「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2024年05月

 「中国・アラブ諸国協力フォーラム第10回閣僚会議」が、530日に開催された。その会議において、習近平・国家主席は、イスラエルのガザにおける戦争は「無際限に続けられるべきではなく」、「正義が永遠に失われているべきではない」、と述べたうえで、和平会議の開催を提唱した。

 この中国の提案に、日本は賛同を示すべきだ。それはガザの平和のために役立つ可能性があり、日本の国益にも合致する。

 すでに国際会議等で私は発言してきているが、現在のパレスチナ紛争の状況では、1994年オスロー合意に象徴されるアメリカ主導の和平プロセスは、進展が見込めない。すでに破綻しているが、アメリカ主導で再開される可能性は非常に乏しい。https://roles.rcast.u-tokyo.ac.jp/publication/20240512-2 

 直近の理由は、国際法違反が明白なイスラエルの軍事行動を、アメリカが擁護し、支援し続けていることである。ICC(国際刑事裁判所)検察官が戦争犯罪を理由にイスラエル首脳に逮捕状発行の請求を行っており、ICJ(国際司法裁判所)がジェノサイド条約を理由にした軍事行動の停止を求めている。国連安全保障理事会においても、総会においても、アメリカとイスラエルが、孤立している図式が固まっている。アメリカが、和平会議に参加するとすれば、紛争当事者としてのイスラエルの後ろ盾の立場を取る国として、であろう。アメリカが、表面的にであっても、中立的な立場を取るのは、現状では無理である。

 さらに構造的な理由として、アメリカの力の減退を指摘しなければならない。21世紀に入ってから、アメリカが中東に行使できる影響力は、劇的に減退した。もはや湾岸戦争直後にオスロ―合意の調停者となったアメリカの面影はない。すでに8カ月にわたる苛烈な戦闘が行われてきているが、なおイスラエルとアメリカが期待するハマスの殲滅なる目標が、今後も早期に達成される見込みは乏しい。その間に亡くなったガザの人々の死者数は、35千以上とされる。常軌を逸した軍事行動であり、アメリカのさらなる威信低下を防ぐためにも、早期の停戦が望ましい。

日本にとっては、日本は、中東のアラブ諸国に、原油輸入の90%を依存している。さらなる不安定化は、国益を脅かす。中東和平に貢献することが、望ましい。

日本にとって、もっとも楽なシナリオは、アメリカ主導で和平プロセスが進んでいくことだった。しかしそれは現実的なシナリオではない。現状では、アメリカに気を遣うあまり、イスラエルに対して毅然とした態度をとることができず、結果として曖昧な立場に終始している。和平に貢献するどころではない。単に存在感を失い、埋没していくだけであれば、まだましだ。うっかりすれば、日和見をした傍観者として、信頼を失っていきかねない。

アメリカあるいは欧米諸国だけが主導する和平の可能性に見切りをつけ、より幅広い諸国が参加する国際的な和平プロセスの気運の醸成を促進していくべきだ。

イスラエルにとってのアメリカの存在は、ハマスにとってイランだ。その背後にはロシアがいる。中国は、そこにつながっているとみなされがちだ。そこに日本が促進役として加われば、中和化する機能を果たし、存在感を見せつけることができる。

ガザ危機をめぐっては、トルコやブラジルの首脳が積極的な発言を繰り返しており、南アフリカがICJにイスラエルを訴えるなどの目立った関与を示している。中東「地域」の関与者をイスラエルとアラブ諸国だけに限定することはできず、さらには反植民地主義の観点から「グローバル」な文脈で関与してきている諸国の存在を度外視することも適切ではない。広範に和平に貢献する準備がある諸国を募りながら、日本自らもその中に加わるべきだ。

もしこの努力を怠るならば、凄惨な戦争の継続で、アメリカはイスラエルに巻き込まれる形でさらに孤立していく。これはウクライナや台湾をめぐる国際世論にも悪影響を及ぼす。総合的な日本の国益に反する。アメリカを救うためにも、広範な諸国の貢献を募った和平プロセスの開始が望ましい。

理想は、国際介入の展開だ。イスラエル軍に撤退を促しつつ、ハマスの行動を抑止する仕組みが必要だからである。そのためには兵力展開能力を持つ国連PKO派遣実績を豊富に持つ国々の積極的関与が不可欠となる。

さらには復興に必要となる財政的・人的資源は、欧米諸国と日本などの伝統的ドナーだけでは、全く不足している。中国はUNRWAへの財政支援を開始しており(300万ドル)、さらに6,900万ドルのガザ向けの人道支援を約束している。無関係を装うことができないガザへの人道支援・復興支援を、新興ドナーを排除して、欧米諸国と日韓だけで独占的に扱おうなどとするのは、時代錯誤の自殺行為である。中国の積極的な参加は、歓迎するべきだ。
 中東和平のみならず、国際的な援助業界も、変化を迫られている。世界経済におけるシェアを減らし続けながら、青色吐息でウクライナ向けの巨額の支援の資金を捻出している伝統的なドナー国だけでは、現代世界の危機に対応できないのである。ガザへの対応が、援助業界の必要な刷新につながる呼び水となるとすれば、それを日本は嘆くべきではなく、歓迎すべきだ。その新しい潮流の中で、あらためて日本らしい支援のやり方を模索する方がいい。

 

 国連開発計画(UNDP)が開催した「人道支援と早期復旧~ガザ戦争による社会・経済的影響の分析とパートナーシップ~」というイベントを傍聴した。ガザ危機への関心の高さを反映して、実務家や研究者を中心として、多くの参加者を得ていた。だが何とも言えない虚無感を覚えた。

  青山の国連大学ビルで開催された会議では、来日中のUNDP本部のアラブ地域局長であるアブダラ・アル・ダルダリ氏が基調講演を行い、「いつかは停戦合意がなされる、そのときのために復興の準備しなければならない、〇〇、〇〇、〇〇、〇〇、〇〇・・・、沢山のことが必要になる、そのために備えておくべきだ、UNDPは復興を主導する準備がある」と、政治家を含む日本人たちに訴えかけた。ちなみにダルダリ氏は、20052011年にわたりシリアのアサド政権下で副首相を務めたシリア人で、最後はアサド大統領の従弟にあたる人物と仲たがいをして政権を離れたとされるアラブの政治家と言ってよい人物である。

 当日の司会を務めた言論NPO代表の工藤泰志氏は、「二国家解決にすらコミットしていないイスラエルの軍事占領下での復興は可能なのか」、「破壊だけしてイスラエルは復興費用を全く負担しないということでいいのか」といった質問をパネリストに投げかけたが、「難しい質問だ」とかわされるだけで、最後まで質問と回答がかみ合うことはなく、「いずれにせよ復興への準備が必要だ」という日本へのアピールだけが繰り返された。

 もちろん開発援助機関が、内々に様々な将来の活動の可能性を考えておくのは間違ったことではないだろう。しかし、会場の外では、世界中で沢山の人たちが、どうやったら空前の市民の殺戮を止めることができるのかと悩み、必死で運動をしている。なぜ今、公開イベントで日本の政治家らに、「今から復興の準備をしておくべきだ、UNDPは復興を主導する準備がある」、と訴えかけるイベントを催す必要があるのか、会場には判然としない雰囲気が漂っていたように感じた。

 パネリストとして加わっていた駐日ヨルダン大使らが、「イスラエルの責任」を不問にすることはできない、という主張をしていたが、それは個人の見解であるかのように扱われ、他のパネリストからの反応を得ることはなかった。

 そもそも、なぜ、駐日パレスチナ代表部の大使は、パネリストとして招かれなかったのか? 駐日パレスチナ代表部の関係者が会場にいる様子もなかった。駐日パレスチナ代表部の関係者を招くことなく、「パレスチナ人のために早期復旧の準備を今から進めておくべきだ」という主張を、アサド政権元副首相のシリア人のUNDPアラブ局長が延々と行い続けている様子は、どこかに奇妙さを感じさせるものであった。

 UNDPをはじめとする国連機関は、「人道・開発・平和」のための活動を、切れ目なく行うことを「NEXUS」という用語で、表現している。国連の人道援助、開発援助、平和活動を行う各機関は、相互に協力して、無駄なく活動を行う、という訴えである。UNDPによれば、日本は「NEXUS」を行うための有力な「パートナー」、つまり資金提供者である。https://twitter.com/UNDPTokyo/status/1795787002283176378

UNDP東京事務所は、「博報堂DYホールディングスのご協力」を得て、「NEXUS」を広報するビジュアルに訴える一般向け動画を作成したりしている。https://twitter.com/UNDPTokyo/status/1794900529765859752 

UNDPは、ガザでも当然「NEXUS」が重要になるので、停戦合意とともに速やかにUNDPが主導する開発援助機関が、人道援助を引き継がなければならない、と訴える。

ただし実は国連で「平和」のための活動を担当している部局は、「政務平和構築局(DPPA)」である。つまり本来、国連機関は、平和活動を、「政治」の活動として、理解しなければならない。政治解決なくして、平和はない。そして、望ましい開発もない。それが「NEXUS」に込められたメッセージの一つだ。政治解決の重要性を十分に考慮しながら、人道援助や開発援助も進めていかなければならない、というのが、本来の「NEXUS」のメッセージなのである。

それにもかかわらず、「政治」の話は「難しい」ので、脇に置いてしまってから、ただ単語としての「NEXUS」を、「NEXUS」「NEXUS」と連呼し、「博報堂」のビジュアル動画を作成するためだけに参照するのは、「NEXUS」の本来の趣旨からは、むしろ全く逸脱していると言わざるを得ない。

実際のところ、政治解決なくして、ガザの人々の長期的な発展を見通した開発援助など、できるはずがない。過去に日本が援助した病院施設や排水処理プラン等は、イスラエル軍によって木端みじんに破壊されてしまっている。https://gaza.mapping.jp/ そのことを全て忘れ去り、ただただ永遠の「早期復旧」の繰り返しに駆り出されなければいけないというのでは、日本の納税者にしてみれば、たまったものではない。

果たしてガザの人々は、イスラエルの軍事占領下で、人間としての尊厳を奪われたまま、ただただ「早期」でさえあれば、「復旧」なるものを喜んで受け入れるはずだ、と本当に仮定できるのだろうか? たとえ大量虐殺を行った占領軍イスラエルの都合の良い計画にそった形になるものであったとしても、「早期」でさえあれば、「復旧」は素晴らしいことだと、ガザの人々ともに、日本の納税者も、喜んで賞賛する、と本当に言えるのだろうか?

パレスチナ代表部が招かれなかったイベントでは、そのような問いは、ほとんどタブーであるかのようだった。

 私自身は、以前に別稿で説明したように、そのような「早期復旧」に、批判的な見解を持っている。https://gendai.media/articles/-/130238 長期的な国益にそった日本外交のあるべき姿を考えてみても、拙速に「早期復旧への資金援助の約束」だけに走ることが、賢明であるとは思えない。むしろじっくりと腰を据えて、パレスチナ人や地域の諸国の人々の願いを理解する努力を払い、中東和平のあるべき姿を共に考えていこうとする姿勢を見せることこそが、重要なのではないか。

 日本の政治家の方々には、よくよく深く考えてもらいたい。

 国際刑事裁判所(ICC)による逮捕状請求と、国際司法裁判所(ICJ)の軍事行動停止命令で、ハマスの行動とともに、イスラエルの軍事行動の違法性が、権威的に認定されてきている。ネタニヤフ政権が、全く聞く耳を持たず、軍事行動を続けているだけに、イスラエルの横暴ぶりが目立っている。

 イスラエルを擁護し続けているアメリカは、引きずり込まれる形で、窮地に陥っている。もっともジョンソン下院議長に代表される保守派は、聖書を引用してイスラエルを擁護する立場を正当化し、ICCに「制裁」を科す準備を始めるなど、言いたい放題である。

 この状況に困惑しているのが、日本のようなアメリカの同盟国だ。どう見ても、アメリカの立場に説得力がない。しかし同盟国を公然と批判できない。日本外交は、深刻なジレンマに陥っている。

 このような状況は、過去にも何度かあったかもしれない。冷戦中のベトナム戦争や、2003年イラク戦争などは、その典型例だろう。だが今回のイスラエルのガザでの軍事行動は、悪質度のレベルがさらにいっそう深刻だ。アメリカ国内で、学生運動が燃え上がっているのは、その深刻度の反映だ。

 このジレンマは、今後も日本外交にまとわりつき続けるだろう。アメリカ社会は、人種問題や経済格差などで、疲弊している。アメリカの国際地位も、相対的な低下が顕著だ。これは同盟国を合算した「西側」全体に言えることである。BRICSの経済力が、G7を凌駕する時代が到来している。今までと同じ考えでは、旧来の「先進国」が行き詰まりを見せていくのは、必至だと言える。日本外交は、長期的に、この構造的なジレンマと、付き合っていかなければならないのだ。

 ICCICJがイスラエルとアメリカに批判的な内容の動きを示したことによって、アメリカが推進している「ルールに基づく秩序」を揶揄する言説が、世界的に流通している。「国際法」を守る気がないのに、他国に「ルールに基づく秩序」なるものを説教するアメリカの立場を揶揄する言説だ。アメリカが押し付ける「ルール」とは、アメリカに都合のいい「二重基準」のことであり、「国際法」を遵守する「法の支配」とは真逆だ、と感じられてしまっている。

https://twitter.com/zeteo_news/status/1793341056387522965 

 元イスラエル政府スポークスマンは、「ICJが(戦闘中止命令で)『ルールに基づく秩序』を破壊した」とSNSに投稿した。

https://twitter.com/EylonALevy/status/1794023211509616787

 他方、数多くの人たちが「ルールに基づく秩序」なるものは、アメリカが「ルール(rule:

支配する)秩序」のことでしかないことが白日の下にさらされた、と感想を述べている。

https://twitter.com/tparsi/status/1794001436092534787 

https://twitter.com/jjz1600/status/1794019459985715353

https://twitter.com/Alonso_GD/status/1794045765414769045

 日本政府は、G7広島サミットを開催した際には、国際社会に「法の支配」を強調していた。岸田首相自らも、繰り返し「法の支配」の概念を参照していた。https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/hiroshima23/summit/issue/ 

 上川外相は、外相就任間もない頃に、わざわざハーグに行ってICJ(国際司法裁判所)とICC(国際刑事裁判所)を訪問したうえで、「国際社会における「#法の支配」の強化のための外交を包括的に進めていきます」と述べた。https://twitter.com/MofaJapan_jp/status/1745566256680292408

 だがこれは、アメリカと一緒になってロシアを非難し続けることが、日本外交の基本姿勢になった、と認識していただけの時代のことだ。昨年10月以降のイスラエルのガザにおける軍事行動に国際的な非難が集まり、アメリカだけがそれを擁護する構図がはっきりしてくると、次第に、日本政府関係者は「法の支配」を口走らなくなってきた。代わりに使うようになってきたのが、アメリカ仕込みの「ルールに基づく国際秩序」だ。

https://www.arabnews.jp/article/japan/article_118119/

https://www.keidanren.or.jp/journal/times/2024/0404_01.html

https://nordot.app/1129666422198780212?c=39550187727945729

 アメリカが同席する経済問題の会合に出席する場合、アメリカの意向をくんで中国をけん制して太平洋島しょ国と会議を開く場合などは、「国際社会における法の支配」よりも「ルールに基づく国際秩序」の方が都合がいい。

 おそらくは、岸田首相も上川外相も、当初は、それはほんの少しの言葉遣いの調整の話で、基本的には「国際社会における法の支配」よりも「ルールに基づく国際秩序」も同じ意味だ、と信じていたかもしれず、今でも問われれば、そう答えるだろう。

 しかし、もはやそんな危機意識のない認識が許される情勢ではない。両者は、はっきりと分裂している。

 もし日本だけは、両者が一致する世界を求め続ける、というのであれば、精緻で体系的な説明を用意したうえで、相当な外交努力を払っていかなければならない。

 実際は、全く逆に、ICCに対しても、ICJに対しても、イスラエルが関わる案件となると、日本政府関係者は途端に歯切れが悪くなり、とにかく曖昧な態度に終始し続けようと頑なになる。

 「それは仕方のないことなのだ」という確信が、政府関係者の間で共有されているのだろう。「ウクライナとロシアの話をするときには、どこまでも歯切れよく行きますから、そこだけ見ておいてください、中東の話になったときには、もちろんそういうわけにはいきません」という態度をとることに、総意があるようだ。

 国際政治の現実は厳しい。簡単に言語明瞭な態度だけを取り続けるわけにはいかない、と言えば、一般論としては、そうだろう。しかし「とにかく曖昧にさえしていれば、必ず上手くいく」という考えに、何か根拠があるわけではない。先行きの見通しがつかないので、やむをえず曖昧な態度に終始しているだけだ。それなのに、根拠のない正当化を図るのは、長期的には、むしろ非常に危険なことであるかもしれない。そもそもこの態度は、日本の国益を精緻に計算したうえで選択したものであるというよりは、イスラエルに泥沼に引きずり込まれているアメリカに気を遣ってお付き合いをしていることの結果でしかない。本当に合理的計算に基づいた妥当性がある態度なのかについては、大きな疑いの余地がある。

 果たして日本はこの「二重基準」の態度で、長期的に外交を上手く進めていくことができるのか?

ICC(国際刑事裁判所)のカーン検察官が、ハマス指導者3名とあわせて、イスラエル政府のネタニヤフ首相とガラント国防相に対する逮捕状を請求する、という発表をした。

待ち焦がれていた発表である。

すでにイスラエル政府はこの動きを察知しており、4月末にはネタニヤフ首相が反発する声明を出していた。それだけでなく、アメリカの国会議員に働きかけ、訴追の場合にはICC職員に対する制裁を科する威嚇をする、といった声明を出させたりもしていた。

以前には、アフガニスタンにおける戦争犯罪の捜査開始だけで、当時のトランプ米国大統領が、ICC検察官の米国入国ビザ発給停止などの制裁を科したことがあった。当時のベンスーダ検察官が国連本部への出張を取りやめざるを得なくなったことがある。もし今回アメリカが、組織としてのICCや、職員に対する金融制裁を発動すると、ICCの捜査等の活動にも支障が出ないとも限らない。

しかしイスラエルの戦争犯罪行為は明白である。制裁を恐れて捜査を回避するようなことがあったら、ICCの存在意義が問われる。ICCは、多数のアフリカ諸国の締約国を持つ。これらの諸国は、2017年頃には、ICCがアフリカ人ばかりを訴追しているのは二重基準だ、という理由で、南アフリカを先頭にして、大量脱退の脅しをかけたことがある。アメリカもイスラエルも締約国ではない(パレスチナが締約国の扱いになっているためICCは管轄権を行使して捜査ができる)。締約国ではない戦争犯罪(支援)国の威嚇に屈して、ガザにおける戦争犯罪の訴追を見送ったら、ICCのほうが締約国に見限られて、崩壊してしまうだろう。

ネタニヤフ首相に対する訴追は、大きな政治的負担がかかる。しかしICCにとっては、それを避けることのほうにより大きな地獄が待っている。進むしかない。

今回の発表は、検察官による逮捕状発行の請求である。裁判官三名で構成される予審部Iが、その請求の妥当性を審理したうえで、正式な逮捕状の発行となる。通常は、この手続きで判断が覆ることはない。ただ政治的圧力は大きい。国際世論を喚起することによって、正常な手続きが阻害されないようにするのが、今回のカーン検察官の発表の意図でもあるだろう。

かつて、アフガニスタンにおける戦争犯罪の捜査を開始したいという検察官の要請が、予審部によって却下されたことがある。ICCの能力の限界を理由にした判断をした当時の第二予審部の判事の中に、現在ICCの所長に就任している赤根智子氏がいた。日本の検察官から、ICC判事に転身したばかりの2019年のことであった。

この判断は、ICCを支援してきた国際人権団体等から一斉に猛批判を浴びた。赤根判事らは、現実的な判断をしたつもりだっただろうが、国際世論がICCに求めているのは、そのような醒めた態度ではなかった。結局、検察官の再請求を受けて、翌2020年に別の判事が構成する予審部が、アフガニスタン捜査の開始を許可した。https://agora-web.jp/archives/240314045814.html 

この時のICCの混乱は、まだ記憶に新しい。今回のガザ危機で、予審部判事が醒めた対応をする余裕は、ほとんどないだろう。法律的には、ネタニヤフ首相らの訴追は、確固たる根拠を持っている。その判断を覆すとしたら、政治的な配慮以外には理由がない。これほどまでに世界的に注目されている案件で、そのような大胆な政治的配慮をすることができる判事がいるとは思えない。

カーン検察官による逮捕状請求の発表がなされた520日、日本の国会では、事態を察知しないやり取りが行われていた。参議院決算委員会では、金子道仁議員(維新の会)が、「UNRWAがテロに関与した蓋然性が否定できない」ことを理由に、UNRWAへの資金提供再開は時期尚早だったという見解を述べたうえで、資金を他の組織に回すべきではないか、と政府に問う質問を行っていた。しかしUNRWAを糾弾したイスラエル政府は、その糾弾を裏付ける証拠を何も提示していない。国連の側は、調査を行ったうえで、糾弾を裏付ける証拠が何もない、という報告書を提出している。糾弾しているイスラエル政府は、人道援助を止めてガザの人々を飢餓状態に陥らせていることも理由に、戦争犯罪行為を問われているのである。その戦争犯罪人のイスラエル政府の言葉を鵜呑みにして、証拠も何もないまま、「UNRWAがテロに関与した蓋然性が否定できない」と主張するのは、日本の国会でイスラエル政府の戦争犯罪行為に加担する行為に等しくなる。人道援助を止めないように他の組織に資金を回したところで、気に入らなくなればイスラエル政府はその組織もまた「ハマスだ」と糾弾するだろう。その都度、戦争犯罪人が動かしているイスラエル政府の証拠のない政治的糾弾で、日本政府の政策をコロコロと変えるのは、正しくない。

同日の同じ参議院決算委員会で、和田正宗議員(自民党)は、ハマスと通じているという理由で、トルコ政府を糾弾する趣旨の質問を繰り返した。しかしトルコ政府は、ハマスは占領に抵抗する組織であって、テロ組織ではない、という見解を表明しているにすぎない。具体的な支援を表明しているわけではない。これに対して、アメリカは、戦争犯罪人が動かすイスラエルに巨額の武器支援を行って、ガザにおける戦争犯罪行為を助長している。トルコは批判するが、イスラエルやアメリカは批判しない、というのは、全く一貫性がないだけでなく、進行中のイスラエルの戦争犯罪行為を支持する含意さえあると言わざるを得ない。

日本では、右派系議員が、今回のガザ危機をめぐり、一貫して親イスラエルの立場を取っている。これに加えて、ここ数年で急速に防衛装備やテロ対策の領域で、イスラエルとの関係を深めてきた国防系の議員も、同じように一貫して親イスラエル的な立場を取り続けている。今回のICCによるネタニヤフ首相逮捕状請求の意味をよく考え、日本の長期的な国益を第一に考えて、慎重に発言して行動してほしい。
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 日本の岸田首相と上川外相は、国際社会の法の支配を語る。しかし、最近ではもっぱらウクライナ情勢をめぐってロシアを非難するときだけに用いている。普遍的な概念であるかのような言い方になっているが、実際には、地域特化的なやり方でしか、この概念を用いない。ガザ危機をめぐっては、同じようなことを言わない。

そこで日本政府関係者は、アメリカ人特有の言い回しを真似することを覚えて、「ルールに基づいた秩序(rules-based order)」といった言い方も好み始めている。しかし、これはG7以外の諸国には通用しない。非欧米圏の諸国においては、「ルールに基づいた秩序」とは、アメリカが自分に都合の良いように恣意的に二重基準を振り回すときに使う言い回し、という理解が定着している。どうも岸田首相も上川外相も、それに気づくことなく、「ルールに基づく秩序」を「グローバルサウス」に説く、といった説明を好んでしまっているが、早く現実に気付いたほうがいい。ICCでも「ルールに基づいた秩序」などというアメリカ産の概念は、使わない。

日本は、イスラエルから武器購入はしようとしているが、アメリカのように武器支援まではしていないので、まだ罪は軽いかもしれない。しかし二重基準のまま、これからもずっとやっていこうとするのは、無理だ。

今回のICC検察官によるネタニヤフ首相らに対する逮捕状請求を真摯に受け止めて、あらためてICC支援を通じて、国際社会の法の支配に対する揺るぎない信念を示してほしい。

 中国の習近平国家主席とロシアのプーチン大統領が北京で発した共同声明を読むと、両者が、国際秩序の改編を強く意識していることがわかる。「多元的な(multipolar)」な国際秩序の構築を目指し、覇権主義にもとづく介入主義を許さない、という、両者の世界観が確認されている。https://english.www.gov.cn/news/202405/17/content_WS66469c33c6d0868f4e8e72bb.html 

 もちろん、覇権主義に対抗して多元主義を目指す、という立場それ自体は、これまで両国が一貫して主張してきたものだろう。だがウクライナやガザで、あるいはアフリカのサヘルで、国際政治の構造転換を反映した危機が進行中だ。それを考えると、親密さを強調しながら、北京で、両者があらためてこの立場を強調したことの象徴的意味は大きい。

 冷戦終焉後、世界は「自由民主主義の勝利」によって特徴づけられる「歴史の終わり」に到達した、といった議論が華やかに行われた。現在でも、アメリカのバイデン政権は、「民主主義vs.権威主義」の世界観にそって、「ルールに基づいた国際秩序」の概念を強調している。

 しかしアメリカの姿勢は、ガザ危機をめぐって、「二重基準」に基づく「偽善」だと厳しく批判されている。ガザ危機をめぐる国連安全保障理事会や総会での加盟国の投票行動では、アメリカが孤立する傾向が顕著になっている。他の問題でも同じ傾向が見られる。二年前は国連加盟国の大多数がウクライナに同情的だったが、今やそのような雰囲気は過去のものとなっている。

 かつて冷戦終焉が終焉した30年前、アメリカの力は巨大だった。1990年代のインターネット革命・軍事革命なども主導して、GDPの世界シェア率も回復し、21世紀に入る頃には、アメリカ「帝国」の「単独主義」が大きな問題だとされた。1990年代にボスニア・ヘルツェゴビナやコソボをめぐって、人道的惨禍を止めるためにアメリカとその同盟国が軍事介入を行う際には、手続き的に国際法規範と、人道主義の原則の関係が問題になった。しかし、そんなときも、アメリカの側に、道徳的権威が、相当にある、と想定されていた。

 隔世の感がある。

 対テロ戦争や国内騒乱で、アメリカは、疲弊した。今や、かつて存在していた威信を乱暴に振り回すだけで、内実が伴わない無責任な態度が目立ちすぎている。

 この事情について、思想的な分析を加えてみよう。

19世紀末ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、『道徳の系譜』において、強者の道徳と弱者の道徳、という二つの異なる道徳について、洞察を加えている。高貴で強い者は、自らを良い(gut)ものと規定し、それと反対にあるものを悪い(schlecht)ものと考える。卑しく弱い者は、自らの反対にあるものを悪い(böse)ものと規定し、その対極にある自らが良いものと考える。ニーチェによれば、同じ「良い」と「悪い」であっても、強者の道徳と弱者の道徳では、その内実が全く異なる。前者が自己肯定の道徳であり、他者が他者否定の道徳である。

 ニーチェは、弱者の道徳が強者の道徳を凌駕する過程を、ルサンチマン(怨恨)による「道徳における奴隷一揆」と呼んだ。そこに欧州のユダヤ人の存在が重なり合うことも示唆したため、後にヒトラーにも影響を与えたと考えられた。

 強者の道徳が優れており、弱者の道徳が劣っている、ということではない。要は、立場が違うと、世界観も変わってくる、と言うことである。

1939年の第二次世界大戦勃発時に公刊されたEH・カー『危機の二十年』は、この問題を扱った国際政治学の古典だ。第一次世界大戦の戦勝国と、敗戦国ドイツが、同じ現実を見ながら、全く異なる世界観を持ち、意思疎通ができなくなっていた状態を、鮮明に描き出した。「ユートピアニズム」と「リアリズム」という概念の用い方が劇的であったため、後の時代には、「カーはリアリストなのか否か」といった問いばかりに関心が寄せられるようになったが、的外れである。直接的な影響をマンハイムのイデオロギー批判から受けていたカーは、いわばニーチェが『道徳の系譜』で論じた問題を、国際政治にあてはめて論じたのだった。

 アメリカが強かった時代には、アメリカは、自らが信じる自由民主主義の価値を強く推進しようとした。それは力に裏付けられたものであっただろう。したがって自由民主主義の価値観にそっていないとみなす勢力に対するアメリカの否定的な行動は、明快なものであった。しかしいずれにせよ、自由民主主義という自らが信じる価値観を肯定する道徳的規準があった。

 今日、アメリカは、イスラエルと一緒になって「テロリスト」探しに躍起である。自らの行動を批判する者は、たとえ自国の大学の学生であっても、「お前はハマスだ」というレッテルを貼る。自らの信ずる道徳的価値を説明する前に、粗雑なレッテル貼りを通じて他者を否定することを通じて、自らの立場の正当化理由にしようとするのは、弱者の道徳である。イスラエルやアメリカがこのような姿勢を取り続けているのは、自らの立場の正当性に弱みを感じているからだろう。

アメリカは衰退している。中国人やロシア人だけではない。世界の大多数の人々が、そのように感じている。アメリカは、強者としての立場に居座り続けているかのように振る舞っているが、現実には相当に焦っている。したがって弱者の道徳に訴えるような態度も駆使しながら、強者の立場にしがみつくこと自体を目的にした、居直りを始めている。

 中国人やロシア人が冷戦時代に信じていた共産主義は、典型的な弱者の道徳に基づく思想であった。資本家階級が悪く、資本主義が悪いので、労働者が正しく、共産主義が正しい、と推論する。この弱者の道徳は、他者否定の上にのっかっているので、強者を除去して自らが責任を負う立場になると、持ちこたえられなくなる。共産主義は、革命が成就するまでは正論であっても、革命後に道徳的力を失ってしまうことが多い。

 現在でも中国やロシアは、アメリカの覇権主義を強く批判し、グローバル・サウスは味方だと表明する点において、依然として弱者の論理に訴えるところがある。しかし、多元主義を目指して諸国の自主独立を尊重する、「ルールに基づく国際秩序」を否定して「国連憲章中心の国際秩序」を尊重する、という立場の表明において、より積極的な価値を打ち出している。彼らが強くなってきているため、自信を裏付けにして、そのような価値観の表明ができるのだろう。

 二つの世界大戦の間に生きたEH・カーは、苦悩の中で、二つの対立する世界観の様相を描き出し、国際政治学の古典を書いた。その後、亡命ユダヤ人としてアメリカに渡ったハンス・モーゲンソーが打ち立てた「政治的現実主義」も、強国群の現状維持派と新興国群の変革派の相違を洞察するなどの点で、カーと類似した視点も持っていた。だが総論としては、力に基づく一元的な世界観で、アメリカが敵に勝ちぬくことを助言しようとするものだった。その後の国際政治学の理論は、よりいっそう一元的で平板になった。普遍主義を装いながら、単線的な概念又はデータを振り回すだけで、思想・価値観・世界観の闘争を描き出すようことは、一切しなくなった。

 国際政治学などのアメリカ中心で打ち立てられた社会科学は、あらためて思想闘争の視点を取り入れる必要性に迫られている。昨今の世界情勢を見ると、そのように感じざるを得ない。

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