「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2021年07月

全国の新規陽性者数が、日本国内の最高値を記録しながら拡大を続けている。死者・重症者ともに抑え込まれているので、煽りは禁物だ。だが、新規陽性者数を無限大に拡大させ続けていてよいわけではない。冷静な対応は必要だ。

今の日本の閉塞状況は、必要な対応策をとっていないことによって生まれている。誰もが必要だと知っている対応策を無視していることによって、生まれている。

必要なのは、憲法改正である。

新型コロナ危機が発生した一年半前から、新型コロナ対策としての憲法改正の必要性は皆がよくわかっていた。それなのに、先送りにし続けているので、問題が悪化し続けている。

私は、昨年の新型コロナ発生以来、「日本モデル」の動向をテーマにした文章をだいぶ書いた。その際、私が強調していたのは、「何が日本の長所で、何が日本の短所なのか」をはっきりさせ、「長所を伸ばし、短所を補う」戦略を構築すべきだ、ということだった。

残念ながら、事態は逆に進み続けている。

日本の長所は、強制力がなくてもマスクを着け続けるなどの基本的な感染症対策を怠らない良質な国民の存在である。日本の短所は、問題の本質をとらえて分析し、構想力を持って対策を提示して説明するリーダーの欠落である。

前者の強みを活かしながら、しかし負担増による疲弊で遂に崩壊する前に、後者の弱みを補うことが必要だった。

残念ながら、弱みの補強はなされないまま、国民の疲弊が高まり続けている。政治家は責任逃れの姿勢を改めず、知識人たちは「俺の方がお前より頭がいい」、「俺が専門家で、お前は専門家ではない、俺の言うことを聞け」、のマウント合戦だけに明け暮れている。

政策レベルで言えば、新型コロナ対策で必要なのは、感染症対応に全く脆弱な医療体制の強化だ。医師会などが抵抗勢力になるのであれば、それを乗り越える法整備が必要だ。

ロックダウンを行うのであれば、私権制限をしっかりと位置付ける法的根拠が必要であり、それがあって初めて整合性のある補償体制も正当化される。

二つの方向性に沿った施策をとるためには、緊急事態条項を憲法に導入することが必要だ。平時とは異なる緊急事態の法的位置づけがあって初めて、医者の権利主張と、営業者の権利主張を乗り越える政策を正当化する基盤が作れる。

このことについて、気づいていない日本人はもはやいないのではないか。

しかし野党第一党の立憲民主党は、「政府の新型コロナ対策は手ぬるいので、自民党には憲法改正の資格はない!」といった、いつもの固定ファンに訴えるだけの意味不明の立場を変えようとはしない。

これに対して自民党の菅首相も、20世紀の55年体制の構図のままだ。「まず新型コロナを解決します、そして憲法改正の必要がなくなったら、憲法改正に『挑戦』します」、といったことだけを述べている。現実の問題に対応するために憲法改正をする気概はなく、ただ憲法改正に関心を持つ投票者層をつなぎとめておきたいだけだ。

日本の新型コロナの被害は、国際的に見れば小さい。分科会の尾身茂会長とキーパーソンである押谷仁教授が道筋をつけた方向性にそって、国民が平均値の高い努力を行ってきたからだ。しかし、負担の偏りを無視して、現場の努力に依存するだけでは、長期的な試練には耐えられないことは当然である。

前線の努力で時間稼ぎをしながら、制度的な改善をしておかなければならなかった。一年前からわかっていたことである。https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%82%92%E7%85%BD%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-WAC-BUNKO-330-%E4%B8%8A%E5%BF%B5/dp/4898318304/ref=sr_1_6?dchild=1&qid=1627685849&s=books&sr=1-6

他国の人々のおかげでワクチンが開発され、大量生産が始まった。地方自治体レベルの現場の頑張りで、当初の予想よりも早いペースで接種も進められている。相変わらずの「日本モデル」のパターンとはいえ、不幸中の幸いではある。

しかし、これを政治の怠慢をさらに先送りにする要因にしてはいけいない。

正直、超高齢化した日本社会の現在の政治状況では、予測としては、現実逃避の先送りが続く可能性が高い。

社会の改善に、新型コロナ危機だけでは足りなかった、ということだ。さらなる危機の増幅によってしか、改善の機運は生まれないのかもしれない。

しかし改善より前に、危機によって日本が崩壊していかないという保証はどこにもない。

東京オリンピック・パラリンピックは、日本が国際社会で生き残れるかどうかの大きな試金石になるかもしれない。
 小山田圭吾氏に続き、絵本作家のぶみ氏がオリパラの役職から辞任し、開閉会式の「ショーディレクター」を務める小林賢太郎氏も米ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)」から抗議を受けて、電撃的に解任された。
 国際社会の標準的な価値観に真っ向から挑戦している内容を伴っており、いずれも深刻である。女性蔑視発言による辞任が相次いだオリパラだが、開会直前になってメガトン級の価値観をめぐる争いを、日本の電通・博報堂が主導するオリパラ準備チームが仕掛けている流れだ。

「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会開会式および閉会式コンセプト」なるものが、開会式直前になって出された。https://olympics.com/tokyo-2020/ja/ceremonies/

「復興五輪」などの従来から語られてきた理念が盛り込まれなかったことが話題になるとともに、謎めいた英単語が羅列されていることへの違和感が表明されている。

たとえば閉会式では、「Worlds we share」という概念がテーマとされた。だがなぜ「世界(World)」が複数形になっているのか。
 地球人と火星人の戦いや、冷戦時代の米ソ対立の様子を描写するときくらいでなければ、普通は「世界(World)」を複数形にすることはない。

公式説明は、「“Worlds we share”という表記は、本来『世界』は『The World』と表記するところを、『Worlds』と表記することで、一人ひとりが異なる世界を持っている様相を表し、『一人ひとりの持つ異なる世界を共有しあって生きている』ということを表現しています」、とする。

しかし通常は、多様性(diversity)を包含する(include)することができるのは「世界(The world)」という一つの共通の場があればこそだ。「世界」それ自体が複数になってしまうと「共有する場」が失われてしまう、というのが、普通の国際社会の考え方である。80億近い人々全員が自分たちだけの「世界」を持っているという考え方は、ラディカルな相対主義であり、国際社会の標準的な価値規範に真っ向から対決を挑むものだ、と言わざるを得ない。

開閉会式のプロデューサーチームを統括する日置貴之氏は博報堂の出身だ。今回のオリパラでは、電通・博報堂などの広告代理店が運営に深く食い込んでいる様子が目立っている。https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107140001278.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp オリンピックが延期になって電通などに巨額の損失が発生していると指摘された昨年から、さらにいっそう広告代理店に新規契約が回っている印象を受けざるをえない。その結果、広告代理店が取り仕切る人事で、開閉会式を構成する人物たちが、総入れ替えになった。そして、次々と価値観をめぐるスキャンダルが発生するようになった。

この背景に「複数形のWorlds」があるように思えてならない。日本の広告代理店の見込みでは、世界中の人々はバラバラだが、なぜかわからず何となくオリンピックの「感情(emotion)」だけで結びつく、ということらしい。「複数形のWorlds」の背景には、深刻にいがみ合っている人たちもオリンピックを見れば仲良くなる、といった超楽観主義的な考え方があるようだ。

現在進行形の価値観をめぐる騒動をみると、この日本の広告代理店が突きつける考え方に、果たして根拠があったのか、甚だ疑わしい。

日本の島国社会の「ムラ文化」では、価値観の体系的な表明や議論をへることなく、「腹芸」的な「あうんの呼吸」による「空気を読む」同調主義の文化で、不文律の規則が適用されていく。この社会の特徴と弊害は、新型コロナの「自粛」ムードの中で、日本人自身も痛いほど感じているところだ。

「世界はバラバラ、共通の価値観なんかない、でもオリンピックを見ると理由もなく皆仲良くなる」、というメッセージが、「ムラ社会」日本人の世間離れした不文律の同調主義を強要する態度によるものではないかには、深刻な疑念の余地がある。

本当の世界では、人々は価値観をめぐる深刻な争いをしている。いわば生きるか死ぬかの状況の中で、何が最も正しい価値観なのか、を議論しあっている。

そこに日本の広告代理店が現れて、「女性蔑視するのも一つの世界、共有しあおう」、「凄惨ないじめも一つの世界、共有しあおう」、「ホロコーストをギャグにするのも一つの世界、共有しあおう」といった世界観を、同調主義的文化の態度にもとづいて、各国の人々に強要しようとすることは、控えめに言って、相当に冒険主義的なことである

巨額の財政赤字を抱えながら、広告代理店に大型契約を発注し、誰も責任をとらない仕組みを拡大再生産しながら、日本は「複数形の世界」を求めるオリパラを実施しようとしている。

果たして日本はこのオリパラを乗り切れるのか。

そもそもなぜ、日本はこんな冒険主義的な試みをしているのか。
 議論が必要だ。

小山田圭吾氏の壮絶いじめ問題が、大きな騒動となっている。私は、小山田氏の和光学園中学時代からの友人で「フリッパーズ・ギター」時代の盟友である小沢健二氏と高校の軽音楽部で同期だった。小山田氏と高校時代に会ったこともあり、噂話も聞いたことがある。ここでは人格問題は、あえては書かないようにする。

いずれにせよ、今回の騒動の発端は、小山田氏が五輪開会式の作曲者に選ばれたことだ。そこに大きな疑問がある。

大会組織委員会の当事者意識が、あまりに薄弱だ。開会式数日前で音楽を変更することができない、という事情があるのはわかる。だが、そうであるならば、なおさら大会組織委員会としての倫理的立場ははっきりと表明し、糾弾すべきことを糾弾したうえで、五輪精神に傷をつけて多くの人々の期待を壊したことを本人と共に謝罪すべきではないか。

ところが五輪組織委員会は、「『組織委員会として把握していなかったが、不適切な発言である』としたが、『本人はこの取材時当時の発言については後悔し反省しており、現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエイターの一人であると考えている』と擁護」することしか行っていない。https://news.yahoo.co.jp/articles/a4690499a5b56b9da725f1b2d370b82a040015dd

この報道によれば、組織委員会が問題視しているのは、小山田氏の雑誌における「発言」であり、小山田氏の「行為」ではない。つまり、これでは、雑誌における「発言について」本人が「公開し反省」すれば、組織委員会としてはそれで帳消しにする、ということになってしまう。

つまり、雑誌記事さえなかったことにできれば、それでよい、という立場になってしまう。

これでは凄惨ないじめの被害者の関係者はもちろん、いじめの内容に精神的なショックを受けている多くの人々が、全く納得しないのは、当然だろう。

知的障害者の権利擁護と政策提言を行う「全国手をつなぐ育成会連合会」が、公式サイトで「今般の事案を踏まえても留任させる決断をしたにも関わらずまったく公式な説明を行っていない東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会には、重い説明責任があります」と指摘しているのも、そのような組織委員会の態度への疑問からだろう。

「全国手をつなぐ育成会連合会」は、「本会としては、すでにオリンピックの開催が直前に迫っており、小山田氏も公式に事実を認め謝罪していることも勘案して、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加取りやめまでを求めるものではありません」と述べながら、「しかし、今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたいと思います」とも強調しており、問題の本質を捉えている。

同会の「声明文」は、冷静さを保ちながら、日本社会のあり方を問い直し、その観点から五輪組織委員会に社会的責任のある態度をとることを求めている点で、優れた文章だ。http://zen-iku.jp/info/4353.html

これと対照的なのが、五輪組織委員会だ。ただ事の鎮静化だけを図ることだけを目指し、「発言」を「反省」したから辞退させることは回避したい云々といったことだけを気にしている近視眼的な姿勢に終始しているように見える。

現在、日本の世論は、オリンピック開催の是非で割れている。過去にも、現在にも、多くの不祥事や不手際が生じていることへの批判の声も強い。この背景に、「五輪貴族」への接待だけは欠かさないようにしながら、前世紀の高度経済成長時代の物語を振り回すだけで、高齢男性たちが巨額の資金を動かしている仕組みへの深い猜疑心があることに、五輪組織委員会は、もっと真摯に向き合うべきだ。

金儲けに群がった高齢男性たちが迷走を繰り返して無残にも失敗した、という破綻のシナリオから脱するには、どうしたらいいのか。

五輪が目指している高尚な精神に共鳴して、日本も国際社会に貢献するために五輪を行う、という未来志向の価値観にこだわる必要がある。

五輪組織委員会には、そのことを真剣に考えてほしい。

日本の新型コロナ対策が迷走している。オリンピック問題に飛び火し、今や世界に日本の迷走を強烈にアピールしてしまっている。残念なことだ。

私は、国際政治学者だが、というか国際政治学者だったからこそ、新型コロナ危機の国際的な衝撃を知りたいと思い、昨年は、ブログ記事を書く機会などを通じて、自分なりの理解の整理を行ったりしていた。

その際、私が繰り返し書いていたのは、「何が日本の長所で、何が日本の短所なのか」をはっきりさせ、「長所を伸ばし、短所を補う」戦略を構築すべきだ、ということだった。

新型コロナのような巨大な問題では、数多くの人々のイデオロギーや名誉欲だけでなく、巨大利権や社会権力構造が関わる問題として本質が見えなくなりがちだ。「戦略」的視点をとることが、非常に難しい。繰り返し「何が日本の長所で、何が日本の短所なのか」を確認して精査し、その分析に見合った政策をとらないと、いずれ瓦解していく。

私が「日本モデル」として称賛していたのは、尾身茂・分科会会長や押谷仁・東北大教授らのリーダーシップであった。残念ながら、今は、あるいは菅政権になってからは、彼らも旧来のエスタブリシュメント層によって、利用価値だけが計算されているような状態に陥ってしまった。

短所がますます拡大し、長所がますます縮小している。日本の短所である「ビジョンのあるリーダーシップの欠如」が悪化の一途をたどり、長所である「平均値の高い国民の能力」が疲弊しきっている。

日本では、政治家が官僚に、官僚機構が末端組織や下請けに、「上手くやれ」、とだけ言い、矛盾を下に抱えさせて、問題を処理していくやり方が、得意だ。リーダーシップ層では閉鎖的な人事体系の中で目先のリスク回避優先の組織防衛が先走るので、どうしても目に見えない忖度文化の権力関係を活用して平均値が高い現場の国民の能力で問題を改善させる方法に頼りがちになる。

たとえば、日本の医療システムを抜本的に改革するというのは、大変な作業だ。危機が訪れたとき、日本の医療で対応できる限界を計算し、国民の努力でも補う作戦を考えるのは、合理的であった。だがいつまでも改善もせず、国民の負荷を継続して高め続けることによって、何年もの間やっていこうというのは、あまりに持続可能性がない。

ワクチン普及についても、場当たり的で、状況に合致したシステムの構築は、全く看過されている。その一方で、地方自治体への負荷を高め続け、現場の努力を最大限以上に引き出すことによって成果としていこうとする短距離走型のやり方は、いずれ行き詰る。http://blog.livedoor.jp/dannapapa/archives/5272188.html 

金融機関に忖度をさせて飲食店を締め上げようとした通産(経産)官僚出身の西村康稔大臣の発言が炎上したが、西村大臣を支援していた官僚群は、「いつもやっているやり方なのだが・・・」という気持ちしか持っていないだろう。上には迷惑をかけず、下に負荷をかけ続け、下請けに全てを飲み込ませ、決して目立たせることなく、問題の言語化はできるだけ避けて、問題を処理していくのが、日本の正しい官僚の道というものだ。ただ危機の状況では、それが可視化されてしまうので、異常さを一般国民から指摘されてしまう。

言うまでもなく、高度経済成長期の全てがキャッチアップで動いていた時代であれば、従来のやり方にも相対的に意味があった。しかし、今は、社会を停滞させる癌のような精神文化でしかない。

一回目の緊急事態宣言が終わったちょうど一年前ほど前、社会の改革を促す機運があった。その中で、飲食店については、財政支援という明快ではあるが天井がある措置に加えて、デリバリー営業や、路上営業の促進を目指した政策の導入が謳われていた。「ウィズコロナ」という掛け声を、具体的な政策で考えている欧州諸国では、この一年で飛躍的にデリバリー業界が伸びた。飲食店の営業も、室内は引き続き閉鎖しながら、屋外部分のみで営業しているやり方も一般的だ。もともとの文化が違うと言ってしまえばそれまでだが、日本でも、一年前は、確かに路上を飲食店営業に提供していくための措置の必要性が語られていた。

そのような変化は、一年後の日本のどこにも見られない。皆、一年前の議論など、忘れてしまった。というか、忘れさせられてしまった。

むしろ路上で飲むのは「抜け駆け」なので取り締まろう、という自粛警察の敷衍化だけに頼る考え方だけが進み続けた。新型コロナの大きな特徴は「エアロゾル感染」だという押谷教授の世界に先駆けた発見は、むしろ欧州諸国のほうで応用が進んだ。日本では「三密なんて甘い!」といった綱紀粛正だけに突破口を求める人々によって、封印が果たされた。そして、「路上営業の拡大なんて、面倒な制度改革が沢山あるじゃないか、それより金融業者に忖度させ、飲食業者にさらにいっそう忖度させた方がいい」、という「常識」を、「常識」として思い出し、受け入れることを強いられることになった。

新型コロナだけの話ではない。オリンピックがあまりにも電通を中心に回っている、という批判がなされている。ミャンマーに対する「人権外交」の是非を問うと言っても、結局は年間数千億円の円借款の契約者として名を連ねている大企業群やその背景のフィクサーの保護こそが、最大の論点になる。

「護送船団」方式は、キャッチアップが全てだった高度経済成長期のやり方だよ、ということは誰でもわかっているはずだ。だが、不可視の忖度で結ばれあった政財官のエスタブリシュメント層の鋼鉄の人事システムの中では、長期的なビジョンにもとづくリーダーシップを期待するのは、無理なのだろう。

新型コロナにおける「日本モデル」は、日本社会のあり方にメスを入れるための良い機会だった。その機会が失われたまま混乱だけが広がっているのは、残念である。

74日はアメリカの独立記念日だ。2か月前、バイデン大統領は、74日までに成人の70%が1回目のワクチン接種を終えるようにする、という目標を立てていた。残念ながら、この目標は達成されなかったという。バイデン大統領は、72日の記者会見で、変異ウイルスによる感染が広がっていることを強調し、ワクチン接種の重要性をあらためて訴えざるを得なかった。

 早期のワクチン開発に成功し、一日400万人接種を行い始めたアメリカの「ワープスピード作戦」について、私は称賛の論考を書いたことがある(「軍のロジスティクスを接種に活かせ」『VOICE20215月号)。イノベーションを生み、精緻な計画を実行して、リーダーシップを発揮していくエリート層の存在で、アメリカは世界にその底力を見せた。バイデン政権の最初の半年間で、アメリカはその威信をそれなりに取り戻したと思う。

 だが接種者数の目標を達成できなかったのは、バイデン政権にとって大きな痛手だ。すでに広く知られているが、民主党の知事がいるようなリベラル系の州では、目標を超えるような接種率を達成している。接種数が伸び悩んでいるのは、バイデンが大統領選挙で勝利することができなかったような保守系の州だ。接種が伸び悩んだのは、全米レベルの供給体制の問題ではない。アメリカの保守層に感情だ。接種に対する否定的な見方が根強いため、接種を希望する者が思うように伸びてくれないのだ。

 ワクチン接種開始前のアメリカは、新型コロナ対策の不備が災いして、世界最悪の甚大な被害を出した。日本のように一般庶民の地道な感染予防対策で、被害をそれなりに抑え込んできた国などと比して、好対照の成績であった。アメリカは、自由主義を謳歌する国であるがゆえに、エリートは強固であるが、一般庶民の平均的能力は必ずしも高くなく、それが新型コロナに直面したときの劇的な被害と、劇的な挽回とを生み出してきた。

 今も同じ状況が生まれている。確実な効果が見込まれるワクチンの普及に対して、障害になっているのは、人々が享受する「自由」だ。

 ワクチン接種に関心を示さない一般庶民層は、アメリカが標榜する自由の理念によって守られている。大統領をはじめとする誰にも、接種を拒否する者に接種を強いることはできない。

だが、このままでは、「ワープスピード作戦」の成果も、中途半端なままで終わってしまう。集団免疫の夢はもちろん、被害の拡大の停止も、どこまで実現できるかわからない。

今年初めに25万人を超えた全米の一日当たりの新規陽性者数は、6月半ばに12千人程度にまで減少した。しかしその後、漸増し始めている。死者数は、1月には一日あたり3千人以上だったが、現在は300人以下に抑え込んでいる。しかし0人にはなりそうにない。新型コロナを封じ込んだ、と言えるレベルではない。一人当たりの新規陽性者・死者数は、緊急事態宣言後の現在の日本の水準にまで到達できていない。

 自由主義の雄は、新型コロナ危機に対して、まず自由主義の脆弱性を見せ、次にその実力を見せつけ、そして今やまたその限界を露呈している。

 中国共産党は、自由主義の限界を、再び勝ち誇った視線で見守っていることだろう。

 バイデン政権は、「自由主義諸国vs.民主主義諸国」の競争の時代を勝ち抜くという「バイデン・ドクトリン」と呼ぶべき世界観を打ち出して、その政策を体系化しようとしている。

 だが日本では、外務省OBの田中均氏らが、中国外相とともに、「インド太平洋」概念の放棄を訴えている。
 外務省OB田中均氏の「日本は米中双方に自重を促せ」は正しいか – SAKISIRU(サキシル)
 中国外相、インド太平洋戦略は「ごみの山に」 - 産経ニュース (sankei.com)

現役の外務省の北米局長の市川恵一氏ですら、「『民主主義対権威主義』という一種、単純な二項対立で国際社会を規定するのは、この地域(アジア)とコミュニケーションするうえで、決して有用なやり方ではない」と断ずる。https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/62725.html 

 私事になるが、私の最終学位は、ロンドンのLSEという大学のPh.D.だ。社会科学分野では、ハーバード大学に次いで世界2位とランクされている大学院大学である。LSEのような大学では、何年もかけた研究を、「一言で要約せよ」、と指導教員に何度も言われる。

 日本では、政治家は何を言っているかよくわからないのが、一般的だ。それどころか日本では、曖昧な言い方に終始する政治家や官僚こそが、かえってよく出世したりする。それに対して、欧米社会では、自分の伝えたいことを簡明なメッセージで伝えられる人間こそが、優秀な人間である。

これまでもアメリカは、アジア人が見ると「単純な二項対立」と言わざるを得ないようなメッセージを発して、強く国際社会をリードしてきた。「世界は複雑だ、簡単には描写できない、あえて何かを言おうすればどうしても曖昧になる」といったことをブツブツ言っているだけの者に、国際社会をリードすることなどできない。

しかし同じアジア人とはいえ、中国人は、日本人とは違う。

中国人ならば、欧米の帝国主義者と、非欧米世界を対比させる。あるいは放漫な欧米人と、規律正しい中国人を対比させる。そして後者の優位を主張する。

日本人は、「バイデン・ドクトリン」を拒絶しようとしているが、中国人はしっかりと受け止めている。そのうえで、勝ち抜こうとしている。

日本人が「世界はそんなに単純じゃないよ・・・」と苦情を言っている間に、二つの超大国は、単純な世界観にしたがった競争を進めているのである。

ワクチンもまた競争だ。自国内の新型コロナの封じ込めだけではない。世界に、どちらのワクチンを普及させることができるかも、「単純な二項対立」と言わざるを得ないような形で進展している。「単純な二項対立」を拒絶する日本ですら、実際には「単純な二項対立」の世界観に従った形でしか、ワクチン普及を行えていないのが、否定できない現実ではないか。

二つの超大国は、今後長い年月をかけて、競争を行い続ける。その間、日本が、ひたすら「単純な二項対立」を拒絶し続けようとするのは、勝手だ。しかし実際には、国力を疲弊させた日本に、超大国の行動を変える影響力などない。結局は、日本も「単純な二項対立」の世界でしか生きていくことができないのだ。

アメリカは、日本をあてにはしていないだろう。日本も、「バイデン・ドクトリン」にしたがってアメリカを助けるつもりはないようだ。

だが、結局は日本の命運も、自由主義陣営の雄であるアメリカの浮沈によって、大きく左右される。ワクチン競争後の世界が、どのように開けていくのか。その結果で、日本の未来も大きく左右される、という現実だけは直視しておいたほうがいい。

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