「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2024年04月

 アメリカ各地の大学で、学生運動の嵐が広がっている。パレスチナと連帯し、イスラエルを非難し、イスラエルを支援しているアメリカ政府を批判し、そしてイスラエル政府と大学の結びつきを断つことを訴える運動だ。
 各地で学生運動を鎮圧する警察が動員されている。かなり暴力的な方法で警察が平和的な抗議者を拘束している様子が、SNSで世界中に拡散している。学生のみならず、学生を守る目的でキャンパスに来ていた教員までも警察に逮捕されている異常事態である。
 アメリカの民主主義の危機だ、と叫ばれているが、実際のところ、その通りだろう。この異常事態に何らかの収束がもたらされるのかは、予見できないが、無視できるレベルではない。アメリカという国家のあり方が、足許から問われ直されている。
 アメリカのイスラエル支援には、各議員に対するイスラエルロビーの献金額の範囲をこえた、「国益」上の合理性がない。ネタニヤフ路線のイスラエルに対して支援をするアメリカの政治家が、勇気を持って、政策を変更することが、本来は、望ましい。私はそれを願っている。
 だが非常に残念だが、現実には、ワシントンDCにおける政治は、簡単には変わらないだろう。大学のキャンパスで学生や教員たちが逮捕されている異様な光景が、そのことを物語っている。
 ということはつまり、自由民主主義の指導国としてのアメリカの威信の低下は不可避だ。問わなければならないのは、アメリカの威信はどこまで落ちるか、だろう。
 むしろアメリカの大学の学生と教員の問題意識の高さ、気概の高さ、質の高さこそが、示されているような気がする。政治家たちは、それに追いついていない。
 国際政治学の業界では、「アメリカの凋落は、過去に何度も指摘されてきた、だが今でもまだアメリカは超大国のままだ」、と言う方が多い。あたかも、何があってもアメリカが覇権国であり続けることだけは不変だ、と言わんばかりの態度である。だが、私は疑っている。なぜなら、仮にアメリカがまだ超大国であるとしても、その力と威信は、過去に凋落し続けているからだ。今後も凋落し続ける可能性の方が高い。
 長期的なアメリカの凋落の傾向は、冷戦の終焉時に「自由民主主義の勝利」の物語によって修正された。1990年代のアメリカには、インターネット革命の波を主導して、世界経済におけるシェアを回復する勢いも、実際、存在した。中東問題を始めとして、国際政治におけるアメリカの影響力も圧倒的だった。
 隔世の感がある。
 国際政治学の業界では、ソ連あるいは共産圏の崩壊としての冷戦終焉を「アメリカを中心とする自由民主主義陣営の勝利」と捉える余り、「ソフトパワー」におけるアメリカの優位は絶対だ、と考える方が多い。残念ながら、今回のガザ危機の対応などを通じて、アメリカは「ソフトパワー」を失っている。そもそも中東を主戦場にした2001年以来の「グローバルな対テロ戦争」において、アメリカは、国力を疲弊させただけでなく、「ソフトパワー」も低下させた。今回のガザ危機で、この長期的な傾向が、さらにいっそう加速していくだろう。
 こういう話をすると、「だが中国も万全ではない」といった反応を延々とされることがある。大変に恐縮だが、中国が世界の覇権国になるのを待たず、アメリカが凋落していくことは当然ありうる。そもそも中国は、アメリカに取って代わって世界の覇権国になることを目指しているわけではない。BRICS加盟国は「多極主義」を語るが、それは「かつてのアメリカのような国がいない世界」のことである。
 実際のところ、世界には必ず覇権国が存在しているはずだ、というのは、20世紀にできた迷信のようなものだ。確固とした現実の裏付けがあるわけではない。
 日本にとって日米同盟は、安全保障の観点から、極めて重要だ。アメリカの力が凋落しても、なお日本は日米同盟を重視しなければならない。しかしその意味が、何十年たっても同じだと仮定したりするのは、単なる知的怠慢である。その意味は変化する。
 ガザ危機をめぐり、私は、過去半年ほど、アメリカをはじめとする欧米諸国の対応を批判してきた。そして、日本の役割は、たとえばアジアのイスラム圏諸国(たとえばインドネシア、マレーシア、バングラデシュ)と危機を語り、人道主義の精神に基づいた価値観を共有することだ、と言ってきた。それは日本外交の資産にもなるし、アメリカが日本に求めるべきことでもある。https://gendai.media/articles/-/117602
https://gendai.media/articles/-/120015
  ガザ危機をめぐってアメリカを批判したくないのであれば、批判しなくていい。あわせてイスラエルにも気を遣わざるを得ないというのであれば、よくよく考え直してから、その範囲を決めればいい。 しかしいずれにせよ、アメリカが凋落するのは、日本の国益に反することでもある。ビクビクするだけでなく、アメリカが望ましい方向性に来やすいような国際政治の環境を整えるために努力することが、日本の国益に合致する。

 岸田首相が訪米時に行った議会演説が、その後の米国議会における予算審議で、議員たちに引用されたことが話題だ。時機にかなった演説だったということだろう。

岸田首相は、米国連邦議会上下両院合同会議において、「米国が何世代にもわたり築いてきた国際秩序は今、新たな挑戦に直面しています。そしてそれは、私たちとは全く異なる価値観や原則を持つ主体からの挑戦です」という認識を披露しながら、「この世界は、米国が引き続き、国際問題においてそのような中心的な役割を果たし続けることを必要としています」と強調した。

 そして岸田首相は 「世界は米国のリーダーシップを当てにしていますが、米国は、助けもなく、たった一人で、国際秩序を守ることを強いられる理由はありません」と述べたうえで、日本を米国の「未来のためのグローバル・パートナー」と位置付けた。https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2024/0411enzetsu.html 

 この演説について、国際政治学者系の方々は賞賛を惜しまない一方で、政府に批判的な言論人の方々は批判を繰り返している。典型的な「見放され」と「巻き込まれ」の恐怖の安全保障のジレンマにそって、米国との絆を強固にすることに安心感を得る層と、それにかえって不安を覚える層とが、くっきりと分かれる構図だと言える。

 私も国際政治学者の端くれではあるので、前者の中に入っていてもいいはずだ。だが「米国のリーダーシップ」の必要性を米国人に訴え続け、日本がその「米国のリーダーシップ」の維持に貢献していくことを誓った20244月の状況での岸田演説については、複雑な気持ちだ。

私は日本の憲法学者の通説の9条解釈は間違っているという学説を持っており、そのため憲法学者の方々から「右翼」とみなされている。安倍首相が推進した「自由で開かれたインド太平洋」構想についても、非常によくできたものだと考えており、繰り返し参照している。その安倍首相が米国議会で演説したのは2015年だったが、当時の問題になっていたのが平和安全法制だった。安倍演説は、その日本国内での議論の状況と、歴史認識を踏まえて、日米同盟を未来志向の「希望の同盟」と位置づけるものだった。https://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001149.html

当時の安倍演説と、今回の岸田演説は、類似した内容を持っているが、幾つかのトーンの違いがある。大きな違いの一つは、岸田演説が、「今日、一部の米国国民の心の内で、世界における自国のあるべき役割について、自己疑念を持たれていることを感じています。この自己疑念は、世界が歴史の転換点を迎えるのと時を同じくして生じているようです」と、アメリカ人の自信の喪失について、触れている点だ。現代世界において、米国の力が疑われ、何と言ってもアメリカ人自身が自国の役割を疑っているのを前提にして、岸田首相はいわば「弱音を吐かず、もっと頑張ってほしい」と頼んでいるのである。これが米国議員の琴線にもふれ、議会で引用されたりしたのだろう。

アメリカ人へのアピールという点では成功したのだ。アメリカは日本にとって重要な同盟国である。したがって岸田演説を批判するつもりはない。

だがアメリカの力は、本当に世界でリーダーシップを発揮し続けるほどにまで充実しているのか。私には疑念がある。

もしアメリカのリーダーシップには裏付けがなく、国内も混乱していて疲弊しているのが現実に存在している実情だとしたら、どうだろう。日本の首相が、あたかもアメリカ人が、自己の力を疑うのを止め、猛然と邁進してくれさえすれば、世界は上手くいくのだ、といったトーンでまとめてしまう演説を行うことの妥当性にも、疑念が生じざるをえなくなる。

岸田首相は、議会演説において、ウクライナへの支援の重要性と、東アジア情勢の重要性を繰り返し強調し続けた。これは裏を返せば、現在進行形の国際秩序の危機である中東情勢については、全くふれなかった、ということだ。

果たしてこの取捨選択の態度は、持続可能性のある態度だろうか。

 ウクライナと台湾については、日米同盟は一致団結していると言えるから、繰り返し参照した。中東をめぐってはそうではないので、参照しなかった。アメリカはイスラエルの最大の支援国である。国連安全保障理事会でイスラエルのための拒否権を乱発して、ひんしゅくを買っている。これに対して日本は、即時停戦決議やパレスチナ国家承認決議などのアメリカが拒否権発動した際の安保理決議案に対しても賛成票を投じるなどの行動をとっている。もっともそれは日本独自の行動というほどのものではない。反対する国が世界でアメリカとイスラエルだけであるような場合に、さすがにそこまではアメリカに追従しない、アメリカとイスラエルとともに世界で孤立することまではしない、という態度である。

 だから議会演説において、岸田首相も、ウクライナと東アジアについて繰り返し参照しながら、中東情勢についてはふれることを避け続けた。

 岸田演説を称賛する識者の方々も、基本的に同じ姿勢だ。ウクライナと東アジアを語り続け、中東についてはふれないようにしている。日本が米国の「未来のためのグローバル・パートナー」であるのは、ウクライナと台湾をめぐってであり、中東をめぐってではない。

 果たして、これはどれくらい持続可能な態度だろうか。

米国下院が、遂にウクライナ、台湾、そしてイスラエルの三者に対する巨額の財政支援を採択した後、ジョンソン下院議長がイスラエルを支援することは「聖書の教え(Biblical admonition)」だと説明したことが話題となった。これは比喩でもなんでもない。ジョンソン氏自身も属する共和党右派系では、米国南部の宗教右派は、大票田の支持母体である。ルイジアナ州選出のジョンソン氏は特に、福音派系の政治団体の法律顧問の経歴を持ち、実際に非常に宗教的な人物であり、これまでも演説で頻繁に聖書にふれてきている経緯がある。つまり大真面目に、聖書の教えに従って、イスラエルを支持し続ける覚悟なのである。

これに対して、コロンビア大学から始まったパレスチナと連帯する学生のエンキャンピング運動が、その他の大学にも波及して、大きな盛り上がりを見せ始めている。イスラエルだけでなく、聖書の教えにしたがってイスラエルを支援し続ける米国のエスタブリシュメント層も、彼らの批判の対象だと言ってよいだろう。

アイビーリーグの大学の学費の高額さはよく知られており、裕福な家庭の子息ばかりが通学しているとも言われるが、それでも巨額のローンを抱えている学生が少なくない。物価高の中でローン返済計画を中心に据えながら自らのキャリアを考えなければならない学生にとっては、国際司法裁判所(ICJ)でジェノサイド条約に基づく仮処分措置の命令を受けているイスラエルに対して260億ドルもの巨額の支援を行うのは、「聖書の教え」はもちろん、「リーダーシップ」といった概念でも、説明の付く話ではない。

学生たちは、米国の対ウクライナ政策、対台湾政策についてまで批判する余裕はない。いずれにせよ質の違う話ではある。しかしウクライナに対して6084千万ドル、台湾を含むインド太平洋地域に812千万ドルという巨額の支援は、イスラエル向けの260億ドルとあわせて、好意的に受け止められる話ではない。

問題の根幹は、アメリカに、そのような三正面作戦をする国力があるのか、という大きな疑念だ。果たしてアメリカは、このような態度をいつまで続けていくことができるのか、という大きな不安が、そこにはある。

岸田首相が米国議会で拍手喝采を浴び、米国議員たちに演説を引用してもらうのは、悪いことではない。しかし岸田首相自身が、国内でせいぜい支持率20%しか持っていない。その場の心地よさを優先するような態度で、現実の厳しさを見つめることを怠り、問題を先送りしていたら、いつか必ずしっぺ返しを食らうだろう。

 昨年10月以降のガザ危機は、世界を震撼させている。人的・物理的被害の度合いが深刻な甚だしい。しかもその衝撃は、思想部分にまで及んでいる。

 日々の悲惨な出来事に沈痛な気持ちになりながら、なんとかそれでも鳥瞰的な視点を取り戻すために、私は、エドワード・サイード『オリエンタリズム』が無性に読みたくなった。言うまでもなく、パレスチナ系アメリカ人のコロンビア大学教授が1978年に出版した超有名な書籍である(邦訳は1986年)。欧米人の「オリエンタル」なものに関する言説に根強く存在する偏見が、植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張した。いわゆる「ポスト・コロニアル」理論を確立した古典として知られる。

私は1987年に早稲田大学に入学した。当時はまだ国際政治学者になることなど想像していなかったが、何となく議論好きが集まるサークルには出入りし、学部ゼミは政治思想を専攻した。1980年代末は、「ポスト・モダン」と呼ばれていた主にフランス系のポスト構造主義の思想が大流行していた。ジル・ドゥルーズやジャック・デリダの影響が強い浅田彰『構造と力』が1983年、レヴィ=ストロースの影響の強い中沢新一『チベットのモーツァルト』が1984年に出版されてベストセラーになった時代だ。大学生の間では柄谷行人や蓮見重彦が尊敬されていた。

サイードの『オリエンタリズム』は、英米圏で同時期に一世を風靡していた思想書だったので、大学入学してすぐにそのサイードの名前と「オリエンタリズム」の概念は、大学生の私にとっても必須知識の一つとなった。しかしアメリカの現代思想というのは、正直、あまり先進的だとは思われていなかった。同じニューヨークの知識人でも、ドイツ出身の亡命ユダヤ人で『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』で知られるハンナ・アーレントのほうが圧倒的に有名であったと思う。

しかし私は1993年からロンドンのLondon School of Economics and Political Science (LSE)の国際関係学部の博士課程に留学するが、そこで社会科学系分野で思想系の議論をしている教員や学生たちにとっては、サイードの存在が極めて大きいことに気づいた。LSEは欧州の社会科学系分野の大学では1位にランクされる大学であり、世界各国から多様な知的土壌を持つ学生が集まっており、国際関係学部でも現代思想の議論が常に行われていた。やはりコロンビア大学にいたガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』(原書は1988年、邦訳は1998年の出版)は共通知識の古典的な位置づけを獲得しており、頻繁に参照されていた。今日「ポスト・コロニアル」研究として確立された分野として認知されている思潮は、当時のLSEではすでにかなりはっきりと影響力を持っていた。

私は、LSEでの議論についていくためサイードやスピヴァックは、大量の文献の中の必読書として読んだのだが、正直、自分のPh.D.論文に使用するほどではなく、教養書のような位置づけで読んだだけだった。

今、「ガザ危機」をめぐって欧米諸国とその他の諸国の政治的対立が、現代世界を捉える思想的立ち位置の違いの反映でもあることを見て、私はあらためてサイードの『オリエンタリズム』を読み直したくなったわけである。

あらためて『オリエンタリズム』を読んでみると、意外なまでに衝撃感がないことが、発見であった。そこで描写されている過去の文献の記述は、あまりに現代的である。

19世紀に世界史に類例のない海外領土の拡張を見せた欧州の帝国群は、20世紀後半の脱植民地化の過程をへて、全て崩壊した。しかし欧米中心主義的な世界観は、欧米人の思考様式から拭い去られてはいない。欧米諸国との関係を重要視してきた日本人の思考様式においてすら、欧米中心主義的な世界観が根深い。イスラエルがガザの人々を征服すべき他者として扱う姿を見て、理性的には国際法違反だということがわかっていても、中東における欧米文化の代理人としてのイスラエルの姿を、心理的にはどうしても自然な出来事として受け入れてしまおうとしてしまう人たちがいる。

昨年107日のハマスのテロ攻撃を見て、欧米諸国の指導者たちは、ウクライナのゼレンスキー大統領を含めて、異様なまでに感情移入した熱烈なイスラエル支持の感情を表明した。苛烈な抑圧を続けてきた占領者であるイスラエルに全面的な支持などを表明してしまったら、今日のような事態を招くこと、そして自国の外交的立ち位置を危うくしてしまうことは、必至であった。しかし私ですら容易に想像できることが、欧米人の指導者には、全く見通せなかった。

しかも彼らは、イスラエルの行動を見誤っただけではない。欧米の大学では「ポスト・コロニアル」研究は、必須の対応分野であり、社会に不可欠の価値観を提供する知的基盤の一つとみなされている。当初の欧米諸国指導者のような姿勢では、国内世論対策としても近視眼的であることは明白であった。ただそれを感じ取ることだけでも、老齢のバイデン大統領には、あまりに困難な作業であったということか。

「オリエンタリズム」と呼ぶべき根深い欧米中心主義の世界観が、欧米諸国の指導者たちの眼差しを常に曇らせ続けてしまうのだろう。

「オリエンタリズム」は、倫理的に問題があるだけではない。21世紀の世界の現実と乖離しているがゆえに、問題である。かつて欧米諸国が中心になって欧米中心主義的な規範体系として成立した国際法は、20世紀後半の構造転換をへて、非欧米諸国を守るものとして機能する。ガザのように欧米中心主義的世界観と非欧米諸国の価値観がぶつかりあう場では、国際法は、欧米諸国の味方ではない。

さらに言えば、そもそも欧米諸国の政治的・経済的な力は、相対的に低下し続けている。今後の国際社会において、かつてのような政治的・経済的そして規範的な権威を、欧米諸国が持ち続けることは、決して簡単なことではない。力の裏付けが弱める欧米諸国指導者の「オリエンタリズム」の「ダブル・スタンダード」を、非欧米地域の人々は、冷ややかに、あるいは怒りを持って、見ている。

現在のガザ危機が、国際政治の全体動向の構造転換を促進する事件となることは、間違いないと思われる。

 

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