷部教授は、しかしまだその時点では20191月の岩波文庫の「解説」における文章のように、「war potential」を自分自身の92項解釈の基盤とするほどの立場はとっていなかった。長谷部教授の憲法9条理解は、変化し続けているのである。

 ちなみに201710月の長谷部教授の言説は、問題を含んでいる。長谷部教授は、「歴代の政府」の解釈は、「総司令部」の「war potential」の理解と同じだ、と201710月に主張した。しかし日本政府が「war potential」という概念を参照して憲法92項解釈を行った記録を、私は知らない。存在していないと思う。日本政府が「war potential」を参照して「総司令部」のように国際法にそった9条解釈を施した、という経緯はない。

ところが20191月になると、その解釈を、長谷部教授は、自分のものともした。かえって今度は、日本政府の「戦力」「交戦権」の理解はおかしい、と言い始めた。つまり「war potential」として「戦力」を解釈しない日本政府はダメな憲法解釈をしており、したがってこの点では内閣法制局の有権解釈も否定されなければならず、「war potential」として「戦力」を解釈する自分は優れている、ということを示唆するようになった。20191月の長谷部教授は、「総司令部」には、ふれない。

どういうことなのか、私には、長谷部教授の態度が、全く不明瞭なものにしか見えない。

私のように日本国憲法における「戦争(war)」「戦力(war potential)」概念を、不戦条約や国連憲章によって代表される国際法規範にそって解釈する私の立場を採用するのであれば、もはや個別的自衛権だけは合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという国際法に反した主張を維持するのは、著しく困難になるはずだ。だがもちろん長谷部教授が、今になって集団的自衛権の合憲性について、私と同じ立場をとるなどということは、想像できない。それはもう期待しない。しかしそれにもかかわらず、実際には、以前の長谷部教授の9条解釈では見られなかった解釈方法を、20191月の長谷部教授は行うようになっている。

それはどういうことなのか?全く不明瞭である。

これでは長谷部教授は、国際法と憲法の関係について、まったく一貫性のない、つまみ食い的な態度しかとっていないのではないか?という疑惑が深まっていかざるをえない。

*****ところで、この文章を読んでいる方で、長谷部教授の言説について一貫性のある体系的な説明ができる方がいたら、私にそれを教えてほしい。また、20177月以前に、長谷部教授が「war potential」に参照している文章があることを知っている方がいたら、やはり私にそれを教えてほしい。*****

長谷部教授は、2018年の『憲法の良識』で、次のように述べた。

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このところ、日々憲法について発言する人々の顔ぶれを見ると、その大部分は、憲法の専門家ではない人たちです。専門外の問題について憶することなく大声で発言する、その豪胆さには舌をまくしかありませんが、こうしたフェイク憲法論が世にはびこることには、副作用の心配があります。これは高血圧に効く、あれは肥満に効くといわれるリスクの中には、にせグスリもあるでしょう。……その結果として起こるおかしな事態は、最初におかしな言説をとなえた人たちだけに悪い影響をもたらすわけではありません。日本の社会全体に悪影響が及びます。(203-204頁)

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 つまり長谷部教授にとっては、私、篠田英朗、という人物も、存在していないに等しいものでしかない。私の『ほんとうの憲法』という著作も、存在していないに等しいものでしかない。

 したがって長谷部教授の『ほんとうの憲法』以降の言説が、『ほんとうの憲法』における議論とどういう関係にあるのか、という問いは、長谷部教授が絶対に受け入れることのない問いだ。仮に長谷部教授が「war potential」について参照し始めたのが、私の『ほんとうの憲法』の公刊後のことであったとしても、それは長谷部教授は決して参照することのない事実である。なぜなら私の『ほんとうの憲法』という著作自体が、長谷部教授にとっては、この世に存在してはならない憲法論でしかないからである。存在してはならないものなのだから、長谷部教授は決して私の著作を参照することはない。

 しかし、どうだろう。仮に、長谷部教授が、私が指導している博士課程の学生だったとしたら、どうなるだろう。

 指導教員である私は、長谷部教授のような博士課程の学生に、次のように言わなければならない。

 「先に自分の議論に関係している議論をしている著作があったら、きちんとそれを参照しなければ、学術的には、剽窃(plagiarism)に該当してしまうんだよ。君が、そんな著作の存在は認めない、意識化していない、だから剽窃にはあたらない、と主張するとしても、それはダメだ。学位をとりたかったら、剽窃行為だと言われないように、きちんと関係している先行研究を参照しなさい。」


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