「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2022年01月

 オミクロン株の「津波」が押し寄せ始めているが、「予報」通りだ。諸国の取り組みから情報を得ている。広い視野を持った合理的な政策の実施を望む。

「コロナ死者数を1人減少させるためにどの程度の経済的犠牲を払いたいか」を試算すると、日本は約20億円、米国は約1億円、英国の約0.5億円だという。https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK262890W1A221C2000000/?unlock=1 各国がいずれも従来の資本主義の論理だけでは説明できない対応をしているとはいえ、日本の「新しい資本主義」ぶりは際立っている。

 なにやら日本では、新型コロナ対策は、高齢者と肥満者を保護するため、費用対効果の検証を抜きに予算を投入してよい聖域となっているようだ。

果たして本当にこれでいいのか。

高齢者や肥満者は、将来世代への感謝を表すとともに、責任負担の在り方について考え直す機会を得たいとは思わないのか。

総理大臣が新しくなったからといって、短期決戦を繰り返すような政策だけになっていないか、日本の新型コロナ対策に持続可能性があるのか、政策担当者は責任ある視点で考えていってほしい。

 たとえば水際対策だ。複数の派遣会社への外注で積み重ねられた重厚な人員体制で、成田空港から福岡に送り込むほどの広範さでホテルを借り上げて食事を提供して何日もの隔離を施す政策が無期限で進行中だ。だが、そこにいったいどれくらいの予算が投入されるのか、どこかで議論されているというニュースを見ない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/08c268b25e664daed78a22a9e01ddd450490162e 

https://www.asahi.com/articles/ASPC36568PBTPTIL022.html 

 私は新型コロナ危機初期「第一波」の時から、水際対策の重要性を書いてきたが、常に空港税の増額などの措置を伴った施設拡充を中心に論じてきた。https://agora-web.jp/archives/2046078.html 現在の政府の政策は、私が論じてきた方向とは全く違う方向で、「水際対策」を行うものだ。

 たとえば政府は、「外国人の一律入国禁止」を続行し続けるつもりのようだ。人道的な理由やビジネス上の理由があっても受け付けない、この措置は無期限で続ける、という姿勢である。

 だがどうしても日本に入りたい強い希望と合理的な理由があり、そのためには費用負担も辞さず、検査や隔離に伴う費用を全て自費で賄って日本の国庫に負担をかけないと誓う外国人がいても、絶対にダメ、という政策は、本当に新型コロナ対策として合理的か。
 日本人について、私のような研究者の例をとろう。われわれにしてみれば、費用対効果の観点から合理性のある費用負担を求められても、それで渡航可能性を広げてくれるのであれば、やみくもに禁止を乱発されるよりも、ありがたい。このままでは、いずれ日本人の地域研究者は壊滅に追い込まれるし、研究開発領域の全般で国際競争力を失っていくことは必至である。

 これが岸田首相の目指す「新しい資本主義」の姿か。

 ・・・そんなことを言っても内閣支持率はまだ高いんだ、日本の有権者の平均年齢が高いのは現実なんだから受け止めるしかないじゃないか・・・、という意見が、政府関係者の本音だろう。

 だがそれは、将来世代の視点に立ってもなお、本当に持続可能性のある合理的な政策か。「新しい資本主義」の新型コロナ対策について、もう少し議論があってもいいような気がする。

 日本では秋口から新型コロナ感染者数が激減した。ワクチンがあったからである。だが、これを本気で不思議な現象だと思っている人がいるようだ。特に現在、欧米諸国でオミクロン株によってワクチン接種者も席巻されている様子を見て、ますます不思議だと思う人がいるようだ。

 私はもちろん素人でしかなく、新型コロナについて研究しているわけでもないので、偉そうなことを言うつもりはない。しかしここまで不思議がる人が多いとなると、いったい何がそんなに不思議なのか、と問い直したくなる。

新型コロナ対策については「専門家の言うことを聞け」「日本人はもっと数学を勉強するべきだ」といった話が多く聞こえた。だが、僭越ながらもう少し社会工学的な視点も真面目に取り込んだほうがいいのではないか。

2020年前半、新型コロナが蔓延し始めた頃、国際政治にも甚大な影響が及ぶことが必至であり、私も多少は勉強をした。それで連続してブログ記事を書いたりした。実は、その時、無性に読み直したくなったのは、クラウゼヴィッツや孫子の軍事戦略論の古典だった。

解決策は自明ではないが、対応策はある、というとき、「政策」論が生まれる。もしその「政策」が、「敵」に直面しながら行うものであれば、軍事であろうと公衆衛生であろうと、同じような「戦略」論の枠組みでの立案と検証を行うことができるだろう。

だからクラウゼヴィッツや孫子を読み直したくなったわけだが、非常に気になっていたことの一例に、「戦力集中投下の原則」の運用がある。

当時、日本も「厳格なロックダウン」を行うべきだ、「人と人との接触の8割削減」だ、といった主張が声高になされていた。法律論、思想論としての議論もあるが、とりあえず戦略論として、それは正しいか。大きな問いだった。

私は専門家会議のキーパーソンであった押谷仁教授らの著作なども読んだうえで、「日本モデル」の妥当性を確信し、恐縮ながら「西浦モデル」と私が呼んだものへの批判的な文章をかなり連続して書いたりした。

実は「厳格なロックダウン」派がよく口にしていたのが「兵力集中投下の原則」という概念であった。これは戦場において小出しに兵力を展開させるよりも、集中的に展開させたほうが高い効果が得られる、という考え方を表現する際に使う概念である。

「厳格なロックダウン」派は、完全な都市封鎖をして短期間でウィルスを撲滅させるほうが、ダラダラとした自粛を長期にわたって続けるよりも、効果が高いはずだ、という主張するために、「兵力集中投下の原則」という概念を口にしていたのである。

だがこれは、「兵力集中投下」という言葉だけを覚えて振り回しているだけの乱用の悪例である。概念の中身を理解したうえで、慎重に運営しようとしている姿勢ではない。

あらゆる場面で常に兵力を集中的に投下すると必ず戦争に勝てる、などというバカげたことがあるはずがない。「兵力の集中投下」さえすれば弱者も勝者に必ず勝てる、あらゆる社会問題に片っ端から「兵力の集中投下」すると全ての問題が解決される、ところで国民全員が一斉に家に引き籠るのも「兵力の集中投下」に該当する、などといった主張は、全て完全に破綻した議論である。

「兵力の集中投下」は、いつ、どこで、誰に対して、どのように行うか、といった議論を精緻化させるために使用するのでなければ、戦略的概念にはならない。それは、ただクラウゼヴィッツ『戦争論』などを読むだけで、はっきりわかることである。「兵力集中投下の原則」は、簡明なメッセージだが、精緻な戦略論と判断力を伴った運用につなげるのでなければ、意味をなさない。

端的な基本原則のところだけをまず強調しよう。「兵力の集中投下」は、防衛には向かない。ある一点に兵力を集中させて自陣を防衛する、などということは、ありえない。「兵力の集中投下の原則」は、攻撃作戦のための指針である。

ではどんな攻撃の際に、それは意味を持つか。敵の弱点を見つけ、そこに突破口を作り出すことが、自分の目標の達成に意味を持つときだ。

19世紀において兵力集中投下による電撃的な成功を見せたは、まずはむしろナポレオンであった。ワーテルローの戦いなどで英・蘭・プロイセンの同盟軍が勝利できたのは、ナポレオン軍を挟み撃ちにして包囲戦に持ち込めたからだ。逆に、普仏戦争や第二次世界大戦においては、長い国境線を危うい補給路で防衛しようとしたフランスを、プロイセン/ドイツは相手の防衛線の弱点を突破する電撃的な作戦で圧倒し、パリを占領して降伏させた。

「目的はパリ、目標はフランス軍」という普仏戦争時のプロイセン軍参謀総長モロトフの言葉は、クラウゼヴィッツの思想の反映としても知られている。

「ロックダウン」は、いわば籠城であり、相手を攻撃する手段が限られているがゆえに行う防衛戦である。このようなものに「兵力集中投下の原則」が適用できるはずがない。籠城するだけで戦争に勝てるなどという発想は、破綻している。籠城は、ただ徹底的にやればいいというものではない。持続可能性のある形で行うことが、最も重要だ。

新型コロナ対策で、諸国がウィルスという「敵」に対する攻撃に転じることができるようになったのは、ワクチンという武器を手にしてからである。ただし相手を殲滅するようなものではない。相手を体内におびきよせてから、撃退する。相手の勢力が強く、戦いが長期に渡れば、こちらは疲弊して倒される。そこで一気に相手を封じ込めることが重要になる。

ワクチン開発国アメリカで「ワープ・スピード作戦」を進めた人々は、早期のワクチン開発は、迅速なワクチン接種普及がなければ意味をなさないことを理解していた。こちらが疲弊し始める前に、ウィルスを圧倒するワクチンを社会に投入しなければ、やがてこちらが劣勢に転じ始める。だからこそ「ワープするようなスピード」で、一気に社会にワクチンを広げる必要があった。

実際に、米軍の優れたロジスティクス能力も動員され、2021年上半期の「ワープ・スピード作戦」には目を見張るものがあった。ところが74日の独立記念日までに成人の7割が少なくとも1回の接種を済ませるという目標は達成できなかった頃あたりから、失速が始まった。この背景には、反ワクチン派が接種に応じないという思想文化的な壁があった。昨年下半期にはアメリカは目標到達ができなかった焦燥感にさらされていく中、年末にはオミクロン株という「敵」の新たな攻勢にさらされ、防衛線が決壊してしまったような状態に陥って、新たな危機を迎えることになった。

これに対して、日本は、ワクチン開発も進まず、普及にすら精緻な計画があったとも言えなかったが、現場の人員の頑張りで、実質的には半年弱の期間での人口8割の接種に成功した。司令塔不在のまま、しかしキャッチアップすればよい課題を、現場の人員の努力で達成していく作業は、日本人の得意技と言ってよい。結果的には、日本は米国を上回るスピードでワクチンの社会的普及を成し遂げた。

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出典:https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-japan-vaccine-status/#vaccinationStatusV2cumulative 

 

日本で新規陽性者が減ったのは謎でしかない、などと主張している方がいる。ほとんどデマに近い煽り言説ではないだろうか。 

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出典:新型コロナウイルス 国内感染の状況 | コロナウイルスの恐怖 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)
新規陽性者の拡大は、人口の半分がワクチン接種をした頃の8月に勢いを鈍化させ始め、人口の半分が二回目接種を済ませた9月に入るころにまでには減少に転じ始めた。そしてワクチン普及の進展にあわせて、そのまま減少し続けた。

私には、相関関係を否定する人のほうに大きな挙証責任があると言わざるを得ないくらいに、ワクチン接種の進展と感染状況の相関関係が明白だとしか感じられない。

https://agora-web.jp/archives/2052552.html 

「謎でしかない」論の方々は、ワクチンは、他国でも接種されたのに、同じ結果が出ていない、と主張する。だが仮に同じワクチンを普及させるとしても、集中的に素早く行うか、のんびりやりながら途中で止めるか、によって、結果に大きな違いが出るはずであるのは、全く当然である。まして、mRNAワクチンの効果が数か月すると減少していくことは、織り込み済の事実である。

ウィルスの攻撃が激しすぎれば、ワクチンは、効果を失い始め、やがて人間が撃退される。社会的には堤防が決壊するように、そこからウィルスが再び広がる。逆にワクチン接種者が少ないウィルスを取り囲めば、ウィルスは反撃する余地を見いだせない。

周囲の人間が誰もワクチン接種していない状態に置かれてしまえば、次々とウィルスの攻撃にさらされて、やがて撃退される。しかし周囲の人間とともに一斉にワクチンを備えれば、逆に侵入してきたウィルスを次々と撃退し続けていくことができる。「兵力集中投下の原則」が働くのである。

イノベーションにつながる開発をすることの重要性と、それを普及させることの重要性は、基本的に別の次元の話である。経済産業分野のみならず、法制度や政治運動においても、前者に関しては日本は米国の相手にならない。ただしキャッチアップ型で後者をする場合には、日本が比較優位を発揮することもある。今回は、自国での生産能力がない日本であっても、ワクチン開発生産国で同盟友好国のアメリカから迅速な調達を行うことができたため、後者の面における強みを発揮することができた事例となった。

残念なのは、司令塔不在のまま現場の頑張りで進められた作業は、意識下の度合いが低い。次の作戦につなげる際に役立つ検証の度合いが低い。日本の弱点である。

昨年のワクチン接種普及の効果を、全く異なる文脈で異なるスピードで行うブースター接種に関しても、全く同じレベルで期待するのは、的外れだろう。

またワクチンはウィルスを積極的に追いかけて殲滅させることができるほどの武器ではない。ワクチン普及で「ゼロ・コロナ」を達成するのは不可能である。プロイセンがパリを占領して終結した普仏戦争の後もドイツとフランスは戦争を続けたように、新型コロナとの戦いはワクチン接種の普及だけでは終わらない。そのことを冷静にとらえた政策が必要だ。

「目的は社会生活の維持、目標はウィルスからの防御」である。

たとえば、直近の課題は、現在の状況で、水際対策をどうするか、である。ワクチン接種の社会的効果が出たところで、水際対策の意味を重要視するのは、当然であると言える。しかし「外国人は怖い」「外国人が入れたら壊れる」「外国人にはファクターXがない」「ウィルスが根絶されるまで外国人を日本に入れてはいけない」といった盲目的で迷信めいた話ばかりしているのは、社会的現象を意識化して戦略的政策につなげることができない日本の弱点の露呈であるように感じられてならない。

現場主義だけに依拠した戦術の成果は、目的を見据えた戦略論の中で位置づけられるのでなければ、容易に失われていくだろう。

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